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 父を迎えに来た侍従が扉を閉める音がした。今夜は父帝は北接の大国ヴァリエーンの大使との食事会、つまり公務での晩餐である。公務がない夜でも両親と弟が揃っての食事は珍しいが、これは父と母の間の事情であった。
 元々親好的な間柄で結婚したというわけではない。父の兄であった先帝の失踪を受けての取り急ぎの即位と結婚だったのだから、二人が今強い愛情で結ばれていなくても仕方がないのかも知れなかった。一方のユーデリカ妃とは父は従兄妹同士であり幼馴染みでもあったから、自分にとってのエリザ公女のようなものであろう。
 皇子は母との食事は久しぶりだった。先年の終わりに中等学院を首席で卒業して以来、後宮の片隅で本に埋もれているか魔導の塔に集蓄されている文献の研究に殆ど毎日を費やしている。食事は気の向いた時に食べられる分だけという不規則さで、自然一人で何かつまむことが多かった。
 それは皇子にとって、気楽さへの依存でもあった。所詮自分は他人に合わせるのに慣れていないのだ。気心の知れた人間はとても少なく、心許せる者は更に少ない。母も例外ではなく、例えばこうして夕食に戻ってくるはずのラインを待つ間、何を話していいのかよく分からない。
 中等学院に通っていた頃にはその話を母の方から尋ねてくれたりもしたのだが、卒業してしまえば何もない。しばらくは体調のことも考えて高等学院への進学を数年先送りするように典医に言われたために、現在は魔導学の講義だけを聴講するにとどめている。
 一つにはこの年齢で高等学院へ進んでも周囲が全員20才を幾つか過ぎていて、今までのように周囲から完全に浮き上がることが分かっているからでもあった。
 魔導学の講義にしても、4年前に論旨を後継した時間生成理論の、皇子は今や旗手であり第一人者であった。魔導学は論理と仮定と計算と実験の永遠の螺旋だが、そのどれも皇子は筆頭に立つ実力があった。
 時間生成の実験だけは2年前の失敗によってしばらくは凍結だろうが、他愛ない他の検証実験程度なら皇子は一人で十分だった。そしてその度自分を見る学生達の奇異と賞賛と嫉妬と、恐れるような目つきを皇子は知っている。それがある限り、彼らとは相容れないことも分かってしまうのだ。
 だが、こんな話を母にしようと思ったことはなかった。中等学院のときもそうだった。どうにかして明るい話を掘り起こすことに熱心だったのだ。何か材料を捜してリュースは部屋をざっと見渡し、最近増えたらしい一枚の絵に目を留めた。光臨する天使と周囲に群がる魚の群れが幻想的な青を基調にまとめられている。
「天使画よ。綺麗でしょう」
 母の声がそっと囁くように言った。リュースは頷いた。宗教画としてよりも幻影画としての価値を追ったような一幅であるが、揺らめく波間に魚鱗が光る様や手を差し伸べて微笑む天使の顔が天上の安らぎを思わせる。よい絵であるといって良かった。
「どうしたのです、これ? 献上品……ではないですよね、まさか」
 天使画を書く画家は大抵若い。これは最近の若手や新人の画家の間で天使を意匠に使った絵が流行しているからだ。献上品として納宮される品は既に作家として名の立った者の作品が主流だから、天使画を後宮で見ることになるとは思っていなかったのは事実だ。
「ええ、勿論。美術監長がこの前持ってきてくれた画集の中に入っていたの。とても気に入ったと言ったら本物を持ってきたのよ」
 母は苦笑しているのだった。ねだったわけではないが、取り上げてしまったような気持ちもするのだろう。
 皇子はそれにそっと笑い、母の向かいの席を立って絵の前に立った。画家の名前は大抵右隅に完成した日付と共に入れてある。
「――スコルフィーグ……ああ、彼女ですか」
 皇子は署名を見やって呟いた。知っているのという母の声には曖昧に頷く。
「高等学院に聴講で行った時に、学院の中庭で声をかけられました。まだ若い……そうですね、多分20才にもなっていない女性です」
 経緯が分からないというように微笑みながら首を傾げる母に、皇子は向き直る。
 エミリア=スコルフィーグは皇子に絵のモデルになって欲しいと言ったのだった。絵画にも派閥や学閥があり、高等学院の芸術部展に出展するために学院を訪れた時に皇子を見かけたらしい。
 それを皇子は断った。忙しいと彼女に言ったのは間違いではなかったし、写真だけでもと食い下がられても、自分の写真には沢山の権利や営利が絡んでいるため気軽に許可を出せないのだ。
「まあ……こっそり写真だけでも撮らせてあげれば良かったのに」
 母の残念そうな物言いに皇子は少し笑い、露見したら彼女の方が困りますからと言った。自分は父帝からの口頭での軽い叱責で済むが、相手はそうはいかないだろう。平民層であるから尚更だ。口にしない部分を母は察したのだろう、残念ねと柔らかく笑ってじっと天使の面輪を見つめた。
 光臨する天使の表情は甘く優しく、微かに開かれた唇の微笑みが慈悲の形に納まっている。
「気に入ったなら持って行きなさい、リュース」
 絵にじっと視線をやっていた王子にイリーナ妃が言った。皇子は母を振り返り、いいのですかと目線で問うた。母妃は笑って頷く。それはいずれ侍女の手によって包まれて彼の部屋に届くことになるだろう。
 皇子が礼を口にしていると、侍女が茶を運んできた。くせのない発酵茶にいくつかの香料が混ぜてある香料茶で、母妃好みのいつもの凛とした強い香りがついている。この茶の匂いに触れるたびに、皇子は母親の元にいることを強く実感にするのだった。
「ご苦労。そこにおいて下がっていいよ」
 皇子はそう言って侍女を払った。どんなにぎこちなくても感触が掴めなくても、母親の側にいる時間は皇子にとっては貴重であり、全てに代え難かった。そこに他人を入れることを歓迎しない自分の狭量さに苦笑になりかける。
 が、それは彼にとっては何をおいても欲しいものであり、殆ど望みを持たない彼の唯一に近いものだった。なめらかな磁器のカップに茶を注ぎ、皇子は母親に受け皿ごと差し出す。どうぞ、と微笑んだ皇子はだが、一瞬後に怪訝にその笑みをおさめた。
 母はじっと皇子を凝視していた。僅かに見開かれた瞳の端で、睫が震えている。
「……母、上……?」
 ぼんやり皇子が呟くと、それで我に返ったように母は肩をひきつらせた。
「あの……何でもないのよ、大丈夫……」
 無理矢理笑う顔をどこかで見たことがあると皇子は自分の記憶に捜し、去年の聖誕祭へ辿り着いた。あの時も、母は自分を見て呆然とした。食い入るような真剣さと、驚愕と、泣き出しそうな瞳の奥の潤みがひどく似ている。
 それを聞きたいと皇子は思った。何故ですか、と口にしたかった。だが現実に立ち返った瞬間、皇子はもの柔らかに自分が笑って母親を気遣っていることに気付いた。
 ――聞けない。涙をこらえようとしている母の理由を聞くのが怖い。何故かと口に出してしまったら、答えを知りたがっていることが母に分かってしまう――
「母上、大丈夫ですか? ……これ、どうぞ。落ち着きますよ」
 いつもと変わらないように注意深く笑いながら、皇子は母妃の手にカップをそっと取らせようとした。
 その瞬間、母が掠れた悲鳴のようなものをこぼして身を折った。耳障りな音を立てて磁器のカップが皇子と皇妃の手の間で倒れる。皇子は反射的に皿を自分の方へ傾けた。母に熱湯がかかると思ったのだ。
「――っ……」
 カップから勢い付いて溢れた茶の飛沫が皇子の華奢で白い手に掛かる。一瞬上げかけた声を押し殺した時、床でカップが割れた。
 その音でイリーナ妃ははっとリュース皇子を見、彼が自身を庇って押さえた手へ目をやって、今度ははっきりした理由のために細い悲鳴になった。
「リュース――ああ、ごめんね、誰か、誰か! リュース、リュース、手を見せて――火傷になってしまうわ、ごめんなさいごめんなさい、ひどいことを――」
 母は狼狽えて口走り、彼の手を取って撫でさすった。
「大丈夫です、あの、殆ど掛かってませんから……」
 皇子はなるべく優しい声を出した。実際僅かに数滴が手の甲に飛んだだけで、殆ど跡にも残らない、冷やす手間も要らないようなものだ。痛みさえ、たいしたものではなかった。
 だが彼の声は母の耳には殆ど入っていないようだった。皇子の手を握りしめておろおろしながら、ごめんなさいとばかり繰り返している。リュースも次第に困惑が濃くなってきて、母上、と宥めるような声になった。
「もう大丈夫です。ほら、全然痕にもなっていない。どこに飛んだかなんて分からないでしょう――片付けを頼む」
 最後は母の声に駆けつけてきた侍女達に言い置き、皇子は皇妃の手を取ってその場を離れた。砕けた磁器のかけらが床に散らばって危険でもあったし、何より母を落ち着かせなくてはいけない。ラインが戻ってきたら庭へ出てくるように言伝して、皇子は母を連れて薔薇園へ出た。
 夏の夕暮れはようやく沈み始めており、空の一番高い部分は紺青だった。薄くたなびく紫金の雲、名残の日差し、そして夕日に温かな茜色に色づく白い薔薇。その薔薇は母イリーナの名を冠された比較的新しい品種で、ほっそりしたうてなから開く大輪だ。
「……今年はいい薔薇が出来ますね」
 皇子は今にも開きそうにふっくらした蕾をそっと指で撫でながら呟いた。とにかく彼の被ったささやかな災難のことを忘れさせたかった。
 未だに啜り泣いていた母は微かに頷き、彼の触れた蕾をよく見るようにかがみ込んだ。
「この薔薇はね、私がアルカナの本家を出て後宮に入った時に記念に贈られたのよ。もう……16年になるのね……」
 その声にはそれまで積み上げてきた経緯を振り返る感慨が滲んでいて、皇子は自分の表情がやっと和らいだのを感じた。母はじっと薔薇を見つめていたが、やがて両手で顔をそっと覆った。母の声が小さく、恐らくは自分にだけ向けた言葉を呟く。
 ――マリア。
「……母上……?」
 皇子の不思議そうな声に、母ははっと顔を上げて無理矢理微笑もうとした。
「大丈夫よ。何でもないわ……」
 皇妃は彼に首を振り、ようやく立ちあがって薔薇園の中央にある小さな泉へ歩いていく。整えられた庭に俯き加減に歩く母の細長い影が落ちて、どこかひどく寂しげであった。
 先ほど呟いた言葉は恐らく誰かの名前であろう。それが誰であるのか、皇子は知らない。ただそれに滲んでいた沈鬱さに母の痛みが宿っている気がして、皇子は余計な好奇心であると自覚はしながら、つい口を開いた。
「マリア……って誰です?」
 母は足を止めた。
 肩越しにゆっくり振り返る視線がじっと皇子に当てられて、やがて外された。伏せられた睫の影が頬に落ちる。
「……お友達よ。もうずっと昔の……綺麗で、可愛くて、素直で……とっても優しい子だったわ……私の大切な……妹……」
 一瞬皇子は去年の聖誕祭に聞いた母の妹のことだろうかと思ったが、すぐにそれは否定できた。母方の叔母はメリーナといったはずだ。貴族間では時折親しい年下の女性を妹と呼ぶこともあるから、きっとそれだろう。友人という言葉もそれを裏付けている。
 そうですか、と皇子は言った。母の友人達は誰も彼もみな華やかで眩しい。その中にマリアという女性がいたかどうかを記憶に捜し、遂に見当たらなくて皇子はでも、と続けた。
「最近は顔を見せていないのではありませんか? 一体どうしたんでしょうね」
 何気ないその言葉に母は視線をそっと戻した。何かいけないことを聞いてしまったのだと悟って皇子が慌てて何か付け加えようとしていると、母は低く呟いた。書かれた台本を丁寧に、しかし感情の籠もらないように棒読みしたような口調だった。
「――その友達は、もう、死にました」
 そう言った途端母妃はがくりとうなだれた。皇子は狼狽して母上、とだけ言った。母は彼を涙で赤く腫れた眼で見つめ、突然彼をきつく抱きしめた。一瞬肩の骨が軋んだように痛んだ。
「リュース」
 強い腕の力で母に抱かれ、息苦しささえ覚えながら皇子ははいと生真面目に返事をした。母の言葉はそれきり途絶えた。嗚咽が彼の耳元で続いている。呼びかけることも身じろぎすることも出来ず、皇子は黙って母の慟哭を聞いていた。
「リュース、リュース……愛しているわ」
 母は同じ事を繰り返している。愛している、愛していると何度も呟くたびに、その言葉の濃厚さが薄まっていくような気がするのは不思議だった。
 夕映えをじっと見ていた目を皇子は閉じて、母の繰り言をずっと聞いた。口を挟むことではない気がして、自分の呼吸音さえ押し殺した。
