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 彼女は生まれたときから奴隷だった。奴隷の子は奴隷と決まっている。無戸籍の連中が彼女の父を金に困って下働きとしてこの貴族の荘園屋敷へ売り、母も同じように売られてきた。その二人の間に生まれた娘であれば最初からいないも同然で、だから養ってもらい、一人前の仕事が出来なくても置いてもらえるだけで幸福だった。
 彼女の記憶には父の姿はない。父は彼女が2才の時に病で死んだのだ。彼女が生まれたときに主人が祝賀として撮ってくれた記念写真の微笑みだけが、彼女の知る父であった。ぎこちなくゆるめようとしている口元とそれに比して柔和な目が、父の優しい不器用な性質を教えてくれる気がした。隣に自分を抱いて映る母も若い。10才の時に母親も事故で亡くなってからはこの写真が殆ど唯一の形見だった。
 母を失ったとき、彼女はまだ子供と呼ぶべき年齢であったが、物心つく頃から下働きとして体を動かしてきたことを主人は評価してくれたらしい。荘園に残ることを許されてからは彼女は誰よりも一所懸命に働いた。
 明け方には起き出して、まずは厨房の掃除から。専任の料理人がやってくるまでにはそれを済ませ、指示されていたことをおおかた終えておかなくてはいけない。少し早めの朝食を簡単に摂ると主人とその家族が起き出す時間になるから身支度を手伝い、後始末をする。その後はいいつかったことがあればそちらをし、なければ広い屋敷の手入れなどに日々を過ごしていく。
 けれど彼女はそのどれもが嫌いではなかった。例えば硝子一つにしても丁寧に、丹念に磨けば拭く前よりももっときらきらと光を通して廊下に美しい模様を作ってくれる。馬だって愛情を込めて世話をしてやればどれだけ優しい目をするか。
 掃除一つ、洗濯一つ、手を抜いては自分が本当にいいと思う状態になどなりはしない。無心にただひたすらに働いた時だけ、神様はご褒美のように綺麗なものを見せてくれる。
 神様、と彼女はその存在についてぼんやりと思う。彼女は勿論学校になど縁はなかったし、時々主人達が通っている教会というものに足を運んだこともない。
 だが主人の家族のうち一番年齢の近い少年が神様と言うとき、その口調には冒しがたい尊崇と温かな憧憬が潜んでいるようで、それを発音する唇の動きごとに彼女は胸が膨らむような気がした。
 雨上がりの雲の切れ間から細く差し込む光の糸々。朝露に輝く花壇の薔薇と飛び交う蝶の羽音。沢山の幸福に美しいものは皆、自分たちの手の届かないところからの贈り物だ。目で見て肌で感じて受け取ることの出来る幸福は、沢山ある。主人達のような上等の服や豪華な食事など欲しくないと言うなら嘘になろうが、彼女は自らの範囲で幸福を数えるのになれていた。
 神様。
 時折彼女は眠りの前に屋根裏の自室で少年がするように手を胸の前に組み、そっとうなだれる。他愛ない祈りは聖句も良く知らない彼女の精一杯の夢想ともいえた。
 どうかもう少しだけ背を伸ばして下さい。もう少しだけ美人にして下さい。ほんのちょっとだけでいいんです。沢山働いて、一所懸命何でもしますから―――
 そして横の鏡をちらっと見て、首をかしげて苦笑するのだ。
 父も母も美形ではなかった。それは自分にも受け継がれている。人より少し大きい黒目がちの瞳が可愛いと女中頭は誉めてくれるが、これは他に目立ったところのない平凡な顔立ちの中では却って違和感に思えてならない。真っ黒でたっぷりした髪も何だか鴉のようで悲しい。色白なのもよりけりで、日に当たるとすぐにそばかすが浮いてしまう。家の中の仕事だけではないのだ。
 時折化粧品を女中頭やこの屋敷の女主人が使い残したからとくれることがあるが、勿体なくて使えない。特別なときに特別に使いたいと引き出しの奥に仕舞ったままで、鏡の中に一瞬でも少しましな自分を見つけたいとき、彼女はきゅっと唇を結んだ。そうすると僅かな間だけ、唇はほんのりと赤くなる。
 けれどそれも一瞬の魔法。次に気付いて鏡を見るときにはもう、少し怯えたような目つきの少女に戻っている。
 彼女はそれをねじ回して悲観はしない。美人でなくても財産などなくても、健康で良く働く身体があればきっと生きていけるから。
 生きていける、という自負がこの屋敷の中という狭い世界に限定されていたのを、勿論彼女は気付かなかった。彼女にとって人生は日常の延長であり、日常はただ無心に働くことだった。
 余計な望みは抱かないこと、自分が今持っているものに満ちていればいいということ、その二つをしっかり胸に刻んだ上で彼女は毎日を仕事の中に埋めることに腐心した。それ以外考えられなかったし、他のことを覚えることも考えることも必要でなかった。
 貴族荘園といってもこんな田舎で麦や綿花をするのは下位貴族だ。本当の大貴族は荘園など持たない。彼らは債権証書の売買や貸付やらで莫大な利益を上げる。荘園などと呼ぶのも苦笑するような、主人一家と使用人全部を含めて20名もいない小さな農園だったが、それだけに関係は密だった。真面目でよく働く彼女を屋敷の人々は慈しんでくれた。
 化粧品もそうだが、少し生地がよれて薄くなっているコートや意匠が古くて着られなくなった服などを女主人は彼女にくれた。他の奴隷達も親を亡くした彼女をよく構ってくれた。主人がかつかつと奴隷達を扱わないことで、奴隷と言っても鞭打たれたり過酷すぎる労働に無理に従事させられることもなかった。それを語る他の農場から売られてきた奴隷達の話から比較して、自分は運がいいのだと彼女は知っていた。
 屋敷には彼女より一つ年上の少年がいた。主人譲りの明るい金髪と優しい青灰色の瞳が自分を見て微笑むと、誰に笑いかけてもらうよりも気後れがした。
 それは何故だろうと彼女は思う。向こうがいずれ自分の主人になる身で、自分が奴隷だから?
