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 ……僅かな時間、夢を見ていたようであった。今日は眠っていてもいいのよという遊女たちに従うように、リィザはひとときを自室として与えられた小さな部屋でまどろんで過ごした。
 部屋中を圧迫するように飾られた白い花の香りは甘く、神経の底を幽かにたゆる。それが気詰まりなのか高揚なのか分からないままに、包まれていれば胸の奥がざわついて、まともに眠ることが出来るかどうかは怪しかった。
 だが、目を閉じていれば少しの時間でも意識は無かったらしい。帝都の時間を打つ時刻点鐘にはっと起き上がれば、既に天窓の外の空は暮れ始めていた。
 リィザは身を起こし、丁寧に髪を手櫛で整えると顔を洗った。鏡の中にいる少女はいつもと同じように脅えたような目つきをして、じっとこちらを見つめている。黒い瞳、白い肌に流れる黒い髪。美女ではないと誰もが言う、ほんの少し大きい目が不安げに瞬き、濡れたような黒い色を際立たせた。
「……リーナ」
 リィザは低く呟いた。女将は自分にそう源氏名をくれた。あまり本名から離れた名はつけないのがこの妓楼の慣習らしい。リィザの名前は矢車草を意味するが、色は数種類あって、大抵は白い花を指す言葉だ。リーナというのは亜種の淡薄な紫色の花を示すときの言葉であった。
(紫は夜明けの茜色だよ)
 女将の優しげに躾る声が耳朶の奥から甦ってくる。
(一番空が綺麗な時の一つ。誰かが空を見て希望を思う時間。おまえも、誰かにとってそんな風になってくれたらいいだろうね)
 リィザはさほど遠くない記憶の中のその声に、曖昧に頷いた。沢山いる姐たちも口を揃えて言った――いつか、必ずお前を本当に大切にしてくれる人がここから出して連れて行ってくれるからね。そうして妓楼を出ていった遊女は沢山いる。全員が幸福になっているというわけでもないだろうが、それは自分次第であると誰もがリィザに諭した。それを信じたふりで、ずっと頷いている。
 逃げたい。忘れるように言われて押し込んできた言葉がこの日は朝から浮かんで消えることを繰り返している。目を閉じていても胸の中で騒いでいるのはこの言葉だけ、危うい明滅がちらちらと脳裏を瞬いて、少しも落ち着かない。
 リィザはこの日何度目かも分からない溜息になった。溜息はほんの一瞬、胸の中にある不穏な痛みをぬるめてくれる気がしたが、それは確かに刹那の安堵であった。冷水を浴びた反動で火照っている顔にゆっくり白粉を馴染ませていく指先さえ、幽かに震えている。
 自分は一体何のためにこんな事をしているのだろう――ということに気付いてしまうと全てを投げ出してしまいたくなる。
 だからリィザはそれに目をくれず、頬に僅かに残っているそばかすを覆い隠すことに専念しようとした。
 日に当たるなという女衒の男や女将の言葉は正しく、この妓楼で暫く見習いとして働いている内にそばかすは次第に消えていったのだ。まだ多少は残っているが、荘園屋敷で労働に精を出していた頃よりは遙かに肌は白く美しくなった。普段使う化粧水もいいのだろう。
 白粉、口紅、多種多様の化粧品と装身具。髪に飾る造花にリボンに銀花板。花板は手で曲げることの出来る薄い金属の板で、大振りなリボンや結い上げた髪を捲くときの飾りとして用いられるものだ。大抵は透かし抜きの模様が入っている。
 リィザに与えられた花板は銀、模様は蝶と矢車草。彼女の水揚げを買った男からの沢山の贈り物の内の一つだった。
 女将が気を回してくれたのか、水揚げが決まってから数日に一度はリィザの顔を見に来てくれている。本業は神職であると言ったが、彼は出身はこの街だとも言って笑った。タリアから神へ仕える者への転身は並大抵のことではなかったはずだが、彼はそれについては余り話そうとしなかった。
 その代わり、リィザの持っていた神への紋様板を褒め、若主人が切れ切れに教えてくれた祈りの聖句や神話や教義のことなどをかみ砕いてリィザに語ってくれた。
 中年にさしかかった肌は流石に若い者とは違うが、彼の持っている雰囲気はとても落ち着いて穏やかで、恐怖や気後れを感じることがない。彼が決して嫌いではないのは実はそれが大きかった。包み込まれ守られているような感触が安堵に変わるのだ。
 リィザはその男の顔立ちや僅かに肌から漂う香料のことを思い出そうとする。そうしていないと、他のことに心がおぼれてどこかへ沈んでいきそうだった。
 天窓の外は、ぼんやりしている間にも秋の早足の落日が終わりかける証拠の金色の雲が見える。この場所がタリアの中で格子窓から外を覗けば雑多で猥雑な通りが見えるだけと知ってはいても、空だけは何処で見上げても変わらなかった。
 リィザは天窓をじっと見上げ、やがて目を細めた。
 悲しい時も、寂しい時も、飼い葉桶や洗濯籠や刈り取った綿花の袋を抱えて、同じように黙って見つめた荘園の空も同じようだった。綺麗な空だった。綺麗なものが好きだった。見つめていれば時間を忘れていられるから。
 何も持たなかった日々には、それは庭園の夏薔薇であったり小糠雨に煙る虹であったりした。
 それはいつからか硝子で出来た小鳥になった。透明で、窓から降る太陽や星や月の光にきらきら光る小鳥を見ていると、自分にある不幸など忘れていられた。
 あの人、とリィザは呟いた。
 彼は今、どうしているだろう。元気でいるのだろうか。
 幸福に――というのが無理でもせめて、不幸と呼ぶ境遇の中にいなければいい。彼の明るい笑顔と律儀で真面目な性格は、そんなものには相応しくないのだから。
 出来ることなら幸福であって欲しいとリィザは空に浮かぶ、金から紺紫に色を変えていく雲を見つめながら思った。
 幸福であって欲しい。
 あの幸福だった日々の決算とその象徴である彼の優しい瞳が、どうか今も曇らず、元のままに明るく清潔でありますように。そしてかなうならば彼が幸福でありますように。私に出来ることは、空から一枚硝子を隔てた場所で祈ることしかなくなってしまったけれど――
 リィザは幽かに潤んできた目元をゆっくり拭った。あの日々はそれまで幸福の具体的な形を知らなかったリィザにとって、紛れもなくそうだと頷くことの出来る、貴重な時間であった。彼の肌の暖かみを知り、心の熱を知っていった過去は今完全に閉じられた、思い出という籠の中の幸福な宇宙のようだ。
 もう一度遭いたい、とはもう思わない。そう決めたのだ。
 彼が過去を大切にしてくれるだろうということをリィザは何故か無条件に信じることが出来た。信じることが出来たからこそ、自分は幸福だった。誰かをこんなに信じて想うことが出来た。何も持っていない自分の胸にも美しいと思える花があったことが嬉しく、そして愛しかった。
 彼にはもう会えないだろう。会わないほうがいい。
 いつか自分がこうして彼を思って覚える胸の痛みさえ薄れ、消えていくだろう。それが時間という薬の作用だから。他に思う人が出来るかどうかは分からないが、目の前のことを少しづつやっていこう。お金を貯めれば自分の自由さえも買えるのだという女将の言葉を信じよう。この場所で、生きていくために。
 リィザはじっと雲を見上げ、深く呼吸をした。彼のことを思うとやはり胸の奥が鈍く疼いたが、それを無視しなくてはいけない時間であった。
 もう、無垢でいられる時間はそれほど残っていない。水揚げは今夜だ。あの聖職の男がやってくるまでにあと一刻か一刻半――
 リィザが本能的な怖れのために身を僅かに震わせた時、裏廊下からの扉が叩かれた。遊女の部屋は客を連れて部屋へ案内する時の表廊下と裏方の者たちが使うための裏廊下に挟まれている。その構造上、窓は天窓だけであった。
 裏廊下の方の扉ということは妓楼の者だ。果たしてリィザが扉を開けるとそこにいたのは黒服の小間使いの少女だった。黒い服の少女は単なる従業員で、身売りをしない。
「かあさんが部屋に来なさいって」
 言われてリィザは頷いた。男が来るまでに時間はさほど残っていなかった。
 リィザが裏廊下へ出ると少女は彼女に与えられた部屋に入っていき、彼女の装身具や衣装を抱えてきた。赤い絹地にたっぷりと金糸で刺された花の繍い、前の襟目に結ぶ繻子の金色のリボン。未だに無垢であることを示すための髪に挿す白い造花、矢車草の抜かれた花板。
 衣装の後ろ側にも大きな結び目を作ることが出来るようにピンがついているし、水揚げを示すための沢山の装身具や髪挿花などもあって、一人では出来そうにない。時間が来たら手の空いている姐さんに手伝って貰って身につけようと思っていたそれを、女将は自分でしてくれるつもりがあるのだろう。
 ゆっくり裏廊下を渡りながら、リィザは一足進むごとに全身の血が騒ぐような感覚にじっと耐えた。逃げ出したいというなら確かだった。
 それは以前彼女の上に起こっていたような過去への闇雲な回帰や追憶のための衝動ではなく、逆らえない運命に直面した時の居竦みや怯えと同じものであった。怖いというなら確かだった。未知のものは、いつでも怖い。次第に俯いていく首筋の張りつめた筋肉の重さを、感じないわけにはいかなかった。
 女将は自身の部屋で帳面をめくっていた。それがぼんやりする時の女将の癖であることを、リィザは既に知っている。小間使いの少女がかあさんと声をかけて下がっていくと、女将は少女の置いていった衣装やらを抱えて自分の側に座るように手振りした。
 リィザは素直にそれに従う。脳裏は次第に白くなりつつあって上の空ではあったが、命じられれば従ってしまうのは性質だった。
 女将は言いつけた通りの位置に座ったリィザと目を合わせ、やがてゆったり頷いた。
「リーナ。もう誰もお前を本当の名前で呼ばないよ。いいね、自分も言ってはいけない。客の素性を知っても誰にも言うんじゃないよ。他の娘達にもだ。それと、他の娘に付いている客は盗らないこと。向こうから指名されたなら仕方がないが、決して自分から媚びを売ってはいけない――お前はそんなことをしそうな娘には見えないが、まれにそんなこともあるからね。他の娘達の言うことをよくお聞き。無論あたしの言うことも、だ。避妊薬は毎日タリアの火入れの鐘がなる時間に飲むこと。何か聞きたいことはあるかい?」