 母は確かにおかしかった。彼のことを呼び続ける低い声も、愛しているという囁きも、その両方が上の空のようにせかせかと流れていってしまう。その言葉が嬉しいという感情の反応を自分に連れてこないことが不思議で、皇子は溜息になった。
 それを聞きとがめたのか、母が不意に体を離した。皇子は既にさほど変わらない位置にある目線を怪訝に見上げる。母はじっと彼に注視を与え、そして再び顔を歪めた。
 ぐにゃりとゆがんだ表情が涙の前触れであることを分からない皇子ではなかった。具体的な方法は思いつかないものの、どうにか宥めなくてはと思うのは先ほどと同じで、皇子は母にそっと手を伸ばした。
 だがその瞬間母妃は半歩後ろに下がった。皇子は僅かな時間、まばたきをする。
 ――避けられた、という衝撃はやや遅れてやってきた。耳元を雪崩落ちていくような音がする。夏の余韻の虫の音のこだまと分かっていても、それは自分の血潮が脳天からひいていく音に思われてならなかった。
 皇子は何かを言おうとし、母親の様子に沈黙した。彼よりも尚更皇妃は蒼白であった。
「リュース、リュース、ごめんね、ごめんなさいね、愛してる、愛してる、お前のことを愛してる、お願い、ごめんね、愛しているわ――」
 怒濤のような言い訳を口走り、皇妃は彼と似た美しく繊細な顔を痙攣させた。救いを求めるように、首から下がった白金の神紋板をしきりにまさぐっている。
 その指先が神経質に板に埋まった瑠璃石をいじるのを皇子は視界に入れながら、母親のこの神経のかぼそさとささくれやすさは、確かに自分の中に流れている血なのだとぼんやり思った。
「ごめんね、愛しているわ、お願いよ、愛してる、愛してるわ……」
 呻きながら母は彼に向かって微笑み、そして首を振った。
「あの、あのね、もしお前が忙しいなら――」
「母上!」
 皇子は咄嗟に大きな声を出した。母は怯えたようにまた半歩、後じさった。その永遠に遠い距離に皇子は思わず顔を苦くし、それに自分で気付いて慌てて笑みを作った。
「あの、そ、そう、魔導学の論文を仕上げなくてはいけないんです、急がなくてはいけないから、その、今日は帰ります!」
 思いついた用事を口走り、皇子は母の返事を待たずに背を返した。
 東からゆっくり上る月に白薔薇が本来の青白さを取り戻しつつある中を、皇子は逃げるように走って抜ける――いや、多分これは逃げているのだろう。
 跳ね上がるほどに走る側から涙がこぼれそうになる。怖かった。母があの瞬間何を言おうとしたのかを考えたくもないし分かりたくもないのに、直感が声高に叫んでいる。
 忙しいなら来なくていいのよ。もう来ないで。来るな。
 最後に浮かんできた強い言葉に皇子は走りながら喘ぎ、奥歯をきつく噛み合わせた。母は泣きながら自分を愛していると言った。信じて欲しいと何度も目で訴えながら繰り返した。
 けれど、それをまるで信じていない。彼に対する最近、母はいつでも怯えたように彼を見ている。どんなに言葉を優しくしても穏やかに笑って見せても、喜んで貰えるように何をしてもそれは同じだった。
 自室に駆け込み、彼がいつも一人でいる場所になっている書庫に籠もると、全身から汗がどっと噴き出てくるのが分かった。
 息を整えながら、皇子は本棚に並ぶ皮の装丁の背を軽く拳で叩いた。どの本も政治学や経済学や、その他の皇帝教育のためにと母が贈ってくれた本だ。お前にその気があるならしっかり頑張りなさいと言ってくれた。その言葉一つで自分は本ごと覚え込んでしまうほど勉強したのに。
 なのに、その視線一つ微笑み一つ、弟から取り戻すことが出来ない……
 皇子は走ったせいで上がった呼吸が次第に胃の底で吐き気に変わるのを無理矢理押さえ込んだ。ライン、と呟く。
「愛してる、弟を、愛してる、ラインは可愛い、大切な、私の、大事な弟……」
 早口で呟く口調が母と酷似していることに皇子は気付き、小さく笑った。無性におかしくなってきたのだった。
 くすくすという乾いた笑い声をあげて暫く皇子は笑った。自分と母は全くよく似ている。これだから母は私が嫌いなのだ。自分の嫌な部分まで、全くそっくりに再現してみせるから――でも。
 皇子は自分の胸ぐら辺りを片手で掴んだ。心臓は壊れてしまいそうにきりきりと波打っている。その痛みで今死ねたらいいのに。そんなことをちらっと思い、皇子は苛立ちのまま本の背表紙を今度は思い切り叩いた。
 重い樫の書棚が揺れて乱雑に皇子が積み上げた本が崩れ、何冊かが彼の肩や背を打ちながら転がり落ちた。
 打擲に皇子は喉で呻き、背中の鈍い痛みを与えた本をまさぐりよせて適当なページを開いた。夜が落ちた書庫は暗い。だが、彼が何か書き込んだ痕跡を認めればそれで十分だった。
「――かくて行政の責任の所在は官僚を総括すべき統合機関に最終的には委ねられるがそれ以前に監査機関を置くことを厭うてはならないことを念頭に置くべきであろう。監査の監査を永遠に続けることは無意味であるとしても最低限に行うかその姿勢を常に見せておくのは為政者として当然の責務であり義務である――」
 皇子は本の一節を呟いた。どの本でもそうだ。彼は既にこの書庫にある本などは処分しても記憶の中から同じものを探し当てることが出来る。
 皇子はその本を放り投げ、次の本を手に取った。僅かな灯りに金文字の題名が光る。皇子は目を閉じてその中の一節を暗誦しはじめた。この本は行政学ではなく経済学の本だ。債券売買とその数値の理論について。その次は法律。次は軍学。歴史。地理。古典……そして魔導。
「時間軸は存在を前頁資料22にあるように数値上、絶対存在を確信するものであるが、次元軸との交錯におけるたわみは未知数である。帝歴1995年の魔導士カシュラムによる実験の際にはそれは極めて高い数値を示しており、それを付属効果として計算に組み込まなくてはならないことは必至といえよう。計算式は次頁資料23にて示す(資料23参照)。この計算が正しく効果が順調に魔導効果として成長をすることを前提にするならば、時の魔法はいずれ、「魔法」ではなく「科学」の名の下に実体を明らかにするはずである……」
 自分が書いた論文を暗誦し、皇子はそれを収録した魔導学の本を思い切り床にたたきつけた。
 こんな論文、書かなければ良かった。あんなに必死に学業になど専念しなければ良かった。知識や学問など、極めるために突き進んでいっても最後に待っているものが母からの隔絶だと知っていたらそんなこと、最初からするはずなんてなかったのに……!
 皇子は上がってきた苛立ちのまま、床に散らばった本を壁に叩きつけた。自分の中にある納得しきれない怒りや、弟に対するどす黒い感情をどうしていいのか分からなかったのだ。
 更に投げつけるものをと床にあった本に腕を伸ばした時、手首が突然捕まれて皇子ははっと振り返った。微かにある灯明が仮面の銀を反射して光った。
「殿下、それ以上はどうか」
 彼の随従の魔導士が、表情の見えない仮面の下から心痛めたような声で彼を気遣っていた。
 マルエス、と皇子は顔を苦く歪めた。この瞬間に、誰とも顔などあわせたくなかったし会話もしたくなかった。一人になりたかった。その身に馴染んだ孤高で自分をひたすら慰撫してやる時間だけが欲しかった。他人の気配など、身近にしたいとは思わなかったのだ。
 下がれ、と一喝するとマルエスは彼の手首を放して平伏した。魔導士の長く暗い色の衣が黒い沼のように床に広がった。
「いずれ、そのようにも。しかし殿下、本をお仕置き下さっても何かが変わるわけではありません」
 核心を一言で射抜かれて皇子は僅かに呼吸を飲み込み、頬にかあっと上がってきた熱さに押し出されるようにうるさい、と怒鳴った。
 マルエスがお許しをと低く言って彼の足の甲に額を押しつける。仮面のひやりとした感触に、皇子は急に心臓を掴まれたようにどきりとした。
 その一瞬で皇子は我に返った。まだ燻っているような火種は胸の中にあるが、頭の方は至極冷静な、普段の彼の通りに戻りつつある。自分を巻き込んだ一時の熱狂とも言うべき荒廃から目を背けた時、真っ先に随従を怒鳴ってしまったことが胸に落ちた。
「――すまない……怒鳴って悪かった」
 俯きながら皇子は呟いた。自分の声にひび割れるような疲弊が滲んでいることに一瞬置いてから気付き、溜息になる。
 緩く首を振って本棚にもたれ座り込むと、顔を上げたマルエスが何かお持ちしましょうと言って手を差し出した。彼の手に掴まって腰を上げ、皇子は居間へ戻る。大して動いたわけでもないのに息が切れた。
 窓辺の椅子でじっとしていると、目の前に切り子硝子のグラスが置かれた。口をあてると苺の甘い香りと共に微量の酒精がした。苺を漬けた酒を水で薄めたものだろう。
「落ち着かれましたら少しお休みになって下さいませ。夕食はライン殿下がこちらでご一緒されるという連絡を母妃殿下から頂きましたので、もう少々かかります」
「ラインが? ……そう」
 皇子は深く頷いた。母のこれは気遣いだ。または本当に気分が悪いのか。いずれにしろ皇子が逃げるように自室へ戻ってしまったことを気にかけて弟をこちらに寄越すのだから、母が彼に申し訳なく思っているのは本当だろう。
 そんな遠慮。
 皇子は胸の内で苦々しく呟き、軽く目を閉じた。激高と滅茶苦茶な運動が彼の強健でない身体を次第に気怠い沈黙へ押し込めようとしている。腕が重い。
 自分のひ弱さ加減に皇子は今度は苦笑し、マルエスに下がるように言った。
「大丈夫……大丈夫だから、ラインが来るまで少し一人にしておくれ」
 彼の既に去った激しさを理解したのだろう、魔導士はゆっくり頷いた。
 マルエスは皇子に随従するようになって長い。勿論他の皇子達にも両親にも護衛の魔導士がいるが、一番馴染んでいるのは皇子であったかも知れなかった。魔導に通じ才能があることを誰よりも知っているのは皇子であり、その為にマルエスは彼の良き相談相手でもあったからだ。
 マルエスが軽く一礼して書庫の方へ歩いていく。皇子が散々投げ散らかした本を片づけてからこの部屋を去るのだろう。多少気恥ずかしい思いをして皇子はその後ろ姿を見やり、そして呼び止めた。
「マルエス、彼のことはどうなっている?」
 去年の夏頃から皇子は中等学院でわずかな時間を共にした少年を捜すことに魔導士を従事させている。
 さほど急いだ報告がないということはまだ見つかっていないと言うことではあろう。もっと人手がいればとも思うが、これが皇子の個人的な感情を満たす物であるという気枷があって申請を出来ない。マルエスの方は案の定、困惑したような吐息を落とした。
「――ラウール本家の屋敷には既にラウニス伯爵家が入っておりまして、痕跡が入り乱れております故、判別に多少時間が」
 ラウニスはラウール本家の門閥家の係累だが、ラウール失脚の余波の通りにさほど勢いがない一族といえた。が、散り散りになったラウール系閥の今は筆頭でもある。他の家と結託はしていないから再興などという夢は見ていないのだろう。ラウール本家の門地に移住したのはそれを受け取る権利があったからに過ぎない。
 旧ラウール屋敷の中に残る沢山の痕跡、例えば誰かの触れた壁、使った机、そんなものに残る気配の残り香をマルエスは捜していた。人には必ず固有の斑紋がある。気の流れでもあるし指紋などの具体的な物まで含まれているが、屋敷の中の多々ある痕跡を総検討し、どれがキエスのものであるかを判別し、特定が済んだ後にそれを元に探索を開始するという腹だ。
 但し、現在その屋敷にはラウニス伯爵やその家族、召使いなどが起居している。彼らの痕跡とキエスの痕跡をより分けていく作業は膨大で、マルエスが時間が欲しいというのはそのことであった。
 だが、マルエスは出来ないとは口にしていない。だから時間は掛かってもいずれその答えも結果も皇子に披露するだろう。
「……期待している。よろしく頼む」
 はい、とマルエスが仮面の下でそっと笑う気配がした。皇子は視線を随従の魔導士へやる。マルエスは軽く会釈すると、皇子に銀の仮面をまっすぐ向けた。
「殿下が御熱心ですので、つい」
 僅かにリュースが赤面すると、それを見なかったようにマルエスは深く腰を折り、書庫へ入っていった。扉が閉まって魔導士の長衣が消える。皇子は何故かほっと溜息になり、目の前の淡酒を含んだ。
 何故、とはマルエスは聞かなかった。それを聞くことの出来る立場でもない。それに甘えて自分が説明を怠っていることを、リュースは自覚していた。
 何故彼に会いたいのだろう。その疑問は、自分に何度問いかけても毎回違う答えが返ってくる。
 彼は私に何か話があるはずだから?
 魔導論文の賞金を渡してやりたいから?
 彼の逃亡の理由を聞き、出来ることなら力になってやりたいから?
