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 小間使いの少女が来客を告げた時、女将はちょうど帳簿をつけ終えて一服を始めるところだった。煙草は振り出しの妓楼にいた頃に覚えたが、悪い習慣だと思いつつも手放せない。来客といっても気兼ねするような仲ではなかったから、女将は煙草に火を入れながら、手振りで適当に座るように客に促した。
「かあさんが用事っていうのは珍しいね」
 そんなことを笑いながら言って女将の前の椅子に腰を落とす男も煙草のみだ。暫く二人で向き合って黙りこくりながら煙管をいじりあっていれば、いつものようにぬるく空気はほどけていくものであった。
 この男が自分を名で呼ばなくなったのはいつ頃だったろうと女将はふと思い、所々に白いものが混ざり始めた鬢を見やる。
 お互いに出会った頃は10代の若さであったが、年月の神というものは容赦がない。男からは脂気を、女からは水気を、それぞれ等しい量、奪っていく。
 うんと遠い昔はこの男の肩に爪を立てたこともあった。けれど遠景の中の陽炎のように、それは既に霞んでいる。
 一体それがどんな気持ちであったのかを説明することは難しかったが、自然と体が離れていくに従って、心は近くなっていくのは不思議だった。あるいは沢山の修羅場を同時に見た悔恨と歓喜が強く自分たちを結んでいるのかも知れない。
 いずれにしろ、今は既に自分は瑞々しい奢りと華やかな驕慢の中にあった遊女ではなく、男もまた上だけを睨むようにしてぎらぎら輝いていたタリア王の若い幹部ではない。お互いに未来が自分の良い方に転がっていくと頑なに信じていた時代は終わったのだ。
 そんなことを思って女将はふと鼻で笑った。自分もずいぶんと老けたものだと思ったのだ。
 ほんの10年ほど前まで自身の馴染みの客とも時折寝るくらいはしていたはずなのに、まるですっかり干上がった年寄りみたいなことを。
 けれど、店棚にいる年若い娘たちが繰り返す恋情沙汰の一つ一つがいつか自分が見ていた過去の光景と重なって、自分の経験からひいては年齢までを感じることも多い。
 結果も結末も分かっているはずなのに娘たちの真剣な愛情を一息に切り捨てることが出来きずに却って苦しめてしまうこともあると、分かっていながらの自分の甘さに再び女将は苦笑になった。
「今日はご機嫌だね、かあさん」
 男が煙管をいじりながら言った。女将はそうだねえと笑い、一服吸ってからあのね、と切り出した。
「あんたに見て欲しい娘がいるんだよ」
 男は煙草を続けながらふん、と何度か頷く。あの白い衣装の子だねと言われれば頷いた。
 見て欲しいという言葉には気に入ったかどうかを尋ねる意味が含まれている。だとするならそれは水揚げ前の娘についての話である以外にはなく、今この妓楼には見習いは一人しかいない。この店の一番の揚げを誇っている娘の説得で、やっと客を取ることに同意してくれたばかりだ。
 未だに痛々しく目を腫らしたまま起きてくるのも、仕方あるまい。いずれにしろ、何にでも人は慣れていく動物だと信じる他はなかった。
 だからそれには頓着しないふりでてきぱきと水揚げの準備を進めてきたが、肝心の入札が入らない。例えばシアナの時には数件の入札があって比較的高い値が付いたものだが、本人が人目を引く美少女というわけでもなく、明るく客に愛想を言うでもないのならば、これは諦めるしかなさそうだった。
「……若いよね。いくつ」
「14。男は知らないから、まあ、なるべく優しくしてくれるのをと思ってね」
 タリアの男には奇妙にゆがんだ性癖を持っている者も珍しくない。外から来る客などはそうでもないが、タリアの内側の抗争に身を置いていれば緊張の解ける瞬間には何かがたわむのかも知れないと女将は思っている。
 最初から娘たちにそんな応用問題を解かせるつもりがないのは確かだったし、この男がごく普通に女を扱うことも知っていた。
 若い連中のうち宴席で親しげに話していた隻腕の男でも良かったが、後で他の娘に聞いたところによるならば、彼女は他の無軌道な少年たちの悪戯に衝撃を受けていたようだった。だから女将は彼女が宴席で泣き出してしまったことを殆ど叱ることが出来なかったが、若い男はこの際しばらくつけない方がいいかも知れない。
 適度に油の抜けた優しげな中年男の方が、恐らくは彼女を安堵させるだろう。父親は記憶にないと言っていたから、いっそそんな風にでも慕ってくれさえしたら。
 女は大切な商売道具であると同時に女将にとっては娘でもあるのだった。
「彼女ねえ……かあさん、どうしてあの娘を買ったんだい」
 意外なことを聞かれた女将がどうして、と聞き返すと男はいや、と苦笑気味のような曖昧な顔になった。
「かあさんの好みじゃないからさ―――あんたは昔から、明るい娘が好きだったろう。割とね。だからちょっとかあさんの趣味に合わないような気がしてさ」
 別に彼女がどうこうじゃないよ、と付け加えて男は煙管をくわえた。
 男の言いぐさに女将はそうかも知れないと何度か意味無く頷いた。
 確かに女衒の男たちが連れてくる少女たちのなかから自分は明るくて快活な娘を取る傾向にある。というよりも、宴席の座持ちのことなどを考えていると自然とそんな娘が増えてきたという方がいいだろうか。
 ただ、と女将はあの少女の笑顔の印象を思い出す。それまでは平凡といってよい顔立ちに見えていた少女が、微笑むと何かが切り替わったように愛らしく見えた。
 笑顔が良いというのは女を口説く古典のような文句だが、その究極に強力な形を見た気がする。
 大人しげな風情、大きな瞳、黒い髪。多分これらが全て完全に調和したならば、女神の如く崇められなくとも、天使のように愛されるに十分だと直感したのだ。
 それに、連れてきた女衒の男は基本的には大通りのもっと大きな妓楼に出入りしている。時刻は既に夕方を過ぎて妓楼の長い夜が始まった後、女衒は本来客のいない時間に娘を連れて売り歩くものだから、自分の所へくるまでに大棚を相当回ったに違いない。
 女衒は彼女をもっと大きな店へ入れようとした―――それだけの価値があの少女にあると踏んだのだ。その読みを、女将は信じている。
 そんなことを女将は煙草の合間に説明した。男は既にタリアの住人ではないが、元はタリア王の配下であるから妓楼の仕組みや女衒の勘は知っている。
 女将の言葉が終わるのを待って、男は頷いた。
「まあ、いいさ。かあさんに貸しとくよ」
 水揚げを引き受けたことを簡単に告げて、男は煙草の火種を灰皿に落とした。
 男の年齢からして、怯える娘を宥めながらの破瓜の儀式はそろそろ気が重くなってくる頃だ。それには粗野な衝動が要るが、脂が抜けていくにしたがってそうした部分もまた、落ちていくものだ。
 だがこの男に頼もうと思いついたのは決して間違いではないはずだと女将は考える。タリア王の元に出入りしていた頃の男にはなかった余裕と穏やかな優しさが、彼がタリアをでてから20年で身に付いた結果だとするならば信じるに足りた。
 いつ、と聞かれて来月の頭にはと返答する。その直前に少女の月経が終わるから、それを待つつもりであった。
「……優しくしてやっておくれよ。無理はさせないで。最初の男で全てが決まるとは思ってないが、ある程度の価値観は決まるからね」
「分かっているとも。かあさんの信頼を裏切るようなまねはしないよ」
 男は仄かに笑った。
 灰を切った煙管を丁寧にぬぐい、腰のベルトから差し込むのは煙草をする男たちの大体の習慣だ。次の一服を始めないと言うならば、男はもう帰るつもりでいるのだろう。
 場に現れてからさほど時間はたっていないが、男は忙しいのは知っているから引き留めるつもりはなかった。
 女将は立ち上がって応接室の扉を開けてやった。昔はタリアの中でも修羅と呼ばれて憚らなかった男の背は同じような高い位置にあるが、以前のような体全体から発散されるような蒼い凄味は消えている。
 20年前に彼は突然人の諍いに愛想を尽かして修道僧になってしまったのだ。その心境の変化を男は気が向いたのだと笑ったが、きっと何かがあったのだろう。
