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5.月の下で

 しゅっという空気の音にカノンは背後へ跳躍した。銀の線が一瞬後に自分の残像を斬る。微かにあがってきた相手の呼吸を聞きながら、カノンは繰り出された切っ先を待ってぎりぎりのところで身をかわし、行き過ぎて僅かにたたらを踏む子供のうなじを指で軽く突いた。
「これで15回目のご薨去です、殿下」
 ふっと振り返った子供は照れくさそうに笑い、カノンから離れて大きく深呼吸をした。
「やっぱり駄目だね、まだ全然足りない」
 そんな事を言う口調に淡い悔しさや苦笑めいたものは浮かんでいても、激しさはない。自分の力量の不足についてこの皇子はよく知っているようだし、今の時点でまったくカノンにかなわないことを当然と受け止めているようだった。
「どうなさいます、もう少しお相手いたしましょうか」
 カノンが言うと、皇子は多少考えるような時間をおいてから首をかしげた。
「お前は? 僕はいいけど、お前の方は仕事はいいの?」
「これも仕事でございますよ」
 カノンは仮面の下で淡く微笑みながら言った。軽く咳払いする。
 この1月ほど、カノンはタリアから離れて魔導の塔にあった。変声期という時機に相当する魔導士はあまり仕事には従事しない。魔導が結局人の声を媒介として力を引き出し効果を組み合わせるものである以上、声変わりする頃には何もかもが辛いのだ。
 その期間は役目を特免されて魔導の塔に籠もり、師匠の魔導士について研究の助手などを務めるのが普通である。カノンも例外ではなく、こうして塔に戻って声が落ち着くまでは待機ということになろう。
 カノンの返答に皇子は軽く声を立てて笑った。第1正妃イリーナとよく似た面差しは愛らしく整っていて、やや紫のかかった深い青の髪と同色の瞳が朗らかに人なつこい。それがシタルキア皇国のライン・アミネス第4皇子であった。
 母妃が溺愛するという話は小半時ほどですぐに納得が出来た。第1皇子であるリュース・クインはおとなしく控えめで万事ひっそりしているが、こちらは明朗さと嫌味ない甘え方を持っている。これほど素直になつかれると、なるほど愛しいものなのだ。
 ライン皇子にどうやら剣士としての類い希な才能があることは2、3年前から次第に明らかになってきており、既に成人前の子供たちは相手にならない。近衛騎士と混ぜてみても遜色がなかった。無論体力や腕力の問題があるからまったく対等というわけにはいかないが、あと3年もすれば公式の剣試合で実はかなりよいところまでゆけるのではないだろうかと言われている。公式試合は色を付けた剣を使う得点制だから、技術をより試されるのだ。
 息子の才能を誰よりも喜んでいるのは母親であるイリーナ皇妃で、近衛に預け、そこでも頭角を現す気配を知ると、今度は更なる鍛錬の為に魔導士を要請した。魔導士は魔導の力を借りて時間をより多くの区切りとして掴むことが出来る故に、一般の人間からみえば驚異的な身の軽さを誇っている。
 その役目がカノンに回ってきたのは彼が現在待機期間中であることも理由の端に噛んでいるが、何よりもその第1皇子の護衛魔導士マルエスの推薦が大きい。カノンが以前からタリアの赴任に心浮かないことを知っていて、未だに護衛魔導士を持っていない皇子の相手役ということで相性を見るようにと魔導士の管理をひきうけている塔の長老会に進言してくれたのだ。
 その言葉のおかげで、とりあえず変声期の待機期間はライン皇子の側にいる事が出来そうであった。塔や魔導の研究会で会えたら一言礼を言いたかったが、マルエスはリュース皇子の用事とやらで多忙を極めており、対面する機会が未だに無かった。
 ではあと少し、とライン皇子が言った。この冬に11歳になるはずの少年であったが、皆が口を揃えて言うように確かに筋がよく、本人も熱心だ。強くなること自体が面白いのだろう。皇子が剣を構えて最初の距離を取る。カノンはどうぞ、と言った。
 皇子が軽く呼吸を切って低く駆け出す。皇子が横に払った模擬剣をふわりと飛んでかわすと着点を見定めていたように彼の胴を狙い、正確に剣がはしった。
 カノンは模擬剣の中程を押さえるように足で蹴り、皇子の脇へ回る。均衡を崩した皇子がそれでも受け身をとりながら鮮やかに回転し、勢いのまま素早く立ち上がった。
 カノンは彼の突きを軽くかわし、するりと皇子の背後に回る。と、皇子はそれに会わせるようにかかとでくるりと体を入れ替えた。軸にならなかった右足で剣練所の石床を蹴り、カノンの羽織る魔導士の長衣めがけて突っ込んでくる。絹一枚というあたりでそれを避けながら、カノンは人々の言う皇子の才能というものをつくづくと思い知った気分だった。
 本気かと問われると微妙だが、決していい加減に相手をしているわけではない。なのにほんの1刻前にはまるで届く気配さえなかった皇子の剣が、次第に自分に近いところをかすめるようになってきている。飲み込みの早さと勘の良さ、そして殆ど驚異的というべきはその反射神経なのだろう。
 魔導士とまともに戦うことが出来るならば国内一級の戦士であると結論してもいいが、カノンはそんな相手を数人しか知らない。……そしてそのうちの一人が現タリア王アルードであることは決して偶然などではないのだった。
 斜めに切り下ろした剣の軌跡をくぐってカノンは皇子の正面へ潜り込む。皇子はほぼ真横に飛んでそれをさけ、着地の反動を利用して逆にカノンの胴横に剣を滑らせた。鋭い一撃をカノンは軽く飛びかわし、皇子の背中側へ降りる。皇子の反転は早い。その動作の機敏さだけでも、恐らく本当にこの子供は強くなると確信が出来た。
「殿下、こちらへ!」
 カノンは軽く手を挙げる。もっと打ち込んでこいという言葉に皇子は小さく頷き、剣を繰り出した。剣を振り回すというような大味さは微塵もない。手首も強そうだ。腕から肩にかけての筋肉を使う基礎の部分と、手首の角度で剣を操る小手先の技術の両方を、皇子は均衡良く使っている。
 皇子の一撃をひらりとくぐって体を返したとき、別の魔導の匂いがした。魔導を身に帯びる者が近くにいると、身体能力の補助や向上のために自らに施している魔導の波長が空気を歪めて伝わってくるからすぐに分かる。魔導の塔には現在120名ほどの魔導士がいるが個々によって波長は違うから、知人であるなら判別が出来た。
 カノンは打ち込まれてきた皇子の剣にすれ違い、その首筋を軽く叩いた。
「───16回目です、殿下」
 勝敗を宣言するとライン皇子はそうだね、と屈託無く笑った。
「やっぱりまだ追いつけないなあ……カノン、だっけね。もうしばらくは来てくれるんでしょう?」
 この相手役が暫定であることは知らされているのだろう、ライン皇子はそんなことを言った。カノンは頷き、でも本当に筋がおよろしくて驚きましたと付け加えた。
「……いずれ私の方も自分を鍛錬しておきましょう。が、殿下、お迎えですよ」
 ライン皇子の手から練習用の模擬剣を受け取りながら、カノンは魔導の気配の方を振り返った。あ、と皇子が明るい声になる。手を挙げて勢いよく振りながら、兄上と叫んだ。
「兄上! 兄上、いらしてたんですか?」
 剣練所を見下ろす観覧席の中程にぽつんと座っていた人影が立ち上がり、ゆっくりした歩調で階段を降りた。簡単に観覧席と剣練所を区切る鉄格子の腰高柵越しに、ラインと呼ぶ。兄の元へ走り出す、跳ねるような歩調の軽やかさにカノンはそっと仮面の下で微笑み、模擬剣をその場において歩き始めた。
 同母の兄弟は頬を寄せ合うようにして密やかに何かを言い合ったり笑いあったりしていた。その様子は少女たちがじゃれつくような、甘やかな秘匿を描く一枚絵のようによく空間に収まっている。二人とも繊細な面差しと高貴を感じる空気を、皮膚の一部のようにごく自然に身に帯びていた。
 カノンはそっと近づき、ライン皇子の背後へ膝をついた。リュース皇子がちらりとカノンを見た気配がした。大仰にならぬようにしながら頭を下げる。兄の視線に気付いたのだろう、ライン皇子はカノンというんです、と朗らかな声音で彼を紹介した。
「魔導の塔から来てくれて。……ええ、そう、全然かないません。剣、当たりそうで当たらないんだもの」
 自分の言葉にくすくすライン皇子は笑った。カノンが皇子の集中力を持続させる為に、わざと回避の瞬間をぎりぎりまで待っていることは分かっていたらしい。
 弟の言葉に淡く微笑んだリュース皇子は相変わらず、確かに辺りを圧倒し気配を染め変えるほどの美貌の主であった。嫌味なく明朗で素直という美徳に恵まれたライン皇子の持つ、温かで人なつこい空気とは違い、この兄皇子の方にはひんやりと他人を距離をとる、夜の空気がある。類い希な美貌であることは確かだったが、それは線の細い人形のような脆さと繊細さから無縁ではなかった。
「カノンと言ったね。ラインを宜しく頼むよ」
 弟の頬を軽く指で撫でてやりながら、リュース皇子が言った。御意のままに、とカノンは更に頭を下げる。リュース皇子は頷き、弟皇子に向かって切り上げを促した。太陽の熱が既に弱い。黄昏が近いのだろう。
 皇子二人が何事かを話しながら遠くなっていく。カノンは膝をついたままで十分に遠ざかるのを待ち、立ち上がった。模擬剣を詰め所へ返してから魔導の塔へ戻らなくてはならない。タリアにいない時にはそこが彼の戻る巣であった。
 魔導の塔の魔導士たちには基本的には個室が与えられる。魔導士となるまではその師匠の部屋住となって資格を取るまでは出ることを許されないが、魔導士の試験に通ればあとは比較的、個人の生活は自由だ。
 カノンは自室に入って鍵をまわす。そして大きく呼吸をして仮面を取り、束ねて頭巾へ押し込んである髪の戒めを解いた。黒い髪がふくらむように流れ落ちてくる。カノンは首を振ってそれを軽く払いのけ、仮面を机においた。瞼の上から目を押さえる。
 魔導士の仮面は個人情報の秘匿を目的にして作られていて、魔導士の試験に通った時に師匠から贈られるものだ。大抵は師匠が周辺の気配や風景を直接脳髄に送り込むための魔導を施しているから、目で物は見なくとも直視しているのと同じ程度に現実を知覚することが出来た。白銀のなめらかな表面の額には階級を示す紋様が描かれ、内側にはカノンという名が彫られている。
 カノンか、と少年は苦笑した。その名は魔導士としての名前であって、本名は別に存在しているはずであった。けれど、カノンはもうそれを思い出せない。鏡をちらりと見れば、あの第一皇子にうり二つとはいえないが十分に似通ったものを見いだせる、端正で美しい面輪がそこにある。
 父親と一緒にいた頃、父が自分を連れ歩く先々で少女と間違えられたり、近所の女たちが自分を可愛いとほめそやしたり、そんなことがたくさんあった。年齢は確か、───確か、今、15か6だったはずだ。この魔導の塔に連れてこられた時が6歳だった気がする。
 但し、カノンの記憶は既に涙の向こうの景色のように歪んでぼんやりした色彩の塊になりはてている。自分の本名も、年齢も、住んでいた場所も、何もかもを生活に追われていく内に忘れてしまった。これは子供の頃に塔に連れてこられた魔導士にはさほど珍しい現象ではないらしいから、気に病んだことはない。
 それに、ほんのいくつか覚えていることもあった。
 たとえば、自分に母親がいなかったこと。確か……多分、最初から、いなかった。
 父親がいて、とても優しくて背の高い人で、その父に連れられて色々な土地へ行った気がする。父は時折何かに怯えたように自分を抱いて、自分の名前を呼んでいた───もう忘れてしまった、その名前を。
 お前には大変な運命を与えてしまった。けれど自分に正しく、人に優しく、そして世界に正直に生きていきなさい。いつかお前に私とお前の母親のことを話さなくてはならない。それは私と彼女の罪の話でもあるが、けれど、お前をこの世に生み出した真実を私はきっと話すはずだから───
 父の言葉の抑揚や優しい声音は見つかるのに、そこに語られているはずの自分の名前が良く聞こえない。カノンは鏡の中で気難しく眉根を寄せている自分と目を合わせながら、じっくりと胸の中の記憶をまさぐり出そうとした。
 途端、目の前に火花が見えた。はっとカノンは顔を上げる。これ以上はどうやら禁戒に触れるようだった。    
 魔導士に科せられた禁戒は、実はたった3つしかない。
 素顔を含む全ての個人情報は秘匿されること、たとえ何であっても主人の命令には従うこと、そして長老会の決定に服すること。この3つだけが魔導士を縛る。どこからどこまでを不服従とするのかの境界線は常に曖昧に推移しているが、禁戒に触れればそれはすなわち死であった。法文には「処分」と記される。魔導士は物と同じであるのだ。
 そして自分の過去はどうやら自分でも知ってはならないようだった。それに対する疑問は自分でも驚くほど小さかった。何がどうしたところで、自分の現実と未来が変化するわけではない。
 カノンは魔導というものに対して馴染みが早かった。魔導の塔に来てから4年で魔導士たる資格を得たが、これは魔導の塔の記録に残るほどのものだ。どんな呪文でも構成でも、泉が湧くようにどこかから彼の中にわき上がってきた。
 それが才能なのだと師は嬉しそうであったが、その師ももういない。カノンが資格を取った翌年に南大陸の雄であるフィアラーズ帝国へ出向を受け、出先で事変に巻き込まれて処分されたのだ。カノンを天才だと喜んでくれた師の死は辛かったが、その後に拝受した辞令はタリア王の側近としてのタリア出向であった。
 正直、カノンはタリア出向を喜んだことがない。魔導士を要請するのにも莫大な金額や資格や推薦がいるが、その代価を支払った主人には文字通り命をかけて忠節を尽くす義務がある。魔導士たちの間で一番希望が高いのは皇族の護衛だが、これが恐らく最も安寧に余命を保つことの出来る仕事であった。そしてタリア王の手足となるならば対極といってもいいだろう。
 タリアには抗争が多い。タリア王の交代のときはもちろんだが、そうでなくても各派閥や末端の支配領域の諍いなどは珍しくなく、自然沢山の危険を身近にしなくてはならなかった。主人の命を全うできないと魔導の塔に報告されれば処分、そして服命を拒否しても処分、だからおとなしくタリアへ行くしかなかった。
 タリア王アルードが今のところ子供である自分に多少気遣いを見せているのか、命じられる仕事が困難すぎることがないから助かっているが、もしタリア王の交代が囁かれるようになれば、今のように安穏としていることは出来ないだろう。
 将来的にタリア王を狙うことの出来る位置にあるのが、今はライアンという男一人だから暗殺でも命じてくれればいいのにと思わなくはない。正直、やり遂げる自信はある。接近戦では苦労するだろうが、そもそも魔導で身体の能力をそいでもいいし、炎で焼き払ってもいい。
 けれど、アルードは命じようとはしなかった。実際そのライアンを至極便利に使っているのだから、今はまだ価値があると思っているのだろう。主人の思惑に口を挟むことは禁戒ではなかったが歓迎はされなかった。だからカノンは黙っている。わざわざ仕事を作ってし損じることがあれば、それは自分の生命に直接関わる危機となる可能性があるからだ。
 カノンは微かに溜息をついた。魔導士として生命をまっとうしていくことは難しいことではなかった。彼は物事の飲み込みも理解も人より早かったし、魔導に関しては飛び抜けて優秀であることは自負している。
 多分、長らえれば史上最年少で長老会へ入るだろう。いくつか掛け持っている魔導の研究会のどこでも、彼は同志たちから感心と賞賛を受け取っている。
 けれど、その先に一体何があるのかカノンは上手く捕らえることが出来なかった。一体自分が何処から来て何処へ流れていくのか、うすぼやけた過去と不鮮明な未来しか思い描けないときには、そんなことをぼんやり思う。父や幼い頃の記憶が曖昧であることも、きっとそれに拍車をかけているのだろう。
 カノンがそんな根拠のない推論に一人頷いていると、自室の扉がこつこつと叩かれた。扉を開けずに返事をすると、外からの声が言った。
「魔導士カノン、在室か」
 聞き覚えのない声だが、呼び出しは魔導の塔専属の奴隷と決まっている。あちらが敬語を使わないのは、自分たちの方が奴隷よりも更に下層の身分に位するからだ。
「今、装束を解いています。何用ですか」
 扉に近く立って言うと、外の声が長老会の呼び出しを告げた。先日出しておいた転任の申請に対する回答が出たのだろう。辞令は同時期に申請をした魔導士たちとまとめて伝達が行われる。
 髪をまとめて色が見えないように頭巾へ押し込み、仮面をつけてカノンは外へ出た。外には既に呼び出しの奴隷はいなかった。伝令が済んだことで自分の他の仕事へ戻ったのだろう。
 呼び出された議事廷には既に長老会の構成員である上級魔導士たちは見あたらなかった。他の魔導士の影もまばらで、支度をしている間に終わってしまったらしい。人数が少ない時はそんなこともある。
 だが、カノンは自分を待っていたらしい年長の魔導士にすぐに気付いた。さきほどもリュース皇子の側に、姿は隠遁させていたものの随従していたことは分かっていた。魔導士ならば魔導士の気配をすぐに感じ取る。
「同志カノン、来たか」
 マルエスがゆらりと身体を彼に向けた。
「同志マルエス、お久しぶりです。先ほどは挨拶もせず」
 マルエスはうむ、と頷いた。彼の年齢はもちろん分からないが、階級としても魔導士としての経年もカノンの先達というべきであった。治癒に関わる魔導の研究会で同席する以外にはあまり見かけないが、マルエスの場合は主人であるリュース皇子自身が魔導に良く通じていることもあって、皇子の相談役としても努めているようだから忙しいのだろう。
「我も隠遁していたおりゆえ、構わない。それより、長老会からの裁定を預かっている」
 マルエスが差し出した文書を受け取り、カノンは巻き留められていた紐をほどく。たらりと下がった辞令書には、長老会全員の魔導印と長老会決定の朱印が押してあった。
『同志カノンの申請について長老会で検討した結論は以下である。却下』
 カノンは長い溜息になった。変声期の待機期間が終わり次第、再びタリアへ戻らなくてはならない。落胆したカノンの肩を、マルエスが慰めるように叩いた。
「気落ちするな、同志カノン。同志がタリアで暗殺と諜報だけをさせておくにはあまりにも惜しい人材である旨、いずれ折を見て我から殿下へ申しあげよう」
 マルエスの言う殿下というのは、彼の仕えるリュース皇子であろう。カノンは頷き、ありがとうございますと呟いた。マルエスはいや、と仮面の下でそっと笑ったようであった。
「それに、ライン皇子の護衛役は決定していない。……良い方だろう?」
「ええ、とても。何というのか、育ちがよいというのはああいうことなのですね」
 他人を疑ったり憎んだりすることを知らないような、明るい無邪気さが眩しい。人である以上は幼いながらも様々な感慨は胸にあるだろうが、他人にそれを気取らせないのが自然であった。
 マルエスは頷いたが、それ以上を口にしなかった。進言しても受け入れるかどうかはリュース皇子の判断一つであり、またリュース皇子からの要請があったとしても長老会が否決すればかなわないことである以上、これから先は不確定な事柄ばかりだ。
「まだしばらくはタリアへ行かなくてもよいだろう。ならば、ライン殿下のお相手をつつがなくやりとげることだ」
 マルエスの言葉に頷いて、カノンは辞令書をきゅっと握りしめた。あの赤い格子の迷路の奥に自分にとっての何かがあるとは、彼は到底信じることが出来なかった。
 リィザは黒く広がる自分の髪の海からのろのろと身を起こした。百合の造花の花弁が撲たれた拍子に散ってしまったらしい。白い布地の破片が黒髪の中の小舟のように落ちている。折角の花だったのに──
 ふと浮かんできた涙を指で押さえ、リィザはぴくりと肩をひきつらせる。指の触れた箇所が鈍く痛んだ。
「ごめんね……」
 誰へ向かうでもない謝罪を呟きながらばらばらに解かれてしまった花をかき集める。うてなの辺りへ縫いつければ元に戻らないだろうかとしばらく花弁をあれこれあててみるが、途中からちぎれてしまったものはともかく、根から外れてしまったものはどうにもなりそうになかった。
 リィザは掌に安い綿地の花を握りしめる。爪の裏が淡く痺れて、その痛みで涙がまた上がってくる。唇をきゅっと結んでしばらく耐えていたものの、やがて唇の方から弛んで嗚咽になった。
 何故殴る男に出会うのか、ということについては自分のせいだ。怯えがちな性格や臆病な気質はそれを煽るためのものであって、原因ではない。女将も、そして他の姐妓たちも口を揃えて言うことは、殴る男はどの遊女にも同じような確率で潜んでいて、ただその札を表にしやすい相手としにくい相手がいるということだ。
 狩られる子鹿、あるいはか弱い雛鳥。保護欲をそれで見いだす男もいる替わり、弱いというだけで荒く翻弄したいと舌なめずりする男もいる。そういうことなのだろう。でも、だったら、どうしたらいいの……どうしたら、どうしたらどうしたら!