 そのどれもが間違いではなくて、完全に正しい訳でもない。会って一体どうしたいのかと聞かれれば、皇子は曖昧に微笑むしか出来そうになかった。
 けれど気になる。自分を見つめていた眼差しも、身を翻すように逃げてしまう時にもきつい輝きになる気性も、偽悪的な口調でさえ、何かの声にはならぬ言葉である気がして落ち着かない。
 あえて無理に総括するなら、と皇子はふと思い浮かんだ言葉を呟いた。
「彼と……友達、に、なりたいのかな……」
 名前も知らないのに、とリュースはぼんやりと思い、唇で薄く笑った。それでも思いついたその言葉は自分の胸にひどくしっくりと納まるようだった。
 彼の抱える孤独と皇子の抱える孤独はよく似ていた。気位が高くて他人を寄せ付けない――彼はいつでも人の中心にいたが誰にも心を許していなかったことは分かる――所も、誰からの理解も欲していないと身構えてみせる所も、孤独に慣れてしまった所も。だから会えばきっと――多分、話が出来る。リュースはそれが自分の勝手な空想であることを承知しながらも、うち捨ててしまうことが出来なかった。
 彼の話を聞きたい。今まで何処にいて、どうして生きてきたのかを。喜びの話を苦しみの話を、辛さも楽しさも、その生きてきた軌跡を知りたい。
 話がしたい。どんな下らない話でも。皇子はきゅっと唇を結んだ。
 ――淋しい。それは皇子が次第に重苦しく感じ始めていた身の孤独であった。
 彼を取り巻く人々は彼を憧憬し崇拝しても、決して近寄ってこようとはしなかった。彼に取り入ろうとする者たちは沢山いたが、彼に近しくなろうとする人間はついに見当たらなかった。憧憬があるなら嫉妬もある。双方の視線の重さだけが共通だった。
 少女達はまた違う目で彼を見た。沢山の手紙、手作りの押し花の栞、刺繍の入ったスカーフ、そんなものと共に愛の告白も嫌というほどきいた。
 けれどそれは皇子は全て断っている。よく分からないのだ。人を恋すること。愛すること。その心が一体どこから派生してくるのか、彼には全く理解できない。エリザ公女は呆れ顔で、考えることがそもそもいけないのだという事を言ったが、その意味さえあやふやで掴めない。
 気持ちという不可解は自分の中の薄暮であった。うっすらと見える気もするが、何があるのか得体が知れない。そして正体の見えないものは怖い。
 けれど、母の関心は欲しい。あの視線や弟に向けるような優しい笑顔や穏やかな声が、もっと欲しい。弟に目を取られがちな母の、年上である彼に理解と分別を求めている母の、柔らかな腕に抱き巻かれて感じる安息を、もっと欲しい。そしてそれは弟がいる限り自分に燦々と注がれないだろう。
 胸に一瞬さした鋭い痛みに、リュースは端麗な頬を歪めた。これはきっと、淋しさのための苦痛だ。決してラインを自分は嫌ってなどいない。だから母上、もう少しでいいから、ほんの僅かでいいから、一瞬でいいから、
 ――私を見て下さい。
 皇子は首を振る。彼に会いたい。会って話がしたい。その淋しさを、例えようのない孤独感と虚無感を、彼は分かってくれるだろうか……
「……本当に、何て、都合のいい……」
 リュースは低く呟いた。けれど、淋しい。
 誰よりも孤独だと、淋しいと、皇子は呟いて滲んできた涙を押し出す為に目を閉じた。



見つめてよ
お前の世界の中心を 私がすっかり占めるまで──


 酒場女の歌声は朗々と、小汚くて薄暗いホールに響き渡る。
 安酒を更に水で薄めて飲む客達が、女の歌に口笛で加勢する。竪琴の音は陰鬱で、それを弾く指の持ち主のように暗い表情だ。
 きらきらひかる、硝子玉の髪飾り。
 安直な煌めきが安酒場での余興に相応しく、床に淡い影を落とす。
 女の歌は、まだ続いている。



 愛を囁く海鳥たちの 歌は掠れた しゃがれ声
 嗄れた喉から啼きあげて 今宵も死ぬほど 呼んでいる 
 お前の元にも届いている? 悲鳴のような、海鳥の歌

 抱いていてよ
 お前の持てる両腕の その長さに余らぬように
  海から上がってくる風が枝をゆらした。盛夏に茂った濃い緑がざわめくと、耳に遠く巻いているような潮騒と混ざって不思議な音になる。療養所の庭は患者達を宥めるために広く作られていて、木陰とその下のベンチが存在するが、広さ故に他の患者と出会うことが珍しいのも気楽で、最近は尋ねてくると庭に出ることが多い。
 ベンチに腰を落として自分の肩を枕に眠る母にちらりと目をやり、クインは自分のスカートの皺を丁寧に伸ばした。
 顔色は確かに良くなった。感染値も下がって療養所の中であれば条件付で歩くことが出来るようになった。頬の血色もいいし、薬も効いている。その薬のせいで母親は先ほどから目を覚ます気配がないが、それでもクインは良かった。
 月に一度顔を見にミシュアまで空間転移してくるが、その都度母は身体を回復させていくように見えた。この療養所に母を置いて最初の数ヶ月、自分が半信半疑であったことは否定しない。
 本当に薬は効くのだろうか。本当に母は助かるのだろうか。母には言えない身の切り売りをしてまで稼いだ金は有効に、自分を救う柔らかな腕の持ち主を現世につなぎ止めてくれるだろうか。そうでなかった時、自分はどうしたらいいのだろう。
 最後の疑問が浮かんだ時、クインは恐怖のあまりにそれから目を逸らした。そんなことは考えたくなかった。彼の中にある不安という根は雑草のように頑迷で、幾ら千切っても千切っても次々に芽を出しては彼を苛立たせる。
 けれど母の様子を見ている限り、薬は良く効いているようだった。療養所に連れ込んだ時は既に美しかった爪の色が奇妙に黒くなり、左の小指と薬指は麻痺が進行していた。
 指先の色はもう戻らない。黒死に罹患した患者がよくするように、母もまた、色の変わった指先を隠す為に手袋をしている。
 無造作に膝に置かれている手を、包み隠す布地の上からクインは撫でた。この手の熱さが彼をひたすらに導き、守り、愛してくれていたのだ。離れていても、それは変わらない。
 自分は母を愛しているし、母も自分を愛している。
 ――でも。クインはそっと溜息になった。
 離れている時間は彼と母の間に遮蔽幕のように薄く、何かをかけてしまった。手袋のごく薄い遮断でも決して素肌に触れられないように、自分とこの優しい人の間に、何かが横たわっている。
 離れて過ごしているせいなのか、それとも母に話せないことばかりが増えていくからなのか、クインはそれを考える度に自分の胸の中を烈しい苛立ちや屈折した怒りが荒れ回ることを自覚している。
 自分は何かのせいにしたいのだ。クインは他人からは表情が見えないように俯き、ぎゅっと唇を噛んだ。
 憎いというなら全てが憎い。
 何故俺ばかりがこんな怒りを抱えなくてはいけない。生まれた瞬間の星の配置のせいか、それとも宮廷内の事情ってやつか、どれにしたって俺を放り出してもう片方だけを大事に暖めている理不尽のつけを、払わせてやりたい。
 理不尽、理不尽、理不尽。呟く口調に潜む切羽詰まった苛立ち。クインは表情に出ないようにゆっくりと奥歯を噛み合わせた。
 納得なんか、出来るものか。俺が母さんに話せない秘密で苦しい時に、あっちは大切に絹の衣装にくるまれて微笑んでいればいいなんて、どうして決まったんだろう……
 そしてクインはいや、と自分を宥める為に首を振った。
 皇子は彼に優しくあろうとした。何かの共感をその瞳に見ることが出来た。ほんの一瞬の交感でも分かることもある。
 皇子は自分の正体を知らない。けれど、自分と話をしたいに違いない。ほんの僅かに目を見交わした瞬間も、曇りのない明るい、嬉しそうな笑顔だった。
 ―――皇子になど、会いたくない。皇子の優しい笑みも素直な視線も、事情の内実を知らないなりに気遣うだろう態度も、全てが自分を鞭打つのが分かっている。それは自分の持ち物であったかも知れないのに、自分の可能性の影と現実を突きつけられれば痛い。
 痛いことは分かっているから自分がどうするかも知っている気がするのだ。
 会いたくない。自分を何の条件も見返りも期待せずに優しくしようとしてくれる人を、この手で、言葉で、蹂躙するようなことはしたくない。
 会いたくない。会えばきっと自分は彼を傷つける。そうしてしまいたくて仕方がないのだ。
 この煮えるような黒い気持ちを憎悪と呼ぶのかも知れない。自分の上を通り過ぎていく男たちの仕打ちなど、憎しむのにも値しない。あんなものはただの仕事だ。流れていく時間を、滑稽で奇妙な仕草を、目を閉じるなり天井を見上げるなりで潰していればその内に終わる。
 最初の頃に感じていた生理的な嫌悪感も、精神的な負荷感も、全ては消えた。その方が自分にとって楽であることを承知して享受しているはずなのに、何故それがこんなに気に食わないのだろう。そして思考は皇子の元へ戻る。自分と同じ血を持つ、彼の幸福について。
 死んでしまえばいい。ちらりと湧いたそんな言葉にクインは溜息をついた。皇子のことを思うたびに、憎悪だけが募った。間違っていることは知っていても。クインはじっと目に鮮やかに映える芝生を睨み、唇をひき結んだ。
 ―――もうすぐ、15になる。
 母はあの約束を覚えているだろうか。黒猫の小さな友人を置き捨てていった夜、全てを話してくれると言ったその言葉を。
(15になったらね。そうしたら教えてあげる……)
 その声の暗さを記憶から呼び戻し、クインはぞっと目を閉じた。何かに押し潰されそうな、母の声音の重さと暗さがひたすら耳元でうなっている。掠れた蜂の羽音のように、それは彼の心に煩わしく寄ってくるのだ。
(お前の母親は私よ。私一人よ。お前は私の子よ、私の子なのよ……―――)
 私の子。母親は私。愛してるわ。繰り返される呪文のような呟きに、自分はいつだって頷き、微笑み、母の温かな身体に抱きついて頬をすり寄せて受け入れてきた。それをしなくなったのは母が発症し、療養所へ入ってからだ。
 肌が直接触れなくなったからなのか、それとも自分が次第に沢山のことを知り得たせいなのか、同じ事を言われて以前と変わらず頷いていても、胸の奥では別のことを考えている―――何故。
 何故自分だけが王宮を出されて市井にいるのか、母が自分を連れているのか。答えは既に輪郭を掴めるような位置にある気がして、クインはそこから顔を背けることしかできない。
 それは自分を今まで愛してくれたこの女の、暗い部分を知ることと同じ意味だからだ。
 マリア・エディアルという名前は恐らく虚偽だ。どういう事情であれ、母が皇子を皇城から連れ出すことが出来たとするならば、自分とリュース皇子の出生時に皇城に出入りできる立場にいたということに他ならないが、現在行方不明となっている貴族の名前の一覧にはなかった。
 貴族の俸禄も収支も、租税や諸権利が密接に国庫と絡む為に戸籍に付随する形で公開されている。帝都の台帳管理事務所へ行けば、誰でも閲覧が出来るのだ。
 母の実家と正体さえ、分からない。闇に紛れた根の部分に向かって進むことは出来るはずなのに、怖い。だって……
 浮かんできたまがまがしい言葉の毒気を抜いて鎮める為だけにクインは深く呼吸をした。
 皇城から皇子を一人連れ出してその後連れて歩いているとなるなら、それは誘拐というものではないのだろうか? その証拠に一度は迎えが来たのではないか?
 そしてそれを母は振りきって逃げた。クインを少女に擬態させ、母娘の記載の戸籍まで探し、殆どの財産をなげうって安全を買った。
 中央中等学院に入学することをあれほど恐れていたのは、貴族の子弟の多さや何よりも皇族の教育機関としての役割を知っていたからで、いずれ自分がリュース皇子と再会することも理解していたのではないだろうか。リュース皇子と自分が真向かえば、そこから何かが零れてしまうと思ったから?
