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 ゆるやかな覚醒であった。目を開けても暫く動けないほどの疲労が身体を低く押し込めていて、溜息一つ付くのにもひどく毛布が重い。軽く漏らした吐息が自分のものではないように沈んで、彼は瞬きをした。ぼんやりした遠景は最初、暗い色にしか見えなかった。目に映る濁った色の物が薄汚い天井板だということを理解するまでにややあって、彼はやっとここが何処であるのかを納得した。
 自分は戻ってきた。戻ってきたのだということを先にも思ったはずであったが、昨晩の記憶が次第に蘇ってくるのと同時に、それが強烈な実感になって自分の中に根を張っていくのが分かった。3年前に帝都から逃げ出す直前まで、自分の一番の居場所であったはずの街は、相変わらずだった。巨大な歓楽地を回遊する男達の顔付きも、女達の振りまく華やかな光彩も、そこにいる人々の顔ぶれは変わっても、色味は何も変わらない。3年前に自分と同じようにどうしようもなく子供であったはずのチアロが、少年という年代の階段を歩み上がってはいても、彼特有の明るい空気がそのままであったように。
 ライアンも同じだろうかとクインは思いながら、ゆっくり起きあがった。
 最初に感じたのは酷い眩暈だった。体が重い。食事をしながらチアロと近況の話などをしていたような記憶があるが、それも途中から急速に不明瞭になっていく。酒だろうか、それとも疲労だろうか。どちらにしろ、自分でこの部屋に転がり込んだというわけではなさそうだ。
 3年前に出入りしていた古屋敷の内装とはやや違う。あちらもこの場所とそう変わらぬ汚さであったが、それでも部屋の造りの雰囲気が違うことだけは分かる。寝台の横の窓から外を眺めると、やや離れた場所に煤けた赤い色にぼんやりと染まる地域があった。あれがタリアの境界門から続く大通りであるはずだった。その遙か向こう側に、魔導の塔の威容が霞んで見えている。距離感と方向から自分がいるのがやはりタリアの中であることは分かった。
 クインは再び溜息をつく。物音が殆どしないから、人が少ないのだろう。チアロと行動を共にしていればその内に昨晩のような余所者への干渉は減っていくだろうが、今はさほど期待できない。自分の顔立ちはひどく目立つはずだったが、期待しすぎるのは間違っていた。
 だが、この部屋はチアロの自由になる内の一つに違いなかった。タリアには無数の覇権や利権を巡る派閥がある。大人達にもそれがあり、少年達にもそれがあった。どちらにしろ頂点に立つ者は存在するが、だからといって下位の派閥が解消するわけでもない。チアロがここへ自分を連れてきたというならば、この場所はチアロにとっては安全地帯であるということだ。ならば、まだこの建物の中にいるかもしれない。もしくは、信頼できる配下に何か言い残しているかどちらかだ。とにかく他人を捜さなくてはいけないとクインは結論をつけ、寝台から滑るように下りた。
 立ち上がろうとした瞬間、鈍い痛みと共に膝ががくんと抜けた。思わず前のめりに倒れて手をつく。足裏がじりつくように痛い。クインは床に手をついたまま怪訝に振り返り、両足首から下に捲かれた包帯に目を留めて眉を寄せた。
 床に座り直して足を引き寄せてみれば、包帯の巻き方はいい加減で適当ではあったが強い消毒薬の臭いがした。おそるおそる包帯の上から足を触ると、全体が軋むように痛むのと同時に、足裏が痺れたようにずきずきと脈打っているのが分かる。
 この所ずっと歩き詰めだったからなとクインは苦笑した。それでもどうにか帝都の門を潜りタリアまで辿り着けたのは他のことで飽和していて痛みなど感じている余裕がなかったからなのだろう。これは呼吸が落ち着いてから魔導で多少癒してやれば良いように思われた。旅を重ねながらもクインは魔導の鍛錬だけは続けていたし、どうやら自分にそちらの方面に置いて突出した才能があることも知っている。魔導は才能の要る科学であるということはよく言われているが、その才能は遺伝する。魔導士は出自の秘匿が義務であるが、優秀な魔導士のごく近い血縁者を半ば強制的に入塔させているという噂も昔から存在するほどだ。
 他人を呼んだ方が良いという結論は変わらないから、クインは扉まで這って進んだ。扉に手を掛けようとしたとき、だがそれは外側へ逃げるように開いてクインは再び手をついた。軽くあげた驚声が可笑しかったのか、朗らかに頭上で声が笑った。
「悪い悪い、お前が絶対に自分で何でも解決したがる奴だって事は知ってたつもりなんだけどな」
 昨晩と変わらない明るい笑顔でそんなことを言い、チアロは手にしていた盆を寝台に素早く置くとクインの肩を支えた。半ば担ぎ上げられるようにしてよろよろ寝台に戻ると、クインは肩で呼吸をしている自分にようやく気付いた。
「大丈夫かよ、本当に。お前さ、どこから歩いてきたんだよ。普通に歩いてたみたいに見えたから構わなかったけど、かつぎ込んでからびっくりしたんだぜ。一応手当はしといたけど、ちゃんとした医者を知ってるならそっちに行った方がいいかも知れないってライアンも言ってたからな」
 軽く頷き、クインはライアン、と聞き返した。自分は彼に会いに来たのだった。どうやら眠っている間に一度、彼は自分の顔を見ているらしい。
「ライアンは? あいつ、来てるの」
「いるよ。今ちょっと出ていったけど、煙草じゃないかな。すぐ戻ってくるさ。そんなことより、取り合えず何か食えよ。お前、しばらく殆ど食べてないだろ? ちょっとは顔色も戻ってきてるけど、酷いもんだぜ」
 クインはやや頬が紅潮するのを感じた。返す言葉は何もなかった。それが事実であるからだ。彼の決まり悪そうな顔付きにチアロは笑い、食えよ、と先程彼が寝台に置いたままになっていた盆をクインに押し出した。クインは簡単な礼を言って盆の上のパンに手を伸ばした。どう繕っても金がないことは変化しなかったからだ。口を動かしていると頬が鈍く引きつった。
 祝祭の夜に通りすがりの男に殴られたことを、クインはようやく思い出した。そっと指先で触れてみると、既に痛みは引き始めていた。痣にはなっていないだろうか。胃に物が入る度に、押し上げられるように思考力が戻ってくる。痣になっていたら困る。自分の価値も財産も、今はこの顔一つであるのだから。
