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 空間転移から抜けて現実へ出る瞬間は、いつも極彩色の悪夢を見る。胸が悪い。それまで水中にいたような身の重さがふっと消えて空間へまろび出るような感覚と、僅かな座標の誤差のために、クインは転移から降りるときは大抵転倒した。勿論そのために、転移から抜けてくる場所は彼の部屋の寝台の上になっている。いつものようにそこにどさりと勢いで転がり、クインは吐息を漏らした。
 魔導で空間を渡る時の酩酊感はいつまで経っても慣れそうにない。身に馴染んだ悪寒を喉で宥め、クインはのろのろと寝台に座り直した。襟元に柔らかく結んだスカーフを引き抜いて首を楽にすると、自然と溜息が零れた。
 母さん。呟きは既に少年としての落ち着きに戻っていたが、一度覚えた動揺はなかなか静まってくれそうになかった。母が言いかけた罪という言葉が、払っても払っても重く蘇ってくる。
 ―――罪の話を聞いて貰わなくてはいけないわ。私は聖女ではないのよ。
 クインは頬を歪める。彼にとって母親の聖性は絶対で、世界で最も美しいものであった。そこが汚されることへの怖れは根深く彼の中に居着いている。
 母が15になったらと期限を切った夜から、自分は一度も真実を尋ねなかった。髪の青が少しでも覗く日は、閉じこめてでも外へ出さなかったような頑とした人であった。はっきりと口に出したことを、撤回する人でもない。
 それに流転の最中の母の怯えように、不用意に聞いてはいけないことなのだとクインはいつしか悟っていった。母を悲しませ恐れさせるものこそが幼い流転の日々に知っている一番の敵であったのに、自分が同じ事をしようなどとどうして思えただろう。
 それでも10才の秋に彼の分裂した運命に出会った瞬間、逃亡の理由の方はするするとほどけていったのに、肝心の動機は却って絡まってしまった糸のようであった。
 尋ねなかったことが今更正解だったと安堵するのは自分が逃げているせいだろうか。母が言う罪とやらが真実許されざるものならば、そんなことは知りたくないのだと思っているのは否認という罪だろうか。そして何よりも、母の元から帰ってくる度に募る、渇仰のような思慕をどうしたら。
 母親の腕の温かみを知っていた時代から急に放り出されてしまったからなのか、クインはそれに巧く対応できない。ふと気づけば人肌の恋しさ故になのか、気に入った客には最初の頃より甘い態度をとっている。
 それを認めざるを得ない夜は、ひどく打ちのめされた、惨めな気持ちになった。クインは記憶から吹き上がってきた沢山の痛みをこらえるために唇を噛んだ。
 誰か。胸の奥からかすかに聞こえてくる声を、クインはいつも遠くに聞いている。ミシュアの海から駆け上がってくる潮騒と似た、心ざらめく悲鳴のようなその声を。
 誰か、誰か───お願いだから……───
 その後の言葉が何であるか、クインはいつも聞かない。そんなものに耳を貸してはいけないのだということだけがわかっていれば十分だった。
 母の不調は仕方がない。それを救うためにはこれしかなかったと納得はしている。けれど心の中にある痛みまではどんなに慰撫しても頑として折れなかった。そのために皇子を憎むのは間違っているなら、あとは自分を厭うしかなかった。
 クインは寝台に座り込んだまま、片手で顔を覆い、そしてもう片方の手を自分を抱くように回した。誰か。耳の奥から何かが囁いている。
 母の腕に巻き取られて幸福だと思っていた日々が遠い。あの頃のように誰かと何の見返りも打算もなく、ただ愛のためだけに手を取り合うことは自分にはもうやってこない気がしてたまらない。そんなことを考えただけで、震えがくる。母を失いたくない。彼女をどうしても自分の元から無くしたくない。
 マリア=エディアルと名乗っている彼女の正体も罪とやらの内容も、どうでもいい。彼女だけが自分を真実愛している、この世でたった一人なのだ。
 クインは顔を覆っていた手を外し、今度は両腕でしっかりと自分を抱いた。外は夏のぬるい黄昏で、寒さを覚えているわけではない。けれど、そうでもしていなければ自分がいつまでも震え続けなくてはいけないようで、居たたまれなかった。
 長い溜息が、床に落ちていく。
 客はその欲求に従ってクインの内面には無頓着、それがましな言い方であるならば無神経だった。そう振る舞う権利も他の娼婦たちなどと比較にならない金額に含まれているというなら間違いではあるまい。それにいちいちつきあう義理もないと反発を覚えたのも最初だけだ。
 物として扱われることにクインは慣れた。極上の人形のように仮想の天使や悪魔のように客たちは彼を愛でたが、それはすべて彼の表面を滑り落ちていくもので一晩たてば忘れるもの、朝の水浴と共に流れて消えていくものとなった。
 それでよかった。彼らの勝手な幻想や妄執に関わるよりも、自分は物であるのだと暗示して天井の模様を数えている方がよほどましだった。
 けれど、そうして頑として無機質を装った心をしどけなく解放する場所が、ついに見つからない。以前は母が彼の負荷を柔らかに吸い取ってくれていた。幼い頃に涙を唇でついばんでくれたような暖かさがいつでもクインの還る場所だった。
 それはもう身近にはいない。抱きしめようとすると離れてしまうようになった。その寂しさを、その度に胸を突かれるような痛みを、感じないようになるにはどうしたらいいのだろう……
 誰か。胸の奥から何かがこみ上げるように聞こえてくる。
 いつかおまえを愛してくれる人を、おまえが愛する人を見つけなさいと母は言った。それはおそらく正しいのだろう。自分には誰もいないのだと思うときはこんな時だ。
 それを当初クインはライアンに求めようとした。ずっと昔彼が彼でいられる場所を作ってくれた男、クインの望みを叶えてくれた男。
 ライアンにこだわるのは彼がクインの状況や事情を考慮することが出来る男であったこと、昔からクインを一段下として見ずにほぼ対等に相手をしてくれた男であったことが大きいだろう。
 特に4年前帝都にいた頃はクインはやや年上に見えたとはいえ10歳の子供で、ライアンは18か9だったはずだ。ライアンの正確な年齢は本人も知らない。
 この場合、8の年齢差は大きいはずであった。ライアンは既に少年期の終わりにおり、自分はそこへ踏み出す時期であったのだから。だがライアンは彼を子供扱いにはしなかった。クインが語る継承戦争を勝ち抜くための方策に価値があると認めてからは尚更クインの話をよく聞いてくれた。
(俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ)
 帝都から逃げ出す日にライアンはそう言った。それは彼の信頼と感謝の印だった。ライアンの多くはない言葉の中に籠もる真摯を嗅ぎとって信じたからこそ、クインはライアンを頼って帝都へ戻ったのだ。
 だが数度の関係を持った後はライアンはクインを以前ほどは寄せ付けなくなった。ライアンがタリア王の側近でありタリアの自警や派閥抗争に既に深く関与している以上、時間がとれないのはあるいは不可抗力であろう。
 が、ライアンから訪ねてくるときも淡々と最近の様子を訪ねるくらいで、クインの訴えようとする言葉にはほとんど頓着しない。適当にあしらわれ続け、クインはライアンのことを考えようとすると反射的に苦い怒りがこみ上げてくるのが最近になりつつある。
 チアロはライアンが十分に自分に目を向けていると言うが、どこが一体そうなのか自分にわからないなら全く無意味だ。
 ライアンか、と呟いてクインは自分を抱いたまま舌打ちした。彼が何を思っているのかわからないのは昔からだが、それがこんな根の深い苛立ちに変わることを、クインは自分で持て余している。
 苛立つ波は次第に強くなっている。心の中に荒れる海を見る日には、何をしていても神経が尖って落ち着かない。自分でも幼いと承知しつつ、だがどうしようもなく焦がれている。待っている───誰か、を。
 そしてそれはライアンではないのだろう。苛立ちを収め寂しさを埋めるためだけに彼に縋り付こうとしたとき、ライアンは彼に言った。
(俺はお前の保護者でも愛人でもない。俺を特別にしようとするな、お前はただ勘違いをしているだけだ)
 その時なんと答えたかは忘れてしまった。ライアンが自分を突き放したことだけが絶対の現実だった。
 現実はクインにはいつも辛く苦く、そして痛い。勘違いという言葉で示されたライアンのはっきりした拒絶を、クインは思い返す度に激しい怒りに襲われる。
 ライアンは俺に関わる気がないのだ。4年前と同じく、仲間とは決して認めず頑として一枚壁を隔てた距離をとる。時間さえも惜しいのか、滅多に姿も見せない。それが自分の抱える秘密のためであるのか、それとも自分の中にある何かの要因のせいなのか、クインはわからない。どちらであっても現実が動く訳ではなさそうだった。
 4年前に彼の側にいた頃は、ライアンは素っ気はなかったがクインのことをよく気にかけ、救ってくれた。それは自分が子供だったからか、それとも継承戦争を勝利するために彼にいくつかの助言を与えたからなのか。
