閉じる


<<最初から読む

30 / 79ページ

「……本当に、ごめんなさいね」
 改めて彼についた遊女が苦笑しながら作ってくれる酒を飲み干し、ディーはいやと曖昧に笑った。
 怯えるばかり、震えるだけの小鳥。あの小鳥は一体どんな声で啼くだろう。そんなことを考えると笑みが零れてくる。遊女に向かない性質であろうことは分かったが、それに配慮しすぎるほどディーもまた、優しい男ではない。珍しい毛色の女であるとは思うが、尚更自分の腕の中で啼かせてみたいと思うのは性であろう。
 それに、笑うとどこかが違う。含羞のような淡く大人しげな気配が立ち上ってきて、思わず抱きたいなどと言ってしまった。いずれ水揚げが終われば買ってみようという魂胆は既に出来上がったから、誰かが彼女の涙を謝ることではなかった。
「彼女は……いつもあんな調子で?」
 遊女はそうね、と苦笑する。境界門の双柱をじっと見つめていたときの感触からも、その返答は外れていない。だろうな、とディーは苦笑した。
「そいつは先々苦労するだろうな」
 そんなことを呟くと遊女はまたそうねと頷いた。妓楼へ来たからには、真実例外はない。女将とて客への供物としての査定に叶ったからこそ彼女を買ったのだから、その元は取ろうとするだろう。
 それにしてもあの笑顔の心地よさは特別だった。あれは一体何だったのだろうとディーはふと思い、自分でゆるく笑った。性質も身体も、相性というものがある。話してみなくては分からないこともあるし、寝てみなくては知り得ないこともあるのだ。その点ライアンも同じようなことを言っていたから、自分だけが特別ではあるまい。
 ちらとライアンを見ると、彼はこの宴席の喧噪など全く気に掛けず、いつものように煙草に執心していた。あれだけが彼の道楽なのだとディーは知っているから止めるでもない。恐らくはライアンの生涯ただ一人の主人であるリァン・ロゥの仕種と似てきた気がするのは自分の錯覚か、ライアンの無意識の故意か。
 王として君臨し、他人からの崇拝を受け取り、自ら更に上を目指して力強く飛翔していくという王者としての器量の一点において、ライアンはリァンに遠く及ばない。リァンは明るく燃え輝く太陽そのもののような男だった。他人の下にいるのを潔しとしないきつい自尊心が誰をも惹きつけ、魅了した。
 ライアンの寡黙な性質はその影響を殆ど受けていないように見える。だがいつでも心の底からそれを渇望し、焦がれ、欲しがっているのは知っていた。
 ―――越えるべき者をいつまでも懐かしんでいては先はない。いつか彼にそう言ってやりたかったが、それをライアンが受け取ることが出来るようになるには、まだ時間がかかろう。何故なら、ライアンは未だに囚われているからだ。リァン・ロゥの残像に。過去の幻に。過ぎ去ってしまった夢のような時代に。
 リァンはまさしく夢であった。チェイン地区というのはタリアの中でも最も奥、殆ど日の射さない路地に嫌な臭いの充満した地下道の入り組む貧民窟だ。
 それでも石造りのアパートに入り込めるならましな方で、冬にはそこからあぶれた大量の凍死者が出る。その死体から金に換わりそうなものを剥ぎ、服を、靴を盗り、用のない身体の方は裏手の運河へと捨てるから冬の川は亡霊の棲家―――
 リァンはそこに突然降臨した神であった。彼の指導のままに大人達から追いやられて条件の悪い場所へと吹き寄せられてきた子供達は結束しはじめた。ディーは少年時代の始まりにそれを目の当たりにした。
 ディーの兄はリァンの幹部の一人、ディー自身も兄の派閥の下で少年窟を自分たちの王国にしようと指針するリァンの輝きに目を奪われた。まとまりなく派閥と縄張り争いに明け暮れていた子供達をあっという間にまとめ上げていく求心力、誰をも虜にする明るい笑顔と朗らかな性質。誰もがリァンを崇拝し、リァンの足下に平伏し、リァンの為にと誓っていた。
 ディーの兄もリァンの腹心として上り詰めていった。リァンが幹部として認め、自身の元への直接の出入りを許していたのは当時2000人を越していた子供達の内で僅かに8名、兄はその内でも3幹部と呼ばれるほどにリァンの重鎮だった。───残りの2人は殺傷能力よりもその知力を買われたヴァシェル、そしてリァンの身辺を警護し命を楯とするべく育てられたライアンである。
 兄もヴァシェルも既にこの世にいない。3年前にリァンが突然暗殺された後の、少年王の跡目争いの際に2人とも死んでいる。ヴァシェルは兄が、兄はライアンがそれぞれ手に掛けた。激烈な抗争を勝ち抜いて今のライアンがある。
 ライアンの明るい笑顔は当時から珍しい部類ではあったが、リァンが死んでからは殆ど見られなくなった。気鬱に沈みがちな空気をディーにはどうすることもできなかった。自分がそれほど策略を巡らすのに向いていないのをライアンが理解してからは、彼は益々無口になった。一人で黙々と思考している姿を、ディーは半ば痛々しい思いで眺めていたことを覚えている。
 抗争を勝ち上がり、チェインの王となってもライアンの顔は晴れなかった。その座に着くべきはリァンであって自分ではないとでも思っているのだろう。ライアンが今、チェイン王という力を背景にしてタリア王アルードと共に在るのもきっとリァンの為なのだ。
 リァンはタリア王になるべき男だった。ディーでさえ、彼の死から3年を経てもそう思う。彼こそ真実、チェイン王に相応しくタリア王に手をかける資格のある男だった。
 それが死によって閉ざされてしまったことを誰よりも理不尽に感じているのはライアンだ。彼はまだリァンの死を傷として抱えたままでいる。
 彼がタリア王になるべく頭を上げているのは偏にリァンへの追悼だ。ただ一途に、彼が成し遂げるはずだった奇跡を実現するためにライアンは生きている。
 ―――だがライアンは?
 ディーは微かに苦い顔をする。兄の死は仕方がない。ディーはそれを自分でも驚くほど冷静に受け止めている。
 ライアンはディーを身辺におき、継承戦争時に失ってしまった本来の左腕の代わりに惜しみなく信頼を注いでくれる。左腕の義手には沢山の仕掛けがあって単に見栄えや重心の問題ではないが、それでも長じていけばチアロの方がディーよりもずっと強い戦士となるだろう。自分は既に、頂点へ至る道は閉ざされているのだ。
 だからこそ、ライアンが自分を未だに重鎮として扱ってくれることが誇りでもある。ライアンがリァンのために生きていきたいと願うように、自分は彼のために生きていたかった。
 ふとそのライアンの視線がディーを見た。随分と自分は彼を見つめていたようであった。遊女にもういいからと言い残し、ディーは席を立つ。ライアンは新しい一服の葉を煙管に詰めているところだった。
「腕をありがとうございます」
 そんなことを言うと、ライアンは淡く唇だけで笑った。働けよ、というのは激励でもある。それに頷き、ディーはライアンの煙草の火石を打つ遊女へ視線をやった。この女はライアンの特別だ。3年前からずっと彼の指名を受けている。
 2人はどことなく似た顔立ちをしていた。目の流線や鼻筋の影が醸す雰囲気が特によく似ている。ライアンの方が奇妙に陰気な空気を背負い、対して遊女の方は化粧のせいなのか華やかな印象にまとまっているが、容貌には共通するものが多い。
「ねぇ、ねぇ、新しい服と髪飾り」
 遊女がライアンの袖を引いて甘えた声を出している。
「この前やった髪留めでは足りないか」
「それとこれとは別だってば。それに紅玉は服に滲んじゃうからやだって言ったもん。ライアンあたしの話聞いてないでしょ。翡翠がいいの、ひ・す・い! ライアンの目の色とお揃いの」
「贅沢な奴だな」
「何よ、あたしが綺麗にしてるほうが嬉しいくせに」
 ライアンがそれに曖昧に笑って細かい希望を聞いているのは贈るつもりなのだ。
 遊女の衣装も装身具も化粧品も彼女たちの自腹だから、少しでも貢いでくれる男を増やせばそれなりに彼女たちは潤うようになっている。やれやれだとディーが思っているのが顔に出たのか、遊女の方はきっと彼を睨みあげた。視線のきつさと瞳の色はライアンとそっくりだ。
 正直なところ、ディーは彼女を好ましくは思っていない。ライアンは一度心許すと全力を以て守ろうとするところがある。この女が長じてライアンの足に絡みつく網にならないと、誰が言えるのだろう。
 今でさえ十分、ライアンは彼女に執着している。彼女に笑いかける空気は普段の凍てつくような厳しさとは全く違う温度だった。
「ライアン、話が」
 ディーが遮ると、遊女の方は更に不機嫌な顔になった。それを宥めるようにライアンが彼女の頬を撫でる。あとで、と彼に言い含められて渋々頷き去っていく背を、ディーは溜息で見送った。
「……彼女には随分とご執心で」
 半ば嫌味のような口調になったのを、ライアンは苦笑めいた表情で流した。
「あれはあれでいい、お前には関係ないだろう」
 そうですが、とディーは肩をすくめる。遊女の方はチアロをからかっているようだ。ライアンといるときとは一転して、明るい子供同士じゃれあうような笑顔が見える。
 話とは、とライアンが呟いて、ディーは視線を主人に戻した。ディーは頷いて声を潜めた。ライアンの周囲には自分以外に人が居らず、話が聞こえる危惧はなかったが、それは十分に密やかな話なのだった。
「……クインが戻ってきたというのは本当ですか」
 3年前にチェインを吹き荒れた抗争に部外者ながら口を出し、ライアンに知恵を付けたあの子供のことを、ディーは忘れていない。一度目にすれば焼き付くような美形であったこともあり、噂を聞いたときにすぐに分かった。
 ライアンの煙草入れを掲げて彼に会いたいと言った美少年の話。チアロが楽しそうに話しながら連れていったという目撃。チアロとクインは3年前から気の合う友人同士だった。
 ディーはクインをも気に入らない。それは先程の遊女と同じくライアンの弱みにならないだろうかという懸念がそうさせている。3年前もライアンはクインを助け庇った。クインを当時のタリア王への貢ぎ物にしようとしていたのを撤回してまでそうしたのだ。
 結果ライアン自身がタリア王と寝て自治を買うに至ったことを、ディーは怒りにさえ変えることが出来た。あの子供を差し出しておけば貴方の身は安全だったのにと。
 ライアンはディーの質問に簡単に頷いた。それで彼の顔が曇ったのを見て取ったのか、曖昧に笑った。
「あれのことは内密にな。俺はクインをなるべく他人の目からは隠してやりたい―――タリアに戻ってきた以上の噂になっているのか」
「いえ、チアロがどこかへ連れていったという辺りまでしか……」
 ならいい、とライアンは深く煙草を飲んだ。
「……根城から出入りするときは女装だから目立たないんだろう。お前もあまり他人に話すな。噂が酷く頻繁になるようなら俺に報せろ」
