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 帝都の夜空に花火が咲いている。6月は祭事が多い。北寄りの国々では待ちかねた、短い夏を楽しみ昇華するために沢山の祭事がおかれている。初夏シタルキアにおいて最大の祝祭は始祖大帝の生誕祭であろう。始祖大帝の生誕の日付は実は不明なのだが、6月の末日を最終日として3日間帝都を華やげてくれる。
 縁日、見せ物、それに滅多にはない皇族の臨席、貴族の子弟達の仮装行列―――
「聖祖大帝ってどんな方だったんでしょうね?」
 山車の上に座りながら、きつい帯のせいで苦しく先程から呼吸をしている弟にリュース皇子はさあ、とゆるく笑った。
「記録はあんまり信用できないからね……知りたければ父上の跡を継いだらどう?」
 皇帝にしか代々伝授されていかない秘密もある。それがどんなものか想像もつかないが、大量に神秘的なものも混じり込んで、一種嫌悪さえ抱くようなおどろしさを醸していた。秘伝、秘宝、秘画に儀式。
 皇子の返答に弟は途端に厭な顔をした。
「僕、勉強ってからきしだから……兄上の方が絶対向いてると思うんですよね」
 弟の言葉にリュース皇子は苦笑した。自分が立太子に一番近いことは知っているが、母の違う弟が2人いる。第1皇子は自分だが体の弱さを引き合いに出されれば苦しいだろう。
 が、異母弟たちとて憎くはない。彼らの母は宮廷の華やかさが苦手で、次男を出産した頃から帝都郊外の静養地、ロリスに引き込んでいる。帝都よりは遙かに自然の豊富な環境でのびのび育ったせいなのか、2人とも非常に素直で明るい性質だ。
 ライン皇子がまたふう、と苦しい呼吸をついた。もう千年以上も昔に滅びた漢氏という少数民族の民族衣装は裾が長く、帯がきつく、それを幾重にも捲くために傍目にも苦しげだ。リュース皇子も同じような格好であるが、明確に2人の衣装には差があった。
 自分の衣装は右肩を脱いでその上から漢氏様の甲冑を被せてある。刺繍も縫いの糸も全てが燃えるように赤い。これは建国の功臣、イダルガーンの扮装である。
 そしてラインの方は同じような赤い衣に金糸銀糸で細かく刺繍の入った打ち掛け、沢山のかんざし、施された化粧、刺繍は蘭の花の図案。これは始祖大帝の皇后であったラファーナ妃を模している。ラファーナ皇后の逸話として最も有名なのは「オレセアルの緋天使」としての救世伝説で、剣の名手として名高い。ラインは先の少年剣術会での優勝を受けて、この仮装行列の後の剣の模範演武までを担当するのだ。
 同じ漢氏の衣装でも、女物の方が格段に身体にはきつかろう。そんな状態で剣の型の披露をするということで、ライン皇子はここ暫くそれに引き合わされていたが、天性の勘があるのか昨日最後の練習を覗いたときは流麗な動きであった。
 ふう、とまた同じような溜息を弟がついた。リュース皇子は小さく笑い、弟の胴をきつく締める帯の隙間から、数本隠し紐を抜いてやった。抜いても差し支えない部分の紐だから構わないだろう。少しは楽になったのか、ライン皇子はにこりと笑う。そうすると扮装のせいもあってか少女のようだった。
 その笑顔に見せられたのか、歓声が上がった。適当に曖昧で反感を持たれない程度の微笑みを振り分けながら、リュース皇子は弟に手を振ってやるように囁く。他の高位の貴族の子弟達も華やかに笑顔を振りまき、聖祖大帝とも呼ばれる建国者の時代を模した仮装行列を盛り上げることで熱心だ。
 頭上で光の花の咲く音がする。つられたようにライン皇子が見上げ、素直に笑顔になった。刹那炸裂する光に照らされて、弟の頬が微かに反射する。
 花のようだと讃えられる自身の美貌とは少し異なるが、同じような女性系の顔立ちは似たところがなくもなかった。今の自分の年齢と同じくらいになればきりりとした少年のようになり、いずれは瀟洒で華やかな宮廷貴公子となるだろう。その時自分が皇帝であろうがなかろうが、こうして幼い日々に密な閉鎖空間を持つことがきっと良い方に作用する。弟の気性からしてそれは確定に思われた。
 仲の良い兄弟であることはいずれ、何かの武器にもなろう。ましてリュース皇子は元来が虚弱で、戦向きのことが出来にくい。軍学として用兵や戦略を学ぶことが出来ても、実際戦場にたてるかどうかは微妙なところだ。ライン皇子はそれを補完してくれる存在となるに違いなかった。
 ライン皇子は花火に見とれたり沿道に詰めかけた群衆に手を振ったりで忙しい。それを微笑ましく見守りながら、リュース皇子は自分も同じように軽く手をあげて愛想を振りまいた。
 視線を投げかける度にその周辺が熱を持つのが嬉しいようでもあり、それが自分という個人へ向けるものでないと知っているから複雑でもあり、だがあまり小難しく考えることでもないと思うこともあり、リュース皇子はただ意味のない笑顔だけを零すことに専念している。
 沿道の人群れをさらりと流した視線が、ふっと引っかかるように戻った。何かを見た気がしたのだ。とても懐かしい、何か大切なものを。
 その感触を確かめるように、ゆっくり進む山車の上から皇子は視線を流し返した。ふと何かを掠め、気付いて戻り、そうして焦点を絞ったその瞬間。
「あ……!」
 皇子は思わず腰を浮かせて振り返った。彼の珍しい動揺に、周囲の人垣が触りと蠢く。それが決定的な違和感になろうとした刹那、人々の波間からくるりと背を返す細い身体があった。
 待って、と叫ぼうとしてそれを思いとどまったのは3年前の苦い記憶が蘇ったからだ。
(逃げるんだね)
 自分の不用意な言葉で蒼白となったあの顔。間違いがない。人目を引かないように髪を……染めているのかかつらなのか良く分からないが金色にして編み上げ、当時と変わらぬ少女の様式に身を擬態しながらこちらを見ていた。
 名前も知らぬ、あの「少女」。帝都にまだいたのか、それともどこかから戻ってきたのだろうか。いずれにしろ、間違いなく自分を見に来たのだと皇子は確信した。自分や弟がこの仮装行列に参加することは前もって告知されている。そのせいもあって沿道は凄まじい人だかりだ。
 その中から見つけた奇跡に皇子は笑った。これは本心からこぼれてくる、安堵と嬉しさのためのものであった。皇子の晴れやかな笑みに一層周囲が歓声を上げる。それに上の空で手を振りながら、皇子は群れを抜けて流れに逆らって泳いでいく、美しく伸びた背筋を見つめた。
 背は良く伸びている。以前から背格好は同じ程度であったが、今もそれは変わらないだろう。少女としては既に長身という部類にはいるほどに背丈はあるが、細身の印象が強いためにすらりとしたしなやかさだけが目に残る。
 3年前に見失ったときにも卓越した美貌であったはずが、再び目にすれば一層鮮やかであった。その場だけ、空気の色が変わるほどに。多分彼は自由に生きているのだろうと皇子は悟った。一目見たときの印象があまりにも違う。
 良かったと僅かに唇を綻ばせていると、ようやく人垣を抜けた彼が振り返った。皇子はそっと視線を彼にまっすぐあてた。彼もじっとこちらを見ている。
 まさぐりあうようなもどかしい一瞬の後に、瞳がかち合った。夜といっても沿道の灯りで昼間ほどに明るい大路では、全く同じ色の瞳が見て取れた。
 皇子は彼に笑いかける。単純に、皇子は再会が嬉しかったのだ。だが彼の方は反応が違った。一瞬何かに撃たれたように頬を痙攣させ、そして顔を歪めて隣の男に何かを言った。
 それで初めて連れがいることに皇子は気付いた。年齢の頃はそう変わらないだろう少年が一緒だ。背は随分と高いが顔立ちが幼さの片鱗を残している。
 少年が「彼」の肩をぽんと叩いて背を返す。それを追うように身を返して、彼は振り返った。こちらを見つめてくる眼差しは、色味が複雑すぎて明確な名を付けられない。
 憧憬でもない。再会の喜びでもない。帝都から追い出したのだという元凶を憎しむ目でもない。
 どれかというなら、と皇子は路地に紛れて消えていく背を見送りながら思った。あの僅かに痙攣した頬の種類は、切なさだったかもしれない。哀しげであったかもしれない。それは単純な理屈ではなく、彼が皇子に対して複雑な思いを抱いていることの証明の気がした。
 ……だが、何のための? 皇子は僅かに顔を曇らせる。兄上、というライン皇子の声に気付いたのはその時のことだった。
「そろそろ城へ入りますから、立って歓呼を、って」
 仮装行列もそろそろ終幕というわけであった。山車の上で皇国万歳を叫ぶ民衆に応えながら、皇子は彼の消えた方角を目で追っている。帝都にいると分かっただけで胸が温かになった。
 探そうという気はなかった。彼が皇子を恐らくは自分の意志で見に来たことで、そして憎まれていなかっただけで十分であった。皇子と話がしたいと思うなら、幾らでも方法はあるはずだ。例えば中等学院だとか。今年の冬には卒業ということになっているが、自分がまだ在籍していることは知っているはずだから。
 やがて山車が完全に城の内部へ入ってしまうと、皇子は弟と共にそれを降りた。ライン皇子はすぐに演武が始まるため、簡単に着付けを直して最後の練習にと借り出されていく。皇子は着替えをするために、控え室の方へ足を向けた。
 皇族用の控え室には皇子の母がいた。父帝は見えない。他の儀式があるのだろう。始祖大帝の遺産と呼ばれるものは沢山ある。それらをいちいち確認するような儀式はうんざりするほどあった。
「あら、終わったのね、リュース」
 母が微笑む。ええ、と頷いて衣装の裾を踏まないように気をつけながら皇子は母の隣へ座った。侍従がすぐにやってきて、彼の衣装をいくつか手早く見せていく。その内の一つを適当に指定し、合わせた他の衣装や装身具を揃えるために侍従が下がると彼は甲冑の紐を解いた。本物ではないからそれは殆ど繊維で出来ていて身体に負担はないのだが、やはり開放感はあった。
