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 ちかちかと天窓から陽光が射している。その眩しさでシャラは目を覚ました。遊女の部屋は客の使う表廊下と、下働きが使う裏廊下に挟まれていて、窓は天井に四角く切られたものが一つだ。天窓からの光だとすれば、既に昼が近いはずであった。そんなことを思いながら寝返りを打つと、その横に男がいたことにシャラは驚いて微かに息をのんだ。無論それは前の晩の客なのだが、この時間になっても部屋から出さないのはやはり具合が悪い。
 と、いうよりもこの時間まで客がいることが信じられない。しっかり朝寝を決め込んでしまった自分も悪いが、相手も良くない。大体、こんな時間に帰したのが知れたらねえさんたちに具合が悪いわ。起きなさい、とシャラは隣でまだ寝息を立てている少年の肩を揺する。彼はうん、と曖昧な返事をして目をしばたきながら起きあがった。
「……なんだよ、もう朝……」
 そこまで来て、彼も時間の遅さにようやく気付いたようだ。天窓を見上げ、ついで寝台の脇に適当に放り出されている彼の時計を拾い、長い長い溜息になる。
「やっちまった……ま、いいや。俺がいなくても他がどうにかするさ」
 最後についていた呟きは楽観というよりは期待であろう。その証拠に少年は急いで身支度を始めた。短い髪がまだ寝癖のままになっているのを、シャラは適当に直してやる。ありがとうと笑う顔は屈託なく、これが彼女についている客の中で一番若くて朗らかなたちだ。
「あんたも本当に不思議よね」
 彼の支度を手伝いながら、シャラは呟く。鏡をのぞき込んで寝癖を押さえるのに懸命だった少年は何が、と振り返らずに言った。けれどその視線は鏡の中で動いて自分を見ている。彼は自分が好きなのだとシャラはとうに知っていて、それをこんな僅かな仕草でとらえ直すたびに、決して不愉快にはならないのだった。
「あたしとあの人のこと知ってるんでしょうに。よくもまあ、自分のご主人様の女に手を出そうなんて思えるわ。あんたの図太いとこ、尊敬しちゃうわよ、チアロ」
「だって、彼は駄目だって言わなかったよ」
 その言葉にシャラは胸の奥がちりっと焦げた匂いをたてるのを感じる。けれどそれを表情に出してしまったら、自分の中の誇りや矜持というものが全て崩れ去ってしまう気がして、ことさら笑顔になるのだ。
「そりゃ駄目だとは言わないでしょうよ。身請けもまだなんだし、妓楼に置いてるからにはあんた以外の他の客とだって寝るんですからね。神経が鉄で出来てるのはだから、あんたの方。いい根性してるわね、本当にさ」
 チアロはどうにか跳ねた髪を撫でつけ終わり、くるりと彼女に向き直った。彼の表情はいつもの通りに明るいが、瞳にある光はひどく真剣で、切なくなるほど強い。その強さが逆に喜びと怯みのない交ぜになったものに彼女の胸の中で変化して、チアロのことを決して嫌ってはいないのに、この目をされると喉がふさがれるように呼吸が苦しい。
 ──そして彼と同じ目で、自分もあの人を見ている。あの人があたしを見て、微かに逃げ出したいような素振りを隠そうとするのはそのせいだ。でも、じゃあ、どうしたらいいの? シャラがきゅっと唇を結んだとき、だって、というチアロの声が聞こえた。
「だって、俺、お前が好きだもの。お前がいいなら今すぐここから出してさ、二人でタリアなんか出てどっか別の場所へ行ってもいいよ。俺、他のどんな事のためにも痛いことは嫌いだけど、お前のためだったら死んでもいい」
「馬鹿ね」
 シャラはあきれた風を装って、つんと肩をそびやかした。チアロのまっすぐで直截で、軽やかではあるが真剣な言葉を聞くとき、ひどく心浮かれている。けれどそれは本当に欲しいものの代価品であって、所詮偽物でしかない。偽物であることを承知してもいるが、チアロの真摯な気持ちを知りながらそんなことしか考えていない自分にも嫌気がさすのだった。シャラの表情が曇ったのに気付いたのか、チアロはやっと上着をかぶりながら彼女に近寄ってきて、ゆっくり顔をすり寄せた。
「……暗い顔すんなよ、せっかく綺麗な顔してるのに台無しになるぜ」
 こつんと額同士を打ち合わせてチアロは笑い、彼女の手を軽く握った。
「また来てもいいだろ?」
 ご勝手に、とシャラはふいっと顔を逸らす。いつでもこうしてじらしてやれば、彼はまた熱心にシャラへの賛辞を降り注ぐのだ。その言葉を聞くのは好きだった。後から自分で適当にこじつけ、改竄し、もっと別の声で囁かれるのを夢想するために。
「───待ってるくらいの殊勝なこと言ってよ、たまにはさぁ」
 チアロの甘えるようなすねた声に、シャラはつんと顔を背ける。慣れ親しんだ関係が既にこれを冗談に流せるほどに積み重なっていた。彼女から気に入る言葉を引き出せないのはいつものことで、チアロはやれやれと肩をすくめる。出会った3年前にはまだ子供の領域を出ていなかった身体も仕草も、既に少年と呼ぶ域へ達し、やがて大人と呼ばれる時代へ入っていくだろう。彼の未来は何故かすんなりと、良いものばかりを描くことが出来る。
「お前の気位の高いとこ、すごく好きだけどね」
 チアロの声は苦笑を含んで甘い。シャラはふうんと素っ気なくそれも流した。
 恋愛には必ず勝利者がいる。力関係は決まっていて、逆転することは滅多にない。この場合はシャラの方が明らかな優位であった。チアロの率直な賛辞も洪水のように溢れてくる愛の言葉も、全ては彼女の意のままであって、止めろと本気で言えば彼は飲み込むだろう。チアロの言葉はどれも軽やかに明るいが、誇張や戯れのような嘘の匂いはしない。それがどれだけ自分を慰めているかシャラは知っている。本当に振り向いて欲しい人に顧みられないまま年月だけが流れ堆積していくのを、見ているしかできないから。
 またね、と簡単な言葉だけを残してチアロが出ていくと、シャラは長い吐息を落として寝台に座った。昼近い陽光はやけに明るくて、それが天窓の硝子を通して降り注いでくる健康な目覚めが自分に不釣り合いに似つかわしくない、そんな居心地の悪さがじりじりとあがってくる。
 チアロのことは嫌いじゃない。あれは自分の崇拝者で、彼の気持ちに頷けばその性質の通りに明るく力強く自分を愛するだろう。それは分かっている。彼が今シャラに降り注いでいる陽光のごとくにまっとうに自分を恋していることはきっといいことなのだろう。
 でも、そんなもの要らない。
 どんなに辛くても苦しくても、焦れても泣いても苛立っても、自分の心が吸い付いていく背中は一つきりだから。
 好き、とシャラは呟いた。その声が耳から胸にするりと落ちた瞬間、そこが鈍く痛んだ。あの人があたしのことを特別に思っているのは知っている。でも、それはあたしが欲しい視線じゃない。あたしが欲しい熱じゃない。彼に温かに大切に扱って欲しいなどと思ったことなんか、一度だってない。彼がシャラの目の届かない場所できっとしているであろう、取り巻く女達にするように戯れに踏みにじって欲しいのだ。
 彼の長い指が自分を愛撫するならば、どれだけの歓喜になるだろう。彼のよく鍛えられた身体が自分の身体を法悦の中に押しつぶしてくれたら。たった一度で死んでもいいのに──……
 その瞬間、シャラは微かに呻いて首を振った。やけに生々しいことを考えている自分がひどく淫蕩な女であるような気がする。あの人のことを考えると胸が苦しく切なく痛い。この痛みが次第にひどくなるのを自覚して、自分がどれだけ彼を恋しているかを思う瞬間は自嘲の入り混じった哀しみの中だった。
 ───自分も母のようになるのだろうか? そんな疑問がちらと脳裏をかすめるとシャラはいつも恐ろしいものを見たように、その考えから目をそらした。シャラの母は多情で恋の多い女だった。どこまでが客でどこからが男であったか遂に分からないが、それでも恋し、夢中になり、最後は決まって捨てられることの繰り返しだったことは知っている。男に騙され、殺されかけた末に運河に身を投げて死んでしまった母。シャラとよく似た顔立ちの女は結局幸福にはなれなかった。自分も同じ運命の車輪に乗っている気がして、シャラは怖くてたまらない。遊女になるまでは今のところ、同じではないか。
 それを救ってくれるであろう相手にシャラはたった一人をさだめた。彼以外知らなくていいし、見えなくてもいい。他のことなど必要がない。いつか彼が自分に向かって膝をつき、低く数少ない言葉で何かを語ってくれたら。それだけで死んでもいいくらい、あたしは彼が好きなのに。
 ちりっと胸の奥が焦げるような痛みがした。シャラは溜息になった。自分が考えている半分も、彼は自分を思っていないだろう。あの人には沢山の敵と沢山の配下がいて、何かにかかりきりになるには手に持つものが多すぎる。その内の一つが自分であることを疑ったことはない。水揚げから既に4年、シャラの元にずっと通い続けているのは確かなのだ。3度ほどミアの部屋にあがるのを見たことがあるが、自然にそれは消えて今はこの妓楼ではシャラだけに金を落としていってくれる。
 ───でも、そういうことじゃない。
 彼が自分を特別の女だと周知のために環境を美しく整えていくにつれて、どこへも捨てられない怒りだけがたまっていく。
 ───そういうことじゃない。
 彼の視線も吐息も言葉も、全てが自分一人のものであって欲しい。彼の中の一部分を分け与えるのではなく、何もかもがあたし一人に注がれるようであって欲しい。彼という存在の、全てが欲しい。妹だなんていう檻に入ったままではそれは永遠に手に入らないだろう。
 いつかあの人にも自分ではない誰かを愛して特別に想うことがあるだろうかとシャラは不意に思い、瞬間的にわいた激しい怒りにぎゅっと手を握りしめた。そんなの、絶対に、いや。そんな女、あたしが殺してやる───
 激高につられて浮かんできた言葉の強さにシャラははっとし、そして辟易して額に手をあてた。振り回されたときのように、ひどい眩暈がする。
 彼のことになると全く盲目のように何もかもが消えてしまう癖を、シャラは半ば呆れ加減に見つめた。そんなことではいけないと自分でも思うし、女将や先輩の女達からも言われてなお、その癖はいっかな直りそうにない。それが自分でも可笑しいと思うし、仕方ないような気もして、こんな事を考えるときは堂々巡りの惑乱の中だ。シャラは長い溜息になり、そして勢いよく寝台から立ち上がった。
 あまり彼のことを考えても今は仕方がない。この夜にも自分を買うであろう見知らぬ男達のために適当に部屋の掃除でもして、身綺麗にしておかなくてはいけないだろう。入浴や化粧はタリアの火入れの時間が近くなってからでもいいが、洗濯と掃除だけは早めにしなくてはいけない。シャラは昨晩来ていた人工絹のスリップドレスを拾い、下着と一緒に洗濯用の手桶に入れて部屋を出た。遊女達の部屋から裏廊下へ出れば、そこには高い位置の格子窓からさんさんと昼に近づいていく強い日射しが注いでいる。
 遊女達の部屋には簡単な浴室がついているが、こうした日々の細かな雑用に使うための水場は別にある。客を傷つけないように部屋に刃物や針なども置かないから、裁縫のための部屋もあって、昼前はみなてんでにそこで必要なことをしているのが普通だ。
 シャラが水場に入っていくと、先客がいた。長いことそうして足で踏んでいるのか、洗い桶の中の白い足が赤く染まっている。とんとん続く小気味よい音が何かの拍子のように規則正しい。不意に女は足を止めた。水を換えるのだろう。一度桶から出たときにシャラにようやく気付いたらしく、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、シアナねえさん」
 源氏名で呼び合うのはどの妓楼も同じ習慣である。シャラは軽く頷いておはよう、と言い、女の隣に洗濯用の桶を引き出した。
「随分丁寧にしてるのね。リーナは相変わらずこんな事が好きなんだ」
 シャラの言葉にリーナは小首を傾げて笑う。シャラが恋心という煉獄から目覚めて混乱し、立ち直りながら出てくる不機嫌な朝であるとするなら、この女は朝方は奇妙なほど明るい。ごく自然に呼吸をしているように見える。
 だがそれが不幸の臭いであることを、シャラは誰に教えられずとも知っていた。不幸な女は同じく不幸な女を見抜くのだ。恐ろしく正確に。
 ───彼女の前に出るといささか怯むのはそのせいだろう。彼女の真闇色の瞳に見つめられると、真っ黒な空に映る星のように自分の中身もそこに浮かんでしまう気がするのだ。シャラは彼女から視線を外し、洗い桶にぬるま湯を張った。自分の洗い物を入れて隣で踏み始める。同じ事をしていたリーナが成果を確かめるように彼女の木綿のワンピースを広げた。
 それで彼女が長く洗濯をしている訳が分かった。客が吐いたのだろう、その痕跡がくっきりと裾に残っている。シャラが一目見て分かるくらいだから、落とすのには時間がかかるだろうと思われた。リーナの溜息が聞こえる。
「吐かれたの?」
 シャラが聞くと、リーナはええ、と困ったように笑って頷いた。
「お酒が欲しいっておっしゃるからお出ししたんですけど……明け方に。シーツはさっきやっと干したんですけど、こっちはまだまだですね……」
「あんまり飲ませちゃ駄目よ。酒は繰り越しが出来るからって言って、適当に切り上げさせないと。酔っぱらってる奴の相手は疲れるでしょ」
「ええ、まあ……無茶を言う方が多くなるのだけが本当に困ってしまって」
 その無茶というのが何であるか、聞きたい衝動にシャラは駆られた。リーナというこの遊女が水揚げから半年にもなろうというのに未だに客あしらいというものが出来ないことを、女将が嘆いているのを聞いたことがある。遊女達の間でひそひそ交わされる性技のあれこれなどを本当に試したことがあるのかどうか、一度聞いてみたくて仕方がない。
 ───あんたまさか、寝転がってるだけじゃないでしょうね? そんな意地悪い言葉が浮かんでくるのは自分が苛立っているからで、その苛立ちはあの人のせいだ。シャラの世界で一番美しく力強い男。
 シャラはふっと溜息になって、肩をすくめて見せた。
「泥酔する前に寝台に引っ張り込んじゃえばいいのよ。お酒が残ってたらまた来る人も多いしね。気に入った客だったら半分くらいは残して置いて、次に来たときに、って言うの」
「ええ、そうなんですけど」
 気弱く微笑む面差しに僅かに浮かぶ困惑の色を、シャラは素早く嗅ぎとって目を伏せた。彼女のしていることは明らかだった。水揚げの時と同じような調子でたおやかにちょこなと座っているだけなのだろう。シャラの母も娼婦であり、シャラはこの世界に入ることを嫌悪したことはなかった。そうしないと生きていけないことくらいは分かる。
 この場所で生きていくからには仕事としてするべきことはする、というのがシャラなりの意地であるが、彼女はそれを放棄しているのだ。いつまでお姫様のようにいたいのだと怒鳴りつけたい衝動もあるし、そんなにここが嫌なのかと聞いてみたい気もする。それにいつまでもリーナ一人だけが無垢のような顔をして何も出来ないのですと装っていると、自分がひどく薄汚れた娼婦であると言われているような気になる。
 けれどそれを口に出さないのはリーナ自身がその困惑に開き直っていないのが分かるからだ。どうしていいのか、リーナには分かっていない。臆病というなら正しいであろうしそれを怠慢とそしるなら正しい。けれどそれを本人が気に病んでいる、その不幸をシャラは薄々知っていて、だから彼女に何かを言ってやりたいと思いながらも口にすることが出来ない。年齢が同じだからもっと馴染んでもいいとは思うのに、なかなか世間話程度から先に進まないのはそのせいだ。
「……もし衣装が足らなかったらあたしに言いなよ。ちょっと古くなったやつだけど、あんたに似合いそうな可愛いやつ、あげるから」
 彼女に一瞬抱いた苛立ちを鎮めるために優しいことを口にして、シャラは自分の洗濯物を勢いよく踏み始めた。

