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 タリア王屋敷にはいつものように王側近の数名がてんでに好きな部屋にたむろしている。彼らにはそれぞれ手持ちの領域があって、それをお互いに侵し合わないことで表面上の結託をしているが、末端では時折境界区域の支配や利権を巡っての抗争がある。それはライアンの総括するチェインでも全く同じで、この町の少年達は大人達の鏡でもあった。
 2階の奥にあるいつもの居間へ入ると、魔導士を相手にアルード王はなにやら話をしているようであった。あの魔導士は国からアルードが借り受けているもので、タリアの抗争自体には関わらせないものの、情報収集などには重宝するようだ。
 クインが魔導を使うのを見ているから初めて人外の力を見たときよりは衝撃は薄まっているが、今でもそれは十分に気味が悪く、そして得体の知れない脅威だった。
 アルードはライアンにすぐ気付き、こちらへくるように手振りで指示をした。そっと近寄っていくと、魔導士が振り向きもせず、ライアンに位置を譲る。彼らは銀の仮面を付けているから実際の目で物を見ない。にもかかわらず盲目であるようなぎこちなさは動作にはなかったから、この場合もなにがしかの力でもって位置関係を把握しているのだろう。
「戻ったな、ライアン。首尾は良かったと見える」
 ライアンは首肯し、最前奪い取った鍵をアルードに手渡した。それを一瞥してアルードは微かに笑って側に控えている魔導士の肩を叩いた。退出を命じる仕草である。
 魔導士は無言のまま立ち上がった。仮面のせいで顔も何も分からないが、時折聞くその声で、どうやらこれが少年であることは分かる。背丈はクインとさほど変わらないが、カノンという魔導士名を持つ彼に関して、知りうるのはそれくらいだ。
 魔導士がアルードへ会釈して立ち去ってのち、アルードは手振りで自分の前の椅子を示した。座れということであった。アルードの前で腰を下ろすことが出来るのは、幹部だけだ。チェインにおいてもそれはほとんど変わらない習慣である。
「……これで全員のはずです」
 ライアンは低く言った。アルードは曖昧に頷いて、彼の手に渡った鍵をちらちらと硝子越しの日射しにきらめかせている。
 その鍵が境界地区の利権の源へたどり着くための最初だと、ライアンは知っている。新興派閥が今までの境界主の権利を侵害して勢力を伸ばしつつあるあたりであった。アルードの判断はその新興の派閥への援助だった。おそらくそちらのほうが彼にとって実入りがあったのだろう。
 旧閥の連中が仕切っていた町の権利証明に債権の証書、それに薬や武器の裏の流れを管理していた帳簿がある。部屋の鍵はすぐに開くが、複雑な仕掛けと魔導斑紋の入った錠前は専用の鍵でないと無理なのだ。
 ここ半月ほどは旧閥の連中のうち、抵抗を選択した者を一人づつ食い荒らしていくことにライアンは使っている。チェインの王として少年達の上に君臨している身であることで、ライアンはタリアの複雑に張り巡らされた境界権利に絡んでいない。彼だけがどの派閥とも利害関係を持たない、無派閥であった。
 そのせいで、こうした境界権利の絡む抗争の始末にライアンはよく顔を出した。逆にほぼ関係しないのが魔導の力をほどこした禁制品に関わる全てであるが、これは得手の者がいるのだから、均衡は取れているというべきであろう。
 アルードはご苦労だったなと薄く笑い、既に用意してあったのだろう懐から小さな袋を取り出した。中は小指の爪ほどの碧玉と紅玉の裸石だった。これが今回のこの件全てを決算する報酬であった。
 ライアンはそれを手の中に入れて、アルードに軽く会釈した。次の話を切り出さないから、どうやらこの場を出ていいらしい。そう結論して立ち去ろうとしたライアンを、アルードは待てと呼び止めた。
「……そろそろお前にも、こちらの中に本格的に入ってもらわなくてはならない。分かっているだろう───お前の身内をこちらへ寄越せ、あの……何とかいったか、お前の可愛がっている小僧でも構わんさ」
 チアロのことだろう。ライアンは苦く笑い、あれはここのしきたりを守れるほど大人ではありませんから、と言った。アルードもまた似たような笑みになった。数度ではあるが、チアロをつれてきたこともある。その性質が大人達の内に潜む駆け引きに向く者では到底ないことを、彼も知っているのだ。
 もしくは、とアルードは続ける。
「7地区の妓楼に馴染みの女でもいるのなら……」
「いえ───あそこの女将と多少、縁がありまして」
 その縁とやらの内容を目線で問われ、ライアンはアルードに向き直った。
「俺の母親の妓姐なのです。ずっと昔、母に連れられて数度、会ったことが。あちらもそれを覚えているので多少気安くて……それに俺は同じ女とは続けない、知っているでしょう」
 それは確かにライアンの習性だった。妓楼はタリアの派閥に関与しないために自らの組合において自治を行っているが、それはすなわち特定の者の意志の働く妓楼はないと言うことと同じだった。無論、タリアの奥に進めばそんな規範さえ関係のないもぐりの女部屋はあるが、誰が関与しているか分からないような場所でライアンは女を求めない。
 それに表妓楼の彼女たちは客の秘密を守るという一点において徹底した教育を受けているので、比較的ぬるくしだらかに神経を休ませてやることが出来る。だがそれも馴染んでくれば分からない。だからライアンは、どこかの妓楼に通い詰めて一人の女に入れ込むということはしない。
 ───それはあの女だけなのだ。一瞬でも、彼に血のつながりのある家族という夢を見せてくれた少女。クインとよく似た感情の激しさと心根の弱さが、ひどく哀れで愛しいような気もして、つい突き放すことも出来ずにずるずると年月を重ねている、あの少女。
 けれどシャラを事実上の人質として差し出すことは、やはり躊躇われた。それはいずれ見捨てなくてはならなくなる彼の手駒でなければならないのだから。
 同じ女とは関係を持たないというライアンの言葉に、アルードはそうだったなと苦笑気味に応じた。
「だがいずれ、それに代わるものでも差し出してもらわなくてはならない。他の連中にもそうさせているからな───が、まあいい。今度の件で一本、麻薬の筋があいている。お前にやろう」
 ライアンは僅かに姿勢を直し、深く頷いた。先に手にした宝玉よりも、こちらの方が破格によい報酬であった。チェインからあがってくる収入などとは比較にならない。あちらは人数の増減や抗争の有無で多少変動があるが、麻薬は一度網を張り巡らせればあとは勝手に満ち、手にこぼれ落ちてくる。どんな場合でも金は要る。これから先、さらに重要になってくるに違いないのだ。
 ライアンは僅かに時間をおいた後、ありがとうございますと言った。アルードは小さく頷き、誰かを王屋敷に伺候させることを忘れるなと付け加えて手を払った。
 タリア王の元から退出して、ライアンは回廊を戻りながら長く嘆息した。タリアの内側にいることで、次第に足下であるチェインの支配からは縁遠くなっている。それもアルードの狙いの一つであることは確かだ。アルードに目をかけられているのだという幻想など抱いたことはないが、ライアンの働きに応じて報酬を与えなければ他の者達への示しがつかないとアルードが踏んだのだろう───つまり、現状は満足すべきであった。
 タリア王屋敷をすぐに辞して、ライアンはゆっくりタリアの表通りの方へ歩いた。王屋敷は彼にとって居心地の良い場所ではなかった。アルードと同じ場所の空気にあると思うだけで、肺の中が濁る気がする。
 それに身体の奥底には殺人の快楽に身を委ねた後の、気怠い疲労がたゆっている。血を見た後は命の根元に触れたせいなのか、ひどく気が荒ぶって鎮めるのに手間がかかった。
 だからライアンはあの少女に会いに行く。シャラの顔をみて他愛ない話に気を紛らわせていれば過ぎ去っていく倦怠があった。それはほぼ唯一、過去の呪縛から逃れてしどけなく他愛ない戯れに興じていられる時間であったかもしれなかった。
 あの少女は自分の中に殆ど唯一残っている庇護すべき花だ。摘み取るのは簡単で、それを待っていることも知っているが、けれど一度折った花は二度と土に根付かない。
 彼女が特別であるのは寝ていないからで、それ故にずっと自分の中にあるだろう聖域といえた。それを自分の手でわざわざ壊すようなまねなど、すべきではない。
 それにどうしてもライアンは彼女を自分の愛人にしようと思えなかった。まだ水揚げ前の、白い衣を着た無垢の痛々しさを見知っているからだろう。
 けれど、胸が渇く日は彼女に会いたい。何の血縁もなくても、彼にとってシャラはただ一人の妹だった。父を元より知らず、母には売り飛ばされてのち他人の手を転々として生きてきた彼の、血の証明のような気がするのだ。
 全くの他人であることは知っている。自分が母に売られたときの状況やお互いの顔立ちの相似からライアンは当初、異父妹であろうかと考えていたがそれはすぐに否定された。あの妓楼の女将はシャラの母と親しかったせいで、ライアンという名であったというシャラの兄を見たことがある。瞳の色が違うなら、それは状況が似ているだけの他人であろう。
 だが、それとライアンの心の中の作用とは全く関連がなかった。
 妓楼はようやく始まる時間を迎えて、階下に降りている遊女達が多かった。他の女達には視線を殆どやらず、ライアンはいつもの場所に座る女将に目礼する。女将は簡単に頷いてこちらへとライアンを手招きした。
 前と同じ金額を彼女の前に置くと、女将は苦笑する。
「揚げ代、あがったんだよ。部屋も一つ良くなっている。今日はいいよ、まけておくさ。あんたには大分注ぎ込んでもらっているからね」
 差額のおごりは女将の厚意であったから、ライアンはありがたく頷いた。金に困っているわけではないが、こうしたささやかな貢ぎ物を断るのもおかしな話だろう。
 小間使いの少女が彼を案内していった先は、確かにそれまでよりも一段上の階級に属する部屋だった。年数や揚げ代の多少によってやはり遊女にも格がある。
 次第に上へあがっていくシャラの身なりを、ライアンは微妙な困惑で眺めている。それに自分が相当関わっているのは確かだったが、実際二人の間に何かがあるわけでもなかった。
 ただ、シャラの方は上機嫌だった。この少女は一面現金で、生活の環境が上向けばそれで虚栄心を満足させるところがある。アルードからもらった宝玉を並べてどちらが欲しいかと聞くと、紅玉をさして指輪にして欲しいとねだった。
「で、こっちはライアンがお揃いの指輪にして持っていて。ね、いいでしょう?」
 ライアンは曖昧に喉を鳴らした。シャラがどちらか好きな方を選んだ後は換金しようと考えていたのだ。
 彼の思惑を悟ったのかシャラは冷たく整った面差しを、暗く俯けた。その表情に差し込む気鬱と悲しみが濃い。揃いの指輪などという児戯のような記号を欲しがる裏に、不意に彼女の深い苛立ちと懊悩が揺らめくように見えた気がした。
 シャラは黙って唇を尖らせたまま、彼の煙管をいじっている。ライアンもまた黙り込んで煙管を撫でるシャラの指先を見つめている。シャラの思いが次第に蓄積されていくことを感じないことはなかった。
 彼女の目線がただひたすらに自分に向けられていることを理解し、それに当惑とぼんやりした畏れを覚えながらも突き放せない。
 縁を切るなら簡単だ。二度とこの妓楼に足を向けなければいい。
  それを彼女も分かっていて、ライアンが不機嫌やその淡い怯みのために沈黙するとき、その先をなじる言葉を絶対に口にしない。彼から見捨てられてしまうことを、何よりも恐れているのだ。
