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 タリア王屋敷の門をくぐるとまず目に入るのは美しく整えられた前庭と馬車寄せだ。タリア王というのは通称で、タリアの支配者は系譜上、国の末端にいる。官位は下端であったが、実状は悪くない程度の影響力を持っていた。治外法権ともいえる自治制度を許されているのは、タリアから回る献金が国を実際に利しているからだ。逆に返せばその金があるからこそ、自治が認められている。
 官位がありその公邸であるならば、馬車寄せは必須だ。皇城、つまり国府との行き来は馬車に決まっている。実際は殆ど使われていないにしろ、それは様式であった。
 馬車寄せから扉を抜けて吹き抜けの玄関ホールになめらかに降りている螺旋階段を上り、左へ行けばタリア王の執務室ということになる。
 執務室といっても大抵はタリア王の側近たちがたむろしている。タリア王自身はいないこともあるが、これは個人の資質に寄るところが大きいだろう。
 先のタリア王であったカレル=コリーグは外へ出ることが多く、そして彼を駆逐してその座についた現王アルード=クールは屋敷にいることが多い。カレルは高官との接触が多かったが、それを国からの過干渉と捉えて不満に思う者も多く、カレルを葬ってタリア王となったアルードはまずはタリア内の方向の統一を強いられている。故に、あまりタリアを離れることがなかった。
 ライアンが執務室へ入っていくと、側近の男たちがちらりと彼を見た。男たちと同じようにライアンもまた、アルードの配下といわれる立場にある。
「お前の陰気な顔を見るのは久しぶりだな」
 そんなことを言ってアルードの隣に佇む男が笑った。彼も側近の一人だ。
 久しぶりというのは単なる嫌味で、ライアンは2日と続けてアルードの側を離れたことが殆どない。
「例の連中の残党がほぼ掴めたので、その報告を」
 抑揚なく呟くと、ライアンはここ数日かけて集めた情報を口頭で伝えていく。ライアンは字が読めないから自身で告げるくらいしか方法がなかった。それにアルードから次の指示があるだろうから、代理を立てるくらいなら自分でこなした方が早い。
 例の連中というのはタリアの中の不穏分子だ。前王カレルの派閥は首塊が倒れた後に徹底した残党狩りに遭った。宗旨替えした者もいるが、前王の頃よりは明らかに遠ざけられている。タリア王に近い位置にいるほど旨い汁を吸うことが出来るゆえに、放逐と呼んで差し支えない扱いだった。
 彼らにとってはアルードは元の主人の仇であるという単純な理由だけでもなく憎むべき相手であった。そしてアルードがカレルを暗殺したとき、それに積極的に協力したのがライアンであったせいで、ライアンもまた、その連中には敵視されている。
 ライアンの報告が終わるのを待って、アルードは呼び鈴を取った。その音に反応してすぐに現れたのは魔導士であった。国から借り受けているのだろう。
「カノン、連中の根城の座標を取れ。場所はこれが案内する」
 はい、と返答する魔導士の顔は銀の仮面に覆われて見えない。カノンというのも魔導士としての名であって本名ではない。だが背格好や声からさほど年齢のいかない、まだ少年という範囲に属することはわかった。
 それ以上の指示はなかった。戻ってこいとは言わなかったから、今日はどうやら好きにしていいらしい。ライアンは内心でやっと呼吸をした気分になった。
 アルードがライアンを側に置きたがるというのは事実だ。それを気に入っている、と表現するなら現実に即してはいるのだろう。が、ライアンはそんな単純な話ではないことを知っている。アルードもライアンと2人の時はそれを隠さない。
 前王カレルの死に関わる幾つかの謎とされている部分の殆どをライアンが引き受けたのは事実だ。アルードはライアンもいずれ始末する気でいる、その秘密を共有する者として、生存さえも気に入らないから。
 アルードがライアンを側近として年齢若い割に厚遇するのは秘密の保持料だ。能力がないとは思われていないらしく、いくつかの末端的な仕事は任されているがそんなことであれば幾らでも代わりはいる。ライアンを近くにおくのはその方が言行や挙動を監視しやすいという理由であろう。
 ライアンは前王カレルが嫌いだった。もしくは憎んでいた。
 カレルはライアンをチェインの自治と引き換えに愛人になるように強要した。まだ彼が少年だった頃に、当時のチェインの王であったリァン・ロゥがカレルの望みに応じてライアンを差し出したときには死の影さえ見た。
 カレルの目を引いたのが自分の顔であるのなら傷つけて焼いてしまいたいと思ったこともある。
 だからアルードがカレルを暗殺する計画を持ちかけてきた時、若干の勿体はつけてみせたものの承知した。それはライアンにとっては解放を意味したからだ。
 そしてそれが済み、ライアンは別のものに縛られることになった。アルードとの共棲は悪くはない。少なくともカレルのようにライアンは神経を逆立てなくて済む。
 だが、危機感はカレルの時よりも数段上だった。カレルの場合はライアンをそれでも単純な意味で気に入ってもいたから、チェインの自治を買うために彼と寝ていても以前のような恐ろしさは感じなかった。
 だがアルードは違う。アルードとの間にある緊張はカレルの時よりも増していた。
 そしてそれでもお互いに離れていかないのは、お互いの利用価値を良く知っているからでもある。
 2人とも相手に決して好かれていないことを承知の上で共に在るのはタリアの自治のために必要なことを知っているからだ。力は正義であり、正義は力ある者のものだ。タリアの中の法律を究極に簡略するとこういうことでもあった。
 だから力無い者たちは排除され、敗者となり、更に踏みにじられる。カレルの残した残党を狩るのも当然の成り行きだった。
 魔導士に座標をとらせる、ということはそのうち建物ごと始末するつもりだからだろうか。魔導というものにライアンは詳しくないが、それを扱うのにかなり細かい計算や座標の把握が必要なことは見て知っている。
 少年魔導士を根城になっているアパートまで連れて行った帰りにライアンは自身の本拠であるチェインの「煉瓦屋敷」と通称されるアパートへ入った。ここは建物ごと、丸ごとがライアンのための要塞だ。彼の手足となるべき少年たちが常時たむろしているし、彼らをまとめる幹部たちも半数程度は残っている。
 幹部という扱いをしているのは現在6名。一人はチアロだがこれが一番年齢が下で、残り5人の内3名はライアンがチェインを完全に掌握した頃からの配下である。チェイン自体の人数は2千人見当といったあたりだが、派閥は100以上あった。彼らの棲み分けから小さな抗争などに至るまでライアンが全て面倒を見ているわけではないが、起こったことの報告は受ける。
 1階の広間の隅にライアンの席はある。北側の窓の側に置かれた椅子、脇の小卓とその上の灰皿と火種箱。いつもの場所で煙管に火を入れるライアンに幹部たちが大体の事を告げていると、視界の隅に一番の側近が入ってきたのが映った。
 こちらへ来るように軽く手で合図すると、頷いて寄ってくる表情がいつもより暗い。普段は多少あてられるほど明るく振る舞う少年である。それは他の幹部たちにも分かるのだろう。
「どうしたチアロ、悪いもんでも食ったか」
 軽口にチアロはやや憤然という調子で違うよ、と切り返したがあまり表情の色調は変わらない。煙草を続けながらライアンは手振りでチアロに側にいるように指示する。どんなに配下が増えて幹部が彼に忠誠を誓っていても、ライアンが最も心許しているのはこの少年だった。……それが何のためでありどれだけ下らないことか分かっていながらも。
 チェインの中の報告が済むとライアンはそれに指示を出す。例えば規律を破ったものには制裁を、派閥同士の抗争にはある程度の決着を。
 タリア王の元では手駒の一つに過ぎないライアンでも、チェインに戻れば確かに年若い者たちの王であるのだった。
 それも一段落ついた頃、ライアンは他の連中を追い払ってチアロの手を軽く叩いた。何か言いたそうにしていたが口を開かないのは、他人に聞かせたくない話だからだろう。