 ライアンの命令は絶対であった。ディーは軽く頭を下げる。ライアンは苦笑した。
「そんな顔をするな。お前は3年前からあれが気に食わないんだろう? だが、あれのことは口出し無用だ。そのうち必要があればお前にも伝えるべきことを伝えなくてはいけないが、あれを保護することがいずれ俺の切り札になるかもしれん」
「切り札……ですか」
「そうだ」
 ライアンは不意ににやりと笑った。不敵と表現すべき笑みは珍しく、それは滅多に表現しないライアンの自信の証明でもあった。
「あれは、俺の切り札になる―――どう化けるかはまだ分からんが……そうだな、手なづけておけばどんな場合になっても損はしない」
 そう言ってライアンは何かを思い定めたのか、深く頷いた。
「……ダルフォ」
 低く呼ばれた自分の本名を、ディーは懐かしく聞いた。その名は3年前に彼自らが撤回したのだ、ライアンの元で生き直すために。わざわざ本名で呼ぶときは、だから重要な話であった。ええ、と返答する自分の声が更に低くなる。
「チアロはしばらくクインのことで忙しくなる。何しろクインのご機嫌を取っておくには奴が一番良さそうだからな―――チアロのことを頼めるか」
 僅かにライアンの目が鈍く光った気がした。
「……正直、俺はいずれチアロにチェインをやりたい」
 ライアンの口から後継の話が出たのは初めてのことであるかも知れなかった。ディーはどっしりした緊張感が腹に居座ったのを感じた。
 ライアンの意向を薄々みな気付いているが、それを本人は公言したことはなかったはずだ。他の幹部達への示しや折り合いもあろうし、幹部として扱っている連中の中でチアロは一番年齢が下だ。ライアンの側小姓だからという冷笑も無くはない。
「本来ならお前だが」
 ライアンの言いかけた先をディーは分かっていますと遮った。
「チェイン王はチェインの強者でなくてはいけない。一番分かりやすい支配は力です」
 左腕の欠損は極みに到達するには決定的な瑕疵だった。ディーはそこには成り得ぬ現実を知っていた。ライアンは重く頷いた。
「チアロがクインのことで引き回されている間、チアロの後見として構えてやって欲しい。あれは……あれは、まだ甘い。甘いが、見込める。今は奴をしてクインの機嫌を取らせておくのが優先だが、それでは足りない部分が出てくるだろう。支えてやってくれないか」
 ディーはチェイン王たるライアンの、一番の腹心であると見なされている。それをディーも知っているし、ライアンも彼をそう扱ってきた。
 それをしてチアロの後見たれというならば、ディーに自分を棄てろというのに等しい。命じるのではなく、頼めるかという言い方しかできないのだ。
 ディーは頷いた。チェイン王の後継は自分でない場所へ行くのがいいと彼も思っていたのは確かだった。ライアンはほっとしたように温く笑った。
「……いずれ、お前はタリアの方へ関わって貰う。俺にもそこそこアルードが仕事を回すようになってきているからな」
 ディーはまた頷いた。自身の足らない部分を承知しても使ってくれるライアンの意志に感謝さえ覚えた。いずれライアンがタリア王になる時に自分はまだ生きて、彼の側にいられるだろうか。そんなことを思えばゆるく笑みもこぼれてくるのだった。
 ライアンは彼に軽く頷き、立ち上がった。重い存在感のある身体がそこから歩み去っていく。例の遊女がそれをめざとく見つけて彼の側に寄り、手を引いた。彼女の部屋へ上がるのだろう。
 この後は正真正銘の無礼講だ。あの見習いの少女がこの場にいたら卒倒するだろうと思い、ディーは少年達の捌け口になるまえにと目についた女に声をかけるために歩き始めた。
「……さ、これで大体いいわ。やっぱりリュースちゃんってば美人ねえ」
 ちゃんはやめてよ、とリュース皇子は照れついでに苦笑になる。エリゼテール大公女は彼の幼なじみだが、お互いに物心つく頃から共にいることもあって尚更砕けた呼び名になる。
 彼女は皇子よりも1歳年長で、幼い頃はひどく苛められたものだ。母妃がいつもそれを思い出しては笑う。エリザちゃんが来たわよっていうと、お前はいっつも後ずさりして怯えて泣き出してたんだから―――
 皇子はそんな遠い話にまた苦笑した。何よ、と目の前の公女は彼の手を優しくつねる。彼女の淡い金髪が窓から注ぐ陽光にきらきら輝いて目に眩しい。緑柱石の色をした瞳の明るさも、そしてその顔立ちも美しいといってよい少女だ。彫りが深くくっきりした顔立ちはアイリュス大公家系の特徴だが、エリゼテール公女にはそれ以上の神の愛を感じるほどに麗しく華やかなものが備わっている。
 ―――尤も、リュースがそれに気を向けるときは誰かの誉め言葉があったときだけだ。彼自身が神の愛し子であるような美貌の持ち主であり重要なのは中身だという倫理の信奉者でもあったから、なおさら他人の美醜には疎い。疎いというよりは単純に興味がないのだろう。
 公女がほら、と差し出してくれた手鏡の中にあの日見かけた少女の面差しを見つけ、皇子は溜息になった。本当に似ている。こうしてほんの少し化粧して髪や眉を整えただけで「彼」が鏡の向こうにいるようだ。
「綺麗に出来たでしょ……ねえ、本当にこんなことしてどうするの?」
 化粧道具一式を順序よく小箱にしまいながら公女が聞いた。皇子は鏡から視線を離して曖昧に笑った。彼の返答を諦めて公女が肩をすくめる。幼い頃からの日々の積み重ねが、言葉をさほど必要としない関係を作りだしていた。
「いろいろありがとう、エリザ」
 鏡を机の上に伏せ、皇子は何か飲むかと公女に聞いたが、公女はいらないと首を振った。
 皇子は顔を洗おうと席を外した。化粧した顔立ちを確認できればそれで良かったのだ。自分たちの相似を改めて見つめるために。
 似ていると気付いたのは初夏の頃だったが、既に季節はゆっくり秋へ向かい始める残暑の中だ。皇室行事やら夏離宮への行幸など、国と家の用事が重なってなかなか検証する時間がなかったが、離宮での避暑生活でも皇子は彼のことを考えていた。
 ―――あれは誰なんだろう?
 最初、皇子はごく単純に自分に双子の兄がいるのだろうかと考えた。先に胎内から産み落とされた方が兄であるが、現実自分一人しか王宮にいない。自分が弟なのは、最初の一人を王宮外に出して後から生まれてきた方を手元に残すだろうからだ。
 皇帝の嫡子であるならば、出生と同時に沢山の儀式がある。母親たる皇妃も同じだ。一人産んだ後でもう一人を極秘に出産するよりは兄の方を王宮から連れ出してから産気づいたと人を呼ぶ方が遙かに楽であるし、方法として自然だ。
 だが、ここで皇子はふと深淵に気付かざるを得ない。子を授かったときから皇妃と胎内の子は国家のものだ。あらゆる意味で人の目がある。母胎に双子があるということを、誰も気付かなかったとするならそれは極め付きの不自然だった。
 診療記録をこっそり盗み見ても、皇妃の腹には心音は一つとしか見えない。太古であるなら双子は国家の安泰を損ねるとして片方を―――大抵は弟の方を―――生まれた直後に水につけて葬ってしまうのだが、今は双子だからといって国家鎮護の妨げになることはない。それほどの魅力が帝位にないのだ。記録は書き換えた後が見られない。だから13年と11ヶ月前に母后の腹にいた子供はやはり自分一人なのだ。
 ―――では、あれは一体、誰なんだろう……?
 血縁がまるでないと仮定した上での酷似であれば、祝祭の日に自分を見つめていた彼の複雑な目の色を説明する道が失われる。何かしらの血縁があるとするなら一体どこだろうか。自分たちの顔立ちの相似と特徴から、それは少なくとも母の実家であるアルカナ公系だろうと皇子は最初見当をつけてはみたが、その門閥家系は巨大だ。末端まで含めれば家名は200を越す。
 数名の魔導士に命じてその中で行方不明になっている子供を捜してみたが、そんな子供は存在しなかった。
 ……それに戸籍はどう考えても偽造だったから、貴族の子弟が戸籍を偽ってまで中央中等へ通っていたというのなら、正直、訳が分からない。
 皇子は首をかしげた。洗面所の鏡の中で、「彼」を模した姿が困惑した顔をしている。血縁がないならそれでも構わないのだが、祝祭の日の彼の表情が心のどこかに爪を立ててしがみついていて、無視できない。
 皇子は小さく溜息をもらし、エリザにしてもらった化粧を落とすために水をすくった。
 部屋へ戻ると公女は露台へ通じる硝子戸を開け、手すりに腰掛けながら大きく伸びをしていた。しなやかに伸びた手足の形良さ、肌の白い美しさ。ずっと昔から知っていたはずなのに、彼女の仕種の一つ一つに時折見知らぬ他人を見る気がする。
 公女はすぐに彼に気付き、リュースと呼んだ。彼を呼び捨てにするのは両親と彼女くらいなものであった。
「こっちへ来なさいよ、やっぱりここが涼しいから」
 夏の間はこの夏の居宮で過ごしているが、この宮は人工池の上に何本もの柱で支えられて建っている。晩夏の風が渡って吹き来れば、それは水面をさらって若干潤み、清涼で心地よい。
 100年ほど前の皇帝が四季に合わせた居宮を建てたのだが、特にこの夏の居宮と冬の居宮は居心地が良かった。風に蓮の蕾が揺れいている。
「落としちゃったんだ、せっかく可愛かったのに……」
 エリゼテール公女は彼の頬を残念そうに撫でて呟いた。皇子は苦笑気味に微笑む。
 彼の面影をもう一度見たくて化粧という方法を思いついたのはいいが、どうしていいのか見当もつかない。困った末に幼なじみの少女に頼んだのは、彼女くらいしか身近に頼める相手がいなかったからだ。皇子は自分が中等学院の仲間達から遠巻きに浮いていることを承知していたが、こんな時は微かな物寂しさを覚えた。
「来月はお誕生日ね、リュース。何か欲しいもの、ある?」
 公女は明るく彼に話しかけた。皇子は首を振った。
「うん、別に……でもだからって、武器とかは嫌だ」
 公女は片手間に弓を遊び馬を操る。身体も頑健と言って良いほど健康で、快活な性質であった。自分が大人しすぎるきらいがあることを考えると、逆であれば良かったのかも知れないと、皇子はいつも思う。
「何か希望を言いなさいよ。先月の私の誕生日には、ちゃんとくれたじゃない」
 この年中央中等へ入学した彼女に皇子は本とペンを贈っている。本はこれから履修する科目の参考書、ペンの方は軸が精緻な白金細工で出来た美しい品だ。いいよ、とリュースは仕方なく笑った。
「いずれ結婚するんだし……あまり気にしないで、受け取って置いてくれればいいから」
 それは自明に思われた。エリゼテール公女は父帝の第2妃の姪、現アイリュス大公の一人娘だ。立太子されてもされなくても、いずれ門閥の提携のために彼女は自分の妻になるだろう。彼女の方が年齢が上ではあるが、彼より下となるとアイリュス大公本家とやや離れた血縁にしかない。シタルキアが婚姻政策によって他国と連帯しないことは常識であるため、公女と釣り合う縁となると限られてくるのだ。
