閉じる


<<最初から読む

28 / 79ページ

 どれくらいの期間を泣き暮らしていたのか、リィザは数えていなかった。
 悲しい、と思う。思えば涙が出る。切ないとも苦しいとも怖いとも思えば女将が呆れるほど容易く涙がこぼれてくる。自分はどこかがおかしくなってしまったのではないだろうかとリィザは泣きながら思い、でも、と強くその度に胸の間にひっそり収まる銀の紋様版を握りしめるのだ。
 ―――会いたい。きつく目を閉じれば、瞼の裏には遠い面影が微笑んでいる。彼の優しい手がそっと触れた以上のことを、更に進んだことをこの身体に加えるのかと思うだけで、身体の真芯から冷える。未だに知らぬ領域への本能的な恐れと共に、根深い嫌悪が身体を縛り上げてしまうようで動けない。凍り付いてしまった四肢の内側の、泣き続ける心にだけ、血が通っている。
 リィザは自分の首から下がったままの紋様版を硬く握りしめる。これをくれたときの少年の微笑みや紋様版に漂っていた彼の気配を思い出したいと願いながら。
「―――神様……」
 喉嗄れてしまったような声でひたむきに繰り返す言葉は同じだ。助けて欲しいとそれだけを願っている。いつもと同じ言葉を呟くと、また目の奥が熱く潤んできたのが分かった。
 その前日まで、彼の様子に全く変化はなかった。リィザは予兆さえ感じることが出来なかった。どこへ行ってしまったのだろうとか、何故だとか、そんな疑問は既に流されて見えなくなってしまっている。
 無事でいるだろうか。今、何をしているのだろうか。その二つばかりが交互に脳裏を浮かんでは沈んだ。
 少年は両親と共に行ったのだろう。債権者が押し掛けることを思えば親戚筋は危険だし、親の元に子があるのが自然だ。それに、親を捨て家を失った上でリィザ一人を連れて逃げおおせることは不可能だ。
 もう会えないだろうと薄く感じていることを、リィザは自分で認めたくなかった。そう思ってしまったら最後、本当に再会できない気がして怖い。明るすぎる未来ばかりを描けたわけではないにしろ、少年との恋が彼女を支えていたのは確かだったから。
 少年の名を呟き、リィザは自分の唇をそっとなぞった。そこにいつかあった優しい温もりを取り戻したかった。
 微かに熱っぽい吐息を落としていると、与えられた小さな部屋の扉が叩かれた。外から呼ぶ声は女将の声であった。慌てて扉を内側に開くと、女将はリィザの顔をちらと見て大仰に肩をすくめた。
「また泣いていたと見えるね。よくもまあ、そんなに泣くことがあるものだ」
 声音はさほど不機嫌でもなければ苛立ってもいない。呆れているのだ。リィザは俯き、小さく済みませんと呟いた。女将は溜息になったようだった。
「泣いてたって何も変わりゃしないんだって、何度言ったら分かるのかね、この子は」
 リィザはそれには返答をせず、ただ更に深くうなだれた。女将はいいよいいよと軽く言い、彼女の肩を数回叩いた。
「それはいいから、今日こそはもう働いて貰うよ―――そんな怯えた顔をおしでないよ、いきなり不意打ちで水揚げということは私は嫌いだからね。お前がちゃんと事情を飲み込んでくれるのが一番いいんだ」
 一瞬強張った表情をリィザはやっとゆるめ、黙って女将を見た。騙しうちにはしないという言葉を信じる程度には、女将の人為が飲み込めてきている。そうしない、と彼女がいったならそれは本当だろう。
「―――仕事……ですか」
 遊女でない者の仕事というものが何であるのか良く分からない。リィザが困惑したように首をかしげたのを見て、女将は軽い溜息をついた。
「今日は若い連中の貸し切りになってる―――他の娘達のお使いと、下準備をね。字は大丈夫って言ってたから、宴会の給仕もしてもらうよ」
 てきぱきと指示されて、リィザは頷いた。使役奴隷であったせいなのか、他人から指示を受けると無条件に頷いてしまうところが彼女にはあった。
 遊女達から買い出しの希望を聞き、それを簡単な書き付けに起こしてリィザは妓楼を出た。一人でそこを出るのは初めてだった。泣き暮らして涸れて死んでしまいたいと思っていた頃に数度、女将が外へ行くときに同行している。
 女物の小物や化粧品を扱う店はタリアの中に分散しているが、大抵は妓楼に出入りする特定の業者がいる。彼らの持ってくる見本帳をめくって遊女達は自分の欲しいものを指定するのだ。店の方には女将と共に足を運んでいるから地理は問題なかった。案内ということだけであれば。
 店はタリアの最浅部周辺にある。頼まれた小物の名を店員に告げて店先の椅子に腰掛ける僅かな間、店の硝子窓から目をやればすぐそこにタリアと通常の世界の区切りである二本の柱が立っているのだ。
 ―――あそこを抜ければ。リィザは僅かに瞬きをする。
 あの2本の柱を抜けてしまえばそこは彼女が以前住んでいた世界だ。僅かに息を潜めて駆け抜けてしまえばあの温かで幸福だった日々が待っているような錯覚さえ呼び興ってくる。それは幻覚だ。幻覚だと、自分の夢想だと、頭のどこかで弱々しく囁く声を聞くことが辛い。辛さはすぐに痛みに変わって胸を貫く。細く。
 リィザは微かに唇を噛み、柱から視線をもぎはなしてじっと俯いた。帰りたかった。自分の帰還できる場所などもうどこにもないと知っていても、ここではないどこかへ帰りたかった。逃げ出したいという衝動が僅かに足下から忍び寄ってくる。
「……お嬢様?」
 強く呼びかけられてリィザははっと我に返った。注文の品を入れた籠を持った店員が、所在なく立っている。お嬢様というのが自分のことであると気付かなかったのだ。慌てて立ち上がり、中身を確認して外へ出る。代金は商店から月末にまとめて請求が来るのだ。
 外は薄暮にかかり始めていた。宴会は通常日が落ちてからだから、下準備をも手伝うならばもう帰らなくてはいけない時間だ。けれど、どこへ。
 リィザはじっと柱を見つめる。あの向こう側、僅か数十歩の先に走り出せば助かるかも知れないという囁きは、先程よりも遙かに大きく、強かった。
 帰りたい。呟いた瞬間に、脳裏に再び恋しい面影がよぎった。帰りたい。帰りたい、あのなだらかで平和だったあの日々へ。あの人の腕の中へ。身体の温度で癒されて幸福だと信じていられた遙か、―――遙か、遠い過去へ。
 帰りたいと繰り返して呟いたとき、自分の声が低く濡れているのに気付いた。逃げ出したいというよりは、それは遙かに回帰衝動に近かった。今居る場所がどうしても自分の身に合わない、その現実からも目を背けてしまいたい。
 帰りたい。帰りたい。その言葉だけが胸の底から、心の奥から、ただひたすらに込みあげてくる……
 ふらりと最初の一歩が出た。いけない、とリィザは思う。だがその制止はひどく弱くて自分を止めてくれる力にはなり得なかった。
 何かに酔ったようにふらふらと柱の方へ行こうとした、その時だった。
「―――お前、見習いだろう?」
 低い声と共に肩に置かれた手が、リィザの意識を現実へ引き戻した。ぎくりとして立ち止まり、それから恐る恐る振り返るとそこにいたのはまだ年若い男であった。左側の袖が肩から軽く風になびいている。そこに中身がないとすぐに分かった。
 リィザの視線がそこへ行ったのに気付いたのか、男は苦笑した。
「左腕は2週間くらい前に無くしたんだ。生えてくるのを待ってる」
 まるで財布を落としたのだというように軽く言い、男は右手でリィザの腕を掴んで僅かに自分の方へ引き寄せた。
「……どこかの妓楼の見習いなんだろう? あの柱を越えたら酷いことになる、あまり遅くならないうちに自分の店へお帰り」
「あの……私」
 何かの言い訳を探して唇を動かし、リィザは俯いた。ここから逃げ出したいという瞬間の思考を、まるで見透かされていたような男の口振りに微かに恐れが忍び寄ってくる。女将に知れてしまったらと思うと、叱られるという恐怖よりも信頼を裏切ってしまったという罪悪感の方が胸を刺した。
 リィザが黙っているのに男はゆるく笑い、ちゃんと帰れよ、と念を押した。
「その白い衣装は妓楼の見習いの印だから、あそこを出て1日もたたないうちに掴まるよ。タリアの自警衛士ならいいけど、脱走した女を専門に狩る連中だっている。そんな連中に掴まったら終わりだ」
 淡々と語られる内容に、過剰な恫喝は感じられなかった。だからこそそれは事実であると信じることが出来た。リィザは僅かに身震いし、尚更深く俯いた。
 今リィザが着ているのは白い簡素なワンピースだ。遊女達の衣装は赤地に金と定まっており、いずれ遊女となるべき見習いは白となっている。それはタリアに店を構える妓楼全体に共通する規範であった。この衣装はそうしたときの目印でもあるのだ。いつか客を取る身であることを報せるための、どこかの妓楼の抱える身であることを教えるための。
 リィザは男に深く頭を下げた。逃げられないのだと思った瞬間にまた、涙が上がってきそうになったからだ。それを無理矢理飲み込もうとしていると、男が大丈夫か、と宥めるような声を出した。
「道が分からなくなったのなら、送っていこう。お前はちょっとぼんやりだな」
 こつんと額を指で叩かれて、リィザは首を振る。迷っていたのは道ではなかった。
「大丈夫です。あの……あ、ありがとう、ございました……」
 それだけを言い捨てるようにして、リィザはくるりときびすを返した。早足だった歩調がすぐに小走りに変わった。
 走りながら息苦しくリィザは目を細める。逃げたかった、帰りたかった、どこでもいいから投げやりに全てを放擲したかった。それを見透かしていたように、男は自分を呼び止めた。多分、あれも運命だったと思えるほどに。
 殆ど逃げ帰るようにして妓楼へ帰り着くと、女将がお帰りと微笑んだ。この場所こそが帰るべき所なのだと念を押されたような気持ちになり、リィザは僅かに切なく目を細めた。女将は籠の中身を簡単に確認するとさあ、と彼女の背をさすった。
「あっちで顔を洗ってあたしの部屋へおいで。化粧と髪を直してあげようね、ご褒美だよ」