 それに深い哀切を感じないではいられない。それにシャラはどうしたところで自分の妹だと思い続け、本人にもそれを言い続けてきた。態度を今更翻すことは出来そうにない。
 このままでは永遠にシャラを傷つけるだろうことも分かっているのに。
 ……ふと、ライアンはシャラを見た。彼女のすすり泣く声が聞こえたのだ。
 シャラ、と呼ぶと少女は自分の口元を手でしっかり押さえたまま首を振った。
 ぱらりと後れ毛がおちて、首筋を軽く叩く。肩との付け根に一葉咲いている、赤い斑紋にライアンは気付いた。昨晩の客がつけていったのだろうか。シャラは遊女なのだ。それを今までも知っていたくせに、今初めて目にしたような気持ちになる。そして巻き起こってくる大量の感情はやはり、憐憫なのだった。
 ライアンはもう一度シャラの名前を呼んだ。シャラはやはり首を振った。
「……ライアン、いいでしょ? 少しくらい、あたしに、希望くらい、くれったって、いいじゃない……ちょっとくらい、いいじゃない……」
 呟く言葉は甘く弱い、非難と言うほどもない繰り言であった。彼女に言えるこれが限界なのだ。ライアンは微かに呼吸をふさがれたように喘いだ。何かを言ってやることも、抱き寄せてやることも、しようと思えば出来るだろう。けれどそれが一瞬の慰めでしかないことを、ライアンは分かっている。
 そんなありきたりのものに引き替えてしまえば、この少女はただの年若い遊女でしかなくなる。それを押してまでシャラを自分のものにしたいかと問えば、彼の中の判断はいつでも首を振った。
 シャラ、とライアンは3度目を言った。
「分かった、宝玉はそうしよう……」
 これが逃げなのか妥協なのか、ライアンには判別が出来なかった。シャラはやっと頷き、少しだけ笑った。ライアンは僅かな安堵のために溜息になった。
 その吐息をすくうようにシャラは彼の口元に手を伸ばし、それはだめだと言うようにか、指先をライアンの唇に押し当てた。同じ色の瞳が絡み合うようにぴたりと合わされる。涙のせいで僅かに潤んでいるシャラの目がじっと彼を見つめ、そしてゆっくり近づいてきたのが分かった。
 ライアンは腕を伸ばし、シャラの首を巻き取るようにして抱き寄せた。自分の肩に埋めるようにシャラの頭を押しつける。シャラが微かに震えた気配がした。
 遊女の貞操は唇にある。それをどうしても彼女はライアンに与えたいようだった。回避するための抱擁にシャラは震えていたが、やがてライアンの背に微かに爪を立て、ばか……と耳元で囁いた。
 ライアンは返答をしない。シャラはしばらくそうしていたが、やがてすすり泣き始めた。張りつめていた彼女の身体から力が抜ける。それに合わせて腕をゆるめてやると、子供が親の腕に収まるようにするするとシャラはライアンの胸に収まり、顔を当てて嗚咽を始めた。
 しがみついている指先は、それでも服をゆるくつかんでいるだけで決定権をライアンに与えている。それに気付かないようにして少女の頭をゆっくり撫でてやると、シャラは不意に泣き崩れた。たくらみをはぐらかされたのを分かったのだろう。
 ばか、と呟く口調はそれでも切なく訴えるもので、彼を責めるものではなかった。泣き続ける少女の身体を包む赤い人工絹の薄さは遊女特有のものだ。手で触れるとすぐに体温が伝わってくる。
 シャラの身体に籠もる熱が厭わしいのか、哀しいのか、ライアンにはよく分からない。けれど今、この少女を宥めてやれるのが自分の沈黙であることは知っていた。
 連綿と続く嗚咽が収まったのは結局シャラが寝付いてしまったからとなった。泣き疲れて眠ってしまうところ、やはりまだ子供なのだとライアンは意味もなく安堵する。
 遊女の部屋であるから寝台は一つきり、その上に抱き上げてそっと横たえてやると、シャラは一瞬目を開いたが、ライアンがその瞼を閉じるように手で押さえてやると、すぐにまた眠りへ戻っていった。
 ライアンは溜息になった。シャラの視線の強さはいつでも変わらずにまっすぐに彼を射抜いている。それが気鬱な圧迫と思えるときもあるし、憐憫の哀しみに見えるときもある。
 どんなときでも変わらないのは、シャラが彼の庇護対象者であって、決して愛を紡ぐ相手ではないということだった。
 それだけ分かっていれば十分だとライアンは自分に言い聞かせ、部屋の明かりを落とした。
 遊女の部屋には天窓が一つきり、そこからはタリアの炎の色が月光と共に差し込んできて、ほんのりと赤い。しんと静まりかえればどこからか、はぐれた羊が鳴くような声がとぎれとぎれに聞こえる。
 それが何であるかは考えるべくもなかった。この妓楼は決して安普請ではなかったが、よほど好きな客の相手でも誰かがしているのだろう。甘えるようなもの悲しさが、声のどこかに潜んでいるようであった。
 ライアンは服を脱ぎ、簡単な夜衣に袖を通した。泊まる客のために、大抵こうした服がどの妓楼にもおいてある。煙草入れと煙管をつかんで寝台にあがり、眠ってしまったシャラを真横においてライアンは天窓に移る月を眺めあげた。
 誰かを手にかけた興奮と苛立ちと歓喜と倦怠は、彼女を傍らにして次第に流されていくものだった。そういう意味において、シャラは確かに特別な女だった。
 愛しかったし、大切だった。恋情と愛欲は彼の中では切り離されて別々のものとして成立しつつあるが、その二つを繋ぐ可能性があるとしたら、今はシャラであるとしか考えられない。無論これから先自分にも命をかけるほどの女が現れるかもしれなかったが、だがその女は決して自分の妹ではないのだ。
 ライアンは煙草の一服を長く吸った。物事をじっと考えるときにはそれは手放せない癖になっている。
 ふっと煙草の香りが消えて苦みだけになった。種草が尽きたのだ。それでライアンは煙草をやめて、寝台の脇の灰皿にそれをことりと置いた。
 ───抱こうか。
 陶器が鳴る冷たい音と共に腹の底に転がりでてきた新しい考えにじっと目を凝らす。このままではいずれ、どのような形であっても破綻するだろう。
 失いたくないという思いは確かにある。シャラのために死ぬことは出来ないが、だが出来うる限りのことはしてやりたいと思っている。シャラの一番の望みが自分と関係を持つことであるなら、そうしてやってもいいかもしれない。
 ……何より、自分にも何かが起こるかもしれなかったから。あるいはそれを知りたいのかもしれない。リァンがいなくなってのち、色素が薄まって濃淡でしか見えない世界に、劇的なものが紛れ込むならそれが何であるかを自分も知りたいのだ。
 ライアンは溜息をついて、そっと手を伸ばした。シャラはよく眠っている。
 遊女の衣装は大抵簡単に脱がせることが出来るように、前の袷を何カ所か紐で結んだだけの作りになっているのが普通だ。首元の大きなリボンをするりとほどき、そして肩から胸にかけての袷目をほどく。腰の横の紐を解き、何か大切な包みを開くように丁寧に左右に開く。
 ───そしてライアンは、僅かに呻いた。
 淡い赤に染まる月光に照らし出された肌はあわあわと白く、その中で呼吸のためにゆっくり上下する裸の胸はこちらが怯むほどに頼りなく小さい。右の腋横に僅かに残っている痕跡の赤い色が目に痛くて見ていることさえ辛かった。ライアンは開いたときと同じような手つきで、シャラの肌を隠すように衣装を着せた。紐を最初より丁寧に結んでやる。ひどい罪悪感だけが残った。
 駄目だ、とライアンは呟いた。彼女は駄目だ。一生駄目だ。まだ幼さを片隅に残したままの身体が記憶の端をよぎる。ライアンは首を振ってそれを追い出そうとした。
 自分はきっと、見てはならないものを見てしまった。シャラと関係を結ぶことは出来ない。無理だ。この同情と哀憫とが胸にある以上、彼女を抱こうとすることさえ罪悪であるような気がして居たたまれない。
 自分にとっての快楽は既に女などではなく、人を狩る獣としての衝動へ変化しているのかもしれなかった。
 リァン、とライアンは呟き、堅く目を閉じた。彼に人を手にかけることを快楽として教えたのはリァンだった。ライアンは彼のためにそうなるべきだという目論見を体現した存在だった。リァンの手腕は確かに見事だった。暗示をかけた主人がこの世から消えてもなお、呪縛はライアンの中に残っている。
 ぎりぎりの命のやりとりを交わしている時、微かに彼の耳には鈴の音が聞こえる。涼しく鳴り響くその音を聞いていると、全てのものを引き裂き、八つ裂き、奪い尽くしたいという衝動が呼び興る。相手によってその感情の多少はあったが、やはりそれは彼にとっては絶対快楽であった。
 自分は、どこかがおかしいのだ。リァンが握っていた彼の調律を、引き受けることの出来る者はいない。だから何かが狂ったまま、それでも生きている。生き続けていく。リァンが辿り着くはずだったその場所に、自分が座るその日まで。
 ライアンは顔を歪めた。リァンのいなくなった世界には、彼を縛るものはなくなった。
 けれど、人は何かのためにと自ら捕縛されることで生きていける生き物なのでないか。解き放たれた野生に打ちのめされて死ぬよりも、共生で繋がり作り上げた広大な籠の中で不自由を歌いながら自己憐憫で満足する鳥ではないのだろうか。世界はそんな構築に出来ている。
 だから一度その輪から外れてしまった者に戻る場所などないのだ。仄かに明るかった場所を振り返り振り返り、それでも待ち受けている闇へ飛び続けるしかない。そうするしか出来ないのだ。今は。
 リァンの呪術がまざまざと身に甦る日は、彼というライアンを繋いでいた籠の大きさと、それが今は既に失われていることを教える現実の狭間にあって疲弊が激しい。彼のいない世界に、今生きている、その不思議。
 リァンのために死にたかった4年前に、死んでいればこんなことを思うこともなかっただろう。それが一体自分にとって至福なのか悪意なのか、何故判別する必要がある。
 ───あなたが、いない。
 それだけが真実なのだ。
 ───この世界に、あなたが、いない。
 それだけが現実なのだ。
 身を取り巻く環境も人間も、全てが変わったところで起こったことは頑として動かない。時間は戻らず、人は甦らない。リァンのために生きていたことは恥じることではなかったが、それだけが全てであった時からは、自分は確かに大人になりつつあった。
 そしてそれを自分のために喜べないでいる。リァンはその死の前日まで、確かにライアンの全てだった。
 あなたのために生きて、あなたのために死ぬのが夢だった。その他の全てのことは色彩の薄い写真のように、現実味が薄かった。命の辿る道筋に落ちているものが、自分を責め苛むものばかりでないことを教えてくれた。だから自分にとってあなたは光であり、神であり、世界そのものだった。何も考えたくなかった、ただあなたの語る世界が正しいのだと闇雲に信じていればそれでよかったのだから。
 ライアンは閉じた瞼の裏で、リァンの面差しを呼び戻そうとする。彼の植え付けた種子が今ライアンを支配する絶対律ならば、そうでなかったはずの未来もまた存在したはずだった。
 そのとき自分はシャラを抱いてやることが出来たろうか。彼女に求めているのは渇きを潤すための僅かな弛緩の時間だが、命を奪い啜り尽くす快楽を知らなければあるいはごく自然に、関係を持っていただろうか。
 どんな仮定にも意味がないと知っていながら、ライアンはそれを何度も繰り返す。リァンを少しでも責難するための材料を探して記憶の海を彷徨いながら、しかし遂に感傷に負けて、それが遠く懐かしく、帰りたい日々であることを認めざるを得ない。
 この世界に、あなたがいない。
 もしもという言葉になんの意味もないことを知っているけれど───帰りたい。
 ただひたすらに、帰りたかった。