 婚約するのは数年先になるだろうが、彼女と睦まじいことを周囲に教えておくことは無意味ではない。婚約の形式というものもあってまずは数度こちらから尋ねていって彼女に伺いを立てるという手順を踏むが、その前哨として申し分ないはずだった。
 エリゼテールは一瞬眉をひそめ、それから長い溜息をついた。何か気に障ったのだろうかと皇子は怪訝に将来の婚約者を見つめる。
「ねえリュース、好きな人はいないの?」
 これには皇子は即答する。彼にとって、これは深く考えることではないのだ。
「エリザが好きだよ、どうして?」
 公女は肩をすくめた。皇子はその仕種に不安を抱く。皇子にとって彼女は殆ど唯一の友人でもあり、恐らくは一生共にいることになる相手であった。彼女以外の女性と添うことなど出来ない以上、最初から目をやらない方が全てにとって上手く回る。よそ見した上での寄り道など、時間と手間の無駄だとしか思えなかった。
 簡単にそんなことを説明すると、公女は不機嫌に顔をしかめてから苦笑した。やはり彼女の気に入らないらしい。エリザ、と皇子は少し強い声を出した。
「だって、どうせ君と結婚するんだからいいじゃないか」
「分かったわよ。もういいったら……」
 うんざりという表情であった。公女の真意が分からず邪険にされて、皇子もやや不機嫌になる。公女は彼と並んで遜色無いほど整った形の頬を寄せて、密やかな声を出した。
「……ねえ、秘密よ? ……私、付き合ってる人がいるの」
 皇子は一瞬おいて頷いた。公女の悪戯っぽく笑う吐息が、喩えようもなく幸福そうな響きに聞こえた。
「そう……なんだ。じゃあ、こんな話不愉快だったね。いいよエリザ、私のことは気にしないでも。うまくいくといいね」
 公女は頷き、彼の頬に軽くキスをした。彼女の髪からほんのりと香料が薫った。
「でもね、リュース。あなた出来ればちゃんと恋愛くらいしたほうがいいわよ? 私でよければいつでも相談に乗るから」
 皇子はまた頷いた。エリザの言う内容の真意は何故か曖昧にぼやけて見えないのだが、彼女が自分を気遣っているのだと分かっていれば十分だった。
 これから彼と会うのだと彼女が帰っていくのを後宮外まで送り、皇子は少し溜息をついて夏の宮の道までを戻り始めた。
 鏡の中にいた自分はやはり、祝祭の日に見かけた彼の姿であった。本当に、自分たちはよく似ている。双子であるという結論は既に否定しているが、母方の縁を辿っていけばそのうちに巡り会えるだろうか。
 皇子は曖昧に頷き、マルエスと呟いた。歩き続ける皇子の背後の空気がたわみ、彼の背後ではい、と返事がした。皇子は視線だけで振り返り、そこに彼の随従を見つけた。
 マルエスは皇子の護衛の魔導士であった。魔導士の掟に従い、全身を覆う外衣と銀の仮面を身につけている。階級は第3位従、全階級の内中の上程度に属する位置である。魔導士の出自などは全て破棄されていて個人情報など知りようもないが、声や背格好からまだ若い年齢の男であることは知っていた。
「……マルエス、彼のことは何か分かったか」
 皇子は呟くように小さく言った。魔導士はいえと即答する。あの仮装行列に参加する皇子の側に姿を隠して彼もいたから、皇子は彼を捜すと決めたとき、容貌を説明するよりはマルエスに命じた。
 すぐに見つかると思ったのだ。魔導の力は一般の人々が思うよりも遙かに広くて深い。彼の気配や残像の足取りを追っていけば簡単に辿り着くだろうと思っていたのだが、あの彼が魔導論文の新旗手であったことを思い出す結果となってしまった―――魔導によって痕跡を追うことが出来ないよう、路地に入ってすぐに簡単な結界罠を残し仕掛けていったのだ。
怪我をするほどの大仰なものではなかったから単なる警告であるとは思われたが、自らの足跡をひたすらに隠そうとする意志はやはり鮮明だった。
 困難だな、と思ったのはその時のことだ。魔導によって過去の残像をどうにか捜しだし、他人の目の底に残る記憶をかき集めていけばどうにかなると思っていたのを修正しなくてはならない。
 地道に血縁からだと結論してアルカナ大公系の家閥の子供達を捜し、失敗し、今はもう一つの大公家アイリュス系の子供達を辿っている。この二つの大公家は以前から姻戚関係を複雑に結んでいる。お互いに血が入り交じっているのだ。
「殿下、卑才思うところがございますが」
 マルエスの声が囁く。皇子は許すと歩きながら呟いた。
「―――ラウール大公という可能性はございませんでしょうか。……つい5年前に家門を取り潰されてございますが、当主は現在生きておれば殿下よりも一つ、年下であったように心得ます」
「……ラウール、か」
 皇子はその可能性に気づき、大きく頷いた。それは確かにあり得る話だった。
 ラウール大公家は5年前に当時の当主が死去し、その息子が幼くて家を後継できないことを理由に完全に断絶を宣言され、全ての利権を取り上げられている。これは国政に深く関わるアルカナ、アイリュス両大公家の意向であった。
 200年ほど前のラウール大公家系の高位貴族が乱心し、当時の皇帝を人質にとって籠城した事件を以てラウール大公家は凋落の道を辿り始めた。
 この事件の真相は未だに闇の中であるが、どうやらアルカナ家の陰謀であったらしいことは当時から囁かれており、確証はないが皇子もそうであろうと考えている。
 アイリュス大公家はラウールを蹴落とすことに関してアルカナと結託し、事件の後はラウールという家名を貶め続けることに熱心だった。
 アルカナもアイリュスもここ500年ほどの間に隆盛してきた比較的新しい血筋だ。この国で尤も古いのは勿論皇族であるエリエアルの姓を抱く一族だが、それと同じほどの古さを誇っていたのがラウール大公の血脈であった。その開祖は建国の功臣にして始祖大帝の寵臣であったケイ・ルーシェンである。
 嫉妬と呼ぶには余りにも暗い情熱であったが、古い国の古い血筋を以て儀式や慣習に深く食い込んだ一族を追い落とさねば、アルカナもアイリュスも長く国の根幹に止まることは出来なかったであろう。貴族間の勢力の引き合いであると一括出来る話であり、結果アルカナとアイリュスは勝って未来を手に入れ、ラウールは負けて遂に消えたということなのだ。
 5年前に当主が死んだとき、アルカナもアイリュスもようやく時期だと思ったのだろう。既にラウールの閨閥の家門は散り散りになり、いくつか残ってはいても結託をしていない。
 復興を目指す勢力がなくなるように両大公家は時間をかけてラウール大公家を腐らせていった。後継者が幼いのであれば同じ家門閥の中から後見人を立てて成人である15才を以て正式に襲名という手続きで十分であったはずだが、既にそれを幼い子供のために唱えてやる正論者はいなかったのだ。
 ラウールか、と皇子は今度はやや低く呟いた。アルカナやアイリュスなどよりもラウールの方が血が古く、始祖大帝の頃から連綿と続く一族であるからには皇族との婚姻も両家とは比較にならないほど繰り返されている。似ているとしても不自然であるとは思えなかった。
 なるほどね、と皇子は深く頷いた。その可能性は確かにあった。
「ラウールの子供は確か、行方不明だったね……」
 極秘裏に暗殺されたのだという噂が一時流れていたと後で知ったが、誰もその生死の決着を知らない。逃げて今でも生きているとしたら、それは確かに戸籍を偽るべきだし性別さえ誤魔化すべきだ。用心深くもなろう。何より、皇子へ向けた彼の視線の複雑そうな色を説明できそうだった。
「ラウール……確か、キエス……と言ったね、マルエス?」
「は、記録には確かにそのように」
「……探せるか、キエス・ラウール?」
 恐らく、とマルエスが軽く腰を折る。皇子はほっと唇をほころばせた。
 どこの誰かも分からなければ捜索はしらみ潰しというほどに労力を使うが、それが判明しているのならずっと作業は楽になるだろう。皇子は彼の正体を見つけた気持ちでどことなく安堵を覚えた。昔から分からないことがあるのが無性に不安なのだ。
 それと、とマルエスが続けたのがだから皇子は意外であった。視線を向けるとマルエスは僅かに恐縮したように会釈をした。それを手で制して皇子は続けるように促す。
「それと殿下、子供一人では何かと出来ぬ事の方が多いと思われます。誰か大人が……恐らくお探しの相手には親と認識されている大人が共にいるのではないでしょうか。行方不明者の捜索の年齢の幅をお広げになってみるのは如何でしょう」
「そうか―――そうだね……マルエス、有り難う。そうしておくれ」
 親という概念を全く失念していたのは自分の感覚に近くないからだろうかと皇子は思い、苦笑になった。
「ならば学院に残る『彼女』の戸籍を調べてご覧。彼の方は性別は偽りだったけれど、保護者の方はそうはいかない。共にいる相手の性別が分かればお前たちも楽だろう―――ああ、もういいよ」
 目に夏宮の涼しげな姿が入ってきて、皇子は言った。魔導士の黒い衣は夏の光景の中では奇妙に浮き上がる違和感であった。
 昔ながらの慣習に従い、魔導士を猟犬以下のように扱う人々もいる。会話が出来る相手を皇子は犬だとは思わないが嫌がる者もいたし、第一子供にはあまり受けが良くない。怖がらせてしまうからねと言うと、マルエスはそっと笑ったように空気をぬるませて消えた。姿を隠しただけで実際は側にいるのだが、それでも見えているよりはいいだろう。
 そんなことを思いながら、皇子は露台から自分を見つけて手を振っている弟達に軽く手を挙げた。異母弟である第2妃腹の皇子二人が避暑地から一緒に王宮へ戻っているのだ。ラインも含めて3人で、どうやら自分を待っていたらしい。
 何の遊びの相談だろうかと皇子は思い、池での水泳だけは勘弁して貰おうと考えながら宮の扉に手をかけた。
 昼間をようやく迎える妓楼の中は白けた明るさが漂っている。店棚の格子窓には全て簾が降り小間使いたちが夕方からの営業に向けて立ち働いていて、活気はあるがからんとした空気が支配していた。
 その合間を抜けて遊女たちは食堂や針部屋へてんで勝手に集まってくる。乾いた明るさは遊女たちが殆ど素顔で、化粧気も飾り気もない素のままの個人に戻っているからかも知れなかった。
 食事は部屋で取っても勿論構わないが、気のあった女たちは大抵こうして食堂で一緒に昼食を取る。夕食は客から奢られるものであるから、実際何時になるかは分からない。
 リィザが食堂で昼食を取るようになったのはごく最近のことだが、新しく遊女になる娘は今は彼女しかおらず、他の女たちは概ね彼女に優しかった。
 同姓という気安さの連帯なのか、それとも自分たちが通ってきた苦悩の中に未だに住んでいる彼女を哀れんだのか、そのどちらだとしても、リィザは「ねえさん」たちからの細やかな愛情を感じるほどにはこの妓楼になじみ始めている。