「ラインの演武が始まる前に着替えますから、一緒に行きましょう、母上」
 そうね、と母妃は笑って頷き、皇子の頬をゆっくり撫でた。そんな風に母に触れられるのは本当に久しぶりで、皇子は嬉しくなって俯く。ラインのように満面で表現できないのは性分であったが、それでも彼の顔がほころんだことで母もまた、にこりと笑った。
「演武が終わったら花火のいいところが残っているから、高演台にでも行きましょうね」
 皇子は他愛ない約束に微笑んで頷く。母と持てるゆっくりした時間を、皇子はとても貴重に感じていた。
 やがて侍従が戻ってくると、先に結い上げて飾り羽をさしてあった髪を解きほぐした。きつくあげられていた髪の根本が弛むと同時に痛む。微かに顔をしかめてこめかみを押していると、母が隣で呼吸を呑んだのが分かった。
「……母上?」
 皇子は不思議に母を見つめる。母妃は一瞬泣き出しそうな顔で頬を歪めたが、すぐにそれを取り繕った。が、慌てて浮かべた微笑はぎこちない。何か、信じられないものを見てしまったという顔をしている。
 母上、ともう一度皇子は呼びかけた。皇妃は僅かに首を振り、何でもないのよと笑ったが、それが嘘であることは考えなくても良かった。怪訝な感触に皇子が戸惑っているのを配慮したのか、母はいいのよと重ねて笑い、皇子の手を取った。
「妹の子供の頃に似ていたから吃驚したのよ。あの子もとても美人だったから……」
 そうですか、と皇子はそれに異論を唱えなかった。母方の叔母は十九の時に亡くなっている。写真を見たことがあるが、確かに母や自分と共通する繊細で端麗な美貌の持ち主であった。
 ともかくお召し替えをといわれ、皇子は控え室を出る。衣装室で漢氏様の仮装を脱いで新しい衣装に袖を通していると、目の前に鏡がおかれた。髪の手入れを始めるのだろう。
 視線を鏡の中の自分に与え、そして皇子もまた驚愕して声を挙げた。どうしました、と侍従が聞くのに首を振り、今度はゆっくりと鏡に映る姿に目を走らせた。
 髪は漢氏の扮装用に黒く染めてある。きつく高めに結い上げられていたせいで、下ろされた髪は僅かに波打ち、皇子の形の良い頬を縁取っては流れ落ちている。仮装の際の見栄えを考慮して、ラインほどではないにしろ施されていた化粧が唇に華やかな色として残っている。
 まるで少女のような姿。
 3年を経て見失った少女が鏡の中から戻ってくるようだ。
 皇子は他人がひっきりなしに賞賛することに殆ど無関心で、自分の容姿には無頓着であった。3年前も美しい少女だと思った。だが、それは印象だけで顔立ちの明確な刻印ではなかったのだ。
 だが、今ならはっきり分かる。自分が最初に中等の教室に入っていったとき、教室を包んで鳴り止まなかったざわめきの意味でさえ。
「似てる……」
 皇子は呟いた。似ている。自分たちは鏡に真向かうようにそっくりだ。髪を黒く染めて印象が変わったことで初めて気付いた―――
 そして皇子は僅かに振り返り、いや、とすぐに首を振った。自分を見つめる視線に何が籠もっていたのかは分からない。……彼の方は自分たちの相似について知っているのだろうか。
 探したい、と皇子は思った。今までの何よりも強く、そう思った。
 水滴が跳ねた音が、狭い浴室に響いた。浴槽の中で膝を抱えていたクインは物憂く顔を上げ、完全には閉まっていなかったらしい蛇口をぎゅっとひねった。金属のこすれる感触が、手の平に痛い。
 のろのろした仕種でその手を浴槽に戻し、再び同じ姿勢に戻る。前と違うのは顎を膝に乗せたことだけだ。張った湯は既に熱を失いかけ、出ていくのに勇気がいる。
 ……クインは微かな溜息をもらして瞬きし、浴室の換気窓を見た。一瞬の閃光が窓を光らせているのは城を中心にあがる花火だろう。
 クインは城か、と呟いてゆるく首を振った。何故見に行ったのだろう。……行きたいなどと言ってしまったのだろう。後悔ばかりだ。
 埋もれるほどに花を飾り、美しいリボンを結び、静やかに進む始祖帝の故事に倣った仮装行列は馬鹿馬鹿しくなるほど豪勢だった。一際歓声の上がる山車は遠目からもすぐに分かった。近づききれず、遠くなり過ぎるほどに離れられず、中途半端な距離の人垣の中でじっと山車を見ていた時、自分は何を考えていたのだろう。
 漢氏の扮装のせいで黒く染めた髪は、いつか自分がしていたのと同じような艶やかさだった。大衆に合わせたような微笑みも、きっと過去の自分とよく似ている。改めて見つめれば、似通った部分ばかりが発見できた。
 きっと入れ替わったって誰も気付かないだろうに。あそこにいるのが何故自分でないのだろう……
 妬みというわけでもなく、憧憬というものでもない。ただ自分がきっと永久に手にしない、だが権利はあったはずの輝きを見せられては胸が痛かった。
 皇子は相変わらず彼と同じ顔立ちをして、そしてずっと無垢に美しかった。手入れされた肌やよく磨かれた爪などは付属物に過ぎない。誰をも寄せ付けない輝きを、本人は殆ど意識しないままに放っていることがたまらなく眩しい。涙が出る。
 皇子が自分を見つけて笑ったことも、一瞬巻き起こった激しい怯みのために思わず逃げてしまったことも、全てが哀しく思われた。皇子は悪くない。いつか彼が逃げていくのを見ないふりをしようといってくれた言葉の通り、今でも彼を庇ってくれるつもりでいる。
 その慈悲。憐れみ。そんな言葉を思う度に腹の底から噴き上がってくるようなものがある。双子でありながら片方は城で大切に跪かれ、片方はタリアの奥の汚いアパートで子供自体との永訣を決める瞬間をどうしていいのか測りかねて震えている……
 クインは顔を歪めた。誰が悪いと声高に訴えることが出来れば楽だったのに。あの皇子の微笑みさえ辛い。同情なんか欲しくないのだと斬り捨てることは簡単なのに、理性はそれを捉えているはずなのに、納得させきれないものが残る。
 過去にどんな理由があったかは知らない。だが今自分がここに、皇子が城にいることは確かだった。山車の上で隣にいた蘭芳皇后の扮装の少女は弟のライン皇子だろう。皇族の隣に同位置で座ることが出来るなら限られてくる。
 あそこにいて、弟皇子と微笑みを交わしていたのは自分だったかも知れないのにと思うことを止められない。
 何故、何故、自分ばかりが不幸の籤を引くのかと何かにたたきつけたい衝動を止められない。
 そして、それは誰のせいにも出来ないからこそ、自分の中に跳ね返ってくる。
(誰かを犠牲にしなくては生きていけない)
 ライアンの言葉に反発を覚えたことさえ巧妙な偽善に思えてくる。
 クインは舌打ちした。狭い浴室にそれが殷々と響いた。また一瞬の閃光が窓の向こうで輝き、やがて遠雷に似た音が微かにした。それが合図だったかのようにクインは身震いをした。肩の辺りまで深く温い水に浸かった肌は既に水気でふくらと柔らかになっている。いい加減にここから出て、寝室に行かなくてはいけないと分かっていて、足が竦む。
 水から上がりかけては寒いと呟いて戻ることを繰り返している。陥没にはまって上がれなくなった獣みたいな真似だとクインは皮肉ぽく口元を歪めてみるが、あまり面白くなかった。
 長い溜息を落としながら、クインは浴室の窓をずっと見ている。花火が断続的に初夏の夜空を照らしているのをここで見終えるほど時間を潰す気はないが、だが現実、湯から抜けて部屋へ行くだけの勇気がない―――寒いから、とクインは呟き、唇を軽く噛んで額を膝に押しあてた。目の裏が熱い。
 いっそ、早くしろと呼んでくれたらいいのに。クインは歯を食いしばって嗚咽を飲み込みながら、ライアンの冷淡さについて一瞬激しく憎み、そして彼の正しさに苛立った。まだ機会はあるのだとライアンは言外に告げている。彼が自分の言った担保を受け取ると承諾したのには、この最後の機会を与えることも含まれていたのだろう。
 ライアンの考えは分かっている。彼は自分を手持ちの男娼にすることには乗り気でない。今でも。クインが怖じ気づいてやめるというのを待っているのだ。頭でしか痛みを想像できない他人のことよりも自分に起こる出来事の痛みを優先しろと、言っても分からないなら感覚で判断しろと迫る、そういうやり方だ。
 ライアンは正しい。クインは温い水で目元を微かに洗いながらそれを思い知る。
 自分がまだ子供で攻撃的なのは不安だからということさえも見抜いている。不安でなくなれば少しはましになるだろうか。……子供でなくなれば、もう少しはましになれるだろうか。
 無垢という言葉の意味をさほど深く考えたことはなかったが、この夜を境にして別のものになるということは永遠の無垢からは見放されるということなのだ。
 そしてあの城に入るには、無垢であることが相応しく、そして絶対条件であるように思われた。
 もう二度とあの場所に行く資格さえなくすような気がしてたまらない。来るなと言われているようで居たたまれない。自分の帰る場所を、最後に行き着くべき場所を、その門を潜る資格を自分で手放そうとしている。
 クインは顔を歪めた。
 何故という憎しみだけが、誰に向けても間違いだと分かっている憎悪が、頭の中を散々走り回っている。
 美しい扮装。綺麗に整えられた衣装、染められた髪、磨き抜かれた爪の淡い色。
 その全てが、憎い。憎い。憎い。
 何故。何故。何故。
 何故、俺なんだろう。何故、皇子ではないのだろう。何故、俺じゃなくちゃいけないんだろう。何故、何故―――
 僅かに首を振ると、水面に映る花火が目の奥を焼いた。
 憎んでやりたい、呪ってやりたい、口汚く罵り引き据えて、自分をいずれ買うだろう客達の前に放り出して目の眩むような絶望に食らいつくされてしまえ―――それが何故、俺でなくてはいけない!