 ふっと胸の中に湧いてきた一瞬の激しさにリィザは自分で怯えた。そんなことを思ってはいけない。自分以外の全てのせいにしてはいけない。この妓楼で一番実入りが少なくて、時折強かに顔を打たれてはしばらく店に出られないなどということを繰り返しているのだから、原因は必ず自分の中にある。
 客が殴る理由は様々だ。曰く、歓待が悪い。もっとはっきりものを言え。苛々する──けれど一番辛いのはそんな罵倒ではなく、暴力でもない。笑え、という言葉が一番胸を痛くする。
 それが特に、命令ではない、優しい声であったりした時は。
(少しは笑ってくれないか)
 自分の頬に片手をおいて額同士を触れ合わせながら彼が言った時、どうして微笑むくらいが出来なかったのだろう。優しくされて、丁寧に扱われて、なのに何故、唇をほころばせることくらいが出来なかったのか。
 一所懸命にそうしようと頬を動かしていると、遂に彼は苦笑した。いいんだと言われた瞬間、絶望のような薄い黒雲が胸の中に広がっていくのが分かった。それがひどく安堵と似ていたことが更に沈鬱な気持ちにさせる。
 リィザはゆるく首を振り、造花を掴んで立ち上がった。まだ打たれた側の耳奥がにぶく反響を繰り返しているような気がするが、部屋の片づけなどもしなくてはいけない。
 天窓を見上げればそこには半分に足りないほどの月とゆるゆる流れていく雲、そして仄かに赤く光る硝子板があった。タリアの闇は妓楼が表に焚いていた篝火を一斉に落とすため、意外なほど青い。だからまだ早い時間といえた。
 リィザは造花を自分の衣装棚の奥へしまい、化粧台の鏡を見やった。殴られた箇所は少し赤くなっているが、痕跡が残るほど酷い物ではなさそうだった。少し冷やせばすぐに元のような肌に戻るだろう。ぼってりした腫れはあるが、口の中に血の臭いはしなかった。
 散らかった割れ物を拾っていると、女将からの呼び出しがあった。どうやら先ほどの客は女将にひとしきりの苦情を言ったらしい。いつも女将がぼんやりと煙草をしている応接間へ行くと、来たね、と苦い顔をした。
「さて、同じ事を何度言ったらいいのやらだね、お前には」
 呆れ半分の言葉には、明らかに次第に加算されていく苛立ちが滲んでいる。リィザは身を縮め、項垂れた。謝罪は既にその度に呟き続けていて、口にすることさえ躊躇われるほどだ。だから殆ど言うべき事はない。じっと俯いて、女将の諭すような声音を聞いている。
「怖がっていても仕方ないのは分かるだろう? 何がそんなに怖いんだ、暴力、それとも他人? 何だっていいけどお前だけがこんなにしょっちゅう酷い目に遭うんだから、もう少し何とかおし」
 リィザは黙ったままでこくりとする。女将の言うことは尤もで、反論など出来る余地がなかった。女将はやれやれと呟きながら煙草に火を入れ、深く一服している。女将の胸内を完全に知っているわけではないが、リィザばかりが酷く手痛い目に遭うことを商売ぬきで案じてくれていることは分かっている。───少なくとも、そんな気配がする。
「全ての男が優しくて人格者だったらこんな商売はあがったりだけどね、しかし全員が酷い男でもない。大体は、人の中に割合の多少で両方あるもんさ」
 リィザはまた頷く。女将の言葉は分かりやすく、よく胸に通った。通るゆえに重いこともある。頷きこそすれ、返答は出来なかった。
「好きな男を作れ……と無理には言わないけど」
 じいっとリィザの様子を見ていたらしい女将は煙草の煙を溜息に混ぜて吐き出した。
「でもね、もうちょっと客に愛想良くして気に入って貰わなきゃ、本当のところはお前が一番辛いはずだよ」
 それも良く理解できる言葉ではあった。リィザは小さくはいと答えた。誰も苦痛を代理にすることは出来ない。リィザの苦役を解消するのはリィザ本人しかいないのだ。だのに、それをどうしていいのかが分からない。今のままでは良くないことだけが分かる。
 それ以上をリィザが返答しないことに女将はゆるゆると首を振り、煙管の火を小皿で切った。
「……あんまり気を張りすぎても良くはないんだろうけど。そうだね、もうちょっとゆったり構えてご覧。それだけで大分違うはずだから」
「はい……あの、努力します」
 女将はその言葉に何故か哀れんだような笑みを浮かべ、そうねと曖昧に頷いた。どうしたのだろうとリィザが口を開こうとした時、部屋の扉が叩かれて小間使いが顔を出した。
「母さん、あの、リーナ姉さんにお客さんが」
 ぴくっと肩が動いたのが自分で分かった。今諭されたばかりなのに、反射的に竦んでしまう。怖いのだ。結局のところ、殴る男でなくたって、全ては暴力なのだから。
 リィザの様子をちらっと見た女将が、煙管を勢いよく灰切り皿に打って立ち上がった。顎をつまんでさっと顔立ちの様子を確認し、大丈夫だねと頷く。
「部屋は大丈夫? そう、ならいいね。……旦那様をリーナの部屋へご案内」
 小間使いに指示をして、女将はリィザに自分の化粧箱を取ってくるように言った。女将の部屋からそれを持って帰ってくると、リィザを隣に座らせて化粧を手早く始める。慣れた手つきの確かな魔法はあっという間に鏡の中の少女を一段美しくしていく。
「お前の馴染みの旦那様はそれでもまだ少しはましだ、せめて機嫌良く可愛くして、優しくして貰いな」
 丁度その時リィザは瞼を薄く掃き始めた色粉筆のために目を閉じる。頷くことも首を振ることもしなくていい仕草に逃げ込んでいるのだ、という胸の中の呟きは小さくない。けれどそれに耳を貸してしまえば溜め込んできた澱みのような黒い物が流れ出してしまう気がして、それを無視している。
 やがて女将の手が紅筆をとって唇に色を差し始めた。これで返答さえしなくていい。唇を這うむず痒さ、紅特有のぬらりとした匂い、芸術品を仕上げるかのような潜めた息づかいの女将の気配。
 それらが急に遠くなってリィザが目を開けると、女将は化粧小物を箱へしまいはじめていた。リィザはぺこりと頭を下げて部屋を出る。裏廊下を通って自室へ入る裏戸をくぐると、見慣れた背があった。振り返り、軽く頷く目線が柔らかに微笑んでいる。殴る客に接した後だからなのか、今日はそれが特別温かな安心感となって胸底から溢れてくるようだ。
 リィザは何かの予感の為に思わず目を伏せる。それはやはり正しくて、制御できない涙がその途端にぽろぽろと流れ落ちたのが分かった。狭い部屋の寝台にもたれていたディーは黙ってリィザの腕を掴み、ゆっくりひきよせる。彼の筋肉の厚みと温度にますますリィザは彼の肩に顔を押しつけ、ひたすらに啜り泣いた。
「大丈夫だ、大丈夫、大丈夫……」
 呟く彼の声音の低い落ち着きにリィザは何度も頷く。人肌の温度を残しているほうの手が何度も自分の髪を撫でつけてくれるのが、気力の抜けるような安堵に変わって、次第にリィザの体の中に根を張り始めるのが分かった。
「どうした、辛かったか」
 気遣ってくれる声にリィザは曖昧に首を振り、ようやく止まり始めていた涙を指先で払って顔を上げた。
「ごめんなさい、あの、大丈夫です……ごめんなさい……」
 他の客の話は禁忌であったから理由を口にすることは出来ないが、ディーの方は何があったのかを薄々は察していたらしい。いや、と苦笑してリィザの頭を軽く撫でた。
「俺のことなら気にするな。お前はいつも俺に謝ってばかりいる」
 リィザは俯く。彼の言うことは事実で、それが元からの自分の性格から来る習性に上乗せされた後ろめたさであることは明らかだった。
 ディーのことを決して厭うているのではない。けれど彼の姿をこの部屋に見れば悲しくて切なくて、いつも結局は謝罪になる。いつか巡り逢うはずの魂の相手が、何故彼ではないのだろう。それは分かってしまうのだ、理屈ではない何かによって。閉じたままの身体も、硬く冷えたままの心も、そうなればいいというリィザの仄かな願いなど無視したように同じ所に居座り続けているのだ。
 ごめんなさいと呟くと、ディーは優しく、切なく笑った。
「いや、謝るな。謝らなくていい……今日はお前にいとまを言いに来たんだから」
 リィザは顔を上げ、ぽかんとディーを見つめた。男はリィザの頬に軽く触れ、あまり無理をするなよと言った。柔らかな笑みを浮かべた柔らかな声音には悪戯めいたものは何一つ無く、それが決別なのだと気付くのに一瞬以上の間があった。
 別離の言葉だと腑に落ちた瞬間に、リィザは小さく震えだした。どうしてとは思わない。自分のこの頑なで冷えた性質が結局、彼の忍耐の限界を超えてしまったのだ。
 それが申し訳なくて、ただディーに済まなくて、けれどそれを口にしたら尚更彼を傷つけるのではないだろうかという考えが言葉を奪ったようで声にならない。ディーの持っている空気はこの妓楼の生活の中で僅かにでも馴染めるものであったはずだった。それを失ってしまうのは恐ろしく、怖い。
 そう思う根が自分の心の安楽の為であることが、自分でひどく汚らわしくて厭わしかった。
「ごめ……ごめんなさい、私……私、ただ……ごめんなさい……」
 一度は収まったはずの涙がまた滲んでくる。ディーは少し笑って首を振った。
「俺といるとお前は辛そうだ──どんな時でも。お前はお前で辛いとは思うが、俺を心苦しく辛く思うなら、もう来ない」
 リィザは目を閉じ、瞳に積まれた涙が押し出されて落ちた。決定的な一言であった。ディーはリィザの心情を知っていて、見ぬ振りをしてくれていたのだろう。けれどもう来ない。リィザの痛みには2種類あるのを理解して、その一方を負担している自分を消してくれるのだ。
 ───それは、罪悪感という痛み。どんなに言葉も夜も重ねても、心だけは重ねられなかった罪へ向かう背徳の痛み。
 リィザは喉で呻き、両手で顔を覆った。日常は辛かったし、殴る客も酔って無理難題を押しつける客も、粘着に責め苛む客も辛かった。けれど、一番辛かったのは、確かに彼だ。
(笑ってくれないか)
 そんな容易いことさえ出来なかった。その罪が今、僅かな間だけでも心を安らけてくれたはずの男を遠ざけようとしている。何かを言おうとしてリィザはやめた。何を口にしても、今更の言い訳でしかないと分かっているはずだった。
「泣くな、お前が苦しく思うことはない……俺も、俺が本当にお前を好きかどうかなど、実はよく分からない」
 ディーは長い溜息をつき、苦い笑みになった。それは恐らく自嘲の為のものであった。
「俺は俺で、お前が絶対だと言うだけの材料がない。気に入っていたというなら本当だが、それ以上は分からない」
 淡々と告げる彼の表情に、翳りはなかった。リィザは頷いた。それは彼の真実なのだろう。嘘がないことは分かる。
「だから、もう来ない。……頑張れ、というのは妙な気分だが、息災でな」
 リィザはもう一度同じ仕草をした。ディーはやっと気持ちが落ちたように笑い、立ち上がった。義手はつけたままだった。彼は本当に、話だけしたら帰るつもりだったのだ。
 リィザは表廊下へ通じる扉を開けるディーの、がっしりした背を見る。この背にいくつかの傷があることは知っていた。傷、背骨の規則的なくぼみ、そして欠けた腕の痛々しさ。
 胸に巻き起こってくるのはやはり哀しみであって、狂おしい別離への拒絶ではない。それを彼も知っている。自分も理解している。
 最後に振り返ったディーの目はまだ優しくて、こんな場面に出くわしたことが殆ど無いゆえの困惑で、いっそ悲しく見えるほどだ。多分、自分も同じ顔をしているのだろう。ディーの表情を見ているとそう信じられた。自分たちは、同じ目をして同じ顔つきで相手を見ている。だから駄目だったのだ。
 ───同じ目つき。
 ぱたりと扉が閉まってディーの姿が見えなくなってから、リィザはぎゅっと唇を結んだ。
 優しさもいたわりも、相手への恋情とは関係がない。恋は全く別の炎だ。燻るだけでいっかな火のつかなかった気持ちを誤魔化すことなど出来そうになかった。
 ───同じ顔つき。
 リィザは化粧台の鏡を振り返る。そこにあったのは確かに優しく相手を思いやって慈しむ目であっても、全ての障害や困難を乗り越えても相手を巻き込み、さらっていく目ではなかった。
 遠い国の音楽のように、淡々と朗読が続いている。先ほどからカルアは隣で瞼の重さと必死で闘っているが、あまり抑制できないようだ。時々目を見開いたり大仰に頷いたり、眠ってはいけないという意識があるだけましなのだろう。
 本文の論旨がまとめに入ったのを聞き留めながら、リュースはそっとカルアの膝を揺する。はっと顔を上げた弟が慌てて口元のゆるい涎滴を拭い、照れ笑いになった。
 し、とリュースは唇に指を当てた。それと殆ど同じくして教授が朗読を終える。どうかねと問われてリュースは大変感銘を受けました、と取り澄まして返答した。それに倣ったカルアが同じ事を同じような口調で言う。皇子たちの様子に気付かず、老教授は頬をほころばせて今日はここまで、と宣言した。
 ようやく講師がいなくなった部屋でカルアが大きく伸びをして笑った。
「ああ眠かった……兄上は良くあれで眠くなりませんね」
「魔導も同じくらい古典音楽じみているから慣れているんだろうね。カルア、思うのは良いけどあまり眠っては駄目だよ」
 簡単にたしなめると、弟はやんちゃな仕草で肩をすくめる。立太子のための資質を見るという題目で二人が並んで講義を受けるようになってから一月ほどになるが、カルアの気楽さばかりが評点に負として書き込まれているのは察している。リュースの場合は大抵当たり障りがないために、あまり印象にも残らないのだ。
 評点が全てならいずれ自分が皇太子となるだろう。カルアもそれを望んでいる。他の人たちには内緒なんですけど、とこっそり耳打ちしてくれたのは
「だって俺が即位して兄上に補佐をお願いするとなると、結局兄上が全部国政をみるってことになりません?」
という他人任せの気楽な意見であった。
 それにリュースはつい苦笑してしまったから、カルアの方は彼の了承が取れたと思ったらしい。以来ますます適当な受講ぶりとなっている。
 それも構うまいとリュースは思う。結局のところこの帝王学とやらの学問所などは形式だ。皇太子は貴族間の派閥の力点が左右することになるだろう。カルアに決まれば学問所の評定などは不真面目で浅慮、から明るくて行動的、へと書き換えられるのだから。
 昼食のために二人でイリーナ皇妃の居宮へ戻りながら、カルアは朗らかな声でリュースの袖を引く。
「午後からエリザとルーミエが来るんです。イリーナ様の夏薔薇庭園が丁度いいから遊びに来るみたい。兄上も一緒にどうですか?」
「うん……そうだね……」
 リュースは曖昧に返答する。カルアがね、と明るく念を押したのに結局頷いたのは、エリザに会うのが久しぶりであるからかも知れない。元々幼馴染みという気安い間柄で行き来があったが、中等学院に通い始めてからはあまり顔を合わせなかった。
 エリザは恋人と上手く行ってるのだろうかとリュースはふと思い出し、唇だけで苦笑になる。そんなことまで自分が気にかける必要はなかったし、婚約ということになればいずれ慣例に従ってアルカナかアイリュスのどちらかから正妻を取ることになるだから、自分があれこれ気を揉むことでもないのだ。エリザに対してあるのは穏やかで温かな友好であって、何かの激しさではあり得なかった。
 ……それは少しづつ分かり始めている。
 夏薔薇庭園は母イリーナの自慢の庭だ。残夏の気配が漂い始める頃に一番爛熟する季節を迎える。……夏の初めにその庭で、イリーナからの拒絶を受けたはずなのに、いつの間にか二人は同じ場所にいて、身体を添わせていた。
 それまで母と上手く接点が見つけられなかったとしても激しい喧嘩や反抗もしたことがなく、それは母の方も事情が同じだ。ラインのことは叱りつけもするし甘やかしもするが、リュースに対してはその必要もなくて美貌や優秀を誉めているうちにその他のことを忘れてしまったような節がある。
 お互いに怒り慣れていない者同士の感情の行き違いが激しく決裂すると、どうなるかは火を見るより明らかだ。あれから芝居じみた暖かさが自分たちの間に流れているが、結局自分たちという母子は決定的な時間というものをまだ味わいたくはないのだろう。
 それが分かっていてもリュースは良かった。とにかく母を傷つけることはしたくないし、非難することなどは出来るはずがない。元々感情の揺れ幅のある女性だし、と結論つけて一人で納得している。あれは言葉のあやで、単に勢いで口走ってしまっただけなのだと。マリアという、遠い昔に母の友人だった女性の話を聞いたのが良くなかったのだろう。
(その友達はもう死にました)
 母の今にも崩れそうなほどの硬い声が呟いている。知らなかったとはいえ辛いことを思い出させてしまったとリュースは思い、二度とそのことは口にすまいと誓った。つまりは母に辛いことはさせたくないのだ。
 庭園が近くなると、白い帆布が庭園の一角に張られているのが見えた。湿度の高くない昼にはああして庭に日よけをつくって食事にすることがある。薔薇園の食事は花の香りと外の涼やかな空気のせいで、普段よりはリュースも食が進む。だから母は時々こんな風にして彼を歓待してくれるのだ。そんなことを考えているとカルアがあ、声を上げた。
「母上……」
 リュースは顔を上げる。カルアが母と呼ぶならば、それはアイリュス系の正妃ユーデリカに違いない。リュースの母とも従姉妹同士で、やはりここも幼馴染みという関係だ。穏やかでおっとりした、深窓の令嬢という風情がまだ残っている。
 こちらに気付いたのだろう、ユーデリカ妃がゆったりと手を振っているのが見える。カルアがついというように手をあげたあと、慌ててそれを下ろして赤面した。母親に甘えるのに羞恥を覚える年齢になってきたらしい。
 異母弟は母親とここしばらく離れて暮らしている。淋しくないことはないだろうとリュースは思い、カルアの背中をとんと押す。照れ笑いになったカルアがそれでも少し足を速めて母親の元へ歩み寄り、頬ずりを交わした。
 即席の天蓋の下には他にも父やアイリュス大公、それにアルカナ大公までもが揃っていた。無論母イリーナの姿もある。エリザたちが来るとカルアが言っていたのはあながち間違いではない。エリザはアイリュス大公の一人娘であるし、ルーミエはいずれ一人しかいない嗣子の不都合を埋めるために、アイリュス本家へ養女に入るだろうという予測が既にあった。
 つまりこれは立太子の口頭試験なのだとリュースは悟った。皇太子の決定については専任の討議会を経るという手続きになっているが、その前に主だった大人たちであらかたを決めておくつもりなのだろう。
 今上帝である父、その二人の正妃、そしてこの国の権力機構をほぼ分割掌握する大貴族の両大公。リュースはアルカナ系でありカルアはアイリュス系であるが、父がアイリュス系の皇子であったことを考えるに、ことはやはり資質や意欲の問題ではないようだった。
 リュースは大人たちに軽く会釈して給仕の侍従に教書を渡した。カルアがそれでやっと本の所在をどうしたらいいのかを悟ったのか、同じ事をする。
 父を中心にそれぞれの母と挟まれるようにして席に着いたあと、食事は台本があるように明るく過ぎていった。エリザの中等学院での話、ラインの剣術の上達。子供たちの話に相づちを打つ大人たちの表情にはあまり気負ったところがなく、あるいは素養をみるだけであまり重要な試験ではないのかも知れないなとリュースは思う。横目でカルアをみれば異母弟のほうは刻まれた野菜の中から嫌いなものをさりげなくよけるので必死だ。
 リュースはそれに苦笑し、彼の前の皿から肉を拾い出した。肉や脂といったものはひどく胸に悪くて元から余り好きではなかった。そうでなくてもここ最近、暑気あたりなのか食事をしても吐いてしまうことが多い。ラインはこんなものが好きだから、と弟の皿にいつものように入れてやろうとすると、母がぴしゃりと駄目よ、と遮った。
「リュース、ちゃんと食べなさい。ラインもそんな物欲しそうな顔をしないのよ」
 普段はこうしたことにあまりうるさい母でなかったから、他の大人たちの反応を気にしているのだろう。リュースはすみませんと簡単に頷き、捨てるわけにもいかないと良く煮えた肉を口の中へ押し込んだ。
