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 夜の闇がざわめいている。祝祭の日はこんなそぞろな空気が帝都ザクリアのどこへ行っても感じられた。
 6月は祭事が多い。シタルキア皇国は大海を挟んで二つに分かれた両大陸の内の北側、北部大陸の中でもやや北よりに位置する国だ。夏の始まりはその年の眩しく希望に満ちた季節の幕開けでもあったから、自然そうした行事の先駆けが増えたのだろう。
 この日は皇帝の誕生日であった。帝都のいたる箇所で振舞酒が出、宮城から続く大路には国旗がはためき、灯火が明るく享楽を謳歌している。帝都中が浮ついた雰囲気と手を取りあって軽やかに踊っているようだ。
 大路から伸びる主幹路にはぎっしりと縁日屋台が立ち、呼び込みをする威勢の良い声が溢れ、それでなくても雑踏を行き交う人々の朗らかな笑顔が充満している。
 シタルキアの治世は民草に関わる範囲では上手く回っていた。これは為政者の功績ではなく、機構の手柄である。皇帝リシャーク3世は際だった辣腕でも呆れるような暗愚でもなく、既に完成された立憲君主制度を踏み外すことなく歩いており、また、歩き終えるだろうと言われていた。
 宮廷へ入ればそれなりに主導権の引き合いなどもなくはない。だがそれも2大公家の専任であり、膠着とも陰険な和解ともいえる状態が続いていて、安定している。
 世の中は平和で、これからもそれが続いていく。それを信じ切っているからこそ、祝祭の日にはこうして沢山の人々が休日と愉楽を楽しむことが出来ているのだ。
 華やかな音楽。どこかで鳴らされる爆竹。笑い声。
 母親の手を離れて子供が一人、屋台の方へ駆け寄っていく。並ぶ駄菓子に目をきらきらさせていた子供は、ふと顔を上げた。どうしたの、と母親が聞く。
「お母さん、誰かいるみたい?」
 子供が指さす路地は、大通りから漏れる明かりで多少は奥まで見える。はっきりしない人影のようなものが確かにあるから、誰かがいるという子供の指摘は正しい。だが、母親は顔をしかめた。
「人様を見るんじゃありません――行くわよ、お父さんと待ち合わせでしょ? 何か美味しいものでも食べましょうね」
 母は子供の手を引いてそそくさと立ち去る。客を逃がした屋台主の男が路地を振り返り、影に目をすがめ、溜息をついた。
「どうしたい」
 隣で蜜氷を売る店主の言葉に、男はふん、と鼻を鳴らした。
「全く、やるなら余所でやれってんだ」
 顎をしゃくる仕種につられて覗き込んだ側も、闇に目が慣れると同時に苦笑した。
「追っぱらちまえよ、営業妨害だってな――おい!」
 路地の奥を怒鳴りつけると蠢いていた影がふと動きを止めた。一瞬の躊躇を置いて、ずるり、と影が更に路地の奥へ光の射さない場所へ移動する。
「――もう、やめて、よ……」
 引きずられて呻いた少年の肌を直接まさぐりながら、男は低く、少年にしか聞こえないような小さな声で笑う。
「向こうからは見えないぜ――なぁ、幾らでも出すって言ってンだろ?」
「身体、触るだけって、最初に言ったろ……お前となんか誰がやるかよ」
「ふ、ん……男娼のくせに……」
 違う、と少年は否定し、男の肩を押しのけようとする。だがその抵抗は弱く、男は薄く笑いながら少年の顎を捉えて自分の方を向かせた。ここが暗い路地で残念だと呟く。もっと明るい場所か貸し部屋あたりなら、この顔をゆっくり拝めるのに。
 薄暗い闇の中でも、それはくっきりとした美貌であった。冴え冴えと輝く青い瞳に、どこまでも完璧で繊細な顔立ち。自分の愛撫にゆるくこたえて喘いだ唇の可憐さ、淫蕩さ。全てが夢の中から抜け出てきたような美しさだ。
 どこか危うい足取りで歩いていたのを捕まえたのは幸運だった。路地へ連れ込んで金を握らせると、戸惑ったような沈黙と共に抵抗がゆるんだ。身体を触るだけだからと口説き、それだけにしては少し多めの額を懐に押し込めて男は少年へ戯れる。少しづつ熱を付帯させながら。
「もう、やだ……よ、やめてよ……」
 身をよじろうとするのを男は片手で難なく押さえ込み、再び顔を自分の方へ向けさせた。
「お前、キスは幾らだ」
 形の良い唇が吐息に微かに湿り気を帯びているのがたまらなく扇情的で蠱惑的だ。
「そんなもん、売らない……」
 言いかけた少年の手に、男は硬貨を落とす。金属の鳴り音がかちりといった。少年がいらない、と突き返そうとする手を無理矢理こじ開けて、降り注ぐように硬貨を押しつける。
 少年は俯いた。自分の手に落ちる金額に、この話を突き放すかどうかを考えているのだ。……考えている、ということが分かれば十分だった。
「もっとか? 幾ら欲しい」
「――いや……」
 力無く首を振る仕種で、肩を過ぎた辺りの長さの髪がゆらゆら揺れる。そこからちらちら覗く白いものは少年の肌の色だ。年齢の若さゆえのなめらかさに男は喉を鳴らす。
 男は素早く金を握らせ、少年の喉顎を捉えて唇を押しあてる。少年は微かに身じろぎしたが、男を振りきるほど強く抵抗しようとはしなかった。
 すべらかな肌と同じように、やわやわとした唇の感触は素晴らしく美味だった。髪に手を差し入れ、かき回しながら男は貪るようにそれを味わう。角度を変えて何度も繰り返すと、少年が息苦しく喘いだ。
 ゆるく開いた唇から強引に舌を口腔へ押し込む。少年の身体が一瞬跳ねる。無理矢理押さえ込む。首を振ろうとするのをしっかり顎を掴んで阻止する。逃げ回る舌を追いかけ回していると、突然強烈な痛みが唇にした。
 男は反射的に身体を離す。一瞬の間をおいて、じんわりと鉄の匂いが口に広がった。噛まれたのだ。
「やめろ、って、言ったろ……」
 苦しそうな呼吸のままで少年が吐き捨てた。男は頬にかあっと血が昇るのを感じた。狩人は自分で、獲物がこの少年だったはずだ。逆ではなかった。不意をつかれた衝撃が、怒りに変わる。
「お前……!」
 振り上げた手が、容赦なく美しい顔に降り落ちる。少年が悲鳴をあげてよろめき、ずるずると座り込んだ。
 男はその腕を掴む。どこでもいい、転がり込める暗がりへ行って懲罰を与えてやろう、そんなことを思いながら男が少年を引きずろうとしたとき、路地の向こう側からどうした、という声が聞こえた。
「おい、あんまり乱暴はいけねぇぞ!」
 男は舌打ちをする。少年がさっと顔を上げ、助けを求める声を出した。路地を抜ければそこは縁日の人の海だ。男は顔を歪め、一瞬の躊躇いの後にそこから走り去る。
 少年は身体を起こした。殴られた箇所がしびれるように痛んだ。手を当てるとぴりりと痛みが走る。少年は顔を歪め、自分の手に残った金を見つめた。
 握りしめると硬貨のこすれ合う音がした。少年は腕を振り上げ、……そのまま力無く下ろした。投げつけるはずだった硬貨の替わりに零れていったのは幽かな嗚咽だった。殆ど一瞬と言える短い間、少年は涙を形の良い指で押さえ、ゆるゆる溜息をついた。
 吐息が唇を撫でると、先ほどまでの男の感触が蘇ってきて、吐きそうになる。男がかき回して乱れた髪を手で簡単に整え、少年はよろよろ立ち上がった。
 路地から大通りに出ると、そこにいた屋台の主が振り返った。
「おう、無事だったか、兄ちゃ……」
 店主の言葉が止まる。少年は凍えたような顔をどうにか動かして、微笑んでみせる。自分の顔立ちには昔から絶対の自信があった。誰であれ、微笑みを向けて買えない同情などなかったのだ。
「ありがとう。助かりました」
 かすれた声で呟くと、店主は頷く。隣で蜜氷をさばいていた男も振り返り、彼の尋常でない美貌に目を奪われて沈黙した。
「……災難、だったな」
 ぼんやりした声に少年は僅かに頷く。売り物の筈の氷を男は手早く麻袋に入れて少年に放り投げた。
「頬、冷やした方がいい。せっかくの美形なのに台無しだ」
 ははは、と作ったように明るい声を上げて笑う男に、駄菓子屋の店主も弾かれたように倣った。
「まぁ、そこ、座んなよ……あんた、どこの子だい? この辺じゃちょっと見かけない顔だね」
