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 長い時間をやりすごし、クインはようやく顔を上げた。ライアンは目を逸らさずに彼をじっと見ていた。その視線を正面から見るのが酷く辛く、クインは視線を下へやった。
「……でも、あの戸籍は……もう……撤回するわけに行かないじゃないか……」
 これが単に論旨のすり替えであり、言い訳であることをクインは承知していた。
 ライアンは黙っていた。それが彼の気遣いであることを承知して、クインは再び俯いた。それは哀れみとさほど意味が変わらなかったからだ。
 過去のことはいい、とクインは自分に刷り込もうと躍起になった。今優先しなくてはいけないのは他のことだ。誰かを犠牲にしながら生きて行くしかないのだというライアンの言葉も一面においては正しく、このタリアではより真実に近かろう。倫理観や世界観というものの認識の深い溝を埋めるべきは今ではなかった。
 苦い残滓を胸に噛みしめながらも、それを思考の隅へ追いやろうとクインは深く呼吸をし、ふり起こすように首をもたげた。
「だから、戸籍は要らない。何にしろライアンの負担になるのは分かってるけど、俺に価値があるというなら、少しは返せるはずだ。そうだろ、違う?」
 一瞬おいてライアンは違わないな、と苦笑し、煙草を吸った。
「……俺は賛成しない、と何度も言っているな。同じ事を今俺が言ったらどうする」
 クインはその質問に首をかしげ、ややあってから肩をすくめた。
「そしたら皇城で一騒動起こすしかないね……でもそこから足がついて母さんに何かあったら、俺は首を吊りたくなる」
 自分とよく似たあの皇子のふりをして中に潜入し、めぼしいものでも盗んでくるしかない。皇城の内部に関しては全く未知であったから、これは危険が酷く大きいとしか言いようがなかった。
 クインは自分がこの一点に関して酷く神経質だと言うことを承知しながらも、自分を追っていた者たちの影をみすみす踏む気がしてならない。皇位継承だとか立太子だとか、そんなことに興味はない。だがそれは自分の気を惹かないだけであって他人には違うのだろう。だからずっと追われていた。立太子が済むまでは安楽に構えたくないのだ。
 ライアンはそうかと頷き、煙管の灰を小皿に落とした。
「いいだろう。取り分は経費を引いた後の9と1だ。細かいことは俺に任せろ」
 それがあまりに唐突だったのと抑揚のない呟きだったことで、クインは僅かの間ぽかんとした。ライアンが煙管をいじりながら続けた。
「お前の事情は先に聞いている。最大限、出来る限りの配慮をしよう―――いつから出来る」
 最後の質問でようやくクインは顔を上げた。ライアンはいつもと同じように静かであった。いつでも、と返答したのはひどく長い一瞬の後であったようにクインは思った。微かに呼吸が乱れた後で強烈に喉が渇いてきて、唇をゆっくり舐めた。
「なん……だよ、急に反転しやがってさ」
 自分の動揺を苦く思う気持ちが責める言葉になってこぼれたことを、クインは自分で嫌悪した。ライアンはぬるい吐息を落とした。
「俺が幾ら嫌だ駄目だと言ったところで実際客と寝るのはお前だからな。それにお前の母親には多少借りがある。お前がそうしたいと言って俺が出来ることというならそれくらいしかないのも本当だろう」
 一宿一飯の恩ってやつ、と混ぜ返すとライアンは彼には珍しい温かな笑みを浮かべて曖昧に首を振った。それ以上を聞ける雰囲気ではなかった。クインがそれを混ぜ返さなかったことで話は終了したと取ったのか、ライアンは一際大きく煙管を叩いて立ち上がった。
「後のことは話が付いたら連絡しよう」
 話の時間は終わりのようだった。時計を見るとライアンが来てからまだ半刻もしていない。ライアンは大体の道筋の整理をつけてきたのだろう。
 結局ライアンが手を貸さないと言い張ったところで、自分も意固地に戸籍は要らない自分で金は稼いでみせると主張したに違いない。手間を省かれたのだとも思われたが、さほど駆け引きを好まないライアンの性質に照らせばそれも頷けた。
 火の消えた煙管を腰のベルトに差し込み、ライアンが椅子から立ち上がった。帰るつもりなのだと考えるまでもなかった。やや長身に属する身体が扉の前まで歩くのを見送りかけたとき、やっと声が出た。
 ―――大切な話は、実はもう一つある。
「頼みがあるんだ」
 絞り出したような声に、ライアンは視線だけを振り向けさせた。僅かに寄せた眉の隙間から、怪訝といった表情が見えた気がした。
「1万、俺にくれるんだろ? ……だったら……」
 そこまで口にしかけてクインは羞恥と気後れのためにすっと顔をライアンから背けた。
「だったら、何だ」
 ライアンの声が僅かに低く促した。うん、と頷くと耳朶がひどく熱い。かあっと血の気が上がってくるのが分かる。クインと更に要請されて、もう一度クインはうんと頷いた。
「だったら、その……あんた、ひ、暇な時でいいんだけど―――あ、いや、割とすぐにがいいんだけどさ……」
 言いよどみ、口ごもりながらクインは視界の端にライアンの姿を入れて、彼が煮え切らないことに痺れを切らして出ていこうとしていないかを確かめた。ライアンは僅かに彼に向き直ったようだった。そんなことくらいなら分かる。その仕種で続きをせかされていることも。
 クインはあのさ、と意味のない言葉を連ねて舌打ちをした。踏切が甘いのは覚悟が足らないからだ、という非難が跳ね上がってきそうになる。
 どうした、という声が程近くでしたことで、クインははっと顔を上げた。出ていこうとしていたライアンは今は彼の側にいて、彼の顔を覗き込んでいる。端正な顔が殆ど眼前にあるようで、クインは僅かに後ずさった。
 ライアンは彼の仕種が子供を怯えさせてしまったと気付いたのだろう、唇をゆるめて彼から離れた。ほんの少しだけ喉を空気が通るようになった気がして、クインは長い溜息をついた。溜息の最後にくくられていたように、するりと最初の言葉が出た。
「……あんたは俺が素人だって言ったよね―――俺もそう思う。キスのことだって、言われなければ多分今でも知らなかった……」
 あの瞬間の苦い怒りが微かに遠く、届かないところで海鳴りのように轟いている。それは何のためであったろうか。自分の幼さに嫌気がさしたのか、何も知らないのだとたかを括られていたことが腹立たしいのか、それとも―――
 クインは内側に閉じこもっていきそうな思考を振り切るように首を振った。
「だから、その……何ていうのかな、さ、最初の客になんないか?」
 死ぬような思いで吐きだした言葉の後、クインは俯いたまま目を閉じてはそっぽを向いた。ライアンの返答を待つ。
 彼の顔など見られない。
 たっぷりした、間があった。
「……何て?」
 ライアンの返答には肯定も否定も載っていない。どれかというなら呆気にとられているというのが正しいだろう。
「だからその1万で俺を買わないかって言ってんの!」
 吐き捨てるように叫ぶと、ぱあっと血の気が更に上がってきたのが分かった。ライアンの回答はない。面食らい、戸惑っているのだろう。それくらいなら分かる。何故、と聞く声も詰問ではなかった。まるで子供のように、ライアンは素直な疑問を口にしている。
「だから……俺が素人だって分かってる奴に、その……色々、教えて欲しいこともあるんだってば……べ、別にあんたじゃなくたっていいんだけど……」
「お前の秘密を知っている俺に秘密の分の担保にしろと?」
 思っていたことの大まかを指摘されてクインは頷くが、ライアンの顔はまだ直視できなかった。暫くして聞こえた溜息は長い。多分に呆れたような空気が含まれているのも錯覚ではあるまい。
「―――必要なことは客の方が面白がって教えるだろう。それでいいじゃないか」
「俺が嫌なんだよ!」
 叫んでからクインは顔を上げてライアンを睨むように見据えた。クインの突然の反目に彼は驚いたようにぴくりと眉を動かした。
「俺が嫌なんだよ、そんなのは! 素人だって分かってなめられるのも、面白がられるのも、全部全部嫌だ! 俺は主導権を取りたい、ライアン、どんな奴だったとしても俺が絶対に優位にいなきゃ嫌なんだよ!」
 誰かが自分を優位に操るなどということを考えただけでも胸が焼けるほど苦しい。それは屈辱ではなく、怒りのためだ。自分の心の作用は刺々しくなる方に突き抜けている。思い通りにならない苦しみや不快は苛立ちになり怒りに変わる。