 何か変な臭いがすると思ったのはその時だ。腐っているということではないが、普段口にしているものと何かが決定的に違う。口の中でいつまでも噛み続けているわけにもいかないと急いで水で押し込むと、やっと喉を塊が通りすぎていってリュースはほっと溜息になった。
 食事が進むとやがて最後の菓子が出る。果物よりもこの季節は氷菓が多く、それがまだ胃に何かが燻っているような感覚には良かった。
 早めに食べ終わったラインが椅子から滑り降り、大人たちに向かって簡単に礼をすると庭へ向かっていく。それをエリザとルーミエが追って、カルアが自分もと立ち上がりかけたとき、父帝がそれを制した。
「カルア、まだ最後の茶が出ていないよ」
 カルアはきょとんとした顔で立ち止まった。食後の茶などは重要なことではない。何故それを待てと自分だけが言われるのかを理解できていない顔つきだ。自分に困惑したままの視線が向けられて、リュースは弟に首を振った。
「いいからここにいなさい、カルア。皆さんは私たちに話があるようだから」
 大人たちが目配せをしあっている気配がした。父がふと目を細め、リュースの髪を撫でた。それに少しばかり微笑んで、リュースは自分の前に置かれた茶を含んだ。僅かに残るのは甘い香り。薔薇園で母が摘んだ花の匂いだ。
「さて、今回の仕儀ですが」
 口火を切ったのはアイリュス公であった。中年の、ややふっくりした体格は首をすくめた梟と似ている。目尻はいつも何かのために微笑んでいて、そのため細かな皺が沢山そこにあった。
「両殿下には学問所は如何でしょうか」
 問われてリュースはカルアと視線を合わせ、先に口を開く。
「座学が中心なので単調ではありますが、興味深く拝聴しています」
「難しくて分からない事が多いですけど、兄上によくして貰ってます」
 カルアの返答に大人たちが一斉に苦笑になる。自分の返答もあまりにそつなく出来すぎていたが、カルアも本当に適当だとリュースはゆるく笑い、そうでもないよと軽く口を入れた。父がカルアの額を撫でて、リュースに負担をかけるなよと一応の釘を刺し、二人とも、と言った。
「二人とも、もっとよく国の姿を知っておきなさい、特にカルア。お前はずっとロリスだったから、宮廷のことは良く分からないはずだ。リュースには何度か議会などを見学させているが……」
 父帝の視線にリュースは頷く。
「お前も同じ事を経験した方がいい。お前はもっと知るべきだ──それとリュース」
 父は今度は彼に向き直り、淡く笑ってみせた。
「お前は勉強は良くできるし思慮も深いけれど、カルアが知識を積むべきなのと同じように、お前も他人との経験を積むべきだ。いいね、人は一人では生きてゆけない、それはとても当たり前のことなのだから」
 父の言葉は優しいが、頑としてもいる。リュースはやや俯いた後で頷いた。父の言葉はきちんと分かる気もしたし、具体的には何も分からない気もした。リュースが俯くと、そっと母が彼の手を握った。目線は優しく笑っていて、リュースはそれでやっと安堵する。
 自分の至らないところは自分では掴みづらい。けれど父がそんな風に考えているとすれば、やはり反省した方がいいのだろう。父帝がリュースに欠点ではないのだよと優しく言って、さてと語調を整えた。
「カルアの養育もきちんとした形では終えていないし、これの皇族としての教育をきちんと施すことで審議会の時期を少し先へずらしたいと考えているが、両大公のお考えは」
 父の物言いは穏やかで、根底に気遣いが流れている。威圧的でないのは父の性格からくるものだが、それ以前に両大公の意志を無視しては何事も進まないのも現実であった。
「異存はありませんな」
 真っ先に返答したのはアイリュス公で、これは至極尤もであった。父帝もアイリュス系であるが、やはり自閥系から次の帝位を出すことは大きいものだ。ついでアルカナ公が頷く。イリーナの実兄であるが、こちらは痩躯といってよい男だ。
「時間を延ばしてじっくり審議した方がよろしいな、こういうことは……次代の君を決める重要なことです」
 こちらは余裕とも取れる言葉であった。父はそれにも頷き、では来年の冬を過ぎてからに、と決着する。もういいよと言われてカルアは早速というように席を立ち、夏薔薇の誇る庭園の、噴水のあたりへ走っていく。そちらからエリザたちの笑い声が聞こえていた。エリザに少し近況でも聞こうかと思いながら、リュースは茶を飲んだ。夏は食欲が落ちるかわりに水ものが多い。その彼をアイリュス公が呼んだ。
「殿下、うちの娘をどうかよく思ってやってください。あれは私に似ず、思いがけず美しい娘になりまして」
 ええ、とリュースは曖昧に頷いた。エリザはくっきりした面差しの美しい少女であった。さすがに大人たちの席ではおとなしく礼儀に乗っ取って食事をしていたが、本来は闊達で明るい。
「いずれ、もっと大切なことをお願いに上がりたいものですが、殿下があれを厭わしく思っていなければと心配しておりますので」
 リュースは苦笑になった。最近自分とエリザが疎遠なように思えて気を回しているのだろう。彼女とは確かに会わない日々が続いているが、それはリュースにとってさほど重要なことも変化もない証拠であった。エリザの方も普段と変わりない。
 中等学院の講師陣の手伝いに時折卒業生として顔を出すが、そんな時には軽い挨拶程度は交わしている。
 エリザとの婚約は誰もが暗黙に想定していたが、はっきりとした形で示されたことはなかった。自分か彼女か、もしくはどちらかの親が激しく拒絶したら撤回が出来る。それをほんの僅かに先んじる言葉でもあった。リュースは大丈夫ですよと笑ってから、付け加えた。
「でも、彼女には彼女の思いもあると思います。どんなお願いにしても、どうか彼女の言葉を一度聞いてやってください、公」
 選択はエリザに委ねるというリュースの言葉に、アイリュス公は不意に生真面目な顔になった。
「──魔導士までお使いになって、誰をお捜しです、殿下」
 リュースは僅かに身じろぎし、エリザの父に真向かいあった。それがエリザと彼とのことにどうつながるのだろう。それがまるで結びつかなくて、リュースは瞬きをした。
「……何の話です」
 中等で一緒だった「彼女」のことを表にするにはまだ確定的な何か、はなかった。それに「彼女」がひどく沢山のことに怯え、今でも怖れ逃げ続けていることは去年の夏の花火の日によく知ることが出来た。魔導によって痕跡を辿れないように結界罠を残していったならば、それは即ち二つのことを教えてくれる。
 彼がまだ逃亡者であること。そして彼を追う相手が魔導士をかり出せるほどの立場や地位を持っていること。だから迂闊には全てを肯定するわけにいかない。リュースは宥めるように笑って公、と言った。
「魔導士には色々なことを命じます。私の小さな証明問題の実証にも。ですから、誰かを捜しているということもよく似たそんな実証実験かもしれません。申し訳ないですが、誰を、と言うことに心当たりはなくて……」
 言いながらリュースはふとその場の空気が一転していることに気付いた。全員が呼吸を忘れたように黙り込み、父は愕然としていて、母は蒼白だ。そしてアルカナ公はじっとリュースを睨むように強く見つめている。何かを聞き漏らさないようにという表情にも見えた。
 リュースは奇妙な沈黙に慌てて笑い、本当に何でもありませんよ、と言った。その時になってやっとアイリュス公が聞いた意味が分かった。エリザのことを無視して誰か見かけただけの女性を必死で捜しているとでも思っているのだ。
 そんな下らない、という失望に似た怒りでリュースはやや不機嫌になり、その原因を作ったアイリュス公にまっすぐに視線を当てた。
「一体私が誰を捜していると問題なのです? エリザとのことは彼女が決めることだと申し上げましたし、私は私の信念と意志で魔導士に命を与えています。私にとって必要なことですので」
 強く言いきると、それではっとしたらしい父がリュース、と叱りつけた。
「そんな言い方があるか!」
 父帝の言葉が終わらない内に、軽く頬が張られた。リュースは乾音を立てた頬を押さえる。痛みは殆ど無かった。父が自分を庇ってくれたのだとその軽さで悟る。
 済みません、と呟くとその場の空気が張りつめたものから一段弛んだ。座ったままリュースはアイリュス公へ腰を折って謝罪の言葉を口にしようとした。
 ──その時のことだった。
 リュースは弾かれたように席を立ち、口元を押さえた。何かが胃の底から翻ったように、逆に駆け上がってくる。
 人々の驚いた声に構う余裕なく皇子は数歩駆け出し、眩暈で崩れ落ちた。身体を打った衝撃で吐き気が一気にこみ上げてくる。どうにか身体をずりあげようとすると、自分の上にふわりと影が出来た。
 マルエスの長衣の端だと思った瞬間に、皇子は身を折って胃の中のものを全て吐き戻した。喉の奥から上がってくる嘔吐が臓腑全体をえぐるようだ。
 喉に引っかかった細かな溶液をどうにか咳で飛ばしていると、殿下と囁きながらマルエスが背を撫でたのが分かった。
「どうかお休み下さい。……最近良くございませんね」
 呼吸を整えながらリュースは頷く。だが眩暈がさほど酷くないと気付き、リュースは怪訝に思った。奇妙なほど身体に変調はなかった。戻してしまったことで大体が解決してしまったらしい。多少の胸焼けは残っているが、あまり違和感がないのだ。
 さっきの肉だろうかとリュースは侍従が差し出す水で口を注ぎながらちらりと天蓋を振り返った。母イリーナが蒼白で駆け寄ってくるところであった。
「リュース、リュース! 大丈夫? 無理をしては駄目よ……──お前はこの子の護衛魔導士ですね? 最近は体調が悪いのかしら?」
 マルエスが暫くの体調の低い位置の推移を説明しているのをぼんやり聞き流しながら、リュースは口元を拭う。侍従が薄い綿布を日よけ代わりに彼にかけ、呼ばれてきたらしい近衛騎士が負担をかけないように抱き上げた。
 ちらりと振り返ると、マルエスが隠遁のために淡く消えるところだった。薔薇園の土に彼の吐瀉物が残っていないのならば、きっとマルエスの衣に戻したのだ。
 皇子は赤面し、長い吐息と共に目を閉じた。
 隣で身を起こす気配がした。それでライアンはふと目を覚ました。窓の外は青暗く、月も天の高い位置にある。まだ夜明けには早いようだ。月明かりのほの暗さの中で寝台の脇の水瓶を取り上げて、口を付けたらしい。嚥下する音が聞こえる。瓶を置く音。再び潜り込んでくる身体──細く、彼に比べれば遙かに小さく華奢な腕がライアンの肩に回って足が絡まった。
 ライアンはクインの肩を抱いた。彼が目覚めているとは思っていなかったのか、微かにクインが溜息をもらし、すぐに何事もなかったように目を閉じる。あれから彼は殆ど口をきかない。
 足の怪我はもう良かったが、腕の方はディーが止めなければ筋を切って引きちぎるところだった。自分の中の修羅を制止することが出来なかったのだ──いや、多分そうする気がなかったのだろう。
 あの時、クインが叫んだ瞬間から全ては極彩色の幻のようで、ただ煮えるような怒りと憎しみだけが自分の中にあった。鈴の音だけが確かに耳に聞こえていた。それはライアンだけに聞こえる残虐な衝動の呼び水で、あの軽やかで澄んだ音を聞いていると全ての血がたぎる。命を食らいつくすための歓喜と陶酔があっという間に彼自身を飲み込んで、どこまでが自我なのかさえ分からなくなるのだ。
 ライアンは目を閉じて、その瞬間の甘美を引き出そうとする。束の間の肉の手応えと血飛沫の中にだけ、自分の全てを容易く見つけることが出来る。胸高鳴る、血の踊る、凄まじい悦びが全身を息づかせ、自分の命を実感に昇華するのだ。その相手を憎しめば憎しむほど心酔は強く、歓びは深く、愉悦は身体を貫くほどに鋭い。クインの言葉に触発されたとはいえ、そこまで強い歓楽はごく僅かだ。
 ……だからクインを特別に思っているのは本当なのだろう。但し、それが何であるかは理解できない。クインが自分にひたすらこだわる理由も同じだ。
 クインは自分がリァンの身代わりなのだと思っている。それはまるきり見当違いではなく、確かに彼を守り死ぬことが出来なかったという後悔が闇雲に庇護する対象を求めていたまさにその時、クインは自分の前に現れたのだ。
 けれどそれはもう遠い。クインはリァンではないし、性格も全く違う。何よりもライアンに頼るということはリァンはしなかったし、むしろライアンの生真面目な部分や思い詰める性質をからかったりさりげなく救おうとしてくれた。
 それに、リァンはクインがするように全身の力でライアンに対峙したことなど無かったはずであった。ライアンはリァンの犬と呼ばれる種類のもので、向き合う必要さえなかったのだ。
 それにチアロだ。クインが引き合いにだした言葉の内で、これははっきりと覚えていることの一つであった。あの時の口論の内容は後になればなるほど曖昧で、強い感情の被膜に押しつぶされて曖昧に消えてしまっているが、チアロとリァンの相似は以前からのことであった。リァンの生前からも、チアロの調子の良い朗らかでいい加減な部分が俺と似ているとリァン本人が笑っていたことがある。
 俺も子供の頃はあんなだったさ、懐かしいな──なあ、ドォリィ?
 リァンが幼馴染みで片腕であった男を呼ぶと、彼は大きな肩をすくめて本当だと笑ったはずだった。
 チアロを拾ったのは偶然で気まぐれだった。行くところがないとライアンに縋った子供が切羽詰まっていたこと、リァンにそろそろ自身の子飼いの部下を持った方がいいと言われていたことなどが重なっていたとはいえ、チアロでなければならない理由など、その瞬間にはどこにもなかったのだ。
 その証拠に、チアロを拾っても最初の頃は足手まといの子供であったしその後は自分の身辺で適当なことを喋っている奴だという苦笑めいた、出来の悪い弟を構うような気持ちであった。
 そしてリァンが突然世界から消えた後、チアロは確かに一時リァンの面影や空気をふんだんに残している存在であった。自分の殆ど異様といって良いチアロへの引き立てはその頃から始まっている。丁度その時期にチェインの支配者の継承戦争があったから目立たないが、チアロの出立の地点は間違いなく自分の偏愛だ。
 けれどそれを乗り越えてチアロは良くやっている。チェインをやりたいという自分の意志は殆ど誰にも話したことがないが、それがチアロ可愛さだけから来るものではないことは少なくともディーには分かるはずだ。
 ライアンの子飼いだと既にチアロの顔はタリアの上層幹部も認識している。いずれ自分に何かがあればチアロも一蓮托生のはずだ。誰かに肩入れするということは、その敵も背負うということと同じだから。
 チアロがそれに怖じ気づくような気配は無かったし、ライアンの存在を上手く利用して自分の立場を上昇させているらしい。らしい、というのは既に自分がチェインから離れかけているせいでもあるが、これから先、金も人手も要る。そのつてに一番信頼している少年を頭目においておきたいのは当然のことだ。
 他の連中が信用できないわけではないが、ライアンが無条件にその言葉を信じるのは、ディーとチアロの二人だけであった。
 それにチアロには恐らく、何かがある。リァンに似た、という言葉しか見つけられないのが自分でも歯痒いが、真芯の打たれ強さと朗らかで自然な求心力はどこかが違う──そんな気がする。見込めるとディーに言ったのはそんな意味だったし、甘さはあるにせよ、それがチアロの良い部分であることも確かなのだ。
 一つ一つを丁寧により分けていけば、クインの言葉など戯言だと一蹴すべきであったことだけが分かる。そこでライアンはまた溜息になる。
 あの時自分は確かに不機嫌だった。クインには出来うる限りのことはしてやっていたし、時間も自分なりに割いたつもりだった。けれどクインはそれでは到底足りないと焦れ、その間隙を一足飛びに埋めようとして自分に身体を委ねようとして拒絶されて偶然知り合った女に傾倒した。それが最初ライアンへの当てつけを含んだ行為だったことも察してはいる。
 下らないというのが最初の感想であり、ついでうんざりだという溜息を聞いた。けれど自分の体面のためにそれ以上を好きにさせておく訳にはいかなかった。知っているのはチアロとディーくらいだったはずだから、その内輪で済ませておければと忠告を試みたことは結局裏目に出てしまった。
 運が良かったのは細刃刀を含めて切れ物を自分がディーに用心にと預けていたことで、それがなければクインを切り刻んでいたはずだったが、リァンのことを引き合いに出すのも自分をもっと心に留めて欲しいと吠えるのも、その二つが融合することだって初めてではなかったはずなのに、あの瞬間にそれでたがが飛んでしまった。
 ライアンは自分にしがみつくようにして眠っているクインの頬の輪郭線を指でなぞる。これがいま生きて彼の胸に生暖かい吐息をこぼしていることが安堵にやっと変わる気がする。と、不意に長い睫毛が動いて深く鮮やかな色の瞳が覗いた。

「──ライアン、起きてた……?」
 声はしわがれてかすれている。これは眠りに落ちる前にクインを壊すような勢いで抱いたからだ。この瞬間だけはクインの声を溢れるほどに聞く。けれどそれは、絶叫と悲鳴という形だ。
 腕も肋骨も、その他に肩や背中に残る打ち身の青黒い痕跡さえ薄らいでいるが消えていない。そんな時に責め殺すようなことをすればそんな声しか聞かないのは当然だ。
 だが、そんな苦痛のための悲鳴よりも胸に痛いのは、これがクインの望みだということだ。身体の不具合は元よりライアンも承知している。彼に負担をかけない方法なら幾つかを思いつくが、それは激しい拒否にあった。
 もっと、とクインが言う。もっとしてよ。もっと。ライアン、もっと──……もっと、壊してよ──
 彼の言う通りに無理な姿勢を取らせると悲鳴になり、それに気圧されてライアンが身を引こうとすると更に自分で身体を打ってしまう。精神の均衡の満ち引きが元々激しい性格ではあったが、どこかが決定的にゆるんでしまったのか、激痛に全身を突っ張らせて痙攣させながら、喉を鳴らして笑っているのだ。
 怖いというなら、これほど恐ろしいと思うこともあまり記憶になかった。痛めつけられたい、滅茶苦茶に破壊されつくしたい、その欲求に彼は身を委ねている。それに引きずられるようにつき合っている自分も混乱しているのだろうが、クインの狂乱に一枚噛んでいることがひどい罪の意識を引き起こした。
 そのクインの口から久しぶりに落ち着いた声音を聞いた気がして、ライアンは今、となだらかに言った。うん、とクインが小さく頷き、痛いはずの腕で自分を支えて身体を起こす。ライアンが眠っている──と彼が思っている──時にはそんなことはしないから、これは明らかに当て付けであった。それを知っているはずなのに、思わず顔を歪めてしまう。
 クインはそれにふと笑い、ライアンの首に腕を回して唇を重ねてくる。仕草がまるで娼婦のそれになってきたなとライアンは思い、それでも押しのけることはせずに口づけを受け取った。
「煙草の匂いがする……」
 そんなことを呟いてクインはライアンの首に腕を絡めて横になった。腕に巻かれるようにライアンは横を向く。
 クインが彼の身体に手を這わせて目を閉じるのは、もう一度という意味だった。ライアンはよせ、と咄嗟に制止した。クインの細い身体の限界はもはや遠くにあるとは思えなかった。その前に心がどこかへ行ってしまうか、そのどちらが早いだろう。
「どうして? 俺がしたい時につき合うって約束、してくれたよね」
 クインは淡く微笑みながらそんな事を言った。その約束は本当に存在する。彼女の絵を燃やした後のまだ熱い灰に手を入れようとしたから、それを回避するためにクインの要求を飲む形で頷いたのだ。
 瑠璃色の瞳の奥の光が不安なほどに強い。月が映っているのだとライアンは思いこもうとし、クインと呼んだ。
「その約束は確かにした、けれど、これ以上は……死んでしまう……」
 と、クインはその返答に背をそらして笑い出した。ライアンはよせ、と同じ事を言いながら形の良い唇に手を押し当てた。クインは首を振ってそれをもぎ離し、喉で笑い続けた。
「殺すつもりじゃなかったんだ? 知らなかったな……知らなかった、ふ、ふふ」
