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4.夏、紺青の海へ

 ───それは、深くて暗い色であった。心に潜むの深淵の、その更に奥にあるようなひっそりとした闇。通りを照らす沢山の灯火が夜の沼に映るようにぼんやりと輝いている。
 クインは僅かな時間、呼吸さえ殺して目の前に広がっている美しい闇を見つめていた。自分の目に映っている現象が一体何であるのかさえ考えられない、真っ暗で空白の時間。
 どこかで見た。やっとその沼から浮いてきた気泡が割れて、耳の奥で囁いている。どこかで知っている。見たことがある。この色を。瞳の深い美しさを。懐かしささえ覚える奇妙な既視感を、だが不思議と違和だとは思わなかった。
 懐かしい? 知っている? けれど、確かに初めて見る少女だ。それは間違いがない。就学していた頃も飛び級が多かったクインの身辺には、同年齢程度の少女たちは殆どいなかったはずだ。それとも流れていく先々の、沢山の町ですれ違ったのだろうか。けれど、多分出会っていたなら彼女を忘れない。それだけは何故かはっきりと分かる。
 ふっとその瞬間、瞼が動いた。瞬きであることにクインは一瞬置いて気付いた。それでやっと現実の知覚が戻ってきたようになる。
 周囲の雑踏とざわめきは普段と変わらない。けれど、ほんの瞬き一つの間の刹那、確かに時間が止まったような永遠があったことを、クインは半ば呆然と掴むように、自分の胸元あたりに手をやった。
 その耳に微かな吐息が聞こえた。少女が喉を僅かにならしたのだ。彼女もまた驚愕していた。大きな瞳の中の星々がこぼれおちそうなほど、一杯に見開いた目がじっと自分に当てられている。
 魂を吸われるような感覚を覚えてクインは微かに後ずさった。その下がった分を詰めるように少女が格子にすがりつくようにして、彼に指を伸ばそうとする。整えられよく磨かれた爪がそっと自分の袖に触れ、こわごわと撫でてから掴んだ瞬間、クインは淡いしびれのようなものに背をふるわせた。
 身体の末端が痛い。痛くて、───分からない。
 何かを言おうとしてクインは唇を薄く開き、そしてそこが渇いているのに気付いた。長い一瞬、目を閉じてクインは呼吸を深くする。そうすると胸の奥の痛みが僅かに切なく焦れて別の痛みに変わる気がした。きゅっと袖が強く引かれた。クインは再び視線を少女へ与える。
 よく見れば飛び抜けて見目の麗しい少女というわけではなかった。吸い込まれそうなほどの大きな瞳と、黒髪に良くはえる白い肌が美しいが、肌の方は年齢ゆえのものもあるだろう。化粧がごく薄いのは肌の元からの良さを全面に出す為の所作なはずだ……自分だってほとんどしないから分かる。
 少女はまだじっと彼を見ている。彼女の湖沼のように鈍く光をはらむ瞳に自分がいるのが見える。
 彼女が何故自分を見つめているのかは、クインにとっては考えるまでもないことであった。彼に出会う者たちはその時間の多少や驚愕の表現こそ違え、みな一様に彼の圧倒的な美貌の前に呆然とする。
 だが、いつものように何を見ているのだと意地悪く微笑むような仕草はどこかへ消えてしまって出てこない。だからそれ以外にどんな反応をしていいのか分からずに、クインもぼんやり相手を見つめ返すしかできていないのだった。
「お前……」
 クインは低く呟いた。とにかく何かを言わなくてはと思ったのだ。少女がゆっくり頷く。視線だけは彼にぴたりと合ったまま動かない。
 大きな目だ、とそんなことを思った。吸い込まれそうなほど。
 お前、とクインは二度目を言いかけた。だがその後何を続けようかと一瞬迷った彼よりも、気の張った女の声の方が強く、そして早かった。
「リーナ!」
 はっとしたように少女が身を痙攣させ、振り返った。さら、と黒髪が流れて落ちる。片方落ちた髪飾りが押さえていた部分がほどけたせいで、編み込んだ髪が多少甘くほどけてきている。その不揃いさがかえって目に焼き付くようだった。
 リーナというのがこの少女の源氏名であるようだった。リーナとは矢車草の薄紫の品種を意味する。なるほど、彼女の赤い衣装の裾には淡く光る金の糸で矢車草の刺繍があった。
 おいで、と女の声が続けている。その声の方向を見やれば、恐らく遊女たちの部屋へ続く回廊の入り口にあつらえた帳面台に陣取る中年の女が見えた。この女だけは遊女の赤や見習いの白といった符丁のある服を着ていない。通常町中で見かけるような、きちんとした仕立ての灰色の長衣に黒い編み糸のショールを羽織っている。つまりは女将であろう。
 女将の隣には中年の男が帳面台によりかかるようにしてリーナを見ている。彼女を指名した客なのか、少女に向かって軽く手を振った。少女は頷き、クインを振り返った。そして三度かち合う視線の中にお互いを見つけて、少女は困惑したように首を傾げる。
 何だよ、とクインは囁いた。少女は首を振った。その曖昧さに焦れたようになって、クインは思わず顔をしかめた。
「何だよ、言いたいことがあるなら言えよ」
 つい乱暴な早口で言ってしまってから、クインはそのために更に渋い顔になる。些細なことですぐ苛立って噛みつく癖がこんな時には自分で舌打ちしたくなるほど疎ましい。
 少女は驚いたようにぱちぱちと目をしばたかせ、それからまた首を振った。彼女の視線がするりと自分の顔から落ちて、格子の下の方へ流れていく。つられるように目線を追って、クインはやっと少女の迷いが何であったのかを分かった。
 自分の足下に転がっている百合の造花を拾い上げる。そうだ、自分はこれを拾ってやろうとしたんだっけ───ほんの僅かな時間の中に濃く深く凝縮された深奥を感じていたせいなのか、ひどく長い時が過ぎた気がするがそれは錯覚だ。何故なら、妓楼を探して彷徨っていた頃と同じ声がまだ同じ歌を歌っている。
 クインは造花をつまんで格子越しに放り投げた。明るい灯火に踊るように百合花がふわんと宙を飛んで彼女の足下に落ちる。少女は造花を大切に拾い上げ、彼に向かってやっと笑った。
 その途端、目を引くような何もない、ごく平凡な面差しが急に様変わりしたようだった。含羞のような仄かな恥じらいを含んだ微笑みは、確かに何かが違う。大仰な美少女ということでは決してなかったが、その笑みには何かの強い力があった。───ほんの僅か、ぽかんと見つめてしまうほど。
 その一瞬が通り過ぎた時、クインはぶるっと一つ震えた。背中の皮膚が粟立っている。
 胸に急に噴出してくるぬるい感情が何であるのか、その瞬間にクインには分からなかった。ただやわらかな湯のようなものが胸の一番奥深い部分にたゆっている。何かがそこにぽつりと灯る───ような、ぼんやりした、曖昧な、感覚。
 それをこわごわ確かめるようにクインは自分の喉元辺りを指で押さえた。かすかに脈打つ血管がやけに敏に伝わってくる。
 何か言おう。そんなことをふと思ったのに唇が動かない。真冬の雪に凍えた時と同じように重く堅く、ぴくりともしなかった。
「……リーナ!」
 先ほどよりは焦れた声が再び促した。少女はさっと振り返り、こくりと頷く。そしてクインの方へ向き直って百合の花を胸に当てるような仕草をした。
「あの……」
 少女の唇が動いて、やっとそれが彼女の声だと気付く。声は細く、弱い。消え入りそうな小さな声だが、面差しや表情ほどは幼くはなかった。けれど、やはり懐かしい。理性の部分ではこれが全くの錯覚だとわかっていても、ひどく遠い匂いがした。
 クインが彼女を見ると、僅かに頬を赤らめる。その頬のふわりとした明るさを見た瞬間に、血の気がかあっと自分の方にあがってきた気がした。クインは慌ててつんと顔を逸らす。反射的に怯んだのだ。
「あの、花、ありがとうございました……」
 囁くような声にクインはそっと視線を戻す。少女はクインが自分の方を見たのが嬉しいのかほっとしたように笑い、深く腰を折った。彼女の髪が肩を滑り落ちる。その圧倒的な量と黒い色の輝きは、夜の滝のようにも見えた。
「ん……ああ、別に」
 素っ気なく返事をし、クインは頷いてみせる。少女はもう一度彼に礼を言い、背を返した。ゆっくりと遠ざかっていく。
 クインは彼女の後ろ姿をぼんやりと見つめた。少女は振り返らない。女将と客の男が待つ帳面台まで辿り着くと、女将の言葉に首を振ったり頷いたりしている。男が彼女の頬を撫でながら女将に何かを言った。女将がしまりなくしどけない笑みを浮かべたから猥雑な冗談でも言ったのだろうか。
 彼女の方は俯いてしまったが、恥じ入っているのか、男の方は上機嫌だ。やがて少女が男に何かを囁いて二人は回廊の向こうへ消えていく。クインはそれを見ながら今から彼女をあの男が抱くのだという現実につきあたり、ふと奇妙な苛立ちにかられた。
 あの女、一体どんな顔をしてどんな風に啼くだろう? けれどそれが自分の前に他の男が知っていることがたまらなく不愉快だ。ぴくりと頬が不機嫌ゆえに引きつったのをクインは感じ、舌打ちした。一瞬の交感にうつけて惚れたのなんだの言い始めたら、まるきり自分が馬鹿に思えてくる。
 多分あの瞳のせいだ。あれが吸い込まれそうなほどに大きくて深い色をしていたから、どこかで見たことがあるような懐かしさだったから。そのせいで心が落ち着かないのだ。
 どこで見たのか、あの少女でなくても類似した者を自分は知っているような気がしてならないが、それが何であるのか見当が付かない。苛立ちはそのせいだろう。昔から、自分に理解できないことがあるのが途方もなく気分を悪くする。
 突然こんこんという音がして、クインははっと顔を上げた。この妓楼の女将であろう帳面台にいた女がクインに練れた笑みを向けていた。
「───何か用事かい? それとも気に入った娘でも?」
「え? ……あ、いや、別に、用事じゃ」
 咄嗟のことにクインは相当きょとんとした顔をしたらしい。女将は小さく笑った。昔は美女であったろう面立ちは、笑うと意外に深い皺が出る。見かけよりは年齢が上なのだろう。
「用事じゃなければそこをどいて欲しいんだけどね。外からのお客が中を見る為の寄席場所だから」
 言われてクインはやっとその妓楼の中に足を入れた。食堂で給仕をしていた女たちや客たちの視線が一瞬、怒濤のように身に流れてくる。それにいつもの薄い笑みを放り投げてやると、やっと自分の余裕が戻ってきたような気分になる。あの少女と目が合ってそれがなんだか懐かしかっただけのことで、ひどく調子を崩していたのだ。
「ここ、一晩いくら」
 クインは帳面台にさきほどの男がしていたようによりかかりながら言った。女将は彼をちらりと見て、少し意地の悪いような微笑みになった。
「うちはただの旅館じゃないけど?」
 からかわれているのだとクインは女将をきっと見据える。彼の視線のきつさに女将は苦笑して悪かったね、と呟いた。
「でもこんな店は初めてだね? 指名があるなら娘の名を、ないなら部屋が空いているかどうかを聞くんだよ。娘たちの格によって値段は全然違うからね。指名がないなら空いている娘の中からあたしが適当に見繕う」
 クインは頷いた。女将の看破したとおり、妓楼に足を入れるのも初めてであったから、妓楼の仕組みなどは知っていても実地のことは何も知らないのだ。勿体ぶりもせずに淡々と教えてくれた女将に安堵し、クインはこれ、と耳から真珠の粒を外した。
「これで大体どの女でも足りる?」
 女将は彼から真珠を受け取り、鑑定用の小さな拡大鏡でしばらく見ていたがやがて大きく頷いた。
「───十分だね。うちの一番いい娘でも買える、いい真珠だこと。指名は……ないんだったっけ」
 クインは首を振る。彼女のことですっかり飛んでいたが、やっと自分がここに何をしに来たのか思い出したのだ。
「他の奴から聞いて……ライアンっていうチェインの頭がいるだろう? そいつの女がいい」
 女将は長い溜息になった。あのね、と続ける言葉がやけに優しい。だから断られるのだとすぐにわかった。
「どの妓楼も同じだけど、どの遊女にどんな客が付いているかは極秘なんだよ。うちの娘たちにも、娘同士で客の個人情報の話なんかはしないようにしつける。組合に入っている妓楼はどこもそうだ。だから、例えばそのライアンっていう男がいたとして、うちの娘を可愛がってくれてるってことがあったとしても、あたしはそれが誰だかを教えるわけには行かないね」
 客の個人情報は教えるわけには行かないと言われるなら、それも道理であるかも知れなかった。だからクインは別の方向から食い下がる。
「俺がライアンと知り合いだって言っても?」 
「じゃあ源氏名を聞いておいで。聞けないならそれはそういうことなんだよ」
 女将は素っ気なくやり返し、クインの手に真珠を返した。
「で、どうする? あたしに空いている部屋を聞く? それともそっちの食堂で食事でもしていく? 給仕に出ている赤い衣装の子が娘だから、好きな子を選べばいいが。ああ、その場合は指名料は半額つけてもらうからね」
 クインは女将の視線の先にある食堂を振り返った。確かに赤い衣装を着た遊女たちが客の合間を縫っては酌をしたり給仕をしたり、男客は大抵一人だが、一人で黙々と飲み食いしている者は見あたらない。そこで女を選ぶという行為がどことなく腑に落ちなくて、クインは首を振った。そう、と女将は自分の提案に拘泥せずに頷いた。
「それで、どうする。あがる? 帰る? ……それともリーナが空くまで待ってるかい?」
 先ほどの邂逅を見られていたのだと気付いてクインはぱっと自分の頬が赤らむのを感じた。女将は少し笑った。
「あの子がいいなら待っていればいい。あんたは綺麗だから放って置いてもうちの娘たちが相手をしたくて焦れてるよ」
 クインは食堂の方を振り返る。と、いくつかの視線が彼の面輪に当たってほころぶように微笑み咲いた。どれも美しく着飾った女たちであったが、やはり誰からもリーナといった少女に感じたような力はなかった。
 クインは曖昧に返答し、リーナ、と聞き返した。女将は頷き、1刻半もすれば相手が出来るはずだと付け加えた。他の男と寝た直後に買うかと聞かれている生々しさにクインは怯み、首を振った。それはとんでもなく悪趣味である気がしてならなかった。
「いいよ、また来る……リーナ、だっけ、彼女、高い?」
「指名料込みで晩酌が50ジル、泊まりが80ジル。他に飲み食いするならその値段だね」
 クインは苦笑した。それは彼の一晩の値段の僅か10分の1だったのだ。女将はその笑みをなんと思ったのか、帳簿をぱたりと開いて明日、と言った。
「明日は指名が入ってないから相手が出来る。もしあんたがその気があるなら今予約入れていってもらえるなら、少しまけるけど」
 クインは首を振った。明日の夜は夜間の看護学校の入学試験がある。医療の実践と現場を知る為に、クインは看護学校の試験を受けるのだ。首席で試験に通れば学費もかなり特待で安くなるとそれなりに勉強もしてきたのだから、これを放り出すわけにはいかない。
 それから先のことは仕事の予定をチアロかオルヴィからか聞かなくてはわからなかった。
「いや、先のことは俺にもわからないんだ。……今日は帰る」
 クインはそれだけいって帳面台の前を離れた。またね、と女将の声が追いかけてきたがそれには振り向かず、手を軽く振ることで挨拶に代えた。

 住処にしているアパートが見える角を曲がると、部屋に灯りがついているのが見えた。誰かが来ている。少なくとも、だからライアンがオルヴィと密やかに関係を持つようなことは行われていないのだろう。
 クインは僅かに溜息をついた。安堵したことが自分でひどく屈辱的な気もするし、それでも多少は楽になった恩恵にそのままおぼれてもいい気もする。そのどちらに気分を定めるのか思案したまま、クインは自室に辿り着いて扉を開けた。
 入ってすぐにある居間の長椅子にゆったり背を預けていたライアンが、いつもの彼の煙管をくわえたまま、クインに視線を流して頷いた。クインは薄く部屋に漂う煙に眉をひそめ、軽くあごをしゃくった。最近は彼に対して不機嫌な態度を取ることが多い。
 クインの仕草で何を言われているのか悟ったのだろう、ライアンは煙管を灰切りの皿にもたせかけて天窓下の椅子の上に立った。天窓を開ける。ゆっくり手で空気を攪拌して煙を追うが、一瞬充満していた臭いだけはそうそう消えそうになかった。
 クインはライアンが降りた窓下の椅子に座った。何故彼がここにいるのかはわかっている気がしていた。あの客からオルヴィへ、そして彼女からライアンへ、連絡が回ったのだろう。ひとしきり小言でも言うのだろうかとそれを意地悪く待ちかまえていると、ライアンはクインのそんな表情に気付いたのか、薄く唇だけで笑った。
「お前が自分で自分の客を減らすのは勝手だ、好きにしろ」
 いつものように突き放されて、クインは唇を歪めた。ライアンの興味も関心もまったく引きつけておくことが出来ないのは昔からだが、焦れた思いが沈殿しつつあるこの頃には尚更彼の態度がクインの胸をひっかくようだ。
 ちりちりいう痛みを身体のどこかに聞きながら、クインはそう、と声音だけは素っ気なく返した。ライアンは長椅子の背もたれ越しにクインを見ると苦笑したような吐息になった。
「オルヴィの仕事だけ容赦がないな、そんなにあれが嫌いか」
「チアロ以外はみんな嫌だね」
 そこにライアンを付け加えなかったのは当てつけでもあるし、半分ほどは本気かも知れなかった。ライアンの関心の薄い態度を目にする度に、ひどく苛立つし怒りを覚えるし、そして最後には自分自身の持つものの少なさについて思い知る。嫌味に気付いたのかどうか、ライアンの返答はなかった。丁度草が切れたのか、灰切り皿にこつこつと煙管を叩いている。
「何しに来たんだよ。用がないなら帰れば? とってもお忙しいんだからさ」
 クインは極力つまらなそうな声音を作って言った。
 ライアンは曖昧に首を振りながら、腰に下げている煙草入れに手をやっている。中身を変えようとしたところでクインの先ほどの渋い顔を思い出したのかそれをやめたが、代わりに吐き出されてきたのは煙よりも胸に悪い言葉であった。
「悪態がつけるくらいならお元気そうで何よりでございますな」
 自分の嫌味に同じような辛辣が戻ってきてクインはむっと唇を結び、ライアンに聞こえるような舌打ちをした。
 ライアンが振り返り、淡い苦笑のままで長椅子を立って彼の隣あたりの壁に背もたれた。その手がぽんぽんと軽く自分の頭を叩く。子供扱いに怒ってクインが首を振ると、ライアンは懐から小さな包みを取り出して彼の手に握らせた。口を縛る朱紐をほどくとそこからクインの爪先ほどある翡翠が転がり出てくる。
「しばらくタリアを離れる。チアロを残していくから大体のことは用足りるはずだが、何かあったら使え」
「しばらく……って、どれくらい」
 さあな、とライアンは返答を濁した。分からない、と付け加えてライアンはまた腰に手をやった。煙草飲みの習性が自然とそうさせるらしい。
 クインはライアンの手を軽く叩いた。煙草の制止である。叩かれた手をライアンは軽く振り、溜息になった。その指先が手持ち無沙汰に空間を彷徨うのを自分の指を絡めて引き取ろうとすると、ライアンは素っ気なくそれを振り払った。指が離れる一瞬、強かに打ち返してクインは場を離れた。
 居間を挟んで二つの部屋が相対するという簡単な作りの部屋の、片方は寝室でもう片方は書斎として使っている。あまり整理整頓というものが得意でないクインの性質を反映して、居間も寝室もそして書斎も乱雑にものが散乱しているが、その書斎の床に放り出したままの生物学の本を拾い、クインは机の前の無炎灯のつまみをひねった。部屋が本を読める程度には明るくなる。
 開け放したままだった扉がこつこつ叩かれて、クインは不機嫌にそちらを見た。ライアンはゆるく苦笑を浮かべていた。
「たまには顔を見に来てやったのに、そんなに不機嫌にならなくてもいいだろう」
「ふぅん、来てやった、んだ? どうせチアロにうるさく言われたんだろ」
 本の字面に目を走らせるようなふりをしながらクインは返答を待ったが、違うという答えは遂に聞かれなかった。
 クインは軽い溜息と共に本を開いたまま、ライアンを斜めににらみ据えた。
「別に、あんたのしけた面なんか見たって嬉しくないね。しばらく出かけるから俺にお小遣いでもやりに来て下さったんでしょ、チェイン王陛下様々。有り難くも勿体なくも恐縮至極に存じ奉ります……で、用事が済んだんだから、帰れば?」
 ライアンは吐息で笑い、クインの背後から彼の開いた本をのぞき込んだ。彼は字を読めないが図版や写真の具合で学術書だということくらいなら分かるのだろう、熱心だなと呟いている。
 微かにそのライアンの呼吸が首に掛かってクインは身をよじった。他人と寝るのに慣れてきた身体が、愛撫ではないのに僅かに反応しようとするのだ。その反射にクインはきゅっと唇を噛み、乱暴な仕草で立ち上がった。ライアンを睨みながら、彼を振り向く。
「……帰らないの?」
 読みかけの頁に指を挟み、クインは空いた方の腕を伸ばして指先をライアンの胸に強くつきつけた。夏の薄い綿生地を通して、彼の呼吸と体温が僅かに伝わってくる。
 その瞬間に、自分が彼の身体を欲しているのは確かだった。男と寝ることに既に抵抗感はない。自分の身体に道筋をつけたのはライアンだったし、最初の夜が過ぎてもクインが客との行為に慣れていくまでは時折関係を持っていた。
 けれど最近は全く記憶にない。ライアンがタリアの自警のことだけで引き回されていた頃にもあまり会わなかったのだが、最近新しく麻薬の取引筋を一つ手にしたようで、ライアンはそれにかまけて殆ど姿さえ見せない。二人でいることなど、ここしばらくの記憶にまるで見あたらなかった。
 彼に欲情しているのか、それとも単に欲求を解消したいだけなのか、クインは判別しようとしてやめた。数少ない記憶の中で、ライアンが彼を抱く時にだけはひどく優しかったように思われて、それにすがりたいのだろう。何かの温かなもの、愛でなくともそれに似たものの熱を感じ取ることが出来たのは、結局この男だけだったから。
 チアロに縋り付こうとした時、友人はそれを丁寧に拒否した。それはチアロの彼を気遣う心根から来るものであったから不愉快ではなかったが、チアロ以外に心を許せるというならば、やはりライアンしかいなかったのだ。
 自分とその身体と、抱えている破裂しそうな胸の中の何か。小綺麗な器と自分でも持て余しかけている中身の熟爛を過ぎようとしている溶液。それ以外に自分に何かがあるのか、確かめたい。何でもいい、誰かから愛されるような何か───自分の価値。
 母マリアの為に生きていかねばならないことは分かっている。それは彼にとって決して苦役ではなかったが、けれど、それだけなのか。
 俺の価値は、今ここにいる身体と心の意味は、それだけの為に在るのだろうか。
 誰かの為にというなら容易い。母の為にと呟くならそれは決して間違いではない。確かに自分はそのために生きている。
 だけど、でも、俺は?