 一番彼女に口を開くのはシアナという少女であった。無論それは本名ではなく遊女としての源氏名だが、チェイン王の宴席の晩にリィザへ乱暴を働いた少年たちに氷をぶちまけて救ってくれた遊女だ。
 シアナはリィザが来たのが単純に嬉しいのだろう、こと良く彼女を構った。口調は素っ気なくてきついが、さして嫌みであるつもりが無いを理解すれば、その裏の不器用でぎこちないリィザへの興味に気付くことが出来る。
 同年齢である共通に何かを見いだしたいのだろう。
 薄茶色の髪は昼間の光の下では琥珀が輝くような色味に淡く煙り、翡翠をはめたような美しくまろい緑の瞳と整った輪郭線が同性であっても目を引きつける。
 シアナには美貌の恩寵のままに既に複数の常連客がついていて、その中で最も彼女にとって重要で妓楼にとって上客と言うべきはチェイン王ライアンであるようだった。
 あの宴席もライアンがシアナと馴染んでいるからこそこの妓楼を選んだようだ。妓楼はタリア内の組合の規定で客の個人情報を徹底的に秘匿するが、遊女たちの目にも明らかにライアンはシアナに3年通い続けている男であった。
 自分の女の株を上げてやろうという彼の思惑なのだろう。
 このところ、あの晩のことが縁でリィザはシアナと昼食が多い。シアナは更にミアというこの妓楼一番の娘によくなついており、自然その集団に混じることが多くなった。
 シアナはつっけんどんと言っても良いような口の悪さだが、ミアの方は柔らかに優しい。声音のとろけるような甘さが心地よかった。
「……この子は、本当にライアンばっかりだから」
 ミアの声が可笑しそうにころころと笑っている。シアナは端麗な頬の曲線を思い切りぷうと膨らませ、だって、と唇をとがらせた。
「だってねえさん、ライアンより綺麗な男なんか見たこと無いもの―――ねぇ?」
 ふっとシアナの視線が自分に向いてきて、リィザは微かに笑って首を傾げた。
 宴席で見かけたチェイン王だという青年の顔立ちは確かに小綺麗にまとまってはいたが、それよりも圧迫さえ覚える存在の重圧感と痛みを覚えるほど冷えた視線、その二つが合わさって出来る永久凍土のような荒涼とした空気だけが吹き付けてきたことだけしか思い出せない。怖いというのがリィザの感じ取った全てであり、それ以上ではなかった。
 それでもシアナの喜ぶ顔も見たくてリィザは記憶の中からライアンの面差しを恐る恐る引き出す。それは今まで見た誰よりも確かに整ってはいたが、陰鬱で、やはり瞬間的に目を閉じてしまいたくなるほどに恐怖を引き起こすものだった。
「……ライアン様、ええ、確かに綺麗な方ですよね」
 やっとそれだけを返答すると、シアナの方は得意そうな笑顔になった。彼女にはそうした自信に満ちた、ややもすると驕慢といって良いほどの傲岸な笑顔がよく似合った。華やかな顔立ちが一層際だつのだ。
「でしょ? ―――ね、ほら、これ……ライアンに貰ったのよ」
 シアナは一層得意満面という表情で自分の髪をまとめていたかんざしをすらりと抜いた。
 それまで髪に隠れて見えなかった柄の部分は透かし抜きになった黄金の蔦唐草文様に縁取られた翡翠であった。飾りの部分はやはり翡翠、こちらは唐草とあわせた芙蓉花がくりぬかれた贅沢な品だ。
 精緻な細工、おそらくは本物の金に翡翠、どれだけの品なのか見当がつかない。
 リィザが見入っていると、シアナは得意そうに吐息で笑った。
「あたしの目の色が緑だからね、それで翡翠なの。柄の飾りは髪の色と合わせた琥珀がいいって言ったんだけど、それは細工がとても難しくて探せなかったんですって。でも黄金ならいいわ、―――似合う?」
 とりとめもないことを話しながらシアナは器用に髪を元のように結い上げて、かんざしで固定した。シアナの言うようにその翡翠は彼女の瞳から吸い出されてきたような美しい色合いであったから、リィザは深く頷いた。
 自信に満ちた微笑みを浮かべているシアナは本当に美しく、同じ年齢であるとは信じられないほど大人びて華麗であるように思われた。
 リィザの返答に満足したのだろうシアナはリィザの黒髪に手をやって、櫛を丁寧に通して頬の横側を軽く編んだだけの髪型を崩し、せっせとそこを編み始めた。
「……何が似合うかって難しいけど、あんたの場合は髪が黒いから真珠がいいわ。きっと黒髪に雪花がかぶるみたいに綺麗に映えると思う」
 シアナが視線で同意を求めたのか、そうねとミアが優しく頷いた。
「私たちは衣装は決められているけど、髪や装身具は特に決まりがないから好きにしていいのよ。リボンも花も、みんな大好きでしょう?」
 はい、とリィザは頷く。
 遊女たちの衣装は決まっている。いずれ遊女となる娘は白、体を提供しない下働きは黒、遊女たちは赤地に装飾は金糸、そして月が満ちる期間だけはくすんだ赤い絹地。身につける色が決まっているせいで、却って女たちは金糸の刺繍の具合に気を遣ったし、髪を飾るリボンや造花に熱中している。
 シアナが今リィザの髪に編み込んだ造花もその内の一つだ。
 リィザは水揚げを待つ身であることを示すために白以外の色は身につけることが許されていない。だから造花は白、優しく愛らしい鈴蘭に白いレースのリボンが絡んでいる。鏡の中の自分の髪には確かに彼女たちの言うように、白が良く映えた。
「だからお前にね、水揚げが済んだらみんなで髪飾りをわけてあげるわ。みんなから少しづつ贈ることになってるの。この店の習慣よ―――覚えておいてね」
 リィザは曖昧な返答をして俯いた。ミアの言葉もシアナの見立ても、自分の水揚げが近いせいなのだろうかという淡い恐れを連れてくる。
 涙の一件を女将は殆ど叱らなかったが、その代わり娘たちからは一斉に呆れ加減の馬鹿ねという言葉を聞いた。その大半には軽い哀れみも込められている。
 リィザの顔が曇ったのにまず気付いたのはミアで、ミアの表情からシアナの方もそれを悟ったようだった。
 あんたね、と髪を弄る手を止めて、ひょいと横からリィザの顔をのぞき込む。間近で見ても欠損一つ無いシアナの肌はなめらかに輝くようだった。
「いい加減、覚悟しちゃったら? どんなに拗ねたって泣いたって、あんたはあたしたちの仲間になるんだからさ。……水揚げが済んだらあたしのリボンからあんたの好きなのをあげる。口紅と頬紅も、あたしたち肌の色が殆ど同じくらいだからきっとあんたにも似合うよ。ねえ、もっと楽しい方のこと考えよ?」
 ね、と笑顔で念を押されてリィザはどうにか微笑んだ。シアナの意図もそれが気遣いだということも分かるのに、素直に頷いて流れに身を任せてしまうには覚悟が出来ない。最初の日にすくんだままになってしまった心が、どうしても折れないのだ。
 自分がこんなにも彼を恋うていたのかと思うのはこんな時だ。せめて思い出になるようにと持ってきた硝子の小鳥を部屋の鏡台の脇に見つける度に泣きたくなる。それが美しい過去であればあるほど、哀しく見えてくるのが辛かった。
 だが、黙り込んでしまったリィザに明らかにシアナは不機嫌になった。彼女は機嫌の善し悪しがすぐに顔に出る。リィザが自分の言葉に不承であることが気にくわないのだ。
「何よ、すぐ浸っちゃってさ……本当の、本当に、抜け道はな、い、か、ら、ね!」
 シアナはそう吐き捨てるように言い、編みかけていたリィザの髪を放り出した。ばらけた髪が頬にかかる。
 リィザは振り返って面白くなさそうにつんと唇をつきだしているシアナを見つけた。目が合うとシアナは不機嫌そうに視線を逸らし、ことさら取り繕ったような無表情になった。その顔立ちに何処か見覚えがあるような気がしてリィザは目を細め、それから納得して微かに声を上げた。
 彼女は似ているのだ。ライアンといったはずの、あのチェインの王に。
 シアナの方が格段に表情が豊かで性別と年齢の差があるが、彫りが深くてくっきりした顔立ちや面輪全体に漂っている空気が酷似している。
 髪の色が余り変わらないのもその印象を深める一因であろう。瞳の色まではリィザのいた位置からは見えなかったから、それは分からないが。
 リィザは思わずじっとシアナに見入っていたようだった。同い年の遊女はその視線に居心地悪そうに身じろぎし、何よ、と不満声で言った。
「いえ、あの―――」
 何でもありませんと言い掛けてリィザは言葉を飲み込む。シアナが曖昧な誤魔化しを好かない性質であることは既に知っていたからだ。
 あれほど好きな男に似ていると言われれば不機嫌にはならないだろうとリィザは思い直し、暗く凍えかけた頬を懸命に動かして微笑みを作った。
「ただ、シアナねえさん、ライアン様に似ているなって……」
 それを言い終えない内に、シアナがいきなり口を歪めてうるさいと怒鳴った。驚愕で思わず固まってしまったリィザの髪から編み込んでいた白い造花をむしり取り、シアナはぎゅっと唇を噛んだ。
 その顔色が怒りにか別のものにか赤く染まっていく。
 自分がシアナのどの部分の急峻な激高に触れてしまったのか分からないままで、リィザは取り繕うためだけにごめんなさいと口にしかけた。
 それをやんわり遮ったのは白い手だった。唇を塞いだ手がそのまますっと自分を抱き寄せ、香の種類でミアだと分かる。
 ミアはリィザを包むように後ろから抱き、シアナ、と強い声を出した。
「―――いもうとを、理不尽に怒っては駄目よ。かあさんだっていつも言ってるでしょう、理由があって叱るのはいいけど、怒っては駄目、いいわね?」
 シアナは頬を紅潮させたまま、じっとはたき落とした白い造花を睨んでいる。その時間が気の遠くなるほど流れた頃、やっとこくんと一つシアナは頷いた。
「……ごめん」
 低くそれだけ呟いて造花を拾いもせず、自分の部屋へ走り戻っていくシアナにリィザは何を言っていいのか思いつかなかった。
 シアナの姿が遊女部屋へ通じる回廊へ消えてしまうと、ミアは抱擁を解いた。彼女からはいつでもふんわりした香と化粧の混じった仄かな薫りがした。
 ねえさん、とミアを不安に見やるとミアは仕方なさそうに微笑んで、首を振った。
「あの子には、ライアンと似ていると言っては駄目よ。それをとても気にしているからね。この前の宴席の時にでも教えてやれば良かったわ」
 何故であるのかをミアは口にしなかった。それは彼女も知らないのか、それとも告げる気がないのかどちらであるかは推し量れないが、少なくとも誰かに聞くことの出来る種類でないことを理解すればそれで良かった。
「……シアナねえさん、いいんでしょうか……?」
 ただ、自分が彼女を酷く傷つけてしまったのだろうかと思うと胸が痛い。
 あれほど馴染ませようとし、可愛がろうとしてくれるシアナに対して申し開きの出来ない仕打ちをしてしまったような罪悪感が深く自分を刺し貫くようで、リィザは痛みのために深く呼吸をした。