 彼がシャラの元を訪れたのはそれから4日ほどしてからだった。日付も曜日もまるで定まっていないが、月に2度か3度は顔を見せる。小間使いの少女の案内でシャラの部屋の前に立つ彼の表情は冷たく整って、どこからも何も寄せ付けない酷薄さが目立っているが、シャラの側に腰を下ろすときには微かにではあるがぬくまるのを、シャラはいつものようにじっと見つめた。
 その整った面差しを見るたびに思うのは、息苦しくなるほどの思慕であり、眩暈がするほどの憧憬だ。彼はあたしの神様。あたしを生かして殺すための神様。
 ほうっとシャラは見惚れるための吐息をつく。するりと腰のベルトに挿されていた煙管を取り出して火をつける仕草。薄い唇がついばむように吸い口に触れるその風情。彼のすることは全てが美しく、完璧に整っているようにシャラには見える。
「……珍しいか、煙草が」
 今日は彼は機嫌がいいらしい。シャラがいつものように自分を見つめている視線を厭う素振りなく、薄く笑っている。
 自分と同じ翡翠色の目が、自分をじっと見ているのにシャラは気づき、そっと手で髪の形を確かめた。日付が決まっているのならその日は特別に綺麗にしておくのにといつも思うのだが、その約束はくれたことがなかった。
 毎日そうしておけばいいのかもしれなかったが、シャラは日常を巧く運営していくことは苦手で、部屋の片づけや洗濯や針子作業もどうにも好きになれない。料理などはしたことがないが、おそらくこれも同じだろう。
 シャラはつまらない空想をすぐに捨てた。あれほど待ちこがれていた時間を目の前にして、他のことを考えるのは馬鹿馬鹿しいことであった。
「いいこと、あったの?」
 微かに自分の声が上気して、いつもよりとろんとしている。この声音がひどく女臭く甘たるく聞こえるのは知っているが、こんな声にしかならないのだ。
 別に、と返答する声は先ほどとは一転して固い。何か良いことがあったとしても、それはきっとタリアの内律に関わることであって、くちばしを入れるなという態度だった。それはそれで正しいだろう。シャラにはタリア王を頂点とするこの町の機構のことはよく分からない。自分たちは緋房の籠の鳥であって、美しくさえずっていればそれでいいはずなのだ。
「ちっとも自分のことは話してくれないんだ……」
 それでも拗ねたふりで彼の顔をのぞき込めば、そこにあるのは淡く翳ったぬるい表情であった。彼は苦笑しているのだ。
「俺のことなど聞いてもつまらんさ。それよりも最近はどうだ───チアロも相変わらずのようだな」
「……他のお客のことは話せませんよーだ」
 きゅっと顔を縮めて愛嬌のある表情を作ると、男は今度こそ唇をゆるめて笑った。はっきりした彼の笑顔はごく珍しく、それに見入ってしまう自分がつくづく馬鹿な女だとシャラは時々恨めしくなる。彼の僅かな仕草や造作で簡単に幸福になってしまうのは、一体損なのだろうか、得なのだろうか。たった一つ言えることは、こうして容易く見つけることの出来る幸福は、やはり容易く散ってしまうということだ。
 彼の表情が僅かに変わるたびにそれが何を意味するのか必死でシャラはくみ取ろうとするが、その性癖のおかげで先ほど感じていたはずの光は気付いたときには既にない。ただ光感の気配だけが胸のどこかに漂っている。
「……チアロの奴が、しばらく来られないと───」
 言いかけた形良い唇にシャラはだめ、と人差し指を押し当てた。
「今は他の人の話なんかしないで。あたしはチアロの話なんかしたくないわ」
「だが、奴はお前が」
「関係ないわ。あたしはあなたしか好きじゃないもの。そうあの子にも言ってあるもの。だから今は他の人の話なんか、聞きたくないししたくもない」
 きっぱりと言い切ると、シャラはさっとその場を立った。彼のためにいつものように酒と食事を頼まなくてはならなかった。酒は飲まない男だが、食事は抜かない。
 簡単に注文を書き付けて小さな袋に入れ、下の調理場へ通じる管へそれを放り込む。袋にはそれぞれの遊女の源氏名が書いてあるから、それを見て部屋へ注文の品を裏廊下を通じて小間使いが持ってくることになっているのだ。酒にしろ料理にしろ、彼の好みと量は大まか掴んでいる。何を食べるのか最近は聞くこともなくなってきていた。
 作業を終えて男の所へ戻ると、彼は煙草を楽しんでいた。煙草を吸う男の肌からは草の甘枯れた匂いがすると他の遊女達が言うように、彼の側によると確かにその匂いがした。時折夜中に目を覚まして彼の鼓動を聞くために耳をつけると、正しく脈打つ動音と共に煙草の甘く渋い匂いにふわりと包まれるようで、シャラはそれが好きだ。
 長い一吐きを終えると彼は服の内側から小さな袋を取り出した。あけるように目線で促され、シャラは口を縛っている綾紐をほどく。中から転がり出てきたのは紅玉の指輪であった。血の色をしたそれをぐるりと白貴石で囲み、ぐっと爪で立ててある。何、と言いかけてやっとシャラは気付いた。
 以前彼がタリア王からもらったという紅玉と碧玉の一揃いを指輪にして一つづつ持ちたいと言ったはずだ。それを彼は律儀に守ってくれたというわけであろう。
「すごい……綺麗」
 シャラはそれをつまみ上げて灯りにかざした。深く濃い赤に白貴石の眩しい輝きがはえて目を奪われる。あの紅玉以外にも彼が色を付けてくれたのだった。
「すごい、綺麗、すごい、……似合う?」
 右の中指に押し込むと、何の抵抗もなくぴたりと入った。ずっと以前、別の指輪をねだったときに教えておいた輪径を彼はまだ覚えていたらしい。
 けれど彼の指には揃いの指輪はなかった。そんな風にしてくれると言ったのをもちろんシャラは覚えているから、ねえ、とその袖を引く。責められずなじれない、そんな弱さがひどく甘ったれた声音に変わった。
「一緒に作ってくれるって言ってた指輪は? 今日は持ってないの?」
 僅かに男は苦く笑ったようだった。
「……指輪は、細刃刀の手袋に引っかかるからな。俺が持っていろという意味だったと思ったから結局」
 言いながら彼は左の頬をかすめて落ちる髪をかき上げる。その耳朶に柔らかく噛み込む、青い光があった。
「邪魔にならない選択が優先なのは仕方がないだろう……それとも指輪をこちらに作り替えるか、シャラ? 細工屋の親爺はお前の指輪に使った石と細工は上等だからそれが一番いい形だと言っていたが」
 うん、と曖昧な返事をしてシャラは自分ではめた指輪の輪郭を指先でなぞった。彼の言うとおり、これはこれでよい細工物だった。それに彼の理屈も分からないとは言えない。それが嫌だとかどうしても駄目だとか、そんなわがままを言えば彼を怒らせるかも知れない。その最後の考えがどうしても抜けないのだ。
 わかった、とシャラは明るい声を出した。自分と彼の間に共通するものを持ちたかったのに、それは結局微妙にどこかがずれた形となって実現した。けれど、それをシャラは責めない。───そんなことが出来るはずがないのだ。
「いいわ、ありがとう。大切にするね」
 男はゆったり頷き、髪を押さえていた手を煙管に戻した。シャラとほぼ同じ、とってつけたような薄い茶色の髪が落ちて碧玉の色味は完全に視界から消えた。
「ねぇ、見てもいい?」
 シャラは立ち上がり、側に寄る。無造作に男が頷き、彼女から顔を背けて煙を吐いた。
 そっと手を伸ばして彼の髪をかきあげると、先ほどと同じように深い青がきらめいた。耳朶に指で悪戯するように軽く触れると、男は僅かに喉を鳴らした。まるで猛獣を撫でてやっているようだとシャラは思い、確かに自分がこの男の特別な相手であることを思い知った。
 彼は気安く誰にでも触れさせるような空気を持たない。以前の宴席でリーナなどは本気で怯えていたようで、それ以後もシャラの語る彼の話を聞きながらの表情は硬い。
 時折彼がこの技楼で派手に振る舞う宴席においても、チアロ以外の誰一人、寄っていこうとしないではないか。
 その特別さを何度も違う角度から見つけるたびに、シャラはねじれたような気持ちになる。彼がシャラに心やすくぬるくほどけているのは、彼女を妹だと認知しているからだ。それは彼にそっと身体を預けてみた幾多の夜、背中に手を回してみた数多の朝に、その度に告げられてきた言葉だ。
 あまりしつこくかき口説くようなら俺は寝台で眠らなくてもいいのだと言われたのが丁度1年ほど前のことだ。そのとき涙をこぼさないように意地だけで目を一杯に見開きながら頷いたのは、彼が遠くなってしまうという恐怖ゆえのもので、決して納得したわけではない。
 だが、向こうはシャラが理解して聞き入れたような態度をとる。シャラの涙が見えなかったはずはない。自分がどれだけ彼を好きか、知らないはずはない───なのに。
 そっと落とした溜息に、ちらと男はシャラを見て煙草に戻った。シャラは彼の耳を飾る宝石から視線を離して寝台にぽんと座った。
 彼の側にいると泣きたくなる。どうしていいのか分からない。この人を好きで、とても好きで、どんな風にされても殺されたっていいと思っているのに、彼はきっとあたしを何気ない女のようには愛さないだろう。兄妹だという確証もないくせに一貫して態度を変えない。
 閉塞した状況をどうにかしたいとどれほど願ってもどれほど思っても、彼はシャラに対する線引きの位置を変える気配がなかった。