 クインの様子で何を思っているのかを察したのだろう、チアロが洗面所から小さな鏡を取ってきて差し出してくれる。中を覗き込むとまず頬の痣が気になったが、そちらは既に肌の上には殆ど痕跡を残していなかった。この様子では明日には殆ど分からなくなるだろう。
 だがもっと衝撃的な物を見つけてクインははっと顔を上げる。思わずわし掴むようにして目の前に引き寄せたのは、髪。
 幻術が解けて、元の瑠璃石色に戻っている髪であった。
「髪だろ」
 彼が何か口にする前に、チアロが素早く言った。クインはごくりと生唾を飲み込みながらチアロを見た。
「チアロ、これは」
 あてもなく言い訳を探してクインは唇を開き、そのまま沈黙した。何から、どうやって説明すれば誤魔化せるのか、それとも自分の知っている事実を話す方がいいのか、どうすれば一番良いのか、沢山の言葉や方策がぐるぐる脳裏を巡って収拾がつかない。
 チアロはライアンの一番の配下だ。ライアンと自分が顔見知りであるか否かの判別をさせるのに少年達がチアロを呼ばせたほどに。ライアンと自分の間の話は彼に筒抜けていく可能性も大きい。ライアンが忙しいというのが本当だとするのなら、自分とライアンを繋ぐ役割を負うてくれるのはチアロだろうから―――
 自分の顔から血の気が引いていくのがはっきり分かった。自分の目立つ顔立ちに更に目立つ髪の色はきっと何処かで極悪な外札を掴ませるための罠だという囁きが、ぐるぐる、めまぐるしく、ひっきりなしに、自分の中を動いている……
「クイン」
 呼ばれるのに続いて肩が揺すられ、クインはやっと返事代わりに一つ頷いた。チアロの目は優しく笑っていた。
「ライアンの言うとおり、お前には秘密が多い。だから俺は、お前が自分で判断するまではお前を目立つように振り回したりはしない、これは約束だ。ここに押し込んで次の朝に様子を見に来たときには変わってたけど、俺以外は誰もいないから少しは落ち着け」
 クインはややあってから今度ははっきり頷いた。その言葉よりも、彼の目の柔らかさに安堵したのかも知れなかった。ごめん、と呟くと真実それに近い申し訳なさが胸に興ってきた。話せないことも多く、秘密にしておくことも多い。悔しいのはそれをどれだけチアロに話していいのか、今の時点ではまるきり見当が付かないことだ。謝るしか出来なかった。いいって、とチアロは重ねて笑い、そしてすっと立ち上がった。この3年で見違えるほど伸びた背丈が見上げるほどすらりと高かった。
 彼の視線が滑るように部屋の扉に動いたのが合図だったように、音もなく扉が開いた。入ってきた男にクインは目を細めた。男もまたクインを見た。彼の淡い緑色をした瞳が迷い無く、適格に自分を射抜いていくのが分かった。クインは痛む頬に構わず、笑って見せた。 
「久しぶり、元気そうだね」
 クインの目の前で、ライアンはやや苦みの混じったような笑みになった。大げさに表情が変わらない辺りは3年前と大差ない。
「お前もな、と言ってやりたいところだが、何日かは派手に出歩かない方がいいだろうな。必要な物は全て揃えてやるからそうしておけ」
 ライアンの声は低く落ち着いて、3年前最後に彼が見た、怒りと憎悪で煮えたぎるような熱は既になかった。彼が今生きているということは、あの決闘に勝ち、それからも沢山の物に勝ち、これからも勝ち続けて行かなくてはいけないのだろう。
 ──多分、それは都合の良いことなのだ。ライアン自身の負担や重苦などとはまるで別の観点の、例えばクインが彼に寄生する条件としては。
 それを思うと自嘲の苦い潮が口の中へ上がってきそうだった。クインは重苦しい空気を無理に喉奥に沈めて、今度は持ちうる限りの虚栄をかけて華やかに微笑んで見せた。ライアンは僅かにすがめになり、そして苦笑した。
「……済まないが、これから王屋敷へ行かなくてはならなくなった、お前の話は今夜にでも聞いてやるから――チアロ、クインを地下水路の俺の部屋に移せ」
「でも足が、ライアン」
「お前はこれをどうやってここまで連れてきたと言った」
 チアロがくしゃりと顔を歪めて、ふてくされたように唇を尖らせた。不承諾であるというよりは明るい不満顔というところであろう。後でな、と言い残してライアンはそれ以上二人に口を挟ませずに出ていった。相変わらずライアンの行動律に一葉も噛みつけない苛立ちが持ち上がってきそうになる。それが表情に出る前にクインは大仰に溜息をつき、チアロに向かって肩をすくめて笑った。
「全くお忙しいことで」
 からかうなよ、とチアロは今度はやや真面目な表情になった。
「去年タリア王の交代があって、ライアンはもうチェインだけのことに関わっていられない――って、昨日その話もしたはずだけど、お前、綺麗に忘れてるだろ? ライアンは今のタリア王アルードの気に入りだから、細々したことが沢山有るんだよ」
 クインは曖昧に頷いた。チアロが説明したというならそれは本当のことだろう。結局のところ、途中で意識を見失った方が悪い。クインはばつの悪そうな顔をするよりも謝るよりも、もっと自分らしいとチアロが笑うであろう方を取った。
「で? 連れていってくれるんだよな?」
 チアロは一瞬を置いて、予想の通りに笑い出した。
 チアロがぶつぶつ軽口を叩きながら彼を連れていったのは、迷路のように入り組んだ地下水路の奥の、深淵といって良い位置にある小さな部屋だった。
 目覚めたアパートの地下室から潜り込めるようになっている辺りは、チアロもこの街の住人なのだとクインは奇妙なところで合点した。人目に付かない通路を幾つも使っていることが、彼の立場の高さを教えてくれる。用心を知っているのだ。
 地下は土と黴の独特の臭い同士が入り交じって、胸が悪くなりそうな空気が充満していた。地下水路に下りて部屋に辿り着くまでクインはずっと顔をしかめ通しであったが、部屋の方はかなりましであった。若干空気の匂いは残っているものの、気にしないように努めることが出来る。
 ライアンが姿を現したのは、暫く雑談に費やしていた時間を次第に退屈に感じ始めた頃だった。地下水路を巡るための通路際にある部屋のことで、窓はない。通気口らしき古びた配管が通っているが、そこからでは外の様子も分からないから、尚更時間も長く感じるのだろう。
 待たせたな、と呟きながら薄い上着を脱ぐライアンの表情には特別な感慨や感情は読みとれない。3年前に知り合ったときから変わらぬ、ライアンの性質の癖という物であった。クインは次第に上がってきた呼吸を落ち着けようと、帰還の理由となったはずの男を見つめた。