「この辺じゃなくてもなかなか拝めない顔だよなぁ」
「違げぇねえ」
 笑い合う2人の男に少年は困ったように笑い、もらった氷袋を自分の頬にあてた。屋台の後ろへ座り込む。仕種の鈍重さから、少年が衰弱しているのが分かった店主がやはり売り物の中から蜂蜜飴をつまんで少年に握らせる。ぺこりと会釈をして少年はそれを口に放り込んだ。
「さっきのは何だったんだい、兄ちゃん」
「……路地を歩いてたら、いきなり腕を掴まれて……」
 ふうん、と商店主たちは少年を見、懐から覗く10ジル紙幣を見た。男娼にしては慣れていないことこの上ない。恐らく、あれは男が無理矢理押し込んだのだろうと推測して苦笑になった。何かがあったときに「こいつだって金を受け取った」と主張するための所作だ。
 無理もなかろうと彼らは目を合わせて頷き合う。
 濡れたように輝く漆黒の髪によく映える白い肌、そこに配置された宝玉のような瑠璃色の瞳。一瞬目を疑うような造形美。端麗というにはあまりに言葉が足りない。一度見たら忘れ得ぬ、そんな美貌であった。年齢は14、5というあたりだろうか。目を伏せると少女めいた儚さが、視線を向ければ少年特有の透明さが視界に入ってくる。誰であれ、この美貌を目にすればもっと触れたいと望むだろう。その相手が悪いとああいうことになるのだった。
「少し息が落ち着いたら、ちゃんと人の通りがある道を選んで帰りなよ。あんた、なんだか頼りなさげだから変なのにつけ込まれるんだからな」
 触れなば落ちん、という表現を思い出すほどに。
 少年は僅かに頷き、頬にあてていた氷袋を返した。撲たれた箇所の腫れはそうひどくなかった。指でつついて僅かに顔をしかめているが、耐えられない痛みではなさそうだ。大丈夫かいと声を掛けてみると、案の定少年は頷いた。
「氷、ありがとう、ございました……」
 声はまだかすれている。蜜氷の店主はああ、と頷いた。
 少年は彼らに軽く会釈をすると、再び歩き出した――暗がりの、薄闇の彼方へ。
 慌てて店主たちは声を掛けようとした。今忠告してやったばかりなのに、聞いていなかったのだろうか。だが、少年が振り返るほうが早かった。
「ありがとうございました。俺のことは気にしないで下さい。俺は人に酔うので、人混みはどうして歩けないんです……」
 そうしてもう一度、深く頭を下げると少年は背を向けた。
 2人は顔を見合わせて同時に肩をすくめた。半ばは呆れたのかもしれない。だが、長い時間少年の行く先へ思いを馳せることは出来なかった。6月は祝祭日が多いとはいえ、今日の祭りは既に終幕へ向かっている。稼ぎ時も、あとわずかだった。
 少年はぼんやりした感覚の中を歩いていた。足をすすめる度に脳天から何かが抜けていきそうな、そんな頼りない眩暈がする。原因は分かっている。単に貧血なのだ。
 人通りの多い場所へ、という屋台の店主たちの言葉の正しさは理解していた。そんなことは、言われるまでもなく分かっている。だが、どうしても人通りの多い場所は嫌だ。とても怖いから。
 人混みに酔う訳ではない。他人の目が怖いからだ。いつ、誰がどこで自分を見ているか、分からないから。
 彼は物心ついたときから追われる者であり、3年前からは逃亡者だった。母と2人でこの国を離れ、生活の道もどうにか見つかり、2人で支え合って生きていけるとそう思っていたのに。
 甘いのだ、という自嘲を彼は自分の中で何度聞いただろう。自分は甘い。詰めが甘く、予測が甘い。同じ轍は二度と踏むまいと思う側から現実は怒濤のようにやってきて、少年をいつも翻弄した。
 ――溜息が、漏れる。母が何を考えていたのか分からない。ただ、自分を守ろうとしたその意志だけを信じている。だから、母の守護に返すのはやはり守護だ。自分の力で今度は母親を守り抜かなくてはならない。
 そう思うとその困難な道に彼は顔を歪めざるを得ない。金。金さえ、あれば……――
 それを思うことだけでは何も進まないことを承知の上で、考えてしまうのは何故だろう。こんな事、一つも自分の前進に役立たないのに、もし、とか例えば、という冠詞のついた夢想がひどく心地よくて逃げ込んでしまいそうだ。
 胸がきりきりと痛んで、彼は自分の胸倉を思わず縋るように掴んだ。ぐしゃりという紙の潰れる音がして、そこに押し込まれた10ジル札のことを思い出す。口の中が急激に苦くなってきて、唾を吐いた。
 路地には人手を見越して集まってきた娼婦たちや男娼たちがうろついている。彼はそれに間違えられたのだった。少しの嫌悪と金の重みを図りかねているうちに更に奥へ連れ込まれて悪戯された。それは初めての経験ではなかった。完璧な美貌とも、完全な麗玉ともいうべき彼の容貌は沢山の光と濃い影を呼んだ。それをいつでも鼻で笑い、強かに頬を打ち、時には急所を蹴り上げるなり罵倒するなりで寄せ付けなかった過去が、遙かに遠いことのような気がした。
 彼は、片手で顔の半分を覆う。突き放せなかったのではなく、そうしなかった。端金とも言うべき額を押し込まれて、それに迷い迷いながらも抵抗を放棄した。屈服したのだ。怒りは自分に向けたものであり、苛立ちは今の事情へ向かうものであった。
 彼は襟の隙間から札を抜き出し、握りしめていた硬貨と合わせて額を数える。小銭は額面がバラバラだったが、全部合わせると18ジルになった。
 18、と彼は暗澹とした気分になる。身体中を取り巻いている絶望感や疲弊感と引き換えにしたのが、この額。一晩の安い宿を探すのさえ困難な金と自分の矜持を引き換えにしたのかと思うと目が眩みそうだ。悔しくて。
 彼はそれを暫く見つめていたが、やがてゆるく頭を振った。どんな手段で手に入れたとしても金は金だと呟いてみる。自分に刷り込む作業はそう上手くはいきそうになかったが、いつまでも拘泥しているわけにもいかなかった。
 人通りの少ない広路へ出て、彼は自分の来た方向を振り返った。夜の闇に煌々と月が落ちたように、遙か遠い場所が真白く光っているのが見える。今日は祝祭の日、きっと更に遅くまでそこは光の溢れる場所なのだろう。歩いてきた距離を思い、彼はぼんやりと光を見つめた。
 朝の鐘が帝都に鳴ると、城塞都市ザクリアの城壁門が開く。すると前夜の閉門に間に合わずにその場で屯していた旅人達が帝都の中へ消え、城壁の中からも旅立つ人々が流れ出てくる。人の流れに添うようにしてザクリアへ入ったとき、自分は何を考えていただろうか。
 母の安否か。それともこれから先のことか。否、底をついた所持金のことだったろうか。実際ここ3日ほどはまともなものは口に出来ていなかった。水だけは街道沿いの村や都市の井戸を使うことが出来たが、その他には金がかかる。
 それまでも節制ばかりだったから、元から豊かと言えなかった体力は目に見えて落ちていき、それに伴って視野が狭まっていくのが自分で分かった。未来のことや将来のことなどよりも、その日の食事の方が気にかかるのだ。
 それでも自分は還ってきた―――最も古い血を誇る皇帝の下繁栄と豊穣を遍く享受する都、美しく整えられ拡張を繰り返してきた歴史と文明の息づく都、そして彼自身の血の根元の回答が秘められている都、
 ―――シタルキア皇国、帝都ザクリアへ。
 そして、これからいくべき場所も決まっている。それは3年前に彼の秘密を見抜いた上で力になろうといってくれた優しい皇子の下ではなく、勿論世話になった学校の関係者でもない。
 ザクリアの暗部、国家の闇と快楽を引き受ける赤い格子の町、タリアへ―――
 まだ奴は生きているだろうかと彼は目を閉じる。面影は3年前で止まっている。
(何かあって俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ。借りは必ず清算する)
 この言葉に縋りたいのは自分だ。奴は覚えているだろうか。自分が一時保護していた子供のことを。言質といえる言葉を与えたことを。生きて、覚えていてくれるだろうか……