「やめろ、クイン」
「いいよ──ほら、だから、さ」
 クインが自身に巻き付けていた夏の上掛けを蹴り飛ばし、生白い身体を晒す。求められるままにライアンが踏み躙った虐痕が目に飛び込んできて、ライアンは怯んだ。口元が痙攣し、やめろ、と勝手に呻く。
 それを無視してクインは自分から足を開いた。場末の娼婦のようになってきたとライアンは目をそらす。既に正視に耐える状態ではなかった。彼の様子にクインは機嫌良く笑い、ねえ、とライアンの手を取るが、それを振り払ってライアンは端に寄せられたままの上掛けを手繰り寄せた。
 日常、彼は殆ど喋らない。何かを話してもどこかに魂を置き忘れてきたようにふらふらと視線が彷徨っていて、まるで脈絡が噛み合わないのだ。
 夢の中に生きているようにひどく無防備で無力な子供の昼と、ばらばらに殺してくれという勢いで激しく彼を求める傲岸で非力な脅迫者の夜、その二つがクインの精神を引き裂いていくのが分かる。
 会話が成立するのは殆ど夜で、昼はうすぼんやりとして危うい、間延びした表情でじっと外を見つめているだけだ。
 ライアンは画帳を燃やしたことを今更のように後悔している。あの時これは泣き叫んでいたはずだった。あの女との追憶の形見になるはずだった絵にライアンは火をつけた。クインがこれにいつまでも追想をよせるだろうことが痛ましいことだと思ったからだ。
 忘れろ、と強く言うとそれには返答せずに握力の残る左手でライアンにしがみついてきた。辛いというよりは一息に全てを失ったような寄る辺ない自失に何か縋り付いて身を寄せるものがあればと彼を抱いた。より強い支配を、とチアロも言ったはずだった。
 そんなつもりがなかったというなら、今のこの状態こそ、こんなつもりはなかった。クインのことは分からない。ただ痛ましい。これほどまでに弱かったのかと愕然とする。クインの偽悪調の喋り口や顎をそらすような態度はこの内面を頑なに守ろうとする為の棘だったのだろうかとやっと知った気になるが、どうしてやればいいのかはやはり見えなかった。
 ライアンの首にクインの手が触れた。ライアンはクインを見つめる。表情のない視線で彼はライアンを仰視していて、やがてふいっと顔を背けた。
 ライアンはこの瞬間に自分が明らかに安堵したのを感じた。クインが傷ついたとさえ口にせずに自分を貶めることでライアンに復讐しているのだとしても、その手が弛むことはたまらなく気を緩めたのだ。
「……ライアンは、俺が怖いんだな」
 クインが呟くのが聞こえた。ライアンは横臥してクインの身体を後ろから抱き寄せ、かもしれない、と自分にも聞こえないほど小さな声で言った。クインの危うさ、昼と夜では全く違った方向にそれぞれ突き抜けて揺らいでいる心を見ると、焦れたような叫び出したくなるような、そんな気持ちになる。
「そうだな、怖い。お前が自分で傷つきたいというのを見ているのも……」
「何言ってるの? 違うよ、ああ──やっぱりライアンは俺が怖いんだ」
 クインはライアンに背を向けたまま、肩を震わせている。笑っているらしい。
「違うよ、あんたは俺が怖いんだよ。俺を身近に置くのが怖いのさ。リァンが死んだ時みたいに、全部連れて行かれるのが怖いんだ」
 ライアンは虚をつかれて身じろぎし、沈黙した。リァンを失った時の深い沈痛と茫然は未だに彼の中に痕跡を残している。クインとライアンは呻いたきり絶句した。クインはそうなんだね、と静かに断じると、不意に仰向けに身体をずらした。
「……俺は別におかしくなんかなってないよ、ライアン──ただ、少しばかり嫌気が差しただけさ」
 その口振りは今までと比べても異様に静かで、厳かめいていた。ライアンは返答する言葉を見つけられずにただ沈黙する。クインはくしゃっと顔を歪めて笑い、ライアンの頬を撫でた。
「いいよ、別に。俺はこれでいいんだ。ライアンに壊してもらうのも、客に殺されるのも同じだ、俺が死ぬ時に誰かを道連れに出来るなら、何も要らない……」
 うっすらと笑みを浮かべるクインの瞳には、やはり大きすぎる月が映りこみ、瞬きをする度に揺れて不安を誘う。月を見ているのか、少年の視線の焦点は遠く、遙かだった。
 道連れにしたいという彼の望みの静かな狂気にライアンは狼狽え、眉根をよせて首を振った。そんな破滅の衝動が良い方向に変わるはずはなかった。クインはライアンを凝視め、そして静かに笑い出した。形の良い唇がほころんで、聞くに堪えないほど切羽詰まった媚声が溢れてくる。
 これ以上を聞いているとおかしくなりそうだとライアンは思わず身体を離そうとした。クインがさっと筋をいためた方の腕を伸ばし、ライアンの背に回す。無理矢理もぎ離すことは出来るはずだったが、怪我という弱みを盾にする方法に、それと分かっていながら手が出せない。
 あれほど誇り高く驕慢だった少年が、ただ自分の話を聞かせるためにだけこんな惨めな真似をするのかと思うとたまらなかった。
 これは復讐なのだ。あの女とのことをライアンが簡単に引き裂いた、彼の体面のため、というクインの矜持を滅茶苦茶に叩き潰す理由で壊した、その復讐だ。
 ライアンは頬を歪めた。胸に痛ましく斬りつけてくるのは憐憫であった。痛ましく切なく、見ていることさえ辛い。そしてクインをこんな風にしたのは自分であるという自覚を否応なしに見せつけられ、怯みきっているのにクインから離れることが出来ない。今それをしてしまうと、本当に死んでしまうのではないかという恐怖がどこかにあるのだ。
 自分に必死にしがみついてくる身体をライアンは抱きすくめるようにして寝台に押しつけ、辛うじて押し潰さない程度に胸を合わせながら言い聞かせるように低く呟いた。
「クイン、済まなかった。あの女の事は謝る。絵を燃やしたことも、お前がそれを忘れるためにはそのほうがいいと思った、本当だ」
 クインは何がおかしいのか喉を鳴らして笑い、そう、と簡単に流した。足を絡めてくるのをどうにか離そうとしていると、クインが不意に彼の鎖骨に歯をたてた。
 甘噛みするほどの痛みはさほど強くない。けれど、どうにかして男を誘うつもりの仕草には胸が突かれるほどの痛々しさを感じる。手負いの獣と同じだ。心に裂いた傷は目に出来ないが、そこからあがる血飛沫と痛みにじっとうずくまることも出来なくて転げ回って痛みを訴えている。
 クイン、と名前を呼び、ライアンは唇を深くよりあわせた。結局こうすることしか咄嗟に出来ない自分の愚かしさも、クインはきっと嗤っているのだろう。クインが腕を自分の首に巻き付けてしっかりと足を絡ませた。ねえ、という声が泣き出しそうなほど潤んでいるのに、涙は見つけられない。画帳を焼く炎にあぶられて消えてしまったように、あれ以来彼の涙を見ていなかった。
「──うんとひどくしてよ……思い切り手荒にしていいから、ライアン、さっきなんかよりもっともっと痛くして……」
「クイン止めよう、お前が本当に死んでしまう」
「殺せよ!」
 クインが不意に怒鳴り、その勢いで肺が軋んだように呻いた。クインと手を伸ばそうとするのをだが叩き返し、きつい、それでいて何かに浮かされている熱にゆらぐ視線をまっすぐにライアンに当ててくる。
「殺せよ、それでいいんだよ! 同情なんか要らないんだ、憐れみなんかもっと要らない! 半端なことするなよ! 俺が怖いくせに! 怖いくせに、怖いくせに!」
 吠えるように叫んでクインは不意にまた笑った。ねぇ、と呟く声に媚態が戻っている。この出鱈目な態度にライアンが覚えるのは、それでもクインがそんなものは要らないと怒鳴ったはずの憐憫だ。追い込むという言葉の意味を今更思い知る。
 ライアンはクインの細い顎を捉えてしっかりしろ、と揺すった。
「同情や憐れみが要らないというなら、何が欲しい、クイン。言え」
 クインは首を振り、両手で顔を覆った。唸るような音が喉から零れたが、それは涙の声ではなかった。
「要らない──あんたからは何も、要らない、あんたはリァンのものだ、そうだろ? 永遠にリァンのものだ、違うの? だったら要らない……要らない……他人のものなんか……誰が……」
 呟く言葉が不意に途切れる。どうしたと言おうとした瞬間にクインは彼を押しやって頭までを上掛けに隠し、震えだした。泣いているのだろうかとライアンはその肩を揺する。けれど返ってきたのは乱暴な拒絶だった。
 ライアンは長い溜息になり、そしてそっと上掛けをめくった。クインは体を震わせていたが、やはり泣いてはいなかった。けれど涙の方がよほどましだと思うのは、それさえ枯れた絶望を自分が知っているからだろう。
 本当に傷つき、叩きのめされてのたうっているその瞬間に、涙は出ない。それはあまりに深く、あまりに渇いた闇だからだ。
 涙がこぼれてくるのは現実を受け入れて折り合いをつけ始めようとする時で、だからクインが今、ひどく混迷した闇にいることは分かる。それを自分が心苦しく、ひどく痛ましく眺めていることも。
 クイン、とライアンは努めて静かに言った。
「──俺があの女とのことを体面のために潰したのではなく、嫉妬のためにそうしたと思え。お前が欲しいというならどんな言質でもやる、何が聞きたい、言ってみろ」
 クインは視線を翻し、ライアンを睨み据えた。それをライアンはやはり睨み返す。二人でじっと身じろぎもせず瞬きもせずにらみ合った末に先に折れたのはクインの方だった。
「……何でそんなことまで俺に聞くんだよ……」
 それが強制したのだという事実を避けようとする策略だとは分かっていた。けれど、ライアンは頷いて済まないと言った。クインが欲しがっていたのは彼を必要だと言い、彼に手を伸べる人間だった。それをあの女が占めようとしたのを壊したのは自分だ。それによって自ら壊れたいと願うクインを一度つなぎ止めてやれるのも。
 いつかクインも新しい想いに身を委ねていくだろう。けれど今、血を吐き散らし、絶叫に近い悲鳴をあげながら彼が傷つけ巻き込もうとしているのはライアンで、それを拒否する権利はあっても出来ないだろうということも、全てを見通したような諦観が襲った。
「俺はお前の気に入る言葉を知らないが、これでどうか」
 淡々と呟き、ライアンはクインの肩に触れ、髪に指を差し入れてゆっくり愛撫した。クインが微かに喘いで目を閉じる。その瞼に唇を寄せ、頬を両手で優しく挟んで深いキスをした。
 クインが喉で呻き、一度ライアンの肩に手が触れた。それは弱く押し戻そうとして何かに負けたように力を緩め、縋り付いてくる。
「……涙が出ない」
 唇が離れた時、クインが呟いた。
「ライアン、駄目なんだ。あれから泣けない。エミルのことが」
「忘れろ」
 名前が出た瞬間にライアンは遮り、愛しくクインの額を撫でた。
「涙はそのうちに出るようになる。あの女の事は忘れろ、もう言うな。いいな」
 クインは唇を歪め、何かを言おうと口を喘ぐようにあけた。ゆったり十を数えるほどの時間が沈黙に流れ、やがてクインは頷いた。頷きながらライアンの鎖骨あたりに額を押し当て、震え出す。
 けれど無理に涙を流そうとしてもそれが無駄な仕儀であることは、ライアンにもよく分かっていた。夜の蒼さを一人で背負わせないためだけに彼の細い肩を抱きながら、ライアンは窓の外の月を見上げた。
 夜はそろそろ長く伸びていく季節だった。
 晩鐘が遠くから幾重にも、空気を震わせながら近寄ってくる。それを待っていたタリアの篝火が殆ど一斉に灯され始めて、通りは一呼吸する前に朱泥に浸ったように赤く染まった。
 チアロはこの瞬間が一番好きだ。これを女の化粧だとたとえる言葉を初めて聞いた時、深く頷いた記憶がある。とびきり華やかで贅を尽くした表通りの組合筆頭妓楼の格子が赤く照らされて燃えるような美しさを誇っている。
 小さな白い花火が尾を引く音を立ててぱちんと咲いた。火薬は砂金と同じ価値がある。筆頭妓楼で何か慶事があったのだろう。
「お、豪気だね、見に行こうか、水揚げか身請けの披露だよ」
 チアロは明るい声を出し、隣でぼんやりと突っ立っている友人の手を握る。彼はまるで子供に戻ってしまったようだ。昼間はいつ訪ねていってもまともに受け答えをしない。ぼんやりと、放心して弛緩しきった視線で外を見ている。
 ──窓の外の、鳥たちを。
 夕方を過ぎてこの時間になるとようやくぽつりぽつりと言葉が出るようになっていたから、連れ出すのはいつもこんな時間だ。クインの返答はないが拒否の様子は見せなかった。
 彼の様子に頓着ない風を装って、チアロはほら、と手を引いて歩き始める。少し足を引きずりながらもクインは大人しく連れられているが、彼の声は聞けなかった。
 エミリアとのことを壊して破算にしたとき、これほどまでに彼の異存が酷いと思っていなかった。ミシュアから地上街道の乗合馬車でチアロは帝都まで帰還したが、そこで待っていたのはライアンの激高のために全身を痛めたクインの姿だった。
(喧嘩だ、気にするな。ただリァンのことを引き合いに出したのは奴が悪い)
 ディーはそんな言い方をしていたが、それをしたくなる、クインにとってはせざるを得ない状況を作り込んでクインを追い詰めていったのはライアンではなかったろうか。
 最初に出逢った頃からクインはリァンのことをライアンが気にかけすぎると気に入らなかったが、それをなじらなくてはいけない方が、責難されるより辛くないなどということはない。
 ライアンは心なし青褪めていたから、それ以上を彼には言えなかった。けれど、とチアロはクインの手を引いてタリアの大通りをゆっくり巡りながら思う。
 クインは淋しかったのだ。
 誰でも良かったというのには語弊があるかも知れないが、優しく明るい愛情で、彼の胸のささくれだった部分を丁寧に埋めてくれる相手であれば誰でも良かった──自分にさえ縋り付こうとした彼があまりに辛くて見ていられなかった。
 エミリアという女に傾倒し始めたのを気付いた時、依存は既に始まっていて簡単に引き抜くことは出来そうになかった。クインを下手に傷つけまいとして却って機会を見失ってしまった責任は、自分にもある。今となっては何が最善で次善であったのか、定かではなかった。
 エミリアの方はどうやら帝都には戻っていないらしい。では彼女の故郷にでも飛んでいったのだろう。故郷近い街に妹がいるはずだ。彼女にも酷いことを、とチアロは胸の中で呟く。ごく普通の愛情の配分を心得ている彼女に妹とクインを無理矢理選べと言えば家族に決まっているのだ。ライアンの思惑は分かるしそれには自分も賛同するが、あまりよい役回りではなかったと自分でも思う。
 それにしてもディーや、ライアンと共に戻ってきたオルヴィのようにエミリア自身への危害を提案するよりはライアンは随分ましと言えた。
 ライアンはクインを彼なりに特別に気にかけている。遠ざけようとするのがいい証拠だ。失って辛いものは持たない主義で、辛くなりそうなものには近寄りたがらない性質だから、ライアンが身辺に寄せている人間のうち、信頼されているらしいディーや自分を除いた全てが捨て駒だ。うぬぼれるなら、多分自分たちも捨てていい札だが、それはかなり後のことになのだろう。
 順列の詳しいことは察するしかないが、チアロはその最後の札は自分だと思っている。
 ──それをクインが気にかけているとは知らなかった。ライアンが彼に特別だと言ったことに嘘だと噛み付いて、叫んだと聞いた。
(あんたの特別はリァンだけで俺のことは付録だろ? チアロだってあんたにはリァンの模造品じゃないか……!)
 単純に、これはチアロにとっては嬉しい言葉であった。ライアンの視線が自分の後ろにリァンの面影を探していたことは分かっているし、それは仕方のないことだと諦めてきた。それが嫌だと思ったところで今更違う自分にはなれないし、そんなことは意味がない。
 ライアンが自分に何を投影していても、自分がライアンに対して思う心や気持ちには本来関係がない。相手の思惑に関わらずまっすぐに人を愛せる自分がチアロは好きだし、いつまでもそうでありたいと考えている。
 相手からの心が返らないことや思うに任せないことが多い時は哀しいが、生きている限り、よい未来が必ずある。
 それをクインにも信じさせてやりたかった。けれどクインはエミリアとのことが壊れてしまった衝撃に、未だに足元が定まらない。これ以上はもう耐えられそうにないとライアンが音を上げたのが珍しかったが、その様子を聞けば背が冷えた。
 昼間を過ごすチアロとの時は彼は大人しすぎるほど従順だ。口数は少ないが、時折はチアロの冗談に唇をゆるく開くことがある。目がまるで違う場所の幻を見ているから真実安堵するわけには行かないが、チアロを気遣うならそう酷いことではなかった。
 だがライアンの口から聞く彼の褥の狂気には愕然とする。何が一番惨く辛いかというなら、それが全てライアンへの復讐であろうことだ。ライアンによって追いやられていった方法とは違うやり方で、クインなりにライアンを虐げている。道理でなかなか傷が良くならないはずだった。
 クインは確かに頭がいい、とチアロは苦笑になりかける。ライアンが何故自分に対して弱腰なのか近寄りがたく遠ざけようとするのか、確信してやっているのだ。分かっていなければライアンへの好意の示し方はもっと違うものになるはずであった。
 失ってもいいものしか側に置かない。愛したものを失う辛さを知り抜いているからこそ、最初から愛さないように遠ざける。何もかもを失ってもいいように、無くして辛いものは持たないようにしているのだ。
 チアロはその臆病な性分を、けれど却って愛おしい。馬鹿だなあと思う。こんなに分かりやすくて背反なことがあるだろうか。好きならば好きだと直線的に愛すればいいのだ。失って辛いのはどんなものだって同じだし、それは自分の気持ちの上に興ることだから、誰にも奪われない。
 それをライアンは怯えている。クインが彼にとって庇護対象者でありリァンに対する彼の欲求の一部分をまっとうして補完する存在であることはチアロは疑わないが、クインもそれが自分への興味と関心と好意だと誤解できればことはここまでこじれなかったはずであった。
クインがライアンに何故ああして絡むのかはチアロにも良く分からない。ただ、彼は年齢が離れて上の、自分に優しくしてくれる相手には男女問わず比較的素直に懐く傾向がある。まだ幼い頃に出会ったことでライアンの印象は彼の中では大きいのだろう。
 ……最初に彼を捕まえた時、ライアンは確かに時のタリア王、カレルにクインを貢ごうとしていた。カレルは虐癖の持ち主で、リァンから同じように提供されたライアンが死の寸前まで追いやられたことがあるらしい。
 らしいというのはその頃チアロは父親と気楽な旅を渡り歩いていたからだが、クインをカレルに差し出して生け贄にするつもりであったはずだ。
 ライアンがクインを逃がしてやったのが何故なのかはチアロには分からない。けれど、クインがそれで彼を自分に甘くしてくれる相手だと感じたのは間違いがないだろう。事実、クインはそれ以来ライアンの渋い表情にも頓着せずにチェインに出入りしていたのだから。
 クインがライアンに好意を持つのは分かる。彼をつなぎ止めておくために身体を開くしかないと思っているのが間違っているだけなのだ。
 チアロは手を引かれて俯いたままついてくるクインに足、と聞く。クインはやや呆けたような表情であったが頷いた。
「うん……大丈夫」
 そう、とチアロは顔を潰すようにして笑ってみせる。今クインに必要なのは、彼女がふんだんに与えるはずだった優しさと明るさを、少しでも補充してやることなのだとチアロは信じている。
 綺麗なものを沢山見せてやりたいと思うのもそうだし、何か美味いものでも食べさせてやりたいと思う。ぬるく傷ついた心にはぬるま湯につけるような愛情が相応しく、上等だった。
 花火の上がった妓楼はやはり水揚げの披露目だった。見物の人垣に混じり込んでいくと、どっしりした赤い絹地にびっしりと刺された精緻な刺繍が目に入った。水揚げの少女が身動きする度に揺れる花板の飾鎖が眩しい。少女の面差しは可憐で、ぱっちりとした目が人形のようだ。
「可愛いなあ、ほら、年はいくつだろ」