 リィザは少し考えてからあの、と言った。一番聞きたいことは口に出来ない。だからそれに近いことを聞く。
「……私、お客さまと二人になったらどうしたらいいのか……」
 女将はリィザにここの理を言い聞かせるために張っていた神経をふっと弛めたような、気の温んだ笑みを浮かべた。
「なあに、最初から気世話しく何でもしてやることはないよ。水揚げなんていうのはね、男になれてない娘の反応も好きで買うんだから、相手の好きなようにさせてればいいさ。お前が今からやきもきすることじゃないよ」
「でも、もし、つまらないって思われたら……」
 リィザは細い声で呟いた。
 女としての価値が自分にあるのかどうかさえ曖昧であるのに、誰かを楽しませることなど出来そうになかった。水揚げにと贈られた衣装も装飾品も、決して安いものではあるまい。新しく与えられた部屋に溢れるように飾られた花もそうだ。
その金を受け取るだけの価値が自分にあるのかどうか、それを査定されるような気がして溜まらなく落ち着かなかった。
 水揚げの男は自分を買って失望しないだろうか。そうであって欲しい気もするし、それはひどく悲しいことのような気もした。
 女将は喉を鳴らして笑った。猫が含み笑うような、上機嫌な声だった。
「大丈夫、お前がそういう娘だってことくらいは奴は分かっているだろうからね。あの男は女には優しい。安心して奴に任せていればいいさ」
 女将はそう言って、リィザに今着ているものを脱ぐようにと付け足した。リィザは一瞬躊躇してからそれまで着ていた白い木綿のワンピースを脱ぎ捨てた。
 それを女将はさっと遠い場所へ押しやり、化粧台の脇においてあった洗い桶を引き寄せた。
 中には絹布が数枚、水に浸されている。引き寄せた時の反動で水がぱちゃんと跳ねると、ふわりと優しい薫りがした。水に花香が溶かされているのだろう。
 女将は布を一枚固く絞ってから取り出すと、それでリィザの身体を丁寧に、清めるように拭き始めた。ひんやりした感触が肌を滑っていく度に淡香がたった。
「綺麗な肌だ、大切におし」
 女将の呟きに、リィザはこくんと頷いた。
 体を拭き終わると次は髪だった。櫛に滑らせる梳水からも同じ香りがした。何の香ですか、と聞くと女将は淡々と蓮華だと答えた。
 長い黒髪をまとめ、何度も細かく編み込みを繰り返して結い上げていく女将の手さばきは流石で、あれほどあった造花や花板も美しく飾られているのにすっきり見える。両方のこめかみの辺りから一房づつとった前髪を長く垂らし、その先に小さな造花を飾る。
「可愛いよ」
 女将が深い満足を示すような声音で言い、リィザはそれにもこくりと頷いた。
 途端、ぽろりと涙が落ちた。ここにいたって初めて、水揚げの実感が湧いてきたのだ。
 リィザは声を上げて泣きはしない。妓楼に来たばかりの頃のように止めどもなく涙を流さない。それをするには諦めてしまったものが多く、無理矢理思い出にしてしまったものは更に多い。
 けれど、自分の生きてきた今までとの完全な決別にはやはり、覚悟が要った。
 黙ったまま僅かに涙をこぼしてリィザは唇を結んだ。その目端にそっと女将が指をそわせた。優しく丁寧にされる仕草が嬉しくて、リィザは目を閉じる。ぽろりとこぼれた流滴が最後の涙となった。
「――お前はきっと、好い娘になる」
 女将の言葉はいよいよ優しく、囁くように甘い。
「客に気に入られようとか楽しませようとか、そんなことを気にかけすぎるんじゃないよ。お前は多分、そのままで微笑んでいればいいんだ。あるがままに、愛される娘におなり。性根の優しい、声の可愛い、温かな腕を持つ娘に」
 リィザはまた頷いた。先ほどから自分は頷いてばかりいる。
「そしていつかここを出ていく日がお前の幸福の最初の日になるといいね……」
 その声には万感が籠もっているような気がした。リィザが目を開けて女将を見ると、中年の女は彼女を優しく見つめていた。視線にあるのはいたわりと、自分に向ける痛ましさと憐憫と、そして紛れもなく情愛であったように思われた。
 かあさん、とリィザは呟いた。
「私……自分に出来ることは、してみたいと思ってます――かあさん、私を買ってくれてありがとう……」
 女衒の男に連れられてタリアの大店を巡っていた時の惨めさを払拭し、今リィザに真剣に娘としての愛情をかけようとしてくれている。
 馬鹿だねと女将は呆れ半分のように笑うが、その目の奥が思わずというように嬉しく光ったのを見た気がした。
「私、何も出来ないですけど、せめてかあさんの言いつけをきく娘になりたいと思ってます……」
 馬鹿、と女将は二度目を呟いた。
「あたしのことなんか、お構いでないよ。お前はお前に通ってくる男のことでも考えていればそれでいいんだから……」
 照れのためにか尚更突き放したような物言いになり、女将は溜息になった。リィザはその表情に、やっと薄く微笑むことが出来た。落ち着きや余裕というものではないにしろ、誰かの確かな情によって足場があることを確認できたと感じたのだろう。
 女将はリィザの涙の跡を丁寧に拭き、いいね、と念を押した。リィザが頷くのを見てほっと笑い、良くできた人形に魂を入れる職人のような神妙で真剣な顔つきで、彼女の顔に化粧を入れ始めた。
 薄く真珠粉を肌にはたき、大きな目を際だたせるために僅かに睫を上向きにし、頬紅をひとはけする。その作業を鏡の中に見ながら、リィザは次第に匂うように変わっていく顔立ちを見つめた。自分ではないように見える。
 と、女将が不意に呟いた。
「――あたしを信じてくれるというのは結構。でもね、お前に信じていて欲しいのは、男ってものが決して不純で裏切るばかりの生き物じゃないって事だ」
 リィザは一瞬を置いて頷いた。これは女将の感慨のようなものであろう。それに口を挟むことなど出来るはずがなかった。
「この商売をしていると沢山の男に会う。騙されることも、裏切られることも、あるかも知れない。でもね、それで誰も信じない女にだけはなるんじゃないよ。一人去ってもまた必ずお前を見つめてお前に愛を囁く男が現れる。その男の言葉を疑いだけで眺め回さないでおくれ……忘れることが出来るから、幸福にもなれるんだからね……」
 リィザは何かを返答しようとしたが、出来なかった。彼女が唇を開く前に女将は紅筆を執り、唇に丁寧に色を付け始めたからだ。返答は要らないという態度が女将の言葉の真実さなのだろう。
 口紅を終えて軽く薄紙を噛む耳に、タリアの火入れの時刻を告げる晩鐘が聞こえた。もうそんな時間であるようだった。一瞬震えた肩に女将がそっと赤い絹の衣装を着せかけて、大丈夫だからね、と囁いた。
 リィザは深く頷き、かあさん、と呟いた。
「……ありがとうございます」
 女将は吐息で頷いたようだった。
 リィザは小さく頷き、大丈夫ですと低く言った。実際心臓は壊れてしまいそうなほど音を立てているし身体中の血は逆巻いているようで自分がどうにかなってしまいそうだったが、それを誰かに訴えても仕方のないことのように思われた。
 支度を終えて一度部屋に戻ると、日がすっかり暮れて灯りのない部屋はにぶい暗闇の中にあった。天窓から注ぐ光は僅かに赤い。通巷に溢れる篝火と塗紅の朱が反射して、タリアはこの時間には赤い光と熱の中にある。
 灯りを入れようとリィザは部屋の隅にあるランプに近寄りかけて足を止めた。鏡台の前に置き放してあった硝子の小鳥が、天窓から落ちる赤光に薄ぼんやりと光っている。透明で淡い色だったそれにタリアの赤が灯り、奇妙なほどに赤い。
 胸を突かれる赤にリィザは暫く佇んでいた。泣かない、と呟く。もう泣かない。二度と会えない人にだけ、心を連れて行かれてはだめ。この場所の人たちは優しいから、いつか貴方を忘れていくために、だから泣かない。
 リィザは低く自分に言い聞かせるように数度繰り返し、そっと小鳥に近づいた。指先で撫でると硝子特有の凛とした冷たさ。これをくれた時、彼の指は温かだった……不意にそれを思いだし、リィザはくすりと笑った。あれから1年と少ししか経っていないというのに自分がひどく年をとった様な気がしたのだ。
 タリアの淡い紅灯に燃えるような色に染まる、硝子の小鳥。リィザはそれをそっと掌に納めて愛しく撫でた後、鏡台の引き出しの一番奥に仕舞った。小鳥の姿が視界から消えた一瞬、リィザはそっと目を伏せて微笑んだ。
 ――さよなら。思い出の奥を、若主人の面影が通り過ぎていった。
 やがて水揚げのしきたりや慣行は順調に進んでいき、彼女は穏やかな声に促されるままに闇の中へ入った。そこで行われたことは、今までリィザが知識としてだけ知っていたことであった。
 やがて夜の始まる時刻、常連の言葉にまんざらでもない様子で酒場女は進み出る。太り気味の身体を些か持て余すように狭い卓の間をすり抜けて、彼女は店の隅で暇を囲っていた鬱気分の竪琴弾きを小突いて商売道具を取り出させ、深く息を吸い込んだ。
 そして場末酒場に溢れ流れ出す、豊かな音量。昔劇場で歌っていたのだという女の経歴自慢を信じる者はここには誰もいない。劇場にはあり余る豊潤な香りの年代酒や煌めく宝石の偽物の、安い酒と硝子玉に囲まれて、だが女の歌だけは真実本物だった。音楽のための楽器でない、心震わせる、魂の歌。
 女は一心に歌う。あいのうたを。


波間流離う海鳥たちの 叫びが今宵も 耳を打つ
遠く聞こえる潮騒の うねりをかき消す 声がする
お前の胸にも聞こえている? 私の歌う、海鳥の歌
見つめてよ
お前の世界の中心を 私がすっかり占めるまで
 日が落ちると一斉に回廊に揺らめく炎が灯った。リュース皇子は香料油の匂いはどうしても苦手だったが、立場上好みを言うべきではないという習慣のためにそれを口に出したことはない。