 けれど、役に立ったからというのならばその理由は今クインの身体を通り過ぎていく男たちと同じ、彼をただの小綺麗な小物のように扱うことと変わらない。ライアンからはその無機質さは感じたことはなかった。彼は良くも悪くも、自分の思惑に忠実にクインを遠ざけている。
 そこへ思い至りライアンの冷淡さについて考えるとき、クインは怒りと苛立ちを濃厚に眷属として持つ寂しさを感じずにはいられない。チアロはクインにとって大切な友人であり気安く心を許せる希有な相手だったが、ライアンは友人ではない。かといって確かにライアンが言うように愛人でも保護者でもなく、まして主人でもなかった。
 彼は一体自分の中の何であろう。こうして彼のことをつらつらに考えていると、彼にまるで恋するようだとクインはふと思い、苦く唇だけで笑った。それは恋ではなかった。愛というものも違う。
 けれど、彼の視線が向かないと知れば身を切られるほどに欲し、得られないと知れば焦がれるほどに切なく、悲しい。それをどうにかして彼に理解させたいはずなのに、気づけば彼に嫌味をいい、八つ当たりをし、不機嫌に鼻を鳴らすことしか出来ていないのだった。
 ───でも、ライアン。
 クインは長い溜息をつき、身体をゆっくり寝台に横たえて目を閉じた。転移の時の眩暈も悪寒もまだ身体の底辺に残っているようで、ひどく応えた。
 でも、俺は、淋しいんだ。
 生活の不満や仕事の鬱憤などではなく、友人の不在などでもなく、ただ、───淋しい。
 母の腕の中にいてぬくやかに守られていた時代から突然身ぐるみを剥がされて世間に転がされたせいなのか、暖かであったという記憶のままに、還りたい場所を探している。
 自分が求め求められる場所へ。誰かと見つめ合いながら微笑みあいながら、幸福をしっかりと感じ取れる心の棲家へ。還るための道を、共に歩く相手を、探している。
  ─── 一人では、あまりに淋しくて。
 淋しい、と呟けばそれが真実のような気もした。それを和らげる役割を彼に求めるのは間違っているのだろうか。ライアンは暗にそう示しているが、クインはライアンの意志には気付かないふりをし続けている……
 閉じた瞼の裏が滲むようにじんと熱い。クインは枕にあ顔を押しつけ、声を殺してわずかに泣いた。食いしばった歯の隙間から漏れる吐息が、震えている。
 淋しい、淋しい、母さん、俺から離れていかないで。
 俺を一人にしないで、置いていかないで。
 脳裏を巡り回る言葉だけが、世界のすべてのようにのしかかってくる。誰もいない部屋で一人で泣くときでさえ、大声にならない逼迫が、今のクインの全てだった。
 ……そうして寝台にうつぶせてしばらく体を震わせていた彼の耳に、扉が軋む音がした。誰かが入ってきたらしかった。
 クインは素早く身を起こし、目元をこすった。涙はほとんど止まっていたが、痕跡を他人に見せるのは何があっても承諾できなかった。
 この家に出入りしているのはライアンとチアロの二人だけではない。チアロ一人では結局手が回らないこともあると結論したライアンが彼の側近から一人、オルヴィという女を時折寄越す。ライアンは夕方近いこの時間は大抵タリア王屋敷だから、チアロかその女かのどちらかであろう。
 オルヴィはライアンの性質に近い、暗く陰気な女だ。だからという訳ではないが、クインは彼女を苦手としている。ライアンに輪をかけて口数が少ないのもそうだろう。彼女に泣き顔を見せるものかという奇妙な意地でクインは尚更平静を装うように呼吸を整えた。
 簡単に扉をたたく音がして、寝室の扉が開く。よう、という軽い挨拶が耳にした瞬間にチアロであることを悟り、クインはやや息を戻した。
「転移してきたばっかりだろ、顔色悪いぜ」
 そんなことを言いながら気安い表情で近寄ってきたチアロは、だが彼の手前で足を止めた。いつも明るく翳り無い表情に、一瞬さっと怪訝な線がよぎる。クインははっとして顔に手をやろうとするが、その華奢な手首をチアロが素早くつかんだ。
「……泣いてたのか? どうした、お前の母さんに何かあったのか」
 彼の声音はなだらかに暖かい。その温もりに溶かされたように、一度止まったはずの涙がふとこぼれた。
 瞬きに頬を転がり落ちていく水滴の数をぼんやり数えていると、チアロが彼の隣にすとんと座り、肩に腕を回して彼を引き寄せた。
 チアロの大きくて骨ばった手が子供をなだめるように頭を撫でている。彼の仕草にクインは消え入りそうな嗚咽をこぼして友人の肩に顔を押しつけた。チアロは彼に先に聞いた以上のことは何も聞こうとしなかった。クインの気が済むまでこうして彼を捕まえているつもりなのだ。チアロが自分を追いつめないことは、クインにとっては安息であった。
 チアロはよく知っているのだ。クインの気分の上下が激しいときはクインにとってひどく心痛い何かがあったときで、この頃は療養所から帰ってくる度にこんな風に滅入って気怠く鬱に沈むことも。何も追求せず何も要求しない彼の優しさが真実胸に染みた。
 ───淋しい。
 それでも身の内で吠え回っている声はどれほど貪欲なのだろう。わずかな仕草や時間で癒されることに激しい抵抗を叫んでいる。淋しい淋しいと訴える声に半ば押し切られるように、クインは顔を上げてチアロの首に腕を絡めた。
 ───淋しい。
 自分の中で何かが決壊したように、それだけが流れてくる。声が背を押すような感覚にとらわれて、クインはそっと唇を彼に近寄せていった。
 吐息が交わされるほど近くになる。チアロの肌の温度までが唇で感じるような錯覚を覚えた瞬間、それがすっと離れた。クインは視線を友人に与えた。何故か彼の方が泣き出しそうな顔をしていた。
「……クイン」
 チアロは彼の名を呼び、肩をつかんでゆっくり揺すった。
「俺とお前は友達だ。俺は、友達と、こんなことはしない……分かるか?」
 クインはゆっくり頷いた。チアロの声はひたすらに静かで、穏やかだった。クインはもう一度頷き、分かる、と呟いた。
「ごめん、もうしない……」
 付け加えるとチアロは眉根をよせるようにして切なく笑い、彼の肩を軽くたたいた。
「俺とお前は友達だ、いいな。何があっても俺はお前を見捨てない、約束する」
 クインは頷いた。チアロの言葉も眼差しも、疑うことなど出来なかった。それを切り捨ててしまえば、今持っている数少ないものをさらに失うことになる。
 その恐怖を一瞬ぞっと背中に覚え、クインは俯いた。衝動が過ぎ去った後は、増して荒涼とした気分になる。
 黙ってじっとあらぬ方向の床を見つめていると、チアロの苦笑のような吐息が聞こえた。
「……なあ、気休めみたいなことでしかないけど、お前、女の客でも取ってみるか?」
 クインは怪訝な面もちで友人を見つめた。今まで寝てきた客は夫婦が二組あっただけであとは全て男であったのだ。女の客、という耳慣れない事象にぽかんとしていると、チアロは数は多くないんだけどね、と付け加えた。
「でもいないことはないんだよ、春先から5人くらいは聞かれてる。ほら、夫婦にお前を入れたことがあったろう。あのときの奥さんあたりから漏れたんだろうな。……気分くらいなら変わるかもしれないぜ、男相手と違って女だったら主導権も取れるだろうから」
「うん……そう、だな。そうする。そうだ、それもいいかもしれない……」
 男たちが自分に加える身勝手で気ままな愛情に似たものを、別の形で他に吐き出す行為であることを薄く承知しながらも、クインはその話に深く頷いた。あるいは、飛びついたと言ってもよい。
 母が抱えている暗部を思えば恐ろしく、自分の中にとぐろを巻く怒りは悲しい。
 この二つに翻弄されるだけでこの先の時間を埋められていくのかと思うと、胸が潰されそうになる。頼む、とクインは低く呟いた。どんなものにでも、縋り付けば楽になると思っている自分自身を厭いながら。
 ───やがて日は落ちて、クインは身支度を整えて地下水路からタリアへでた。
 涙の痕跡も荒れた心の海も全てが彼の堅い殻の中へ仕舞われて、この世で一番美しく圧倒的で、そして生身でないものになる時間がくる。
 いつもの貸し部屋の主人は彼を見て曖昧に笑いかけ、そして一抱えもある深紅の薔薇の花束を押しつけた。一体何かと目で問うと、あんたの前の客が届けてくれってさ、と主人は言い、今日の客への牽制だろうと苦笑する。
 独占欲の証左である薔薇の花を抱えてクインは最上階の部屋へと階段をのぼる。鼻腔からむせるような甘くきつい香りが身体に吸い込まれていくようだ。
 部屋が決まっているのは事前にチアロかオルヴィかが隠した写真機などがないかどうかを確かめやすいからだが、おかげでとうに天井の模様は数え終わってしまっている。次からは何をしようかと考えながら、クインはいつものように部屋の扉を3度叩いた。少しの間をおいて扉が開く。中に足早に入り込む彼の肩をつかみ、男は花屋は呼んでいないと言った。
 クインは振り返り、抱えた花束をずらしてちらりと男を見やった。この男は今日初めて見る顔だ。それがみるみる上気していくのに微かに笑い、そして今度はまっすぐに男へ視線をやって婉然というように唇をゆるめた。
「でも……今夜の花は買ったでしょう?」
 そんなことを戯れに口にしたとき、男の強い力が自分を抱きすくめた。腕から花束が転がり落ちる。ふわりと舞い立った強い香りに喘いだクインの視界の端に、男が踏みにじった薔薇の花弁がとまった。
 今夜はあれを数えようかとクインは思いつき、先を急ぐ男の身体に腕を回した。