 もし男が既に世を去っているのなら、自分はとんでもなく間違っていたことになる。だが、他に頼っていく人間を思いつかなかったのだ。
 生きていてくれ。そう願う自分の思いが全く利己主義から発しているのを承知の上で、彼は強く念じた。
 どうか、お願いだから。希望と呼ぶには余りにか細い糸を切らないで。
 そんなことを強く祈り、そして彼は固まったような頬で無理矢理笑おうとした。殴られた跡が引きつって痛んだ。そしてその後は? 奴が生きていて、再会した後は……
 頬が歪んだのと同時にそこが激しく痛みを訴えた。だが彼はそこに手をやらない。彼の手は、自分の胸の前で祈りをするときのように組まれたまま、微かに震えている。
 本当にこれしかないのかは母を連れて海を渡る間中、ずっと考えていた。きらめく波間の美しい水影を睨み据えながら、ずっとずっと、考え続けた。
 自分たちに頼れる身内は存在しない。追っ手のことも怖い。帝都から逃げ出したときに持っていた現金も宝石類も、殆ど使い果たしてしまった。
 皇子の下へはいけない。そこへ顔を出すことは藪蛇になる。襲撃者達の雇い主に、自分の帝都への帰還をわざわざ教えてやることは愚かというものだ。いっそ魔導士となって魔導の塔に身売りしようかとも思ったが、国家の奴隷となることは即ち母に会えなくなるということだ。
 だが金は必要だ。それも早急に、莫大な額が。
 彼は唇をやわく噛む。まるきりの八方塞がりというわけではないのだ。道はある。ただ、それにどれだけの覚悟がいるのかというだけの話だった。……胸が痛む。
 母さん。
 母さん、俺は間違っているのだろうか? でもこの場合は正しい答えなど何の価値もないんだ。要するに結果なんだ。自分を折る相手は自分で選ぶ。それが俺の結論だから……
 だが、それでも泣きたくなる。屠所に引かれる羊の心境というのはこうしたものかもしれなかった。神妙に項垂れて目線だけをあげながら、落ちつきなく周囲を見回している受刑者のようなものだ。
 そしてどれもこれも、あの男が生きていなければ水泡になって消えていく夢のようなものでしかない。生きていてくれ、と願うこの言葉があまりに切羽詰まっているのが自分でも悲しかった。
 タリアは帝都ザクリアの中心から南西に下った辺りに位置する。城壁門は北と西の2ヶ所にあり、彼は西の門をくぐって帝都に入った。一日歩き詰めてどうやら皇宮から続く大路に出た。距離に直してようやく半分に足らないほどというべきだろうか。
 彼は痛む足をじっと見下ろす。半ば機械的に足を動かしてきたが、もうこの辺りが限界というものだった。18ジルで宿を探すとなると、安宿の集中するあたりまで行かなくてはならないが、それはタリアの近辺だった。食事をしてもいいが、今夜の安全を確保することと一体どちらが大切だろうか。
 そんなことを考えていると、視界の端に馬車が見えた。彼はそれを見つめる。御者の方も彼に気付き、近く寄ってきた。
「乗るかい、兄ちゃん?」
 首を振りかけて、彼はふと思う。この金でタリアまで行くというのも悪くなかった。タリアについた挙げ句に自分の望みが叶わなければ、それはその時考えても良い。空腹と疲労は思考力を奪い、刹那的な未来しか考えられなくなる。彼はとにかく疲れていたし、動けなくなる寸前であった。
「……タリアまで、いくら?」 
 御者はなんだ、という顔をした。先ほどの男と同じように彼を男娼だと思ったのだろう。
「25」
 ぶっきらぼうに返してきた。25、と彼は繰り返して呟く。手の中で彼の全財産がこすれあい、音を立てた。
「乗らないのかい?」
 せかすような調子で御者が言った。彼はゆるく首を振る。御者は彼の様子がしおらしかったのを哀れに思ったのだろう。幾ら持ってる、と聞いた。
「今、これしか……」
 彼は自分の手を広げる。御者が唸る。彼は半ば祈るような気持ちで御者を見上げ、彼の行く先を照らすランプの近くへ出た。目があって、御者が微かに息を呑んだ気配がした。彼は縋り付く顔をする。今は誇りだの矜持だのと理屈を並べるときではなかった。
 やがて溜息がした。
「……いいだろう、乗りなよ。今日はお祭りだからまけといてやるさ」
 彼は頷く。金を全部御者に渡すと馬車へ乗り込む。一瞬の間をおいて走り出した馬車の出立を祝砲するように、どこか遠くで爆竹の音が聞こえた。
 しばらく馬車の中で、彼はまどろんでいた。訳の分からない色味と暗闇が混じり合って、ひどく気疲れした。御者が彼を揺すって到着を告げたとき、目覚めは明らかに安堵だった。
 去っていく馬車の轍の音をぼんやり耳に拾いながら、彼は赤く塗られた柱を見上げた。その柱から先の町は、今までの青黒い石の町とは明らかに違っていた。
 びっしりと通りを埋め尽くす赤い格子。華やかな音楽が微かに聞こえ、猥雑なさざめきと女達の嬌声、そして甘い化粧の香りが満ち満ちている。決して狭くはない道の両側に焚かれる篝火が朱塗りに金泥の模様の店棚に照り映えて、通りごと燃えるような色に染めている。
 懐かしく、変わらぬ光景であった。3年前に帝都から逃げ出す前と、何一つ変わっていない。人の欲望を満たすための町は、欲望の本質が変わらないことには変化などないのだろう。
 彼はその中へふらふらと足を入れていく。振り返る人々の、強烈に突き刺さってくる視線が肌に痛かった。彼は娼家の赤い格子にはめられた飾り硝子をちらりと見る。
 黒い髪は魔導の効果だ。本来の髪の色を変えることは出来ないが、幻術という形で違う色に見せることは出来る。染め粉を買えなくなってからはずっと魔導の力だった。
ただ、魔導による幻術で姿を変えても魔導禁止結界に触れるとか、施術時の体温と著しく離れたとかですぐに効果がなくなる。だから一番確実なのは今でも染め粉を使った上で傘を持つこと、なのだった。
 髪の色がまだ気になる辺り、自分も3年でそう変わったわけでもないな、と彼は自嘲する。男に殴りつけられた顔は押さえるとまだ痛んだが、青くなってはいなかったから痣にはならないだろうが、それにしても頬の痛む箇所の痕跡が目立った。
 人の視線はこれだろうかと思いながら、彼は路地へ入っていく。3年前の秋の日に、毎日のように通った道も変わらない。どこもかしこも昔のままに薄汚れた町並みだった。
 細い路地に入っても、暫くは安い娼家や貸し部屋などが並び、やがて更に怪しげな雰囲気を漂わせる店が続き、それがぱったりなくなると今度は非合法のものばかりを扱う闇の市場になる。市場といっても店があるわけではない。たむろしている男達が大抵仲介屋で、欲しいものを告げれば元締めの所へ連れていくという段取りだった。
 そうした路地を抜けた先に、チェインはある。少年達が巣くう、タリアで最も危険な場所の一つだ。
 昔出入りしていた屋敷はトリュウムと呼ばれていた。チェインの中程にある、大きな石のアパートだ。馬車の中で少しまどろんだせいで、足取りは以前よりは少しましだった。どうにかトリュウムの黒々した影姿が目に入るようになって、彼はほっと息を吐く。男が生きているか否かという賭はともかく、ここへ辿り着いた旅路の終焉が見えて、少し楽な気分になった。
 トリュウムに近付いていくと、門のところで雑談に興じていた少年達が顔を上げ、彼を認めて一斉に凄む目つきになった。明確な味方か明らかな身内でないときに身構える彼らの反応がやはり同じで、彼は思わずゆるく唇で笑う。自分たちに対する嘲弄だと思ったのか、一番身体の大きな少年が何がおかしいのだと低い声で聞いた。
「あんまり無遠慮だと知らねぇぞ」
 ああ、と彼は微笑みながら頷く。変わっていない。ここの少年たちの気質は昔のままだ。余所者を嫌い、自分たちと違う境遇の子供を憎しむ。彼がそんなことを思っていると、急に胸倉が掴まれた。抵抗する体力は殆ど残っていない。彼はそのまま引き寄せられ、咳き込んだ。
「随分楽しそうだな、お前、酔っぱらってんのか? それとも――」
「ねぇ」
 彼はその言葉の終わるのを待たずに呟く。