 何故、と呟くと一度は沈んでいった涙がまたこぼれ、顎から落ちた。僅かな波紋がゆらりとのたうつ。
 自分は汚い。自分の不服従を誰かのせいにしたくてその相手が見つからないのを、皇子に被せて憎しむことで釣り合いを取りたがっている。必要なのだと分かっていても、身体が動かない怯懦をも、憎い。それも皇子のせいにしたいのだ。
 どれだけ理不尽かも知っていて。
 皇子は十分自分に優しかった。事情など何も知らなかった故に、あれほど直截な聞き方をした。それを憎いと思ったことは今までなかった。皇子の指摘がなければ気付かなかった瑕疵がある。あのまま魔導実験にまで進んでいれば、破滅は明らかであった。
 理性では分かる。十分に。だが、今自分を支配しようとしているのは衝動であり、衝動は感情の突端、心の真奥の反射だ。嫌だ嫌だと泣き叫びながら、他人が自分のために苦難を浴びることを肯定したくなる。
 そしてそれは完全に自己の言葉と矛盾であった。取るべき道が一つであることは帝都に戻ってきたときから分かっていた。自分で考え、自分で決めたことを守れないなら、自分の意志なんてないのと同じだ、とクインは僅かに頷く。その新しい考えは、やっと自分を納得させうるものに近かったのだ。
 ぴちゃんという音が、もう一度した。蛇口はやはりよく閉まってなかったらしい。クインはゆっくり腰を上げ、きつく蛇口をひねった。僅かに軋む音がして、水はどうやら完全に止まったようだった。
 それをきっかけにしたようにやっと足が出た。長く、もう殆ど水と言っていい温度になっている湯の中にいたことで、やはり肌がいっぺんに冷える。反射的に身震いし、クインは浴室から出て手早く身体の水気を布で拭くと、一瞬迷ってから夜着の長衣を被った。釦を止める指先が細かく震えている。
 その作用を、もうどうこう誤魔化す気はなかった。クインは眉をひそめて笑い、やはりライアンに頼んで良かったと自嘲と共に安堵した。怯えている自分を知るのは彼だけだ。彼が黙っていてくれればそれで済む。それにライアンはチアロのように喋り回るのが得意ではないのだから。
 ライアンは寝台に登って高い位置の窓を開けていた。何かと思えばそれは煙草の煙を逃がすためであるらしい。初夏の夜はさほど寒くないのだろう、上半身は既に全て脱ぎ捨てて、ゆるいズボンだけだ。
 右肩に、一目で分かる深い傷の痕跡があった。クインがそれに目を留めたのに気付いたのか、3年前にな、と薄く笑う。
「完全に直っているから気にするな。目に触るようなら見ないほうがいい」
「直ってる割には傷は残ってるんだね」
 驚くほどすんなり声が出た。さほど声が強張ったりしていないことにクインは強く安堵した。
 ああ、とライアンは軽く頷く。カレルが面白がって傷をいじり回したからな、と前タリア王の名をあげながらの彼の声は苦笑気味だ。
 そう、とクインは微笑み、寝台にすとんと座った。彼が引かない姿勢なのを見て取ったのかライアンは微かに眉を寄せ、すぐに元の無表情に戻って煙管を窓枠に軽く打った。灰を切るのだ。
「写真、そこにある内から好きなのを選べ」
 ライアンが軽く顎で示す小卓に、幾枚かの写真があった。
 少女の扮装と少年の格好の2種で一昨日チアロが撮ったものだ。写真という容姿を形残すものへの反射的な嫌悪はあったものの、客に見せるのに必要だからといわれれば頷くしかない。後はライアンやチアロが写真を他人の手には絶対に渡さないといってくれた言葉を信じるしかなかった。
 どれもそう写りは良くないが、ライアンに言わせるならその方がいいらしい。チアロが客の約束を取り付ける時に有利に運べるからと言われて良く分からないまま頷いた。いずれにしろ、クインはそちらには疎いことを自分で承知している。
 ライアンがようやく煙草を終えて窓を閉めた。
 10日ほど前にライアンが宣言したように、クインはチェインよりはやや外れた場所のアパートにいる。周辺は安い飲み屋や賭場などがぽつりぽつりとあるような、タリアの中では閑散とした地区だ。
 チェインに置くとライアンの目が届く代わり、少年達の目に付くと敬遠された。ライアンは堂々たる少年達の王だが、彼の特別扱いという位置は諸刃の剣だ。厚遇もされるだろうが危険も増える。
 このアパートには他の住人がいないのもよかった。前タリア王の残党の根城であったというここを、彼らを狩った報酬にライアンがアルードにねだったのだとチアロが言っていた。後でライアンも似たようなことを言っていたから、多分それは本当だろう。
 地下から例の地下水路へ降りることが出来るし、水路はタリア中へつながっている。ライアンがアルード王にねだったというならその辺りを考えているのだ。
 好きな部屋を選べと言われて最上階にしたのは、今し方ライアンが喫煙のために開けていた窓から遠く魔導の塔と、その更に向こうに皇城が見えるからかもしれない。白く輝く光の色のような城壁を見た瞬間に、この部屋がいいと口にしていたのだから。
 選別した写真を渡すとライアンは頷き、他の写真に火をつけた。灰皿の上で身をよじるようにめくれ、瞬く間に黒い塊になっていくそれをクインはじっと見つめる。写真に対する嫌悪を考えてくれることを有り難く受け止めながら。
「……やめるかと思ったが」
 ライアンの方も何かを思ったようで、そんなことを言った。クインは僅かに笑ってみせる。それは思っていたよりもずっと晴れやかであったように思われた。
「止めたって何も変わらないよ……」
 口にしながらそれが真実であるようにクインは思った。
 ライアンは僅かに首をかしげ、それから水差しを傾けて灰皿の上に残る僅かな火種を完全に消した。水差しを戻すそのままの手で、クインの手首を掴んで寝台の上に引き倒す。
 それがいかにも唐突で、クインは慌てて待って、と遮った。ライアンは少し笑った。
「止めるか?」
 からかうような素振りが滲む口調にクインはライアンを軽く睨みあげ、そして違う、と首を振った。
「そうじゃなくて……あ、灯り、消してよ……」
 何か理由に見えるものを探して口走った言葉に、ライアンはああ、と素っ気なく応じた。自分の手首を掴んでいた手が離れ、寝台のすぐ脇に置かれていたランプの灯火が簡単に消える。
 ふっと夜に沈んだ部屋で、クインは微かなライアンの吐息を聞いたように思った。
 店の少ない路地近いアパートでは、窓からの明かりは殆どない。月はあるだろうが、今は建物の影になっていて光は射さない。いくら目を凝らしても、ライアンの表情はだから読みとれなかった。
 寝台に引き倒されたままの姿勢で背を預けていたクインは、居心地悪く身体をずらした。どうしていいのか本当に分からない。何か言うと支離滅裂になるのは自明に思われたから殊更、黙り込んだ。
 ライアンが今度は正真正銘の溜息をついた。何を待たれていたのかを知っても、声高に非難する気にはならなかった。それが非難に値することなのかどうか、クインには判断が付かない。
 身体の方は既に震えが止まっていた。深いところで観念してしまったのか、すとんとした脱力で湯船の中にいたときより余程呼吸が正しい。あとはライアンがしたいようにすればいいのだという諦観と、彼ならそう酷いことは強いまいという安堵がやや自分を落ち着けている。
 ライアンが唇を開いたような気配がした。黒い空間の中で、全ては気配であった。クインがじっと彼の顔の辺りを見上げると、ライアンは僅かに首を振り、そして頷いたようだった。
 ライアンの影が動き、彼の指が自分の頬に触れた瞬間、撥ねるように迫り上がった動悸をクインは聞いた。自分の耳元で、自分の心臓の音が激しく聞こえる。
 それに追い立てられるようにクインは目を閉じ、深く呼吸をした。その音と鼓動だけが世界に満ち満ちていく。閉じた瞼が痙攣している。噛みしめた唇を呼吸のために僅かに開き、長い溜息が震えていたような気がして左手で口元を押さえた。
 そのまま呼吸を整えようと何度か肩でそれを均していると、他人の指が自分の胸の位置にある釦を外すのが分かった。微かに肌に触れる衣の動きさえ、いちいち気に掛かる。
 鳩尾のあたりまでをはだけ終えた指が、何かを辿るように探すように、ゆっくり上がってくる。喉に指が触れる。込み上がってきた吐息を逃がそうと背をよじると、ぽろりと頬を伝うものがあった。
 それを空いていた右手でそっと拭い、クインはその右手をライアンの方へ伸ばした。何かに闇雲に縋りたい瞬間であったかも知れなかった。指先に、彼の体温が近くなる。だが、それを感じた瞬間にクインは手を引いた。そんなことをして得られるのはライアンの同情だけであると思ったのだ。
 どこへやるか困惑した手を迷っていると、指の間にするりと彼の指が入り、組合わさるようにして頬の横の辺りへ落とされた。
 掌の熱。体温と、微かに感じる脈。
「ライ……」
 クインは何かを言いかけた。何を言おうとしたのか、良く分からない。
 ―――その瞬間、不意に白い光が部屋を照らした。驚愕でクインは反射的に跳ね起きた。何があったのか、理解できなかったのだ。