 チアロは明るい声を上げながら、指をさす。クインはちらりと興味なさそうに視線をあげ、さあ、と投げやりな声を出した。チアロはクインの反応の薄さには構わずに可愛いよなあと朗らかに笑った。
「あ、ほら祝儀が出る」
 大きくて格式の高い妓楼の水揚げには沢山の儀式がある。格が落ちれば落ちるほど、特別なことは何もなくなっていくのだ。
 万象万乗万歳の決まり文句のかけ声と共に、駄菓子を包んだひねりが妓楼の中からばらまかれる。人々がわっと喊声を上げてそれを拾いに詰めかける。人並みに押されてチアロはクインの手を握ったまま前の方へ押し出され、一つ二つを拾った。これは拾ってやるのが礼儀なのだ。
 最後に水揚げされる少女からひねりが投げられて、これは特別の祝儀が入っているものだったから人々が手を伸ばしてこちらへとざわめく中を、不意にチアロは視線を感じて貼り付けていた楽しげな笑みを収めた。
 強い視線は水揚げの少女からまっすぐにこちらへ向かっていた。それが簡単な好意でないことを肌で悟り、チアロは微かに怪訝に眉根を寄せる。と、少女の整って愛らしい表情がきゅっと歪んだ。その目が自分から少しずれた場所を見ている。
 チアロはそれを追って視線をずらし、慌ててクインの手を引いた。
 クインはやや俯き加減に薄ぼんやりとした表情をしていたが、その物憂げで儚い様子はこの場の全ての上に君臨するほどの美しさだった。見慣れているはずのチアロでさえ、一瞬言葉が出ない。
 赤い篝火に照らされた肌は茜色に染まるほど白いことを誇り、じっとあらぬ場所を見つめている彼の身から、微かな光感さえ覚えるほどの麗しさだ。
 少女の目線でクインに気付いた群衆が波打つようにざわめき、打たれたように静まりかえった。少女の目にあるのは今やはっきりした怒りであった。水揚げという妓楼での最初の晴れがましさを横から奪われる怒りだ。
 少女がどんな奢りの中にいたか、その怒りの激しさを見れば一目で分かった。美しさと可憐さを崇められ讃えられ、数多くの男たちの憧れを掻き立てるために媚びるでなく豪奢に微笑む、そんな生活をしていただろうし、これからもそうなるはずだった、──但し、それは朝日に消える霞のように、無力な強さしか持っていない。彼女よりももっと圧倒的に美しい、くっきりした美貌の前に。
 少女が美しく化粧された頬を歪めた。チアロは人垣の中から抜けようとクインを促した。分厚い人混みに掻き入ろうとしたした時、少女が祝儀を投げた。それはまっすぐにクインの目尻あたりに命中し、重い音を立てて落ちた。
 その瞬間に、何かの糸が急激に張り戻ったようにクインの瞳に光が宿った。底光りする光のようなものが戻り、クインがきつく少女を睨みつける。
 少女は今にも泣き出しそうな表情をしていた。これから先の数年において一番の誇りになる場面をよそ者に汚されたという屈辱が、彼女の白い頬を上気させている。
 クイン、と促そうとした時、友人は低く笑い出しながら自分の足下に落ちた祝儀を拾い上げ、止める間もなく投げ返した。それはしてはならないことの一つであった。少女が美しい面輪を歪め、気違い、と叫んだ。それがきんと通った瞬間にクインが喉をのけぞらせるように笑い出し、チアロが持ったままだった通常の祝儀をひっつかんでそれも少女めがけて投げつけた。
 チアロが口を塞ごうとするよりも、クインの誇らかな哄笑の方が強く早い。
「黙れよ、淫売!」
 クインはそう怒鳴り、笑い出した。少女がくっと唇を噛んで、もう耐えられないというように妓楼の中へ駆け込んでいく。それと入れ替わりに妓楼の衛士たちが駆け出してくるのに目を留め、チアロはクインの手を掴んで駆け出した。背後で怒鳴り声がしている。
「おい、待て、馬鹿どもが!」
「チアロだな──このチェインの餓鬼め!」
 タリアに長くいるのならば、チアロの顔を知っているものも時折いる。それは無論ライアンの側人としての彼の顔だが、いずれ妓楼の組合を通じてタリア王の配下あたりを経由し、ライアンに嫌味がゆくだろう。
 路地や抜け道ならばチアロの方が彼らよりも数段詳しい。滅茶苦茶に走り回ってやっと呼吸をつくと、またクインが喉を鳴らして笑い出した。たがの弛んでいるような感触はしなかったが、人を怒らせて楽しむような真似はいい趣味だとは到底思えなかった。
「あれはまずいよ、可哀想に……」
 息を整えながらそんなことを言うと、クインはゆるゆると首を振った。
「だって、俺の方がずっと綺麗だよ……チアロはそう思わない? エミルはいつも俺のことを綺麗だと言ったしね」
 クインの言葉にチアロは溜息になる。少女の傷ついた顔もよくわかる。それが仕方のないことだとも。クインの美貌は天与としかいいようがなく、人目を惹き付けて離さない。見に行ったことが悪かったのは確かだが、クインにはこの世界にある美しいものに少しでも触れて欲しいのだ。
 いつまでも自分の中の狂気や怒りにつきあっていても、それは全く彼を成長させない。美しいもの、優しいものに触れて嬉しいと思える心だけが、人を自分で癒させる。
「確かにお前の方が美人だったけど……でも」
 エミリアのことはあえて無視し、チアロが言いかけるとクインは黙ってというように首を振った。
「俺のことはもういいんだよ、チアロ。ライアンに頼まれたのか、それとも? あいつ俺を殺したいのか違うのか、どっちなんだろうな」
「クイン、そんな言い方は良くない」
「じゃあどんな言い方ならいいんだ? 俺はただ、ライアンに俺のことをリァンみたいにぐじぐじ思い出して貰えるならなんでもしようと決めただけさ」
 チアロはそれ以上何かを言うのをやめ、クインの肩を揺すって歩き出した。タリアの大通りにはそれなりに格式のある店が多く、年若い者が気楽に入れるような店は殆ど無かった。
 食事のために路地を渡り歩きながらチアロは何が食べたいかと聞く。クインは大抵要らないと返答するが、それは無視していつも自分一人で何事かを喋りながら適当な店を探すのだ。馴染みを殆ど作ろうとしないライアンについて歩く内に、自分にもそんな習慣が出来上がってしまっている。
 ここ数日の食事を脳裏で確かめながら、チアロは目で適当に店を探し歩く。手は繋ぎ直すと素直に従うクインがやはり哀れでならなかった。結局のところ、彼は淋しいのだ。
 彼をこんな風にしたのは俺だとライアンは苦しく呻いていた。その声音をクインに聞かせてやりたいとチアロは思う。そうすれば、もっとライアンとのことを穏やかに受け止めていけるだろうに、それをどうして放棄するのだろうか。
 愛はぶつかり合うものでも破壊し合うものでも、そして支配しあうものでも決してない。お互いがあるがままに在ればいいと思う自分が間違っているのだろうかと考えてしまう。
 とにかくクインには心の均衡の取り方を思い出して貰わなくてはいけなかった。ライアンに返し刀で次第に迫っていく様子には、端で見ている方がひどい危機感を覚える。特にクインに何もしてやれなかったという悔恨は恐らく、ライアンよりは自分の方が深く感じている。
 ライアンの場合は自分の臆病な性質がクインを沈めてしまったという後悔であろうが、チアロはその過程をライアンよりも良く目にしていたし、自分ではそれなりに息抜きをさせているつもりだったのだ。
 それにはまず一緒にいる時間を増やすという最も単純な方法へ立ち返るというのがチアロの結論だ。彼に沢山の、人生と世の中の楽しく面白いこと、美しいものや愛らしいもの、そんな彩りがあることを思い出させてやりたい。
 とりあえず何か、と通りをぶらついていると、不意にクインの足が止まった。気付かずに行き過ぎようとして、チアロもそれにひかれて立ち止まる。
 クインは遠い目線で赤い格子の向こう側を見つめていた。消えてしまった蜃気楼を眺めるような視線だとチアロは思い、嫌な表情だと苦く思いながらクインの目線の先を辿ろうとした。
 その時、不意にクインが呟いた。
「……エミル……エミルがいる……」
 チアロはぎょっとする。彼女をさらって妓楼へ放り込めなどと指示をした覚えなど在るはずがない。そんな馬鹿なと慌てて赤い格子の向こうへ彼も視線をやるが、やはりエミリアなどはいるはずがなかった。
 けれど、その代わりに見つけたのは戸惑うような現実だった。クイン、とそっと目を塞いでやると、クインはふっと格子から顔を背け、チアロに抱きついてきた。動揺しているのだ。
 それが本人でないことくらいは知っているのだろう。けれど、時折人は自分の欲するものを無理矢理にでも見ようとする──例えば、自分とはまるで似つかない顔立ちをしているのにも構わずに、チアロの遠くにリァンを見ようとするライアンだとか。
 それを思ってチアロは苦い顔になる。
 そこにいたのは黒髪の遊女だった。
 似ている。顔立ちはエミリアという女よりも多少幼く弱々しいような気配がするが、一瞬見た時の造作や面差しの雰囲気に共通するものが多い。別人だということはすぐに分かる程度の相似でしかないが、例えばエミリアが持っていた温かで優しそうな空気は同じだ。
 チアロは迷い、クインを見た。クインは見たくないというように顔を背けたままで俯いていた。思い出したくない。忘れたい。そんな言葉に心底から頷くことも出来ずに彼が苦しみ呻いてのたうちまわっている。
 チアロはじっと格子の中へ目をやった。この妓楼は彼の馴染みだ。チアロが心の底から深く恋をする女、シアナがいる。女将の人なりも良く知っているし、金額も大体は計算できる。僅かに躊躇う心を振り切るためにチアロはそうだ、と明るい声を出した。
「なあ、ちょっと寄って行こうか、そうしよう、いいだろ、つき合えよ」
 返事を待たずにクインの腕を引き、妓楼の格子戸を開ける。小間使いの少女が常連客のチアロを見て微笑み、いらっしゃいと愛想を言った。それで帳面台で煙管をいじっていた女将が顔を上げ、チアロに頷く。
「女将さんこんばんは。えーっと」
「あの子はさっき客が帰ったばっかりだから、少し待っていておくれよね。それと……そっちは?」
 女将の視線が向いて、チアロはクインを軽く突き飛ばす。よろめくようにクインが前へ出て、ようやくはっとしたように周囲を見回した。妓楼だということは分かるのだろう、途端に俯いて柱にふらふらともたれかかり黙り込む。気に入らないのだ。
 チアロはその不平を無視し、あの子、と食堂で給仕をしている遊女を目で示した。
「あの子、こいつにつけてやって。金は俺の奢りで、泊まりでね」
 女将はちらりとクインを見やり、すぐに頷いた。小間使いが黒髪の遊女を連れてくる。遊女はクインに目をやった瞬間に、あ、と小さな声を上げた。
 反応が初めてではないらしいと気付き、チアロは軽い笑みになりながら、知り合い、と聞いた。
「あ、あの……いえ、少しだけ、お話をしたことがあるだけで……」
 小さな声は消え入りそうにかぼそい。到底チアロの好みから遠かったが、こんな優しげな少女の方がクインにはいいかも知れないと思い直し、彼を頼むよといった。
「ちょっと落ち込んでるんだよ、慰めてやって」
 チアロは遊女に笑いかけ、女将によろしくと同じ事を言った。女将が頷いてあんたの奢りで良いんだねと念を押した。それにチアロが頷くと女将はにっこりと商売の破顔を作り、よく通る声で宣言した。
「旦那様をリーナの部屋へご案内! ゆっくりしていって頂戴。分からないことがあったらこの子に聞いてね」
 最後の言葉はもの慣れていないクインへのいたわりなのだろう。戸惑って振り返るクインにチアロは手をひらひらと振り、食堂の方へ歩き出した。シアナの身体が空けばじきに階下へ降りてきて彼の頭をはたき、いつもの傲慢な笑顔でまた来たのと笑うはずであった。
 渇いている、とライアンには言われた。そうかも知れないとクインは思う。エミリアとのことが幻になってしまったことで自分を責め、ライアンを非難し、けれど彼からの贖罪を受け取ってしまえば最後に向き合うのは自分の中の罪でしかない。
 だからそれは受け取らない。狂気なのかそのふりをしているのか、自分でも境界は曖昧だったが、世界への怒りとライアンへの鈍い憤りが今の自分を辛うじて支えている。
 昼の柔らかで温かな日射し、明るい日常の光の中にいると自分が場違いなところに座らされているようでどうしていいのか分からない。そして夜の青い孤独の中にいればただ淋しくて身を切られるほど辛い。
 ライアンはあれから時間を割いて回してくれているようだが、月に三度ほどだった会話が週に二度になったことが劇的な変化だとは思えなかった。
 一人の夜は淋しいし、ライアンがいてもなお淋しい。ライアンに徹底的に自分を痛めつけるようにし向けているのは彼の心に悪意と痛みをばらまくにはそれがいいと思ったからで、どうやら成功しているようであったが、一体こんな事をしてなんになるのだろうという声がどこからか聞こえてくるのだ。
 ──意識を取り戻した夜、ライアンに現実に巻き戻されるようにして彼と寝た。殆ど力づくでライアンは自分を取り戻そうとしたのだ。快楽かどうかという以前に自分の中の空虚と胸裂けるような悲しみがぐるぐると回って、あの晩は喉嗄れるまで泣いたはずだ。
 ライアンの身体が自分を押し潰さないように気を使うのが苛立たしくてたまらなかったし、エミリアのことを失い、全てを放擲したことで初めてライアンが自分をその意志で巻き込んだことが許せなかった。
 けれど、それはエミリアの温かな腕に巻かれる以前、自分が望んでいたことではなかっただろうか。知ってしまえば他のものは要らない。ライアンが彼に与えようとするエミリアの身体の熱と似たものでは、既に満ちてゆかないのだ。
 エミル。クインはじっと遊女の部屋の床にはられた、美しい組木模様を睨み据える。チアロが自分を勝手にこんな所へ押し込んでいったのは、今怯えたような目で彼を遠くなく近くない場所で見つめる彼女がエミリアと似ているからだ。
 順序としては逆で、最初エミリアを見た瞬間には、それ以前に行き会ったこの遊女と似ていると思ったはずであった。けれどその位置は決定的に逆転している。
 エミリアは彼の中に明るい光が差し込むための窓をつけてくれた。いつか翼を広げてそこから飛ぶことが出来るわと言ってくれた。彼女といるだけで穏やかになる気がしたし、手を触れていれば嬉しく、頬を寄せていればなお嬉しかった。
 終わることだ、というのは分かっていた。いずれ離れて行かなくてはいけないとはっきり自覚していた。だからこそミシュアへ向かう旅路やその過程が美しく貴重なものになるだろうと思ったのに、それはほんの僅か手前で道を逸れ、息苦しい迷路へと紛れ込んでしまったのだ。
 エミリアはどうしているだろう。見に行くことさえ怖い。自分が彼女に接触したら次はないとチアロも言った。だから行かない方がいい。行ってはいけない。あの優しくて暖かな色をした女に二度と会えないことが現実だった。
 そしてクインは顔を上げて自分をひたすら見つめる遊女に視線をくれた。それははっきりとした敵意のような眼差しだったらしい。遊女が怯えたように肩を震わせたのが分かった。
「……お前……何か喋れよ」
 クインは低い声で命じた。チアロといると楽なのは、彼が勝手にいつまでも口を動かしてくれる部分が大きいのだろう。自分がどんな状態でも、彼なりにクインの気持ちを引き上げようとする。
 遊女は済みません、と呟いた。
「あの、何のお話を、したらいいでしょう……?」
 怖々とクインの機嫌を伺おうとする瞳が大きい。あの晩に一瞬、捕らえられたような気持ちになったそれは、今はもう何の感情も呼び起こさない。彼女の面輪にエミリアの幻だけを見ている。
 なるほどライアンは下らない、とクインはふと鼻で笑った。彼がしているのはこれと同じ事だ。彼のことを思い出すと尚更不機嫌になる。クインは遊女の問いに返答しないまま、座り込んだ椅子に身をゆっくり埋めるような姿勢を取り、長い溜息になった。
 ──つまりチアロは俺がライアンと同じくらい下らないと思ってるんだな。クインは口元を思い切り歪める。チアロはエミリアの顔を知っている。彼女がエミリアと似ていることも、では分かったのだろう。
 気を使おうとしてくれることを有り難くは思っても、これが嬉しいかどうかは良く分からなかった。それに、とクインは困ったように俯いてしまっている遊女を横目で見やる。
 彼女にはエミリアの持っていた嫌味ない明るさが足りなかった。もっとうち解ければ違うのかも知れないが、クインの発散する不穏な空気に気圧されているのか口数も少なくおどおどとこちらを窺うばかりだ。
 クインが溜息になった時、あの、という小さな声が聞こえた。
「何だよ」
 切り捨てるように言うと、ごめんなさいという反射的な言葉がもれた。クインは苛立つ。自分がせっかちで気忙しい部分があることを承知しながらも、この女は俺の機嫌を取らなくてはいけないはずだという認識がひどく素っ気なくて乱暴な言葉や態度にしかならないのだった。
「ごめんって、何が」
 底意地の悪いことを聞いている、とクインは顔を歪めた。遊女は困ったようにますます身を縮め、ひたすら済みませんと呟いている。それがいい加減に癇に障り始めてクインはお前、と吐き捨てるように言った。
「お前、同じ事しか言えないならもう黙ってろ」
 ──彼女はエミリアではない。失ってしまったものは、もう戻ってこない。
「俺は別にお前のくどくどした謝罪なんか聞きたくねぇよ」
 ──エミリアではない。彼女の持っていた全てと遠く隔たった、別人だ。
 そんなことは分かっていたけれど、何を期待していたのだろうと思うと尚更かあっと胸の底が熱くなるようだ。クインは言いたいことだけを言って長椅子の方に移って寝転がり、天井を見上げた。天窓から地上の赤い光に揺らめく月が見える。
 クインは手を伸ばした。エミリアの声が、自分の中に蘇ってくる気がしたのだ。ここは緑。春の色、新しくて綺麗な草が戻ってくる春。胸に描く幻想を、温かな理想を、そっと囁く声が優しかった。彼女のおおらかな気持ちに抱かれていたかった。エミル。
 エミル、好きだったのに。これがどんな種類の愛でも欲しかったのは本当だのに、どうしてあんな風に突然、何の予告もなく精算しなくてはいけなかったのだろう。
 現実は進んでいくのに、心の方はそれに追い付かない。自分がせかせかと時間を早めていく性質であるのに、肝心の己がついてこられないなどといういうことが、また苛立ちになった。
 クインは自分の顔を片手で覆い、長い溜息になった。何も考えずにいたかった。忘れろとライアンが言うのは正しいのだろう。ただ、自分が意地でもそんなことはしてやるものかと思っているだけだ。
 忘れない。絶対に。それがライアンへの復讐の方法であったし、自分の中に美しい幻影が眠っていたことの証明でもある。そしてクインは不意に身を起こした。
 結局この女がエミリアに似ているかどうかなんて、どうでもいいことじゃないか。自分に優しく微笑んでくれた彼女は一人しかいない。ならば、誰でもいい。もうどうでもいいし誰でも構わない。一瞬でも、ほんの束の間でも肌の熱と吐息で溶けてしまえるなら、もうどうだって構わないじゃないか……
 そんなことを口の中で呟き、クインは所在なく彼の横に座っていた遊女の腕を掴んだ。はっとしたように彼女が目をみはる。大きな瞳が怯えたように潤んでいるのを見た瞬間に、罪悪感のようなものが胸をかすった。それに自分で動揺する。
 何がいけないんだとクインは強く顔を歪めた。
 自分は客で、この女は遊女だ。俺を好きなように玩ぶあの客連中と同じ扱いをしていい相手だ。クインの表面だけを丁寧に愛でて好き放題に彼を扱う連中に覚えた憎しみが、形を変えて戻ってくる。
 抱いていいはずだったし、滅茶苦茶にしていいはずだった。ライアンが彼の胸を切り刻んだように、誰かを傷つけることで均衡を取っている。
 自分は荒れ狂いたいのだろう。本当に狂ってしまえたらどんなに楽だろうか。けれど、母のことがある限り生きて行かなくてはいけないし、あの商売だって辞めるわけには行かない。ライアンとの自虐ともいうべき関係も、エミリアとの思い出も、何もかも、放り出すものか。
 それら全てを放擲しない重みを、どこかに吐き出さなくては潰されてしまう。その捌け口が女でどうしていけない!