「ご褒美……?」
 そう、と女将は笑い、下働きの少女にリィザの持ってきた籠を渡して遊女達に中身を振り分けるように言いつけた。少女が頷いて消えるのを待って女将はリィザの頭を丁寧に、優しく撫でた。
「お前はちゃんと帰ってきた―――ここへね。良く戻ってきたね。逃げ出したってすぐに掴まるんだってことを、10人に一人くらいは経験するんだよ。お前は逃げなかった。だから誉めているんだ。……お帰り、あたしの娘」
「……私……」
 逃げようとはしたんです、という言葉は喉に引っかかって発することが出来なさそうだった。リィザの様子に女将は少し笑い、いいんだ、と簡単に流した。
「顔を洗っておいで。綺麗になれる魔法をかけてあげよう。―――今日の宴席はタリアの裏のチェインって辺りに溜まっている若い連中のだから、年齢の近いのも沢山居るよ。気楽に話くらいしておいで」
 僅かにリィザは怯む。既に店に上がり込む客としての彼らを見知ってはいたが、彼らは一様に年齢若い者特有の残酷さを持っているように思われた。この店に辿り着く以前に男に連れられて巡った妓楼で聞いた、微かに哀れむような女達のさわめきが耳の奥に蘇ってくる。
 僅かに青ざめたのが分かったのか、女将はどうしたの、と彼女を覗き込んだ。
「そんな顔をするんじゃないよ。折角可愛い顔立ちだっていうのに、台無しじゃないか。お前はもうちょっと自信を持った方がいい。だから魔法をあげようと言っているんだから早いとこ顔を洗っておいで」
 ほら、と背をつつかれてリィザは頷くが、不安は拭えない。丁寧に顔を洗ってふと鏡を見ても、そこにいるのはいつもと同じように怯えた目つきの痩せぎすな少女でしかない。
 黒い髪。黒い瞳。少年はいつも黒曜石のようだとか夜闇の静かな美しさに譬えてくれていた……
 いけない、と思ったときにはもう涙になっている。これほどまでに恋しい気持ちを抱えてこれから先、どうして生きていけばいいのかリィザには分からない。
 だが、今すべきことは明らかであった。リィザは帰りたいという呪文が再び浮かんでこようとするのを押し込め、もう一度、今度は冷静になるために顔を洗った。

 宴席というには無秩序な享楽であった。彼らのために用意されたたっぷりの食事も酒も、腹を空かせた獣が貪るように、あっという間になくなっていく。遊女達への戯れも直裁だ。元々遊女の服だから、その衣装は結び目を一つか二つほどいただけで簡単に脱がせることが出来るようになっている。半裸に近く剥かれた遊女たちの、それでも華やかに笑い交わす声と相まって1階の食堂と待合室を全てつなげて作った即席の広間は酷い喧噪だ。
 それでも彼らはましな方なのだ、と女将に言い含めてもらっていなければ怯えて広間に入ることさえ出来なかったろうとリィザは思う。それほど彼らは無遠慮で、粗野の塊のようにさえ見えた。
(あいつらはそれでも大分ましだよ。あの連中を締めてる頭がうちの馴染みだから、そう無体すぎることはしない―――チェインにもまあ沢山の派閥があるようだが、今日のは正真正銘、チェイン王の宴席だからね。連中も、自分たちの頭の機嫌を損ねることはしないから安心して行っておいで)
 チェイン王、と聞き返すと女将は苦笑し、それを少年達の上に立つ少年王の呼び名だと教えてくれた。タリアを束ねているのがタリア王でこれが大人達の王であるとするなら、タリアの中の更に真奥に位置するチェイン地区にたむろする少年達の王はチェイン王であり、即ち少年王なのだ。少年王自らの臨席というのがどれほどの意味や価値を持つのか良く分からない。だが、この宴席に出入りしている少年達の数は半端ではない。席を持ってくつろいでいるのが十数名いるがその下にもまだ配下がいるようで、おこぼれを貰いに入れ替わり立ち替わり目が回るような人数が行き来している。少年達の数は全体で2000人を越す程度と聞いているが、それよりも遙かに多い気さえした。
 酒や食事の追加を聞くだけでも目が回るほど忙しい。これが一体どれだけの金額の宴席なのかは知らないが、少年王の懐だとするなら感嘆するばかりだった。
 言いつかった酒を持って広間に戻っていく度に、場は乱れていた。男女のことを一応程度に知っていたリィザには刺激の強い光景で、一体どこへどう視線をやったらいいのか困惑することしきりだ。戯れ程度に身体のあちこちに手を伸ばしている者、泥酔している者、そして他人の目など気にならないというようにか遊女にのし掛かる者。普段外から内側の遊女達を観賞できるようにと作られている赤い格子には全て簾が降りてはいるが、声は漏れているはずだ。大分ましというのはどこがどう「まし」なのか、女将にもう一度聞いてみたくなる。
 リィザはなるべくそうした連中に目をやらないように給仕に専念しようとした。そうやって忙しく立ち働いていれば目に留まらないと思ったのだ。が、それも甘い考えであった。女将が上機嫌に可愛くなったよと誉めてくれた鏡の中の自分は、いつもより更に目が大きく肌が美しく見えていた。魔法といった意味がそれで分かった気もしたが、目立たない方が良かったと少年が腕を掴んで無理矢理座らせたときに思った。
「新入り? ねえ、水揚げはまだ? なあ、座って酌くらいしてくれたっていいだろ?」
 酔った吐息に思わず顔を曇らせると、少年の癇に障ったのか、いきなり引き倒される。悲鳴さえ出ない。怖くて怖くて、身体全体が凍ってしまったように固まっている。
 怯えた獲物の様子に少年は意地悪く笑い、共にいた仲間達に目配せをした。あっという間に取り囲まれてしまった輪を抜けようとしても、ぴったりと身体を寄せてきて尚更彼らの輪の奥へ押し込められる。
「いいじゃない、そのうち客になってやるからさ……」
 そんな呟きが聞こえた瞬間に、腰がぐいと引き寄せられ、ワンピースの上から胸の膨らみが掴まれた。
 一瞬走った電流のような痛みに思わずリィザは呻き、慌てて身体をひねった。やめて下さいとやっとの思いで絞り出した声は、彼らの奇妙にはしゃいだ声にかき消されて殆ど聞こえなかった。口を塞がれてがっちり押さえ込まれた身体を、幾本もの手が這い回る。やがてそれがスカートの中へ潜り込み、一番奥の部分をまさぐり始めてリィザは喉を鳴らした。嫌悪よりも遙かに強い恐怖が駆け上がってくる。
 ふりほどこうと必死でもがいていると、突然それが止んだ。少年達の嬌声が一瞬止んで、すぐさま怒りの吼音に変わる。離れた手からやっとすり抜け、リィザは服の裾を掴んでじりじりと後ずさりながら彼らを見つめた。
 目に入ったのは少年達の周囲に散らばる氷と、そして遊女の証である赤い衣装の裾だった。
「あんたたち、適当も程が過ぎると良くないわよ」
 声はまだ若い。リィザが視線をあげていくと、不機嫌な表情で佇んでいたのは先輩の遊女だった。源氏名はシアナという。きつめの線で構成された顔立ちの、美しい少女だ。シアナはリィザを見て、行きなさいと顎をしゃくった。助けてくれるのだと悟ってリィザはよろよろ立ち上がった。年齢は変わらないと知っているが、既に彼女の方は客を取り始めて3年ということもあって、少年達のあしらいも心得ているようだ。
「―――向こうへ行って、着付け直して、髪もほどいておいでよ。こんな連中に着飾るのも馬鹿馬鹿しいったらありゃしないわね」
 斜な口でそんなことを言い、シアナはふん、と鼻を鳴らした。その言い草に少年達が殊更に怒り立てようとしたとき、更にその後ろから低い声がした。
「見習いに手を出すくらいなら、女を取れ。馬鹿だな、何のための妓楼だと思ってる」
 新たに出現した男の声に、少年達が一斉に沈黙した。ちらちらとお互いを俯いた視線で見交わし合っていたが、やがて一人が済みませんでした、と呟いたのが聞こえた。男の声には自然な威圧が備わっていた。これがチェインの王だろうかとリィザは声の主に目線をやり、軽い驚声をあげた。それはつい先程彼女の衝動を止めた男であったのだ。
 男の方はそれでリィザに気付いたらしい。ああ、と小さく笑った。
「なんだ、お前か。……大丈夫か、とお前に言うのは二度目だな。ここの妓楼の見習いだったのか」
 見習いかと問われれば頷くしかない。こくりとすると男は苦笑した。ねえさんにもお礼を言いなと付け加えられてリィザは助けてくれた遊女を見た。シアナの方はつまらなそうに肩をすくめると、ぼんやりしてるからよ、と口にして彼らにぶちまけてくれた氷桶を拾って戻っていこうとする。
 リィザは男に軽く会釈してそれを追った。追いついてねえさんと呼ぶと、シアナはちらっとリィザを振り返り、溜息をついた。気に入らないことをしたのだろうかという反射的な怯えでリィザは僅かに怯む。主人達の機嫌を敏感に察していた毎日の積み重ねが、他人の不機嫌にひどく鋭い反応を引き起こした。
「あの、私、何か……」
 言いかけるとシアナは別に、とすらりと口にした。冷淡というよりは無関心であるような響きであった。リィザがそれにも過敏に反応すると、シアナの方はやや困ったような顔をしてリィザに向き直った。
「あんたね。びくびくするの止めてよ。あたしが何か悪いことでも言った? 言っておくけどね、目を付けられたのは不運だったけどその後はあんたがびしっとしないからよ? 若いほど歯止めが利かないんだから、最初にもっと適当にあしらうべきね」
 忠告してくれているのか怒っているのか、その口調からは推し量れなかった。シアナの言葉はどれも鋭くて、はっきりとしている。それでも咄嗟に氷を彼らに浴びせてリィザを救ってくれたのは事実だったから礼を言うと、今度はシアナはくすりと笑った。
 細い線で美しく構成された端正な顔立ちは、そうすると悪戯っぽくなって煌めきを増した。綺麗な人、とリィザは眩しくそれを見つめる。リィザは大きな目と素直な雰囲気を持っている、どちらかというなら純朴な可愛らしさの少女だったが、シアナの場合は逆だ。匂うように華やかで、揺らめくように美しい。少女である年齢を超えていけば、いずれ相当な美女になるだろうと思われた。