 だが、一瞬眉をひそめたのを父は素早く見たようだった。
「――深く吸い込まないで、回廊の真ん中を歩きなさい」
 皇子は微笑んで自分の父を仰ぎ見る。
 すぐ下の異母弟カルア皇子は父に生き写しだと今更ながらに思う。しっかりした健康な体つきと精悍を感じる面差しは、あの明るい異母弟にそっくりだ。
 皇子の視線に父帝はゆっくり微笑んだ。明るい夜空の色をした瞳の奥に、自分に対する情愛と慈しみを簡単に見つけることが出来て、皇子は胸の底が静かになるような安堵を感じた。
 両親からの情という意味において、皇子は父からより多くのものを受け取っている。
 父の言葉に皇子は頷き、父が先へ行くようにと半歩引いて道を譲った。皇子の訳知りの仕草に父は苦笑し、彼の肩を抱いて共に後宮への道を戻り始めた。
「……あまり根を詰めるんじゃないぞ、リュース。お前は何でも徹底的にやろうとしすぎる」
 父の言葉に皇子はええ、と軽い相づちを打った。父上が何でも適当になさりすぎるのです、という返答は心の中にしまい込む。
 父は鷹揚な登極者であり、実に大らかに執政の長として過ごしているように皇子には見える。気概や意欲というものをさほど感じたことがないが、それが現代の皇帝に求められている資質なのだろう。
 既に時代は移り変わり、皇帝が権威と権力の掌握者であった時間は去った。今はその二つの象徴という意味が正しい。が、皇子はそれには僅かな疑問を覚えている。政治であれ軍事であれ、まれにそのどちらかの見識の深い皇帝は存在した。彼らはそれ故に失脚し帝位を去らねばならなかった。定まった権力の機構に口を入れる支配者など、貴族達は欲しくないのだ。
 リュースはそれには疑問と不服を覚える。皇帝はこの国の最高権力者では既にないが、敬意を払われても不思議ではないはずだ。なのに頂点にいるその人が国政というものに真剣に関わることを望んでいる者など、誰もいない。
 父は周囲の期待に実に良く添った皇帝であるかもしれなかった。それを面と向かって非難は出来ないのだが、リュースは何か釈然としない。
「お前の考えていることは分かるよ、リュース」
 父が優しく言った。リュースは今日はほぼ一日父や廷臣達と共に在った。殆ど父が発言をしないことにも驚いたし、臣下もそれに慣れているように全く勝手に議事を進めていくやり方にも仰天した。
 それが顔に出ていたのだろうかと皇子は思い、曖昧に微笑みながら父上、と言った。
「父上はご自分で国政をご指導なさろうと思ったことはないのですか? 彼らの議論と来たら同じ場所を行ったり来たりで……」
「歯痒いかね?」
 父の穏やかな言葉に性急さを諭されているようで、リュースはやや赤面して俯いた。父帝は喉を鳴らすようにして笑った。
「お前にはそうかもしれんな。だが、実際登極してみれば違うものだと分かろう。それに議論はされないよりも尽くされるほうがより正しいと、私は信じているからね」
 それは立憲君主制という機構の心臓でもあった。
 リュースは曖昧に頷いて、ゆっくり歩を進めた。この国では昔から官僚と政治の絡み合う機構が複雑に、だがしっかりと構築されている。それは初代の皇帝があまりに早く逝去したせいであろう。即位時の2世皇帝は僅かに6才、国家とその周辺の廷臣達が生き残っていくためにはそれしかなかったのだ。
 皇帝は富と名誉と権力の象徴とし、実際の為政を官僚が担当し、官僚を法務で縛るというやり方をさまざまな規制と法令でほぼ完全な形で組み上げた太祖皇帝の遺臣ケイ・ルーシェンの呼吸が未だに法令の底辺には潜んでいる。
「私たちは祖先から受け継いできた遺産をまた次世代に伝えていくことを考えなくてはいけないのだよ、リュース。分かるね?」
 穏やかに諭されて、皇子は頷く。それはそれで正しかろう。それに父は立太子されて皇帝になったわけではない。16年前に当時の皇帝であった同母兄が結婚問題のもつれから失踪し後継者がいなかったため、暫定の継承順が一位であった父が急遽即位することになったのだ。
 父にとっては予期せぬ即位であったはずだし、帝位を望んでいたかどうかはすこぶる怪しい。情熱というものを持って望めと父に号令するのは酷というものかも知れなかった。
 それを理解していても、皇子は自分の心の奥底に父の言葉への違和感があることを否めない。何がどう、とはっきり指摘することは出来ないにしても、納得しているというわけには行かなかった。
 皇子は固く唇を結んだ。資質や皇帝の意欲の増減で簡単に翻弄される国政というのも良くないが、いずれ自分が帝位につくことを思うと暗澹とした気持ちになる。現在まで彼が学び築いてきた知識も理論も全く役に立たないということなのだ。
 努力すれば結果は出せる。それを厭うたことはない。だが、結果を出すことを求められていない時はどうすればいいのか、皇子は更に暗い気分になった。
 無理矢理それを貫こうとするならば、それを試みた歴代の皇帝達と同じように臣下を相手に泥沼のような権力闘争に明け暮れなくてはならないだろう。勝つか負けるかも分からない争いに身を投じなくてはならないことを思うと、傀儡でも静謐な一生を送りたいと願った皇帝たちの心情も理解できなくはなかった。
 それは父の願いであるのかも知れなかった。父帝は実権を掌握することを望んでいない。父の望みは恐らく、家族に囲まれて温かに一生を終えることであるのだろう。他人の価値観を理解し納得するには、リュース皇子は未だに若いという年齢であった。
 彼の表情を見て取ったらしい父帝は鷹揚に微笑んだ。
 父の大きな手が自分の額の髪を払いのけ、愛しく輪郭に触れてくる。その手の温もりのように愛されている実感はあった。細められた目の奥にも、優しい声音の静かさにも、それは暗闇の蝋燭のように灯っている。
「私には私のやり方もあるし、お前にもそれがあるだろう。しばらくは勉強がてら私の側にいるといい。それにまだお前になると決まったわけではないからね」
 立太子の条件に実は出生順はさほど関係がない。皇室の権威の失墜と共に有力な皇子の暗殺や失踪が相次いだ時代を経たために、年長の皇子3~4名の資質が大まか明らかになった時点での合議によって継承権順を決定するのがこの500年ほどの慣例である。
 現在一番近いと目されているのはリュース皇子でありそれを自分で自負してもいるが、異母弟カルアにもさほど欠損はなく、その下の異母弟エセルは自分と似た思考型のおとなしい人格だ。末弟ラインは勉学より剣術の才能が飛び抜けて光っているが、実は座学とて悪くなかった。
 誰が立太子されてもおかしいわけでない。カルア・エセルの両異母弟にあまり意欲がなく実弟ラインに至っては尻込みするような素振りがあることを考えるに自分だろうという未来観があるだけのことだ。
「……でも、父上。私は皇太子になりたいのです」
 皇子は低く、父にだけ聞こえるようにそっと呟いた。父は頷き、不意に立ち止まって彼の肩を抱き、額に軽くキスをした。
「――私もイリーナも、お前を愛しているよ。私たちの大切な皇子」
 囁きが耳元でした。リュースは微笑み、はい、と明るい声を出して頷いた。
 母イリーナ妃の住む小宮は夏薔薇庭園の中にある。丁度季節は夏をゆっくりと過ぎていく頃で、まだ咲き残っている色とりどりの薔薇が見事に美しい。侍女が摘んでいた花を受け取って、皇子は父と共に母の元へと歩いた。
 窓辺に母の姿が見える。皇子の視線が向いたのを気付いたのか、軽く手を振ってくれる仕草に皇子はほっと息を付いた。最近どうにも母が余所余所しいと感じていたから、皇子にとっては何気ないことでも宝石のような事実に変わる。
 最近という言葉が一体どの辺りからを指すのか、皇子は始まりの地点をはっきりと示すことは出来ないが、それが暫く続いていることは確かだった。だから尚更、立太子への道を選ぼうと決めているのは意固地なのだろう。それでも何か一つでも気を惹くことが出来て喜んでくれるなら――と、皇子は考え続けている。
 母は窓辺でレース編みの途中だった。弟のライン皇子はいない。日が完全に落ちるまでは剣の稽古であるのだろう。ラインの不在に皇子はあからさまに安堵し、安堵したことに気付いて自己嫌悪で頬を厳しくした。弟を決して嫌いではない。明るい上に他人をよく気遣う優しさを持っており、彼にも良く懐いている。それは一種彼の理想の人格であった。
 皇子が呼吸を整えている隙間に、両親は軽い挨拶のキスを頬に交わしていた。
 父帝と母妃の間には烈しく燃えるような情熱や甘い空気はないが、年月と共に培われてきたらしい信頼がある。それも愛情の一種の形であるだろう。父の愛というなら明らかにもう一人の皇妃ユーデリカに注がれているが、母はそれにはさほど頓着した様子を見せなかった。
 来月の誕生日で15才になるリュースと3ヶ月ほど前に13になったカルアの両皇子に皇太子候補としての諸処の知識や学問を教える特設の学問所が後宮内に開く。それがどんな立場に基づき土台に根ざしているのかを知らしめるために今日は父の側に一日おいて貰っていたが、候補となるのは彼一人ではない。
 アルカナ大公系の母を持つ自分に対してアイリュス大公系の母から生まれた異母弟のカルア皇子が共に席に着くことになる。父が異母弟を現在ユーデリカ妃が暮らすロリス湖畔の離宮からこの後宮へ連れてくることに際し、母親替わりに面倒を見てやるよう母妃に頼んでいるのはその為だ。
「あちらは大分やんちゃだが」
 父の声は苦笑している。カルアは良く言うなら闊達、悪く言うなら落ち着きがない。半刻もじっとしているのが苦手だが、体を動かすことならば大概好きだった。彼とその実弟エセルが遊びに来ると連れ回されて疲労で熱を出すのがリュースの現状だ。
「ええ、ラインも遊び相手が来ると喜びますし」
 母の返答に父が刹那、目配せした。それに籠もる厳しさが何であるのか分からずにリュースは持ってきた花を渡すための侍女を呼ぼうと硝子の呼び鈴を取った。ちりちりなる甲高い音の隙間から、母の声がするりと抜けて届いた。