 ミアは再び困ったように笑い、周囲の女たちを見回した。
 彼女たちもまた、シアナの怒りの顛末を息を潜めて見守っていたのだと分かったのはそのときのことだ。ミアの視線に重い空気がなぎ払われていくようにか、ようやく彼女たちから忍び笑いのような、微かな苦笑がこぼれ始めた。
「仕方ないわ、知らなかったんですもの」
「シアナはちょっとかあっとなる子なのよ、悪気はないから放っておきなさい」
「ライアンのことはあの子が言い出した時につき合ってあげたらいいから」
 一つ一つに頷きながら、リィザはやっと人心地ついたように体を楽にした。ぬくやかな女たちの言葉にも、シアナの怒りにも、女ばかりの格子の中の王国の、自然な流れがあった。
 いつか自分もその中に入らなくてはいけないのだろうか。そんなことを思うとリィザは溜息がこぼれそうになる。
 それを誤魔化すために身をかがめて鈴蘭の造花を拾っていると、ミアがいらっしゃいとリィザを手招いた。
「―――シアナを許してやって、嫌わないでね……あの子は言いたいことを言うけど、嘘をつくほど姑息じゃないの。それがとても良いところなのよ」
 はい、と呟くとミアはほっとしたように笑い、シアナが滅茶苦茶に崩してしまったリィザの髪を改めて編み始めた。
 他の遊女が自分の化粧箱の中から白菫の小花のついたリボンを、更に他の女は大輪の百合を彫り抜いた象牙の腕輪を、それぞれ貸してあげるわと寄越してくる。
 そうやって飾り立てて化粧を薄くはたけば、鏡の中にいる自分はそれまでのどんなときよりもましに見えた。
 この姿を少年に見せることが出来なかったのが不幸なのか幸いなのかリィザは考えようとしたが、思うだけで哀しくなるのはいつもと同じだった。
 彼にはもう会えないかも知れないという薄い恐怖は日ごとに重くなってきている。
 否、それよりも……遊女として帝都にいることを知ったら彼は一体どんな顔をして何と言うだろうか。
 自分を蔑むなら辛いし、哀れむなら尚辛いし、それでも変わらず好きだと言ってくれたら―――多分、それが一番悲しいだろう。
 いくら思考を重ねても、辿り着くはずだった幸福の彼岸は遠く、既に遙かに霞んで見えなくなっている。彼の手がそこへ導いてくれると信じていられた無邪気な未来への絶対信頼は、不意打ちに崩れてしまったのだった。
 暗くなりがちな思考を、リィザはそれでも振り切ろうとする。遊女たちは優しく、女将は厳しいながらも情理の通る人柄で、自分は恵まれている方なのだ。
 妓楼でも酷い場所になると部屋らしい部屋もなければ、日に幾人もの客を無理矢理取らせることもあるのだと他の遊女たちの眉をひそめた訳語りで学んでいる。更に女を道具としてしか扱わないような娼窟になると、薬を使って3年で廃人にして顧みないらしい。
 タリアの大通りから1本入った辺りのこの妓楼は、遊女の揚げ代は大きな棚よりは手頃で娘たちの管理はしっかりしている。少なくとも、女将があたしの娘という時はきちんとした情を感じることが出来た。
 だから、自分は運がいいのだ―――恐らくは。
 生きていけるだけで幸福だと素直に信じていられた日々、自分はきっととてつもなく稚なかった。人生は連綿と続く日常そのものであって、それ以上のものではなかったのだ。
 首を傾げると、鏡の中の着飾った少女が同じ仕草をした。黒い髪にさやさやと触れて揺れる白菫の飾りが愛らしい。
 それを愛でるのが永遠に少年ではないだろうと思うと、ひどく息苦しくなる―――
 リィザは首を振った。周りからこれほどに気遣われて優しくされて、なお自分一人がかたくなに全てを拒否できるとは既に思うことが出来ない。足らないのは覚悟なのだ。
 もう彼には会えないのだと認める覚悟、これから先しばらくをこの妓楼で過ごしていくための覚悟、そして未知なるものへ闇雲に身を任せてしまう覚悟、それとも全てを放擲して天窓からでも身投げしてしまうというような、思いに殉じる覚悟も。
 じっと鏡を見据えたまま考え込んでいるリィザの頬を、そっと撫でた指先はミアだった。先輩の遊女を見上げると、彼女は淡く悲しげな陰をまつろわせて笑っていた。
「……また彼のこと、考えてる」
 それはその通りで、リィザは気恥ずかしさのために赤面して俯いた。いつまでも自分一人がぐずぐずと思いめぐらしても状況は変わらないのだから。
 羞恥の仕草をミアは笑わない。ますます優しげに笑ってそっとリィザの手を握り、囁いた。
「忘れなさい」
 きゅっとその瞬間にきつく握りしめられたやわい痛みを、リィザはきっと忘れないだろうと思った。
「忘れなさい、もう会えないわ―――いいえ、会わない方がいいのよ」
 頷きたい、とリィザは思った。
 ここでひとつ、こくんと首を動かして気の済むまで泣いてしまえば何かが遠い河へ滑り落ちて涙の海へ落ち着くように、想いの漂う海へ還るように、きっと何かが軽くなるだろう。それが分かっていても、どうしても、どうしても。
 彼が好きだという気持ちが恋であるのか愛であったのか、もう分からない。確かめるすべは残っていないのだから。
 ずっと以前、もう殆ど思い出せないような昔に思える過去、リィザは名も知らぬ神へ祈っていた。他人に話せない大それた、密やかで重大な望みを口にする時にすがるものはそれしかなかったのだ。
 そしてその神への祈りは少年の名を呟く事へすり替わっている。
 彼との恋だけが、彼女の希望だった。それが潰える瞬間さえ分からなかった。
 それが誰の罪なのかリィザには判断が出来ない。いっそ自分が全てを背負い込んで卵殻に籠もる雛のように、世界から巣籠もってしまえばいいのかもしれなかったが、それもまた覚悟が―――性根が、足らない。
 何もかも中途半端に足らない自分こそ、最も罪深いのかもしれなかった。
「……ねえさん、私……」
 握られている手の暖かさに泣き出しそうになりながら、リィザはミアを見上げた。ミアは首を振り、先ほどよりももっと優しい声を出した。
「会わない方がいいの。もう、忘れなさい。苦しいと思うなら心を眠らせて、綺麗な夢を見るといいわ。次の朝に目が覚めるまで、うんと綺麗で楽しい夢を」
 ミアはそんなことを言って、リィザの目をじっとのぞき込んだ。
 夢、とぼんやりリィザが繰り返すとミアはそうよと深く頷いた。
「私たちが夜眠るのは次の明日を生きていくためなのよ。そのために人は眠るの。どんなに辛い夜でも夢を見て癒されれば、きっと次の朝にはまた生きていけるから」
 リィザにとって今が明けない夜であるならば、次の朝を目覚め生きていくために心の目を閉じて夢に遊んでも良いのだとミアは言い、そして囁きよりももっとさやかな声で呟いた。
「みんな、好きな人くらいならいるのよ……大好きな人がいるなら幸福よ。巡り会えただけでもいいんだって、そう思ってる……でも、もう会えない人を思うのはおよし。いつかきっと、これで良かったんだって思えるような恋をまた見つけられる。そんなに好きな人に出会えて恋が出来たんだもの、あなたは幸福なのよ。過去だけは自分が幾らでも綺麗に繕える、誰にも持って行かれないものだもの」
「わたし……」
 リィザは呻くように言った。
「私、若様に会いたい……会いたい、会いたい、会いたい……会いたい……」
 繰り返して呟くと、一層それだけが全てであったのだと思い知った気分だった。
 彼にもう一度だけ会いたい、会ってさよならを言いたい―――いいえ、それよりも。
「私、若様のこと、大好きでした。本当に、好きだった……」
 本当に言いたかったのはその感謝だったかもしれなかった。それを告げたいと思った時には既にこの赤い格子の中の小鳥として生きていくことが沢山の他人の思惑で決定してしまっていて、リィザにはどうする術もなかった。
「ありがとうって言いたかったんです……こんな私でも、好きになってくれて、嬉しかったって……本当に幸せだったって……」
 そうね、とミアが握り込んだ手をさするように撫でた。
 はい、とリィザは頷き、ねえさん、と顔を上げた。
「でも、もう、会えないんですね……?」
 ミアはゆっくりと、しかし確実に深く頷いた。リィザもまた頷き返した。
 誰かがはっきりと口にするまで、認めたくなかった。夢を見るような未来がまだあると信じていたかった。白昼にも目を開けてみる種類の夢を見続けたかった。
 でも、それはもう自分の元には返らない未来なのだ。
「あの人に、もう、会えない……」
 口にした瞬間に、それはざあっと流れ落ちてくるように身の周囲に現実として降った気がした。リィザは微かに肩を震わせて、きゅっと唇を噛んだ。遊女たちが丁寧に入れた紅のにおいだけが鼻についた。
 不意にミアが彼女を抱きしめた。彼女の化粧の薫香に誘われるように最初の涙が落ちた瞬間に、リィザは声を上げて身を崩しながら年上の女にすがりついた。
 小間使いの少女が来客を告げた時、女将はちょうど帳簿をつけ終えて一服を始めるところだった。煙草は振り出しの妓楼にいた頃に覚えたが、悪い習慣だと思いつつも手放せない。来客といっても気兼ねするような仲ではなかったから、女将は煙草に火を入れながら、手振りで適当に座るように客に促した。
「かあさんが用事っていうのは珍しいね」
 そんなことを笑いながら言って女将の前の椅子に腰を落とす男も煙草のみだ。暫く二人で向き合って黙りこくりながら煙管をいじりあっていれば、いつものようにぬるく空気はほどけていくものであった。
 この男が自分を名で呼ばなくなったのはいつ頃だったろうと女将はふと思い、所々に白いものが混ざり始めた鬢を見やる。
 お互いに出会った頃は10代の若さであったが、年月の神というものは容赦がない。男からは脂気を、女からは水気を、それぞれ等しい量、奪っていく。
 うんと遠い昔はこの男の肩に爪を立てたこともあった。けれど遠景の中の陽炎のように、それは既に霞んでいる。
 一体それがどんな気持ちであったのかを説明することは難しかったが、自然と体が離れていくに従って、心は近くなっていくのは不思議だった。あるいは沢山の修羅場を同時に見た悔恨と歓喜が強く自分たちを結んでいるのかも知れない。
 いずれにしろ、今は既に自分は瑞々しい奢りと華やかな驕慢の中にあった遊女ではなく、男もまた上だけを睨むようにしてぎらぎら輝いていたタリア王の若い幹部ではない。お互いに未来が自分の良い方に転がっていくと頑なに信じていた時代は終わったのだ。
 そんなことを思って女将はふと鼻で笑った。自分もずいぶんと老けたものだと思ったのだ。
 ほんの10年ほど前まで自身の馴染みの客とも時折寝るくらいはしていたはずなのに、まるですっかり干上がった年寄りみたいなことを。
 けれど、店棚にいる年若い娘たちが繰り返す恋情沙汰の一つ一つがいつか自分が見ていた過去の光景と重なって、自分の経験からひいては年齢までを感じることも多い。