抱いていてよ
お前の持てる両腕の その長さが余らぬように


 夜を往く人々の間をか細く縫って、小さな酒場から歌が聞こえてくる。流れ豊かな雑踏の中、小魚が泳ぎ渡るようにその歌は誰かの耳をかすめゆく。それはもう若くはない女の声。けれど人生の不確かさと悲しみを知っている声音。どこか突き放した他人さが気楽で、だが誰もが覚えのあるような温もりが懐かしい。
 女の歌にふと足を止めた通りすがりの男は一瞬迷い、おぼろな光がこぼれてくる酒場へと足を踏み入れた。主人らしい初老の男が目で好きなところに座るように促して、席に着くとほぼ同時に女が次の一節を歌うために深く息を吸い込んだ。
 女は歌う。あいのうたを。




愛からはぐれた海鳥たちの 叫びは風に紛れゆく
 流浪い彷徨い鳴き立てて 戻らぬ人を呼び続け
 お前の耳にも流れてくる? 慟哭のような、海鳥の歌

 帰してよ
 お前の姿が世界から 消えてしまったあの日まで
 むせかえるような血臭の中にライアンは立っている。彼の足下に転がる、ほんのさっきまで人間だったものは既に動かない。僅かにあがった呼吸は疲労のためではなく、ねっとり汗ばむような歓喜のためだ。息を深く整えながら、その度にむら立ち上る血液の残り香の中、ライアンは今、うっすらと笑っていた。
 呼吸ごとに鼻腔から全身に回る血の生臭さが自分を今、満たしている。握りしめた細刃刀が痙攣している。たった今殺したこの相手の最期の悲鳴や彼をにらんだ目つきや、そんな記憶を目の裏に呼び戻そうとライアンは目を閉じ、僅かに身を震わせた。
 それは彼にとって快楽であった。他人の前に命を奪うために立つ、その瞬間の憎悪さえ悦楽だ。背中を駆けていく一瞬の戦慄も、時折は身体に加えられる痛みでさえも、ぎりぎりの相克のなかにあればライアンのための麻薬と変わった。
 陶然とした甘美を咀嚼するためにライアンは手袋をしたまま両手をじっと見やった。黒い皮の手袋にヒルのようにこびりついているのは相手の皮膚だ。最近は相手を苦しめるために一息には殺さず、苦しむ方法をまさぐりながらゆっくりと奪い尽くすことが多い。
 僅かに手袋についていたそれをライアンは指先でこそげとり、その場に捨てた。この相手には恨みどころか面識もなかったから、既に彼はこの快楽から醒めかけている。何の感情も持たなかった相手ではやはり現実へ戻ってくるのが早い。
 ライアンは手袋の先からのぞいている指先をちろりと舐めた。細刃刀は菱形のむきだしの両刃だから、使うときは指先のあいた手袋をする。
 血の匂いは陶酔の極みにあるときの甘さを既に失いつつあった。ライアンは舌打ちした。
 死を与える瞬間に自分を高い位置まで引き上げてくれる歓喜は、やはり何かの思い入れがある相手の方が強い。嫌悪程度でも数日は記憶からゆっくり引き出して楽しむことが出来るのに、真実憎んでいたり愛していたりすれば、自分はきっと気が狂うに違いない───脳髄ごと犯される、快楽や背中合わせの悲痛のために。
 ライアンはふっと吐息を漏らした。今でさえ、クインであれば彼を見て狂っているというだろうか。あれの中の天秤はまだ水平だ。水平を知って常にそこへ戻ろうとしているから均衡をとろうとして振り幅が大きい。
 ライアンは長々と嘆息した。僅かな時間彼を支配していた熱狂的な高ぶりは既に散り散りになり、残滓はかえって気分を悪くする。眉をひそめて細刃刀の刃尻から鋼糸を抜こうとした。
 鋼糸を残すのはライアンが自分の仕業だと宣言するための方法だ。誰の仕事であるのかを知らせる場合にはみな、自分なりの方法を持っている。
 だが興奮はまだ身体の方には残っているらしく、指先が僅かに痙攣していてなかなか糸をはずせない。苛立ちが次第に募ってくる頃、他人の気配が背後からした。
 ライアンは振り返らなかった。その気配の主が誰であるか最初の足音を聞いたときから分かっていて、それは自分の服従者だったからだ。
「どうした、チアロ」
 巧く動かない指先にじれながらライアンは言った。チアロが微かに溜息になったのが聞こえた。肩越しに視線を一度やると、チアロは顔をしかめて彼の足元を見ていた。
「見る度にひどくなる───ライアン、大丈夫なのかよ」
「何が」
「何がって……あんただよ。頭、大丈夫」
 さあな、とライアンは素っ気なく応じた。チアロの嫌悪も次第にひどくなる。無論それは自分が誰かを屠る仕業が次第にむごくなっていることに対応しているのだった。
 興味のなさそうな彼の返答にチアロはくしゃりと顔を歪めて、面白くないと表現した。ライアンに向かってこれほど明け透けにするのは今はチアロくらいのものだ。ライアンはそれにとうに気付いていて、だからチアロの不満も反抗も、不愉快ではなかった。それに配慮する気がないだけなのだ。
 チアロは大人びた仕草で肩をすくめ、ライアンに歩み寄った。誰かを手にかけてまだ完全に甘美な夢から戻っていない彼に向かって警戒心なく近寄ってくるのもまた、チアロだけだ。並ぶと背丈はほぼ同じだ。僅かにライアンが彼を見下ろす格好になる。それを意に介さないという風で、チアロはライアンの手にある細刃刀をつまみ上げた。今までほどけなかった綱糸を簡単にほどき、チアロが彼の手からそれを振り落とす。血溜まりの中にきらりと光りながら、綱糸が浮き上がった。 
 ライアンはそれを一瞬みやり、そして肉塊をつま先でよりわけて左手であった部分を拾った。死してなおまだ握りしめている拳をむりやり開く。中に籠められていたのは1本の鍵だった。
 これだな、とライアンは呟いて新しい綱糸を鍵に通し、腰のベルトにくくりつけた。視線でそれが何かを問うているチアロには首を振った。
「お前はまだこちらのことに首を入れなくていい。チェインの方を固めておくんだな」
 チアロは唇を尖らせて分かってるよ、と言った。そうした表情はチアロがライアンの元に来た頃から変わらない。やんちゃ盛りの子供と同じ顔を今でも彼の弟分はする。
 そしてライアンはそれを甘いと苦笑しても、決して侮蔑や嫌悪にはならない自らの胸の作用を知っていた。
 チアロと話していると、いつも心のどこかが淡く弛む。それを自覚できる程度に血の色をした白昼夢から醒めてくると、やっとこの場に立ちこめる生臭さがむっと気分を悪くしたのが分かった。
「話があるなら歩きながら聞こう」
 ライアンは既に身長では彼に追い付きつつある部下の頭をぽんと軽く叩き、歩き始めた。
 僅かに遅れたチアロが彼に並ぶ。路地を一つ通り過ぎるまで性質に反してほとんど無言だったチアロは角を曲がるときに背後へ一瞬視線を与え、大きく呼吸をした。
「ああ、気分悪い。ライアンよくあんな中に立ってられるよね? おまけに見るたびになんか気味悪く一人でにやにや笑ってるしさ。ほんと、あれだけは頂けないよ」
 血の臭いが薄れたことで、やっと本来の気ままさのままにチアロがしゃべり出す。それを適当に耳に流れ込む側から捨てていると、ほら、と明るい声を立てて少年が笑い出した。
「ライアンは興味がないことは片っ端から聞き流すんだ。せめて聞いてますって顔でもして適当に真剣に頷いてればいいのにさ。興味がないので聞いてません、って思い切り顔に書いてある」
 チアロの言葉にライアンは唇を少しゆるめ、首を振った。チアロのように何事にもせわしなく反応するだけの、何かがこの世にあるとは感じられなかった。自分を取り巻く世界に色素は薄く、ほどんど無彩色の平板な視界だけが全てだ。
 そこに何らかの色が入るとしたら赤だ。それは血の色だ。命飛び交う血しぶきの中でだけ、自分が現実を生きているのだという強烈な実感を得ることが出来る。それに比べたら他のものはなんと薄く白けているのだろう。
 何もかも、黒白の点描のようにしか見えない。過去を追想しても、やはりそれは同じだ。そしてそこに入り込む色もまた同じく赤い。彼の永遠の主人であり、これからもあり続けるであろうリァン・ロゥの髪の色。
 ふと溜息になったライアンの腕を軽くつねり、チアロは声を上げて笑った。この少年がそんな仕草をするときは、自分の正気を咄嗟に引き戻そうとしているのだ。ライアンは大丈夫だと口にして、チアロの肩を軽く叩いた。
「……ライアン、ねえ、本当にさ。俺のことやチェインの他の連中のことはいいけど、クインの話だけはちゃんと聞いてやってよ。俺たちはあんたが王様だから、王様のなさることには関与せず、だけど。でもクインはあんたの臣下じゃないんだろ? あんたがそう扱うから、あいつもそう思ってる」
 ライアンは頷く代わりに長く嘆息した。クインの語った本来の出自とやらがどこまで真実であるか、今はまだ定かではない。だがリュース皇子との相似は尋常ではないことであるという認識はあった。クインが双子なのだというなら、それは信じてもいいだろう。
 兄弟順などは些細なことだ。要は大貴族と国家の中枢へつながる糸へ彼が変化する可能性があるということで、それが重要であった。だからこそクインのしたいことはさせてきたし、ある程度自分の感情などを押し込んでつき合ったこともある。正直、ライアンは性的な対象としての男には興味を感じない。女であっても少女と呼ぶような年齢にはあまり衝動が起こらなかった。少年となると尚更だ。
 クインのあの我が儘と呼んで一蹴すべきだった願いを聞き入れ、数度の関係を持ったことで、ライアンの中でクインとの契約は終了した。半ばは義務感でもあったのだが、けれど、クインの方はまだ終わっていないと考えているらしい。
 客にひどくむごたらしく扱われて寝付いた時でさえ、流石に様子を見に顔を出したライアンに向かって手を差し伸べたではないか。
(ライアン、来てくれたんだ? なんか、久しぶりに見るね……)
 他愛のない言葉とは裏腹に、彼を見る視線の縋り付くような光は強かった。それにどうしたのか竦んだように怯んでしまい、彼に近づくことさえ躊躇われた。
 クインが時折発する、飢えて泣く猫のような声音に絡め取られてしまってはいけない。あれに耳を貸してはいけない。誰かに深く荷担し手を伸べるということはライアンにとって、彼の全てをそれに賭けるということと同じだった。
 クインを自分の特別の位置に置くことは断じて、してはならない。クインは彼の契約の相手であって、過去の感謝の印を渡しているのであり、それ以外でも以上でもないのだ───ということを自分に言い聞かせ続けている。
「……あれはまだ何か言っているのか」
 クインのことを考えると否応なしに気が滅入る。元来感情の隆没が少な目のライアンにとって、それだけでも特別ではあるのだ。
 その問いにチアロはふふんと鼻を鳴らし、自分で聞けばいいじゃない、と言った。これはチアロなりの当てこすりというものであった。ライアンは吐息をぬるめて笑い、首を振った。
「奴のことは放っておけ。いつまでも誰かに甘えていればすむ年じゃないだろう」
「誰もいないのもどうかと思うけど? だからライアン、あいつと話し合ったんだけどさ、今度から女の客もつけてみようと思って」
「……女か……」
 ライアンは曖昧な返答をした。女客を取らせて彼の感情の均衡をとるというチアロの提案は実はかなり前に聞いた。そのときは甘えさせるなと簡単に退けたものの、同じことをチアロが蒸し返したならば、クインは相当煮詰まっているのだろう。だが、気が向かないのは確かだった。
「……俺はそれには賛成しないと言ったはずだなチアロ?」
「でもライアンはその代価を支払わないじゃないか」
 クインの放置をきっぱりと非難し、チアロはライアンにきつい目線をくれた。一瞬それに目を合わせ、ライアンはやがて溜息と共に頷いた。
「……分かった、好きにしろ。但し、一人の女に深入りさせるな」
 クインが快楽の供給者として自分を買う女に興味を抱くとは思えなかったが、男と女の間には突然何が起こっても不思議ではない。クインが突然それまでの主張や過去を放り出して女との生活を選ぶなどということはさせてはならなかった。
 クインの顔を実際に見たことがある者は限られてくるが、チェインの幹部たちには存在自体は教えざるを得なかった。彼がライアンと密接な関係にあること、チアロが彼のために時間を大量につぎ込んでいることを幹部達に提示したことで、ライアンはクインへの手出し無用を宣言している。そんなことでもしてやらなければ、クインはチェインの中を歩くだけで身の危険を考えなくてはならないだろうから。
 だがそれはクインがライアンの持ち物だというのと同じ意味であった。少なくともチェインの中ではそうだ。チェイン王ライアンの所有物だから保証される。
 だからクインがライアンの庇護を蹴って遁走するなどということは、ライアンの体面に深い傷を付けることと同じだ。タリアもチェインも、最後は力だけが支配を正当化する。そんな場所において、現実はただ一つであった。
 ───舐められたら終わり。
 チェインの子供達の上に立つ身として、タリア王の幹部の中に座る身として、そんなことは断じて許すべきではなかった。実際問題としてその不安は薄いが、可能性はないわけではない。勝手はさせるなよと付け加えると、チアロは頷いた。この少年もまた、彼の系譜に連なり彼の思考を理解し手を貸す者であるのだ。
 同じ客は二度と取らせないこと、保険のためにこちらは写真を密かに撮っておくことをチアロは口に出し、ライアンに視線で許可を問うた。
 ライアンは頷いた。クインに関わるのはこれ以上は余分だという自身の中の警鐘を鑑みるに、それは渋々でも同意すべきだった。これを拒否すればチアロはクインへの時間をもっと割くようにと言うだろう。
 次の路地をすぎようとしたとき、チアロが足を止めた。ここで、という少年にライアンは苦笑気味に頷く。チアロはタリア王屋敷とそこにたむろしている大人連中が苦手なのだ。ライアンに連絡をつける以外では滅多に近寄ろうとさえしない。
 明日、とライアンは言った。翌日はチェインの幹部達から地場の様子を聞くためにライアンがチェインの煉瓦屋敷に必ず戻る日だ。チアロの煙草を買っておくよという声に頷き、軽く手をうち振って王屋敷へ歩き出す。
「ライアン」
 その背にチアロの声がかかって、ライアンは振り返った。彼の部下の表情は光源の向きのせいで淡い陰になり、よく見えない。けれど、いつものように朗らかに明るく笑っていないことは、空気だけで分かった。
「───リァンはもう還ってこないよ」
 その瞬間に、自分の肌が凍るように震えたのが分かった。
 その名は今でもライアンの支配を握っている。死してなお、ライアンの胸に呪縛を加える男。ライアンを拾い、彼にふんだんに笑顔と視線を与え、利害づくでライアンの心を自分に縛った男。
 その狡さを計算を、ライアンは既に知っている。だが、それでもどうしようもない。リァンは彼にとって父性の代弁者であり、神でもあった。その死から、4年を経過した今でも。
 ライアンは何かを言おうとし、そして沈黙した。リァンの死は既に乗り越えた。4年前の継承戦争時に、そうすることで彼はチェインの王となった。
 けれど、その後に心に残った甘い追憶と思慕だけは、捨て去ることが出来ない。彼の残像を追い、面影を踏み、その奇跡のような生が辿るはずだった道のりを自分の手で作り上げることに躍起になっている。
 チアロの言葉はあるいは非難の続きであった。けれど、それになんと返していいのかさえ、見当がつかない。クインが彼をなじるときの引き合いにリァンを出すのは許せなかったが、チアロの言葉にはそんな揶揄がないだけに困惑する。
 ライアンが黙っていると、チアロは吐息で笑ったようだった。
「リァンは戻ってこない。俺はでも、リァンよりはライアンが好きだよ」
「……チアロ」
「いいよ、無理しなくたってさ。でも、クインよりも俺はライアンを見てる方がきついときがあるってことを、覚えといてよ───また、明日ね」
 それ以上をライアンに言わせず、チアロは素早く身を返して立ち去った。ライアンはチアロの消えた路地をしばらくじっと見つめて立ちつくした。
 分かっている、と呟く。
 分かっている。リァンの死も、彼が俺にかけた打算の魔術も、それに気付きながら自分がまだ囚われていることも、リァンの出来なかったことを実現するために生きていることでさえ、自覚している。けれど、彼の代わりなど見つからない。そうしなくてはいけないのだということは理解しているが、理性の部分よりも深く暗い淵の中に感情は沈み込んでいて、乖離したままであった。
 ライアンはゆっくりかぶりを振った。過去の日々が眩しかったというなら間違いではなく、今でも自分を一度は通り過ぎていった真夏のような日々を恋うているなら正しい。それが二度と自分には戻ってこないであろうことも分かっている。誰かに指摘される以前に、死者は蘇りはしないのだから。
 だから、それから先はライアンの勝手な夢想と追憶の仕業だった。けれどリァンがいなくなって自分のために生きていく人生を結局タリアの中に求めたときに気付いたこともある。
 リァンの面影と追想はいつでもライアンの胸の内にあって、誰にも邪魔をされず勝手に連れ去られないものなのだ。自分律というものの中にリァンの行動規範が深く刻まれている以上それを切り離すのは至難であるし意味がないが、そんなことをしなくてもいいのだ。
 リァンはその死によって、ライアンの中に永遠に根を下ろした。その木が枯れないように、彼自身が注意深く見守っていればいいのだ。そしてそれは永久にライアンだけのものだ。今度こそ、誰にも邪魔はさせない。
 クインはそれを敏に感じ取って、それがいかに無意味な仕業であるかを彼に教えようとしているのだろう。
 けれど、そんな言葉など、聞きたくない。自分の中にあるものを他人が触ろうとしているのだと思うだけで反射的に怒りさえ覚えた。
 ライアンは僅かに舌打ちをし、歩き出した。タリア王屋敷へたどり着く前に、この自分の中の不愉快をせめて表情からはうち消しておかなくてはいけない。
 タリア王アルードとその周辺に巣食う側近達が今のライアンの相対しない、だからこそ恐ろしい敵なのだった。