「――勿論、リュースにだっていいことです。……言葉の綾ですわ」
 自分の耳が一瞬引きつったように動いた気がした。父の一瞬の所作の意味がやっと彼にも分かったのだ。母の言葉から綺麗に自分の存在だけが抜き取られていたことに。皇子は僅かに身を固くしかけ、それをどうにか押しとどめた。自分が気付いたことを、両親に悟られたくない。二人ともが今皇子に気を遣っていることを分かっているから尚更だった。
 現れた侍女に皇子は夏薔薇を手渡す。先ほどの両親の会話など聞いていなかったように微笑んで、今年の薔薇は白が多いですねと他愛ないことを言った。
「母上のお名前を戴いた薔薇でしょう? 香りも強くて綺麗な品種です」
 母イリーナは淡く笑んで頷いた。彼と似た繊細な顔立ちが美しく曇りないことを注意深く観察し、皇子はようやく内心で安堵した。
 どんな形であれ、皇子は母に負担を強いることはしたくないのだった。

 父を迎えに来た侍従が扉を閉める音がした。今夜は父帝は北接の大国ヴァリエーンの大使との食事会、つまり公務での晩餐である。公務がない夜でも両親と弟が揃っての食事は珍しいが、これは父と母の間の事情であった。
 元々親好的な間柄で結婚したというわけではない。父の兄であった先帝の失踪を受けての取り急ぎの即位と結婚だったのだから、二人が今強い愛情で結ばれていなくても仕方がないのかも知れなかった。一方のユーデリカ妃とは父は従兄妹同士であり幼馴染みでもあったから、自分にとってのエリザ公女のようなものであろう。
 皇子は母との食事は久しぶりだった。先年の終わりに中等学院を首席で卒業して以来、後宮の片隅で本に埋もれているか魔導の塔に集蓄されている文献の研究に殆ど毎日を費やしている。食事は気の向いた時に食べられる分だけという不規則さで、自然一人で何かつまむことが多かった。
 それは皇子にとって、気楽さへの依存でもあった。所詮自分は他人に合わせるのに慣れていないのだ。気心の知れた人間はとても少なく、心許せる者は更に少ない。母も例外ではなく、例えばこうして夕食に戻ってくるはずのラインを待つ間、何を話していいのかよく分からない。
 中等学院に通っていた頃にはその話を母の方から尋ねてくれたりもしたのだが、卒業してしまえば何もない。しばらくは体調のことも考えて高等学院への進学を数年先送りするように典医に言われたために、現在は魔導学の講義だけを聴講するにとどめている。
 一つにはこの年齢で高等学院へ進んでも周囲が全員20才を幾つか過ぎていて、今までのように周囲から完全に浮き上がることが分かっているからでもあった。
 魔導学の講義にしても、4年前に論旨を後継した時間生成理論の、皇子は今や旗手であり第一人者であった。魔導学は論理と仮定と計算と実験の永遠の螺旋だが、そのどれも皇子は筆頭に立つ実力があった。
 時間生成の実験だけは2年前の失敗によってしばらくは凍結だろうが、他愛ない他の検証実験程度なら皇子は一人で十分だった。そしてその度自分を見る学生達の奇異と賞賛と嫉妬と、恐れるような目つきを皇子は知っている。それがある限り、彼らとは相容れないことも分かってしまうのだ。
 だが、こんな話を母にしようと思ったことはなかった。中等学院のときもそうだった。どうにかして明るい話を掘り起こすことに熱心だったのだ。何か材料を捜してリュースは部屋をざっと見渡し、最近増えたらしい一枚の絵に目を留めた。光臨する天使と周囲に群がる魚の群れが幻想的な青を基調にまとめられている。
「天使画よ。綺麗でしょう」
 母の声がそっと囁くように言った。リュースは頷いた。宗教画としてよりも幻影画としての価値を追ったような一幅であるが、揺らめく波間に魚鱗が光る様や手を差し伸べて微笑む天使の顔が天上の安らぎを思わせる。よい絵であるといって良かった。
「どうしたのです、これ? 献上品……ではないですよね、まさか」
 天使画を書く画家は大抵若い。これは最近の若手や新人の画家の間で天使を意匠に使った絵が流行しているからだ。献上品として納宮される品は既に作家として名の立った者の作品が主流だから、天使画を後宮で見ることになるとは思っていなかったのは事実だ。
「ええ、勿論。美術監長がこの前持ってきてくれた画集の中に入っていたの。とても気に入ったと言ったら本物を持ってきたのよ」
 母は苦笑しているのだった。ねだったわけではないが、取り上げてしまったような気持ちもするのだろう。
 皇子はそれにそっと笑い、母の向かいの席を立って絵の前に立った。画家の名前は大抵右隅に完成した日付と共に入れてある。
「――スコルフィーグ……ああ、彼女ですか」
 皇子は署名を見やって呟いた。知っているのという母の声には曖昧に頷く。
「高等学院に聴講で行った時に、学院の中庭で声をかけられました。まだ若い……そうですね、多分20才にもなっていない女性です」
 経緯が分からないというように微笑みながら首を傾げる母に、皇子は向き直る。
 エミリア=スコルフィーグは皇子に絵のモデルになって欲しいと言ったのだった。絵画にも派閥や学閥があり、高等学院の芸術部展に出展するために学院を訪れた時に皇子を見かけたらしい。
 それを皇子は断った。忙しいと彼女に言ったのは間違いではなかったし、写真だけでもと食い下がられても、自分の写真には沢山の権利や営利が絡んでいるため気軽に許可を出せないのだ。
「まあ……こっそり写真だけでも撮らせてあげれば良かったのに」
 母の残念そうな物言いに皇子は少し笑い、露見したら彼女の方が困りますからと言った。自分は父帝からの口頭での軽い叱責で済むが、相手はそうはいかないだろう。平民層であるから尚更だ。口にしない部分を母は察したのだろう、残念ねと柔らかく笑ってじっと天使の面輪を見つめた。
 光臨する天使の表情は甘く優しく、微かに開かれた唇の微笑みが慈悲の形に納まっている。
「気に入ったなら持って行きなさい、リュース」
 絵にじっと視線をやっていた王子にイリーナ妃が言った。皇子は母を振り返り、いいのですかと目線で問うた。母妃は笑って頷く。それはいずれ侍女の手によって包まれて彼の部屋に届くことになるだろう。
 皇子が礼を口にしていると、侍女が茶を運んできた。くせのない発酵茶にいくつかの香料が混ぜてある香料茶で、母妃好みのいつもの凛とした強い香りがついている。この茶の匂いに触れるたびに、皇子は母親の元にいることを強く実感にするのだった。
「ご苦労。そこにおいて下がっていいよ」
 皇子はそう言って侍女を払った。どんなにぎこちなくても感触が掴めなくても、母親の側にいる時間は皇子にとっては貴重であり、全てに代え難かった。そこに他人を入れることを歓迎しない自分の狭量さに苦笑になりかける。
 が、それは彼にとっては何をおいても欲しいものであり、殆ど望みを持たない彼の唯一に近いものだった。なめらかな磁器のカップに茶を注ぎ、皇子は母親に受け皿ごと差し出す。どうぞ、と微笑んだ皇子はだが、一瞬後に怪訝にその笑みをおさめた。
 母はじっと皇子を凝視していた。僅かに見開かれた瞳の端で、睫が震えている。
「……母、上……?」
 ぼんやり皇子が呟くと、それで我に返ったように母は肩をひきつらせた。
「あの……何でもないのよ、大丈夫……」
 無理矢理笑う顔をどこかで見たことがあると皇子は自分の記憶に捜し、去年の聖誕祭へ辿り着いた。あの時も、母は自分を見て呆然とした。食い入るような真剣さと、驚愕と、泣き出しそうな瞳の奥の潤みがひどく似ている。
 それを聞きたいと皇子は思った。何故ですか、と口にしたかった。だが現実に立ち返った瞬間、皇子はもの柔らかに自分が笑って母親を気遣っていることに気付いた。
 ――聞けない。涙をこらえようとしている母の理由を聞くのが怖い。何故かと口に出してしまったら、答えを知りたがっていることが母に分かってしまう――
「母上、大丈夫ですか? ……これ、どうぞ。落ち着きますよ」
 いつもと変わらないように注意深く笑いながら、皇子は母妃の手にカップをそっと取らせようとした。
 その瞬間、母が掠れた悲鳴のようなものをこぼして身を折った。耳障りな音を立てて磁器のカップが皇子と皇妃の手の間で倒れる。皇子は反射的に皿を自分の方へ傾けた。母に熱湯がかかると思ったのだ。
「――っ……」
 カップから勢い付いて溢れた茶の飛沫が皇子の華奢で白い手に掛かる。一瞬上げかけた声を押し殺した時、床でカップが割れた。
 その音でイリーナ妃ははっとリュース皇子を見、彼が自身を庇って押さえた手へ目をやって、今度ははっきりした理由のために細い悲鳴になった。
「リュース――ああ、ごめんね、誰か、誰か! リュース、リュース、手を見せて――火傷になってしまうわ、ごめんなさいごめんなさい、ひどいことを――」
 母は狼狽えて口走り、彼の手を取って撫でさすった。
「大丈夫です、あの、殆ど掛かってませんから……」
 皇子はなるべく優しい声を出した。実際僅かに数滴が手の甲に飛んだだけで、殆ど跡にも残らない、冷やす手間も要らないようなものだ。痛みさえ、たいしたものではなかった。
 だが彼の声は母の耳には殆ど入っていないようだった。皇子の手を握りしめておろおろしながら、ごめんなさいとばかり繰り返している。リュースも次第に困惑が濃くなってきて、母上、と宥めるような声になった。
「もう大丈夫です。ほら、全然痕にもなっていない。どこに飛んだかなんて分からないでしょう――片付けを頼む」
 最後は母の声に駆けつけてきた侍女達に言い置き、皇子は皇妃の手を取ってその場を離れた。砕けた磁器のかけらが床に散らばって危険でもあったし、何より母を落ち着かせなくてはいけない。ラインが戻ってきたら庭へ出てくるように言伝して、皇子は母を連れて薔薇園へ出た。
 夏の夕暮れはようやく沈み始めており、空の一番高い部分は紺青だった。薄くたなびく紫金の雲、名残の日差し、そして夕日に温かな茜色に色づく白い薔薇。その薔薇は母イリーナの名を冠された比較的新しい品種で、ほっそりしたうてなから開く大輪だ。