 結果も結末も分かっているはずなのに娘たちの真剣な愛情を一息に切り捨てることが出来きずに却って苦しめてしまうこともあると、分かっていながらの自分の甘さに再び女将は苦笑になった。
「今日はご機嫌だね、かあさん」
 男が煙管をいじりながら言った。女将はそうだねえと笑い、一服吸ってからあのね、と切り出した。
「あんたに見て欲しい娘がいるんだよ」
 男は煙草を続けながらふん、と何度か頷く。あの白い衣装の子だねと言われれば頷いた。
 見て欲しいという言葉には気に入ったかどうかを尋ねる意味が含まれている。だとするならそれは水揚げ前の娘についての話である以外にはなく、今この妓楼には見習いは一人しかいない。この店の一番の揚げを誇っている娘の説得で、やっと客を取ることに同意してくれたばかりだ。
 未だに痛々しく目を腫らしたまま起きてくるのも、仕方あるまい。いずれにしろ、何にでも人は慣れていく動物だと信じる他はなかった。
 だからそれには頓着しないふりでてきぱきと水揚げの準備を進めてきたが、肝心の入札が入らない。例えばシアナの時には数件の入札があって比較的高い値が付いたものだが、本人が人目を引く美少女というわけでもなく、明るく客に愛想を言うでもないのならば、これは諦めるしかなさそうだった。
「……若いよね。いくつ」
「14。男は知らないから、まあ、なるべく優しくしてくれるのをと思ってね」
 タリアの男には奇妙にゆがんだ性癖を持っている者も珍しくない。外から来る客などはそうでもないが、タリアの内側の抗争に身を置いていれば緊張の解ける瞬間には何かがたわむのかも知れないと女将は思っている。
 最初から娘たちにそんな応用問題を解かせるつもりがないのは確かだったし、この男がごく普通に女を扱うことも知っていた。
 若い連中のうち宴席で親しげに話していた隻腕の男でも良かったが、後で他の娘に聞いたところによるならば、彼女は他の無軌道な少年たちの悪戯に衝撃を受けていたようだった。だから女将は彼女が宴席で泣き出してしまったことを殆ど叱ることが出来なかったが、若い男はこの際しばらくつけない方がいいかも知れない。
 適度に油の抜けた優しげな中年男の方が、恐らくは彼女を安堵させるだろう。父親は記憶にないと言っていたから、いっそそんな風にでも慕ってくれさえしたら。
 女は大切な商売道具であると同時に女将にとっては娘でもあるのだった。
「彼女ねえ……かあさん、どうしてあの娘を買ったんだい」
 意外なことを聞かれた女将がどうして、と聞き返すと男はいや、と苦笑気味のような曖昧な顔になった。
「かあさんの好みじゃないからさ―――あんたは昔から、明るい娘が好きだったろう。割とね。だからちょっとかあさんの趣味に合わないような気がしてさ」
 別に彼女がどうこうじゃないよ、と付け加えて男は煙管をくわえた。
 男の言いぐさに女将はそうかも知れないと何度か意味無く頷いた。
 確かに女衒の男たちが連れてくる少女たちのなかから自分は明るくて快活な娘を取る傾向にある。というよりも、宴席の座持ちのことなどを考えていると自然とそんな娘が増えてきたという方がいいだろうか。
 ただ、と女将はあの少女の笑顔の印象を思い出す。それまでは平凡といってよい顔立ちに見えていた少女が、微笑むと何かが切り替わったように愛らしく見えた。
 笑顔が良いというのは女を口説く古典のような文句だが、その究極に強力な形を見た気がする。
 大人しげな風情、大きな瞳、黒い髪。多分これらが全て完全に調和したならば、女神の如く崇められなくとも、天使のように愛されるに十分だと直感したのだ。
 それに、連れてきた女衒の男は基本的には大通りのもっと大きな妓楼に出入りしている。時刻は既に夕方を過ぎて妓楼の長い夜が始まった後、女衒は本来客のいない時間に娘を連れて売り歩くものだから、自分の所へくるまでに大棚を相当回ったに違いない。
 女衒は彼女をもっと大きな店へ入れようとした―――それだけの価値があの少女にあると踏んだのだ。その読みを、女将は信じている。
 そんなことを女将は煙草の合間に説明した。男は既にタリアの住人ではないが、元はタリア王の配下であるから妓楼の仕組みや女衒の勘は知っている。
 女将の言葉が終わるのを待って、男は頷いた。
「まあ、いいさ。かあさんに貸しとくよ」
 水揚げを引き受けたことを簡単に告げて、男は煙草の火種を灰皿に落とした。
 男の年齢からして、怯える娘を宥めながらの破瓜の儀式はそろそろ気が重くなってくる頃だ。それには粗野な衝動が要るが、脂が抜けていくにしたがってそうした部分もまた、落ちていくものだ。
 だがこの男に頼もうと思いついたのは決して間違いではないはずだと女将は考える。タリア王の元に出入りしていた頃の男にはなかった余裕と穏やかな優しさが、彼がタリアをでてから20年で身に付いた結果だとするならば信じるに足りた。
 いつ、と聞かれて来月の頭にはと返答する。その直前に少女の月経が終わるから、それを待つつもりであった。
「……優しくしてやっておくれよ。無理はさせないで。最初の男で全てが決まるとは思ってないが、ある程度の価値観は決まるからね」
「分かっているとも。かあさんの信頼を裏切るようなまねはしないよ」
 男は仄かに笑った。
 灰を切った煙管を丁寧にぬぐい、腰のベルトから差し込むのは煙草をする男たちの大体の習慣だ。次の一服を始めないと言うならば、男はもう帰るつもりでいるのだろう。
 場に現れてからさほど時間はたっていないが、男は忙しいのは知っているから引き留めるつもりはなかった。
 女将は立ち上がって応接室の扉を開けてやった。昔はタリアの中でも修羅と呼ばれて憚らなかった男の背は同じような高い位置にあるが、以前のような体全体から発散されるような蒼い凄味は消えている。
 20年前に彼は突然人の諍いに愛想を尽かして修道僧になってしまったのだ。その心境の変化を男は気が向いたのだと笑ったが、きっと何かがあったのだろう。
 それが何かと聞かないのも言わないのも、自分たちの間にある信頼がそうさせている。僧職に水揚げを頼むというのも奇妙な話ではあるが、男が承知したならよいのだろう。
 帰りしな、男は思いだしたように幾ら、と聞いた。女将は少し思案顔にしてから言った。
「200で全部揃うようにしておくよ」
 水揚げには揚げ代の他にも祝儀や花や記念の衣装など、細かなものが沢山入り用になる。それを全部で200で揃えるというなら、こちらから頼んだ負い目を差し引いた程度の勉強はしたということになる。
 だが、男は明るく笑った。彼の笑顔の嫌み無い朗らかさだけは、ずっと変わらないものであった。
「いいや、かあさん。後100、出そう。それで少しは良い花と良い衣装を揃えてやっておくれ」
 女将はありがとうと呟いた。男は軽く笑い、ふと真面目な顔つきで女将に向き合った。
「あんたとつるんでいられるのもそろそろ終わりかもしれんからな。どうやらこの秋には北部へ出向だ―――やっと、正式な教師免許が降りたからね」
 そう、と女将は頷いた。地方の教会は大概、子供たちのための初等学校を兼ねている。そこで教鞭を執るのは神職者であるのが普通だ。
 男が以前から人生の最後をどこかの鄙村で穏やかに過ごしたいと望んでいたことを女将は知っている。教師免許を持って地方の教会へ出向するというのなら、望みが叶ったことになるのだろう。
 だから女将はおめでとうと言った。男は軽く頷いた。
「だから、これがかあさんにしてやれる最後かも知れないと思ってね―――どれ、娘はどこに? 少し話をしていこうか……源氏名はなんと」
「リーナ。矢車草の淡い紫」
 女将はゆっくり言った。本名が矢車草を意味するリィザであるなら、そこから派生する薄青紫の色名を与えるのがいいだろうとここしばらくで出した結論である。本名とさほど変わらない呼び名を与えるのも習慣であったし、その響きは彼女には似合っているように思われた。
 リーナね、と男は繰り返して出ていった。残されて女将は新しい葉を煙管に詰め始める。この習慣だけはどうやら墓場まで持っていくことになりそうだった。男はきっと上手くあの娘を言い宥めてくれるだろう。あの娘が持っていた銀の板は神へ祈る時の道具だし、適当に威圧の抜けた年上の余裕に甘えさせるだけの、男には器量がある。
 娘たちのことはいつでもそれなりに女将には気懸りだった。最初に入った妓楼から身請けされて出ていった先で女将は一人女の子を産んでいるが、実娘は3歳の誕生日を迎える直前に死んでしまった。
 今いる娘たちは、だからみなあの子の代わりだ。死んだ子の年齢を数えるのが如何に馬鹿馬鹿しいかと思いながらも、それは今一番年齢が上の遊女と同じくらいだと知っている。
 身請けされた先の主人が亡くなると保証もなしに屋敷を追い出されたから、タリアに戻ってきた。
 主人の存命中に買い集めておいた宝石などを元手に、タリアのもっと奥の方に小さな妓楼を開いたのは、自分の知る世界があまりにも狭いのだと気付いたからだ。
 娘たちは4人、その全員はもう妓楼にはいない。自分も彼女たちよりも10ほど上であるだけだったから、時折は客も取った。
 そうして生き抜いてきた挙げ句、やっとこの店にまでたどり着いたのが7年前のことだ。
 タリアというのは不思議な町で、これほどの妓楼が建ち並び、女の美しさが一番にまず価値を持って品定めされるというのに、この町で勝ち抜いていく女たちはさほど美しくない。
 無論何を以て勝利とするかで基準は違うだろうが、女将は決して娘たちが夢見がちに語るように恋を得た相手に望まれて幸福な結婚のために出ていくこと、であるとは思っていなかった。
 最初の妓楼を出ていく時には自分もそう信じていたが、普遍や永遠はこの世にない。男は確かに自分の人生に豊かな色彩を与えてくれる。恋も愛も、どんな色であっても眩しく見せてくれる。
 けれどそれは一瞬の所作、年月の大河の中で水泡になって弾け消える夢でしかない。どれだけ美しい色を添えてくれるとしても、その中核にいるのは自分自身であり、染められるのは自分の人生なのだ。相手の男ではない。
 生き抜いていくのに必要なのは自分の意地と才覚で、それだけが娘を亡くしてタリアへ舞い戻らざるを得なかった女将を支えてくれた。女将は年齢を重ねた今でも整った容色を持っているが、自分の美しさになど何の価値も見いだしていない。
 そうしてがむしゃらに生きていた日常の、ふっと空く陥没のような時間には、女将は今まで知ってきた沢山の女たちが押し流されていった赤い奔流を見る。その色が酷く暗く悲しげであればあるほど自分の正しさを確信できるのに、時折は全く反対のことを考えもするのは可能性をさぐる人の本能だろうか。