「……あんたはさ、周りを気にしすぎなの。お礼をしてくれるなら氷、取ってきてよ。その前に着替えて、髪をどうにかしといで。かあさんが折角してくれたんだろうに、馬鹿な奴らのせいで台無し」
 冗談なのだろうか、自分の言葉に小さく笑うとシアナはじゃあね、とリィザに背を向けた。彼女の侍る席を記憶につけて、リィザは一度自室へ戻った。彼らの仕業で髪は乱れ、衣装も滅茶苦茶になってしまっている。女将がしてくれたようには自分では出来ないから、髪はほどいて丁寧に櫛を入れてとき流すしかなかった。
 新しい衣装に着替え、氷を持ってシアナの所へ行くと、ご苦労様、と先輩の少女はそれだけを言った。彼女の中では先ほどのことは全て終わっているようであった。彼女は同じ席に着いている少年と雑談に熱中している。馴染みなのだろう、その様子はとても気安く楽しげであった。邪魔をするつもりはなかったから、リィザはすぐにそこを離れる。目の端に誰か手招きしているのが入って視線をやれば、それはあの男であった。自由になる方の右手でリィザを招き、自分のグラスを軽く指で弾く。
「酒を作ってくれ……さっきの連中のことは気にするなよ」
 穏やかに言われてリィザは頷く。恐怖と嫌悪でどうにも身体が動かなかったのは自分の臆病さのせいかもしれない。シアナはもっとしっかりしろという意味のことを言った。いつまでも泣き暮らしている自分を、遊女の側から見ればもどかしいのかも知れない。
 男に酒を調合して出すと、男は少し笑って口を付けた。男には備わった風格のような気配がある。それに、リィザを側にとりとめのない話をしながら飲む男にはひっきりなしに少年達が挨拶に訪れた。その誰もが敬語を使い、この広間全体に満ちている野卑た空気など払拭した顔で現れる。
 男は大抵ディーと呼ばれていた。挨拶が一段落ついたあたりでリィザは男を見上げた。彼は体格が悪くはない。左腕がないことだけが欠陥のような、よく引き締まった、鍛えられた体つきをしている。美形というわけではないが精悍な空気がよく似合った。
 チェイン王であるのかという質問に、ディーは一瞬面食らったように目をしばたき、そして笑い出した。その声は朗らか過ぎはしなかったが十分明るくて、リィザは安堵を覚えた。
「俺はただの幹部だ……ただの、といっても幹部は6人しかいないがな。だから俺の所に顔を繋ぎたい奴が来るのさ。俺についていればライアンに近いと思うんだろう」
 ディーはそんなことを呟いて皮肉げに頬で笑った。それに何と返していいのか分からずにリィザは俯く。沈黙をどう埋めていいのか見当がつかない。何か言った方がいいのだろうかとそわそわそんなことを考えていると、ディーの方はゆるく笑った。
「……お前は本当はこんな商売には向かないのかもしれないな。何も考えないのも時には手だが」
 リィザは曖昧に返事をする。向かないというならば確かなことであるように思われた。自分に出来ることは主人の機嫌を窺うことであって、取り持つことではないのだ。主人の命じたことに素直に従っていればそれで良かったはずなのに、どこで何が狂ってしまったのか、まだ理解が出来ない。ディーはリィザが客慣れしていないのを分かったのだろう、それ以上は特に話しかけては来なかった。暫く俺の側にいればさっきみたいな馬鹿どもは減ると言われて彼の酒を作り足したりこまめに料理を取り分けたりだけをしていると、ふっと音がやんだ。
 それは劇的な瞬間でもあった。今まで聞こえていた嬌声も、明るくも淫猥でもあった笑い声もがなり声も、何もかもが聞こえない。一瞬自分の耳が聞こえなくなったのかと思うほどに、しんと静まり返っている。
 と、隣で酒を飲んでいたディーが立ち上がった。それを合図にしたようにか、全員がそれに倣っていく。今まで戯れに遊女達にしなついていた彼らの面差しから浮ついた気分も酒精さえも抜けて、緊張という糸に引かれるように誰もが背を伸ばして立ちつくしている。
 ぱたん、という軽い音がした。静寂になってからそれが初めての物音であった。妓楼の扉が自然に閉まった音であろう。それが再びの沈黙に馴染んだ頃、足音がした。木張りの床を踏む足音は、ごく小さい。
 だが、注視の塊がゆっくり歩いてくるのは分かった。
 リィザは伏せた面輪をそっとあげて、その音の方向を見た。広間を奥へまっすぐに歩いてくる影は、まだ青年期の初端に連なる年齢の男だった。脇に何か大きな、細長い荷物を抱えている。薄い茶色の髪は首筋にまつろう辺りで乱雑に切られており、端正と言って良い整った顔立ちではあったが、底冷えするように重い視線だけが目に付いた。
 ―――怖い。
 リィザが感じたのは、ただ恐怖であった。表情が殆ど無いことも、少年達の息詰まるような注目を全く介さない無関心さも、その恐怖を煽った。何より、彼の身に付いている厳しく凍り付くような、壮絶な空気が怖い。迂闊に触れれば切れそうなほど。
 微かに震えているリィザの前を通りかかったとき、男はふと視線を流した。ディーが会釈するのが見えた。
「この前は災難だったな」
 聞こえた声も低く、抑揚もほとんど無かった。ええ、と頷くディーの声音には一種の緊張と心酔の入り混じったものが紛れている。
「しかし、腕1本でどうにかなるなら安いものだ。そうでしょう、ライアン」
 小さく男は笑ったようだった。
「お前の新しい腕だ、受け取れ」
 男はそう言って抱えていた包みをディーへ投げ寄越した。一部が解けて中から人の手が覗く。女達の小さな悲鳴が上がったが、それを手で均して男はまっすぐに広間の最深部へと歩いていった。一番の上座が今まで空いていたことに、やっとリィザは気付いた。そこは王の席としてはあまりに小さく、ぽつんと一つだったからだ。
 男がチアロ、と呼んでいる。それに応えるように先程までシアナと雑談に興じていた少年が彼に駆け寄っていくのが見えた。その途端にほうっと周囲が溜息をつき、以前のような雑多なざわめきへと急速に空気がぬるんでいったのが分かった。
 リィザは再び座って先程の包みをディーが開けるのを手伝う。人の手だと思ったのは半分当たりだ。それは良くできた義手で、何のせいなのかひどく重たかった。リィザがどうにか悲鳴をあげなかったのは、彼女が一番近くでそれを見ていたからであろう。さすがに人の肌であるか否かは分かる。
「あれがチェインの……俺達の王だ。ライアンという」
 ディーが先程のリィザの誤解を丁寧にほどくように言った。リィザは頷いた。確かにそれは桁が違う。存在感も、空気の重さも、何もかもが誰よりも重い。王という古風な呼び方の意味さえ、身に感じるようだった。
 ディーはライアンから渡された義手を検分していたが、やがて頷いた。いい手だな、と呟く声には仄かな感謝が滲んでいる。
「……生えてきた、んですか?」
 リィザが囁くと、ディーは淡く笑った。
「そうだな。この腕のいいところは斬られても殴られても痛くないことと、駄目になったら生えてくるところだ―――しかも大体はライアンの奢りときてる」
 リィザはついくすりと喉を鳴らして笑った。彼の持つ空気はなだらかで、ようやく安堵できるほどの会話になった気がする。
 ―――と、不意にディーの視線が自分に向いたのに気付いてリィザは不思議に目を瞬いた。お前、とディーは言いかけ、そして苦笑した。
「……お前、笑うと少し感じが変わるな。そう言われたことはないか」
 この妓楼へ売られてきた初日に女将も、そして自分をここに連れてきた男も同じ事を言った。それを思い出してリィザは怪訝に思いながらもこくんと頷く。そうか、とディーは唇で笑い、義手を彼女の目から隠すように押しやった。伸ばした指先が、リィザの頬に触れる。
 源氏名は、と聞かれてリィザは首を振った。女将は考えておこうと言っていたが、それがつくということは即ち客を取るということだ。楽しみにしているとは言い難かった。名を名乗ろうとするとディーはいい、と苦笑して遮った。
「普通、遊女の名は源氏名でしか聞かない。源氏名がなければありませんと答えるのが普通だな……気に入った相手には教えてもいいがそれは特別だ、そのうち源氏名がついたら教えて貰おうか」
 リィザは首をかしげる。意味を測りかねたのだ。リィザの反応が薄いと見て取ったディーは再び苦笑になった。
「その内お前と寝てみたいという意味……」
 言いかけてディーは言葉を途切らせた。大丈夫かという3度目の言葉にリィザは頷こうとするがままならなかった。震えが止まらない。全身に打ち返ってくる、圧倒的な恐怖。先程の少年達の声がぐるぐると周囲を回っている。冷たい汗が吹き出てくるような怯えが遊女になるのだと聞かされたときの恐怖にまで遡って、目の前がちかちか点滅した。気分が悪い。胃の辺りが締まるような痛みにリィザは喘ぎ、思わず両手で顔を覆った。大丈夫か、と自分の肩を揺する男の手の温度が熱い。その熱さも痺れるような痛みになる。
 ずるずると彼の膝に縋るように身を崩すと、ディーが微かに舌打ちしたのが聞こえた。怒らせてしまったのだろうかとリィザは震えながら彼を見上げた。ディーはさほど不機嫌な顔付きはしていなかったが、困惑気味ではあった。
「ご、ごめ……んなさ……い……」
 呻くような声を絞り出すとディーは彼女を安心させる為だけの薄い笑みになり、いいからとリィザの背を軽く撫でた。
「―――男は嫌いか?」
 密やかに落とされたその声に、リィザはようよう首を振る。嫌いだというよりは遙かに恐怖に近いものであったし、怯えにも惑乱にも似ていて、自分で上手い言葉を見つけられない。
 ディーは自分と寝たいと言った。それは実に簡単そうな響きだった。目に留まったから、気に入ったから、だからいつかお前を買うのだと。違うそうじゃない、という反発は強かったことで尚更自分を怖れさせた。