 それは最終的に他人に投げた罵詈雑言が自分に返ってくるように、明確な作用といえた。クインは自分の心理について、根元は理解している。誰に対しても主導権を握りたい、好意を持った相手とは対等でいたい。その根は不安だ。いつでも傍らにあった、ひっそりと生活に影を落としていた、見えないためになお暗い闇。
 それはどれだけ自分の神経を細く、そして過敏にしていることだろう。クインはいつでも思考を重ねることで不安から逃れようとした。大丈夫だ絶対に平気だと熟慮の末に辿り着いた結論でも、それをひっきりなしに検証しようとしているのは確かだ。
 誰かが自分を好きなようにするのかと思うだけで、まともに立っていられないほどの不安に駆られる。その逆であれば自分は落ち着いていられる。誰であれ、自分を手玉に取ろうとするなら許さない……
 許さないと口の中で呟いた瞬間に、脳裏で逆巻いていた沢山のうねりがぽろりと頬を伝ったのが分かった。悔しくて。
 クインはそれを急いで拭う。泣き落としなどと思われるのは心底腹に据えかねた。
 ライアンは黙っていた。彼は元から無口だが、こんな時は何か言ってくれないだろうかと焦れたものを感じる。だが今、口を開くと何が飛び出してくるか自分でも良く分からない。分からないままにクインもまた沈黙するしかなかったが、ライアンが涙のことについて何も触れないことに安堵を覚えた。彼は自分を理解しようと努めてはいるのだとクインは思い、その思考でようやく溜まっていたものを飲み下すことに成功した。
「……あんたは、俺が、あんたたちのことなんか分からないだろうって思ってる……」
 涙の余韻で震える語尾を無理に押さえながら言うと、ライアンは一瞬おいて頷いた。それは自明だった。3年前から一切変わらぬ態度も同じ事を教えてくれる。
 クインは睫に溜まった残りの水滴を指で拭い、唇を笑うような形にゆるめて見せた。
「そして俺も思ってる、俺のことなんか分からないくせにってさ……ライアン、俺は、誰かが俺をいいようにしようとするのが嫌だ。他人の思惑に乗せられるのは絶対に嫌なんだ。身体を売ることなんてどうとも思っちゃいない、とは言わない……これでも一応高等教育ってやつを受けてるんでね、ある程度のことは刷り込まれてるからさ―――でも、嫌なことにも順位がある。俺が一番嫌なのは、俺の意志を無視して俺を好きにしようとされることだから……」
 ライアンは身動きせず、じっと彼を見つめていた。自分の奥を透かされるような気後れと怯みにクインは一瞬目を閉じ、怯んだことを自分で苦く感じて視線をライアンに戻した。
「だから、俺は―――俺は割とあんたを信用してる。3年前に俺を何故助けてくれたのかは知らないけど、その事実だけで、その後のことも含めて十分だったから……だから、俺はあんたに頼みたいんだ」
 言葉をようやく切って、クインはライアンを見つめた。
 ライアンはやはり瞬きもせずに彼を見ていた。緑の瞳の奥に自分が映っているのは見える。だがその更に奥で彼が何を考えているのかは計り知れなかった。突飛な言いだしだと分かっていても、結局クインの要求を満たす相手として資格があるのは事情を知っているものだけだ。
 ライアンは担保という言い方でそれを表現した。説明しなくてもいいことが少ないとほっとする。必要だとしても口に出すことに踏ん切りがいることもあった。
「……俺が拒否したら?」
 ライアンの声が低く尋ねた。クインはさあ、と首を振った。
「分からない。でも……」
 未知の物に対する怖れも、怯えも、否定はしない。ただそれを見知らぬ他人に見透かされるのが嫌なのだ。帝都へ帰還したあの晩に、路地裏でされたような屈辱はもう沢山だった。
 クインが口ごもりながら語尾を濁したことで、ライアンは溜息になった。だがそれはそう長いものではなかった。彼は一瞬ぎゅっと眉を寄せて渋面を作ったが、呆気なく頷いた。
「分かった。ではお前の担保というのをもらっておこうか」
「―――いいの?」
 クインは不思議にライアンの面持ちを眺めあげる。暗い地下の部屋で、灯りから遠い位置にあっては微妙なところは良く分からなかった。
「お前を暫くは飼わなくてはならない。躾は飼い主の義務―――というところだろう。いい、俺も……そうだな、客の下で泣きわめくお前よりはその方がいいと思う」
 クインはゆっくり頷き、言うべきことを全て終えた安堵のための眩暈に僅かに均衡を崩した。半歩下がって長い吐息を捨てていると、ライアンがまた、と出ていこうとした。クインは顔を上げる。まだ具体的な話は一言も進んでいないのだ。
 それを言おうとした瞬間、ライアンが振り返った。
「戸籍の撤回のこともあるし、上客の選別もある。2、3日は何もしなくていいから身体を休めておけ。……長く暮らすにはここは環境が悪い、新しい部屋へ移る用意をしておくように」
 クインは頷いた。それに素っ気なく頷き返してライアンが出ていくと、部屋はやっと静寂になった。
 膝から力が抜ける。その場に座り込みながらクインは僅かに身震いし、そして自分の身をしっかり両腕で抱きしめた。
 あの晩の男の執拗な愛撫が払っても払っても蘇ってくる。意識が半ば朦朧としていたせいだろうか、肌に直接ねじ込まれたような刻印は記憶の底に沈めようとする度一層鮮やかであった。
 ライアン、と呟く。信用だとか、そんな話ではない。結局自分にとって心許せるといっていい人間は母と、チアロと、彼しかいない。それしかないのだと、分かっているからこそライアンを無理矢理巻き込もうとする自己がひどく厭らしい生き物だと思った。

 帝都の夜空に花火が咲いている。6月は祭事が多い。北寄りの国々では待ちかねた、短い夏を楽しみ昇華するために沢山の祭事がおかれている。初夏シタルキアにおいて最大の祝祭は始祖大帝の生誕祭であろう。始祖大帝の生誕の日付は実は不明なのだが、6月の末日を最終日として3日間帝都を華やげてくれる。
 縁日、見せ物、それに滅多にはない皇族の臨席、貴族の子弟達の仮装行列―――
「聖祖大帝ってどんな方だったんでしょうね?」
 山車の上に座りながら、きつい帯のせいで苦しく先程から呼吸をしている弟にリュース皇子はさあ、とゆるく笑った。
「記録はあんまり信用できないからね……知りたければ父上の跡を継いだらどう?」
 皇帝にしか代々伝授されていかない秘密もある。それがどんなものか想像もつかないが、大量に神秘的なものも混じり込んで、一種嫌悪さえ抱くようなおどろしさを醸していた。秘伝、秘宝、秘画に儀式。
 皇子の返答に弟は途端に厭な顔をした。
「僕、勉強ってからきしだから……兄上の方が絶対向いてると思うんですよね」
 弟の言葉にリュース皇子は苦笑した。自分が立太子に一番近いことは知っているが、母の違う弟が2人いる。第1皇子は自分だが体の弱さを引き合いに出されれば苦しいだろう。
 が、異母弟たちとて憎くはない。彼らの母は宮廷の華やかさが苦手で、次男を出産した頃から帝都郊外の静養地、ロリスに引き込んでいる。帝都よりは遙かに自然の豊富な環境でのびのび育ったせいなのか、2人とも非常に素直で明るい性質だ。
 ライン皇子がまたふう、と苦しい呼吸をついた。もう千年以上も昔に滅びた漢氏という少数民族の民族衣装は裾が長く、帯がきつく、それを幾重にも捲くために傍目にも苦しげだ。リュース皇子も同じような格好であるが、明確に2人の衣装には差があった。
 自分の衣装は右肩を脱いでその上から漢氏様の甲冑を被せてある。刺繍も縫いの糸も全てが燃えるように赤い。これは建国の功臣、イダルガーンの扮装である。
 そしてラインの方は同じような赤い衣に金糸銀糸で細かく刺繍の入った打ち掛け、沢山のかんざし、施された化粧、刺繍は蘭の花の図案。これは始祖大帝の皇后であったラファーナ妃を模している。ラファーナ皇后の逸話として最も有名なのは「オレセアルの緋天使」としての救世伝説で、剣の名手として名高い。ラインは先の少年剣術会での優勝を受けて、この仮装行列の後の剣の模範演武までを担当するのだ。
 同じ漢氏の衣装でも、女物の方が格段に身体にはきつかろう。そんな状態で剣の型の披露をするということで、ライン皇子はここ暫くそれに引き合わされていたが、天性の勘があるのか昨日最後の練習を覗いたときは流麗な動きであった。
