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 翌日寝不足のままで中等学舎へ行くと、例の殿下は既に来ていた。挨拶代わりに微笑んでみせると、そちらも頷く。他愛なくノートの端で雑談を交わしながら2人で微笑み合っていると、級友たちの目がこちらへちらちらと向いているのが分かった。 
 皇子はその生まれと年齢の若さ故に孤独たることをある程度覚悟していたのだろう。同じ年齢の子供がいるとは思っていなかったようで、それが嬉しかったようだった。崇められる孤独というものを彼が感じているのも皇子は分かったらしかった。それは恐らく、皇子も身に覚えのあることなのだろう。 
 皇子がこの学年に編入してきたのはどうやら偶然ではなかった。皇子の孤独というものに学院が配慮し成績の良さも加味した上で、彼と競わせあるいは共同で魔導の研究にいそしませるつもりがあるのだろう。 
 彼と同じく皇子も魔導にはよく通じていた。体力の問題があって詠唱は殆ど行わないようだが、皇子はその気になれば魔導士を借り出すことが出来る。 
 殆どの科目を皇子は中級から始めるようだった。恐らく、すぐに自分に追いついてくるだろうと彼はほくそ笑んでいる。接する機会が多くなればそれだけ皇子の周辺について知る機会が増えるからだ。雑談の端々から皇子が後宮でそれなりに教育されてきたことが窺えた。 
 まるきりの他人ではない。自分たちは似すぎているし、魔導の資質は遺伝する。皇族を中心とした筆頭の貴族たちはそれが不得手ではないのだ。兄弟であることは間違いないだろうと彼は思っている。 
 問題は自分が何故今まで放り出されていなくてはならなかったのかということだ。その疑問が解けるまでは様子を見なくてはいけない。何よりも、母があれだけ怯えているのだから。 
 午前中の科目が全て終わり、昼食の時間になると再び皇子と同じ教室になった。本当に仲の良い兄妹のようによりそう自分たちを見て、全員が溜息になっている。絵になるのだろう。 
 ノートの端の雑談。本当に、何の変哲もない光景に見えているだろうか。彼は既にそれが癖になりつつある、「他人から見た自分」の検証に余念がない。ほころびがないかどうかをいつでも確かめているのは最早習性に近かった。 
 午後に入って最初の科目は運動で、これは彼は免除されている。いつものように魔導論文の続きでもと彼は図書館へ向かった。司書も心得ていて、彼の来る時間にはいつもの籍に、魔導呪文用のタイプを置いてくれているのだった。呪文用の記号は日常の言語とは全く異なる字体を使用するため、専用のタイプがある。 
 秋も少しづつ深まっており、所々に落葉が彩る中庭を彼は図書館へ急ぐ。今手に掛けている論文が当選すれば、賞金が出る。金は幾らあっても邪魔にはならないものな、と内心で皮肉に笑っていたとき、後ろから呼ぶ声が聞こえた。皇子の声だとすぐに分かった。 
「私も運動は免除で。昔から、身体が弱くてね」 
 だろうね、と彼は心で深く納得する。自分もそれほど強い方ではない。体質も似ているのだ。自分はそれでも環境で鍛えられた部分を持っているが、皇子の場合は国で最高の医師団がおくるみについている。耐性がついていないのだった。 
 図書館はいつものように司書以外は誰もいなかった。ここが学生でにぎわうのは基本的に放課後のことだ。司書は彼と皇子を認めて頷き、いつもと同じように何かあったら呼ぶようにと言い残して奥の司書室へ消えた。本の整理や管理は彼女の仕事だったし、彼がいつもここで魔導論文を書いているのを知っていたから配慮でもあろう。タイプはいつものようにいつもの場所へ置いてある。 
 彼は前回の続きをタイプに差し込み、資料を揃えて普段と同じくそれを打ち始めた。 
 静かな図書館に、彼の打つタイプの音だけが響く。必要な資料を取りに行って戻ってくると、離れた席で進級試験のための参考書を読んでいたはずの皇子が自分の打ちかけのタイプを覗き込んでいた。 
 どうしたの、と彼は皇子の肩をつつく。皇子は少し笑い、そして司書室の方を見、図書館全体を見回した。彼は曖昧に首を傾げて微笑んでみせる。資料の本を机に置こうとしたとき、皇子の声が細く言った。 
「一つ聞いてもいいかな」 
 魔導の話だろうかと彼は頷く。自分の椅子に腰掛けながら隣を勧めると、皇子は素直に従った。筆談を、と雑記用のノートを取りだしていると、その手を皇子が押しとどめた。彼は怪訝な顔で皇子を見た。皇子は苦笑していた。 
「何故、女の子の格好をしているの?」 
 ――息が、止まる。 
 彼はしばらく皇子の顔を見つめていた。指がゆるんでノートが床に落ちる。軽い音が僅かに広がった後は、静寂になった。皇子は彼と同じに美しく瑕疵のない顔でゆるく笑った。 
「女の子のふりをしているのは何故? 喋らないのはそのせいだね?」 
 微かに唇が震え出すのが分かった。 
 今、貧血で倒れてしまえば全部聞かなかったことに出来るかも知れないのに。彼はそんなことを思ったが、僥倖は訪れそうになかった。凍り付いたように身体全てが動かない。 
 彼が黙っていると、皇子は微かに、彼を宥めるように笑った。 
「誰にも喋らないと約束する。何か事情があるんだろう? 私は立場上、魔導士を借り出すこともできるし軍務と王宮に関することならどうにかなることも多い。このままでは君は、とてつもなく不幸になるよ」 
 彼はぎこちなく首を振る。皇子の最初の言葉だけがぐるぐると渦を巻きながら胸に落ちてくる。胸内の深淵にそれが沈んだとき、彼は喉をならした。身体中の血液が冷えたようだった。 
 この皇子は一体何をどこまで知っているのだろう。どこで、いつ、どうして勘付いたのか。そんな疑問と、この言葉自体が何かの罠ではないのかという疑念がせめぎあって、瞬き一つできない。 
 彼が痺れたように硬直したままで震えているのを見て、皇子はますます柔らかに笑った。多分それは自分が他人に向けていた笑顔そのままだった。自分のしてきたことを正確に打ち返されて、彼はすとんと観念する。一番深い場所に覚悟が座ってしまうと、ひどく気が抜けた。 
「……何故……」 
 皇子以外には絶対に聞こえないほどの小さな声で、彼は呻く。皇子はそうだね、と笑うと彼が取り出しかけて床に落としたままのノートを拾い上げた。 
「君の魔導論文、昨日おおまか読ませてもらった。とてもいい論文だと思う。特に新機軸といわれている時間の生成は面白かった。実に興味深い。あれを読めば誰でもそちらへ目がいくと思うけどね」 
 通常、時間というのは等しく流れていくものだ。魔導もそれを歪めることは出来ないとされる。彼の論文というのは層次元換算の数値をあらかじめ導いた上で次元軸に理論上存在するといわれている時間軸を融合させて魔導に組み込む、というものだ。 
 魔導士はおしなべて身が軽いが、これは身を軽くするための沢山の魔導の力と本人たちの鍛錬の成果で、同じ一瞬でも動作をより多くこなすことによって、常人からは驚異的に見える身体能力を生み出している。 