 俺のために何かはあるのだろうか。俺の為に誰かがいるのだろうか。俺を見て、俺を信じて俺を頼る、俺の相手が。
 多分それはライアンではないのだろう。けれど、今この瞬間に、彼しかいない。肌を重ねる感触に擬態させながら心ほどいて誰かに甘える方法を、クインはこれしか知らない。
 クインは本を挟んでいた指から力を抜いた。本が床に落ちて紙が折れた音がした。
「───帰らないなら、煙草は、いやだよ……」
 彼の胸元へ刺すようにあてた指をしならせてずらし、やがてそっと掌を押し当てると脈が打つのが微かに分かった。クインはライアンの心臓の辺りへ手を這わせながら、彼の目を見ないように自分の指先を見つめた。
 自分の造形美にはクインは一点の曇りもない自負と自信を抱いている。その通りに男にしては華奢な体つきにそぐわう指の細さが頼りなげで、自分でそれに腹が立った。クインが僅かに目端を歪めた時、手首が掴まれた。
「お前は、俺からもう一度同じ事を聞きたいか」
 低い声が言った。クインは黙りこくったまま、掴まれた自分の手首あたりにぼんやり目線をやった。
(俺はお前の保護者でも愛人でもない)
 ライアンの声が遠い記憶の底から低い声で呟いている。クインは唇だけでそっと笑い、返答をせずに俯いた。彼の顔を見ることが出来ない。自分の中にあるものを見透かされてしまいそうで怖かった。
 クインの沈黙がじっと時間をやりすごしかけたとき、ライアンの溜息がした。
「既に契約は終了している。俺はお前と寝る気はない」
 その声にクインは反射的に顔を上げた。契約という言葉が凍ったような胸の中に唐突に切り込んできたのだ。冷えた怒りが背を駆け上がってくる。
 クインは手首を掴んでいるライアンの手を乱暴にふりほどき、視線に強い力をこめて睨み据えた。
「……契約? 俺はそんなことを言った覚えなんか無い。あんたが何をどう解釈するのはご勝手だけど、俺は知らないね、そんな約束は」
「約束だと? 俺も知らんな、約束なんてものは。既にお前にやった金額の分は俺は取り戻したと言ってるんだ」
 彼が最初にクインに与えた1万ジル分は使い切ったと言い、ライアンはクインの視線を同じように睨み返した。クインは舌打ちをしてライアンの肩を突き飛ばすようにし、その勢いで自分の方がよろめいて下がった。
「俺はあんたに金を払えって言ったかよ!」
 怒鳴り、クインはかあっとなってきた頭を宥めるために、左のこめかみを指で押さえた。ライアンが溜息をついたのが聞こえた。
「お前の商売はそれだろう。金は要らない? 俺をお前の愛人にするつもりか? それこそそんな話はどこでしたのだと聞きたいが」
 クインは言葉無く顔を歪めた。ライアンの言葉に何かをたたきつけてやりたいが、言質という意味においてはライアンの言うことが事実だ。クインは縋り付こうとし、ライアンはそれを避け続けているのだから、言った言わないの話になると具合が悪い。
 けれど、そんな些細なことではないのだ。
 俺は、と言いかけてクインは呻いた。自分の怒りも苛立ちも、その根底にある飢えて吠える獣のような声も、全てを言葉にすることはとても難しく、どれも的確でないのは分かり切っていた。何を訴えてもライアンの面差しに歪み一つ与えられないことも。
 だからクインはもっと直截なことをした。自分が床に落とした本を拾い上げ、それをライアンに叩きつけ、帰れよ、と叫んだ。
「帰れよ───帰れ! 知らない、あんたの顔なんかしばらく見なくたって俺には関係ないんだろう! だったら嫌味だけ言いに来るなんて、あんたも案外暇なんだ?」
 殆ど脈絡など通っていない言葉にライアンが小さく鼻を鳴らしたのが聞こえた。それは冷笑と呼ぶべきものであった。
「そうだな、俺もそんな気がしてきた。お前の癇癪の相手など出来るんだから、俺も思っていたより時間があるらしい」
 クインはライアンにさっと手をあげた。何かの言葉も怒りも、全ては反射的な仕草の方が早かった。振り下ろした手はライアンに当たらない。体術ということについてはライアンの方が彼の数段上におり、全く暴力では歯が立たないのだ。
 打ってやろうとした手をするりとよけたライアンが、その手首を素早く掴む。その次の瞬間に訳の分からない眩暈がして、世界がぐるりと一周回った。どさりと床に投げ出され、クインは僅かな時間、ぼんやりする。
 つと肩に掛かっていた引きつるような重みが消えて、それですとんと体重が床に完全に落ちた。ライアンがクインの手首をようやく離したのだ。横に立つ彼を見上げると、ライアンは軽く首を振った。
「お前は自分で自分の吠える声に苛立っている。俺は巻き込まれたくない。もう充分だ」
 激高するでもなく淡々と呟かれた言葉に、クインはそう、と重い声を出した。のろのろ立ち上がって本を拾い、軽くほこりを払うような仕草をしながら呟いた。
「なら、さっさと帰れよ」
 一瞬の間をおいて、ライアンが溜息をついた。お前……と何かを言いかけ、奇妙なところで言葉を句切る。クインも顔を上げ、戸口の方を見やった。確かに扉が開いた音がしたのだ。
 軽い足音がして、部屋の中を覗いたのはオルヴィだった。女としてはやや長身に属するが、やはり女である体の線は明確だ。
 お前か、とライアンが僅かに肩から力を抜いた。オルヴィが彼に簡単な会釈をする。クインはふんと頬を歪めて鼻を鳴らし、何だよ、と不機嫌に言った。
「すっぽかしたんだって?」
 オルヴィの声は低めの苛立ちの範囲に属する冷ややかさであった。だから何だよとクインはつまらなそうに促す。オルヴィは不機嫌な声音のまま、淡々と言った。
「私の時だけそんなふざけた真似をするならもう私は仕事をあつらえない。全部チアロにさせればいい。その代わり、私の繋いできた客に対する始末だけは一度つけてもらう」
 謝れ、という意味であろう。クインがなんと噛みついてやろうかと身構えると、ライアンの声が駄目だと入ったのが聞こえた。
「お前とチアロでこれを切り回すように俺は言ったはずだ。俺に無断で勝手はさせない」
「ライアン」
 オルヴィはクインにする時よりはやや温んだ声を出した。クインは不愉快な気分をますます濃くして眉をひそめた。その声に滲んでいる僅かなおもねりを感じ取ったのだ。
「───態度をわきまえろってことさ」
 ライアンが何かを言う前に、クインは素早く割って入った。オルヴィはそう、と簡単に頷いた。
「……伝えておく。今日の客はもう一度あんたをご指名だ。引継はチアロに伝えてある……あんたが今度はすっぽかすかどうか、帰ってくるのが楽しみだな」
 クインはそう、と何気なく話を流したが、そこに含まれている毒はすぐに察知することが出来た。帰ってくるとオルヴィが言うのならば、ライアンがタリアを離れるのに彼女も同行するのだろう。それをわざわざ言葉にしないで提示しているのだ。
 だからクインはオルヴィに向き直り、華々しい笑顔を浮かべて見せた。
「伝える必要なんか無い。俺はあんたに言ったんだよ」
 オルヴィは僅かに眉を上げ、そして頷いた。クインにとっては相変わらず、冷徹な壁しか感じない相手であった。軽く彼女を睨むと同じような視線が返ったが、さほど長くは続かなかった。オルヴィはライアンに軽く頭を下げる。それは先ほどの自分の発言についての簡単な謝罪のようだった。
 それが済むと、彼女はクインに迷い無く近づいてきて、一枚の紙切れを差し出した。
「次の仕事だ。最前のご希望通り若い女だから、せいぜい楽めばいい」
 オルヴィの手から紙片をかすめるように奪い取り、クインはその内容にざっと目を通した。女客の時にはいつもの連れ出し用の貸し部屋ではなくタリアの外の宿を使うから、場所は毎回変わった。メモには姉妹ということで部屋の予約が取られていること、使う偽名などが記されている。クインは分かったと紙片を机の引き出しにしまいこみ、あごをしゃくった。
「用事が済んだら帰れよ、……二人とも、だ」
 オルヴィが何かを言いかけたのを、ライアンが首を振って制した。彼女の肩を軽く叩いて出ていく背に、クインはよいご旅行を、と怒鳴った。オルヴィだけがちらと振り返り、頬で暗く笑った。それは恐らく、クインに対する嘲笑とライアンの一件の勝利の顕示であった。
 クインはぎりっと奥歯をかみ合わせた。オルヴィのこれみよがしな態度は彼の神経をいつでも一番嫌な音の不協和音で逆撫でる。あの女に小馬鹿にされたのだという屈辱感とライアンへの怒りが急速にあがってきて、クインは拳を握りしめた。中で爪が皮膚につきささるようで痛い。
 戸口が閉まる小さな音が聞こえた瞬間、それが悲鳴になってこぼれた。何にどんな怒りをたたきつけていいのかさえ、知り得ない。
 胸の裂かれそうな苛立ちと痛みと、もの狂おしい怒り。それらに翻弄されるようにクインはふらふらと寝室へ歩き、寝台へ身を投げた。
「母さん───助けて……」
 呟く言葉に救いと癒しを求めても、彼の聖母は遠く離れた場所にしかなくて、彼を暖めてくれる魔法とはなりそうになかった。

 初夏のまっすぐな日射しがようやく茜にゆるむ頃、クインは夏用の薄いワンピースに着替えて地下水路へ降りた。水路に降りて複雑な迷路をどうにかくぐればタリアの境界門にほど近いアパートへ出ることができる。
 どこへ行っても彼の突出した美貌は人の目を引いたが、タリアの中ではそれが悶着になることが多い。いちいち声を掛けてくる連中の目的は結局は彼の身体であったが、相手をするのも面倒で、最近は尚更他人が疎ましかった。
 ───疎ましい、くせに、ではライアンがタリアから消えるとどこか物足りない。それをライアンの不在ゆえだと結論してしまうには内心の矜持の抵抗は頑迷であった。クインは水路からあがる階段を上りながら舌打ちをする。ライアンにこれほどまでにこだわる心根が一体何であるのか、クインは自分でもよく分からない。彼は確かに自分の愛人やら血縁やらではなかったし、そうしたいという欲求は見あたらなかった。
 だが、結局誰かに縋り付こうとする時に真っ先に浮かぶ面差しであることも事実であった。チアロはクインのせっぱ詰まった孤独感をどうにか緩和しようとしているのか、頻繁に食事や娯楽に誘ってくれるが、それとはまた違ったことでもある。
 クインは秀麗な顔を歪め、唇の端で苦く嗤った。ライアンなど言葉を交わしていれば苛立ちだけが蓄積されるのに、いないとなるとオルヴィの同行がやけに気に食わない。それを自分が不服としていることさえ怒りになる。
 ───ただ、ただ、自分が欲しいのは、ライアンの言葉ではなく彼の自分を気遣う心でもなく、ひたすらに焦がれるほどに欲しいのは、欲しいのは……そこまでくれば思考がふいに回転を止める。ライアンから何が欲しいのかさえ、彼への怒りゆえに曖昧に塗りつぶされてしまった絵のように焦点がぼやけている。
 クインは首を軽く振り、地下から上がった床の隠し扉を足でゆっくり閉めた。鏡の中にいる自分に向かって微笑んでみせる。瑕疵なく整った顔がきらめくような美しい少女が嗤った。化粧の具合を一度見て、クインは部屋のクロゼットから肩掛けのレースと靴を選んで外へ出た。
 このアパートにはいくつかの事務所が入っていて人の出入りが多い。その一つを架空の名義で借り受けて地下水路に繋いだのは正解だったといつもながらに思う。タリアの中をさほど歩かないうちに地下へ降りることが出来るし、他人の目は今でも微かな警戒心を呼び起こさせ、胸をささくれ荒らすのだ。
 まっすぐに前を見つめて歩き始めると彼に目を留めた人々が足を止め、やがて自然に割れて彼のための行き道を造る。微かな吐息、ぶしつけなほどの視線、そんなものでさえ身に飾るように誇らしげに背を伸ばしてクインはタリアの境界門を出ていく。ここなど自分の居場所ではないのだと威嚇するような微笑みが自分の顔に張り付いていることは知っていた。
 境界門を過ぎた辺りでクインは流しの辻馬車を拾い、この日の仕事だと指示された宿へ入った。オルヴィの書いた紙片にあった偽名を告げると宿帳をめくって管理人がああ、と曖昧な声を出した。
「お部屋は一番上にご用意してありますよ……しかし、……ああ、済みませんね、お姉さんとはあまり、その、」
 クインは柔らかく笑ってみせる。どんな時にも自分の美貌には絶対の自負があった。
「姉とは母が違うものですから」
 その場の嘘をさらりと口に乗せ、教えられた階段を上がる。指定の部屋は最上階の全ての面積を使う特別室だが、これはさして珍しいことではない。
 軽く扉を叩くとすぐに中から返答があった。オルヴィが嫌味に吐き捨てていったように確かに声音は若い女のものであった。若い女ね、とクインは微かに内心に毒づく。一体、どんな女なんだか。彼の一晩の金額は既に800ジルを超している。これから経費やライアンへ渡る一割を差し引くと手元には300と少しが残ることになるが、この先更に揚げ代は高額につり上がっていくだろう。少なくともチアロにはそのつもりがある。経費には客の身元を確かめるための調査料も含まれているから大幅に目減りすることは仕方がない。
 だから今ならまだ高額といっても誰かを破産させるには足りないほどであったが、それにしても男娼を買う若い女、というものがどんな種類であるのかをクインはこの晩とっくり見物するつもりであった。どこかの金満家の後妻、それとも亭主が役に立たない人妻、未婚の女だとすると相当好きな女だろうか。何にせよ、それは軽侮と冷笑を連れてくる。
 どうぞ、と扉が開いた瞬間、クインはそれでもその底意地の悪い思考をさっと表情の奥へ押し込んだ。どんな相手だろうと客は客、と今までも刷り込んできた性癖であった。
「───本当に、来てくれたのね? 嬉しいわ、夢みたい……」
 けれど出てきた女は彼の想像していたどんな極悪な色も持っていなかった。一瞬虚を突かれたようにクインはぽかんとする。彼女はそれまで彼を買いつけて散々玩んできたどんな男たちや女たちとも何かが違っていた。彼らは一様にどこか暗く歪んだ炎を目に飼っていたし、身から発せられる空気にも重い澱みがあるものなのだ。
 クインを僅かに見上げて大きく瞠られた瞳の輝きには純粋な驚きだけが灯っていて、それがひどく女を無邪気に見せている。年齢はなるほど若い。20には届いていないのは確かだろう。特別美しいというわけではなかったが、どこかで見たような既視感でクインは少し瞬きをし、それが過ぎた晩に格子の向こうにいた黒髪の遊女の印象であることに気付いた。───確か、リーナと呼ばれていた少女。
 但しそれは見間違えるというほどの酷似ではなかった。どことなく顔立ちから受ける最初の感触が似ているのだ。あのリーナという遊女もそしてこの女も、さして珍しげな特徴ある容貌ではなかったから、単に空似というものであった。夢みたい、と女が繰り返して呟いた。クインはその声でようやく現実に立ち戻り、さあね、と小さく呟いた。
「そっちが買っておいて夢も何もあるかよ。───中、入れてよ、いい加減にさ」
 クインの言葉にはっと女は振り返り、ごめんね、と慌てて身体をずらした。彼女に一瞥もくれずクインは部屋の奥へと踏み入れた。部屋は流石にこの宿の一番であって、調度も内装も申し分なかった。売春宿とはやはり品格が違う。クインが部屋の中を見回していると扉を閉めた女がいい部屋よね、と明るい声で言った。女の声に全く淫蕩さが潜んでいないことにクインは戸惑い、思わずじろりと彼女を睨んだ。
 この女は一体なんだろうという疑問が先ほどから彼の脳裏を巡っている。彼を買った客たちから感じてきた負の威圧がかけらもない。そもそも男娼を買う事自体をしないだろう、よい意味においての、ごく普通の女だ。奇妙な清潔感が彼女の明るい空気を支えている。
 彼のきつい視線に女は怯むでもなく目をしばたいた。彼が何故自分を睨んだのだろうというのさえ理解していない、まったくの素人ぶりにクインは遂に溜息になった。
「……あんたさ、俺を買ったんだよな?」
 女相手の時いつもするように、適当に言葉で相手を気圧したり翻弄したりする気にはなれなかった。この女は恐らく、本当にただの素人で興味本位なのだ。一体どこのお嬢様だと次第に苦くなりながら、クインは彼女に向き直った。
「だったらこっち来いよ。買った分は楽しむ気があるんだろ」
 彼の噂をどこかで聞きつけて面白半分に手を出そうとしたのなら、それはいたく彼の中の自嘲癖と自尊心のかけ混ざった部分を傷つけた。客たちの目的も欲望もクインには失笑の対象だったが、それさえ持たない女が気まぐれに自分を指名したのかと思うと、苛立たしさがまた腹の底にとぐろを巻き始めているのが自分でも分かった。
 欲しくもないくせに物珍しさだけで買うという行為自体が自分を馬鹿にしている。相手を蔑むのは自分の役目であって客のものではないのだ。女が扉を開ける前にそこで自分が浮かべていた冷笑をいきなり浴びせられたような汚辱にクインは微かに身震いし、薄く笑った。
「……こっち、来いよ。来いって言ってるのが聞こえないのか?」
 ほとんど脅しあげるような低い声に、女はぴくりと肩をふるわせた。怯えているのだ。クインは大声で笑い出したい衝動を耐えながら、ゆっくり余裕を持って獲物に近寄るように足を踏み出した。女の肩を掴んで腰に回そうとした手を、女は身をもぎ放すようにしてすり抜け、待って、と掠れた声で呟いた。
「待って、ねぇ、私、こんなつもりじゃ」
「じゃあどんなつもりなんだよ」
 クインは小さく笑いながら耳元へ囁いた。彼の吐息が女の耳朶にやわく絡んで産毛がさわりと逆立つのが見える。彼女の腰に今度こそ手を回して後ろから抱き寄せるようにすると、待ってと二度目を言いながら、女が突然くるりと身をひねった。正面からおもむろに向き合う形になってクインは僅かに身を引く。
 と、左の耳がぐいと引っ張られてクインは慌てて体を離した。
「待って、って言ってるでしょう? どうして言うことを聞けないの!」
 ぴしゃりと言われてクインはきょとんとする。頭ごなしに言われて怒りになるはずのいつもの反射が、どうしてか反応が鈍い。まるで自分が5才の子供に戻ったような気分であった。
「あ、いや……ごめん……」
 ぼんやり口にして、それが謝罪であったことに一瞬後から気付く始末だ。彼の言葉に女はうち解けたような笑みを見せた。美女ではなかったが、十分に居心地のよい、明るい笑顔であった。誰かのそんな表情を随分久しぶりに見た気がした。どうにも調子が狂う相手だとクインは苦い顔になる。気を詰めていた表情や身構えていた心根をゆるく解いて、クインは部屋のソファにどさりと身体を投げ出した。