 ふう、とまた同じような溜息を弟がついた。リュース皇子は小さく笑い、弟の胴をきつく締める帯の隙間から、数本隠し紐を抜いてやった。抜いても差し支えない部分の紐だから構わないだろう。少しは楽になったのか、ライン皇子はにこりと笑う。そうすると扮装のせいもあってか少女のようだった。
 その笑顔に見せられたのか、歓声が上がった。適当に曖昧で反感を持たれない程度の微笑みを振り分けながら、リュース皇子は弟に手を振ってやるように囁く。他の高位の貴族の子弟達も華やかに笑顔を振りまき、聖祖大帝とも呼ばれる建国者の時代を模した仮装行列を盛り上げることで熱心だ。
 頭上で光の花の咲く音がする。つられたようにライン皇子が見上げ、素直に笑顔になった。刹那炸裂する光に照らされて、弟の頬が微かに反射する。
 花のようだと讃えられる自身の美貌とは少し異なるが、同じような女性系の顔立ちは似たところがなくもなかった。今の自分の年齢と同じくらいになればきりりとした少年のようになり、いずれは瀟洒で華やかな宮廷貴公子となるだろう。その時自分が皇帝であろうがなかろうが、こうして幼い日々に密な閉鎖空間を持つことがきっと良い方に作用する。弟の気性からしてそれは確定に思われた。
 仲の良い兄弟であることはいずれ、何かの武器にもなろう。ましてリュース皇子は元来が虚弱で、戦向きのことが出来にくい。軍学として用兵や戦略を学ぶことが出来ても、実際戦場にたてるかどうかは微妙なところだ。ライン皇子はそれを補完してくれる存在となるに違いなかった。
 ライン皇子は花火に見とれたり沿道に詰めかけた群衆に手を振ったりで忙しい。それを微笑ましく見守りながら、リュース皇子は自分も同じように軽く手をあげて愛想を振りまいた。
 視線を投げかける度にその周辺が熱を持つのが嬉しいようでもあり、それが自分という個人へ向けるものでないと知っているから複雑でもあり、だがあまり小難しく考えることでもないと思うこともあり、リュース皇子はただ意味のない笑顔だけを零すことに専念している。
 沿道の人群れをさらりと流した視線が、ふっと引っかかるように戻った。何かを見た気がしたのだ。とても懐かしい、何か大切なものを。
 その感触を確かめるように、ゆっくり進む山車の上から皇子は視線を流し返した。ふと何かを掠め、気付いて戻り、そうして焦点を絞ったその瞬間。
「あ……!」
 皇子は思わず腰を浮かせて振り返った。彼の珍しい動揺に、周囲の人垣が触りと蠢く。それが決定的な違和感になろうとした刹那、人々の波間からくるりと背を返す細い身体があった。
 待って、と叫ぼうとしてそれを思いとどまったのは3年前の苦い記憶が蘇ったからだ。
(逃げるんだね)
 自分の不用意な言葉で蒼白となったあの顔。間違いがない。人目を引かないように髪を……染めているのかかつらなのか良く分からないが金色にして編み上げ、当時と変わらぬ少女の様式に身を擬態しながらこちらを見ていた。
 名前も知らぬ、あの「少女」。帝都にまだいたのか、それともどこかから戻ってきたのだろうか。いずれにしろ、間違いなく自分を見に来たのだと皇子は確信した。自分や弟がこの仮装行列に参加することは前もって告知されている。そのせいもあって沿道は凄まじい人だかりだ。
 その中から見つけた奇跡に皇子は笑った。これは本心からこぼれてくる、安堵と嬉しさのためのものであった。皇子の晴れやかな笑みに一層周囲が歓声を上げる。それに上の空で手を振りながら、皇子は群れを抜けて流れに逆らって泳いでいく、美しく伸びた背筋を見つめた。
 背は良く伸びている。以前から背格好は同じ程度であったが、今もそれは変わらないだろう。少女としては既に長身という部類にはいるほどに背丈はあるが、細身の印象が強いためにすらりとしたしなやかさだけが目に残る。
 3年前に見失ったときにも卓越した美貌であったはずが、再び目にすれば一層鮮やかであった。その場だけ、空気の色が変わるほどに。多分彼は自由に生きているのだろうと皇子は悟った。一目見たときの印象があまりにも違う。
 良かったと僅かに唇を綻ばせていると、ようやく人垣を抜けた彼が振り返った。皇子はそっと視線を彼にまっすぐあてた。彼もじっとこちらを見ている。
 まさぐりあうようなもどかしい一瞬の後に、瞳がかち合った。夜といっても沿道の灯りで昼間ほどに明るい大路では、全く同じ色の瞳が見て取れた。
 皇子は彼に笑いかける。単純に、皇子は再会が嬉しかったのだ。だが彼の方は反応が違った。一瞬何かに撃たれたように頬を痙攣させ、そして顔を歪めて隣の男に何かを言った。
 それで初めて連れがいることに皇子は気付いた。年齢の頃はそう変わらないだろう少年が一緒だ。背は随分と高いが顔立ちが幼さの片鱗を残している。
 少年が「彼」の肩をぽんと叩いて背を返す。それを追うように身を返して、彼は振り返った。こちらを見つめてくる眼差しは、色味が複雑すぎて明確な名を付けられない。
 憧憬でもない。再会の喜びでもない。帝都から追い出したのだという元凶を憎しむ目でもない。
 どれかというなら、と皇子は路地に紛れて消えていく背を見送りながら思った。あの僅かに痙攣した頬の種類は、切なさだったかもしれない。哀しげであったかもしれない。それは単純な理屈ではなく、彼が皇子に対して複雑な思いを抱いていることの証明の気がした。
 ……だが、何のための? 皇子は僅かに顔を曇らせる。兄上、というライン皇子の声に気付いたのはその時のことだった。
「そろそろ城へ入りますから、立って歓呼を、って」
 仮装行列もそろそろ終幕というわけであった。山車の上で皇国万歳を叫ぶ民衆に応えながら、皇子は彼の消えた方角を目で追っている。帝都にいると分かっただけで胸が温かになった。
 探そうという気はなかった。彼が皇子を恐らくは自分の意志で見に来たことで、そして憎まれていなかっただけで十分であった。皇子と話がしたいと思うなら、幾らでも方法はあるはずだ。例えば中等学院だとか。今年の冬には卒業ということになっているが、自分がまだ在籍していることは知っているはずだから。
 やがて山車が完全に城の内部へ入ってしまうと、皇子は弟と共にそれを降りた。ライン皇子はすぐに演武が始まるため、簡単に着付けを直して最後の練習にと借り出されていく。皇子は着替えをするために、控え室の方へ足を向けた。
 皇族用の控え室には皇子の母がいた。父帝は見えない。他の儀式があるのだろう。始祖大帝の遺産と呼ばれるものは沢山ある。それらをいちいち確認するような儀式はうんざりするほどあった。
「あら、終わったのね、リュース」
 母が微笑む。ええ、と頷いて衣装の裾を踏まないように気をつけながら皇子は母の隣へ座った。侍従がすぐにやってきて、彼の衣装をいくつか手早く見せていく。その内の一つを適当に指定し、合わせた他の衣装や装身具を揃えるために侍従が下がると彼は甲冑の紐を解いた。本物ではないからそれは殆ど繊維で出来ていて身体に負担はないのだが、やはり開放感はあった。
「ラインの演武が始まる前に着替えますから、一緒に行きましょう、母上」
 そうね、と母妃は笑って頷き、皇子の頬をゆっくり撫でた。そんな風に母に触れられるのは本当に久しぶりで、皇子は嬉しくなって俯く。ラインのように満面で表現できないのは性分であったが、それでも彼の顔がほころんだことで母もまた、にこりと笑った。
「演武が終わったら花火のいいところが残っているから、高演台にでも行きましょうね」
 皇子は他愛ない約束に微笑んで頷く。母と持てるゆっくりした時間を、皇子はとても貴重に感じていた。
 やがて侍従が戻ってくると、先に結い上げて飾り羽をさしてあった髪を解きほぐした。きつくあげられていた髪の根本が弛むと同時に痛む。微かに顔をしかめてこめかみを押していると、母が隣で呼吸を呑んだのが分かった。
「……母上?」
 皇子は不思議に母を見つめる。母妃は一瞬泣き出しそうな顔で頬を歪めたが、すぐにそれを取り繕った。が、慌てて浮かべた微笑はぎこちない。何か、信じられないものを見てしまったという顔をしている。
 母上、ともう一度皇子は呼びかけた。皇妃は僅かに首を振り、何でもないのよと笑ったが、それが嘘であることは考えなくても良かった。怪訝な感触に皇子が戸惑っているのを配慮したのか、母はいいのよと重ねて笑い、皇子の手を取った。