 彼の唱える理論は時間軸を魔導の力で調整するもので、簡単に言うなら時間を無理矢理個人の裁量で引き延ばすことが可能であるとするものだ。数字的には未知数が多いとしながらも実験の価値はあるとまとめられたそれは、魔導理論の中では数十年ぶりに出てきた新理論であった。 
「でも、あれはいくら優秀でも女の子の書く論文ではないよ」 
 皇子は呆然としたままの彼の肩を軽く叩き、魔導理論の最新の本を広げた。 
「男性と女性では詠唱可能な呪文の範囲が違うよね」 
 魔導とは音階と韻律で自然界との契約を為し、力を自分なりに組み合わせて使用するものだ。呪文は知識のないものが聞けば歌に近く聞こえるはずであり、音域の幅に関わらず一つの効果を生むための絶対音階が存在するため、男性と女性では明確に得手と不得手があった。子供でもまた少し違う。 
「――君の論文は明らかに男性向けだ。低い音が沢山出てくる。女性向けの呪文でも構成さえ変われば同じ事が出来るはずなのに、それには一言も触れていないよね。自分で使うことをまるで想定していない術者って、いるものなのかな? それに魔導の呪文を構成するときって、無意識に自分の性別に沿うものだ。本能に近い部分で、自分に出来る方を選ぶんだよ。私は最初にこの論文を見たときとても面白いと思った。そして読み返して呪文の構成を見たときに、男性向けだなと思った。でも本当は」 
 皇子は苦笑する。 
「昨日君の腕を掴んだとき、少し変だなって思った。だって、君は細くて痩せている割に腕にちゃんと筋肉がついているから……女の子の腕はもっと柔らかい。力のある女の子であるなら、もう少し大柄だ。だから君の魔導論文を読んだとき、この子は男の子じゃないのかと思った。喋らないのも、運動に出ないのも、全部それで分かった気がした。喋らないのは声が変わるからで、運動に出ないのは女の子とは明らかに記録が違うのが分かっているからだ。君は……」 
 皇子は彼が打ちかけて止まったままになっているタイプに視線をやる。彼は喘いで額を指で押さえた。 
 そこにあるのも、隠しようもなく男性向けの呪文構成であった。人は呪文の構成をするとき、誰でも自分の性別に添う。絶対音階に照らして少しでも自分の楽になるように、頭の中で詠唱しては無意識に調節しているのだ。 
「君は、徹底して男性向けの呪文しか書かないんだね」 
 彼は立ち上がる。もう駄目だ。 
 この皇子が気付いたことを他の誰かが気付かないと言う保証はどこにもない。彼の論文がひどく複雑な呪文の構成と長い詠唱と、煩雑な次元換算の知識がいることがどうやら幸いして今まで論文の理論を確かめるような実験は行われていない。 
 だが、それもいつかはやってくる。論文の筆者が女性なら、最初の実験に選定される詠唱者は女性の魔導士になるだろう。そして、それはこの疑問の露呈だ。似たような疑いを持つ人間が必ず現れる。 
 母さん。終わりだ。 
 襲撃者たちがそれを見過ごしてくれると言う甘い期待を彼は抱いていない。皇子に接近して自分の身の上を知ることも、その上で自分の選択を決めることも、全ては身の安全の確保が前提だ。自分の命と母の平穏を賭けてまで欲しい答えではなかった。 
 諦めろ。この、理性の声がするうちに。今までのように。鮮やかに。 
 彼はゆるく首を振り、それまで打っていたタイプから用紙を引き抜いた。皇子が彼を見上げた。 
「逃げるんだね」 
 皇子の声が言った。彼は皇子を見る。同じ顔の、同じ色の瞳に映るのは哀れみだった。彼は顔を歪める。憐憫など欲しくなかった。皇子もまた立ち上がった。背丈はほぼ同じくらいだった。真向かって立っていると、まるで鏡に映ったようだと彼は思った。 
「私は君が可哀相だと思った。君はこのままでは一生日の当たる場所に出ることが出来ない。公職はもちろん、まともな仕事にだって怪しい。君には沢山の才能があるはずで、それを自分でも知っていると思うのに君には何一つ、正当なものは手に入らないだろう」 
「……うる、さい」 
「そうだね。これは余計な世話というものだ。だから私は君が逃げていくことを知らないふりをしよう。君は少し気分が悪くなったから早退するんだ」 
「……あんた、」 
 彼は声を絞り出す。押し殺した声は緊張で震え、自分でもおかしいほどかすれて男らしい声に仕上がっていた。 
「俺を強請っても何も、出ない、ぜ……」 
「ああ、そんな風に喋るんだね」 
「うるさい」 
「ごめんよ。私はそんなに大ごとだと思っていなかったのかな。でも私のせいで逃げていくというのなら、謝ろう。これを」 
 皇子は自分の髪を留めていた金のピンを抜いた。さらりと瑠璃色の見事な髪が肩を覆ったように落ちた。 
「地金の純金と、ついている石は本物の紅玉だから」 
 彼は泣きそうになる。皇子は確かに善意で言っているのだ。彼の正体を暴いてやろうという気はなかったのには違いない。だから餞別を躊躇いなく受け取るには抵抗があった。 
「いらない」 
 彼は皇子の憐憫を払いのけ、図書館の出口に向かって歩き出した。数歩行って振り返り、掴んだままだった書きかけの論文を机に置く。 
「殿下の指摘してくれたことは、俺には救いだった。礼を言っておくよ。気付かなかったら間に合わなかったかも知れないから……でも、何かをしてくれるというならこの論文を、処分してくれたら嬉しい」 
 皇子は頷く。ありがとうと彼は呟き、まっすぐに出口へ、再びの迷走の中へ、流転の旅へと向かうためにその場から立ち去った。
 ……母に皇子の話は出来なかった。ただ、彼は魔導の一件を掻い摘んで説明し、未来に渡って危険の目があることだけを母に告げた。母の決断はそれまでと同じく早い。制服や鞄や本などの日常使っていた品は殆どそのままに、身の回りの最低限のものだけを鞄に詰め込んでいく。
 5年前のあの夜よりは時間に余裕があるのは確かだった。母は預けて置いた現金と宝石を引き出しに出かけていく。この戸籍ももう、使えない。この国を離れた方が良さそうだと母は言っていたし、それには彼も賛同した。他国へ紛れ込んでしまえば少しはましだろう。 夕暮れの中を女装のままで彼は母の帰ってくるのをぼんやりと待つ。駄目だと思った瞬間に諦めてしまう自分の性癖を、少しばかり悲しいと思いながら。 
 彼は張り出し窓にもたれながら、次第に暗くなってくる路地を見つめる。 ―――裏町の少年王を決めるための勝負はそろそろ刻限のはずだ。本当ならどこかで自分はそれを見物していただろうに。 奴に教えてやろうか。そんな考えが彼の脳裏に浮かんでくるのを沈め、沈めてはまた発見し、それを繰り返して彼は溜息になった。鏡に映る自分はやはり女装姿、これから先の町々でもこんな事に繰り返しになるのだろう。 
(このままでは君は、とてつもなく不幸になるよ) 
 皇子の言いたいことは分かる。どんなに親しくても自分自身を全て預ける相手を持てなければ、それは不幸だ。他人の好意という海の中で、信頼が掴めなくて溺れ死ぬ。 彼はまた溜息になる。あの男に話した以上の秘密を抱え込んでしまったとはいえ、彼にとっては男こそが信頼を預けた相手といえるのかも知れなかった。多量に結果論的なものを含んではいても、自分の秘密を見せたのは事実だ。 