 それが何かと聞かないのも言わないのも、自分たちの間にある信頼がそうさせている。僧職に水揚げを頼むというのも奇妙な話ではあるが、男が承知したならよいのだろう。
 帰りしな、男は思いだしたように幾ら、と聞いた。女将は少し思案顔にしてから言った。
「200で全部揃うようにしておくよ」
 水揚げには揚げ代の他にも祝儀や花や記念の衣装など、細かなものが沢山入り用になる。それを全部で200で揃えるというなら、こちらから頼んだ負い目を差し引いた程度の勉強はしたということになる。
 だが、男は明るく笑った。彼の笑顔の嫌み無い朗らかさだけは、ずっと変わらないものであった。
「いいや、かあさん。後100、出そう。それで少しは良い花と良い衣装を揃えてやっておくれ」
 女将はありがとうと呟いた。男は軽く笑い、ふと真面目な顔つきで女将に向き合った。
「あんたとつるんでいられるのもそろそろ終わりかもしれんからな。どうやらこの秋には北部へ出向だ―――やっと、正式な教師免許が降りたからね」
 そう、と女将は頷いた。地方の教会は大概、子供たちのための初等学校を兼ねている。そこで教鞭を執るのは神職者であるのが普通だ。
 男が以前から人生の最後をどこかの鄙村で穏やかに過ごしたいと望んでいたことを女将は知っている。教師免許を持って地方の教会へ出向するというのなら、望みが叶ったことになるのだろう。
 だから女将はおめでとうと言った。男は軽く頷いた。
「だから、これがかあさんにしてやれる最後かも知れないと思ってね―――どれ、娘はどこに? 少し話をしていこうか……源氏名はなんと」
「リーナ。矢車草の淡い紫」
 女将はゆっくり言った。本名が矢車草を意味するリィザであるなら、そこから派生する薄青紫の色名を与えるのがいいだろうとここしばらくで出した結論である。本名とさほど変わらない呼び名を与えるのも習慣であったし、その響きは彼女には似合っているように思われた。
 リーナね、と男は繰り返して出ていった。残されて女将は新しい葉を煙管に詰め始める。この習慣だけはどうやら墓場まで持っていくことになりそうだった。男はきっと上手くあの娘を言い宥めてくれるだろう。あの娘が持っていた銀の板は神へ祈る時の道具だし、適当に威圧の抜けた年上の余裕に甘えさせるだけの、男には器量がある。
 娘たちのことはいつでもそれなりに女将には気懸りだった。最初に入った妓楼から身請けされて出ていった先で女将は一人女の子を産んでいるが、実娘は3歳の誕生日を迎える直前に死んでしまった。
 今いる娘たちは、だからみなあの子の代わりだ。死んだ子の年齢を数えるのが如何に馬鹿馬鹿しいかと思いながらも、それは今一番年齢が上の遊女と同じくらいだと知っている。
 身請けされた先の主人が亡くなると保証もなしに屋敷を追い出されたから、タリアに戻ってきた。
 主人の存命中に買い集めておいた宝石などを元手に、タリアのもっと奥の方に小さな妓楼を開いたのは、自分の知る世界があまりにも狭いのだと気付いたからだ。
 娘たちは4人、その全員はもう妓楼にはいない。自分も彼女たちよりも10ほど上であるだけだったから、時折は客も取った。
 そうして生き抜いてきた挙げ句、やっとこの店にまでたどり着いたのが7年前のことだ。
 タリアというのは不思議な町で、これほどの妓楼が建ち並び、女の美しさが一番にまず価値を持って品定めされるというのに、この町で勝ち抜いていく女たちはさほど美しくない。
 無論何を以て勝利とするかで基準は違うだろうが、女将は決して娘たちが夢見がちに語るように恋を得た相手に望まれて幸福な結婚のために出ていくこと、であるとは思っていなかった。
 最初の妓楼を出ていく時には自分もそう信じていたが、普遍や永遠はこの世にない。男は確かに自分の人生に豊かな色彩を与えてくれる。恋も愛も、どんな色であっても眩しく見せてくれる。
 けれどそれは一瞬の所作、年月の大河の中で水泡になって弾け消える夢でしかない。どれだけ美しい色を添えてくれるとしても、その中核にいるのは自分自身であり、染められるのは自分の人生なのだ。相手の男ではない。
 生き抜いていくのに必要なのは自分の意地と才覚で、それだけが娘を亡くしてタリアへ舞い戻らざるを得なかった女将を支えてくれた。女将は年齢を重ねた今でも整った容色を持っているが、自分の美しさになど何の価値も見いだしていない。
 そうしてがむしゃらに生きていた日常の、ふっと空く陥没のような時間には、女将は今まで知ってきた沢山の女たちが押し流されていった赤い奔流を見る。その色が酷く暗く悲しげであればあるほど自分の正しさを確信できるのに、時折は全く反対のことを考えもするのは可能性をさぐる人の本能だろうか。
 女将が思い出すのは決まってあの異国の女だ。南の国から連れてこられた、美しい女だった。最後までこの国の言葉が片言のあやしさのままで、だからこそ一層に可憐であった女。
 恋をして舞い上がってつぎ込んで、裏切られては泣く事を繰り返して最後には運河に身を投げた、ずっと昔の妓楼で一番仲が良かった、あのいもうと。
 彼女の華やかで寂しい人生を思う時、自分は明らかに勝利者であるという自負と共に一抹の羨望を飼う。それは自分が恋に遂に耽溺しきれなかった女であることと密着していることなのだろう。
 あのいもうとの息子も娘も、母親によく似た線のきつい美しさを持っていた。息子の方は2度ほどしか見たことがないが人形のように凛と整った面差しをしており、娘の方は……今は女将の娘だ。源氏名をシアナ、本名をシャラという。
 女衒が連れてきた中では久しぶりに極上の美人になるだろうと買ったのだが、身の上を聞いて不思議な縁に驚嘆した。似ているとは思っていたが、いもうとのようなやや冷たく見えがちな美女は多い。珍しい顔立ちではないのだ。
 シアナか、と女将は深く煙を吸いながら、目をすがめた。リーナのことも確かに案じているが、シアナの先ゆきも別の意味で溜息をつきたくなる。
 シアナもいもうとと同じく恋に身を滅ぼす種類の女だ。少なくとも、その素質はある。ライアンにひたすら入れあげて他のことを構わない狭窄を女将は何度も叱ったし、そのせいで他の客が疎かになりがちなのはすぐに指名の減少につながると他の遊女たちにも散々言われてなお、シアナの性癖はいっかな直りそうにない。
 ライアンがその欠損を派手に埋めようとする結果が数度の宴席という形になって実際は潤っているのかも知れなかったが、女将はその方法も気に入らなかった。土台、それはライアンが彼女を身請けるか彼女を諭すのが一番良いのだ。それを金でうやむやにしてしまう方策が癇に障る。
 これまでも何度か女将はその話をライアンにしてみたことがあるが、彼は身請けに関しては素っ気なく断り、説得に関しては乗り気でなかった。
 ライアンはシアナを自分の異父妹だと思っているのだろうかという疑問は、女将の中ではすぐに否定されるべきものだ。
 確かにいもうとの最初の子はライアンと言い、後に生まれてくるシアナの7歳上の、暗い目つきの笑わない子供であった。いもうとがシアナを生む金ほしさにライアンをどこかの曲芸団に売り払った経緯や、シアナが日ごろ顔も知らない兄の話を聞かされて育っていたことをあわせれば、境遇や年齢の相似から兄妹であると考えることは不自然であるとは思えない。
 だが、ライアンは自分がシアナの兄ではないと知っているはずだ。シアナから聞いたのか女将と彼女の母が古い知己であると聞いて、自分に問うたではないか。
(シャラの兄を見たことがあるか)
と。
 いもうとの息子が名をライアンと言ったことを女将は覚えていたから、そのときに彼がシアナを妹ではないのかと思っているのだと知った。
 だが、自分はすぐに否定したはずだ。シアナの兄である子供を見たことはある、だが、その瞳の色はあの下らない父親と同じ琥珀色だったと返答した。ライアンはシアナと同じ緑色の瞳を僅かに歪め、すぐに分かったと言った。兄妹であることを否定した後にライアンはシアナに通うのをやめるのかと思ったが、そうではなかった。以前と変わらずに姿を見せるのが、不思議でたまらない。
 一体二人はどうなっているのだろうと女将は思うことがある。