「妹の子供の頃に似ていたから吃驚したのよ。あの子もとても美人だったから……」
 そうですか、と皇子はそれに異論を唱えなかった。母方の叔母は十九の時に亡くなっている。写真を見たことがあるが、確かに母や自分と共通する繊細で端麗な美貌の持ち主であった。
 ともかくお召し替えをといわれ、皇子は控え室を出る。衣装室で漢氏様の仮装を脱いで新しい衣装に袖を通していると、目の前に鏡がおかれた。髪の手入れを始めるのだろう。
 視線を鏡の中の自分に与え、そして皇子もまた驚愕して声を挙げた。どうしました、と侍従が聞くのに首を振り、今度はゆっくりと鏡に映る姿に目を走らせた。
 髪は漢氏の扮装用に黒く染めてある。きつく高めに結い上げられていたせいで、下ろされた髪は僅かに波打ち、皇子の形の良い頬を縁取っては流れ落ちている。仮装の際の見栄えを考慮して、ラインほどではないにしろ施されていた化粧が唇に華やかな色として残っている。
 まるで少女のような姿。
 3年を経て見失った少女が鏡の中から戻ってくるようだ。
 皇子は他人がひっきりなしに賞賛することに殆ど無関心で、自分の容姿には無頓着であった。3年前も美しい少女だと思った。だが、それは印象だけで顔立ちの明確な刻印ではなかったのだ。
 だが、今ならはっきり分かる。自分が最初に中等の教室に入っていったとき、教室を包んで鳴り止まなかったざわめきの意味でさえ。
「似てる……」
 皇子は呟いた。似ている。自分たちは鏡に真向かうようにそっくりだ。髪を黒く染めて印象が変わったことで初めて気付いた―――
 そして皇子は僅かに振り返り、いや、とすぐに首を振った。自分を見つめる視線に何が籠もっていたのかは分からない。……彼の方は自分たちの相似について知っているのだろうか。
 探したい、と皇子は思った。今までの何よりも強く、そう思った。
 水滴が跳ねた音が、狭い浴室に響いた。浴槽の中で膝を抱えていたクインは物憂く顔を上げ、完全には閉まっていなかったらしい蛇口をぎゅっとひねった。金属のこすれる感触が、手の平に痛い。
 のろのろした仕種でその手を浴槽に戻し、再び同じ姿勢に戻る。前と違うのは顎を膝に乗せたことだけだ。張った湯は既に熱を失いかけ、出ていくのに勇気がいる。
 ……クインは微かな溜息をもらして瞬きし、浴室の換気窓を見た。一瞬の閃光が窓を光らせているのは城を中心にあがる花火だろう。
 クインは城か、と呟いてゆるく首を振った。何故見に行ったのだろう。……行きたいなどと言ってしまったのだろう。後悔ばかりだ。
 埋もれるほどに花を飾り、美しいリボンを結び、静やかに進む始祖帝の故事に倣った仮装行列は馬鹿馬鹿しくなるほど豪勢だった。一際歓声の上がる山車は遠目からもすぐに分かった。近づききれず、遠くなり過ぎるほどに離れられず、中途半端な距離の人垣の中でじっと山車を見ていた時、自分は何を考えていたのだろう。
 漢氏の扮装のせいで黒く染めた髪は、いつか自分がしていたのと同じような艶やかさだった。大衆に合わせたような微笑みも、きっと過去の自分とよく似ている。改めて見つめれば、似通った部分ばかりが発見できた。
 きっと入れ替わったって誰も気付かないだろうに。あそこにいるのが何故自分でないのだろう……
 妬みというわけでもなく、憧憬というものでもない。ただ自分がきっと永久に手にしない、だが権利はあったはずの輝きを見せられては胸が痛かった。
 皇子は相変わらず彼と同じ顔立ちをして、そしてずっと無垢に美しかった。手入れされた肌やよく磨かれた爪などは付属物に過ぎない。誰をも寄せ付けない輝きを、本人は殆ど意識しないままに放っていることがたまらなく眩しい。涙が出る。
 皇子が自分を見つけて笑ったことも、一瞬巻き起こった激しい怯みのために思わず逃げてしまったことも、全てが哀しく思われた。皇子は悪くない。いつか彼が逃げていくのを見ないふりをしようといってくれた言葉の通り、今でも彼を庇ってくれるつもりでいる。
 その慈悲。憐れみ。そんな言葉を思う度に腹の底から噴き上がってくるようなものがある。双子でありながら片方は城で大切に跪かれ、片方はタリアの奥の汚いアパートで子供自体との永訣を決める瞬間をどうしていいのか測りかねて震えている……
 クインは顔を歪めた。誰が悪いと声高に訴えることが出来れば楽だったのに。あの皇子の微笑みさえ辛い。同情なんか欲しくないのだと斬り捨てることは簡単なのに、理性はそれを捉えているはずなのに、納得させきれないものが残る。
 過去にどんな理由があったかは知らない。だが今自分がここに、皇子が城にいることは確かだった。山車の上で隣にいた蘭芳皇后の扮装の少女は弟のライン皇子だろう。皇族の隣に同位置で座ることが出来るなら限られてくる。
 あそこにいて、弟皇子と微笑みを交わしていたのは自分だったかも知れないのにと思うことを止められない。
 何故、何故、自分ばかりが不幸の籤を引くのかと何かにたたきつけたい衝動を止められない。
 そして、それは誰のせいにも出来ないからこそ、自分の中に跳ね返ってくる。
(誰かを犠牲にしなくては生きていけない)
 ライアンの言葉に反発を覚えたことさえ巧妙な偽善に思えてくる。
 クインは舌打ちした。狭い浴室にそれが殷々と響いた。また一瞬の閃光が窓の向こうで輝き、やがて遠雷に似た音が微かにした。それが合図だったかのようにクインは身震いをした。肩の辺りまで深く温い水に浸かった肌は既に水気でふくらと柔らかになっている。いい加減にここから出て、寝室に行かなくてはいけないと分かっていて、足が竦む。
 水から上がりかけては寒いと呟いて戻ることを繰り返している。陥没にはまって上がれなくなった獣みたいな真似だとクインは皮肉ぽく口元を歪めてみるが、あまり面白くなかった。
 長い溜息を落としながら、クインは浴室の窓をずっと見ている。花火が断続的に初夏の夜空を照らしているのをここで見終えるほど時間を潰す気はないが、だが現実、湯から抜けて部屋へ行くだけの勇気がない―――寒いから、とクインは呟き、唇を軽く噛んで額を膝に押しあてた。目の裏が熱い。
 いっそ、早くしろと呼んでくれたらいいのに。クインは歯を食いしばって嗚咽を飲み込みながら、ライアンの冷淡さについて一瞬激しく憎み、そして彼の正しさに苛立った。まだ機会はあるのだとライアンは言外に告げている。彼が自分の言った担保を受け取ると承諾したのには、この最後の機会を与えることも含まれていたのだろう。
 ライアンの考えは分かっている。彼は自分を手持ちの男娼にすることには乗り気でない。今でも。クインが怖じ気づいてやめるというのを待っているのだ。頭でしか痛みを想像できない他人のことよりも自分に起こる出来事の痛みを優先しろと、言っても分からないなら感覚で判断しろと迫る、そういうやり方だ。
 ライアンは正しい。クインは温い水で目元を微かに洗いながらそれを思い知る。
 自分がまだ子供で攻撃的なのは不安だからということさえも見抜いている。不安でなくなれば少しはましになるだろうか。……子供でなくなれば、もう少しはましになれるだろうか。
 無垢という言葉の意味をさほど深く考えたことはなかったが、この夜を境にして別のものになるということは永遠の無垢からは見放されるということなのだ。
 そしてあの城に入るには、無垢であることが相応しく、そして絶対条件であるように思われた。
 もう二度とあの場所に行く資格さえなくすような気がしてたまらない。来るなと言われているようで居たたまれない。自分の帰る場所を、最後に行き着くべき場所を、その門を潜る資格を自分で手放そうとしている。
 クインは顔を歪めた。
 何故という憎しみだけが、誰に向けても間違いだと分かっている憎悪が、頭の中を散々走り回っている。
 美しい扮装。綺麗に整えられた衣装、染められた髪、磨き抜かれた爪の淡い色。
 その全てが、憎い。憎い。憎い。
 何故。何故。何故。
 何故、俺なんだろう。何故、皇子ではないのだろう。何故、俺じゃなくちゃいけないんだろう。何故、何故―――
 僅かに首を振ると、水面に映る花火が目の奥を焼いた。
 憎んでやりたい、呪ってやりたい、口汚く罵り引き据えて、自分をいずれ買うだろう客達の前に放り出して目の眩むような絶望に食らいつくされてしまえ―――それが何故、俺でなくてはいけない!