 いつかと囁いたときの少年の声ばかり思い出された。それはこんなに簡単で呆気ないものであってはいけない。いつかという甘い響きに込められていた万感が、溢れてくるような思いが、いつかという夢に集約されて結実していくはずだった―――そうなるはずだったのに。僅かにリィザは震え、胸の前で手を組み締めながらうなだれた。怖かった。
「……怖い、か」
 呟いたディーの声には苦笑のような響きがある。リィザはのろのろ首を振り、ごめんなさい、と小さく言った。いや、とディーは更に曖昧に笑い、傍らにあった彼のグラスに手を伸ばした。中で氷が高く澄んだ音を立てて回った。
「だが、いつかは水揚げもその後のこともやってくる。ここに来た以上は例外はない。……さっきも言ったな、何も考えない方がいいこともあるんだ」
 リィザはぎこちなく頷く。ディーの言葉の真意とそこに潜む気遣いは本当だ。言われていることもその理屈も正当性も理解できるのに、心だけが頑として折れない。ひたすらに懸命に、過ぎてしまった過去だけを探している。……帰りたい、と呟きながら。
 帰りたいのだと思った瞬間に目が潤んできたのが分かった。いけないと慌てて手をそこへやるが、零れてくるものは止まらない。これをどうしていいのか分からずに唇を押さえて肩を震わせていると、ぐいと肩が掴まれてふり起こされた。リィザは振り返り、女将を見つけて反射的にごめんなさいと呟いた。
「ごめんで済むかどうか、自分で良く考えな。―――奥へおゆき。今日はもういいよ」
 明らかに含まれているのは怒りであった。リィザはごめんなさいと繰り返した。宴席で泣き出して、相手を不愉快にさせたというなら確かに罪であった。ほら、とせかされてリィザは立ち上がり深々と頭を下げて広間から走り出た。
 帰りたい、とだけ脳裏を巡った。
「……本当に、ごめんなさいね」
 改めて彼についた遊女が苦笑しながら作ってくれる酒を飲み干し、ディーはいやと曖昧に笑った。
 怯えるばかり、震えるだけの小鳥。あの小鳥は一体どんな声で啼くだろう。そんなことを考えると笑みが零れてくる。遊女に向かない性質であろうことは分かったが、それに配慮しすぎるほどディーもまた、優しい男ではない。珍しい毛色の女であるとは思うが、尚更自分の腕の中で啼かせてみたいと思うのは性であろう。
 それに、笑うとどこかが違う。含羞のような淡く大人しげな気配が立ち上ってきて、思わず抱きたいなどと言ってしまった。いずれ水揚げが終われば買ってみようという魂胆は既に出来上がったから、誰かが彼女の涙を謝ることではなかった。
「彼女は……いつもあんな調子で?」
 遊女はそうね、と苦笑する。境界門の双柱をじっと見つめていたときの感触からも、その返答は外れていない。だろうな、とディーは苦笑した。
「そいつは先々苦労するだろうな」
 そんなことを呟くと遊女はまたそうねと頷いた。妓楼へ来たからには、真実例外はない。女将とて客への供物としての査定に叶ったからこそ彼女を買ったのだから、その元は取ろうとするだろう。
 それにしてもあの笑顔の心地よさは特別だった。あれは一体何だったのだろうとディーはふと思い、自分でゆるく笑った。性質も身体も、相性というものがある。話してみなくては分からないこともあるし、寝てみなくては知り得ないこともあるのだ。その点ライアンも同じようなことを言っていたから、自分だけが特別ではあるまい。
 ちらとライアンを見ると、彼はこの宴席の喧噪など全く気に掛けず、いつものように煙草に執心していた。あれだけが彼の道楽なのだとディーは知っているから止めるでもない。恐らくはライアンの生涯ただ一人の主人であるリァン・ロゥの仕種と似てきた気がするのは自分の錯覚か、ライアンの無意識の故意か。
 王として君臨し、他人からの崇拝を受け取り、自ら更に上を目指して力強く飛翔していくという王者としての器量の一点において、ライアンはリァンに遠く及ばない。リァンは明るく燃え輝く太陽そのもののような男だった。他人の下にいるのを潔しとしないきつい自尊心が誰をも惹きつけ、魅了した。
 ライアンの寡黙な性質はその影響を殆ど受けていないように見える。だがいつでも心の底からそれを渇望し、焦がれ、欲しがっているのは知っていた。
 ―――越えるべき者をいつまでも懐かしんでいては先はない。いつか彼にそう言ってやりたかったが、それをライアンが受け取ることが出来るようになるには、まだ時間がかかろう。何故なら、ライアンは未だに囚われているからだ。リァン・ロゥの残像に。過去の幻に。過ぎ去ってしまった夢のような時代に。
 リァンはまさしく夢であった。チェイン地区というのはタリアの中でも最も奥、殆ど日の射さない路地に嫌な臭いの充満した地下道の入り組む貧民窟だ。
 それでも石造りのアパートに入り込めるならましな方で、冬にはそこからあぶれた大量の凍死者が出る。その死体から金に換わりそうなものを剥ぎ、服を、靴を盗り、用のない身体の方は裏手の運河へと捨てるから冬の川は亡霊の棲家―――
 リァンはそこに突然降臨した神であった。彼の指導のままに大人達から追いやられて条件の悪い場所へと吹き寄せられてきた子供達は結束しはじめた。ディーは少年時代の始まりにそれを目の当たりにした。
 ディーの兄はリァンの幹部の一人、ディー自身も兄の派閥の下で少年窟を自分たちの王国にしようと指針するリァンの輝きに目を奪われた。まとまりなく派閥と縄張り争いに明け暮れていた子供達をあっという間にまとめ上げていく求心力、誰をも虜にする明るい笑顔と朗らかな性質。誰もがリァンを崇拝し、リァンの足下に平伏し、リァンの為にと誓っていた。
 ディーの兄もリァンの腹心として上り詰めていった。リァンが幹部として認め、自身の元への直接の出入りを許していたのは当時2000人を越していた子供達の内で僅かに8名、兄はその内でも3幹部と呼ばれるほどにリァンの重鎮だった。───残りの2人は殺傷能力よりもその知力を買われたヴァシェル、そしてリァンの身辺を警護し命を楯とするべく育てられたライアンである。
 兄もヴァシェルも既にこの世にいない。3年前にリァンが突然暗殺された後の、少年王の跡目争いの際に2人とも死んでいる。ヴァシェルは兄が、兄はライアンがそれぞれ手に掛けた。激烈な抗争を勝ち抜いて今のライアンがある。
 ライアンの明るい笑顔は当時から珍しい部類ではあったが、リァンが死んでからは殆ど見られなくなった。気鬱に沈みがちな空気をディーにはどうすることもできなかった。自分がそれほど策略を巡らすのに向いていないのをライアンが理解してからは、彼は益々無口になった。一人で黙々と思考している姿を、ディーは半ば痛々しい思いで眺めていたことを覚えている。
 抗争を勝ち上がり、チェインの王となってもライアンの顔は晴れなかった。その座に着くべきはリァンであって自分ではないとでも思っているのだろう。ライアンが今、チェイン王という力を背景にしてタリア王アルードと共に在るのもきっとリァンの為なのだ。
 リァンはタリア王になるべき男だった。ディーでさえ、彼の死から3年を経てもそう思う。彼こそ真実、チェイン王に相応しくタリア王に手をかける資格のある男だった。
 それが死によって閉ざされてしまったことを誰よりも理不尽に感じているのはライアンだ。彼はまだリァンの死を傷として抱えたままでいる。
 彼がタリア王になるべく頭を上げているのは偏にリァンへの追悼だ。ただ一途に、彼が成し遂げるはずだった奇跡を実現するためにライアンは生きている。
 ―――だがライアンは?
 ディーは微かに苦い顔をする。兄の死は仕方がない。ディーはそれを自分でも驚くほど冷静に受け止めている。
 ライアンはディーを身辺におき、継承戦争時に失ってしまった本来の左腕の代わりに惜しみなく信頼を注いでくれる。左腕の義手には沢山の仕掛けがあって単に見栄えや重心の問題ではないが、それでも長じていけばチアロの方がディーよりもずっと強い戦士となるだろう。自分は既に、頂点へ至る道は閉ざされているのだ。
 だからこそ、ライアンが自分を未だに重鎮として扱ってくれることが誇りでもある。ライアンがリァンのために生きていきたいと願うように、自分は彼のために生きていたかった。
 ふとそのライアンの視線がディーを見た。随分と自分は彼を見つめていたようであった。遊女にもういいからと言い残し、ディーは席を立つ。ライアンは新しい一服の葉を煙管に詰めているところだった。
「腕をありがとうございます」
 そんなことを言うと、ライアンは淡く唇だけで笑った。働けよ、というのは激励でもある。それに頷き、ディーはライアンの煙草の火石を打つ遊女へ視線をやった。この女はライアンの特別だ。3年前からずっと彼の指名を受けている。
 2人はどことなく似た顔立ちをしていた。目の流線や鼻筋の影が醸す雰囲気が特によく似ている。ライアンの方が奇妙に陰気な空気を背負い、対して遊女の方は化粧のせいなのか華やかな印象にまとまっているが、容貌には共通するものが多い。
「ねぇ、ねぇ、新しい服と髪飾り」
 遊女がライアンの袖を引いて甘えた声を出している。
「この前やった髪留めでは足りないか」
「それとこれとは別だってば。それに紅玉は服に滲んじゃうからやだって言ったもん。ライアンあたしの話聞いてないでしょ。翡翠がいいの、ひ・す・い! ライアンの目の色とお揃いの」
「贅沢な奴だな」
「何よ、あたしが綺麗にしてるほうが嬉しいくせに」
 ライアンがそれに曖昧に笑って細かい希望を聞いているのは贈るつもりなのだ。
 遊女の衣装も装身具も化粧品も彼女たちの自腹だから、少しでも貢いでくれる男を増やせばそれなりに彼女たちは潤うようになっている。やれやれだとディーが思っているのが顔に出たのか、遊女の方はきっと彼を睨みあげた。視線のきつさと瞳の色はライアンとそっくりだ。
 正直なところ、ディーは彼女を好ましくは思っていない。ライアンは一度心許すと全力を以て守ろうとするところがある。この女が長じてライアンの足に絡みつく網にならないと、誰が言えるのだろう。