 一瞬の後、低い轟音が遠くから聞こえた。花火だ、と理解するのに少しかかった。この祝祭の日の終わりを告げるべく、皇城からあげられていた花火の最終幕が始まるらしい。最初の閃光を皮切りにしたように、次々と光の花が空に咲いては消えていく。
 ライアンがするりと重ね合わせた手を離し、花火だな、と呟いた。そうだね、とクインは淡く返答し、寝台の上に起きあがった。前だけが空いた衣の隙間から入る夜気が肌を僅かに冷やす。
 そしてそのまま2人、黙ったまま夜空を見上げた。
 窓の向こうに鮮やかに展開する明るい世界を眺めている間、決別の言葉をそれに投げかけている間、クインはじっと花火のちょうど真下辺りにいるはずの、兄のことを思った。
 兄のことを思い、見知らぬ母のことを思い、そして自分を連れていた母のことを思った。
「……綺麗だね」
 クインの呟きに、ライアンの吐息のような肯定が返った。
 視界の中に四角く切り取られた窓、窓の向こうの夜、夜の上に乱舞する光たち。瞬き、消え、開き、名残と残像を残し、再び上がっては黒空に描き出される沢山の花。あの下にいる彼らと今、同じものを見ている。いる場所は違っても。
 そんなことを思うと泣き笑いのような、微妙な表情になった。ライアンの方を横目で窺うと、彼はそんなクインの様子を知らぬふりでじっと夜空を見上げていた。
 ……あるいはそのふりをしてくれていた。どちらでも良かった。今、声をかけられたら、浴室で憶えた憎悪のことを、思い出してしまいそうだったから。
 クインは視線を花火に戻した。美しいものを見ているときだけは、全てを忘れて没頭していられた。何故自分がここにいるのかという疑問も、取り返しのつかないことへ踏み出そうとしている恐怖も、全てが光の中に紛れて消えてしまう気がした。
 次々と連続して打ち上げが続くならば、幕切れは近い。今頃帝都は祝祭の歓喜の中にあって一際華やかな熱狂を享受しているだろう。明日の朝になればその余韻だけが残っている一過性の、だが確実な快楽が皇城の下から広がり、道と人々を満たしている。
 そして自分もまた、闇という部類の祝祭を通過しようとしている。熱と痛みを享受しながら。
 クインは軽く頭をうち振り、ライアン、と呼んだ。花火をじっと見つめていた男はクインを見返した。それは彼が見た中で一番落ち着いて穏やかな表情であった。それに酷く強い安堵を覚えながら、クインはもう一度ライアンと言った。
「……花火が終わったら……さっきみたいに、手……重ねてて……」
 体温があるだけで随分と鼓動の早さが違う気がした。本当は手ではなくて唇の方がいいのだと言いかけ、クインは自分の感傷気味なことを苦く笑った。ただ、最後に唇に残っている記憶があの男のものであることが、気に入らない。が、ライアンに告げてもそれは是と言わないだろうと分かっていた。
 クインの言葉にライアンは頷き、どうしても変わらないか、と尋ねた。クインはうん、と僅かに微笑んで返答し、花火へ視線を戻した。
 光花の饗宴は一層たけなわで、夜空全体が太陽に煌めく海のようにさえ見える。
「クイン」
 ライアンが唐突に言った。
「お前が担保にしたものの代わりに、俺の真実をやろう。お前には嘘をつかないと誓う」
 クインはライアンを見、そして破顔した。炸裂する光に明滅するライアンの緑色の瞳の奥の自分が、晴れやかに、嬉しそうに笑っていた。
 やがて花火が終わり、部屋と夜は闇に戻った。そこで行われたことは、それまでクインが知識としてだけ知っていたことであった。

 彼女は生まれたときから奴隷だった。奴隷の子は奴隷と決まっている。無戸籍の連中が彼女の父を金に困って下働きとしてこの貴族の荘園屋敷へ売り、母も同じように売られてきた。その二人の間に生まれた娘であれば最初からいないも同然で、だから養ってもらい、一人前の仕事が出来なくても置いてもらえるだけで幸福だった。
 彼女の記憶には父の姿はない。父は彼女が2才の時に病で死んだのだ。彼女が生まれたときに主人が祝賀として撮ってくれた記念写真の微笑みだけが、彼女の知る父であった。ぎこちなくゆるめようとしている口元とそれに比して柔和な目が、父の優しい不器用な性質を教えてくれる気がした。隣に自分を抱いて映る母も若い。10才の時に母親も事故で亡くなってからはこの写真が殆ど唯一の形見だった。
 母を失ったとき、彼女はまだ子供と呼ぶべき年齢であったが、物心つく頃から下働きとして体を動かしてきたことを主人は評価してくれたらしい。荘園に残ることを許されてからは彼女は誰よりも一所懸命に働いた。
 明け方には起き出して、まずは厨房の掃除から。専任の料理人がやってくるまでにはそれを済ませ、指示されていたことをおおかた終えておかなくてはいけない。少し早めの朝食を簡単に摂ると主人とその家族が起き出す時間になるから身支度を手伝い、後始末をする。その後はいいつかったことがあればそちらをし、なければ広い屋敷の手入れなどに日々を過ごしていく。
 けれど彼女はそのどれもが嫌いではなかった。例えば硝子一つにしても丁寧に、丹念に磨けば拭く前よりももっときらきらと光を通して廊下に美しい模様を作ってくれる。馬だって愛情を込めて世話をしてやればどれだけ優しい目をするか。
 掃除一つ、洗濯一つ、手を抜いては自分が本当にいいと思う状態になどなりはしない。無心にただひたすらに働いた時だけ、神様はご褒美のように綺麗なものを見せてくれる。
 神様、と彼女はその存在についてぼんやりと思う。彼女は勿論学校になど縁はなかったし、時々主人達が通っている教会というものに足を運んだこともない。
 だが主人の家族のうち一番年齢の近い少年が神様と言うとき、その口調には冒しがたい尊崇と温かな憧憬が潜んでいるようで、それを発音する唇の動きごとに彼女は胸が膨らむような気がした。
 雨上がりの雲の切れ間から細く差し込む光の糸々。朝露に輝く花壇の薔薇と飛び交う蝶の羽音。沢山の幸福に美しいものは皆、自分たちの手の届かないところからの贈り物だ。目で見て肌で感じて受け取ることの出来る幸福は、沢山ある。主人達のような上等の服や豪華な食事など欲しくないと言うなら嘘になろうが、彼女は自らの範囲で幸福を数えるのになれていた。
 神様。
 時折彼女は眠りの前に屋根裏の自室で少年がするように手を胸の前に組み、そっとうなだれる。他愛ない祈りは聖句も良く知らない彼女の精一杯の夢想ともいえた。
 どうかもう少しだけ背を伸ばして下さい。もう少しだけ美人にして下さい。ほんのちょっとだけでいいんです。沢山働いて、一所懸命何でもしますから―――
 そして横の鏡をちらっと見て、首をかしげて苦笑するのだ。
 父も母も美形ではなかった。それは自分にも受け継がれている。人より少し大きい黒目がちの瞳が可愛いと女中頭は誉めてくれるが、これは他に目立ったところのない平凡な顔立ちの中では却って違和感に思えてならない。真っ黒でたっぷりした髪も何だか鴉のようで悲しい。色白なのもよりけりで、日に当たるとすぐにそばかすが浮いてしまう。家の中の仕事だけではないのだ。
 時折化粧品を女中頭やこの屋敷の女主人が使い残したからとくれることがあるが、勿体なくて使えない。特別なときに特別に使いたいと引き出しの奥に仕舞ったままで、鏡の中に一瞬でも少しましな自分を見つけたいとき、彼女はきゅっと唇を結んだ。そうすると僅かな間だけ、唇はほんのりと赤くなる。
 けれどそれも一瞬の魔法。次に気付いて鏡を見るときにはもう、少し怯えたような目つきの少女に戻っている。
 彼女はそれをねじ回して悲観はしない。美人でなくても財産などなくても、健康で良く働く身体があればきっと生きていけるから。
 生きていける、という自負がこの屋敷の中という狭い世界に限定されていたのを、勿論彼女は気付かなかった。彼女にとって人生は日常の延長であり、日常はただ無心に働くことだった。
 余計な望みは抱かないこと、自分が今持っているものに満ちていればいいということ、その二つをしっかり胸に刻んだ上で彼女は毎日を仕事の中に埋めることに腐心した。それ以外考えられなかったし、他のことを覚えることも考えることも必要でなかった。
 貴族荘園といってもこんな田舎で麦や綿花をするのは下位貴族だ。本当の大貴族は荘園など持たない。彼らは債権証書の売買や貸付やらで莫大な利益を上げる。荘園などと呼ぶのも苦笑するような、主人一家と使用人全部を含めて20名もいない小さな農園だったが、それだけに関係は密だった。真面目でよく働く彼女を屋敷の人々は慈しんでくれた。
 化粧品もそうだが、少し生地がよれて薄くなっているコートや意匠が古くて着られなくなった服などを女主人は彼女にくれた。他の奴隷達も親を亡くした彼女をよく構ってくれた。主人がかつかつと奴隷達を扱わないことで、奴隷と言っても鞭打たれたり過酷すぎる労働に無理に従事させられることもなかった。それを語る他の農場から売られてきた奴隷達の話から比較して、自分は運がいいのだと彼女は知っていた。
 屋敷には彼女より一つ年上の少年がいた。主人譲りの明るい金髪と優しい青灰色の瞳が自分を見て微笑むと、誰に笑いかけてもらうよりも気後れがした。
 それは何故だろうと彼女は思う。向こうがいずれ自分の主人になる身で、自分が奴隷だから?