 何故、と呟くと一度は沈んでいった涙がまたこぼれ、顎から落ちた。僅かな波紋がゆらりとのたうつ。
 自分は汚い。自分の不服従を誰かのせいにしたくてその相手が見つからないのを、皇子に被せて憎しむことで釣り合いを取りたがっている。必要なのだと分かっていても、身体が動かない怯懦をも、憎い。それも皇子のせいにしたいのだ。
 どれだけ理不尽かも知っていて。
 皇子は十分自分に優しかった。事情など何も知らなかった故に、あれほど直截な聞き方をした。それを憎いと思ったことは今までなかった。皇子の指摘がなければ気付かなかった瑕疵がある。あのまま魔導実験にまで進んでいれば、破滅は明らかであった。
 理性では分かる。十分に。だが、今自分を支配しようとしているのは衝動であり、衝動は感情の突端、心の真奥の反射だ。嫌だ嫌だと泣き叫びながら、他人が自分のために苦難を浴びることを肯定したくなる。
 そしてそれは完全に自己の言葉と矛盾であった。取るべき道が一つであることは帝都に戻ってきたときから分かっていた。自分で考え、自分で決めたことを守れないなら、自分の意志なんてないのと同じだ、とクインは僅かに頷く。その新しい考えは、やっと自分を納得させうるものに近かったのだ。
 ぴちゃんという音が、もう一度した。蛇口はやはりよく閉まってなかったらしい。クインはゆっくり腰を上げ、きつく蛇口をひねった。僅かに軋む音がして、水はどうやら完全に止まったようだった。
 それをきっかけにしたようにやっと足が出た。長く、もう殆ど水と言っていい温度になっている湯の中にいたことで、やはり肌がいっぺんに冷える。反射的に身震いし、クインは浴室から出て手早く身体の水気を布で拭くと、一瞬迷ってから夜着の長衣を被った。釦を止める指先が細かく震えている。
 その作用を、もうどうこう誤魔化す気はなかった。クインは眉をひそめて笑い、やはりライアンに頼んで良かったと自嘲と共に安堵した。怯えている自分を知るのは彼だけだ。彼が黙っていてくれればそれで済む。それにライアンはチアロのように喋り回るのが得意ではないのだから。
 ライアンは寝台に登って高い位置の窓を開けていた。何かと思えばそれは煙草の煙を逃がすためであるらしい。初夏の夜はさほど寒くないのだろう、上半身は既に全て脱ぎ捨てて、ゆるいズボンだけだ。
 右肩に、一目で分かる深い傷の痕跡があった。クインがそれに目を留めたのに気付いたのか、3年前にな、と薄く笑う。
「完全に直っているから気にするな。目に触るようなら見ないほうがいい」
「直ってる割には傷は残ってるんだね」
 驚くほどすんなり声が出た。さほど声が強張ったりしていないことにクインは強く安堵した。
 ああ、とライアンは軽く頷く。カレルが面白がって傷をいじり回したからな、と前タリア王の名をあげながらの彼の声は苦笑気味だ。
 そう、とクインは微笑み、寝台にすとんと座った。彼が引かない姿勢なのを見て取ったのかライアンは微かに眉を寄せ、すぐに元の無表情に戻って煙管を窓枠に軽く打った。灰を切るのだ。
「写真、そこにある内から好きなのを選べ」
 ライアンが軽く顎で示す小卓に、幾枚かの写真があった。
 少女の扮装と少年の格好の2種で一昨日チアロが撮ったものだ。写真という容姿を形残すものへの反射的な嫌悪はあったものの、客に見せるのに必要だからといわれれば頷くしかない。後はライアンやチアロが写真を他人の手には絶対に渡さないといってくれた言葉を信じるしかなかった。
 どれもそう写りは良くないが、ライアンに言わせるならその方がいいらしい。チアロが客の約束を取り付ける時に有利に運べるからと言われて良く分からないまま頷いた。いずれにしろ、クインはそちらには疎いことを自分で承知している。
 ライアンがようやく煙草を終えて窓を閉めた。
 10日ほど前にライアンが宣言したように、クインはチェインよりはやや外れた場所のアパートにいる。周辺は安い飲み屋や賭場などがぽつりぽつりとあるような、タリアの中では閑散とした地区だ。
 チェインに置くとライアンの目が届く代わり、少年達の目に付くと敬遠された。ライアンは堂々たる少年達の王だが、彼の特別扱いという位置は諸刃の剣だ。厚遇もされるだろうが危険も増える。
 このアパートには他の住人がいないのもよかった。前タリア王の残党の根城であったというここを、彼らを狩った報酬にライアンがアルードにねだったのだとチアロが言っていた。後でライアンも似たようなことを言っていたから、多分それは本当だろう。
 地下から例の地下水路へ降りることが出来るし、水路はタリア中へつながっている。ライアンがアルード王にねだったというならその辺りを考えているのだ。
 好きな部屋を選べと言われて最上階にしたのは、今し方ライアンが喫煙のために開けていた窓から遠く魔導の塔と、その更に向こうに皇城が見えるからかもしれない。白く輝く光の色のような城壁を見た瞬間に、この部屋がいいと口にしていたのだから。
 選別した写真を渡すとライアンは頷き、他の写真に火をつけた。灰皿の上で身をよじるようにめくれ、瞬く間に黒い塊になっていくそれをクインはじっと見つめる。写真に対する嫌悪を考えてくれることを有り難く受け止めながら。
「……やめるかと思ったが」
 ライアンの方も何かを思ったようで、そんなことを言った。クインは僅かに笑ってみせる。それは思っていたよりもずっと晴れやかであったように思われた。
「止めたって何も変わらないよ……」
 口にしながらそれが真実であるようにクインは思った。
 ライアンは僅かに首をかしげ、それから水差しを傾けて灰皿の上に残る僅かな火種を完全に消した。水差しを戻すそのままの手で、クインの手首を掴んで寝台の上に引き倒す。
 それがいかにも唐突で、クインは慌てて待って、と遮った。ライアンは少し笑った。
「止めるか?」
 からかうような素振りが滲む口調にクインはライアンを軽く睨みあげ、そして違う、と首を振った。
「そうじゃなくて……あ、灯り、消してよ……」
 何か理由に見えるものを探して口走った言葉に、ライアンはああ、と素っ気なく応じた。自分の手首を掴んでいた手が離れ、寝台のすぐ脇に置かれていたランプの灯火が簡単に消える。
 ふっと夜に沈んだ部屋で、クインは微かなライアンの吐息を聞いたように思った。
 店の少ない路地近いアパートでは、窓からの明かりは殆どない。月はあるだろうが、今は建物の影になっていて光は射さない。いくら目を凝らしても、ライアンの表情はだから読みとれなかった。
 寝台に引き倒されたままの姿勢で背を預けていたクインは、居心地悪く身体をずらした。どうしていいのか本当に分からない。何か言うと支離滅裂になるのは自明に思われたから殊更、黙り込んだ。
 ライアンが今度は正真正銘の溜息をついた。何を待たれていたのかを知っても、声高に非難する気にはならなかった。それが非難に値することなのかどうか、クインには判断が付かない。
 身体の方は既に震えが止まっていた。深いところで観念してしまったのか、すとんとした脱力で湯船の中にいたときより余程呼吸が正しい。あとはライアンがしたいようにすればいいのだという諦観と、彼ならそう酷いことは強いまいという安堵がやや自分を落ち着けている。
 ライアンが唇を開いたような気配がした。黒い空間の中で、全ては気配であった。クインがじっと彼の顔の辺りを見上げると、ライアンは僅かに首を振り、そして頷いたようだった。
 ライアンの影が動き、彼の指が自分の頬に触れた瞬間、撥ねるように迫り上がった動悸をクインは聞いた。自分の耳元で、自分の心臓の音が激しく聞こえる。
 それに追い立てられるようにクインは目を閉じ、深く呼吸をした。その音と鼓動だけが世界に満ち満ちていく。閉じた瞼が痙攣している。噛みしめた唇を呼吸のために僅かに開き、長い溜息が震えていたような気がして左手で口元を押さえた。
 そのまま呼吸を整えようと何度か肩でそれを均していると、他人の指が自分の胸の位置にある釦を外すのが分かった。微かに肌に触れる衣の動きさえ、いちいち気に掛かる。
 鳩尾のあたりまでをはだけ終えた指が、何かを辿るように探すように、ゆっくり上がってくる。喉に指が触れる。込み上がってきた吐息を逃がそうと背をよじると、ぽろりと頬を伝うものがあった。
 それを空いていた右手でそっと拭い、クインはその右手をライアンの方へ伸ばした。何かに闇雲に縋りたい瞬間であったかも知れなかった。指先に、彼の体温が近くなる。だが、それを感じた瞬間にクインは手を引いた。そんなことをして得られるのはライアンの同情だけであると思ったのだ。
 どこへやるか困惑した手を迷っていると、指の間にするりと彼の指が入り、組合わさるようにして頬の横の辺りへ落とされた。
 掌の熱。体温と、微かに感じる脈。
「ライ……」
 クインは何かを言いかけた。何を言おうとしたのか、良く分からない。
 ―――その瞬間、不意に白い光が部屋を照らした。驚愕でクインは反射的に跳ね起きた。何があったのか、理解できなかったのだ。