 男は……死ぬだろうか。どちらでもいいと言うような投げやりさだった男の態度を思い返すにつけ、そうなるだろうという確信が上がってくる。男の一番の従者だった少年も、そうなれば生きていられないかも知れない。少年たちは徒党を組んで相争うことに血道を上げており、人を殺すことなど少しも躊躇わない。男の寵臣であった者たちは揃って死を迎えるだろう。残酷で激しい死を。 
 彼は顔を歪める。 裏町での日々は楽しかった。彼にとっていつか再び会いたいと思う相手がいるとすればあの連中だ。学院の級友たちでも、優しい皇子でもない。還る場所をみすみす失うのか、俺は。 窓の外は、次第に濃い夕闇。彼は目をすがめる。藍色の空に消えていく、日の名残…… 
 彼は跳ねるように背を起こした。飛ぶようにアパートの螺旋階段を駆け下り、表へ飛び出す。間に合うだろうか。男に怒りと、決闘の相手に対する憎悪を呼び、ひいては勝利を確約する魔法を、彼は知っているのだった。 
 裏町の根城へ近付いていくと、通りは静かだった。不気味なほどの静寂が汚い町並みに沈殿している。いつもここを通って男の根城へ行くとき感じた刺さるような視線もない。全員が息を潜めて成り行きを待っているのだ。 彼は男が根城にしていた古い屋敷へ駆け込む。丁度顔見知りの少年が、廊下を歩いてくるのが見えた。 
「あれ、どうしたんだよ? 出入り禁止って言われたんじゃなかったっけ?」 
 不思議そうな少年に構わず、彼は男の足取りを聞く。回答だけを頭に叩き込んで、来たときと同じくらい迅速に、全力で駆け出した。背後で少年がどうしたんだよと叫んでいるが、子細を話している時間も、少年に構っている時間もなかった。 少年に教えられた道筋を駆けていくと、やがて見慣れた背中が見えた。男の名を呼びながら彼は男を追う。振り返ってくれないのは男が無視を決め込んでいるからだ。畜生、と顔を歪めるが、それは苦笑に似ていた。 
「もう来るなと言ったはずだ」 
 男の声は僅かに低い。彼は少し笑って苦しい呼吸を整えるために膝に手を当てた。その脇を男がすり抜けていく。慌てて前に回り込むと、男が心底つまらなそうな顔をした。 
「もう来るな」 
「分かってるよ」 
 男は眉を寄せる。分かっているものかという言葉が出る前に、彼は自分の切り札を示す。――即ち、少年王の死の真相を。 
 男の反応は顕著だった。僅かな時間の呆然を抜けると、そこにあったのは全てを焼き尽くすような怒りだった。肌は夕暮れの中でも分かるほど青白い。怒りのあまりに青ざめているのだ。 彼は男の端整な顔立ちを見つめる。今まで彼が接してきた無気力感や厭世観などは剥げ落ちて、男の煮える憎悪が青白い燐光になる気さえした。背が冷える。圧倒的な威圧の前に、彼は暫くそれを見つめていた。 
 男は目を閉じる。何か呟いたが分からない。喉が干上がったように痛くて、どうしたのかは聞けなかった。男は笑っているようだった。嬉しくてたまらないというように喉を鳴らし、それが声になって溢れてくるまで幾らもなかった。真実男は歓喜している。自分の手で、崇拝していた少年王の敵を殺し、八つ裂き、死と、死より深い苦痛を与えることが出来るのだと狂喜しているのだ。 
「礼を言う」 
 男が笑いながら言った。彼の秘密の替わりに俺の勝つところを見せてやろうとも言い、陶然と笑っている。出入り禁止も同時に解かれた。男は自分の勝利を信じている。彼が男の元にこれからも通うことが出来るということは、男がこの決闘に勝つということであった。 
 彼は寂しく笑った。欲しかったものが手にはいるのに、それを棄てて行かなくてはいけないから。けれど、それはいつかまたこの街に足を踏み入れても良いのだという希望にすげ替えようと思いながら彼は淡々と、転居することを伝えた。 もう家に帰らなくてはいけない時間だった。母もそろそろ戻ってくる。自分が家にいなければそれは心配するだろうから。 
「そうか、だが、何かあって俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ。借りは必ず清算する」 
 男の言葉が沁みるほど、嬉しかった。 
「また、いつかね」 
 それを言えるということも、何より貴重だった。 
「俺、あんたたちといて楽しかった。本当に、楽しかった。とても」 
 彼は言って、手を差し出した。握り返された手のぬくみ。それが手から消えない内に彼は背を返し、未練と過去となるべきものから走り去った。 
 ―――男の名はライアン・ロゥ。 彼の人生の中において、避けては通れない共棲者であり罪の理解者であり、最大の敵と最良の下僕の全てを兼ねる男、……いずれ。 



 そしてそれから3年を、流浪しながら彼はほぼ平穏に過ごす。簡単な魔導を施した硝子玉や母の手刺繍などを売りながら旅を歩き、その時の売り物によって性別を適当に振り替えた。 
 背が伸び、声が低くなってもそれは続いた。魔導の修練を続けていた彼は声音を使うことが難しくなかった。襟の詰まった服を着て薄化粧をして微笑みながら男相手に飾り釦を、化粧を落としてすらりとした体格のままに人懐こく笑いながら女相手に小物を売っていくことが、彼は決して嫌いでなかった。 
 永遠にこんな日々が続くと思っていたのは幼い証拠なのだろうか。 母が倒れたとき、彼はそんなことを思った。
 夜の闇がざわめいている。祝祭の日はこんなそぞろな空気が帝都ザクリアのどこへ行っても感じられた。
 6月は祭事が多い。シタルキア皇国は大海を挟んで二つに分かれた両大陸の内の北側、北部大陸の中でもやや北よりに位置する国だ。夏の始まりはその年の眩しく希望に満ちた季節の幕開けでもあったから、自然そうした行事の先駆けが増えたのだろう。
 この日は皇帝の誕生日であった。帝都のいたる箇所で振舞酒が出、宮城から続く大路には国旗がはためき、灯火が明るく享楽を謳歌している。帝都中が浮ついた雰囲気と手を取りあって軽やかに踊っているようだ。
 大路から伸びる主幹路にはぎっしりと縁日屋台が立ち、呼び込みをする威勢の良い声が溢れ、それでなくても雑踏を行き交う人々の朗らかな笑顔が充満している。
 シタルキアの治世は民草に関わる範囲では上手く回っていた。これは為政者の功績ではなく、機構の手柄である。皇帝リシャーク3世は際だった辣腕でも呆れるような暗愚でもなく、既に完成された立憲君主制度を踏み外すことなく歩いており、また、歩き終えるだろうと言われていた。
 宮廷へ入ればそれなりに主導権の引き合いなどもなくはない。だがそれも2大公家の専任であり、膠着とも陰険な和解ともいえる状態が続いていて、安定している。
 世の中は平和で、これからもそれが続いていく。それを信じ切っているからこそ、祝祭の日にはこうして沢山の人々が休日と愉楽を楽しむことが出来ているのだ。
 華やかな音楽。どこかで鳴らされる爆竹。笑い声。
 母親の手を離れて子供が一人、屋台の方へ駆け寄っていく。並ぶ駄菓子に目をきらきらさせていた子供は、ふと顔を上げた。どうしたの、と母親が聞く。
「お母さん、誰かいるみたい?」
 子供が指さす路地は、大通りから漏れる明かりで多少は奥まで見える。はっきりしない人影のようなものが確かにあるから、誰かがいるという子供の指摘は正しい。だが、母親は顔をしかめた。