 いいえ、と彼女は床を磨く手をしばし止めて顔を歪める。
 少年が自分に笑みを与えてくれたその瞬間に、そんな身分差など考えているほどの余裕はないのだ。ただ怖じて、どんな顔をすればいいか分からなくて、困惑した挙げ句に目線と頭を下げることしかできない。
 少年が笑うと何か透明な、硝子で出来た石のようなものが心の中で僅かに転がる音がする。それは勿論空耳なのだが、その音を聞いたと思った瞬間に何故か恥ずかしくて居たたまれなくなるのだ。
 彼女は微かに溜息をついて床磨きを再会する。考え事をするときは大抵床磨きだ。屋敷の古い木の回廊は、年代を経た木材だけが放つまろやかな光を保つために時折は専用の薬剤で力一杯磨かなくてはいけない。両膝をついて雑巾でごしごし擦る姿勢は表情を隠してくれる。
 少年の笑みを今更脳裏に呼び戻して、彼女は僅かに今度は赤面する。今自分がとてつもなく不埒なことをしているような気がしたからだ。
 彼女がそれを躍起になって頭から追い出そうと床を磨く手に力を込めていると、足音が聞こえた。視線をあげすぎないようにそちらを見ると、上等の靴が見えた。靴の刺繍でそれが少年であることが分かった。
 彼女は廊下の端へ寄って深く叩頭する。すぐに行きすぎるだろうと思っていた靴は、だが彼女の目の前で止まった。
 顔を上げるように言われて彼女は恐る恐る少年を見上げる。例の音が耳から遙か遠くで続いている。名前を呼ばれて、はい、と返事をした声は凍えた小鳥のように密やかだった。
「13の誕生日、おめでとう」
 誕生日、と彼女はぽかんとした声で聞き返した。少年は一瞬美しい青灰の瞳を見開き、違った?と小声で言った。彼女は首を振る。ただ、誕生日を祝うという習慣が身に付いていないだけで、この日が生まれた日であることは知っていた。
 上手く返答もできない彼女に少年はそっと笑い、小さなリボンの掛かった包みを差し出した。胸がどくんと鳴る。今までのさやかな音など吹き飛ぶような大きな音が耳を打ち、うち続けているのが痛い。
「……いいから、取っておくれ。大したものじゃないけど、僕はお前にやりたいんだ」
 彼女は動けなかった。現実でないことが起こっているような、白昼夢の中に彷徨い込んでしまったような、恐れと怯えで身体が固まってしまったようだ。どうしていいのか分からないまま膝をついて震えていると少年は遂に苦笑し、手にしていた包みを彼女に握らせた。
 手が触れた瞬間に、彼女は微かに吐息を漏らした。自分の指を開く手の温かさに惑乱して、泣き出しそうになる。心臓の音だけが世界に飽和していて、他のことなど何も考えられない。
 少年はじゃあねと柔らかに言い、回廊を戻っていく。その後ろ姿が遠くなっていって、ようやく彼女は落ち着きを取り戻した。
 ……まだ心臓が大きく波打った余韻は引かない。それを宥めるために彼女は大きく呼吸をし、それから少年の指の触れた辺りをそっと撫でた。胸の中にこぼれてくる温かな湯のようなものを、何と表現していいのか分からない。ようやく胸を押さえると、そこが痛いほど波打っているのが分かった。
 夜、仕事を終えてから彼女は自室で包みを解いた。中身は硝子の小鳥だった。掌に乗る程度の大きさで、色の付いていない透明な硝子が蝋燭の光をゆらゆら通して仄かに耀いている。
 彼女はじっとそれを見つめる。それは生まれて初めて彼女に与えられた、世の中で一番美しく可愛らしいものであったかも知れなかった。
 その晩彼女はいつもより長く、名も知らぬ神に祈った。
 もう少しだけ睫を長くして下さい。
 もう少しだけそばかすを消して下さい。
 神様、あともう少しだけでいいから、あの人の目に映る瞬間だけでいいから、私が綺麗に見える魔法を下さい―――
 神様と、呟きながら眠りに落ちていったその夜。彼女は人より遅めの初潮を迎えた。
 日常はたゆまず流れていった。少年は時折彼女に珍しい茶や砂糖菓子をくれた。それにリボンや派手すぎない髪留めなども。何を貰っても彼女は嬉しかった。少年がほんの少し自分に心を選り分けておいてくれることが、暖かく、幸福な気持ちにさせてくれた。
 それに、物を渡すときに一瞬触れる手が、手の温もりが。それが何よりも彼女に熱を与えてくれる。
 彼女の部屋は屋根裏で、傾いた屋根の斜傾を切り取るように窓と腰台がある。腰台には鏡と両親の写真が飾ってあり、それが彼女の部屋で一番良い場所だった。光が射し込むとそこだけぽっかり明るくなる。
 硝子の小鳥が部屋の一番良い場所に飾られるようになってから半年で、少年からの贈り物はその場所を占領するようになった。リボンだけは色褪せてしまうのが怖くて、やはり彼から貰った小さな疑似宝石の付いた小箱に仕舞ってある。少年が持ってくる品物は大抵日常には身につけられない物ばかりであったが、それでも譬えようもなく嬉しかった。
 彼女が自分の供物を使えないことに少年が気付くのが遅れたのは、彼と彼女の決定的な生活の差であった。少年は末端とはいえ貴族の範疇にあり、働いたことなどは皆無であった。
 少年の仕事は今は勉学であり、そうでなければ収穫時の収益の計算を手伝う程度のことだ。長じて家の仕事と名の付くものをするとすれば、それは肉体労働ではなく、奴隷達を監督しきちんと利益を上げることなのだ。
 ごめんよ、と少年はそれをすまなそうに言った。彼女は激しく首を振った。少年の持ってくる物はどれも繊細で美しく、砂糖菓子一つにしても壊したくないと思えるほどに上等だった。それらを見ているだけで、彼女は自分の手の届かない遠い世界を夢想することができた。きらびやかで華やかな夢を描いているときだけは、彼女は完全に幸福であったのだ。
 つっかえながらどうにかそんなことを説明すると、少年は苦笑したようだった。
「……お前がそれでいいというならいいんだけど」
 それでも少年は自分の気持ちを何かに託したいと思ったのだろう。やや思案の後に、自分の襟元から銀の細い鎖を指で引き出した。その先に揺れる複雑な紋様板と中央に埋まった真珠で、これが少年の祈る神の持ち物であることが分かった。
「じゃあ、これを持っておいで。神様のご加護がお前にあるように、僕も祈っておくから。首からかけて服の中へ入れてしまえば、誰の目にも付かないだろう?」
 ほら、と手渡された銀の薄板にまだ少年の体温が残っていた。彼女はそれを握りしめた。神様、と呟くと少年は頷いて笑った。
「そのうち、聖句や祈りの作法も教えてあげるよ。信仰を馬鹿にする人もいるけど、僕は好きだな。心がとても落ち着くんだ」
 彼女は深く頷き、促されるままに鎖を首に掛けた。微かにこすれる金属の高い音が、心の奥を高揚させる。
 紋様板がちょうど胸の淡い谷間と鎖骨の中間辺りに止まったのを、彼女は服の上からそっと押さえた。その部分に泣きたいほど温かな物が宿った気がしたのだ。
 それから彼女は顔を上げた。信仰の道具を簡単に他人に譲るというのは如何にも不埒なことのような気がしてならなかった。
「あの……若様、こんな、頂いてしまったら、ご迷惑なのではないでしょうか……」
 少年は軽く笑い、いいんだよと言った。
「来週は僕の誕生日だから、父上からまた新しいのを頂くことになっているんだよ。もうそれは要らなくなるし、引き出しに仕舞っておくよりはお前に持っていて欲しいんだ」
 はい、と頷いた時に彼女の胸を占めていたのは圧倒的な幸福だった。
 少年の眼差しや言葉が優しく自分をからめる度に、竦み上がってしまうほどに幸福な気持ちになる。他に何も要らないと思えるほど、この一瞬が永遠に続かないだろうかと思うほど。
 嬉しくて嬉しくて、他には何も考えられない。
 あまりに幸福で、それを逃がしたくない一心で彼女は目を閉じる。祈りをするようにうなだれていると、そっと頬に少年が触れたのが分かった。ふっと視線をあげると少年が自分の頬に指をまつろわせながら、じっと彼女を見ていた。
 瞳があってしまえば、捕らわれたように動けない。少年がゆっくり顔を自分に寄せてきたとき、彼女は怯えるように目を閉じた。
 初めて他人と交わす口付けは、ひどく長い時間のような気もした。彼の唇は少し乾いて暖かく、触れた箇所から全てが抜け落ちていきそうな安堵を彼女は覚えた。
 唇が一瞬離れた瞬間、掠れた声が好きだよと囁くのを聞いた。彼女は頷き、僅かに涙ぐみ、もう一度頷いて少年が再び寄せる唇を受け止めるために目を閉じた。
 2人で持った秘密は、秘密だと思うことで尚更大切なものになった。仕事の合間に時折彼女は少年と逢うようになった。抱きしめられれば嬉しく、口付けを受ければ嬉しかった。彼の胸に甘えていることも、彼の腕にまかれていることも、全てがきらめくような幸福だった。
 少年はその年齢特有のまっすぐさと生真面目さでいつか彼女を妻としたいと誓ってくれた。無邪気で無垢な約束事を交わす度に彼女は悲しくなった。自分と少年では明らかに身分に差があった。奴隷から自由市民になるには沢山の金がいる。市民になったからといって、その先にはまだ騎士階級を越えた上で少年の家門が位置する下級貴族というものに辿り着くのだ。あり得ない。