 シアナがライアンと自分の面輪の相似を指摘されて怒るのは、それが彼女の胸奥に巣くう不安の根に近いからだ。兄妹だと本当に証明されてしまったらライアンは自分にますます遠くなるだろうという恐怖から、半ば反射のように反応してしまう少女を哀れにも思う。
 ライアンは兄妹である可能性を否定する材料をシアナには一切伝えていないし、女将にもその口止めを頼んでいる。だから二人が馬鹿馬鹿しいことではあるが男女の関係を結んでいないのは女将から見れば明白であった。
 シアナがライアンの特別な女だと吹聴するのは意地でもあろうし見栄でもあろう。
 それに合わせている男の方がどちらかというなら悪いが、それでシアナの気が済むならば黙っていてやってもよかった。
 可哀相だと思うのは、シアナのそうした性格の偏りや脆いくせに高い矜持ではない。人を形作る神というものがいるのなら、何故、丁寧に造形した美女たちに限って内部のねじをいい加減にするような真似をするのだろうということだ。
 そんな女たちを厭と言うほど見てきた。
 とてつもなく男にだらしがない、絶句するほど金銭感覚が荒い、そして呆れるほど純情すぎて頭が悪い―――
 そのどれか一つでも内側に持った麗女は不幸になると決まっている。遊郭にくる男たちの戯れのような言葉に本気になって金がないと言えば揚げ代を自分が肩代わりしたり小遣いをやったりする娘、男に与える金のために必死で他の客の気を惹こうとする娘、そんな娘たちを叱って良かったことなど一つもないが、それでも言わずにはいられなくなる。
 それを言った時に娘たちがいう言葉も決まっている。愛しているのだとか身請けの約束をしただとか。愛している女から金をむしる男などいない、金も持っていないくせにどうやって身請けするつもりなのか、そう言っても大概聞く耳を持たないものだ。
 信じてはならないものを信じて身を持ち崩していった女たちの結末は、大抵聞かない。彼女たちは消えていくのだ。赤い河の先に待ち受ける、黒い闇の中へ。
 シアナもそうやって消えていく運命にある女になるだろうか。女将はそれを思い、自分で否定したいために首を振った。
 少なくともライアンは金払いは悪くない。彼女を悪く利用していないだけでもまだましであると自分に言い聞かせ、それでも気に入らないと不満を呟く胸を宥めるために煙草を飲んで呼び鈴を取った。
 リィザに与える水揚げのための衣装の採寸と生地の選定をしてやらなくてはならない。水揚げの衣装は特別なもの、一度袖を通してそれきりにするものだが、男が多少奮発してくれた分をそちらへ回してせめて飾ってやりたかった。
 幾ら美しく着飾らせても、あの娘の心が晴れやかになるわけではないと分かっていても、してやっても良いことというなら、女将にはそれくらいしか思いつかなかった。

 貸し部屋の主人からの連絡で、チアロはタリアの最浅部付近にあるその場所へ顔を出した。彼とすっかり馴染みになった主人は最上階にある特別室の鍵を彼に放り投げる。それを手早く空中で捕まえて、チアロはありがと、と軽く笑って見せた。
「いいけどよ、チアロ。おまえさんたちがどんな商売しようが勝手だがね、それにしたって限度があらぁな」
 主人の言葉は半ば呆れたようでもあり、そして残りは本気での憂慮であった。無論その気遣いの中には上客に対するおもねりも入っている。チアロはその言葉に浅く肩をすくめ、そして苦笑になった。
「俺もそう思うんだけどね。でもまあ、本人がいいって言ってんだから」
「そりゃあ──そうかもしれねえけどよ。あんまり続くとあのお嬢ちゃん、あと3年で使いもんにならなくなるぜ?」
 本当はお坊ちゃんなんだけどねとチアロは内心で補足し、そして大丈夫だよと明るい声を出した。
「本人は割り切ってる。だからいいのさ。ありがとうよ親父さん、あんたが心配してたって聞いたらあいつも喜ぶかもな」
 チアロの言葉に主人はふんと照れ臭そうに鼻を鳴らし、もういけという合図に顎をしゃくった。深く追求しないのはこの街の住人の習性でもあった。それに今更に感謝しながら、チアロは階段を軽々と駆け上がった。特別室は最上階の全ての面積を使っている。そこは他の客とは絶対に顔を合わせなくても済むようにと配慮された、文字通りの特別な部屋だ。調度も、専用の廊下も、全てが。
 チアロが部屋へ入っていくと、微かに奥から物音がした。いささかの用心のために腰に差した細刃刀に手をやりながら、チアロは寝室へ足を進める。恐らくは彼一人しかいないのだと分かっていても、それは身に付いた慎重さの一端だった。
 果たしてそこにいたのはクイン一人であった。生白い裸身を投げ出すように広い寝台の上にうつぶせになり、じっと動かないでいる。呼吸を示す肩の上下がひどく弱い。意識はあるのだろうかといぶかりながら近寄っていっても、彼はやはりぴくりともしなかった。
 チアロは彼の名を優しく細く呼び、肩をゆすった。反応のなさに不安になる直前に、彼の瑠璃色の瞳がゆるく開いた。それがは僅かに不思議そうに瞬いた後にようやく具象を現実として認識したらしい。唇から掠れた吐息がもれた。
「ああ……ごめん……」
 呟く声の掠れ具合から、彼の消耗の激しさが窺えた。無理もないとチアロは思う。客の具合が混んでいて、彼はこの4日ほどは仕事だけに時間を費やしている。明日は休みであったはずだが、最後の最後ではずれを引いたのだろう。大抵の客はクインの尋常ならざる美貌と唖然とするほど高い矜持に呑まれたようにか彼を大切に扱うが、逆にそれで暗い情熱を発見する者もいる、ということだ。彼は今回は運が悪かったのだろう。
 体に傷がないのはそれをチアロが煩く騒ぎたてるためであって、その制約がなければどうなっていたろうかという想像を一巡まわし、チアロは苦い笑みになった。
 それは自分が考えるだけでも偽善でなかっただろうか。結局、クインの望みであったとはいえ彼の身体を素通りしていく男たちから金を巻き上げる、女衒のような真似であることは確かなのだ。
 クインは体を起こそうとしていたが、なかなか巧くはいきそうになかった。消耗しきった気だるさが全身から滲んでいて、半身をあげるのさえ辛そうだ。それを手伝おうと手を差し出すと、クインははっきりした声で遮った。
「自分でする、から──放って、おいて……」
 それを呟く声音のひどい無力さにチアロは肩をすくめた。それは到底無理だといわざるを得ないが、クインは自分の限界を知らないように試してみるつもりのようだった。好きにするがいいさと半ばは投げやりな気持ちになってそれを見つめていると、やがてクインのほうが仕方なさそうな溜息と共に折れた。
「……ごめん、やっぱり、手、貸して……」
 軽い言い方の中にも滲んでいる口惜しさにチアロは微笑みそうになって、慌てて口の内側を軽く噛んだ。そんなことをしたら後でクインに散々噛み付かれるのに決まっている。気位が高いのは彼の長所でもあり短所でもあった。だから黙って手を貸してやると、クインはのろのろした仕草で体を預けてきた。元々隆とした筋肉がついているわけではないことは知っているが、こんな瞬間は、ぎくりとするほど軽い。自分が酷くむごい事をしているような気持ちになる。
「大丈夫か?」
 思わず口にした言葉にクインはうなだれていた首をゆっくり動かした。
「──大丈夫、じゃねえから、呼んだんだってば……」
 それはその通りであった。自分一人では家まで帰り着けないと判断したクインが貸し部屋の主人へ音声管ででも連絡したのだろう。客はそこまで親切なものは滅多にいない。
「悪い、そうだな。あんまり喋るなよ、体力をやけに食うぜ」
 クインはチアロの言葉に曖昧に喉を鳴らした。分かったという意味に思われた。
 彼が湯を使いたいといったので、チアロは肩を貸して彼を風呂場へ行かせた。足取りは酷く重かったが、自分で行けるだけましというものかもしれない。最初にこんなことがあった時は彼は全身の血が抜けてしまったように真っ青で、目を閉じてじっと動かないままであったのだから。