「……あんた、じゃあどんなつもりで俺を買ったんだよ」
 寝る気がないという意味合いであろう女の言葉に落ち着かない気分であった。積み上げてきた経験の全てが投げやりに首を振って、この女は男としての自分に興味がないのだと溜息をついている。
 クインは身支度整えて編み上げてきた髪をほどいた。魔導の効果で黒く輝いている長い髪が、若干の柔らかな癖を残したままこぼれ落ちる。それを無造作に片手でかき回していると、女が部屋の隅に屈むのが見えた。少し大きめの布鞄から、貴重品のように取り出した黒い箱の正面に、大きな硝子の球面が見える───写真機だ。
「写真は駄目だよ」
 女が光画紙を入れようとする間際、クインはそれを遮った。それは男女どちらの客でも同じ事であった。客側の手にクインの写真が渡れば、それはどこからどんな形で誰に伝わるか分からない。ただの家族写真や記念品ではないのだ。最も皇太子に近いとされているリュース皇子との酷似は、正体や身元の詮索をいつか必ず呼ぶはずであった。その確実な証拠となる写真など、残すことは自暴自棄といってもよいことであった。
 女はえ、と聞き返した。
「……どうして? ───事情があるなら誰にも見せないわ」
「駄目ったら駄目。あんまりしつこいなら写真機、窓から放り投げるよ?」  
 女が写真機を扱う手つきはひどく慎重であった。恐らくそれは彼女のものではないだろうという推測はどうやら正解であるようで、女は一瞬俯いてから頷いた。
「ごめんなさいね、私、こんなこと初めてだからよく分からなくて……」
「あんたが初めてなのは知ってるよ」
 どう考えても男娼を買う類の女でないことも、既に雰囲気が雄弁に語っていた。世間ずれしすぎていないなら学生かも知れない。クインがそんなことを考えていると、女は写真機を鞄に戻す手で、大きめの写生帳を引き出した。
「何だよ」
 クインは立ち上がり、彼女の手元をのぞき込んだ。新しい頁を探すように女がぱらぱらとめくる紙には練炭色で何かが描かれている。それは花だったり人だったりごくたまに猫や犬だったりしたが、総じて淡い圧力で描かれた美しい絵だった。
「絵は? 写真は駄目でも、絵ならいいでしょう? ね?」
 そんな事を言いながら、写生用の練炭でも探しているのか女は鞄の中で手をごそごそと動かしている。彼女の荷物がどうやらその鞄一つであること、それがどこにでも安く売られているような綿地のものであることにクインは気付いた。そのまま足下に視線をやる。彼女の靴も昔自分が母といた頃に履いていたものと、さほど変わらぬ粗末なものだった。
 微かに、胸がちりっと焦げるように痛んだ。この女は自分と同じ階層にいる相手であった。服だってそう高価なものであるとは思えない。普段彼を買い付けている裕福な連中の払う金には何の同情も覚えないが、この女が自分を買う為に支払った金額を思うと一瞬呆れるほど……馬鹿馬鹿しいのか感心したいのか、どちらであろう。クインは溜息になった。どうやらこの女は一晩のモデル料としてあのオルヴィのふっかけた額を払ったようなのだ。
「……絵も駄目だって言ったら?」
 クインの言葉に女は顔を上げ、そして少し困惑したように笑った。
「それは……ちょっと眩暈がするわね」
 だろうね、とクインは応じて天井を見上げた。良い部屋らしく高く取られた空間の天井画は何かの洒落気なのか魚が水草の間をすり抜けていく題材だ。魚鱗の古びた色を眺めながら、クインは女の申し出を吟味した。オルヴィの取ってきた仕事であるし、気に入らなかったの一言で投げようか。金はチアロから返してやればいい。写真はもとより絵でさえも自分の容姿を形に残すかと思うと、真っ先に嫌悪感が立つことを軽視してはならなかった。
「……俺じゃなきゃ駄目か? 他にもっと、本職のモデルだっているだろう」
「そうねぇ……でも、新しい意匠の一連作を興す時には、やっぱり最初の自分の印象に近い相手を捜すものでしょ」
「それはあんたのやり方と理屈だから俺は知らないね。俺と似てるってなら……よく客にも俺がリュースさまとかいうお偉い人と似ているって言う奴もいるね」
 よく似ている、そっくりだと呟く声に混じっている混濁した欲望をクインはいつもひっそりと嗤ってきた。あの皇子様ときたら恐らく自分に向けられている視線に時折はこんな淫蕩な値踏みが潜んでいることにも気付いてはいるまい。その闇に葬られるべき部分を引き受けて、クインはますます自分が皇子の影となる気がした。あの皇子の引き受けている部分が光溢れる明るい世界ならば、その足下に落ちる影のすさまじい暗さに自分は生きている。皇子本人を決して嫌な奴だと思ったことはなかったはずなのに、彼のことを考えてふと目線をあげれば、鏡の中にいる自分がひどく暗くて惨めな気がするのは単に僻みであった。僻みだと、分かっているからこそ尚更……辛い。
 突然頬に何かが触れてクインははっと顔を上げた。女が彼の柔らかな頬をそっと撫でたのだった。
「……大丈夫? あまり嫌なことは考えない方がいいわ」
 さらりとした本心からのさりげない気遣いに、クインは怯んだように半歩後ずさり、いや、と曖昧な返事をした。微かに目の奥が潤み出そうとしている。人の優しい指先が、恋しい。それはいつか母が彼にふんだんに与えてくれたのとよく似た、まっすぐに単純に相手を案じる情愛のぬくもりだった。
「何でもねぇよ───気安く触んな」
 ぱっと顔を背けると、女はゆるく笑ったようだった。それが彼を宥め慰めようとする種類のものであることは、すぐに分かった。何かの反動でもあったようにそれにふらふらと縋り付きたくなるからだ。
 クインはことさら厳しい表情をして舌打ちをした。誰かがこんな風に時折優しくするだけで、ひどく寄りかかりたくなるほど自分はどこかがおかしくなってきているのかも知れなかった。
「ごめんね、本当に厭ならもうしないわ。……それに、リュース殿下は駄目よ。あっちは……そのぅ、もう断られたの。肖像権と写真の利得について懇々諭されちゃったわよ」
 女はちょんと肩をすくめて仕方なさそうに笑った。クインはそう、と軽く相づちを打ってやがてゆるく笑った。さほど交流が長かったわけではなかったが、あの皇子の生真面目でひっそりとした性質がそのまま変わらずにあることは分かった。
「だから俺を買ったってわけだ? ふうん……絵、か……」
 皇子の手元をすり抜けた話が巡って彼の元に回ってきた、その事自体は珍しいとは思えなかった。それは時折あることであったのだ。珍しいのは女が決して裕福な生活をしていないということであった。服も靴も鞄も、ごく普通の古着や使い込んだ品としか思えない。800ジルを越す金を惜しげなく出せる環境でないのは明白で、それを彼の一晩のモデル料と引き替えようとしている。皇子に断られたからと、諦めてもいいはずのその話の続きを見たがっているのだ。
「……そんなに、絵、好きなんだ」
 半ば呆れ加減に呟いた言葉に、女はそうねと笑った。
「好きというよりは、描いていないと死んでしまうかも知れないってことだと思うの……何があってもずっと絵だけは描いてきたからね……」
 女の微笑みに浮いた淋しげな影を、クインはじっと見つめた。何があってもと呟く程度には沢山のことが通過した、微かな痕跡をそこに見つけた気がした。……僅かに、胸が弛む。同情であったかもしれないし、幾ばくかの共感であったかもしれない。
「絵なら……いいよ」
 クインは小さく言った。同じ女の客は取らないことになっている。この女が自分に会うたった一度の機会に大枚を支払ったのなら、どうにかすり抜けのききそうな現実に目をつぶってやっても構わない。ライアンの判断に委ねるならば恐らく彼は撥ねるだろうし、チアロも同じ事を言うだろう。だから彼女の申し出を受けるのかも知れないとクインは思い、それを否定する材料がないことに気付いて苦笑した。
「……絵ならいいけど、あまり他人に見せないでくれよ。それと、俺とどうやって連絡を取ったかは誰にも言うな───ま、男娼の買い方なんかべらべら喋ってあんたの得になることは何一つないけどな」
 女は大急ぎで頷いた。彼の気が変わらないうちにと思っているのだろう。
「ありがとう。私はエミリア」
 短く、はっきりと名乗る。この女の風情からして偽名とは思えなかった。男娼を買って本名を名乗る相手というものが存在するとは思っていなかったにせよ、それはクインを相当面食らわせたらしい。表情も作らないでただ彼女を見つめ返すと、女はもう一度笑った。
「エミリア=スコルフィーグよ。みんなエミルって呼ぶわ……なんて呼んだらいい?」
 最後の質問にクインは肩をすくめた。
「適当にどうぞ。リュースでもいいぜ。それともカルア? エセル? ああ、ラインなんてのもいたな、どれでもいいさ」
 エミリアは呆れた、と呟いて彼の首を軽く、ぴしゃりと音を立てて叩いた。
「不敬なこと言わないで。別に本名を聞いている訳じゃないんだから……」
 分かったよ、とクインは適当に手をひらひらさせた。
「じゃ、リュース」
「嫌な子」
 エミリアはくしゃりと顔を歪め、それからついというように笑い出した。彼女の持っている空気はどこまでも明るくて、清潔だった。それにつられてゆるく笑いながら、ふと胸の重みが軽くなった気がして、クインは苦笑する。けれど、それさえ遂にぬるく解けて安息にしなだれていくことに、何故か懐かしい安堵を覚えた。
 クインは自室の寝台に転がって、ぼんやりと一枚のカードを見ている。降臨する天使、その周囲を取り巻く幻影のような魚の群。淡めの色遣いながらどこか強烈に印象に残る神秘的な青が絵全体を美しくとりまとめている。
 この絵がエミリアといった女の、細い手が編み出したものであることは信じられない気もしたし、よく知った気もした。
 何があっても絵だけは描いてきたとエミリアは言った。それは真実だったろう。写生用の練炭を握って一心に彼の姿を写し取り始めた彼女は真剣で、声を掛けるのもためらわれるほど無心に手を動かし続けた。
 突き詰められたような目の光、きゅっと結んだ唇のきかん気。特段美しい女ではなかったはずなのに、その顔をつい見つめてしまう。目が馬鹿になったように彼女の面輪から離れないのだ。
 ───描いている時だけは、私の世界は私のものだから。
 クインに向かって照れたように笑った顔はごく普通の若い女であるのに、画帳に向かう彼女は別人のように厳しい表情をする。
 芸術というものにクインはさして関心がなかった。これからもないだろうとは思う。けれど別れ際に彼女がくれた一枚のカードを捨てることが出来ない。エミリアの描いたという天使と魚群の一葉が印刷されたカードの裏には画廊と展示会の期間、そして合同出展するという画家の名前が連盟で記されている。
 そしてこの仲間たちの中ではエミリアは特別名前の出ている存在なのだろう。合同出展のうち、半数は彼女の「春幻想」と名付けられた一連作に割かれているようだ。
(興味があったら来てね。今週中はずっとやってるから)
 その彼女の言葉を何度も口の中で転がしながら、クインはじっと天使の微笑むカードを見ていた。……もう二日もそんなことをしている。
 ゆらめく波間に射す光の線をかいくぐるように身をよじる銀色の魚たち、それに手を差し伸べて微笑む天使の表情が柔らかく、甘く、優しげなのにひどく切ない。幻影画であることは疑いないが、天使の面輪に何か懐かしい、ぬくい感情がはい出してくる。
 ……これは余計なことなのだろうか。自分は物と同じなのだ、ただ客の望みを察してそのように振る舞うだけの人形なのだと必死でしつけてきた外殻が、柔らかく薄い微笑みひとつにゆるゆると消え去ってしまいそうになる。
 クインはこんなことではいけないと必死で思いこもうとする。人の優しく触れ合う暖かさを求め始めたら、恐らく客と寝ることなど出来なくなる。
 最初にライアンと寝たとき、微かに震えていたし怖かった。だから彼が自分をごく丁寧に、まっとうな恋人にするように扱ってくれたことは分かる───今なら、それは分かる。
 そのせいでライアンについて苛立ったり怒りを覚えたりしながらも、もう一度誰かのぬくもりの中にひたって癒されたいと考える時には彼に手を伸ばし続けて拒否され続けていることも。
 男たちに組み敷かれながら、クインはいつでも自己を閉じてただ暗い場所に彷徨っているようだった。身体の反応は興るままになることで、自分の感覚や意志とは既に遠い場所にあった。
 それが異様なことだと胸のどこかが飲み込めないままであったのを、今更思い知ることなど、欲しくない。
 要らない。そんなことに気付けばもっと苦しくなる。居たたまれなくなる。いやだ、それは嫌だ。このままでいいはずなのだ。チアロだって母さんだって、俺を気に掛けてくれてるじゃないか。何が不満なんだ。足りないんだ。
 けれど、その明確な回答など───要らない。そのはずなのに。
 クインは起きあがった。寝台の脇の小卓の上で、彼の時計が時間をせかしている。クインは澄んだ音で彼を呼ぶ時計の音を止め、服を脱いだ。週に2度、看護学校へ通っているのだ。試験は首位で通過し、特待の資格も得たのだから放り出すのは愚かであった。
 看護学校へは少年のままの姿で通っている。身長はこれからどこまで伸びるか分からないし、そもそも中等学院の時にもあの皇子が少女の体つきではないと断言したではないか。医療系の学校であるから、その目はもっと厳しくなるはずだった。
 クインはクロゼットの中から派手すぎない衣服を選んで身につけると、鞄に教書を放り込んだ。髪は適当にまとめて黒く見せ、眼鏡をかける。女装の時とは違って、素顔を晒すことにやはり抵抗は強かった。
 いつもの地下水路から抜け、少し歩いて乗り合いの馬車にあがりこむ。彼の面差しに時折はぶしつけな視線が当てられることもあるが、大都市ならではの無関心さがおおむね彼の過敏な神経を守ってくれた。
 いつものように他人の視線を拒絶するためにやや俯きがちに、馬車の振動に身体を預けながらぼんやり窓の外の薄暮の景色を眺めていたクインはふと視線をあげた。ちらりと一瞬目が過ぎた街角に、既視感の青い色がよぎったのだ。
 肩をひねって振り返り、目線を滑らせていくとやはり何かがちらりと引っかかる。僅かに時間を探し、すぐにクインはその正体を見つけた。表通りに面した硝子張りの店の一面に、あの天使の絵の複製が大きく張り出されている。
「あ……」
 微かにクインは声を漏らして腰を浮かせた。天使のカードをぼんやりと眺めながらつい彼女のことを考えていた最前までの記憶が、不意に現れた偶然に対して喧噪に息づき始める。
 急に心臓が高く打った気がして、クインは思わず口元を押さえた。カードの裏に印刷されていた画廊の地番など、覚えていない。多分その箇所は見ないように務めてきた。ふらふらと彼女の親切とやらに甘えてしまっては、この先客とのことが辛くなるだけだから。
 けれどその矢先に眼前に現れた絵の天使は、彼を許すように優しく微笑んでいる。
 もう一度だけ。そんな声が耳の裏で囁いたような気がして、クインはきゅっと唇を結ぶ。あと一度だけ、たった一度だけでもいいから、彼女とごく普通に話したり笑ったり、そんな平凡でなだらかな時間が欲しい。それを嬉しいと思う部分が自分の中にまだあったことが喜びに変わりそうになる。
 いけないと思いこもうとする傍にその声が次第に大きくなっていくようだった。微かに苛立ってクインが爪を噛もうとした時、急に馬車ががくんと揺れてとまった。
「───降りるかい?」
 その声が自分に向けられたものだったことに、クインは遅れて気付いた。乗り合いの切符勘定をする車掌が御者を止めたらしい。
「あ……いや、」
 何かはっきりしないことをクインは口の中で呟いた。車掌がいぶかしく彼を見つめる。クインは馬車窓の向こうにやや遠く見えている青い絵の具の色を見やり、自分の鞄を見やった。
 学校が、という胸の中の呟きがする。その声に耳を澄ましながら、クインは唇を開いた。
「降ります───ここで降ろして下さい」
 自分の声がぽろりとこぼすのを自分で驚きながらクインは受け止め、そして苦笑になった。
 一度くらい看護学校を休んでもすぐに取り返しはきくという自信はあった。それまでの学舎の経験からしても、数度通った看護学校の内容の密度から言っても、それは殆ど確信といって良かった。
 ……一度くらい、いいか。そんな現金さに自分で薄い苦笑を浮かべながら、クインは馬車を降りた。精算分の釣り銭を適当に服に押し込み、天使の絵の掲げられた画廊へ少しづつ近寄っていく。いつか妓楼にこわごわ近寄っていった時よりも更に何か恐ろしく不可解なものへ近付いていくようで、落ち着かない。
 画廊は通りに向かう壁面を全て硝子の一枚板で張ってあり、そこにカードと同じ絵の大きな複写画が張られていた。馬車の中から見えたのはこれだ。水の青が優しい。
 クインはその絵をじっと見つめた。カードの時にもふんわりしたぬくみのある絵だと思ったが、大判になると更に顕著だった。表情しか見えなかった小さな印刷よりも、事細かな仕草や表情の微妙な加減、光線の柔らかさなどがゆったりとした時間を連れてくる。美しい絵であった。技巧も色使いも表情も、全てが穏やかにゆっくりと、そして確実に胸の中に入り込んでくる。
 クインは溜息をついた。彼女が何かにとりつかれたように夢中で彼を写生していた時の情熱の帰結はこれなのだろうか。だとしたら、とクインは不意に頬を赤らめる。
 ……そりゃあ大層なものに見込まれてる。自分は天使ではなく、これほど美しいものでもない。現実と欲望の中に彷徨いながら、それを厭い嫌い憎しみさえしながら、そこから離れて生きていけない。それほど醜いものがあるだろうか。
 けれど自分でも可笑しくなるほどに、彼女が自分の表面だけを小器用に写し取っていたのではないことは、知っている気がした。
 あの日、いつしかソファで眠ってしまったクインが夜半に目を開けるとエミリアはまだ写生を続けており、彼の目覚めに気付いて優しく笑った。
(起きたの? 眠ってていいわよ……)
 それは僅かに記憶の奥底に眠る、母の声音と似ていた。声自体は似ていないのに、その柔らかな音調が似た場所に囁きかけてくる。