 女将が思い出すのは決まってあの異国の女だ。南の国から連れてこられた、美しい女だった。最後までこの国の言葉が片言のあやしさのままで、だからこそ一層に可憐であった女。
 恋をして舞い上がってつぎ込んで、裏切られては泣く事を繰り返して最後には運河に身を投げた、ずっと昔の妓楼で一番仲が良かった、あのいもうと。
 彼女の華やかで寂しい人生を思う時、自分は明らかに勝利者であるという自負と共に一抹の羨望を飼う。それは自分が恋に遂に耽溺しきれなかった女であることと密着していることなのだろう。
 あのいもうとの息子も娘も、母親によく似た線のきつい美しさを持っていた。息子の方は2度ほどしか見たことがないが人形のように凛と整った面差しをしており、娘の方は……今は女将の娘だ。源氏名をシアナ、本名をシャラという。
 女衒が連れてきた中では久しぶりに極上の美人になるだろうと買ったのだが、身の上を聞いて不思議な縁に驚嘆した。似ているとは思っていたが、いもうとのようなやや冷たく見えがちな美女は多い。珍しい顔立ちではないのだ。
 シアナか、と女将は深く煙を吸いながら、目をすがめた。リーナのことも確かに案じているが、シアナの先ゆきも別の意味で溜息をつきたくなる。
 シアナもいもうとと同じく恋に身を滅ぼす種類の女だ。少なくとも、その素質はある。ライアンにひたすら入れあげて他のことを構わない狭窄を女将は何度も叱ったし、そのせいで他の客が疎かになりがちなのはすぐに指名の減少につながると他の遊女たちにも散々言われてなお、シアナの性癖はいっかな直りそうにない。
 ライアンがその欠損を派手に埋めようとする結果が数度の宴席という形になって実際は潤っているのかも知れなかったが、女将はその方法も気に入らなかった。土台、それはライアンが彼女を身請けるか彼女を諭すのが一番良いのだ。それを金でうやむやにしてしまう方策が癇に障る。
 これまでも何度か女将はその話をライアンにしてみたことがあるが、彼は身請けに関しては素っ気なく断り、説得に関しては乗り気でなかった。
 ライアンはシアナを自分の異父妹だと思っているのだろうかという疑問は、女将の中ではすぐに否定されるべきものだ。
 確かにいもうとの最初の子はライアンと言い、後に生まれてくるシアナの7歳上の、暗い目つきの笑わない子供であった。いもうとがシアナを生む金ほしさにライアンをどこかの曲芸団に売り払った経緯や、シアナが日ごろ顔も知らない兄の話を聞かされて育っていたことをあわせれば、境遇や年齢の相似から兄妹であると考えることは不自然であるとは思えない。
 だが、ライアンは自分がシアナの兄ではないと知っているはずだ。シアナから聞いたのか女将と彼女の母が古い知己であると聞いて、自分に問うたではないか。
(シャラの兄を見たことがあるか)
と。
 いもうとの息子が名をライアンと言ったことを女将は覚えていたから、そのときに彼がシアナを妹ではないのかと思っているのだと知った。
 だが、自分はすぐに否定したはずだ。シアナの兄である子供を見たことはある、だが、その瞳の色はあの下らない父親と同じ琥珀色だったと返答した。ライアンはシアナと同じ緑色の瞳を僅かに歪め、すぐに分かったと言った。兄妹であることを否定した後にライアンはシアナに通うのをやめるのかと思ったが、そうではなかった。以前と変わらずに姿を見せるのが、不思議でたまらない。
 一体二人はどうなっているのだろうと女将は思うことがある。
 シアナがライアンと自分の面輪の相似を指摘されて怒るのは、それが彼女の胸奥に巣くう不安の根に近いからだ。兄妹だと本当に証明されてしまったらライアンは自分にますます遠くなるだろうという恐怖から、半ば反射のように反応してしまう少女を哀れにも思う。
 ライアンは兄妹である可能性を否定する材料をシアナには一切伝えていないし、女将にもその口止めを頼んでいる。だから二人が馬鹿馬鹿しいことではあるが男女の関係を結んでいないのは女将から見れば明白であった。
 シアナがライアンの特別な女だと吹聴するのは意地でもあろうし見栄でもあろう。
 それに合わせている男の方がどちらかというなら悪いが、それでシアナの気が済むならば黙っていてやってもよかった。
 可哀相だと思うのは、シアナのそうした性格の偏りや脆いくせに高い矜持ではない。人を形作る神というものがいるのなら、何故、丁寧に造形した美女たちに限って内部のねじをいい加減にするような真似をするのだろうということだ。
 そんな女たちを厭と言うほど見てきた。
 とてつもなく男にだらしがない、絶句するほど金銭感覚が荒い、そして呆れるほど純情すぎて頭が悪い―――
 そのどれか一つでも内側に持った麗女は不幸になると決まっている。遊郭にくる男たちの戯れのような言葉に本気になって金がないと言えば揚げ代を自分が肩代わりしたり小遣いをやったりする娘、男に与える金のために必死で他の客の気を惹こうとする娘、そんな娘たちを叱って良かったことなど一つもないが、それでも言わずにはいられなくなる。
 それを言った時に娘たちがいう言葉も決まっている。愛しているのだとか身請けの約束をしただとか。愛している女から金をむしる男などいない、金も持っていないくせにどうやって身請けするつもりなのか、そう言っても大概聞く耳を持たないものだ。
 信じてはならないものを信じて身を持ち崩していった女たちの結末は、大抵聞かない。彼女たちは消えていくのだ。赤い河の先に待ち受ける、黒い闇の中へ。
 シアナもそうやって消えていく運命にある女になるだろうか。女将はそれを思い、自分で否定したいために首を振った。
 少なくともライアンは金払いは悪くない。彼女を悪く利用していないだけでもまだましであると自分に言い聞かせ、それでも気に入らないと不満を呟く胸を宥めるために煙草を飲んで呼び鈴を取った。
 リィザに与える水揚げのための衣装の採寸と生地の選定をしてやらなくてはならない。水揚げの衣装は特別なもの、一度袖を通してそれきりにするものだが、男が多少奮発してくれた分をそちらへ回してせめて飾ってやりたかった。
 幾ら美しく着飾らせても、あの娘の心が晴れやかになるわけではないと分かっていても、してやっても良いことというなら、女将にはそれくらいしか思いつかなかった。

 貸し部屋の主人からの連絡で、チアロはタリアの最浅部付近にあるその場所へ顔を出した。彼とすっかり馴染みになった主人は最上階にある特別室の鍵を彼に放り投げる。それを手早く空中で捕まえて、チアロはありがと、と軽く笑って見せた。
「いいけどよ、チアロ。おまえさんたちがどんな商売しようが勝手だがね、それにしたって限度があらぁな」
 主人の言葉は半ば呆れたようでもあり、そして残りは本気での憂慮であった。無論その気遣いの中には上客に対するおもねりも入っている。チアロはその言葉に浅く肩をすくめ、そして苦笑になった。
「俺もそう思うんだけどね。でもまあ、本人がいいって言ってんだから」
「そりゃあ──そうかもしれねえけどよ。あんまり続くとあのお嬢ちゃん、あと3年で使いもんにならなくなるぜ?」
 本当はお坊ちゃんなんだけどねとチアロは内心で補足し、そして大丈夫だよと明るい声を出した。
「本人は割り切ってる。だからいいのさ。ありがとうよ親父さん、あんたが心配してたって聞いたらあいつも喜ぶかもな」
 チアロの言葉に主人はふんと照れ臭そうに鼻を鳴らし、もういけという合図に顎をしゃくった。深く追求しないのはこの街の住人の習性でもあった。それに今更に感謝しながら、チアロは階段を軽々と駆け上がった。特別室は最上階の全ての面積を使っている。そこは他の客とは絶対に顔を合わせなくても済むようにと配慮された、文字通りの特別な部屋だ。調度も、専用の廊下も、全てが。
 チアロが部屋へ入っていくと、微かに奥から物音がした。いささかの用心のために腰に差した細刃刀に手をやりながら、チアロは寝室へ足を進める。恐らくは彼一人しかいないのだと分かっていても、それは身に付いた慎重さの一端だった。
 果たしてそこにいたのはクイン一人であった。生白い裸身を投げ出すように広い寝台の上にうつぶせになり、じっと動かないでいる。呼吸を示す肩の上下がひどく弱い。意識はあるのだろうかといぶかりながら近寄っていっても、彼はやはりぴくりともしなかった。
 チアロは彼の名を優しく細く呼び、肩をゆすった。反応のなさに不安になる直前に、彼の瑠璃色の瞳がゆるく開いた。それがは僅かに不思議そうに瞬いた後にようやく具象を現実として認識したらしい。唇から掠れた吐息がもれた。
「ああ……ごめん……」
 呟く声の掠れ具合から、彼の消耗の激しさが窺えた。無理もないとチアロは思う。客の具合が混んでいて、彼はこの4日ほどは仕事だけに時間を費やしている。明日は休みであったはずだが、最後の最後ではずれを引いたのだろう。大抵の客はクインの尋常ならざる美貌と唖然とするほど高い矜持に呑まれたようにか彼を大切に扱うが、逆にそれで暗い情熱を発見する者もいる、ということだ。彼は今回は運が悪かったのだろう。
 体に傷がないのはそれをチアロが煩く騒ぎたてるためであって、その制約がなければどうなっていたろうかという想像を一巡まわし、チアロは苦い笑みになった。
 それは自分が考えるだけでも偽善でなかっただろうか。結局、クインの望みであったとはいえ彼の身体を素通りしていく男たちから金を巻き上げる、女衒のような真似であることは確かなのだ。
 クインは体を起こそうとしていたが、なかなか巧くはいきそうになかった。消耗しきった気だるさが全身から滲んでいて、半身をあげるのさえ辛そうだ。それを手伝おうと手を差し出すと、クインははっきりした声で遮った。
「自分でする、から──放って、おいて……」
 それを呟く声音のひどい無力さにチアロは肩をすくめた。それは到底無理だといわざるを得ないが、クインは自分の限界を知らないように試してみるつもりのようだった。好きにするがいいさと半ばは投げやりな気持ちになってそれを見つめていると、やがてクインのほうが仕方なさそうな溜息と共に折れた。
「……ごめん、やっぱり、手、貸して……」
 軽い言い方の中にも滲んでいる口惜しさにチアロは微笑みそうになって、慌てて口の内側を軽く噛んだ。そんなことをしたら後でクインに散々噛み付かれるのに決まっている。気位が高いのは彼の長所でもあり短所でもあった。だから黙って手を貸してやると、クインはのろのろした仕草で体を預けてきた。元々隆とした筋肉がついているわけではないことは知っているが、こんな瞬間は、ぎくりとするほど軽い。自分が酷くむごい事をしているような気持ちになる。
「大丈夫か?」
 思わず口にした言葉にクインはうなだれていた首をゆっくり動かした。
「──大丈夫、じゃねえから、呼んだんだってば……」