 チアロとの連絡は密で、お互いに相手がどんな出来事を抱えているかは知っている。チアロが人前で自分に話せないというならば、クインのことだろうと察しはついた。
 ライアンは食事にでも行くかと腰を上げた。チェインにいるときに彼の身辺を守る役目の男が合わせて立ち上がるが、ライアンはそれには首を振る。
 護身役は万一の時のライアンの身代わりになる役目だが、今は必要ない。ライアンは殆ど酒を飲まない上、体調も悪くなかったから、自分の身を守ることくらいは不足ないであろう。警護を連れていくときは人死が出ると分かっている時と、酒が入ると分かっている時だった。酒は元々体質に合わない。有り体にいうなら弱いのだ。
「あれがどうかしたのか。小遣いが足らないと言うなら馬鹿とでも言ってやれ」
 煉瓦屋敷の廊下を歩きながらライアンは言う。クインの身辺を整え、不自由ない生活をさせてやるには十分な額を既にチアロに渡してある。それ以上というなら浪費の限度というものであった。
「そのことなんだけどさ……」
 チアロがぼそぼそと、申し訳なさそうに呟いた。
「ごめん、俺、つい戸籍の話しちゃって……そしたらあいつ、戸籍いらないって言うんだ。あと、ライアンと話がしたいって……痛っ」
 考えるより先に出てしまった手を軽くうち振り、ライアンは溜息になった。
「奴は俺たちとは考え方が違うと言っただろう。迂闊にも程が過ぎる」
 チアロは打たれた首を片手で押さえながらごめん、ともう一度言った。ライアンは舌打ちをした。今更取り返しようもなかった。
 クインが何を言い出すかは分かっている。戸籍の拒否ともう一つ、最初の話へまた立ち戻るのだ。一度は言いくるめたはずの話を蒸し返されてはライアンも面白くない。
 奴の誇り高さは本物だとライアンは溜息になった。売春などは自分の身の上に起こる出来事であると見切っている。
 出来事は波だ。荒いものもあればゆるやかなものもあり、そして自分自身が硬く砕けない岩であると自負するなら、波は自分を妙な形に変えたり削ったりはしない。長い時間にそんなことにならないように波打ち際を駆けていく気でいる。
 不意に最初の夜のことが蘇ってきて、ライアンは苦い顔になった。老人に稚児に売られたことさえ知らなくて、彼にしてみれば突然の出来事に驚愕と恐怖で動けなかったあの日のことを。
 あんな風になりたいのかと思うと怒りさえ沸いた。
 ライアンは苛立ちのまま何度か溜息をついた。チアロが重ねて謝罪の言葉を吐いた。ライアンはそれに頷き、腹心に言った。
「で、戸籍の調査の方はどうした。止めたのか」
「いや。俺の主人は奴じゃなくてライアンだからね」
 それでライアンは僅かに機嫌を直した。戸籍の調査までをクインの言葉に付随して止めたなら、チアロに更にもう1発くれてやるところだ。それはそれでいい、と呟き、ライアンは煉瓦屋敷を出た。
 外は既に夕暮れの気配であった。
「食事が終わったらお前は奴の所へ行け。明日の昼過ぎに行くと伝えろ」
「ライアンは?」
「……あの女の所へ」
 分かったとチアロは頷いた。明日は昼からまた同じ話の繰り返しになるかと思えば気が滅入る。その前に考える時間も欲しかったし、何も考えない時間も欲しい。
 そして何よりも、芯からの休息が欲しかった。そんなときに行く場所をライアンはあまり持っていない。
 が、あるだけましというものかも知れなかった。
 食事が済んでチアロと別れると、ライアンはタリアの大通りの方へ足を向けた。境界門から続く妓楼の赤い格子が日暮れと共に一斉に燃えるような色に変わる。
 篝火が照らす通りから僅かに奥へ行ったところにその妓楼はあった。柱や格子の塗りはそう新しくはないが、まめに磨いているのか小綺麗だ。他の娼家とおなじように1階は食事や酒を楽しめる場所であり、身の空いている遊女や遊女の見習いの少女たちなどが忙しく華やかに立ち働いている。
 看板は余所の店に負けじと盛大に焚かれている篝火の煤で黒ずみが既に取れないが、駒鳥と桜桃の浮き彫りが見えた。それがこの妓楼の屋号である。識字しない連中のためにこうした看板は必ずどの妓楼にもあった。
 ライアンは慣れた足取りでその中へ入る。女たちの視線が一瞬向き、それからやはり慣れた笑みになった。軽い挨拶に素っ気なく応じてライアンは食堂の奥、遊女たちの部屋へ通じる回廊の前の女将の陣取る帳面台の前に立ち、それを軽く指で叩いた。帳簿に没頭していた女将はやっと顔を上げ、ああ、と練れた笑みになる。
「今、空いてるよ―――今日は泊まりで?」
 ライアンは頷き、いつもと同じだけの金をそこへ置いた。一瞥で金額を確かめた女将が小間使いの少女を呼ぶ。もう何度も上がっている部屋であるから案内は必要ないが、これは妓楼の方の都合である。
 タリアが男たちの王国であるなら妓楼は女たちの国だ。女たちには女たちの、沢山の見栄も思惑も打算もあろう。そこに口を挟むのは愚か者のすることだった。
 案内の少女が連れていった先の部屋はこの妓楼では悪くない方に属する。遊女の部屋の格というのは即ち指名の多さと揚げ代の額を示すものだ。この部屋の主が最初に貰った部屋はもっと小さく、狭かった。これが昇格したのに一端噛んでいるほどに注ぎ込んでいる自覚はある。
 小間使いの少女が姐さん、と扉を叩くと返答があった。細く扉が開いて、ライアンを認めた瞳がぱっと明るくなる。白い腕が伸びてライアンの袖を掴まえ、軽く抓った。
「久しぶり、ライアン、全然来てくれないからあたしのこと忘れちゃったのかと思った」
 端からそんな明るい怨み事を言い、遊女はライアンをそそくさと部屋に引っ張り込む。彼女もまだ少女と呼ばれる程度の年齢だ。翡翠色の瞳と薄い茶色の髪がライアンと共通していた。
「しばらくだったな、元気か」
 ひどく月並みなことを口にしながらライアンは薄い外套を脱ぎ、彼女に渡した。それを受け取って客用のクロゼットにしまいながら、まだ扉の外に控えている小間使いに酒とあて水を言いつけ、遊女は元気じゃないわよ、と軽やかに笑った。
「ライアンが来てくれないと寂しくて死んじゃうって、この前も言ったのに。ホントに死んじゃったのかと思って、滅茶苦茶、心配するんだからね」
 唇をつんと尖らせて不満不平を鳴らす様子も、さほど嫌味ではなかった。どうこう言いながらもまっすぐにライアンを見る瞳が嬉しさで輝いていることが大きいだろう。
 ライアンはゆるく笑った。神経ごと羽を伸ばしている彼のこれほど明るい表情を、恐らくはこの女以外の誰も知らない。
 シャラ、とライアンは彼女の名を呼んだ。うん、と笑う少女が飛びきりに嬉しそうだ。まだ少女の範疇に入る年齢特有の顔立ちの定まらなさではあるが、目鼻立ちは整った部類にはいるだろう。
 少し彫りの深い、冷淡にも一瞬見える顔貌はライアン自身に似ている。シャラと自分が並んでいるところを見たことがある人間は限られているが、彼らは総じて自分たちを似ていると言った。そもそもどことなく特徴のない美女系であるのだ。
「俺の心配はいい、俺は俺で適当にやっている」
 シャラは僅かに首をかしげた。
「うん、でも、今日はちょっと機嫌が悪いね。何かあった?」
「……よく分かるな」
「ライアンのことだから分かるの。他の客の機嫌なんか知ったこっちゃないわよ」
 ちょこんと舌を出して肩をすくめる仕種に、彼女が遊女として自然に身につけている媚態があった。彼女と知り合い指名するようになってから既に3年が経過しているが、少しづつこうして経験を重ねていく様子をどこか複雑な思いで眺めている。
 かといって妓楼から出すにはタリアの様子は自分に有利すぎない。チェインの子供たちは自分の女だと興味で見るだろうし、タリアの大人たちはこの女を自分との取引の材料にしたがるだろう。この中が一番安全というのは微妙な事情であった。
 酒が来るとシャラはついていた水に自分の砂糖菓子を取り出して放り込んだ。ライアンが酒の新しい瓶を開けてやると、瓶首を掴んで洗面所へ立っていく。中身は捨ててしまうのだ。
「いつものことだけど、勿体ないわよね」
 シャラは苦笑している。
 ライアンは酒を殆ど飲まない。酔いが欲しいときは少しだけ分けておくこともあるが、それは珍しい出来事に属した。それでもライアンが酒を頼むのはそれについてくるあて水と、酒代に含まれている遊女への見返りの金銭のためだ。何かを頼むのはシャラの体面を優先してやるためでもある。