「……今年はいい薔薇が出来ますね」
 皇子は今にも開きそうにふっくらした蕾をそっと指で撫でながら呟いた。とにかく彼の被ったささやかな災難のことを忘れさせたかった。
 未だに啜り泣いていた母は微かに頷き、彼の触れた蕾をよく見るようにかがみ込んだ。
「この薔薇はね、私がアルカナの本家を出て後宮に入った時に記念に贈られたのよ。もう……16年になるのね……」
 その声にはそれまで積み上げてきた経緯を振り返る感慨が滲んでいて、皇子は自分の表情がやっと和らいだのを感じた。母はじっと薔薇を見つめていたが、やがて両手で顔をそっと覆った。母の声が小さく、恐らくは自分にだけ向けた言葉を呟く。
 ――マリア。
「……母上……?」
 皇子の不思議そうな声に、母ははっと顔を上げて無理矢理微笑もうとした。
「大丈夫よ。何でもないわ……」
 皇妃は彼に首を振り、ようやく立ちあがって薔薇園の中央にある小さな泉へ歩いていく。整えられた庭に俯き加減に歩く母の細長い影が落ちて、どこかひどく寂しげであった。
 先ほど呟いた言葉は恐らく誰かの名前であろう。それが誰であるのか、皇子は知らない。ただそれに滲んでいた沈鬱さに母の痛みが宿っている気がして、皇子は余計な好奇心であると自覚はしながら、つい口を開いた。
「マリア……って誰です?」
 母は足を止めた。
 肩越しにゆっくり振り返る視線がじっと皇子に当てられて、やがて外された。伏せられた睫の影が頬に落ちる。
「……お友達よ。もうずっと昔の……綺麗で、可愛くて、素直で……とっても優しい子だったわ……私の大切な……妹……」
 一瞬皇子は去年の聖誕祭に聞いた母の妹のことだろうかと思ったが、すぐにそれは否定できた。母方の叔母はメリーナといったはずだ。貴族間では時折親しい年下の女性を妹と呼ぶこともあるから、きっとそれだろう。友人という言葉もそれを裏付けている。
 そうですか、と皇子は言った。母の友人達は誰も彼もみな華やかで眩しい。その中にマリアという女性がいたかどうかを記憶に捜し、遂に見当たらなくて皇子はでも、と続けた。
「最近は顔を見せていないのではありませんか? 一体どうしたんでしょうね」
 何気ないその言葉に母は視線をそっと戻した。何かいけないことを聞いてしまったのだと悟って皇子が慌てて何か付け加えようとしていると、母は低く呟いた。書かれた台本を丁寧に、しかし感情の籠もらないように棒読みしたような口調だった。
「――その友達は、もう、死にました」
 そう言った途端母妃はがくりとうなだれた。皇子は狼狽して母上、とだけ言った。母は彼を涙で赤く腫れた眼で見つめ、突然彼をきつく抱きしめた。一瞬肩の骨が軋んだように痛んだ。
「リュース」
 強い腕の力で母に抱かれ、息苦しささえ覚えながら皇子ははいと生真面目に返事をした。母の言葉はそれきり途絶えた。嗚咽が彼の耳元で続いている。呼びかけることも身じろぎすることも出来ず、皇子は黙って母の慟哭を聞いていた。
「リュース、リュース……愛しているわ」
 母は同じ事を繰り返している。愛している、愛していると何度も呟くたびに、その言葉の濃厚さが薄まっていくような気がするのは不思議だった。
 夕映えをじっと見ていた目を皇子は閉じて、母の繰り言をずっと聞いた。口を挟むことではない気がして、自分の呼吸音さえ押し殺した。
 母は確かにおかしかった。彼のことを呼び続ける低い声も、愛しているという囁きも、その両方が上の空のようにせかせかと流れていってしまう。その言葉が嬉しいという感情の反応を自分に連れてこないことが不思議で、皇子は溜息になった。
 それを聞きとがめたのか、母が不意に体を離した。皇子は既にさほど変わらない位置にある目線を怪訝に見上げる。母はじっと彼に注視を与え、そして再び顔を歪めた。
 ぐにゃりとゆがんだ表情が涙の前触れであることを分からない皇子ではなかった。具体的な方法は思いつかないものの、どうにか宥めなくてはと思うのは先ほどと同じで、皇子は母にそっと手を伸ばした。
 だがその瞬間母妃は半歩後ろに下がった。皇子は僅かな時間、まばたきをする。
 ――避けられた、という衝撃はやや遅れてやってきた。耳元を雪崩落ちていくような音がする。夏の余韻の虫の音のこだまと分かっていても、それは自分の血潮が脳天からひいていく音に思われてならなかった。
 皇子は何かを言おうとし、母親の様子に沈黙した。彼よりも尚更皇妃は蒼白であった。
「リュース、リュース、ごめんね、ごめんなさいね、愛してる、愛してる、お前のことを愛してる、お願い、ごめんね、愛しているわ――」
 怒濤のような言い訳を口走り、皇妃は彼と似た美しく繊細な顔を痙攣させた。救いを求めるように、首から下がった白金の神紋板をしきりにまさぐっている。
 その指先が神経質に板に埋まった瑠璃石をいじるのを皇子は視界に入れながら、母親のこの神経のかぼそさとささくれやすさは、確かに自分の中に流れている血なのだとぼんやり思った。
「ごめんね、愛しているわ、お願いよ、愛してる、愛してるわ……」
 呻きながら母は彼に向かって微笑み、そして首を振った。
「あの、あのね、もしお前が忙しいなら――」
「母上!」
 皇子は咄嗟に大きな声を出した。母は怯えたようにまた半歩、後じさった。その永遠に遠い距離に皇子は思わず顔を苦くし、それに自分で気付いて慌てて笑みを作った。
「あの、そ、そう、魔導学の論文を仕上げなくてはいけないんです、急がなくてはいけないから、その、今日は帰ります!」
 思いついた用事を口走り、皇子は母の返事を待たずに背を返した。
 東からゆっくり上る月に白薔薇が本来の青白さを取り戻しつつある中を、皇子は逃げるように走って抜ける――いや、多分これは逃げているのだろう。
 跳ね上がるほどに走る側から涙がこぼれそうになる。怖かった。母があの瞬間何を言おうとしたのかを考えたくもないし分かりたくもないのに、直感が声高に叫んでいる。
 忙しいなら来なくていいのよ。もう来ないで。来るな。
 最後に浮かんできた強い言葉に皇子は走りながら喘ぎ、奥歯をきつく噛み合わせた。母は泣きながら自分を愛していると言った。信じて欲しいと何度も目で訴えながら繰り返した。
 けれど、それをまるで信じていない。彼に対する最近、母はいつでも怯えたように彼を見ている。どんなに言葉を優しくしても穏やかに笑って見せても、喜んで貰えるように何をしてもそれは同じだった。
 自室に駆け込み、彼がいつも一人でいる場所になっている書庫に籠もると、全身から汗がどっと噴き出てくるのが分かった。
 息を整えながら、皇子は本棚に並ぶ皮の装丁の背を軽く拳で叩いた。どの本も政治学や経済学や、その他の皇帝教育のためにと母が贈ってくれた本だ。お前にその気があるならしっかり頑張りなさいと言ってくれた。その言葉一つで自分は本ごと覚え込んでしまうほど勉強したのに。
 なのに、その視線一つ微笑み一つ、弟から取り戻すことが出来ない……
 皇子は走ったせいで上がった呼吸が次第に胃の底で吐き気に変わるのを無理矢理押さえ込んだ。ライン、と呟く。
「愛してる、弟を、愛してる、ラインは可愛い、大切な、私の、大事な弟……」
 早口で呟く口調が母と酷似していることに皇子は気付き、小さく笑った。無性におかしくなってきたのだった。
 くすくすという乾いた笑い声をあげて暫く皇子は笑った。自分と母は全くよく似ている。これだから母は私が嫌いなのだ。自分の嫌な部分まで、全くそっくりに再現してみせるから――でも。
 皇子は自分の胸ぐら辺りを片手で掴んだ。心臓は壊れてしまいそうにきりきりと波打っている。その痛みで今死ねたらいいのに。そんなことをちらっと思い、皇子は苛立ちのまま本の背表紙を今度は思い切り叩いた。
 重い樫の書棚が揺れて乱雑に皇子が積み上げた本が崩れ、何冊かが彼の肩や背を打ちながら転がり落ちた。
 打擲に皇子は喉で呻き、背中の鈍い痛みを与えた本をまさぐりよせて適当なページを開いた。夜が落ちた書庫は暗い。だが、彼が何か書き込んだ痕跡を認めればそれで十分だった。
「――かくて行政の責任の所在は官僚を総括すべき統合機関に最終的には委ねられるがそれ以前に監査機関を置くことを厭うてはならないことを念頭に置くべきであろう。監査の監査を永遠に続けることは無意味であるとしても最低限に行うかその姿勢を常に見せておくのは為政者として当然の責務であり義務である――」
 皇子は本の一節を呟いた。どの本でもそうだ。彼は既にこの書庫にある本などは処分しても記憶の中から同じものを探し当てることが出来る。
 皇子はその本を放り投げ、次の本を手に取った。僅かな灯りに金文字の題名が光る。皇子は目を閉じてその中の一節を暗誦しはじめた。この本は行政学ではなく経済学の本だ。債券売買とその数値の理論について。その次は法律。次は軍学。歴史。地理。古典……そして魔導。
「時間軸は存在を前頁資料22にあるように数値上、絶対存在を確信するものであるが、次元軸との交錯におけるたわみは未知数である。帝歴1995年の魔導士カシュラムによる実験の際にはそれは極めて高い数値を示しており、それを付属効果として計算に組み込まなくてはならないことは必至といえよう。計算式は次頁資料23にて示す(資料23参照)。この計算が正しく効果が順調に魔導効果として成長をすることを前提にするならば、時の魔法はいずれ、「魔法」ではなく「科学」の名の下に実体を明らかにするはずである……」
 自分が書いた論文を暗誦し、皇子はそれを収録した魔導学の本を思い切り床にたたきつけた。
 こんな論文、書かなければ良かった。あんなに必死に学業になど専念しなければ良かった。知識や学問など、極めるために突き進んでいっても最後に待っているものが母からの隔絶だと知っていたらそんなこと、最初からするはずなんてなかったのに……!