 頷いて目を閉じた自分の素直さにクインは苦笑したはずだったが、その先はすぐに闇に溶けて分からない。エミリアがそっと自分に近付いて毛布をかけ直してくれたことだけ、それだけを何故か覚えている。
 クインは微かに笑い、長い溜息になった。画廊の中にはいるのには、また別の種類の勇気が要る。どうしようかと視線をちらりと入り口の方へやると、慌てて居住まいを正す若い男女たちがいた。どうやら彼を見つめていたらしい。やっぱりこの顔は目立つな、とクインは苦笑した。
 彼らの年齢は多少ばらけているようであったが、雰囲気は似通っていた。合同出展とカードの案内にはあったはずだったから、これはその若い画家仲間というところなのだろう。
「あ、あの、よければ中、見て行きませんか?」
 クインと一瞬目線のあった女がしどろもどろに言う。下手きわまりない勧誘にクインは微かに首を傾げた。
「エミリアって……ここにいるって聞いたんだけど」
「エミリア? ああ、エミルね、いるわよ」
 女は知った名前が出たことで安堵したらしく、ほころんだ笑みになった。こっちよ、と手招きされて画廊の中へ踏み入れる。中は意外と広く、白い壁と淡い枯れ草色の絨毯が落ち着いた印象だ。
 初めてのことで周囲を見回していると、先ほどの女がすぐに戻ってきた。クインは僅かに皮肉気に見えるような笑みを作り、照れのために軽くあごをしゃくる。が、そんな意地も連れられてきたエミリアのぱっと咲いたような笑顔で急に引き込んで、口元を歪めてあらぬ方向を見た。
「来てくれたんだ、ありがと、嬉しいわ」
 やはり彼女の声は通って明るい。あの晩も朗らかな声や表情であったが、それを改めて確認した気持ちになる。自分が彼女につられるようにゆるい顔になっていることにクインは気付いたが、それをさっとしまい込む気にはならなかった。
「暇だったし」
 それでも口をついて出てくるのはそんな言葉だった。エミリアは彼の持っている鞄をちらりと見て、そうね、と頷いた。
「でも来てくれたんだから嬉しいわ───ごめんね、今、商談中なの。すぐに済むと思うから絵でも見ていて、ね?」
 商談ということは絵の買い手が付いたということだろう。エミリアはどうやらこの画廊に絵を飾っている連中の中では一番手であるらしく、いくつかあの天使の絵と同じ筆触の絵には売約済みの札が画題の下に張られている。
「売れてんだ、絵」
「まあ、そこそこにはね……何しろ散財しちゃったから、取り戻すのに必死よ」
 くすりとエミリアは笑う。散財というのが自分のことであることに気付き、クインは少し笑った。
 待ってて、と言い残してエミリアが奥の応接室へ戻っていく。その後ろ姿を見送ると、先ほど案内してきた女が知り合いなの、とクインをのぞき込んだ。まあ、と適当に肩をすくめるとそれ以上は諦めたのか、女はこっち、と彼の先に立って画廊の奥へ歩いた。
「ここから先がエミルの今度の新しい連作よ。右から時系列にそって並んでるから、その順に見てあげてね」
 それだけ言い残して女が去るのを待ち、クインは絵の前に立つ。天使の絵とは少し趣が違うが、淡いくせにしっかりと塗られた色調と美しい幻想の光景は同じだった。
 滔々と広がる若草色の野原に少女がいる。エミリア自身に少し似ている気がするが、もっと幼い。まだ10才にもならないだろう。黒髪が風にあおられて顔にかかり、ほつれてさえいるが、その目線は何か見えないものをみつめるように敬虔に、ひたすら空へ向いている。
 展示説明の額には妹の成長を追いながら幻想の中に取り込んだ一連の作品であることが記されていて、その通りに一枚を経るごとに少女は少しづつ成長していく。
 若草の野原があり、爛漫の花壇があり、きらめく海がある。あの天使と通じる、一点の曇りもない優しさ、綺麗に透き通った慈しみがある。
 ゆっくりとクインは絵の前を移動する。成長する少女の面影はやはりエミリアに次第に似てくるようだった。少女の表情や服装は様々だったが、どの絵もどこか遠い、とりとめない場所をしっかりと見つめているようで、視線の強さが焼き付く。
 そんなことをぼんやり思いながらクインは最後に近い一枚の前に立つ。それは春を迎えて割れ崩れていく氷の上を渡る少女の姿だった。均衡を取るように大きく手を広げ、やはりずっと上の、あらぬ場所を見ている。黒い瞳に何も書き込まれてはおらず、それが何を見ているのかはやはり分からなかったが、現実の何かではあり得なかった。不思議な微笑みは苦悶でも諦観でもなく、試練にうち勝ったときのものでもない。どの風景にいても少女はたおやかに凛としていたが、この一枚には特にそんな表情が強かった。
 綺麗な絵だった。技巧よりも、絵を通して何かが確かに心の底を掴んで優しく揺する。それにゆったりと身を任せていると安らいだ気持ちになる。彼女の絵は、そんな絵だ。誰かの為に描かれた、愛を語る絵。愛を語るゆえに幻想と現実が調和して、美しい絵。
 彼女の胸の中にある幻影がごく一部であっても鮮やかに投影されていることは、疑う余地がなかった。美しく結晶化された彼女の中の無限の夢が押し寄せてくる。
 綺麗だと口の中でクインは呟く。絵の善し悪しなど彼には分からないし、エミリアの絵に一体幾らの値が付くのか、それが高いのか安いのかなど全く知らない。けれど彼の心に根付き、彼に向かって優しく微笑む天使の幻影と同じ血脈が、この絵には宿り、息づいている。確かに呼吸しているのだ。
 そしてこの絵を生み出した絵の主は今、すぐ近くにいる。応接室の扉を開けて彼に話しかけるために、ゆっくりと近付いてくる。
 僅かに呼吸を整えたクインの肩を、全く別の誰かが掴んだ。 
 かたんと自分の前に淡い色の果実酒のグラスが置かれた。天然炭酸のあげる気泡が微かに揺らぎながら、グラスの向こうの風景を時折歪めてみせる。
 クインはグラスの縁を指先で遊び、口を付けた。一息にあおろうとしてそれをやめる。けれど膝の微かな震えはとまりそうになかった。
(なあ、君、もしかして───ほら、君が高等学院に魔導の聴講に来てたとき、俺、君と同じ研究班にいた……)
 掴まれた肩、強引に振り向かされた力の強さ。それに思わずよろめいて均衡を崩し、声を掛けてきた男にもたれて座り込んでしまった。
(中等にいた彼女だよな? 名前───ごめん、名前が出てこない……けどほら、魔導論文で確か賞まで取った───)
 それでも話しかけるのを止めそうにない男を咄嗟に睨み、クインはさっと立ち上がったつもりだったのに、いきなり鞭打たれた事実に足が追い付かなかった。自分は恐らく相当よろめきながら体勢を戻したはずだ。
(誰、それ)
 出来るだけ低く、冷たい声音を出したのは内心のひどい波をそうでもしないと自分で叱りつけることが出来なかったからだ。男はクインに睨まれたのがいかにも存外だったというように目を丸くし、やっと思い出したらしい名前で彼を呼んだ。───それは確かに中等学院に入学した頃彼が使っていた偽名だった。可愛らしくてありふれた少女の名前。
(……俺、男なんだけど?)
 クインは辛うじてそれだけ絞り出した。男の方はぽかんと彼を見つめていたが、やがてかあっと赤くなった。思い違いだと納得したらしい。
(ごめんよ、でも本当に似てるなぁ……彼女、もしかして君の親類とか親戚とかじゃないかな、本当に綺麗な子でさ、大人しくて可愛くて……魔導の方もまさしく天才少女ってああいう感じなんだって……)
(悪いけど)
 割って入ったのはエミリアだった。クインをかばうように自分の背後へ押しやって、男の名前を呼んでいる。知り合いなのだろう。
(この子は私の遠縁なの。帝都に出てきたから今日ここで待ち合わせただけよ、変なこと言わないで)
 ぴしゃりと断言する強さは、あの日にクインの耳を引っ張って叱りつけたものと同じだ。庇われているのだとクインは微かに卑下のために唇をきつく結ぶ。だが、それ以上の言葉はあの頃と同じように喉で凍り付いて出てくる気配がなかった。
 男の方はややあってからクインに向かって軽く頭を下げた。ごめんよ、という口調の丁寧さとぼくとつな雰囲気はあの頃のままだ。……高等学院で魔導学の聴講を受けていた頃のまま。彼の名前も得意だった呪言形態も繋がって記憶から戻ってくる。
 あれから考えてみれば5年は経過していない。まだ彼が高等学院に在籍していても特段奇異な出来事であるわけではなかった。何故あの場にあの男がいたのかなどは知らないが、エミリアが高等学院の芸術専攻部にいることと無関係ではないだろう。
 とにかく、とクインは画廊から3区画ほど離れた食堂の一番奥でそっと溜息になる。エミリアが咄嗟に庇ってくれたことを感謝するしかないが、それにしても自分はひどく動揺したらしい。真っ青だとエミリアは彼を気遣い、この食堂で待っていないかと言ったのだった。
 それに頷いたのは、やはり呆然のなせる業であった。中等学院に通っていたことさえ忘れかけていたのに、記憶はどこかへ無理矢理紛失させても過去は喪失しない。全て確かにクインが通ってきた欺瞞の歴史そのものだ。
 クインは暗がりに身体を押し込むようにして顔を歪めた。震えはまだとまらない。迂闊だった。エミリアが高等学院の芸術専攻部にいることを、まるきり知らなかったわけではない。カードの出展画家一覧の後援にも高等学院の名前があった。
 名前を呼ばれた時に振り返らなかったのが、今は唯一自分を宥める材料といえそうだった。振り向いていたら全てが雪崩のように露見していくに違いない。自分が男だと言うことくらいは気付くだろう。
 気付けば、過去の欺瞞が剥がれる。剥がれ落ちた欠片を、自分と母を追い続けていた連中が拾う───自分の強迫観念の根深さ、臆病な性質をクインはやや苦く奥歯にかみつぶすが、それでもその経緯は明白で、しかも逃れられない絶対の道筋に見えた。
 クインは痙攣のとまらない指先で自分の額を押さえ、机に肘をついた。まだ膝の細かな動きもやまない。近付いてはいけない。高等学院の関係者にも、あの場所にも、二度と近寄ってはならない。隣接している中等学院の学舎にも、生徒はともかく教授陣はまだ残っているはずだ。藪をつついて妙なことになるくらいなら、最初から逃げてしまえ。
 その考えは既に彼の中に根付いている習慣に近い反射だった。それを繰り返して呟きながら、今日という今日に限って自分がそれになかなか頷かないのが苛立たしい。
 本当はエミリアなど待たず帰るべきだった。酒の一杯でも一息にあおって帰るべきだ、今でも。
 けれど何故か腰が浮かない。彼女を待っているのだ……なんとも不思議なことに。礼を言わなくてはとクインは自分にどうにか刷り込んでみる。エミリアが遠縁なのだと出任せを言ったことでかなり救われた部分があるのは確かだった。
 そうやって答えのでない自問自答を繰り返していた彼の前にエミリアが立ったのは、それから同じ酒の3杯目を終える頃だった。ごめんね、と囁く声音にも苦笑気味の表情にも、先ほどの出来事の欠片も残っていない。まるでなかったことのようだ。
「……何も食べてないの? 少し食べる? 絵が売れたからここ、おごるわよ───えーっと……ね、何か嫌いなものある?」
「食欲、ないから」
 クインは乱暴に返答した。事実、何かを食べる気などまったくおこらなかった。ひどい眩暈に必死で耐えているほどだ。エミリアは軽く溜息をついた。
「でもお酒だけじゃ胃に悪いわ。ここ、窯焼きの鳥が美味しいのよ。香草が嫌いじゃなかったらそうして貰うわね? それとパンと……そうね、何か温かいもの胃に入れた方がいいから、煮込みかなにか」
「要らないって言ってるだろ!」
 クインは机を拳でたたきつけて怒鳴った。一瞬食堂の中の視線が呼び寄せられる。クインは机に突っ伏して要らない、と繰り返した。恋人たちの単なる痴話喧嘩だと思ったのか、やがて注目が散って元の静かなざわめきが戻る。
「……ねぇ、少年」
 それを待っていたようにエミリアがそっと彼の髪を撫でた。
「でも、生きていく限りは食べなくちゃ。あなた痩せてるわ、とってもね。もっとちゃんと食べて、もっとちゃんと生きないと、ね」
 クインは机にうつぶせたまま緩く首を振った。エミリアの言葉はやはり彼に温かくしみこんでくるものだったが、今は聞きたくなかった。
「いいんだ、要らない……本当に、今日は要らない……食べたくないんだ」
 呟く口調がひどく甘えたものになっている。クインは気付いて一瞬きつく眉根を寄せた。誰にでもすりよっていく野良猫と同じ種類の生き物になった気がする。自嘲で苦く頬が歪んだ。クインはそのために更に黙り込み、額を机に押し当てたままで呼吸を殺す。それは自分自身をひどく情けなく思うことでもあったのだ。
 そうしてじっとしていると、やがて耳に仕方なさそうな、けれど甘い苦笑が聞こえた。
「……さっきの、気にしてるの? ごめんね、彼、ちょっと唐突で思いこんだら盲目的なところがあるから」
 クインはそっと視線をあげて自分の前に座る女を見やる。彼女は微笑んでいて、クインの目が自分に向いたことを知ってもう一度小さく、ごめんね、と囁いた。
「……あいつ、あんたの、何」
 クインはふて腐れたような顔を上げ、頬杖を付いてエミリアを見た。彼女の方は肩をすくめた。
「彼は趣味で絵を描くのよ。基礎写生からちょっと教えてるの」
 ふぅん、とクインは流した。エミリアはクインの返答がやっと通常の音調に戻りつつあることを理解したのか、適当に注文を済ませると展示会のあれこれを話し始めた。あの男が口走った内容について、彼女は触れようとしない。それが彼女の気遣いであることは明らかだった。
 食事を適度に進めながらエミリアは料理を取り分けてクインの前に置く。それを義務的に口に押し込むうち、やっと落ち着いてきた心象にクインは深い吐息を落とした。4杯目の酒を、それで最後にしなさいねと苦笑するエミリアに頷きながら注文する。運ばれてきた新しい酒に唇を寄せる瞬間に、クインはぽつりと呟いた。
「……さっきの、聞かないんだ?」
 エミリアもその場にいて、あの男の口走ったことを聞いている。クインが少年であったことで男の方は人違いだと納得した様子だったが、エミリアはそれこそ女装したクインを見ているのだった。もっと幼かった頃にはまさしく少女にしか見えなかったことくらい、想像が出来ない種類の女ではないだろう。
 エミリアはそうねと笑い、でもと続けた。
「あなたが話したくないことなら聞かない。興味はあるわ、正直にいえば。でも、あなたが嫌がっているのにどうして聞こうと思えるの?」
 クインは頷く。彼女の言葉一つ一つが、何かの宝石のようにきらきら胸の中に踊る。ありふれた気遣い、ありふれた言葉、ごく当たり前のいたわり。そんなものに過ぎないと承知していても、それに甘えたくなる。
 誰かという叫びが胸の奥にする日に、遂に与えられなかった安息の気配がする。
 ───泣きたくなる。誰かの無条件の優しさが、胸に痛い。突き刺さるように痛い。痛みがある、それが疼く、心臓を貫かれたような深い疼痛、それら全てが声を合わせて彼女に甘えてもいいのだ、そうしてもきっと慰撫してくれる、助けてくれる、その予感を歌っている。
 高らかに。クインは片手で顔を覆う。本当に泣き出しそうだった。
「……奴の言ったのは、嘘じゃない。あれは俺だ。10歳の時まで、中等にいたんだ。天才だとか神童だとか言われて、いい気になって、魔導論文も書いたよ……」
 自らの擬態や根本の欺瞞など忘れ、豊かな未来を夢見て自分の持つ力を傲慢に発揮していたのはまだ5年も経たないほどの近い過去なのに、ひどく遠い。自分の過去ではないような気がするほど、現実味がなかった。
「……また、戻りたい?」
 クインが声を震わせたのをなんと思ったのか、エミリアはそんなことを聞いた。クインはゆっくり首を振り、分からないと答えた。
「分からない、そんなこと……俺は、同級生なんかみんな馬鹿にしてた。友達なんかいなかった、みんなちやほやしてくれたけど、俺は奴らのことを端から相手にする気なんかなかった……」
 一瞬目の裏に皇子の面影が過ぎる。皇子のことは別のもので塗りつぶされてしまっていたが、彼が特別であることは真実だった。
「分からない、エミリア、俺は、あんな場所に戻るもんかと思ってた、でも、あそこにいた頃が一番……今から考えるなら、一番、ましだったかもしれない……」
 少なくとも母がいて、きっかけはどうであったにせよチアロやライアンなどと友人関係を築くことが出来、学校という閉鎖された特殊な空間の中で自分の能力の限界を楽しむことさえしていたのだから。
「学校、好きだったのね……」
 エミリアのなだらかな相づちにクインは曖昧に首を振った。苦笑になる。
「俺は、学校なんか別にどうでも良かった……そう、確かに受験した時は……将来は学者や役人になって母さんをもっと楽にさせたいと、思ってたはずなのに……」
 自分はあの人の足枷なのだろうか。それともあの人の罪の中核、動かし得ぬ重大な証拠。
 けれど、そんなことは知りたくない。知らなくていい。ただ母と名乗る女のために自分の人生を使い潰したって構わない。
 けれど母の温かな肌は彼に与えられなくなってしまった。時折手を重ねても、手袋の薄い遮断を隔てた体温のもどかしさに訳の分からない衝動を覚えることがある。
 エミリア、とクインは呟いた。
「でも、俺は、中等にいた頃のことなんか、捨てたんだ。捨てたら終わりだ、もう戻れない、二度と戻れないんだ……捨てるってそういうことなんだ、リーリーが……」
 クインはふと唇からこぼれた名前を確かめるように、指でそこをなぞった。今この瞬間まで忘れていた、あの、最初の友人の名前。ずっと彼の話し相手だった、黒い猫のぬいぐるみ。
 何かがこぼれるように、胸の奥から吹き上がってくる。
「あいつを捨てた時から、色んなものを捨ててきて、だから、みんな同じだったけど、でも、もう拾えない、拾えないから、諦めるしかないだろ、だって、もうないんだから、なくしたものは還ってこない、だから」
 酔ってる。クインは自分の唇がせわしなく動くのを放置しながらぼんやり思った。頭がおかしいんだ、きっと。なんでこんなことをべらべら喋ってるんだ。酔ってる。間違いなく酔ってる。帰らなきゃ───でも、どこへ? タリアの奥巣、ライアンが俺に放り投げて寄越したあの部屋へ?