 タリア王屋敷にはいつものように王側近の数名がてんでに好きな部屋にたむろしている。彼らにはそれぞれ手持ちの領域があって、それをお互いに侵し合わないことで表面上の結託をしているが、末端では時折境界区域の支配や利権を巡っての抗争がある。それはライアンの総括するチェインでも全く同じで、この町の少年達は大人達の鏡でもあった。
 2階の奥にあるいつもの居間へ入ると、魔導士を相手にアルード王はなにやら話をしているようであった。あの魔導士は国からアルードが借り受けているもので、タリアの抗争自体には関わらせないものの、情報収集などには重宝するようだ。
 クインが魔導を使うのを見ているから初めて人外の力を見たときよりは衝撃は薄まっているが、今でもそれは十分に気味が悪く、そして得体の知れない脅威だった。
 アルードはライアンにすぐ気付き、こちらへくるように手振りで指示をした。そっと近寄っていくと、魔導士が振り向きもせず、ライアンに位置を譲る。彼らは銀の仮面を付けているから実際の目で物を見ない。にもかかわらず盲目であるようなぎこちなさは動作にはなかったから、この場合もなにがしかの力でもって位置関係を把握しているのだろう。
「戻ったな、ライアン。首尾は良かったと見える」
 ライアンは首肯し、最前奪い取った鍵をアルードに手渡した。それを一瞥してアルードは微かに笑って側に控えている魔導士の肩を叩いた。退出を命じる仕草である。
 魔導士は無言のまま立ち上がった。仮面のせいで顔も何も分からないが、時折聞くその声で、どうやらこれが少年であることは分かる。背丈はクインとさほど変わらないが、カノンという魔導士名を持つ彼に関して、知りうるのはそれくらいだ。
 魔導士がアルードへ会釈して立ち去ってのち、アルードは手振りで自分の前の椅子を示した。座れということであった。アルードの前で腰を下ろすことが出来るのは、幹部だけだ。チェインにおいてもそれはほとんど変わらない習慣である。
「……これで全員のはずです」
 ライアンは低く言った。アルードは曖昧に頷いて、彼の手に渡った鍵をちらちらと硝子越しの日射しにきらめかせている。
 その鍵が境界地区の利権の源へたどり着くための最初だと、ライアンは知っている。新興派閥が今までの境界主の権利を侵害して勢力を伸ばしつつあるあたりであった。アルードの判断はその新興の派閥への援助だった。おそらくそちらのほうが彼にとって実入りがあったのだろう。
 旧閥の連中が仕切っていた町の権利証明に債権の証書、それに薬や武器の裏の流れを管理していた帳簿がある。部屋の鍵はすぐに開くが、複雑な仕掛けと魔導斑紋の入った錠前は専用の鍵でないと無理なのだ。
 ここ半月ほどは旧閥の連中のうち、抵抗を選択した者を一人づつ食い荒らしていくことにライアンは使っている。チェインの王として少年達の上に君臨している身であることで、ライアンはタリアの複雑に張り巡らされた境界権利に絡んでいない。彼だけがどの派閥とも利害関係を持たない、無派閥であった。
 そのせいで、こうした境界権利の絡む抗争の始末にライアンはよく顔を出した。逆にほぼ関係しないのが魔導の力をほどこした禁制品に関わる全てであるが、これは得手の者がいるのだから、均衡は取れているというべきであろう。
 アルードはご苦労だったなと薄く笑い、既に用意してあったのだろう懐から小さな袋を取り出した。中は小指の爪ほどの碧玉と紅玉の裸石だった。これが今回のこの件全てを決算する報酬であった。
 ライアンはそれを手の中に入れて、アルードに軽く会釈した。次の話を切り出さないから、どうやらこの場を出ていいらしい。そう結論して立ち去ろうとしたライアンを、アルードは待てと呼び止めた。
「……そろそろお前にも、こちらの中に本格的に入ってもらわなくてはならない。分かっているだろう───お前の身内をこちらへ寄越せ、あの……何とかいったか、お前の可愛がっている小僧でも構わんさ」
 チアロのことだろう。ライアンは苦く笑い、あれはここのしきたりを守れるほど大人ではありませんから、と言った。アルードもまた似たような笑みになった。数度ではあるが、チアロをつれてきたこともある。その性質が大人達の内に潜む駆け引きに向く者では到底ないことを、彼も知っているのだ。
 もしくは、とアルードは続ける。
「7地区の妓楼に馴染みの女でもいるのなら……」
「いえ───あそこの女将と多少、縁がありまして」
 その縁とやらの内容を目線で問われ、ライアンはアルードに向き直った。
「俺の母親の妓姐なのです。ずっと昔、母に連れられて数度、会ったことが。あちらもそれを覚えているので多少気安くて……それに俺は同じ女とは続けない、知っているでしょう」
 それは確かにライアンの習性だった。妓楼はタリアの派閥に関与しないために自らの組合において自治を行っているが、それはすなわち特定の者の意志の働く妓楼はないと言うことと同じだった。無論、タリアの奥に進めばそんな規範さえ関係のないもぐりの女部屋はあるが、誰が関与しているか分からないような場所でライアンは女を求めない。
 それに表妓楼の彼女たちは客の秘密を守るという一点において徹底した教育を受けているので、比較的ぬるくしだらかに神経を休ませてやることが出来る。だがそれも馴染んでくれば分からない。だからライアンは、どこかの妓楼に通い詰めて一人の女に入れ込むということはしない。
 ───それはあの女だけなのだ。一瞬でも、彼に血のつながりのある家族という夢を見せてくれた少女。クインとよく似た感情の激しさと心根の弱さが、ひどく哀れで愛しいような気もして、つい突き放すことも出来ずにずるずると年月を重ねている、あの少女。
 けれどシャラを事実上の人質として差し出すことは、やはり躊躇われた。それはいずれ見捨てなくてはならなくなる彼の手駒でなければならないのだから。
 同じ女とは関係を持たないというライアンの言葉に、アルードはそうだったなと苦笑気味に応じた。
「だがいずれ、それに代わるものでも差し出してもらわなくてはならない。他の連中にもそうさせているからな───が、まあいい。今度の件で一本、麻薬の筋があいている。お前にやろう」
 ライアンは僅かに姿勢を直し、深く頷いた。先に手にした宝玉よりも、こちらの方が破格によい報酬であった。チェインからあがってくる収入などとは比較にならない。あちらは人数の増減や抗争の有無で多少変動があるが、麻薬は一度網を張り巡らせればあとは勝手に満ち、手にこぼれ落ちてくる。どんな場合でも金は要る。これから先、さらに重要になってくるに違いないのだ。
 ライアンは僅かに時間をおいた後、ありがとうございますと言った。アルードは小さく頷き、誰かを王屋敷に伺候させることを忘れるなと付け加えて手を払った。
 タリア王の元から退出して、ライアンは回廊を戻りながら長く嘆息した。タリアの内側にいることで、次第に足下であるチェインの支配からは縁遠くなっている。それもアルードの狙いの一つであることは確かだ。アルードに目をかけられているのだという幻想など抱いたことはないが、ライアンの働きに応じて報酬を与えなければ他の者達への示しがつかないとアルードが踏んだのだろう───つまり、現状は満足すべきであった。
 タリア王屋敷をすぐに辞して、ライアンはゆっくりタリアの表通りの方へ歩いた。王屋敷は彼にとって居心地の良い場所ではなかった。アルードと同じ場所の空気にあると思うだけで、肺の中が濁る気がする。
 それに身体の奥底には殺人の快楽に身を委ねた後の、気怠い疲労がたゆっている。血を見た後は命の根元に触れたせいなのか、ひどく気が荒ぶって鎮めるのに手間がかかった。
 だからライアンはあの少女に会いに行く。シャラの顔をみて他愛ない話に気を紛らわせていれば過ぎ去っていく倦怠があった。それはほぼ唯一、過去の呪縛から逃れてしどけなく他愛ない戯れに興じていられる時間であったかもしれなかった。
 あの少女は自分の中に殆ど唯一残っている庇護すべき花だ。摘み取るのは簡単で、それを待っていることも知っているが、けれど一度折った花は二度と土に根付かない。
 彼女が特別であるのは寝ていないからで、それ故にずっと自分の中にあるだろう聖域といえた。それを自分の手でわざわざ壊すようなまねなど、すべきではない。
 それにどうしてもライアンは彼女を自分の愛人にしようと思えなかった。まだ水揚げ前の、白い衣を着た無垢の痛々しさを見知っているからだろう。
 けれど、胸が渇く日は彼女に会いたい。何の血縁もなくても、彼にとってシャラはただ一人の妹だった。父を元より知らず、母には売り飛ばされてのち他人の手を転々として生きてきた彼の、血の証明のような気がするのだ。
 全くの他人であることは知っている。自分が母に売られたときの状況やお互いの顔立ちの相似からライアンは当初、異父妹であろうかと考えていたがそれはすぐに否定された。あの妓楼の女将はシャラの母と親しかったせいで、ライアンという名であったというシャラの兄を見たことがある。瞳の色が違うなら、それは状況が似ているだけの他人であろう。
 だが、それとライアンの心の中の作用とは全く関連がなかった。
 妓楼はようやく始まる時間を迎えて、階下に降りている遊女達が多かった。他の女達には視線を殆どやらず、ライアンはいつもの場所に座る女将に目礼する。女将は簡単に頷いてこちらへとライアンを手招きした。
 前と同じ金額を彼女の前に置くと、女将は苦笑する。
「揚げ代、あがったんだよ。部屋も一つ良くなっている。今日はいいよ、まけておくさ。あんたには大分注ぎ込んでもらっているからね」
 差額のおごりは女将の厚意であったから、ライアンはありがたく頷いた。金に困っているわけではないが、こうしたささやかな貢ぎ物を断るのもおかしな話だろう。
 小間使いの少女が彼を案内していった先は、確かにそれまでよりも一段上の階級に属する部屋だった。年数や揚げ代の多少によってやはり遊女にも格がある。
 次第に上へあがっていくシャラの身なりを、ライアンは微妙な困惑で眺めている。それに自分が相当関わっているのは確かだったが、実際二人の間に何かがあるわけでもなかった。
 ただ、シャラの方は上機嫌だった。この少女は一面現金で、生活の環境が上向けばそれで虚栄心を満足させるところがある。アルードからもらった宝玉を並べてどちらが欲しいかと聞くと、紅玉をさして指輪にして欲しいとねだった。
「で、こっちはライアンがお揃いの指輪にして持っていて。ね、いいでしょう?」
 ライアンは曖昧に喉を鳴らした。シャラがどちらか好きな方を選んだ後は換金しようと考えていたのだ。
 彼の思惑を悟ったのかシャラは冷たく整った面差しを、暗く俯けた。その表情に差し込む気鬱と悲しみが濃い。揃いの指輪などという児戯のような記号を欲しがる裏に、不意に彼女の深い苛立ちと懊悩が揺らめくように見えた気がした。
 シャラは黙って唇を尖らせたまま、彼の煙管をいじっている。ライアンもまた黙り込んで煙管を撫でるシャラの指先を見つめている。シャラの思いが次第に蓄積されていくことを感じないことはなかった。
 彼女の目線がただひたすらに自分に向けられていることを理解し、それに当惑とぼんやりした畏れを覚えながらも突き放せない。
 縁を切るなら簡単だ。二度とこの妓楼に足を向けなければいい。
  それを彼女も分かっていて、ライアンが不機嫌やその淡い怯みのために沈黙するとき、その先をなじる言葉を絶対に口にしない。彼から見捨てられてしまうことを、何よりも恐れているのだ。