 今でさえ十分、ライアンは彼女に執着している。彼女に笑いかける空気は普段の凍てつくような厳しさとは全く違う温度だった。
「ライアン、話が」
 ディーが遮ると、遊女の方は更に不機嫌な顔になった。それを宥めるようにライアンが彼女の頬を撫でる。あとで、と彼に言い含められて渋々頷き去っていく背を、ディーは溜息で見送った。
「……彼女には随分とご執心で」
 半ば嫌味のような口調になったのを、ライアンは苦笑めいた表情で流した。
「あれはあれでいい、お前には関係ないだろう」
 そうですが、とディーは肩をすくめる。遊女の方はチアロをからかっているようだ。ライアンといるときとは一転して、明るい子供同士じゃれあうような笑顔が見える。
 話とは、とライアンが呟いて、ディーは視線を主人に戻した。ディーは頷いて声を潜めた。ライアンの周囲には自分以外に人が居らず、話が聞こえる危惧はなかったが、それは十分に密やかな話なのだった。
「……クインが戻ってきたというのは本当ですか」
 3年前にチェインを吹き荒れた抗争に部外者ながら口を出し、ライアンに知恵を付けたあの子供のことを、ディーは忘れていない。一度目にすれば焼き付くような美形であったこともあり、噂を聞いたときにすぐに分かった。
 ライアンの煙草入れを掲げて彼に会いたいと言った美少年の話。チアロが楽しそうに話しながら連れていったという目撃。チアロとクインは3年前から気の合う友人同士だった。
 ディーはクインをも気に入らない。それは先程の遊女と同じくライアンの弱みにならないだろうかという懸念がそうさせている。3年前もライアンはクインを助け庇った。クインを当時のタリア王への貢ぎ物にしようとしていたのを撤回してまでそうしたのだ。
 結果ライアン自身がタリア王と寝て自治を買うに至ったことを、ディーは怒りにさえ変えることが出来た。あの子供を差し出しておけば貴方の身は安全だったのにと。
 ライアンはディーの質問に簡単に頷いた。それで彼の顔が曇ったのを見て取ったのか、曖昧に笑った。
「あれのことは内密にな。俺はクインをなるべく他人の目からは隠してやりたい―――タリアに戻ってきた以上の噂になっているのか」
「いえ、チアロがどこかへ連れていったという辺りまでしか……」
 ならいい、とライアンは深く煙草を飲んだ。
「……根城から出入りするときは女装だから目立たないんだろう。お前もあまり他人に話すな。噂が酷く頻繁になるようなら俺に報せろ」
 ライアンの命令は絶対であった。ディーは軽く頭を下げる。ライアンは苦笑した。
「そんな顔をするな。お前は3年前からあれが気に食わないんだろう? だが、あれのことは口出し無用だ。そのうち必要があればお前にも伝えるべきことを伝えなくてはいけないが、あれを保護することがいずれ俺の切り札になるかもしれん」
「切り札……ですか」
「そうだ」
 ライアンは不意ににやりと笑った。不敵と表現すべき笑みは珍しく、それは滅多に表現しないライアンの自信の証明でもあった。
「あれは、俺の切り札になる―――どう化けるかはまだ分からんが……そうだな、手なづけておけばどんな場合になっても損はしない」
 そう言ってライアンは何かを思い定めたのか、深く頷いた。
「……ダルフォ」
 低く呼ばれた自分の本名を、ディーは懐かしく聞いた。その名は3年前に彼自らが撤回したのだ、ライアンの元で生き直すために。わざわざ本名で呼ぶときは、だから重要な話であった。ええ、と返答する自分の声が更に低くなる。
「チアロはしばらくクインのことで忙しくなる。何しろクインのご機嫌を取っておくには奴が一番良さそうだからな―――チアロのことを頼めるか」
 僅かにライアンの目が鈍く光った気がした。
「……正直、俺はいずれチアロにチェインをやりたい」
 ライアンの口から後継の話が出たのは初めてのことであるかも知れなかった。ディーはどっしりした緊張感が腹に居座ったのを感じた。
 ライアンの意向を薄々みな気付いているが、それを本人は公言したことはなかったはずだ。他の幹部達への示しや折り合いもあろうし、幹部として扱っている連中の中でチアロは一番年齢が下だ。ライアンの側小姓だからという冷笑も無くはない。
「本来ならお前だが」
 ライアンの言いかけた先をディーは分かっていますと遮った。
「チェイン王はチェインの強者でなくてはいけない。一番分かりやすい支配は力です」
 左腕の欠損は極みに到達するには決定的な瑕疵だった。ディーはそこには成り得ぬ現実を知っていた。ライアンは重く頷いた。
「チアロがクインのことで引き回されている間、チアロの後見として構えてやって欲しい。あれは……あれは、まだ甘い。甘いが、見込める。今は奴をしてクインの機嫌を取らせておくのが優先だが、それでは足りない部分が出てくるだろう。支えてやってくれないか」
 ディーはチェイン王たるライアンの、一番の腹心であると見なされている。それをディーも知っているし、ライアンも彼をそう扱ってきた。
 それをしてチアロの後見たれというならば、ディーに自分を棄てろというのに等しい。命じるのではなく、頼めるかという言い方しかできないのだ。
 ディーは頷いた。チェイン王の後継は自分でない場所へ行くのがいいと彼も思っていたのは確かだった。ライアンはほっとしたように温く笑った。
「……いずれ、お前はタリアの方へ関わって貰う。俺にもそこそこアルードが仕事を回すようになってきているからな」
 ディーはまた頷いた。自身の足らない部分を承知しても使ってくれるライアンの意志に感謝さえ覚えた。いずれライアンがタリア王になる時に自分はまだ生きて、彼の側にいられるだろうか。そんなことを思えばゆるく笑みもこぼれてくるのだった。
 ライアンは彼に軽く頷き、立ち上がった。重い存在感のある身体がそこから歩み去っていく。例の遊女がそれをめざとく見つけて彼の側に寄り、手を引いた。彼女の部屋へ上がるのだろう。
 この後は正真正銘の無礼講だ。あの見習いの少女がこの場にいたら卒倒するだろうと思い、ディーは少年達の捌け口になるまえにと目についた女に声をかけるために歩き始めた。
「……さ、これで大体いいわ。やっぱりリュースちゃんってば美人ねえ」
 ちゃんはやめてよ、とリュース皇子は照れついでに苦笑になる。エリゼテール大公女は彼の幼なじみだが、お互いに物心つく頃から共にいることもあって尚更砕けた呼び名になる。
 彼女は皇子よりも1歳年長で、幼い頃はひどく苛められたものだ。母妃がいつもそれを思い出しては笑う。エリザちゃんが来たわよっていうと、お前はいっつも後ずさりして怯えて泣き出してたんだから―――
 皇子はそんな遠い話にまた苦笑した。何よ、と目の前の公女は彼の手を優しくつねる。彼女の淡い金髪が窓から注ぐ陽光にきらきら輝いて目に眩しい。緑柱石の色をした瞳の明るさも、そしてその顔立ちも美しいといってよい少女だ。彫りが深くくっきりした顔立ちはアイリュス大公家系の特徴だが、エリゼテール公女にはそれ以上の神の愛を感じるほどに麗しく華やかなものが備わっている。
 ―――尤も、リュースがそれに気を向けるときは誰かの誉め言葉があったときだけだ。彼自身が神の愛し子であるような美貌の持ち主であり重要なのは中身だという倫理の信奉者でもあったから、なおさら他人の美醜には疎い。疎いというよりは単純に興味がないのだろう。
 公女がほら、と差し出してくれた手鏡の中にあの日見かけた少女の面差しを見つけ、皇子は溜息になった。本当に似ている。こうしてほんの少し化粧して髪や眉を整えただけで「彼」が鏡の向こうにいるようだ。
「綺麗に出来たでしょ……ねえ、本当にこんなことしてどうするの?」
 化粧道具一式を順序よく小箱にしまいながら公女が聞いた。皇子は鏡から視線を離して曖昧に笑った。彼の返答を諦めて公女が肩をすくめる。幼い頃からの日々の積み重ねが、言葉をさほど必要としない関係を作りだしていた。
「いろいろありがとう、エリザ」
 鏡を机の上に伏せ、皇子は何か飲むかと公女に聞いたが、公女はいらないと首を振った。
 皇子は顔を洗おうと席を外した。化粧した顔立ちを確認できればそれで良かったのだ。自分たちの相似を改めて見つめるために。
 似ていると気付いたのは初夏の頃だったが、既に季節はゆっくり秋へ向かい始める残暑の中だ。皇室行事やら夏離宮への行幸など、国と家の用事が重なってなかなか検証する時間がなかったが、離宮での避暑生活でも皇子は彼のことを考えていた。
 ―――あれは誰なんだろう?
 最初、皇子はごく単純に自分に双子の兄がいるのだろうかと考えた。先に胎内から産み落とされた方が兄であるが、現実自分一人しか王宮にいない。自分が弟なのは、最初の一人を王宮外に出して後から生まれてきた方を手元に残すだろうからだ。
 皇帝の嫡子であるならば、出生と同時に沢山の儀式がある。母親たる皇妃も同じだ。一人産んだ後でもう一人を極秘に出産するよりは兄の方を王宮から連れ出してから産気づいたと人を呼ぶ方が遙かに楽であるし、方法として自然だ。
 だが、ここで皇子はふと深淵に気付かざるを得ない。子を授かったときから皇妃と胎内の子は国家のものだ。あらゆる意味で人の目がある。母胎に双子があるということを、誰も気付かなかったとするならそれは極め付きの不自然だった。
 診療記録をこっそり盗み見ても、皇妃の腹には心音は一つとしか見えない。太古であるなら双子は国家の安泰を損ねるとして片方を―――大抵は弟の方を―――生まれた直後に水につけて葬ってしまうのだが、今は双子だからといって国家鎮護の妨げになることはない。それほどの魅力が帝位にないのだ。記録は書き換えた後が見られない。だから13年と11ヶ月前に母后の腹にいた子供はやはり自分一人なのだ。
 ―――では、あれは一体、誰なんだろう……?