「あんたたちの頭って、まだ、ライアン?」
 一瞬の沈黙の後、不意に空気が戸惑いへ変わった。
 そうか。彼は破顔する。
 生きているのだ、彼を保護し彼に居場所をくれると約束したあの男は。少年達の戸惑いと、その眷属である沈黙は彼らが支配者の機嫌を損ねやしないかと考えている証拠だ。
「……ライアンに何の用だ」
 掴まれていた部分が急に楽になって、彼は呼吸を整える。自分の周りを少年達がぐるりと囲んだ。彼は薄く笑いながら、俺は奴に話があるんだと言った。少年達がお互いに視線を交わし合いながら、口にしない会話をした。
「―― お前には会う資格がない。俺達は何も聞いていないし、お前がライアンの知り合いだという証拠もないからな」
 そう言われて彼はゆるく首を振った。腰のベルトに繋いであった漢氏竜の煙草入れを抜き出して、彼らに見えるように掲げる。
「ライアンから貰った。3年前だ。……信じなくてもいいけど、もし俺が本当にライアンの知り合いで、ライアンが俺にいつでも訪ねて来いとこれを寄越したのも本当だったらあんた達、ただじゃ済まないんじゃない?」
 この恫喝は効いた。僅かなざわめきがして、少年達は沈黙へ還った。先ほどの大柄な少年が取り巻きの一人に何かを言いつける。暫くにらみ合っていると、やがて軽い足音が聞こえた。
 彼はそちらをちらりと見る。自分を取り囲む少年達の姿に隠れて顔はよく分からないが、飛び抜けて背が高い。ライアンではないのがすぐに分かった。彼の記憶の中にあるライアンの背格好とは似ていなかったし、3年前ライアンは既に外的成長は終えた年齢だった。
 少年達が割れる。ある程度を束ねている幹部と言うところだろうかと彼は顔を上げてまじまじと相手を見つめ、……そして首をかしげた。面差しを知っている。すぐに分からないのは余りに成長が著しくて、一瞬目を疑うほどだからだ。
「……チアロ?」
 呟いた自分の声に触発されるように、相手の顔がぱっと明るくなった。
「クイン!」
 久しぶりに呼ばれた名前に彼は微かに震える。最後にその名を呼ばれたのは一体いつのことだったろうか。抱きついてきた身体は温かで、背を抱き返しながら、彼はうん、と頷いた。
「ああ、久しぶりだな、クイン、お前元気? なぁ、今までどこで何を? ライアンもお前のこと懐かしがってさぁ、あ、ライアンに会うだろ? 今ちょっと忙しいけど、お前が戻ってきたって言ったら飛んでくるよ! ライアンには俺から連絡するからさ、ライアン今王屋敷の方にいるから、多分ね、でもすぐには無理かもしれないけど、会いたいだろ? 懐かしいなぁ、なぁ、本当に何年ぶりだっけ?」
 3年だよ、とクインはゆるく笑った。3年前このチェインに出入りしていた頃、ライアンの弟分としていつもその側にいた子供だったチアロは、子供を脱して既に少年から大人への階段に足をかけようとしていた。少い日の年月は余りに多くのものを変える。
「知り合いですか」
 チアロの後ろから先ほどの少年が声を掛けた。チアロは振り返り、軽く頷いてみせる。
「お前ら、余計なことはしなかっただろうな」
 クインは微かに眉をあげる。この3年でチアロの身に加わったものは、どうやら背丈だけではなさそうだった。今でも明るく人好きのする性質は変わっていないが、それと同時に、他人を従える威圧感のようなものを備えつつある。少年達に下す言葉の一つ一つが小気味よいほどはっきりしていた。
 少年達を手で追い払い、チアロは彼の顔を覗き込んでくる。何、と聞き返すとチアロは自分の頬を軽く指で叩いた。ああ、とクインは苦笑になり、そしてまだ痛むそこに片頬を引きつらせた。
「何でもないよ。ちょっと揉めて殴られただけだから……それより、ライアンは……」
 言いかけた言葉を、チアロが手で制した。そうした仕種の中にも、チアロが少年達の上に立つ身である空気があった。
「ライアンは少し、忙しいんだ。もちろんお前が帰ってきたことを知らせるけど、いつとは約束できない。配慮はしてくれると思うけど……ああ、立ち話なんかするもんじゃないな。食事は? もしまだなら、近くに軽く飲み食い出来る所があるけど」
 クインは一瞬返答につまる。馬車代で所持金は使い果たしてしまい、無一文だった。彼が返答を躊躇った僅かな時間は、チアロの気安い、朗らかな声ですぐにかき消された。
「久しぶりの再会なんだから、俺がおごるよ――さ、行こう」
 明るく笑ったチアロの顔が、クインの視界で歪んだ。
 ライアンの生存。チアロとの再会。希望が潰えていなかったことに対する安堵。ようやく呼ばれた自分の名。帰ってきた、自分の巣。
 それがないまぜになって喉からこみ上がってくる。チアロがそれに素知らぬ顔をしてくれるのが嬉しかった。
  祝祭を鮮やかに彩る光の花が夜空に咲いた。火薬は貴重品だが、それを一瞬の見物に費やすことが出来ることこそを奢侈と呼び、富貴という。こうして自分たちが贅沢を享受できるのも安定した宮廷と安泰な国家の成せるものだと思いながら、皇子はそれを見上げた。弟のはしゃいだ声がする。
「母上、ほら、また違うのがあがりました! すごいなぁ」
 皇子はちらりと視線を隣へ座る同母弟の皇子へ向けた。母親譲りの菫色の髪が、花火の明るく刹那的な光の下でなめらかに輝いている。父の誕生日の園遊会は晴天であれば城の広大な中庭で行うのが慣例であった。
 弟を挟んで母がゆったりと座り、更にその隣に父が居る。両親は祝辞を受け取るので忙しいが、自分や弟はまださほど構われなかった。
「ライン、母上はお客様のお相手で忙しいのだから煩わすのでないよ」
 弟の手を軽くたしなめるように叩くと、弟はぺろりと舌を出して笑った。屈託ない笑顔、明るくて人懐こい性質、そんなものをこの弟はきっと父親から譲り受けたに相違ない。外見は母によく似ているが、中身は父とそっくりだ。――だから、だろうか。
 皇子は微かに目を伏せる。自分もまた、母と似ている。表面ではなく、内面が。神経が細く、苛立ちやすく、そしてそれを口に出せない性質が。母も自分も絶対に口にしないだろうが、お互いに似過ぎたせいで、2人きりになると妙に気まずい。親子だからという括りを取り除いてしまえば単に気が合わないで済むことも、母と子であるから複雑であった。
 母であるイリーナ正妃は明らかに弟を溺愛しており、愛情の取り分の比率だというようにか、彼には弟に対するような関心を持たなかった。
 もちろん親子であるから普段の生活の中で情愛を感じないことはない。母は自分を理解するように努めようとしているし、彼の生来の病弱さを気に掛け、それと引き換えにしたような聡明さを喜んで沢山の教師をつけてくれた。
 ただ、と皇子は花火を見上げながら思う。
 そうやって母と離れて過ごした時間の長さが、きっと今のぎこちなさの原因なのだろうな、と。
 教師たちが皇子を褒め称えると母はとても喜んでくれた。だから努力もしたし、そもそも皇子にとっては勉強などはとても簡単な事に思われた。道ばたの花を手折るほどのことにしか思えなかった。
 それに勉学というものはどんなに複雑でも煩雑でも、そこには必ず答えがある。明確な回答がある。本当に分からなくて難しいのは他人だ。母とはいえそれは他人、他人のことは分からない。
 そっと皇子が溜息を落とすと、兄上、と小さな声がした。弟が少し心配そうな顔つきで彼を見上げている。
「どこか具合でも? 僕、お部屋までお送りしましょうか?」
 いや、と彼は微笑む。弟を愛しているのは母だけではなく、それは自分も同じ事であった。ラインという4才年下の弟の一番良いところは、こうして何の見返りや算段などもなく他人に優しく振る舞えるところだろう。意識して出来る年齢ではないから、これが本質なのだ。
 愛されやすい気質というものがある。それは確かに弟に宿り、自分には欠けているものなのかもしれなかった。