 それに深い哀切を感じないではいられない。それにシャラはどうしたところで自分の妹だと思い続け、本人にもそれを言い続けてきた。態度を今更翻すことは出来そうにない。
 このままでは永遠にシャラを傷つけるだろうことも分かっているのに。
 ……ふと、ライアンはシャラを見た。彼女のすすり泣く声が聞こえたのだ。
 シャラ、と呼ぶと少女は自分の口元を手でしっかり押さえたまま首を振った。
 ぱらりと後れ毛がおちて、首筋を軽く叩く。肩との付け根に一葉咲いている、赤い斑紋にライアンは気付いた。昨晩の客がつけていったのだろうか。シャラは遊女なのだ。それを今までも知っていたくせに、今初めて目にしたような気持ちになる。そして巻き起こってくる大量の感情はやはり、憐憫なのだった。
 ライアンはもう一度シャラの名前を呼んだ。シャラはやはり首を振った。
「……ライアン、いいでしょ? 少しくらい、あたしに、希望くらい、くれったって、いいじゃない……ちょっとくらい、いいじゃない……」
 呟く言葉は甘く弱い、非難と言うほどもない繰り言であった。彼女に言えるこれが限界なのだ。ライアンは微かに呼吸をふさがれたように喘いだ。何かを言ってやることも、抱き寄せてやることも、しようと思えば出来るだろう。けれどそれが一瞬の慰めでしかないことを、ライアンは分かっている。
 そんなありきたりのものに引き替えてしまえば、この少女はただの年若い遊女でしかなくなる。それを押してまでシャラを自分のものにしたいかと問えば、彼の中の判断はいつでも首を振った。
 シャラ、とライアンは3度目を言った。
「分かった、宝玉はそうしよう……」
 これが逃げなのか妥協なのか、ライアンには判別が出来なかった。シャラはやっと頷き、少しだけ笑った。ライアンは僅かな安堵のために溜息になった。
 その吐息をすくうようにシャラは彼の口元に手を伸ばし、それはだめだと言うようにか、指先をライアンの唇に押し当てた。同じ色の瞳が絡み合うようにぴたりと合わされる。涙のせいで僅かに潤んでいるシャラの目がじっと彼を見つめ、そしてゆっくり近づいてきたのが分かった。
 ライアンは腕を伸ばし、シャラの首を巻き取るようにして抱き寄せた。自分の肩に埋めるようにシャラの頭を押しつける。シャラが微かに震えた気配がした。
 遊女の貞操は唇にある。それをどうしても彼女はライアンに与えたいようだった。回避するための抱擁にシャラは震えていたが、やがてライアンの背に微かに爪を立て、ばか……と耳元で囁いた。
 ライアンは返答をしない。シャラはしばらくそうしていたが、やがてすすり泣き始めた。張りつめていた彼女の身体から力が抜ける。それに合わせて腕をゆるめてやると、子供が親の腕に収まるようにするするとシャラはライアンの胸に収まり、顔を当てて嗚咽を始めた。
 しがみついている指先は、それでも服をゆるくつかんでいるだけで決定権をライアンに与えている。それに気付かないようにして少女の頭をゆっくり撫でてやると、シャラは不意に泣き崩れた。たくらみをはぐらかされたのを分かったのだろう。
 ばか、と呟く口調はそれでも切なく訴えるもので、彼を責めるものではなかった。泣き続ける少女の身体を包む赤い人工絹の薄さは遊女特有のものだ。手で触れるとすぐに体温が伝わってくる。
 シャラの身体に籠もる熱が厭わしいのか、哀しいのか、ライアンにはよく分からない。けれど今、この少女を宥めてやれるのが自分の沈黙であることは知っていた。
 連綿と続く嗚咽が収まったのは結局シャラが寝付いてしまったからとなった。泣き疲れて眠ってしまうところ、やはりまだ子供なのだとライアンは意味もなく安堵する。
 遊女の部屋であるから寝台は一つきり、その上に抱き上げてそっと横たえてやると、シャラは一瞬目を開いたが、ライアンがその瞼を閉じるように手で押さえてやると、すぐにまた眠りへ戻っていった。
 ライアンは溜息になった。シャラの視線の強さはいつでも変わらずにまっすぐに彼を射抜いている。それが気鬱な圧迫と思えるときもあるし、憐憫の哀しみに見えるときもある。
 どんなときでも変わらないのは、シャラが彼の庇護対象者であって、決して愛を紡ぐ相手ではないということだった。
 それだけ分かっていれば十分だとライアンは自分に言い聞かせ、部屋の明かりを落とした。
 遊女の部屋には天窓が一つきり、そこからはタリアの炎の色が月光と共に差し込んできて、ほんのりと赤い。しんと静まりかえればどこからか、はぐれた羊が鳴くような声がとぎれとぎれに聞こえる。
 それが何であるかは考えるべくもなかった。この妓楼は決して安普請ではなかったが、よほど好きな客の相手でも誰かがしているのだろう。甘えるようなもの悲しさが、声のどこかに潜んでいるようであった。
 ライアンは服を脱ぎ、簡単な夜衣に袖を通した。泊まる客のために、大抵こうした服がどの妓楼にもおいてある。煙草入れと煙管をつかんで寝台にあがり、眠ってしまったシャラを真横においてライアンは天窓に移る月を眺めあげた。
 誰かを手にかけた興奮と苛立ちと歓喜と倦怠は、彼女を傍らにして次第に流されていくものだった。そういう意味において、シャラは確かに特別な女だった。
 愛しかったし、大切だった。恋情と愛欲は彼の中では切り離されて別々のものとして成立しつつあるが、その二つを繋ぐ可能性があるとしたら、今はシャラであるとしか考えられない。無論これから先自分にも命をかけるほどの女が現れるかもしれなかったが、だがその女は決して自分の妹ではないのだ。
 ライアンは煙草の一服を長く吸った。物事をじっと考えるときにはそれは手放せない癖になっている。
 ふっと煙草の香りが消えて苦みだけになった。種草が尽きたのだ。それでライアンは煙草をやめて、寝台の脇の灰皿にそれをことりと置いた。
 ───抱こうか。
 陶器が鳴る冷たい音と共に腹の底に転がりでてきた新しい考えにじっと目を凝らす。このままではいずれ、どのような形であっても破綻するだろう。
 失いたくないという思いは確かにある。シャラのために死ぬことは出来ないが、だが出来うる限りのことはしてやりたいと思っている。シャラの一番の望みが自分と関係を持つことであるなら、そうしてやってもいいかもしれない。
 ……何より、自分にも何かが起こるかもしれなかったから。あるいはそれを知りたいのかもしれない。リァンがいなくなってのち、色素が薄まって濃淡でしか見えない世界に、劇的なものが紛れ込むならそれが何であるかを自分も知りたいのだ。
 ライアンは溜息をついて、そっと手を伸ばした。シャラはよく眠っている。
 遊女の衣装は大抵簡単に脱がせることが出来るように、前の袷を何カ所か紐で結んだだけの作りになっているのが普通だ。首元の大きなリボンをするりとほどき、そして肩から胸にかけての袷目をほどく。腰の横の紐を解き、何か大切な包みを開くように丁寧に左右に開く。
 ───そしてライアンは、僅かに呻いた。
 淡い赤に染まる月光に照らし出された肌はあわあわと白く、その中で呼吸のためにゆっくり上下する裸の胸はこちらが怯むほどに頼りなく小さい。右の腋横に僅かに残っている痕跡の赤い色が目に痛くて見ていることさえ辛かった。ライアンは開いたときと同じような手つきで、シャラの肌を隠すように衣装を着せた。紐を最初より丁寧に結んでやる。ひどい罪悪感だけが残った。
 駄目だ、とライアンは呟いた。彼女は駄目だ。一生駄目だ。まだ幼さを片隅に残したままの身体が記憶の端をよぎる。ライアンは首を振ってそれを追い出そうとした。
 自分はきっと、見てはならないものを見てしまった。シャラと関係を結ぶことは出来ない。無理だ。この同情と哀憫とが胸にある以上、彼女を抱こうとすることさえ罪悪であるような気がして居たたまれない。
 自分にとっての快楽は既に女などではなく、人を狩る獣としての衝動へ変化しているのかもしれなかった。
 リァン、とライアンは呟き、堅く目を閉じた。彼に人を手にかけることを快楽として教えたのはリァンだった。ライアンは彼のためにそうなるべきだという目論見を体現した存在だった。リァンの手腕は確かに見事だった。暗示をかけた主人がこの世から消えてもなお、呪縛はライアンの中に残っている。
 ぎりぎりの命のやりとりを交わしている時、微かに彼の耳には鈴の音が聞こえる。涼しく鳴り響くその音を聞いていると、全てのものを引き裂き、八つ裂き、奪い尽くしたいという衝動が呼び興る。相手によってその感情の多少はあったが、やはりそれは彼にとっては絶対快楽であった。
 自分は、どこかがおかしいのだ。リァンが握っていた彼の調律を、引き受けることの出来る者はいない。だから何かが狂ったまま、それでも生きている。生き続けていく。リァンが辿り着くはずだったその場所に、自分が座るその日まで。
 ライアンは顔を歪めた。リァンのいなくなった世界には、彼を縛るものはなくなった。
 けれど、人は何かのためにと自ら捕縛されることで生きていける生き物なのでないか。解き放たれた野生に打ちのめされて死ぬよりも、共生で繋がり作り上げた広大な籠の中で不自由を歌いながら自己憐憫で満足する鳥ではないのだろうか。世界はそんな構築に出来ている。
 だから一度その輪から外れてしまった者に戻る場所などないのだ。仄かに明るかった場所を振り返り振り返り、それでも待ち受けている闇へ飛び続けるしかない。そうするしか出来ないのだ。今は。
 リァンの呪術がまざまざと身に甦る日は、彼というライアンを繋いでいた籠の大きさと、それが今は既に失われていることを教える現実の狭間にあって疲弊が激しい。彼のいない世界に、今生きている、その不思議。
 リァンのために死にたかった4年前に、死んでいればこんなことを思うこともなかっただろう。それが一体自分にとって至福なのか悪意なのか、何故判別する必要がある。
 ───あなたが、いない。
 それだけが真実なのだ。
 ───この世界に、あなたが、いない。
 それだけが現実なのだ。
 身を取り巻く環境も人間も、全てが変わったところで起こったことは頑として動かない。時間は戻らず、人は甦らない。リァンのために生きていたことは恥じることではなかったが、それだけが全てであった時からは、自分は確かに大人になりつつあった。
 そしてそれを自分のために喜べないでいる。リァンはその死の前日まで、確かにライアンの全てだった。
 あなたのために生きて、あなたのために死ぬのが夢だった。その他の全てのことは色彩の薄い写真のように、現実味が薄かった。命の辿る道筋に落ちているものが、自分を責め苛むものばかりでないことを教えてくれた。だから自分にとってあなたは光であり、神であり、世界そのものだった。何も考えたくなかった、ただあなたの語る世界が正しいのだと闇雲に信じていればそれでよかったのだから。
 ライアンは閉じた瞼の裏で、リァンの面差しを呼び戻そうとする。彼の植え付けた種子が今ライアンを支配する絶対律ならば、そうでなかったはずの未来もまた存在したはずだった。
 そのとき自分はシャラを抱いてやることが出来たろうか。彼女に求めているのは渇きを潤すための僅かな弛緩の時間だが、命を奪い啜り尽くす快楽を知らなければあるいはごく自然に、関係を持っていただろうか。
 どんな仮定にも意味がないと知っていながら、ライアンはそれを何度も繰り返す。リァンを少しでも責難するための材料を探して記憶の海を彷徨いながら、しかし遂に感傷に負けて、それが遠く懐かしく、帰りたい日々であることを認めざるを得ない。
 この世界に、あなたがいない。
 もしもという言葉になんの意味もないことを知っているけれど───帰りたい。
 ただひたすらに、帰りたかった。