 クインは小さく笑い出した。帰らなきゃ、と思うのにその場所がどこであるのか今ひとつ確信にならない。あの部屋の寝台は確かに彼の寝床ではあったけれど、帰還する場所ではありえないのだった。それはいつか、母の腕の中だった。沢山の不満や不安も激情も、母が彼の波を鎮め慰めてくれた。
 それさえ、自分で切り捨てなければならなかった。母への秘密を持ったのは自分だ。だから結局自分が自分でその場所に封印をしたのだろう。
 クインは喉で笑いながら、捨てたんだ、と呟いた。リーリー。彼を捨てたあの夜から、拾うもの全てを捨て続けてきた。そうしなくては生きていけなかったと分かっているのに、いつまでも拘泥している。
「……もう、帰ってこないから……」
 クインはエミリアが最後だと念を押した酒をあおり、注文をするために片手をあげた。その手がぱちんと弾かれる。クインはエミリアを咄嗟に睨んだが、彼女の方は涼しい顔でやってきた給仕に向かって伝票を振り回した。勘定するときの仕草だ。
「───適量はもうちょっと少ないみたいね、覚えておくわ。……ほら、立って。行くわよ」
 精算を終えてエミリアはクインを促し、彼の鞄を掴んで外へ出た。外はすでに夜の更けていく時間で人通りもまばらだ。石畳の街路を歩くエミリアの後をクインは黙ってついて歩く。鞄、という意識はまだあるのだ。
「どこ行くんだよ。鞄返せよ」
 クインの声にエミリアは少しだけ振り返り、微笑んだ。
「見せたいものがあるの。あなたに見て欲しい」
 その瞬間彼女が浮かべた薄い笑みは、それまで見てきた明朗さとは少し毛色の違った淋しげな影に縁取られているように思われた。
 クインは何かを言おうとしてやめ、だまって彼女の後を追った。

 月が出ている。半分欠けたやわい光が帝都の石畳の隙間を埋める白漆喰を優しい色に浮かばせていて、俯きながら歩いていると水面を歩いているような不思議な幻想があった。微かに眩暈がするのはやはり酔っているせいだろう。世界がゆらゆら、揺れている。
 エミリアは時折振り返りながら彼を待ち、呼んだ。もう帰ろう、鞄だけ返して貰ったらつき合う義理なんか無いんだ、と何度も口にしかけてはそれを飲み込んでしまっている。
 ……誰でもいいのか。クインは皮肉に唇を歪めて笑う。母さんがいない。ライアンが俺を無視する。一度繋がりそうに思えたリーナとかいう女だって……結局俺のものじゃない。今夜も誰かのもので、明日もまた違う誰かのものだ。
 自分を愛してくれる誰かが欲しい。その残り香、気配のようなものでさえ欲しい。飢えているというほどに渇いている───多分、本当に誰でもいいのだろう。例えば彼の機嫌を取ろうとする客たちや、こんな通りすがりの女にまでいい顔をするほど。
 自嘲はやはり胸によい作用はもたらさない。クインがますます無口に黙り込んでいると、エミリアが少年、と彼を呼んだ。
「ここよ。部屋は3階の右」
 上がっていくアパートはやや古めの木造で、階段を上がると軋んで鳴った。あまりよい部屋というわけではなさそうだったが、彼女の身につけているものとは相場は釣り合っているだろう。
 どうぞ、とエミリアが入っていく部屋に足を入れると、まずむっと鼻につまる薬品の臭いがした。看護学校でも薬独特の臭気はあるが、それとは全く別の系統の臭いだ。
 クインが思わず顔をしかめるとエミリアは少し笑って、居間はちょっとましだから我慢してねと囁いた。彼女の言葉の通りにそこは彼女が窓を開けてくれたせいもあって無臭にやや近い。
「ごめんね、絵の定着剤の臭いなの。臭いでしょ? 慣れないと吐く人もいるくらい」
 彼女の苦笑にクインは頷く。しかめ面の彼にエミリアは笑い、厨房の方から水の瓶を持って戻ってきた。差し出されてクインはそれを受け取る。酔いも醒ました方がいいのは分かっていた。
 待っててね、とエミリアが一度消え、すぐに手に大きなものを掴んで現れた。絵だ。形や大きさですぐに分かる。
「俺に見せたいのって絵? それならさっき散々あっちで見たよ」
 ふて腐れたような声になったクインに、エミリアは仄かに笑ったようだった。彼の座る窓下の長椅子にぽんと座り、月光に照らされる位置にもたせかける。
「春幻想の、最後の一枚。あそこにあるのは売るための絵だけど、これはアスナに……妹にあげるための絵よ。定着材がやっと乾いたから、明日にでも梱包して田舎に送ろうと思ってたんだけど、その前にあなたに見せてあげたいって思った」
 ふぅんと気のない返事をしてクインは彼女の持ってきた絵を見つめた。画廊にあった絵とは確かに何かが違っていた。彼女の絵の特徴である厚い絵の具の塗りはそのままだが、色が違う。淡いなりにしっかりと目に残る色味も幻想の一部であったはずなのに、殆ど色味さえない。辛うじて色はついているものの、春幻想のシリーズにあった夢幻的な色彩の自由な筆致とは言えなかった。
 妹であろう少女が春の野を背景に花を胸に抱く構図で、少女は印象的だった瞳をじっと閉ざし、唇だけで微笑んでいる。表情は柔らかだったが、やはり色数の絶対的な不足のせいで、画廊にあった絵よりも遙かに粗い印象が強い。
 クインが黙っていると、彼の隣でエミリアがどう、と優しい声で言った。彼の戸惑いを分かっているような声音であったから、クインは首を振った。
「……画廊にあったやつの方が綺麗だ」
 実際、こちらの方が絵の具の塗りが妙に厚いこともあって、ひどく太く粗末な感慨を引き起こした。元々多少筆致の厚い絵であったが、これはそれが顕著すぎて描き殴ったようでさえある。筆の跡もまったく放置したままで、それが粗いという印象を担う大きな一つであった。
「あんまり好きな絵じゃない。画廊にあった方がよかった」
 思ったことをそのまま口に乗せる。彼の言葉にエミリアはそうね、と簡単に頷いた。
「多分、みんな同じ事を言うでしょうね。でも、これはこれでいいのよ。妹に見せるために描いた絵だから」
 クインは怪訝な視線を彼女に与える。大人という年齢の端にようやく足をかけようとしている年齢の、尖り始めた顎の線が細い。それが何故かひどく切なくて、クインはふっとそこから目をそらした。彼のその仕草にエミリアはそっと笑った。
「いいの、アスナ……妹のための絵だもの。あの子だけが分かっていればいいの」
「でも、色だって画廊の方がずっと綺麗だった」
 自分の感慨を否定されたような僅かな不服に、むきになってクインは言った。エミリアはだが、いよいよ柔らかにそっと笑った。
「いいのよ。あの子、目は見えないから……」
 クインは一瞬きょとんとし、それから徐々に彼女の言葉の意味を悟って呼吸を潜めて深くした。見えないと繰り返すとエミリアはそう、とことさらゆっくり頷いた。それは、とクインは曖昧な居心地悪さを口の中で噛みつぶし、ややあって大変だね、と付け足した。
 それを口にしてからその事実の重大さにやっと気付く。エミリアの絵の大きな特徴であるはずの、人物像の表情の優しさや色使いの暖かさ、染みいるような筆致の美しさも、エミリアの肉親が見ることが出来ないと言うのはひどい皮肉である気がした。
 クインが黙り込んでしまったのをエミリアは小さく吐息で笑い、彼女自身の目線を粗い粒子で構成される絵へ向けた。
「4年前の流行熱でね……親ももういなかったから医者にも診せてあげられなくて、見えないって気付いた時には遅かった。力のない自分も悔しかったし、何よりあの子が不憫で哀れでずっと泣いたわ。私の絵をとっても好きだって言ってくれたあの子に、もう見せてやることが出来ないと思った」
 エミリアの声はしっかりして、静かに明るかった。クインは絵を見つめる彼女の横顔へ目線をやった。エミリアは彼に視線を合わせ、微笑んだ。それがやはり何の気負いもなく明るいことが不思議だった。
「……この絵はね、だからこうやって見るのよ」
 彼女がそう笑った次の瞬間、クインの手に温かなものが重なって彼ははっと肩をいからせようとする。それは既に反射というような早さだった。客のことも、自分の周辺にある思いに任せない現実も、彼の手を取ってはくれなかったはずなのに、それは不意に降りてきて彼を動転させる。
 大丈夫、と宥める穏やかな声。それに何かが触れて中の神経がゆったりと波を凪ぎへ近寄せていくのが分かった。
 クインは微かに喘ぐ。触れた箇所が過敏に熱い。肌が発火しているような気がする。けれど動くことさえ出来ないで、ただ震えの上がって来るまま、エミリアの手の温度に動揺しているのがひどく恥ずかしかった。
 目を閉じて、と囁くような声が言った。クインは瞬きし、そして何かを言おうとして言葉が見つからず、唇を無意味に動かす。エミリアは少し首を傾げ、彼の手を掴んだままで背後に回り、ゆっくり抱き寄せるような仕草でクインの目を後ろからもう片方の手で隠すようにした。
 そっと背中に彼女が被さる。声を上げかけてクインはそれを飲み込む。ほぼ同じ位置にある心臓の鼓動が、とく、とく、肌と服の薄い厚みを通して触れ合っているようだ。
「こうして、ね」
 エミリアの声が自分の耳すぐ端でした。クインは吐息がかかる距離にやや身震いする。それと指先が絵であろうざらざらした表面に触れるのとが同時だった。導かれるままに指先で絵を撫でる──その触感が筆跡の流れを捉えて滑った。
「ここは緑。春の色、新しくて綺麗な草が戻ってくる春」
 そっと囁く声が優しい。泣きたい。それだけに触れて泣きたくなるほど優しくて温かい。
「ここは青。やっと晴れた日の眩しい空色、ほら、雲、柔らかい、ふわふわしてる。このなだらかな線は山、ずっと向こうにある山に霞雲がかかってる」
 彼女の言葉の通り、指先には山の稜線のような薄い膨らみと、所々途切れるような攪拌された綿のような乱線が分かる。空と彼女が言った箇所は殆ど平らで筆致もほとんど感じ取れない。
 雲だと言う場所には確かに雲を表すようなゆるい曲線が脈絡無く配置された、模様のようなものがあった。
「そして、これが妹。あの子の目、鼻、ここは瞼……睫毛が長くて、ほら……眉の形はこう、肩の線はここ……少しづつ大人になっていくから大分身体も柔らかな線になってる……」
 彼女の声と手が導く絵と、告げられる色味が次第に頭の中でぼんやりした絵になっていく。指先の感覚が連れてくる、幻想で形作られていくもう一枚の絵。色を彼女が告げるたびにそれはしっかりした風景のように鮮やかになっていく。意識の中にしか存在しない、鮮明で美しい絵。髪よ、と指がたどる道筋のうねるような流れと豊かな情感、殆ど官能的ですらある輪郭。
「───見える? これがあの子の見る絵よ……」
 エミリアの声にクインはゆっくり頷いた。彼女の手が離れる。
 背後からそっと気配が遠くなって、クインはやっと目を開けてエミリアを見た。彼女はやはり笑っていた。その笑顔がいつにもまして切なくて、ぬくやかで、ひどく優しい気がした。
「……あの子が見えないって分かって、私、本当に悲しかった。あの子のいないところでずっと泣いてた。絵も……芸術院への推薦を貰えそうだったけど、やめて働こうとしたわ。でもあの子がこうやって」
 エミリアは言いながら手を自分の顔にあて、指先で造形を確かめるように撫でた。
「私の顔は見えないけど、どんな顔をしてるかは分かるって言ってくれた。姉さんが笑ったり泣いたりしてるのが良く分かるって、あの子が……」
 僅かにエミリアの声が歪んだ。クインが目を向けると、月明かりのぼやけた視界の中で彼女は淡く泣きながら、それでも彼に微笑んだ。
 クインは当惑と怯みの中間にある痛ましさに揺すられて首を振った。エミリア、と言いかけると彼女は首を振ってエミル、と言った。
「……エミル……」
 呟くように言うと、彼女は頷いた。エミル、とクインは繰り返した。エミリアは微笑みながら首を振り、指で軽く涙をこそいだ。その口元がやはりまだ笑っている。仄かで温かい、彼女の絵と同じ、人の肌の温度と心の熱を教えてくれる笑みだ。
 ──唇に触れたい。彼女の柔らかで温かなそこに触れたい。クインは唐突にそんなことを思い、身体をずらしかけてふとそれを止めた。キスは誰かと寝るより重要なことだという娼婦の世界の常識が不意に現れて彼の腕を掴んだのだ。それが特殊な条件の特殊な約束だとは知っていても、一瞬のためらいの時間が衝動を冷えさせるのには十分だった。
 男女どちらでも寝ることに抵抗はない。それは既に彼にとって定理のような身体の反射に過ぎない。けれどその先に来るはずの、簡単な仕草が重い。特別なことなのだという感覚が自分の身に染みすぎていて、キス一つがどうしても出来なかった。
 クインは僅かに俯き、エミリアの絵に指を這わせた。彼女が盲目の妹のために描く絵はやはり地味な色彩とぼってりした画材の厚みでどうしても垢抜けない。けれど、目を閉じて空想に委ねれば驚くほど豊かな情景を示した。
「……ねぇ、少年。妹が……その時言ってくれたの。見えなくても見えるものがあるし、無くしたものの替わりに拾ったものもあるからいいって、気にしないでって、絵を続けて欲しいって、私の絵があの子の希望だって……」
「希望……」
 クインは呻くような声で呟いた。その言葉を生まれて初めて聞いた気がした。希望、と繰り返すとそれが尚更痛くきつく胸に落ちた。
「少年、希望は自分で探さなくてはいけないわ。あの子の希望が私の絵なら、私の希望はあの子なのよ。アスナがいるから描き続ける事が出来る。あの子が私の絵を自分の未来だと言ってくれたから私、ずっとずっと描くわ、描き続ける。あの子の為に」
 だから、とエミリアは続けた。
「あなたの希望を探して。お願い、辛そうな顔をしないで。あなたが無理に笑ったり喋ったりしてるのを見ると、居たたまれないほど私も辛いわ……」
 クインは臓腑の奥を突き刺されたようにして深く呼吸しながら喘いだ。胸が痛い。何故という疑問も、煩わしいという感情も、湧いてこない。溢れてくるのは涙だ。自分でも訳が分からない衝動と激しい高ぶりが、そんな形になって身体の中から吹き上がってくる。
「エミル……」
 喘ぎながらクインはこぼれてくる涙を手でぐいぐい拭い、口元を押さえた。泣いている時は言葉も声も役に立たない。エミリアがゆっくりと彼の額にばらばらにかかる後れ毛を払い、そっといたわるように抱きしめた。
 彼女の体温。そして髪についている定着剤と絵の具の微かな匂い。それにどっと寄せる安堵を覚えてクインは彼女にしがみついた。いつかあった、こんなぬくい腕の中がやっと自分に戻ってきた気がした。
 涙が落ち着くまで長いことそうしていて、やがて身体が自然に離れた時、その懐かしさや嬉しさにクインはつい笑みをこぼした。エミリアの気配がふっと密やかになる。怪訝にそちらを見ると、彼女はじっとクインを見ていた。視線の強さが出会った夜と同じ色だ。
「綺麗ね──本当に綺麗」
 呟いたエミリアにクインはゆるく首を振った。
「俺は……そんなんじゃない……誰かにそう言って貰えるほど何も……無いから」
「いいえ。あなた綺麗だわ。とても……綺麗。あなたの笑った顔、もっと見たい。あなたを描きたいわ……」
 エミリアはそんな事を言って淋しく笑った。その先を続けないことでクインも事情を分かった。女客は二度と同じ相手を取らないのが決まりだ。エミリアがチアロにつてを取っても彼はその理由であっさり撥ねるだろう。……けれど、抜け道もある。
「俺、時々来ても……いいよ……」
 それでもこんな言い方しかできない自分を苛立たしさと苦笑の両方で眺め回しながらクインは言った。これは恐らく重大な違反の一つになるだろう。ライアンは女客を取らせること自体にあまり良い色を示さなかった。
 だからこそ、意味があることもある。これがあてつけなのか反発なのか、……それともエミリアへ向かう何か特別の前触れなのか、まだよく分からないけれど。
 彼の言葉にエミリアは目をしばたき、ついで嬉しそうに笑った。いいの、と聞かれていいさと答える。いずれにしろ、彼女といればここ最近自分を取り巻いていた嫌な空気とは離れていられるのだ。
 ありがとう、というエミリアに首を振り、クインはもう一度絵に目をやった。塗り厚い絵はやはり重たそうな色の印象でしかなかった。
「いつか、ちゃんとあなたを描けたら……その絵をあなたにあげる。妹のためにこの絵を描いたように、いつかあなたのためにあなたを表す絵を描くわ、約束する……」
 エミリアの言葉にクインは頷いた。その瞬間にこぼれてきたのはやはり温かな感慨だった。
 凍ったようだった胸を、ぬるくほどかしてゆく、春の日射し。新緑の隙間から降る木漏れ日に似た、眩しい季節の前触れ。クインはそんな幻想が一時脳裏をよぎるのに任せて目を閉じ、エミル、と言った。
「俺の絵が出来たら見せてよ。見たいんだ」
 勿論、とエミリアが深く頷いた。
 それを見届けて、もう帰るよ、とクインは立ち上がった。酔いも醒めて来た頃合いであったし、今日は看護学校と言うことでタリアを抜けてきている。あまり遅くなってはチアロに心配も掛けるし不審を抱かせたくもなかった。
 今日が最後じゃない。それを思うだけで心浮かれるほど嬉しい。鞄を受け取ってアパートの外へ出ると、既に夜は深く人通りは殆ど無かった。月は変わらずに石畳に光の影を落としている。
 またね、とエミリアが彼の頬に軽くキスをした。それに照れたように笑い、クインはまた、と繰り返す。
 数歩行って振り返り、まだそこにいたエミリアにクインは言った。
「───クイン」
「え?」
「みんな、俺をそう呼んでる」
 それだけ言って、クインはぱっと駆けだした。気恥ずかしくて返事は待てない。その背後からまた、と叫ぶエミリアの声が弾んでいるのを知って、彼は唇をゆるめて笑みを作った。
 吐息のように細く、月光のように淡い、心底から浮いてきたほころぶ笑みを。

 ゆっくりと外周を回っていくと、さびくれた門構えが見えた。チアロは足を止めて彼の記憶の中の過去と照らし合わせ、やがて頷く。確かここで良かったはずだ。もう……4年ほど前のことであったが、おぼろながら所在地を覚えていた自分にほっと安堵する。
 鉄の飾り格子になった門扉を軽く押して中へはいると、庭にいた少年たちが一斉に稽古をやめてチアロを見、そして彼の背後の子供を見た。……身売りだと思われているのだろうか、視線が強い。チアロは苦笑し、彼に付いてきた子供の額をつついた。
「ショワ、外で待ってろ」
 子供はやや不満げに唇を尖らせるがチアロの言葉に逆らいはしない。チアロがライアンの子飼いと呼ばれているように、ショワは彼の一番近しい部下であり、弟のような存在でもあった。
 ショワが門扉の方へ戻っていくのを見据えてから、チアロは視線を前へ戻した。ぴしりという鞭が空気を割いて石畳を叩く音がしたのだ。その音に弾かれたように子供たちがまた稽古を再開した。殺陣、軽業、そして芝居の台詞と立ち回り。子供を監督する鞭をうち下ろした老人に向かってチアロは軽く会釈し、その側へ歩いた。
「何か用かね。うちは今は新しい子供は要らないよ」
 老人は椅子に腰を下ろしたまま、ぼそぼそと言った。チアロは首を振った。
「少し調べものをしてるんだ……もう10年くらい前に、この一座にライアンって子供がいたと思うんだけど」
「さて、年を取ると耄碌していかん」
 微かに空気の抜けた声で笑うと老人は再び石の床に鞭を叩き、何人かの名前を続けて叫んだ。
「何度教えたらいいんだ、この馬鹿どもが!」
 名前を呼ばれた子供たちが微かに身を硬くする。チアロはそれに首をすくめた。ここがライアンの育った場所だ。少なくとも6才を過ぎた頃から12、3まで彼はここで活劇芝居の役者をしていた──この子供たちと同じように些細な失敗に怒鳴られ、鞭で打たれながら。
 チアロはさっと彼らの目に走った怯えに気付き、お願いだから、となだらかな声を出した。言いながら内懐から10ジル紙幣を数枚掴みだし、老人の手に押しつける。それをさっと袖の中にしまい込み、老人はチアロをややすがめになりながら見上げた。
 誰を捜してるって、と聞き直されて、ライアンの名とこの芸団で活劇の殺陣役者をしていたことを告げる。老人はチアロの説明に何度か頷きながらぼつぼつと返答した。
 ───ライアンだってね? ……イダルガーン役の活劇役者か……ああ、そういやそんなのもいた気がするな……まぁ、お待ち。帳簿を探してあげようね。
 そうして老人が席を立ち、奥にある雑居用らしい建物へ消えていく。子供たちの殺陣の気迫が途端にゆるまって、チアロははっきりした苦笑になった。鬼の見ていない間にはやはり気が楽になるのはどこの世界も共通らしい。
 芝居の稽古を何となく視界に入れながら、チアロは長い溜息をつく。ライアンの履歴は大体を本人から、何かの折りに断片的に聞いたものをつなぎ合わせて理解している。彼はこの一座から老人の稚児に売られ、2年近くを慰み者に甘んじた後逃亡し、チェインに転がり込んできたはずだ。
 この劇団だと言うことには間違いがない。……何故なら4年前にライアン自身がここへ来たのにチアロも同行したのだから。あの時、自分もショワと同じように外へ出されてしまった。ライアンに付いている自分を、子供たちがうろんな目つきで見たのだろう。そんなことが今更分かる。
 ライアンが何をしに来たのか、その時には教えて貰えなかった。けれど、今は知っている──多分、正確に察している。今チアロがここへ訪ねてきたのと同じ理由によって、ライアンは4年前にここへ来たのだ。
 お願いよ、という声が遠い場所から蘇ってくる。チアロは吐息を長く落とした。彼女のことは特別だ。気位が高くて気質が脆く、鼻っ柱が強いくせに折れてしまいそうなほど弱い。彼女のことを思うたびに新しい息吹のようなものが胸の底に湧く。一目見た瞬間から何かに撲たれたように彼女のことばかりだ。
 恋だの愛だのという小難しい理屈は要らない。ただまっすぐに、彼女だけに視線も思いも向かっている──好き、なのだ。
(お願いよ、ねっ、いいでしょ? あたしのこと好きなんでしょ?)