 だが、そうと分かっているからこそ少年の情熱も真摯な言葉も嬉しかった。嬉しくて悲しくて、その二つがいつもない交ぜになって、眠りに落ちる前はいつも惑乱の中だ。
 夢を見ているときだけが彼女を癒してくれた。身分差など考えず、2人で微笑みあっていられさえすればそれで良かった。
 だが現実はやはり悲しいことが多い。少年が沢山の物を彼女に降り注ぐように彼女はどうにかして自分から何かを差し出したかったが、自分に持てるものは何もなかった。
 庭の薔薇の世話の折りに拾っておいた花弁で作った香袋、女主人の使い残したレースで編んだ小さなタイ。でもそのどれもが彼が最初から持っている物に比べ、なんてみすぼらしくて見劣りがするんだろう。
 何も持たないことがこれほど恥ずかしいと思ったことはなかった。少年が自分にしてくれるように、同じように気持ちを返したいのに何も出来ない。彼はいつでも優しくしてくれるのに、自分ときたら色々な思惑に足を取られてぎこちなく、彼の言葉に頷くしかできない気がする……
 彼女はそんな自分が厭わしくなる。人を好きになればなるほど欲張りになる。物欲しがるようになる。少年を慕い見つめる気持ちが純粋であればあるほど、彼に似つかわしくないことが重くのし掛かってくるのだ。
 せめて自分がもう少し美人であったら良かったのに。奴隷じゃなければ良かったのに。
 けれどそれを思っても何も変わらない。目覚めれば窓の外にはいつもと同じ夜明け前の紺青の空、薄汚い寝台の上―――
 悲しみは少年と逢う僅かな時間にだけ、姿を見せなかった。彼女はそれを念頭から追い払うことだけを考えた。その時間は確かに満ち足りていたから、余計なものを入れたくなかったのだ。
 そしてなるべくそれを脳裏から追い払うために彼女は益々仕事に熱心になった。食器も調度品もいつでもきちんと磨き、丁寧に掃除をし、料理の手伝いをし、女主人のする糸細工と呼ばれる手刺しの刺繍絵の糸を紡いだ。働いて働いて、誰かの役に立ちたかった。
 14になる頃には彼女は誰からも重宝される小間使いになっていた。特に女主人は彼女をよく可愛がった。糸細工には細かな神経を必要とするし、丁寧に紡いだ色糸の具合が出来を左右する。
 時折配色の相談などを受けるようになり、女主人の手から彼女はそれを教えられた。貴族の女達の間では教養ともされているそれを自分の手が生み出すのは不思議な奇跡だった。
 自由にして良いと与えられた絹地に、彼女は硝子の小鳥を刺繍した。それは人生で最初に目にした、何の混じりけもなく純粋に美しいものであった。小鳥を刺し終わった後で彼女は僅かに考えて、その横に一回り大きな小鳥を寄り添いあうように刺した。これが彼女に出来る、精一杯の表現であった。
 刺繍の入った絹地を切り取り、縁を丁寧にかがってレースで装飾すると、みすぼらしくはない程度のタイにすることが出来た。彼女はほっと息を付く。ようやく何か返すことが出来るのだと思うと嬉しかった。
 少年はそれをとても喜んでくれた。こんなものしか出来なくて、と俯く彼女に何度も首を振り、有り難うと言った。
「こんなものだなんて、あんまり自分を卑下するのはおやめ。今のままでいいんだよ」
「若様……」
 言葉が詰まるときは、胸も詰まる。どう言葉にして良いか分からない。
 いつの間にか定まった2人の密会場所は滅多に人の来ない機織り小屋だった。昔は織布もしていたが綿花を手広く始めたせいで手が回らず、いつの間にか止めてしまった家業だ。糸紡車や織機などはまだ残っているが使う者もいない。
 いつものように唇をよせ、彼の胸にじっと身を預けていると精神全体が弛緩するような安らぎを覚えた。彼の鼓動も息づかいも、全てが彼女を包む世界になってくれた。
 何度目かの口付けを交わしていると、少年がふうっと溜息をついた。彼女はじっと、彼女の神様を見上げる。
 少年は彼女の黒髪に手を差し入れて、ゆっくり愛撫しながら呟いた。
「……でも、何かをくれるというなら……少しの間目を閉じていてくれないか」
 彼女は素直に従った。少年の腕が自分の肩を抱き寄せ、いつもよりも丁寧なキスをした。
 何度も離れては重なる唇が、ついばむように自分の同じ箇所を撫でる。最初の頃のぎこちなさは既に抜けて、彼女は全く警戒心なく心を預けていた。
 不意に唇を割って何かが入ってきたのが分かった。驚いた身体が一瞬、反射的に離れようとするのを少年の腕が押さえるようにして遮った。
 それが彼の意志だということをはっきり悟って、彼女は微かに身を縮めた。不意打ちの荒々しい仕種はただ恐れに変わるものであった。
 きつく目を閉じてなされるままにしていると、やがて唇が離れた。うっすらと目を開けると少年の唇が赤く、ぽってりと濡れているのが分かった。きっと自分も同じようだろうということに気付き、彼女は羞恥に俯いた。どんな顔をして良いのか分からない。
「―――ごめん……」
 少年の声は苦しげで、ひどく痛々しかった。わずかな間をおいて、彼女はいいえと細く答えた。
「あの、私……驚いただけで……」
 言い訳がましく口にして、彼女は僅かに首を振った。少年の謝意が何に向けられたものかを理解したのだ。彼は自分が怯えていたのを分かったのだろう。だから謝っている。それが嬉しくて、彼女はようやく微笑んだ。
「若様、私、本当に驚いただけなんです……あの、わ、私に出来ることってこれくらいしかないのかもしれないですし……」
「そんなことない!」
 反射的に少年が声を荒げ、彼女は微かに怯えて呼吸を止めた。自分の語気が彼女を怖れさせたのに気付き、少年はやや長い溜息をついて首を振った。
「ごめん、怒鳴るつもりじゃなかった……でもお前はいつもそんなことばかり言うんだね。僕はお前がお前の言うようにつまらないものだなんて、思ったことはないよ」
 彼女は俯いて首を振る。少年の周辺にあり集うものはみな繊細な技巧を凝らした優美さばかりで、そこに自分がぽつんと混じるのはどう考えても不自然だった。闇のように閉塞した重い色の髪、同じ色の瞳。頬にぽつぽつ散る淡いそばかす。全てが不調和なのだ。
 彼と、彼の持つ世界の空気とは。
 彼女が黙っていることで少年は再び溜息になったが、それ以上を続けようとしなかった。若い2人にも薄々分かりかけている。いずれにしろ、このままでは限界があることを。
 ぎこちない空気を残しながら、彼女は夕方の仕事へ行かなくてはならなかった。仕事の最中は敢えて他のことは考えないようにしているが、この日は払っても払っても沢山の悲しみが沸いてきて手に負えなかった。
 自分はこんなにも若主人を恋していると思うと息苦しくなる。
 何が悲しくても切なくても、その気持ちだけは持っていていいはずだ―――と思う。明日逢ったら謝らなくてはと彼女は決意し、その晩、いつものように神様に少しだけ祈りをして眠りについた。
 それから時折、あの深い口付けを交わすようになった。最初あれだけ驚いたのに身体は順応する。少年の望むようにすることが自分に出来る精一杯なのだと思い定めてしまえば、後は彼の言うがままにするだけで良かった。
 味わうように舌を絡ませ、吐息で呼吸する心地よさ。優しくて穏やかな海に投げ出されているようなゆらめく安堵感。縋り付いていられる安心感。そんなものの全てが好きだった。
 彼の手が自分の薄い胸を服の上からそっと触るようになったのも、自然な成り行きだった。大切な、壊れやすい卵でも扱うようなやわい手の感触を彼女は目を閉じて受け入れた。心臓の音が掌から彼に伝わってしまうのだけが怖かった。
 少年はそれから先には進もうとしなかった。いつか、その時がきたら僕に全てを預けて欲しいといわれてただ頷いた。自分は大切にされていたのだと、本当に彼女が思い知るのはこれから随分先のことだ。
 その時は、彼の体温と呼吸を近く感じていられればそれで良かった。他のこと一切が自分に合わないと分かっていても、いずれは住む世界が違うことを知らねばならないことも、全てを忘れていられた。幸福だった。
 いつまでもそんな日々が続いて欲しいと願っていたのは幼い証拠だったろうか。彼女は主人の家業については全く知らなかった。綿花の不作や麦の不出来から重なった借財がかさみ、軋んでこの家を押し潰してしまうまで、その暗い足音を聞くことなど出来なかったのだ。
 ある朝に全ては消えていた。今までのことが夢のように。
 最初に不審に思ったのは、いつもの時刻に料理人が来なかったことだ。料理人は几帳面な性格の初老の男で、時間には正確だった。準備が少しでも出来ていないと不機嫌になったから、彼女はいつでも彼よりも早く起き出して、厨房の掃除やら言いつかっている下準備やらをしておくのが日課だった。
 主人達の起きてくる時間になっても、料理人はやってこなかった。彼女は迷いながら、それでも仕事を優先すべく厨房を出た。準備は整っているから自分がいなくても良いだろうと思ったのだ。