 いいさ、とライアンは気楽に言い、シャラの作った砂糖水を含んだ。彼女の所に来るときは大抵日の終わりだ。好きで甘いものを食べるわけではないが、疲労が溜まってくると欲しくなった。
 シャラは大体ライアンの顔色を見ながらそれを作るべき時に作る。自分に関する限り、シャラは敏で聡い女であった。そしてそれ以外、全く無頓着な女でもある。
 その現金な好悪を、ライアンは憎くは思えなかった。この中途半端な感情がこの3年でねじれて奇妙なことになりつつある。多分それは自分が悪いのだろう。悪いと分かっていても胸にあるのは罪悪感ではなく、諦めに似た怯みであった。
「ねえ、機嫌悪いの、どうして?」
 シャラは無邪気を装い、ソファに身を預けながら水を舐めているライアンに身を摺り寄せてくる。肌の熱が触れる。まだ子供に近い身体は、体温が高い。
 それをさりげなく押し戻し、ライアンは曖昧な返事をした。遠ざかった身体を更に寄せるようにシャラはライアンの膝にもたれ、上目遣いに彼を見た。微かに開いた唇と吐息が、既に十分すぎるほどに男を知っていることを伺わせる。
 ねえ、と甘えた声を出すシャラの頬を指先でなぞりながら、ライアンはじっと自分の思考に沈んでいく。シャラを構っているときは寂しがる猫を撫でているような気分であった。
 クインの申し出の内容は推察している。恐らく外れはないだろう。嫌だと言い出したら絶対に聞かないだろうとライアンは半ば諦めている。クインに男娼としての価値があるかと聞かれれば大いにあると答えるところだ。
 自分で客を探すことをしないと言うなら賢い選択であるとも言える。街角にそれと分かる格好で立とうものならすぐに食い物にされて終わりだ。クインは自分が素人であることを理解はしている。だからこそライアンに上客を知らないかと聞くのだ。
 女衒のような真似をしろというからにはその見返りも考えているだろう。高級娼婦たちの相場からすれば取り分は娼婦が8の雇主が2程度だが、9をやってもいい。高額であるならその一割だとしても悪い商売にはならない。
 実際自分が手がけるには細かい仕事だし、クインの事情から鑑みてそもそも客として扱えない人種を取り除くこともしなくては。その辺りはチアロを通じてもっと下層の、チェインの子供たちにさせてもいいが、決して駄目な商売であるとは思えなかった。
 クインの切った期限まで、正味1ヶ月と3週間。
 女のように休養をとらなくてはならない期間がない分、彼の望む金額までは決して無理ではないだろう。一晩で―――500から600、というところだろうか……
 具体的な計算はもっと得意な者にさせるとしても、概容はすぐに弾き出せた。
 無理はない。ほころびはない。クインには確かに万人に君臨するような美貌が備わり、自分にはそれを最も効果的に売りさばく為の方策がある。
 だから躊躇う気持ちの中核が自分自身の嫌悪であることは余計に鮮明であった。ライアンは溜息をつき、構ってくれないとふくれている少女の頬をゆっくりさすった。
「……知り合いが、体を売りたいと言っていてな。俺は賛成しないが本気らしい……」
 相談というよりは愚痴であった。ライアンはそれだけ口にすると再び溜息になった。
 クインの主張も戸籍の入手に関わる事柄の秘匿に対する怒りも、全てを容易く想像できるだけに気が重い。
 乗り気でない自分の側の理由というのが結局自分の感情論であるから尚更だ。きっと話がもつれればクインはそのことも指摘するだろう。彼は容赦がない。
 と、不意に手が叩かれる。ライアンは何故か一瞬にして不機嫌になった少女の顔をまじまじと見た。
「何よ、それってライアンに抱いて欲しいって事じゃない。やだやだやだやだ、絶対に駄目っ」
 ぷいとその場を立ってシャラは寝台に転がり込み、ふてくされたままで毛布を被って何か意味の通らないことをわめいている。
 ライアンは一瞬呆気にとられ、それから軽く声を立てて笑った。彼もまた席を立ち、寝台に座り込みながら毛布の下で丸くなるシャラの背を撫でてやる。猫を宥めるときのように。
「相手は男だ、変な気を回すな」
 ひょこんと毛布から顔だけが出る。
「……ほんと?」
 ライアンが頷くと、したり顔で毛布から出てきて柔らかく腕を彼の首に巻き付ける。シャラの吐息が耳に掛かってライアンはそれを押し戻した。
 シャラの表情に僅かに陰りが差す。その翳りの濃さを暗さを、次第に重くしつつあるのが自分であるという認識はある。あるが―――ライアンもまた、生きていくのに他人が必要な類であった。
 絶対数は少ないが、彼にも守り庇護したいものがある。
 その内の一人、シャラ=クルーエル。
 彼の中では妹として知覚される存在。
 肉体関係がない故に、いつまでも特別であり続けるであろう女。
 妹だと思う心が少女を容易く自分のものに出来る状況においてもそれを押しとどめている。時折この少女の顔を見て、下らない話をする為だけにライアンは妓楼へ通ってくる。
 それももう3年になった。最初の頃ライアンに身の回りの出来事や不平や不満を洪水のように話すことで満足していた少女もあと数ヶ月で成人である15才を迎える。加齢と共に次第に彼女の瞳にむら立ち上る思慕も濃く深くなっていった。
 ライアンもそれにはとうに気付いている。気付いていて、それでも通うことをやめないのは多分、シャラが記憶に遠く薄い陽炎だけを残す、母と似ている気がするからかも知れない。
 下らないということは承知している。以前からもライアンはそうした感傷に足を取られて身動きできないことがあった。その時も自分のいたらなさを痛感したが、人はそうそう変わらない。
 シャラの思いを知っていてなお、それを無視してまでライアンはシャラに会いたい。似た顔立ちも、同じような色の瞳や髪も、全てが系譜としてつながる気がするから。
 シャラはしばらく不機嫌に黙っていたが、やがて気を取り直したように煙草を吸うかと聞いた。
 ライアンが彼女に会いたい理由とは全く違う次元で、シャラはライアンに愛想を尽かされることを心から怖れている。臆病な素振りは見せないが、やけに明るいときや不意に今までのことを知らないふりで他のことをするとき、彼女が自分の機嫌を損ねたのではないかと怯えているのは感じていた。
 それも哀れでライアンは余計にこの女を突き放せない。
「こんなもの、どこがいいんだか」
 憎まれ口を聞きながら、シャラはライアンの煙草を鏡台の引き出しから取り出した。多少の量は部屋においてあるのだ。
 癖だからなとライアンもまた、それまでの会話など忘れたように応じた。
 ライアンはタリアに来てから煙草を覚えた。彼を拾い、兄のように父のようにいてくれた前チェイン王リァン・ロゥが大変な愛煙家で、ライアンが彼の真似をして煙だけを口の中で転がしてはむせ返るのを面白がって幾らでも与えてくれたのだ。
 リァンの行動を通して彼を知りたい一心でライアンは煙草に手を出したのだが、結局習慣になって根付いてしまった。今更手放せなかったが、最初にリァンから貰ったときはこんなもののどこがいいのか理解に苦しむと思ったのも事実だったから、シャラの感想も身にしみる。
 ソファに戻って一服を始めると、シャラがふと、呟いた。
「―――やりたきゃ、やらしてあげればいいじゃない」
 一瞬おいて、それが先程の自分の呟きに関するシャラの回答であるとライアンは気付いた。視線が自分に動いてきたのを分かったのか、シャラはライアンの飲み残した砂糖水をすすっては自分の言葉に頷いている。
「いいじゃない、自分からやりたいって言ってんだから。馬鹿だなって思うけど。それにただ寝転がってるだけじゃ駄目だって事ぐらいすぐに分かるわよ。それから後のことは本人に決めさせたら? 大体ライアンが心配したって、切羽詰まったらおんなじことすると思うわ」
 ライアンは僅かに眉をひそめた。確かにシャラの言うことは正しかった。
 クインに金が必要なのは動かせない事実だ。金が用意できなければ、クインの母親は死ぬだろう。それが十分に分かっているのだから、ライアンが断って戸籍を突きつけても話がこじれて行くだけだ。