 一瞬の後、低い轟音が遠くから聞こえた。花火だ、と理解するのに少しかかった。この祝祭の日の終わりを告げるべく、皇城からあげられていた花火の最終幕が始まるらしい。最初の閃光を皮切りにしたように、次々と光の花が空に咲いては消えていく。
 ライアンがするりと重ね合わせた手を離し、花火だな、と呟いた。そうだね、とクインは淡く返答し、寝台の上に起きあがった。前だけが空いた衣の隙間から入る夜気が肌を僅かに冷やす。
 そしてそのまま2人、黙ったまま夜空を見上げた。
 窓の向こうに鮮やかに展開する明るい世界を眺めている間、決別の言葉をそれに投げかけている間、クインはじっと花火のちょうど真下辺りにいるはずの、兄のことを思った。
 兄のことを思い、見知らぬ母のことを思い、そして自分を連れていた母のことを思った。
「……綺麗だね」
 クインの呟きに、ライアンの吐息のような肯定が返った。
 視界の中に四角く切り取られた窓、窓の向こうの夜、夜の上に乱舞する光たち。瞬き、消え、開き、名残と残像を残し、再び上がっては黒空に描き出される沢山の花。あの下にいる彼らと今、同じものを見ている。いる場所は違っても。
 そんなことを思うと泣き笑いのような、微妙な表情になった。ライアンの方を横目で窺うと、彼はそんなクインの様子を知らぬふりでじっと夜空を見上げていた。
 ……あるいはそのふりをしてくれていた。どちらでも良かった。今、声をかけられたら、浴室で憶えた憎悪のことを、思い出してしまいそうだったから。
 クインは視線を花火に戻した。美しいものを見ているときだけは、全てを忘れて没頭していられた。何故自分がここにいるのかという疑問も、取り返しのつかないことへ踏み出そうとしている恐怖も、全てが光の中に紛れて消えてしまう気がした。
 次々と連続して打ち上げが続くならば、幕切れは近い。今頃帝都は祝祭の歓喜の中にあって一際華やかな熱狂を享受しているだろう。明日の朝になればその余韻だけが残っている一過性の、だが確実な快楽が皇城の下から広がり、道と人々を満たしている。
 そして自分もまた、闇という部類の祝祭を通過しようとしている。熱と痛みを享受しながら。
 クインは軽く頭をうち振り、ライアン、と呼んだ。花火をじっと見つめていた男はクインを見返した。それは彼が見た中で一番落ち着いて穏やかな表情であった。それに酷く強い安堵を覚えながら、クインはもう一度ライアンと言った。
「……花火が終わったら……さっきみたいに、手……重ねてて……」
 体温があるだけで随分と鼓動の早さが違う気がした。本当は手ではなくて唇の方がいいのだと言いかけ、クインは自分の感傷気味なことを苦く笑った。ただ、最後に唇に残っている記憶があの男のものであることが、気に入らない。が、ライアンに告げてもそれは是と言わないだろうと分かっていた。
 クインの言葉にライアンは頷き、どうしても変わらないか、と尋ねた。クインはうん、と僅かに微笑んで返答し、花火へ視線を戻した。
 光花の饗宴は一層たけなわで、夜空全体が太陽に煌めく海のようにさえ見える。
「クイン」
 ライアンが唐突に言った。
「お前が担保にしたものの代わりに、俺の真実をやろう。お前には嘘をつかないと誓う」
 クインはライアンを見、そして破顔した。炸裂する光に明滅するライアンの緑色の瞳の奥の自分が、晴れやかに、嬉しそうに笑っていた。
 やがて花火が終わり、部屋と夜は闇に戻った。そこで行われたことは、それまでクインが知識としてだけ知っていたことであった。

 彼女は生まれたときから奴隷だった。奴隷の子は奴隷と決まっている。無戸籍の連中が彼女の父を金に困って下働きとしてこの貴族の荘園屋敷へ売り、母も同じように売られてきた。その二人の間に生まれた娘であれば最初からいないも同然で、だから養ってもらい、一人前の仕事が出来なくても置いてもらえるだけで幸福だった。
 彼女の記憶には父の姿はない。父は彼女が2才の時に病で死んだのだ。彼女が生まれたときに主人が祝賀として撮ってくれた記念写真の微笑みだけが、彼女の知る父であった。ぎこちなくゆるめようとしている口元とそれに比して柔和な目が、父の優しい不器用な性質を教えてくれる気がした。隣に自分を抱いて映る母も若い。10才の時に母親も事故で亡くなってからはこの写真が殆ど唯一の形見だった。
 母を失ったとき、彼女はまだ子供と呼ぶべき年齢であったが、物心つく頃から下働きとして体を動かしてきたことを主人は評価してくれたらしい。荘園に残ることを許されてからは彼女は誰よりも一所懸命に働いた。
 明け方には起き出して、まずは厨房の掃除から。専任の料理人がやってくるまでにはそれを済ませ、指示されていたことをおおかた終えておかなくてはいけない。少し早めの朝食を簡単に摂ると主人とその家族が起き出す時間になるから身支度を手伝い、後始末をする。その後はいいつかったことがあればそちらをし、なければ広い屋敷の手入れなどに日々を過ごしていく。
 けれど彼女はそのどれもが嫌いではなかった。例えば硝子一つにしても丁寧に、丹念に磨けば拭く前よりももっときらきらと光を通して廊下に美しい模様を作ってくれる。馬だって愛情を込めて世話をしてやればどれだけ優しい目をするか。
 掃除一つ、洗濯一つ、手を抜いては自分が本当にいいと思う状態になどなりはしない。無心にただひたすらに働いた時だけ、神様はご褒美のように綺麗なものを見せてくれる。
 神様、と彼女はその存在についてぼんやりと思う。彼女は勿論学校になど縁はなかったし、時々主人達が通っている教会というものに足を運んだこともない。
 だが主人の家族のうち一番年齢の近い少年が神様と言うとき、その口調には冒しがたい尊崇と温かな憧憬が潜んでいるようで、それを発音する唇の動きごとに彼女は胸が膨らむような気がした。
 雨上がりの雲の切れ間から細く差し込む光の糸々。朝露に輝く花壇の薔薇と飛び交う蝶の羽音。沢山の幸福に美しいものは皆、自分たちの手の届かないところからの贈り物だ。目で見て肌で感じて受け取ることの出来る幸福は、沢山ある。主人達のような上等の服や豪華な食事など欲しくないと言うなら嘘になろうが、彼女は自らの範囲で幸福を数えるのになれていた。
 神様。
 時折彼女は眠りの前に屋根裏の自室で少年がするように手を胸の前に組み、そっとうなだれる。他愛ない祈りは聖句も良く知らない彼女の精一杯の夢想ともいえた。
 どうかもう少しだけ背を伸ばして下さい。もう少しだけ美人にして下さい。ほんのちょっとだけでいいんです。沢山働いて、一所懸命何でもしますから―――
 そして横の鏡をちらっと見て、首をかしげて苦笑するのだ。
 父も母も美形ではなかった。それは自分にも受け継がれている。人より少し大きい黒目がちの瞳が可愛いと女中頭は誉めてくれるが、これは他に目立ったところのない平凡な顔立ちの中では却って違和感に思えてならない。真っ黒でたっぷりした髪も何だか鴉のようで悲しい。色白なのもよりけりで、日に当たるとすぐにそばかすが浮いてしまう。家の中の仕事だけではないのだ。
 時折化粧品を女中頭やこの屋敷の女主人が使い残したからとくれることがあるが、勿体なくて使えない。特別なときに特別に使いたいと引き出しの奥に仕舞ったままで、鏡の中に一瞬でも少しましな自分を見つけたいとき、彼女はきゅっと唇を結んだ。そうすると僅かな間だけ、唇はほんのりと赤くなる。
 けれどそれも一瞬の魔法。次に気付いて鏡を見るときにはもう、少し怯えたような目つきの少女に戻っている。
 彼女はそれをねじ回して悲観はしない。美人でなくても財産などなくても、健康で良く働く身体があればきっと生きていけるから。
 生きていける、という自負がこの屋敷の中という狭い世界に限定されていたのを、勿論彼女は気付かなかった。彼女にとって人生は日常の延長であり、日常はただ無心に働くことだった。
 余計な望みは抱かないこと、自分が今持っているものに満ちていればいいということ、その二つをしっかり胸に刻んだ上で彼女は毎日を仕事の中に埋めることに腐心した。それ以外考えられなかったし、他のことを覚えることも考えることも必要でなかった。
 貴族荘園といってもこんな田舎で麦や綿花をするのは下位貴族だ。本当の大貴族は荘園など持たない。彼らは債権証書の売買や貸付やらで莫大な利益を上げる。荘園などと呼ぶのも苦笑するような、主人一家と使用人全部を含めて20名もいない小さな農園だったが、それだけに関係は密だった。真面目でよく働く彼女を屋敷の人々は慈しんでくれた。
 化粧品もそうだが、少し生地がよれて薄くなっているコートや意匠が古くて着られなくなった服などを女主人は彼女にくれた。他の奴隷達も親を亡くした彼女をよく構ってくれた。主人がかつかつと奴隷達を扱わないことで、奴隷と言っても鞭打たれたり過酷すぎる労働に無理に従事させられることもなかった。それを語る他の農場から売られてきた奴隷達の話から比較して、自分は運がいいのだと彼女は知っていた。
 屋敷には彼女より一つ年上の少年がいた。主人譲りの明るい金髪と優しい青灰色の瞳が自分を見て微笑むと、誰に笑いかけてもらうよりも気後れがした。
 それは何故だろうと彼女は思う。向こうがいずれ自分の主人になる身で、自分が奴隷だから?