 客を何かで怒らせたのだというようなことを後から言っていた気がするが、それが何であったかは忘れてしまった。最近は立てなくなるまで相手をさせられることが減ってきたことで、客あしらいというものを覚えていっているのだろうとチアロは思ってきたが──それにしても。
 チアロはそっと彼に捕まって歩く美貌の主を見る。雪のように白く抜ける肌にぽつぽつと散っている紅華が目に痛い。それは確かに好き勝手な陵辱の後でもあったし、愛された痕跡とも言えた。どちらにしろ、彼は愛でられるべき存在であることは確かなのだ。基礎体力の貧弱さとすぐにかあっとなる熱しやすい性質がもう少し改められたなら、きっと今以上に寵児となっていくだろう。その資格はある。
 今この現在にも、幾つか彼を引き取りたいという申し出があるくらいだ。絹と宝石に埋めて溺れるほどに愛しんでくれるという言葉を信じていないわけではないが、本人が是と言わないのだから仕方が無かった。クインの考えていることといえば母親のことばかりで、誰かの稚児になってしまえば母親に対しての面目も言い訳も立たなくなると恐れているのだ。
 黒死病であるとライアンの口から聞いている。それが死病であることも。もう療養所から生きて出ることは無いだろうとライアンは言い、そしてそれをクインには言うなと付け加えた。チアロは頷いた。ライアンの言うことは完全に正しかった。黒死が死病でありなおかつ他人に感染するならば、症状が収まっても決して療養所の外へは出さないだろう。
 そしてクインにそれを指摘するのは酷だ──気づいていないのかもしれないが、いずれ分かるときが来るだろう。その時どうするかは、彼が自分で決めることだ。
 力が抜けているせいで重たい体を引きずるようにし、チアロはクインをようやく陶器の風呂桶の中へ放りこんだ。適当にお湯をかけてやると初めて目覚めたようにぶるりと体を震わせる。髪の黒い染料が落ちて湯船の中はあっという間に黒くなった。
 クインはそれをぼんやり見つめ、不思議そうにも見える顔つきで湯をかき回した。黒ずんだ液体が彼の雪色の肌に染みをつけるような錯覚に囚われてチアロはおい、とそれを制止した。それに素早く片手を挙げて合図した仕草は、いつもの通りの彼の知る小生意気な少年であった。
「──大丈夫」
 先刻よりはよほどしっかりした声でクインは言い、ほうっと溜息になった。吐息はまだ掠れ気味に疲れているが、湯の感触でどうにか自分の位置や現実をつかめるようになったらしい。少なくとも、先ほどまでのような危うい感じはしなかった。自分でこの先を出来るかと聞くと、クインは彼を見上げて目線で頷いた。チアロはそれに頷き返して風呂場を出た。
 彼の服は部屋のそこかしこにてんでに散らばっている。どんないきさつがあったかは聞かないが、ふざけて部屋中を転げまわったのでないとするなら狩られたのだろう。同じ客からの次の指名を受けるかどうか、落ち着いた頃を見てクインに聞かなくてはならない。彼が嫌だといえば次からはこの客はなし、ということになる。
 服を拾い集めて適当に検分したが、ボタンが2ヶ所、ちぎれてどこかへ行ってしまっているだけで他に欠損はなかった。秋用の薄い外套は最初に脱いで扉の内側に掛けたままであったから、羽織らせればいい。飛んでしまったボタンを探してみたが、とうとう見つからなかった。
 それにしても、とチアロは風呂場から時折聞こえてくる湯水の音が一定でないことを耳の端に挟みながら溜息をつく。クインのこの、ひたすらに噛みつき吠え立てて客をわざと怒らせるような真似は何だろう。大人しくひっそりと微笑んでいれば壊れてしまうのを恐れるように男たちが彼を扱うのは分かりきったことであるのに、彼は時折それに無理やり逆らうように毒づいて見せる──最初彼をこうして迎えに来たときは、彼でなく、客からの要請であったのだ。
 ぴくりともしなくなってしまった、死んだかもしれない──……
 そんなことをいわれて慌てて駆け付けてみれば単に失神であったのだが、これはまさしく運がいいというものであった。そんなことは時折あった。珍しいという出来事ではなくなってきた頃、チアロはようやくそのきっかけの一端に気づいた。
 鍵は、恐らくライアンだ。クインが自棄に荒れる日は、大抵ライアンと会った後だから。クインはひどく神経質で、心理の上下が激しい。機嫌の良い時は朗らかで明るい子供であるが、一旦荒れ始めるとそれはどこまでも続いていくようだった。それを自分でも持て余している。何度かそれを注意してみたことがあったが、彼は大抵訳のわからないことを怒鳴り散らすか不機嫌に黙り込んでしまうかで、埒があかない。落ち着けば反省はするらしく照れ半分の謝罪を呟いたりもするが、それにしてもその回数は随分と多かった。
 そしてライアンはクインの心理状態には頓着しなかった。うるさい、とはっきり口にしないまでも、ひそめた眉や殆ど彼の言葉を無視した挙句の勝手な呟きは言葉よりも雄弁に語っている。ライアンはクインを手駒のひとつとして扱うことに決めたようであったが、クインのほうはライアンと対等に在ることを望んでいる。
 クインの不満は分かる。ライアンは自分ときちんと向き合っていないと考えているし、それはおおむね正しいだろう。ライアンの言い分があるとするなら、それがどんなであるかもチアロは理解できる。彼はクインの事にばかり関わりあっている訳にはいかないのだ。彼の仕事は今のところタリアの中に巣食っている不穏当な連中を狩りだし噛み破るための猟犬というものであって、他のことは彼にとっては小遣い稼ぎ程度の重要さしか持たない。
 チェインのことばかりは別であったが、それも大体をディーやノイエといった連中に任せてあって彼自身は週に二度チェインの彼の根城へ戻れば多いほうだ。忙しいという曖昧な単語でクインが納得しないゆえに、大体の事情は説明してみたのだが、クインのほうは昔のように嬉々として首を入れたがった。ライアンはそれをわずらわしく払いのけてしまい、クインはむくれて荒れる──
 チアロは溜息になった。クインがライアンを何故かはしらないが特別視するように、ライアンも確かにクインのことは特別に考えている。ただ、その表現は天と地のように違う。クインは比較的素直にライアンに寄っていくが、ライアンのほうは気安いとはいえなかった。
 いずれライアンはタリア王の継承争いに全面的に関わることになるだろう。周囲もそう見ているし、本人もどうやらそのつもりらしい。それを現王アルードも知っている。だからライアンは見捨てられるものしか身近にしない。彼の周辺にいて彼が自分にまとわりつくことを許している者たちは、いずれ彼がその手で切り離しても構わない者たちだ──自分も含めて。
 チアロはクインの服を揃えてやりながら、苦く笑う。そこから一段上ってライアンの特別に擦り上がるためにはチェインを実力で手中にするか、いっそライアンの敵に回るか、それとも──残りの一つはあまりにえげつない。チアロはそれを自分がしないだろうということは理解している。
 だからライアンがクインを容易に身辺に寄せ付け、またはあからさまに可愛がろうとしないのは彼に対する尋常ならざる拘りの証明だ。実際、ライアンの特別であると分かったら、どんな目に遭うか保証は出来ない。だからライアンは失って困るものは身近にしないが、肝心の望みは聞いてやる。他者に漏れる可能性が少ないとなった時点で、ライアンは彼の望みをほぼ全面的に受け入れてやったではないか。
 これ以上は彼は自分と関わらせたくないのだ。何より、深く絡み合うことで出来あがる強い絆を、失うことばかり考えてしまうのだから。リァンという奇跡を、見失ったときのように。
 チアロが再び溜息になったとき、風呂場の扉が開いた音がした。振り返ると多少回復したらしいクインが、火照って血色よく見える肌色で立っている。立てるならとチアロは安堵し、笑って頷いて見せた。クインは柔らかい絹地の長衣をかぶり、染め粉が落ちてすっかり地毛の色となった髪を適当に布でふきながらチアロの側の長椅子にどさりと座った。ましな気分になったとはいえ、まだ疲労はあるらしかった。
「──何か、飲むもん、ある?」
 声はまだかすれ気味だ。チアロは頷いて客の残していった飲み掛けの葡萄酒の壜を傾けた。赤紫の濃い色がグラスにたまっていく。クインは部屋の保冷庫から氷を取って放りこんだ。