 すり寄れば押し戻され、泣けば宥められ、これ以上の何かを出来るとは思えない。
 そのくせ何か他愛のない我が儘を通したいときには泣けばいいと知っている。彼の目の前で、ぽろぽろ涙をこぼしてみせれば彼が大概怯むと分かっているのだ。指輪のこともそうやって泣き落とした。例えばずっと来てねという約束も、抱けと言わない代わりに一緒の寝台で眠ってもらうことも、そうやって承知させてきたのだから。
 これは狡いのだろうか。あたしは陰険で悪知恵の働く女? それともこの人を振り回すだけの足かせ? 当人はともかく彼の下にいる幹部の数名はシャラをそう見ているのが明白だったから、この考えはシャラの中に根深く住み着いている。宴席で当然のように彼の側にいる自分を見る連中の目つきと来たら、まるであたしが彼を都合良く利用しているだけのような、うろんなものを見るように蔑むのよ。
 だから彼らの前では絶対に笑ってやるのだとシャラは決めている。彼らの前では華やかで驕慢で艶やかな花になってみせる。ことさら連中の前で供物をねだるのも、甘えた声を出すのも、彼らの不愉快が多少は溜飲を下げるからでもあるのだ。
 シャラは黙ったままで煙草を続けている彼を見やり、寝台にゆっくり身体を倒した。真横になった世界には、やはり彼しか見えない。どんなときもいつでも、彼はシャラの全てだった。
 ───神様。
 シャラはリーナが時々呟いているその言葉を思い起こす。彼女の不幸は明らかだが、それを彼女は祈ることで忘れようとしているように見えた。目に見えない何者にそんなに真剣に心を傾けられるのか、シャラにはさっぱり理解が出来ない。けれど神様という時の彼女の口調には全てを委ねたような敬虔さと安堵感があって、それはそれでよかろうとも思う。
 神様、という言葉を思いついたのはだからリーナのおかげだ。彼女の言う、崇高でこの世で最も正しい人だというのなら、シャラの神は彼だ。彼女の神は見えないが、シャラの神は目に出来る。
 冷淡な陰がさす整った面差しをして、低い声で、広い肩で、細い指で、シャラを捕らえて彼女に君臨し続ける、絶対の相手。───でも。
 シャラは目をすがめる。そうすると視界が狭くなって彼の姿もほっそりとして見えるが、どんなときでも見えるものの中心に据えられているのだった。
 でも、リーナの言っている神様は安息をくれるけど、あたしの神様はそんなものをくれないわ……一体何が違うのかしら……? シャラは半身を横たえたままじっと彼を見つめた。いつどんな角度から眺めても、彼の冷たく整った顔貌にはシャラの視線を引きつけてやまない不思議な力があった。
 ちらと彼の視線が自分を向いたのが分かった。きっとずっと長く見つめていたのだろう。彼を見ていると心浮き立ち悲しくなり、その両方がぐるぐると巡って次第に訳が分からなくなる。
 そんなときに自分がどんな表情をしているのか、シャラはよく知らなかった。だが、彼がそれを見つけるときに憐憫のような淡いかげりを瞳にくゆらせることは既に気付いている。
 だからきっと、今にも捨てられそうな顔をしているのだ。
 それを思うと自分で自分が厭わしくなる。彼が自分を見捨てきれない甘さや弱さにつけ込む真似だと分かっているのに、それを止められない。そうでなければいつか彼から見放されてしまうような気がして、怖い───怖くてたまらない。
 こんな状態が一体いつまで続くのだろう。
 それでもシャラは同情など要らないと、憐れみなど欲しくないと、訴えることが出来ない。そんな言葉は一瞬の激しい怒りを焚きつけても、決して燃え広がらせてはならない炎だ。
 彼がもう自分の元にこなくなると言うことを、考えるだけでも恐ろしく、気が狂いそうになる。
「───どうした、シャラ」
 いつもと同じ低い声音が自分の本名を呼ぶ。
 本来はシアナという源氏名で呼ばれるべきであったが、これを許すことが特別である証なのだ。遊女と客という枠を越えるという表示であり、それは二人の間に流れている現実という河そのものであるようにも思われた。自分は客ではない、という意味であろう。
 それもよく分かっていて、シャラは別に、と素っ気ない返事をした。けれど彼のやや困惑じみた、淡い影のくゆる表情は変わらない。どうしたのだろうとシャラがまばたきすると、ぽろりと涙がこぼれたのが分かった。
 ああ、自分は泣いているんだ。だから彼はあんなに困ってるのね。意地悪く囁く自分の中の呟きにシャラは唇を噛み、いいの、と小さく声にして寝台に顔を押しつけた。
 僅かに場の空気が対流する気配がする。彼が何かを言おうかどうしていいのか考えているときは大抵こんな奇妙な沈黙になるのだ。
 考え抜かれた言葉など要らなかった。シャラの気持ちに配慮するためだけの優しい言葉をなんと紡いでいいのか彼が考えているとしたら、それはシャラの胸にある恋情となんと不釣り合いで薄い心なのだろうか。
 ───恋愛には必ず勝利者がいる。力関係は決まっていて、逆転することは滅多にない。恐らく、自分たちの間には永遠にないだろう。自分は彼のために生きて彼が死ねと言ったら死んでもいいとさえ思っているのに、彼はきっとあたしのために命を捨ててくれるとは言わないだろう。
 いっそ死にたい。今彼があたしを大切にしてくれるこの瞬間に。そうでないといつか、彼を憎んでしまいそう───……
 死という単語がふっと脳裏に浮かんだ瞬間、それへの甘美な憧れと本能的な畏れによってシャラは堪えきれずに声を上げて泣き始めた。それを全て彼にぶつけるには覚悟と勇気が足りず、飲み込んでしまうには溜め込んできたものが多すぎた。
 そっと自分の髪を撫でる手がある。シャラは顔を上げてその手の主の首にしがみついた。
 こんな時でなければこの男はシャラが身をすり寄せるのを避けようとする。自分がどこまでも計算高い女であるという自嘲を心に聞きながら、それでもシャラは離れられない。
「好き……」
 結局、自分に残っているのはこの言葉だけなのだ。呆気ないほど簡単な、たった一つの言葉によって自分は自分を苦しめるもの全てと戦わなくてはいけない。そしてその戦いを見て見ぬ振りをされるなら、自分は本当に彼をいつか殺したいほど憎しむかもしれなかった。
「……大好き……」
 熱に浮かされたように呟くシャラの髪を、大きな手がゆっくり撫でる。この中途半端な優しさなど要らないとはっきり言えたらどんなにいいだろう? でもそうしたら彼はあたしから離れていかないだろうか。あたしを嫌いにならないだろうか。あたしにもう二度と会ってくれないんじゃないだろうか……
 知りたくない。知りたくない。この仮定を投げたときにどんな目を出すのかなど、知りたくもないし考えたくもない。だから言ってやれることはそう幅がなかった。
「ねぇ……いつか、あたしのこと、殺してくれる?」
 一瞬自分を抱き留める肩が痙攣したのをシャラは感じた。
 彼の呼吸はいつものように静かだが、その僅かな所作で鋭く心に噛みついたことをシャラは知る。泣きたくなるほどそれが嬉しいような気もしたし、取り返しのつかないことをしてしまったような恐れも同時にわいてきて、シャラはねえ、と再び言った。
「あたし、死ぬときはあなたに殺されたいの。ねえ、そうしてくれる?」
「馬鹿なことを言うな」
「……そう……ね、馬鹿みたい……」
 シャラは小さくしゃくり上げるように笑った。彼のことばかり考えている自分が可笑しかったし、こんな簡単な泣き落としの罠にはまる男もひどく可笑しかった。
 でも───死にたい。彼の手で死ねたらどんなに幸福だろう。こんな事を考える自分は本当に馬鹿なのだろうか。
 それを思ってシャラがもう一度小さく忍び笑ったとき、裏廊下から通じる扉が叩かれるのが聞こえた。注文に出していたものが揃ったのだろう。シャラはぱっと体を離して小さな仕出窓から出される銀盆を受け取った。代金はあたしにつけておいて、と窓越しに小間使いに言いつける。
 出てきた食事を彼に差し出しながら、シャラは彼が火を消した煙管を手に取った。漢氏竜の彫刻のある柄に指を這わせる。この煙管ほどに彼にほど近くいられたらどれだけ嬉しいだろうかと下らないことを思い、胸内にそっと溜息を落とした。
 彼のしていることはあたしを緩慢に殺すことだ。だからいっそ一息に殺して欲しいと願うことの何がいけないんだろう。それをいつかこの男に言えるだろうかとシャラは彼女の神に視線をやり、ふと笑った。
 多分かなわないことであろうと思うことのほうが、空想の中では美しく見えるものなのだ。シャラはそれをとうに知っているはずであった。
「───ライアン……」
 彼の名を戯れのように口にして、シャラはもう大丈夫よと言う代わりに笑う。
 悲しいときは、笑うしかないじゃない?
 死にたいときは、尚更笑うしかないじゃない。
 あたしたちは、美しく着飾って華やかに笑ってこその緋房の籠の鳥なんだから。
 せめてその小鳥の中で一番に愛でて欲しいという願いに突き動かされて、シャラは上機嫌に見えるように笑った。
 笑いながら手に残る煙管を、胸に燻っている何物かのためにへし折ってやりたくなる。
 その時、ほんの少し彼を憎んでいる自分にシャラは気付いた。