 利用されているのだということが分からないほど馬鹿でもないが、彼女がそう思いたいならそれでも良かった。彼女のことに関する限り、馬鹿だと言われても構わない。
 要するに、何だっていいのだ。彼女が自分に頼ったり甘えたりしてくれれば、それがどんなにあざとい仕打ちであっても、誰かの身代わりであっても、八つ当たりであったとしても嬉しい。それが恋だ。少なくとも、チアロにとっては。
 シアナ、と彼女の名を呟くとそれだけで嬉しくなってくるのだから本当に馬鹿なのかも知れない。この名前は遊女としての源氏名だから、本名は別にある。それを教えて貰えるのは特別の印で、この調べものが終われば与えて貰えるはずであった。
(兄がね、いるの。会ったことはないんだけど、母がそう言ってたから……兄を捜して、お願い。年は私より7才上で、名前は……)
 シアナはややためらうように言葉を濁し、そして名前はライアンよ、と付け加えた。シアナの7才年長というのなら、それはチアロの主人であるライアンと同年齢であったはずだった。
 ライアン、と聞き返すとシアナは深く頷いてお願いよ、と幾分重い声になった。
(そう。つまりね、ライアンが私の兄なのかどうか、調べて欲しいの。私の母の名前はシルナ、南国沿海州の出身で言葉が片言だったから、母のことを聞いて貰えれば分かるかも知れないわ──お願いよ、ねぇ、こんなこと頼めるのチアロくらいしかいないの)
 最後に追加された言葉が目的を達しようとするあまりの無意識の媚びであったせいでチアロは反射的に頷いてしまったが、落ち着いてよく考えてみればこれも妙な話であった。
 ライアンはずっと彼女に通い続けている。シアナもライアンに夢中だ。けれど彼女は自分たちの間に血縁があるかどうかが気にかかるらしい。……ライアンとの絆を確かめようとしているのだろうか、それとも兄妹であったら関係が劇的に変化するのか。
 妹である方がチアロには都合が良さそうだった。気になる、というならば血縁が証明できればシアナがライアンを諦めるという選択が浮上する。シアナはそれを迷っているのではないだろうか。
 だがライアンはこの問いの答えを知っているはずだ。4年前に彼も同じ疑問を抱いてここへ、自らの母親の足跡を求めて立ち寄っている……恐らく。そしてそのまま関係を解消することなく続けているのなら、シアナは彼の妹ではない。概測をどことなく掴みながらも確信には至らないため、この芸団まで足を向けているのだが、回答は知っている気も胸のどこかにあった。
 やがて戻ってきた老人が、子供たちの様子をさっと一瞥して帳簿をめくり始める。古びた紙のカビ臭さが僅かに漂ってくる程度の時間が過ぎて、老人の指先が一カ所でとまった。
「この子だな……帝歴1978年9月、ライアン、6才」
 そうですね、と頷いたチアロにだが老人は自分で首を振った。違う違う、と呟き、その指がやや遅れた記録を辿る。この子だな、と指された帳簿には名前がなかった。チアロが訝しく老人を見ると、老人の方はひょいという仕草で肩をすくめた。このライアンって子はこっちの子を買う3日くらい前に死んだんだよと薄く笑い、付け加える。
「名前は母親が売りに来た時に聞いたはずだったが、忘れちまったんでね。だからこのライアンって子の名前をそのままつけた……」
 チアロは僅かに眉をひそめる。この老人の適当さ加減はここにいる子供たちの個々への関心など無いことの証明であった。金のない家ほど子供が多い。仕事を手伝わせたり、最初から無戸籍にしておいて売り払ったり、子供など物と同じなのだ。少なくともこの老人や、老人に子供を売った親にとっては。
 これに多少の不快を感じるのは、チアロにとっての父親が、決して理不尽で憎むべき相手でなかったことが幸いしているのだろう。チアロは気分を変えるためにそう、と務めて明るい声を出した。
「ねえ、じゃあこっちの子がイダルガーン役をやってたライアンだよね? 12か3でどっかの変態に稚児に売られた……」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない、養子だよ、養子」
 チアロは今度は苦笑して分かったよ、と老人の詭弁に合わせた。実際のことはライアンの少ない言葉数の中から拾い上げた嫌悪感で察しているが、ここで実体のことを論議しても始まらないだろう。老人は養子だともう一度念を押し、それから頷いた。最前のチアロの言葉への肯定であるらしい。ではこの名無き子供がチアロの主人であるライアンであろう。
「じゃ、この子の母親なんだけどさ……異国人って話、ない?」
 ここでシアナの記憶と合致するならば、もう少し詳しく調べても良かった。これが噛み合わなければ他人だと断定も出来る。老人は怪訝に眉をひくつかせ、首を振った。
「いいや、異国人から子供を買ったことなど一度もないよ。言葉がおかしいと芝居に使えないからな」
 一瞬置いてチアロは頷いた。老人の言い分には道理があった。軽業なども見せてはいるが、この芸団の一番の出し物はやはり芝居だ。台詞がおかしいのは具合が悪いのだろう。
 間違いがないかを確認してチアロは10ジル札を老人に渡し、芸団を出た。門外で退屈そうにしていたショワが駆け寄ってくる。
「もういいの、チアロ? 何の用だった?」
「いや、お前には関係ないことだよ」
 軽く子供の柔らかい髪を撫でてチアロは多少巻き起こってきた感慨のために空を見上げた。
 ライアンとシアナは兄妹ではなかった。そうではないかと推測していたものの、呆気ないほど簡単に回答は与えられた。……けれど、これをシアナに伝えたら……どうだろう。
 彼女は今でもライアンに夢中だ。それに嫉妬さえ興らないのは自分もライアンを好きで、深く尊崇しているからでもあろう。彼の良くない所も沢山知っているが、誉めろと言われたら幾らでも出来る自信がある。
 けれど、嫉妬しないことと希望を持たないことは違う。いつの日にか、シアナがライアンに向けるような熱っぽく潤んだような瞳の中に自分を見たい。彼女のためになら、文字通り何でも出来るとも思う。
 そうやってかき口説いても何度も言葉を重ねても、身体さえ添わせていたって彼女の美しい翡翠色の目はいつでもチアロを通り越し、ライアンを見ている。兄妹でないと教えてしまったら、その目は二度とそこから動かないかもしれない……
 チアロは頬を僅かに苦笑に歪め、薄い色の髪をくしゃくしゃかき回した。教えてしまえばきっと一生彼女の都合のいい友人程度のものから脱却することが出来ない。けれど黙っているのは彼女が多少なりとも自分に向けてくれた信頼を裏切るのと同じ意味だ。
 告げるべきなのかどうかを考えながら、それでも生来の多弁な性質のままショワと雑談に笑い合いながらチアロはタリアの境界門を過ぎた。黄昏近い境界門の付近はこれからこの歓楽街で一夜を楽しもうという魂胆の人々によってごったがえしている。
 どうするかは彼女の顔を見てから考えよう、とチアロはショワに根城へ戻っているように言いかけ、ふと視線を彷徨わせた。既視感が視界の端によぎったのだ。
 チアロは反射的に人波の気配に自分を埋めた。これは習性と言うべきだった。視線だけでせわしなく気配の方向をまさぐっていると、細い身体が目に入った。
 ───今日は女装か。
 チアロはタリアに流入してくる流れに逆らって外へ行く、すらりとした立ち姿を見つめた。髪は適当に編んで後ろでまとめ、夏向きの淡い色のワンピースに編革のサンダルを形良い足に引っかけ、歩いていく。すれ違う人々が驚愕と賛嘆と、畏怖にも似た目つきで振り返るのが判で押したように同じで苦笑を誘う。華やかで匂い立つように美しい面差しを掘り起こし、チアロは眩しいような圧迫で目を細めた。
 初めて会った時の驚愕が、彼を見て目を瞠る人々の仕草に呼び戻ってくる。
「仕事っすかね」
 ショワの言葉に、チアロは我に返った。今日は仕事はなかったはずだ。本人が少し休みが欲しいと言っていたし、先月から看護学校にも通い始めているからそれに配慮する意味でチアロは頷いている。
 学校か、と思いかけてチアロは首を振った。授業は週に2度だが、仕事と重ねたくないという彼の言葉を受け入れ、毎週彼と予定を連絡し合っている。今日は一日何もない日だ。仕事は入れた覚えがないし、授業は確か、明日でなかったろうか。……それに、彼は学校には確か男のままの服装で通っていたはずであった。
「ショワ、奴を尾行しろ。とりあえず、どこへ行ったのかだけ分かればいい」
 さっと言いつけ、持っていた20ジル札と小銭を子供に押しつける。ショワはちらっと過ぎていく背中を見つめ、でも、と言いかけた。それを遮り、チアロは大丈夫だと素早く言う。
「奴はこういう事には素人だ、お前が奴をじろじろ眺め回さない限り、気付かない」
 尾行には通常二人以上があたる。ずっと同じ人間が視界にいれば気が付くことがあるし、連絡をしやすいという利点もあって、普通はそうするのだ。
 だが、それはないとチアロは即断した。ショワに言った通り、クインはこうしたことには疎く、反応が鈍い。それは仕方がないことだろう。ライアンは彼を仲間に引き込む気がなく、チアロも同じだ。
 仲間として迎えるのなら教えていくべきいくつかのことを、だから彼には伝えていない……例えば、尾行のまきかただとか。つまりショワ一人でも十分だ。チアロは既に身長が平均よりも抜けていて、目立つ部類に入るし、顔見知りは適任ではないだろう。
 雑踏の中からどうやらクインは抜けたらしい。人の吐息や視線の方向がばらけて戻ったことですぐに分かった。チアロも目立つがクインはもっと人目を引く。一瞬見失ったとしても、人の気配の方向で探し出せるほどに。
 チアロは肩をすくめてチェインへ戻り、彼の根城となっている煉瓦屋敷の地下から水路に降りた。そこを経由してクインの住処であるアパートへ回る。合い鍵は持っているのだ。
 書斎の机近くには、登校時に使っている鞄が置かれていた。相変わらず、適当に積み上げた本と訳の分からない書き付けが散乱している汚い部屋だ。
 机の上の意味のない単語の書取、専門用語の辞書だろうか分厚い本にびっしり挟まれた紙片。それらをそっと動かして、チアロは引き出しを開けた。こちらも整理整頓とは無縁に文具が散らばっている。
 引き出しをゆっくり滑らせて、中の物の位置をずらさないように気を使いながら手を奥へ突っ込むと、やはり何かが指先に触れた。隠し物は引き出しの奥、というのは本当に常套だ。
 紙片のような物を指でつまんで引き出すと、それは一枚のカードだった。幻想的な青い色は海なのだろうか、そこに微笑む天使と群れ泳ぐ魚を配した美しい絵が印刷されている。
 裏を返すと地図と日付があった。父親から最低限の読み書きは教えられていたせいで、チアロはごく簡単な構文は理解できる。いくつかの単語は読めないが、絵の展覧会の案内状だろうということは察しが付いた。
 絵か、とチアロは少し眉を寄せる。……確かクインの最近の仕事の中に、絵を描くとかいう若い女がいたはずだ。オルヴィから仔細の申し送りを受けた時に、そんなことを聞いた気がする。
 それとすぐに結びつけて考えるのは性急すぎるとは思うけれど。
 チアロは溜息になった。カードを元の場所に戻し、違和感のないように慎重に引き出しを閉めて居間へ戻る。一応の用心のために切っておいた明かりをつけて、ゆるく首を傾げながら長椅子に身を預けた。
 ……クインの様子は確かにこの半月ほどおかしい。明らかに浮かれている。それにはとうに気付いていたが、元来気性の上下の激しい子供のことであるから悪い時があればよい時もあるのだと考えてきた。
 ……だが、チアロに何も言わずタリアの外へ出かけていくとなると、何かの秘密を持っていると思った方がいいだろう。
 折りもおり、ライアンが居ない。彼はオルヴィを連れてシタルキアの北東、エリオン王国に足を向けており、あと1ヶ月は戻ってこないだろう。タリアを離れる直前にクインとまたひどくやりあったらしく、そんな話をライアンからは聞いた。留守中は頼むと言われて頷いた記憶がある。
 まずいよな、とチアロは額に落ちる髪をかき上げるついでにくしゃりとかき回した。ひどく明るくて楽しげなクインの表情には確かに安堵も覚えるのだが、地に足の着いていない浮かれ方は……恋だろうか。チアロは顔を一瞬歪め、自分の表情が渋いことに遅れて気付いた。それは彼のためにいいことだ、とは思う。けれど彼のために素直に喜んでやることは出来ない。
 クインはライアンのもので、だから許容されていることが沢山ある。ライアンの掌握する子供たちの幹部と呼ばれているのは現在チアロを含めて6人だが、クインに多少なりとも好意を抱いているのはチアロくらいのものだ。
 ディーもノイエもカインも彼を疎ましく思っているし、残る二人、イシュラやカリスに至ってはライアンが彼を所有することにさえ不満げな色を漂わせている。無論チェインの王たるライアンに面と向かって異を唱えはしないが、何か不祥事があった時にはこぞって処分を吠えるだろう。
 6幹部に更に一人増えるという噂もちらほらあるが、そうなれば事態は更に悪くなるのは明白だ。追加が囁かれているのはオルヴィという女……クインの目下の天敵。
 チアロはちょんと肩をすくめた。ショワの報告を待たなくてはいけないしこれが杞憂であると思いたいが、常に事態の想定はしておくべきだった。
 恋人が出来たなら、それはクインにとってはきっと良いことのはずだった。これまでのように思いを預けようとライアンに寄りかかっては拒絶され、その結果荒れるだけ荒れているよりは遙かにましだ。
 けれどそれを喜べない。ライアンはなんて言うだろうとチアロは溜息になった。彼は気に入らないのに決まっているからだ。それは所有欲というよりも体面の問題で、チェイン王としての顔を潰されることがあれば、タリア王アルードへの示しも具合が悪い。そもそもクインのことはアルードには隠したいはずだ。いずれ、クインは何事かの切り札にも使えるとライアンは考えている。
 何が起きているのかがはっきりするまでは彼の様子を逐一観察するしかないが、もし外の世界に恋人が出来たなら……
 チアロは難しい吐息を落とした。その時は彼に、忠告をしなくてはならない。ライアンのいない時機であるのは却って好機だ、忠告を素直に聞いてくれたら自分の胸の中にだけ、収めておけばいいのだし。
 そんな言い訳を胸でいじりながら、チアロは嫌な懸念が自分から一向に離れていかないことに舌打ちをした。
 ぼんやりした光景には色がなかった。薄い煙幕のような白黒の世界に、ぼやけた焦点の格子木が見えている。
 ああ、これは夢だ。それを知覚した途端、ぬるく体が溶けていきそうな感覚が興った。視点が低い。まだ幼い自分の見ていた、遠く古い目線の焼き直し。格子の向こう側にもつれあった男女が見える。のたうつように身をよじり、意味のないあやふやな言葉を叫んでいる女と、それを殆ど殺すかのような勢いで攻め立てている男、右肩の傷。
 視点はゆっくりと格子の中へ分け入って男の右肩を視線で撫で、女の傍にすとんと座り込んだようだった。女が自分の手を握る。一瞬ぎくりとするほど熱い。
(ねぇ、見てて、見ていて、ねぇ、可愛い子ねぇ、どこから来たの?)
 浮かされたように口走る女に視線が上下する。自分は頷いたらしい。
 どこから来たのという問いに答えるように、子供特有のふっくらした手が上がり、女の腹を指した。自分の唇が動いて何かを言ったようだった。それの何が良かったのか、女がけたたましく笑う。それに合わせて男が笑っている。
 笑う。笑う。嘲り、蔑み、侮る声が幾重にも、ぐるぐる、めまぐるしく、ひたすらに、笑う笑う笑う笑う──……
 これは夢だ。強い声が胸の奥から囁いている。それに導かれるように決然と目を開けると、そこは柔らかな光の中だった。窓から淡い光線が差し込んで、白いシーツの波間に優しい灰色の影を作っている。
 それを目にした瞬間、これが現実だと身体が理解したようだった。すうっと肩から力が抜けて、自分がひどく身を強張らせていたことがやっと分かる。
 長い溜息を肺から押し出していると、隣にいた男が身じろぎした。起きたかと言われ、目をしばたいて素っ気なく頷き返すと男は腕を寝台傍の小卓に伸ばした。煙草だろう。何度かこの男と共に朝を迎えたことがあるから、寝起きの最初が一服から始まることは知っていた。
 身を起こしてその通りに煙草を始めるライアンの仕草はもの慣れていて、そもそもの印象の通り、素っ気ない。けれど、それは自分も同じだ。何もかもは過去へ置いてきた。今まで寝てきた全ての男たちも自分に同じものを見て、苦笑したではないか。
 終わればすぐに醒める女。痕跡も空気も全てを呆気なく消してしまう奴──つまり、なつかない犬。
 そんな喩えを思い出して、オルヴィはそっと視線を伏せた。考え事をする時は、ことさら無表情になる。それが子供の頃からの韜晦の手段であり、母とその周辺の男たちへの目眩ましであった。
 オルヴィは薄い毛布の下で身体の位置を変える。枕に肩まで押しつけるようにして、まだまどろみに半分ほど漂っている気分のままに目を閉じた。眠るかと聞かれて目を閉じたままで首を振り、少し、と呟いた。ライアンの返答はない。ないが、それは了承の沈黙であるように思われた。
 母の夢を見るのは久しぶりだとオルヴィはまだ脳裏に鮮明に残るそれを、じっと見つめる。古ぼけた格子棚は母の店、シタルキア南部の都市メーリンの、安い妓楼の立ち並ぶ地域の更に隅にオルヴィは8才まで育った。特段美少女ということでもなかったため客には適当に邪険にされながら成長したが、その生活の終わりは母の人生の終わりでもあった。
 だらしのない男に惚れ、男の言うままに麻薬に手を出し、最期の血の一滴までも啜り尽くされて死んだ母。最後にはオルヴィのことさえ分からなかった。中毒のせいで濁った白目でぎょろりと娘を見て、どこから来たのと同じ事を繰り返し聞いた。
 あの草をやる奴は馬鹿だ。馬鹿だから踏み込むのか、あの草の見せる胸の悪くなるような幻影が馬鹿にするのかは知らないが、あんなものに溺れるやつは生きていく価値なんかありはしない。死ねばいい。母のように惨めに。
 僅かに眉根を寄せて深い溜息をつく。母親の死んだ後は債権者によってタリアの非組合の娼窟へ送られ、8才の夜から客を取った。その娼窟には当時の自分よりも更に幼い少女もいたから、そうした好みの客専門だったのだろう。
 12の時にその娼窟の主人も借財のせいで逃げ、すぐに掴まり、自分たちの見ている前でなぶり殺しにされた。それまで奇妙にねっとりした声音で自分たちを扱っていた男が絶叫と苦痛にのたうち、緩慢に死んでいくのをじっと眺めながら、オルヴィはひたすら口の中で同じ事を呟いていた。
 ──私は石だ。石になろう。何も思わず感じない石だ。石になろう、石になろう……
 転売された先の娼窟でも、オルヴィはあまり売れない女だった。笑わない、愛想も言わない、もの暗い表情の女はやはり敬遠されるのだった。とびきり美しい面立ちであれば違ったろうが、生憎そんなものは持ち合わせていない。
 あまりに売上が悪くてその娼窟からたたき出されたのが17の時、そのままオルヴィは迷うことなくチェインに足を踏み入れた。タリアの少年王のことは時折聞いて知っていたし、娼窟で知った数人の顔なじみもいる。あまり不安はなかった。チェインに女は珍しく、そのせいで数度は手酷い目にもあったが、それはオルヴィの中に決定的な傷を残さなかった。
 ──私は石だ。何も感じない石。
 それが全てを傍観するための呪文だった。それさえ胸の中で呟いていれば、やがて災厄は遠くなった。いくつかの傷、些細な諍い、保険のために寝てきた少年たち。そんなあやふやなつての最後に立っていたのがチェインの若い王だった。王という古めかしい言葉の持つ重い澱みを確かに感じた相手。
 お前と似ているだろうと皮肉を言って笑っていたのはどの幹部だったろうか。あるいは全員だったかも知れない。オルヴィがライアンの愛人であることは周知のことであり、それ故に一段蔑まれていることも知っている。幹部たちの中で一番馴染みがあるのはチアロだが、彼にしたところで腹の中でどう思っているか知れたものではないだろう。
 無論ライアンと寝たのは単なる保険だ。自分の足場を僅かにでも確保するためのことで、それ以上ではなかった──はずなのに。
 毛布の中でオルヴィは身じろぎし、右耳の貴石に触れた。一体何が起こってライアンがこれを自分に寄越したのか全く見当が付かない。宝石には詳しくないが、色の濃い石は高いと聞いているし、タリア王からの下賜品だとライアンが言っていたはずだ。安い品ではあるまい。
 そのことを思う時、オルヴィはひどくせわしない気持ちになる。土台ライアンから何かの形あるものを貰う、ということ自体が違和感なのだ。彼は単に自分を便利な道具のように扱っていたはずだった。少なくとも、最初の頃はそうだった。
 それがどうしてこんな宝石になって戻ってくるのか、それが何故なのか、どう判断していいのか分からない。有り体に言うならば、面食らっている。一体ライアンは自分をなんだと思っているのだろう?