帰してよ
お前の姿が世界から 消えてしまったあの日まで


 ゆるくたゆたう竪琴の、音色は淡く消えていく。儚さは世の宿命で、生まれれば消える運命のまま、歌は今宵も消費される。使い捨ての歌、使い捨ての涙。それは何のこともない流行歌。時が来れば誰の脳裏からもこぼれおちていく砂。
 けれども歌に籠められた、ほんの僅かな真実が時には誰かの胸を打つ。強く。叩く。強く、強く。それが歌の普遍というものならば、魂をこめて歌うこの余興にも、何かの愛があるだろうか?
 女の歌は、続いている。


海を漂う海鳥たちの 声は今夜も 啜り泣く
  呼び恋い続ける鳴き声の 悲鳴を飲み込む 海潮音
  お前の胸には触れている? 私の歌う、海鳥の歌

  殺してよ
  お前が別離を告げる前に 私が憎んでしまわぬ前に
 ちかちかと天窓から陽光が射している。その眩しさでシャラは目を覚ました。遊女の部屋は客の使う表廊下と、下働きが使う裏廊下に挟まれていて、窓は天井に四角く切られたものが一つだ。天窓からの光だとすれば、既に昼が近いはずであった。そんなことを思いながら寝返りを打つと、その横に男がいたことにシャラは驚いて微かに息をのんだ。無論それは前の晩の客なのだが、この時間になっても部屋から出さないのはやはり具合が悪い。
 と、いうよりもこの時間まで客がいることが信じられない。しっかり朝寝を決め込んでしまった自分も悪いが、相手も良くない。大体、こんな時間に帰したのが知れたらねえさんたちに具合が悪いわ。起きなさい、とシャラは隣でまだ寝息を立てている少年の肩を揺する。彼はうん、と曖昧な返事をして目をしばたきながら起きあがった。
「……なんだよ、もう朝……」
 そこまで来て、彼も時間の遅さにようやく気付いたようだ。天窓を見上げ、ついで寝台の脇に適当に放り出されている彼の時計を拾い、長い長い溜息になる。
「やっちまった……ま、いいや。俺がいなくても他がどうにかするさ」
 最後についていた呟きは楽観というよりは期待であろう。その証拠に少年は急いで身支度を始めた。短い髪がまだ寝癖のままになっているのを、シャラは適当に直してやる。ありがとうと笑う顔は屈託なく、これが彼女についている客の中で一番若くて朗らかなたちだ。
「あんたも本当に不思議よね」
 彼の支度を手伝いながら、シャラは呟く。鏡をのぞき込んで寝癖を押さえるのに懸命だった少年は何が、と振り返らずに言った。けれどその視線は鏡の中で動いて自分を見ている。彼は自分が好きなのだとシャラはとうに知っていて、それをこんな僅かな仕草でとらえ直すたびに、決して不愉快にはならないのだった。
「あたしとあの人のこと知ってるんでしょうに。よくもまあ、自分のご主人様の女に手を出そうなんて思えるわ。あんたの図太いとこ、尊敬しちゃうわよ、チアロ」
「だって、彼は駄目だって言わなかったよ」
 その言葉にシャラは胸の奥がちりっと焦げた匂いをたてるのを感じる。けれどそれを表情に出してしまったら、自分の中の誇りや矜持というものが全て崩れ去ってしまう気がして、ことさら笑顔になるのだ。
「そりゃ駄目だとは言わないでしょうよ。身請けもまだなんだし、妓楼に置いてるからにはあんた以外の他の客とだって寝るんですからね。神経が鉄で出来てるのはだから、あんたの方。いい根性してるわね、本当にさ」
 チアロはどうにか跳ねた髪を撫でつけ終わり、くるりと彼女に向き直った。彼の表情はいつもの通りに明るいが、瞳にある光はひどく真剣で、切なくなるほど強い。その強さが逆に喜びと怯みのない交ぜになったものに彼女の胸の中で変化して、チアロのことを決して嫌ってはいないのに、この目をされると喉がふさがれるように呼吸が苦しい。
 ──そして彼と同じ目で、自分もあの人を見ている。あの人があたしを見て、微かに逃げ出したいような素振りを隠そうとするのはそのせいだ。でも、じゃあ、どうしたらいいの? シャラがきゅっと唇を結んだとき、だって、というチアロの声が聞こえた。
「だって、俺、お前が好きだもの。お前がいいなら今すぐここから出してさ、二人でタリアなんか出てどっか別の場所へ行ってもいいよ。俺、他のどんな事のためにも痛いことは嫌いだけど、お前のためだったら死んでもいい」
「馬鹿ね」
 シャラはあきれた風を装って、つんと肩をそびやかした。チアロのまっすぐで直截で、軽やかではあるが真剣な言葉を聞くとき、ひどく心浮かれている。けれどそれは本当に欲しいものの代価品であって、所詮偽物でしかない。偽物であることを承知してもいるが、チアロの真摯な気持ちを知りながらそんなことしか考えていない自分にも嫌気がさすのだった。シャラの表情が曇ったのに気付いたのか、チアロはやっと上着をかぶりながら彼女に近寄ってきて、ゆっくり顔をすり寄せた。
「……暗い顔すんなよ、せっかく綺麗な顔してるのに台無しになるぜ」
 こつんと額同士を打ち合わせてチアロは笑い、彼女の手を軽く握った。
「また来てもいいだろ?」
 ご勝手に、とシャラはふいっと顔を逸らす。いつでもこうしてじらしてやれば、彼はまた熱心にシャラへの賛辞を降り注ぐのだ。その言葉を聞くのは好きだった。後から自分で適当にこじつけ、改竄し、もっと別の声で囁かれるのを夢想するために。
「───待ってるくらいの殊勝なこと言ってよ、たまにはさぁ」
 チアロの甘えるようなすねた声に、シャラはつんと顔を背ける。慣れ親しんだ関係が既にこれを冗談に流せるほどに積み重なっていた。彼女から気に入る言葉を引き出せないのはいつものことで、チアロはやれやれと肩をすくめる。出会った3年前にはまだ子供の領域を出ていなかった身体も仕草も、既に少年と呼ぶ域へ達し、やがて大人と呼ばれる時代へ入っていくだろう。彼の未来は何故かすんなりと、良いものばかりを描くことが出来る。
「お前の気位の高いとこ、すごく好きだけどね」
 チアロの声は苦笑を含んで甘い。シャラはふうんと素っ気なくそれも流した。
 恋愛には必ず勝利者がいる。力関係は決まっていて、逆転することは滅多にない。この場合はシャラの方が明らかな優位であった。チアロの率直な賛辞も洪水のように溢れてくる愛の言葉も、全ては彼女の意のままであって、止めろと本気で言えば彼は飲み込むだろう。チアロの言葉はどれも軽やかに明るいが、誇張や戯れのような嘘の匂いはしない。それがどれだけ自分を慰めているかシャラは知っている。本当に振り向いて欲しい人に顧みられないまま年月だけが流れ堆積していくのを、見ているしかできないから。
 またね、と簡単な言葉だけを残してチアロが出ていくと、シャラは長い吐息を落として寝台に座った。昼近い陽光はやけに明るくて、それが天窓の硝子を通して降り注いでくる健康な目覚めが自分に不釣り合いに似つかわしくない、そんな居心地の悪さがじりじりとあがってくる。
 チアロのことは嫌いじゃない。あれは自分の崇拝者で、彼の気持ちに頷けばその性質の通りに明るく力強く自分を愛するだろう。それは分かっている。彼が今シャラに降り注いでいる陽光のごとくにまっとうに自分を恋していることはきっといいことなのだろう。
 でも、そんなもの要らない。
 どんなに辛くても苦しくても、焦れても泣いても苛立っても、自分の心が吸い付いていく背中は一つきりだから。
 好き、とシャラは呟いた。その声が耳から胸にするりと落ちた瞬間、そこが鈍く痛んだ。あの人があたしのことを特別に思っているのは知っている。でも、それはあたしが欲しい視線じゃない。あたしが欲しい熱じゃない。彼に温かに大切に扱って欲しいなどと思ったことなんか、一度だってない。彼がシャラの目の届かない場所できっとしているであろう、取り巻く女達にするように戯れに踏みにじって欲しいのだ。
 彼の長い指が自分を愛撫するならば、どれだけの歓喜になるだろう。彼のよく鍛えられた身体が自分の身体を法悦の中に押しつぶしてくれたら。たった一度で死んでもいいのに──……
 その瞬間、シャラは微かに呻いて首を振った。やけに生々しいことを考えている自分がひどく淫蕩な女であるような気がする。あの人のことを考えると胸が苦しく切なく痛い。この痛みが次第にひどくなるのを自覚して、自分がどれだけ彼を恋しているかを思う瞬間は自嘲の入り混じった哀しみの中だった。
 ───自分も母のようになるのだろうか? そんな疑問がちらと脳裏をかすめるとシャラはいつも恐ろしいものを見たように、その考えから目をそらした。シャラの母は多情で恋の多い女だった。どこまでが客でどこからが男であったか遂に分からないが、それでも恋し、夢中になり、最後は決まって捨てられることの繰り返しだったことは知っている。男に騙され、殺されかけた末に運河に身を投げて死んでしまった母。シャラとよく似た顔立ちの女は結局幸福にはなれなかった。自分も同じ運命の車輪に乗っている気がして、シャラは怖くてたまらない。遊女になるまでは今のところ、同じではないか。
 それを救ってくれるであろう相手にシャラはたった一人をさだめた。彼以外知らなくていいし、見えなくてもいい。他のことなど必要がない。いつか彼が自分に向かって膝をつき、低く数少ない言葉で何かを語ってくれたら。それだけで死んでもいいくらい、あたしは彼が好きなのに。
 ちりっと胸の奥が焦げるような痛みがした。シャラは溜息になった。自分が考えている半分も、彼は自分を思っていないだろう。あの人には沢山の敵と沢山の配下がいて、何かにかかりきりになるには手に持つものが多すぎる。その内の一つが自分であることを疑ったことはない。水揚げから既に4年、シャラの元にずっと通い続けているのは確かなのだ。3度ほどミアの部屋にあがるのを見たことがあるが、自然にそれは消えて今はこの妓楼ではシャラだけに金を落としていってくれる。
 ───でも、そういうことじゃない。
 彼が自分を特別の女だと周知のために環境を美しく整えていくにつれて、どこへも捨てられない怒りだけがたまっていく。
 ───そういうことじゃない。
 彼の視線も吐息も言葉も、全てが自分一人のものであって欲しい。彼の中の一部分を分け与えるのではなく、何もかもがあたし一人に注がれるようであって欲しい。彼という存在の、全てが欲しい。妹だなんていう檻に入ったままではそれは永遠に手に入らないだろう。
 いつかあの人にも自分ではない誰かを愛して特別に想うことがあるだろうかとシャラは不意に思い、瞬間的にわいた激しい怒りにぎゅっと手を握りしめた。そんなの、絶対に、いや。そんな女、あたしが殺してやる───
 激高につられて浮かんできた言葉の強さにシャラははっとし、そして辟易して額に手をあてた。振り回されたときのように、ひどい眩暈がする。
 彼のことになると全く盲目のように何もかもが消えてしまう癖を、シャラは半ば呆れ加減に見つめた。そんなことではいけないと自分でも思うし、女将や先輩の女達からも言われてなお、その癖はいっかな直りそうにない。それが自分でも可笑しいと思うし、仕方ないような気もして、こんな事を考えるときは堂々巡りの惑乱の中だ。シャラは長い溜息になり、そして勢いよく寝台から立ち上がった。
 あまり彼のことを考えても今は仕方がない。この夜にも自分を買うであろう見知らぬ男達のために適当に部屋の掃除でもして、身綺麗にしておかなくてはいけないだろう。入浴や化粧はタリアの火入れの時間が近くなってからでもいいが、洗濯と掃除だけは早めにしなくてはいけない。シャラは昨晩来ていた人工絹のスリップドレスを拾い、下着と一緒に洗濯用の手桶に入れて部屋を出た。遊女達の部屋から裏廊下へ出れば、そこには高い位置の格子窓からさんさんと昼に近づいていく強い日射しが注いでいる。
 遊女達の部屋には簡単な浴室がついているが、こうした日々の細かな雑用に使うための水場は別にある。客を傷つけないように部屋に刃物や針なども置かないから、裁縫のための部屋もあって、昼前はみなてんでにそこで必要なことをしているのが普通だ。
 シャラが水場に入っていくと、先客がいた。長いことそうして足で踏んでいるのか、洗い桶の中の白い足が赤く染まっている。とんとん続く小気味よい音が何かの拍子のように規則正しい。不意に女は足を止めた。水を換えるのだろう。一度桶から出たときにシャラにようやく気付いたらしく、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、シアナねえさん」
 源氏名で呼び合うのはどの妓楼も同じ習慣である。シャラは軽く頷いておはよう、と言い、女の隣に洗濯用の桶を引き出した。
「随分丁寧にしてるのね。リーナは相変わらずこんな事が好きなんだ」
 シャラの言葉にリーナは小首を傾げて笑う。シャラが恋心という煉獄から目覚めて混乱し、立ち直りながら出てくる不機嫌な朝であるとするなら、この女は朝方は奇妙なほど明るい。ごく自然に呼吸をしているように見える。
 だがそれが不幸の臭いであることを、シャラは誰に教えられずとも知っていた。不幸な女は同じく不幸な女を見抜くのだ。恐ろしく正確に。
 ───彼女の前に出るといささか怯むのはそのせいだろう。彼女の真闇色の瞳に見つめられると、真っ黒な空に映る星のように自分の中身もそこに浮かんでしまう気がするのだ。シャラは彼女から視線を外し、洗い桶にぬるま湯を張った。自分の洗い物を入れて隣で踏み始める。同じ事をしていたリーナが成果を確かめるように彼女の木綿のワンピースを広げた。
 それで彼女が長く洗濯をしている訳が分かった。客が吐いたのだろう、その痕跡がくっきりと裾に残っている。シャラが一目見て分かるくらいだから、落とすのには時間がかかるだろうと思われた。リーナの溜息が聞こえる。
「吐かれたの?」
 シャラが聞くと、リーナはええ、と困ったように笑って頷いた。
「お酒が欲しいっておっしゃるからお出ししたんですけど……明け方に。シーツはさっきやっと干したんですけど、こっちはまだまだですね……」
「あんまり飲ませちゃ駄目よ。酒は繰り越しが出来るからって言って、適当に切り上げさせないと。酔っぱらってる奴の相手は疲れるでしょ」
「ええ、まあ……無茶を言う方が多くなるのだけが本当に困ってしまって」
 その無茶というのが何であるか、聞きたい衝動にシャラは駆られた。リーナというこの遊女が水揚げから半年にもなろうというのに未だに客あしらいというものが出来ないことを、女将が嘆いているのを聞いたことがある。遊女達の間でひそひそ交わされる性技のあれこれなどを本当に試したことがあるのかどうか、一度聞いてみたくて仕方がない。
 ───あんたまさか、寝転がってるだけじゃないでしょうね? そんな意地悪い言葉が浮かんでくるのは自分が苛立っているからで、その苛立ちはあの人のせいだ。シャラの世界で一番美しく力強い男。
 シャラはふっと溜息になって、肩をすくめて見せた。
「泥酔する前に寝台に引っ張り込んじゃえばいいのよ。お酒が残ってたらまた来る人も多いしね。気に入った客だったら半分くらいは残して置いて、次に来たときに、って言うの」
「ええ、そうなんですけど」
 気弱く微笑む面差しに僅かに浮かぶ困惑の色を、シャラは素早く嗅ぎとって目を伏せた。彼女のしていることは明らかだった。水揚げの時と同じような調子でたおやかにちょこなと座っているだけなのだろう。シャラの母も娼婦であり、シャラはこの世界に入ることを嫌悪したことはなかった。そうしないと生きていけないことくらいは分かる。
 この場所で生きていくからには仕事としてするべきことはする、というのがシャラなりの意地であるが、彼女はそれを放棄しているのだ。いつまでお姫様のようにいたいのだと怒鳴りつけたい衝動もあるし、そんなにここが嫌なのかと聞いてみたい気もする。それにいつまでもリーナ一人だけが無垢のような顔をして何も出来ないのですと装っていると、自分がひどく薄汚れた娼婦であると言われているような気になる。
 けれどそれを口に出さないのはリーナ自身がその困惑に開き直っていないのが分かるからだ。どうしていいのか、リーナには分かっていない。臆病というなら正しいであろうしそれを怠慢とそしるなら正しい。けれどそれを本人が気に病んでいる、その不幸をシャラは薄々知っていて、だから彼女に何かを言ってやりたいと思いながらも口にすることが出来ない。年齢が同じだからもっと馴染んでもいいとは思うのに、なかなか世間話程度から先に進まないのはそのせいだ。
「……もし衣装が足らなかったらあたしに言いなよ。ちょっと古くなったやつだけど、あんたに似合いそうな可愛いやつ、あげるから」
 彼女に一瞬抱いた苛立ちを鎮めるために優しいことを口にして、シャラは自分の洗濯物を勢いよく踏み始めた。