  殺してよ
  お前が別離を告げる前に 私が憎んでしまわぬ前に 




 酒場の中はいよいよ暗い。注文の酒がグラスごと目の前に置かれると、中の液体が僅かな灯りに揺らいで琥珀色の淡影を男の手に落とした。下町と呼ばれるこの界隈でそれほど良い色の酒があるはずがない。この薄暗がりはそのせいなのだろうかとぼんやり思いながら男は客席の間に立ちつくす、酒場の歌姫を見つめた。
 声は神が人に与えた最良の楽器だと、誰かが言った。それが最良だとするならば、それは魂からほとばしる熱の量に浮かされてのことでないだろうか。
 けれど、それは悪くない。男はふと唇だけで淋しく笑う。女が揺るがす声の中に籠もる熱は確かに魂の形に似ていた。
 歌はゆるやかに続いている。


   涙を持たない海鳥たちの 悲鳴は海へ墜ちるもの
  泣けずに沈んだ宿定は 閉じて籠もった貝のよう
  お前の元には届いている? 涙の代わりの、海鳥の歌

  探してよ
  波間にさすらう魂と 私の欠片をいつの日にか 

 夕方近くなってくると技楼には次第に活気のようなものが満ちてくる。タリアの火入れの時間はまだ少し先だが、それに合わせて開く店棚の支度のために、遊女達はお互いに品評を試合ながらの化粧に余念がない。
 この時間、彼女たちの忍び笑いや取り交わす言葉で地階の客用の食堂は明るい活気に溢れているのが通常だ。仲の良い遊女達はそれぞれにかたまって、化粧小物や簡単な装身具を貸し合ったりそれぞれにいる想い人の話をしたり、時間が来るまではくつろいでうち解けて過ごす。
 リィザも同じようにそこに入り、いつもと同じ椅子に座って簡単に化粧を始めた。水揚げの時に女将がしてくれた化粧が魔法のようであったと今更に思うがそれでも慣れというものはあって、最初の頃よりは全てがましに傾いている。
 外のざわめきが微かに流れ込んでくる。開業前だから外に面した格子の窓は閉められ、全てに簾がおりているが、音だけは完全に遮断できない。通りの浮かれるような賑わいは全くいつも通りの日常であった。
 リィザはちらりと外を見やり、微かに吐息を漏らした。深闇の始まりがそこに迫り来る時間、外の繁賑が華やかであればあるほど、心が暗くうち沈んでいく。リィザはそれには既に気付いているが、一体どうしたらいいのか自分でも分からないまま、ただ日々を流していることに怯み続けているのだ。
 水揚げから既に9ヶ月と12日を過ぎている。日数までがすらりと出てくるのは自分が一日一日を丁寧に、あるいは執拗に数えているからだ。この一日一日が、終わるのを数えている。指を折りながら日々が過ぎ去っていくのを見ている。
 そうやって待ちこがれているのは恐らく、朝を告げる遠い鐘声であった。あるいは早朝を歌う鳥の声、微かに白み始める空の色。
 その時間になると、明らかにリィザは安堵した。距離感を掴めないままに通り過ぎていく沈殿した空気から僅かな間でも解放されるかと思うと、自分でも情けないほどにほっとするのだ。
 こんなことではいけない、もっと努めなくてはという声が次第に自分の中で小さく縮こまっていくのが分かる。
 その代わりに聞こえてくるのは、何かに潰されるように呻いている自分の声だ。押し殺した呼吸の息づかいがひどく苦しげで、それを聞くだけでも胸がしめつけられそうになる。
 リィザは僅かに溜息をつき、その記憶を振り払おうとした。タリアの火入れの時刻は近い。そろそろ長く赤い夜が始まろうとしている。化粧と身繕いくらいは終わらせておかなくてはならなかった。
 鏡の中にいる自分の瞳にある光は弱く暗い。それを直視しないように気を払いながら、リィザは白粉を軽く肌に乗せた。
 元々日に当たって色素が浮く程度には白かった肌が最近は更に透明になってきている気がする。見習いの頃とは違い、遊女となった今では外で日に照らされることなどあり得ない。そばかすなどすっかり消えて、真白の雪のようだと時折は寝語りに口にする男もいるほどだ。
 それを思い出してふと漏らした笑みを鏡の中に自分で見つけ、リィザは一瞬僅かに唇を結ぶ。それは自分ではっとするほど嘲笑と酷似していたからだ。
 あざけっているのは男達か、それとも労働の質が変わった途端に美しくなっていく肌の現金な作用か───否、多分一番嗤ってやりたいのは自分だ。何もかもを微笑みで誤魔化し、真実をひた隠し、表面だけを慣れたように振る舞う心中で全く別のことを考えている自身なのだろう。
 この妓楼に来た頃、リィザは自分の身に起こった運命の流転を飲み込めなかった。毎日泣いてばかり、帰りたいと呟くばかりだった。それでもこの場所で生きていくことを納得して受け入れて、水揚げを迎えた。その時には確かに未来を良い方に考えようとしていたし、リィザなりに覚悟は決めたつもりであった。これが芝居や物語だったらそれで一件落着、であったのだろう。
 けれどどうしたことなのか、身体は頑なに全てを拒んだままだ。心は受け入れても、身体はぴったりと閉じられたまま、自分の運命を声無く呪い続けている───それが分かる。
 天窓から淡くこぼれ落ちてくる赤い夜光の中で男の手が自分の直肌を遊び始めると、呼吸が止まりそうになる。ぎゅっと目を閉じて一刻も早くその時間が過ぎ去ってしまわないかと息を潜め気配を殺していると、必ず悪い夢を脳裏に見た。
 それはあの貴族荘園で闇雲に働いていた頃の幻だった。幻影としては美しかった。あのころに見知っていた、虹や優しい小糠雨や蝶の乱舞や蜘蛛の巣の朝露や……それに、彼。思い出しては駄目だと必死でうち消そうとするたびに、自分がいかに幸福だったか満ち足りていたかを思い出す。
 そしてその瞬間、身体の上にある違和感に気付いてリィザは小さな悲鳴を上げて目を見開いてしまう。行為の最中におもむろに凝視されるほど男を興ざめさせるものもないらしく、大抵の客は鼻白み、何かを言う。それは直截な怒りであったり苛立たしい嫌味であったりしたが、言われた瞬間からリィザの身体はますます強張って、やがてそれは激しい苦痛に変わるのだった。
 それは勿論、自分が悪い。リィザは理性では理解している。
 相手は客で、自分は遊女だ。見合う金額を支払って楽しむ為にそこにいるはずなのに、歓待する側が醒めていることほど腹立たしいものもないだろう。それは分かる。けれど、何を自分に言い聞かせても納得させようとしても頑なな身体はどうしたらいいのだろう。これだけはどうしていいかも分からずに途方に暮れている。
 ───神様。
 逃げ込む先は、それしかなかった。水揚げの相手の男が無名神教会の僧職者であったのも何の偶然であったのか、最前から興味はあった無名神への祈りの聖句や紋様板の使い方などを教わることが出来た。名無き神は全てを知り、赦し、癒してくれるという教えに逃げ込みたくなるほど現実は閉塞という城壁の中に在って、そこから動こうとしない。
 だからリィザはそれまでよりの何倍も、真剣に祈った。助けてくださいとは言わない。どうか救ってくださいとも思わない。ただひたすらに、この現実から逃れる術として、安息を求める場所として、姿のない相手に黙祷した。祈りをしている時には現実という籠の中に在る疎ましいことも気の重いことも全て忘れていられた。
 ───神様……
 安息を少しでも探そうと、悲鳴と共に目を開けてしまった後はリィザは尚更目を固く閉じ何も考えまいとする。だがその所作をあざ笑うかのように幻は今度はそれまで相手をしてきた沢山の男達が与えてきた様々な苦痛に変わり、脳裏をぐるぐると回り続けるのだ。
 絶望という言葉がうっすらと胸に広がっていくのを感じるのはそんなときだ。その息苦しさを振り払う為にますます瞼を強く閉ざすと、ついには涙になりそうになる。───客といて涙を浮かべるなど、論外以前の問題だ。
 他にどうしようもないではないのだ、とリィザは自分を必死で言い含める。この妓楼以外に居場所などないのは理解せざるを得なかったし、自分でも納得したと女将に告げたからこそ水揚げもその後のこともあるのだからと。
 自分が在るべき場所はこの妓楼であることは明白であった。この中で自分なりの希望も未来も探していくべきで、それがいつか幸福というものへ至るかぼそい道を見つけてくれる……そのはずなのだ。なのに。分かっているのに。
 リィザは長い溜息になって鏡の中の自分に目を凝らす。
 時折訪ねてくるディーと他に二人ほど以外には常連客を持たないリィザは夜ごと客を誘う為に待合室に入らなくてはならない。身の空いている遊女達はそこか食堂かのどちらかにいて、通りすがりにでも目をとめてもらうのを待っているものだ。
 夕食は客のおごりにしてもらうのが殆どで、そうでなければ自分で頼まなくてはならないが、それには金がかかる。勿論妓楼の女なのだから客のものよりも安価だが、それにしても全てにつけて金が要った。
 その金はどうやって作るかといえば、結局客からの小遣いや客が頼む食事や酒に含まれている見返り料、そして指名料だ。何がいいとか嫌だとかご託を並べていては新しい衣装どころか下着の一枚も買えない。水揚げの時に多少のものは揃えてあるが、衣装も2枚や3枚では具合が悪いし、第一リボンや造花などの髪飾りに装身具なども多少無くては淋しく見えて余計に客がつかなくなる。
 この場所で生活をしていく為には客を取らねばならない、そういう機構は既にくみあがっている。なのに、それに馴染めず気付けば日数だけをひたすら数えている自分は一体何なのだろう。
 妓楼に売られた来たときにも自分の中の頑迷さに自分で微かに辟易したことがあった。今、その真芯の強情さをほとほと持て余している。
 男には慣れていくものだし行為自体には馴染んでいくものだと遊女達はみな言った。水揚げの翌朝にはそんなことは信じられないと溜息をついたものだったが、相手には慣れた。僧職のあの男からは女慣れた手つきや仕草などにも関わらず、どこか愛情めいたものの匂いを嗅ぎとった。その頃にはまだ男の腕の中にいるときに目を開くようなことはなかった気がする。
 僧職の男が秋を過ぎてぷっつりと来なくなり、やがてそれが転任であることを女将から知らされて後、完全に身体の感覚は閉じこもった。そんなことではいけないと思えば思うほど、吐息さえぎこちなくかたまっていく。
 他の遊女達の言う歓びというものを得ることが出来ない行為が、苦手から苦痛、苦痛から苦役に変わるまでそう時間はかからなかった。リィザは怯えているのだ。男という生き物全てが空恐ろしく、得体が知れなくて怖い。
 リィザが遊女としての素の部分にひどく乾いたものしか持ち合わせていないことは、肌を合わせていれば分かるらしい。怒る客、白けて不機嫌になる客、または逆にどうにか自分に感覚を与えようと躍起になる客、───そして、一番恐ろしいのはそれを知って殆ど一晩中責め苛む客だ。そういう性質の男はそれこそ文字通り夜の間中、言葉でも肉体でも彼女を追いつめることしかしない。多分、自分の怯えて強張り青ざめた顔もそれをあおっているはずだった。
 水揚げの相手には僅かに感じることが出来た情愛めいた空気は完全に見失い、どう探していいのかも分からなくなっている。こんな状態の自分にも僅かながらいる常連客というものが、一体何が良くてリィザに時折顔を見せるのかも分からない。
 ───それとも自分は彼らを憎んでいるのだろうか。どんなに冷えてあしらってもしつこく自分を買い続けるから?
 自分に問えばいつも答えは分からない、だった。反射的に否定が出てこないところが更にリィザを暗澹とさせる。馴染みの客達は行きずりの相手よりはまだ安堵を覚えることができるのに、彼らさえ厭うているなどと思いたくない。
 だが嫌悪感が少なく悪夢がやや淡いことと、愉楽というものを取り違えることは出来ない───……
 がちゃりという重たい音でリィザははっと我に返った。黒い制服を着た小間使いの少女が表の篝火にくべるための薪籠を扉の側に置いたのだ。細く扉を開けてその支度の為に外へ行く黒い衣装を見送り、リィザは鏡に向き直った。
 化粧はあまり凝ったことをしない。少し前に15になったばかりの肌は下手に飾り付けるよりも素の若さを売った方がいいと皆言ったし、同い年のシアナという姐妓もそうしている。だからごく簡単にそれをすませ、淡い色の口紅を置いて頬にかかる髪だけを後ろでまとめて百合の造花のついた櫛を挿した。
 この櫛はチェインの若い王の側近であるディーという男が彼女に買い与えたものだ。そう高価な品ではないが、衣装の布地がさほどまだ良くない。髪飾りにだけ金を注ぎ込んでいても均衡が取れなくて奇異なだけだろう。
 自分の指先が慣れた仕草で身支度を終えていく。仕上げの真珠粉を軽く目元に掃かせてぱたりと化粧道具の小箱を閉めると、それが合図だったように遠く一つ、空気をふるわせる鐘の音がした。夜の開始を告げる晩鐘の、予告の鐘だ。
 微かに絹のさやかな音がした。僅かに3名の遊女が立ち上がって自分の部屋へ戻っていく。彼女たちは客がつかなくてもこの待合室には入らなくてもいい権利を得ているのだ。この妓楼で一番良い部屋住の遊女達は揚げ代もリィザの5倍からというところで、客を選ぶ権利さえ在る。彼女たちが嫌だと言えば女将は上客を断るであろう。
 そしてそんな権利は彼女たちが特別である証左であり、リィザにはきっと降りてこないものであった。今のままでは無理だと考えるまでもない。
 正直なところリィザはほとほと嫌になっているのかも知れなかった。妓楼での生活も、男も、どこかに現実乖離したままの部分を残している。馴染めないと一言で斬って開き直ることが出来たらどれだけ楽だろうか。
 夕方が近くなるとリィザはいつもこんな気鬱に囚われる。次第に憂鬱は深く重くなっていき、鳴り響く晩鐘と共に簾があげられて通りに火が入ると、それは鉄のように固まって動く気配さえなくなってしまうのだった。
 ───早く、朝が来ないだろうか。リィザはこの夜の身の置き方などへの思考を振り飛ばし、ただひたすらに、解放される時間のことばかりを考えている。
 待っているのは朝、天窓から次第に白ける月が見えなくなって鳥の声がする時刻。自分の隣にいる見知らぬものがようやくいなくなる時間。夜の始まるこの時間にそんなことばかり考えているのがいかにも不遜で、リィザは微かに吐息を漏らし、立ち上がった。
 化粧道具を一度部屋に置いて裏階段から待合いへ下りてきたその瞬間に、耳に響き渡る四点鐘があった。火入れの時間である。巻き上げられた簾の向こう側の赤い光の洪水はこの日も目に痛いほど眩しくて、リィザはつい目を閉じた。