 クインの価値を知り、それを効果的に使うという意味に於いて自分は適任だ。クインもそう思ったからこそこの話を持ちかけているのだ。ライアンは深く頷き、そして煙草を深く飲んだ。
 クインを説得して戸籍の譲渡を受けさせることがまずは優先であろうが、それは断固として拒否されるという未来を、既に彼は脳裏で確定にしていた。
 太陽が中天を回ったと時計が示す頃から明らかに呼吸と鼓動が落ち着かない。頻繁に時刻を確かめながら、クインは昨晩から少しも重たくならない瞼を遂に諦めて起きあがった。少しは落ち着かなくてはいけないと目を閉じ横たわると、自分の心臓の音が耳を打つ。それが酷く激しく主張する気がしてどうにもならない。
 今日の昼過ぎに、とチアロが連絡してきたのは昨晩だ。頷いた時、自分の首の付け根は軋まなかったろうか。分かったと答えた声は掠れなかったろうか。
 結局こういうことになるのだ、といい聞かせてみても一度知った安堵感が後ろ髪を引く。帝都に帰還した祝祭の日、見知らぬ男に悪戯されたときの嫌悪が肌に蘇ってきてクインは思わず顔をしかめた。
 気分が悪い。口の中に酸い味が広がっていくのを止めようと舌打ちをすれば、また同じ記憶が戻ってきては更に不機嫌になった。
 知らないふりをしてしまえという声は実はそう小さくない。それでもライアンと話をしたいと告げたのは、全てにけりをつけて後の時間が気になるからだ。ほんの数日とはいえ、まるきり無駄にしてしまったことが、心の隅から重く増殖していく。肝心なところで道を間違えたような居心地の悪い焦燥であった。
(条件にあった親子が見つかる)
 何気ない言葉だったからこそ、真実を知ってしまった。自分の要求に応じて、何の罪科もない母娘がこの世から消える。他人、といってしまえばそれだけのことかもしれなかったが、それは即ち帝都で暮らしていた頃の自分たちの姿そのものだった。
 消えても構わない母と娘、ということはそう裕福ではあるまい。父に限らず母親に恋人はおらず誰の妾でもないだろう。そうやって地道に生活を営んでいることが裏目になる。
 ―――帝都にいた頃、自分たちは幸福だった。沢山の忍耐も苛立ちも飲み込まなくてはいけなかったが、静かで落ち着いた、明るい生活だった。母と自分、2人だけの生活はその時間に美しく完全に固定している。消えていく親子の幻はいつの間にか自分たちの過去にすり替わりつつあった。
 それと、とクインは顔を歪める。3年前から自分は賓客だった。ライアンは決してクインを自分たちの仲間であると認めなかった。それが悔しくもあったし、寂しくもあったし、逆にライアンの配慮であることも分かっていて嬉しくもあったが、3年が経過してなお、自分は同じ扱いにしかされていない。俺達のことなど分からないだろうとチアロでさえ思っている。
 チアロは余計なことといった。詰まらないことであると言わんばかりだった。彼らにとっては比較するのも馬鹿馬鹿しいほどのことなのだろう。
 それを非難するのは簡単だ。倫理や道徳などを持ち出すまでもなく、明らかに非道と言われる種類である。だがライアンやチアロが辿ってきた道筋を考えると、あからさまに言うのは気が引けた。
 ライアンは昔、稚児として飼われていた屋敷を自力で抜け出してこの町に転がり込んだといい、チアロは父の死後に食い詰めて流れてきたという。彼らはその話を被害者のようには語らない。そんな話は珍しくはないからだ。
 それに僅かに胸を衝かれる気がするのは自分が甘いからだろうか。この世界の水を飲めないと念を押されている気がして、尚更クインは不機嫌になった。やらなくてはいけないことははっきりしている。自分の力で母を救い、どうにか今後の目処をつけること。出来なければ母の死を見ることになるだろう。後1、2年の内に残酷な死を。
 黒死は死病だとライアンでさえ知っている。金のない者には容赦がない。だが金さえあれば違う。進行を食い止め、療養所の中では普通に生活することさえ出来るのだ。薬に施されている魔導の構成さえ分かれば自分でしてみてもいいが、母の身体で実験するわけにも行かないし、第一医療に関してはクインは素人であった。今から必死でその方面を勉強したところで通常10年以上掛かると言われる医学の修得を2ヶ月で成し遂げることは出来ない。
 金さえあれば。それだけが懸案だった。だから戻ってきた。最後に残る身一つでも、まだ価値のつくものが自分自身に残っているかどうかを確かめに。
 ライアンの反応は困惑と淡い怒りであり、それも予想は出来ていた。彼が昔男に飼われていた身であることも無関係ではないだろう。ライアンはそれを屈辱的な過去だと思っている。だから自分が同じ事をしたいというのが信じられないという目をした。
 馬鹿な奴、とクインは唇を無理矢理に笑顔の形にする。
 そんなことは出来事だ。自分の身体の上を通り過ぎて行くだけの通り雨だ。そんなものに撲たれて自分を変えることなどあり得ない。それに嫌悪感が伴うのは仕方ない。通り雨だとしても濡れたら気持ちが悪いのは当たり前だから。
 だが、手段を既に選ぶ時間ではない。自分の力でどうにかしてみせると確かに自身に誓ったはずだ。
 戻ってくる間、ずっと考えていたことだ。元に戻るだけなのだ―――そしてクインは思い切り苦い顔になった。一度安堵を覚えてしまったつけを今、一息に払わされている気分だ……
 クインが何度目かも分からないような溜息になったとき、軽く扉が叩かれてすぐに開いた。入ってきたライアンはいつもと全く変わらぬ無表情だ。やあ、と軽く挨拶をするとただ頷いた。表情が読めないのは普段と同じだが、それさえ当てつけかと思えてくる自分にクインはようやく苦笑した。
「―――話があると聞いた」
 やはりライアンの切り出しは単刀直入であった。適当に座って煙草を始める彼の仕種を暫く眺めていると、最初の一服を終えたライアンの目が自分にまっすぐに向いた。
「……チアロから何も聞いてない?」
「お前が話があるとしか言っていなかったが」
 チアロは余程腹に据えかねたのだろう。クインが切り出し難かろうと知っていて説明していないのは微かな抵抗といえた。もしくはライアンは知っていてしらを切っていることもあり得る。どちらにしろ、彼を呼びつけた理由を口にしなくてはならないことは変わりなかった。
「―――ライアン、戸籍のことなんだけど」
 そう口に乗せるとライアンはちらりと彼を見て、再び煙管に口を付けた。僅かに頷いたのは促してくれているのだろう。クインはあの、といいかけて乾いていた唇を舐めた。
 心臓の音が激しい。血潮の登る感触がこめかみ辺りを酷く叩いている。
「戸籍……戸籍を、探すのは……条件に合う相手を捜すことだっていうのは本当に……」
 呟いた言葉に呆気なくライアンが頷いた。そう、とクインは一瞬痙攣した頬を隠すために俯く。自分の推測は正しかった。チアロがしまったという顔をしていたのも自分がこれに抱く嫌悪感の種類を察したからだ。
 そしてライアンは恐らくそれを知っていてクインには言わなかった。内実を知れば拒否するだろうと思っていたから。
「戸籍のことは俺に任せろと言ったはずだ。今更要らないというのじゃないだろうな」
 ぴしりと釘を差されてクインはいや、と苦笑に見えるような顔を作る。ライアンが一瞬それを目に留めて、やや温い吐息をついた。
「要らないか……」
 ライアンの言葉にクインは頷こうとし、そしてぎこちなくしか動かなくなっている体に気付いた。痺れたように、顎を引くことだけが出来ない。
 微かに震えている彼に気付いたのか、ライアンは一服を長く吸った。吐き出されるほの青い煙がそのままライアンの溜息に見えた。
「理由を言え、クイン。俺は命じるだけで済むが、実際戸籍を探しているのはチアロとその下の連中だ。連中に何と言い訳すればいいのかを教えろ」
 ライアンの物言いで、彼が戸籍の拒否を不愉快に思っているのは分かった。そうだろうとクインも思う。自分とて是非にと頼まれて引き受けたことをそうそう撤回されては面白くもない。
「……俺は、戸籍は空いたのを探すんだと思ってた。条件に合うのを探すんだと。でも、違うんだろ? 戸籍じゃなくて、戸籍を持っていて条件に合う人間を探すんだ……乗っ取るために」