 彼がシャラの元を訪れたのはそれから4日ほどしてからだった。日付も曜日もまるで定まっていないが、月に2度か3度は顔を見せる。小間使いの少女の案内でシャラの部屋の前に立つ彼の表情は冷たく整って、どこからも何も寄せ付けない酷薄さが目立っているが、シャラの側に腰を下ろすときには微かにではあるがぬくまるのを、シャラはいつものようにじっと見つめた。
 その整った面差しを見るたびに思うのは、息苦しくなるほどの思慕であり、眩暈がするほどの憧憬だ。彼はあたしの神様。あたしを生かして殺すための神様。
 ほうっとシャラは見惚れるための吐息をつく。するりと腰のベルトに挿されていた煙管を取り出して火をつける仕草。薄い唇がついばむように吸い口に触れるその風情。彼のすることは全てが美しく、完璧に整っているようにシャラには見える。
「……珍しいか、煙草が」
 今日は彼は機嫌がいいらしい。シャラがいつものように自分を見つめている視線を厭う素振りなく、薄く笑っている。
 自分と同じ翡翠色の目が、自分をじっと見ているのにシャラは気づき、そっと手で髪の形を確かめた。日付が決まっているのならその日は特別に綺麗にしておくのにといつも思うのだが、その約束はくれたことがなかった。
 毎日そうしておけばいいのかもしれなかったが、シャラは日常を巧く運営していくことは苦手で、部屋の片づけや洗濯や針子作業もどうにも好きになれない。料理などはしたことがないが、おそらくこれも同じだろう。
 シャラはつまらない空想をすぐに捨てた。あれほど待ちこがれていた時間を目の前にして、他のことを考えるのは馬鹿馬鹿しいことであった。
「いいこと、あったの?」
 微かに自分の声が上気して、いつもよりとろんとしている。この声音がひどく女臭く甘たるく聞こえるのは知っているが、こんな声にしかならないのだ。
 別に、と返答する声は先ほどとは一転して固い。何か良いことがあったとしても、それはきっとタリアの内律に関わることであって、くちばしを入れるなという態度だった。それはそれで正しいだろう。シャラにはタリア王を頂点とするこの町の機構のことはよく分からない。自分たちは緋房の籠の鳥であって、美しくさえずっていればそれでいいはずなのだ。
「ちっとも自分のことは話してくれないんだ……」
 それでも拗ねたふりで彼の顔をのぞき込めば、そこにあるのは淡く翳ったぬるい表情であった。彼は苦笑しているのだ。
「俺のことなど聞いてもつまらんさ。それよりも最近はどうだ───チアロも相変わらずのようだな」
「……他のお客のことは話せませんよーだ」
 きゅっと顔を縮めて愛嬌のある表情を作ると、男は今度こそ唇をゆるめて笑った。はっきりした彼の笑顔はごく珍しく、それに見入ってしまう自分がつくづく馬鹿な女だとシャラは時々恨めしくなる。彼の僅かな仕草や造作で簡単に幸福になってしまうのは、一体損なのだろうか、得なのだろうか。たった一つ言えることは、こうして容易く見つけることの出来る幸福は、やはり容易く散ってしまうということだ。
 彼の表情が僅かに変わるたびにそれが何を意味するのか必死でシャラはくみ取ろうとするが、その性癖のおかげで先ほど感じていたはずの光は気付いたときには既にない。ただ光感の気配だけが胸のどこかに漂っている。
「……チアロの奴が、しばらく来られないと───」
 言いかけた形良い唇にシャラはだめ、と人差し指を押し当てた。
「今は他の人の話なんかしないで。あたしはチアロの話なんかしたくないわ」
「だが、奴はお前が」
「関係ないわ。あたしはあなたしか好きじゃないもの。そうあの子にも言ってあるもの。だから今は他の人の話なんか、聞きたくないししたくもない」
 きっぱりと言い切ると、シャラはさっとその場を立った。彼のためにいつものように酒と食事を頼まなくてはならなかった。酒は飲まない男だが、食事は抜かない。
 簡単に注文を書き付けて小さな袋に入れ、下の調理場へ通じる管へそれを放り込む。袋にはそれぞれの遊女の源氏名が書いてあるから、それを見て部屋へ注文の品を裏廊下を通じて小間使いが持ってくることになっているのだ。酒にしろ料理にしろ、彼の好みと量は大まか掴んでいる。何を食べるのか最近は聞くこともなくなってきていた。
 作業を終えて男の所へ戻ると、彼は煙草を楽しんでいた。煙草を吸う男の肌からは草の甘枯れた匂いがすると他の遊女達が言うように、彼の側によると確かにその匂いがした。時折夜中に目を覚まして彼の鼓動を聞くために耳をつけると、正しく脈打つ動音と共に煙草の甘く渋い匂いにふわりと包まれるようで、シャラはそれが好きだ。
 長い一吐きを終えると彼は服の内側から小さな袋を取り出した。あけるように目線で促され、シャラは口を縛っている綾紐をほどく。中から転がり出てきたのは紅玉の指輪であった。血の色をしたそれをぐるりと白貴石で囲み、ぐっと爪で立ててある。何、と言いかけてやっとシャラは気付いた。
 以前彼がタリア王からもらったという紅玉と碧玉の一揃いを指輪にして一つづつ持ちたいと言ったはずだ。それを彼は律儀に守ってくれたというわけであろう。
「すごい……綺麗」
 シャラはそれをつまみ上げて灯りにかざした。深く濃い赤に白貴石の眩しい輝きがはえて目を奪われる。あの紅玉以外にも彼が色を付けてくれたのだった。
「すごい、綺麗、すごい、……似合う?」
 右の中指に押し込むと、何の抵抗もなくぴたりと入った。ずっと以前、別の指輪をねだったときに教えておいた輪径を彼はまだ覚えていたらしい。
 けれど彼の指には揃いの指輪はなかった。そんな風にしてくれると言ったのをもちろんシャラは覚えているから、ねえ、とその袖を引く。責められずなじれない、そんな弱さがひどく甘ったれた声音に変わった。
「一緒に作ってくれるって言ってた指輪は? 今日は持ってないの?」
 僅かに男は苦く笑ったようだった。
「……指輪は、細刃刀の手袋に引っかかるからな。俺が持っていろという意味だったと思ったから結局」
 言いながら彼は左の頬をかすめて落ちる髪をかき上げる。その耳朶に柔らかく噛み込む、青い光があった。
「邪魔にならない選択が優先なのは仕方がないだろう……それとも指輪をこちらに作り替えるか、シャラ? 細工屋の親爺はお前の指輪に使った石と細工は上等だからそれが一番いい形だと言っていたが」
 うん、と曖昧な返事をしてシャラは自分ではめた指輪の輪郭を指先でなぞった。彼の言うとおり、これはこれでよい細工物だった。それに彼の理屈も分からないとは言えない。それが嫌だとかどうしても駄目だとか、そんなわがままを言えば彼を怒らせるかも知れない。その最後の考えがどうしても抜けないのだ。
 わかった、とシャラは明るい声を出した。自分と彼の間に共通するものを持ちたかったのに、それは結局微妙にどこかがずれた形となって実現した。けれど、それをシャラは責めない。───そんなことが出来るはずがないのだ。
「いいわ、ありがとう。大切にするね」
 男はゆったり頷き、髪を押さえていた手を煙管に戻した。シャラとほぼ同じ、とってつけたような薄い茶色の髪が落ちて碧玉の色味は完全に視界から消えた。
「ねぇ、見てもいい?」
 シャラは立ち上がり、側に寄る。無造作に男が頷き、彼女から顔を背けて煙を吐いた。
 そっと手を伸ばして彼の髪をかきあげると、先ほどと同じように深い青がきらめいた。耳朶に指で悪戯するように軽く触れると、男は僅かに喉を鳴らした。まるで猛獣を撫でてやっているようだとシャラは思い、確かに自分がこの男の特別な相手であることを思い知った。
 彼は気安く誰にでも触れさせるような空気を持たない。以前の宴席でリーナなどは本気で怯えていたようで、それ以後もシャラの語る彼の話を聞きながらの表情は硬い。
 時折彼がこの技楼で派手に振る舞う宴席においても、チアロ以外の誰一人、寄っていこうとしないではないか。
 その特別さを何度も違う角度から見つけるたびに、シャラはねじれたような気持ちになる。彼がシャラに心やすくぬるくほどけているのは、彼女を妹だと認知しているからだ。それは彼にそっと身体を預けてみた幾多の夜、背中に手を回してみた数多の朝に、その度に告げられてきた言葉だ。
 あまりしつこくかき口説くようなら俺は寝台で眠らなくてもいいのだと言われたのが丁度1年ほど前のことだ。そのとき涙をこぼさないように意地だけで目を一杯に見開きながら頷いたのは、彼が遠くなってしまうという恐怖ゆえのもので、決して納得したわけではない。
 だが、向こうはシャラが理解して聞き入れたような態度をとる。シャラの涙が見えなかったはずはない。自分がどれだけ彼を好きか、知らないはずはない───なのに。
 そっと落とした溜息に、ちらと男はシャラを見て煙草に戻った。シャラは彼の耳を飾る宝石から視線を離して寝台にぽんと座った。
 彼の側にいると泣きたくなる。どうしていいのか分からない。この人を好きで、とても好きで、どんな風にされても殺されたっていいと思っているのに、彼はきっとあたしを何気ない女のようには愛さないだろう。兄妹だという確証もないくせに一貫して態度を変えない。
 閉塞した状況をどうにかしたいとどれほど願ってもどれほど思っても、彼はシャラに対する線引きの位置を変える気配がなかった。