 クインは無理やり彼女を長椅子に引き上げると、着ていた木綿の赤い花襟の紐をほどいた。余りに性急で乱暴な仕草に彼女が驚いたような声を上げた。うるさい、とクインは強い言葉を捨てた。彼女はびくりと肩を震わせるとクインがもどかしく剥がそうとする服を手伝うつもりなのか、一つ二つ釦を外そうとした。
 クインはその白い手を払いのけ、服の前袷を掴んで思い切り引き破った。勢いで釦がぱちぱちと飛ぶ。遊女の視線がそれを追ったのが気に食わなくて、お前、と喉元を掴んで呻くように言った。
「俺を見てろ。他の所に目をやるな。いいか、ずっと俺を見てろ」
 遊女の喉を離すと、彼女は怯えたままで頷いた。クインは彼女の服に目を戻す。それは彼の粗野な行動のせいで既に半分ほどが引き裂かれ、下からはっとするほど白い肌が覗いていた。
 体つきは少し幼い。胸の隆起もあまりないし、腰まわりもほっそりとしていて、さほど肉感的な魅力を放つ少女ではなかった。クインの視線が身体を眺めているのに気付いたのか、少女が恥じらうように手で胸を覆った。クインはそれを乱暴に振り払う。羞恥なのか少女がふわりと頬を赤らめて、どうしようかと迷った末に手をクインの肩に回そうとした。
 その瞬間、クインは喘いでその手を叩き返した。似ている、と呻きかけてそれをどうにか飲み込む。最初の印象が似ていた通り、ふとした仕草や頬の影がぎょっとするほど重なったのだ。
 けれど──似ている。どうしようもなく下らない、全く意味のないことだと分かっているのに振り払えない。エミリアの身代わりなのか、彼女は。頭がおかしくなりそうだとクインは喘ぎながら、ぽろりと名前を呼んだ。
「……エミル……」
 その声に遊女がえ、と聞き返した。クインははっとした。今自分の身体の下で怯えたような不安な目つきで、しかし命じた通りに彼を見つめる女は決して彼女ではなかった。
 こんな時にエミリアならどうしただろうか。大丈夫よと笑ってゆったり抱き寄せてくれたろうか。それとも、優しいキスを、エミリア? あなたならどうしたろうか。俺を慰めてくれたのか、それとも抱き包んでくれたろうか。
 いずれにしても、それをこの少女が代行することはあり得なかった。
 急速にきたものが急速に冷えていく。クインは少女を突き飛ばし、立ち上がった。眩暈がする。ライアンがしていることをせせら笑っていたはずなのに、気付けば自分まで同じ事をしようとしていたのは何故なのだろう。
 淋しいという気持ちが何でもさせるなら、ライアンに縋ればいいのだ。そのほうがよほどましだ。少なくとも、ライアンとエミリアを混同するほど馬鹿ではない。
 だが、似た印象の女に依存しようとすること自体が、汚い。ライアンに向かって俺はリァンの幻影ではないのだとほえついたことが霞んでいきそうになる。クインはよろよろと少女から離れ、喉で意味のないことを呻きながら扉に背をつけた。
 少女が急いで服の前をかき合わせ、駆け寄ってくる。
「──あの、ごめんなさい、私、何か、あの……」
 クインの機嫌を損ねたのかと見上げてくる視線が大きくて、あの晩に出会った時のように美しく潤んでいる。
 けれどこれはエミリアではない。こんな贋の代用品で間に合わせようとした自分も許せないし、おどおどとクインを窺おうとするこの女にも腹が立った。
「俺はお前なんか欲しくない。あいつが勝手に放り込んだんだ──もういい、俺に構うな……泣くな、馬鹿っ」
 ついというように涙をこぼした遊女に心底うんざりしてクインは怒鳴りつけた。
 渇いている、とライアンは自分を指して言った。自分の中では涸れてつきてしまった涙をこんな下らないことでぼろぼろこぼしてみせられると、いっそ当てつけなのかと勘ぐりたくなる。
「泣くなって言ってんだろ、いい加減にしろ、知らない、帰る!」
 クインは少女を突き飛ばし、扉を乱暴に開けて足早にそこを出た。待ってと少女が叫んでいるのが聞こえたが、それには構わない。来た階段を駆け下りていくと、女将がぎょっとしたようにどうしたの、と聞いた。それに返答をせず、先ほどはチアロが開けた格子戸から出ていく。何かを女将が言いかけた気配がしたが、戻る気にはならなかった。
 駆け戻ったアパートは人の気配がない、しんと冷たい闇の中であった。クインはまっすぐに寝室へ入る。遊女の身体からついたのか、ふわんと甘い香りがする。
 こんなもの、と滅茶苦茶に自分の肌をかきむしり、それでも足りなくて意味のない悲鳴を上げながら服を脱ぎ捨てて暖炉に放り込んだ。
 灰が舞い立つ。
 月明かりの中で画帳の最後の角の形が崩れたのをクインは見、そしてぺたんとその場に座り込んだ。エミリアの残した全てがたった今、最後のものさえ潰え去ってしまった。
 それを思うと後から後から何かがこみ上げてくる。獣のようなうなり声を上げてクインは暖炉の前へひれ伏すが、涙はやはり出てこなかった。
「エミリア、ごめん」
 呻いた言葉にクインは自分で首を振る。画帳はエミリアが自分へ渡したかった希望の形であった。背中が良くなったと誉め、翼が見えるのよと笑い、よい未来を彼に教え、そしてそれを教えたことを忘れないでというつもりでチアロに画帳を預けたのに決まっているのに、それを自分は為す術なく燃えるのを見ているしかしなかったのだ。
「エミル、ごめん、ごめんよ……」
 呟き続ける声に混じってくるのは大量の、自分でも制御できない量の後悔だった。それが苦く鋭く自分の背中を打ち続けている。エミリアがここに、と描いた位置が痛い。
 いつかクインを描けたらその絵をくれるとエミリアは約束をしてくれた。この画帳はそのための引き替えの切符だった。それを大切にしてやれなかった、ただライアンが画帳を燃やすのを、ぼんやりと見ていた。
 腕も胸も、痛むのはこれは罰だとクインは思う。
 罰だ、罰が下ったんだ。二度とエミリアには会えない。彼女の託してくれた希望が他人の手で蹂躙されるのをぼんやり見ていた。だから泣くことさえ出来ない、これが罰なのだ。
 クインはほんの僅かに形が分かる灰へ手を伸ばし、おそるおそるすくい上げた。灰は既に冷めていて、たださらさらと細かく指の隙間からこぼれていこうとする。
 それを阻止するようにクインは灰を握りしめた。
 自分の手の中にある、一握の灰。自分の体温にぬくまっていくそれは、エミリアとの全ての思い出の遺灰であった。
 クインは喉で呻いた。涙の気配は、やはりどこからもなかった。
 皇子が論文の綴りをめくり終わるのと同時に、卜占版の上に線が浮かんだ。それを見つめていたマルエスがそっと笑い、隣で固唾を呑んでそれを見守っていた少年魔導士の肩を叩く。ありがとうございますと呟いた少年期特有のかすれた声に耳を止め、皇子は微笑み立ち上がった。
「終わったようだね。どう、マルエス」
 皇子は魔導士二人が真剣に斑紋をいじっていた卜占版を覗き込む。そこに浮き現れた赤黒い線の紋様を見つめ、柔らかに笑った。魔導を知らぬものが見ればただの絡み合った線であったが、これは正式な卜占だ。皇子の魔導斑紋と、カノンの斑紋の相似判定である。
 魔導には使う個人によって特有の斑紋が出る。これは誰一人同じ斑紋を持たない完全なる固有であった。声の質などによって魔導呪文にも個人で得手不得手があるし、声が一人づつ違うものであるのと同じように、斑紋にもそれがあった。
 そして魔導が声を媒介とする超自然である以上、斑紋の傾向が似ているかどうかは同じ術を合同で行うためには重要で重大なことである。
「大体が一致しているね。これはとてもいい、マルエス、分かった──カノンといったね、今度の移動時期に申請を出しておこう……論文も良かった、面白かったよ」
 皇子はカノンの手による綴りをちらりと見やって笑ってみせる。アイリュス公が魔導士を使って誰を捜しているのだと指摘したことで、リュースはマルエス以外の魔導士を申請するという案にようやく本腰になった。魔導士には魔導斑紋が顕著に現れるから、マルエス一人に探索を任せて置いたことが知られる要因であったのだろう。
 皇子自身が魔導には通じており、研究などの為にマルエスとの合同詠唱なども経験している。そこに更に一人加えるとなると、魔導斑紋のかなり高い一致がないと難しい。要するに、魔導における相性の問題だ。
 線で描かれるカノンの資質、マルエスの資質、そしてリュース自身の資質を示す線には大きなずれはなく、どれかというならばカノンと自分の一致率が高い。ならば今までのようにマルエスに頼りながら、カノンもきっと使えるはずであった。
 それに、とリュースは論文の内容に深く頷く。治癒系の魔導は身体の代謝を無理矢理高める効果によるものだが、これに例の時間生成論を練り込んだ論文は論理が確立できれば医療魔導の大きな質的転換をもたらすだろう。今はまだ机上論に過ぎないが、面白い理論の組み立て方をする。年若くても優秀ですとマルエスが強く推す理由も分かった。なるほど、この少年は見つけたのかもしれない。
 「彼」の時間生成理論は実験が失敗して後に頓挫という形になっているが、いずれ皇子自身が深く踏み込んでみたいと願う領域でもある。一人ではどうしても検証実験の詠唱にまる二日ほどかかるから、複数による合同詠唱が必要だ。それにもいずれ関わってもらうことが出来るだろう。
 ありがとうございます、とカノンが深々と腰を折った。いいや、とリュースは穏やかに言った。
「私も丁度、マルエス一人では手が足りなくなってきたところでね。色々と頼むことが多いとは思うけど、よろしく頼むよ、カノン」
「はい、一所懸命務めさせて頂きます……ありがとうございます、本当に……」
 カノンの声は弾んで明るい。現在はタリアへの出向だと聞いているから、魔導の塔も勿体ない人の使い方をするものだとリュースは思う。
 カノンの実地魔導も見せて貰ったが、声が現在の変声期で安定しないのはともかく、詠唱の正確さと構成の的確さは見事だった。いずれ高等学院の魔導学の講義でも聴講させるよう、長老会に申し出てやらなくては。
 自分の周辺に魔導士が数多くいることにアルカナの叔父はあまりよい顔をしないが、学問としての魔導の追求はリュースの大きな目的であり歓びだ。詠唱の実地はマルエスに頼ることも多かったが、これで彼の負担を軽減してやることも出来る。
 そしてリュースは窓の外を見た。初秋へと向かう濃い緑の中を、こちらへ走ってくる人影に気付いたのだ。菫色の目に鮮やかな髪は弟だ。カノンがここにいることを誰かから聞いたのだろう。
「カノン、ラインが来ている」
 リュースがそう言うと、少年魔導士は一礼した。ラインの剣術の稽古相手にとカノンは選ばれて登城したのが最初であった。
 魔導士の身ごなしは特殊だ。そのもの慣れぬ感覚が珍しいのだろう、ラインはカノンに良く懐いている──もっとも、ラインが懐かない相手など殆ど知らなかったけれど。ラインの相手にとカノンが下がると、リュースは深く頷いてカノンの論文をめくり直した。
「何かお気に障ることでも、殿下」
 マルエスがリュースにそっと問うのに首を振る。
「いや、彼は本当に優秀だ……年齢は多分私と変わらないくらいだろうけれど、いずれ私が公職に就く頃には彼が長老会に入っているとやりやすい」
 それにはあと十数年はあるだろう。公職、と曖昧にした部分にだろうかマルエスは小さく笑い、カノンは若いけれどよく心得た同志です、と言った。それにもリュースは頷く。
 アイリュス公の発言以来、両親共に誰を捜しているのかとひどく執拗に彼に聞いた。
 母方の叔父であるアルカナ大公もちらちらと探るような聞き方をする。それには全て知りません勘違いでしょうと返答しているが、この反応は明らかに異様といえるものであった。
 一体自分が誰を捜していると上手くないのだろうか。
 マルエスの推論を否定する理由が無いために、「彼」のことを現在はラウール大公キエスだと仮定しているが、もしかしたらそれも間違いなのかも知れないと皇子は考え始めている。
 但し、だとしたら誰なのかということについては白紙に戻ってしまう。「彼」の魔導斑紋を拾うことは最早不可能だ。中等では口をきけないということになっていて一度も詠唱を行ったことがないし、それ以前の上級学校や初等学校での斑紋痕跡など、どれが彼のものであるのかを一体どうして判別できるだろうか。
 魔導斑紋には声質が深く関わる。声質、つまり遺伝要素だ。斑紋を拾ってもどの家系との一致が知りたいかということでしかなく、斑紋が分かったから血筋がすぐさま探せるということでもなかった。「彼」がキエス=ラウールでなければ全く別の仮定から始めなくてはいけない。
 中等学院に残っていた「彼」の戸籍には母と娘、とあった。彼を連れていたのは母親を偽装した誰かであろう。戸籍の出所はどうやらタリアらしく、あの赤い格子の町の暗部に隠れ紛れてそれ以上の追求は諦めなくてはいけなかった。いずれにしろ、マルエス一人に任せきるには次第に全てが重くなりつつあった。
 いずれ皇太子と決まればもう一人か二人は護身や連絡のために魔導の塔へ申請を出さなくてはならない。魔導士の管理を行う魔導の塔は皇族を頂点とする国政機関とは別の傾倒の組織で、内部の上級魔導士たちで構成する長老会の決定が皇帝の勅命以外の全てに優先されることになっている。申請するときに勝手にこちらで相手を選ぶことは出来ないのだが、今回のように先に斑紋の卜占を行っていれば、まずは希望が通るはずであった。
「マルエス、彼の件の申請が通ったらすぐに捜索に加えておくれ。……どうやら急がなくてはいけないな。父上も母上も、少し……何というのか、おかしい」
 父の休日に呼び出されて午後一杯を言い抜けに費やした記憶が新しいが、そうでなくても夕食の時に母も同じ事を繰り返し聞いた。ラインがきょとんとしているのが救いだが、両親が一体何を怖れているのか、全く見当がつかない。
 怖れている、という言葉を思いつき、リュースは自分で深く頷いた。そう、二人とも何かを怖れている。執拗というべき回数、リュースに誰を捜しているのかと聞き、穏やかに微笑みながら魔導士を貸しても良いのだと提案する。
 その異様さが却って怯みと用心を呼んでいて、リュースはいつも誤魔化すか適当に言い逃れることくらいしか出来ていなかった。だが、何かがあるという感触は大きくなっていく。
 それが一体何であるのかはまるで見えないのだが、両親が何かに怯えていることと、リュースの捜し人が一致すると思っているのだ……何故。
 あまり時間をおくとマルエスの捜索にあちらの魔導士が追い付く可能性がある。あちら、とリュースはまるで敵のような呼び方が浮かんだことに自分で苦笑するが、しかし両親がこのことを快く承知していることはなさそうなのだ。
「どの辺りまで行きついたかな」
 リュースの質問に、マルエスは幾つかシタルキア北部の都市をあげた。既にキエスと思われる痕跡は判別が済み、それを時代順に追っているところであった。
「とにかく徹底的に転々としておりまして。追われる身であることが大きいのでしょうが、一カ所に三ヶ月と居りません。他国へも足を伸ばす気配がありますので、同志カノンの申請をお早め下されば有り難いことです」
 マルエスの言葉にリュースは頷き、そうしようと言った。お願いいたしますと深く例をしたマルエスがところで、と切り出したのは別の話であった。
「それと殿下、お体の方は如何でしょう。あれ以来、体調など何か変わったことはございませんでしょうか」
 リュースはああ、と軽く頷く。これはあの昼食会の時に嘔吐して以来、どの医者にも何度も言われていることであった。何もないよと簡単に答えてカノンの論文を自分の書斎にしまい込もうとしているとマルエスがそっと近寄って皇子の肩を押さえ、低く小さな声で囁いた。
「よろしいですか、殿下。母宮とここの侍従たちがお持ちするもの以外はなるべくお口になさるのはお控え下さい。もしそれ以外に何かを召し上がる時は、必ず先にわたくしをお呼びいただくように、お心得を」
「──マルエス」
 リュースは不意に表情を変えた。
 毒、と喉の奥で呻き、ごくりと飲んだ呼吸が胃に落ちた瞬間に、やっとそれが実感になった気がした。リュースは眩暈を覚えて背後に立つマルエスに一瞬背を預ける。
 誰かが自分を殺そうとした──
 その現実味の無さと事実自分が嘔吐した時のことを思い合わせてリュースは青ざめる。マルエスを振り返り、リュースは毒、と呻いた。マルエスは小さく、しかしはっきりとした仕草で頷いた。
 リュースは喘ぎ、額を押さえた。マルエスが彼の腕を取り、書斎の椅子に座らせる。ずっしりと重たいものを抱え込んだような茫然にリュースはゆるく首を振り、毒、と三度目を呻いた。
 しっかりとマルエスに膝を揺すられて上の空で頷く始末だ。殺される、というこの言葉の何と現実味のないことだろう。だが、誰かがリュースを邪魔に思い、短絡に決着をつけようとしたのは事実なのだ。しかし、とリュースが喘いだ時、殿下と魔導士が低く言ったのが聞こえた。
「どうかお気をしっかりお持ち下さい。いいですか、確かにそれは毒ですが、致死量ではありえませんでした。せいぜいあの場でそうでしたように、嘔吐するくらいのもので。しかし混入されていたのは事実です、殿下、つまり」
「なるほど」
 リュースはやや落ち着いてきた呼吸を均しながら呟いた。
「つまり、私が立太子されるとまずいのだな……」
 学問所の様子を見るに、リュースの方がカルアよりも資質が豊かだという結論になるのは当然のことであろう。何分カルア本人にさほどやる気がない。学問所のことだけで全てが決することはあり得ないが、材料の一つではある。リュースが皇太子として至らない点として健康問題を印象に残しておきたいのだ。
 ならばあの場が選ばれたことにも意味があった。両親とアルカナ・アイリュスの両大公が揃っていたのだから、彼らの前にリュースの身体の弱さを喧伝したい者がいるということになる。
 リュースは唇を引き締め、下らない、と呟いた。皇帝の実権などとうに貴族閥と官吏に渡って久しい。普通に即位したところで、実権をすぐさま奪い返せるなどという夢は見たことがなかった。試してみたいことはあるが、それも両大公の意志を汲みながらの修正と無縁ではいられないだろう。何よりそんな形で皇太子への道を妨害しようとするなど迂遠だし、卑屈というしかない方法だ。
 リュースは次第に最初の恐怖が怒りに変わるのを感じながら分かったと言った。
「では気をつけておこう──カノンの申請も早めなくてはね。どうやらこれから先、人手が今まで以上に要りそうだし……お前にも負担が大きいね、いつも済まない、マルエス」
 いいえと魔導士は仮面の下でひっそりと笑ったようだった。
 魔導斑紋などの資質の相性と当人同士の気質の相性も噛み合わせて派遣されてきたマルエスは、確かに彼とはよくそりがあったといえた。そもそもあまり他人に馴染まないリュースであるが、マルエスとはそうささくれだった関係には至っていない。ごく普通の主従という空気が流れている。そこにカノンを加えるとまた空気も変わろうが、マルエス本人がカノンを高く評価していた。
 リュースはもういいよ、とマルエスに魔導の塔へ戻るように促した。マルエスは治癒以外にも幾つかの魔導の研究会に名を連ねている。魔導士としては彼はごく普通の能力に属し、何事もそつなくやり遂げる程度には出来上がっていた。カノンのように長老会へ入るかも知れないという期待は酷かもしれなかったが、リュースの道楽ともいえる人捜しにもきちんと意見を述べてくれる年上の友人として、リュースは彼を頼りにしていたし、信頼してもいた。だからマルエスが研究会に顔を出すことを優先してもいいとしてきたし、それはこれからも変更するつもりはなかった。
 マルエスが下がるとリュースは学問所の講義をまとめ直し始めた。来週には口頭試問がある。カルアに多少の知識と体裁をつけてやらなくては、弟があまりに可哀想になるのだった。
 講義の抜き書きをまとめ終わると既に日が落ちる頃であった。適当に片付けていると、弟のラインがひょっこりと顔を出す。日に焼けた頬が眩しく赤い。今までを外で剣の稽古にしていたのだろう。
「どうだった、少しは上達した、ライン?」
 そんなことを聞いてやると弟は肩をすくめる。魔導士に勝つことのできる子供などいるはずがないからリュースは淡く笑って弟に待っているように言った。これから夕食の時間になる。
 リュースは半ば辟易したような吐息が自分の唇から零れたことに気付き、苦笑になった。また両親からのしつこい追及の時間なのだ。
 そしてその予感はやはり正しい。皇子に向かって両親は宥めたりすかしたり、とにかくマルエスを使って何をしているのかを聞きたがった。リュースはそれに適当に返事をしながら皿の中の料理をフォークでつつき回している。昼食会の時のことが蓋になったように、殆ど入らない。
 それをようやく見咎めたのは母で、どうしたの、と怪訝な面もちで聞いた。
「さっきから全然食べないのね、リュース? 食欲がないと身体も出来ないわよ」
 リュースはまあ、と曖昧なことを言った。ラインの前でこんな生臭い話はしたいとは思わなかった。弟はまだ正真正銘の子供で、皇太子の候補からも外されている。いたずらに騒がれても困惑するし、何よりも心配をかけたくない。
 その場の言い訳のようなことを口にして夕食を終えると、父帝はラインに簡単な書取を言いつけてリュースを夜の庭へ誘った。母妃も一緒だ。これは何の話だろうとリュースは思い、また人捜しの話だろうかと思うと胸の内で苦笑と溜息が同時に聞こえた。
 庭は薔薇の終わりの甘い香りが漂っている。白い薔薇が月の光に輝くような美しさだ。庭園の噴水の縁に腰掛けて、父帝が彼の頬をそっと撫でた。
「お前に少し話しておきたいことがあってね。ゆっくり呼吸をして、落ち着いて聞きなさい、いいね」
 父はゆったりと、そして心底から穏やかに微笑んでいる。リュースは同じように唇をほころばせると、ええ、と頷いた。そっと彼の背に母が座り、肩を抱く。自分の頭上で両親が視線で何事かを会話している気配がした。
 リュース、と呼ばれて素直に返答をする。父は彼を愛おしく見つめた後、ゆっくりと区切るように言った。
「来週に口頭試問に私が列席することになっているのは知っているね?」
 リュースは頷いた。学問所の簡単な試験ではあるが、次世代の帝位の行方を占うという意味で皇帝本人の列席が義務となっている。口を挟まずに同じ場所に座っているだけではあるが、形式というのはそんなものだ。それがどうしたのだろうかと思っていると、父は彼の聡明な額に触れて優しく、ごくゆっくりと言った。
「その時に、立太子の候補から降りたいと、私に申し出るように、いいね」
 リュースは数度瞬きをした。父の言葉が胸に理解として落ちてくるまでに、少しかかったのだ。
「何故……」
 呻いた時、上手く唇が動かない。やがて呼吸自体が出来ていないことに気付く。それを打破するために強く何故と呟くと、それはまるで悲鳴のような声になった。
「何故──何故です、父上! 私は、ずっと、……どうしてですか、理由は何ですか、父上、私は、」
 言い募りながらリュースは自分の胸あたりを掴む。そうしていないと身体から魂がふらふらと彷徨い出ていってしまいそうな気がしてたまらなかった。