 ライアンは一瞬おいてから頷き、それで、とつまらなそうに促した。クインは苦い顔をして見せた。チアロの反応よりもライアンの方が数段冷徹であった。余計なこととチアロが表現した感覚を、ライアンは更に際だった形で持っている。
「俺はそんなことだって知らなかった。最初に言ってくれなかったのは不公平だ。俺が……俺が余所者であんたたちの世界に馴染めないし付いていけないと思ったから? でも、それは不公平だ、ライアン、そんな事だって知ってたら最初から頼まなかった」
 ライアンは黙ったままクインを見つめた。視線には特別な力みがなかった。クインはそれを殆ど睨むようにして返した。ライアンの緑の瞳の中にいる自分の顔がひどく強張っていて、しかも泣き出しそうな顔付きをしている。
 泣いて嫌だと言えばライアンは折れるだろうかとクインはちらと思い、そして強烈な嫌気に顔を歪めた。そんなのは泣き落としだ。それでは全く自分はライアンの荷物でしかない。
 自分は彼と対等になりたいのだ。彼に保護を求めることがどれだけ自分の負荷であるかを噛みしめているのも、彼に頼ることに居心地の悪さを感じるのも、その係累の感情だった。
「俺には価値があると、あんたが昔そう言った。もう一度、同じ事を聞きたい。俺には価値があるか」
 ライアンは黙っていた。沈黙は長く続いた。煙管を持つ指が何度も柄の部分を撫でるのを見ていると、やがて低い声が言った。
「ある」
 クインは大きく頷いた。だから、と言いかけたとき、ライアンが素早く遮った。
「だが、俺は賛成しないと言ったはずだ。クイン、お前が何も娼婦のような真似をしなくても俺が出来ることはしてやる、それで何故いけない」
「俺が望んでいたのは、無関係の他人を殺すことなんかじゃない! そんなのはいやだ、俺に価値があるっていうならそれで済むじゃないか!」
「―――誰かを犠牲にしながらでないと生きていけないのは当たり前だ、自分の見えない範囲のことなど考えるな」
「へえ? じゃああんたが犠牲にして踏み台にしたのはリァン・ロゥってわけ?」
 口にした瞬間にしまったとクインは顔を引きつらせた。それとライアンが思い切り側の小卓の足を蹴ったのが殆ど同時だった。大きな音にクインは一瞬身を強張らせ、そして怯んだことへの反射的な嫌悪でさっとあらぬ方向を見た。
「……リァンのことは、口出し無用だと、何度言ったら分かる……」
 ライアンの声は一層低く、掠れて途切れるようだった。これがライアンの胸奥に深くえぐり残る傷であると、知っていたはずなのに咄嗟に出るのは何故だろう。ライアンがリァンの死に深く傷付き、自分の追憶と胸に流した血の涙で溺れて死にたがっていたことさえ、見ていたはずなのに。
 3年前に同じようなことを何気に口にしたときは手加減なしに殴られているのだから、ライアンの反応はましになった方であるかも知れない。だが、未だに先のチェインの少年王の死をライアンが後生大事に抱えていることが癇に障る……
「ライアンは死んだ人間のことばかり見てる……」
 独り言のような呟きに、ライアンの方は黙り込むことで対話を拒否した。クインは暫くライアンの顔を見つめていたが、そこにあったのは普段と同じ無表情であった―――が、煙管をいじる指が、せわしない。
 自分の言葉は確実にライアンを強かに撲ったのだということは分かった。分かったからこそ、苛立ちも募る。3年前からそれは同じだった。誰からも特別に扱われることに慣れていたクインにとって、そうでない者もいるということが驚愕であり、侮辱でもあった。
 ライアンは彼が庇護し、庇う相手が欲しかった。それは自分でなくても良かった。ライアンにとってそれは誰であっても少年王の身代わりであって、それ以外の意味などなかった。
 だからあんなに苛立ちを覚えたのだろうかとクインは今更思い、唇を噛んだ。
「……いいよ、あんたは俺のことを好き勝手に守りたいってやつなんだ。俺はそんなのはいやだ。俺はあんたの付属物じゃないし手下でもない。俺は取り引きしたいと言ってるんだ、あんたにだって損な話じゃないのに」
 ライアンは返答をしない。黙って煙管の柄をいじり回している指先が、先程よりは落ち着いているのは彼も冷静に立ち返ってきているということであった。自分の言葉を吟味しているのだろうかとクインは時間を待ち、軽い溜息をついて寝台にぽんと座った。
 地下のじめついた空気がこんな時は溜まらなく煩わしかった。地下に潜るという言葉のいかがわしさを、文字通りに湿度の高さで肌に感じている。それが我慢ならないと思った頃に、ようやくライアンが重い口を開いた。
「何故、戸籍ではいけない―――かつてはお前の母親だってそうしたはずだ」
 クインは虚を突かれて目をしばたいた。
 それは、と呟いた瞬間に冷たい汗が駆け上がってくる。それきり言葉を見失ってクインは凍えたように固まった。
 自分が性別を偽りながらも学校へ行くことが出来たのは戸籍の賜物だった。母と自分を平穏に守ってくれたあの戸籍。偽名に使っていた少女の名が噴き上がってくる。その少女は一体どうしたのだろう……
 母さん、と低く呻いた言葉に自分でもはっとするほどの苦みが混じっていた。クインは意味もなく首を振り、そして長い溜息になった。母は戸籍の取引の内実を知っていたのだろうか。そんなはずはないと思いたいのは自分の感傷で、実際がどうであったか分からない。だが、知っていたとしても買ったかも知れないと思うと、胸が重い。
 母は疲れていたはずだ。流転の続く幼い日々に、母の恐れと怯えを敏に感じ取って自分でさえ酷く神経質だった。今でも根幹は変わっていない。自分の真実の姿がさらけ出されていないかどうか、どんな時でも冷めた意識が検証している。
 追われて流れて辿り着いた帝都は自分が皇帝の落胤であることを思えば敵中に飛び込むのとあまり変わらない。その時に自分たちを安全に守ってくれる戸籍がどれだけ眩しく見えただろう。田舎に行けば無戸籍は目立つ。帝都であるならさほどではないが、個人を特定する条件に無戸籍があるのならば、戸籍はどれだけ役に立っただろう。
 母は戸籍を買った。意味を知っていたかどうかはもう分からない―――聞くのも怖かった。
 長い時間をやりすごし、クインはようやく顔を上げた。ライアンは目を逸らさずに彼をじっと見ていた。その視線を正面から見るのが酷く辛く、クインは視線を下へやった。
「……でも、あの戸籍は……もう……撤回するわけに行かないじゃないか……」
 これが単に論旨のすり替えであり、言い訳であることをクインは承知していた。
 ライアンは黙っていた。それが彼の気遣いであることを承知して、クインは再び俯いた。それは哀れみとさほど意味が変わらなかったからだ。
 過去のことはいい、とクインは自分に刷り込もうと躍起になった。今優先しなくてはいけないのは他のことだ。誰かを犠牲にしながら生きて行くしかないのだというライアンの言葉も一面においては正しく、このタリアではより真実に近かろう。倫理観や世界観というものの認識の深い溝を埋めるべきは今ではなかった。
 苦い残滓を胸に噛みしめながらも、それを思考の隅へ追いやろうとクインは深く呼吸をし、ふり起こすように首をもたげた。
「だから、戸籍は要らない。何にしろライアンの負担になるのは分かってるけど、俺に価値があるというなら、少しは返せるはずだ。そうだろ、違う?」
 一瞬おいてライアンは違わないな、と苦笑し、煙草を吸った。
「……俺は賛成しない、と何度も言っているな。同じ事を今俺が言ったらどうする」
 クインはその質問に首をかしげ、ややあってから肩をすくめた。
「そしたら皇城で一騒動起こすしかないね……でもそこから足がついて母さんに何かあったら、俺は首を吊りたくなる」
 自分とよく似たあの皇子のふりをして中に潜入し、めぼしいものでも盗んでくるしかない。皇城の内部に関しては全く未知であったから、これは危険が酷く大きいとしか言いようがなかった。
 クインは自分がこの一点に関して酷く神経質だと言うことを承知しながらも、自分を追っていた者たちの影をみすみす踏む気がしてならない。皇位継承だとか立太子だとか、そんなことに興味はない。だがそれは自分の気を惹かないだけであって他人には違うのだろう。だからずっと追われていた。立太子が済むまでは安楽に構えたくないのだ。
 ライアンはそうかと頷き、煙管の灰を小皿に落とした。