 いいえ、と彼女は床を磨く手をしばし止めて顔を歪める。
 少年が自分に笑みを与えてくれたその瞬間に、そんな身分差など考えているほどの余裕はないのだ。ただ怖じて、どんな顔をすればいいか分からなくて、困惑した挙げ句に目線と頭を下げることしかできない。
 少年が笑うと何か透明な、硝子で出来た石のようなものが心の中で僅かに転がる音がする。それは勿論空耳なのだが、その音を聞いたと思った瞬間に何故か恥ずかしくて居たたまれなくなるのだ。
 彼女は微かに溜息をついて床磨きを再会する。考え事をするときは大抵床磨きだ。屋敷の古い木の回廊は、年代を経た木材だけが放つまろやかな光を保つために時折は専用の薬剤で力一杯磨かなくてはいけない。両膝をついて雑巾でごしごし擦る姿勢は表情を隠してくれる。
 少年の笑みを今更脳裏に呼び戻して、彼女は僅かに今度は赤面する。今自分がとてつもなく不埒なことをしているような気がしたからだ。
 彼女がそれを躍起になって頭から追い出そうと床を磨く手に力を込めていると、足音が聞こえた。視線をあげすぎないようにそちらを見ると、上等の靴が見えた。靴の刺繍でそれが少年であることが分かった。
 彼女は廊下の端へ寄って深く叩頭する。すぐに行きすぎるだろうと思っていた靴は、だが彼女の目の前で止まった。
 顔を上げるように言われて彼女は恐る恐る少年を見上げる。例の音が耳から遙か遠くで続いている。名前を呼ばれて、はい、と返事をした声は凍えた小鳥のように密やかだった。
「13の誕生日、おめでとう」
 誕生日、と彼女はぽかんとした声で聞き返した。少年は一瞬美しい青灰の瞳を見開き、違った?と小声で言った。彼女は首を振る。ただ、誕生日を祝うという習慣が身に付いていないだけで、この日が生まれた日であることは知っていた。
 上手く返答もできない彼女に少年はそっと笑い、小さなリボンの掛かった包みを差し出した。胸がどくんと鳴る。今までのさやかな音など吹き飛ぶような大きな音が耳を打ち、うち続けているのが痛い。
「……いいから、取っておくれ。大したものじゃないけど、僕はお前にやりたいんだ」
 彼女は動けなかった。現実でないことが起こっているような、白昼夢の中に彷徨い込んでしまったような、恐れと怯えで身体が固まってしまったようだ。どうしていいのか分からないまま膝をついて震えていると少年は遂に苦笑し、手にしていた包みを彼女に握らせた。
 手が触れた瞬間に、彼女は微かに吐息を漏らした。自分の指を開く手の温かさに惑乱して、泣き出しそうになる。心臓の音だけが世界に飽和していて、他のことなど何も考えられない。
 少年はじゃあねと柔らかに言い、回廊を戻っていく。その後ろ姿が遠くなっていって、ようやく彼女は落ち着きを取り戻した。
 ……まだ心臓が大きく波打った余韻は引かない。それを宥めるために彼女は大きく呼吸をし、それから少年の指の触れた辺りをそっと撫でた。胸の中にこぼれてくる温かな湯のようなものを、何と表現していいのか分からない。ようやく胸を押さえると、そこが痛いほど波打っているのが分かった。
 夜、仕事を終えてから彼女は自室で包みを解いた。中身は硝子の小鳥だった。掌に乗る程度の大きさで、色の付いていない透明な硝子が蝋燭の光をゆらゆら通して仄かに耀いている。
 彼女はじっとそれを見つめる。それは生まれて初めて彼女に与えられた、世の中で一番美しく可愛らしいものであったかも知れなかった。
 その晩彼女はいつもより長く、名も知らぬ神に祈った。
 もう少しだけ睫を長くして下さい。
 もう少しだけそばかすを消して下さい。
 神様、あともう少しだけでいいから、あの人の目に映る瞬間だけでいいから、私が綺麗に見える魔法を下さい―――
 神様と、呟きながら眠りに落ちていったその夜。彼女は人より遅めの初潮を迎えた。
 日常はたゆまず流れていった。少年は時折彼女に珍しい茶や砂糖菓子をくれた。それにリボンや派手すぎない髪留めなども。何を貰っても彼女は嬉しかった。少年がほんの少し自分に心を選り分けておいてくれることが、暖かく、幸福な気持ちにさせてくれた。
 それに、物を渡すときに一瞬触れる手が、手の温もりが。それが何よりも彼女に熱を与えてくれる。
 彼女の部屋は屋根裏で、傾いた屋根の斜傾を切り取るように窓と腰台がある。腰台には鏡と両親の写真が飾ってあり、それが彼女の部屋で一番良い場所だった。光が射し込むとそこだけぽっかり明るくなる。
 硝子の小鳥が部屋の一番良い場所に飾られるようになってから半年で、少年からの贈り物はその場所を占領するようになった。リボンだけは色褪せてしまうのが怖くて、やはり彼から貰った小さな疑似宝石の付いた小箱に仕舞ってある。少年が持ってくる品物は大抵日常には身につけられない物ばかりであったが、それでも譬えようもなく嬉しかった。
 彼女が自分の供物を使えないことに少年が気付くのが遅れたのは、彼と彼女の決定的な生活の差であった。少年は末端とはいえ貴族の範疇にあり、働いたことなどは皆無であった。
 少年の仕事は今は勉学であり、そうでなければ収穫時の収益の計算を手伝う程度のことだ。長じて家の仕事と名の付くものをするとすれば、それは肉体労働ではなく、奴隷達を監督しきちんと利益を上げることなのだ。
 ごめんよ、と少年はそれをすまなそうに言った。彼女は激しく首を振った。少年の持ってくる物はどれも繊細で美しく、砂糖菓子一つにしても壊したくないと思えるほどに上等だった。それらを見ているだけで、彼女は自分の手の届かない遠い世界を夢想することができた。きらびやかで華やかな夢を描いているときだけは、彼女は完全に幸福であったのだ。
 つっかえながらどうにかそんなことを説明すると、少年は苦笑したようだった。
「……お前がそれでいいというならいいんだけど」
 それでも少年は自分の気持ちを何かに託したいと思ったのだろう。やや思案の後に、自分の襟元から銀の細い鎖を指で引き出した。その先に揺れる複雑な紋様板と中央に埋まった真珠で、これが少年の祈る神の持ち物であることが分かった。
「じゃあ、これを持っておいで。神様のご加護がお前にあるように、僕も祈っておくから。首からかけて服の中へ入れてしまえば、誰の目にも付かないだろう?」
 ほら、と手渡された銀の薄板にまだ少年の体温が残っていた。彼女はそれを握りしめた。神様、と呟くと少年は頷いて笑った。
「そのうち、聖句や祈りの作法も教えてあげるよ。信仰を馬鹿にする人もいるけど、僕は好きだな。心がとても落ち着くんだ」
 彼女は深く頷き、促されるままに鎖を首に掛けた。微かにこすれる金属の高い音が、心の奥を高揚させる。
 紋様板がちょうど胸の淡い谷間と鎖骨の中間辺りに止まったのを、彼女は服の上からそっと押さえた。その部分に泣きたいほど温かな物が宿った気がしたのだ。
 それから彼女は顔を上げた。信仰の道具を簡単に他人に譲るというのは如何にも不埒なことのような気がしてならなかった。
「あの……若様、こんな、頂いてしまったら、ご迷惑なのではないでしょうか……」
 少年は軽く笑い、いいんだよと言った。
「来週は僕の誕生日だから、父上からまた新しいのを頂くことになっているんだよ。もうそれは要らなくなるし、引き出しに仕舞っておくよりはお前に持っていて欲しいんだ」
 はい、と頷いた時に彼女の胸を占めていたのは圧倒的な幸福だった。
 少年の眼差しや言葉が優しく自分をからめる度に、竦み上がってしまうほどに幸福な気持ちになる。他に何も要らないと思えるほど、この一瞬が永遠に続かないだろうかと思うほど。
 嬉しくて嬉しくて、他には何も考えられない。
 あまりに幸福で、それを逃がしたくない一心で彼女は目を閉じる。祈りをするようにうなだれていると、そっと頬に少年が触れたのが分かった。ふっと視線をあげると少年が自分の頬に指をまつろわせながら、じっと彼女を見ていた。
 瞳があってしまえば、捕らわれたように動けない。少年がゆっくり顔を自分に寄せてきたとき、彼女は怯えるように目を閉じた。
 初めて他人と交わす口付けは、ひどく長い時間のような気もした。彼の唇は少し乾いて暖かく、触れた箇所から全てが抜け落ちていきそうな安堵を彼女は覚えた。