 いずれにしろ、どの仮定も母をおとしめることしか出来ない。彼女が今まで注いでくれた愛情を疑っている訳ではないが、基盤となる血縁関係を自分で否定してしまっている今、それは疑問と過去の真実への欲求に変化するしかないのだ。
 けれど怖い。母親の過ちを自分で暴きたいと願うことなど、どれだけ恐ろしいだろう。彼女の悲しむ顔など見たくない。恐怖で強ばる顔も、絶望に黒く塗りつぶされた顔も、何もかも見たくない。
 それを見なくてはならないとするなら、真実など要らない。母、マリア・エディアルと名乗る女の為に。
 クインが再び長い溜息になると、肩がふっと軽くなった。知らない内に身体が揺れていたのだろうか、母が長いまつげをゆっくりとあげていくのが見えた。その奥に濡れ輝く黒い瞳が夜空のように美しい。
 こんなに綺麗な人だったろうかとクインは不意に恐ろしくなる。病のせいで暫く沈んでいた肌の色はやや戻ってはいるが、血の気の薄い頬などは透けるような白さだ。けれどそれは母の美しさを少しも損ねない。却って空恐ろしくなるような肌の美しさにいつの間にかすり替わっている。
 一瞬のぼんやりを癒すように母は笑い、そして彼の背後へ向かって会釈した。
 クインが振り返ると、同じ療養所の患者であろう老婦人が杖を手にゆっくり歩いてくるのが見えた。患者と分かるのは母と同じように手袋をしているからだ。クインは立ち上がって椅子を譲ろうとするが、老婦人は穏やかな笑みのままに首を振った。
「一度座ってしまうとね、立つのが辛いのよ。こんなお婆さんになったら分かるわ」
 機嫌良く、小さく笑う声に悪意がないことを知り、クインはほっと微笑む。それでも座ってしまうには居心地が悪かったから、何となく、立ちつくした。
 母と老婦人は患者同士の気安さでひそひそと世間話をしている。他愛のない話に適当に付き合って微笑んでいると、老婦人は彼を見て目を細めた。
「でも本当にいいわねえ、こんなふうに娘さんがしょっちゅう会いに来てくれるんですもの、お幸せだわ」
 母は微かにくすぐったそうな表情をし、そしてゆったり頷いた。この子は、と彼の腕をそっと撫でる仕草に籠もる熱は以前と全く変わらない。手袋の薄い遮蔽が悲しいと思うのは自分の勝手なのだろう。
「この子は私しか家族がいなくって……父親はとうに亡くなりましたし、私の方は天涯孤独の身ですから……」
 老婦人が頷き、彼に向かって淋しいわねと微笑んだ。それに曖昧に笑って首を振り、母さんがいますからとクインは呟いた。社交辞令のようにでも口にすると、それが真実胸に沁みた。
 この母が居たからこれまでを過ごしてこられた。逃亡の理由も身分の詐称や秘匿の理由も、どうでもいい。母を守ることが自分に出来る限りそうし続けたいと願い、望み、帝都へ戻ったのだから。
 今更後悔などはしない。母を離れて見捨てることなど出来はしない。けれど、自分がこの世に生きていることの真実を知りたい。だがそれは、母を糾弾し追いつめることと同じ意味ではないのだろうか―――
 クインはふっと母達から視線を外すことで、それを忘れようとした。
 彼の翳った表情に気付いたのか、老婦人は散歩の途中だと笑って立ち去った。木漏れ日の強い日差しに彼女の背が遠くなるのを見つめていると、母が消え入りそうな声で低く呟いた。
「―――カース……」
 思わずクインは振り返った。その名前は彼の耳を通って心臓を凍りつかせる効果をもった、魔術であった。
 様々な疑心と惑乱が脳裏を通り過ぎていくのを呆然と見送って、何かを言おうと唇を動かしたが、そこからは言葉は遂に出てこない。強い嵐に全てをさらわれて惚けているようだ。すうっと脳天から血がひいていくような感覚がした。それでやっとクインは我に返る。何を言っていいのか未だに分からないまま、母さん、とだけ呻いた。
 母は視線をまっすぐに彼に与え、そして眩しそうに手をかざした。それが木漏れ日の強い光を遮ったのか、それとも母の胸内にある何かを直視しない為の仕草であるのか、クインは知りたいとも思わなかった。
「……覚えていたのね……もう子供の時のことだから、忘れてしまったのだと思っていたけど」
 母の声は何かを懐かしがる甘さを含んでいる。彼を攫いに来た男が彼の目の前に現れてから、10年がやっと経過しようとしていた。この秋でクインは15才になるのだ。
 微笑む母の面差しの影の薄さに、クインははっきりと戦慄を覚えた。何かを悟ったような表情は、人の命の薄さの証明のような強さをかいま見せられてどんな言葉よりも烈しく怖ろしい。自分を見て遠く懐かしいものを見るような顔になったことが、母の命数の少なさを叫んでいるようで、クインは怯えの為に視線を外した。
「私はお前に沢山の話を―――」
「母さん」
 クインは反射的に母の言葉を遮った。声音を使うことさえ忘れていたのに気付いたのは一瞬おいてからだ。
 彼は真実震えていた。一番冷たく寒いものは、いつも身の内側からやってくる。母の語る真実を聞きたいだろうか。自分は何を一体知りたいのだろう。
 中核は既に知っているとクインは考えていた。自分はまず間違いなくリュース皇子の双子の兄弟だと、考えるまでもない。あの皇子を見た瞬間にそれは知り得た気がする。生まれた年や時期もほぼ同じ、まるで鏡の中から抜けてきたようにうり二つの自分たち、そして何よりも、あの幼いばかりだった夜に彼を迎えに来た男が言った言葉。
(それが身分というものであるからです)
(母君が悲しまれます)
 彼は自分に膝をついた。母のことはマリアと呼べと言った。それが身分だからとも。あの言葉や仕草の一つ一つが自分の推測に強い信憑を持たせている。だから母の口から語られる真実が何であるのか、そちらの方が今となっては怖かった。
 自分は臆病なのだとクインは唇をゆっくり噛んだ。夏のむせるような熱気の中にあって、そこは酷く渇いていた。
「母さん、いいの。大丈夫。私は、今のままで、本当にいいの」
 どうにか作り出した少女の声音は、それまで自然に使いこなしていたものとさほど音調が変わらない。それに気付いてクインはようやく掴まることの出来る安堵を見つけた。
 呼吸を僅かに整えて、それまで凍えているように固まっていた頬を弛め微笑んだ。
「……母さんが私のことを愛子だと言ってくれるから、私はそれだけでいいから。ね、私、お父さんのことなんか興味がないの。今までだって助けてくれなかったもの。お父さんが生きているにしても死んでいても、今の私には関係ない」
 関係ない、と強く言いきると、母は眉を僅かに寄せた。悲しげというにはあまりに淡く、切ないと呼ぶにはひどく穏やかな顔であった。
「……そう、ね。そうかもしれない……でも、私は私の罪の話をお前には聞いて貰わなくてはいけないわ……」
「罪」
 クインは低く繰り返した。その禍言に一度は落ち着いた胸があやしく騒ぎ始める。心臓が次第に痛みを訴え始める。波打つように耳音で鼓動が響いた。
 母の罪、が一体何であるかはもう知っている気がした。その罪ゆえに追われ続け、流れ続けなくてはならなかった。追っ手の影を感じるたびに暗くひきつった頬の歪み、怯えたような瞳の色、切羽詰まった声音が彼を抱きしめてお前は私の子だと囁き続けた。
 そこまでして自分に刷り込みたかった幻影を未だに共有しているのだと母には永遠に信じていて欲しい。自分がどうやら真実に近いものを知りつつあることも、真相を知ろうと思えば手段がない訳ではないことも、教えたくない。
 何故そんなことをして、彼女を悲しませなくてはいけないのだろう。自分を守り、導いてくれた優しく白い手を、拒絶することなど出来ない。そんなことが出来るはずがない。
 母が何故自分を連れているのかは知らないが、注がれてきた愛はこの世で唯一信じるものを選べと言われれば指さすものだ。
 彼女の微笑みを信じている、愛している、他に何も信じられなくても愛せなくてもいい。それだけが重要で絶対で唯一なのだ―――
 躍起になってそれを自分に刷り込もうとしていることに、クインは薄々気付きながらも目を逸らした。罪と言われて騒ぎ始める血潮が喉を上がってきそうで苦しい。
 クインは微かに喘ぐように呼吸をし、母さん、と震える声で言った。
「母さんの言うことが何であっても、私は母さんの味方だから。罪なんて言わないで。そんなこと、聞きたくない。私は知りたくない。母さんの罪なんて、あるはずがない……」
「―――私は聖女ではないわ、カース……」
「私、そんな名前じゃない。そんな人知らない、お願い、母さん、俺は母さんとずっと一緒にいるだけで、いいんだ……」
 言葉の輪郭が不意に少年のものへ揺らいだのにクインは遅れて気付き、自分を落ち着かせる為に首を振った。その仕草に弾かれたように澄んだ、甲高い音がした。腰のベルトから通した銀の懐中時計が指定した時刻を告げている。
 クインは明らかに安堵し、時間だわ、と呟いた。空間移転は身体への負担が少なくはない。今夜の客のために、もう移転座標まで戻らなくてはいけないだろう。
「仕事、忙しいのね」
「ええ、そう……ね。でも慣れてきたから平気よ。母さんは心配しないで。また、ね」
 マリアはクインを見上げてゆったり頷いた。
 彼女に微笑み返してクインは血縁のない、自分を皇城から拉致したはずの女の頬に、そっと唇を押し当てようとした。母がごく自然に、しかしいつものように決然と身を引いた。母は、彼に死の病が伝染することを心からおそれている。
 クインは母に淡く笑いかけ、そしてごく簡単な肌の触れる喜びを放棄して、彼の住処へ赤い色をした迷路の中へ戻るために背を向けた。
 空間転移から抜けて現実へ出る瞬間は、いつも極彩色の悪夢を見る。胸が悪い。それまで水中にいたような身の重さがふっと消えて空間へまろび出るような感覚と、僅かな座標の誤差のために、クインは転移から降りるときは大抵転倒した。勿論そのために、転移から抜けてくる場所は彼の部屋の寝台の上になっている。いつものようにそこにどさりと勢いで転がり、クインは吐息を漏らした。
 魔導で空間を渡る時の酩酊感はいつまで経っても慣れそうにない。身に馴染んだ悪寒を喉で宥め、クインはのろのろと寝台に座り直した。襟元に柔らかく結んだスカーフを引き抜いて首を楽にすると、自然と溜息が零れた。
 母さん。呟きは既に少年としての落ち着きに戻っていたが、一度覚えた動揺はなかなか静まってくれそうになかった。母が言いかけた罪という言葉が、払っても払っても重く蘇ってくる。
 ―――罪の話を聞いて貰わなくてはいけないわ。私は聖女ではないのよ。
 クインは頬を歪める。彼にとって母親の聖性は絶対で、世界で最も美しいものであった。そこが汚されることへの怖れは根深く彼の中に居着いている。
 母が15になったらと期限を切った夜から、自分は一度も真実を尋ねなかった。髪の青が少しでも覗く日は、閉じこめてでも外へ出さなかったような頑とした人であった。はっきりと口に出したことを、撤回する人でもない。
 それに流転の最中の母の怯えように、不用意に聞いてはいけないことなのだとクインはいつしか悟っていった。母を悲しませ恐れさせるものこそが幼い流転の日々に知っている一番の敵であったのに、自分が同じ事をしようなどとどうして思えただろう。
 それでも10才の秋に彼の分裂した運命に出会った瞬間、逃亡の理由の方はするするとほどけていったのに、肝心の動機は却って絡まってしまった糸のようであった。
 尋ねなかったことが今更正解だったと安堵するのは自分が逃げているせいだろうか。母が言う罪とやらが真実許されざるものならば、そんなことは知りたくないのだと思っているのは否認という罪だろうか。そして何よりも、母の元から帰ってくる度に募る、渇仰のような思慕をどうしたら。
 母親の腕の温かみを知っていた時代から急に放り出されてしまったからなのか、クインはそれに巧く対応できない。ふと気づけば人肌の恋しさ故になのか、気に入った客には最初の頃より甘い態度をとっている。
 それを認めざるを得ない夜は、ひどく打ちのめされた、惨めな気持ちになった。クインは記憶から吹き上がってきた沢山の痛みをこらえるために唇を噛んだ。
 誰か。胸の奥からかすかに聞こえてくる声を、クインはいつも遠くに聞いている。ミシュアの海から駆け上がってくる潮騒と似た、心ざらめく悲鳴のようなその声を。
 誰か、誰か───お願いだから……───
 その後の言葉が何であるか、クインはいつも聞かない。そんなものに耳を貸してはいけないのだということだけがわかっていれば十分だった。
 母の不調は仕方がない。それを救うためにはこれしかなかったと納得はしている。けれど心の中にある痛みまではどんなに慰撫しても頑として折れなかった。そのために皇子を憎むのは間違っているなら、あとは自分を厭うしかなかった。
 クインは寝台に座り込んだまま、片手で顔を覆い、そしてもう片方の手を自分を抱くように回した。誰か。耳の奥から何かが囁いている。
 母の腕に巻き取られて幸福だと思っていた日々が遠い。あの頃のように誰かと何の見返りも打算もなく、ただ愛のためだけに手を取り合うことは自分にはもうやってこない気がしてたまらない。そんなことを考えただけで、震えがくる。母を失いたくない。彼女をどうしても自分の元から無くしたくない。
 マリア=エディアルと名乗っている彼女の正体も罪とやらの内容も、どうでもいい。彼女だけが自分を真実愛している、この世でたった一人なのだ。
 クインは顔を覆っていた手を外し、今度は両腕でしっかりと自分を抱いた。外は夏のぬるい黄昏で、寒さを覚えているわけではない。けれど、そうでもしていなければ自分がいつまでも震え続けなくてはいけないようで、居たたまれなかった。
 長い溜息が、床に落ちていく。
 客はその欲求に従ってクインの内面には無頓着、それがましな言い方であるならば無神経だった。そう振る舞う権利も他の娼婦たちなどと比較にならない金額に含まれているというなら間違いではあるまい。それにいちいちつきあう義理もないと反発を覚えたのも最初だけだ。