「いいだろう。取り分は経費を引いた後の9と1だ。細かいことは俺に任せろ」
 それがあまりに唐突だったのと抑揚のない呟きだったことで、クインは僅かの間ぽかんとした。ライアンが煙管をいじりながら続けた。
「お前の事情は先に聞いている。最大限、出来る限りの配慮をしよう―――いつから出来る」
 最後の質問でようやくクインは顔を上げた。ライアンはいつもと同じように静かであった。いつでも、と返答したのはひどく長い一瞬の後であったようにクインは思った。微かに呼吸が乱れた後で強烈に喉が渇いてきて、唇をゆっくり舐めた。
「なん……だよ、急に反転しやがってさ」
 自分の動揺を苦く思う気持ちが責める言葉になってこぼれたことを、クインは自分で嫌悪した。ライアンはぬるい吐息を落とした。
「俺が幾ら嫌だ駄目だと言ったところで実際客と寝るのはお前だからな。それにお前の母親には多少借りがある。お前がそうしたいと言って俺が出来ることというならそれくらいしかないのも本当だろう」
 一宿一飯の恩ってやつ、と混ぜ返すとライアンは彼には珍しい温かな笑みを浮かべて曖昧に首を振った。それ以上を聞ける雰囲気ではなかった。クインがそれを混ぜ返さなかったことで話は終了したと取ったのか、ライアンは一際大きく煙管を叩いて立ち上がった。
「後のことは話が付いたら連絡しよう」
 話の時間は終わりのようだった。時計を見るとライアンが来てからまだ半刻もしていない。ライアンは大体の道筋の整理をつけてきたのだろう。
 結局ライアンが手を貸さないと言い張ったところで、自分も意固地に戸籍は要らない自分で金は稼いでみせると主張したに違いない。手間を省かれたのだとも思われたが、さほど駆け引きを好まないライアンの性質に照らせばそれも頷けた。
 火の消えた煙管を腰のベルトに差し込み、ライアンが椅子から立ち上がった。帰るつもりなのだと考えるまでもなかった。やや長身に属する身体が扉の前まで歩くのを見送りかけたとき、やっと声が出た。
 ―――大切な話は、実はもう一つある。
「頼みがあるんだ」
 絞り出したような声に、ライアンは視線だけを振り向けさせた。僅かに寄せた眉の隙間から、怪訝といった表情が見えた気がした。
「1万、俺にくれるんだろ? ……だったら……」
 そこまで口にしかけてクインは羞恥と気後れのためにすっと顔をライアンから背けた。
「だったら、何だ」
 ライアンの声が僅かに低く促した。うん、と頷くと耳朶がひどく熱い。かあっと血の気が上がってくるのが分かる。クインと更に要請されて、もう一度クインはうんと頷いた。
「だったら、その……あんた、ひ、暇な時でいいんだけど―――あ、いや、割とすぐにがいいんだけどさ……」
 言いよどみ、口ごもりながらクインは視界の端にライアンの姿を入れて、彼が煮え切らないことに痺れを切らして出ていこうとしていないかを確かめた。ライアンは僅かに彼に向き直ったようだった。そんなことくらいなら分かる。その仕種で続きをせかされていることも。
 クインはあのさ、と意味のない言葉を連ねて舌打ちをした。踏切が甘いのは覚悟が足らないからだ、という非難が跳ね上がってきそうになる。
 どうした、という声が程近くでしたことで、クインははっと顔を上げた。出ていこうとしていたライアンは今は彼の側にいて、彼の顔を覗き込んでいる。端正な顔が殆ど眼前にあるようで、クインは僅かに後ずさった。
 ライアンは彼の仕種が子供を怯えさせてしまったと気付いたのだろう、唇をゆるめて彼から離れた。ほんの少しだけ喉を空気が通るようになった気がして、クインは長い溜息をついた。溜息の最後にくくられていたように、するりと最初の言葉が出た。
「……あんたは俺が素人だって言ったよね―――俺もそう思う。キスのことだって、言われなければ多分今でも知らなかった……」
 あの瞬間の苦い怒りが微かに遠く、届かないところで海鳴りのように轟いている。それは何のためであったろうか。自分の幼さに嫌気がさしたのか、何も知らないのだとたかを括られていたことが腹立たしいのか、それとも―――
 クインは内側に閉じこもっていきそうな思考を振り切るように首を振った。
「だから、その……何ていうのかな、さ、最初の客になんないか?」
 死ぬような思いで吐きだした言葉の後、クインは俯いたまま目を閉じてはそっぽを向いた。ライアンの返答を待つ。
 彼の顔など見られない。
 たっぷりした、間があった。
「……何て?」
 ライアンの返答には肯定も否定も載っていない。どれかというなら呆気にとられているというのが正しいだろう。
「だからその1万で俺を買わないかって言ってんの!」
 吐き捨てるように叫ぶと、ぱあっと血の気が更に上がってきたのが分かった。ライアンの回答はない。面食らい、戸惑っているのだろう。それくらいなら分かる。何故、と聞く声も詰問ではなかった。まるで子供のように、ライアンは素直な疑問を口にしている。
「だから……俺が素人だって分かってる奴に、その……色々、教えて欲しいこともあるんだってば……べ、別にあんたじゃなくたっていいんだけど……」
「お前の秘密を知っている俺に秘密の分の担保にしろと?」
 思っていたことの大まかを指摘されてクインは頷くが、ライアンの顔はまだ直視できなかった。暫くして聞こえた溜息は長い。多分に呆れたような空気が含まれているのも錯覚ではあるまい。
「―――必要なことは客の方が面白がって教えるだろう。それでいいじゃないか」
「俺が嫌なんだよ!」
 叫んでからクインは顔を上げてライアンを睨むように見据えた。クインの突然の反目に彼は驚いたようにぴくりと眉を動かした。
「俺が嫌なんだよ、そんなのは! 素人だって分かってなめられるのも、面白がられるのも、全部全部嫌だ! 俺は主導権を取りたい、ライアン、どんな奴だったとしても俺が絶対に優位にいなきゃ嫌なんだよ!」
 誰かが自分を優位に操るなどということを考えただけでも胸が焼けるほど苦しい。それは屈辱ではなく、怒りのためだ。自分の心の作用は刺々しくなる方に突き抜けている。思い通りにならない苦しみや不快は苛立ちになり怒りに変わる。
 それは最終的に他人に投げた罵詈雑言が自分に返ってくるように、明確な作用といえた。クインは自分の心理について、根元は理解している。誰に対しても主導権を握りたい、好意を持った相手とは対等でいたい。その根は不安だ。いつでも傍らにあった、ひっそりと生活に影を落としていた、見えないためになお暗い闇。
 それはどれだけ自分の神経を細く、そして過敏にしていることだろう。クインはいつでも思考を重ねることで不安から逃れようとした。大丈夫だ絶対に平気だと熟慮の末に辿り着いた結論でも、それをひっきりなしに検証しようとしているのは確かだ。
 誰かが自分を好きなようにするのかと思うだけで、まともに立っていられないほどの不安に駆られる。その逆であれば自分は落ち着いていられる。誰であれ、自分を手玉に取ろうとするなら許さない……
 許さないと口の中で呟いた瞬間に、脳裏で逆巻いていた沢山のうねりがぽろりと頬を伝ったのが分かった。悔しくて。
 クインはそれを急いで拭う。泣き落としなどと思われるのは心底腹に据えかねた。
 ライアンは黙っていた。彼は元から無口だが、こんな時は何か言ってくれないだろうかと焦れたものを感じる。だが今、口を開くと何が飛び出してくるか自分でも良く分からない。分からないままにクインもまた沈黙するしかなかったが、ライアンが涙のことについて何も触れないことに安堵を覚えた。彼は自分を理解しようと努めてはいるのだとクインは思い、その思考でようやく溜まっていたものを飲み下すことに成功した。
「……あんたは、俺が、あんたたちのことなんか分からないだろうって思ってる……」
 涙の余韻で震える語尾を無理に押さえながら言うと、ライアンは一瞬おいて頷いた。それは自明だった。3年前から一切変わらぬ態度も同じ事を教えてくれる。
 クインは睫に溜まった残りの水滴を指で拭い、唇を笑うような形にゆるめて見せた。