 皇子は上がってきた苛立ちのまま、床に散らばった本を壁に叩きつけた。自分の中にある納得しきれない怒りや、弟に対するどす黒い感情をどうしていいのか分からなかったのだ。
 更に投げつけるものをと床にあった本に腕を伸ばした時、手首が突然捕まれて皇子ははっと振り返った。微かにある灯明が仮面の銀を反射して光った。
「殿下、それ以上はどうか」
 彼の随従の魔導士が、表情の見えない仮面の下から心痛めたような声で彼を気遣っていた。
 マルエス、と皇子は顔を苦く歪めた。この瞬間に、誰とも顔などあわせたくなかったし会話もしたくなかった。一人になりたかった。その身に馴染んだ孤高で自分をひたすら慰撫してやる時間だけが欲しかった。他人の気配など、身近にしたいとは思わなかったのだ。
 下がれ、と一喝するとマルエスは彼の手首を放して平伏した。魔導士の長く暗い色の衣が黒い沼のように床に広がった。
「いずれ、そのようにも。しかし殿下、本をお仕置き下さっても何かが変わるわけではありません」
 核心を一言で射抜かれて皇子は僅かに呼吸を飲み込み、頬にかあっと上がってきた熱さに押し出されるようにうるさい、と怒鳴った。
 マルエスがお許しをと低く言って彼の足の甲に額を押しつける。仮面のひやりとした感触に、皇子は急に心臓を掴まれたようにどきりとした。
 その一瞬で皇子は我に返った。まだ燻っているような火種は胸の中にあるが、頭の方は至極冷静な、普段の彼の通りに戻りつつある。自分を巻き込んだ一時の熱狂とも言うべき荒廃から目を背けた時、真っ先に随従を怒鳴ってしまったことが胸に落ちた。
「――すまない……怒鳴って悪かった」
 俯きながら皇子は呟いた。自分の声にひび割れるような疲弊が滲んでいることに一瞬置いてから気付き、溜息になる。
 緩く首を振って本棚にもたれ座り込むと、顔を上げたマルエスが何かお持ちしましょうと言って手を差し出した。彼の手に掴まって腰を上げ、皇子は居間へ戻る。大して動いたわけでもないのに息が切れた。
 窓辺の椅子でじっとしていると、目の前に切り子硝子のグラスが置かれた。口をあてると苺の甘い香りと共に微量の酒精がした。苺を漬けた酒を水で薄めたものだろう。
「落ち着かれましたら少しお休みになって下さいませ。夕食はライン殿下がこちらでご一緒されるという連絡を母妃殿下から頂きましたので、もう少々かかります」
「ラインが? ……そう」
 皇子は深く頷いた。母のこれは気遣いだ。または本当に気分が悪いのか。いずれにしろ皇子が逃げるように自室へ戻ってしまったことを気にかけて弟をこちらに寄越すのだから、母が彼に申し訳なく思っているのは本当だろう。
 そんな遠慮。
 皇子は胸の内で苦々しく呟き、軽く目を閉じた。激高と滅茶苦茶な運動が彼の強健でない身体を次第に気怠い沈黙へ押し込めようとしている。腕が重い。
 自分のひ弱さ加減に皇子は今度は苦笑し、マルエスに下がるように言った。
「大丈夫……大丈夫だから、ラインが来るまで少し一人にしておくれ」
 彼の既に去った激しさを理解したのだろう、魔導士はゆっくり頷いた。
 マルエスは皇子に随従するようになって長い。勿論他の皇子達にも両親にも護衛の魔導士がいるが、一番馴染んでいるのは皇子であったかも知れなかった。魔導に通じ才能があることを誰よりも知っているのは皇子であり、その為にマルエスは彼の良き相談相手でもあったからだ。
 マルエスが軽く一礼して書庫の方へ歩いていく。皇子が散々投げ散らかした本を片づけてからこの部屋を去るのだろう。多少気恥ずかしい思いをして皇子はその後ろ姿を見やり、そして呼び止めた。
「マルエス、彼のことはどうなっている?」
 去年の夏頃から皇子は中等学院でわずかな時間を共にした少年を捜すことに魔導士を従事させている。
 さほど急いだ報告がないということはまだ見つかっていないと言うことではあろう。もっと人手がいればとも思うが、これが皇子の個人的な感情を満たす物であるという気枷があって申請を出来ない。マルエスの方は案の定、困惑したような吐息を落とした。
「――ラウール本家の屋敷には既にラウニス伯爵家が入っておりまして、痕跡が入り乱れております故、判別に多少時間が」
 ラウニスはラウール本家の門閥家の係累だが、ラウール失脚の余波の通りにさほど勢いがない一族といえた。が、散り散りになったラウール系閥の今は筆頭でもある。他の家と結託はしていないから再興などという夢は見ていないのだろう。ラウール本家の門地に移住したのはそれを受け取る権利があったからに過ぎない。
 旧ラウール屋敷の中に残る沢山の痕跡、例えば誰かの触れた壁、使った机、そんなものに残る気配の残り香をマルエスは捜していた。人には必ず固有の斑紋がある。気の流れでもあるし指紋などの具体的な物まで含まれているが、屋敷の中の多々ある痕跡を総検討し、どれがキエスのものであるかを判別し、特定が済んだ後にそれを元に探索を開始するという腹だ。
 但し、現在その屋敷にはラウニス伯爵やその家族、召使いなどが起居している。彼らの痕跡とキエスの痕跡をより分けていく作業は膨大で、マルエスが時間が欲しいというのはそのことであった。
 だが、マルエスは出来ないとは口にしていない。だから時間は掛かってもいずれその答えも結果も皇子に披露するだろう。
「……期待している。よろしく頼む」
 はい、とマルエスが仮面の下でそっと笑う気配がした。皇子は視線を随従の魔導士へやる。マルエスは軽く会釈すると、皇子に銀の仮面をまっすぐ向けた。
「殿下が御熱心ですので、つい」
 僅かにリュースが赤面すると、それを見なかったようにマルエスは深く腰を折り、書庫へ入っていった。扉が閉まって魔導士の長衣が消える。皇子は何故かほっと溜息になり、目の前の淡酒を含んだ。
 何故、とはマルエスは聞かなかった。それを聞くことの出来る立場でもない。それに甘えて自分が説明を怠っていることを、リュースは自覚していた。
 何故彼に会いたいのだろう。その疑問は、自分に何度問いかけても毎回違う答えが返ってくる。
 彼は私に何か話があるはずだから?
 魔導論文の賞金を渡してやりたいから?
 彼の逃亡の理由を聞き、出来ることなら力になってやりたいから?