 物として扱われることにクインは慣れた。極上の人形のように仮想の天使や悪魔のように客たちは彼を愛でたが、それはすべて彼の表面を滑り落ちていくもので一晩たてば忘れるもの、朝の水浴と共に流れて消えていくものとなった。
 それでよかった。彼らの勝手な幻想や妄執に関わるよりも、自分は物であるのだと暗示して天井の模様を数えている方がよほどましだった。
 けれど、そうして頑として無機質を装った心をしどけなく解放する場所が、ついに見つからない。以前は母が彼の負荷を柔らかに吸い取ってくれていた。幼い頃に涙を唇でついばんでくれたような暖かさがいつでもクインの還る場所だった。
 それはもう身近にはいない。抱きしめようとすると離れてしまうようになった。その寂しさを、その度に胸を突かれるような痛みを、感じないようになるにはどうしたらいいのだろう……
 誰か。胸の奥から何かがこみ上げるように聞こえてくる。
 いつかおまえを愛してくれる人を、おまえが愛する人を見つけなさいと母は言った。それはおそらく正しいのだろう。自分には誰もいないのだと思うときはこんな時だ。
 それを当初クインはライアンに求めようとした。ずっと昔彼が彼でいられる場所を作ってくれた男、クインの望みを叶えてくれた男。
 ライアンにこだわるのは彼がクインの状況や事情を考慮することが出来る男であったこと、昔からクインを一段下として見ずにほぼ対等に相手をしてくれた男であったことが大きいだろう。
 特に4年前帝都にいた頃はクインはやや年上に見えたとはいえ10歳の子供で、ライアンは18か9だったはずだ。ライアンの正確な年齢は本人も知らない。
 この場合、8の年齢差は大きいはずであった。ライアンは既に少年期の終わりにおり、自分はそこへ踏み出す時期であったのだから。だがライアンは彼を子供扱いにはしなかった。クインが語る継承戦争を勝ち抜くための方策に価値があると認めてからは尚更クインの話をよく聞いてくれた。
(俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ)
 帝都から逃げ出す日にライアンはそう言った。それは彼の信頼と感謝の印だった。ライアンの多くはない言葉の中に籠もる真摯を嗅ぎとって信じたからこそ、クインはライアンを頼って帝都へ戻ったのだ。
 だが数度の関係を持った後はライアンはクインを以前ほどは寄せ付けなくなった。ライアンがタリア王の側近でありタリアの自警や派閥抗争に既に深く関与している以上、時間がとれないのはあるいは不可抗力であろう。
 が、ライアンから訪ねてくるときも淡々と最近の様子を訪ねるくらいで、クインの訴えようとする言葉にはほとんど頓着しない。適当にあしらわれ続け、クインはライアンのことを考えようとすると反射的に苦い怒りがこみ上げてくるのが最近になりつつある。
 チアロはライアンが十分に自分に目を向けていると言うが、どこが一体そうなのか自分にわからないなら全く無意味だ。
 ライアンか、と呟いてクインは自分を抱いたまま舌打ちした。彼が何を思っているのかわからないのは昔からだが、それがこんな根の深い苛立ちに変わることを、クインは自分で持て余している。
 苛立つ波は次第に強くなっている。心の中に荒れる海を見る日には、何をしていても神経が尖って落ち着かない。自分でも幼いと承知しつつ、だがどうしようもなく焦がれている。待っている───誰か、を。
 そしてそれはライアンではないのだろう。苛立ちを収め寂しさを埋めるためだけに彼に縋り付こうとしたとき、ライアンは彼に言った。
(俺はお前の保護者でも愛人でもない。俺を特別にしようとするな、お前はただ勘違いをしているだけだ)
 その時なんと答えたかは忘れてしまった。ライアンが自分を突き放したことだけが絶対の現実だった。
 現実はクインにはいつも辛く苦く、そして痛い。勘違いという言葉で示されたライアンのはっきりした拒絶を、クインは思い返す度に激しい怒りに襲われる。
 ライアンは俺に関わる気がないのだ。4年前と同じく、仲間とは決して認めず頑として一枚壁を隔てた距離をとる。時間さえも惜しいのか、滅多に姿も見せない。それが自分の抱える秘密のためであるのか、それとも自分の中にある何かの要因のせいなのか、クインはわからない。どちらであっても現実が動く訳ではなさそうだった。
 4年前に彼の側にいた頃は、ライアンは素っ気はなかったがクインのことをよく気にかけ、救ってくれた。それは自分が子供だったからか、それとも継承戦争を勝利するために彼にいくつかの助言を与えたからなのか。
 けれど、役に立ったからというのならばその理由は今クインの身体を通り過ぎていく男たちと同じ、彼をただの小綺麗な小物のように扱うことと変わらない。ライアンからはその無機質さは感じたことはなかった。彼は良くも悪くも、自分の思惑に忠実にクインを遠ざけている。
 そこへ思い至りライアンの冷淡さについて考えるとき、クインは怒りと苛立ちを濃厚に眷属として持つ寂しさを感じずにはいられない。チアロはクインにとって大切な友人であり気安く心を許せる希有な相手だったが、ライアンは友人ではない。かといって確かにライアンが言うように愛人でも保護者でもなく、まして主人でもなかった。
 彼は一体自分の中の何であろう。こうして彼のことをつらつらに考えていると、彼にまるで恋するようだとクインはふと思い、苦く唇だけで笑った。それは恋ではなかった。愛というものも違う。
 けれど、彼の視線が向かないと知れば身を切られるほどに欲し、得られないと知れば焦がれるほどに切なく、悲しい。それをどうにかして彼に理解させたいはずなのに、気づけば彼に嫌味をいい、八つ当たりをし、不機嫌に鼻を鳴らすことしか出来ていないのだった。
 ───でも、ライアン。
 クインは長い溜息をつき、身体をゆっくり寝台に横たえて目を閉じた。転移の時の眩暈も悪寒もまだ身体の底辺に残っているようで、ひどく応えた。
 でも、俺は、淋しいんだ。
 生活の不満や仕事の鬱憤などではなく、友人の不在などでもなく、ただ、───淋しい。
 母の腕の中にいてぬくやかに守られていた時代から突然身ぐるみを剥がされて世間に転がされたせいなのか、暖かであったという記憶のままに、還りたい場所を探している。
 自分が求め求められる場所へ。誰かと見つめ合いながら微笑みあいながら、幸福をしっかりと感じ取れる心の棲家へ。還るための道を、共に歩く相手を、探している。
  ─── 一人では、あまりに淋しくて。
 淋しい、と呟けばそれが真実のような気もした。それを和らげる役割を彼に求めるのは間違っているのだろうか。ライアンは暗にそう示しているが、クインはライアンの意志には気付かないふりをし続けている……
 閉じた瞼の裏が滲むようにじんと熱い。クインは枕にあ顔を押しつけ、声を殺してわずかに泣いた。食いしばった歯の隙間から漏れる吐息が、震えている。
 淋しい、淋しい、母さん、俺から離れていかないで。
 俺を一人にしないで、置いていかないで。
 脳裏を巡り回る言葉だけが、世界のすべてのようにのしかかってくる。誰もいない部屋で一人で泣くときでさえ、大声にならない逼迫が、今のクインの全てだった。
 ……そうして寝台にうつぶせてしばらく体を震わせていた彼の耳に、扉が軋む音がした。誰かが入ってきたらしかった。
 クインは素早く身を起こし、目元をこすった。涙はほとんど止まっていたが、痕跡を他人に見せるのは何があっても承諾できなかった。
 この家に出入りしているのはライアンとチアロの二人だけではない。チアロ一人では結局手が回らないこともあると結論したライアンが彼の側近から一人、オルヴィという女を時折寄越す。ライアンは夕方近いこの時間は大抵タリア王屋敷だから、チアロかその女かのどちらかであろう。
 オルヴィはライアンの性質に近い、暗く陰気な女だ。だからという訳ではないが、クインは彼女を苦手としている。ライアンに輪をかけて口数が少ないのもそうだろう。彼女に泣き顔を見せるものかという奇妙な意地でクインは尚更平静を装うように呼吸を整えた。
 簡単に扉をたたく音がして、寝室の扉が開く。よう、という軽い挨拶が耳にした瞬間にチアロであることを悟り、クインはやや息を戻した。
「転移してきたばっかりだろ、顔色悪いぜ」
 そんなことを言いながら気安い表情で近寄ってきたチアロは、だが彼の手前で足を止めた。いつも明るく翳り無い表情に、一瞬さっと怪訝な線がよぎる。クインははっとして顔に手をやろうとするが、その華奢な手首をチアロが素早くつかんだ。
「……泣いてたのか? どうした、お前の母さんに何かあったのか」
 彼の声音はなだらかに暖かい。その温もりに溶かされたように、一度止まったはずの涙がふとこぼれた。
 瞬きに頬を転がり落ちていく水滴の数をぼんやり数えていると、チアロが彼の隣にすとんと座り、肩に腕を回して彼を引き寄せた。
 チアロの大きくて骨ばった手が子供をなだめるように頭を撫でている。彼の仕草にクインは消え入りそうな嗚咽をこぼして友人の肩に顔を押しつけた。チアロは彼に先に聞いた以上のことは何も聞こうとしなかった。クインの気が済むまでこうして彼を捕まえているつもりなのだ。チアロが自分を追いつめないことは、クインにとっては安息であった。
 チアロはよく知っているのだ。クインの気分の上下が激しいときはクインにとってひどく心痛い何かがあったときで、この頃は療養所から帰ってくる度にこんな風に滅入って気怠く鬱に沈むことも。何も追求せず何も要求しない彼の優しさが真実胸に染みた。
 ───淋しい。
 それでも身の内で吠え回っている声はどれほど貪欲なのだろう。わずかな仕草や時間で癒されることに激しい抵抗を叫んでいる。淋しい淋しいと訴える声に半ば押し切られるように、クインは顔を上げてチアロの首に腕を絡めた。
 ───淋しい。
 自分の中で何かが決壊したように、それだけが流れてくる。声が背を押すような感覚にとらわれて、クインはそっと唇を彼に近寄せていった。
 吐息が交わされるほど近くになる。チアロの肌の温度までが唇で感じるような錯覚を覚えた瞬間、それがすっと離れた。クインは視線を友人に与えた。何故か彼の方が泣き出しそうな顔をしていた。
「……クイン」
 チアロは彼の名を呼び、肩をつかんでゆっくり揺すった。
「俺とお前は友達だ。俺は、友達と、こんなことはしない……分かるか?」
 クインはゆっくり頷いた。チアロの声はひたすらに静かで、穏やかだった。クインはもう一度頷き、分かる、と呟いた。
「ごめん、もうしない……」
 付け加えるとチアロは眉根をよせるようにして切なく笑い、彼の肩を軽くたたいた。
「俺とお前は友達だ、いいな。何があっても俺はお前を見捨てない、約束する」
 クインは頷いた。チアロの言葉も眼差しも、疑うことなど出来なかった。それを切り捨ててしまえば、今持っている数少ないものをさらに失うことになる。
 その恐怖を一瞬ぞっと背中に覚え、クインは俯いた。衝動が過ぎ去った後は、増して荒涼とした気分になる。
 黙ってじっとあらぬ方向の床を見つめていると、チアロの苦笑のような吐息が聞こえた。
「……なあ、気休めみたいなことでしかないけど、お前、女の客でも取ってみるか?」
 クインは怪訝な面もちで友人を見つめた。今まで寝てきた客は夫婦が二組あっただけであとは全て男であったのだ。女の客、という耳慣れない事象にぽかんとしていると、チアロは数は多くないんだけどね、と付け加えた。
「でもいないことはないんだよ、春先から5人くらいは聞かれてる。ほら、夫婦にお前を入れたことがあったろう。あのときの奥さんあたりから漏れたんだろうな。……気分くらいなら変わるかもしれないぜ、男相手と違って女だったら主導権も取れるだろうから」
「うん……そう、だな。そうする。そうだ、それもいいかもしれない……」
 男たちが自分に加える身勝手で気ままな愛情に似たものを、別の形で他に吐き出す行為であることを薄く承知しながらも、クインはその話に深く頷いた。あるいは、飛びついたと言ってもよい。
 母が抱えている暗部を思えば恐ろしく、自分の中にとぐろを巻く怒りは悲しい。
 この二つに翻弄されるだけでこの先の時間を埋められていくのかと思うと、胸が潰されそうになる。頼む、とクインは低く呟いた。どんなものにでも、縋り付けば楽になると思っている自分自身を厭いながら。
 ───やがて日は落ちて、クインは身支度を整えて地下水路からタリアへでた。
 涙の痕跡も荒れた心の海も全てが彼の堅い殻の中へ仕舞われて、この世で一番美しく圧倒的で、そして生身でないものになる時間がくる。
 いつもの貸し部屋の主人は彼を見て曖昧に笑いかけ、そして一抱えもある深紅の薔薇の花束を押しつけた。一体何かと目で問うと、あんたの前の客が届けてくれってさ、と主人は言い、今日の客への牽制だろうと苦笑する。
 独占欲の証左である薔薇の花を抱えてクインは最上階の部屋へと階段をのぼる。鼻腔からむせるような甘くきつい香りが身体に吸い込まれていくようだ。
 部屋が決まっているのは事前にチアロかオルヴィかが隠した写真機などがないかどうかを確かめやすいからだが、おかげでとうに天井の模様は数え終わってしまっている。次からは何をしようかと考えながら、クインはいつものように部屋の扉を3度叩いた。少しの間をおいて扉が開く。中に足早に入り込む彼の肩をつかみ、男は花屋は呼んでいないと言った。
 クインは振り返り、抱えた花束をずらしてちらりと男を見やった。この男は今日初めて見る顔だ。それがみるみる上気していくのに微かに笑い、そして今度はまっすぐに男へ視線をやって婉然というように唇をゆるめた。
「でも……今夜の花は買ったでしょう?」
 そんなことを戯れに口にしたとき、男の強い力が自分を抱きすくめた。腕から花束が転がり落ちる。ふわりと舞い立った強い香りに喘いだクインの視界の端に、男が踏みにじった薔薇の花弁がとまった。
 今夜はあれを数えようかとクインは思いつき、先を急ぐ男の身体に腕を回した。



抱いていてよ