「自分だけ飲みたいもの飲みやがって……」
 呟いている口調はすでに普段どおりの偽悪調だ。いいじゃないか、とチアロは軽くそれを流した。
「残していってくれたんだから、もっと堪能しろよ。この部屋の客なら好い酒だろ?」
 クインはまあね、と肩をすくめる。ちろちろとグラスの中の酒を舐めている仕草は猫のそれとそっくりだ。彼は酒にはどうやら素質があるらしく、飲み始めたのが最近だといいながらも良く飲んだ。酩酊してくるとまたやっかいなことを怒鳴ったり陽気に騒いだりと煩いのだが、酒の味を楽しんでいるならばまずは機嫌良く落ち着いているといえる。それを見計らってチアロはクインの名を呼んだ。
「今日の客はどうだった。また指名されたら断ろうか」
 クインはグラスを唇にあてたまま、こぼれるように笑った。この笑顔になったときは彼本来の悪魔的な美しさが満開に開くような錯覚を見る。
「また、取ってよ。面白かったよ。あんまり馬鹿だから笑っちまったらかっとなったらしくて酷い目に遭ったけど、次はさせないから。それにこいつ、酒の趣味はいい」
 そう言ってクインは何かを思い出したらしく、くつくつと喉を鳴らして笑った。最初の頃のように一人終わるごとに真っ青になって延々洗面所で吐いていたのとは雲泥の差だ。一晩が終わるごとに彼は嬌態と華やぎを身につけていく。それが眩しいとは思わない。誤魔化し方だけを覚えているとするなら何かが悲しかった。
 チアロは彼の瑠璃色の髪に手をやって撫で、クイン、と淡く言った。
「無理、するなよ」
「うん……ありがと」
 クインは少し笑い、グラスの酒を一息に飲み干して、続きのために酒壜をつかんだ。
 ……僅かな時間、夢を見ていたようであった。今日は眠っていてもいいのよという遊女たちに従うように、リィザはひとときを自室として与えられた小さな部屋でまどろんで過ごした。
 部屋中を圧迫するように飾られた白い花の香りは甘く、神経の底を幽かにたゆる。それが気詰まりなのか高揚なのか分からないままに、包まれていれば胸の奥がざわついて、まともに眠ることが出来るかどうかは怪しかった。
 だが、目を閉じていれば少しの時間でも意識は無かったらしい。帝都の時間を打つ時刻点鐘にはっと起き上がれば、既に天窓の外の空は暮れ始めていた。
 リィザは身を起こし、丁寧に髪を手櫛で整えると顔を洗った。鏡の中にいる少女はいつもと同じように脅えたような目つきをして、じっとこちらを見つめている。黒い瞳、白い肌に流れる黒い髪。美女ではないと誰もが言う、ほんの少し大きい目が不安げに瞬き、濡れたような黒い色を際立たせた。
「……リーナ」
 リィザは低く呟いた。女将は自分にそう源氏名をくれた。あまり本名から離れた名はつけないのがこの妓楼の慣習らしい。リィザの名前は矢車草を意味するが、色は数種類あって、大抵は白い花を指す言葉だ。リーナというのは亜種の淡薄な紫色の花を示すときの言葉であった。
(紫は夜明けの茜色だよ)
 女将の優しげに躾る声が耳朶の奥から甦ってくる。
(一番空が綺麗な時の一つ。誰かが空を見て希望を思う時間。おまえも、誰かにとってそんな風になってくれたらいいだろうね)
 リィザはさほど遠くない記憶の中のその声に、曖昧に頷いた。沢山いる姐たちも口を揃えて言った――いつか、必ずお前を本当に大切にしてくれる人がここから出して連れて行ってくれるからね。そうして妓楼を出ていった遊女は沢山いる。全員が幸福になっているというわけでもないだろうが、それは自分次第であると誰もがリィザに諭した。それを信じたふりで、ずっと頷いている。
 逃げたい。忘れるように言われて押し込んできた言葉がこの日は朝から浮かんで消えることを繰り返している。目を閉じていても胸の中で騒いでいるのはこの言葉だけ、危うい明滅がちらちらと脳裏を瞬いて、少しも落ち着かない。
 リィザはこの日何度目かも分からない溜息になった。溜息はほんの一瞬、胸の中にある不穏な痛みをぬるめてくれる気がしたが、それは確かに刹那の安堵であった。冷水を浴びた反動で火照っている顔にゆっくり白粉を馴染ませていく指先さえ、幽かに震えている。
 自分は一体何のためにこんな事をしているのだろう――ということに気付いてしまうと全てを投げ出してしまいたくなる。
 だからリィザはそれに目をくれず、頬に僅かに残っているそばかすを覆い隠すことに専念しようとした。
 日に当たるなという女衒の男や女将の言葉は正しく、この妓楼で暫く見習いとして働いている内にそばかすは次第に消えていったのだ。まだ多少は残っているが、荘園屋敷で労働に精を出していた頃よりは遙かに肌は白く美しくなった。普段使う化粧水もいいのだろう。
 白粉、口紅、多種多様の化粧品と装身具。髪に飾る造花にリボンに銀花板。花板は手で曲げることの出来る薄い金属の板で、大振りなリボンや結い上げた髪を捲くときの飾りとして用いられるものだ。大抵は透かし抜きの模様が入っている。
 リィザに与えられた花板は銀、模様は蝶と矢車草。彼女の水揚げを買った男からの沢山の贈り物の内の一つだった。
 女将が気を回してくれたのか、水揚げが決まってから数日に一度はリィザの顔を見に来てくれている。本業は神職であると言ったが、彼は出身はこの街だとも言って笑った。タリアから神へ仕える者への転身は並大抵のことではなかったはずだが、彼はそれについては余り話そうとしなかった。
 その代わり、リィザの持っていた神への紋様板を褒め、若主人が切れ切れに教えてくれた祈りの聖句や神話や教義のことなどをかみ砕いてリィザに語ってくれた。
 中年にさしかかった肌は流石に若い者とは違うが、彼の持っている雰囲気はとても落ち着いて穏やかで、恐怖や気後れを感じることがない。彼が決して嫌いではないのは実はそれが大きかった。包み込まれ守られているような感触が安堵に変わるのだ。
 リィザはその男の顔立ちや僅かに肌から漂う香料のことを思い出そうとする。そうしていないと、他のことに心がおぼれてどこかへ沈んでいきそうだった。
 天窓の外は、ぼんやりしている間にも秋の早足の落日が終わりかける証拠の金色の雲が見える。この場所がタリアの中で格子窓から外を覗けば雑多で猥雑な通りが見えるだけと知ってはいても、空だけは何処で見上げても変わらなかった。
 リィザは天窓をじっと見上げ、やがて目を細めた。
 悲しい時も、寂しい時も、飼い葉桶や洗濯籠や刈り取った綿花の袋を抱えて、同じように黙って見つめた荘園の空も同じようだった。綺麗な空だった。綺麗なものが好きだった。見つめていれば時間を忘れていられるから。
 何も持たなかった日々には、それは庭園の夏薔薇であったり小糠雨に煙る虹であったりした。
 それはいつからか硝子で出来た小鳥になった。透明で、窓から降る太陽や星や月の光にきらきら光る小鳥を見ていると、自分にある不幸など忘れていられた。
 あの人、とリィザは呟いた。
 彼は今、どうしているだろう。元気でいるのだろうか。
 幸福に――というのが無理でもせめて、不幸と呼ぶ境遇の中にいなければいい。彼の明るい笑顔と律儀で真面目な性格は、そんなものには相応しくないのだから。
 出来ることなら幸福であって欲しいとリィザは空に浮かぶ、金から紺紫に色を変えていく雲を見つめながら思った。
 幸福であって欲しい。
 あの幸福だった日々の決算とその象徴である彼の優しい瞳が、どうか今も曇らず、元のままに明るく清潔でありますように。そしてかなうならば彼が幸福でありますように。私に出来ることは、空から一枚硝子を隔てた場所で祈ることしかなくなってしまったけれど――
 リィザは幽かに潤んできた目元をゆっくり拭った。あの日々はそれまで幸福の具体的な形を知らなかったリィザにとって、紛れもなくそうだと頷くことの出来る、貴重な時間であった。彼の肌の暖かみを知り、心の熱を知っていった過去は今完全に閉じられた、思い出という籠の中の幸福な宇宙のようだ。
 もう一度遭いたい、とはもう思わない。そう決めたのだ。