 そのどれもが間違いではなくて、完全に正しい訳でもない。会って一体どうしたいのかと聞かれれば、皇子は曖昧に微笑むしか出来そうになかった。
 けれど気になる。自分を見つめていた眼差しも、身を翻すように逃げてしまう時にもきつい輝きになる気性も、偽悪的な口調でさえ、何かの声にはならぬ言葉である気がして落ち着かない。
 あえて無理に総括するなら、と皇子はふと思い浮かんだ言葉を呟いた。
「彼と……友達、に、なりたいのかな……」
 名前も知らないのに、とリュースはぼんやりと思い、唇で薄く笑った。それでも思いついたその言葉は自分の胸にひどくしっくりと納まるようだった。
 彼の抱える孤独と皇子の抱える孤独はよく似ていた。気位が高くて他人を寄せ付けない――彼はいつでも人の中心にいたが誰にも心を許していなかったことは分かる――所も、誰からの理解も欲していないと身構えてみせる所も、孤独に慣れてしまった所も。だから会えばきっと――多分、話が出来る。リュースはそれが自分の勝手な空想であることを承知しながらも、うち捨ててしまうことが出来なかった。
 彼の話を聞きたい。今まで何処にいて、どうして生きてきたのかを。喜びの話を苦しみの話を、辛さも楽しさも、その生きてきた軌跡を知りたい。
 話がしたい。どんな下らない話でも。皇子はきゅっと唇を結んだ。
 ――淋しい。それは皇子が次第に重苦しく感じ始めていた身の孤独であった。
 彼を取り巻く人々は彼を憧憬し崇拝しても、決して近寄ってこようとはしなかった。彼に取り入ろうとする者たちは沢山いたが、彼に近しくなろうとする人間はついに見当たらなかった。憧憬があるなら嫉妬もある。双方の視線の重さだけが共通だった。
 少女達はまた違う目で彼を見た。沢山の手紙、手作りの押し花の栞、刺繍の入ったスカーフ、そんなものと共に愛の告白も嫌というほどきいた。
 けれどそれは皇子は全て断っている。よく分からないのだ。人を恋すること。愛すること。その心が一体どこから派生してくるのか、彼には全く理解できない。エリザ公女は呆れ顔で、考えることがそもそもいけないのだという事を言ったが、その意味さえあやふやで掴めない。
 気持ちという不可解は自分の中の薄暮であった。うっすらと見える気もするが、何があるのか得体が知れない。そして正体の見えないものは怖い。
 けれど、母の関心は欲しい。あの視線や弟に向けるような優しい笑顔や穏やかな声が、もっと欲しい。弟に目を取られがちな母の、年上である彼に理解と分別を求めている母の、柔らかな腕に抱き巻かれて感じる安息を、もっと欲しい。そしてそれは弟がいる限り自分に燦々と注がれないだろう。
 胸に一瞬さした鋭い痛みに、リュースは端麗な頬を歪めた。これはきっと、淋しさのための苦痛だ。決してラインを自分は嫌ってなどいない。だから母上、もう少しでいいから、ほんの僅かでいいから、一瞬でいいから、
 ――私を見て下さい。
 皇子は首を振る。彼に会いたい。会って話がしたい。その淋しさを、例えようのない孤独感と虚無感を、彼は分かってくれるだろうか……
「……本当に、何て、都合のいい……」
 リュースは低く呟いた。けれど、淋しい。
 誰よりも孤独だと、淋しいと、皇子は呟いて滲んできた涙を押し出す為に目を閉じた。



見つめてよ
お前の世界の中心を 私がすっかり占めるまで──


 酒場女の歌声は朗々と、小汚くて薄暗いホールに響き渡る。
 安酒を更に水で薄めて飲む客達が、女の歌に口笛で加勢する。竪琴の音は陰鬱で、それを弾く指の持ち主のように暗い表情だ。
 きらきらひかる、硝子玉の髪飾り。
 安直な煌めきが安酒場での余興に相応しく、床に淡い影を落とす。
 女の歌は、まだ続いている。



 愛を囁く海鳥たちの 歌は掠れた しゃがれ声
 嗄れた喉から啼きあげて 今宵も死ぬほど 呼んでいる 
 お前の元にも届いている? 悲鳴のような、海鳥の歌

 抱いていてよ
 お前の持てる両腕の その長さに余らぬように
  海から上がってくる風が枝をゆらした。盛夏に茂った濃い緑がざわめくと、耳に遠く巻いているような潮騒と混ざって不思議な音になる。療養所の庭は患者達を宥めるために広く作られていて、木陰とその下のベンチが存在するが、広さ故に他の患者と出会うことが珍しいのも気楽で、最近は尋ねてくると庭に出ることが多い。
 ベンチに腰を落として自分の肩を枕に眠る母にちらりと目をやり、クインは自分のスカートの皺を丁寧に伸ばした。
 顔色は確かに良くなった。感染値も下がって療養所の中であれば条件付で歩くことが出来るようになった。頬の血色もいいし、薬も効いている。その薬のせいで母親は先ほどから目を覚ます気配がないが、それでもクインは良かった。
 月に一度顔を見にミシュアまで空間転移してくるが、その都度母は身体を回復させていくように見えた。この療養所に母を置いて最初の数ヶ月、自分が半信半疑であったことは否定しない。
 本当に薬は効くのだろうか。本当に母は助かるのだろうか。母には言えない身の切り売りをしてまで稼いだ金は有効に、自分を救う柔らかな腕の持ち主を現世につなぎ止めてくれるだろうか。そうでなかった時、自分はどうしたらいいのだろう。
 最後の疑問が浮かんだ時、クインは恐怖のあまりにそれから目を逸らした。そんなことは考えたくなかった。彼の中にある不安という根は雑草のように頑迷で、幾ら千切っても千切っても次々に芽を出しては彼を苛立たせる。
 けれど母の様子を見ている限り、薬は良く効いているようだった。療養所に連れ込んだ時は既に美しかった爪の色が奇妙に黒くなり、左の小指と薬指は麻痺が進行していた。
 指先の色はもう戻らない。黒死に罹患した患者がよくするように、母もまた、色の変わった指先を隠す為に手袋をしている。
 無造作に膝に置かれている手を、包み隠す布地の上からクインは撫でた。この手の熱さが彼をひたすらに導き、守り、愛してくれていたのだ。離れていても、それは変わらない。
 自分は母を愛しているし、母も自分を愛している。
 ――でも。クインはそっと溜息になった。
 離れている時間は彼と母の間に遮蔽幕のように薄く、何かをかけてしまった。手袋のごく薄い遮断でも決して素肌に触れられないように、自分とこの優しい人の間に、何かが横たわっている。
 離れて過ごしているせいなのか、それとも母に話せないことばかりが増えていくからなのか、クインはそれを考える度に自分の胸の中を烈しい苛立ちや屈折した怒りが荒れ回ることを自覚している。
 自分は何かのせいにしたいのだ。クインは他人からは表情が見えないように俯き、ぎゅっと唇を噛んだ。
 憎いというなら全てが憎い。
 何故俺ばかりがこんな怒りを抱えなくてはいけない。生まれた瞬間の星の配置のせいか、それとも宮廷内の事情ってやつか、どれにしたって俺を放り出してもう片方だけを大事に暖めている理不尽のつけを、払わせてやりたい。
 理不尽、理不尽、理不尽。呟く口調に潜む切羽詰まった苛立ち。クインは表情に出ないようにゆっくりと奥歯を噛み合わせた。
 納得なんか、出来るものか。俺が母さんに話せない秘密で苦しい時に、あっちは大切に絹の衣装にくるまれて微笑んでいればいいなんて、どうして決まったんだろう……
 そしてクインはいや、と自分を宥める為に首を振った。
 皇子は彼に優しくあろうとした。何かの共感をその瞳に見ることが出来た。ほんの一瞬の交感でも分かることもある。
 皇子は自分の正体を知らない。けれど、自分と話をしたいに違いない。ほんの僅かに目を見交わした瞬間も、曇りのない明るい、嬉しそうな笑顔だった。
 ―――皇子になど、会いたくない。皇子の優しい笑みも素直な視線も、事情の内実を知らないなりに気遣うだろう態度も、全てが自分を鞭打つのが分かっている。それは自分の持ち物であったかも知れないのに、自分の可能性の影と現実を突きつけられれば痛い。
 痛いことは分かっているから自分がどうするかも知っている気がするのだ。
 会いたくない。自分を何の条件も見返りも期待せずに優しくしようとしてくれる人を、この手で、言葉で、蹂躙するようなことはしたくない。
 会いたくない。会えばきっと自分は彼を傷つける。そうしてしまいたくて仕方がないのだ。
 この煮えるような黒い気持ちを憎悪と呼ぶのかも知れない。自分の上を通り過ぎていく男たちの仕打ちなど、憎しむのにも値しない。あんなものはただの仕事だ。流れていく時間を、滑稽で奇妙な仕草を、目を閉じるなり天井を見上げるなりで潰していればその内に終わる。
 最初の頃に感じていた生理的な嫌悪感も、精神的な負荷感も、全ては消えた。その方が自分にとって楽であることを承知して享受しているはずなのに、何故それがこんなに気に食わないのだろう。そして思考は皇子の元へ戻る。自分と同じ血を持つ、彼の幸福について。
 死んでしまえばいい。ちらりと湧いたそんな言葉にクインは溜息をついた。皇子のことを思うたびに、憎悪だけが募った。間違っていることは知っていても。クインはじっと目に鮮やかに映える芝生を睨み、唇をひき結んだ。
 ―――もうすぐ、15になる。
 母はあの約束を覚えているだろうか。黒猫の小さな友人を置き捨てていった夜、全てを話してくれると言ったその言葉を。
(15になったらね。そうしたら教えてあげる……)
 その声の暗さを記憶から呼び戻し、クインはぞっと目を閉じた。何かに押し潰されそうな、母の声音の重さと暗さがひたすら耳元でうなっている。掠れた蜂の羽音のように、それは彼の心に煩わしく寄ってくるのだ。
(お前の母親は私よ。私一人よ。お前は私の子よ、私の子なのよ……―――)
 私の子。母親は私。愛してるわ。繰り返される呪文のような呟きに、自分はいつだって頷き、微笑み、母の温かな身体に抱きついて頬をすり寄せて受け入れてきた。それをしなくなったのは母が発症し、療養所へ入ってからだ。
 肌が直接触れなくなったからなのか、それとも自分が次第に沢山のことを知り得たせいなのか、同じ事を言われて以前と変わらず頷いていても、胸の奥では別のことを考えている―――何故。
 何故自分だけが王宮を出されて市井にいるのか、母が自分を連れているのか。答えは既に輪郭を掴めるような位置にある気がして、クインはそこから顔を背けることしかできない。
 それは自分を今まで愛してくれたこの女の、暗い部分を知ることと同じ意味だからだ。
 マリア・エディアルという名前は恐らく虚偽だ。どういう事情であれ、母が皇子を皇城から連れ出すことが出来たとするならば、自分とリュース皇子の出生時に皇城に出入りできる立場にいたということに他ならないが、現在行方不明となっている貴族の名前の一覧にはなかった。
 貴族の俸禄も収支も、租税や諸権利が密接に国庫と絡む為に戸籍に付随する形で公開されている。帝都の台帳管理事務所へ行けば、誰でも閲覧が出来るのだ。
 母の実家と正体さえ、分からない。闇に紛れた根の部分に向かって進むことは出来るはずなのに、怖い。だって……
 浮かんできたまがまがしい言葉の毒気を抜いて鎮める為だけにクインは深く呼吸をした。
 皇城から皇子を一人連れ出してその後連れて歩いているとなるなら、それは誘拐というものではないのだろうか? その証拠に一度は迎えが来たのではないか?
 そしてそれを母は振りきって逃げた。クインを少女に擬態させ、母娘の記載の戸籍まで探し、殆どの財産をなげうって安全を買った。
 中央中等学院に入学することをあれほど恐れていたのは、貴族の子弟の多さや何よりも皇族の教育機関としての役割を知っていたからで、いずれ自分がリュース皇子と再会することも理解していたのではないだろうか。リュース皇子と自分が真向かえば、そこから何かが零れてしまうと思ったから?