 顔立ちはそもそも悪くない。華やかさや明朗さという色相には決定的に見放されてはいるが、端正と言うべき整った顔立ちである。線が細く、どことなく女性にも共通する美形なりのきつさがあるが、彼の身に付いた空気は女性的なものとは隔絶した厳しさだった。
 体躯は3年前とほぼ変わらない。多少肌がくすむように色濃くなった気はするが、向き合っている場が光の少ない地下だということも加味されているだろう。
 じっと見つめていると、ライアンは素っ気なく視線をクインに与えた。
「俺に話があるようだな、だから戻ってきた……違うか」
 上着を適当に椅子に掛け、卓の上の水差しを手繰り寄せながらライアンが言った。クインの様子から、単に懐かしさで戻ってきたわけではないと察しているようだった。
 それはすぐに分かるだろうとクインは納得する。無理を言うけど無茶はしない、とチアロが次分を評するように、自分は自分の限界を超えることには手を出さない。出来ることと出来ないことの見極めくらいは出来る。
 そして限界を超えながら戻ってきた事実が、何よりもこの場合は雄弁だった。
 クインは僅かに俯く。
 ライアンしか頼って行ける相手を思いつかなかった、それは確かだ。これから自分が切り出す話はライアンの掌握するこの地域には向いた話だし、何かあれば自分を頼って良いのだという言質を与えてくれたのは彼だ―――
 だが、理屈よりも何よりも、怯懦が言葉をせき止めてなかなか唇が動かなかった。未知の物に対する怖れ、結論は出したはずなのに抜け道を必死で捜し続けている事実、その事実を自分で認識する度に苦く胸に捲く自嘲と、諦観と、ないまぜになった混乱。そんなものが唇を開こうとする度に、クインの身体を酷く硬直させた。
 自分は怯えているのだ。敢えていうなら、自分自身を排除させようとする全ての世界に。
 クインが言いよどんでいる空気をライアンは何と思ったのか、微かに頷いた。チアロ、とライアンが呼ぶと、それまで二人のやり取りと空気を眺めていた少年は心底はっとしたように彼の主君を見た。
「奴らの残党の根城の一つが見つかった。案内の男がもうすぐ煉瓦屋敷の方へ行くから、チェインからも数名出して繋ぎに使え。動向と、出入りしている連中を逐一報せろ」
 仕事を命じた上での退去令だった。チアロは素直に頷いた。ライアンの意志に添うことはチアロの中では至上であるらしかった。
 連絡の段取りを簡単に打ち合わせてチアロが消えると、ライアンは慣れた仕種で煙管を取り出した。自分がライアンとの繋がりを証明するために差し出した煙草入れがその腰にぶら下がっているのを見て、クインは不意に安堵のような軽い吐息をついた。
 ライアンはそれに構わず深く一服を入れてから呟いた。
「俺もお前に聞きたいことがあった。お前が俺に頼み事というなら、他人には話せない上に俺にも切り出しにくい話だろう。どちらが先がいい」
「……あんたの質問から先に聞くよ」
 持ち出す一瞬が僅かに先にずれただけで浮かぶ大量の安堵感に辟易しながらクインは言った。幾つかの会話を重ねていれば切り出すきっかけも掴めるかも知れないと、そんな思考に逃げ出しそうになる自分の臆病さが鬱陶しかった。
 そうかとライアンは軽く頷き、おもむろに口を開いた。
「あの皇子はお前の何だ」
 クインはゆっくりと視線をあげた。
 驚愕は緩やかだった。ライアンはいつも俺の足下をいきなりすくう、という囁きが唐突に浮かんできて、クインはつい苦笑になりかけた。思えば髪の色を指摘された時も、相当に突然であったはずだ。
 この国には現在リュース皇子を筆頭に4人の皇子を持っているが、他の皇子達はさほど自分と似ているわけではない。一番下のライン皇子だけが、どちらかというなら女性的という意味に於いて顔立ちの系統が似ている程度だ。皇族の写真は公開されているから顔を知ることは難しいことではなかった。
 あの、とライアンが言うのならリュース皇子に間違いないだろう。鏡に映し込んだように、自分と同じ姿形をした皇子。
 皇子のことを思えば、懐かしさがまず先に来た。ライアンがあの皇子と言った相手とほんの2日間机を並べていたことがあった。彼の正体を見抜き、その上で手を貸しても良いと言った皇子。恐らくは、推測に過ぎないが自分自身の濃い血縁に連なる相手。
 クインは不意に自分が薄く笑っているのに気付いた。
「……そう……、見たんだ、あの人」
 胸に上がる感慨はそう暖かみのある物ではなかった。あのまま知らぬふりをして皇子の庇護を受け入れ中等学院へ居残っていれば、もう少しはましな親しみを感じることが出来ただろうか。推測は出来なかったし、第一それには意味がなかった。
 いつ、とクインが視線で問うと、ライアンは僅かに眉を寄せて記憶を探すために宙を見上げた。
「お前が帝都から出て行って、すぐの新年の園遊会で。……意外か? タリア王は特殊とはいえ官吏の端だからな。カレルの供でアルードと共に王城へ行った時に、あの皇子を見た――お前かと、最初は思った」
「声をかけた?」
 いや、とライアンは首を振った。
「同じ顔と同じ声をしているが空気が違ったからな、お前ではないと思ったが……あれが他人だという方が今更驚きだな、全く。園遊会が終わって戻ってきたときに、お前ではないのだと確信した。お前であれば俺に分かるように合図を寄越すだろう、そういう奴だ」
 まあね、とクインは苦笑して頷いた。ライアンをからかう絶好の機会を見逃すはずもなかった。そうだろうとライアンもまた薄く笑った。3年前の、長くはない期間でも二人はお互いの性質を飲み込むことは終えていた。
「年齢は10才だとカレルに聞いた。お前も確か同じ年だったはずだ、あの年の秋には」
 クインは頷く。ライアンが一呼吸を置いて、最初の質問を重ねた。
「――あの皇子は、お前の、何だ」
 視線をまっすぐにあげてクインはライアンを見た。ライアンの緑色の瞳に僅かにかかった熱の影が、逸るほどに心臓を打った。
 彼が自分に興味を示すことがひどく誇らしかった。3年前にはライアンは崇拝していた少年王の死だけを見つめて生きており、彼に目線を向けることが殆どなかったからだ。3年を経てようやく勝ったような、何か取り戻したような気持ちになる。だから自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