 この日の最初の客は泊まらなかった。まだ部屋にあがるのを差し止める時刻ではなかったから、リィザは身体と部屋の痕跡を丁寧に消してから階下へ降りた。身体の中の倦怠と嫌悪はこのまま自分の部屋で新しい毛布に潜り込んでいたいのだと一心に訴えているが、それに耳を貸してはならないことはよく分かっていた。
 そんなことをしても、結局何の進展にも進歩にも、無論解決にもなりはしない。どんな風に自分を慰めても宥めても潤わない性質に呆れながらも、根気よくつき合っていくしかないことは分かっている。それにどれだけの苦痛が伴うかという問題だけで。
 さすがに待合室には遊女達はまばらだ。そろそろ泊まりの客が主体になってくるほど夜は深まっていて、既に今宵の相手を見繕った娘達は自室に籠もっている。これから先の時間はやや揚げ代もまかることもあるから、外をそぞろ歩く男達の視線がちらちらと待合室の格子の向こうから注がれているのが分かった。
 リィザは格子のすぐへりにある腰台を見やる。身の空いた遊女たちが身体を置いて、外を行き交う男に視線を流して声をかけるための場所だ。数名の女達が既にそこにいて、格子の隙間から手を招いたり、お互いに何かを言い合って笑っている。
 そこに行かなくてはと思う瞬間には、リィザの足は動かない。おっとりとも内気とも表現できる怯えがちな性質が、見ず知らずの男に笑いかけるような真似をさせてくれないのだ。
 第一、何を言っていいのかもまだよく分からない。
 けれどいつまでもそこに杭のように立っているわけにもいかないとリィザが呼吸を飲み込もうとしたとき、後ろから声がかかった。
「空いてるわよ、あそこ」
 振り返るとシアナであった。リィザとは妓楼の中で唯一年齢が同じ少女だ。リィザのたおやかな風情とは反対の、煌めくような華やかさを放つ顔立ちは整っていて美しい。ライアンというチェインの若い王と容貌に共通するものが多かったが、どちらが綺羅しいかというならば、間違いなくこのシアナの方であった。彼女を目にする度に、はっとするほど綺麗だとリィザは思う。それは最初に出会った頃からまるで変わらない。
 リィザが一瞬自分に見とれているのに気付いたのか、シアナは肩をすくめて唇だけで笑った。彼女の仕草はどれも素っ気なくて強いが、そのどれにもさして悪意はなかった。
「今、身体空いてるんだったらあそこで外でも見てればいいじゃない?」
 シアナはまっすぐに腰台を指して淡々と言った。シアナねえさんは、と聞き返すと同い年の遊女は微かに笑って首を振る。
「あたしはこの後指名が入ってんのよ。部屋で待ってるのも暇だから、ここに誰かいないかと思ってさ」
 シアナはいいながら、リィザの背をとんと軽く押した。そこへ行くようにと促されているのが逆に楽に足を動かしてくれた。元々他人に指示されたことをつつがなくやり遂げてきた生活であったから、こうしなさいと強く言われると反射的に頷いてしまう。
 指名の入っている客というのはライアンのことだろうか。遊女間でもお互いの客の個人情報は秘匿が鉄則だったから聞くことは出来ないが、シアナの表情はさほど待ちかねているという風ではなかったから、違うのかも知れない。
 リィザが腰台に身を寄せて座ると、シアナがリィザの黒い髪を手で梳き流して何やら編み始めた。
「黒髪もいいわね、あたしも一度染めてみようかな」
 衣装には規定があるが、髪型なども自由になることの一つだ。リィザは背の中程で揃えているが、シアナの方は肩にまつろうあたりで切ってすそだけを簡単に巻いている。それがふわふわと彼女の秀麗な面差しを彩って、いっそう華やかに見えるのだった。
「シアナねえさん、でも今の髪型もとっても似合ってますけど」
 リィザの言葉にシアナは曖昧に笑い、そうねぇと呟いた。
 彼女の方がリィザよりも3年も早く水揚げを迎えているせいか、男のことにしても妓楼の中のことにしてもよく知っている。お互いに持っている性質が組違っているために実は雑談していても感覚の機微がよく掴めないのだが、これはリィザが薄々感じているならばシアナも思っているだろう。こうしたことは伝播するように正確に相手が鏡になる。
 けれどリィザを経験の浅いいもうととして、何くれと面倒を見ようとする辺り、根は悪い少女ではない。多分、それだけ分かっていれば良かった。
「───姐さん、客待ちかい?」
 格子の外から声がかかる。
 太い銅鑼声にリィザが僅かに怯みながら格子の外を見やると、朱塗りの菱木に手をかけた大柄な男がじっと二人の方を見つめていた。その視線は迷わずシアナの方に向けられている。二人並ぶと紛れもなく、人目を引くのはシアナなのだった。
 この瞬間に自分の胸に湧いたのが、微かな痛みだったのかそれとも大量の安堵だったのか、リィザには区別が出来ない。この男は自分に興味を持たないが、それが何故なのかを考えたいとは思わなかった。
 シアナはふっと唇をゆるめて笑った。リィザよりも遙かに面差しが整っていることを彼女は知っていて、こうした小さな表情に僅かに優越感のようなものが滲む。リィザはそれを当然だと思う。客の前で笑うことさえ難しい自分などよりも、今から美女になると明白で明るく振る舞う彼女の方がよほど大人びて華麗だった。
「あたしは待ってないわ、これから他の旦那様が来るもの……ねえ、この子は? まだ水揚げからそんなに経ってない新人よ。可愛い子でしょ?」
 ぐいとシアナの腕が自分を押し出して、リィザは籠のように巡らされた格子へ縋り付くような格好になった。のぞき込む男を、上目に見上げる。僅かな時間男は考えていたようだったが、急に明るく笑った。この笑顔になったときの返答は決まっている。
「いやいや、俺は姐さんが空いてるときにまた来ることにするよ」
「そう……じゃ、またね」
 シアナはぷいと顔を逸らす。こんな高慢に見える仕草でさえ、彼女は華やかさにすり替えることの出来る、希有な少女ではあった。
 雑踏の中に男が消えるのをリィザはぼんやり見送る。あの行きすがりの男がリィザを買わなかったのはシアナと比べて明らかに顔立ちが平凡だからだろうか、それとも自分の隠し持った性質を素早く嗅ぎとったからだろうか。直感のようにそれを見抜く男達もいる。
 リィザは小さな吐息を漏らした。あの男が自分を買わないという選択をしたことが、明白な安堵になってしまうのが自分でも疎ましい胸の作用だった。と、急に耳が引っ張られてリィザは隣の少女を見る。シアナの方はやや機嫌を曲げたらしく、むくれたようにとがらせた唇からおもむろに溜息を吐いた。
「あんたねぇ、せっかく勧めてんだからさ、お愛想の一つくらい言いなさいよ」
「あ……ごめんなさい……」
 リィザは目を伏せて小さく謝罪を呟いた。違う違うそんな言葉など口にしたくないのだと誰かが耳の奥で叫んでいるような気がしたが、それは黙殺するしかない。今更処女だと気取るわけでもないし、この9ヶ月間で相当の数の男を知っているのは事実だ。
 リィザの反応のにぶさにシアナは顔をしかめ、長い溜息をついた。何かを言われるよりもそのほうが応えた。
 リィザはもう一度ごめんなさい、と言った。
「……謝って欲しいとは思わないけど」
 シアナは中断していたリィザの髪結いを続けながら低く尖った声で言った。
「あんたがそうやって不幸です不幸ですって顔してるとさ、こっちも滅入ってくるのよね。何とかならないの、それ。もうちょっと明るい顔してればお客だってもっとつくわよ」
「そう、なんです、けど……」
 だが実際どうしたらいいのか見当がつかない。男という未知の生き物は、身体を重ね合わせた後でも未知のままであった。
 見えないものに好奇で以て突き進むことが出来るのはそんな性質の女だけで、リィザのように見えないものに対峙したときにまず恐怖を覚えるような者は、ただひたすら怖い恐ろしいと震えているしか出来ない。
 リィザの返答はやはりシアナの気に入らなかったらしい。彼女は苛立ったように軽く舌打ちすると、理解できないと言いたげに首を振った。それも仕方ないだろうとリィザは思う。シアナが自分を分からないのと同じように、自分も彼女がよく分からない。
 ライアンに彼女が夢中になっていることは傍目にも明らかであったが、あの端正な顔立ちの男の一体どこがそんなに好きなのか全く分からない。それに彼を深く恋しながらも他の客もあっけらかんと受け入れていることに、矛盾を感じないのだろうか。
 ……勿論そんなことを聞けば彼女が不機嫌になることは分かっていたから口には出したことがないが、リィザにはシアナの明るさも不思議だった。彼女とは仲の良い姉妹にはなれても、決して愛し合う友人同士にはなれないと思うのはこんな時だ。持っている性質が違いすぎる。
 けれどシアナが何くれと気をかけてくれることも本当だったから、シアナについてはよい先輩としてリィザは彼女を敬った。シアナにもそれは分かっているのだろう、時折かみ合わなくなる会話などには執着せず、構ってくれるのはそのためだ。 
 シアナは今までの会話のことなど忘れたようにリィザの髪をいじっている。細い指が器用にリボンと髪を編み合わせていくのを壁の鏡で見ていると、シアナを呼ぶ女将の声がした。指名の客とやらが来たのだろう。行きがけにしっかりしなさいよ、とリィザの背を軽く叩いてシアナは待合室を出ていった。
 取り残されて、リィザは赤い河のような通りを見やる。そこを流れていく人の波はそぞろに陽気で、これからの夜を楽しむつもりの男達の期待感が見えるような気さえした。
 ふっと溜息をつこうとしたとき、隣にいた遊女がリィザの膝をつついた。女将が自分を呼んでいるのが聞こえた。
 待合室を外から見かけて時折は指名する男もいたし、特に敵娼を指名しない客に女将が空いている遊女をつけることもある。仕事に直接関わらないことは大抵昼間自室に呼んで話をするのが女将の癖だったから、客に違いなかった。
 待合室から出ると、女将が機嫌良く頷いた。その奥に立つ男には、見覚えがある。
 リィザは一瞬翳りそうになった面輪を、会釈のようにして伏せることで誤魔化した。
「指名だよ、リーナ。旦那様をご案内おし」
 女将の声に頷いて、リィザはディーに淡く微笑んでみせる。笑いかけることが出来る程度には、馴染んでいる相手だった。
 ディーはいつもと同じくそれに合わせるように笑う。その笑みには確かに情のようなものが滲んでいる。彼が外で何をしているのか薄々知っていても、リィザの元を訪れるときには血生臭い気配は消すように努めてくれるのはありがたかった。リィザの臆病さも物怖じする性格も、半年も経てば分かってくるのだろう。
 部屋へ入るとディーは服の前ボタンを片手で器用に外した。リィザは彼の背後に回り、上半身を覆っていたシャツを肩から剥がすようにして脱がしてやる。よくついた筋肉があがる右肩に比して、左側にはそれはない。人の体を造り上げる血肉の鎧の替わりに、金属の留め金がにぶく光を反射している。
 機械人という名称は後になってから聞いたが、失った身体の一部をこうして補うことは時折あった。金額によって多少は機能にも差があるが、彼の腕は安くはない部類に入る。その証拠に、簡単な動作なら胸筋と複合させた疑似神経の働きで単独で動かすことが出来た。
 が、腕はそれなりに重く、動かすのにも労力が要るために、神経を休ませるべき妓女の部屋では大抵外してしまうのだとディーは最初の晩に言った。
 今日もその言葉通り、腕を外しにかかっている。手伝うのも初めてではなかったから、リィザはいつものように彼の右手の届きにくい左肩の後の留め金をあげて腕を身体から分離した。ディーは礼のつもりなのだろう、リィザの頬を軽く撫でると寝台の脇の椅子に腰を下ろした。食事は、と聞かれてリィザは済みました、と答えた。それは嘘だったが、先の客が帰った後の気の重さなどで食べる気にはならなかった。
「……お前さんは会うたびに痩せていく気がするな? 大丈夫か」
 彼には気遣われてばかりだとリィザは苦く微笑み、はい、と頷いた。
「水揚げの頃とあまり体重は変わらないんです。ディー様が心配下さるから、そんな風に見えてしまうんでしょうか」
 リィザはディーに気を遣わせたくなかった。本来気遣いをするのは自分の役割であるはずなのに、逆のことをされると気恥ずかしい。但し痩せているというのは本当だ。体重が変わらないというのも嘘ではないが、背が伸びていて、相対的には痩せている。
 ディーは体格のことにはそれ以上触れなかった。リィザが痩せ気味なことを自分で気に病んでいるのを察しているのだろう。こんなところでこの男の優しさを知るにつけて、彼に対して何故もっと心が開いていかないのか、自分で不思議になる。それは数少ない常連客といえる男達全てに共通することでもあった。
 リィザの特性なのか、彼女を気に入って時折通ってくる男達は優しい。多分それはリィザ自身が怯えなくていい空気を持っている相手であるからだろう。相手を怖がっているときの自分の弱々しい怯えに怒りを覚えたり白けて苛立ったりするような男は、まず二度と来ない。
 食事を終えたディーと雑談などに興じていると、遠く鐘が鳴ったのが聞こえた。これは日の最後の鐘だ。雪崩のように遠く幾重にも拍っているのがわかる。
 ディーが天窓を見上げ、時間だな、と呟いた。リィザは一瞬ぴくりと肩が痙攣したのを感じ、それには気付かなかったように部屋の灯りを落とした。
 この最後の一点鐘を合図に妓楼の娘達は闇に潜り込む。妓楼の扉も閉められて、これ以後は翌日の開棚までは客は中にはいることは出来ないことになっていた。
 周辺の妓楼も規定によって同じ行動をしつけている。だから、夜半の一点鐘の後は、赤い格子の町であることが信じられないほど青く澄んだ夜が天窓から差し込むのだった。
 寝台の脇の小卓に残した油皿の炎だけが揺らめいている。ディーが黙ったまま自分を引き寄せて、丁寧に髪をほどいていく。彼の指が自分のこめかみ辺りから髪の中へ入る。ゆっくりと頭部の輪郭をなぞる。
 リィザは目を閉じて、じっと息を潜める。自分が情けなくて、ただ彼に申し訳が無くて、涙がこぼれそうになる。彼のことを嫌ったことなど一度もない。ディーは出会った頃から彼女に辛く当たったこともなかったし、声を荒げたことさえない。
 だのに、心安いはずなのに、身体のほうはいつものような苦痛の予感に強張ってどうにもならない。彼に申し訳ない、悪いという罪悪感はあるのに、それは少しも胸の中からこぼれてこなかった。
 片腕の欠損の為に、ディーはいくつかの要求をいつも囁く。それに頷いて従って、やがて彼の身体が自分に被さると、リィザは現実的なものと罪のものと、両方の重みに耐えかねるように吐息になる。それが何かの加減か、男が快さのものだと思いこんで一言二言、呟く言葉にリィザは答えない。ただ、没頭するふりをする。
 自分は勤勉な女優のようだと思うのはこんな時だ。けれど、勤勉であればあるほど惨めな気持ちになる。一体これはどうしたら解消するのか、それとも一生自分について回るのか。
 一生この妓楼の中にいるという仮定がちらっと脳裏をかすめ、リィザはその想像の荒涼さに呻く。
「……どうした」
 かすれた声が自分のごく近くに聞こえる。いいえ、と首を振ってリィザは彼の首に腕を絡めて引き寄せた。彼の唇が自分の首筋を確かめるようになぞっている。
 ディーの視線が自分のひどく醒めた表情に向かないようにして、リィザは天井の方向を見あげた。
 天窓に映る月。その青ざめた色をじっと見つめ、リィザは待っている。───朝を。解放される時間を。しばらくは放心していられる、その瞬間を。
 いつか彼を愛せるだろうかという問いには答えがない。けれど待ち続けている。誰もがいうように、愛し、愛される、その相手を。全ての苦しいことから解放されるはずの、その愛を。
 それがこの男になるかどうかは分からない。もしくは彼の腕の中でそんなことばかり考えていることが答えかも知れなかった。
 でも。リィザは溜息をつきそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。
 いつかという魔法があるのだと、自分に言い聞かせていればそれを遠い明日には信じることが出来るだろうか。いつか誰かと巡り逢うだろうか。いつか誰かを愛するだろうか。自分に欠けているのは恐らくそれだ。
 全てを怖がって閉じこもってしまいそうになる心、追憶と現実の間でばらけて砕けてしまいそうな自分、それをまとめてあげてくれるたった一つの力。
 その魔法を、いつか。
 相手がディーであるならそれも良かったが、今はこうして彼の肩越しに月を見上げる勤勉で怠慢な娼婦だ。リィザは目をすがめた。天窓の月がやわく歪んだ。