お前の持てる両腕の その長さが余らぬように


 夜を往く人々の間をか細く縫って、小さな酒場から歌が聞こえてくる。流れ豊かな雑踏の中、小魚が泳ぎ渡るようにその歌は誰かの耳をかすめゆく。それはもう若くはない女の声。けれど人生の不確かさと悲しみを知っている声音。どこか突き放した他人さが気楽で、だが誰もが覚えのあるような温もりが懐かしい。
 女の歌にふと足を止めた通りすがりの男は一瞬迷い、おぼろな光がこぼれてくる酒場へと足を踏み入れた。主人らしい初老の男が目で好きなところに座るように促して、席に着くとほぼ同時に女が次の一節を歌うために深く息を吸い込んだ。
 女は歌う。あいのうたを。




愛からはぐれた海鳥たちの 叫びは風に紛れゆく
 流浪い彷徨い鳴き立てて 戻らぬ人を呼び続け
 お前の耳にも流れてくる? 慟哭のような、海鳥の歌

 帰してよ
 お前の姿が世界から 消えてしまったあの日まで
 むせかえるような血臭の中にライアンは立っている。彼の足下に転がる、ほんのさっきまで人間だったものは既に動かない。僅かにあがった呼吸は疲労のためではなく、ねっとり汗ばむような歓喜のためだ。息を深く整えながら、その度にむら立ち上る血液の残り香の中、ライアンは今、うっすらと笑っていた。
 呼吸ごとに鼻腔から全身に回る血の生臭さが自分を今、満たしている。握りしめた細刃刀が痙攣している。たった今殺したこの相手の最期の悲鳴や彼をにらんだ目つきや、そんな記憶を目の裏に呼び戻そうとライアンは目を閉じ、僅かに身を震わせた。
 それは彼にとって快楽であった。他人の前に命を奪うために立つ、その瞬間の憎悪さえ悦楽だ。背中を駆けていく一瞬の戦慄も、時折は身体に加えられる痛みでさえも、ぎりぎりの相克のなかにあればライアンのための麻薬と変わった。
 陶然とした甘美を咀嚼するためにライアンは手袋をしたまま両手をじっと見やった。黒い皮の手袋にヒルのようにこびりついているのは相手の皮膚だ。最近は相手を苦しめるために一息には殺さず、苦しむ方法をまさぐりながらゆっくりと奪い尽くすことが多い。
 僅かに手袋についていたそれをライアンは指先でこそげとり、その場に捨てた。この相手には恨みどころか面識もなかったから、既に彼はこの快楽から醒めかけている。何の感情も持たなかった相手ではやはり現実へ戻ってくるのが早い。
 ライアンは手袋の先からのぞいている指先をちろりと舐めた。細刃刀は菱形のむきだしの両刃だから、使うときは指先のあいた手袋をする。
 血の匂いは陶酔の極みにあるときの甘さを既に失いつつあった。ライアンは舌打ちした。
 死を与える瞬間に自分を高い位置まで引き上げてくれる歓喜は、やはり何かの思い入れがある相手の方が強い。嫌悪程度でも数日は記憶からゆっくり引き出して楽しむことが出来るのに、真実憎んでいたり愛していたりすれば、自分はきっと気が狂うに違いない───脳髄ごと犯される、快楽や背中合わせの悲痛のために。
 ライアンはふっと吐息を漏らした。今でさえ、クインであれば彼を見て狂っているというだろうか。あれの中の天秤はまだ水平だ。水平を知って常にそこへ戻ろうとしているから均衡をとろうとして振り幅が大きい。
 ライアンは長々と嘆息した。僅かな時間彼を支配していた熱狂的な高ぶりは既に散り散りになり、残滓はかえって気分を悪くする。眉をひそめて細刃刀の刃尻から鋼糸を抜こうとした。
 鋼糸を残すのはライアンが自分の仕業だと宣言するための方法だ。誰の仕事であるのかを知らせる場合にはみな、自分なりの方法を持っている。
 だが興奮はまだ身体の方には残っているらしく、指先が僅かに痙攣していてなかなか糸をはずせない。苛立ちが次第に募ってくる頃、他人の気配が背後からした。
 ライアンは振り返らなかった。その気配の主が誰であるか最初の足音を聞いたときから分かっていて、それは自分の服従者だったからだ。
「どうした、チアロ」
 巧く動かない指先にじれながらライアンは言った。チアロが微かに溜息になったのが聞こえた。肩越しに視線を一度やると、チアロは顔をしかめて彼の足元を見ていた。
「見る度にひどくなる───ライアン、大丈夫なのかよ」
「何が」
「何がって……あんただよ。頭、大丈夫」
 さあな、とライアンは素っ気なく応じた。チアロの嫌悪も次第にひどくなる。無論それは自分が誰かを屠る仕業が次第にむごくなっていることに対応しているのだった。
 興味のなさそうな彼の返答にチアロはくしゃりと顔を歪めて、面白くないと表現した。ライアンに向かってこれほど明け透けにするのは今はチアロくらいのものだ。ライアンはそれにとうに気付いていて、だからチアロの不満も反抗も、不愉快ではなかった。それに配慮する気がないだけなのだ。
 チアロは大人びた仕草で肩をすくめ、ライアンに歩み寄った。誰かを手にかけてまだ完全に甘美な夢から戻っていない彼に向かって警戒心なく近寄ってくるのもまた、チアロだけだ。並ぶと背丈はほぼ同じだ。僅かにライアンが彼を見下ろす格好になる。それを意に介さないという風で、チアロはライアンの手にある細刃刀をつまみ上げた。今までほどけなかった綱糸を簡単にほどき、チアロが彼の手からそれを振り落とす。血溜まりの中にきらりと光りながら、綱糸が浮き上がった。 
 ライアンはそれを一瞬みやり、そして肉塊をつま先でよりわけて左手であった部分を拾った。死してなおまだ握りしめている拳をむりやり開く。中に籠められていたのは1本の鍵だった。
 これだな、とライアンは呟いて新しい綱糸を鍵に通し、腰のベルトにくくりつけた。視線でそれが何かを問うているチアロには首を振った。
「お前はまだこちらのことに首を入れなくていい。チェインの方を固めておくんだな」
 チアロは唇を尖らせて分かってるよ、と言った。そうした表情はチアロがライアンの元に来た頃から変わらない。やんちゃ盛りの子供と同じ顔を今でも彼の弟分はする。
 そしてライアンはそれを甘いと苦笑しても、決して侮蔑や嫌悪にはならない自らの胸の作用を知っていた。
 チアロと話していると、いつも心のどこかが淡く弛む。それを自覚できる程度に血の色をした白昼夢から醒めてくると、やっとこの場に立ちこめる生臭さがむっと気分を悪くしたのが分かった。
「話があるなら歩きながら聞こう」
 ライアンは既に身長では彼に追い付きつつある部下の頭をぽんと軽く叩き、歩き始めた。
 僅かに遅れたチアロが彼に並ぶ。路地を一つ通り過ぎるまで性質に反してほとんど無言だったチアロは角を曲がるときに背後へ一瞬視線を与え、大きく呼吸をした。
「ああ、気分悪い。ライアンよくあんな中に立ってられるよね? おまけに見るたびになんか気味悪く一人でにやにや笑ってるしさ。ほんと、あれだけは頂けないよ」
 血の臭いが薄れたことで、やっと本来の気ままさのままにチアロがしゃべり出す。それを適当に耳に流れ込む側から捨てていると、ほら、と明るい声を立てて少年が笑い出した。
「ライアンは興味がないことは片っ端から聞き流すんだ。せめて聞いてますって顔でもして適当に真剣に頷いてればいいのにさ。興味がないので聞いてません、って思い切り顔に書いてある」
 チアロの言葉にライアンは唇を少しゆるめ、首を振った。チアロのように何事にもせわしなく反応するだけの、何かがこの世にあるとは感じられなかった。自分を取り巻く世界に色素は薄く、ほどんど無彩色の平板な視界だけが全てだ。
 そこに何らかの色が入るとしたら赤だ。それは血の色だ。命飛び交う血しぶきの中でだけ、自分が現実を生きているのだという強烈な実感を得ることが出来る。それに比べたら他のものはなんと薄く白けているのだろう。
 何もかも、黒白の点描のようにしか見えない。過去を追想しても、やはりそれは同じだ。そしてそこに入り込む色もまた同じく赤い。彼の永遠の主人であり、これからもあり続けるであろうリァン・ロゥの髪の色。
 ふと溜息になったライアンの腕を軽くつねり、チアロは声を上げて笑った。この少年がそんな仕草をするときは、自分の正気を咄嗟に引き戻そうとしているのだ。ライアンは大丈夫だと口にして、チアロの肩を軽く叩いた。
「……ライアン、ねえ、本当にさ。俺のことやチェインの他の連中のことはいいけど、クインの話だけはちゃんと聞いてやってよ。俺たちはあんたが王様だから、王様のなさることには関与せず、だけど。でもクインはあんたの臣下じゃないんだろ? あんたがそう扱うから、あいつもそう思ってる」
 ライアンは頷く代わりに長く嘆息した。クインの語った本来の出自とやらがどこまで真実であるか、今はまだ定かではない。だがリュース皇子との相似は尋常ではないことであるという認識はあった。クインが双子なのだというなら、それは信じてもいいだろう。
 兄弟順などは些細なことだ。要は大貴族と国家の中枢へつながる糸へ彼が変化する可能性があるということで、それが重要であった。だからこそクインのしたいことはさせてきたし、ある程度自分の感情などを押し込んでつき合ったこともある。正直、ライアンは性的な対象としての男には興味を感じない。女であっても少女と呼ぶような年齢にはあまり衝動が起こらなかった。少年となると尚更だ。
 クインのあの我が儘と呼んで一蹴すべきだった願いを聞き入れ、数度の関係を持ったことで、ライアンの中でクインとの契約は終了した。半ばは義務感でもあったのだが、けれど、クインの方はまだ終わっていないと考えているらしい。
 客にひどくむごたらしく扱われて寝付いた時でさえ、流石に様子を見に顔を出したライアンに向かって手を差し伸べたではないか。
(ライアン、来てくれたんだ? なんか、久しぶりに見るね……)
 他愛のない言葉とは裏腹に、彼を見る視線の縋り付くような光は強かった。それにどうしたのか竦んだように怯んでしまい、彼に近づくことさえ躊躇われた。
 クインが時折発する、飢えて泣く猫のような声音に絡め取られてしまってはいけない。あれに耳を貸してはいけない。誰かに深く荷担し手を伸べるということはライアンにとって、彼の全てをそれに賭けるということと同じだった。
 クインを自分の特別の位置に置くことは断じて、してはならない。クインは彼の契約の相手であって、過去の感謝の印を渡しているのであり、それ以外でも以上でもないのだ───ということを自分に言い聞かせ続けている。
「……あれはまだ何か言っているのか」
 クインのことを考えると否応なしに気が滅入る。元来感情の隆没が少な目のライアンにとって、それだけでも特別ではあるのだ。
 その問いにチアロはふふんと鼻を鳴らし、自分で聞けばいいじゃない、と言った。これはチアロなりの当てこすりというものであった。ライアンは吐息をぬるめて笑い、首を振った。
「奴のことは放っておけ。いつまでも誰かに甘えていればすむ年じゃないだろう」
「誰もいないのもどうかと思うけど? だからライアン、あいつと話し合ったんだけどさ、今度から女の客もつけてみようと思って」
「……女か……」
 ライアンは曖昧な返答をした。女客を取らせて彼の感情の均衡をとるというチアロの提案は実はかなり前に聞いた。そのときは甘えさせるなと簡単に退けたものの、同じことをチアロが蒸し返したならば、クインは相当煮詰まっているのだろう。だが、気が向かないのは確かだった。
「……俺はそれには賛成しないと言ったはずだなチアロ?」
「でもライアンはその代価を支払わないじゃないか」
 クインの放置をきっぱりと非難し、チアロはライアンにきつい目線をくれた。一瞬それに目を合わせ、ライアンはやがて溜息と共に頷いた。
「……分かった、好きにしろ。但し、一人の女に深入りさせるな」
 クインが快楽の供給者として自分を買う女に興味を抱くとは思えなかったが、男と女の間には突然何が起こっても不思議ではない。クインが突然それまでの主張や過去を放り出して女との生活を選ぶなどということはさせてはならなかった。
 クインの顔を実際に見たことがある者は限られてくるが、チェインの幹部たちには存在自体は教えざるを得なかった。彼がライアンと密接な関係にあること、チアロが彼のために時間を大量につぎ込んでいることを幹部達に提示したことで、ライアンはクインへの手出し無用を宣言している。そんなことでもしてやらなければ、クインはチェインの中を歩くだけで身の危険を考えなくてはならないだろうから。
 だがそれはクインがライアンの持ち物だというのと同じ意味であった。少なくともチェインの中ではそうだ。チェイン王ライアンの所有物だから保証される。
 だからクインがライアンの庇護を蹴って遁走するなどということは、ライアンの体面に深い傷を付けることと同じだ。タリアもチェインも、最後は力だけが支配を正当化する。そんな場所において、現実はただ一つであった。
 ───舐められたら終わり。
 チェインの子供達の上に立つ身として、タリア王の幹部の中に座る身として、そんなことは断じて許すべきではなかった。実際問題としてその不安は薄いが、可能性はないわけではない。勝手はさせるなよと付け加えると、チアロは頷いた。この少年もまた、彼の系譜に連なり彼の思考を理解し手を貸す者であるのだ。
 同じ客は二度と取らせないこと、保険のためにこちらは写真を密かに撮っておくことをチアロは口に出し、ライアンに視線で許可を問うた。
 ライアンは頷いた。クインに関わるのはこれ以上は余分だという自身の中の警鐘を鑑みるに、それは渋々でも同意すべきだった。これを拒否すればチアロはクインへの時間をもっと割くようにと言うだろう。
 次の路地をすぎようとしたとき、チアロが足を止めた。ここで、という少年にライアンは苦笑気味に頷く。チアロはタリア王屋敷とそこにたむろしている大人連中が苦手なのだ。ライアンに連絡をつける以外では滅多に近寄ろうとさえしない。
 明日、とライアンは言った。翌日はチェインの幹部達から地場の様子を聞くためにライアンがチェインの煉瓦屋敷に必ず戻る日だ。チアロの煙草を買っておくよという声に頷き、軽く手をうち振って王屋敷へ歩き出す。
「ライアン」