「双子の、……多分、兄だ」
 一瞬開けてライアンが頷いた。クインがずっと放浪者であった理由をそれなりに見出したのだろう。全く予測していなかったという顔付きではなかったから、ライアンなりに推論は出来上がっていたようであった。
「多分というのは」
「どっちが兄かっていうのはもう母親でないと分からないからさ。ただ、俺の方が後宮を出されていることを思えば俺が弟なんだろうし、何かの具合で正式に皇族の列に加わることになっても俺を『兄』にはしないだろうね」
 皇位継承権が発生するとしても、場を混乱させないために弟とするのが普通であろう。だからどちらに転んでも弟である、としか言いようがないのだった。そんなことを説明すると、ライアンは深く頷いた。彼の質問はそれで終わりだった。
「では、お前の話というのを聞こう。俺と昔の話をするために戻ってきたということではないなら用件を言え。……金か?」
 クインはぴくりと頬を引きつらせながら顔を上げた。最初から焦点に分厚い鉈を下ろす辺りは直裁であった。金とライアンが総括したことで自分が情けない生き物であると念を押された気になる。
 生きていくために必要だと知っているし、それを無視して世間を渡っていけるとも思っていないが、やはり矮小感はあった。返答が鈍いことでライアンは何事かを察したらしく、更に深く頷いた。
「幾ら要る? 3年前よりは多少俺にも余裕がある、額を言え」
「……いいよ。昔のことを種にして強請るにはいい額だから」
 ライアンは苦笑し、吸いかけだった煙草を一口吸った。
「だが、金に困っているのは本当だろう。……俺は3年前にお前に礼を言った。借りは必ず清算するとも。だからその清算をしてやりたいと思っている。額をいえ、クイン。俺は今、幾ら欲しいのかと聞いている」
 クインはぎこちなく笑った。
「―――取りあえず、2万……」
 ライアンが煙管を弄る手を止めた。ゆっくり彼の整った顔が自分の方へ向けられるのを見て、クインは自棄気味に更に笑顔になってみせた。
「2万だけじゃどうにもならないから、あと2千……それと、毎月500……」
 呟く声が次第に小さくなっていくのが自分で分かった。声音が低くなるに連れてそれは暗く強張っていく。視線が下がっていってやがて完全に俯くと、黙り込んだライアンの呼吸と合って、部屋は完全に静寂となった。
「……ジルで?」
 問い返すライアンの語尾に、たちまち苦い自嘲が混じった。当然のことだったからだ。だが通貨の単位を思わず確認させたくなるほど、それは途方もない額であった。慎ましく生活するならば一人が3年間は働かずに暮らすことが出来る額だ。田舎に行けばその金額で手に入る家と門地くらいはあるだろうか。
 2万か、と呟くライアンの声が耳に入った。煙管から上る薄い煙にも気付かぬように、ライアンは無表情に俯いていた。彼が何かめまぐるしく考えている時の顔だった。
「―――1万ならすぐに……そうだな5、6日で揃えてやれるが、2万となると……」
 その後をライアンは口の中で濁した。
 1万であればすぐに出せるというのも多少豪気といえた。ライアンはチェインにたむろする行きはぐれの少年達の王だ。チェインの中に細かい派閥もあるがその全てに共通の自治律を布き、彼らからの上納金を得る代わりに彼らの行動の自由と背反時の懲罰を引き受けている。彼が現在タリア王の配下となって大人達の組織の末端に食い込んでいる以上は自治の統制と懲罰の実施は配下に委ねられているのだろうが、彼は金は持っているとクインは知っていた。
 そして、それをライアンは自分の為だけに使うわけにいかないことも。金だけでも信義だけでも、他人を動かす事は出来る。だがその二つが上手く噛み合ったときほど強いものもない。時折は彼の下にいる子供達に甘い汁を吸わせてやらなくてはならないのだ。
 そして1万というのは彼がそうした報償に取り分けて置いた分を放出する額であり、2万というならその他の全てまでもなげうたせる額だ。ライアンは金の力を知っている。知っていて彼が考え込んでいるのは、その額と自分の地盤を支えている彼らという重みの均衡点を探してくれているからだろう。
 クインはいいよ、と再び言った。ライアンに全てを援助して貰うつもりは最初から無かった。
「強請るには額が大きいって言ったろ? あんたを破産させる気はないよ」
 ライアンはちらりとクインを見た。微かに頬にかかる影の具合が彼の戸惑いを素直に教えてくれた。
「7千までならすぐに出せる。後でチアロに金を届けさせてもいい。1万であるなら1週間待ってもらえればどうにかしよう。……だが、2万は無理だ、済まないが」
「いいって。ライアンから金をむしりとるつもりは、本当にないんだ」
「……何があったか話せと言ったら答えるか? すぐに出せるといっても、何も聞かずに払ってやれる額じゃない」
 うん、とクインは唇端をゆっくりつりあげた――笑おうとした。だがそれは上手くいかない。途中で奇妙に凍えたときのようにぎこちなく固まってしまって、それ以上は動かせそうになかった。
 暫くライアンの顔を見つめたまま何かを言おうとしていると、不意にライアンが表情をゆるめてクインの頬に触れた。
「どうした」
 彼の声はいつもの通りの低さであったが、声音に籠もった温もりは確かだった。うん、と意味のない返答を喉で鳴らすと、そこが空気で震えたような気がした。
 ライアンの指が丁寧に、ひどく優しく自分の頬をなぞっている。子供を慰めるような仕種だとそう思い、思いながらクインはゆるく首を振った。ぽろぽろ涙が落ちていった。思わず目を閉じると双眸の流滴が転がる。
「どうした、大丈夫か」
 ライアンの声が優しい。宥めるような低い声が、何故だか染みてくる。クインは再び首を振り、自分を落ち着けるために何度か呼吸を整えてライアンに頷いて見せた。
「大丈夫だよ、ごめん、ちょっと……混乱してるのかも知れない……ごめん、大丈夫だから……」
 言い訳に似たような口調でクインは呟き、手で涙をこそぐように拭った。
「か―――母さんが……」
 絞り出すように呻いた言葉に、ライアンが小さく頷いた。3年前に彼を一度だけ、自宅であったアパートに泊めた事がある。だから母のことを彼は知っていた。
「かあ、さんが、……倒れて……し、死ぬ、かも……しれな……」