 3年前から通っている中央中等学院でも皇子は完全に周囲から浮き上がっていた。自分はどうやら近寄りがたいらしい。そう級友を邪険にしているつもりはないのだが、他人とつき合うのが苦手なのだ。
 成績は飛び抜けており、身分と、そして級友と呼ぶべき同学年の在籍者達が自分よりも5,6才は年上な事もあって皇子は大抵一人だった。
 そして自分を遠巻きにする級友達に囲まれて、彼は時折「彼女」のことを思い出した。正確に言うならば、少女に擬態して中等へ通ってきていた、あの少年のことを。
 彼が何を考えていたのかは分からないが、彼は自分の顔立ちの麗しさと、飛び抜けて年少であることを上手く利用して立場を作っていた。共に過ごしたというほどの時間さえ共有できなかったが、彼の意図したことは分かる。年齢と成績と美貌が揃うことで孤立するなら、崇められる孤独を選んだ者の微笑みだった。
 彼とならば少しは共感を持てただろうという感慨は、年月を経るごとに深くなっていった。彼もまた、孤独を知っていたから。
 それはよく分かる。「彼女」が突然学院から去ったとき、驚愕と疑問の嵐が通り過ぎていったが、それはまさしく一過性のものだった。2ヶ月もすると、そんな少女などいなかったように級友達の環は閉じた。幻のような少女だったという言い方を皆がした。
 いつでも微笑みを絶やさずに、誰に対しても誠実で優しい。誰とも上手くやっている―――それは誰にも都合が良かったということだ。
 人は自分の都合で生きているが、友人は友人なりの、教師は教師なりの都合がある。他人である以上、それを受け入れろと押しつけてくる。級友たちもそうだったろう。「彼女」に対して聡明で大人しい美少女の役を与えて、そこから逸脱することは歓迎しなかったに違いないし、何を言っても微笑む「彼女」はある面、確かに好都合なのだ。
 「彼女」がよく告白を受けていたと後に聞いたが、その理由も分かる。美しく聡明な少女が自分の言うことを否定せずにいちいち頷いてくれる、その満足感はどれだけだろう。自分を全肯定してもらえることほど、心地の良いこともないだろうから。
 そして友人や教師の、全員の望みが一致することなどあるはずがない。だが、現実「彼女」はみなとうまくやっているように見えた。誰ともうまくやっていて、そして誰とも特別親しくなかった。誰にとっても都合の良い少女ではあったが、それ以上ではなかった。
 それを虚しいと思っていなかったはずはないだろうと皇子は思う。それが分からないというような鈍感さは持ち合わせていなかったように思われた。
 あの子は、と皇子はその面影を目の裏に描こうとしてみるが上手くいかなかった。非常に整った顔立ちであったことは覚えているのだが、何故か記憶が薄い。級友達も似たようなことを言っていたから、これは恐らく印象の問題なのだろう。
 だから「彼女」は幻になってしまったのだ。本当にそこにいたのかどうか分からないような、曖昧な存在感しか残さなかったから。
 皇子とてそれは同じだった。「彼女」のことは、曖昧な色のような印象でしか記憶に残っていない。
 だから彼と話した時の記憶は鮮明で、輪郭もくっきりと鮮烈だった。あれが彼の本質なのだ。
 動揺して青ざめた後、自分を強請っても何も出ないと呟いた声。いつか彼が少年であることが露見する可能性があると分かった瞬間の、諦めの早さと見切りの鋭さ。逃げていくのだと悟った皇子が差し出した餞別を撥ねつけた潔癖さときつさ。
 彼とだったら、少しは話が出来たかも知れない。皇子はそんなことを思う。
 自分の疑問を優先させてしまった幼さを今更後悔しても取り返せないが、孤独を知る者同士の共通が自分たちを結んでくれただろうか。
 もう一度会いたい。皇子は時々、そんなことを考えている。今度は少年として生きている、素の彼に会いたいものだ。
 あの時彼が処分してくれと言った魔導論文は、先に賞を取った時間の生成に冠する魔導理論の発展と展開だった。
 論旨を大まか記憶し、皇子はそれを自分で書き直して提出した。「彼女」の論文の抜けた部分や補足の足らなかった部分を説明し、半ば引き継いだような皇子のその論文は、やはり賞を取った。
 去年その検証実験が行われたが、呪文構成は皇子の論文に基づいて書かれたため、術者の魔導士は男性であった。「彼女」の足跡を消すことが出来て、皇子は真実、彼との約束を果たしたような気になった。賞金は使わずに残してある。会えたら渡してやりたかったから。
 皇子はいつしか、「彼女」と似たような場所にいた。
 飛び抜けて若く、魔導に才能があり計算に強く、虚弱な体質のせいで運動を休み、他人を寄せ付けない空気をまとって教室に座っている―――
 「彼女」と自分は同じなのだ。
 「彼女」として生きていた少年が中庸の孤独を選んだように、皇子は孤高であることを選んだ。いずれにしろ、級友と呼ばれる者たちと話が合うとも思えない。
 ラインだったら、と皇子は思う。この弟であればそんなことはないだろう。きっと友人という輪の中に入って楽しく明るく生活を始めるに違いない。
 第4皇子という生まれなど感じさせないような気安さと、身分高く大切に育てられた者特有のまっすぐな愛らしさ、屈託なく他人を信じる人の良さがある。
 自分にはとても出来そうにないけれど、と皇子は内心で苦笑し、まだ心配そうにしている弟の肩を叩いた。
「大丈夫だよ、ライン。……向こうで雑技が始まるから見に行こうか。私たちがここにいてもすることもないしね」
 弟はこっくりと頷き、母にそこを離れる旨を告げて立ち上がる。その手を引いてやりながら皇子はまだ続いている花火を見上げた。
 彼は今どこで何をしているだろう。
 逃亡生活を続けているのだろうか、まだ少女として生きているのだろうか。だが、それは彼のためにはならないはずだ。いずれ大きな齟齬が生まれるだろうし、そうでなくても秘密が多いと呼吸をするのも苦しい。
 だが、彼が今を幸福だと感じていればそれでもいいことかもしれなかった。
 また会えるかどうかは分からない。魔導士を使って足取りを追ってもいいしそれは不可能なことではなかったが、皇子はそれをする気はないのだった。
 ゆるやかな覚醒であった。目を開けても暫く動けないほどの疲労が身体を低く押し込めていて、溜息一つ付くのにもひどく毛布が重い。軽く漏らした吐息が自分のものではないように沈んで、彼は瞬きをした。ぼんやりした遠景は最初、暗い色にしか見えなかった。目に映る濁った色の物が薄汚い天井板だということを理解するまでにややあって、彼はやっとここが何処であるのかを納得した。
 自分は戻ってきた。戻ってきたのだということを先にも思ったはずであったが、昨晩の記憶が次第に蘇ってくるのと同時に、それが強烈な実感になって自分の中に根を張っていくのが分かった。3年前に帝都から逃げ出す直前まで、自分の一番の居場所であったはずの街は、相変わらずだった。巨大な歓楽地を回遊する男達の顔付きも、女達の振りまく華やかな光彩も、そこにいる人々の顔ぶれは変わっても、色味は何も変わらない。3年前に自分と同じようにどうしようもなく子供であったはずのチアロが、少年という年代の階段を歩み上がってはいても、彼特有の明るい空気がそのままであったように。
 ライアンも同じだろうかとクインは思いながら、ゆっくり起きあがった。
 最初に感じたのは酷い眩暈だった。体が重い。食事をしながらチアロと近況の話などをしていたような記憶があるが、それも途中から急速に不明瞭になっていく。酒だろうか、それとも疲労だろうか。どちらにしろ、自分でこの部屋に転がり込んだというわけではなさそうだ。
 3年前に出入りしていた古屋敷の内装とはやや違う。あちらもこの場所とそう変わらぬ汚さであったが、それでも部屋の造りの雰囲気が違うことだけは分かる。寝台の横の窓から外を眺めると、やや離れた場所に煤けた赤い色にぼんやりと染まる地域があった。あれがタリアの境界門から続く大通りであるはずだった。その遙か向こう側に、魔導の塔の威容が霞んで見えている。距離感と方向から自分がいるのがやはりタリアの中であることは分かった。