 唇が一瞬離れた瞬間、掠れた声が好きだよと囁くのを聞いた。彼女は頷き、僅かに涙ぐみ、もう一度頷いて少年が再び寄せる唇を受け止めるために目を閉じた。
 2人で持った秘密は、秘密だと思うことで尚更大切なものになった。仕事の合間に時折彼女は少年と逢うようになった。抱きしめられれば嬉しく、口付けを受ければ嬉しかった。彼の胸に甘えていることも、彼の腕にまかれていることも、全てがきらめくような幸福だった。
 少年はその年齢特有のまっすぐさと生真面目さでいつか彼女を妻としたいと誓ってくれた。無邪気で無垢な約束事を交わす度に彼女は悲しくなった。自分と少年では明らかに身分に差があった。奴隷から自由市民になるには沢山の金がいる。市民になったからといって、その先にはまだ騎士階級を越えた上で少年の家門が位置する下級貴族というものに辿り着くのだ。あり得ない。
 だが、そうと分かっているからこそ少年の情熱も真摯な言葉も嬉しかった。嬉しくて悲しくて、その二つがいつもない交ぜになって、眠りに落ちる前はいつも惑乱の中だ。
 夢を見ているときだけが彼女を癒してくれた。身分差など考えず、2人で微笑みあっていられさえすればそれで良かった。
 だが現実はやはり悲しいことが多い。少年が沢山の物を彼女に降り注ぐように彼女はどうにかして自分から何かを差し出したかったが、自分に持てるものは何もなかった。
 庭の薔薇の世話の折りに拾っておいた花弁で作った香袋、女主人の使い残したレースで編んだ小さなタイ。でもそのどれもが彼が最初から持っている物に比べ、なんてみすぼらしくて見劣りがするんだろう。
 何も持たないことがこれほど恥ずかしいと思ったことはなかった。少年が自分にしてくれるように、同じように気持ちを返したいのに何も出来ない。彼はいつでも優しくしてくれるのに、自分ときたら色々な思惑に足を取られてぎこちなく、彼の言葉に頷くしかできない気がする……
 彼女はそんな自分が厭わしくなる。人を好きになればなるほど欲張りになる。物欲しがるようになる。少年を慕い見つめる気持ちが純粋であればあるほど、彼に似つかわしくないことが重くのし掛かってくるのだ。
 せめて自分がもう少し美人であったら良かったのに。奴隷じゃなければ良かったのに。
 けれどそれを思っても何も変わらない。目覚めれば窓の外にはいつもと同じ夜明け前の紺青の空、薄汚い寝台の上―――
 悲しみは少年と逢う僅かな時間にだけ、姿を見せなかった。彼女はそれを念頭から追い払うことだけを考えた。その時間は確かに満ち足りていたから、余計なものを入れたくなかったのだ。
 そしてなるべくそれを脳裏から追い払うために彼女は益々仕事に熱心になった。食器も調度品もいつでもきちんと磨き、丁寧に掃除をし、料理の手伝いをし、女主人のする糸細工と呼ばれる手刺しの刺繍絵の糸を紡いだ。働いて働いて、誰かの役に立ちたかった。
 14になる頃には彼女は誰からも重宝される小間使いになっていた。特に女主人は彼女をよく可愛がった。糸細工には細かな神経を必要とするし、丁寧に紡いだ色糸の具合が出来を左右する。
 時折配色の相談などを受けるようになり、女主人の手から彼女はそれを教えられた。貴族の女達の間では教養ともされているそれを自分の手が生み出すのは不思議な奇跡だった。
 自由にして良いと与えられた絹地に、彼女は硝子の小鳥を刺繍した。それは人生で最初に目にした、何の混じりけもなく純粋に美しいものであった。小鳥を刺し終わった後で彼女は僅かに考えて、その横に一回り大きな小鳥を寄り添いあうように刺した。これが彼女に出来る、精一杯の表現であった。
 刺繍の入った絹地を切り取り、縁を丁寧にかがってレースで装飾すると、みすぼらしくはない程度のタイにすることが出来た。彼女はほっと息を付く。ようやく何か返すことが出来るのだと思うと嬉しかった。
 少年はそれをとても喜んでくれた。こんなものしか出来なくて、と俯く彼女に何度も首を振り、有り難うと言った。
「こんなものだなんて、あんまり自分を卑下するのはおやめ。今のままでいいんだよ」
「若様……」
 言葉が詰まるときは、胸も詰まる。どう言葉にして良いか分からない。
 いつの間にか定まった2人の密会場所は滅多に人の来ない機織り小屋だった。昔は織布もしていたが綿花を手広く始めたせいで手が回らず、いつの間にか止めてしまった家業だ。糸紡車や織機などはまだ残っているが使う者もいない。
 いつものように唇をよせ、彼の胸にじっと身を預けていると精神全体が弛緩するような安らぎを覚えた。彼の鼓動も息づかいも、全てが彼女を包む世界になってくれた。
 何度目かの口付けを交わしていると、少年がふうっと溜息をついた。彼女はじっと、彼女の神様を見上げる。
 少年は彼女の黒髪に手を差し入れて、ゆっくり愛撫しながら呟いた。
「……でも、何かをくれるというなら……少しの間目を閉じていてくれないか」
 彼女は素直に従った。少年の腕が自分の肩を抱き寄せ、いつもよりも丁寧なキスをした。
 何度も離れては重なる唇が、ついばむように自分の同じ箇所を撫でる。最初の頃のぎこちなさは既に抜けて、彼女は全く警戒心なく心を預けていた。
 不意に唇を割って何かが入ってきたのが分かった。驚いた身体が一瞬、反射的に離れようとするのを少年の腕が押さえるようにして遮った。
 それが彼の意志だということをはっきり悟って、彼女は微かに身を縮めた。不意打ちの荒々しい仕種はただ恐れに変わるものであった。
 きつく目を閉じてなされるままにしていると、やがて唇が離れた。うっすらと目を開けると少年の唇が赤く、ぽってりと濡れているのが分かった。きっと自分も同じようだろうということに気付き、彼女は羞恥に俯いた。どんな顔をして良いのか分からない。
「―――ごめん……」
 少年の声は苦しげで、ひどく痛々しかった。わずかな間をおいて、彼女はいいえと細く答えた。
「あの、私……驚いただけで……」
 言い訳がましく口にして、彼女は僅かに首を振った。少年の謝意が何に向けられたものかを理解したのだ。彼は自分が怯えていたのを分かったのだろう。だから謝っている。それが嬉しくて、彼女はようやく微笑んだ。
「若様、私、本当に驚いただけなんです……あの、わ、私に出来ることってこれくらいしかないのかもしれないですし……」
「そんなことない!」
 反射的に少年が声を荒げ、彼女は微かに怯えて呼吸を止めた。自分の語気が彼女を怖れさせたのに気付き、少年はやや長い溜息をついて首を振った。
「ごめん、怒鳴るつもりじゃなかった……でもお前はいつもそんなことばかり言うんだね。僕はお前がお前の言うようにつまらないものだなんて、思ったことはないよ」
 彼女は俯いて首を振る。少年の周辺にあり集うものはみな繊細な技巧を凝らした優美さばかりで、そこに自分がぽつんと混じるのはどう考えても不自然だった。闇のように閉塞した重い色の髪、同じ色の瞳。頬にぽつぽつ散る淡いそばかす。全てが不調和なのだ。
 彼と、彼の持つ世界の空気とは。
 彼女が黙っていることで少年は再び溜息になったが、それ以上を続けようとしなかった。若い2人にも薄々分かりかけている。いずれにしろ、このままでは限界があることを。
 ぎこちない空気を残しながら、彼女は夕方の仕事へ行かなくてはならなかった。仕事の最中は敢えて他のことは考えないようにしているが、この日は払っても払っても沢山の悲しみが沸いてきて手に負えなかった。
 自分はこんなにも若主人を恋していると思うと息苦しくなる。
 何が悲しくても切なくても、その気持ちだけは持っていていいはずだ―――と思う。明日逢ったら謝らなくてはと彼女は決意し、その晩、いつものように神様に少しだけ祈りをして眠りについた。
 それから時折、あの深い口付けを交わすようになった。最初あれだけ驚いたのに身体は順応する。少年の望むようにすることが自分に出来る精一杯なのだと思い定めてしまえば、後は彼の言うがままにするだけで良かった。
 味わうように舌を絡ませ、吐息で呼吸する心地よさ。優しくて穏やかな海に投げ出されているようなゆらめく安堵感。縋り付いていられる安心感。そんなものの全てが好きだった。