 女主人の部屋の扉を叩いても、返答はなかった。まだ起きていないのだろうかと彼女は不安になる。が、絶対に起こせといわれていない日は主人達の眠りを妨げるべきではなかったから、彼女は首をかしげながらも馬小屋へまわる。餌をやりブラシをかけておくのも彼女の習慣だった。
 馬達だけは相変わらずで、いつもの世話係が来たことを理解したようだった。獣特有の温かさに触れながらブラシを丁寧にかけ、蹄鉄の具合を見、餌をやる。それが終わって館へ戻ると、先程まで誰の気配もしなかった屋敷の中に人の気配があって、彼女は心底から安堵しながらそちらへ歩いた。
 だが、そこにいたのは見知らぬ男達だった。今まで彼女が触れたことのない、どこか薄暗い雰囲気を持っている。背負う空気が尋常でないことに、彼女は怯えて立ちつくした。
 男達のうちの一人が彼女に気付いて振り返った。ああ、と軽く頷いて歩み寄ってくる。数歩あとずさって彼女は足を止めた。圧倒的なものに呑まれてしまったように、身体が動かない。
 男は彼女を覗き込んでこの家の娘か、と聞いた。彼女は首を振った。家付きの奴隷かと聞かれてそれにはようやく頷く。男はそうかと頷き、来るように手招きした。
 連れて行かれた先はこの家の一番に良い居間で、そこには自分と同じく奴隷階級の者たちが集められていた。どうやら自分が最後であるらしかった。一緒に座るように促されて彼女はいつも可愛がってくれた母親替わりの中年女の隣へ腰を下ろした。
「どうしたんでしょうか」
 そっと聞くと、女はぎゅっと渋面を作って囁き返してきた。
「旦那様が、破産なさったらしい。夜のうちに現金と宝石だけ持って逃げたんだって」
「ハサ、ン……?」
 ぽかんと彼女は聞き返した。耳慣れない言葉だった。そうだよ、と女は溜息になり、これからどうなるのかねえと呟いた。彼女はまだ良く分からなかった。
 前の晩に眠るまでは特に変わったことなど何もなかった。主人一家はごく普通に過ごしており、ごく普通に就寝したはずだ。一夜が明けただけで劇的に何かが変わることなど感覚として馴染まなかった。
 それに、と彼女はそっと周囲を見渡す。少年はどうしたのだろう。一緒に行ってしまったのだろうか―――自分を置いて……置き捨てて。
 それに気付いた瞬間、目の前が暗くなった気がした。同時に鼓動が大きく激しく打ち始める。主人の破産という事実よりも、少年に会えなくなったことの方が彼女にとっては重大だった。捨てて、と呟くと唇ごとが震えだした。ようやくその意味を全身で理解したのだ。
 屋敷の中を我が物顔に検分している男達はどうやら債権者であった。主人一家が持ち去った軽量の宝石類などは諦めて、この館にある絵画や骨董、それに勿論土地と屋敷全て含めての金額の打算に余念がない。半日ほどかけてそれを終えるとそれぞれ荷造りをするように言われた。
 この屋敷を出て行かなくてはならないのだと彼女は悟った。この屋敷に付随するものは全て処分して金に換えるのだろう。奴隷というのは物と同じだ。自分たちもどこかへ売られていくはずだった。
 そのことに対する嫌悪や拒絶は、自分でも驚くほど少なかった。どこに行っても仕事の内容まではそう変わるまいという達観に似た諦めであったかも知れない。早朝から深夜まで、沢山の仕事に手を染めて身を粉にして働くことに今更抵抗はなく、だからどこへ売られていっても大丈夫だという確信のような物があった。
 荷造りをしに一度自室へ戻ると、夕日が丁度窓から腰台にまっすぐ差し込んでいた。落ちかけた西日の淡い灯火色が、硝子の小鳥に映えて切なくなるほど綺麗だった。
 若様、と呟くと微かに嗚咽が上がってきた。住み慣れた屋敷を出ていくことよりも、どことも知らぬ土地へ行かされることも、そんなことはどうでも良かった。
 自分をまっすぐに見て笑ってくれた優しい瞳が二度と得られないのだという悲しみだけが、彼女の全てだった。
 僅かな時間を泣いた後、小さな袋に彼女は簡単な着替えと両親の写真と、硝子の小鳥を入れた。これに詰められるだけだと渡された袋は酷く小さくて、それだけを入れると他の物は諦めるしかなさそうだったのだ。
 荷造りを終えて階下へ降りると、既に他の女達は馬車に乗り込んで行くところだった。その最後に加わろうとした腕を、債権者の男が掴んで首を振った。
「お前さんはこっちだ、いいな」
 彼女は素直に頷いた。出ていく馬車に乗っていた女たちが彼女に向かって手を振り、何か叫んでいたがよく聞こえない。困惑したまま傍らの男を見上げると、男の方は彼女に何かを答える気はないのだろう、黙って首を振り、別の馬車に乗るように促した。

 他の奴隷達と別れた先の旅路は、そう長くはなかった。
 馬車で僅かに北へ2日、見えてきた巨大な城壁に彼女は目を見張った。遠くから見れば距離感さえ分からなくなりそうな、高く分厚い壁が街道筋の遙か先に立っている。呆然とそれを見つめていると、あれが帝都だと債権者の男がつまらなそうに言った。
「帝都……ザクリア、ですか……?」
 それは何かの話にしか出てこない、華麗で風雅な幻であった。美しく着飾った人々が行き交い、目に麗しい通りが並び、昼間の明るい光の下ではきらめき夜の淡い灯火の中では幻想に揺れるはずの、夢のような都。
 だがそれを包むはずの城壁はあまりにもいかつい色をしていた。
 中に入れば尚更落胆は激しくなった。確かに色を揃えたタイルや繁った街路樹などの優しい光景ではあるが、そこにいる人々はごく普通で、話に聞いていた華やぎとはまるで違うことを分からざるを得なかったのだ。
 だが、流石に帝都というべきだろう。その人波も商店の数、通りの数さえも圧倒されるような奔流であった。それによく見れば歩いている人々の服装がどことなく垢抜けているし、化粧も地味ではあるが上手い。少女達の明るい美しさは同性であっても目を奪われた。
 馬車は蜘蛛の巣のように張り巡らされた街路を抜けて、迷わずにどこかへ向かっているようであった。窓から見るもの全てが珍しく、彼女はじっと外を見続けた。
 やがて馬車が止まり、降りるように言われて彼女は従った。周囲の様子は最初に帝都に入ったときよりも格段に薄汚い。恐らく下町と呼ばれている区域であろうと察しは付いた。
 男に手を引かれて街の一角のアパートに入っていく。誰かの家だろうかと思ったら中には帳簿を付けている男が一人いて、どうやらそれは事務所であるらしい。奥の部屋には更にもう一人男がいて、こちらはやはり書類の整理であるようだった。しばらく男達が話しているのを聞き流し、彼女は窓の外の帝都の光景を見つめる。季節は盛夏をようやく越したばかり、陽射しはまだきつい。光の反射が作る路地土の白い輝きと、建物の落とす濃い影がそれを能弁に語った。
 小鳥が枝にとまり、枝がしなる。もう一羽が横へ並ぶ。ついばみかわす嘴の仕種に彼女はふと胸の辺りを押さえた。そこには少年から貰った銀の紋様版が下がっている。一所懸命に自分が刺繍した硝子の小鳥たちのタイは、一体どうしたのだろう。彼は持っていってくれただろうか。私が、あの人の拠り所に小鳥を持ってきたように。そうでないなら悲しかったし、そうしてくれたならなお、悲しかった。
 彼女が唇をきゅっと結んで下を向いたとき、男達がじゃあ、と別れの挨拶を交わしたのが聞こえた。一緒に出ていこうとした彼女の腕を、事務所の男が掴んだ。男の手は酷くひんやりしていた。
「お前は残るんだよ。……暑いかい? 冷たい物でも飲むかね? 少し休んだらお前の行く先を決めなくてはいけないが、なあに、今日の夜にはお前専用の寝台でぐっすり眠れるようになるともさ」
 宥めるような声音が優しく聞こえた。債権者の男はぶっきらぼうで、彼女に対しても殆ど口を開こうとしなかったから、こうした何気ない会話で安堵もしたのだろう。彼女がほっと唇を綻ばせると、男は良いね、と笑った。
「お前は決して美人じゃないし、これから先飛びきりになる保証はないが、笑った顔がとてもいい。素直で素朴で、まっとうな感じがする。なに、化粧の方法さえ覚えればすぐに美人に化けられるようになるさ」
 彼女はそれにも少し笑う。自分が人目を引く美人でないことは分かっている。女の子は残酷なほど、容姿の差は幼い頃から出てしまうものだ。当人の努力などで追いつく部分もあるという希望を与えようとする男の言葉はいたわりに満ちていた。
 日が落ちる前に、と男に促されて彼女は事務所を出た。乗ってきた馬車の影はもうどこにもなかった。しばらく歩くと地面から生えたように立つ、二本の柱が見えた。そこを通過すると周囲の様子は切り替わるように変化した。
 今までもそう美麗とは言えない町並みであったが、そこは更に汚かった。煤けた赤い格子の店棚と、やけに毒々しい色の金泥の紋様だけが目に付く。古びた塗りや剥げかけた模様がみすぼらしく、どこか生々しい。
 これも帝都の一部なのだろうかと思うと足が竦んだ。怖かった。怯えた様子の彼女に男は宥めるように笑った。