 死を口にするとその言葉が急に現実味を帯びて底光りした気がした。
 クインは身震いした。いつでも自分の手を引いてくれたあの温かな人がいなくなると考えるだけでも恐ろしかった。
 いつでも自分たちは二人きりだった。父が欲しいと言ってみたこともあるし、そんなことをあれこれ空想していたこともある。けれど、最終的に自分の側にいるのは母一人であり、真逆、母の側にいるのは自分一人だった。母に再婚の話が全くなかった訳でもないだろう。息子の目から見ても、十分に美しい母であった。流石に年齢だけは下げることが出来ないが、整った目鼻立ちは誰かの気を惹くには不足ないはずだ。
 だが、現実そんなことは起こらなかった。時折親切そうに近付いてくる男もいなくはなかったが、母は彼らをやんわりと押し返した。それが自分のためであることを、クインはかなり早い頃から気付いていた。戸籍の擬態や幼い頃の転居の出鱈目な履歴を思えば推測は難しくなかった。正体は分からなかったが、何かがあるという感触ならば容易に得ることが出来る。
 自分と皇子の間に血縁を確信してからは沢山の疑問が一息に溶解していった。自分を守るために母は誰も寄せ付けるわけにはいかなかったのだ。何故母が自分を連れているのか、そこまでして自分を養護するのか、不思議に思ったことはあるが聞くだけの勇気はなかった。
 ……不思議というなら、何故自分だけが王宮を出されたのかも分からない。あるいは最も理屈の通らない選定である呪占だろうか。血の繋がりのない女に皇子を預けたというのも不可解だ――将来に渡って不都合があるなら殺してしまうか、魔導の塔にでも送ってしまうのが普通だろうから。
 自分が市井で生きていることは事実だから過去を今更まさぐっても仕方がないと理解しつつ、クインはそれらを思う度に母へ降り積む感謝が増えていくのを感じていた。
 長い月日の内に情が移ったということならあるだろう。あるいは、何かの事情でいなくなってしまった母自身の子の代理なのかも知れぬ。
 それが始まった理由はともかく、マリア・エディアルといった彼女が自分を半ば身をすり減らすように庇護しようと努めたことは確かだ。そのありがたみが胸に詰まる。
 だから自分の母はあの人一人だ。他の誰でもない。今更、どんな保護も父親からなど欲しくない。母が必死で逃亡を続けていたことを考えると、追っ手であった連中は父のあずかり知らぬ場所からの使者なのだろう。
 相手が父であるならそれほど怯えなくてもよいはずなのだ。父―――今上帝、リシャーク3世なら。
 クインは母との行程をぐるりと思いめぐらす。
 早く大人になりたかった。一瞬でも早く成長して、自分の手で自分と、母を守りたかった。優しく大丈夫よと微笑む優しい空気の裏で、決して自分に悟らせないように気を向けながらも母が怯えているのは分かっていた。
 自分の手をひいて母が沢山の物を繋ぎ与えてくれたように、同じ事を返してやりたかった。怖がらなくても良いのだと、母がそうしてくれたように相手を安心させるためだけに微笑みたかった。……それら全て不確かで楽観的な未来予測の上に成り立っていることなど、現実になるまで理解できなかったのだ。
 そして母の病によって初めて守護者となったとき、クインは自分たちの孤独についてやっと思い知った。
 母は自分の実家さえ口にしなかった。そこへクインが顔を出すことが連鎖的に自分達を追いつめるだろうという恐怖が母の口を異様に重くしていると察することは出来た。帰る場所も、頼る他人も血縁さえも、何もない。無いのだ、ということを理解するしかなく、クインが出来たのは母をどうにか説得してシタルキアへ連れ戻すことだけであった。
 それさえも母は渋ったが、医療技術に限らず学術研究に於いてはシタルキアが突出して高水準を誇っている。全ては長い歴史と安定した政権による安定した環境の提供がもたらしたものだが、施設も薬剤も、シタルキアに戻らなくては手に入らない物の方が多かった。
 頼っても良い相手をライアンしか思いつかなかったせいもあるだろう。いつでも自分たちは二人きりだった。二人きりであることが当然だった。母には自分だけしかないのだとクインは認識していたが、自分にもまた母一人だった。本当に、それしかなかったのだ……
 しばらく止まらない涙は何のせいだろうとクインは指先で拭いながら思う。母への思いだろうか。ようやく事情を話すことの出来る他人に出会えた事への安堵だろうか。涙と共に胸に支えていた物が剥落していくのが分かった。
 クイン、というライアンの声は自分が落ち着く頃だった。彼はクインの様子を見て話を繋ぐ瞬間を計らってくれたのだろう。
「……俺には医術のことは何も分からん。分からんが、馬鹿ほど金を食う病は一つしか知らない―――黒死だな?」
 具体的な病名が出てきてクインは微かに身を震わせ、頷いた。そうか、と呟くライアンの声も重い。死病だな、と更に続けたライアンの言葉が胸を射抜いて、クインは堅く目を閉じた。
 黒死病と呼ばれているそれは奇病であった。手足の末端から次第に肌が黒ずみ、やがて麻痺して動かなくなり、やがて肌から黒く濁った血胞が沸いては潰れていくのを繰り返しながら身体ごとが生きたまま腐敗していく。伝播力は弱いものの空気感染するため、医療施設に入れるとなると必ず個室を使うし、専属の看護人を数人つけなくてはならない上に薬が非常に高額であった。
 高額なのは魔導の力が施されているためであるが、薬を定期的に打てば進行を抑えることは可能である。治癒するわけではないのだが、進行をほぼ完全に止めることが出来るのだ。
 そしてそれは中流階級以下の人々にとっては不治の病であることと同じ意味であった。
 寒村などでは隔離して見殺しにすることも珍しくはない。それは大勢の住人を救済するための措置ではあったがまっとうに承認される質のものでもなかった。故に、黒死の病とされる患者は殆どが帝都に在住している。
 クインは帝都にまで母親を連れ戻すことは考えなかった。シタルキア第2の都市であり南部海域との接点でもあるミシュアの街近くにも療養所がある。殆どの有り金をはたいて2ヶ月の約束でそこへ預けてきたが、もし期日までに金を用意できないとなれば容赦なく放り出されるだろう。……それは母の死の決定を意味する。
「……2ヶ月で2万か……べらぼうだな」