 クインは再び溜息をつく。物音が殆どしないから、人が少ないのだろう。チアロと行動を共にしていればその内に昨晩のような余所者への干渉は減っていくだろうが、今はさほど期待できない。自分の顔立ちはひどく目立つはずだったが、期待しすぎるのは間違っていた。
 だが、この部屋はチアロの自由になる内の一つに違いなかった。タリアには無数の覇権や利権を巡る派閥がある。大人達にもそれがあり、少年達にもそれがあった。どちらにしろ頂点に立つ者は存在するが、だからといって下位の派閥が解消するわけでもない。チアロがここへ自分を連れてきたというならば、この場所はチアロにとっては安全地帯であるということだ。ならば、まだこの建物の中にいるかもしれない。もしくは、信頼できる配下に何か言い残しているかどちらかだ。とにかく他人を捜さなくてはいけないとクインは結論をつけ、寝台から滑るように下りた。
 立ち上がろうとした瞬間、鈍い痛みと共に膝ががくんと抜けた。思わず前のめりに倒れて手をつく。足裏がじりつくように痛い。クインは床に手をついたまま怪訝に振り返り、両足首から下に捲かれた包帯に目を留めて眉を寄せた。
 床に座り直して足を引き寄せてみれば、包帯の巻き方はいい加減で適当ではあったが強い消毒薬の臭いがした。おそるおそる包帯の上から足を触ると、全体が軋むように痛むのと同時に、足裏が痺れたようにずきずきと脈打っているのが分かる。
 この所ずっと歩き詰めだったからなとクインは苦笑した。それでもどうにか帝都の門を潜りタリアまで辿り着けたのは他のことで飽和していて痛みなど感じている余裕がなかったからなのだろう。これは呼吸が落ち着いてから魔導で多少癒してやれば良いように思われた。旅を重ねながらもクインは魔導の鍛錬だけは続けていたし、どうやら自分にそちらの方面に置いて突出した才能があることも知っている。魔導は才能の要る科学であるということはよく言われているが、その才能は遺伝する。魔導士は出自の秘匿が義務であるが、優秀な魔導士のごく近い血縁者を半ば強制的に入塔させているという噂も昔から存在するほどだ。
 他人を呼んだ方が良いという結論は変わらないから、クインは扉まで這って進んだ。扉に手を掛けようとしたとき、だがそれは外側へ逃げるように開いてクインは再び手をついた。軽くあげた驚声が可笑しかったのか、朗らかに頭上で声が笑った。
「悪い悪い、お前が絶対に自分で何でも解決したがる奴だって事は知ってたつもりなんだけどな」
 昨晩と変わらない明るい笑顔でそんなことを言い、チアロは手にしていた盆を寝台に素早く置くとクインの肩を支えた。半ば担ぎ上げられるようにしてよろよろ寝台に戻ると、クインは肩で呼吸をしている自分にようやく気付いた。
「大丈夫かよ、本当に。お前さ、どこから歩いてきたんだよ。普通に歩いてたみたいに見えたから構わなかったけど、かつぎ込んでからびっくりしたんだぜ。一応手当はしといたけど、ちゃんとした医者を知ってるならそっちに行った方がいいかも知れないってライアンも言ってたからな」
 軽く頷き、クインはライアン、と聞き返した。自分は彼に会いに来たのだった。どうやら眠っている間に一度、彼は自分の顔を見ているらしい。
「ライアンは? あいつ、来てるの」
「いるよ。今ちょっと出ていったけど、煙草じゃないかな。すぐ戻ってくるさ。そんなことより、取り合えず何か食えよ。お前、しばらく殆ど食べてないだろ? ちょっとは顔色も戻ってきてるけど、酷いもんだぜ」
 クインはやや頬が紅潮するのを感じた。返す言葉は何もなかった。それが事実であるからだ。彼の決まり悪そうな顔付きにチアロは笑い、食えよ、と先程彼が寝台に置いたままになっていた盆をクインに押し出した。クインは簡単な礼を言って盆の上のパンに手を伸ばした。どう繕っても金がないことは変化しなかったからだ。口を動かしていると頬が鈍く引きつった。
 祝祭の夜に通りすがりの男に殴られたことを、クインはようやく思い出した。そっと指先で触れてみると、既に痛みは引き始めていた。痣にはなっていないだろうか。胃に物が入る度に、押し上げられるように思考力が戻ってくる。痣になっていたら困る。自分の価値も財産も、今はこの顔一つであるのだから。
 クインの様子で何を思っているのかを察したのだろう、チアロが洗面所から小さな鏡を取ってきて差し出してくれる。中を覗き込むとまず頬の痣が気になったが、そちらは既に肌の上には殆ど痕跡を残していなかった。この様子では明日には殆ど分からなくなるだろう。
 だがもっと衝撃的な物を見つけてクインははっと顔を上げる。思わずわし掴むようにして目の前に引き寄せたのは、髪。
 幻術が解けて、元の瑠璃石色に戻っている髪であった。
「髪だろ」
 彼が何か口にする前に、チアロが素早く言った。クインはごくりと生唾を飲み込みながらチアロを見た。
「チアロ、これは」
 あてもなく言い訳を探してクインは唇を開き、そのまま沈黙した。何から、どうやって説明すれば誤魔化せるのか、それとも自分の知っている事実を話す方がいいのか、どうすれば一番良いのか、沢山の言葉や方策がぐるぐる脳裏を巡って収拾がつかない。
 チアロはライアンの一番の配下だ。ライアンと自分が顔見知りであるか否かの判別をさせるのに少年達がチアロを呼ばせたほどに。ライアンと自分の間の話は彼に筒抜けていく可能性も大きい。ライアンが忙しいというのが本当だとするのなら、自分とライアンを繋ぐ役割を負うてくれるのはチアロだろうから―――
 自分の顔から血の気が引いていくのがはっきり分かった。自分の目立つ顔立ちに更に目立つ髪の色はきっと何処かで極悪な外札を掴ませるための罠だという囁きが、ぐるぐる、めまぐるしく、ひっきりなしに、自分の中を動いている……
「クイン」
 呼ばれるのに続いて肩が揺すられ、クインはやっと返事代わりに一つ頷いた。チアロの目は優しく笑っていた。
「ライアンの言うとおり、お前には秘密が多い。だから俺は、お前が自分で判断するまではお前を目立つように振り回したりはしない、これは約束だ。ここに押し込んで次の朝に様子を見に来たときには変わってたけど、俺以外は誰もいないから少しは落ち着け」
 クインはややあってから今度ははっきり頷いた。その言葉よりも、彼の目の柔らかさに安堵したのかも知れなかった。ごめん、と呟くと真実それに近い申し訳なさが胸に興ってきた。話せないことも多く、秘密にしておくことも多い。悔しいのはそれをどれだけチアロに話していいのか、今の時点ではまるきり見当が付かないことだ。謝るしか出来なかった。いいって、とチアロは重ねて笑い、そしてすっと立ち上がった。この3年で見違えるほど伸びた背丈が見上げるほどすらりと高かった。
 彼の視線が滑るように部屋の扉に動いたのが合図だったように、音もなく扉が開いた。入ってきた男にクインは目を細めた。男もまたクインを見た。彼の淡い緑色をした瞳が迷い無く、適格に自分を射抜いていくのが分かった。クインは痛む頬に構わず、笑って見せた。 
「久しぶり、元気そうだね」
 クインの目の前で、ライアンはやや苦みの混じったような笑みになった。大げさに表情が変わらない辺りは3年前と大差ない。
「お前もな、と言ってやりたいところだが、何日かは派手に出歩かない方がいいだろうな。必要な物は全て揃えてやるからそうしておけ」
 ライアンの声は低く落ち着いて、3年前最後に彼が見た、怒りと憎悪で煮えたぎるような熱は既になかった。彼が今生きているということは、あの決闘に勝ち、それからも沢山の物に勝ち、これからも勝ち続けて行かなくてはいけないのだろう。
 ──多分、それは都合の良いことなのだ。ライアン自身の負担や重苦などとはまるで別の観点の、例えばクインが彼に寄生する条件としては。