 彼の手が自分の薄い胸を服の上からそっと触るようになったのも、自然な成り行きだった。大切な、壊れやすい卵でも扱うようなやわい手の感触を彼女は目を閉じて受け入れた。心臓の音が掌から彼に伝わってしまうのだけが怖かった。
 少年はそれから先には進もうとしなかった。いつか、その時がきたら僕に全てを預けて欲しいといわれてただ頷いた。自分は大切にされていたのだと、本当に彼女が思い知るのはこれから随分先のことだ。
 その時は、彼の体温と呼吸を近く感じていられればそれで良かった。他のこと一切が自分に合わないと分かっていても、いずれは住む世界が違うことを知らねばならないことも、全てを忘れていられた。幸福だった。
 いつまでもそんな日々が続いて欲しいと願っていたのは幼い証拠だったろうか。彼女は主人の家業については全く知らなかった。綿花の不作や麦の不出来から重なった借財がかさみ、軋んでこの家を押し潰してしまうまで、その暗い足音を聞くことなど出来なかったのだ。
 ある朝に全ては消えていた。今までのことが夢のように。
 最初に不審に思ったのは、いつもの時刻に料理人が来なかったことだ。料理人は几帳面な性格の初老の男で、時間には正確だった。準備が少しでも出来ていないと不機嫌になったから、彼女はいつでも彼よりも早く起き出して、厨房の掃除やら言いつかっている下準備やらをしておくのが日課だった。
 主人達の起きてくる時間になっても、料理人はやってこなかった。彼女は迷いながら、それでも仕事を優先すべく厨房を出た。準備は整っているから自分がいなくても良いだろうと思ったのだ。
 女主人の部屋の扉を叩いても、返答はなかった。まだ起きていないのだろうかと彼女は不安になる。が、絶対に起こせといわれていない日は主人達の眠りを妨げるべきではなかったから、彼女は首をかしげながらも馬小屋へまわる。餌をやりブラシをかけておくのも彼女の習慣だった。
 馬達だけは相変わらずで、いつもの世話係が来たことを理解したようだった。獣特有の温かさに触れながらブラシを丁寧にかけ、蹄鉄の具合を見、餌をやる。それが終わって館へ戻ると、先程まで誰の気配もしなかった屋敷の中に人の気配があって、彼女は心底から安堵しながらそちらへ歩いた。
 だが、そこにいたのは見知らぬ男達だった。今まで彼女が触れたことのない、どこか薄暗い雰囲気を持っている。背負う空気が尋常でないことに、彼女は怯えて立ちつくした。
 男達のうちの一人が彼女に気付いて振り返った。ああ、と軽く頷いて歩み寄ってくる。数歩あとずさって彼女は足を止めた。圧倒的なものに呑まれてしまったように、身体が動かない。
 男は彼女を覗き込んでこの家の娘か、と聞いた。彼女は首を振った。家付きの奴隷かと聞かれてそれにはようやく頷く。男はそうかと頷き、来るように手招きした。
 連れて行かれた先はこの家の一番に良い居間で、そこには自分と同じく奴隷階級の者たちが集められていた。どうやら自分が最後であるらしかった。一緒に座るように促されて彼女はいつも可愛がってくれた母親替わりの中年女の隣へ腰を下ろした。
「どうしたんでしょうか」
 そっと聞くと、女はぎゅっと渋面を作って囁き返してきた。
「旦那様が、破産なさったらしい。夜のうちに現金と宝石だけ持って逃げたんだって」
「ハサ、ン……?」
 ぽかんと彼女は聞き返した。耳慣れない言葉だった。そうだよ、と女は溜息になり、これからどうなるのかねえと呟いた。彼女はまだ良く分からなかった。
 前の晩に眠るまでは特に変わったことなど何もなかった。主人一家はごく普通に過ごしており、ごく普通に就寝したはずだ。一夜が明けただけで劇的に何かが変わることなど感覚として馴染まなかった。
 それに、と彼女はそっと周囲を見渡す。少年はどうしたのだろう。一緒に行ってしまったのだろうか―――自分を置いて……置き捨てて。
 それに気付いた瞬間、目の前が暗くなった気がした。同時に鼓動が大きく激しく打ち始める。主人の破産という事実よりも、少年に会えなくなったことの方が彼女にとっては重大だった。捨てて、と呟くと唇ごとが震えだした。ようやくその意味を全身で理解したのだ。
 屋敷の中を我が物顔に検分している男達はどうやら債権者であった。主人一家が持ち去った軽量の宝石類などは諦めて、この館にある絵画や骨董、それに勿論土地と屋敷全て含めての金額の打算に余念がない。半日ほどかけてそれを終えるとそれぞれ荷造りをするように言われた。
 この屋敷を出て行かなくてはならないのだと彼女は悟った。この屋敷に付随するものは全て処分して金に換えるのだろう。奴隷というのは物と同じだ。自分たちもどこかへ売られていくはずだった。
 そのことに対する嫌悪や拒絶は、自分でも驚くほど少なかった。どこに行っても仕事の内容まではそう変わるまいという達観に似た諦めであったかも知れない。早朝から深夜まで、沢山の仕事に手を染めて身を粉にして働くことに今更抵抗はなく、だからどこへ売られていっても大丈夫だという確信のような物があった。
 荷造りをしに一度自室へ戻ると、夕日が丁度窓から腰台にまっすぐ差し込んでいた。落ちかけた西日の淡い灯火色が、硝子の小鳥に映えて切なくなるほど綺麗だった。
 若様、と呟くと微かに嗚咽が上がってきた。住み慣れた屋敷を出ていくことよりも、どことも知らぬ土地へ行かされることも、そんなことはどうでも良かった。
 自分をまっすぐに見て笑ってくれた優しい瞳が二度と得られないのだという悲しみだけが、彼女の全てだった。
 僅かな時間を泣いた後、小さな袋に彼女は簡単な着替えと両親の写真と、硝子の小鳥を入れた。これに詰められるだけだと渡された袋は酷く小さくて、それだけを入れると他の物は諦めるしかなさそうだったのだ。
 荷造りを終えて階下へ降りると、既に他の女達は馬車に乗り込んで行くところだった。その最後に加わろうとした腕を、債権者の男が掴んで首を振った。
「お前さんはこっちだ、いいな」
 彼女は素直に頷いた。出ていく馬車に乗っていた女たちが彼女に向かって手を振り、何か叫んでいたがよく聞こえない。困惑したまま傍らの男を見上げると、男の方は彼女に何かを答える気はないのだろう、黙って首を振り、別の馬車に乗るように促した。

 他の奴隷達と別れた先の旅路は、そう長くはなかった。
 馬車で僅かに北へ2日、見えてきた巨大な城壁に彼女は目を見張った。遠くから見れば距離感さえ分からなくなりそうな、高く分厚い壁が街道筋の遙か先に立っている。呆然とそれを見つめていると、あれが帝都だと債権者の男がつまらなそうに言った。
「帝都……ザクリア、ですか……?」
 それは何かの話にしか出てこない、華麗で風雅な幻であった。美しく着飾った人々が行き交い、目に麗しい通りが並び、昼間の明るい光の下ではきらめき夜の淡い灯火の中では幻想に揺れるはずの、夢のような都。
 だがそれを包むはずの城壁はあまりにもいかつい色をしていた。
 中に入れば尚更落胆は激しくなった。確かに色を揃えたタイルや繁った街路樹などの優しい光景ではあるが、そこにいる人々はごく普通で、話に聞いていた華やぎとはまるで違うことを分からざるを得なかったのだ。
 だが、流石に帝都というべきだろう。その人波も商店の数、通りの数さえも圧倒されるような奔流であった。それによく見れば歩いている人々の服装がどことなく垢抜けているし、化粧も地味ではあるが上手い。少女達の明るい美しさは同性であっても目を奪われた。
 馬車は蜘蛛の巣のように張り巡らされた街路を抜けて、迷わずにどこかへ向かっているようであった。窓から見るもの全てが珍しく、彼女はじっと外を見続けた。
 やがて馬車が止まり、降りるように言われて彼女は従った。周囲の様子は最初に帝都に入ったときよりも格段に薄汚い。恐らく下町と呼ばれている区域であろうと察しは付いた。