 すり寄れば押し戻され、泣けば宥められ、これ以上の何かを出来るとは思えない。
 そのくせ何か他愛のない我が儘を通したいときには泣けばいいと知っている。彼の目の前で、ぽろぽろ涙をこぼしてみせれば彼が大概怯むと分かっているのだ。指輪のこともそうやって泣き落とした。例えばずっと来てねという約束も、抱けと言わない代わりに一緒の寝台で眠ってもらうことも、そうやって承知させてきたのだから。
 これは狡いのだろうか。あたしは陰険で悪知恵の働く女? それともこの人を振り回すだけの足かせ? 当人はともかく彼の下にいる幹部の数名はシャラをそう見ているのが明白だったから、この考えはシャラの中に根深く住み着いている。宴席で当然のように彼の側にいる自分を見る連中の目つきと来たら、まるであたしが彼を都合良く利用しているだけのような、うろんなものを見るように蔑むのよ。
 だから彼らの前では絶対に笑ってやるのだとシャラは決めている。彼らの前では華やかで驕慢で艶やかな花になってみせる。ことさら連中の前で供物をねだるのも、甘えた声を出すのも、彼らの不愉快が多少は溜飲を下げるからでもあるのだ。
 シャラは黙ったままで煙草を続けている彼を見やり、寝台にゆっくり身体を倒した。真横になった世界には、やはり彼しか見えない。どんなときもいつでも、彼はシャラの全てだった。
 ───神様。
 シャラはリーナが時々呟いているその言葉を思い起こす。彼女の不幸は明らかだが、それを彼女は祈ることで忘れようとしているように見えた。目に見えない何者にそんなに真剣に心を傾けられるのか、シャラにはさっぱり理解が出来ない。けれど神様という時の彼女の口調には全てを委ねたような敬虔さと安堵感があって、それはそれでよかろうとも思う。
 神様、という言葉を思いついたのはだからリーナのおかげだ。彼女の言う、崇高でこの世で最も正しい人だというのなら、シャラの神は彼だ。彼女の神は見えないが、シャラの神は目に出来る。
 冷淡な陰がさす整った面差しをして、低い声で、広い肩で、細い指で、シャラを捕らえて彼女に君臨し続ける、絶対の相手。───でも。
 シャラは目をすがめる。そうすると視界が狭くなって彼の姿もほっそりとして見えるが、どんなときでも見えるものの中心に据えられているのだった。
 でも、リーナの言っている神様は安息をくれるけど、あたしの神様はそんなものをくれないわ……一体何が違うのかしら……? シャラは半身を横たえたままじっと彼を見つめた。いつどんな角度から眺めても、彼の冷たく整った顔貌にはシャラの視線を引きつけてやまない不思議な力があった。
 ちらと彼の視線が自分を向いたのが分かった。きっとずっと長く見つめていたのだろう。彼を見ていると心浮き立ち悲しくなり、その両方がぐるぐると巡って次第に訳が分からなくなる。
 そんなときに自分がどんな表情をしているのか、シャラはよく知らなかった。だが、彼がそれを見つけるときに憐憫のような淡いかげりを瞳にくゆらせることは既に気付いている。
 だからきっと、今にも捨てられそうな顔をしているのだ。
 それを思うと自分で自分が厭わしくなる。彼が自分を見捨てきれない甘さや弱さにつけ込む真似だと分かっているのに、それを止められない。そうでなければいつか彼から見放されてしまうような気がして、怖い───怖くてたまらない。
 こんな状態が一体いつまで続くのだろう。
 それでもシャラは同情など要らないと、憐れみなど欲しくないと、訴えることが出来ない。そんな言葉は一瞬の激しい怒りを焚きつけても、決して燃え広がらせてはならない炎だ。
 彼がもう自分の元にこなくなると言うことを、考えるだけでも恐ろしく、気が狂いそうになる。
「───どうした、シャラ」
 いつもと同じ低い声音が自分の本名を呼ぶ。
 本来はシアナという源氏名で呼ばれるべきであったが、これを許すことが特別である証なのだ。遊女と客という枠を越えるという表示であり、それは二人の間に流れている現実という河そのものであるようにも思われた。自分は客ではない、という意味であろう。
 それもよく分かっていて、シャラは別に、と素っ気ない返事をした。けれど彼のやや困惑じみた、淡い影のくゆる表情は変わらない。どうしたのだろうとシャラがまばたきすると、ぽろりと涙がこぼれたのが分かった。
 ああ、自分は泣いているんだ。だから彼はあんなに困ってるのね。意地悪く囁く自分の中の呟きにシャラは唇を噛み、いいの、と小さく声にして寝台に顔を押しつけた。
 僅かに場の空気が対流する気配がする。彼が何かを言おうかどうしていいのか考えているときは大抵こんな奇妙な沈黙になるのだ。
 考え抜かれた言葉など要らなかった。シャラの気持ちに配慮するためだけの優しい言葉をなんと紡いでいいのか彼が考えているとしたら、それはシャラの胸にある恋情となんと不釣り合いで薄い心なのだろうか。
 ───恋愛には必ず勝利者がいる。力関係は決まっていて、逆転することは滅多にない。恐らく、自分たちの間には永遠にないだろう。自分は彼のために生きて彼が死ねと言ったら死んでもいいとさえ思っているのに、彼はきっとあたしのために命を捨ててくれるとは言わないだろう。
 いっそ死にたい。今彼があたしを大切にしてくれるこの瞬間に。そうでないといつか、彼を憎んでしまいそう───……
 死という単語がふっと脳裏に浮かんだ瞬間、それへの甘美な憧れと本能的な畏れによってシャラは堪えきれずに声を上げて泣き始めた。それを全て彼にぶつけるには覚悟と勇気が足りず、飲み込んでしまうには溜め込んできたものが多すぎた。
 そっと自分の髪を撫でる手がある。シャラは顔を上げてその手の主の首にしがみついた。
 こんな時でなければこの男はシャラが身をすり寄せるのを避けようとする。自分がどこまでも計算高い女であるという自嘲を心に聞きながら、それでもシャラは離れられない。
「好き……」
 結局、自分に残っているのはこの言葉だけなのだ。呆気ないほど簡単な、たった一つの言葉によって自分は自分を苦しめるもの全てと戦わなくてはいけない。そしてその戦いを見て見ぬ振りをされるなら、自分は本当に彼をいつか殺したいほど憎しむかもしれなかった。
「……大好き……」
 熱に浮かされたように呟くシャラの髪を、大きな手がゆっくり撫でる。この中途半端な優しさなど要らないとはっきり言えたらどんなにいいだろう? でもそうしたら彼はあたしから離れていかないだろうか。あたしを嫌いにならないだろうか。あたしにもう二度と会ってくれないんじゃないだろうか……
 知りたくない。知りたくない。この仮定を投げたときにどんな目を出すのかなど、知りたくもないし考えたくもない。だから言ってやれることはそう幅がなかった。
「ねぇ……いつか、あたしのこと、殺してくれる?」
 一瞬自分を抱き留める肩が痙攣したのをシャラは感じた。
 彼の呼吸はいつものように静かだが、その僅かな所作で鋭く心に噛みついたことをシャラは知る。泣きたくなるほどそれが嬉しいような気もしたし、取り返しのつかないことをしてしまったような恐れも同時にわいてきて、シャラはねえ、と再び言った。
「あたし、死ぬときはあなたに殺されたいの。ねえ、そうしてくれる?」
「馬鹿なことを言うな」
「……そう……ね、馬鹿みたい……」
 シャラは小さくしゃくり上げるように笑った。彼のことばかり考えている自分が可笑しかったし、こんな簡単な泣き落としの罠にはまる男もひどく可笑しかった。
 でも───死にたい。彼の手で死ねたらどんなに幸福だろう。こんな事を考える自分は本当に馬鹿なのだろうか。
 それを思ってシャラがもう一度小さく忍び笑ったとき、裏廊下から通じる扉が叩かれるのが聞こえた。注文に出していたものが揃ったのだろう。シャラはぱっと体を離して小さな仕出窓から出される銀盆を受け取った。代金はあたしにつけておいて、と窓越しに小間使いに言いつける。
 出てきた食事を彼に差し出しながら、シャラは彼が火を消した煙管を手に取った。漢氏竜の彫刻のある柄に指を這わせる。この煙管ほどに彼にほど近くいられたらどれだけ嬉しいだろうかと下らないことを思い、胸内にそっと溜息を落とした。
 彼のしていることはあたしを緩慢に殺すことだ。だからいっそ一息に殺して欲しいと願うことの何がいけないんだろう。それをいつかこの男に言えるだろうかとシャラは彼女の神に視線をやり、ふと笑った。
 多分かなわないことであろうと思うことのほうが、空想の中では美しく見えるものなのだ。シャラはそれをとうに知っているはずであった。
「───ライアン……」
 彼の名を戯れのように口にして、シャラはもう大丈夫よと言う代わりに笑う。
 悲しいときは、笑うしかないじゃない?
 死にたいときは、尚更笑うしかないじゃない。
 あたしたちは、美しく着飾って華やかに笑ってこその緋房の籠の鳥なんだから。
 せめてその小鳥の中で一番に愛でて欲しいという願いに突き動かされて、シャラは上機嫌に見えるように笑った。
 笑いながら手に残る煙管を、胸に燻っている何物かのためにへし折ってやりたくなる。
 その時、ほんの少し彼を憎んでいる自分にシャラは気付いた。