「そして俺も思ってる、俺のことなんか分からないくせにってさ……ライアン、俺は、誰かが俺をいいようにしようとするのが嫌だ。他人の思惑に乗せられるのは絶対に嫌なんだ。身体を売ることなんてどうとも思っちゃいない、とは言わない……これでも一応高等教育ってやつを受けてるんでね、ある程度のことは刷り込まれてるからさ―――でも、嫌なことにも順位がある。俺が一番嫌なのは、俺の意志を無視して俺を好きにしようとされることだから……」
 ライアンは身動きせず、じっと彼を見つめていた。自分の奥を透かされるような気後れと怯みにクインは一瞬目を閉じ、怯んだことを自分で苦く感じて視線をライアンに戻した。
「だから、俺は―――俺は割とあんたを信用してる。3年前に俺を何故助けてくれたのかは知らないけど、その事実だけで、その後のことも含めて十分だったから……だから、俺はあんたに頼みたいんだ」
 言葉をようやく切って、クインはライアンを見つめた。
 ライアンはやはり瞬きもせずに彼を見ていた。緑の瞳の奥に自分が映っているのは見える。だがその更に奥で彼が何を考えているのかは計り知れなかった。突飛な言いだしだと分かっていても、結局クインの要求を満たす相手として資格があるのは事情を知っているものだけだ。
 ライアンは担保という言い方でそれを表現した。説明しなくてもいいことが少ないとほっとする。必要だとしても口に出すことに踏ん切りがいることもあった。
「……俺が拒否したら?」
 ライアンの声が低く尋ねた。クインはさあ、と首を振った。
「分からない。でも……」
 未知の物に対する怖れも、怯えも、否定はしない。ただそれを見知らぬ他人に見透かされるのが嫌なのだ。帝都へ帰還したあの晩に、路地裏でされたような屈辱はもう沢山だった。
 クインが口ごもりながら語尾を濁したことで、ライアンは溜息になった。だがそれはそう長いものではなかった。彼は一瞬ぎゅっと眉を寄せて渋面を作ったが、呆気なく頷いた。
「分かった。ではお前の担保というのをもらっておこうか」
「―――いいの?」
 クインは不思議にライアンの面持ちを眺めあげる。暗い地下の部屋で、灯りから遠い位置にあっては微妙なところは良く分からなかった。
「お前を暫くは飼わなくてはならない。躾は飼い主の義務―――というところだろう。いい、俺も……そうだな、客の下で泣きわめくお前よりはその方がいいと思う」
 クインはゆっくり頷き、言うべきことを全て終えた安堵のための眩暈に僅かに均衡を崩した。半歩下がって長い吐息を捨てていると、ライアンがまた、と出ていこうとした。クインは顔を上げる。まだ具体的な話は一言も進んでいないのだ。
 それを言おうとした瞬間、ライアンが振り返った。
「戸籍の撤回のこともあるし、上客の選別もある。2、3日は何もしなくていいから身体を休めておけ。……長く暮らすにはここは環境が悪い、新しい部屋へ移る用意をしておくように」
 クインは頷いた。それに素っ気なく頷き返してライアンが出ていくと、部屋はやっと静寂になった。
 膝から力が抜ける。その場に座り込みながらクインは僅かに身震いし、そして自分の身をしっかり両腕で抱きしめた。
 あの晩の男の執拗な愛撫が払っても払っても蘇ってくる。意識が半ば朦朧としていたせいだろうか、肌に直接ねじ込まれたような刻印は記憶の底に沈めようとする度一層鮮やかであった。
 ライアン、と呟く。信用だとか、そんな話ではない。結局自分にとって心許せるといっていい人間は母と、チアロと、彼しかいない。それしかないのだと、分かっているからこそライアンを無理矢理巻き込もうとする自己がひどく厭らしい生き物だと思った。

 帝都の夜空に花火が咲いている。6月は祭事が多い。北寄りの国々では待ちかねた、短い夏を楽しみ昇華するために沢山の祭事がおかれている。初夏シタルキアにおいて最大の祝祭は始祖大帝の生誕祭であろう。始祖大帝の生誕の日付は実は不明なのだが、6月の末日を最終日として3日間帝都を華やげてくれる。
 縁日、見せ物、それに滅多にはない皇族の臨席、貴族の子弟達の仮装行列―――
「聖祖大帝ってどんな方だったんでしょうね?」
 山車の上に座りながら、きつい帯のせいで苦しく先程から呼吸をしている弟にリュース皇子はさあ、とゆるく笑った。
「記録はあんまり信用できないからね……知りたければ父上の跡を継いだらどう?」
 皇帝にしか代々伝授されていかない秘密もある。それがどんなものか想像もつかないが、大量に神秘的なものも混じり込んで、一種嫌悪さえ抱くようなおどろしさを醸していた。秘伝、秘宝、秘画に儀式。
 皇子の返答に弟は途端に厭な顔をした。
「僕、勉強ってからきしだから……兄上の方が絶対向いてると思うんですよね」
 弟の言葉にリュース皇子は苦笑した。自分が立太子に一番近いことは知っているが、母の違う弟が2人いる。第1皇子は自分だが体の弱さを引き合いに出されれば苦しいだろう。
 が、異母弟たちとて憎くはない。彼らの母は宮廷の華やかさが苦手で、次男を出産した頃から帝都郊外の静養地、ロリスに引き込んでいる。帝都よりは遙かに自然の豊富な環境でのびのび育ったせいなのか、2人とも非常に素直で明るい性質だ。
 ライン皇子がまたふう、と苦しい呼吸をついた。もう千年以上も昔に滅びた漢氏という少数民族の民族衣装は裾が長く、帯がきつく、それを幾重にも捲くために傍目にも苦しげだ。リュース皇子も同じような格好であるが、明確に2人の衣装には差があった。
 自分の衣装は右肩を脱いでその上から漢氏様の甲冑を被せてある。刺繍も縫いの糸も全てが燃えるように赤い。これは建国の功臣、イダルガーンの扮装である。
 そしてラインの方は同じような赤い衣に金糸銀糸で細かく刺繍の入った打ち掛け、沢山のかんざし、施された化粧、刺繍は蘭の花の図案。これは始祖大帝の皇后であったラファーナ妃を模している。ラファーナ皇后の逸話として最も有名なのは「オレセアルの緋天使」としての救世伝説で、剣の名手として名高い。ラインは先の少年剣術会での優勝を受けて、この仮装行列の後の剣の模範演武までを担当するのだ。
 同じ漢氏の衣装でも、女物の方が格段に身体にはきつかろう。そんな状態で剣の型の披露をするということで、ライン皇子はここ暫くそれに引き合わされていたが、天性の勘があるのか昨日最後の練習を覗いたときは流麗な動きであった。
 ふう、とまた同じような溜息を弟がついた。リュース皇子は小さく笑い、弟の胴をきつく締める帯の隙間から、数本隠し紐を抜いてやった。抜いても差し支えない部分の紐だから構わないだろう。少しは楽になったのか、ライン皇子はにこりと笑う。そうすると扮装のせいもあってか少女のようだった。
 その笑顔に見せられたのか、歓声が上がった。適当に曖昧で反感を持たれない程度の微笑みを振り分けながら、リュース皇子は弟に手を振ってやるように囁く。他の高位の貴族の子弟達も華やかに笑顔を振りまき、聖祖大帝とも呼ばれる建国者の時代を模した仮装行列を盛り上げることで熱心だ。
 頭上で光の花の咲く音がする。つられたようにライン皇子が見上げ、素直に笑顔になった。刹那炸裂する光に照らされて、弟の頬が微かに反射する。
 花のようだと讃えられる自身の美貌とは少し異なるが、同じような女性系の顔立ちは似たところがなくもなかった。今の自分の年齢と同じくらいになればきりりとした少年のようになり、いずれは瀟洒で華やかな宮廷貴公子となるだろう。その時自分が皇帝であろうがなかろうが、こうして幼い日々に密な閉鎖空間を持つことがきっと良い方に作用する。弟の気性からしてそれは確定に思われた。
 仲の良い兄弟であることはいずれ、何かの武器にもなろう。ましてリュース皇子は元来が虚弱で、戦向きのことが出来にくい。軍学として用兵や戦略を学ぶことが出来ても、実際戦場にたてるかどうかは微妙なところだ。ライン皇子はそれを補完してくれる存在となるに違いなかった。
 ライン皇子は花火に見とれたり沿道に詰めかけた群衆に手を振ったりで忙しい。それを微笑ましく見守りながら、リュース皇子は自分も同じように軽く手をあげて愛想を振りまいた。
 視線を投げかける度にその周辺が熱を持つのが嬉しいようでもあり、それが自分という個人へ向けるものでないと知っているから複雑でもあり、だがあまり小難しく考えることでもないと思うこともあり、リュース皇子はただ意味のない笑顔だけを零すことに専念している。