 男に手を引かれて街の一角のアパートに入っていく。誰かの家だろうかと思ったら中には帳簿を付けている男が一人いて、どうやらそれは事務所であるらしい。奥の部屋には更にもう一人男がいて、こちらはやはり書類の整理であるようだった。しばらく男達が話しているのを聞き流し、彼女は窓の外の帝都の光景を見つめる。季節は盛夏をようやく越したばかり、陽射しはまだきつい。光の反射が作る路地土の白い輝きと、建物の落とす濃い影がそれを能弁に語った。
 小鳥が枝にとまり、枝がしなる。もう一羽が横へ並ぶ。ついばみかわす嘴の仕種に彼女はふと胸の辺りを押さえた。そこには少年から貰った銀の紋様版が下がっている。一所懸命に自分が刺繍した硝子の小鳥たちのタイは、一体どうしたのだろう。彼は持っていってくれただろうか。私が、あの人の拠り所に小鳥を持ってきたように。そうでないなら悲しかったし、そうしてくれたならなお、悲しかった。
 彼女が唇をきゅっと結んで下を向いたとき、男達がじゃあ、と別れの挨拶を交わしたのが聞こえた。一緒に出ていこうとした彼女の腕を、事務所の男が掴んだ。男の手は酷くひんやりしていた。
「お前は残るんだよ。……暑いかい? 冷たい物でも飲むかね? 少し休んだらお前の行く先を決めなくてはいけないが、なあに、今日の夜にはお前専用の寝台でぐっすり眠れるようになるともさ」
 宥めるような声音が優しく聞こえた。債権者の男はぶっきらぼうで、彼女に対しても殆ど口を開こうとしなかったから、こうした何気ない会話で安堵もしたのだろう。彼女がほっと唇を綻ばせると、男は良いね、と笑った。
「お前は決して美人じゃないし、これから先飛びきりになる保証はないが、笑った顔がとてもいい。素直で素朴で、まっとうな感じがする。なに、化粧の方法さえ覚えればすぐに美人に化けられるようになるさ」
 彼女はそれにも少し笑う。自分が人目を引く美人でないことは分かっている。女の子は残酷なほど、容姿の差は幼い頃から出てしまうものだ。当人の努力などで追いつく部分もあるという希望を与えようとする男の言葉はいたわりに満ちていた。
 日が落ちる前に、と男に促されて彼女は事務所を出た。乗ってきた馬車の影はもうどこにもなかった。しばらく歩くと地面から生えたように立つ、二本の柱が見えた。そこを通過すると周囲の様子は切り替わるように変化した。
 今までもそう美麗とは言えない町並みであったが、そこは更に汚かった。煤けた赤い格子の店棚と、やけに毒々しい色の金泥の紋様だけが目に付く。古びた塗りや剥げかけた模様がみすぼらしく、どこか生々しい。
 これも帝都の一部なのだろうかと思うと足が竦んだ。怖かった。怯えた様子の彼女に男は宥めるように笑った。
「この町はお前と同じで、素顔はあんまり美人じゃないんだ―――だけど、夜になってちゃんと化粧をすれば違う、すぐに分かるよ」
 男の朗らかさに押し切られるように、彼女は頷いた。男はさあと殊更に明るい声を出して彼女の手を引き、柱をこえてまっすぐに続く通りに面した大きな格子棚の店に入っていった。
 中は女達ばかりであった。美しく着飾った衣装は何故か揃ってみな赤い。意匠は少しづつ違うのか、金糸でかがられた刺繍の模様が多様だ。女達は一斉に彼女を見たが、誰も近寄ってこようとはしなかった。奥から中年よりも多少年齢のいった女が出てきて彼女をちらと見、そしてすぐに首を振った。
「駄目だよ、若い娘が欲しいとはいったけどね、もうちょっと見栄のするのでないとうちにも格ってものがあるんだから」
 はっきりした拒絶に彼女は僅かに怯んだ。それに追い打ちをかけたのは、女達の一斉のささめきのような笑い声だった。男は舌打ちし、彼女の手を引いてその店を出た。
 次に行った店でも、その次でも、殆ど異口同音に出てくるのはもっと綺麗な娘でないと駄目だという拒絶だった。彼女は次第に重くなってくる足を引きずるように、自分を連れて歩く男についていった。
 5軒目に断られたとき、とうとう彼女は啜り泣き始めた。前から自分が美しくないことくらいは知っていた。人よりも少し大きい瞳だけが特徴の、何の取り柄もない平凡な顔立ち。あの少年の優美さに気圧され、今日出会った沢山の女達に圧倒されるだけの惨めさをなんと表現して良いかさえ、分からない。かぼそく泣き続けることだけが出来た。
 男は足を止めて溜息になった。
「泣くな泣くな、あのかあさん方はちょっと見る目がないね。俺はお前さんがきっとよく稼ぐ娘になると思ったから良い所へ連れて行ったのに」
 それでも嗚咽の止まらない彼女に、男は明るく笑いかけた。
「いいかい、確かにお前は目を引く美女じゃない。それは分かってるだろう?」
 諭すような穏やかな声音に、彼女はこくりと頷いた。良い子だねと頭を撫でられて、自分がとても幼くなった気がする。
「だが、お前には何かがある。―――自分の容姿が気になるかい? そばかすがいやならあまり日に当たらないことだ。もう少しちゃんと肌をお磨き。お前は肌が白いし、白い肌に黒髪はよく映える。ねえさんたちに化粧の方法を教わって綺麗にして着飾れば、お前を気に入る客はたくさんいるだろうよ」
 彼女は頷いた。男の言葉は慰め以外の何でもなかったが、自分の気を休めてくれることの方を優先したのだ。ぎゅっと唇を噛んで嗚咽をどうにか飲み込んでいると、男がやあ、と明るい声を出した。
「ほらごらん、タリアに灯りが入る」
 言われて彼女は顔を上げ、微かに吐息を漏らした。
 遠く晩鐘が響いている。それが合図なのだろう、通りに面した赤い格子の店棚に一斉に篝火が焚かれていく。
 炎の色が街角に立ち始めた途端、先程まで汚らしく古びた色を呈していた赤い色が沸き上がるように濃厚になった。金泥がきらきら、灯りに映える。通りごと朱泥に浸かったように赤い。赤い中に黄金の川が流れるように、金色の沢山の紋様が踊る。
 化粧を終えると先程男が表現した意味が分かった。
「すごい……」
 思わず漏らした呟きに、男はそうだろうと満足そうに笑って彼女の手を引いた。大通りの店を諦めたのか、男は路地の方へ入っていく。路地といっても同じように明るく火が焚かれており、通りはやはり濃い赤に染まっているのだった。
 最初に連れて行かれた店よりは小さめの店の扉を男は押した。今までと同じように奥から出てきた中年の女は彼女をじっと見つめ、ふうん、と首をかしげた。奥へ上がるように言われたのは初めてだった。個人の部屋というよりは応接室であろう。そのソファに座るように言われて従うと、女は改めて彼女をまじまじと見つめた。
 先程の女達の淡い笑い声が耳に戻ってきて、彼女はつい俯く。女はすかさず、顔をお上げと言った。強い語調に僅かに身をひくと、女は今度は苦笑になった。
「……どうだいかあさん、悪くはないと思うんだが」
 男の声に女はそうだねえとゆるく笑う。かちかちいうのは火種石だろう。この女は煙草のみらしい。
「悪くはないが。化粧しだいかね……ねえ、お前、名前は」
 彼女はやっと顔を上げた。名を聞かれるのは元の屋敷を出てから初めてだった。
「……リィザ、です」
「ふうん、『矢車草』か。可愛い名前だ」
 父の命名を誉められて、ようやく彼女は少し笑った。その控えめな笑みを見て、今度は女は大きく頷いた。
「なるほど、笑うとちょっと違うね……いいだろう、貰うよ」
 男と共に彼女もまたほっと息をついた。男を帰した後で、女はこちらへおいで、と手招きした。彼女は素直に女の側に寄った。化粧の匂いがぬくやかで、安堵を呼び起こした。
「ここがどんな店だかは分かる?」
 聞かれて彼女は首をかしげる。入ってきた一階には酒と料理の匂いが満ちていたから料理屋ですか、と聞くと女は困ったように笑った。
「違うよ。料理も酒も出すが、本当の売り物は娘達だね」
 意味が良く分からない。彼女は急に不安になって、あの、と細い声を出した。女は軽く頷き、あたしのことはかあさんとお呼びと付け加えた。
「うちに限らずどの店でも、女将はかあさん、遊女は娘、先に入った方がねえさんで後から来たのがいもうとだよ、覚えておおき―――で、何だっけね」
「あの……娘たちを売るって、どういう意味ですか……?」
 女将はその質問に暫く考えていたようだった。彼女は首をかしげて自分の雇主となった女を見つめた。何だか、肝心の部分にもやが掛かったようになってしまって良く分からない。困惑しきって俯くと、女将の生温い吐息が聞こえた。