「この町はお前と同じで、素顔はあんまり美人じゃないんだ―――だけど、夜になってちゃんと化粧をすれば違う、すぐに分かるよ」
 男の朗らかさに押し切られるように、彼女は頷いた。男はさあと殊更に明るい声を出して彼女の手を引き、柱をこえてまっすぐに続く通りに面した大きな格子棚の店に入っていった。
 中は女達ばかりであった。美しく着飾った衣装は何故か揃ってみな赤い。意匠は少しづつ違うのか、金糸でかがられた刺繍の模様が多様だ。女達は一斉に彼女を見たが、誰も近寄ってこようとはしなかった。奥から中年よりも多少年齢のいった女が出てきて彼女をちらと見、そしてすぐに首を振った。
「駄目だよ、若い娘が欲しいとはいったけどね、もうちょっと見栄のするのでないとうちにも格ってものがあるんだから」
 はっきりした拒絶に彼女は僅かに怯んだ。それに追い打ちをかけたのは、女達の一斉のささめきのような笑い声だった。男は舌打ちし、彼女の手を引いてその店を出た。
 次に行った店でも、その次でも、殆ど異口同音に出てくるのはもっと綺麗な娘でないと駄目だという拒絶だった。彼女は次第に重くなってくる足を引きずるように、自分を連れて歩く男についていった。
 5軒目に断られたとき、とうとう彼女は啜り泣き始めた。前から自分が美しくないことくらいは知っていた。人よりも少し大きい瞳だけが特徴の、何の取り柄もない平凡な顔立ち。あの少年の優美さに気圧され、今日出会った沢山の女達に圧倒されるだけの惨めさをなんと表現して良いかさえ、分からない。かぼそく泣き続けることだけが出来た。
 男は足を止めて溜息になった。
「泣くな泣くな、あのかあさん方はちょっと見る目がないね。俺はお前さんがきっとよく稼ぐ娘になると思ったから良い所へ連れて行ったのに」
 それでも嗚咽の止まらない彼女に、男は明るく笑いかけた。
「いいかい、確かにお前は目を引く美女じゃない。それは分かってるだろう?」
 諭すような穏やかな声音に、彼女はこくりと頷いた。良い子だねと頭を撫でられて、自分がとても幼くなった気がする。
「だが、お前には何かがある。―――自分の容姿が気になるかい? そばかすがいやならあまり日に当たらないことだ。もう少しちゃんと肌をお磨き。お前は肌が白いし、白い肌に黒髪はよく映える。ねえさんたちに化粧の方法を教わって綺麗にして着飾れば、お前を気に入る客はたくさんいるだろうよ」
 彼女は頷いた。男の言葉は慰め以外の何でもなかったが、自分の気を休めてくれることの方を優先したのだ。ぎゅっと唇を噛んで嗚咽をどうにか飲み込んでいると、男がやあ、と明るい声を出した。
「ほらごらん、タリアに灯りが入る」
 言われて彼女は顔を上げ、微かに吐息を漏らした。
 遠く晩鐘が響いている。それが合図なのだろう、通りに面した赤い格子の店棚に一斉に篝火が焚かれていく。
 炎の色が街角に立ち始めた途端、先程まで汚らしく古びた色を呈していた赤い色が沸き上がるように濃厚になった。金泥がきらきら、灯りに映える。通りごと朱泥に浸かったように赤い。赤い中に黄金の川が流れるように、金色の沢山の紋様が踊る。
 化粧を終えると先程男が表現した意味が分かった。
「すごい……」
 思わず漏らした呟きに、男はそうだろうと満足そうに笑って彼女の手を引いた。大通りの店を諦めたのか、男は路地の方へ入っていく。路地といっても同じように明るく火が焚かれており、通りはやはり濃い赤に染まっているのだった。
 最初に連れて行かれた店よりは小さめの店の扉を男は押した。今までと同じように奥から出てきた中年の女は彼女をじっと見つめ、ふうん、と首をかしげた。奥へ上がるように言われたのは初めてだった。個人の部屋というよりは応接室であろう。そのソファに座るように言われて従うと、女は改めて彼女をまじまじと見つめた。
 先程の女達の淡い笑い声が耳に戻ってきて、彼女はつい俯く。女はすかさず、顔をお上げと言った。強い語調に僅かに身をひくと、女は今度は苦笑になった。
「……どうだいかあさん、悪くはないと思うんだが」
 男の声に女はそうだねえとゆるく笑う。かちかちいうのは火種石だろう。この女は煙草のみらしい。
「悪くはないが。化粧しだいかね……ねえ、お前、名前は」
 彼女はやっと顔を上げた。名を聞かれるのは元の屋敷を出てから初めてだった。
「……リィザ、です」
「ふうん、『矢車草』か。可愛い名前だ」
 父の命名を誉められて、ようやく彼女は少し笑った。その控えめな笑みを見て、今度は女は大きく頷いた。
「なるほど、笑うとちょっと違うね……いいだろう、貰うよ」
 男と共に彼女もまたほっと息をついた。男を帰した後で、女はこちらへおいで、と手招きした。彼女は素直に女の側に寄った。化粧の匂いがぬくやかで、安堵を呼び起こした。
「ここがどんな店だかは分かる?」
 聞かれて彼女は首をかしげる。入ってきた一階には酒と料理の匂いが満ちていたから料理屋ですか、と聞くと女は困ったように笑った。
「違うよ。料理も酒も出すが、本当の売り物は娘達だね」
 意味が良く分からない。彼女は急に不安になって、あの、と細い声を出した。女は軽く頷き、あたしのことはかあさんとお呼びと付け加えた。
「うちに限らずどの店でも、女将はかあさん、遊女は娘、先に入った方がねえさんで後から来たのがいもうとだよ、覚えておおき―――で、何だっけね」
「あの……娘たちを売るって、どういう意味ですか……?」
 女将はその質問に暫く考えていたようだった。彼女は首をかしげて自分の雇主となった女を見つめた。何だか、肝心の部分にもやが掛かったようになってしまって良く分からない。困惑しきって俯くと、女将の生温い吐息が聞こえた。
「……お前は何も知らないんだね。男と女のことは分かる?」
 微かに彼女は赤面しながら頷いた。一応のことは初潮を迎えたときに、女中頭から聞いている。ただそれはいつか結婚したらという注釈付きで、決して売り物になるようなことだとは思われなかったのだ。
 少年のたどたどしい手の動きが不意に身体の奥から戻ってきて、彼女は震えた。あれだって怖かった。相手が彼だからじっと耐えていたというのに―――
 そこまできて、やっと彼女ははっとした。自分の仕事が何であるのかを理屈でなく悟ったのだ。
 微かにあげたはずの悲鳴は喉で凍り付き、掠れた吐息にさえならなかった。
「わ、わ、私、私は、下働きだと……」
 言葉までが小刻みに震えていて、既に文脈にさえならない。女将は首を振り、やや困ったような表情で彼女の頬を撫でた。
「ここに来るまで誰もお前に説明しなかったと見えるね―――まあいい。お前の仕事は客と寝ることだ。ここの仕組みなんかが分かるまでは暫く下働きの真似でもしてもらうが、いずれ、そうしてもらうからね」
 言葉を誤魔化したりしないのが女将なりの優しさだと、彼女が気付いたのはずいぶん後のことだ。この時は女将の一言一言が突き刺さるように耳を打つだけ、ひどくそれが胸に痛いだけであった。
 お願い、と彼女は女将の袖を掴む。その手はどうにもならないほど痙攣し、白く蝋けていた。
「それだけは、お願い、他のことなら何でもします、本当に何でも……」
「何でもする、何てことを気軽に言うんじゃないよ。幾ら泣いてもこれは決まったことだからね、恨むならお前を売った相手にしな……でもね、いくら恨んだところで何も変わりゃしないんだから、もっと他のことに頭を使う方が得だよ」
 そんなことを言って女将は彼女の睫の辺りをそっと撫でた。押されるように目を閉じると、微かににじんでいた涙が目の周辺を濡らした。女将の指がそれを丁寧にこそぐ。指先の熱が優しく思えて、彼女はお願いです、と胸の底から声を絞り出した。
「私、好きな人が……」
「そんなのはどの娘も同じだよ」
「でも約束を……」
「みんなそうだよ。お前だけ特別というわけにはいかないんだ、分かる? あたしが今ここでお前を可哀相だと思って赦せば今まで同じ事を言った娘たちにどう言えば良いんだろうね?」
 それは、と言ったきり彼女は黙った。女将の言葉に何かを返したいとは思うものの、何を言って良いのか見当がつかない。たった一つ分かることは、自分の論理では女将に太刀打ちできないということだけだ。
 彼女は俯いた。女将の袖を掴んでいた手がそっと外されて、しっかり握り込まれた。
「泣くんじゃない。いいかい、泣いてどうにかなることなんて、世の中には無いんだよ……」
 それに頷いたかどうか、彼女ははっきりと覚えていない。顔を覆って泣き出したのは確かであったが、その後のことは曖昧なままだ。
 女将がゆったりした優しい声で、気が済むまで泣けばいいかと言ってくれたのは呆れていたのかいたわりなのか、そんなことも判別する気力無く、彼女は泣いた。ひたすらに泣き続けた。
 ―――これが彼女、リィザ=ラグロゥのタリアでの第1夜となった。

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