 それを思うと自嘲の苦い潮が口の中へ上がってきそうだった。クインは重苦しい空気を無理に喉奥に沈めて、今度は持ちうる限りの虚栄をかけて華やかに微笑んで見せた。ライアンは僅かにすがめになり、そして苦笑した。
「……済まないが、これから王屋敷へ行かなくてはならなくなった、お前の話は今夜にでも聞いてやるから――チアロ、クインを地下水路の俺の部屋に移せ」
「でも足が、ライアン」
「お前はこれをどうやってここまで連れてきたと言った」
 チアロがくしゃりと顔を歪めて、ふてくされたように唇を尖らせた。不承諾であるというよりは明るい不満顔というところであろう。後でな、と言い残してライアンはそれ以上二人に口を挟ませずに出ていった。相変わらずライアンの行動律に一葉も噛みつけない苛立ちが持ち上がってきそうになる。それが表情に出る前にクインは大仰に溜息をつき、チアロに向かって肩をすくめて笑った。
「全くお忙しいことで」
 からかうなよ、とチアロは今度はやや真面目な表情になった。
「去年タリア王の交代があって、ライアンはもうチェインだけのことに関わっていられない――って、昨日その話もしたはずだけど、お前、綺麗に忘れてるだろ? ライアンは今のタリア王アルードの気に入りだから、細々したことが沢山有るんだよ」
 クインは曖昧に頷いた。チアロが説明したというならそれは本当のことだろう。結局のところ、途中で意識を見失った方が悪い。クインはばつの悪そうな顔をするよりも謝るよりも、もっと自分らしいとチアロが笑うであろう方を取った。
「で? 連れていってくれるんだよな?」
 チアロは一瞬を置いて、予想の通りに笑い出した。
 チアロがぶつぶつ軽口を叩きながら彼を連れていったのは、迷路のように入り組んだ地下水路の奥の、深淵といって良い位置にある小さな部屋だった。
 目覚めたアパートの地下室から潜り込めるようになっている辺りは、チアロもこの街の住人なのだとクインは奇妙なところで合点した。人目に付かない通路を幾つも使っていることが、彼の立場の高さを教えてくれる。用心を知っているのだ。
 地下は土と黴の独特の臭い同士が入り交じって、胸が悪くなりそうな空気が充満していた。地下水路に下りて部屋に辿り着くまでクインはずっと顔をしかめ通しであったが、部屋の方はかなりましであった。若干空気の匂いは残っているものの、気にしないように努めることが出来る。
 ライアンが姿を現したのは、暫く雑談に費やしていた時間を次第に退屈に感じ始めた頃だった。地下水路を巡るための通路際にある部屋のことで、窓はない。通気口らしき古びた配管が通っているが、そこからでは外の様子も分からないから、尚更時間も長く感じるのだろう。
 待たせたな、と呟きながら薄い上着を脱ぐライアンの表情には特別な感慨や感情は読みとれない。3年前に知り合ったときから変わらぬ、ライアンの性質の癖という物であった。クインは次第に上がってきた呼吸を落ち着けようと、帰還の理由となったはずの男を見つめた。
 顔立ちはそもそも悪くない。華やかさや明朗さという色相には決定的に見放されてはいるが、端正と言うべき整った顔立ちである。線が細く、どことなく女性にも共通する美形なりのきつさがあるが、彼の身に付いた空気は女性的なものとは隔絶した厳しさだった。
 体躯は3年前とほぼ変わらない。多少肌がくすむように色濃くなった気はするが、向き合っている場が光の少ない地下だということも加味されているだろう。
 じっと見つめていると、ライアンは素っ気なく視線をクインに与えた。
「俺に話があるようだな、だから戻ってきた……違うか」
 上着を適当に椅子に掛け、卓の上の水差しを手繰り寄せながらライアンが言った。クインの様子から、単に懐かしさで戻ってきたわけではないと察しているようだった。
 それはすぐに分かるだろうとクインは納得する。無理を言うけど無茶はしない、とチアロが次分を評するように、自分は自分の限界を超えることには手を出さない。出来ることと出来ないことの見極めくらいは出来る。
 そして限界を超えながら戻ってきた事実が、何よりもこの場合は雄弁だった。
 クインは僅かに俯く。
 ライアンしか頼って行ける相手を思いつかなかった、それは確かだ。これから自分が切り出す話はライアンの掌握するこの地域には向いた話だし、何かあれば自分を頼って良いのだという言質を与えてくれたのは彼だ―――
 だが、理屈よりも何よりも、怯懦が言葉をせき止めてなかなか唇が動かなかった。未知の物に対する怖れ、結論は出したはずなのに抜け道を必死で捜し続けている事実、その事実を自分で認識する度に苦く胸に捲く自嘲と、諦観と、ないまぜになった混乱。そんなものが唇を開こうとする度に、クインの身体を酷く硬直させた。
 自分は怯えているのだ。敢えていうなら、自分自身を排除させようとする全ての世界に。
 クインが言いよどんでいる空気をライアンは何と思ったのか、微かに頷いた。チアロ、とライアンが呼ぶと、それまで二人のやり取りと空気を眺めていた少年は心底はっとしたように彼の主君を見た。
「奴らの残党の根城の一つが見つかった。案内の男がもうすぐ煉瓦屋敷の方へ行くから、チェインからも数名出して繋ぎに使え。動向と、出入りしている連中を逐一報せろ」
 仕事を命じた上での退去令だった。チアロは素直に頷いた。ライアンの意志に添うことはチアロの中では至上であるらしかった。
 連絡の段取りを簡単に打ち合わせてチアロが消えると、ライアンは慣れた仕種で煙管を取り出した。自分がライアンとの繋がりを証明するために差し出した煙草入れがその腰にぶら下がっているのを見て、クインは不意に安堵のような軽い吐息をついた。
 ライアンはそれに構わず深く一服を入れてから呟いた。
「俺もお前に聞きたいことがあった。お前が俺に頼み事というなら、他人には話せない上に俺にも切り出しにくい話だろう。どちらが先がいい」
「……あんたの質問から先に聞くよ」
 持ち出す一瞬が僅かに先にずれただけで浮かぶ大量の安堵感に辟易しながらクインは言った。幾つかの会話を重ねていれば切り出すきっかけも掴めるかも知れないと、そんな思考に逃げ出しそうになる自分の臆病さが鬱陶しかった。
 そうかとライアンは軽く頷き、おもむろに口を開いた。
「あの皇子はお前の何だ」
 クインはゆっくりと視線をあげた。
 驚愕は緩やかだった。ライアンはいつも俺の足下をいきなりすくう、という囁きが唐突に浮かんできて、クインはつい苦笑になりかけた。思えば髪の色を指摘された時も、相当に突然であったはずだ。
 この国には現在リュース皇子を筆頭に4人の皇子を持っているが、他の皇子達はさほど自分と似ているわけではない。一番下のライン皇子だけが、どちらかというなら女性的という意味に於いて顔立ちの系統が似ている程度だ。皇族の写真は公開されているから顔を知ることは難しいことではなかった。
 あの、とライアンが言うのならリュース皇子に間違いないだろう。鏡に映し込んだように、自分と同じ姿形をした皇子。
 皇子のことを思えば、懐かしさがまず先に来た。ライアンがあの皇子と言った相手とほんの2日間机を並べていたことがあった。彼の正体を見抜き、その上で手を貸しても良いと言った皇子。恐らくは、推測に過ぎないが自分自身の濃い血縁に連なる相手。
 クインは不意に自分が薄く笑っているのに気付いた。
「……そう……、見たんだ、あの人」
 胸に上がる感慨はそう暖かみのある物ではなかった。あのまま知らぬふりをして皇子の庇護を受け入れ中等学院へ居残っていれば、もう少しはましな親しみを感じることが出来ただろうか。推測は出来なかったし、第一それには意味がなかった。
 いつ、とクインが視線で問うと、ライアンは僅かに眉を寄せて記憶を探すために宙を見上げた。
「お前が帝都から出て行って、すぐの新年の園遊会で。……意外か? タリア王は特殊とはいえ官吏の端だからな。カレルの供でアルードと共に王城へ行った時に、あの皇子を見た――お前かと、最初は思った」
「声をかけた?」