 それはその通りであった。自分一人では家まで帰り着けないと判断したクインが貸し部屋の主人へ音声管ででも連絡したのだろう。客はそこまで親切なものは滅多にいない。
「悪い、そうだな。あんまり喋るなよ、体力をやけに食うぜ」
 クインはチアロの言葉に曖昧に喉を鳴らした。分かったという意味に思われた。
 彼が湯を使いたいといったので、チアロは肩を貸して彼を風呂場へ行かせた。足取りは酷く重かったが、自分で行けるだけましというものかもしれない。最初にこんなことがあった時は彼は全身の血が抜けてしまったように真っ青で、目を閉じてじっと動かないままであったのだから。
 客を何かで怒らせたのだというようなことを後から言っていた気がするが、それが何であったかは忘れてしまった。最近は立てなくなるまで相手をさせられることが減ってきたことで、客あしらいというものを覚えていっているのだろうとチアロは思ってきたが──それにしても。
 チアロはそっと彼に捕まって歩く美貌の主を見る。雪のように白く抜ける肌にぽつぽつと散っている紅華が目に痛い。それは確かに好き勝手な陵辱の後でもあったし、愛された痕跡とも言えた。どちらにしろ、彼は愛でられるべき存在であることは確かなのだ。基礎体力の貧弱さとすぐにかあっとなる熱しやすい性質がもう少し改められたなら、きっと今以上に寵児となっていくだろう。その資格はある。
 今この現在にも、幾つか彼を引き取りたいという申し出があるくらいだ。絹と宝石に埋めて溺れるほどに愛しんでくれるという言葉を信じていないわけではないが、本人が是と言わないのだから仕方が無かった。クインの考えていることといえば母親のことばかりで、誰かの稚児になってしまえば母親に対しての面目も言い訳も立たなくなると恐れているのだ。
 黒死病であるとライアンの口から聞いている。それが死病であることも。もう療養所から生きて出ることは無いだろうとライアンは言い、そしてそれをクインには言うなと付け加えた。チアロは頷いた。ライアンの言うことは完全に正しかった。黒死が死病でありなおかつ他人に感染するならば、症状が収まっても決して療養所の外へは出さないだろう。
 そしてクインにそれを指摘するのは酷だ──気づいていないのかもしれないが、いずれ分かるときが来るだろう。その時どうするかは、彼が自分で決めることだ。
 力が抜けているせいで重たい体を引きずるようにし、チアロはクインをようやく陶器の風呂桶の中へ放りこんだ。適当にお湯をかけてやると初めて目覚めたようにぶるりと体を震わせる。髪の黒い染料が落ちて湯船の中はあっという間に黒くなった。
 クインはそれをぼんやり見つめ、不思議そうにも見える顔つきで湯をかき回した。黒ずんだ液体が彼の雪色の肌に染みをつけるような錯覚に囚われてチアロはおい、とそれを制止した。それに素早く片手を挙げて合図した仕草は、いつもの通りの彼の知る小生意気な少年であった。
「──大丈夫」
 先刻よりはよほどしっかりした声でクインは言い、ほうっと溜息になった。吐息はまだ掠れ気味に疲れているが、湯の感触でどうにか自分の位置や現実をつかめるようになったらしい。少なくとも、先ほどまでのような危うい感じはしなかった。自分でこの先を出来るかと聞くと、クインは彼を見上げて目線で頷いた。チアロはそれに頷き返して風呂場を出た。
 彼の服は部屋のそこかしこにてんでに散らばっている。どんないきさつがあったかは聞かないが、ふざけて部屋中を転げまわったのでないとするなら狩られたのだろう。同じ客からの次の指名を受けるかどうか、落ち着いた頃を見てクインに聞かなくてはならない。彼が嫌だといえば次からはこの客はなし、ということになる。
 服を拾い集めて適当に検分したが、ボタンが2ヶ所、ちぎれてどこかへ行ってしまっているだけで他に欠損はなかった。秋用の薄い外套は最初に脱いで扉の内側に掛けたままであったから、羽織らせればいい。飛んでしまったボタンを探してみたが、とうとう見つからなかった。
 それにしても、とチアロは風呂場から時折聞こえてくる湯水の音が一定でないことを耳の端に挟みながら溜息をつく。クインのこの、ひたすらに噛みつき吠え立てて客をわざと怒らせるような真似は何だろう。大人しくひっそりと微笑んでいれば壊れてしまうのを恐れるように男たちが彼を扱うのは分かりきったことであるのに、彼は時折それに無理やり逆らうように毒づいて見せる──最初彼をこうして迎えに来たときは、彼でなく、客からの要請であったのだ。
 ぴくりともしなくなってしまった、死んだかもしれない──……
 そんなことをいわれて慌てて駆け付けてみれば単に失神であったのだが、これはまさしく運がいいというものであった。そんなことは時折あった。珍しいという出来事ではなくなってきた頃、チアロはようやくそのきっかけの一端に気づいた。
 鍵は、恐らくライアンだ。クインが自棄に荒れる日は、大抵ライアンと会った後だから。クインはひどく神経質で、心理の上下が激しい。機嫌の良い時は朗らかで明るい子供であるが、一旦荒れ始めるとそれはどこまでも続いていくようだった。それを自分でも持て余している。何度かそれを注意してみたことがあったが、彼は大抵訳のわからないことを怒鳴り散らすか不機嫌に黙り込んでしまうかで、埒があかない。落ち着けば反省はするらしく照れ半分の謝罪を呟いたりもするが、それにしてもその回数は随分と多かった。
 そしてライアンはクインの心理状態には頓着しなかった。うるさい、とはっきり口にしないまでも、ひそめた眉や殆ど彼の言葉を無視した挙句の勝手な呟きは言葉よりも雄弁に語っている。ライアンはクインを手駒のひとつとして扱うことに決めたようであったが、クインのほうはライアンと対等に在ることを望んでいる。
 クインの不満は分かる。ライアンは自分ときちんと向き合っていないと考えているし、それはおおむね正しいだろう。ライアンの言い分があるとするなら、それがどんなであるかもチアロは理解できる。彼はクインの事にばかり関わりあっている訳にはいかないのだ。彼の仕事は今のところタリアの中に巣食っている不穏当な連中を狩りだし噛み破るための猟犬というものであって、他のことは彼にとっては小遣い稼ぎ程度の重要さしか持たない。
 チェインのことばかりは別であったが、それも大体をディーやノイエといった連中に任せてあって彼自身は週に二度チェインの彼の根城へ戻れば多いほうだ。忙しいという曖昧な単語でクインが納得しないゆえに、大体の事情は説明してみたのだが、クインのほうは昔のように嬉々として首を入れたがった。ライアンはそれをわずらわしく払いのけてしまい、クインはむくれて荒れる──
 チアロは溜息になった。クインがライアンを何故かはしらないが特別視するように、ライアンも確かにクインのことは特別に考えている。ただ、その表現は天と地のように違う。クインは比較的素直にライアンに寄っていくが、ライアンのほうは気安いとはいえなかった。
 いずれライアンはタリア王の継承争いに全面的に関わることになるだろう。周囲もそう見ているし、本人もどうやらそのつもりらしい。それを現王アルードも知っている。だからライアンは見捨てられるものしか身近にしない。彼の周辺にいて彼が自分にまとわりつくことを許している者たちは、いずれ彼がその手で切り離しても構わない者たちだ──自分も含めて。
 チアロはクインの服を揃えてやりながら、苦く笑う。そこから一段上ってライアンの特別に擦り上がるためにはチェインを実力で手中にするか、いっそライアンの敵に回るか、それとも──残りの一つはあまりにえげつない。チアロはそれを自分がしないだろうということは理解している。
 だからライアンがクインを容易に身辺に寄せ付け、またはあからさまに可愛がろうとしないのは彼に対する尋常ならざる拘りの証明だ。実際、ライアンの特別であると分かったら、どんな目に遭うか保証は出来ない。だからライアンは失って困るものは身近にしないが、肝心の望みは聞いてやる。他者に漏れる可能性が少ないとなった時点で、ライアンは彼の望みをほぼ全面的に受け入れてやったではないか。
 これ以上は彼は自分と関わらせたくないのだ。何より、深く絡み合うことで出来あがる強い絆を、失うことばかり考えてしまうのだから。リァンという奇跡を、見失ったときのように。
 チアロが再び溜息になったとき、風呂場の扉が開いた音がした。振り返ると多少回復したらしいクインが、火照って血色よく見える肌色で立っている。立てるならとチアロは安堵し、笑って頷いて見せた。クインは柔らかい絹地の長衣をかぶり、染め粉が落ちてすっかり地毛の色となった髪を適当に布でふきながらチアロの側の長椅子にどさりと座った。ましな気分になったとはいえ、まだ疲労はあるらしかった。
「──何か、飲むもん、ある?」
 声はまだかすれ気味だ。チアロは頷いて客の残していった飲み掛けの葡萄酒の壜を傾けた。赤紫の濃い色がグラスにたまっていく。クインは部屋の保冷庫から氷を取って放りこんだ。
「自分だけ飲みたいもの飲みやがって……」
 呟いている口調はすでに普段どおりの偽悪調だ。いいじゃないか、とチアロは軽くそれを流した。
「残していってくれたんだから、もっと堪能しろよ。この部屋の客なら好い酒だろ?」
 クインはまあね、と肩をすくめる。ちろちろとグラスの中の酒を舐めている仕草は猫のそれとそっくりだ。彼は酒にはどうやら素質があるらしく、飲み始めたのが最近だといいながらも良く飲んだ。酩酊してくるとまたやっかいなことを怒鳴ったり陽気に騒いだりと煩いのだが、酒の味を楽しんでいるならばまずは機嫌良く落ち着いているといえる。それを見計らってチアロはクインの名を呼んだ。
「今日の客はどうだった。また指名されたら断ろうか」
 クインはグラスを唇にあてたまま、こぼれるように笑った。この笑顔になったときは彼本来の悪魔的な美しさが満開に開くような錯覚を見る。
「また、取ってよ。面白かったよ。あんまり馬鹿だから笑っちまったらかっとなったらしくて酷い目に遭ったけど、次はさせないから。それにこいつ、酒の趣味はいい」
 そう言ってクインは何かを思い出したらしく、くつくつと喉を鳴らして笑った。最初の頃のように一人終わるごとに真っ青になって延々洗面所で吐いていたのとは雲泥の差だ。一晩が終わるごとに彼は嬌態と華やぎを身につけていく。それが眩しいとは思わない。誤魔化し方だけを覚えているとするなら何かが悲しかった。
 チアロは彼の瑠璃色の髪に手をやって撫で、クイン、と淡く言った。
「無理、するなよ」
「うん……ありがと」
 クインは少し笑い、グラスの酒を一息に飲み干して、続きのために酒壜をつかんだ。

読者登録

石井鶫子さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について