 血縁がまるでないと仮定した上での酷似であれば、祝祭の日に自分を見つめていた彼の複雑な目の色を説明する道が失われる。何かしらの血縁があるとするなら一体どこだろうか。自分たちの顔立ちの相似と特徴から、それは少なくとも母の実家であるアルカナ公系だろうと皇子は最初見当をつけてはみたが、その門閥家系は巨大だ。末端まで含めれば家名は200を越す。
 数名の魔導士に命じてその中で行方不明になっている子供を捜してみたが、そんな子供は存在しなかった。
 ……それに戸籍はどう考えても偽造だったから、貴族の子弟が戸籍を偽ってまで中央中等へ通っていたというのなら、正直、訳が分からない。
 皇子は首をかしげた。洗面所の鏡の中で、「彼」を模した姿が困惑した顔をしている。血縁がないならそれでも構わないのだが、祝祭の日の彼の表情が心のどこかに爪を立ててしがみついていて、無視できない。
 皇子は小さく溜息をもらし、エリザにしてもらった化粧を落とすために水をすくった。
 部屋へ戻ると公女は露台へ通じる硝子戸を開け、手すりに腰掛けながら大きく伸びをしていた。しなやかに伸びた手足の形良さ、肌の白い美しさ。ずっと昔から知っていたはずなのに、彼女の仕種の一つ一つに時折見知らぬ他人を見る気がする。
 公女はすぐに彼に気付き、リュースと呼んだ。彼を呼び捨てにするのは両親と彼女くらいなものであった。
「こっちへ来なさいよ、やっぱりここが涼しいから」
 夏の間はこの夏の居宮で過ごしているが、この宮は人工池の上に何本もの柱で支えられて建っている。晩夏の風が渡って吹き来れば、それは水面をさらって若干潤み、清涼で心地よい。
 100年ほど前の皇帝が四季に合わせた居宮を建てたのだが、特にこの夏の居宮と冬の居宮は居心地が良かった。風に蓮の蕾が揺れいている。
「落としちゃったんだ、せっかく可愛かったのに……」
 エリゼテール公女は彼の頬を残念そうに撫でて呟いた。皇子は苦笑気味に微笑む。
 彼の面影をもう一度見たくて化粧という方法を思いついたのはいいが、どうしていいのか見当もつかない。困った末に幼なじみの少女に頼んだのは、彼女くらいしか身近に頼める相手がいなかったからだ。皇子は自分が中等学院の仲間達から遠巻きに浮いていることを承知していたが、こんな時は微かな物寂しさを覚えた。
「来月はお誕生日ね、リュース。何か欲しいもの、ある?」
 公女は明るく彼に話しかけた。皇子は首を振った。
「うん、別に……でもだからって、武器とかは嫌だ」
 公女は片手間に弓を遊び馬を操る。身体も頑健と言って良いほど健康で、快活な性質であった。自分が大人しすぎるきらいがあることを考えると、逆であれば良かったのかも知れないと、皇子はいつも思う。
「何か希望を言いなさいよ。先月の私の誕生日には、ちゃんとくれたじゃない」
 この年中央中等へ入学した彼女に皇子は本とペンを贈っている。本はこれから履修する科目の参考書、ペンの方は軸が精緻な白金細工で出来た美しい品だ。いいよ、とリュースは仕方なく笑った。
「いずれ結婚するんだし……あまり気にしないで、受け取って置いてくれればいいから」
 それは自明に思われた。エリゼテール公女は父帝の第2妃の姪、現アイリュス大公の一人娘だ。立太子されてもされなくても、いずれ門閥の提携のために彼女は自分の妻になるだろう。彼女の方が年齢が上ではあるが、彼より下となるとアイリュス大公本家とやや離れた血縁にしかない。シタルキアが婚姻政策によって他国と連帯しないことは常識であるため、公女と釣り合う縁となると限られてくるのだ。
 婚約するのは数年先になるだろうが、彼女と睦まじいことを周囲に教えておくことは無意味ではない。婚約の形式というものもあってまずは数度こちらから尋ねていって彼女に伺いを立てるという手順を踏むが、その前哨として申し分ないはずだった。
 エリゼテールは一瞬眉をひそめ、それから長い溜息をついた。何か気に障ったのだろうかと皇子は怪訝に将来の婚約者を見つめる。
「ねえリュース、好きな人はいないの?」
 これには皇子は即答する。彼にとって、これは深く考えることではないのだ。
「エリザが好きだよ、どうして?」
 公女は肩をすくめた。皇子はその仕種に不安を抱く。皇子にとって彼女は殆ど唯一の友人でもあり、恐らくは一生共にいることになる相手であった。彼女以外の女性と添うことなど出来ない以上、最初から目をやらない方が全てにとって上手く回る。よそ見した上での寄り道など、時間と手間の無駄だとしか思えなかった。
 簡単にそんなことを説明すると、公女は不機嫌に顔をしかめてから苦笑した。やはり彼女の気に入らないらしい。エリザ、と皇子は少し強い声を出した。
「だって、どうせ君と結婚するんだからいいじゃないか」
「分かったわよ。もういいったら……」
 うんざりという表情であった。公女の真意が分からず邪険にされて、皇子もやや不機嫌になる。公女は彼と並んで遜色無いほど整った形の頬を寄せて、密やかな声を出した。
「……ねえ、秘密よ? ……私、付き合ってる人がいるの」
 皇子は一瞬おいて頷いた。公女の悪戯っぽく笑う吐息が、喩えようもなく幸福そうな響きに聞こえた。
「そう……なんだ。じゃあ、こんな話不愉快だったね。いいよエリザ、私のことは気にしないでも。うまくいくといいね」
 公女は頷き、彼の頬に軽くキスをした。彼女の髪からほんのりと香料が薫った。
「でもね、リュース。あなた出来ればちゃんと恋愛くらいしたほうがいいわよ? 私でよければいつでも相談に乗るから」
 皇子はまた頷いた。エリザの言う内容の真意は何故か曖昧にぼやけて見えないのだが、彼女が自分を気遣っているのだと分かっていれば十分だった。
 これから彼と会うのだと彼女が帰っていくのを後宮外まで送り、皇子は少し溜息をついて夏の宮の道までを戻り始めた。
 鏡の中にいた自分はやはり、祝祭の日に見かけた彼の姿であった。本当に、自分たちはよく似ている。双子であるという結論は既に否定しているが、母方の縁を辿っていけばそのうちに巡り会えるだろうか。
 皇子は曖昧に頷き、マルエスと呟いた。歩き続ける皇子の背後の空気がたわみ、彼の背後ではい、と返事がした。皇子は視線だけで振り返り、そこに彼の随従を見つけた。
 マルエスは皇子の護衛の魔導士であった。魔導士の掟に従い、全身を覆う外衣と銀の仮面を身につけている。階級は第3位従、全階級の内中の上程度に属する位置である。魔導士の出自などは全て破棄されていて個人情報など知りようもないが、声や背格好からまだ若い年齢の男であることは知っていた。
「……マルエス、彼のことは何か分かったか」
 皇子は呟くように小さく言った。魔導士はいえと即答する。あの仮装行列に参加する皇子の側に姿を隠して彼もいたから、皇子は彼を捜すと決めたとき、容貌を説明するよりはマルエスに命じた。
 すぐに見つかると思ったのだ。魔導の力は一般の人々が思うよりも遙かに広くて深い。彼の気配や残像の足取りを追っていけば簡単に辿り着くだろうと思っていたのだが、あの彼が魔導論文の新旗手であったことを思い出す結果となってしまった―――魔導によって痕跡を追うことが出来ないよう、路地に入ってすぐに簡単な結界罠を残し仕掛けていったのだ。
怪我をするほどの大仰なものではなかったから単なる警告であるとは思われたが、自らの足跡をひたすらに隠そうとする意志はやはり鮮明だった。
 困難だな、と思ったのはその時のことだ。魔導によって過去の残像をどうにか捜しだし、他人の目の底に残る記憶をかき集めていけばどうにかなると思っていたのを修正しなくてはならない。
 地道に血縁からだと結論してアルカナ大公系の家閥の子供達を捜し、失敗し、今はもう一つの大公家アイリュス系の子供達を辿っている。この二つの大公家は以前から姻戚関係を複雑に結んでいる。お互いに血が入り交じっているのだ。
「殿下、卑才思うところがございますが」
 マルエスの声が囁く。皇子は許すと歩きながら呟いた。
「―――ラウール大公という可能性はございませんでしょうか。……つい5年前に家門を取り潰されてございますが、当主は現在生きておれば殿下よりも一つ、年下であったように心得ます」
「……ラウール、か」
 皇子はその可能性に気づき、大きく頷いた。それは確かにあり得る話だった。
 ラウール大公家は5年前に当時の当主が死去し、その息子が幼くて家を後継できないことを理由に完全に断絶を宣言され、全ての利権を取り上げられている。これは国政に深く関わるアルカナ、アイリュス両大公家の意向であった。
 200年ほど前のラウール大公家系の高位貴族が乱心し、当時の皇帝を人質にとって籠城した事件を以てラウール大公家は凋落の道を辿り始めた。
 この事件の真相は未だに闇の中であるが、どうやらアルカナ家の陰謀であったらしいことは当時から囁かれており、確証はないが皇子もそうであろうと考えている。
 アイリュス大公家はラウールを蹴落とすことに関してアルカナと結託し、事件の後はラウールという家名を貶め続けることに熱心だった。
 アルカナもアイリュスもここ500年ほどの間に隆盛してきた比較的新しい血筋だ。この国で尤も古いのは勿論皇族であるエリエアルの姓を抱く一族だが、それと同じほどの古さを誇っていたのがラウール大公の血脈であった。その開祖は建国の功臣にして始祖大帝の寵臣であったケイ・ルーシェンである。
 嫉妬と呼ぶには余りにも暗い情熱であったが、古い国の古い血筋を以て儀式や慣習に深く食い込んだ一族を追い落とさねば、アルカナもアイリュスも長く国の根幹に止まることは出来なかったであろう。貴族間の勢力の引き合いであると一括出来る話であり、結果アルカナとアイリュスは勝って未来を手に入れ、ラウールは負けて遂に消えたということなのだ。
 5年前に当主が死んだとき、アルカナもアイリュスもようやく時期だと思ったのだろう。既にラウールの閨閥の家門は散り散りになり、いくつか残ってはいても結託をしていない。
 復興を目指す勢力がなくなるように両大公家は時間をかけてラウール大公家を腐らせていった。後継者が幼いのであれば同じ家門閥の中から後見人を立てて成人である15才を以て正式に襲名という手続きで十分であったはずだが、既にそれを幼い子供のために唱えてやる正論者はいなかったのだ。
 ラウールか、と皇子は今度はやや低く呟いた。アルカナやアイリュスなどよりもラウールの方が血が古く、始祖大帝の頃から連綿と続く一族であるからには皇族との婚姻も両家とは比較にならないほど繰り返されている。似ているとしても不自然であるとは思えなかった。
 なるほどね、と皇子は深く頷いた。その可能性は確かにあった。
「ラウールの子供は確か、行方不明だったね……」
 極秘裏に暗殺されたのだという噂が一時流れていたと後で知ったが、誰もその生死の決着を知らない。逃げて今でも生きているとしたら、それは確かに戸籍を偽るべきだし性別さえ誤魔化すべきだ。用心深くもなろう。何より、皇子へ向けた彼の視線の複雑そうな色を説明できそうだった。
「ラウール……確か、キエス……と言ったね、マルエス?」
「は、記録には確かにそのように」
「……探せるか、キエス・ラウール?」
 恐らく、とマルエスが軽く腰を折る。皇子はほっと唇をほころばせた。