 いや、とライアンは首を振った。
「同じ顔と同じ声をしているが空気が違ったからな、お前ではないと思ったが……あれが他人だという方が今更驚きだな、全く。園遊会が終わって戻ってきたときに、お前ではないのだと確信した。お前であれば俺に分かるように合図を寄越すだろう、そういう奴だ」
 まあね、とクインは苦笑して頷いた。ライアンをからかう絶好の機会を見逃すはずもなかった。そうだろうとライアンもまた薄く笑った。3年前の、長くはない期間でも二人はお互いの性質を飲み込むことは終えていた。
「年齢は10才だとカレルに聞いた。お前も確か同じ年だったはずだ、あの年の秋には」
 クインは頷く。ライアンが一呼吸を置いて、最初の質問を重ねた。
「――あの皇子は、お前の、何だ」
 視線をまっすぐにあげてクインはライアンを見た。ライアンの緑色の瞳に僅かにかかった熱の影が、逸るほどに心臓を打った。
 彼が自分に興味を示すことがひどく誇らしかった。3年前にはライアンは崇拝していた少年王の死だけを見つめて生きており、彼に目線を向けることが殆どなかったからだ。3年を経てようやく勝ったような、何か取り戻したような気持ちになる。だから自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
「双子の、……多分、兄だ」
 一瞬開けてライアンが頷いた。クインがずっと放浪者であった理由をそれなりに見出したのだろう。全く予測していなかったという顔付きではなかったから、ライアンなりに推論は出来上がっていたようであった。
「多分というのは」
「どっちが兄かっていうのはもう母親でないと分からないからさ。ただ、俺の方が後宮を出されていることを思えば俺が弟なんだろうし、何かの具合で正式に皇族の列に加わることになっても俺を『兄』にはしないだろうね」
 皇位継承権が発生するとしても、場を混乱させないために弟とするのが普通であろう。だからどちらに転んでも弟である、としか言いようがないのだった。そんなことを説明すると、ライアンは深く頷いた。彼の質問はそれで終わりだった。
「では、お前の話というのを聞こう。俺と昔の話をするために戻ってきたということではないなら用件を言え。……金か?」
 クインはぴくりと頬を引きつらせながら顔を上げた。最初から焦点に分厚い鉈を下ろす辺りは直裁であった。金とライアンが総括したことで自分が情けない生き物であると念を押された気になる。
 生きていくために必要だと知っているし、それを無視して世間を渡っていけるとも思っていないが、やはり矮小感はあった。返答が鈍いことでライアンは何事かを察したらしく、更に深く頷いた。
「幾ら要る? 3年前よりは多少俺にも余裕がある、額を言え」
「……いいよ。昔のことを種にして強請るにはいい額だから」
 ライアンは苦笑し、吸いかけだった煙草を一口吸った。
「だが、金に困っているのは本当だろう。……俺は3年前にお前に礼を言った。借りは必ず清算するとも。だからその清算をしてやりたいと思っている。額をいえ、クイン。俺は今、幾ら欲しいのかと聞いている」
 クインはぎこちなく笑った。
「―――取りあえず、2万……」
 ライアンが煙管を弄る手を止めた。ゆっくり彼の整った顔が自分の方へ向けられるのを見て、クインは自棄気味に更に笑顔になってみせた。
「2万だけじゃどうにもならないから、あと2千……それと、毎月500……」
 呟く声が次第に小さくなっていくのが自分で分かった。声音が低くなるに連れてそれは暗く強張っていく。視線が下がっていってやがて完全に俯くと、黙り込んだライアンの呼吸と合って、部屋は完全に静寂となった。
「……ジルで?」
 問い返すライアンの語尾に、たちまち苦い自嘲が混じった。当然のことだったからだ。だが通貨の単位を思わず確認させたくなるほど、それは途方もない額であった。慎ましく生活するならば一人が3年間は働かずに暮らすことが出来る額だ。田舎に行けばその金額で手に入る家と門地くらいはあるだろうか。
 2万か、と呟くライアンの声が耳に入った。煙管から上る薄い煙にも気付かぬように、ライアンは無表情に俯いていた。彼が何かめまぐるしく考えている時の顔だった。
「―――1万ならすぐに……そうだな5、6日で揃えてやれるが、2万となると……」
 その後をライアンは口の中で濁した。
 1万であればすぐに出せるというのも多少豪気といえた。ライアンはチェインにたむろする行きはぐれの少年達の王だ。チェインの中に細かい派閥もあるがその全てに共通の自治律を布き、彼らからの上納金を得る代わりに彼らの行動の自由と背反時の懲罰を引き受けている。彼が現在タリア王の配下となって大人達の組織の末端に食い込んでいる以上は自治の統制と懲罰の実施は配下に委ねられているのだろうが、彼は金は持っているとクインは知っていた。
 そして、それをライアンは自分の為だけに使うわけにいかないことも。金だけでも信義だけでも、他人を動かす事は出来る。だがその二つが上手く噛み合ったときほど強いものもない。時折は彼の下にいる子供達に甘い汁を吸わせてやらなくてはならないのだ。
 そして1万というのは彼がそうした報償に取り分けて置いた分を放出する額であり、2万というならその他の全てまでもなげうたせる額だ。ライアンは金の力を知っている。知っていて彼が考え込んでいるのは、その額と自分の地盤を支えている彼らという重みの均衡点を探してくれているからだろう。
 クインはいいよ、と再び言った。ライアンに全てを援助して貰うつもりは最初から無かった。
「強請るには額が大きいって言ったろ? あんたを破産させる気はないよ」
 ライアンはちらりとクインを見た。微かに頬にかかる影の具合が彼の戸惑いを素直に教えてくれた。
「7千までならすぐに出せる。後でチアロに金を届けさせてもいい。1万であるなら1週間待ってもらえればどうにかしよう。……だが、2万は無理だ、済まないが」
「いいって。ライアンから金をむしりとるつもりは、本当にないんだ」
「……何があったか話せと言ったら答えるか? すぐに出せるといっても、何も聞かずに払ってやれる額じゃない」
 うん、とクインは唇端をゆっくりつりあげた――笑おうとした。だがそれは上手くいかない。途中で奇妙に凍えたときのようにぎこちなく固まってしまって、それ以上は動かせそうになかった。
 暫くライアンの顔を見つめたまま何かを言おうとしていると、不意にライアンが表情をゆるめてクインの頬に触れた。
「どうした」
 彼の声はいつもの通りの低さであったが、声音に籠もった温もりは確かだった。うん、と意味のない返答を喉で鳴らすと、そこが空気で震えたような気がした。
 ライアンの指が丁寧に、ひどく優しく自分の頬をなぞっている。子供を慰めるような仕種だとそう思い、思いながらクインはゆるく首を振った。ぽろぽろ涙が落ちていった。思わず目を閉じると双眸の流滴が転がる。
「どうした、大丈夫か」
 ライアンの声が優しい。宥めるような低い声が、何故だか染みてくる。クインは再び首を振り、自分を落ち着けるために何度か呼吸を整えてライアンに頷いて見せた。
「大丈夫だよ、ごめん、ちょっと……混乱してるのかも知れない……ごめん、大丈夫だから……」
 言い訳に似たような口調でクインは呟き、手で涙をこそぐように拭った。
「か―――母さんが……」
 絞り出すように呻いた言葉に、ライアンが小さく頷いた。3年前に彼を一度だけ、自宅であったアパートに泊めた事がある。だから母のことを彼は知っていた。
「かあ、さんが、……倒れて……し、死ぬ、かも……しれな……」
 死を口にするとその言葉が急に現実味を帯びて底光りした気がした。
 クインは身震いした。いつでも自分の手を引いてくれたあの温かな人がいなくなると考えるだけでも恐ろしかった。

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