 いいえ、と彼女は床を磨く手をしばし止めて顔を歪める。
 少年が自分に笑みを与えてくれたその瞬間に、そんな身分差など考えているほどの余裕はないのだ。ただ怖じて、どんな顔をすればいいか分からなくて、困惑した挙げ句に目線と頭を下げることしかできない。
 少年が笑うと何か透明な、硝子で出来た石のようなものが心の中で僅かに転がる音がする。それは勿論空耳なのだが、その音を聞いたと思った瞬間に何故か恥ずかしくて居たたまれなくなるのだ。
 彼女は微かに溜息をついて床磨きを再会する。考え事をするときは大抵床磨きだ。屋敷の古い木の回廊は、年代を経た木材だけが放つまろやかな光を保つために時折は専用の薬剤で力一杯磨かなくてはいけない。両膝をついて雑巾でごしごし擦る姿勢は表情を隠してくれる。
 少年の笑みを今更脳裏に呼び戻して、彼女は僅かに今度は赤面する。今自分がとてつもなく不埒なことをしているような気がしたからだ。
 彼女がそれを躍起になって頭から追い出そうと床を磨く手に力を込めていると、足音が聞こえた。視線をあげすぎないようにそちらを見ると、上等の靴が見えた。靴の刺繍でそれが少年であることが分かった。
 彼女は廊下の端へ寄って深く叩頭する。すぐに行きすぎるだろうと思っていた靴は、だが彼女の目の前で止まった。
 顔を上げるように言われて彼女は恐る恐る少年を見上げる。例の音が耳から遙か遠くで続いている。名前を呼ばれて、はい、と返事をした声は凍えた小鳥のように密やかだった。
「13の誕生日、おめでとう」
 誕生日、と彼女はぽかんとした声で聞き返した。少年は一瞬美しい青灰の瞳を見開き、違った?と小声で言った。彼女は首を振る。ただ、誕生日を祝うという習慣が身に付いていないだけで、この日が生まれた日であることは知っていた。
 上手く返答もできない彼女に少年はそっと笑い、小さなリボンの掛かった包みを差し出した。胸がどくんと鳴る。今までのさやかな音など吹き飛ぶような大きな音が耳を打ち、うち続けているのが痛い。
「……いいから、取っておくれ。大したものじゃないけど、僕はお前にやりたいんだ」
 彼女は動けなかった。現実でないことが起こっているような、白昼夢の中に彷徨い込んでしまったような、恐れと怯えで身体が固まってしまったようだ。どうしていいのか分からないまま膝をついて震えていると少年は遂に苦笑し、手にしていた包みを彼女に握らせた。
 手が触れた瞬間に、彼女は微かに吐息を漏らした。自分の指を開く手の温かさに惑乱して、泣き出しそうになる。心臓の音だけが世界に飽和していて、他のことなど何も考えられない。
 少年はじゃあねと柔らかに言い、回廊を戻っていく。その後ろ姿が遠くなっていって、ようやく彼女は落ち着きを取り戻した。
 ……まだ心臓が大きく波打った余韻は引かない。それを宥めるために彼女は大きく呼吸をし、それから少年の指の触れた辺りをそっと撫でた。胸の中にこぼれてくる温かな湯のようなものを、何と表現していいのか分からない。ようやく胸を押さえると、そこが痛いほど波打っているのが分かった。
 夜、仕事を終えてから彼女は自室で包みを解いた。中身は硝子の小鳥だった。掌に乗る程度の大きさで、色の付いていない透明な硝子が蝋燭の光をゆらゆら通して仄かに耀いている。
 彼女はじっとそれを見つめる。それは生まれて初めて彼女に与えられた、世の中で一番美しく可愛らしいものであったかも知れなかった。
 その晩彼女はいつもより長く、名も知らぬ神に祈った。
 もう少しだけ睫を長くして下さい。
 もう少しだけそばかすを消して下さい。
 神様、あともう少しだけでいいから、あの人の目に映る瞬間だけでいいから、私が綺麗に見える魔法を下さい―――
 神様と、呟きながら眠りに落ちていったその夜。彼女は人より遅めの初潮を迎えた。
 日常はたゆまず流れていった。少年は時折彼女に珍しい茶や砂糖菓子をくれた。それにリボンや派手すぎない髪留めなども。何を貰っても彼女は嬉しかった。少年がほんの少し自分に心を選り分けておいてくれることが、暖かく、幸福な気持ちにさせてくれた。
 それに、物を渡すときに一瞬触れる手が、手の温もりが。それが何よりも彼女に熱を与えてくれる。
 彼女の部屋は屋根裏で、傾いた屋根の斜傾を切り取るように窓と腰台がある。腰台には鏡と両親の写真が飾ってあり、それが彼女の部屋で一番良い場所だった。光が射し込むとそこだけぽっかり明るくなる。
 硝子の小鳥が部屋の一番良い場所に飾られるようになってから半年で、少年からの贈り物はその場所を占領するようになった。リボンだけは色褪せてしまうのが怖くて、やはり彼から貰った小さな疑似宝石の付いた小箱に仕舞ってある。少年が持ってくる品物は大抵日常には身につけられない物ばかりであったが、それでも譬えようもなく嬉しかった。
 彼女が自分の供物を使えないことに少年が気付くのが遅れたのは、彼と彼女の決定的な生活の差であった。少年は末端とはいえ貴族の範疇にあり、働いたことなどは皆無であった。
 少年の仕事は今は勉学であり、そうでなければ収穫時の収益の計算を手伝う程度のことだ。長じて家の仕事と名の付くものをするとすれば、それは肉体労働ではなく、奴隷達を監督しきちんと利益を上げることなのだ。
 ごめんよ、と少年はそれをすまなそうに言った。彼女は激しく首を振った。少年の持ってくる物はどれも繊細で美しく、砂糖菓子一つにしても壊したくないと思えるほどに上等だった。それらを見ているだけで、彼女は自分の手の届かない遠い世界を夢想することができた。きらびやかで華やかな夢を描いているときだけは、彼女は完全に幸福であったのだ。
 つっかえながらどうにかそんなことを説明すると、少年は苦笑したようだった。
「……お前がそれでいいというならいいんだけど」
 それでも少年は自分の気持ちを何かに託したいと思ったのだろう。やや思案の後に、自分の襟元から銀の細い鎖を指で引き出した。その先に揺れる複雑な紋様板と中央に埋まった真珠で、これが少年の祈る神の持ち物であることが分かった。
「じゃあ、これを持っておいで。神様のご加護がお前にあるように、僕も祈っておくから。首からかけて服の中へ入れてしまえば、誰の目にも付かないだろう?」
 ほら、と手渡された銀の薄板にまだ少年の体温が残っていた。彼女はそれを握りしめた。神様、と呟くと少年は頷いて笑った。
「そのうち、聖句や祈りの作法も教えてあげるよ。信仰を馬鹿にする人もいるけど、僕は好きだな。心がとても落ち着くんだ」
 彼女は深く頷き、促されるままに鎖を首に掛けた。微かにこすれる金属の高い音が、心の奥を高揚させる。
 紋様板がちょうど胸の淡い谷間と鎖骨の中間辺りに止まったのを、彼女は服の上からそっと押さえた。その部分に泣きたいほど温かな物が宿った気がしたのだ。
 それから彼女は顔を上げた。信仰の道具を簡単に他人に譲るというのは如何にも不埒なことのような気がしてならなかった。
「あの……若様、こんな、頂いてしまったら、ご迷惑なのではないでしょうか……」
 少年は軽く笑い、いいんだよと言った。
「来週は僕の誕生日だから、父上からまた新しいのを頂くことになっているんだよ。もうそれは要らなくなるし、引き出しに仕舞っておくよりはお前に持っていて欲しいんだ」
 はい、と頷いた時に彼女の胸を占めていたのは圧倒的な幸福だった。
 少年の眼差しや言葉が優しく自分をからめる度に、竦み上がってしまうほどに幸福な気持ちになる。他に何も要らないと思えるほど、この一瞬が永遠に続かないだろうかと思うほど。
 嬉しくて嬉しくて、他には何も考えられない。
 あまりに幸福で、それを逃がしたくない一心で彼女は目を閉じる。祈りをするようにうなだれていると、そっと頬に少年が触れたのが分かった。ふっと視線をあげると少年が自分の頬に指をまつろわせながら、じっと彼女を見ていた。
 瞳があってしまえば、捕らわれたように動けない。少年がゆっくり顔を自分に寄せてきたとき、彼女は怯えるように目を閉じた。
 初めて他人と交わす口付けは、ひどく長い時間のような気もした。彼の唇は少し乾いて暖かく、触れた箇所から全てが抜け落ちていきそうな安堵を彼女は覚えた。
 唇が一瞬離れた瞬間、掠れた声が好きだよと囁くのを聞いた。彼女は頷き、僅かに涙ぐみ、もう一度頷いて少年が再び寄せる唇を受け止めるために目を閉じた。
 2人で持った秘密は、秘密だと思うことで尚更大切なものになった。仕事の合間に時折彼女は少年と逢うようになった。抱きしめられれば嬉しく、口付けを受ければ嬉しかった。彼の胸に甘えていることも、彼の腕にまかれていることも、全てがきらめくような幸福だった。