「人様を見るんじゃありません――行くわよ、お父さんと待ち合わせでしょ? 何か美味しいものでも食べましょうね」
 母は子供の手を引いてそそくさと立ち去る。客を逃がした屋台主の男が路地を振り返り、影に目をすがめ、溜息をついた。
「どうしたい」
 隣で蜜氷を売る店主の言葉に、男はふん、と鼻を鳴らした。
「全く、やるなら余所でやれってんだ」
 顎をしゃくる仕種につられて覗き込んだ側も、闇に目が慣れると同時に苦笑した。
「追っぱらちまえよ、営業妨害だってな――おい!」
 路地の奥を怒鳴りつけると蠢いていた影がふと動きを止めた。一瞬の躊躇を置いて、ずるり、と影が更に路地の奥へ光の射さない場所へ移動する。
「――もう、やめて、よ……」
 引きずられて呻いた少年の肌を直接まさぐりながら、男は低く、少年にしか聞こえないような小さな声で笑う。
「向こうからは見えないぜ――なぁ、幾らでも出すって言ってンだろ?」
「身体、触るだけって、最初に言ったろ……お前となんか誰がやるかよ」
「ふ、ん……男娼のくせに……」
 違う、と少年は否定し、男の肩を押しのけようとする。だがその抵抗は弱く、男は薄く笑いながら少年の顎を捉えて自分の方を向かせた。ここが暗い路地で残念だと呟く。もっと明るい場所か貸し部屋あたりなら、この顔をゆっくり拝めるのに。
 薄暗い闇の中でも、それはくっきりとした美貌であった。冴え冴えと輝く青い瞳に、どこまでも完璧で繊細な顔立ち。自分の愛撫にゆるくこたえて喘いだ唇の可憐さ、淫蕩さ。全てが夢の中から抜け出てきたような美しさだ。
 どこか危うい足取りで歩いていたのを捕まえたのは幸運だった。路地へ連れ込んで金を握らせると、戸惑ったような沈黙と共に抵抗がゆるんだ。身体を触るだけだからと口説き、それだけにしては少し多めの額を懐に押し込めて男は少年へ戯れる。少しづつ熱を付帯させながら。
「もう、やだ……よ、やめてよ……」
 身をよじろうとするのを男は片手で難なく押さえ込み、再び顔を自分の方へ向けさせた。
「お前、キスは幾らだ」
 形の良い唇が吐息に微かに湿り気を帯びているのがたまらなく扇情的で蠱惑的だ。
「そんなもん、売らない……」
 言いかけた少年の手に、男は硬貨を落とす。金属の鳴り音がかちりといった。少年がいらない、と突き返そうとする手を無理矢理こじ開けて、降り注ぐように硬貨を押しつける。
 少年は俯いた。自分の手に落ちる金額に、この話を突き放すかどうかを考えているのだ。……考えている、ということが分かれば十分だった。
「もっとか? 幾ら欲しい」
「――いや……」
 力無く首を振る仕種で、肩を過ぎた辺りの長さの髪がゆらゆら揺れる。そこからちらちら覗く白いものは少年の肌の色だ。年齢の若さゆえのなめらかさに男は喉を鳴らす。
 男は素早く金を握らせ、少年の喉顎を捉えて唇を押しあてる。少年は微かに身じろぎしたが、男を振りきるほど強く抵抗しようとはしなかった。
 すべらかな肌と同じように、やわやわとした唇の感触は素晴らしく美味だった。髪に手を差し入れ、かき回しながら男は貪るようにそれを味わう。角度を変えて何度も繰り返すと、少年が息苦しく喘いだ。
 ゆるく開いた唇から強引に舌を口腔へ押し込む。少年の身体が一瞬跳ねる。無理矢理押さえ込む。首を振ろうとするのをしっかり顎を掴んで阻止する。逃げ回る舌を追いかけ回していると、突然強烈な痛みが唇にした。
 男は反射的に身体を離す。一瞬の間をおいて、じんわりと鉄の匂いが口に広がった。噛まれたのだ。
「やめろ、って、言ったろ……」
 苦しそうな呼吸のままで少年が吐き捨てた。男は頬にかあっと血が昇るのを感じた。狩人は自分で、獲物がこの少年だったはずだ。逆ではなかった。不意をつかれた衝撃が、怒りに変わる。
「お前……!」
 振り上げた手が、容赦なく美しい顔に降り落ちる。少年が悲鳴をあげてよろめき、ずるずると座り込んだ。
 男はその腕を掴む。どこでもいい、転がり込める暗がりへ行って懲罰を与えてやろう、そんなことを思いながら男が少年を引きずろうとしたとき、路地の向こう側からどうした、という声が聞こえた。
「おい、あんまり乱暴はいけねぇぞ!」
 男は舌打ちをする。少年がさっと顔を上げ、助けを求める声を出した。路地を抜ければそこは縁日の人の海だ。男は顔を歪め、一瞬の躊躇いの後にそこから走り去る。
 少年は身体を起こした。殴られた箇所がしびれるように痛んだ。手を当てるとぴりりと痛みが走る。少年は顔を歪め、自分の手に残った金を見つめた。
 握りしめると硬貨のこすれ合う音がした。少年は腕を振り上げ、……そのまま力無く下ろした。投げつけるはずだった硬貨の替わりに零れていったのは幽かな嗚咽だった。殆ど一瞬と言える短い間、少年は涙を形の良い指で押さえ、ゆるゆる溜息をついた。
 吐息が唇を撫でると、先ほどまでの男の感触が蘇ってきて、吐きそうになる。男がかき回して乱れた髪を手で簡単に整え、少年はよろよろ立ち上がった。
 路地から大通りに出ると、そこにいた屋台の主が振り返った。
「おう、無事だったか、兄ちゃ……」
 店主の言葉が止まる。少年は凍えたような顔をどうにか動かして、微笑んでみせる。自分の顔立ちには昔から絶対の自信があった。誰であれ、微笑みを向けて買えない同情などなかったのだ。
「ありがとう。助かりました」
 かすれた声で呟くと、店主は頷く。隣で蜜氷をさばいていた男も振り返り、彼の尋常でない美貌に目を奪われて沈黙した。
「……災難、だったな」
 ぼんやりした声に少年は僅かに頷く。売り物の筈の氷を男は手早く麻袋に入れて少年に放り投げた。
「頬、冷やした方がいい。せっかくの美形なのに台無しだ」
 ははは、と作ったように明るい声を上げて笑う男に、駄菓子屋の店主も弾かれたように倣った。
「まぁ、そこ、座んなよ……あんた、どこの子だい? この辺じゃちょっと見かけない顔だね」
「この辺じゃなくてもなかなか拝めない顔だよなぁ」
「違げぇねえ」
 笑い合う2人の男に少年は困ったように笑い、もらった氷袋を自分の頬にあてた。屋台の後ろへ座り込む。仕種の鈍重さから、少年が衰弱しているのが分かった店主がやはり売り物の中から蜂蜜飴をつまんで少年に握らせる。ぺこりと会釈をして少年はそれを口に放り込んだ。
「さっきのは何だったんだい、兄ちゃん」
「……路地を歩いてたら、いきなり腕を掴まれて……」
 ふうん、と商店主たちは少年を見、懐から覗く10ジル紙幣を見た。男娼にしては慣れていないことこの上ない。恐らく、あれは男が無理矢理押し込んだのだろうと推測して苦笑になった。何かがあったときに「こいつだって金を受け取った」と主張するための所作だ。
 無理もなかろうと彼らは目を合わせて頷き合う。
 濡れたように輝く漆黒の髪によく映える白い肌、そこに配置された宝玉のような瑠璃色の瞳。一瞬目を疑うような造形美。端麗というにはあまりに言葉が足りない。一度見たら忘れ得ぬ、そんな美貌であった。年齢は14、5というあたりだろうか。目を伏せると少女めいた儚さが、視線を向ければ少年特有の透明さが視界に入ってくる。誰であれ、この美貌を目にすればもっと触れたいと望むだろう。その相手が悪いとああいうことになるのだった。