 いずれにしろ、どの仮定も母をおとしめることしか出来ない。彼女が今まで注いでくれた愛情を疑っている訳ではないが、基盤となる血縁関係を自分で否定してしまっている今、それは疑問と過去の真実への欲求に変化するしかないのだ。
 けれど怖い。母親の過ちを自分で暴きたいと願うことなど、どれだけ恐ろしいだろう。彼女の悲しむ顔など見たくない。恐怖で強ばる顔も、絶望に黒く塗りつぶされた顔も、何もかも見たくない。
 それを見なくてはならないとするなら、真実など要らない。母、マリア・エディアルと名乗る女の為に。
 クインが再び長い溜息になると、肩がふっと軽くなった。知らない内に身体が揺れていたのだろうか、母が長いまつげをゆっくりとあげていくのが見えた。その奥に濡れ輝く黒い瞳が夜空のように美しい。
 こんなに綺麗な人だったろうかとクインは不意に恐ろしくなる。病のせいで暫く沈んでいた肌の色はやや戻ってはいるが、血の気の薄い頬などは透けるような白さだ。けれどそれは母の美しさを少しも損ねない。却って空恐ろしくなるような肌の美しさにいつの間にかすり替わっている。
 一瞬のぼんやりを癒すように母は笑い、そして彼の背後へ向かって会釈した。
 クインが振り返ると、同じ療養所の患者であろう老婦人が杖を手にゆっくり歩いてくるのが見えた。患者と分かるのは母と同じように手袋をしているからだ。クインは立ち上がって椅子を譲ろうとするが、老婦人は穏やかな笑みのままに首を振った。
「一度座ってしまうとね、立つのが辛いのよ。こんなお婆さんになったら分かるわ」
 機嫌良く、小さく笑う声に悪意がないことを知り、クインはほっと微笑む。それでも座ってしまうには居心地が悪かったから、何となく、立ちつくした。
 母と老婦人は患者同士の気安さでひそひそと世間話をしている。他愛のない話に適当に付き合って微笑んでいると、老婦人は彼を見て目を細めた。
「でも本当にいいわねえ、こんなふうに娘さんがしょっちゅう会いに来てくれるんですもの、お幸せだわ」
 母は微かにくすぐったそうな表情をし、そしてゆったり頷いた。この子は、と彼の腕をそっと撫でる仕草に籠もる熱は以前と全く変わらない。手袋の薄い遮蔽が悲しいと思うのは自分の勝手なのだろう。
「この子は私しか家族がいなくって……父親はとうに亡くなりましたし、私の方は天涯孤独の身ですから……」
 老婦人が頷き、彼に向かって淋しいわねと微笑んだ。それに曖昧に笑って首を振り、母さんがいますからとクインは呟いた。社交辞令のようにでも口にすると、それが真実胸に沁みた。
 この母が居たからこれまでを過ごしてこられた。逃亡の理由も身分の詐称や秘匿の理由も、どうでもいい。母を守ることが自分に出来る限りそうし続けたいと願い、望み、帝都へ戻ったのだから。
 今更後悔などはしない。母を離れて見捨てることなど出来はしない。けれど、自分がこの世に生きていることの真実を知りたい。だがそれは、母を糾弾し追いつめることと同じ意味ではないのだろうか―――
 クインはふっと母達から視線を外すことで、それを忘れようとした。
 彼の翳った表情に気付いたのか、老婦人は散歩の途中だと笑って立ち去った。木漏れ日の強い日差しに彼女の背が遠くなるのを見つめていると、母が消え入りそうな声で低く呟いた。
「―――カース……」
 思わずクインは振り返った。その名前は彼の耳を通って心臓を凍りつかせる効果をもった、魔術であった。
 様々な疑心と惑乱が脳裏を通り過ぎていくのを呆然と見送って、何かを言おうと唇を動かしたが、そこからは言葉は遂に出てこない。強い嵐に全てをさらわれて惚けているようだ。すうっと脳天から血がひいていくような感覚がした。それでやっとクインは我に返る。何を言っていいのか未だに分からないまま、母さん、とだけ呻いた。
 母は視線をまっすぐに彼に与え、そして眩しそうに手をかざした。それが木漏れ日の強い光を遮ったのか、それとも母の胸内にある何かを直視しない為の仕草であるのか、クインは知りたいとも思わなかった。
「……覚えていたのね……もう子供の時のことだから、忘れてしまったのだと思っていたけど」
 母の声は何かを懐かしがる甘さを含んでいる。彼を攫いに来た男が彼の目の前に現れてから、10年がやっと経過しようとしていた。この秋でクインは15才になるのだ。
 微笑む母の面差しの影の薄さに、クインははっきりと戦慄を覚えた。何かを悟ったような表情は、人の命の薄さの証明のような強さをかいま見せられてどんな言葉よりも烈しく怖ろしい。自分を見て遠く懐かしいものを見るような顔になったことが、母の命数の少なさを叫んでいるようで、クインは怯えの為に視線を外した。
「私はお前に沢山の話を―――」
「母さん」
 クインは反射的に母の言葉を遮った。声音を使うことさえ忘れていたのに気付いたのは一瞬おいてからだ。
 彼は真実震えていた。一番冷たく寒いものは、いつも身の内側からやってくる。母の語る真実を聞きたいだろうか。自分は何を一体知りたいのだろう。
 中核は既に知っているとクインは考えていた。自分はまず間違いなくリュース皇子の双子の兄弟だと、考えるまでもない。あの皇子を見た瞬間にそれは知り得た気がする。生まれた年や時期もほぼ同じ、まるで鏡の中から抜けてきたようにうり二つの自分たち、そして何よりも、あの幼いばかりだった夜に彼を迎えに来た男が言った言葉。
(それが身分というものであるからです)
(母君が悲しまれます)
 彼は自分に膝をついた。母のことはマリアと呼べと言った。それが身分だからとも。あの言葉や仕草の一つ一つが自分の推測に強い信憑を持たせている。だから母の口から語られる真実が何であるのか、そちらの方が今となっては怖かった。
 自分は臆病なのだとクインは唇をゆっくり噛んだ。夏のむせるような熱気の中にあって、そこは酷く渇いていた。
「母さん、いいの。大丈夫。私は、今のままで、本当にいいの」
 どうにか作り出した少女の声音は、それまで自然に使いこなしていたものとさほど音調が変わらない。それに気付いてクインはようやく掴まることの出来る安堵を見つけた。
 呼吸を僅かに整えて、それまで凍えているように固まっていた頬を弛め微笑んだ。
「……母さんが私のことを愛子だと言ってくれるから、私はそれだけでいいから。ね、私、お父さんのことなんか興味がないの。今までだって助けてくれなかったもの。お父さんが生きているにしても死んでいても、今の私には関係ない」
 関係ない、と強く言いきると、母は眉を僅かに寄せた。悲しげというにはあまりに淡く、切ないと呼ぶにはひどく穏やかな顔であった。
「……そう、ね。そうかもしれない……でも、私は私の罪の話をお前には聞いて貰わなくてはいけないわ……」
「罪」
 クインは低く繰り返した。その禍言に一度は落ち着いた胸があやしく騒ぎ始める。心臓が次第に痛みを訴え始める。波打つように耳音で鼓動が響いた。
 母の罪、が一体何であるかはもう知っている気がした。その罪ゆえに追われ続け、流れ続けなくてはならなかった。追っ手の影を感じるたびに暗くひきつった頬の歪み、怯えたような瞳の色、切羽詰まった声音が彼を抱きしめてお前は私の子だと囁き続けた。
 そこまでして自分に刷り込みたかった幻影を未だに共有しているのだと母には永遠に信じていて欲しい。自分がどうやら真実に近いものを知りつつあることも、真相を知ろうと思えば手段がない訳ではないことも、教えたくない。
 何故そんなことをして、彼女を悲しませなくてはいけないのだろう。自分を守り、導いてくれた優しく白い手を、拒絶することなど出来ない。そんなことが出来るはずがない。
 母が何故自分を連れているのかは知らないが、注がれてきた愛はこの世で唯一信じるものを選べと言われれば指さすものだ。
 彼女の微笑みを信じている、愛している、他に何も信じられなくても愛せなくてもいい。それだけが重要で絶対で唯一なのだ―――
 躍起になってそれを自分に刷り込もうとしていることに、クインは薄々気付きながらも目を逸らした。罪と言われて騒ぎ始める血潮が喉を上がってきそうで苦しい。
 クインは微かに喘ぐように呼吸をし、母さん、と震える声で言った。
「母さんの言うことが何であっても、私は母さんの味方だから。罪なんて言わないで。そんなこと、聞きたくない。私は知りたくない。母さんの罪なんて、あるはずがない……」
「―――私は聖女ではないわ、カース……」
「私、そんな名前じゃない。そんな人知らない、お願い、母さん、俺は母さんとずっと一緒にいるだけで、いいんだ……」
 言葉の輪郭が不意に少年のものへ揺らいだのにクインは遅れて気付き、自分を落ち着かせる為に首を振った。その仕草に弾かれたように澄んだ、甲高い音がした。腰のベルトから通した銀の懐中時計が指定した時刻を告げている。
 クインは明らかに安堵し、時間だわ、と呟いた。空間移転は身体への負担が少なくはない。今夜の客のために、もう移転座標まで戻らなくてはいけないだろう。
「仕事、忙しいのね」
「ええ、そう……ね。でも慣れてきたから平気よ。母さんは心配しないで。また、ね」
 マリアはクインを見上げてゆったり頷いた。
 彼女に微笑み返してクインは血縁のない、自分を皇城から拉致したはずの女の頬に、そっと唇を押し当てようとした。母がごく自然に、しかしいつものように決然と身を引いた。母は、彼に死の病が伝染することを心からおそれている。
 クインは母に淡く笑いかけ、そしてごく簡単な肌の触れる喜びを放棄して、彼の住処へ赤い色をした迷路の中へ戻るために背を向けた。

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