 その背にチアロの声がかかって、ライアンは振り返った。彼の部下の表情は光源の向きのせいで淡い陰になり、よく見えない。けれど、いつものように朗らかに明るく笑っていないことは、空気だけで分かった。
「───リァンはもう還ってこないよ」
 その瞬間に、自分の肌が凍るように震えたのが分かった。
 その名は今でもライアンの支配を握っている。死してなお、ライアンの胸に呪縛を加える男。ライアンを拾い、彼にふんだんに笑顔と視線を与え、利害づくでライアンの心を自分に縛った男。
 その狡さを計算を、ライアンは既に知っている。だが、それでもどうしようもない。リァンは彼にとって父性の代弁者であり、神でもあった。その死から、4年を経過した今でも。
 ライアンは何かを言おうとし、そして沈黙した。リァンの死は既に乗り越えた。4年前の継承戦争時に、そうすることで彼はチェインの王となった。
 けれど、その後に心に残った甘い追憶と思慕だけは、捨て去ることが出来ない。彼の残像を追い、面影を踏み、その奇跡のような生が辿るはずだった道のりを自分の手で作り上げることに躍起になっている。
 チアロの言葉はあるいは非難の続きであった。けれど、それになんと返していいのかさえ、見当がつかない。クインが彼をなじるときの引き合いにリァンを出すのは許せなかったが、チアロの言葉にはそんな揶揄がないだけに困惑する。
 ライアンが黙っていると、チアロは吐息で笑ったようだった。
「リァンは戻ってこない。俺はでも、リァンよりはライアンが好きだよ」
「……チアロ」
「いいよ、無理しなくたってさ。でも、クインよりも俺はライアンを見てる方がきついときがあるってことを、覚えといてよ───また、明日ね」
 それ以上をライアンに言わせず、チアロは素早く身を返して立ち去った。ライアンはチアロの消えた路地をしばらくじっと見つめて立ちつくした。
 分かっている、と呟く。
 分かっている。リァンの死も、彼が俺にかけた打算の魔術も、それに気付きながら自分がまだ囚われていることも、リァンの出来なかったことを実現するために生きていることでさえ、自覚している。けれど、彼の代わりなど見つからない。そうしなくてはいけないのだということは理解しているが、理性の部分よりも深く暗い淵の中に感情は沈み込んでいて、乖離したままであった。
 ライアンはゆっくりかぶりを振った。過去の日々が眩しかったというなら間違いではなく、今でも自分を一度は通り過ぎていった真夏のような日々を恋うているなら正しい。それが二度と自分には戻ってこないであろうことも分かっている。誰かに指摘される以前に、死者は蘇りはしないのだから。
 だから、それから先はライアンの勝手な夢想と追憶の仕業だった。けれどリァンがいなくなって自分のために生きていく人生を結局タリアの中に求めたときに気付いたこともある。
 リァンの面影と追想はいつでもライアンの胸の内にあって、誰にも邪魔をされず勝手に連れ去られないものなのだ。自分律というものの中にリァンの行動規範が深く刻まれている以上それを切り離すのは至難であるし意味がないが、そんなことをしなくてもいいのだ。
 リァンはその死によって、ライアンの中に永遠に根を下ろした。その木が枯れないように、彼自身が注意深く見守っていればいいのだ。そしてそれは永久にライアンだけのものだ。今度こそ、誰にも邪魔はさせない。
 クインはそれを敏に感じ取って、それがいかに無意味な仕業であるかを彼に教えようとしているのだろう。
 けれど、そんな言葉など、聞きたくない。自分の中にあるものを他人が触ろうとしているのだと思うだけで反射的に怒りさえ覚えた。
 ライアンは僅かに舌打ちをし、歩き出した。タリア王屋敷へたどり着く前に、この自分の中の不愉快をせめて表情からはうち消しておかなくてはいけない。
 タリア王アルードとその周辺に巣食う側近達が今のライアンの相対しない、だからこそ恐ろしい敵なのだった。

 タリア王屋敷にはいつものように王側近の数名がてんでに好きな部屋にたむろしている。彼らにはそれぞれ手持ちの領域があって、それをお互いに侵し合わないことで表面上の結託をしているが、末端では時折境界区域の支配や利権を巡っての抗争がある。それはライアンの総括するチェインでも全く同じで、この町の少年達は大人達の鏡でもあった。
 2階の奥にあるいつもの居間へ入ると、魔導士を相手にアルード王はなにやら話をしているようであった。あの魔導士は国からアルードが借り受けているもので、タリアの抗争自体には関わらせないものの、情報収集などには重宝するようだ。
 クインが魔導を使うのを見ているから初めて人外の力を見たときよりは衝撃は薄まっているが、今でもそれは十分に気味が悪く、そして得体の知れない脅威だった。
 アルードはライアンにすぐ気付き、こちらへくるように手振りで指示をした。そっと近寄っていくと、魔導士が振り向きもせず、ライアンに位置を譲る。彼らは銀の仮面を付けているから実際の目で物を見ない。にもかかわらず盲目であるようなぎこちなさは動作にはなかったから、この場合もなにがしかの力でもって位置関係を把握しているのだろう。
「戻ったな、ライアン。首尾は良かったと見える」
 ライアンは首肯し、最前奪い取った鍵をアルードに手渡した。それを一瞥してアルードは微かに笑って側に控えている魔導士の肩を叩いた。退出を命じる仕草である。
 魔導士は無言のまま立ち上がった。仮面のせいで顔も何も分からないが、時折聞くその声で、どうやらこれが少年であることは分かる。背丈はクインとさほど変わらないが、カノンという魔導士名を持つ彼に関して、知りうるのはそれくらいだ。
 魔導士がアルードへ会釈して立ち去ってのち、アルードは手振りで自分の前の椅子を示した。座れということであった。アルードの前で腰を下ろすことが出来るのは、幹部だけだ。チェインにおいてもそれはほとんど変わらない習慣である。
「……これで全員のはずです」
 ライアンは低く言った。アルードは曖昧に頷いて、彼の手に渡った鍵をちらちらと硝子越しの日射しにきらめかせている。
 その鍵が境界地区の利権の源へたどり着くための最初だと、ライアンは知っている。新興派閥が今までの境界主の権利を侵害して勢力を伸ばしつつあるあたりであった。アルードの判断はその新興の派閥への援助だった。おそらくそちらのほうが彼にとって実入りがあったのだろう。
 旧閥の連中が仕切っていた町の権利証明に債権の証書、それに薬や武器の裏の流れを管理していた帳簿がある。部屋の鍵はすぐに開くが、複雑な仕掛けと魔導斑紋の入った錠前は専用の鍵でないと無理なのだ。
 ここ半月ほどは旧閥の連中のうち、抵抗を選択した者を一人づつ食い荒らしていくことにライアンは使っている。チェインの王として少年達の上に君臨している身であることで、ライアンはタリアの複雑に張り巡らされた境界権利に絡んでいない。彼だけがどの派閥とも利害関係を持たない、無派閥であった。
 そのせいで、こうした境界権利の絡む抗争の始末にライアンはよく顔を出した。逆にほぼ関係しないのが魔導の力をほどこした禁制品に関わる全てであるが、これは得手の者がいるのだから、均衡は取れているというべきであろう。
 アルードはご苦労だったなと薄く笑い、既に用意してあったのだろう懐から小さな袋を取り出した。中は小指の爪ほどの碧玉と紅玉の裸石だった。これが今回のこの件全てを決算する報酬であった。
 ライアンはそれを手の中に入れて、アルードに軽く会釈した。次の話を切り出さないから、どうやらこの場を出ていいらしい。そう結論して立ち去ろうとしたライアンを、アルードは待てと呼び止めた。
「……そろそろお前にも、こちらの中に本格的に入ってもらわなくてはならない。分かっているだろう───お前の身内をこちらへ寄越せ、あの……何とかいったか、お前の可愛がっている小僧でも構わんさ」
 チアロのことだろう。ライアンは苦く笑い、あれはここのしきたりを守れるほど大人ではありませんから、と言った。アルードもまた似たような笑みになった。数度ではあるが、チアロをつれてきたこともある。その性質が大人達の内に潜む駆け引きに向く者では到底ないことを、彼も知っているのだ。
 もしくは、とアルードは続ける。
「7地区の妓楼に馴染みの女でもいるのなら……」
「いえ───あそこの女将と多少、縁がありまして」
 その縁とやらの内容を目線で問われ、ライアンはアルードに向き直った。
「俺の母親の妓姐なのです。ずっと昔、母に連れられて数度、会ったことが。あちらもそれを覚えているので多少気安くて……それに俺は同じ女とは続けない、知っているでしょう」
 それは確かにライアンの習性だった。妓楼はタリアの派閥に関与しないために自らの組合において自治を行っているが、それはすなわち特定の者の意志の働く妓楼はないと言うことと同じだった。無論、タリアの奥に進めばそんな規範さえ関係のないもぐりの女部屋はあるが、誰が関与しているか分からないような場所でライアンは女を求めない。
 それに表妓楼の彼女たちは客の秘密を守るという一点において徹底した教育を受けているので、比較的ぬるくしだらかに神経を休ませてやることが出来る。だがそれも馴染んでくれば分からない。だからライアンは、どこかの妓楼に通い詰めて一人の女に入れ込むということはしない。
 ───それはあの女だけなのだ。一瞬でも、彼に血のつながりのある家族という夢を見せてくれた少女。クインとよく似た感情の激しさと心根の弱さが、ひどく哀れで愛しいような気もして、つい突き放すことも出来ずにずるずると年月を重ねている、あの少女。
 けれどシャラを事実上の人質として差し出すことは、やはり躊躇われた。それはいずれ見捨てなくてはならなくなる彼の手駒でなければならないのだから。
 同じ女とは関係を持たないというライアンの言葉に、アルードはそうだったなと苦笑気味に応じた。
「だがいずれ、それに代わるものでも差し出してもらわなくてはならない。他の連中にもそうさせているからな───が、まあいい。今度の件で一本、麻薬の筋があいている。お前にやろう」
 ライアンは僅かに姿勢を直し、深く頷いた。先に手にした宝玉よりも、こちらの方が破格によい報酬であった。チェインからあがってくる収入などとは比較にならない。あちらは人数の増減や抗争の有無で多少変動があるが、麻薬は一度網を張り巡らせればあとは勝手に満ち、手にこぼれ落ちてくる。どんな場合でも金は要る。これから先、さらに重要になってくるに違いないのだ。
 ライアンは僅かに時間をおいた後、ありがとうございますと言った。アルードは小さく頷き、誰かを王屋敷に伺候させることを忘れるなと付け加えて手を払った。
 タリア王の元から退出して、ライアンは回廊を戻りながら長く嘆息した。タリアの内側にいることで、次第に足下であるチェインの支配からは縁遠くなっている。それもアルードの狙いの一つであることは確かだ。アルードに目をかけられているのだという幻想など抱いたことはないが、ライアンの働きに応じて報酬を与えなければ他の者達への示しがつかないとアルードが踏んだのだろう───つまり、現状は満足すべきであった。
 タリア王屋敷をすぐに辞して、ライアンはゆっくりタリアの表通りの方へ歩いた。王屋敷は彼にとって居心地の良い場所ではなかった。アルードと同じ場所の空気にあると思うだけで、肺の中が濁る気がする。
 それに身体の奥底には殺人の快楽に身を委ねた後の、気怠い疲労がたゆっている。血を見た後は命の根元に触れたせいなのか、ひどく気が荒ぶって鎮めるのに手間がかかった。
 だからライアンはあの少女に会いに行く。シャラの顔をみて他愛ない話に気を紛らわせていれば過ぎ去っていく倦怠があった。それはほぼ唯一、過去の呪縛から逃れてしどけなく他愛ない戯れに興じていられる時間であったかもしれなかった。
 あの少女は自分の中に殆ど唯一残っている庇護すべき花だ。摘み取るのは簡単で、それを待っていることも知っているが、けれど一度折った花は二度と土に根付かない。
 彼女が特別であるのは寝ていないからで、それ故にずっと自分の中にあるだろう聖域といえた。それを自分の手でわざわざ壊すようなまねなど、すべきではない。
 それにどうしてもライアンは彼女を自分の愛人にしようと思えなかった。まだ水揚げ前の、白い衣を着た無垢の痛々しさを見知っているからだろう。
 けれど、胸が渇く日は彼女に会いたい。何の血縁もなくても、彼にとってシャラはただ一人の妹だった。父を元より知らず、母には売り飛ばされてのち他人の手を転々として生きてきた彼の、血の証明のような気がするのだ。
 全くの他人であることは知っている。自分が母に売られたときの状況やお互いの顔立ちの相似からライアンは当初、異父妹であろうかと考えていたがそれはすぐに否定された。あの妓楼の女将はシャラの母と親しかったせいで、ライアンという名であったというシャラの兄を見たことがある。瞳の色が違うなら、それは状況が似ているだけの他人であろう。
 だが、それとライアンの心の中の作用とは全く関連がなかった。
 妓楼はようやく始まる時間を迎えて、階下に降りている遊女達が多かった。他の女達には視線を殆どやらず、ライアンはいつもの場所に座る女将に目礼する。女将は簡単に頷いてこちらへとライアンを手招きした。
 前と同じ金額を彼女の前に置くと、女将は苦笑する。
「揚げ代、あがったんだよ。部屋も一つ良くなっている。今日はいいよ、まけておくさ。あんたには大分注ぎ込んでもらっているからね」
 差額のおごりは女将の厚意であったから、ライアンはありがたく頷いた。金に困っているわけではないが、こうしたささやかな貢ぎ物を断るのもおかしな話だろう。
 小間使いの少女が彼を案内していった先は、確かにそれまでよりも一段上の階級に属する部屋だった。年数や揚げ代の多少によってやはり遊女にも格がある。
 次第に上へあがっていくシャラの身なりを、ライアンは微妙な困惑で眺めている。それに自分が相当関わっているのは確かだったが、実際二人の間に何かがあるわけでもなかった。