「……お前は何も知らないんだね。男と女のことは分かる?」
 微かに彼女は赤面しながら頷いた。一応のことは初潮を迎えたときに、女中頭から聞いている。ただそれはいつか結婚したらという注釈付きで、決して売り物になるようなことだとは思われなかったのだ。
 少年のたどたどしい手の動きが不意に身体の奥から戻ってきて、彼女は震えた。あれだって怖かった。相手が彼だからじっと耐えていたというのに―――
 そこまできて、やっと彼女ははっとした。自分の仕事が何であるのかを理屈でなく悟ったのだ。
 微かにあげたはずの悲鳴は喉で凍り付き、掠れた吐息にさえならなかった。
「わ、わ、私、私は、下働きだと……」
 言葉までが小刻みに震えていて、既に文脈にさえならない。女将は首を振り、やや困ったような表情で彼女の頬を撫でた。
「ここに来るまで誰もお前に説明しなかったと見えるね―――まあいい。お前の仕事は客と寝ることだ。ここの仕組みなんかが分かるまでは暫く下働きの真似でもしてもらうが、いずれ、そうしてもらうからね」
 言葉を誤魔化したりしないのが女将なりの優しさだと、彼女が気付いたのはずいぶん後のことだ。この時は女将の一言一言が突き刺さるように耳を打つだけ、ひどくそれが胸に痛いだけであった。
 お願い、と彼女は女将の袖を掴む。その手はどうにもならないほど痙攣し、白く蝋けていた。
「それだけは、お願い、他のことなら何でもします、本当に何でも……」
「何でもする、何てことを気軽に言うんじゃないよ。幾ら泣いてもこれは決まったことだからね、恨むならお前を売った相手にしな……でもね、いくら恨んだところで何も変わりゃしないんだから、もっと他のことに頭を使う方が得だよ」
 そんなことを言って女将は彼女の睫の辺りをそっと撫でた。押されるように目を閉じると、微かににじんでいた涙が目の周辺を濡らした。女将の指がそれを丁寧にこそぐ。指先の熱が優しく思えて、彼女はお願いです、と胸の底から声を絞り出した。
「私、好きな人が……」
「そんなのはどの娘も同じだよ」
「でも約束を……」
「みんなそうだよ。お前だけ特別というわけにはいかないんだ、分かる? あたしが今ここでお前を可哀相だと思って赦せば今まで同じ事を言った娘たちにどう言えば良いんだろうね?」
 それは、と言ったきり彼女は黙った。女将の言葉に何かを返したいとは思うものの、何を言って良いのか見当がつかない。たった一つ分かることは、自分の論理では女将に太刀打ちできないということだけだ。
 彼女は俯いた。女将の袖を掴んでいた手がそっと外されて、しっかり握り込まれた。
「泣くんじゃない。いいかい、泣いてどうにかなることなんて、世の中には無いんだよ……」
 それに頷いたかどうか、彼女ははっきりと覚えていない。顔を覆って泣き出したのは確かであったが、その後のことは曖昧なままだ。
 女将がゆったりした優しい声で、気が済むまで泣けばいいかと言ってくれたのは呆れていたのかいたわりなのか、そんなことも判別する気力無く、彼女は泣いた。ひたすらに泣き続けた。
 ―――これが彼女、リィザ=ラグロゥのタリアでの第1夜となった。
 窓をいっぱいに開けると海からの風が入り、療養所の美しい緑の彼方に海が見えた。海の表面には沢山の船舶がある。
 シタルキアの第2の都ミシュアは建国伝説の多く残る土地柄、それに付随して聖都の名称を与えられている美しい都市だが、沿海州を挟んで南部大陸との交易中継点として富を孕む場所としても有名だ。
 行き交う船は貨物船か、それとも定期航路の客船か。窓から沢山入り込む明るい陽射し、遠く見える海、目の下の緑。
「いい部屋で良かったわ」
 クインは明るい口調でそんなことを言い、寝台に半身を起こす母親を振り返って微笑んだ。介添えの看護婦が遮蔽幕から出て手を洗い、何かあれば呼ぶようにと言い残して消えていく。母親は遮蔽幕の向こう側で心配そうに目を伏せた。
「お前、お金はどうしたの……ねえ、怒らないからちゃんと説明して頂戴」
「お母さん」
 クインは宥めるように笑って膝丈のスカートを揺らし、遮蔽幕のすぐ脇に出してある小さな椅子に座った。
 そっと指先で触れる遮蔽幕は透明で、絹のような不思議にぬめらかな肌触りだ。黒死病は空気感染するため、患者の呼吸から発見される感染菌が一定値に下がるまでは遮蔽幕を取り去ることが出来ない。
 だが、患者とふれあうことは出来た。遮蔽幕といっても殆どその存在は感じない。虹色の光沢を放つ薄い何かが寝台を中心にして蚊帳のように下がっているが、お互いに身体を寄せ合えば幕越しにでも体温を感じることも、勿論会話も出来た。
 クインは母に手招きする。母の耳元でそっと囁く言葉は、最初から考えていた言い訳だ。
「ちょっと魔導で幻覚作用をつけた酒を馬鹿みたいな値段で媚薬ですって売ったんだよ。詐欺だけど大丈夫、幻覚は見るように調整してあるから気付かないって」
 くすくす、少女の声音に立ち返ってクインは笑い、肩をすくめて見せた。
 母親はそれでもまだ不安そうに彼を見ている。いいのよ、とクインははっきり言った。部屋には音声官が通っているから、用心するにこしたことはなかった。
「いいのよ、本当に心配しないで、母さん。私は私で上手くやってるわ。今日だってちゃんと休暇で来てるんだから」
 上級学校や中等学院を受験する子供達のための塾が帝都には幾つかある。その内の一つに教師として潜り込んだのだと母には説明してあった。全てを話す必要など、どこにもなかった。正直になれば、母親を嘆かせ悲しませるだけだから。
 そう、と母はそれには頷いた。少し痩せてしまった首筋の細さにクインは痛みを覚えて目を細め、そして力無い自分を憎くさえ思った。もっと早く何とか出来たはずだという思いもあるし、どうにか間に合ったという安堵もある。何を引き換えにしたかなど、もうどうでもよかった。
 ライアンに大半のことを教えられて初めて他の男と寝たのも、その時の僅かな嫌悪も最早遠い。身体は否応なしに慣れて行くし、心は最初から硬く目を閉じて気に入らない事実は見ないことにしてしまっている。
 ただ、何か―――とても重くて大切な何かが胸から欠け落ちてしまったように、落ち着かない。ライアンにもチアロにも、苛立っていると指摘されて尚更怒鳴り散らしてしまった……これは帰ったら謝らなくてはいけない。
 僅かについた溜息に、母の視線が向いた。何でもないのとクインは殊更明るい笑顔を作り、本当にいい部屋ね、と話題を転じた。そうね、と母は笑った。
「夜になるとミシュアの都の灯りが綺麗よ。お前は今日は帰らなくてはいけないの?」
「ええ。あの……明日の朝早くから補講があるから……」
 微笑みながらクインは返答し、今夜の仕事について内心で溜息になった。ライアンは夕方までには戻るようにと言った。魔導による空間移転だからゆっくり3数えるほどの時間があれば平気だが、空間移転はひどく消耗する。夜は夜で別の意味において消耗するのだから、そのための休養を入れるとするなら時間は残り少なくなっていた。
 遮蔽幕越しに、クインは母の肩に頭をのせた。
「はやく、良くなってね……遮蔽幕が取れたら、散歩くらいなら出来るんでしょう?」
 呟いた声は、ひどく寂しげだった。母の微笑む吐息が耳元でした。
「お前は昔から本当に寂しがる子だったわね……愛してるわ、私の可愛い子。寂しがらないで、私はいつでもお前を一番に思ってるから……」
 幕越しに、頬に軽く唇が触れた。クインは頷き返し、母の頬に同じように返した。腕を伸ばして痩せてしまった母の手に手を重ねると、母は頷いた。
 言葉数を少なくしても通じ合うものはまだ残っているのだった。
「寂しいときは母さんを思って頂戴。きっとお前が想っている時間、私もお前を想っているから。でもね、可愛い子―――」
 母はクインの頬を愛しげに撫でながら切なげに笑った。
「いずれはお前も誰か大切な人を見つけなさいね……お前を心から愛してくれる人、お前が本当に愛する人に出会えれば、きっと寂しさも消えるから」
 クインは曖昧に笑った。愛という言葉は彼からは遠く隔たっていて、とても現実味のあるものではなかった。