 ライアンの声はどこまでも沈鬱だった。
 診療所は基本的に年単位で患者を預かる。それに加えて年間の保証費や看護人の選定もあるから初期費用は更に跳ね上がるのだった。
 そうだね、と軽く同意したのはクイン自身そう思っているからであった。とても通常の手段では捻り出すことは出来ない額だ。―――だから戻ってきたのだとクインは深く呼吸をした。
「ねえ、ライアン―――昔、あんたが俺を捕まえたとき……あんた、俺をタリア王の稚児にたたき売るつもりだったはずだね……俺に、その価値は、まだあるかな?」
 ライアンは怪訝な顔で眉を寄せた。クインの言おうとすることが掴めないといった顔付きであった。クインは泣いたせいで火照っている頬を無理に動かして笑った。
「客を取りたいんだ。俺のこの顔に、馬鹿ほど法外な金を払う連中を知らないか?」
 ライアンが、不意をつかれたように瞬きをした。

 奇妙な沈黙が暫く続いた後、自分の唇から最初に漏れてきたのが失笑だったことに、ライアンは一瞬置いてから気付いた。溜息であったはずのそれにクインがさっと頬を赤らめて彼を睨みあげたからだ。相変わらず、自身に対する故のない否定には過敏であった。
 少なくともふざけているわけではなさそうだとライアンは思い直し、ゆるく首を振った。
「お前は客を取るという意味を知っているのか」
 我ながら馬鹿なことを聞くとライアンは思ったが、それは思わず確認したくなる事柄でもあった。
 彼自身、稚児上がりであった。陰気だ鬱だと言われながらもライアンの顔立ちは整った部類に入り、普段さほど感情を表現しない彼の痴態を見たがる者も多かった。
 ライアンの母はその日暮らしの街の娼婦であり、金に困って幼い彼を芸団に売った。顔立ちが良く運動の勘があったことで彼は殺陣を主体とした活劇に従事したが、どこかの公演で自分を見かけたらしい金満家の老人に稚児として転売された。それが最初だ。
 老人の元から脱走してタリアに住みつくようになっても、時折その手の暴力はあった。少年達ばかりの集団にいれば力は即ち存在の重さであり、最初に通る原始的な相克であった。
 そして芸団から転売されたときと同じように、ライアンを欲しがった男もいた。それが先のタリア王カレルだった。だから今でもライアンのことを稚児上がりだというなら間違いでもない。その冷蔑があることをライアンは知っている。知っているが、事実であれば取り繕うこともなかった。確かに自分はカレルと寝て、チェイン地区に於ける自治を買っていたのだから。
 そしてそのこと自体は彼には苦役としか表現できなかった。他に愛しい女がいるわけでも男と寝ることに抵抗があるわけでもなかったが、彼を求める者が彼をいたぶり踏みにじり、彼のあげる苦痛と懇願の悲鳴が聞きたいのは明白だったからだ。自分のこの陰鬱な無表情がそうした衝動を引き起こしているのだと朧に理解はしたがどうにかなるものでもなかった。
 客を取りたいというクインの言葉は、ライアンには狂気の沙汰としか思えなかった。既にカレルが死に、現王アルードはライアンに対する性的興味を持たない。男娼まがいのことをする必要が消えた今となっては、ライアンは幾ら積まれてもそれをするつもりはなかった。
 あの苦痛。無理矢理水の中を歩かされているような息苦しさと閉塞感。辛い苦しいと嘆くことをしない程にライアンは自分の心理に無頓着であったが、ねじ伏せられて一番痛かったのは矜持であった。その部分だけが血を流すほどに痛かった。
 ライアンは苦い記憶を一通りめぐらして渋面になった。クインには分かっていない。寝る相手が男だろうが女だろうが、それは酷く自己を摩耗させる。肉体でなく、精神の方が。
 何から言ってやろうかとライアンが僅かに思考する間に、クインの声が割って入った。
「……ライアンは俺がふざけてると思ってるんだ。こんな馬鹿馬鹿しい冗談を言うために俺は戻ってきたんじゃない」
 一度は落ち着いたはずの彼の瑠璃玉石の瞳に、再びうっすらと涙が捌けたのが見えた。但しそれは懇願のためでなく、自分の言葉と真剣に向き合っていないと非難するためのものだとライアンは悟った。クインは本気なのだ。自分の身を切り売りして母親の死を回避することで躍起になっている。
 今度唇から漏れたのは、真実溜息であった。
「……お前の現状は理解した。金が必要な理由も良く分かった。だが、客を取ることには賛成しない。現実男娼を買う客の9割が男だが、……男と寝たことは?」
 クインは具体的な質問にやや怯んだようだった。僅かに目元が痙攣する。返答が一瞬遅れたことで、ライアンはその経験はないのだろうと見切りをつけた。クインが返答するよりも早く、無いんだな、と遮る。クインは曖昧に頷き、付け足した。
「でも、ちょっと……その……身体、触らせたり……キスくらいなら……」
 口ごもる様子から、それが成り行きであったことくらいは分かった。キスか、とライアンはまた溜息になる。クインは本当に何も知らないのだ。
「……遊女でも同じだが、キスは普通しないな。男娼でも娼婦でも、唇が貞操の代わりになるのはこの世界では常識だ」
「……そう……なの?」
 ぽかんとしたクインの表情が全てだった。そうだ、とライアンは生真面目に頷いて見せた。
「特別高値をつければ売る奴もいるかも知れないが。客もそもそもそれを要求しないのが暗黙の了承になっている――お前は舐められたんだ。素人だと知れて好き勝手なことをされたな」
 クインはそう、と呟いて俯いた。翳っていても輝いていても、その顔立ちはなお華やかに美しかった。そうだと念を押し、ライアンは再び溜息になった。何度目のそれであるかは数える気にもならなかった。
 自分は困惑している。クインの母を知らないことはなかったし境遇については不幸だとも思うが、彼に今出来ることは限られていて、しかも自分の助力では足らないのは明らかだった。
 それでもクインの話を簡単に了承して客を探してやろうという気は起きなかった。ライアンはそれが何故のものか自分の内をまさぐり、やがて苦笑した。結局自分はこの少年を好きなのだ。3年前、まだ子供だったクインが自分の身辺を回遊するに任せていたのも彼を決して憎くは思わなかったからだ。
 ―――自分は力弱い者が好きだった。自分の庇護なくしては生きていけないような、か弱い存在が好きだった。闇雲に誰かをを守りたかった。
 それが何であるかをライアンは既に正確に捉えている。