探してよ
波間にさすらう魂と 私の欠片をいつの日にか



 まばらな拍手が酒場に起こる。伴奏の竪琴がひときわ大きく込み入った和音を奏で、それはやがて一段高くずれた主旋律を導き出す。
 歌い女はそれに頷き、豊かな胸に手をあてて深く息を吸い込んだ。
 てらてらと安く光る口紅の色が、開いて溢れてくるのは───歌。
 女は歌う。
 あいのうたを。


  生まれつきの海鳥たちが うたいつづける、魂は
  お前がどこかで捨ててきた 真珠のような、涙と似ている

  私は今宵もお前を呼ぶ
  お前を呼び戻す為に うたいつづける、海鳥の歌

  愛してよ
  お前の全てをなげうって
  愛してよ
  お前の胸の中にあるはずの
  愛してよ、愛してよ
  流れる血潮 その最後の一滴までに刻んでよ
  愛してよ、愛してよ
  お前の胸に届くまで 叫び続ける、私の声で
  繰り返し、繰り返し
愛して欲しいと、かもめたちはうたう


 ……やがて夜は更けていき、女の歌は記憶の中へ放り投げるようにしまわれる。酒場女は常連客の愛想に頷いて、彼らのおごりの酒をあおった。
「……彼女は昔、どこかで歌を?」
 男は聞いた。酒場の主人はさあねと笑った。
「こんなのは流行歌だからね。劇場に出ている女がこんな安い歌を知っているなんぞ、聞かないね」
 主人の言葉はもっともであった。男は苦笑し、酒と女へ渡す小銭を置いて店を出た。
 外はまだ、夜の半ば。夏の宵は短いが、それをひたすら楽しみ尽くそうとするための赤い格子の町はまだ眠らない。男は僅かに溜息をつき、雑踏の中へ紛れていった。