「少し息が落ち着いたら、ちゃんと人の通りがある道を選んで帰りなよ。あんた、なんだか頼りなさげだから変なのにつけ込まれるんだからな」
 触れなば落ちん、という表現を思い出すほどに。
 少年は僅かに頷き、頬にあてていた氷袋を返した。撲たれた箇所の腫れはそうひどくなかった。指でつついて僅かに顔をしかめているが、耐えられない痛みではなさそうだ。大丈夫かいと声を掛けてみると、案の定少年は頷いた。
「氷、ありがとう、ございました……」
 声はまだかすれている。蜜氷の店主はああ、と頷いた。
 少年は彼らに軽く会釈をすると、再び歩き出した――暗がりの、薄闇の彼方へ。
 慌てて店主たちは声を掛けようとした。今忠告してやったばかりなのに、聞いていなかったのだろうか。だが、少年が振り返るほうが早かった。
「ありがとうございました。俺のことは気にしないで下さい。俺は人に酔うので、人混みはどうして歩けないんです……」
 そうしてもう一度、深く頭を下げると少年は背を向けた。
 2人は顔を見合わせて同時に肩をすくめた。半ばは呆れたのかもしれない。だが、長い時間少年の行く先へ思いを馳せることは出来なかった。6月は祝祭日が多いとはいえ、今日の祭りは既に終幕へ向かっている。稼ぎ時も、あとわずかだった。
 少年はぼんやりした感覚の中を歩いていた。足をすすめる度に脳天から何かが抜けていきそうな、そんな頼りない眩暈がする。原因は分かっている。単に貧血なのだ。
 人通りの多い場所へ、という屋台の店主たちの言葉の正しさは理解していた。そんなことは、言われるまでもなく分かっている。だが、どうしても人通りの多い場所は嫌だ。とても怖いから。
 人混みに酔う訳ではない。他人の目が怖いからだ。いつ、誰がどこで自分を見ているか、分からないから。
 彼は物心ついたときから追われる者であり、3年前からは逃亡者だった。母と2人でこの国を離れ、生活の道もどうにか見つかり、2人で支え合って生きていけるとそう思っていたのに。
 甘いのだ、という自嘲を彼は自分の中で何度聞いただろう。自分は甘い。詰めが甘く、予測が甘い。同じ轍は二度と踏むまいと思う側から現実は怒濤のようにやってきて、少年をいつも翻弄した。
 ――溜息が、漏れる。母が何を考えていたのか分からない。ただ、自分を守ろうとしたその意志だけを信じている。だから、母の守護に返すのはやはり守護だ。自分の力で今度は母親を守り抜かなくてはならない。
 そう思うとその困難な道に彼は顔を歪めざるを得ない。金。金さえ、あれば……――
 それを思うことだけでは何も進まないことを承知の上で、考えてしまうのは何故だろう。こんな事、一つも自分の前進に役立たないのに、もし、とか例えば、という冠詞のついた夢想がひどく心地よくて逃げ込んでしまいそうだ。
 胸がきりきりと痛んで、彼は自分の胸倉を思わず縋るように掴んだ。ぐしゃりという紙の潰れる音がして、そこに押し込まれた10ジル札のことを思い出す。口の中が急激に苦くなってきて、唾を吐いた。
 路地には人手を見越して集まってきた娼婦たちや男娼たちがうろついている。彼はそれに間違えられたのだった。少しの嫌悪と金の重みを図りかねているうちに更に奥へ連れ込まれて悪戯された。それは初めての経験ではなかった。完璧な美貌とも、完全な麗玉ともいうべき彼の容貌は沢山の光と濃い影を呼んだ。それをいつでも鼻で笑い、強かに頬を打ち、時には急所を蹴り上げるなり罵倒するなりで寄せ付けなかった過去が、遙かに遠いことのような気がした。
 彼は、片手で顔の半分を覆う。突き放せなかったのではなく、そうしなかった。端金とも言うべき額を押し込まれて、それに迷い迷いながらも抵抗を放棄した。屈服したのだ。怒りは自分に向けたものであり、苛立ちは今の事情へ向かうものであった。
 彼は襟の隙間から札を抜き出し、握りしめていた硬貨と合わせて額を数える。小銭は額面がバラバラだったが、全部合わせると18ジルになった。
 18、と彼は暗澹とした気分になる。身体中を取り巻いている絶望感や疲弊感と引き換えにしたのが、この額。一晩の安い宿を探すのさえ困難な金と自分の矜持を引き換えにしたのかと思うと目が眩みそうだ。悔しくて。
 彼はそれを暫く見つめていたが、やがてゆるく頭を振った。どんな手段で手に入れたとしても金は金だと呟いてみる。自分に刷り込む作業はそう上手くはいきそうになかったが、いつまでも拘泥しているわけにもいかなかった。
 人通りの少ない広路へ出て、彼は自分の来た方向を振り返った。夜の闇に煌々と月が落ちたように、遙か遠い場所が真白く光っているのが見える。今日は祝祭の日、きっと更に遅くまでそこは光の溢れる場所なのだろう。歩いてきた距離を思い、彼はぼんやりと光を見つめた。
 朝の鐘が帝都に鳴ると、城塞都市ザクリアの城壁門が開く。すると前夜の閉門に間に合わずにその場で屯していた旅人達が帝都の中へ消え、城壁の中からも旅立つ人々が流れ出てくる。人の流れに添うようにしてザクリアへ入ったとき、自分は何を考えていただろうか。
 母の安否か。それともこれから先のことか。否、底をついた所持金のことだったろうか。実際ここ3日ほどはまともなものは口に出来ていなかった。水だけは街道沿いの村や都市の井戸を使うことが出来たが、その他には金がかかる。
 それまでも節制ばかりだったから、元から豊かと言えなかった体力は目に見えて落ちていき、それに伴って視野が狭まっていくのが自分で分かった。未来のことや将来のことなどよりも、その日の食事の方が気にかかるのだ。
 それでも自分は還ってきた―――最も古い血を誇る皇帝の下繁栄と豊穣を遍く享受する都、美しく整えられ拡張を繰り返してきた歴史と文明の息づく都、そして彼自身の血の根元の回答が秘められている都、
 ―――シタルキア皇国、帝都ザクリアへ。
 そして、これからいくべき場所も決まっている。それは3年前に彼の秘密を見抜いた上で力になろうといってくれた優しい皇子の下ではなく、勿論世話になった学校の関係者でもない。
 ザクリアの暗部、国家の闇と快楽を引き受ける赤い格子の町、タリアへ―――
 まだ奴は生きているだろうかと彼は目を閉じる。面影は3年前で止まっている。
(何かあって俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ。借りは必ず清算する)
 この言葉に縋りたいのは自分だ。奴は覚えているだろうか。自分が一時保護していた子供のことを。言質といえる言葉を与えたことを。生きて、覚えていてくれるだろうか……
 もし男が既に世を去っているのなら、自分はとんでもなく間違っていたことになる。だが、他に頼っていく人間を思いつかなかったのだ。
 生きていてくれ。そう願う自分の思いが全く利己主義から発しているのを承知の上で、彼は強く念じた。
 どうか、お願いだから。希望と呼ぶには余りにか細い糸を切らないで。
 そんなことを強く祈り、そして彼は固まったような頬で無理矢理笑おうとした。殴られた跡が引きつって痛んだ。そしてその後は? 奴が生きていて、再会した後は……