 彼が過去を大切にしてくれるだろうということをリィザは何故か無条件に信じることが出来た。信じることが出来たからこそ、自分は幸福だった。誰かをこんなに信じて想うことが出来た。何も持っていない自分の胸にも美しいと思える花があったことが嬉しく、そして愛しかった。
 彼にはもう会えないだろう。会わないほうがいい。
 いつか自分がこうして彼を思って覚える胸の痛みさえ薄れ、消えていくだろう。それが時間という薬の作用だから。他に思う人が出来るかどうかは分からないが、目の前のことを少しづつやっていこう。お金を貯めれば自分の自由さえも買えるのだという女将の言葉を信じよう。この場所で、生きていくために。
 リィザはじっと雲を見上げ、深く呼吸をした。彼のことを思うとやはり胸の奥が鈍く疼いたが、それを無視しなくてはいけない時間であった。
 もう、無垢でいられる時間はそれほど残っていない。水揚げは今夜だ。あの聖職の男がやってくるまでにあと一刻か一刻半――
 リィザが本能的な怖れのために身を僅かに震わせた時、裏廊下からの扉が叩かれた。遊女の部屋は客を連れて部屋へ案内する時の表廊下と裏方の者たちが使うための裏廊下に挟まれている。その構造上、窓は天窓だけであった。
 裏廊下の方の扉ということは妓楼の者だ。果たしてリィザが扉を開けるとそこにいたのは黒服の小間使いの少女だった。黒い服の少女は単なる従業員で、身売りをしない。
「かあさんが部屋に来なさいって」
 言われてリィザは頷いた。男が来るまでに時間はさほど残っていなかった。
 リィザが裏廊下へ出ると少女は彼女に与えられた部屋に入っていき、彼女の装身具や衣装を抱えてきた。赤い絹地にたっぷりと金糸で刺された花の繍い、前の襟目に結ぶ繻子の金色のリボン。未だに無垢であることを示すための髪に挿す白い造花、矢車草の抜かれた花板。
 衣装の後ろ側にも大きな結び目を作ることが出来るようにピンがついているし、水揚げを示すための沢山の装身具や髪挿花などもあって、一人では出来そうにない。時間が来たら手の空いている姐さんに手伝って貰って身につけようと思っていたそれを、女将は自分でしてくれるつもりがあるのだろう。
 ゆっくり裏廊下を渡りながら、リィザは一足進むごとに全身の血が騒ぐような感覚にじっと耐えた。逃げ出したいというなら確かだった。
 それは以前彼女の上に起こっていたような過去への闇雲な回帰や追憶のための衝動ではなく、逆らえない運命に直面した時の居竦みや怯えと同じものであった。怖いというなら確かだった。未知のものは、いつでも怖い。次第に俯いていく首筋の張りつめた筋肉の重さを、感じないわけにはいかなかった。
 女将は自身の部屋で帳面をめくっていた。それがぼんやりする時の女将の癖であることを、リィザは既に知っている。小間使いの少女がかあさんと声をかけて下がっていくと、女将は少女の置いていった衣装やらを抱えて自分の側に座るように手振りした。
 リィザは素直にそれに従う。脳裏は次第に白くなりつつあって上の空ではあったが、命じられれば従ってしまうのは性質だった。
 女将は言いつけた通りの位置に座ったリィザと目を合わせ、やがてゆったり頷いた。
「リーナ。もう誰もお前を本当の名前で呼ばないよ。いいね、自分も言ってはいけない。客の素性を知っても誰にも言うんじゃないよ。他の娘達にもだ。それと、他の娘に付いている客は盗らないこと。向こうから指名されたなら仕方がないが、決して自分から媚びを売ってはいけない――お前はそんなことをしそうな娘には見えないが、まれにそんなこともあるからね。他の娘達の言うことをよくお聞き。無論あたしの言うことも、だ。避妊薬は毎日タリアの火入れの鐘がなる時間に飲むこと。何か聞きたいことはあるかい?」
 リィザは少し考えてからあの、と言った。一番聞きたいことは口に出来ない。だからそれに近いことを聞く。
「……私、お客さまと二人になったらどうしたらいいのか……」
 女将はリィザにここの理を言い聞かせるために張っていた神経をふっと弛めたような、気の温んだ笑みを浮かべた。
「なあに、最初から気世話しく何でもしてやることはないよ。水揚げなんていうのはね、男になれてない娘の反応も好きで買うんだから、相手の好きなようにさせてればいいさ。お前が今からやきもきすることじゃないよ」
「でも、もし、つまらないって思われたら……」
 リィザは細い声で呟いた。
 女としての価値が自分にあるのかどうかさえ曖昧であるのに、誰かを楽しませることなど出来そうになかった。水揚げにと贈られた衣装も装飾品も、決して安いものではあるまい。新しく与えられた部屋に溢れるように飾られた花もそうだ。
その金を受け取るだけの価値が自分にあるのかどうか、それを査定されるような気がして溜まらなく落ち着かなかった。
 水揚げの男は自分を買って失望しないだろうか。そうであって欲しい気もするし、それはひどく悲しいことのような気もした。
 女将は喉を鳴らして笑った。猫が含み笑うような、上機嫌な声だった。
「大丈夫、お前がそういう娘だってことくらいは奴は分かっているだろうからね。あの男は女には優しい。安心して奴に任せていればいいさ」
 女将はそう言って、リィザに今着ているものを脱ぐようにと付け足した。リィザは一瞬躊躇してからそれまで着ていた白い木綿のワンピースを脱ぎ捨てた。
 それを女将はさっと遠い場所へ押しやり、化粧台の脇においてあった洗い桶を引き寄せた。
 中には絹布が数枚、水に浸されている。引き寄せた時の反動で水がぱちゃんと跳ねると、ふわりと優しい薫りがした。水に花香が溶かされているのだろう。
 女将は布を一枚固く絞ってから取り出すと、それでリィザの身体を丁寧に、清めるように拭き始めた。ひんやりした感触が肌を滑っていく度に淡香がたった。
「綺麗な肌だ、大切におし」
 女将の呟きに、リィザはこくんと頷いた。
 体を拭き終わると次は髪だった。櫛に滑らせる梳水からも同じ香りがした。何の香ですか、と聞くと女将は淡々と蓮華だと答えた。
 長い黒髪をまとめ、何度も細かく編み込みを繰り返して結い上げていく女将の手さばきは流石で、あれほどあった造花や花板も美しく飾られているのにすっきり見える。両方のこめかみの辺りから一房づつとった前髪を長く垂らし、その先に小さな造花を飾る。
「可愛いよ」
 女将が深い満足を示すような声音で言い、リィザはそれにもこくりと頷いた。
 途端、ぽろりと涙が落ちた。ここにいたって初めて、水揚げの実感が湧いてきたのだ。
 リィザは声を上げて泣きはしない。妓楼に来たばかりの頃のように止めどもなく涙を流さない。それをするには諦めてしまったものが多く、無理矢理思い出にしてしまったものは更に多い。
 けれど、自分の生きてきた今までとの完全な決別にはやはり、覚悟が要った。
 黙ったまま僅かに涙をこぼしてリィザは唇を結んだ。その目端にそっと女将が指をそわせた。優しく丁寧にされる仕草が嬉しくて、リィザは目を閉じる。ぽろりとこぼれた流滴が最後の涙となった。
「――お前はきっと、好い娘になる」
 女将の言葉はいよいよ優しく、囁くように甘い。
「客に気に入られようとか楽しませようとか、そんなことを気にかけすぎるんじゃないよ。お前は多分、そのままで微笑んでいればいいんだ。あるがままに、愛される娘におなり。性根の優しい、声の可愛い、温かな腕を持つ娘に」
 リィザはまた頷いた。先ほどから自分は頷いてばかりいる。
「そしていつかここを出ていく日がお前の幸福の最初の日になるといいね……」
 その声には万感が籠もっているような気がした。リィザが目を開けて女将を見ると、中年の女は彼女を優しく見つめていた。視線にあるのはいたわりと、自分に向ける痛ましさと憐憫と、そして紛れもなく情愛であったように思われた。
 かあさん、とリィザは呟いた。
「私……自分に出来ることは、してみたいと思ってます――かあさん、私を買ってくれてありがとう……」
 女衒の男に連れられてタリアの大店を巡っていた時の惨めさを払拭し、今リィザに真剣に娘としての愛情をかけようとしてくれている。
 馬鹿だねと女将は呆れ半分のように笑うが、その目の奥が思わずというように嬉しく光ったのを見た気がした。