 どこかから、安い歌が聞こえる。流行歌に乗せた薄っぺらい愛を唇の端で嘲笑しながらクインは赤い迷路の中を歩いていた。
 今日の客は彼の気に入らなかった。初めて買うはずなのにやけに尊大で、それを思い切り顔に出したクインを薄汚いと罵ったのだ。じゃあそれを買うあんたは何なんだよとクインはつい笑いだし、かっとなった客に平手で打たれ、腹を立ててそのまま部屋を出てきたのだ。
 明日になればきっとオルヴィから一くさりあるだろう。この仕事は彼女がとってきたものだから、嫌になったら放り出しても構わないとクインは決めてかかっている。チアロの仕入れてきた話であったなら多少は忍耐することも、オルヴィへの当てつけのためであれば我慢するという選択はなかった。一晩くらい投げても十分に余裕がある程度には、忙しい。
 赤い格子棚の中をぼんやり彷徨いながら、クインは苛々と爪を噛む。
 今日は素の少年の姿であった。身長が最近日ごとに伸びていくようで、女装だと却って目立つようになりつつある。背の高さが既に少女の範疇には修まりが悪くなってきていた。
 だから女装と通常の服装とを最近は取り混ぜている。どちらにしても目立つことには変わりなかったが、少年の格好をしているときには眼鏡をかけているのが普通だ。度は入っていないが、多少印象が変わる。髪は魔導で黒く見せ、体温を安定させる為の保定の魔導を施した指輪をはめて、あとは少しだけ化粧で面差しの印象をいじるのだ。
 妓楼の硝子に映る自分の顔がひどく険立っているのを見つけ、クインは不機嫌にそこから顔を逸らした。この夏が終われば15になる。母の罪という言葉が重く胸に沈んでいて、そこへ歩き続けていく一日一日が息苦しく、気鬱だった。
 二度と会いに行かないわけにもゆかないし、真実の中核となっている部分を知りたい気持ちは確かにある。けれどそれに母と自分の間の血縁の否定や贖罪を含まなくてはならないとなると、理性などとは全く別の部分から、聞きたくない知りたくないと叫ぶ声がして、クインはそれを無視することが出来ないでいる。
 ───苛々している。
 それは確かだった。女の客を取ってみるかという提案に飛びついたのはいいが、これもまったくチアロが最初に言ったとおり、気休めにしかならない。むしろ適当に調子を合わせながら天井の模様で謎解きをしている男のほうが何も考えないでいられる分ましかもしれなかった……若い女がいないのも確かではあったけれど。
 クインは吐息を漏らして髪をぐしゃぐしゃとかき回した。この晩はまるきり空いてしまったが、まっすぐアパートに戻る気にはならない。
 以前同じようなことがあって早戻りしたときに、自分のいないがらんとした建物で微かな声を聞いてしまったのだ。
 彼の住み着いている部屋は最上階だが、地下水路から抜けて上へ向かう階段の途中でそれは聞こえた。不審に思ってそっと声のする部屋に近づきながら、クインは仕方ない笑みになるのを押さえられなかった。
 彼の住処とは階層が違うその部屋にいたのは一組の男女であるようだった。乱雑に放り出されたままの家具が視界をでたらめに遮っていて姿は見えないが、声の具合からして間違いないと見当がつく。無人だと思って紛れ込んできたのだ。ここは俺の城だから出て行けというつもりでクインが口を開こうとしたとき、男のほうが半身を起こした。右肩にはっきりと分かる古い傷が見えた。
 その傷をクインは知っていた。数度とはいえ寝たことのある男にうたれた刻印を、忘れるはずはなかった。苦い感情が口の中に湧いた。何かを言ってやろうとしたとき、女の声が今頃、と呟くのが聞こえた。
(───今頃、あの子も、同じことしてる……)
 その声もクインは知っていた。チアロと共に彼の身辺にいて、仕事を世話し生活の細かな面倒を見る役割を与えられている女。クインはきつく奥歯をかみ合わせた。怒濤のように巻き起こった眩暈は、恐らく怒りのためであった。
(奴のことは今は関係ないだろう)
 ライアンの声が低く答えた。その声には怒りのようなものが籠もっていて、オルヴィは小さく喉で笑ったようだった。クインは足音をたてないようにして、そっとそこを離れた。
 クインの仕事は通常朝までかかる。拘束時間が翌朝の一番鐘までであることで、大抵の客は彼を一瞬でも長く手元に置きたがったのだ。二人とも自分が朝まで戻ってこないと思っていたのだろう。
 自分の部屋で絡み合っていたなら絶対に赦せなかっただろうとクインは思う。そうでなくても、オルヴィのことは最前から気に入らなかった。ライアンと似た寡黙な質の女だったが、彼女が自分に最初から好意の欠片もいていなかったことは肌に感じている。
 それはこのせいだったのだろうかとぼんやり思い、階下から時折聞こえる彼女の声から逃れるように毛布をかぶって目を閉じなくてはならなかった。
 逃げたのだという自嘲と、ライアンへの苦い怒りと、オルヴィへの嫌悪が混じり合った末にクインはこのところひどく苛立っている。だが、今日も早く戻れば同じ光景が広がっているような気がして、居たたまれない。チアロに愚痴のように訴えると友人は決まり悪そうな顔をして、いつか話さなくちゃいけないとは思ってたけど、と言った。チアロも知っていたのだ。
(女がチェインで暮らすのは大変なんだよ。チェインなんて男ばっかりだから下手なことすりゃ便所にされて終わりだし、そんなことなら町に立ってりゃ金になるからな。だからライアンの周りにいることを選んだんだろう。彼女、字が読めて計算が出来るし、無口だからライアンには合うみたいだ)
 ライアンと寝たのはオルヴィなりの保険だろうと付け加え、チアロは気にするなとクインに笑った。
 ライアンがあの女を寄越した理由の一端はそれで分かった。オルヴィはライアンの愛人の一人で、それをつてにチェインでのし上がって行こうとしている種類なのだ。そしてライアンもそれを承知しているであろう。自分の周りにいることがどんな羨望と利益を生むかを知らないわけではあるまい。
 チアロから話が行っているのかいないのか、ライアンもオルヴィもそれ以後態度を変えることはなかった。けれどクインにも見知ったことがある。少し前からライアンの左の耳朶に碧玉が留められているが、オルヴィの右耳にもそれがある。石の形や大きさは殆ど同じだが、彼女のほうが紅玉なのは揃えたのだろうか。オルヴィは時折それを彼に見せつけるためなのか、わざわざ右の耳に髪をかけるような仕草をする。
 嫌な女だ、とクインは歩きながら顔をしかめる。あの女と気が合うなどという幻想は抱いたことがないが、ライアンを挟んであちらが寵を誇るのは、自尊の意地にかけても認めることが出来ない。
 今夜の客があの女の持ってきた話で良かったとクインは当てつけに思い、そして長い溜息になった。今戻れば同じ事が行われているかもしれず、それを関知した瞬間に今度こそ声を上げて彼らをなじれば敗北感だけが残るのは分かっている。面白くなかった。
 不機嫌に俯いたままクインはタリアの赤い格子の中を回遊している。男も女も彼は客として巡りあうままに知ったが、女であっても自分を思うようにしようとする相手には少しの関心も持てなかった。
 同じ女でも、自分が全ての主導権を握ることが出来れば違うかも知れない。恋人を作るという選択肢も本当はあるのだろうが、誰かと巡り逢う機会など無いに等しかった。
 一番身近にいる女といえば実はオルヴィなのであるが、それを思う度に冗談じゃないという白けた気持ちになり、最後は失笑がこぼれてくるのだった。
 けれど今、自分の巣であるはずのアパートには戻りたくない。帰る場所を一時見失い、ふらふらと華やかな迷路の中をうろついている自分が可笑しくて、クインは唇を歪めて鼻を鳴らした。
 母親からの乖離、心預ける相手の不在。その二つが入り混じりあい、手を取り合って踊りながら、胸の内でただ身の切るような寂しさを訴えている。
 お前を心から愛してくれる人、お前が本当に愛する人に出会えればきっと寂しさも消えると母は言った。それは真実だろうとクインも思う。母の語る言葉は彼にとって、いつでも煌めくように美しい真実であった。
 けれど、現実は理想のようにはいかない。その理想を求めて胸の痛みに殉じるのか、手に入らないものだと諦めてこれからも同じように日々を流していくのか、その選択肢は自分の前に並べてみせるだけで辛かった。
 どこからか歌が聞こえてくる。この春先から時折流れる、お仕着せのような愛の歌だ。