帰してよ
お前の姿が世界から 消えてしまったあの日まで


 ゆるくたゆたう竪琴の、音色は淡く消えていく。儚さは世の宿命で、生まれれば消える運命のまま、歌は今宵も消費される。使い捨ての歌、使い捨ての涙。それは何のこともない流行歌。時が来れば誰の脳裏からもこぼれおちていく砂。
 けれども歌に籠められた、ほんの僅かな真実が時には誰かの胸を打つ。強く。叩く。強く、強く。それが歌の普遍というものならば、魂をこめて歌うこの余興にも、何かの愛があるだろうか?
 女の歌は、続いている。


海を漂う海鳥たちの 声は今夜も 啜り泣く
  呼び恋い続ける鳴き声の 悲鳴を飲み込む 海潮音
  お前の胸には触れている? 私の歌う、海鳥の歌

  殺してよ
  お前が別離を告げる前に 私が憎んでしまわぬ前に
 ちかちかと天窓から陽光が射している。その眩しさでシャラは目を覚ました。遊女の部屋は客の使う表廊下と、下働きが使う裏廊下に挟まれていて、窓は天井に四角く切られたものが一つだ。天窓からの光だとすれば、既に昼が近いはずであった。そんなことを思いながら寝返りを打つと、その横に男がいたことにシャラは驚いて微かに息をのんだ。無論それは前の晩の客なのだが、この時間になっても部屋から出さないのはやはり具合が悪い。
 と、いうよりもこの時間まで客がいることが信じられない。しっかり朝寝を決め込んでしまった自分も悪いが、相手も良くない。大体、こんな時間に帰したのが知れたらねえさんたちに具合が悪いわ。起きなさい、とシャラは隣でまだ寝息を立てている少年の肩を揺する。彼はうん、と曖昧な返事をして目をしばたきながら起きあがった。
「……なんだよ、もう朝……」
 そこまで来て、彼も時間の遅さにようやく気付いたようだ。天窓を見上げ、ついで寝台の脇に適当に放り出されている彼の時計を拾い、長い長い溜息になる。
「やっちまった……ま、いいや。俺がいなくても他がどうにかするさ」
 最後についていた呟きは楽観というよりは期待であろう。その証拠に少年は急いで身支度を始めた。短い髪がまだ寝癖のままになっているのを、シャラは適当に直してやる。ありがとうと笑う顔は屈託なく、これが彼女についている客の中で一番若くて朗らかなたちだ。
「あんたも本当に不思議よね」
 彼の支度を手伝いながら、シャラは呟く。鏡をのぞき込んで寝癖を押さえるのに懸命だった少年は何が、と振り返らずに言った。けれどその視線は鏡の中で動いて自分を見ている。彼は自分が好きなのだとシャラはとうに知っていて、それをこんな僅かな仕草でとらえ直すたびに、決して不愉快にはならないのだった。
「あたしとあの人のこと知ってるんでしょうに。よくもまあ、自分のご主人様の女に手を出そうなんて思えるわ。あんたの図太いとこ、尊敬しちゃうわよ、チアロ」
「だって、彼は駄目だって言わなかったよ」
 その言葉にシャラは胸の奥がちりっと焦げた匂いをたてるのを感じる。けれどそれを表情に出してしまったら、自分の中の誇りや矜持というものが全て崩れ去ってしまう気がして、ことさら笑顔になるのだ。
「そりゃ駄目だとは言わないでしょうよ。身請けもまだなんだし、妓楼に置いてるからにはあんた以外の他の客とだって寝るんですからね。神経が鉄で出来てるのはだから、あんたの方。いい根性してるわね、本当にさ」
 チアロはどうにか跳ねた髪を撫でつけ終わり、くるりと彼女に向き直った。彼の表情はいつもの通りに明るいが、瞳にある光はひどく真剣で、切なくなるほど強い。その強さが逆に喜びと怯みのない交ぜになったものに彼女の胸の中で変化して、チアロのことを決して嫌ってはいないのに、この目をされると喉がふさがれるように呼吸が苦しい。
 ──そして彼と同じ目で、自分もあの人を見ている。あの人があたしを見て、微かに逃げ出したいような素振りを隠そうとするのはそのせいだ。でも、じゃあ、どうしたらいいの? シャラがきゅっと唇を結んだとき、だって、というチアロの声が聞こえた。
「だって、俺、お前が好きだもの。お前がいいなら今すぐここから出してさ、二人でタリアなんか出てどっか別の場所へ行ってもいいよ。俺、他のどんな事のためにも痛いことは嫌いだけど、お前のためだったら死んでもいい」
「馬鹿ね」
 シャラはあきれた風を装って、つんと肩をそびやかした。チアロのまっすぐで直截で、軽やかではあるが真剣な言葉を聞くとき、ひどく心浮かれている。けれどそれは本当に欲しいものの代価品であって、所詮偽物でしかない。偽物であることを承知してもいるが、チアロの真摯な気持ちを知りながらそんなことしか考えていない自分にも嫌気がさすのだった。シャラの表情が曇ったのに気付いたのか、チアロはやっと上着をかぶりながら彼女に近寄ってきて、ゆっくり顔をすり寄せた。
「……暗い顔すんなよ、せっかく綺麗な顔してるのに台無しになるぜ」
 こつんと額同士を打ち合わせてチアロは笑い、彼女の手を軽く握った。
「また来てもいいだろ?」
 ご勝手に、とシャラはふいっと顔を逸らす。いつでもこうしてじらしてやれば、彼はまた熱心にシャラへの賛辞を降り注ぐのだ。その言葉を聞くのは好きだった。後から自分で適当にこじつけ、改竄し、もっと別の声で囁かれるのを夢想するために。
「───待ってるくらいの殊勝なこと言ってよ、たまにはさぁ」
 チアロの甘えるようなすねた声に、シャラはつんと顔を背ける。慣れ親しんだ関係が既にこれを冗談に流せるほどに積み重なっていた。彼女から気に入る言葉を引き出せないのはいつものことで、チアロはやれやれと肩をすくめる。出会った3年前にはまだ子供の領域を出ていなかった身体も仕草も、既に少年と呼ぶ域へ達し、やがて大人と呼ばれる時代へ入っていくだろう。彼の未来は何故かすんなりと、良いものばかりを描くことが出来る。
「お前の気位の高いとこ、すごく好きだけどね」
 チアロの声は苦笑を含んで甘い。シャラはふうんと素っ気なくそれも流した。
 恋愛には必ず勝利者がいる。力関係は決まっていて、逆転することは滅多にない。この場合はシャラの方が明らかな優位であった。チアロの率直な賛辞も洪水のように溢れてくる愛の言葉も、全ては彼女の意のままであって、止めろと本気で言えば彼は飲み込むだろう。チアロの言葉はどれも軽やかに明るいが、誇張や戯れのような嘘の匂いはしない。それがどれだけ自分を慰めているかシャラは知っている。本当に振り向いて欲しい人に顧みられないまま年月だけが流れ堆積していくのを、見ているしかできないから。
 またね、と簡単な言葉だけを残してチアロが出ていくと、シャラは長い吐息を落として寝台に座った。昼近い陽光はやけに明るくて、それが天窓の硝子を通して降り注いでくる健康な目覚めが自分に不釣り合いに似つかわしくない、そんな居心地の悪さがじりじりとあがってくる。
 チアロのことは嫌いじゃない。あれは自分の崇拝者で、彼の気持ちに頷けばその性質の通りに明るく力強く自分を愛するだろう。それは分かっている。彼が今シャラに降り注いでいる陽光のごとくにまっとうに自分を恋していることはきっといいことなのだろう。
 でも、そんなもの要らない。
 どんなに辛くても苦しくても、焦れても泣いても苛立っても、自分の心が吸い付いていく背中は一つきりだから。
 好き、とシャラは呟いた。その声が耳から胸にするりと落ちた瞬間、そこが鈍く痛んだ。あの人があたしのことを特別に思っているのは知っている。でも、それはあたしが欲しい視線じゃない。あたしが欲しい熱じゃない。彼に温かに大切に扱って欲しいなどと思ったことなんか、一度だってない。彼がシャラの目の届かない場所できっとしているであろう、取り巻く女達にするように戯れに踏みにじって欲しいのだ。
 彼の長い指が自分を愛撫するならば、どれだけの歓喜になるだろう。彼のよく鍛えられた身体が自分の身体を法悦の中に押しつぶしてくれたら。たった一度で死んでもいいのに──……
 その瞬間、シャラは微かに呻いて首を振った。やけに生々しいことを考えている自分がひどく淫蕩な女であるような気がする。あの人のことを考えると胸が苦しく切なく痛い。この痛みが次第にひどくなるのを自覚して、自分がどれだけ彼を恋しているかを思う瞬間は自嘲の入り混じった哀しみの中だった。
 ───自分も母のようになるのだろうか? そんな疑問がちらと脳裏をかすめるとシャラはいつも恐ろしいものを見たように、その考えから目をそらした。シャラの母は多情で恋の多い女だった。どこまでが客でどこからが男であったか遂に分からないが、それでも恋し、夢中になり、最後は決まって捨てられることの繰り返しだったことは知っている。男に騙され、殺されかけた末に運河に身を投げて死んでしまった母。シャラとよく似た顔立ちの女は結局幸福にはなれなかった。自分も同じ運命の車輪に乗っている気がして、シャラは怖くてたまらない。遊女になるまでは今のところ、同じではないか。
 それを救ってくれるであろう相手にシャラはたった一人をさだめた。彼以外知らなくていいし、見えなくてもいい。他のことなど必要がない。いつか彼が自分に向かって膝をつき、低く数少ない言葉で何かを語ってくれたら。それだけで死んでもいいくらい、あたしは彼が好きなのに。
 ちりっと胸の奥が焦げるような痛みがした。シャラは溜息になった。自分が考えている半分も、彼は自分を思っていないだろう。あの人には沢山の敵と沢山の配下がいて、何かにかかりきりになるには手に持つものが多すぎる。その内の一つが自分であることを疑ったことはない。水揚げから既に4年、シャラの元にずっと通い続けているのは確かなのだ。3度ほどミアの部屋にあがるのを見たことがあるが、自然にそれは消えて今はこの妓楼ではシャラだけに金を落としていってくれる。
 ───でも、そういうことじゃない。
 彼が自分を特別の女だと周知のために環境を美しく整えていくにつれて、どこへも捨てられない怒りだけがたまっていく。
 ───そういうことじゃない。
 彼の視線も吐息も言葉も、全てが自分一人のものであって欲しい。彼の中の一部分を分け与えるのではなく、何もかもがあたし一人に注がれるようであって欲しい。彼という存在の、全てが欲しい。妹だなんていう檻に入ったままではそれは永遠に手に入らないだろう。
 いつかあの人にも自分ではない誰かを愛して特別に想うことがあるだろうかとシャラは不意に思い、瞬間的にわいた激しい怒りにぎゅっと手を握りしめた。そんなの、絶対に、いや。そんな女、あたしが殺してやる───
 激高につられて浮かんできた言葉の強さにシャラははっとし、そして辟易して額に手をあてた。振り回されたときのように、ひどい眩暈がする。
 彼のことになると全く盲目のように何もかもが消えてしまう癖を、シャラは半ば呆れ加減に見つめた。そんなことではいけないと自分でも思うし、女将や先輩の女達からも言われてなお、その癖はいっかな直りそうにない。それが自分でも可笑しいと思うし、仕方ないような気もして、こんな事を考えるときは堂々巡りの惑乱の中だ。シャラは長い溜息になり、そして勢いよく寝台から立ち上がった。
 あまり彼のことを考えても今は仕方がない。この夜にも自分を買うであろう見知らぬ男達のために適当に部屋の掃除でもして、身綺麗にしておかなくてはいけないだろう。入浴や化粧はタリアの火入れの時間が近くなってからでもいいが、洗濯と掃除だけは早めにしなくてはいけない。シャラは昨晩来ていた人工絹のスリップドレスを拾い、下着と一緒に洗濯用の手桶に入れて部屋を出た。遊女達の部屋から裏廊下へ出れば、そこには高い位置の格子窓からさんさんと昼に近づいていく強い日射しが注いでいる。
 遊女達の部屋には簡単な浴室がついているが、こうした日々の細かな雑用に使うための水場は別にある。客を傷つけないように部屋に刃物や針なども置かないから、裁縫のための部屋もあって、昼前はみなてんでにそこで必要なことをしているのが普通だ。
 シャラが水場に入っていくと、先客がいた。長いことそうして足で踏んでいるのか、洗い桶の中の白い足が赤く染まっている。とんとん続く小気味よい音が何かの拍子のように規則正しい。不意に女は足を止めた。水を換えるのだろう。一度桶から出たときにシャラにようやく気付いたらしく、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、シアナねえさん」
 源氏名で呼び合うのはどの妓楼も同じ習慣である。シャラは軽く頷いておはよう、と言い、女の隣に洗濯用の桶を引き出した。
「随分丁寧にしてるのね。リーナは相変わらずこんな事が好きなんだ」
 シャラの言葉にリーナは小首を傾げて笑う。シャラが恋心という煉獄から目覚めて混乱し、立ち直りながら出てくる不機嫌な朝であるとするなら、この女は朝方は奇妙なほど明るい。ごく自然に呼吸をしているように見える。
 だがそれが不幸の臭いであることを、シャラは誰に教えられずとも知っていた。不幸な女は同じく不幸な女を見抜くのだ。恐ろしく正確に。
 ───彼女の前に出るといささか怯むのはそのせいだろう。彼女の真闇色の瞳に見つめられると、真っ黒な空に映る星のように自分の中身もそこに浮かんでしまう気がするのだ。シャラは彼女から視線を外し、洗い桶にぬるま湯を張った。自分の洗い物を入れて隣で踏み始める。同じ事をしていたリーナが成果を確かめるように彼女の木綿のワンピースを広げた。
 それで彼女が長く洗濯をしている訳が分かった。客が吐いたのだろう、その痕跡がくっきりと裾に残っている。シャラが一目見て分かるくらいだから、落とすのには時間がかかるだろうと思われた。リーナの溜息が聞こえる。
「吐かれたの?」
 シャラが聞くと、リーナはええ、と困ったように笑って頷いた。
「お酒が欲しいっておっしゃるからお出ししたんですけど……明け方に。シーツはさっきやっと干したんですけど、こっちはまだまだですね……」
「あんまり飲ませちゃ駄目よ。酒は繰り越しが出来るからって言って、適当に切り上げさせないと。酔っぱらってる奴の相手は疲れるでしょ」
「ええ、まあ……無茶を言う方が多くなるのだけが本当に困ってしまって」
 その無茶というのが何であるか、聞きたい衝動にシャラは駆られた。リーナというこの遊女が水揚げから半年にもなろうというのに未だに客あしらいというものが出来ないことを、女将が嘆いているのを聞いたことがある。遊女達の間でひそひそ交わされる性技のあれこれなどを本当に試したことがあるのかどうか、一度聞いてみたくて仕方がない。
 ───あんたまさか、寝転がってるだけじゃないでしょうね? そんな意地悪い言葉が浮かんでくるのは自分が苛立っているからで、その苛立ちはあの人のせいだ。シャラの世界で一番美しく力強い男。
 シャラはふっと溜息になって、肩をすくめて見せた。
「泥酔する前に寝台に引っ張り込んじゃえばいいのよ。お酒が残ってたらまた来る人も多いしね。気に入った客だったら半分くらいは残して置いて、次に来たときに、って言うの」
「ええ、そうなんですけど」
 気弱く微笑む面差しに僅かに浮かぶ困惑の色を、シャラは素早く嗅ぎとって目を伏せた。彼女のしていることは明らかだった。水揚げの時と同じような調子でたおやかにちょこなと座っているだけなのだろう。シャラの母も娼婦であり、シャラはこの世界に入ることを嫌悪したことはなかった。そうしないと生きていけないことくらいは分かる。
 この場所で生きていくからには仕事としてするべきことはする、というのがシャラなりの意地であるが、彼女はそれを放棄しているのだ。いつまでお姫様のようにいたいのだと怒鳴りつけたい衝動もあるし、そんなにここが嫌なのかと聞いてみたい気もする。それにいつまでもリーナ一人だけが無垢のような顔をして何も出来ないのですと装っていると、自分がひどく薄汚れた娼婦であると言われているような気になる。
 けれどそれを口に出さないのはリーナ自身がその困惑に開き直っていないのが分かるからだ。どうしていいのか、リーナには分かっていない。臆病というなら正しいであろうしそれを怠慢とそしるなら正しい。けれどそれを本人が気に病んでいる、その不幸をシャラは薄々知っていて、だから彼女に何かを言ってやりたいと思いながらも口にすることが出来ない。年齢が同じだからもっと馴染んでもいいとは思うのに、なかなか世間話程度から先に進まないのはそのせいだ。
「……もし衣装が足らなかったらあたしに言いなよ。ちょっと古くなったやつだけど、あんたに似合いそうな可愛いやつ、あげるから」
 彼女に一瞬抱いた苛立ちを鎮めるために優しいことを口にして、シャラは自分の洗濯物を勢いよく踏み始めた。