「私、何も出来ないですけど、せめてかあさんの言いつけをきく娘になりたいと思ってます……」
 馬鹿、と女将は二度目を呟いた。
「あたしのことなんか、お構いでないよ。お前はお前に通ってくる男のことでも考えていればそれでいいんだから……」
 照れのためにか尚更突き放したような物言いになり、女将は溜息になった。リィザはその表情に、やっと薄く微笑むことが出来た。落ち着きや余裕というものではないにしろ、誰かの確かな情によって足場があることを確認できたと感じたのだろう。
 女将はリィザの涙の跡を丁寧に拭き、いいね、と念を押した。リィザが頷くのを見てほっと笑い、良くできた人形に魂を入れる職人のような神妙で真剣な顔つきで、彼女の顔に化粧を入れ始めた。
 薄く真珠粉を肌にはたき、大きな目を際だたせるために僅かに睫を上向きにし、頬紅をひとはけする。その作業を鏡の中に見ながら、リィザは次第に匂うように変わっていく顔立ちを見つめた。自分ではないように見える。
 と、女将が不意に呟いた。
「――あたしを信じてくれるというのは結構。でもね、お前に信じていて欲しいのは、男ってものが決して不純で裏切るばかりの生き物じゃないって事だ」
 リィザは一瞬を置いて頷いた。これは女将の感慨のようなものであろう。それに口を挟むことなど出来るはずがなかった。
「この商売をしていると沢山の男に会う。騙されることも、裏切られることも、あるかも知れない。でもね、それで誰も信じない女にだけはなるんじゃないよ。一人去ってもまた必ずお前を見つめてお前に愛を囁く男が現れる。その男の言葉を疑いだけで眺め回さないでおくれ……忘れることが出来るから、幸福にもなれるんだからね……」
 リィザは何かを返答しようとしたが、出来なかった。彼女が唇を開く前に女将は紅筆を執り、唇に丁寧に色を付け始めたからだ。返答は要らないという態度が女将の言葉の真実さなのだろう。
 口紅を終えて軽く薄紙を噛む耳に、タリアの火入れの時刻を告げる晩鐘が聞こえた。もうそんな時間であるようだった。一瞬震えた肩に女将がそっと赤い絹の衣装を着せかけて、大丈夫だからね、と囁いた。
 リィザは深く頷き、かあさん、と呟いた。
「……ありがとうございます」
 女将は吐息で頷いたようだった。
 リィザは小さく頷き、大丈夫ですと低く言った。実際心臓は壊れてしまいそうなほど音を立てているし身体中の血は逆巻いているようで自分がどうにかなってしまいそうだったが、それを誰かに訴えても仕方のないことのように思われた。
 支度を終えて一度部屋に戻ると、日がすっかり暮れて灯りのない部屋はにぶい暗闇の中にあった。天窓から注ぐ光は僅かに赤い。通巷に溢れる篝火と塗紅の朱が反射して、タリアはこの時間には赤い光と熱の中にある。
 灯りを入れようとリィザは部屋の隅にあるランプに近寄りかけて足を止めた。鏡台の前に置き放してあった硝子の小鳥が、天窓から落ちる赤光に薄ぼんやりと光っている。透明で淡い色だったそれにタリアの赤が灯り、奇妙なほどに赤い。
 胸を突かれる赤にリィザは暫く佇んでいた。泣かない、と呟く。もう泣かない。二度と会えない人にだけ、心を連れて行かれてはだめ。この場所の人たちは優しいから、いつか貴方を忘れていくために、だから泣かない。
 リィザは低く自分に言い聞かせるように数度繰り返し、そっと小鳥に近づいた。指先で撫でると硝子特有の凛とした冷たさ。これをくれた時、彼の指は温かだった……不意にそれを思いだし、リィザはくすりと笑った。あれから1年と少ししか経っていないというのに自分がひどく年をとった様な気がしたのだ。
 タリアの淡い紅灯に燃えるような色に染まる、硝子の小鳥。リィザはそれをそっと掌に納めて愛しく撫でた後、鏡台の引き出しの一番奥に仕舞った。小鳥の姿が視界から消えた一瞬、リィザはそっと目を伏せて微笑んだ。
 ――さよなら。思い出の奥を、若主人の面影が通り過ぎていった。
 やがて水揚げのしきたりや慣行は順調に進んでいき、彼女は穏やかな声に促されるままに闇の中へ入った。そこで行われたことは、今までリィザが知識としてだけ知っていたことであった。
 やがて夜の始まる時刻、常連の言葉にまんざらでもない様子で酒場女は進み出る。太り気味の身体を些か持て余すように狭い卓の間をすり抜けて、彼女は店の隅で暇を囲っていた鬱気分の竪琴弾きを小突いて商売道具を取り出させ、深く息を吸い込んだ。
 そして場末酒場に溢れ流れ出す、豊かな音量。昔劇場で歌っていたのだという女の経歴自慢を信じる者はここには誰もいない。劇場にはあり余る豊潤な香りの年代酒や煌めく宝石の偽物の、安い酒と硝子玉に囲まれて、だが女の歌だけは真実本物だった。音楽のための楽器でない、心震わせる、魂の歌。
 女は一心に歌う。あいのうたを。


波間流離う海鳥たちの 叫びが今宵も 耳を打つ
遠く聞こえる潮騒の うねりをかき消す 声がする
お前の胸にも聞こえている? 私の歌う、海鳥の歌
見つめてよ
お前の世界の中心を 私がすっかり占めるまで
 日が落ちると一斉に回廊に揺らめく炎が灯った。リュース皇子は香料油の匂いはどうしても苦手だったが、立場上好みを言うべきではないという習慣のためにそれを口に出したことはない。
 だが、一瞬眉をひそめたのを父は素早く見たようだった。
「――深く吸い込まないで、回廊の真ん中を歩きなさい」
 皇子は微笑んで自分の父を仰ぎ見る。
 すぐ下の異母弟カルア皇子は父に生き写しだと今更ながらに思う。しっかりした健康な体つきと精悍を感じる面差しは、あの明るい異母弟にそっくりだ。
 皇子の視線に父帝はゆっくり微笑んだ。明るい夜空の色をした瞳の奥に、自分に対する情愛と慈しみを簡単に見つけることが出来て、皇子は胸の底が静かになるような安堵を感じた。
 両親からの情という意味において、皇子は父からより多くのものを受け取っている。
 父の言葉に皇子は頷き、父が先へ行くようにと半歩引いて道を譲った。皇子の訳知りの仕草に父は苦笑し、彼の肩を抱いて共に後宮への道を戻り始めた。
「……あまり根を詰めるんじゃないぞ、リュース。お前は何でも徹底的にやろうとしすぎる」
 父の言葉に皇子はええ、と軽い相づちを打った。父上が何でも適当になさりすぎるのです、という返答は心の中にしまい込む。
 父は鷹揚な登極者であり、実に大らかに執政の長として過ごしているように皇子には見える。気概や意欲というものをさほど感じたことがないが、それが現代の皇帝に求められている資質なのだろう。
 既に時代は移り変わり、皇帝が権威と権力の掌握者であった時間は去った。今はその二つの象徴という意味が正しい。が、皇子はそれには僅かな疑問を覚えている。政治であれ軍事であれ、まれにそのどちらかの見識の深い皇帝は存在した。彼らはそれ故に失脚し帝位を去らねばならなかった。定まった権力の機構に口を入れる支配者など、貴族達は欲しくないのだ。
 リュースはそれには疑問と不服を覚える。皇帝はこの国の最高権力者では既にないが、敬意を払われても不思議ではないはずだ。なのに頂点にいるその人が国政というものに真剣に関わることを望んでいる者など、誰もいない。
 父は周囲の期待に実に良く添った皇帝であるかもしれなかった。それを面と向かって非難は出来ないのだが、リュースは何か釈然としない。
「お前の考えていることは分かるよ、リュース」
 父が優しく言った。リュースは今日はほぼ一日父や廷臣達と共に在った。殆ど父が発言をしないことにも驚いたし、臣下もそれに慣れているように全く勝手に議事を進めていくやり方にも仰天した。
 それが顔に出ていたのだろうかと皇子は思い、曖昧に微笑みながら父上、と言った。
「父上はご自分で国政をご指導なさろうと思ったことはないのですか? 彼らの議論と来たら同じ場所を行ったり来たりで……」
「歯痒いかね?」
 父の穏やかな言葉に性急さを諭されているようで、リュースはやや赤面して俯いた。父帝は喉を鳴らすようにして笑った。
「お前にはそうかもしれんな。だが、実際登極してみれば違うものだと分かろう。それに議論はされないよりも尽くされるほうがより正しいと、私は信じているからね」