 そこまできてオルヴィは自問の馬鹿馬鹿しさにさっと頬を歪めた。ライアンにとって一番大切な女は妓楼の中にいるはずだった。彼の視線をもう長く独占しているというその遊女の名前も顔もオルヴィは知らない。妓楼での宴席には正直なところ自分の居場所があるとは思えなかったし、ライアンも自分に来いとは言わなかった。
 知らなくていい。オルヴィはそっと頷く。多分、知らない方がよいことなのだ、これは。この奇妙な怖れがどこから来るのかも、考えるな。
 ───私は石だ。何も感じない、何も思わない、ただの石くれ。
 胸の中に呟き続けていると、かつかつという硬い音がした。煙管の灰切りだろう。気配は再び火種石をいじっているからもう一服というところか。
 既に神経は覚醒へ向かっていて、目を閉じていても眠りに落ちることはなさそうだった。オルヴィはゆっくり体を起こし、ばらばらに落ちてきた髪をかき上げる。横目でちらりとライアンを見ると、彼の方はゆるくくわえた煙管の先に火種を移すところだった。
 面伏せた瞼のくっきりした外殻線、煙管を撫でる整った指先。あの手はいつでもひんやりと冷たい。ライアンはいつもと変わらぬ無表情のまま、煙草を繰り返している。深い呼吸にずっしりと重い存在感があった。他人と同じ事をしていてさえ、身から漂い始める重い威圧がある。
 これは確かに美しい男であった。力ある雄にだけ現れる薄紗のような煌めきが時折、はっとさせる。そもそも役者のような整った面差しでもあるはずだが、彼の身に付いた空気に比すれば全く目立たない付属物であった。
 それとも、とオルヴィはふと思う。ライアンの面輪に大して感慨を強めないのは更に美しい顔貌を知っているからかもしれない。美貌というならばあの少年であることは間違いがないのだから。
 そしてオルヴィは渋面になった。元からあの少年はオルヴィを気に入らなかった。何故始めから悪意で迎えられたのかは分かる。彼はライアンの関心を引きたくてたまらない上に、チェインの少年たちとは折り合いが悪い。オルヴィもその一翼に見えていただろうし、いつ頃からか更に憎まれるようになった。誰かから漏れたのか勘付いたのか、オルヴィがライアンの愛人であることを知ったのだろう。
 いや、元から気に入らなかったのは自分も同じだ。最初にライアンに連れて行かれたアパートで自分を見た少年の目が、ざっと一瞥した後にぬるい軽蔑へ変わったのは確かに見た気がする。取るに足らない相手、まったく自分の敵ではないという表情だった。
 嫌な奴。それがクインに最初感じた感触であり、時間を経過して接触が増えるほどそれは強まっていった。
 確かにあの美しい面輪は特別の産物だ。一つ一つの表情や仕草でさえ、それがどんなに乱暴で斜に構えた偽悪であっても、目を奪うほど美しい。けれどその美貌を鼻に掛けた態度や人を小馬鹿にしたような口調はどうしても腹に据えかねる。
 だから時折はライアンとの関係を盾にとって彼をからかう。そうすると透けるほど白い肌がさっと怒りのために紅潮するのだ。それさえ美の範疇にあるのはさすがであるかも知れなかったが、屈辱感さえ口に出来ない品高さが少年を荒らすことは予測が立てやすかった。
 ふん、とオルヴィは唇だけで笑う。そんな笑い方がライアンに似ているとチアロが以前苦笑していたはずだった。似ているだろうか、とふと湧いた疑問をこね回していると、これだけは確かに似たような吐息がぬるく落とされるのを聞いた。
「……あれのことを考えているな」
 ライアンの表情はぬるい。オルヴィは目線だけで肯定した。
「あまり嫌味な客を選ぶな、奴がどういう客が気に食わないかくらいは知っているだろう」
 その作為はとうに知れていたようであった。オルヴィは肩をすくめ、返答をしない。そもそもあちらも気に入らないという理由だけで当日でも平気で撥ねつけるのだから、オルヴィだけが不興を買うのは公平でなかった。
「不満か? だが、奴を荒れさせることは感心しない」
「あの子が私を嫌いなんだ。何故好かれるようにしなくてはいけない」
「機嫌は取らなくてもいい、配慮してやれと言っている」
「同じ意味だ」
 オルヴィは短く返答し、寝台から降りた。裸のまま部屋を横切り、適当な服を拾ってかぶる。
 エリオンはシタルキアの北東に位置する国で、夏近いとはいえ裸身だと肌が冷えた。服の内側から小さな薬包が転がり落ちるのに目を留め、オルヴィはそれを拾いあげる。
「……煙草にでも入れたらどう、ライアン?」
 当てつけの嫌味を呟いて彼にそれを放り投げる。寝台の上にどうにか届いた薬包をライアンはひらき、灰皿へこぼした。微かに鼻を突く、甘い匂い。エリオンの裏の市場で高価に取り引きされている麻薬、その精製された顆粒はどの種類でも多少の差はあれ、甘い匂いをしている。
 エリオンまで出向いているのはこの麻薬の以前の取引筋との契約の為だ。彼がアルードから下賜された麻薬筋は殆どそのままライアンの手元へ収まったが、重量の単価や取引のための符丁などは一度打ち合わせなくてはならない。
 いくつかは別の取引先からの申し出もあるようで、実物は吟味しなくてはならないしその元締めとも顔を繋いでおく必要があるだろう。自分が伴われてきたのはその為だ。母の妓楼で初歩の筆記と計算は覚えている。チアロでも良かっただろうが、この点は恐らくクインのためにあちらを残したに違いない。
 そしてこれはオルヴィにとって、紛れもなく大きな転機の機会となるはずであった。麻薬筋のことはライアンの掌握する事柄の中でも金額からして大きな項目の一つだ。その基本的な契約の提携に立ち会い、彼らの語る方針を書き留め、簡単な試算を出すことでその基盤に深く、大きく食い込むことが出来る。
 それを思うと薄い興奮がオルヴィにも上がってくる。チェインの中で勝ち上がろうと決めた時から、ライアンはオルヴィにとって当面の寄生先だった。彼はチェインという小さな王国に君臨する絶対王だ。
 もしくは、とオルヴィは頬を厳しくした。クインと相容れないのはお互いの寄生の邪魔だと感じているからかもしれない。クインがどんな事情でか知らないがライアンに頼っているのと違う事情で、しかし同じようにオルヴィも彼に頼っている。宿主を取り合っているのだと思うとやはり面白くはなかった。
 オルヴィの渋面をどう受け取ったのか、ライアンが視線で意味を問うてくる。オルヴィは別に、と素っ気なく返答してから付け加えた。
「あの子のことなら、するべきことはしている。あちらが気に食わないのは勝手だが、私は配慮してるつもりだ、十分に。金払いのいい、後腐れのない相手をちゃんと選んでやっている」
 ライアンは僅かに溜息をついて薄茶色の顆粒の上から煙管の火種を落とした。灼熱の小さな塊がそこへ転がり落ち、微かな音を立てて薬粒を焼く。彼は薬はやらない。オルヴィと同じく、あの草に手を出す奴は愚かだと知っているのだ。
 風に乗って漂ってくる、ほんの僅かな甘い匂い。母の体臭とよく似ている。記憶の中の嫌悪と。
 それから逃れるようにオルヴィは浴室の扉を開けた。ライアンの肌には既に煙草の匂いが染みついていて、一晩傍にいると何故か眩暈がする。肺の中に差し込んでくる空気が細胞を侵していくような、きつい、感触。オルヴィは首を振り、水栓をひねった。一瞬おいて、受口から冷水が小雨のように落ちてくる。
 肌をこぼれていく人工の雨が、むず痒い。自分の髪から鬱そうと煙草の移り香が立ち上り、やがてそれは水と共に流れ落ちる。彼の煙草の匂いが薄くなっていくのに連れて、オルヴィは長い吐息を落とした。
 気に入らない。
 あの子も。
 妓楼にいるという彼の女も。
 肌をかすめていく煙草の匂いも。
 嫌悪と呼ぶにはひどく薄い感触がして、それでも何かが変わっていく──剥がれ落ちて。
 オルヴィは唇だけで暗く笑った。
 金払いのいい、後腐れのない客は確かに選んでいる。その先のクインの嫌悪のことを思って意地悪くほくそ笑むのは、クインの自分に対する嫌悪の鏡であり意趣返しだ。せいぜいねちこい相手にいたぶられればいい。
 そのせいで荒れていく様子は確実に溜飲を下げる遊戯であった。変化をつける為にあの変に素人臭い女を混ぜてみたのも、その落差を激しくするための布石だ。男客への憎悪に近い嫌忌との比較でいっそ、どの女でもいい、駆け落ちでもしてくれたらライアンも彼を処分しなくてはならなくなるのに──……
 オルヴィは肩を軽くすくめた。そんな都合のいいことは滅多に起こらない。だからこそ続ける意味もあるのだと、そんなことを思った。
 看護学校の課題を終えてクインは綴りの右肩を紐でとめた。ぱらぱら読み返しても全く欠損が無くて我ながらいい出来だ。その欠損には、わざといくつかの間違いを混ぜてあるところまで含まれている。
 ……幼くて魔導論文を書き散らしていた頃、欠陥を故意に作ることなど思いもしなかった。
 あの苦い失敗はしてはならない。目立ってはいけない、看護学校とて医療行為の一端に噛む故に、魔導の扱いは教えているのだから。
 医療と魔導は既に切れない縁で結ばれつつある。黒死の病に唯一効果のある薬は魔導と医術の融合によって出来上がるものであるし、その他にも難病といわれるものに対処する高価な薬には大抵魔導の効果が組み込まれているのが普通だ。
 医者の為の医療学校と看護士のための看護学校は多少内容は違うが、行き着くところは人間の病と向き合う為の技術であって、医者が基本的な魔導の扱いを知っていると同じように看護士にもそれが求められている。
 そして、それゆえに魔導学を修めている学生たちとの研究会が存在した。クインの通っている学校にもある。大抵は優秀な学生を高等学院へ出向させるのだ。
 だから成績も適当な匙加減を加えて卒業には支障ない程度に押さえてある。普通よりは少し上あたりの階層を彷徨わせている成績と合わせて、同じ学生同士の研修会でも目立つような発言は慎重に避けた。
 自分は、よくやっている。クインは自己満足に小さく笑うと課題の綴りを鞄へ放り込んだ。今日は仕事もないし、学校は明日の夜だ。さて、とわざとらしく腰に手を当てて机の斜め上に切られている窓の向こうを見やる。白くなめらかな皇城の壁面が一面夕映えの薄陽に染まり、雲のない空は夏の訪れを宣言するような、突き抜けた朗らかさだ。
 どうしようかなと首を傾げてみる傍から自分がひどく機嫌良く笑っていることにクインは気付く。
 けれどそれは少しも嫌な気持ちにならない。何かの特別なことがあったわけではないのに、心の底が仄かに明るくなったような気分になる。
 それが何のせいなのかは知っていた。エミリアは唐突で気まぐれとしか言いようのない頻度と時間にまたがる彼の訪れを、いつでも喜んでくれた。他愛ない話、単なる雑談、それに愚痴、そんなことをいちいち真剣に笑ったり驚いたりしてくれる。
 甘えているんだということは分かっていても、居心地のいい許容を手放す気はなかった。ほんの一時態度を弛めていた客たちにも最初の頃のような権高い表情を作れるようになってきている。客に媚びなくなってきたことで、蓄積されて行かなくなったものもあった。
 やっと自分の均衡を自分で操り始めたようで、それも心穏やかにしてくれる。
 全てが良い方向へ転がり始めた。追っ手のことや自分の出生のことは追々考えて行かなくてはならないだろうが、ともかくほっと呼吸を温くできる場所があったことが何より大きい。
 どんな時間に行っても彼女は大抵一人で絵を描いていた。静物もあったし、窓からの風景もあった。その全てに共通するのは彼女の素朴で清潔な明るさで、それを線画の奥に僅かに感じるたびに、何故だかひどく嬉しくなる。
 そして急に照れくさくなってきて、髪をかき回してクロゼットを開けた。一瞬迷って夏の薄く柔らかいシャツを選んで簡単に着替える。客との商売の時は女装も多いが、身長や骨格の堅さが次第に彼を大人にしていった。決定的な違和感ではなかったが、既に女装よりは男装のほうがしっくり馴染むようになっている。
 度の入っていない眼鏡を探していると、部屋の扉が開く音がした。クインは振り返る。このアパートへ訪ねてくるのなら、今はチアロくらいしかいない。ライアンはあの女を連れてどこかへ出ているようで、この一月、消息さえ聞かなかった。
 居間の方へ出るとやはりそれはチアロであった。クインに向かって軽く手を挙げ、途中で買ってきたらしい袋を長椅子にそっと置いている。硝子の鳴る音がしたから水の瓶も入っているのだろう。
「ありがとう……仕事?」
 クインは袋の中身をざっと覗きながら言った。チアロはひどく曖昧な返事をして、お前は、と聞き返した。クインは一瞬怪訝に友人を見る。何かを聞いた時に質問で返すようなことは今まで無かったからだ。
 淡い不審がうっすらと胸に広がっていく。エミルのことは知ればいい顔をしないだろうという予測が先にあったから、クインは別に、と答えた。適当にいつも引っかけている部屋着でないのは本当だったから、素早く付け足す。
「別に、買い物でも行こうかと思ってただけだよ……どうかしたのか」
 じっとチアロを見ると彼はうんと頷いて笑ったが、やはり薄墨のような曖昧な予感が表情に張り付いている。クインは長椅子に座り直してどうしたんだよと強い声を出した。チアロはそれで肩をすくめた。
「怒るなよ、別に駄目だっていう訳じゃないんだから……俺はただ、彼女の所にでも行くのかと思ってさ」
 彼女、という単語が耳に突き刺さってクインは一瞬ぎょっとする。こんな言い方をするのならエミリアのことを確実に知っているのだ──ということに思い至り、次の瞬間にそれが苦い感情に、どうしてという疑問は監視されていたのだという推測に変わった。クインは顔を歪めた。
「……俺が自分の時間を何に使っても自由だろ」
 声音はすり切れたように低かった。チアロは苦い笑みを崩さない。違うと言葉で否定されるよりもそのほうが胸に応えた。
「何だよ、俺がどうしていようと関係ないんだろう、ライアンだってそう言ったじゃないか」
「クイン」
 チアロは困ったような声を出してクインに近寄り、肩を叩こうとした。なし崩しに宥めるような仕草をクインは咄嗟に振り払う。ライアンに突き放された怒りをいつもチアロがそうやって慰めようとしてきた──今度も同じような対処をしようとする友人の態度が面白くなかった。
 チアロは諦めない。再びクインの肩に手を伸ばし、今度は捕まえて優しく揺すった。
「なあ、何で駄目かは分かるだろ? 今ならライアンもオルヴィもいないし、他の幹部連中にはまだばれてないし、どうにかなると……」
「うるさい」
 クインはチアロの手を押し戻した。チアロは僅かに目を見開き、視線を落とした。それがひどく傷ついたような表情であったことで、クインは微かに罪悪感を覚える。自分が辛く苦しくて荒れるだけだった時間に、傍にいて話を聞いてくれたのはチアロだけだったのに。
 ごめん、と決まり悪く呟くと、チアロの方は温んだ笑みになった。
「……何で駄目なのかは知ってるはずだ、クイン。今ならあんまり深い傷にはならない」
 クインは首を振る。やっと手に入れた場所を、この一言で放棄する気になど全くならない。エミリアが彼にふんだんに与えてくれるなだらかな日だまり、突き抜けて明るい空気、何よりも心穏やかに彼女の優しさにしなだれて覚える安息を手放すなどどうして思えるだろう。
「いやだ」
 ふて腐れたような声でクインは言った。ぷいとチアロから視線を逸らす。友人は彼の肩を撫でるようにさすり、ますます優しい声を出した。
「なぁ、頼むよ。……そのぅ……お前があんまりライアンの所有の範囲から逸脱すると俺もちょっとまずいんだよ、なにせライアンの留守中のことだからさ。俺のこともたまには考えてくれよ、な」
 柔らかい声だった。クインは横目で友人を見やる。彼に縋るような言葉とは裏腹に、その顔は少しも困惑していなかった。むしろ、淡い哀しみのような気配さえする。チアロは自分を下げてでもクインを引き留めようとしているのだ。
 それはクインには出来ないことでもあった。だからクインはやや態度を和らげる。そんなことまで友人にさせたことは確かに罪悪感になった。
 でも、とクインは顔を上げる。チアロの配慮を嬉しく感じ取るのと、エミリアに自分の負の部分を預けることは全く比重が違うことなのだ。
「お前しか知らないっていうなら、黙っててくれよ──なぁ、いいだろ? ライアンはあんなだし、俺は……俺は、ただ……別に恋人とかじゃないんだし……」
 ねじれた言い訳を呟きながら、クインはチアロの腕を掴んだ。チアロは首を傾げて溜息になった。
「クイン、俺は忠告をしているんだよ。お前はライアンのものだ、違わないだろう? なのにタリアの外で女と会ってる。他の幹部たちに知れたら、彼らはお前を処分しろと言うはずだ」
 クインは煮え切らない返答を喉で鳴らす。チアロの言うことは出鱈目の恫喝ではなく、十分に予測される未来であった。最終的にはライアンの胸一つでもあるが、幹部たちが口を揃えて処分を吠えれば無視することは考えにくい。配下の意見を尊重するというよりは、それによって傷つく彼の体面と矜持を優先するだろうということだ。
「ライアン、いつ、帰ってくる……」
 苦い気分のままクインは呟いた。チアロは僅かに迷った後、来月の半ばにはと答えた。一緒に行ったオルヴィからの連絡があったようで、大体の経緯は知っているらしい。
「だから頼むから、もう」
 行くなと言いかけたチアロの言葉を、クインは素早く、強く遮った。
「いやだ」
 殆ど泣きかけているような声だと自分で思った。けれど、それが却って自分の意志を強く固めたような気持ちを連れてくる。
 いやだ、とクインは繰り返して素早く、勢いよく立ち上がった。チアロが驚いたように微かに目を瞠る。それは本当に不意を付かれた時の彼の癖だ。僅かにそれで溜飲を下げて、クインはいやだと三度目を言った。
「ライアンは何もしてくれない、俺はもう奴のことを考えたくないんだ、もう嫌なんだ、うんざりしてるんだよ、どうして分からないんだ!」
 叫ぶ自分の声に吊り上げられるように、苦く痛い記憶ばかりが脳裏からあふれ出てくる。ライアンの冷たい声音までを思い出してクインは一瞬上がりかけた涙を飲み込んでもう嫌なんだ、と怒鳴った。
「分かってる、それはよく分かってるから」
 宥めようとするチアロの肩を軽く突き飛ばし、クインはたまたま放り出されていた眼鏡を掴んでまっすぐに扉へ向かう。待てよと追いかけようとするチアロを一瞥振り返り、何が分かってるんだよと低く小さく、唸るように言った。