  殺してよ
  お前が別離を告げる前に 私が憎んでしまわぬ前に 




 酒場の中はいよいよ暗い。注文の酒がグラスごと目の前に置かれると、中の液体が僅かな灯りに揺らいで琥珀色の淡影を男の手に落とした。下町と呼ばれるこの界隈でそれほど良い色の酒があるはずがない。この薄暗がりはそのせいなのだろうかとぼんやり思いながら男は客席の間に立ちつくす、酒場の歌姫を見つめた。
 声は神が人に与えた最良の楽器だと、誰かが言った。それが最良だとするならば、それは魂からほとばしる熱の量に浮かされてのことでないだろうか。
 けれど、それは悪くない。男はふと唇だけで淋しく笑う。女が揺るがす声の中に籠もる熱は確かに魂の形に似ていた。
 歌はゆるやかに続いている。


   涙を持たない海鳥たちの 悲鳴は海へ墜ちるもの
  泣けずに沈んだ宿定は 閉じて籠もった貝のよう
  お前の元には届いている? 涙の代わりの、海鳥の歌

  探してよ
  波間にさすらう魂と 私の欠片をいつの日にか 

 夕方近くなってくると技楼には次第に活気のようなものが満ちてくる。タリアの火入れの時間はまだ少し先だが、それに合わせて開く店棚の支度のために、遊女達はお互いに品評を試合ながらの化粧に余念がない。
 この時間、彼女たちの忍び笑いや取り交わす言葉で地階の客用の食堂は明るい活気に溢れているのが通常だ。仲の良い遊女達はそれぞれにかたまって、化粧小物や簡単な装身具を貸し合ったりそれぞれにいる想い人の話をしたり、時間が来るまではくつろいでうち解けて過ごす。
 リィザも同じようにそこに入り、いつもと同じ椅子に座って簡単に化粧を始めた。水揚げの時に女将がしてくれた化粧が魔法のようであったと今更に思うがそれでも慣れというものはあって、最初の頃よりは全てがましに傾いている。
 外のざわめきが微かに流れ込んでくる。開業前だから外に面した格子の窓は閉められ、全てに簾がおりているが、音だけは完全に遮断できない。通りの浮かれるような賑わいは全くいつも通りの日常であった。
 リィザはちらりと外を見やり、微かに吐息を漏らした。深闇の始まりがそこに迫り来る時間、外の繁賑が華やかであればあるほど、心が暗くうち沈んでいく。リィザはそれには既に気付いているが、一体どうしたらいいのか自分でも分からないまま、ただ日々を流していることに怯み続けているのだ。
 水揚げから既に9ヶ月と12日を過ぎている。日数までがすらりと出てくるのは自分が一日一日を丁寧に、あるいは執拗に数えているからだ。この一日一日が、終わるのを数えている。指を折りながら日々が過ぎ去っていくのを見ている。
 そうやって待ちこがれているのは恐らく、朝を告げる遠い鐘声であった。あるいは早朝を歌う鳥の声、微かに白み始める空の色。
 その時間になると、明らかにリィザは安堵した。距離感を掴めないままに通り過ぎていく沈殿した空気から僅かな間でも解放されるかと思うと、自分でも情けないほどにほっとするのだ。
 こんなことではいけない、もっと努めなくてはという声が次第に自分の中で小さく縮こまっていくのが分かる。
 その代わりに聞こえてくるのは、何かに潰されるように呻いている自分の声だ。押し殺した呼吸の息づかいがひどく苦しげで、それを聞くだけでも胸がしめつけられそうになる。
 リィザは僅かに溜息をつき、その記憶を振り払おうとした。タリアの火入れの時刻は近い。そろそろ長く赤い夜が始まろうとしている。化粧と身繕いくらいは終わらせておかなくてはならなかった。
 鏡の中にいる自分の瞳にある光は弱く暗い。それを直視しないように気を払いながら、リィザは白粉を軽く肌に乗せた。
 元々日に当たって色素が浮く程度には白かった肌が最近は更に透明になってきている気がする。見習いの頃とは違い、遊女となった今では外で日に照らされることなどあり得ない。そばかすなどすっかり消えて、真白の雪のようだと時折は寝語りに口にする男もいるほどだ。
 それを思い出してふと漏らした笑みを鏡の中に自分で見つけ、リィザは一瞬僅かに唇を結ぶ。それは自分ではっとするほど嘲笑と酷似していたからだ。
 あざけっているのは男達か、それとも労働の質が変わった途端に美しくなっていく肌の現金な作用か───否、多分一番嗤ってやりたいのは自分だ。何もかもを微笑みで誤魔化し、真実をひた隠し、表面だけを慣れたように振る舞う心中で全く別のことを考えている自身なのだろう。
 この妓楼に来た頃、リィザは自分の身に起こった運命の流転を飲み込めなかった。毎日泣いてばかり、帰りたいと呟くばかりだった。それでもこの場所で生きていくことを納得して受け入れて、水揚げを迎えた。その時には確かに未来を良い方に考えようとしていたし、リィザなりに覚悟は決めたつもりであった。これが芝居や物語だったらそれで一件落着、であったのだろう。
 けれどどうしたことなのか、身体は頑なに全てを拒んだままだ。心は受け入れても、身体はぴったりと閉じられたまま、自分の運命を声無く呪い続けている───それが分かる。
 天窓から淡くこぼれ落ちてくる赤い夜光の中で男の手が自分の直肌を遊び始めると、呼吸が止まりそうになる。ぎゅっと目を閉じて一刻も早くその時間が過ぎ去ってしまわないかと息を潜め気配を殺していると、必ず悪い夢を脳裏に見た。
 それはあの貴族荘園で闇雲に働いていた頃の幻だった。幻影としては美しかった。あのころに見知っていた、虹や優しい小糠雨や蝶の乱舞や蜘蛛の巣の朝露や……それに、彼。思い出しては駄目だと必死でうち消そうとするたびに、自分がいかに幸福だったか満ち足りていたかを思い出す。
 そしてその瞬間、身体の上にある違和感に気付いてリィザは小さな悲鳴を上げて目を見開いてしまう。行為の最中におもむろに凝視されるほど男を興ざめさせるものもないらしく、大抵の客は鼻白み、何かを言う。それは直截な怒りであったり苛立たしい嫌味であったりしたが、言われた瞬間からリィザの身体はますます強張って、やがてそれは激しい苦痛に変わるのだった。
 それは勿論、自分が悪い。リィザは理性では理解している。
 相手は客で、自分は遊女だ。見合う金額を支払って楽しむ為にそこにいるはずなのに、歓待する側が醒めていることほど腹立たしいものもないだろう。それは分かる。けれど、何を自分に言い聞かせても納得させようとしても頑なな身体はどうしたらいいのだろう。これだけはどうしていいかも分からずに途方に暮れている。
 ───神様。
 逃げ込む先は、それしかなかった。水揚げの相手の男が無名神教会の僧職者であったのも何の偶然であったのか、最前から興味はあった無名神への祈りの聖句や紋様板の使い方などを教わることが出来た。名無き神は全てを知り、赦し、癒してくれるという教えに逃げ込みたくなるほど現実は閉塞という城壁の中に在って、そこから動こうとしない。
 だからリィザはそれまでよりの何倍も、真剣に祈った。助けてくださいとは言わない。どうか救ってくださいとも思わない。ただひたすらに、この現実から逃れる術として、安息を求める場所として、姿のない相手に黙祷した。祈りをしている時には現実という籠の中に在る疎ましいことも気の重いことも全て忘れていられた。
 ───神様……
 安息を少しでも探そうと、悲鳴と共に目を開けてしまった後はリィザは尚更目を固く閉じ何も考えまいとする。だがその所作をあざ笑うかのように幻は今度はそれまで相手をしてきた沢山の男達が与えてきた様々な苦痛に変わり、脳裏をぐるぐると回り続けるのだ。
 絶望という言葉がうっすらと胸に広がっていくのを感じるのはそんなときだ。その息苦しさを振り払う為にますます瞼を強く閉ざすと、ついには涙になりそうになる。───客といて涙を浮かべるなど、論外以前の問題だ。
 他にどうしようもないではないのだ、とリィザは自分を必死で言い含める。この妓楼以外に居場所などないのは理解せざるを得なかったし、自分でも納得したと女将に告げたからこそ水揚げもその後のこともあるのだからと。
 自分が在るべき場所はこの妓楼であることは明白であった。この中で自分なりの希望も未来も探していくべきで、それがいつか幸福というものへ至るかぼそい道を見つけてくれる……そのはずなのだ。なのに。分かっているのに。
 リィザは長い溜息になって鏡の中の自分に目を凝らす。
 時折訪ねてくるディーと他に二人ほど以外には常連客を持たないリィザは夜ごと客を誘う為に待合室に入らなくてはならない。身の空いている遊女達はそこか食堂かのどちらかにいて、通りすがりにでも目をとめてもらうのを待っているものだ。
 夕食は客のおごりにしてもらうのが殆どで、そうでなければ自分で頼まなくてはならないが、それには金がかかる。勿論妓楼の女なのだから客のものよりも安価だが、それにしても全てにつけて金が要った。
 その金はどうやって作るかといえば、結局客からの小遣いや客が頼む食事や酒に含まれている見返り料、そして指名料だ。何がいいとか嫌だとかご託を並べていては新しい衣装どころか下着の一枚も買えない。水揚げの時に多少のものは揃えてあるが、衣装も2枚や3枚では具合が悪いし、第一リボンや造花などの髪飾りに装身具なども多少無くては淋しく見えて余計に客がつかなくなる。
 この場所で生活をしていく為には客を取らねばならない、そういう機構は既にくみあがっている。なのに、それに馴染めず気付けば日数だけをひたすら数えている自分は一体何なのだろう。
 妓楼に売られた来たときにも自分の中の頑迷さに自分で微かに辟易したことがあった。今、その真芯の強情さをほとほと持て余している。
 男には慣れていくものだし行為自体には馴染んでいくものだと遊女達はみな言った。水揚げの翌朝にはそんなことは信じられないと溜息をついたものだったが、相手には慣れた。僧職のあの男からは女慣れた手つきや仕草などにも関わらず、どこか愛情めいたものの匂いを嗅ぎとった。その頃にはまだ男の腕の中にいるときに目を開くようなことはなかった気がする。
 僧職の男が秋を過ぎてぷっつりと来なくなり、やがてそれが転任であることを女将から知らされて後、完全に身体の感覚は閉じこもった。そんなことではいけないと思えば思うほど、吐息さえぎこちなくかたまっていく。
 他の遊女達の言う歓びというものを得ることが出来ない行為が、苦手から苦痛、苦痛から苦役に変わるまでそう時間はかからなかった。リィザは怯えているのだ。男という生き物全てが空恐ろしく、得体が知れなくて怖い。
 リィザが遊女としての素の部分にひどく乾いたものしか持ち合わせていないことは、肌を合わせていれば分かるらしい。怒る客、白けて不機嫌になる客、または逆にどうにか自分に感覚を与えようと躍起になる客、───そして、一番恐ろしいのはそれを知って殆ど一晩中責め苛む客だ。そういう性質の男はそれこそ文字通り夜の間中、言葉でも肉体でも彼女を追いつめることしかしない。多分、自分の怯えて強張り青ざめた顔もそれをあおっているはずだった。
 水揚げの相手には僅かに感じることが出来た情愛めいた空気は完全に見失い、どう探していいのかも分からなくなっている。こんな状態の自分にも僅かながらいる常連客というものが、一体何が良くてリィザに時折顔を見せるのかも分からない。
 ───それとも自分は彼らを憎んでいるのだろうか。どんなに冷えてあしらってもしつこく自分を買い続けるから?
 自分に問えばいつも答えは分からない、だった。反射的に否定が出てこないところが更にリィザを暗澹とさせる。馴染みの客達は行きずりの相手よりはまだ安堵を覚えることができるのに、彼らさえ厭うているなどと思いたくない。
 だが嫌悪感が少なく悪夢がやや淡いことと、愉楽というものを取り違えることは出来ない───……
 がちゃりという重たい音でリィザははっと我に返った。黒い制服を着た小間使いの少女が表の篝火にくべるための薪籠を扉の側に置いたのだ。細く扉を開けてその支度の為に外へ行く黒い衣装を見送り、リィザは鏡に向き直った。
 化粧はあまり凝ったことをしない。少し前に15になったばかりの肌は下手に飾り付けるよりも素の若さを売った方がいいと皆言ったし、同い年のシアナという姐妓もそうしている。だからごく簡単にそれをすませ、淡い色の口紅を置いて頬にかかる髪だけを後ろでまとめて百合の造花のついた櫛を挿した。
 この櫛はチェインの若い王の側近であるディーという男が彼女に買い与えたものだ。そう高価な品ではないが、衣装の布地がさほどまだ良くない。髪飾りにだけ金を注ぎ込んでいても均衡が取れなくて奇異なだけだろう。
 自分の指先が慣れた仕草で身支度を終えていく。仕上げの真珠粉を軽く目元に掃かせてぱたりと化粧道具の小箱を閉めると、それが合図だったように遠く一つ、空気をふるわせる鐘の音がした。夜の開始を告げる晩鐘の、予告の鐘だ。
 微かに絹のさやかな音がした。僅かに3名の遊女が立ち上がって自分の部屋へ戻っていく。彼女たちは客がつかなくてもこの待合室には入らなくてもいい権利を得ているのだ。この妓楼で一番良い部屋住の遊女達は揚げ代もリィザの5倍からというところで、客を選ぶ権利さえ在る。彼女たちが嫌だと言えば女将は上客を断るであろう。
 そしてそんな権利は彼女たちが特別である証左であり、リィザにはきっと降りてこないものであった。今のままでは無理だと考えるまでもない。
 正直なところリィザはほとほと嫌になっているのかも知れなかった。妓楼での生活も、男も、どこかに現実乖離したままの部分を残している。馴染めないと一言で斬って開き直ることが出来たらどれだけ楽だろうか。
 夕方が近くなるとリィザはいつもこんな気鬱に囚われる。次第に憂鬱は深く重くなっていき、鳴り響く晩鐘と共に簾があげられて通りに火が入ると、それは鉄のように固まって動く気配さえなくなってしまうのだった。
 ───早く、朝が来ないだろうか。リィザはこの夜の身の置き方などへの思考を振り飛ばし、ただひたすらに、解放される時間のことばかりを考えている。
 待っているのは朝、天窓から次第に白ける月が見えなくなって鳥の声がする時刻。自分の隣にいる見知らぬものがようやくいなくなる時間。夜の始まるこの時間にそんなことばかり考えているのがいかにも不遜で、リィザは微かに吐息を漏らし、立ち上がった。
 化粧道具を一度部屋に置いて裏階段から待合いへ下りてきたその瞬間に、耳に響き渡る四点鐘があった。火入れの時間である。巻き上げられた簾の向こう側の赤い光の洪水はこの日も目に痛いほど眩しくて、リィザはつい目を閉じた。