 ずっと昔、老人の所から逃げ出したライアンを拾い、それまで彼が知らなかった他人の明るさと温もりを教えてくれた相手がいた。彼を守るため、彼を喜ばせる為だけにライアンは強くなった。彼の為に生きて、彼のために死にたかった。
 3年以上の年月をかけて彼とほぼ同等に至るほどに強くなれたのも、兄のように父のように慕った彼への憧憬の結果だった。彼を自分が守るのだという高揚はいつでも自分の中にあった。彼のために身をなげうち死ぬことこそ、その頃のライアンの全てだった。
 そして彼は死んだ。ライアンの目の届かない場所で、唐突に。
 守るべき者を失って呆然としていた頃、クインはライアンの前に姿を現した。この子供に構うのが満たしきれなかった庇護欲を補う行為だと薄く承知していたが、どうしようもなく、止めることは出来なかった。
 クイン自身も死んだ男と多少似た、良く喋りよく笑う質だった。負けん気の強さも豊かな表情も、年齢の離れた弟を構うような気持ちでライアンは庇護し、気を掛けた。クインの助言によって得た幾つかの結果もあるが、そんなことよりも存在自体が重要であったのだ。だから彼に身売りさせるのが気に入らない。身勝手な考えだと分かっていながら気が進まないのはそのせいだろう。
 ライアンは一息呼吸を置いて諭すようにゆっくり、静かに言葉を紡いだ。
「やめておけ、と俺は言う。お前は本当に素人だし、そもそも俺達の世界に首を突っ込むのは大概にしておけ。俺が言うのもおかしな話だが、俺達にあまり深く関わらない方が本当はいいはずだ。俺はこの世界でしか生きていけないが、お前はもっと違う場所でもいいんだからな」
 クインはじっと下を睨み据えたまま、ぴくりともしなかった。自分の言葉が表面を流れ落ちて行くだけなのを理解して、ライアンはそれ以上を言うのを止めた。頑なな表情は3年前と同じ、母のために全てを投げ出しても未来を掴もうとする顔だった。
「でも……他に、金を稼ぐ手段が、ないよ……」
「俺がどうにかしてやる。取りあえず1万用意してやるから、残りの1万をもう2ヶ月待って貰え」
 言いながらライアンは脳裏で大まかな計算を始める。
 チェインから毎月彼の元に上がってくる上納金がジルで8千余、そのうち2千5百はそのままタリア王へ渡る。残りの金でライアンは一月を過ごすが配下の少年達にばらまく額も多い。全てがそのまま自分の金ということではなかった。
 が、タリア王アルードから幾ばくかの金も出ているし、自分一人のことは困らない。適当に口実を見つけて2ヶ月ほど節制しても誰にも不服は言わせるつもりがなかった。
「駄目だよライアン、あんたが自分の足下を削ってまで俺に肩入れする話じゃないはずだ。それに俺はあんたに借りを作りたくない。3年前の言質を楯にするにはちょっとたちの悪い強請だろ?」
 ライアンは僅かに吐息で答えた。途方もない額であるのは確かだった。
「減額は出来ないのか」
 クインに言っても仕方のない話であると思いながらもライアンは口にした。そうね、とクインは曖昧に笑った。
「無理だね、保証費がべらぼうなんだ。医療費だけならシタルキアの戸籍があれば少しはましだけど―――」
「戸籍?」
 ライアンはクインの言葉を途中で強く遮った。クインは軽く頷いた。
「一応医者ってのは国立の医学校を出ている官吏だからさ。戸籍証明があれば薬代と個室代は安くなるから……そうだね、1万2千ってところだけど。でも、戸籍は高いだろ? どのみち金は持ってないから同じ事だよ」
 肩をすくめるクインに、ライアンは少し笑って見せた。ようやく彼の手の届く範囲に話が転がってきたような感触があった。自分は明らかに安堵していると思いながら口を開く。
「戸籍であれば俺がどうにか出来るはずだ。戸籍の条件は?」
 クインは多少面食らったような表情になった。曖昧に頷きながらライアンは事情の補足をしてやる。
 戸籍の売買は元々がタリア王の掌握している事項の一つであった。取引は闇市場の連中に任されているが、元となる空籍を探してくるのは安い金で使える少年達が殆どだ。そして子供達の中のことであるならライアンの自由にならないことなど一つもない。
「戸籍の条件を、クイン。母と娘がいいか、それとも息子がいいのか。母子の大体の年齢と組み合わせの希望を言え」
 クインはまだ少し、戸惑ったような顔付きであった。ライアンはゆっくりと頷いた。
「戸籍は俺が用意してやろう。なに、探す戸籍が一つくらい増えたところでどうということもない―――少し、時間はかかるが……猶予は2ヶ月だったな。それまでには間に合わせよう」
 その上で1万2千ジルというなら、どうにか目処がつくだろう。その計算に一人深く頷いたのをクインがまだぼんやり見つめているのに気付き、ライアンは自分を頼って帝都へ帰還した少年へ向き合った。
「だから、男娼になりたいなどと二度と言うな。俺はお前にそんなことをさせたいとは思っていない」
 クインは何か言いたげにしていたが、唇は遂に開かれなかった。それをなし崩しに了承の証とするためにライアンは素早く立ち上がった。
「俺はもう行かなくてはいけない。この部屋にあるものは好きにしろ。チアロがじきに来るだろう」
「ライアン、俺」
「俺に3年前の清算をさせろ、クイン。……お前一人が全部背負い込むことはない」
 そのことばにクインは微かに顔を歪めた。人一倍麗しい面差しが翳り、淡い影が差した。
「……甘えても、いいかな……」
 掠れた呟きにライアンは深く頷いた。クインの表情に立ち現れては消える安堵と、依存に対する不服を何故か微笑ましく見つめている自分にライアンは気付いた。
「いいと言った。言ったことは守る」
 何かに負けたように、クインの首がこくんと項垂れた。控えめな謝意にライアンは唇だけで笑い、背を返した。
 扉を抜ける瞬間にありがとうと聞こえた気がした。

 皇子がフォークを置くと、その眼前で口直しのための氷菓を口にしていた皇妃は微かに眉をひそめた。口に運びかけていた銀の匙が下りて、形の良い唇から微かに溜息の混じった声が零れる。
「……もうお終いにするの、リュース?」
 言葉に混じった僅かな非難に、皇子は俯いた。
 食が細く体力がないのは昔からのことだが、立太子の話がちらほら見え隠れし始めた頃から母は自分に足りないものを付け足そうと必死になっている。体が弱いこと、他人と合わせて生きていくのが苦手なこと、その二つが酷く重大な欠陥のような気が自分自身の中に芽生えてくるのが分かって、皇子はどこか心重い。