 それは立憲君主制という機構の心臓でもあった。
 リュースは曖昧に頷いて、ゆっくり歩を進めた。この国では昔から官僚と政治の絡み合う機構が複雑に、だがしっかりと構築されている。それは初代の皇帝があまりに早く逝去したせいであろう。即位時の2世皇帝は僅かに6才、国家とその周辺の廷臣達が生き残っていくためにはそれしかなかったのだ。
 皇帝は富と名誉と権力の象徴とし、実際の為政を官僚が担当し、官僚を法務で縛るというやり方をさまざまな規制と法令でほぼ完全な形で組み上げた太祖皇帝の遺臣ケイ・ルーシェンの呼吸が未だに法令の底辺には潜んでいる。
「私たちは祖先から受け継いできた遺産をまた次世代に伝えていくことを考えなくてはいけないのだよ、リュース。分かるね?」
 穏やかに諭されて、皇子は頷く。それはそれで正しかろう。それに父は立太子されて皇帝になったわけではない。16年前に当時の皇帝であった同母兄が結婚問題のもつれから失踪し後継者がいなかったため、暫定の継承順が一位であった父が急遽即位することになったのだ。
 父にとっては予期せぬ即位であったはずだし、帝位を望んでいたかどうかはすこぶる怪しい。情熱というものを持って望めと父に号令するのは酷というものかも知れなかった。
 それを理解していても、皇子は自分の心の奥底に父の言葉への違和感があることを否めない。何がどう、とはっきり指摘することは出来ないにしても、納得しているというわけには行かなかった。
 皇子は固く唇を結んだ。資質や皇帝の意欲の増減で簡単に翻弄される国政というのも良くないが、いずれ自分が帝位につくことを思うと暗澹とした気持ちになる。現在まで彼が学び築いてきた知識も理論も全く役に立たないということなのだ。
 努力すれば結果は出せる。それを厭うたことはない。だが、結果を出すことを求められていない時はどうすればいいのか、皇子は更に暗い気分になった。
 無理矢理それを貫こうとするならば、それを試みた歴代の皇帝達と同じように臣下を相手に泥沼のような権力闘争に明け暮れなくてはならないだろう。勝つか負けるかも分からない争いに身を投じなくてはならないことを思うと、傀儡でも静謐な一生を送りたいと願った皇帝たちの心情も理解できなくはなかった。
 それは父の願いであるのかも知れなかった。父帝は実権を掌握することを望んでいない。父の望みは恐らく、家族に囲まれて温かに一生を終えることであるのだろう。他人の価値観を理解し納得するには、リュース皇子は未だに若いという年齢であった。
 彼の表情を見て取ったらしい父帝は鷹揚に微笑んだ。
 父の大きな手が自分の額の髪を払いのけ、愛しく輪郭に触れてくる。その手の温もりのように愛されている実感はあった。細められた目の奥にも、優しい声音の静かさにも、それは暗闇の蝋燭のように灯っている。
「私には私のやり方もあるし、お前にもそれがあるだろう。しばらくは勉強がてら私の側にいるといい。それにまだお前になると決まったわけではないからね」
 立太子の条件に実は出生順はさほど関係がない。皇室の権威の失墜と共に有力な皇子の暗殺や失踪が相次いだ時代を経たために、年長の皇子3~4名の資質が大まか明らかになった時点での合議によって継承権順を決定するのがこの500年ほどの慣例である。
 現在一番近いと目されているのはリュース皇子でありそれを自分で自負してもいるが、異母弟カルアにもさほど欠損はなく、その下の異母弟エセルは自分と似た思考型のおとなしい人格だ。末弟ラインは勉学より剣術の才能が飛び抜けて光っているが、実は座学とて悪くなかった。
 誰が立太子されてもおかしいわけでない。カルア・エセルの両異母弟にあまり意欲がなく実弟ラインに至っては尻込みするような素振りがあることを考えるに自分だろうという未来観があるだけのことだ。
「……でも、父上。私は皇太子になりたいのです」
 皇子は低く、父にだけ聞こえるようにそっと呟いた。父は頷き、不意に立ち止まって彼の肩を抱き、額に軽くキスをした。
「――私もイリーナも、お前を愛しているよ。私たちの大切な皇子」
 囁きが耳元でした。リュースは微笑み、はい、と明るい声を出して頷いた。
 母イリーナ妃の住む小宮は夏薔薇庭園の中にある。丁度季節は夏をゆっくりと過ぎていく頃で、まだ咲き残っている色とりどりの薔薇が見事に美しい。侍女が摘んでいた花を受け取って、皇子は父と共に母の元へと歩いた。
 窓辺に母の姿が見える。皇子の視線が向いたのを気付いたのか、軽く手を振ってくれる仕草に皇子はほっと息を付いた。最近どうにも母が余所余所しいと感じていたから、皇子にとっては何気ないことでも宝石のような事実に変わる。
 最近という言葉が一体どの辺りからを指すのか、皇子は始まりの地点をはっきりと示すことは出来ないが、それが暫く続いていることは確かだった。だから尚更、立太子への道を選ぼうと決めているのは意固地なのだろう。それでも何か一つでも気を惹くことが出来て喜んでくれるなら――と、皇子は考え続けている。
 母は窓辺でレース編みの途中だった。弟のライン皇子はいない。日が完全に落ちるまでは剣の稽古であるのだろう。ラインの不在に皇子はあからさまに安堵し、安堵したことに気付いて自己嫌悪で頬を厳しくした。弟を決して嫌いではない。明るい上に他人をよく気遣う優しさを持っており、彼にも良く懐いている。それは一種彼の理想の人格であった。
 皇子が呼吸を整えている隙間に、両親は軽い挨拶のキスを頬に交わしていた。
 父帝と母妃の間には烈しく燃えるような情熱や甘い空気はないが、年月と共に培われてきたらしい信頼がある。それも愛情の一種の形であるだろう。父の愛というなら明らかにもう一人の皇妃ユーデリカに注がれているが、母はそれにはさほど頓着した様子を見せなかった。
 来月の誕生日で15才になるリュースと3ヶ月ほど前に13になったカルアの両皇子に皇太子候補としての諸処の知識や学問を教える特設の学問所が後宮内に開く。それがどんな立場に基づき土台に根ざしているのかを知らしめるために今日は父の側に一日おいて貰っていたが、候補となるのは彼一人ではない。
 アルカナ大公系の母を持つ自分に対してアイリュス大公系の母から生まれた異母弟のカルア皇子が共に席に着くことになる。父が異母弟を現在ユーデリカ妃が暮らすロリス湖畔の離宮からこの後宮へ連れてくることに際し、母親替わりに面倒を見てやるよう母妃に頼んでいるのはその為だ。
「あちらは大分やんちゃだが」
 父の声は苦笑している。カルアは良く言うなら闊達、悪く言うなら落ち着きがない。半刻もじっとしているのが苦手だが、体を動かすことならば大概好きだった。彼とその実弟エセルが遊びに来ると連れ回されて疲労で熱を出すのがリュースの現状だ。
「ええ、ラインも遊び相手が来ると喜びますし」
 母の返答に父が刹那、目配せした。それに籠もる厳しさが何であるのか分からずにリュースは持ってきた花を渡すための侍女を呼ぼうと硝子の呼び鈴を取った。ちりちりなる甲高い音の隙間から、母の声がするりと抜けて届いた。
「――勿論、リュースにだっていいことです。……言葉の綾ですわ」
 自分の耳が一瞬引きつったように動いた気がした。父の一瞬の所作の意味がやっと彼にも分かったのだ。母の言葉から綺麗に自分の存在だけが抜き取られていたことに。皇子は僅かに身を固くしかけ、それをどうにか押しとどめた。自分が気付いたことを、両親に悟られたくない。二人ともが今皇子に気を遣っていることを分かっているから尚更だった。
 現れた侍女に皇子は夏薔薇を手渡す。先ほどの両親の会話など聞いていなかったように微笑んで、今年の薔薇は白が多いですねと他愛ないことを言った。
「母上のお名前を戴いた薔薇でしょう? 香りも強くて綺麗な品種です」
 母イリーナは淡く笑んで頷いた。彼と似た繊細な顔立ちが美しく曇りないことを注意深く観察し、皇子はようやく内心で安堵した。
 どんな形であれ、皇子は母に負担を強いることはしたくないのだった。


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