 この日の最初の客は泊まらなかった。まだ部屋にあがるのを差し止める時刻ではなかったから、リィザは身体と部屋の痕跡を丁寧に消してから階下へ降りた。身体の中の倦怠と嫌悪はこのまま自分の部屋で新しい毛布に潜り込んでいたいのだと一心に訴えているが、それに耳を貸してはならないことはよく分かっていた。
 そんなことをしても、結局何の進展にも進歩にも、無論解決にもなりはしない。どんな風に自分を慰めても宥めても潤わない性質に呆れながらも、根気よくつき合っていくしかないことは分かっている。それにどれだけの苦痛が伴うかという問題だけで。
 さすがに待合室には遊女達はまばらだ。そろそろ泊まりの客が主体になってくるほど夜は深まっていて、既に今宵の相手を見繕った娘達は自室に籠もっている。これから先の時間はやや揚げ代もまかることもあるから、外をそぞろ歩く男達の視線がちらちらと待合室の格子の向こうから注がれているのが分かった。
 リィザは格子のすぐへりにある腰台を見やる。身の空いた遊女たちが身体を置いて、外を行き交う男に視線を流して声をかけるための場所だ。数名の女達が既にそこにいて、格子の隙間から手を招いたり、お互いに何かを言い合って笑っている。
 そこに行かなくてはと思う瞬間には、リィザの足は動かない。おっとりとも内気とも表現できる怯えがちな性質が、見ず知らずの男に笑いかけるような真似をさせてくれないのだ。
 第一、何を言っていいのかもまだよく分からない。
 けれどいつまでもそこに杭のように立っているわけにもいかないとリィザが呼吸を飲み込もうとしたとき、後ろから声がかかった。
「空いてるわよ、あそこ」
 振り返るとシアナであった。リィザとは妓楼の中で唯一年齢が同じ少女だ。リィザのたおやかな風情とは反対の、煌めくような華やかさを放つ顔立ちは整っていて美しい。ライアンというチェインの若い王と容貌に共通するものが多かったが、どちらが綺羅しいかというならば、間違いなくこのシアナの方であった。彼女を目にする度に、はっとするほど綺麗だとリィザは思う。それは最初に出会った頃からまるで変わらない。
 リィザが一瞬自分に見とれているのに気付いたのか、シアナは肩をすくめて唇だけで笑った。彼女の仕草はどれも素っ気なくて強いが、そのどれにもさして悪意はなかった。
「今、身体空いてるんだったらあそこで外でも見てればいいじゃない?」
 シアナはまっすぐに腰台を指して淡々と言った。シアナねえさんは、と聞き返すと同い年の遊女は微かに笑って首を振る。
「あたしはこの後指名が入ってんのよ。部屋で待ってるのも暇だから、ここに誰かいないかと思ってさ」
 シアナはいいながら、リィザの背をとんと軽く押した。そこへ行くようにと促されているのが逆に楽に足を動かしてくれた。元々他人に指示されたことをつつがなくやり遂げてきた生活であったから、こうしなさいと強く言われると反射的に頷いてしまう。
 指名の入っている客というのはライアンのことだろうか。遊女間でもお互いの客の個人情報は秘匿が鉄則だったから聞くことは出来ないが、シアナの表情はさほど待ちかねているという風ではなかったから、違うのかも知れない。
 リィザが腰台に身を寄せて座ると、シアナがリィザの黒い髪を手で梳き流して何やら編み始めた。
「黒髪もいいわね、あたしも一度染めてみようかな」
 衣装には規定があるが、髪型なども自由になることの一つだ。リィザは背の中程で揃えているが、シアナの方は肩にまつろうあたりで切ってすそだけを簡単に巻いている。それがふわふわと彼女の秀麗な面差しを彩って、いっそう華やかに見えるのだった。
「シアナねえさん、でも今の髪型もとっても似合ってますけど」
 リィザの言葉にシアナは曖昧に笑い、そうねぇと呟いた。
 彼女の方がリィザよりも3年も早く水揚げを迎えているせいか、男のことにしても妓楼の中のことにしてもよく知っている。お互いに持っている性質が組違っているために実は雑談していても感覚の機微がよく掴めないのだが、これはリィザが薄々感じているならばシアナも思っているだろう。こうしたことは伝播するように正確に相手が鏡になる。
 けれどリィザを経験の浅いいもうととして、何くれと面倒を見ようとする辺り、根は悪い少女ではない。多分、それだけ分かっていれば良かった。
「───姐さん、客待ちかい?」
 格子の外から声がかかる。
 太い銅鑼声にリィザが僅かに怯みながら格子の外を見やると、朱塗りの菱木に手をかけた大柄な男がじっと二人の方を見つめていた。その視線は迷わずシアナの方に向けられている。二人並ぶと紛れもなく、人目を引くのはシアナなのだった。
 この瞬間に自分の胸に湧いたのが、微かな痛みだったのかそれとも大量の安堵だったのか、リィザには区別が出来ない。この男は自分に興味を持たないが、それが何故なのかを考えたいとは思わなかった。
 シアナはふっと唇をゆるめて笑った。リィザよりも遙かに面差しが整っていることを彼女は知っていて、こうした小さな表情に僅かに優越感のようなものが滲む。リィザはそれを当然だと思う。客の前で笑うことさえ難しい自分などよりも、今から美女になると明白で明るく振る舞う彼女の方がよほど大人びて華麗だった。
「あたしは待ってないわ、これから他の旦那様が来るもの……ねえ、この子は? まだ水揚げからそんなに経ってない新人よ。可愛い子でしょ?」
 ぐいとシアナの腕が自分を押し出して、リィザは籠のように巡らされた格子へ縋り付くような格好になった。のぞき込む男を、上目に見上げる。僅かな時間男は考えていたようだったが、急に明るく笑った。この笑顔になったときの返答は決まっている。
「いやいや、俺は姐さんが空いてるときにまた来ることにするよ」
「そう……じゃ、またね」
 シアナはぷいと顔を逸らす。こんな高慢に見える仕草でさえ、彼女は華やかさにすり替えることの出来る、希有な少女ではあった。
 雑踏の中に男が消えるのをリィザはぼんやり見送る。あの行きすがりの男がリィザを買わなかったのはシアナと比べて明らかに顔立ちが平凡だからだろうか、それとも自分の隠し持った性質を素早く嗅ぎとったからだろうか。直感のようにそれを見抜く男達もいる。
 リィザは小さな吐息を漏らした。あの男が自分を買わないという選択をしたことが、明白な安堵になってしまうのが自分でも疎ましい胸の作用だった。と、急に耳が引っ張られてリィザは隣の少女を見る。シアナの方はやや機嫌を曲げたらしく、むくれたようにとがらせた唇からおもむろに溜息を吐いた。
「あんたねぇ、せっかく勧めてんだからさ、お愛想の一つくらい言いなさいよ」
「あ……ごめんなさい……」
 リィザは目を伏せて小さく謝罪を呟いた。違う違うそんな言葉など口にしたくないのだと誰かが耳の奥で叫んでいるような気がしたが、それは黙殺するしかない。今更処女だと気取るわけでもないし、この9ヶ月間で相当の数の男を知っているのは事実だ。
 リィザの反応のにぶさにシアナは顔をしかめ、長い溜息をついた。何かを言われるよりもそのほうが応えた。
 リィザはもう一度ごめんなさい、と言った。
「……謝って欲しいとは思わないけど」
 シアナは中断していたリィザの髪結いを続けながら低く尖った声で言った。
「あんたがそうやって不幸です不幸ですって顔してるとさ、こっちも滅入ってくるのよね。何とかならないの、それ。もうちょっと明るい顔してればお客だってもっとつくわよ」
「そう、なんです、けど……」
 だが実際どうしたらいいのか見当がつかない。男という未知の生き物は、身体を重ね合わせた後でも未知のままであった。
 見えないものに好奇で以て突き進むことが出来るのはそんな性質の女だけで、リィザのように見えないものに対峙したときにまず恐怖を覚えるような者は、ただひたすら怖い恐ろしいと震えているしか出来ない。
 リィザの返答はやはりシアナの気に入らなかったらしい。彼女は苛立ったように軽く舌打ちすると、理解できないと言いたげに首を振った。それも仕方ないだろうとリィザは思う。シアナが自分を分からないのと同じように、自分も彼女がよく分からない。
 ライアンに彼女が夢中になっていることは傍目にも明らかであったが、あの端正な顔立ちの男の一体どこがそんなに好きなのか全く分からない。それに彼を深く恋しながらも他の客もあっけらかんと受け入れていることに、矛盾を感じないのだろうか。
 ……勿論そんなことを聞けば彼女が不機嫌になることは分かっていたから口には出したことがないが、リィザにはシアナの明るさも不思議だった。彼女とは仲の良い姉妹にはなれても、決して愛し合う友人同士にはなれないと思うのはこんな時だ。持っている性質が違いすぎる。
 けれどシアナが何くれと気をかけてくれることも本当だったから、シアナについてはよい先輩としてリィザは彼女を敬った。シアナにもそれは分かっているのだろう、時折かみ合わなくなる会話などには執着せず、構ってくれるのはそのためだ。 
 シアナは今までの会話のことなど忘れたようにリィザの髪をいじっている。細い指が器用にリボンと髪を編み合わせていくのを壁の鏡で見ていると、シアナを呼ぶ女将の声がした。指名の客とやらが来たのだろう。行きがけにしっかりしなさいよ、とリィザの背を軽く叩いてシアナは待合室を出ていった。
 取り残されて、リィザは赤い河のような通りを見やる。そこを流れていく人の波はそぞろに陽気で、これからの夜を楽しむつもりの男達の期待感が見えるような気さえした。
 ふっと溜息をつこうとしたとき、隣にいた遊女がリィザの膝をつついた。女将が自分を呼んでいるのが聞こえた。
 待合室を外から見かけて時折は指名する男もいたし、特に敵娼を指名しない客に女将が空いている遊女をつけることもある。仕事に直接関わらないことは大抵昼間自室に呼んで話をするのが女将の癖だったから、客に違いなかった。
 待合室から出ると、女将が機嫌良く頷いた。その奥に立つ男には、見覚えがある。
 リィザは一瞬翳りそうになった面輪を、会釈のようにして伏せることで誤魔化した。
「指名だよ、リーナ。旦那様をご案内おし」
 女将の声に頷いて、リィザはディーに淡く微笑んでみせる。笑いかけることが出来る程度には、馴染んでいる相手だった。
 ディーはいつもと同じくそれに合わせるように笑う。その笑みには確かに情のようなものが滲んでいる。彼が外で何をしているのか薄々知っていても、リィザの元を訪れるときには血生臭い気配は消すように努めてくれるのはありがたかった。リィザの臆病さも物怖じする性格も、半年も経てば分かってくるのだろう。
 部屋へ入るとディーは服の前ボタンを片手で器用に外した。リィザは彼の背後に回り、上半身を覆っていたシャツを肩から剥がすようにして脱がしてやる。よくついた筋肉があがる右肩に比して、左側にはそれはない。人の体を造り上げる血肉の鎧の替わりに、金属の留め金がにぶく光を反射している。
 機械人という名称は後になってから聞いたが、失った身体の一部をこうして補うことは時折あった。金額によって多少は機能にも差があるが、彼の腕は安くはない部類に入る。その証拠に、簡単な動作なら胸筋と複合させた疑似神経の働きで単独で動かすことが出来た。
 が、腕はそれなりに重く、動かすのにも労力が要るために、神経を休ませるべき妓女の部屋では大抵外してしまうのだとディーは最初の晩に言った。
 今日もその言葉通り、腕を外しにかかっている。手伝うのも初めてではなかったから、リィザはいつものように彼の右手の届きにくい左肩の後の留め金をあげて腕を身体から分離した。ディーは礼のつもりなのだろう、リィザの頬を軽く撫でると寝台の脇の椅子に腰を下ろした。食事は、と聞かれてリィザは済みました、と答えた。それは嘘だったが、先の客が帰った後の気の重さなどで食べる気にはならなかった。
「……お前さんは会うたびに痩せていく気がするな? 大丈夫か」
 彼には気遣われてばかりだとリィザは苦く微笑み、はい、と頷いた。
「水揚げの頃とあまり体重は変わらないんです。ディー様が心配下さるから、そんな風に見えてしまうんでしょうか」
 リィザはディーに気を遣わせたくなかった。本来気遣いをするのは自分の役割であるはずなのに、逆のことをされると気恥ずかしい。但し痩せているというのは本当だ。体重が変わらないというのも嘘ではないが、背が伸びていて、相対的には痩せている。
 ディーは体格のことにはそれ以上触れなかった。リィザが痩せ気味なことを自分で気に病んでいるのを察しているのだろう。こんなところでこの男の優しさを知るにつけて、彼に対して何故もっと心が開いていかないのか、自分で不思議になる。それは数少ない常連客といえる男達全てに共通することでもあった。
 リィザの特性なのか、彼女を気に入って時折通ってくる男達は優しい。多分それはリィザ自身が怯えなくていい空気を持っている相手であるからだろう。相手を怖がっているときの自分の弱々しい怯えに怒りを覚えたり白けて苛立ったりするような男は、まず二度と来ない。
 食事を終えたディーと雑談などに興じていると、遠く鐘が鳴ったのが聞こえた。これは日の最後の鐘だ。雪崩のように遠く幾重にも拍っているのがわかる。
 ディーが天窓を見上げ、時間だな、と呟いた。リィザは一瞬ぴくりと肩が痙攣したのを感じ、それには気付かなかったように部屋の灯りを落とした。
 この最後の一点鐘を合図に妓楼の娘達は闇に潜り込む。妓楼の扉も閉められて、これ以後は翌日の開棚までは客は中にはいることは出来ないことになっていた。
 周辺の妓楼も規定によって同じ行動をしつけている。だから、夜半の一点鐘の後は、赤い格子の町であることが信じられないほど青く澄んだ夜が天窓から差し込むのだった。
 寝台の脇の小卓に残した油皿の炎だけが揺らめいている。ディーが黙ったまま自分を引き寄せて、丁寧に髪をほどいていく。彼の指が自分のこめかみ辺りから髪の中へ入る。ゆっくりと頭部の輪郭をなぞる。
 リィザは目を閉じて、じっと息を潜める。自分が情けなくて、ただ彼に申し訳が無くて、涙がこぼれそうになる。彼のことを嫌ったことなど一度もない。ディーは出会った頃から彼女に辛く当たったこともなかったし、声を荒げたことさえない。
 だのに、心安いはずなのに、身体のほうはいつものような苦痛の予感に強張ってどうにもならない。彼に申し訳ない、悪いという罪悪感はあるのに、それは少しも胸の中からこぼれてこなかった。
 片腕の欠損の為に、ディーはいくつかの要求をいつも囁く。それに頷いて従って、やがて彼の身体が自分に被さると、リィザは現実的なものと罪のものと、両方の重みに耐えかねるように吐息になる。それが何かの加減か、男が快さのものだと思いこんで一言二言、呟く言葉にリィザは答えない。ただ、没頭するふりをする。
 自分は勤勉な女優のようだと思うのはこんな時だ。けれど、勤勉であればあるほど惨めな気持ちになる。一体これはどうしたら解消するのか、それとも一生自分について回るのか。
 一生この妓楼の中にいるという仮定がちらっと脳裏をかすめ、リィザはその想像の荒涼さに呻く。
「……どうした」
 かすれた声が自分のごく近くに聞こえる。いいえ、と首を振ってリィザは彼の首に腕を絡めて引き寄せた。彼の唇が自分の首筋を確かめるようになぞっている。
 ディーの視線が自分のひどく醒めた表情に向かないようにして、リィザは天井の方向を見あげた。
 天窓に映る月。その青ざめた色をじっと見つめ、リィザは待っている。───朝を。解放される時間を。しばらくは放心していられる、その瞬間を。
 いつか彼を愛せるだろうかという問いには答えがない。けれど待ち続けている。誰もがいうように、愛し、愛される、その相手を。全ての苦しいことから解放されるはずの、その愛を。
 それがこの男になるかどうかは分からない。もしくは彼の腕の中でそんなことばかり考えていることが答えかも知れなかった。
 でも。リィザは溜息をつきそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。
 いつかという魔法があるのだと、自分に言い聞かせていればそれを遠い明日には信じることが出来るだろうか。いつか誰かと巡り逢うだろうか。いつか誰かを愛するだろうか。自分に欠けているのは恐らくそれだ。
 全てを怖がって閉じこもってしまいそうになる心、追憶と現実の間でばらけて砕けてしまいそうな自分、それをまとめてあげてくれるたった一つの力。
 その魔法を、いつか。
 相手がディーであるならそれも良かったが、今はこうして彼の肩越しに月を見上げる勤勉で怠慢な娼婦だ。リィザは目をすがめた。天窓の月がやわく歪んだ。