 彼がシャラの元を訪れたのはそれから4日ほどしてからだった。日付も曜日もまるで定まっていないが、月に2度か3度は顔を見せる。小間使いの少女の案内でシャラの部屋の前に立つ彼の表情は冷たく整って、どこからも何も寄せ付けない酷薄さが目立っているが、シャラの側に腰を下ろすときには微かにではあるがぬくまるのを、シャラはいつものようにじっと見つめた。
 その整った面差しを見るたびに思うのは、息苦しくなるほどの思慕であり、眩暈がするほどの憧憬だ。彼はあたしの神様。あたしを生かして殺すための神様。
 ほうっとシャラは見惚れるための吐息をつく。するりと腰のベルトに挿されていた煙管を取り出して火をつける仕草。薄い唇がついばむように吸い口に触れるその風情。彼のすることは全てが美しく、完璧に整っているようにシャラには見える。
「……珍しいか、煙草が」
 今日は彼は機嫌がいいらしい。シャラがいつものように自分を見つめている視線を厭う素振りなく、薄く笑っている。
 自分と同じ翡翠色の目が、自分をじっと見ているのにシャラは気づき、そっと手で髪の形を確かめた。日付が決まっているのならその日は特別に綺麗にしておくのにといつも思うのだが、その約束はくれたことがなかった。
 毎日そうしておけばいいのかもしれなかったが、シャラは日常を巧く運営していくことは苦手で、部屋の片づけや洗濯や針子作業もどうにも好きになれない。料理などはしたことがないが、おそらくこれも同じだろう。
 シャラはつまらない空想をすぐに捨てた。あれほど待ちこがれていた時間を目の前にして、他のことを考えるのは馬鹿馬鹿しいことであった。
「いいこと、あったの?」
 微かに自分の声が上気して、いつもよりとろんとしている。この声音がひどく女臭く甘たるく聞こえるのは知っているが、こんな声にしかならないのだ。
 別に、と返答する声は先ほどとは一転して固い。何か良いことがあったとしても、それはきっとタリアの内律に関わることであって、くちばしを入れるなという態度だった。それはそれで正しいだろう。シャラにはタリア王を頂点とするこの町の機構のことはよく分からない。自分たちは緋房の籠の鳥であって、美しくさえずっていればそれでいいはずなのだ。
「ちっとも自分のことは話してくれないんだ……」
 それでも拗ねたふりで彼の顔をのぞき込めば、そこにあるのは淡く翳ったぬるい表情であった。彼は苦笑しているのだ。
「俺のことなど聞いてもつまらんさ。それよりも最近はどうだ───チアロも相変わらずのようだな」
「……他のお客のことは話せませんよーだ」
 きゅっと顔を縮めて愛嬌のある表情を作ると、男は今度こそ唇をゆるめて笑った。はっきりした彼の笑顔はごく珍しく、それに見入ってしまう自分がつくづく馬鹿な女だとシャラは時々恨めしくなる。彼の僅かな仕草や造作で簡単に幸福になってしまうのは、一体損なのだろうか、得なのだろうか。たった一つ言えることは、こうして容易く見つけることの出来る幸福は、やはり容易く散ってしまうということだ。
 彼の表情が僅かに変わるたびにそれが何を意味するのか必死でシャラはくみ取ろうとするが、その性癖のおかげで先ほど感じていたはずの光は気付いたときには既にない。ただ光感の気配だけが胸のどこかに漂っている。
「……チアロの奴が、しばらく来られないと───」
 言いかけた形良い唇にシャラはだめ、と人差し指を押し当てた。
「今は他の人の話なんかしないで。あたしはチアロの話なんかしたくないわ」
「だが、奴はお前が」
「関係ないわ。あたしはあなたしか好きじゃないもの。そうあの子にも言ってあるもの。だから今は他の人の話なんか、聞きたくないししたくもない」
 きっぱりと言い切ると、シャラはさっとその場を立った。彼のためにいつものように酒と食事を頼まなくてはならなかった。酒は飲まない男だが、食事は抜かない。
 簡単に注文を書き付けて小さな袋に入れ、下の調理場へ通じる管へそれを放り込む。袋にはそれぞれの遊女の源氏名が書いてあるから、それを見て部屋へ注文の品を裏廊下を通じて小間使いが持ってくることになっているのだ。酒にしろ料理にしろ、彼の好みと量は大まか掴んでいる。何を食べるのか最近は聞くこともなくなってきていた。
 作業を終えて男の所へ戻ると、彼は煙草を楽しんでいた。煙草を吸う男の肌からは草の甘枯れた匂いがすると他の遊女達が言うように、彼の側によると確かにその匂いがした。時折夜中に目を覚まして彼の鼓動を聞くために耳をつけると、正しく脈打つ動音と共に煙草の甘く渋い匂いにふわりと包まれるようで、シャラはそれが好きだ。
 長い一吐きを終えると彼は服の内側から小さな袋を取り出した。あけるように目線で促され、シャラは口を縛っている綾紐をほどく。中から転がり出てきたのは紅玉の指輪であった。血の色をしたそれをぐるりと白貴石で囲み、ぐっと爪で立ててある。何、と言いかけてやっとシャラは気付いた。
 以前彼がタリア王からもらったという紅玉と碧玉の一揃いを指輪にして一つづつ持ちたいと言ったはずだ。それを彼は律儀に守ってくれたというわけであろう。
「すごい……綺麗」
 シャラはそれをつまみ上げて灯りにかざした。深く濃い赤に白貴石の眩しい輝きがはえて目を奪われる。あの紅玉以外にも彼が色を付けてくれたのだった。
「すごい、綺麗、すごい、……似合う?」
 右の中指に押し込むと、何の抵抗もなくぴたりと入った。ずっと以前、別の指輪をねだったときに教えておいた輪径を彼はまだ覚えていたらしい。
 けれど彼の指には揃いの指輪はなかった。そんな風にしてくれると言ったのをもちろんシャラは覚えているから、ねえ、とその袖を引く。責められずなじれない、そんな弱さがひどく甘ったれた声音に変わった。
「一緒に作ってくれるって言ってた指輪は? 今日は持ってないの?」
 僅かに男は苦く笑ったようだった。
「……指輪は、細刃刀の手袋に引っかかるからな。俺が持っていろという意味だったと思ったから結局」
 言いながら彼は左の頬をかすめて落ちる髪をかき上げる。その耳朶に柔らかく噛み込む、青い光があった。
「邪魔にならない選択が優先なのは仕方がないだろう……それとも指輪をこちらに作り替えるか、シャラ? 細工屋の親爺はお前の指輪に使った石と細工は上等だからそれが一番いい形だと言っていたが」
 うん、と曖昧な返事をしてシャラは自分ではめた指輪の輪郭を指先でなぞった。彼の言うとおり、これはこれでよい細工物だった。それに彼の理屈も分からないとは言えない。それが嫌だとかどうしても駄目だとか、そんなわがままを言えば彼を怒らせるかも知れない。その最後の考えがどうしても抜けないのだ。
 わかった、とシャラは明るい声を出した。自分と彼の間に共通するものを持ちたかったのに、それは結局微妙にどこかがずれた形となって実現した。けれど、それをシャラは責めない。───そんなことが出来るはずがないのだ。
「いいわ、ありがとう。大切にするね」
 男はゆったり頷き、髪を押さえていた手を煙管に戻した。シャラとほぼ同じ、とってつけたような薄い茶色の髪が落ちて碧玉の色味は完全に視界から消えた。
「ねぇ、見てもいい?」
 シャラは立ち上がり、側に寄る。無造作に男が頷き、彼女から顔を背けて煙を吐いた。
 そっと手を伸ばして彼の髪をかきあげると、先ほどと同じように深い青がきらめいた。耳朶に指で悪戯するように軽く触れると、男は僅かに喉を鳴らした。まるで猛獣を撫でてやっているようだとシャラは思い、確かに自分がこの男の特別な相手であることを思い知った。
 彼は気安く誰にでも触れさせるような空気を持たない。以前の宴席でリーナなどは本気で怯えていたようで、それ以後もシャラの語る彼の話を聞きながらの表情は硬い。
 時折彼がこの技楼で派手に振る舞う宴席においても、チアロ以外の誰一人、寄っていこうとしないではないか。
 その特別さを何度も違う角度から見つけるたびに、シャラはねじれたような気持ちになる。彼がシャラに心やすくぬるくほどけているのは、彼女を妹だと認知しているからだ。それは彼にそっと身体を預けてみた幾多の夜、背中に手を回してみた数多の朝に、その度に告げられてきた言葉だ。
 あまりしつこくかき口説くようなら俺は寝台で眠らなくてもいいのだと言われたのが丁度1年ほど前のことだ。そのとき涙をこぼさないように意地だけで目を一杯に見開きながら頷いたのは、彼が遠くなってしまうという恐怖ゆえのもので、決して納得したわけではない。
 だが、向こうはシャラが理解して聞き入れたような態度をとる。シャラの涙が見えなかったはずはない。自分がどれだけ彼を好きか、知らないはずはない───なのに。
 そっと落とした溜息に、ちらと男はシャラを見て煙草に戻った。シャラは彼の耳を飾る宝石から視線を離して寝台にぽんと座った。
 彼の側にいると泣きたくなる。どうしていいのか分からない。この人を好きで、とても好きで、どんな風にされても殺されたっていいと思っているのに、彼はきっとあたしを何気ない女のようには愛さないだろう。兄妹だという確証もないくせに一貫して態度を変えない。
 閉塞した状況をどうにかしたいとどれほど願ってもどれほど思っても、彼はシャラに対する線引きの位置を変える気配がなかった。
 すり寄れば押し戻され、泣けば宥められ、これ以上の何かを出来るとは思えない。
 そのくせ何か他愛のない我が儘を通したいときには泣けばいいと知っている。彼の目の前で、ぽろぽろ涙をこぼしてみせれば彼が大概怯むと分かっているのだ。指輪のこともそうやって泣き落とした。例えばずっと来てねという約束も、抱けと言わない代わりに一緒の寝台で眠ってもらうことも、そうやって承知させてきたのだから。