 たまらない、と思った瞬間に怒りとも悲しみとも、疲労ともつかぬものがどっとこみ上げてくる。自分が今まで努力し、たゆまずに続けてきた全てが父の一言で撤回しなくてはいけないとしたら、どれだけの徒労で無駄だったのだろうか。
 そんな馬鹿な、とリュースは呟き、父上と言いかけた。
 と、不意に背からリュースは強く抱かれた。母が彼をぎゅっと抱きしめて、ごめんねと呻くように言ったのが聞こえた。母上、とリュースはそれを無理矢理もぎ離し、父にまっすぐな視線を当てる。
「納得できません。理由を……理由は何ですか、父上、私は自分の出来ることはしてきました、今までだってずっとしてきました、これからも! これからもやるべきことは努力します、わ、私は、別に、性格だって、それに──」
 意味のないことを連ねて口走りながら、リュースは眩暈を耐える。何故です、と呟いた声が自分で悲鳴のようだとリュースは思った。
 何故ですかともう一度繰り返すと、父帝が辛そうに目を伏せ、しかしはっきりした声音で言った。
「お前はどうしても身体が弱い。帝位につけばそれだけでまっとうできないのではないかと私もイリーナも心配しているのだ、リュース。……分かるね」
「いやです」
「リュース、聞き分けなさい。お前のことを私たちは思って言っているんだよ」
「いやです! いや、いや、それは、嫌です、嫌だ嫌だ……」
 駄々をこねるような幼い拒否を呻いてリュースは顔を上げる。その途端に涙が頬を流れ落ちていったのが分かった。泣いているのだと思った瞬間に、更に溢れてくる。
「昼食会の時のことは、あれは違います、父上、私の皿に毒が──」
 と、その禍言に父帝が息を呑んだ。リュースは毒です、と強く言った。父が狼狽えるように視線を彷徨わせる。毒、と母が呻いた声にリュースは振り返り、そうですと強い口調で言った。
「あれは私の食事に毒が、だからあんな、父上、あれはだから違うんです」
 言い募るリュースに父帝は頷き、確かかねと低い声を出した。それでようやく事の重大さを悟ったような気持ちになって、リュースは震えながら頷く。
「私の護衛魔導士が、そう。致死量ではないとか、そんなことも言っていましたが、しばらく用心するようにと言われました」
 父は頷きアウィスと呟いた。父の背後にふわりと魔導士の影が現れる。調査を、という言葉に魔導士が頷いて消えると、それでやっと我に返ったのか母の悲鳴が聞こえた。
 それに却って冷静な部分が戻ってきたようにリュースは母の手を握りしめ、大丈夫ですと強く言った。イリーナはそれには返答せず、彼の細い身体を強く抱きしめて、震えだした。
 父がリュース、と彼の身体に触れる。リュースはそれを振り払い、父を睨み上げた。
「だから父上、私は降りません。そんなのは……そんなのは嫌です。私は絶対に嫌だ。今降りたらそんな卑劣なことに負けたことになります」
 父は半ば哀しげな表情で首を振り、彼の肩を掴んでゆっくりさすった。
「リュース、私たちはお前のことをいつも考えている。お前が元からあまり丈夫でないことも今まで見てきた。お前は頭のいい、賢い子だ。優しくてとてもいい子だよ──けれどお前のような賢くて繊細な子には、私は帝位を継がせるべきでないと考えている……リュース、お前が即位したら沢山の現実を見なくてはいけない。お前にはそれはとても辛いことだと思う。なまじ聡明過ぎると、知らなくていいことも分かってしまう……」
 父の言葉は淡い苦みに彩られていて、リュースは僅かに怯んだ。この言葉には父の見てきた苦いうつつが全て滲んでいるように思われたのだ。
 何かを言おうとしてリュースは沈黙した。父の経験とそれ故のいたわりに太刀打ちできるものを見つけられない。だが、素直に受け入れるには足らないものが多い。リュースは父上、と絞られるような声を出した。
「私は、きちんと、今までちゃんとやってきました! 不安だというならもっと試してくださって結構です、だから、降りろと言うのは撤回してください! 父上、私は嫌です! 身体のことだって、では何故最初からそう仰らなかったんです、今更、今更そんなことを言われても、私は納得しません」
 リュースは言いながら首を振った。リュース、と彼を母が抱いてごめんねと言った。
「ごめんね、私が諦められなかったから。でも、お前のために一番いい方法を私たちで話し合ったのよ、信じて頂戴、リュース。お前がこれまでちゃんとやってきた事は良く知っています。でもね、お前を失うことの方がずっとずっと怖いのよ……!」
「私が私をどうするか、未来をどうしたいかは、私が自分で決めます」
 リュースは母を叱りつけるように言った。はっと顔を上げた母妃の菫色の瞳に瞬く間に涙があがってくる。母上とリュースは強い声になった。
「太子候補にではラインをあげるのですか? 母上は昔から、私よりラインの方がずっと可愛いんでしょう? 私が何をしても母上はラインばかり」
 すらすらと自分の唇が吐き出す言葉にリュースは目をきつく瞑った。自分の中にこんなに醜い部分があったのだと思った時、彼の名が呼ばれ、咄嗟に頬が打たれたのが分かった。
 リュースは僅かによろめき、喉で呻いた。ずるずると座り込む。打ったのは父であった。彼をもう一度平手で打って、叱りつける。
「リュース、二度とそんなことを言うんじゃない! それは母への侮辱だ、いいな、そんな馬鹿なことがあるはずがない、イリーナがお前をいつ邪険にしたというんだ!」
「──薔薇園で!」
 リュースは凄まじい早さで顔を上げ、父に怒鳴り返した。
「母上は私にもう会いたくないと、顔など見たくないからくるなと、そう、そう言って、そう言って」
 言葉にするとそれがどれだけ自分を傷つけていたかが初めて分かった気がした。リュースは喘ぐように言葉を紡ぎながら、拳でぐいぐい涙を払った。
「だから、私は、悪いことを聞いてしまったと、そう思って、でもマリアという女性のことは、同情しますが、母上が、彼女と何があったか知りませんが、私が……」
 そこまで夢中で口走ってリュースはふと声を潜めた。父は目を瞠り、微かに震えていた。驚愕と茫然の為に、やがて静かに青ざめていく。リュースと呻いた父の声音は今まで聞いたどれよりも強張り、重たかった。
 リュースは一瞬目をしばたく。父上、とそっと声をかけようとした時、マリアという呻きが背後からした。はっと振り返ると母妃が蒼白というべき顔色で口元を押さえ、おこりのように震え出すところだった。
 この名が母にとって重大な罪の意識をかき起こすことは知っていたはずだった。リュースはしまったと顔を歪めて母親を宥めるために手を伸ばした。
 だがそれは届かなかった。母はさっと立ち上がり、マリアともう一度呟くと許して頂戴と喘いだ。
「ごめんね、ごめんね……マリア、私が悪いのよ。いけなかったのよ。お前にもあの人にも沢山の罪を負わせて、追い出してしまった! 許して……」
 それだけを呟いて、母は耐えられないと言うように身を翻し、駆け去っていく。それではっと我に返った父がイリーナと叫んで数歩追いかけ、そしてリュースを振り返った。
「──先に館へ戻りなさい、リュース。……マリアのことを、お前は知っているのか」
 厳しい口調にリュースは父を見つめ、やがて力無く首を振った。ただ母上がそんなことを、と言いかける先を、父が言い訳はいいとぴしゃりと撥ねた。
「リュース、確信もない事を引き合いに出すのは止めなさい。いいね」
 その言葉に頷くと、父は厳しい表情のまま母を追って駆けてゆく。リュースは混乱を払うように首を振り、とぼとぼと歩き出した。
 夜の夏薔薇庭園は静寂の中で、月光だけが明るい。自分の影を見つめながら歩いていると、ふとその横に新しい影が出来た。マルエスだろうかと皇子は振り返り、
 ──何かの凄まじい予感に咄嗟に背後へ跳躍した。自分の残像を銀色の線が横断するのがくっきりと、劇的に遅く見えた。
 はっとした瞬間、後先を考えずに飛んだ身体が薔薇の茂みにぶつかり、植え込みを潰すように皇子はその中へくずおれた。人影がはっきりと手を振り上げる。その手に銀にぎらつく光がある。
 何かを考える前に皇子は叫んだ。
「マルエス! マルエス!」
 その視界にふっと尾を引く銀の線が現れる。
 リュースは身をよじる。彼の身体への決定的な傷を負わせるに至らない、しかしかすった痛みを首筋に覚えてリュースは呻いた。
 次の一撃を振り上げた影が、横へはじき飛ばされる。魔導士の長衣と背格好でマルエスだと知って、皇子は薔薇の植え込みにだらりともたれた。
 マルエスが人には在らざる早さで人影の腕を取り、簡単に押さえ込む。骨の折れる軽い音がして、リュースはびくりと身をすくめた。相手の身動きを封じ、マルエスが自分に駆け寄ってくる。大丈夫ですかと助け起こされて、リュースは異変に気付いた。
 世界が揺らいでいる。身体が痺れたように動かない。
 何かを言おうとした唇が重くてぴくりともする気配がなかった。殿下と叫ぶマルエスの声は聞こえるのに、それに返答しようとしても何も出来ないのだ。脳幹が痺れ、末端から感覚が無くなっていく。喉が何かを呻こうとして、呼吸がふと止まった。
 息が出来ない。弛緩した身体に力が戻ってこない。
 あ、と小さく喉を鳴らすと、マルエスが毒、と唸って不意にリュースの瞼を手で閉じた。僅かな時間をおいて、傷になったらしい場所に温かな吐息がかかった。くすぐったいような感覚が首筋を撫でて、リュースは身体を痙攣させた。柔らかいものがそこに押し当てられ、きつく吸っては離れるのを繰り返している。
 それを四度まで数えた時蓋が開いたように空気が喉を通り、それで深い呼吸を長く長く吸いながら、リュースは痺れるような無意識の中へ転がり落ちた。
 赤い格子の向こう側は、いつもと同じ雑踏だった。興味本位で覗き込んでくる男たち、からかうための言葉だけを投げつける男たち、みないつもと同じだ。そして自分がまったく不変の頑なさの中にいることも。
 リィザは格子のきわの腰台に所在なく座り、ぼんやりと通りを眺めやっている。誰かを誘うでも睨み据えるでもない弱い視線は誰の気も惹くことがない。それが楽なのだろう。何度叱られても叱られても、気付くと同じ事をしているのだ。
 自分は芯まで冷たいのだろうかとリィザは時折恐ろしくなる。ディーへ深い罪の意識を覚えてもそれは彼にまったく心が開かなかった言い訳で、彼がリィザの元に訪れなくなったことをどこかで安堵しているようなのだ。
 ディーは自分に十分優しかった。癇性で暴力の多い男に巡り会うリィザの性分には過ぎた相手ではあった。けれど、優しいことが辛い時もある。そして二人ともがそれを乗り越えてお互いを理解し合おうと思っていなかったことだけが分かる。だから駄目になってしまったのだということは分かるのに、これからどうしたらいいのかということは全く見えない。
 リィザは外を眺めながら、ディーと過ごしてきた百には足りない夜のことを思い出そうとする。酒は少し薄めの薄荷入り。煙草は吸わない。義手は重たくて目はまろく鈍い青。彼の性癖や口癖なども思い出せるのに、その一瞬一瞬切り取られた記憶の中に、自分の感情がまるで進入してこない。
 それを思うと自分の頑なで鉄のような心にうっすらとした絶望さえ抱く。その時は確かにディーを嫌いではなかったはずなのに、覚えていないというのはやはり薄情な証拠なのだ。
 リィザはそっと溜息になる。ディーを含めてチェイン地区の何人かを知っているが、その殆どは若い者特有の性急な粗野であった。ディーのように血の臭いを消し去る男は珍しい。
 まして女に丁寧に接するなど妓楼ではまさしく貴重な種類であったはずだ。
 けれど、結局は条件ではない。それを分かっていたからこそ、ディーは離れていった。チェイン王ライアンの宴席とやらがまたあるのなら、その時に一言謝らなくてはいけない。心を開けなかったことではなく、あれほど心をかけて貰ったのに、彼に何かを残してやることが出来なかったことを。
 謝ることではないかもしれないが、何かを残しておきたい気がしてたまらない。恐らく、彼が来なくなる以前よりもずっと彼のことを考えている。
 リィザはその矛盾にそっと苦笑し、また格子の向こうへ視線を漂わせた。ディーにあれだけ酷い仕打ちをしておいて、という自嘲をリィザは胸に聞いているが、それに構っている余裕はなかった。
 もう一度会わなくてはという信念に近い思いだけが、リィザを苦手であった腰台にずっと座らせている。
 ──初めて出会った時、自分は傷ついていた。
 酔った客に無理に抱き寄せられて、衣装の裾から潜り込ませた手が自分を勝手にまさぐり始めるのに恐怖さえ覚えて震えていた。止めて欲しいと何度も口にしたのに聞いて貰えなかった。惑乱と羞恥で泣き出してしまったことを責められて、済みませんとしか言えなかった。
 自分の謝罪は他人の心に届かないらしい。余りに豊かにありふれて流れてくるために、全く真実味が薄いようなのだ。平手で思い切り打たれ、喉を絞められて、一瞬これで死ねると思ったことを今この瞬間のことのように思い出す。
 死にたかったのかもしれない。客とのことはあまりに辛く、自分を取り巻く世界はあまりに冷ややかだった。
 あのまま虐め殺されたら自由になれるかもしれないとそんなことを思っていた。死に解放と救いを求めてはいけないと神様は言うらしいけれど、それを思わなくては生きていけない辛さはどうしたらいいのだろうか。
 けれど辛い辛いと呟くことは出来ない。この格子の町はみな、似たような境遇の女たちで溢れている。貴族荘園から引き離されたことをリィザはずっと悲しみ、未練を手放すのに長くかかってしまったが、そんなことはごく普通のことで、もっとひどいことを幾らでも聞くことが出来た。
 自分よりも哀れな人も沢山いる。例えばミアは家族が食い詰めて、冬を一家が乗り越える食料のためにここへ来た。シアナは娼婦だった母親が同棲していた男に追いやられて運河に身を投げた後、アパートの家賃の片に売られた。母親の遺産というべき金や宝石は同じ娼婦仲間が洗いざらい持っていってしまったのだという。
 だからあなたは恵まれているのだ、ということは誰も言わなかった。少しづつ不幸の根と種類は違うが、結局この妓楼にいるところで全ての帳尻はあうようになっている。この妓楼はタリアの中堅どころというあたりだが、女将がもっと格式高いところへあげたいらしく、日の売上のために無理な注文を取るということは殆ど無い。
 ──問題はリィザの頑迷な心なのだ。今でも自分の身に起こったことを理不尽だとなじり、悲鳴を上げ続けている。ディーもそれで失ってしまった。
 リィザはゆるく首を振る。ディーだけではなく、他の常連客にもリィザは顔向けできないことをしている自覚はあった。勤勉で怠慢な娼婦だと思ったことがあった。その感慨は強くなっても聞こえなくなることはない。いつもいつも、リィザの近くにいてリィザを非難し続けている。
 そんな中で、彼と出会った。あれは確かに何かの劇的な瞬間だった。
 彼は客に打たれた時に髪から落ちた造花を拾ってくれた。多分自分を見て哀れんだのだろう、そんな声を出していたはずだ。
 けれど格子の向こう側に彼を見つけた瞬間に、僅かな負い目は吹き飛んでしまったようだった。
 彼は美しかった。目を奪われるという意味を初めて知った気がする。
 彼は何かを口走るように喘いでいた。リィザは声も出せなかった。ただ、何かの予感か雷鳴のようなひらめきに撲たれて茫然と、目の前の奇跡に見入っていたのだ。
 あの時、確かに何かが起こっていた。自分も彼も震えていた。格子という籠のあちらとこちらでお互いを引き合うように凝視めあっていたのだ。
 それは天啓とよく似ていて、例えば農園にいた頃に小糠雨を見つめてやがて空が明るくなってくると、リィザはじっと予感をまっていた。何か美しいものに出逢うかもしれないと思うと胸が膨らむような期待があった。虹や蝶やそんなものでも嬉しかったのに、彼の面差しに溢れてくるような存在感が眩しかった。
 だから、二度目に逢った時、彼に何かが起こったことははっきりと分かった。夏の初めにリィザを見つめていた瞳の色は同じなのに、そこにあった零れるような命の火が揺らぎ明滅していて、全く力無い、ただあるだけのようなものになっていたからだ。
 魂が抜けてしまったようなぼんやりした、殆ど無気力というべき表情が胸に鋭く突き刺すように痛かった。顔立ちはあの時と変わらないはずなのに、そこに激しく強い光がないだけでまるで別人のようだ。
 礼を言わなくてはとリィザは思っていた。造花はあの時、ディーから貰った大切なものだった。その彼ももう自分の所には来ないと言ったきり、その言葉を守り通しているけれど、あの瞬間にはリィザにとって、数少ない安心して身にまとうことの出来るものだったのは真実だったから。
 けれど、礼だとか彼の名前を知りたいとか、そんなことは吹き飛んで、ただ傷ついた顔つきで不機嫌に部屋にいた彼を、自分はどうしたら良かったのだろう。話せと言われても咄嗟に思いつかない愚かさが自分で苛立たしかったが、彼の方はそれで更に機嫌を損ねてリィザに構わず一人だけの世界に籠もってしまった。
 悲しいと思い、今謝りたいと思うのはそのことだ。彼が何かによってひどく打ちのめされて傷から血を流しながらのたうち回っているのは分かる。それは既に理屈などで納得するようなことではないのだ。
 だから尚更悲しい。彼が一人で自分を慰撫しようとしたこと、自分の中の世界とその幻想の中に引きこもり、その幻想に現実を無理矢理合わせようとしたこと。何よりも、彼がリィザを側に置きながら孤独に易々と身を委ねてしまったことが、とてつもなく悲しいのだ。
 一人でいる孤独よりも、他人を側に置いた孤独の方が、数段悲しく、辛く、切なく苦しい。
 それは誰にも頼るよすがが無いということだ。外で傷ついた身体を癒すようにして女に依存して一時の安息を得ることをリィザは決して否定しない。誰かのために自分が頼りない糸のようなものにでもなれるなら、肉体的な苦痛はじっと甘受しながらでもいいと思う。
 けれど彼はそれさえしなかった。何か話せ、という言葉が自分と世界を切り離そうとする言葉で、もういいと苛々と呟いたのはリィザのことをその場所にさえ認めなかったという意味だ。
 あるいは、彼が寝転がっているときにふと手を伸ばした、あの指先を掴まえれば良かったのかもしれない。その仕草が何かを必死で探しているように見えて、余りに痛々しくて動けなかった。
 その後の急な衝動も、乱暴で唐突な手管も、ただ辛い。俺を見ろと言った時、彼の表情があまりにも静かで何も浮かんでいなかったことが。ひどく辛くて辛くて死にそうだというような目をしているのに、表情は凍ったように薄かったことが。
 その辛さが彼を見つめる仕草で自分の中に雪崩れ込んできそうだったから少しでも何かに触れればと手を伸ばしたリィザを振り払ったことが。──彼の美しく華やかな光を放っていたような面差しが、無惨なまでに輝きを失っていることが。
 彼に何をしてあげたら良かっただろうとリィザは考えている。少なくとも、単純な性的接触でないことははっきりしている。彼が欲しがっているのはもっと違うものだ。
 何を求め探していたのか、宙を攪拌するように伸ばしていた手が遂に何も掴めないのだと彼が知ってしまう前に、あの指を掴まれば良かった。私がここにいますと言ってあげれば良かった。怪我をした獣は慣れないと知っていても、強く胸に抱いて大丈夫と言ってあげれば良かった。
 大丈夫。大丈夫。
 今は辛くても、きっといつかいい未来がくるから、大丈夫よ──と。
 リィザは視線を格子の町の外へ流し、そして待っていた機会に近いものを見つけて声を上げた。彼の名前は知らない。けれど、確かに彼はこの妓楼の常連といえたから、顔は知っていた。
「待って、待ってお願いです! お願い、待って!」
 大きな声を出すことなど滅多になくて、それだけで心臓が破裂しそうだ。雑踏の人々が一瞬何事かと足を止める。その中にその少年の姿もある。一所懸命にそちらへ視線をやってどうにかかち合わせると、少年が意外そうな表情で俺? と自分を指した。
 リィザが頷くと、少し首を傾げたままで格子の前に立つ。彼はすらりと背が高く、手足がほっそり長い。笑顔がほどよく明るくて、嫌味がなかった。
 どうしたの、と聞かれてリィザは彼の袖を掴み、私、と言った。
「この前の……あの、……」
 リィザは言いかけながら、「彼」の名前を知らないことに気付く。あの人が、と言ったきり言いよどんでいると、少年の方が先に承知したらしい。ああ、と軽く声を上げて頷いた。
「奴ね、うん、奴がどうかしたの」
「この前……私、何も出来なくて、謝りたくて、それで」
 少年はゆるく笑った。気にしないでいいよ、となだらかに言われてリィザは首を振る。最初の時、ただ見つめるだけで言葉さえ殆どかわさなかった。そして次の時には彼の言葉に一筋も触れられなかった。  
「お願い、私が謝りたいと言っていると、伝えて欲しいんです。──お礼なら、何でもしますから……」
「何でもする、なんて簡単に言っちゃ駄目だよ」
 少年は苦笑し、奴のことは気にしないでよ、と付け加えた。
「あいつはちょっと苛々している。君に当たったなら済まなかったというのはこっちの方だと思うよ……色々あってね、今ちょっと荒れてるから」
 少年は肩をすくめる。でも、とリィザは強く言い募った。
「お願いです。この前は何一つ言えなかったから、今度はきちんとしたいんです。お願いします、お願い、あの人にもう一度会わせてください、お願い……」
 彼の袖を掴んだまま、リィザは項垂れるようにする。少年は困ったように溜息をついた。何かを思案しているのだろう、亜麻色の髪に手を入れてひたすらかき回しながら宙を睨んでいたが、やがて頷いた。
「一応伝えるだけ伝えておくけど、保障はしないよ。それでいいだろ? ……ねぇ、それともし、奴と話が出来たら……そうしたら彼に優しくしてやってくれないか。女の子が気にかけてくれたらもうちょっとましだと……」
 そこまできて少年はふと口をつぐみ、照れ笑いになった。そんな事を他人に頼む愚かしさを思い出したらしい。リィザはそれでも分かりましたと頷いた。優しくしてやって欲しいという言葉にちりばめられた、少年の気世話が良く分かったのだ。
 リィザの生真面目な態度に少年は少し顔をほころばせ、頼むよ、と今度は小さく呟いた。
「……あんた、奴がこの前別れたばかりの女とちょっと似てるのさ。だからってわけじゃないんだけど、なるべく親切にしてやって欲しいんだよ……俺が頼むのも変な話だけどさ、奴が来たらそうしてやって。金は奴に持たせておくから、頼むよ」
 少年は念を押して雑踏に消えた。リィザはほっと溜息になって格子から離れる。
 ともかく賽は投げた。これがどんな目を出すかはまだ分からないが、彼は……来るだろうか。そんなことをちらりと思い、リィザはじっと床を見つめ、深く頷いた。
 来る、という確信に近いものがひたひたとわき起こってくる。あの少年もそのつもりがあるのだろう。保障はしないといいながら、揚げ代の話まで口にした。