 頬が歪んだのと同時にそこが激しく痛みを訴えた。だが彼はそこに手をやらない。彼の手は、自分の胸の前で祈りをするときのように組まれたまま、微かに震えている。
 本当にこれしかないのかは母を連れて海を渡る間中、ずっと考えていた。きらめく波間の美しい水影を睨み据えながら、ずっとずっと、考え続けた。
 自分たちに頼れる身内は存在しない。追っ手のことも怖い。帝都から逃げ出したときに持っていた現金も宝石類も、殆ど使い果たしてしまった。
 皇子の下へはいけない。そこへ顔を出すことは藪蛇になる。襲撃者達の雇い主に、自分の帝都への帰還をわざわざ教えてやることは愚かというものだ。いっそ魔導士となって魔導の塔に身売りしようかとも思ったが、国家の奴隷となることは即ち母に会えなくなるということだ。
 だが金は必要だ。それも早急に、莫大な額が。
 彼は唇をやわく噛む。まるきりの八方塞がりというわけではないのだ。道はある。ただ、それにどれだけの覚悟がいるのかというだけの話だった。……胸が痛む。
 母さん。
 母さん、俺は間違っているのだろうか? でもこの場合は正しい答えなど何の価値もないんだ。要するに結果なんだ。自分を折る相手は自分で選ぶ。それが俺の結論だから……
 だが、それでも泣きたくなる。屠所に引かれる羊の心境というのはこうしたものかもしれなかった。神妙に項垂れて目線だけをあげながら、落ちつきなく周囲を見回している受刑者のようなものだ。
 そしてどれもこれも、あの男が生きていなければ水泡になって消えていく夢のようなものでしかない。生きていてくれ、と願うこの言葉があまりに切羽詰まっているのが自分でも悲しかった。
 タリアは帝都ザクリアの中心から南西に下った辺りに位置する。城壁門は北と西の2ヶ所にあり、彼は西の門をくぐって帝都に入った。一日歩き詰めてどうやら皇宮から続く大路に出た。距離に直してようやく半分に足らないほどというべきだろうか。
 彼は痛む足をじっと見下ろす。半ば機械的に足を動かしてきたが、もうこの辺りが限界というものだった。18ジルで宿を探すとなると、安宿の集中するあたりまで行かなくてはならないが、それはタリアの近辺だった。食事をしてもいいが、今夜の安全を確保することと一体どちらが大切だろうか。
 そんなことを考えていると、視界の端に馬車が見えた。彼はそれを見つめる。御者の方も彼に気付き、近く寄ってきた。
「乗るかい、兄ちゃん?」
 首を振りかけて、彼はふと思う。この金でタリアまで行くというのも悪くなかった。タリアについた挙げ句に自分の望みが叶わなければ、それはその時考えても良い。空腹と疲労は思考力を奪い、刹那的な未来しか考えられなくなる。彼はとにかく疲れていたし、動けなくなる寸前であった。
「……タリアまで、いくら?」 
 御者はなんだ、という顔をした。先ほどの男と同じように彼を男娼だと思ったのだろう。
「25」
 ぶっきらぼうに返してきた。25、と彼は繰り返して呟く。手の中で彼の全財産がこすれあい、音を立てた。
「乗らないのかい?」
 せかすような調子で御者が言った。彼はゆるく首を振る。御者は彼の様子がしおらしかったのを哀れに思ったのだろう。幾ら持ってる、と聞いた。
「今、これしか……」
 彼は自分の手を広げる。御者が唸る。彼は半ば祈るような気持ちで御者を見上げ、彼の行く先を照らすランプの近くへ出た。目があって、御者が微かに息を呑んだ気配がした。彼は縋り付く顔をする。今は誇りだの矜持だのと理屈を並べるときではなかった。
 やがて溜息がした。
「……いいだろう、乗りなよ。今日はお祭りだからまけといてやるさ」
 彼は頷く。金を全部御者に渡すと馬車へ乗り込む。一瞬の間をおいて走り出した馬車の出立を祝砲するように、どこか遠くで爆竹の音が聞こえた。
 しばらく馬車の中で、彼はまどろんでいた。訳の分からない色味と暗闇が混じり合って、ひどく気疲れした。御者が彼を揺すって到着を告げたとき、目覚めは明らかに安堵だった。
 去っていく馬車の轍の音をぼんやり耳に拾いながら、彼は赤く塗られた柱を見上げた。その柱から先の町は、今までの青黒い石の町とは明らかに違っていた。
 びっしりと通りを埋め尽くす赤い格子。華やかな音楽が微かに聞こえ、猥雑なさざめきと女達の嬌声、そして甘い化粧の香りが満ち満ちている。決して狭くはない道の両側に焚かれる篝火が朱塗りに金泥の模様の店棚に照り映えて、通りごと燃えるような色に染めている。
 懐かしく、変わらぬ光景であった。3年前に帝都から逃げ出す前と、何一つ変わっていない。人の欲望を満たすための町は、欲望の本質が変わらないことには変化などないのだろう。
 彼はその中へふらふらと足を入れていく。振り返る人々の、強烈に突き刺さってくる視線が肌に痛かった。彼は娼家の赤い格子にはめられた飾り硝子をちらりと見る。
 黒い髪は魔導の効果だ。本来の髪の色を変えることは出来ないが、幻術という形で違う色に見せることは出来る。染め粉を買えなくなってからはずっと魔導の力だった。
ただ、魔導による幻術で姿を変えても魔導禁止結界に触れるとか、施術時の体温と著しく離れたとかですぐに効果がなくなる。だから一番確実なのは今でも染め粉を使った上で傘を持つこと、なのだった。
 髪の色がまだ気になる辺り、自分も3年でそう変わったわけでもないな、と彼は自嘲する。男に殴りつけられた顔は押さえるとまだ痛んだが、青くなってはいなかったから痣にはならないだろうが、それにしても頬の痛む箇所の痕跡が目立った。
 人の視線はこれだろうかと思いながら、彼は路地へ入っていく。3年前の秋の日に、毎日のように通った道も変わらない。どこもかしこも昔のままに薄汚れた町並みだった。
 細い路地に入っても、暫くは安い娼家や貸し部屋などが並び、やがて更に怪しげな雰囲気を漂わせる店が続き、それがぱったりなくなると今度は非合法のものばかりを扱う闇の市場になる。市場といっても店があるわけではない。たむろしている男達が大抵仲介屋で、欲しいものを告げれば元締めの所へ連れていくという段取りだった。
 そうした路地を抜けた先に、チェインはある。少年達が巣くう、タリアで最も危険な場所の一つだ。
 昔出入りしていた屋敷はトリュウムと呼ばれていた。チェインの中程にある、大きな石のアパートだ。馬車の中で少しまどろんだせいで、足取りは以前よりは少しましだった。どうにかトリュウムの黒々した影姿が目に入るようになって、彼はほっと息を吐く。男が生きているか否かという賭はともかく、ここへ辿り着いた旅路の終焉が見えて、少し楽な気分になった。
 トリュウムに近付いていくと、門のところで雑談に興じていた少年達が顔を上げ、彼を認めて一斉に凄む目つきになった。明確な味方か明らかな身内でないときに身構える彼らの反応がやはり同じで、彼は思わずゆるく唇で笑う。自分たちに対する嘲弄だと思ったのか、一番身体の大きな少年が何がおかしいのだと低い声で聞いた。
「あんまり無遠慮だと知らねぇぞ」
 ああ、と彼は微笑みながら頷く。変わっていない。ここの少年たちの気質は昔のままだ。余所者を嫌い、自分たちと違う境遇の子供を憎しむ。彼がそんなことを思っていると、急に胸倉が掴まれた。抵抗する体力は殆ど残っていない。彼はそのまま引き寄せられ、咳き込んだ。