「私には母さんだけよ」
 クインは優しく頷きながら言った。
「母さん以外の誰のためでも死ねないし、生きていけな……」
 そんなことを囁きかけて、クインは不意に喉を詰まらせた。
 男達に身体を開くようになってから、確かに自分はおかしい。こんなこと、今までなかったのに。
 肩を震わせていると母がごめんね、と呟くのが聞こえた。いいえ、とクインは首を振るが顔は上げられなかった。母の顔を見て甘えてしまえば一気に決壊してしまうものが怖い。
 ごめんね、と母が同じ事を言った。
「寂しいのね、ごめんね、お前を本当は抱きしめてキスをしてあげたいのに」
「母さん……」
「心の傷にはキスの薬が一番効くのに、ごめんね、私の可愛い子……」
 クインは唇を噛んだまま、首を振った。母の顔はまだ見られなかった。泣くな、と自分を叱咤する。
 泣くな―――化粧が崩れる、から。クインはのろのろした仕種で首を振り、何度も深呼吸をしてから目元を拭った。考えすぎるのは良くない。それは先日ライアンに指摘されたことでもあった。
(あまり自分の中を自分で探ろうとするな。お前は自分で苛立っている)
 その時何と返事したかは忘れてしまった。多分、まともに答えていないだろう。苛立っている。それは分かっている。慰められるとするなら誰かの真剣な愛情でしかないことは薄々勘付いてはいたが、これほど自分でひどいものだと思っていなかったのかも知れない。
 母の愛を疑ったことも信じなかったこともない―――けれど。多分、身体を結ぶことを知ってしまえばそれだけでは最早足らないのだ……
 黙っているクインの肩を、母が丁寧にさすった。それさえも全てが遮蔽幕を挟んでいて、切なかった。
「お前のことを愛してくれる誰かを見つけてね……いつか、きっとそれで良かったのだと思う日が来るから……」
「母さん」
 クインは母にだけ聞こえるように、小さく低く呟いた。
「母さんのこと、本当に大切に思ってる。母さんが俺を愛していると言ってくれるように俺も母さんのことを愛してる。他に何も要らないから、だから早くよくなって、俺を一人にしないで……」
 母はそっと笑ったようだった。クインは自分の言い草に曖昧に首を振った。苦笑がこぼれた。
「……また来るわね。母さん、それまで元気でいてね。来月にはまたお休みがもらえると思うから」
 少女の仕種に立ち返ってクインは窓際に置いた帽子と鞄を取った。長居しすぎると全てを母に告白したいような気分になってくる。罪悪感のようなものなのか、母が何も知らないと思うほどに背筋を嫌な汗が通っていく気がして居たたまれないのだ。
 母の視線が無垢だからかもしれないとクインは思う。その無垢に耐えられないほど自分が情けなくて汚い生き物であると念を押されている気がしてたまらなかった。
 母に飛びきりの笑顔を作って見せて、クインは廊下へ出た。やっと重たい溜息がこぼれた。
 自分の嘘を母はどこまで信じているのだろう。疑われていないとするなら上首尾として良いはずだったが、素直に喜ぶ気にはならなかった。
 唇をきゅっとしめて廊下を歩いていくと、丁度担当の医者と行き違うことが出来た。母をよろしくお願いしますと頭を下げると、医者は慣れた仕種で頷いた。患者の家族の言うことなど、みな同じだ。
「経過はいいようだから、来月の面会日には遮蔽幕は下ろせると思うからね」
 はいと深く頭を下げると、医者は頷いて傍らを過ぎていこうとする。その背を先生と呼び止め、クインは駆け寄って鞄の中から50ジル金貨を3枚包んだひねりを引き出して医者の手に素早く握り込ませた。
「治療費のこと、母にはくれぐれも内緒にして下さいね」
 医者は何事もなかったように、金貨を懐へ入れてそうだったねと返答した。
「君のような熱心な家族を持つと、お母さんも幸せだね」
 それが嫌味かどうかは微妙なところだった。クインは苦笑し、くるりと踵を返して廊下を歩いていった。
 転移してきた地点まで戻って、再びタリアまで空間転移を行わなくてはいけない。詠唱の時間とその後の休養の時間を考え合わせれば、あまりゆっくりしている暇はなかった。
 どれくらいの期間を泣き暮らしていたのか、リィザは数えていなかった。
 悲しい、と思う。思えば涙が出る。切ないとも苦しいとも怖いとも思えば女将が呆れるほど容易く涙がこぼれてくる。自分はどこかがおかしくなってしまったのではないだろうかとリィザは泣きながら思い、でも、と強くその度に胸の間にひっそり収まる銀の紋様版を握りしめるのだ。
 ―――会いたい。きつく目を閉じれば、瞼の裏には遠い面影が微笑んでいる。彼の優しい手がそっと触れた以上のことを、更に進んだことをこの身体に加えるのかと思うだけで、身体の真芯から冷える。未だに知らぬ領域への本能的な恐れと共に、根深い嫌悪が身体を縛り上げてしまうようで動けない。凍り付いてしまった四肢の内側の、泣き続ける心にだけ、血が通っている。
 リィザは自分の首から下がったままの紋様版を硬く握りしめる。これをくれたときの少年の微笑みや紋様版に漂っていた彼の気配を思い出したいと願いながら。
「―――神様……」
 喉嗄れてしまったような声でひたむきに繰り返す言葉は同じだ。助けて欲しいとそれだけを願っている。いつもと同じ言葉を呟くと、また目の奥が熱く潤んできたのが分かった。
 その前日まで、彼の様子に全く変化はなかった。リィザは予兆さえ感じることが出来なかった。どこへ行ってしまったのだろうとか、何故だとか、そんな疑問は既に流されて見えなくなってしまっている。
 無事でいるだろうか。今、何をしているのだろうか。その二つばかりが交互に脳裏を浮かんでは沈んだ。
 少年は両親と共に行ったのだろう。債権者が押し掛けることを思えば親戚筋は危険だし、親の元に子があるのが自然だ。それに、親を捨て家を失った上でリィザ一人を連れて逃げおおせることは不可能だ。
 もう会えないだろうと薄く感じていることを、リィザは自分で認めたくなかった。そう思ってしまったら最後、本当に再会できない気がして怖い。明るすぎる未来ばかりを描けたわけではないにしろ、少年との恋が彼女を支えていたのは確かだったから。
 少年の名を呟き、リィザは自分の唇をそっとなぞった。そこにいつかあった優しい温もりを取り戻したかった。
 微かに熱っぽい吐息を落としていると、与えられた小さな部屋の扉が叩かれた。外から呼ぶ声は女将の声であった。慌てて扉を内側に開くと、女将はリィザの顔をちらと見て大仰に肩をすくめた。
「また泣いていたと見えるね。よくもまあ、そんなに泣くことがあるものだ」
 声音はさほど不機嫌でもなければ苛立ってもいない。呆れているのだ。リィザは俯き、小さく済みませんと呟いた。女将は溜息になったようだった。
「泣いてたって何も変わりゃしないんだって、何度言ったら分かるのかね、この子は」
 リィザはそれには返答をせず、ただ更に深くうなだれた。女将はいいよいいよと軽く言い、彼女の肩を数回叩いた。
「それはいいから、今日こそはもう働いて貰うよ―――そんな怯えた顔をおしでないよ、いきなり不意打ちで水揚げということは私は嫌いだからね。お前がちゃんと事情を飲み込んでくれるのが一番いいんだ」
 一瞬強張った表情をリィザはやっとゆるめ、黙って女将を見た。騙しうちにはしないという言葉を信じる程度には、女将の人為が飲み込めてきている。そうしない、と彼女がいったならそれは本当だろう。
「―――仕事……ですか」
 遊女でない者の仕事というものが何であるのか良く分からない。リィザが困惑したように首をかしげたのを見て、女将は軽い溜息をついた。
「今日は若い連中の貸し切りになってる―――他の娘達のお使いと、下準備をね。字は大丈夫って言ってたから、宴会の給仕もしてもらうよ」
 てきぱきと指示されて、リィザは頷いた。使役奴隷であったせいなのか、他人から指示を受けると無条件に頷いてしまうところが彼女にはあった。
 遊女達から買い出しの希望を聞き、それを簡単な書き付けに起こしてリィザは妓楼を出た。一人でそこを出るのは初めてだった。泣き暮らして涸れて死んでしまいたいと思っていた頃に数度、女将が外へ行くときに同行している。