 これは狡いのだろうか。あたしは陰険で悪知恵の働く女? それともこの人を振り回すだけの足かせ? 当人はともかく彼の下にいる幹部の数名はシャラをそう見ているのが明白だったから、この考えはシャラの中に根深く住み着いている。宴席で当然のように彼の側にいる自分を見る連中の目つきと来たら、まるであたしが彼を都合良く利用しているだけのような、うろんなものを見るように蔑むのよ。
 だから彼らの前では絶対に笑ってやるのだとシャラは決めている。彼らの前では華やかで驕慢で艶やかな花になってみせる。ことさら連中の前で供物をねだるのも、甘えた声を出すのも、彼らの不愉快が多少は溜飲を下げるからでもあるのだ。
 シャラは黙ったままで煙草を続けている彼を見やり、寝台にゆっくり身体を倒した。真横になった世界には、やはり彼しか見えない。どんなときもいつでも、彼はシャラの全てだった。
 ───神様。
 シャラはリーナが時々呟いているその言葉を思い起こす。彼女の不幸は明らかだが、それを彼女は祈ることで忘れようとしているように見えた。目に見えない何者にそんなに真剣に心を傾けられるのか、シャラにはさっぱり理解が出来ない。けれど神様という時の彼女の口調には全てを委ねたような敬虔さと安堵感があって、それはそれでよかろうとも思う。
 神様、という言葉を思いついたのはだからリーナのおかげだ。彼女の言う、崇高でこの世で最も正しい人だというのなら、シャラの神は彼だ。彼女の神は見えないが、シャラの神は目に出来る。
 冷淡な陰がさす整った面差しをして、低い声で、広い肩で、細い指で、シャラを捕らえて彼女に君臨し続ける、絶対の相手。───でも。
 シャラは目をすがめる。そうすると視界が狭くなって彼の姿もほっそりとして見えるが、どんなときでも見えるものの中心に据えられているのだった。
 でも、リーナの言っている神様は安息をくれるけど、あたしの神様はそんなものをくれないわ……一体何が違うのかしら……? シャラは半身を横たえたままじっと彼を見つめた。いつどんな角度から眺めても、彼の冷たく整った顔貌にはシャラの視線を引きつけてやまない不思議な力があった。
 ちらと彼の視線が自分を向いたのが分かった。きっとずっと長く見つめていたのだろう。彼を見ていると心浮き立ち悲しくなり、その両方がぐるぐると巡って次第に訳が分からなくなる。
 そんなときに自分がどんな表情をしているのか、シャラはよく知らなかった。だが、彼がそれを見つけるときに憐憫のような淡いかげりを瞳にくゆらせることは既に気付いている。
 だからきっと、今にも捨てられそうな顔をしているのだ。
 それを思うと自分で自分が厭わしくなる。彼が自分を見捨てきれない甘さや弱さにつけ込む真似だと分かっているのに、それを止められない。そうでなければいつか彼から見放されてしまうような気がして、怖い───怖くてたまらない。
 こんな状態が一体いつまで続くのだろう。
 それでもシャラは同情など要らないと、憐れみなど欲しくないと、訴えることが出来ない。そんな言葉は一瞬の激しい怒りを焚きつけても、決して燃え広がらせてはならない炎だ。
 彼がもう自分の元にこなくなると言うことを、考えるだけでも恐ろしく、気が狂いそうになる。
「───どうした、シャラ」
 いつもと同じ低い声音が自分の本名を呼ぶ。
 本来はシアナという源氏名で呼ばれるべきであったが、これを許すことが特別である証なのだ。遊女と客という枠を越えるという表示であり、それは二人の間に流れている現実という河そのものであるようにも思われた。自分は客ではない、という意味であろう。
 それもよく分かっていて、シャラは別に、と素っ気ない返事をした。けれど彼のやや困惑じみた、淡い影のくゆる表情は変わらない。どうしたのだろうとシャラがまばたきすると、ぽろりと涙がこぼれたのが分かった。
 ああ、自分は泣いているんだ。だから彼はあんなに困ってるのね。意地悪く囁く自分の中の呟きにシャラは唇を噛み、いいの、と小さく声にして寝台に顔を押しつけた。
 僅かに場の空気が対流する気配がする。彼が何かを言おうかどうしていいのか考えているときは大抵こんな奇妙な沈黙になるのだ。
 考え抜かれた言葉など要らなかった。シャラの気持ちに配慮するためだけの優しい言葉をなんと紡いでいいのか彼が考えているとしたら、それはシャラの胸にある恋情となんと不釣り合いで薄い心なのだろうか。
 ───恋愛には必ず勝利者がいる。力関係は決まっていて、逆転することは滅多にない。恐らく、自分たちの間には永遠にないだろう。自分は彼のために生きて彼が死ねと言ったら死んでもいいとさえ思っているのに、彼はきっとあたしのために命を捨ててくれるとは言わないだろう。
 いっそ死にたい。今彼があたしを大切にしてくれるこの瞬間に。そうでないといつか、彼を憎んでしまいそう───……
 死という単語がふっと脳裏に浮かんだ瞬間、それへの甘美な憧れと本能的な畏れによってシャラは堪えきれずに声を上げて泣き始めた。それを全て彼にぶつけるには覚悟と勇気が足りず、飲み込んでしまうには溜め込んできたものが多すぎた。
 そっと自分の髪を撫でる手がある。シャラは顔を上げてその手の主の首にしがみついた。
 こんな時でなければこの男はシャラが身をすり寄せるのを避けようとする。自分がどこまでも計算高い女であるという自嘲を心に聞きながら、それでもシャラは離れられない。
「好き……」
 結局、自分に残っているのはこの言葉だけなのだ。呆気ないほど簡単な、たった一つの言葉によって自分は自分を苦しめるもの全てと戦わなくてはいけない。そしてその戦いを見て見ぬ振りをされるなら、自分は本当に彼をいつか殺したいほど憎しむかもしれなかった。
「……大好き……」
 熱に浮かされたように呟くシャラの髪を、大きな手がゆっくり撫でる。この中途半端な優しさなど要らないとはっきり言えたらどんなにいいだろう? でもそうしたら彼はあたしから離れていかないだろうか。あたしを嫌いにならないだろうか。あたしにもう二度と会ってくれないんじゃないだろうか……
 知りたくない。知りたくない。この仮定を投げたときにどんな目を出すのかなど、知りたくもないし考えたくもない。だから言ってやれることはそう幅がなかった。
「ねぇ……いつか、あたしのこと、殺してくれる?」
 一瞬自分を抱き留める肩が痙攣したのをシャラは感じた。
 彼の呼吸はいつものように静かだが、その僅かな所作で鋭く心に噛みついたことをシャラは知る。泣きたくなるほどそれが嬉しいような気もしたし、取り返しのつかないことをしてしまったような恐れも同時にわいてきて、シャラはねえ、と再び言った。
「あたし、死ぬときはあなたに殺されたいの。ねえ、そうしてくれる?」
「馬鹿なことを言うな」
「……そう……ね、馬鹿みたい……」
 シャラは小さくしゃくり上げるように笑った。彼のことばかり考えている自分が可笑しかったし、こんな簡単な泣き落としの罠にはまる男もひどく可笑しかった。
 でも───死にたい。彼の手で死ねたらどんなに幸福だろう。こんな事を考える自分は本当に馬鹿なのだろうか。
 それを思ってシャラがもう一度小さく忍び笑ったとき、裏廊下から通じる扉が叩かれるのが聞こえた。注文に出していたものが揃ったのだろう。シャラはぱっと体を離して小さな仕出窓から出される銀盆を受け取った。代金はあたしにつけておいて、と窓越しに小間使いに言いつける。
 出てきた食事を彼に差し出しながら、シャラは彼が火を消した煙管を手に取った。漢氏竜の彫刻のある柄に指を這わせる。この煙管ほどに彼にほど近くいられたらどれだけ嬉しいだろうかと下らないことを思い、胸内にそっと溜息を落とした。
 彼のしていることはあたしを緩慢に殺すことだ。だからいっそ一息に殺して欲しいと願うことの何がいけないんだろう。それをいつかこの男に言えるだろうかとシャラは彼女の神に視線をやり、ふと笑った。
 多分かなわないことであろうと思うことのほうが、空想の中では美しく見えるものなのだ。シャラはそれをとうに知っているはずであった。
「───ライアン……」
 彼の名を戯れのように口にして、シャラはもう大丈夫よと言う代わりに笑う。
 悲しいときは、笑うしかないじゃない?
 死にたいときは、尚更笑うしかないじゃない。
 あたしたちは、美しく着飾って華やかに笑ってこその緋房の籠の鳥なんだから。
 せめてその小鳥の中で一番に愛でて欲しいという願いに突き動かされて、シャラは上機嫌に見えるように笑った。
 笑いながら手に残る煙管を、胸に燻っている何物かのためにへし折ってやりたくなる。
 その時、ほんの少し彼を憎んでいる自分にシャラは気付いた。


  殺してよ
  お前が別離を告げる前に 私が憎んでしまわぬ前に 




 酒場の中はいよいよ暗い。注文の酒がグラスごと目の前に置かれると、中の液体が僅かな灯りに揺らいで琥珀色の淡影を男の手に落とした。下町と呼ばれるこの界隈でそれほど良い色の酒があるはずがない。この薄暗がりはそのせいなのだろうかとぼんやり思いながら男は客席の間に立ちつくす、酒場の歌姫を見つめた。
 声は神が人に与えた最良の楽器だと、誰かが言った。それが最良だとするならば、それは魂からほとばしる熱の量に浮かされてのことでないだろうか。
 けれど、それは悪くない。男はふと唇だけで淋しく笑う。女が揺るがす声の中に籠もる熱は確かに魂の形に似ていた。
 歌はゆるやかに続いている。


   涙を持たない海鳥たちの 悲鳴は海へ墜ちるもの
  泣けずに沈んだ宿定は 閉じて籠もった貝のよう
  お前の元には届いている? 涙の代わりの、海鳥の歌

  探してよ
  波間にさすらう魂と 私の欠片をいつの日にか 


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