探してよ
波間にさすらう魂と 私の欠片をいつの日にか



 まばらな拍手が酒場に起こる。伴奏の竪琴がひときわ大きく込み入った和音を奏で、それはやがて一段高くずれた主旋律を導き出す。
 歌い女はそれに頷き、豊かな胸に手をあてて深く息を吸い込んだ。
 てらてらと安く光る口紅の色が、開いて溢れてくるのは───歌。
 女は歌う。
 あいのうたを。


  生まれつきの海鳥たちが うたいつづける、魂は
  お前がどこかで捨ててきた 真珠のような、涙と似ている

  私は今宵もお前を呼ぶ
  お前を呼び戻す為に うたいつづける、海鳥の歌

  愛してよ
  お前の全てをなげうって
  愛してよ
  お前の胸の中にあるはずの
  愛してよ、愛してよ
  流れる血潮 その最後の一滴までに刻んでよ
  愛してよ、愛してよ
  お前の胸に届くまで 叫び続ける、私の声で
  繰り返し、繰り返し
愛して欲しいと、かもめたちはうたう


 ……やがて夜は更けていき、女の歌は記憶の中へ放り投げるようにしまわれる。酒場女は常連客の愛想に頷いて、彼らのおごりの酒をあおった。
「……彼女は昔、どこかで歌を?」
 男は聞いた。酒場の主人はさあねと笑った。
「こんなのは流行歌だからね。劇場に出ている女がこんな安い歌を知っているなんぞ、聞かないね」
 主人の言葉はもっともであった。男は苦笑し、酒と女へ渡す小銭を置いて店を出た。
 外はまだ、夜の半ば。夏の宵は短いが、それをひたすら楽しみ尽くそうとするための赤い格子の町はまだ眠らない。男は僅かに溜息をつき、雑踏の中へ紛れていった。


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