 少年はその年齢特有のまっすぐさと生真面目さでいつか彼女を妻としたいと誓ってくれた。無邪気で無垢な約束事を交わす度に彼女は悲しくなった。自分と少年では明らかに身分に差があった。奴隷から自由市民になるには沢山の金がいる。市民になったからといって、その先にはまだ騎士階級を越えた上で少年の家門が位置する下級貴族というものに辿り着くのだ。あり得ない。
 だが、そうと分かっているからこそ少年の情熱も真摯な言葉も嬉しかった。嬉しくて悲しくて、その二つがいつもない交ぜになって、眠りに落ちる前はいつも惑乱の中だ。
 夢を見ているときだけが彼女を癒してくれた。身分差など考えず、2人で微笑みあっていられさえすればそれで良かった。
 だが現実はやはり悲しいことが多い。少年が沢山の物を彼女に降り注ぐように彼女はどうにかして自分から何かを差し出したかったが、自分に持てるものは何もなかった。
 庭の薔薇の世話の折りに拾っておいた花弁で作った香袋、女主人の使い残したレースで編んだ小さなタイ。でもそのどれもが彼が最初から持っている物に比べ、なんてみすぼらしくて見劣りがするんだろう。
 何も持たないことがこれほど恥ずかしいと思ったことはなかった。少年が自分にしてくれるように、同じように気持ちを返したいのに何も出来ない。彼はいつでも優しくしてくれるのに、自分ときたら色々な思惑に足を取られてぎこちなく、彼の言葉に頷くしかできない気がする……
 彼女はそんな自分が厭わしくなる。人を好きになればなるほど欲張りになる。物欲しがるようになる。少年を慕い見つめる気持ちが純粋であればあるほど、彼に似つかわしくないことが重くのし掛かってくるのだ。
 せめて自分がもう少し美人であったら良かったのに。奴隷じゃなければ良かったのに。
 けれどそれを思っても何も変わらない。目覚めれば窓の外にはいつもと同じ夜明け前の紺青の空、薄汚い寝台の上―――
 悲しみは少年と逢う僅かな時間にだけ、姿を見せなかった。彼女はそれを念頭から追い払うことだけを考えた。その時間は確かに満ち足りていたから、余計なものを入れたくなかったのだ。
 そしてなるべくそれを脳裏から追い払うために彼女は益々仕事に熱心になった。食器も調度品もいつでもきちんと磨き、丁寧に掃除をし、料理の手伝いをし、女主人のする糸細工と呼ばれる手刺しの刺繍絵の糸を紡いだ。働いて働いて、誰かの役に立ちたかった。
 14になる頃には彼女は誰からも重宝される小間使いになっていた。特に女主人は彼女をよく可愛がった。糸細工には細かな神経を必要とするし、丁寧に紡いだ色糸の具合が出来を左右する。
 時折配色の相談などを受けるようになり、女主人の手から彼女はそれを教えられた。貴族の女達の間では教養ともされているそれを自分の手が生み出すのは不思議な奇跡だった。
 自由にして良いと与えられた絹地に、彼女は硝子の小鳥を刺繍した。それは人生で最初に目にした、何の混じりけもなく純粋に美しいものであった。小鳥を刺し終わった後で彼女は僅かに考えて、その横に一回り大きな小鳥を寄り添いあうように刺した。これが彼女に出来る、精一杯の表現であった。
 刺繍の入った絹地を切り取り、縁を丁寧にかがってレースで装飾すると、みすぼらしくはない程度のタイにすることが出来た。彼女はほっと息を付く。ようやく何か返すことが出来るのだと思うと嬉しかった。
 少年はそれをとても喜んでくれた。こんなものしか出来なくて、と俯く彼女に何度も首を振り、有り難うと言った。
「こんなものだなんて、あんまり自分を卑下するのはおやめ。今のままでいいんだよ」
「若様……」
 言葉が詰まるときは、胸も詰まる。どう言葉にして良いか分からない。
 いつの間にか定まった2人の密会場所は滅多に人の来ない機織り小屋だった。昔は織布もしていたが綿花を手広く始めたせいで手が回らず、いつの間にか止めてしまった家業だ。糸紡車や織機などはまだ残っているが使う者もいない。
 いつものように唇をよせ、彼の胸にじっと身を預けていると精神全体が弛緩するような安らぎを覚えた。彼の鼓動も息づかいも、全てが彼女を包む世界になってくれた。
 何度目かの口付けを交わしていると、少年がふうっと溜息をついた。彼女はじっと、彼女の神様を見上げる。
 少年は彼女の黒髪に手を差し入れて、ゆっくり愛撫しながら呟いた。
「……でも、何かをくれるというなら……少しの間目を閉じていてくれないか」
 彼女は素直に従った。少年の腕が自分の肩を抱き寄せ、いつもよりも丁寧なキスをした。
 何度も離れては重なる唇が、ついばむように自分の同じ箇所を撫でる。最初の頃のぎこちなさは既に抜けて、彼女は全く警戒心なく心を預けていた。
 不意に唇を割って何かが入ってきたのが分かった。驚いた身体が一瞬、反射的に離れようとするのを少年の腕が押さえるようにして遮った。
 それが彼の意志だということをはっきり悟って、彼女は微かに身を縮めた。不意打ちの荒々しい仕種はただ恐れに変わるものであった。
 きつく目を閉じてなされるままにしていると、やがて唇が離れた。うっすらと目を開けると少年の唇が赤く、ぽってりと濡れているのが分かった。きっと自分も同じようだろうということに気付き、彼女は羞恥に俯いた。どんな顔をして良いのか分からない。
「―――ごめん……」
 少年の声は苦しげで、ひどく痛々しかった。わずかな間をおいて、彼女はいいえと細く答えた。
「あの、私……驚いただけで……」
 言い訳がましく口にして、彼女は僅かに首を振った。少年の謝意が何に向けられたものかを理解したのだ。彼は自分が怯えていたのを分かったのだろう。だから謝っている。それが嬉しくて、彼女はようやく微笑んだ。
「若様、私、本当に驚いただけなんです……あの、わ、私に出来ることってこれくらいしかないのかもしれないですし……」
「そんなことない!」
 反射的に少年が声を荒げ、彼女は微かに怯えて呼吸を止めた。自分の語気が彼女を怖れさせたのに気付き、少年はやや長い溜息をついて首を振った。
「ごめん、怒鳴るつもりじゃなかった……でもお前はいつもそんなことばかり言うんだね。僕はお前がお前の言うようにつまらないものだなんて、思ったことはないよ」
 彼女は俯いて首を振る。少年の周辺にあり集うものはみな繊細な技巧を凝らした優美さばかりで、そこに自分がぽつんと混じるのはどう考えても不自然だった。闇のように閉塞した重い色の髪、同じ色の瞳。頬にぽつぽつ散る淡いそばかす。全てが不調和なのだ。
 彼と、彼の持つ世界の空気とは。
 彼女が黙っていることで少年は再び溜息になったが、それ以上を続けようとしなかった。若い2人にも薄々分かりかけている。いずれにしろ、このままでは限界があることを。
 ぎこちない空気を残しながら、彼女は夕方の仕事へ行かなくてはならなかった。仕事の最中は敢えて他のことは考えないようにしているが、この日は払っても払っても沢山の悲しみが沸いてきて手に負えなかった。
 自分はこんなにも若主人を恋していると思うと息苦しくなる。
 何が悲しくても切なくても、その気持ちだけは持っていていいはずだ―――と思う。明日逢ったら謝らなくてはと彼女は決意し、その晩、いつものように神様に少しだけ祈りをして眠りについた。
 それから時折、あの深い口付けを交わすようになった。最初あれだけ驚いたのに身体は順応する。少年の望むようにすることが自分に出来る精一杯なのだと思い定めてしまえば、後は彼の言うがままにするだけで良かった。
 味わうように舌を絡ませ、吐息で呼吸する心地よさ。優しくて穏やかな海に投げ出されているようなゆらめく安堵感。縋り付いていられる安心感。そんなものの全てが好きだった。
 彼の手が自分の薄い胸を服の上からそっと触るようになったのも、自然な成り行きだった。大切な、壊れやすい卵でも扱うようなやわい手の感触を彼女は目を閉じて受け入れた。心臓の音が掌から彼に伝わってしまうのだけが怖かった。
 少年はそれから先には進もうとしなかった。いつか、その時がきたら僕に全てを預けて欲しいといわれてただ頷いた。自分は大切にされていたのだと、本当に彼女が思い知るのはこれから随分先のことだ。
 その時は、彼の体温と呼吸を近く感じていられればそれで良かった。他のこと一切が自分に合わないと分かっていても、いずれは住む世界が違うことを知らねばならないことも、全てを忘れていられた。幸福だった。
 いつまでもそんな日々が続いて欲しいと願っていたのは幼い証拠だったろうか。彼女は主人の家業については全く知らなかった。綿花の不作や麦の不出来から重なった借財がかさみ、軋んでこの家を押し潰してしまうまで、その暗い足音を聞くことなど出来なかったのだ。
 ある朝に全ては消えていた。今までのことが夢のように。

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