 が、母との食事を避けようとは思わなかった。中等学院という、王宮の外の学舎に通い始めたことで日中殆どお互いを見かけなくなっている。せめて共にいられる時間である夕餐を大切にするのが彼に出来る最大限でもあった。
「済みません、母上」
 視線を下にやったまま呟くと、母は困ったような溜息をついた。
「いいのよ、謝らなくても……そうね、適量ということもあるのだから」
 そして、ぎこちない沈黙になった。
 何故こんな風なのだろうと皇子はいつも思う。今日は実弟のラインが剣の稽古で倒れるように眠ってしまったせいで母と二人の夕食なのだが、明らかに弟がいるといないでは会話の滑らかさに差があった。お互いに接点を探り合っているような不思議な長さの沈黙や唐突な話題の転換など、もう珍しくもない。
 自分は確かに他人が苦手で、母も同じくだからだろうか。弟が楽に母と言葉を重ねていられるのは弟の特性である人懐こさのせいだろうか。
 何故、自分は駄目なのだろう。気安い方がいいのは確かだから、弟を母が溺愛するのは当然にしても。愛される気質でないのだと無理に結論づけてはあるが、皇子はどことなく納得できなかった。
 理屈ぽくて引っ込み思案なのは、昔からだ。他人と上手く手を取り合うことが出来ないのも、友人を作るのが苦手なのも、それはずっと子供の頃からの自分の性質だ。中等に上がる以前、父が大人しい自分を心配してつけてくれた学友たちとも微妙な距離感しか築けなかった。
 唯一の例外といえるのはさらにそれ以前からの、幼なじみと言って良い少女だけだ。彼女エリゼテールは皇子より1才の年長で、異母弟たちの母方の従姉ということにもなるが、物心つく頃から共に王宮で育ってきたという心安さが相当大きいことは自分でも分かっていた。
 皇子は溜息はつかない。僅かな呼吸が自分と母の間にかかるかぼそい何かを吹き飛ばしてしまいそうだから。
「そうそう、そう言えば」
 氷菓を匙で崩しながら母がようやく見つけた糸口を話し出した。
 皇子は何です、と微笑む。空気の流れが気分を酷く楽にした。大体何の話であるかは予測できたがそれは勿論言わなかった。
「ラインがね、あの子、剣の才能があるって―――」
 弟の話に皇子は儚い少女のようだと喩えられる美貌を淡くほころばせながら頷いている。胸の奥にほんの僅か、苛立ちが揺らぐのを皇子は知っていて、それを見ない振りをすることさえ出来た。
 母上と言葉を遮ることが出来たらどれだけ爽快だろうかと皇子は脳裏でちらと考え、すぐに自分でそのことを忘れようとした。
 弟のラインを可愛いと思うのは母だけでなく、自分だけでもなく、家族のみではない。天真爛漫を実体として表現するなら自分ではなく弟なのだ。同じ両親の血を引きながら性質の差で全てが変化するのもまた、人間であった。
 ラインに剣術の天与があるらしいことはここ暫くで明らかになりつつある。
 ライン皇子は彼よりも4才半下であるが、身体は丈夫で運動勘が目立って良かった。弓も悪くないが運動能力に比して目がさほど良くない。が、剣術は砂地に水をまくように飲み込みが早いようだった。
 末々剣士として身を立てるなどということは起こらないし、ライン以外の二人の異母弟を含めて兄弟の誰が将来皇帝となってもラインは宰相か大元帥あたりの要職へ座らなくてはならない。個人としての剣の技量など何の意味も価値もないのだ―――ということは自明ではあったが、母に指摘したことはなかった。弟の才能というものを素直に喜び楽しんでいる母にそれを言うのは残酷であろう。
「……私は身体が弱いので、母上」
 皇妃の話が一段落付いた辺りで皇子は使用人達に聞こえないよう、小さな声で言った。
「ラインと将来、多方面で助け合っていけるならとてもいいことだと思います。……近衛に任せてみるのもいいのじゃありませんか」
 皇帝の私兵とされる近衛には、戦場での皇帝警護という性質上良い指導者がいる。皇族も護身術の一環として武術を一通り教えられるが、護衛のために魔導士をつける方が一般化しており、自分で剣を取るなどは非常に珍しい部類に入った。その為に良い指導者は近衛に多いのが現状である。
 母は思案気味に微笑んだ。いいのよ、と優しく言われて皇子は頷く。そうしたことまで気を回す必要はないという母の気遣いであった。
 空気が一段落したのをきっかけにして皇子は食堂を辞した。食事が進まないことであまり母に心配をかけたくなかった。
 皇子の夜は大抵読書で更けていく。皇子は自分の身体が他人と比べて頑健でないことを、知識の補充でまかなおうとしているのだとはっきり認識していた。追い立てられるような焦燥も、立太子への重圧も、既に肌に馴染んでしまった。自分こそが次代の皇帝たらんというような強烈な自負は胸にない。ただ……―――
 皇子はふと頁をめくる指を止めて唇だけで笑った。立太子されたら、母は喜んでくれるだろうか? ラインが去年、少年剣術会で圧勝した時のように? もしかしたらそれ以上に。
 立太子されるということは将来皇帝として即位するということになるが、皇帝の地位というものに希望も絶望も皇子は抱いていない。立憲君主制度という頑とした機構が先にあり、法律でそれを更に強固にしているこの世の中で、至高の位置にあること自体にどれだけの意味があるのだろうか。
 皇帝親政を布いた者はシタルキアの長い歴史の中でも僅かに10数名を数えるのみ、その半数はごく初期に集中する。太祖皇帝時代の慣習を受け継いだような形だ。
 皇帝に実権は既になく、それは慣習と慣例と過去の遺産の継承程度の意味になり果てている。だが、皇子はそれにも悪い感情を持っていない。皇帝という個人の器量に大きく左右されるよりも、それは世界にとって健全なはずだから。
 皇帝となるというのは、そうした機構の頂点で儀式を執り行うための派手な冠となることと意味が変わらない。個人の実力や資質などまるで無関係なのを承知の上で皇子は自分に立太子の目標を与えている。
 その人の言葉が眼差しが欲しいから。多分この世の何よりも。微かに自分が溜息をついたことに皇子は一瞬後から気付いた。


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