「随分楽しそうだな、お前、酔っぱらってんのか? それとも――」
「ねぇ」
 彼はその言葉の終わるのを待たずに呟く。
「あんたたちの頭って、まだ、ライアン?」
 一瞬の沈黙の後、不意に空気が戸惑いへ変わった。
 そうか。彼は破顔する。
 生きているのだ、彼を保護し彼に居場所をくれると約束したあの男は。少年達の戸惑いと、その眷属である沈黙は彼らが支配者の機嫌を損ねやしないかと考えている証拠だ。
「……ライアンに何の用だ」
 掴まれていた部分が急に楽になって、彼は呼吸を整える。自分の周りを少年達がぐるりと囲んだ。彼は薄く笑いながら、俺は奴に話があるんだと言った。少年達がお互いに視線を交わし合いながら、口にしない会話をした。
「―― お前には会う資格がない。俺達は何も聞いていないし、お前がライアンの知り合いだという証拠もないからな」
 そう言われて彼はゆるく首を振った。腰のベルトに繋いであった漢氏竜の煙草入れを抜き出して、彼らに見えるように掲げる。
「ライアンから貰った。3年前だ。……信じなくてもいいけど、もし俺が本当にライアンの知り合いで、ライアンが俺にいつでも訪ねて来いとこれを寄越したのも本当だったらあんた達、ただじゃ済まないんじゃない?」
 この恫喝は効いた。僅かなざわめきがして、少年達は沈黙へ還った。先ほどの大柄な少年が取り巻きの一人に何かを言いつける。暫くにらみ合っていると、やがて軽い足音が聞こえた。
 彼はそちらをちらりと見る。自分を取り囲む少年達の姿に隠れて顔はよく分からないが、飛び抜けて背が高い。ライアンではないのがすぐに分かった。彼の記憶の中にあるライアンの背格好とは似ていなかったし、3年前ライアンは既に外的成長は終えた年齢だった。
 少年達が割れる。ある程度を束ねている幹部と言うところだろうかと彼は顔を上げてまじまじと相手を見つめ、……そして首をかしげた。面差しを知っている。すぐに分からないのは余りに成長が著しくて、一瞬目を疑うほどだからだ。
「……チアロ?」
 呟いた自分の声に触発されるように、相手の顔がぱっと明るくなった。
「クイン!」
 久しぶりに呼ばれた名前に彼は微かに震える。最後にその名を呼ばれたのは一体いつのことだったろうか。抱きついてきた身体は温かで、背を抱き返しながら、彼はうん、と頷いた。
「ああ、久しぶりだな、クイン、お前元気? なぁ、今までどこで何を? ライアンもお前のこと懐かしがってさぁ、あ、ライアンに会うだろ? 今ちょっと忙しいけど、お前が戻ってきたって言ったら飛んでくるよ! ライアンには俺から連絡するからさ、ライアン今王屋敷の方にいるから、多分ね、でもすぐには無理かもしれないけど、会いたいだろ? 懐かしいなぁ、なぁ、本当に何年ぶりだっけ?」
 3年だよ、とクインはゆるく笑った。3年前このチェインに出入りしていた頃、ライアンの弟分としていつもその側にいた子供だったチアロは、子供を脱して既に少年から大人への階段に足をかけようとしていた。少い日の年月は余りに多くのものを変える。
「知り合いですか」
 チアロの後ろから先ほどの少年が声を掛けた。チアロは振り返り、軽く頷いてみせる。
「お前ら、余計なことはしなかっただろうな」
 クインは微かに眉をあげる。この3年でチアロの身に加わったものは、どうやら背丈だけではなさそうだった。今でも明るく人好きのする性質は変わっていないが、それと同時に、他人を従える威圧感のようなものを備えつつある。少年達に下す言葉の一つ一つが小気味よいほどはっきりしていた。
 少年達を手で追い払い、チアロは彼の顔を覗き込んでくる。何、と聞き返すとチアロは自分の頬を軽く指で叩いた。ああ、とクインは苦笑になり、そしてまだ痛むそこに片頬を引きつらせた。
「何でもないよ。ちょっと揉めて殴られただけだから……それより、ライアンは……」
 言いかけた言葉を、チアロが手で制した。そうした仕種の中にも、チアロが少年達の上に立つ身である空気があった。
「ライアンは少し、忙しいんだ。もちろんお前が帰ってきたことを知らせるけど、いつとは約束できない。配慮はしてくれると思うけど……ああ、立ち話なんかするもんじゃないな。食事は? もしまだなら、近くに軽く飲み食い出来る所があるけど」
 クインは一瞬返答につまる。馬車代で所持金は使い果たしてしまい、無一文だった。彼が返答を躊躇った僅かな時間は、チアロの気安い、朗らかな声ですぐにかき消された。
「久しぶりの再会なんだから、俺がおごるよ――さ、行こう」
 明るく笑ったチアロの顔が、クインの視界で歪んだ。
 ライアンの生存。チアロとの再会。希望が潰えていなかったことに対する安堵。ようやく呼ばれた自分の名。帰ってきた、自分の巣。
 それがないまぜになって喉からこみ上がってくる。チアロがそれに素知らぬ顔をしてくれるのが嬉しかった。
  祝祭を鮮やかに彩る光の花が夜空に咲いた。火薬は貴重品だが、それを一瞬の見物に費やすことが出来ることこそを奢侈と呼び、富貴という。こうして自分たちが贅沢を享受できるのも安定した宮廷と安泰な国家の成せるものだと思いながら、皇子はそれを見上げた。弟のはしゃいだ声がする。
「母上、ほら、また違うのがあがりました! すごいなぁ」
 皇子はちらりと視線を隣へ座る同母弟の皇子へ向けた。母親譲りの菫色の髪が、花火の明るく刹那的な光の下でなめらかに輝いている。父の誕生日の園遊会は晴天であれば城の広大な中庭で行うのが慣例であった。
 弟を挟んで母がゆったりと座り、更にその隣に父が居る。両親は祝辞を受け取るので忙しいが、自分や弟はまださほど構われなかった。
「ライン、母上はお客様のお相手で忙しいのだから煩わすのでないよ」
 弟の手を軽くたしなめるように叩くと、弟はぺろりと舌を出して笑った。屈託ない笑顔、明るくて人懐こい性質、そんなものをこの弟はきっと父親から譲り受けたに相違ない。外見は母によく似ているが、中身は父とそっくりだ。――だから、だろうか。
 皇子は微かに目を伏せる。自分もまた、母と似ている。表面ではなく、内面が。神経が細く、苛立ちやすく、そしてそれを口に出せない性質が。母も自分も絶対に口にしないだろうが、お互いに似過ぎたせいで、2人きりになると妙に気まずい。親子だからという括りを取り除いてしまえば単に気が合わないで済むことも、母と子であるから複雑であった。
 母であるイリーナ正妃は明らかに弟を溺愛しており、愛情の取り分の比率だというようにか、彼には弟に対するような関心を持たなかった。
 もちろん親子であるから普段の生活の中で情愛を感じないことはない。母は自分を理解するように努めようとしているし、彼の生来の病弱さを気に掛け、それと引き換えにしたような聡明さを喜んで沢山の教師をつけてくれた。
 ただ、と皇子は花火を見上げながら思う。
 そうやって母と離れて過ごした時間の長さが、きっと今のぎこちなさの原因なのだろうな、と。
 教師たちが皇子を褒め称えると母はとても喜んでくれた。だから努力もしたし、そもそも皇子にとっては勉強などはとても簡単な事に思われた。道ばたの花を手折るほどのことにしか思えなかった。