 どこの誰かも分からなければ捜索はしらみ潰しというほどに労力を使うが、それが判明しているのならずっと作業は楽になるだろう。皇子は彼の正体を見つけた気持ちでどことなく安堵を覚えた。昔から分からないことがあるのが無性に不安なのだ。
 それと、とマルエスが続けたのがだから皇子は意外であった。視線を向けるとマルエスは僅かに恐縮したように会釈をした。それを手で制して皇子は続けるように促す。
「それと殿下、子供一人では何かと出来ぬ事の方が多いと思われます。誰か大人が……恐らくお探しの相手には親と認識されている大人が共にいるのではないでしょうか。行方不明者の捜索の年齢の幅をお広げになってみるのは如何でしょう」
「そうか―――そうだね……マルエス、有り難う。そうしておくれ」
 親という概念を全く失念していたのは自分の感覚に近くないからだろうかと皇子は思い、苦笑になった。
「ならば学院に残る『彼女』の戸籍を調べてご覧。彼の方は性別は偽りだったけれど、保護者の方はそうはいかない。共にいる相手の性別が分かればお前たちも楽だろう―――ああ、もういいよ」
 目に夏宮の涼しげな姿が入ってきて、皇子は言った。魔導士の黒い衣は夏の光景の中では奇妙に浮き上がる違和感であった。
 昔ながらの慣習に従い、魔導士を猟犬以下のように扱う人々もいる。会話が出来る相手を皇子は犬だとは思わないが嫌がる者もいたし、第一子供にはあまり受けが良くない。怖がらせてしまうからねと言うと、マルエスはそっと笑ったように空気をぬるませて消えた。姿を隠しただけで実際は側にいるのだが、それでも見えているよりはいいだろう。
 そんなことを思いながら、皇子は露台から自分を見つけて手を振っている弟達に軽く手を挙げた。異母弟である第2妃腹の皇子二人が避暑地から一緒に王宮へ戻っているのだ。ラインも含めて3人で、どうやら自分を待っていたらしい。
 何の遊びの相談だろうかと皇子は思い、池での水泳だけは勘弁して貰おうと考えながら宮の扉に手をかけた。
 昼間をようやく迎える妓楼の中は白けた明るさが漂っている。店棚の格子窓には全て簾が降り小間使いたちが夕方からの営業に向けて立ち働いていて、活気はあるがからんとした空気が支配していた。
 その合間を抜けて遊女たちは食堂や針部屋へてんで勝手に集まってくる。乾いた明るさは遊女たちが殆ど素顔で、化粧気も飾り気もない素のままの個人に戻っているからかも知れなかった。
 食事は部屋で取っても勿論構わないが、気のあった女たちは大抵こうして食堂で一緒に昼食を取る。夕食は客から奢られるものであるから、実際何時になるかは分からない。
 リィザが食堂で昼食を取るようになったのはごく最近のことだが、新しく遊女になる娘は今は彼女しかおらず、他の女たちは概ね彼女に優しかった。
 同姓という気安さの連帯なのか、それとも自分たちが通ってきた苦悩の中に未だに住んでいる彼女を哀れんだのか、そのどちらだとしても、リィザは「ねえさん」たちからの細やかな愛情を感じるほどにはこの妓楼になじみ始めている。
 一番彼女に口を開くのはシアナという少女であった。無論それは本名ではなく遊女としての源氏名だが、チェイン王の宴席の晩にリィザへ乱暴を働いた少年たちに氷をぶちまけて救ってくれた遊女だ。
 シアナはリィザが来たのが単純に嬉しいのだろう、こと良く彼女を構った。口調は素っ気なくてきついが、さして嫌みであるつもりが無いを理解すれば、その裏の不器用でぎこちないリィザへの興味に気付くことが出来る。
 同年齢である共通に何かを見いだしたいのだろう。
 薄茶色の髪は昼間の光の下では琥珀が輝くような色味に淡く煙り、翡翠をはめたような美しくまろい緑の瞳と整った輪郭線が同性であっても目を引きつける。
 シアナには美貌の恩寵のままに既に複数の常連客がついていて、その中で最も彼女にとって重要で妓楼にとって上客と言うべきはチェイン王ライアンであるようだった。
 あの宴席もライアンがシアナと馴染んでいるからこそこの妓楼を選んだようだ。妓楼はタリア内の組合の規定で客の個人情報を徹底的に秘匿するが、遊女たちの目にも明らかにライアンはシアナに3年通い続けている男であった。
 自分の女の株を上げてやろうという彼の思惑なのだろう。
 このところ、あの晩のことが縁でリィザはシアナと昼食が多い。シアナは更にミアというこの妓楼一番の娘によくなついており、自然その集団に混じることが多くなった。
 シアナはつっけんどんと言っても良いような口の悪さだが、ミアの方は柔らかに優しい。声音のとろけるような甘さが心地よかった。
「……この子は、本当にライアンばっかりだから」
 ミアの声が可笑しそうにころころと笑っている。シアナは端麗な頬の曲線を思い切りぷうと膨らませ、だって、と唇をとがらせた。
「だってねえさん、ライアンより綺麗な男なんか見たこと無いもの―――ねぇ?」
 ふっとシアナの視線が自分に向いてきて、リィザは微かに笑って首を傾げた。
 宴席で見かけたチェイン王だという青年の顔立ちは確かに小綺麗にまとまってはいたが、それよりも圧迫さえ覚える存在の重圧感と痛みを覚えるほど冷えた視線、その二つが合わさって出来る永久凍土のような荒涼とした空気だけが吹き付けてきたことだけしか思い出せない。怖いというのがリィザの感じ取った全てであり、それ以上ではなかった。
 それでもシアナの喜ぶ顔も見たくてリィザは記憶の中からライアンの面差しを恐る恐る引き出す。それは今まで見た誰よりも確かに整ってはいたが、陰鬱で、やはり瞬間的に目を閉じてしまいたくなるほどに恐怖を引き起こすものだった。
「……ライアン様、ええ、確かに綺麗な方ですよね」
 やっとそれだけを返答すると、シアナの方は得意そうな笑顔になった。彼女にはそうした自信に満ちた、ややもすると驕慢といって良いほどの傲岸な笑顔がよく似合った。華やかな顔立ちが一層際だつのだ。
「でしょ? ―――ね、ほら、これ……ライアンに貰ったのよ」
 シアナは一層得意満面という表情で自分の髪をまとめていたかんざしをすらりと抜いた。
 それまで髪に隠れて見えなかった柄の部分は透かし抜きになった黄金の蔦唐草文様に縁取られた翡翠であった。飾りの部分はやはり翡翠、こちらは唐草とあわせた芙蓉花がくりぬかれた贅沢な品だ。
 精緻な細工、おそらくは本物の金に翡翠、どれだけの品なのか見当がつかない。
 リィザが見入っていると、シアナは得意そうに吐息で笑った。
「あたしの目の色が緑だからね、それで翡翠なの。柄の飾りは髪の色と合わせた琥珀がいいって言ったんだけど、それは細工がとても難しくて探せなかったんですって。でも黄金ならいいわ、―――似合う?」
 とりとめもないことを話しながらシアナは器用に髪を元のように結い上げて、かんざしで固定した。シアナの言うようにその翡翠は彼女の瞳から吸い出されてきたような美しい色合いであったから、リィザは深く頷いた。
 自信に満ちた微笑みを浮かべているシアナは本当に美しく、同じ年齢であるとは信じられないほど大人びて華麗であるように思われた。
 リィザの返答に満足したのだろうシアナはリィザの黒髪に手をやって、櫛を丁寧に通して頬の横側を軽く編んだだけの髪型を崩し、せっせとそこを編み始めた。
「……何が似合うかって難しいけど、あんたの場合は髪が黒いから真珠がいいわ。きっと黒髪に雪花がかぶるみたいに綺麗に映えると思う」
 シアナが視線で同意を求めたのか、そうねとミアが優しく頷いた。
「私たちは衣装は決められているけど、髪や装身具は特に決まりがないから好きにしていいのよ。リボンも花も、みんな大好きでしょう?」
 はい、とリィザは頷く。
 遊女たちの衣装は決まっている。いずれ遊女となる娘は白、体を提供しない下働きは黒、遊女たちは赤地に装飾は金糸、そして月が満ちる期間だけはくすんだ赤い絹地。身につける色が決まっているせいで、却って女たちは金糸の刺繍の具合に気を遣ったし、髪を飾るリボンや造花に熱中している。
 シアナが今リィザの髪に編み込んだ造花もその内の一つだ。
 リィザは水揚げを待つ身であることを示すために白以外の色は身につけることが許されていない。だから造花は白、優しく愛らしい鈴蘭に白いレースのリボンが絡んでいる。鏡の中の自分の髪には確かに彼女たちの言うように、白が良く映えた。
「だからお前にね、水揚げが済んだらみんなで髪飾りをわけてあげるわ。みんなから少しづつ贈ることになってるの。この店の習慣よ―――覚えておいてね」
 リィザは曖昧な返答をして俯いた。ミアの言葉もシアナの見立ても、自分の水揚げが近いせいなのだろうかという淡い恐れを連れてくる。
 涙の一件を女将は殆ど叱らなかったが、その代わり娘たちからは一斉に呆れ加減の馬鹿ねという言葉を聞いた。その大半には軽い哀れみも込められている。
 リィザの顔が曇ったのにまず気付いたのはミアで、ミアの表情からシアナの方もそれを悟ったようだった。
 あんたね、と髪を弄る手を止めて、ひょいと横からリィザの顔をのぞき込む。間近で見ても欠損一つ無いシアナの肌はなめらかに輝くようだった。
「いい加減、覚悟しちゃったら? どんなに拗ねたって泣いたって、あんたはあたしたちの仲間になるんだからさ。……水揚げが済んだらあたしのリボンからあんたの好きなのをあげる。口紅と頬紅も、あたしたち肌の色が殆ど同じくらいだからきっとあんたにも似合うよ。ねえ、もっと楽しい方のこと考えよ?」
 ね、と笑顔で念を押されてリィザはどうにか微笑んだ。シアナの意図もそれが気遣いだということも分かるのに、素直に頷いて流れに身を任せてしまうには覚悟が出来ない。最初の日にすくんだままになってしまった心が、どうしても折れないのだ。
 自分がこんなにも彼を恋うていたのかと思うのはこんな時だ。せめて思い出になるようにと持ってきた硝子の小鳥を部屋の鏡台の脇に見つける度に泣きたくなる。それが美しい過去であればあるほど、哀しく見えてくるのが辛かった。
 だが、黙り込んでしまったリィザに明らかにシアナは不機嫌になった。彼女は機嫌の善し悪しがすぐに顔に出る。リィザが自分の言葉に不承であることが気にくわないのだ。
「何よ、すぐ浸っちゃってさ……本当の、本当に、抜け道はな、い、か、ら、ね!」
 シアナはそう吐き捨てるように言い、編みかけていたリィザの髪を放り出した。ばらけた髪が頬にかかる。
 リィザは振り返って面白くなさそうにつんと唇をつきだしているシアナを見つけた。目が合うとシアナは不機嫌そうに視線を逸らし、ことさら取り繕ったような無表情になった。その顔立ちに何処か見覚えがあるような気がしてリィザは目を細め、それから納得して微かに声を上げた。
 彼女は似ているのだ。ライアンといったはずの、あのチェインの王に。
 シアナの方が格段に表情が豊かで性別と年齢の差があるが、彫りが深くてくっきりした顔立ちや面輪全体に漂っている空気が酷似している。
 髪の色が余り変わらないのもその印象を深める一因であろう。瞳の色まではリィザのいた位置からは見えなかったから、それは分からないが。
 リィザは思わずじっとシアナに見入っていたようだった。同い年の遊女はその視線に居心地悪そうに身じろぎし、何よ、と不満声で言った。
「いえ、あの―――」
 何でもありませんと言い掛けてリィザは言葉を飲み込む。シアナが曖昧な誤魔化しを好かない性質であることは既に知っていたからだ。