 リィザは待合いから離れ、裏階段から自室へ戻った。大抵部屋の中は片づいている……というよりは乱雑にしておく程の広さもないのだが、それを一度ざっと点検して髪を丁寧にとかした。そっと鏡台の引き出しを開ける。
 中にはいつか大切な人から貰った硝子の小鳥があった。若様、と呟いてそれに触れる。硝子の透明でさやかな質感が指にくる。若主人を恋していた頃、彼を思うだけで幸福だった。
 あの気持ちがあってよかった。リィザは微笑む。恋があって、その薄い悲観があって、それでも歓びがあって絶望があって、最後に希望があった。その形がまだはっきりしないことが自分にも辛かったし、それで見失ってしまったような思いもあったけれど、希望の光感を知っていればそれを思い出すことが出来るはずだから。
 じっと鏡の中の自分と向き合っていると、不意に表廊下の扉が叩かれた。小間使いの少女が客の来訪を告げている。
 リィザはゆっくりと扉に歩み寄って内側に開いた。静かにあらわになる面輪は彼だった。リィザと目線さえ合わせないで、ただむっつりと押し黙って立ちつくしている。その腕をそっと取ろうとすると、やはり拒絶だった。乱暴に振り払い、何だよ、とかすれた声を出す。
 リィザは中へ、と身体をずらす。仕方なさそうに部屋に踏み込んでくる彼の背後で扉を閉めて、リィザはありがとうございますと小さく言った。
 少年は振り返り、やはり目は合わせないまま、だから何だよ、と低い声を出した。
 リィザは少しだけ笑う。こんな声を知っている。いつか怪我をした狐が農場に紛れ込んだ時にこんな声で鳴いていた。自分に近付くものは敵だという威嚇、痛みがあって血を流しているからこそ、全身で抗う空気。
 だからこんな時にどうしたらいいのかは知っていた。リィザは微笑み、彼の方に迷いなく近付いていく。怯えたように彼が後じさる。じりじりと微妙な距離を残して彼が部屋の中へ後退するのをリィザは脅かさないように歩みよっていく。
「──やめろ」
 彼が不意に唸った。
「何の用だ、さっさと言えよ。俺は奴が約束をしたって言うから、それだけで」
「私、この前言い忘れたことがあって」
 リィザはじっと彼の目を見る。彼がリィザの視線から逃れるように目を閉じて在らぬ方向を向いた。
 それがやはり、痛々しくて胸に響く。可哀想だという声が耳の奥から、脳の底から、身体に流れる全ての記憶からわき上がってくる。
 何だよ、と彼が喘ぐように言った。リィザはそうっと手を伸ばし、彼の手を取ろうとした。少年がそれを振り払い、触るな、と怒鳴る。リィザはもう一度同じ事をする。再び少年がそれを叩き返す。更に同じ事をする。
 彼はぴくりと指先を痙攣させただけで、もう打ち返そうとはしなかった。
 リィザは彼の手を取り、あの晩出来なかったことを償うようにゆっくり、強く、柔らかく握りしめた。
 やめ……と言いかけて、彼が黙り込む。リィザを見なかった瞳がようやく正面に来て、ああやはり彼は美しいのだと感じる。
 リィザはじっと彼の目を覗き込むようにする。彼が微かに震えながら目を合わせてくる。
 最初の晩のように何の負荷も気負いもない目線ではない。あれから彼に何か決定的なことがあったのは本当だろう。けれど今、あの晩と同じようにリィザを見ている。最前の全く触れられなかった夜のようでなく、まっすぐにではないけれど、リィザを見ようとしている。
 リィザは瞳をそらさないままで彼の手に指を絡め、もう片方の手で彼の頬を撫でた。びくりと彼が反応する。震えが来ている。だからリィザはそっと笑い、目を合わせたままで大丈夫よ、と言った。
 ──不意に彼が呻いた。顔が歪む。
 それまで投げやりで虚脱したような気配が残っていた表情からそれが波引いていく。
 彼は微かに何かを呟き、首を振った。
「違う、俺は……お前は、彼女じゃない」
 リィザは頷き、違います、とはっきり言った。
「でも、私はここにいます。あなたの近くに。そして私はあなたの敵じゃありません。ただ、あなたに謝らなくてはいけないと思ったんです。この前、あなたに大丈夫だって言ってあげられなかったから」
 それを言うと、彼は首を振った。その仕草は否定ではなく、否定を偽装したもっと、という欲求であることは分かった気がしたから、リィザは更に強く言った。
「大丈夫よ、大丈夫。ゆっくり息をして、ゆっくり眠れば、いつか朝が来るみたいに希望が戻ってくるから」
 彼が何かを喘いで首を振り、そして希望、と唇をそよがせた。そう、とリィザは深く頷いて、彼の頬を両手で挟むようにしてゆっくり愛撫する。
 大丈夫、と言いながら撫でてやると、不意に彼がリィザの肩に触れ、一瞬迷って抱きしめた。それは殆ど縋り付くような形であった。
 微かに耳の側で震える吐息が聞こえる。泣いているのだ。
 リィザは彼の男にしては華奢な肩を抱き、ゆっくりと背中を撫でながら、大丈夫よ、と繰り返した。
「大丈夫、大丈夫。今は辛くても、きっといつかいい未来がくるから、大丈夫よ……」
 リィザが呟く言葉に彼が呻き、やがてずるずると跪いた。
 床に座り込んでリィザの肩に額を押しつけ、彼が泣いている。それをいたわるために彼の頭を抱きしめてやると、丁度リィザの胸の辺りに彼が頬を押しつけるようになった。
 母性というのはこういう気持ちなのかもしれないとリィザは肩を震わせて泣いている彼を胸に抱きながら思う。彼はしきりとエミリアと呟いていて、それがきっと彼が失ってしまった恋の名前なのだろうと悟った。
 むせび泣く彼の声に紛れて、遠く鐘が聞こえた。リィザは視線を上げる。もうタリアの日が落ちる時間だ。ふっと周囲が闇へ戻っていくのに彼も気付いたのか、怪訝に顔を上げる。リィザは火を消す時間なんです、と告げてこの部屋の明かりも落とした。
 その途端、世界は青い闇に沈んだ。こんな光景は初めてなのだろう、彼が不思議そうに天窓を見上げ、お前、と不意に言った。
「──この前は、済まなかった」
 声は涙の余韻で震えていたが、落ち着いて静かだった。リィザはじっと月明かりの中で彼を見る。彼もリィザを見ている。彼がリィザを抱いて寝台に倒れ込んだ。
 その瞬間、リィザは再び息が止まりそうになる。どんなに感情があったとしても、やはり身体が反射的に強張るのだ。本当は彼を抱きしめなくてはいけないと思うのに、いつもの苦役、ひどい苦痛の記憶が悪夢として目裏に蘇ってきてどうにもならない。
 リィザは喘ぎ、ぎゅっと目を閉じた。相手が誰でも苦痛であるならば、これにはもう期待は抱かないと胸に呟いた時、彼が手を、と言った。
「……手を、握ってて……離さないで、そのままにしておいて……」
 リィザは言われた通りにする。彼はそれで安堵したような吐息を漏らし、リィザに身を寄せて静かに目を閉じた。彼が自分を今抱く気がないことを知り、リィザは悲しくなるほど安堵を覚える。遊女としてはまったく有能でないことを彼に教えたいとは思わなかった。
 リィザも彼と同じように身を寄せ合い、目を閉じる。月の下で眠りに落ちていこうとするその間際、彼の呟きがありがとうといったのが聞こえた気がした。
 リュースはうんざりしながら唇を開いた。
「彼は私を助けてくれたのです。守護が遅れたのは私が両親と話があるために彼を遠ざけていたからで、彼が不首尾だったわけではない──同じ話を何度すれば彼を解放してくださるんです。彼は、私の大切な……」
 言いかけた先を、少し離れた高い位置に座っている魔導士が手を挙げて制した。リュースはむっと黙り込む。彼は他人に制御されることになれていなかった。
「殿下のご主張は最前からよくよく承知しておりますとも」
 話す魔導士の衣は通常の黒または暗灰色ではなく、長老会の一員であることを示すための鼠色だ。銀の仮面の額には魔導士たちの最高位を示す人面鳥の型どりがある。
「しかし、魔導士としての規範は必ず優先されるべきものです。殿下は彼の顔を見ていないと仰るが、それを我々がどう信じるかは別の話です」
「私が嘘をついていると言うのですか?」
 リュースは次第に不機嫌になるのを隠せない。苛立ちばかりが募る。
「私は本当に動けなかった。彼が私の瞼を閉じたらもう自分で開けることは出来なかったのです、毒性の判別にいつまでかけるつもりなのですか」
 つい強い口調になったことをリュースはすぐに自分で恥じ、俯いた。長老会の魔導士たちがゆるやかな吐息を漏らす。
「ともかくも殿下。彼が殿下をお守り申し上げるのは彼の義務です。絶対の服務です。なるほど刺客は取り押さえましたが殿下に構っている間に自決を許してしまった、それに殿下は見ておられなかったと仰いますが自室でない場所で仮面を外している。これは審議に値する重大なことなのです」
 そうですが、とリュースは頬を厳しくして溜息になった。
 薔薇の庭園で襲われた。刺客は一人であったようだが、よく覚えていない。首筋をかすった刃に何かが塗りつけてあったらしく、それでリュースは危うく命を落とすところだったのだ。
 マルエスの不首尾だ、という長老会の主張には理もある。マルエスが咄嗟に自決を阻止する手段をとらず、リュースの怪我に手を取られている間に呆気なくそれを許してしまった。
 何よりも高位の魔導士達が言うように、仮面を外すことは重要な違反だ。見られていたかどうかは考慮には入るが重要な項目ではない。マルエスが仮面を外したのは自分の首筋につけられた痕跡からの毒を吸い出すためで、その感触がうっすらそこにあったような記憶はある。確か四度までは数えたはずだ。けれど、それは重要では無いというのが長老会の見解であった。
 それに彼はリュースの護衛魔導士であったから、護衛が義務という言葉は正しい。本来は主人に退去を命じられても隠遁して同行するのだという内部服務はこの一件で初めて聞いたのだが、ではこれまでマルエスが下がってくれていたのはリュースの心を考慮してくれたという逆の証明であった。
 けれどマルエスがいないとどうにもならないことが多い。「彼」の捜索もそのうちの一つだが、日常や学問の全てに置いて、彼は良き相談者であった。実際の所殆どをリュースが一人で語っているのを聞かせている形ではあるが、それがいないのとはまるで違うのだ。
 服務規令違反であるという長老会の主張は間違ってはいない。けれどリュースにはマルエスが必要だったし、結局事なきを得たのも彼の功績であるのは本当だった。
 治癒の魔導は解毒であるならまず、その毒の種類から判定し、それによって化学式を書いた後に魔導言語に直してゆかなくてはいけない。つまり、その場では最も原始的な、傷口から吸い出すという行為がもっとも有効であった。
 マルエスは今すぐに処置をしないと間に合わないと踏んだ。事実リュースは身体の麻痺で呼吸さえ出来なくなりかけていたのだ。マルエスとて仮面のことを考えなかったとは思わない。けれど、それを捨てても自分を救おうとしてくれたことがリュースの心象の大きい部分を占めていた。
 ……と長老会には何度もマルエスの身柄を戻すように申請しているのだが、一向に許可が下りない。魔導士の審議には時間がかかると言われているが、半月も一人でいるのにはさすがに滅入りそうだった。
 毒物の判定が出来ればリュースの身体が動かなかった、という証言にも裏付けが出来る。マルエスの拘束はなるべく早く解きたかった。
 この事件のことは父が非公開に指定したから既に解決の糸口は断たれている。非公開にしたのはリュースへ刺客の手が伸びたことで、もう一人の皇太子候補であるカルアへ意味のない侮蔑が向くのを怖れたためだ。それはリュースも構わない。
 随従の魔導士が頻繁に立ち替わる中、それが自分との適正の試験であることは察していた。だがマルエスほどに馴染めそうな者はいない。彼とは長いな、とリュースは改めて思った。
「では、審議はいつ頃終わるのです。私はあのことでそう打撃を受けなかった。これはマルエスがいたからこそだと考えています。今後の安全のためにもう一人か二人申請を出しますが、私のことは彼が一番良く知っている」
「無論、存じております、殿下」
 言葉だけでかわされてリュースは苛々としている。毒素の抜けたあとの反動で微熱が続く体調をおして魔導の塔にまで出向いてきたというのに、結局面会さえ許されないのだ。
 マルエスは必ず返してください、とリュースは強く言った。「彼」の捜索のこともあって、やはり彼でなくてはならないことが多いのだ。考慮いたしましょうと魔導士達が言って、席を立とうとした。リュースはそれを呼び止め、もう一つと切り出す。
 マルエスを最終的に取り戻すのは別にして、長老会に要請することがあったのだった。
「それと、新しい魔導士の申請なのですが、一人希望があります」
 魔導士たちが頷き、席に座り直した。
 誰をご所望ですかと促されてリュースはカノンを、と言った。それが長老会の議場にほわんと反射して消えた瞬間、高位の魔導士たちが一斉に何かに撲たれたように身を固め、そして身構えたのが分かった。
 リュースはその空気に僅かに眉根を寄せる。カノン、と呟いている長老会の魔導士たちは一様にひどく狼狽えているらしいのだ。
「カノンで不都合がありましょうか」
 長老会の仕業にすでに倦んでいたリュースは自分の声が尖っているのを自覚したがあまり訂正する気にもならなかった。魔導士たちが机の下でリュースから見えないように手の無音会話を行っている気配がする。リュースがその時間に再び焦れてくる頃に、ようやく一人が口を開いた。
「了解いたしました、殿下。では後日、魔導斑紋の判定を卜占版にて行いますので結果をふまえて回答をいたします」
 リュースはじっと魔導士たちを見る。この至極当然の回答がでるまでの時間の早さには何かが潜んでいるような気配だった。だからお待ちなさい、と声をあげる。
「卜占版の斑紋判定なら済んでいます──マルエスにさせました。非常によい結果が出ております、問題はありません」
 事実、斑紋の合致はマルエスよりもよく揃ったのだ。魔導士たちが微かに唸ったのが聞こえた。これは何か特別のことらしいとリュースは気付き、上段の魔導士たちを見据えた。
「魔導士カノンを私の護衛魔導士に申請します。本人と話も済んでおりますので、長老会の追認を頂ければそれで発効します」
 魔導士たちが困惑のうなりを発した。マルエスのことを散々引き延ばされてきたことの溜飲を僅かばかり下げ、リュースはよろしくどうぞと姿勢を正した。
 と、中央にいた最高位の魔導士が分かりました、と低く言った。
「ではこれより同志カノンの転任について長老会で決を採りましょう──同志レガデラからどうぞ」
 リュースははっとする。この先が読めたのだ。レガデラという魔導士が否、と言うのが聞こえた。つまり五人全員の総意をもって否決の結論に至るということになる。その通りに五回の否が聞こえた後、長老会の結論は否決ですので申請は却下いたしますという決まり文句が振った。
 何故、とリュースは声を荒げた。途端にまだ万全でない体調が眩暈を訴えてくる。それを押し殺してリュースは何故ですかと問い直した。
「魔導士カノンはとても優秀な若手の魔導士である旨を聞いております。事実論文も良く書けておりましたし、術式も構成も非常に才能豊かです。私は私の今後の魔導学の研鑽のためにも彼を側に置いて相談を……」
「殿下、魔導士は殿下の玩具でも、魔導学の顧問でも、実験台でもありません」
 リュースはそれは、と言ったきり絶句した。最後の一言は魔導士たちの彼に対する怒りの代弁なのかもしれなかった。
 ──時間生成理論。あの「彼」がひねり出した新機軸の魔導理論。
 理屈としては確かに面白かった。最初にそれを懸賞論文として王宮内で読んだ時にはそれを書いた少女の指先と想念が作り出す、新しい世界の姿を見た気がしたのだ。
 けれどそれはまさに机上論であった。それに気付かずに「彼」も自分も、まったく危機感などなくそれと戯れていた。紙の上でならどんな想像も体系化できるのだということに気付かなかったのだ。
 リュースは項垂れ、あれは本当に申し訳ないことをしました、と呟いた。実験の失敗はそれが新理論の検証実験である時には起こりやすい。元々最後に発動の起爆を置く構成が多いために、失敗した時には通常何も起こらない。
 だが、時間生成理論は違っていた。魔導理論に他からいじりまわした数字を入れて一見意味のある数値にすることなど、何故しようと思ったのかさえ、今となっては分かりたくない。
 生成理論の実験は失敗した。引き歪んだ空間に実験に参加した魔導士を飲み込み、引き裂いてまったく違う場所へそれぞれ放り出したのだ。死体の回収には結局二ヶ月を要し、まだどこへ行ってしまったのか分からない部分が多い。結局それは人の身体では負担に耐えられないということだけが示された。
 あの実験に従事してくれた魔導士は長老会の予備要員を務めていた優秀な者であったと後で聞いた。今現在の長老会にもしかしたら入っていたかもしれない。
 魔導士は人ではありませんので生命に関してはお気になさらないでくださいと彼らは口を揃えて言ったが、それが本心だと思ったことはなかった。そしてそれは今証明されたような形になる。
 実験が停止され、理論の発展が凍結扱いになってもリュースはその論文を書いていた。致命的な欠点が何であったのかを解明すれば再びそれは新理論としての輝きを取り戻すはずで、そうなった時にまるで初期から考察が進んでいないことなど耐えられなかったのだ。
 同じ事を考えるのはやはり研究者で、魔導学の研鑽を積んだものは一様にこの新理論に興味を示した。実験の何がいけなかったのか、原因は何だったのか、そしてその他の予備事項の小さな実験からの開始。それがいつか重大な部分が解明されていく過程で役に立つはずだと信じている。
 けれどそれに対する非難は曖昧に提示された。リュースは分かりました、と顔を上げて長老会の魔導士たちを見つめた。
「魔導士カノンの申請と、私の護衛魔導士マルエスをお返し下さるなら、時間生成理論についての追求は私個人として放棄します」
 この理論の旗手が今や自分であることは承知している。つまり理論の発展の頓挫だ。けれどこれは新しく誰かがこれからも書くだろう論文を眺めることで宥めてゆくことも出来る。魔導学と縁を切るわけでもない。
 それよりもマルエスの返還とカノンの着任が優先だ。刺客などということも護衛魔導士が複数つくことで殆ど無に近いところまで可能性を下げることになる。両親の意向で皇太子の候補を降りるかどうかはともかく、将来にはこの国を支えるための要人となることは決まっているのだ。
 魔導士たちは彼にゆるゆると首を振り、多少哀れむような声を出した。
「残念ながら殿下、同志カノンの件についてはそれでも承認いたしかねます。何故か、ということについては我々の禁忌に触れるためお答えできません」
「……禁忌」
 リュースは呟いた。魔導士の禁忌は三つしかない。個人情報の秘匿、主命への絶対服従、長老会決定への絶対服従。主命と長老会決定の服従の内容が相反する時には長老会が優先される。これ皆全て、魔導の塔という特殊な組織が誕生した時から受け継がれている規則である。
 主命とは関係がないはずだ。彼は今変声期の預かりで魔導の塔へ多く身を置いているが、タリア王の元への出向になにか禁忌が絡むなど考えにくい。では個人情報と長老会決定のどちらかにカノンの何かが抵触するということだ。長老会決定はこの代だけでなく、大綱を練る意味での判例法のような使われ方もすることがある。その内容が極秘であるためにリュースでも見ることが出来ない。これを閲覧のために差し出せといえるのは、この国の皇帝だけであった。
 リュースが俯いているのに魔導士たちは殿下と言った。
「しかし、時間生成のことを諦めてくださると仰ることに我々は深く感銘いたしました。ゆえに殿下のそのお優しい御心に免じ、同志マルエスにはなるべく早い時期に殿下の安寧を保つ役割に戻すことをお約束いたしましょう、それでよろしいですね」
 取引にリュースは頷き、なるべく早く、と言った。
 外へ出ると夕方近い時間であった。長い間長老会の面々と話していたことになる。道理で疲労が濃いのだとリュースは溜息をつき、魔導の塔の正門まで歩き出した。そこからは近衛のついた馬車が用意されている。
 それに乗り込もうとした時、殿下という声が背後にうずくまったのを聞いた。リュースは振り返り、済まない、となるべく穏やかな声音で言った。
「お前の申請は撥ねられてしまった、済まないね、カノン。私にもっと力があれば良かったが……」
 リュースは言いながら苦い顔になった。皇子であるという身分は魔導士の組織の前、そして刺客の向ける現実の刃の前にひどく無力であった。私はもっと大人にならなくてはいけない、とリュースは強く思う。
 例えばマルエスを取り戻すのに取引にまでしなくてはならなかったり、カノンのことを命じる根拠が自分には何もなかったり、そんなことは一度経験すれば十分だ。
 聞こえておりました、とカノンは淡々と言った。それから何かを一瞬思案したような沈黙の後、実は、と申し訳なさそうな声を出した。
「私は何度か申請を長老会に出し、全てを却下されて参りました。ライン殿下のお相手役も、身長が一番近いという理由で選ばれはしましたが、待機期間での限定だと最初から申し渡されてもおります。私は恐らく、何かのために早く死んで欲しい者なのだと思われます」
「──そう。……でも、生きなくてはね。せめて自分が納得するほどまでには」
 リュースはカノンの手を取ってやる。カノンがありがたいことです、と彼の手を押し包むようにし、膝をついて叩頭した。
「いつか殿下に時機が参りましたら、私を呼んで頂きたいのです。長老会の決定に優先されるのは最後には皇帝陛下のご意志のみです。どうか殿下、お約束は結構ですが、これを私が申し上げたことをどうか、どうかお心の隅に置いていただけたら望外の幸福です」
 リュースは自分の足下に額をつける、少年魔導士を痛ましく見やった。彼は恐らく、自分とあまり年齢が変わらないはずだ。自分にも力が無く思い知ることばかりだが、彼の方が自分よりも沢山の制約がある中で生きている。魔導士の禁忌は破れば即ち死であることが多い。
 リュースはそれを慎重に避けながら懇願する少年に胸の痛むような憐憫を覚えた。これはいつか「彼」に感じた憐れみと同じ種類であるように思われた。
 カノンには才能があり、可能性がある。それが何らかの理由のために全てねじ曲げてゆかなければならないとしたら辛かったし、それを本人が辛いと思っているならば切なかった。
 ──彼は今、どうしているだろう。不意にリュースはそれを思い、カノンを見つめた。彼がカノンということはないはずだ……恐らく。けれど境遇や環境が似ている。彼に手を伸べるのと同じ気持ちで皇子はカノンを助けたかった。
 皇子は分かったよ、と優しく言った。カノンが殿下、と深く頭を下げた。
「論文、読んで下さってありがとうございました」
 リュースは曖昧に笑い、カノンの手を握った。
「また、その日に。それまで君も強くながらえておくれ」
 はい、とカノンの声が微かに潤む。
 リュースは遠い約束の為に微笑むと、近衛騎士が促すままに馬車に乗り込んだ。