 ただ、シャラの方は上機嫌だった。この少女は一面現金で、生活の環境が上向けばそれで虚栄心を満足させるところがある。アルードからもらった宝玉を並べてどちらが欲しいかと聞くと、紅玉をさして指輪にして欲しいとねだった。
「で、こっちはライアンがお揃いの指輪にして持っていて。ね、いいでしょう?」
 ライアンは曖昧に喉を鳴らした。シャラがどちらか好きな方を選んだ後は換金しようと考えていたのだ。
 彼の思惑を悟ったのかシャラは冷たく整った面差しを、暗く俯けた。その表情に差し込む気鬱と悲しみが濃い。揃いの指輪などという児戯のような記号を欲しがる裏に、不意に彼女の深い苛立ちと懊悩が揺らめくように見えた気がした。
 シャラは黙って唇を尖らせたまま、彼の煙管をいじっている。ライアンもまた黙り込んで煙管を撫でるシャラの指先を見つめている。シャラの思いが次第に蓄積されていくことを感じないことはなかった。
 彼女の目線がただひたすらに自分に向けられていることを理解し、それに当惑とぼんやりした畏れを覚えながらも突き放せない。
 縁を切るなら簡単だ。二度とこの妓楼に足を向けなければいい。
  それを彼女も分かっていて、ライアンが不機嫌やその淡い怯みのために沈黙するとき、その先をなじる言葉を絶対に口にしない。彼から見捨てられてしまうことを、何よりも恐れているのだ。
 それに深い哀切を感じないではいられない。それにシャラはどうしたところで自分の妹だと思い続け、本人にもそれを言い続けてきた。態度を今更翻すことは出来そうにない。
 このままでは永遠にシャラを傷つけるだろうことも分かっているのに。
 ……ふと、ライアンはシャラを見た。彼女のすすり泣く声が聞こえたのだ。
 シャラ、と呼ぶと少女は自分の口元を手でしっかり押さえたまま首を振った。
 ぱらりと後れ毛がおちて、首筋を軽く叩く。肩との付け根に一葉咲いている、赤い斑紋にライアンは気付いた。昨晩の客がつけていったのだろうか。シャラは遊女なのだ。それを今までも知っていたくせに、今初めて目にしたような気持ちになる。そして巻き起こってくる大量の感情はやはり、憐憫なのだった。
 ライアンはもう一度シャラの名前を呼んだ。シャラはやはり首を振った。
「……ライアン、いいでしょ? 少しくらい、あたしに、希望くらい、くれったって、いいじゃない……ちょっとくらい、いいじゃない……」
 呟く言葉は甘く弱い、非難と言うほどもない繰り言であった。彼女に言えるこれが限界なのだ。ライアンは微かに呼吸をふさがれたように喘いだ。何かを言ってやることも、抱き寄せてやることも、しようと思えば出来るだろう。けれどそれが一瞬の慰めでしかないことを、ライアンは分かっている。
 そんなありきたりのものに引き替えてしまえば、この少女はただの年若い遊女でしかなくなる。それを押してまでシャラを自分のものにしたいかと問えば、彼の中の判断はいつでも首を振った。
 シャラ、とライアンは3度目を言った。
「分かった、宝玉はそうしよう……」
 これが逃げなのか妥協なのか、ライアンには判別が出来なかった。シャラはやっと頷き、少しだけ笑った。ライアンは僅かな安堵のために溜息になった。
 その吐息をすくうようにシャラは彼の口元に手を伸ばし、それはだめだと言うようにか、指先をライアンの唇に押し当てた。同じ色の瞳が絡み合うようにぴたりと合わされる。涙のせいで僅かに潤んでいるシャラの目がじっと彼を見つめ、そしてゆっくり近づいてきたのが分かった。
 ライアンは腕を伸ばし、シャラの首を巻き取るようにして抱き寄せた。自分の肩に埋めるようにシャラの頭を押しつける。シャラが微かに震えた気配がした。
 遊女の貞操は唇にある。それをどうしても彼女はライアンに与えたいようだった。回避するための抱擁にシャラは震えていたが、やがてライアンの背に微かに爪を立て、ばか……と耳元で囁いた。
 ライアンは返答をしない。シャラはしばらくそうしていたが、やがてすすり泣き始めた。張りつめていた彼女の身体から力が抜ける。それに合わせて腕をゆるめてやると、子供が親の腕に収まるようにするするとシャラはライアンの胸に収まり、顔を当てて嗚咽を始めた。
 しがみついている指先は、それでも服をゆるくつかんでいるだけで決定権をライアンに与えている。それに気付かないようにして少女の頭をゆっくり撫でてやると、シャラは不意に泣き崩れた。たくらみをはぐらかされたのを分かったのだろう。
 ばか、と呟く口調はそれでも切なく訴えるもので、彼を責めるものではなかった。泣き続ける少女の身体を包む赤い人工絹の薄さは遊女特有のものだ。手で触れるとすぐに体温が伝わってくる。
 シャラの身体に籠もる熱が厭わしいのか、哀しいのか、ライアンにはよく分からない。けれど今、この少女を宥めてやれるのが自分の沈黙であることは知っていた。
 連綿と続く嗚咽が収まったのは結局シャラが寝付いてしまったからとなった。泣き疲れて眠ってしまうところ、やはりまだ子供なのだとライアンは意味もなく安堵する。
 遊女の部屋であるから寝台は一つきり、その上に抱き上げてそっと横たえてやると、シャラは一瞬目を開いたが、ライアンがその瞼を閉じるように手で押さえてやると、すぐにまた眠りへ戻っていった。
 ライアンは溜息になった。シャラの視線の強さはいつでも変わらずにまっすぐに彼を射抜いている。それが気鬱な圧迫と思えるときもあるし、憐憫の哀しみに見えるときもある。
 どんなときでも変わらないのは、シャラが彼の庇護対象者であって、決して愛を紡ぐ相手ではないということだった。
 それだけ分かっていれば十分だとライアンは自分に言い聞かせ、部屋の明かりを落とした。
 遊女の部屋には天窓が一つきり、そこからはタリアの炎の色が月光と共に差し込んできて、ほんのりと赤い。しんと静まりかえればどこからか、はぐれた羊が鳴くような声がとぎれとぎれに聞こえる。
 それが何であるかは考えるべくもなかった。この妓楼は決して安普請ではなかったが、よほど好きな客の相手でも誰かがしているのだろう。甘えるようなもの悲しさが、声のどこかに潜んでいるようであった。
 ライアンは服を脱ぎ、簡単な夜衣に袖を通した。泊まる客のために、大抵こうした服がどの妓楼にもおいてある。煙草入れと煙管をつかんで寝台にあがり、眠ってしまったシャラを真横においてライアンは天窓に移る月を眺めあげた。
 誰かを手にかけた興奮と苛立ちと歓喜と倦怠は、彼女を傍らにして次第に流されていくものだった。そういう意味において、シャラは確かに特別な女だった。
 愛しかったし、大切だった。恋情と愛欲は彼の中では切り離されて別々のものとして成立しつつあるが、その二つを繋ぐ可能性があるとしたら、今はシャラであるとしか考えられない。無論これから先自分にも命をかけるほどの女が現れるかもしれなかったが、だがその女は決して自分の妹ではないのだ。
 ライアンは煙草の一服を長く吸った。物事をじっと考えるときにはそれは手放せない癖になっている。
 ふっと煙草の香りが消えて苦みだけになった。種草が尽きたのだ。それでライアンは煙草をやめて、寝台の脇の灰皿にそれをことりと置いた。
 ───抱こうか。
 陶器が鳴る冷たい音と共に腹の底に転がりでてきた新しい考えにじっと目を凝らす。このままではいずれ、どのような形であっても破綻するだろう。
 失いたくないという思いは確かにある。シャラのために死ぬことは出来ないが、だが出来うる限りのことはしてやりたいと思っている。シャラの一番の望みが自分と関係を持つことであるなら、そうしてやってもいいかもしれない。
 ……何より、自分にも何かが起こるかもしれなかったから。あるいはそれを知りたいのかもしれない。リァンがいなくなってのち、色素が薄まって濃淡でしか見えない世界に、劇的なものが紛れ込むならそれが何であるかを自分も知りたいのだ。
 ライアンは溜息をついて、そっと手を伸ばした。シャラはよく眠っている。
 遊女の衣装は大抵簡単に脱がせることが出来るように、前の袷を何カ所か紐で結んだだけの作りになっているのが普通だ。首元の大きなリボンをするりとほどき、そして肩から胸にかけての袷目をほどく。腰の横の紐を解き、何か大切な包みを開くように丁寧に左右に開く。
 ───そしてライアンは、僅かに呻いた。
 淡い赤に染まる月光に照らし出された肌はあわあわと白く、その中で呼吸のためにゆっくり上下する裸の胸はこちらが怯むほどに頼りなく小さい。右の腋横に僅かに残っている痕跡の赤い色が目に痛くて見ていることさえ辛かった。ライアンは開いたときと同じような手つきで、シャラの肌を隠すように衣装を着せた。紐を最初より丁寧に結んでやる。ひどい罪悪感だけが残った。
 駄目だ、とライアンは呟いた。彼女は駄目だ。一生駄目だ。まだ幼さを片隅に残したままの身体が記憶の端をよぎる。ライアンは首を振ってそれを追い出そうとした。
 自分はきっと、見てはならないものを見てしまった。シャラと関係を結ぶことは出来ない。無理だ。この同情と哀憫とが胸にある以上、彼女を抱こうとすることさえ罪悪であるような気がして居たたまれない。
 自分にとっての快楽は既に女などではなく、人を狩る獣としての衝動へ変化しているのかもしれなかった。
 リァン、とライアンは呟き、堅く目を閉じた。彼に人を手にかけることを快楽として教えたのはリァンだった。ライアンは彼のためにそうなるべきだという目論見を体現した存在だった。リァンの手腕は確かに見事だった。暗示をかけた主人がこの世から消えてもなお、呪縛はライアンの中に残っている。
 ぎりぎりの命のやりとりを交わしている時、微かに彼の耳には鈴の音が聞こえる。涼しく鳴り響くその音を聞いていると、全てのものを引き裂き、八つ裂き、奪い尽くしたいという衝動が呼び興る。相手によってその感情の多少はあったが、やはりそれは彼にとっては絶対快楽であった。
 自分は、どこかがおかしいのだ。リァンが握っていた彼の調律を、引き受けることの出来る者はいない。だから何かが狂ったまま、それでも生きている。生き続けていく。リァンが辿り着くはずだったその場所に、自分が座るその日まで。
 ライアンは顔を歪めた。リァンのいなくなった世界には、彼を縛るものはなくなった。
 けれど、人は何かのためにと自ら捕縛されることで生きていける生き物なのでないか。解き放たれた野生に打ちのめされて死ぬよりも、共生で繋がり作り上げた広大な籠の中で不自由を歌いながら自己憐憫で満足する鳥ではないのだろうか。世界はそんな構築に出来ている。
 だから一度その輪から外れてしまった者に戻る場所などないのだ。仄かに明るかった場所を振り返り振り返り、それでも待ち受けている闇へ飛び続けるしかない。そうするしか出来ないのだ。今は。
 リァンの呪術がまざまざと身に甦る日は、彼というライアンを繋いでいた籠の大きさと、それが今は既に失われていることを教える現実の狭間にあって疲弊が激しい。彼のいない世界に、今生きている、その不思議。
 リァンのために死にたかった4年前に、死んでいればこんなことを思うこともなかっただろう。それが一体自分にとって至福なのか悪意なのか、何故判別する必要がある。
 ───あなたが、いない。
 それだけが真実なのだ。
 ───この世界に、あなたが、いない。
 それだけが現実なのだ。
 身を取り巻く環境も人間も、全てが変わったところで起こったことは頑として動かない。時間は戻らず、人は甦らない。リァンのために生きていたことは恥じることではなかったが、それだけが全てであった時からは、自分は確かに大人になりつつあった。
 そしてそれを自分のために喜べないでいる。リァンはその死の前日まで、確かにライアンの全てだった。
 あなたのために生きて、あなたのために死ぬのが夢だった。その他の全てのことは色彩の薄い写真のように、現実味が薄かった。命の辿る道筋に落ちているものが、自分を責め苛むものばかりでないことを教えてくれた。だから自分にとってあなたは光であり、神であり、世界そのものだった。何も考えたくなかった、ただあなたの語る世界が正しいのだと闇雲に信じていればそれでよかったのだから。
 ライアンは閉じた瞼の裏で、リァンの面差しを呼び戻そうとする。彼の植え付けた種子が今ライアンを支配する絶対律ならば、そうでなかったはずの未来もまた存在したはずだった。
 そのとき自分はシャラを抱いてやることが出来たろうか。彼女に求めているのは渇きを潤すための僅かな弛緩の時間だが、命を奪い啜り尽くす快楽を知らなければあるいはごく自然に、関係を持っていただろうか。
 どんな仮定にも意味がないと知っていながら、ライアンはそれを何度も繰り返す。リァンを少しでも責難するための材料を探して記憶の海を彷徨いながら、しかし遂に感傷に負けて、それが遠く懐かしく、帰りたい日々であることを認めざるを得ない。
 この世界に、あなたがいない。
 もしもという言葉になんの意味もないことを知っているけれど───帰りたい。
 ただひたすらに、帰りたかった。


帰してよ
お前の姿が世界から 消えてしまったあの日まで


 ゆるくたゆたう竪琴の、音色は淡く消えていく。儚さは世の宿命で、生まれれば消える運命のまま、歌は今宵も消費される。使い捨ての歌、使い捨ての涙。それは何のこともない流行歌。時が来れば誰の脳裏からもこぼれおちていく砂。
 けれども歌に籠められた、ほんの僅かな真実が時には誰かの胸を打つ。強く。叩く。強く、強く。それが歌の普遍というものならば、魂をこめて歌うこの余興にも、何かの愛があるだろうか?
 女の歌は、続いている。


海を漂う海鳥たちの 声は今夜も 啜り泣く
  呼び恋い続ける鳴き声の 悲鳴を飲み込む 海潮音
  お前の胸には触れている? 私の歌う、海鳥の歌

  殺してよ
  お前が別離を告げる前に 私が憎んでしまわぬ前に

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