 あれほど好きな男に似ていると言われれば不機嫌にはならないだろうとリィザは思い直し、暗く凍えかけた頬を懸命に動かして微笑みを作った。
「ただ、シアナねえさん、ライアン様に似ているなって……」
 それを言い終えない内に、シアナがいきなり口を歪めてうるさいと怒鳴った。驚愕で思わず固まってしまったリィザの髪から編み込んでいた白い造花をむしり取り、シアナはぎゅっと唇を噛んだ。
 その顔色が怒りにか別のものにか赤く染まっていく。
 自分がシアナのどの部分の急峻な激高に触れてしまったのか分からないままで、リィザは取り繕うためだけにごめんなさいと口にしかけた。
 それをやんわり遮ったのは白い手だった。唇を塞いだ手がそのまますっと自分を抱き寄せ、香の種類でミアだと分かる。
 ミアはリィザを包むように後ろから抱き、シアナ、と強い声を出した。
「―――いもうとを、理不尽に怒っては駄目よ。かあさんだっていつも言ってるでしょう、理由があって叱るのはいいけど、怒っては駄目、いいわね?」
 シアナは頬を紅潮させたまま、じっとはたき落とした白い造花を睨んでいる。その時間が気の遠くなるほど流れた頃、やっとこくんと一つシアナは頷いた。
「……ごめん」
 低くそれだけ呟いて造花を拾いもせず、自分の部屋へ走り戻っていくシアナにリィザは何を言っていいのか思いつかなかった。
 シアナの姿が遊女部屋へ通じる回廊へ消えてしまうと、ミアは抱擁を解いた。彼女からはいつでもふんわりした香と化粧の混じった仄かな薫りがした。
 ねえさん、とミアを不安に見やるとミアは仕方なさそうに微笑んで、首を振った。
「あの子には、ライアンと似ていると言っては駄目よ。それをとても気にしているからね。この前の宴席の時にでも教えてやれば良かったわ」
 何故であるのかをミアは口にしなかった。それは彼女も知らないのか、それとも告げる気がないのかどちらであるかは推し量れないが、少なくとも誰かに聞くことの出来る種類でないことを理解すればそれで良かった。
「……シアナねえさん、いいんでしょうか……?」
 ただ、自分が彼女を酷く傷つけてしまったのだろうかと思うと胸が痛い。
 あれほど馴染ませようとし、可愛がろうとしてくれるシアナに対して申し開きの出来ない仕打ちをしてしまったような罪悪感が深く自分を刺し貫くようで、リィザは痛みのために深く呼吸をした。
 ミアは再び困ったように笑い、周囲の女たちを見回した。
 彼女たちもまた、シアナの怒りの顛末を息を潜めて見守っていたのだと分かったのはそのときのことだ。ミアの視線に重い空気がなぎ払われていくようにか、ようやく彼女たちから忍び笑いのような、微かな苦笑がこぼれ始めた。
「仕方ないわ、知らなかったんですもの」
「シアナはちょっとかあっとなる子なのよ、悪気はないから放っておきなさい」
「ライアンのことはあの子が言い出した時につき合ってあげたらいいから」
 一つ一つに頷きながら、リィザはやっと人心地ついたように体を楽にした。ぬくやかな女たちの言葉にも、シアナの怒りにも、女ばかりの格子の中の王国の、自然な流れがあった。
 いつか自分もその中に入らなくてはいけないのだろうか。そんなことを思うとリィザは溜息がこぼれそうになる。
 それを誤魔化すために身をかがめて鈴蘭の造花を拾っていると、ミアがいらっしゃいとリィザを手招いた。
「―――シアナを許してやって、嫌わないでね……あの子は言いたいことを言うけど、嘘をつくほど姑息じゃないの。それがとても良いところなのよ」
 はい、と呟くとミアはほっとしたように笑い、シアナが滅茶苦茶に崩してしまったリィザの髪を改めて編み始めた。
 他の遊女が自分の化粧箱の中から白菫の小花のついたリボンを、更に他の女は大輪の百合を彫り抜いた象牙の腕輪を、それぞれ貸してあげるわと寄越してくる。
 そうやって飾り立てて化粧を薄くはたけば、鏡の中にいる自分はそれまでのどんなときよりもましに見えた。
 この姿を少年に見せることが出来なかったのが不幸なのか幸いなのかリィザは考えようとしたが、思うだけで哀しくなるのはいつもと同じだった。
 彼にはもう会えないかも知れないという薄い恐怖は日ごとに重くなってきている。
 否、それよりも……遊女として帝都にいることを知ったら彼は一体どんな顔をして何と言うだろうか。
 自分を蔑むなら辛いし、哀れむなら尚辛いし、それでも変わらず好きだと言ってくれたら―――多分、それが一番悲しいだろう。
 いくら思考を重ねても、辿り着くはずだった幸福の彼岸は遠く、既に遙かに霞んで見えなくなっている。彼の手がそこへ導いてくれると信じていられた無邪気な未来への絶対信頼は、不意打ちに崩れてしまったのだった。
 暗くなりがちな思考を、リィザはそれでも振り切ろうとする。遊女たちは優しく、女将は厳しいながらも情理の通る人柄で、自分は恵まれている方なのだ。
 妓楼でも酷い場所になると部屋らしい部屋もなければ、日に幾人もの客を無理矢理取らせることもあるのだと他の遊女たちの眉をひそめた訳語りで学んでいる。更に女を道具としてしか扱わないような娼窟になると、薬を使って3年で廃人にして顧みないらしい。
 タリアの大通りから1本入った辺りのこの妓楼は、遊女の揚げ代は大きな棚よりは手頃で娘たちの管理はしっかりしている。少なくとも、女将があたしの娘という時はきちんとした情を感じることが出来た。
 だから、自分は運がいいのだ―――恐らくは。
 生きていけるだけで幸福だと素直に信じていられた日々、自分はきっととてつもなく稚なかった。人生は連綿と続く日常そのものであって、それ以上のものではなかったのだ。
 首を傾げると、鏡の中の着飾った少女が同じ仕草をした。黒い髪にさやさやと触れて揺れる白菫の飾りが愛らしい。
 それを愛でるのが永遠に少年ではないだろうと思うと、ひどく息苦しくなる―――
 リィザは首を振った。周りからこれほどに気遣われて優しくされて、なお自分一人がかたくなに全てを拒否できるとは既に思うことが出来ない。足らないのは覚悟なのだ。
 もう彼には会えないのだと認める覚悟、これから先しばらくをこの妓楼で過ごしていくための覚悟、そして未知なるものへ闇雲に身を任せてしまう覚悟、それとも全てを放擲して天窓からでも身投げしてしまうというような、思いに殉じる覚悟も。
 じっと鏡を見据えたまま考え込んでいるリィザの頬を、そっと撫でた指先はミアだった。先輩の遊女を見上げると、彼女は淡く悲しげな陰をまつろわせて笑っていた。
「……また彼のこと、考えてる」
 それはその通りで、リィザは気恥ずかしさのために赤面して俯いた。いつまでも自分一人がぐずぐずと思いめぐらしても状況は変わらないのだから。
 羞恥の仕草をミアは笑わない。ますます優しげに笑ってそっとリィザの手を握り、囁いた。
「忘れなさい」
 きゅっとその瞬間にきつく握りしめられたやわい痛みを、リィザはきっと忘れないだろうと思った。
「忘れなさい、もう会えないわ―――いいえ、会わない方がいいのよ」
 頷きたい、とリィザは思った。
 ここでひとつ、こくんと首を動かして気の済むまで泣いてしまえば何かが遠い河へ滑り落ちて涙の海へ落ち着くように、想いの漂う海へ還るように、きっと何かが軽くなるだろう。それが分かっていても、どうしても、どうしても。
 彼が好きだという気持ちが恋であるのか愛であったのか、もう分からない。確かめるすべは残っていないのだから。
 ずっと以前、もう殆ど思い出せないような昔に思える過去、リィザは名も知らぬ神へ祈っていた。他人に話せない大それた、密やかで重大な望みを口にする時にすがるものはそれしかなかったのだ。
 そしてその神への祈りは少年の名を呟く事へすり替わっている。
 彼との恋だけが、彼女の希望だった。それが潰える瞬間さえ分からなかった。
 それが誰の罪なのかリィザには判断が出来ない。いっそ自分が全てを背負い込んで卵殻に籠もる雛のように、世界から巣籠もってしまえばいいのかもしれなかったが、それもまた覚悟が―――性根が、足らない。
 何もかも中途半端に足らない自分こそ、最も罪深いのかもしれなかった。
「……ねえさん、私……」
 握られている手の暖かさに泣き出しそうになりながら、リィザはミアを見上げた。ミアは首を振り、先ほどよりももっと優しい声を出した。
「会わない方がいいの。もう、忘れなさい。苦しいと思うなら心を眠らせて、綺麗な夢を見るといいわ。次の朝に目が覚めるまで、うんと綺麗で楽しい夢を」
 ミアはそんなことを言って、リィザの目をじっとのぞき込んだ。
 夢、とぼんやりリィザが繰り返すとミアはそうよと深く頷いた。
「私たちが夜眠るのは次の明日を生きていくためなのよ。そのために人は眠るの。どんなに辛い夜でも夢を見て癒されれば、きっと次の朝にはまた生きていけるから」
 リィザにとって今が明けない夜であるならば、次の朝を目覚め生きていくために心の目を閉じて夢に遊んでも良いのだとミアは言い、そして囁きよりももっとさやかな声で呟いた。
「みんな、好きな人くらいならいるのよ……大好きな人がいるなら幸福よ。巡り会えただけでもいいんだって、そう思ってる……でも、もう会えない人を思うのはおよし。いつかきっと、これで良かったんだって思えるような恋をまた見つけられる。そんなに好きな人に出会えて恋が出来たんだもの、あなたは幸福なのよ。過去だけは自分が幾らでも綺麗に繕える、誰にも持って行かれないものだもの」
「わたし……」
 リィザは呻くように言った。
「私、若様に会いたい……会いたい、会いたい、会いたい……会いたい……」
 繰り返して呟くと、一層それだけが全てであったのだと思い知った気分だった。
 彼にもう一度だけ会いたい、会ってさよならを言いたい―――いいえ、それよりも。
「私、若様のこと、大好きでした。本当に、好きだった……」
 本当に言いたかったのはその感謝だったかもしれなかった。それを告げたいと思った時には既にこの赤い格子の中の小鳥として生きていくことが沢山の他人の思惑で決定してしまっていて、リィザにはどうする術もなかった。
「ありがとうって言いたかったんです……こんな私でも、好きになってくれて、嬉しかったって……本当に幸せだったって……」
 そうね、とミアが握り込んだ手をさするように撫でた。
 はい、とリィザは頷き、ねえさん、と顔を上げた。
「でも、もう、会えないんですね……?」
 ミアはゆっくりと、しかし確実に深く頷いた。リィザもまた頷き返した。
 誰かがはっきりと口にするまで、認めたくなかった。夢を見るような未来がまだあると信じていたかった。白昼にも目を開けてみる種類の夢を見続けたかった。
 でも、それはもう自分の元には返らない未来なのだ。
「あの人に、もう、会えない……」
 口にした瞬間に、それはざあっと流れ落ちてくるように身の周囲に現実として降った気がした。リィザは微かに肩を震わせて、きゅっと唇を噛んだ。遊女たちが丁寧に入れた紅のにおいだけが鼻についた。
 不意にミアが彼女を抱きしめた。彼女の化粧の薫香に誘われるように最初の涙が落ちた瞬間に、リィザは声を上げて身を崩しながら年上の女にすがりついた。

読者登録

石井鶫子さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について