 それに勉学というものはどんなに複雑でも煩雑でも、そこには必ず答えがある。明確な回答がある。本当に分からなくて難しいのは他人だ。母とはいえそれは他人、他人のことは分からない。
 そっと皇子が溜息を落とすと、兄上、と小さな声がした。弟が少し心配そうな顔つきで彼を見上げている。
「どこか具合でも? 僕、お部屋までお送りしましょうか?」
 いや、と彼は微笑む。弟を愛しているのは母だけではなく、それは自分も同じ事であった。ラインという4才年下の弟の一番良いところは、こうして何の見返りや算段などもなく他人に優しく振る舞えるところだろう。意識して出来る年齢ではないから、これが本質なのだ。
 愛されやすい気質というものがある。それは確かに弟に宿り、自分には欠けているものなのかもしれなかった。
 3年前から通っている中央中等学院でも皇子は完全に周囲から浮き上がっていた。自分はどうやら近寄りがたいらしい。そう級友を邪険にしているつもりはないのだが、他人とつき合うのが苦手なのだ。
 成績は飛び抜けており、身分と、そして級友と呼ぶべき同学年の在籍者達が自分よりも5,6才は年上な事もあって皇子は大抵一人だった。
 そして自分を遠巻きにする級友達に囲まれて、彼は時折「彼女」のことを思い出した。正確に言うならば、少女に擬態して中等へ通ってきていた、あの少年のことを。
 彼が何を考えていたのかは分からないが、彼は自分の顔立ちの麗しさと、飛び抜けて年少であることを上手く利用して立場を作っていた。共に過ごしたというほどの時間さえ共有できなかったが、彼の意図したことは分かる。年齢と成績と美貌が揃うことで孤立するなら、崇められる孤独を選んだ者の微笑みだった。
 彼とならば少しは共感を持てただろうという感慨は、年月を経るごとに深くなっていった。彼もまた、孤独を知っていたから。
 それはよく分かる。「彼女」が突然学院から去ったとき、驚愕と疑問の嵐が通り過ぎていったが、それはまさしく一過性のものだった。2ヶ月もすると、そんな少女などいなかったように級友達の環は閉じた。幻のような少女だったという言い方を皆がした。
 いつでも微笑みを絶やさずに、誰に対しても誠実で優しい。誰とも上手くやっている―――それは誰にも都合が良かったということだ。
 人は自分の都合で生きているが、友人は友人なりの、教師は教師なりの都合がある。他人である以上、それを受け入れろと押しつけてくる。級友たちもそうだったろう。「彼女」に対して聡明で大人しい美少女の役を与えて、そこから逸脱することは歓迎しなかったに違いないし、何を言っても微笑む「彼女」はある面、確かに好都合なのだ。
 「彼女」がよく告白を受けていたと後に聞いたが、その理由も分かる。美しく聡明な少女が自分の言うことを否定せずにいちいち頷いてくれる、その満足感はどれだけだろう。自分を全肯定してもらえることほど、心地の良いこともないだろうから。
 そして友人や教師の、全員の望みが一致することなどあるはずがない。だが、現実「彼女」はみなとうまくやっているように見えた。誰ともうまくやっていて、そして誰とも特別親しくなかった。誰にとっても都合の良い少女ではあったが、それ以上ではなかった。
 それを虚しいと思っていなかったはずはないだろうと皇子は思う。それが分からないというような鈍感さは持ち合わせていなかったように思われた。
 あの子は、と皇子はその面影を目の裏に描こうとしてみるが上手くいかなかった。非常に整った顔立ちであったことは覚えているのだが、何故か記憶が薄い。級友達も似たようなことを言っていたから、これは恐らく印象の問題なのだろう。
 だから「彼女」は幻になってしまったのだ。本当にそこにいたのかどうか分からないような、曖昧な存在感しか残さなかったから。
 皇子とてそれは同じだった。「彼女」のことは、曖昧な色のような印象でしか記憶に残っていない。
 だから彼と話した時の記憶は鮮明で、輪郭もくっきりと鮮烈だった。あれが彼の本質なのだ。
 動揺して青ざめた後、自分を強請っても何も出ないと呟いた声。いつか彼が少年であることが露見する可能性があると分かった瞬間の、諦めの早さと見切りの鋭さ。逃げていくのだと悟った皇子が差し出した餞別を撥ねつけた潔癖さときつさ。
 彼とだったら、少しは話が出来たかも知れない。皇子はそんなことを思う。
 自分の疑問を優先させてしまった幼さを今更後悔しても取り返せないが、孤独を知る者同士の共通が自分たちを結んでくれただろうか。
 もう一度会いたい。皇子は時々、そんなことを考えている。今度は少年として生きている、素の彼に会いたいものだ。
 あの時彼が処分してくれと言った魔導論文は、先に賞を取った時間の生成に冠する魔導理論の発展と展開だった。
 論旨を大まか記憶し、皇子はそれを自分で書き直して提出した。「彼女」の論文の抜けた部分や補足の足らなかった部分を説明し、半ば引き継いだような皇子のその論文は、やはり賞を取った。
 去年その検証実験が行われたが、呪文構成は皇子の論文に基づいて書かれたため、術者の魔導士は男性であった。「彼女」の足跡を消すことが出来て、皇子は真実、彼との約束を果たしたような気になった。賞金は使わずに残してある。会えたら渡してやりたかったから。
 皇子はいつしか、「彼女」と似たような場所にいた。
 飛び抜けて若く、魔導に才能があり計算に強く、虚弱な体質のせいで運動を休み、他人を寄せ付けない空気をまとって教室に座っている―――
 「彼女」と自分は同じなのだ。
 「彼女」として生きていた少年が中庸の孤独を選んだように、皇子は孤高であることを選んだ。いずれにしろ、級友と呼ばれる者たちと話が合うとも思えない。
 ラインだったら、と皇子は思う。この弟であればそんなことはないだろう。きっと友人という輪の中に入って楽しく明るく生活を始めるに違いない。
 第4皇子という生まれなど感じさせないような気安さと、身分高く大切に育てられた者特有のまっすぐな愛らしさ、屈託なく他人を信じる人の良さがある。
 自分にはとても出来そうにないけれど、と皇子は内心で苦笑し、まだ心配そうにしている弟の肩を叩いた。
「大丈夫だよ、ライン。……向こうで雑技が始まるから見に行こうか。私たちがここにいてもすることもないしね」
 弟はこっくりと頷き、母にそこを離れる旨を告げて立ち上がる。その手を引いてやりながら皇子はまだ続いている花火を見上げた。
 彼は今どこで何をしているだろう。
 逃亡生活を続けているのだろうか、まだ少女として生きているのだろうか。だが、それは彼のためにはならないはずだ。いずれ大きな齟齬が生まれるだろうし、そうでなくても秘密が多いと呼吸をするのも苦しい。
 だが、彼が今を幸福だと感じていればそれでもいいことかもしれなかった。
 また会えるかどうかは分からない。魔導士を使って足取りを追ってもいいしそれは不可能なことではなかったが、皇子はそれをする気はないのだった。

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