 女物の小物や化粧品を扱う店はタリアの中に分散しているが、大抵は妓楼に出入りする特定の業者がいる。彼らの持ってくる見本帳をめくって遊女達は自分の欲しいものを指定するのだ。店の方には女将と共に足を運んでいるから地理は問題なかった。案内ということだけであれば。
 店はタリアの最浅部周辺にある。頼まれた小物の名を店員に告げて店先の椅子に腰掛ける僅かな間、店の硝子窓から目をやればすぐそこにタリアと通常の世界の区切りである二本の柱が立っているのだ。
 ―――あそこを抜ければ。リィザは僅かに瞬きをする。
 あの2本の柱を抜けてしまえばそこは彼女が以前住んでいた世界だ。僅かに息を潜めて駆け抜けてしまえばあの温かで幸福だった日々が待っているような錯覚さえ呼び興ってくる。それは幻覚だ。幻覚だと、自分の夢想だと、頭のどこかで弱々しく囁く声を聞くことが辛い。辛さはすぐに痛みに変わって胸を貫く。細く。
 リィザは微かに唇を噛み、柱から視線をもぎはなしてじっと俯いた。帰りたかった。自分の帰還できる場所などもうどこにもないと知っていても、ここではないどこかへ帰りたかった。逃げ出したいという衝動が僅かに足下から忍び寄ってくる。
「……お嬢様?」
 強く呼びかけられてリィザははっと我に返った。注文の品を入れた籠を持った店員が、所在なく立っている。お嬢様というのが自分のことであると気付かなかったのだ。慌てて立ち上がり、中身を確認して外へ出る。代金は商店から月末にまとめて請求が来るのだ。
 外は薄暮にかかり始めていた。宴会は通常日が落ちてからだから、下準備をも手伝うならばもう帰らなくてはいけない時間だ。けれど、どこへ。
 リィザはじっと柱を見つめる。あの向こう側、僅か数十歩の先に走り出せば助かるかも知れないという囁きは、先程よりも遙かに大きく、強かった。
 帰りたい。呟いた瞬間に、脳裏に再び恋しい面影がよぎった。帰りたい。帰りたい、あのなだらかで平和だったあの日々へ。あの人の腕の中へ。身体の温度で癒されて幸福だと信じていられた遙か、―――遙か、遠い過去へ。
 帰りたいと繰り返して呟いたとき、自分の声が低く濡れているのに気付いた。逃げ出したいというよりは、それは遙かに回帰衝動に近かった。今居る場所がどうしても自分の身に合わない、その現実からも目を背けてしまいたい。
 帰りたい。帰りたい。その言葉だけが胸の底から、心の奥から、ただひたすらに込みあげてくる……
 ふらりと最初の一歩が出た。いけない、とリィザは思う。だがその制止はひどく弱くて自分を止めてくれる力にはなり得なかった。
 何かに酔ったようにふらふらと柱の方へ行こうとした、その時だった。
「―――お前、見習いだろう?」
 低い声と共に肩に置かれた手が、リィザの意識を現実へ引き戻した。ぎくりとして立ち止まり、それから恐る恐る振り返るとそこにいたのはまだ年若い男であった。左側の袖が肩から軽く風になびいている。そこに中身がないとすぐに分かった。
 リィザの視線がそこへ行ったのに気付いたのか、男は苦笑した。
「左腕は2週間くらい前に無くしたんだ。生えてくるのを待ってる」
 まるで財布を落としたのだというように軽く言い、男は右手でリィザの腕を掴んで僅かに自分の方へ引き寄せた。
「……どこかの妓楼の見習いなんだろう? あの柱を越えたら酷いことになる、あまり遅くならないうちに自分の店へお帰り」
「あの……私」
 何かの言い訳を探して唇を動かし、リィザは俯いた。ここから逃げ出したいという瞬間の思考を、まるで見透かされていたような男の口振りに微かに恐れが忍び寄ってくる。女将に知れてしまったらと思うと、叱られるという恐怖よりも信頼を裏切ってしまったという罪悪感の方が胸を刺した。
 リィザが黙っているのに男はゆるく笑い、ちゃんと帰れよ、と念を押した。
「その白い衣装は妓楼の見習いの印だから、あそこを出て1日もたたないうちに掴まるよ。タリアの自警衛士ならいいけど、脱走した女を専門に狩る連中だっている。そんな連中に掴まったら終わりだ」
 淡々と語られる内容に、過剰な恫喝は感じられなかった。だからこそそれは事実であると信じることが出来た。リィザは僅かに身震いし、尚更深く俯いた。
 今リィザが着ているのは白い簡素なワンピースだ。遊女達の衣装は赤地に金と定まっており、いずれ遊女となるべき見習いは白となっている。それはタリアに店を構える妓楼全体に共通する規範であった。この衣装はそうしたときの目印でもあるのだ。いつか客を取る身であることを報せるための、どこかの妓楼の抱える身であることを教えるための。
 リィザは男に深く頭を下げた。逃げられないのだと思った瞬間にまた、涙が上がってきそうになったからだ。それを無理矢理飲み込もうとしていると、男が大丈夫か、と宥めるような声を出した。
「道が分からなくなったのなら、送っていこう。お前はちょっとぼんやりだな」
 こつんと額を指で叩かれて、リィザは首を振る。迷っていたのは道ではなかった。
「大丈夫です。あの……あ、ありがとう、ございました……」
 それだけを言い捨てるようにして、リィザはくるりときびすを返した。早足だった歩調がすぐに小走りに変わった。
 走りながら息苦しくリィザは目を細める。逃げたかった、帰りたかった、どこでもいいから投げやりに全てを放擲したかった。それを見透かしていたように、男は自分を呼び止めた。多分、あれも運命だったと思えるほどに。
 殆ど逃げ帰るようにして妓楼へ帰り着くと、女将がお帰りと微笑んだ。この場所こそが帰るべき所なのだと念を押されたような気持ちになり、リィザは僅かに切なく目を細めた。女将は籠の中身を簡単に確認するとさあ、と彼女の背をさすった。
「あっちで顔を洗ってあたしの部屋へおいで。化粧と髪を直してあげようね、ご褒美だよ」
「ご褒美……?」
 そう、と女将は笑い、下働きの少女にリィザの持ってきた籠を渡して遊女達に中身を振り分けるように言いつけた。少女が頷いて消えるのを待って女将はリィザの頭を丁寧に、優しく撫でた。
「お前はちゃんと帰ってきた―――ここへね。良く戻ってきたね。逃げ出したってすぐに掴まるんだってことを、10人に一人くらいは経験するんだよ。お前は逃げなかった。だから誉めているんだ。……お帰り、あたしの娘」
「……私……」
 逃げようとはしたんです、という言葉は喉に引っかかって発することが出来なさそうだった。リィザの様子に女将は少し笑い、いいんだ、と簡単に流した。
「顔を洗っておいで。綺麗になれる魔法をかけてあげよう。―――今日の宴席はタリアの裏のチェインって辺りに溜まっている若い連中のだから、年齢の近いのも沢山居るよ。気楽に話くらいしておいで」
 僅かにリィザは怯む。既に店に上がり込む客としての彼らを見知ってはいたが、彼らは一様に年齢若い者特有の残酷さを持っているように思われた。この店に辿り着く以前に男に連れられて巡った妓楼で聞いた、微かに哀れむような女達のさわめきが耳の奥に蘇ってくる。
 僅かに青ざめたのが分かったのか、女将はどうしたの、と彼女を覗き込んだ。
「そんな顔をするんじゃないよ。折角可愛い顔立ちだっていうのに、台無しじゃないか。お前はもうちょっと自信を持った方がいい。だから魔法をあげようと言っているんだから早いとこ顔を洗っておいで」
 ほら、と背をつつかれてリィザは頷くが、不安は拭えない。丁寧に顔を洗ってふと鏡を見ても、そこにいるのはいつもと同じように怯えた目つきの痩せぎすな少女でしかない。
 黒い髪。黒い瞳。少年はいつも黒曜石のようだとか夜闇の静かな美しさに譬えてくれていた……
 いけない、と思ったときにはもう涙になっている。これほどまでに恋しい気持ちを抱えてこれから先、どうして生きていけばいいのかリィザには分からない。
 だが、今すべきことは明らかであった。リィザは帰りたいという呪文が再び浮かんでこようとするのを押し込め、もう一度、今度は冷静になるために顔を洗った。


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