 沿道の人群れをさらりと流した視線が、ふっと引っかかるように戻った。何かを見た気がしたのだ。とても懐かしい、何か大切なものを。
 その感触を確かめるように、ゆっくり進む山車の上から皇子は視線を流し返した。ふと何かを掠め、気付いて戻り、そうして焦点を絞ったその瞬間。
「あ……!」
 皇子は思わず腰を浮かせて振り返った。彼の珍しい動揺に、周囲の人垣が触りと蠢く。それが決定的な違和感になろうとした刹那、人々の波間からくるりと背を返す細い身体があった。
 待って、と叫ぼうとしてそれを思いとどまったのは3年前の苦い記憶が蘇ったからだ。
(逃げるんだね)
 自分の不用意な言葉で蒼白となったあの顔。間違いがない。人目を引かないように髪を……染めているのかかつらなのか良く分からないが金色にして編み上げ、当時と変わらぬ少女の様式に身を擬態しながらこちらを見ていた。
 名前も知らぬ、あの「少女」。帝都にまだいたのか、それともどこかから戻ってきたのだろうか。いずれにしろ、間違いなく自分を見に来たのだと皇子は確信した。自分や弟がこの仮装行列に参加することは前もって告知されている。そのせいもあって沿道は凄まじい人だかりだ。
 その中から見つけた奇跡に皇子は笑った。これは本心からこぼれてくる、安堵と嬉しさのためのものであった。皇子の晴れやかな笑みに一層周囲が歓声を上げる。それに上の空で手を振りながら、皇子は群れを抜けて流れに逆らって泳いでいく、美しく伸びた背筋を見つめた。
 背は良く伸びている。以前から背格好は同じ程度であったが、今もそれは変わらないだろう。少女としては既に長身という部類にはいるほどに背丈はあるが、細身の印象が強いためにすらりとしたしなやかさだけが目に残る。
 3年前に見失ったときにも卓越した美貌であったはずが、再び目にすれば一層鮮やかであった。その場だけ、空気の色が変わるほどに。多分彼は自由に生きているのだろうと皇子は悟った。一目見たときの印象があまりにも違う。
 良かったと僅かに唇を綻ばせていると、ようやく人垣を抜けた彼が振り返った。皇子はそっと視線を彼にまっすぐあてた。彼もじっとこちらを見ている。
 まさぐりあうようなもどかしい一瞬の後に、瞳がかち合った。夜といっても沿道の灯りで昼間ほどに明るい大路では、全く同じ色の瞳が見て取れた。
 皇子は彼に笑いかける。単純に、皇子は再会が嬉しかったのだ。だが彼の方は反応が違った。一瞬何かに撃たれたように頬を痙攣させ、そして顔を歪めて隣の男に何かを言った。
 それで初めて連れがいることに皇子は気付いた。年齢の頃はそう変わらないだろう少年が一緒だ。背は随分と高いが顔立ちが幼さの片鱗を残している。
 少年が「彼」の肩をぽんと叩いて背を返す。それを追うように身を返して、彼は振り返った。こちらを見つめてくる眼差しは、色味が複雑すぎて明確な名を付けられない。
 憧憬でもない。再会の喜びでもない。帝都から追い出したのだという元凶を憎しむ目でもない。
 どれかというなら、と皇子は路地に紛れて消えていく背を見送りながら思った。あの僅かに痙攣した頬の種類は、切なさだったかもしれない。哀しげであったかもしれない。それは単純な理屈ではなく、彼が皇子に対して複雑な思いを抱いていることの証明の気がした。
 ……だが、何のための? 皇子は僅かに顔を曇らせる。兄上、というライン皇子の声に気付いたのはその時のことだった。
「そろそろ城へ入りますから、立って歓呼を、って」
 仮装行列もそろそろ終幕というわけであった。山車の上で皇国万歳を叫ぶ民衆に応えながら、皇子は彼の消えた方角を目で追っている。帝都にいると分かっただけで胸が温かになった。
 探そうという気はなかった。彼が皇子を恐らくは自分の意志で見に来たことで、そして憎まれていなかっただけで十分であった。皇子と話がしたいと思うなら、幾らでも方法はあるはずだ。例えば中等学院だとか。今年の冬には卒業ということになっているが、自分がまだ在籍していることは知っているはずだから。
 やがて山車が完全に城の内部へ入ってしまうと、皇子は弟と共にそれを降りた。ライン皇子はすぐに演武が始まるため、簡単に着付けを直して最後の練習にと借り出されていく。皇子は着替えをするために、控え室の方へ足を向けた。
 皇族用の控え室には皇子の母がいた。父帝は見えない。他の儀式があるのだろう。始祖大帝の遺産と呼ばれるものは沢山ある。それらをいちいち確認するような儀式はうんざりするほどあった。
「あら、終わったのね、リュース」
 母が微笑む。ええ、と頷いて衣装の裾を踏まないように気をつけながら皇子は母の隣へ座った。侍従がすぐにやってきて、彼の衣装をいくつか手早く見せていく。その内の一つを適当に指定し、合わせた他の衣装や装身具を揃えるために侍従が下がると彼は甲冑の紐を解いた。本物ではないからそれは殆ど繊維で出来ていて身体に負担はないのだが、やはり開放感はあった。
「ラインの演武が始まる前に着替えますから、一緒に行きましょう、母上」
 そうね、と母妃は笑って頷き、皇子の頬をゆっくり撫でた。そんな風に母に触れられるのは本当に久しぶりで、皇子は嬉しくなって俯く。ラインのように満面で表現できないのは性分であったが、それでも彼の顔がほころんだことで母もまた、にこりと笑った。
「演武が終わったら花火のいいところが残っているから、高演台にでも行きましょうね」
 皇子は他愛ない約束に微笑んで頷く。母と持てるゆっくりした時間を、皇子はとても貴重に感じていた。
 やがて侍従が戻ってくると、先に結い上げて飾り羽をさしてあった髪を解きほぐした。きつくあげられていた髪の根本が弛むと同時に痛む。微かに顔をしかめてこめかみを押していると、母が隣で呼吸を呑んだのが分かった。
「……母上?」
 皇子は不思議に母を見つめる。母妃は一瞬泣き出しそうな顔で頬を歪めたが、すぐにそれを取り繕った。が、慌てて浮かべた微笑はぎこちない。何か、信じられないものを見てしまったという顔をしている。
 母上、ともう一度皇子は呼びかけた。皇妃は僅かに首を振り、何でもないのよと笑ったが、それが嘘であることは考えなくても良かった。怪訝な感触に皇子が戸惑っているのを配慮したのか、母はいいのよと重ねて笑い、皇子の手を取った。
「妹の子供の頃に似ていたから吃驚したのよ。あの子もとても美人だったから……」
 そうですか、と皇子はそれに異論を唱えなかった。母方の叔母は十九の時に亡くなっている。写真を見たことがあるが、確かに母や自分と共通する繊細で端麗な美貌の持ち主であった。
 ともかくお召し替えをといわれ、皇子は控え室を出る。衣装室で漢氏様の仮装を脱いで新しい衣装に袖を通していると、目の前に鏡がおかれた。髪の手入れを始めるのだろう。
 視線を鏡の中の自分に与え、そして皇子もまた驚愕して声を挙げた。どうしました、と侍従が聞くのに首を振り、今度はゆっくりと鏡に映る姿に目を走らせた。
 髪は漢氏の扮装用に黒く染めてある。きつく高めに結い上げられていたせいで、下ろされた髪は僅かに波打ち、皇子の形の良い頬を縁取っては流れ落ちている。仮装の際の見栄えを考慮して、ラインほどではないにしろ施されていた化粧が唇に華やかな色として残っている。
 まるで少女のような姿。
 3年を経て見失った少女が鏡の中から戻ってくるようだ。
 皇子は他人がひっきりなしに賞賛することに殆ど無関心で、自分の容姿には無頓着であった。3年前も美しい少女だと思った。だが、それは印象だけで顔立ちの明確な刻印ではなかったのだ。
 だが、今ならはっきり分かる。自分が最初に中等の教室に入っていったとき、教室を包んで鳴り止まなかったざわめきの意味でさえ。
「似てる……」
 皇子は呟いた。似ている。自分たちは鏡に真向かうようにそっくりだ。髪を黒く染めて印象が変わったことで初めて気付いた―――
 そして皇子は僅かに振り返り、いや、とすぐに首を振った。自分を見つめる視線に何が籠もっていたのかは分からない。……彼の方は自分たちの相似について知っているのだろうか。
 探したい、と皇子は思った。今までの何よりも強く、そう思った。

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