『涙を持たない海鳥たちの 悲鳴は海へ墜ちるもの───』
 題名は知らない。かもめがどうとか、海鳥がなんとか、そんな淋しげな歌だった気がする。まともに聞いたことのない歌の俗っぽさにクインは肩をすくめた。こんな物欲しげな歌を考え出す奴はよっぽど強欲に違いない。
 そんなことを思いながらクインは歌の出所を探すようにぐるりと周囲を見回した。
 タリアの大通りからは少し入ったこの界隈も、並ぶ店棚は妓楼が圧倒的に多い。顔見世のための格子部屋から手招いている、白く優しい腕たちと笑い交わす女たち。クインがちらりと視線を向けてやると、彼の尋常でない美貌にあがる歓声。
 今夜はどこかへあがろうかとふとクインは思いつき、自分の耳に嵌めた大ぶりの真珠を撫でた。
 現金はあいにく殆ど持ち合わせていないのだが、以前客からもらったこの耳飾りを換金すれば足りるはずだ。大抵出入りの鑑定屋が妓楼にはいるから、揚げ代とやらを差し引いた釣り銭を、帰る前に貰えば済む。
 ……妓楼などに足を入れるのは実は初めてなのだが、大体の仕組みはチアロとの雑談で知っている。多分相手のほうでどうにかしてくれるはずだし、女そのものは知らないわけではなかった。
 ライアンへの不愉快な怒りも、オルヴィへの苛立たしさも、全て忘れてどこかで明るく華やかに発散するというのは悪い考えには思えない。ただの思いつきにしては欠損はなさそうで、クインはやや考えた末に娼家にかかる絵看板を見つめた。屋号は駒鳥と桜桃だと聞いている。確かライアンが通いつめ、チアロが必死で気を惹こうとしている女がこの近辺の妓楼にいたはずであった。
 ライアンがひたすらに構いあげている女、チアロが夢中になる女というのは一体どんな女なのだろう。オルヴィなどはライアンの愛人に過ぎない───とクインは底意地悪く笑う───あの嫌気の差すほど情感の薄い男が愛しているという女。チアロは美人だと繰り返していたが、この友人の場合は惚れた欲目の無意識の嘘だったとしても不思議ではなかった。
 クインはゆっくりと来た道を戻り始めた。この先は組合に入っている妓楼が少ない、次第に全ての質が落ちていく坂道でしかない。気付かずに通り過ぎたのだろう。歩いていると歌が近くなる。音源はどうやら遠くない場所にあるようだ。
『泣けずに沈んだ宿定は 閉じて籠もった貝のよう───』
 悲しげな声が歌っている。それを聞くともなく耳に入れながら、クインはことさらゆっくり歩いた。自分の部屋に戻れないという奇妙な現象が腹立たしくもあり、けれどたまさか思いついた思案が存外面当てには良さそうだという意地の悪い面白みもある。ライアンへの当て付けとするならこれもよさそうだった。
 妓楼はそう時間をかけずに見つけることが出来た。こぢんまりというには大きいが、タリアの大通りの店に比べれば遙かに気安そうな風情だ。屋号である駒鳥と桜桃の浮き彫りになった看板がぶらさがっている。ライアンの女だという遊女の源氏名は聞いていないが、聞けばなんとかなるだろう。
 クインはそろそろと妓楼へ近寄っていく。大体の話は聞いているものの、最初に足を入れるには多少の踏ん切りがいった。妓楼の地階は大抵食堂と顔見世のための待合室になっていて、両方が塗り格子の向こう側に見て取れるようになっている。赤い衣装を着ているのが遊女、白が見習いで黒がただの下働き、だったはずだ。
 一体どれがライアンの執心するという女なのか、クインは格子の向こう側をほんの少しの間、眺めやる。女達はそれぞれに美しく装っており、待合や食堂で華やかに笑ったり客であろう男と何かを話したりしているが、どれがそうなのかはやはり分かりそうになかった。
 あまりこれは考えることではなかった。思考を重ねて理解できることと、賽を投げてみるまで分からないことがある。クインは自分の性癖を緩く笑いながら、妓楼の格子からこぼれ落ちてくる明るい光のほうへ歩いていった。
 ───と、その耳に微かに異音が聞こえた。硝子が砕ける音はどれほど小さくてもはっと首をすくめたくなるような痛さであった。
「───ごめんなさい……ごめんなさい……」
 一瞬の空白の後、壊れてしまったようにそれだけを繰り返す細い声がする。それに被るのは客であろう男の怒鳴り声、そして怯えたように弱々しくも同じ事をひたすら呟く声、だがそれは何かに窒息するように聞こえなくなる。
 クインは足を止めて格子の向こう側へ視線をやった。食堂が見渡せる格子に男の大きな手が遊女の喉を掴んで身体ごと格子に押しつけ、何かを早口で言っている。
 他の遊女達が悲鳴のような声を上げて客に縋り付く。男は何かを低く言って喉輪にしていた手を離し、おもむろに華奢な体つきの遊女を平手で思い切り打ち据えた。その音が自分の鼓膜の近くに炸裂した記憶が一瞬戻り、クインは顔を引きつらせた。
 殆どたたきつけられたように遊女が食堂の格子に背を打ち、崩れ落ちた。長く豊かな黒髪に挿されていた百合の造花が片方ぽろりと格子の外側へ落ちて、風に送られ通りのほうへ転がる。
 クインは足をとめて顛末を見やった。
 客の男はどうやら女将なのだろう中年の女に食ってかかっているが、女将のほうはそれを適当に慰撫するつもりのようだ。食堂の奥の方に小間使いの少女が先ほどからせっせと上等の酒や食事を用意している。
 遊女達もこぞって男の機嫌を取り始め、とってつけたような明るいさざめきが空気を支配しようとする奔流の中で、黒髪の遊女は誰にも構われずに俯いたまま、打たれた頬を押さえた。細い肩が震えているのが見える。客に打たれることも暴力をふるわれることも、クインは自分の身に甦るようでぞっと背を冷やした。直接の肌の痛みよりも、見えない傷として胸に突き刺される痛みのほうがよほど辛いだろう。
 その遊女がひどく哀れに思われてきてクインは足早に造花に近寄り、拾い上げた。大して良い品でないのはすぐわかったが、遊女は格子の外へ勝手に出ることは出来ない。小間使いの少女がこの花に気付くまでには散々踏みにじられてしまうだろうという予測もなぜだかひどく哀しかったのだ。
 返してやろうと近寄っていくと、彼女がまだ少女と呼べる年齢であることにクインは気付いた。恐らく自分と対して年齢は違わないはずだ。肌の白さ、そこに被さる黒髪の見事な対比、けれど打たれた衝撃のせいなのか、まだごめんなさいと呟きながら震えている。頬を押さえる手では隠しきれないほど大きな赤い痕跡が、くっきりとそこに残っていた。
 クインはそれを見ないようにしながら格子に手をかけ、なあ、と荒ぶる男の気を引かないように小声で言った。
「───なあ、これ、あんたの花だろ……」
 掌に造花を乗せ、クインは格子の隙間から差し入れるようにしてやる。少女が頬を押さえたまま、ゆっくりと彼を見上げた。
 その瞬間に、クインの目の前に広がったのは黒く輝く深淵のような宇宙だった。一瞬遅れてそれが少女の大きな黒い瞳に潤んでいた涙の輝きだと気付く───気付く、時には既に、クインは息苦しさを覚えて喘ぐように喉を鳴らしていた。
 ふっと世界の音がまるで消えてしまったような刹那の時間に、転がり込んでくるのは歌だ。
 誰かが、どこかで歌っている。
『探してよ 波間にさすらう魂と、私の欠片をいつの日にか─── 』
 それだけが聞こえる。まるで何かの暗示のように。
 今自分の前にあるのは一体何だろう。頭の中が次第に白くぼやけて霞み、その代わりに真闇色に美しい夜空とよく似たものが広がっていく。
 何かの壮大な光景に似ている。分からない。これは何だろう……
 魂を抜き取られたように少女の目を見つめていたクインの耳に、微かな、彼と同じほど呆然とした吐息が聞こえた。それはやはり震えていたが、先ほどまでの暗い彩りでは既になかった。
 少女の目が限界までに大きく見開かれ、その中の光がひたと彼を見据えて離さない。
『愛してよ お前の全てをなげうって……』
 かすれた歌声以外には、互いの胸衝かれるような呼吸しか聞こえない。
『愛してよ 流れる血潮 その最後の一滴までに刻んでよ───』
 クインの手から知らず、百合の造花が転がり落ちた。
 星が瞬く束の間、あるいは永遠のような悠久の時間。
 二人は惹かれ合うように、求め合うように、運命を互いの中に探すように、目線さえ離せずただじっと、見つめあっていた。

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