「分かってるなら放っておいてくれよ、俺は大丈夫だから」
「クイン、でも、」
「ライアンは勝手だ、だから俺もそうするんだ。何がいけないのかなんて、知るかよ!」
 鈍く冷たい怒りのままにクインは吐き捨て、外へ走り出た。乱暴に扉を閉め、階段を駆け下りる。路地は既に紫色の暮刻の中で、建物の輪郭線までが不明瞭な闇に沈みつつある。
 普段使う地下水路を放棄して、ただチアロとその向こうにいるはずのライアンやその幹部たちへの当てつけの為だけに、クインは地上を駆け出した。
 エミリアに会いたい。何を言われても、どんな制約があっても、彼女に会ってこの吹き上がってくる怒りや苛立ちを宥め鎮めてやりたい。
 会いたい───それだけでいいから。
 走ってタリアの境界門を抜けると、急速に力がゆるんだ。膝に手を当ててしばらく呼吸を整え、エミリアの住居であるアパートへ歩き出す。部屋を飛び出した時にチアロが何かを叫んでいた気がするが、それはもう分からない。
 それから黙って突き飛ばされてくれたのが彼の優しさであることに気付き、クインは溜息になった。チアロのことを憎くなど思えない。
 だからそれはその果てにいるはずのライアンへと流れ込んでいく。憎しみだと単純に言い張るよりも遙かにねじれている感情が強く、強く、体の中に根付き増殖していくのがはっきりと分かった。

 開け放した窓から誰かの歌が聞こえる。窓にかけられた綿レースの繊細な模様がまだらな影を、背もたれからだらりと下げた腕にゆらめきながら落としている。それをぼんやりと見つめるでもなく視界に入れながら、クインはじっと歌を聴いていた。
(私とうとう見つけたわ あの人は私の運命の人)
 やけに明るい恋の歌だ。歌っているのは子供たちで、歌いながら石蹴りをしているらしい。からからという軽い音が調子に合わせて聞こえる。あ、という声、馬鹿と一斉にはやす笑い声、そして歌はもう一度最初から繰り返されるために撒き戻る。
 クインはゆるく嘆息した。下らない歌だ。子供がはしゃぎながら歌い遊ぶのとよく似合った、調子はずれの明るさと馬鹿馬鹿しさ。
 クインの吐息にやっとエミリアが画帳から顔を上げ、どうしたの、と聞いた。別に、とクインは素っ気ない返事をする。それから突き放したような自分の声の不機嫌に気付き、外、と言った。
「歌、聞いてた……さっきから同じ歌ばっかりだから」
「陣取りでしょう? 最近あの歌でするのが流行ってるみたいね」
 簡単に応え、エミリアは画帳の下に小さく何かを書き込んだ。それは一枚の素描が出来上がった時の彼女の覚え書きだ。日付と場所とモデルの名前は最低でも書き留めておくらしい。クインが最初それをひどく警戒した為に、そこには最初の夜の画帳と同じく少年としか書かれていない。
 クインは長椅子から立ち上がってエミリアの背後へ回る。練炭特有の濃淡で描き出されているのは背中を向けて椅子にもたれ、項垂れるような仕草をしている彼自身だった。身につけているものというよりは、肩の線や微かに傾げられたうなじの角度が確かに自分だと思えるような絵だ。
 画面の中の少年はがっくりとうなだれていたが、細い首筋にあるのは力強いたわみであり、それは絶望と呼ぶよりは遙かに祈りのような敬虔さに満ちているように見える。雪崩落ちている髪の向こう側は窓。あるはずのカーテンは描かれておらず、その代わりに窓の高い位置から太陽が啓示のように差し込んで、少年の背中を斜めに一条よぎっている。
 彼女は天使の題材を描くのだと改めて知ったような気持ちになって、クインは何気なくふぅんと言った。エミリアの絵はいつ見ても何かがそこにある気がする。ひどく懐かしかったり、温かだったり、その絵からエミリアの気配が溢れ出て、まっすぐに絡め取られてしまうような淡い畏服。
「最近良くなったわね、背中」
 描き上がった絵をじっと見つめていたエミリアが不意に言った。クインは横に並ぶエミリアを見やる。彼女の方が3才の年長ではあったが、背丈は既にクインの方が若干高い位置に到達していた。
 クインの視線にエミリアは少し笑い、同じ画帳のかなり前の頁をめくりだした。エミリアは素描をとる時背中をよく好んで描いていたから同じようなものは遡れば幾らでも出てくるが、彼女がやっと手を止めたのは、かなり最初の頃に描かれた頁だった。
「ほら、これが最初。すごく……気が張ってて身構えている感じ」
 エミリアと出会った夜だろう。女装のまま宿の一人がけの椅子にもたれ、窓の外を見ている自分だ。表情は見えないが、肩のあたりにまつろう空気は確かに尖って張りつめきった糸のようだった。
 クインは小さく頷いた。エミリアの言葉の意味がほぼ掴めた気になったし、そしてそれは正しいと自分も思う。良くなったという言葉が示す通り、エミリアの部屋で彼女の素描や習作のモデルに登場してくるようになった自分の背中から、きりきりと切羽詰まった空気は消えていて、代わりになだらかな落ち着きと安堵に手足を投げ出しているような無防備な背中が多い。
「次の評価会にはあなたの絵を出そうと思うのよ。ほら、こんな風にして」
 エミリアは先ほど描き終えた素描の頁をめくり、練炭を握る。光が照らすクインの背中にその先端を当てて、さらさらと迷い無く動かし始めた。
 途中まで来ればそれが何であるかは分かる。クインはあやふやに微笑み、そして微かに赤面した。
「俺、こんなんじゃないよ……」
 曖昧な言い訳を口にすると、エミリアは笑って首を振った。
「そう? あなたには違っても、私にはこうなのよ。今は小さいけれど、いつか広げて飛ぶことが出来るわ」
 さらりと言ってエミリアは彼の背に折り畳まれた翼を描き終えた。
 翼ある者、美しい幻想、そして祈り。これは確かに彼女の絵だ。豊かに包む、愛情のまま。
 僅かに心の底が揺らぎ始める。嬉しくてたまらない。自分の中に沢山の闇があってそれに押しつぶされそうだったのはつい最近なのに、闇の中でこそ美しく輝く沢山の星をエミリアが彼の手を取って教えてくれた。闇夜の星、微かに白く淡い光。それを知っただけで胸の中がほんの少しなだらかになったようであった。
 あるいは自分は、絶望したかったのかも知れない。それは息を呑むほど強い力で自分を壊していくはずだった。それで良かった、絶望できるほどの強靱な心があれば破壊の後の再生を支えてくれるはずだったから。
 けれどそれはなされなかった。代わりにクインは明るい窓辺にぼんやりともたれる午後や二人で寄り添うようにして囁きあかす夜を手に入れた。
 ───それを捨てろだって? 冗談じゃない。クインは先日のチアロの言葉を不意に思い出し、奥歯をきつく噛み合わせた。
 チアロが自分を心配してくれるのは分かる。あれほど無遠慮にはしゃぎ回っているような印象の実、チアロは細やかで優しい目線で彼を気遣ってくれているのだ。
 それは今も変わらない。あの翌日に訪ねてきてくれたチアロと和解は済んでいる。けれど彼が言ったことを許容できるかどうかは全く違う話だ。
 ライアンの帰還はどうやら半月ほど先で、それまでには何か対策を練っておかなくてはいけない。そもそも奴のせいなのだ、とまっすぐに非難を思うことが出来るようになった分だけ気が楽になったから、ライアンとも多少はまともに話が出来そうだった。
 ……全て、川のように静かにゆるやかに、安息と安堵へと流れていく。何故それを放棄しなくてはいけないのだ。
 それを考え出すと苦い怒りと共に冷たく黒い恐怖を微かに感じる。戸籍の一件で思い知った通り、ライアンもその抱えている連中も短絡に人を手にかける。ライアンなどはむしろそれを楽しんでいるような節があり、どうしてもその部分には怯まずにいられない。チアロは忠告だと言った。このまま突き進んでいけば破滅するという意味であったろう。それはクインのこの生活の終わりであり、畢竟、母の死と直結している。
 母の死、と思うと背中がぞくりと粟だった。当面今の生活を続けていかなくては、金の工面が出来ない。折れてライアンにでも頼ればどうにかなるだろうと分かっていても、自分の中の頑迷は激しく首を振った。
 対等に、という自分の矜持がひどく幼くて崩れやすい虚塔であることは薄々理解しているが、けれど自分を無視して何があるのだろう。今でも十分、客といる時には己を殺し沈めている。それ以上はどうあっても耐えられない。
 だからこそ、エミリアの持っている清潔で素朴な明るさが自分にとって重要なことなのだ。彼女の優しいぬくやかな海に抱かれていると、とてつもなく幼い子供に還ったような不思議な落ち着きが自分を癒してくれるのが分かる。それはクインにとってどんなものにも引き替えられない貴重で、大切で、最も美しく平凡な時間かもしれなかった。
「……お茶でも淹れましょうね」
 エミリアがいつものような朗らかな声で言った。クインはそれで我に返り、側を離れて厨房へ消えていく彼女を見送る。自分にまつわりながらも話せないことは確かに多く、エミリアはそれを追求しなかった。それも多分、気楽さを増幅してくれている。
 クインは軽い溜息になって、先ほどまでもたれかかっていた長椅子へ転がった。うつぶせに体勢を直し、ぱらぱらと画帳をめくる。エミリアは悪く言うなら手当たり次第に目に付いたものを描いていて、統一感のある画題ではなかった。
 自分がいる。次の頁には日だまりの猫に途中で逃げてしまったという悔しそうな注釈、その更に次にはどこかの資料館で写生したらしい展翅蝶の素描、絵の傍に呟くような独白、忘備録替わりの走り書き。
 画帳がエミリアの写生帳であり日記であった。そのために最初は読むのを躊躇ったのだが、エミリア自身が全く頓着無く彼に過去をめくって見せてくれて最近は余り抵抗感がない。眺めるというほど熱心でもなく絵をめくっていると、小さな走り書きが目に付いた。どうやら時刻表らしく、地名と金額から大河ユーエリを下りミシュアへ出る客船であると予測できた。
「どっか行くの?」
 クインは茶のカップを二つ手にして戻ってきたエミリアにその覚え書きをなぞりながら聞いた。エミリアはああ、と軽く頷いた。
「来月にでも、ちょっと南へね。学校も来週から夏期の長期休暇に入るし、海でも描きに行ってみようかなって思って。──ミシュア、行ったことある?」
「うん……まぁ」
「南の海は特別綺麗だものね、写真でしか見たことないんだけど。2週間くらい向こうで色々描いてくるつもりなの。日程が決まったらちゃんと教えるわ、あなたが来たらいけないから」
 クインは何度か瞬きをする。エミリアの不在は僅かな落胆を連れてくる。けれど、ライアンやチェインの連中のことを鑑みるに、多少はそうした空隙をおいた方が良い気もすると胸の中で素早く弾き出して頷いた。
「ん、分かった……」
 お土産買ってくるわよと笑うエミリアの楽しそうな表情に、クインはやっと自分も顔が弛んできたのを自覚する。……あまり考えすぎるのはよそう。今この瞬間が満ちて穏やかならば、それでいいから。悪い方へと考えすぎていつも自分でたてる騒音に苛立っているようなところが、クインにはある。それを自覚しつつある今ならば、どれだけそれが自分をすり減らす無駄な摩擦であるか、知っている気になっていた。
 エミリアは自分で淹れた茶を一口啜り、渋いわ、と思い切り顔をしかめた。クインはつられるように自分も同じ事をして同じ渋面になり、どちらからともなく笑い出す。このごく普通の笑い声を、ひどく愛しく思いながら。

 小さな馬車を降りると煤けて赤い町並みと、青みかかった石畳から世界を異なる色へ変える境界の2本柱が見えた。相変わらず昼日中の白けた光の下では薄汚くてよそよそしい。外からタリアへ戻ってくるたびに胸に微かに興るのは確かに嫌悪なのに、それをいつの間にか許容しているのは諦観なのだろう。
 所詮、この町でしか生きてゆけないのだ。リァンの背を追うように少年たちの上に君臨し始めた時から自分の命一つに沢山のものが付随している。今死ぬわけにはいかないし、勝ち続けなくてはならない。その義務を重いと感じないのは僥倖であったけれども、重いと思うものはある。
 ───例えば、あの庇護している子供のことだとか。
 ライアンは内心で軽い自身の嘆息を聞いた。タリアを離れる直前彼の癇癪につい、つき合ってしまった。全身の気配を逆立ててこちらを巻き込もうとする瞳を見る度に、何かひどい間違いを犯している気持ちになる。
 客を取り始める前にその予行がしたいなどという一瞬唖然とするような彼の願いを聞き入れたのは、彼がそう思っているであろう秘密の担保ではなくて、純粋な憐憫の為だ。再開した少年の切羽詰まっている上に怯えたような目が、ひたすら哀れでならなかった。
 元々ひどく誇り高い子供であったことも、その痛ましさに拍車をかけていただろう。ライアンの元から一度走り去った時、クインは沢山の事情はあったにせよ明るく陽気な子供だったはずなのだ。
 けれど、どこかから戻ってきたクインは疲弊と焦燥のせいなのか、気強く傲慢だった瞳の凄みさえ失ってしまっていた。それが自分でもはっとするほどの憐れみに変わる。──それを知ればクインの方はまた傷つけられたように思うだろうから、口には出来ないことではあったが。
 客とのことはクインの性質には合うかもしれないと当初楽観していたことを、ライアンは認めざるを得ない。傲岸不遜の塊、自分の理知と美貌に抱く正直で圧倒されるような自負。それは彼の内面から滲むように溢れていて、きっと客には崇拝という扱われ方をするだろうと考えたし、最初は確かにそうだったはずだ。
 おかしくなった分岐点が何であったのかをライアンは知る術がないが、その時機ならば記憶とつき合わせて導くことが出来る──そして、それが一層クインの元へ足が向かない理由であった。 
 ライアンは髪に手を入れてゆるくかき回す。気が重い。あれは何故、俺にそんなにこだわるのだろう──男は初めてだと言っていたし、あの怯えた態度やその後のもの慣れぬ仕草や空気がそれを裏付けていたからあまりにえげつないことは控えた、それは本当だ。が、それを何かと勘違いしているとしたらライアンは面食らうしかない。そもそもクインの申し出を受けたのも、ライアン自身の苦い記憶の為だ。
 活劇の芸団から稚児に転売された夜のことは、思い出せることのほうが少なく、またその殆どは息苦しい屈辱の黒で塗りつぶされている。あれを与えるよりはと思ったことは否定しないが、同情を他のものに取り違えられても困惑するとしか言いようがないのだ。
 客の殆どが男であることで価値観が若干揺らいでいるのかもしれない、と言ったのはチアロであったはずだが、だからといって同性愛がごく普通の志向だという考えを持つのは浅薄にすぎる。それはあくまでも珍しい嗜好に属し、タリアの外へ行けば非常に少ないものだろう。
 後ろを付いてくるオルヴィに聞こえないように溜息を落とし、ライアンはチェインに入る小路を折れた。通称で煉瓦屋敷と呼ばれている建物の、記憶の通りの影が目に入る。窓辺に何かが動いた気配がして視線を上げると、窓が開いて少年が顔を出した。あれは確かチアロが連れていたショワとかいう子供だ。では、チアロもここにいるだろう。
 煉瓦屋敷の1階の広間の奥に、ライアンのいつもの席はある。幹部たちが集まってくるのも大抵ここで、チェインの様子を聞くのも何らかの命を下すのもここだ。そこへ入っていくと全員が立ち上がって彼を待ち受けているところであった。
「お疲れさまでした」
 簡単な挨拶と共に幹部の一人であるノイエが腰を折る。それに全員が倣うのに簡単に頷き、ライアンは自分の場所である椅子へ腰を下ろした。脇の小卓へ灰切りの小皿がまわされてくるのもいつものことだ。黙って顎をしゃくると幹部を除いた少年たちが広間から出ていくのも符丁通り、ここに至ってようやく自身の巣へ戻ってきた実感が湧いた。
「イシュラとディーは」
 見あたらない幹部の名をあげると、ノイエが軽く頷いた。
「イシュラは自派の内部の始末に出ています。中で少し造反の気配があったようなので、その粛正と燻り出しのために最近はあまりここに来ません。探しにやりましたが、少しかかると思います。ディーはタリア王からの呼び出しで王屋敷へ出向いています。呼びにやりましたから、じき、戻ってくるでしょう」
 ライアンは頷き、煙草の支度をした。僅かに空いた間を支配する、奇妙な沈黙。それが何の為であるのかをライアンはすぐに悟り、自分の真横に立つ女を一瞥した。幹部以外は退室するように命じた仕草にオルヴィが従わないゆえに、ライアンに留守中の様々を告げる時間をずらしているのだ。
 ライアンの視線を受けてオルヴィは軽く一礼し、出て行こうとした。その背をライアンは呼び止める。
「オルヴィ、ここにいろ。出て行かなくていい……これから先もだ」
 一瞬少年たちがさっと気色ばむ。ライアンの言葉は絶対ではあるが、不服や不満をまるで押し殺してしまうにはそれぞれ忍耐が足りない。誰かが異を唱えないかと視線でお互いをつつきあっているのを仕方なく受けたようにチアロが口を開いた。ライアンに向かって対等で飾らない口を利けるのはチアロくらいしかいない為、こんな場面は大抵彼に貧乏くじがあたることになっている。
「でも彼女は自分の派閥を持っていない、後ろ盾がないと本人もきついと思うけど」
 愛人のつてを辿って登ってきた女、ということを口にしないのはチアロの感性の優しさであったかもしれぬ。それは誰でも知っていることであったし、現在はライアンの愛人であることもしかりであった。
 が、ライアンはそれを一蹴する。
「構わない。これは俺の傍におく──いずれ、タリアの方へ連れて行く。チェインの自治には関わらせず、お前たちの派閥に口出しはさせない」
「でも……」
「では、代わりに麻薬の管轄が出来る奴がいるなら名前を言え──カリス」
 不意に視線を向けられた少年は言葉を濁し、やがて頷いた。他の幹部たちがそれに倣う。チアロがやっと荷が下りたというようなほっとした表情になり、この1月半の不在についての報告の口火を切りだした。
 彼の不在の期間中、ほぼチェインは平穏であると総括できそうであった。個々の派閥についての幾つかの細かな抗争はあったようだが、ライアンに収拾を切り出す者がいないならば決着は付いているか見通しがあるのだろう。この場にいないイシュラの自派閥については彼から直接報告を受けなければならないが、他の幹部たちが口にしないと見ると飛び火していない程度の規模と思われた。
 ライアンは煙草を飲みながらそれらをいちいち聞いた。チェインは確かに彼の最も有力な足場であり、チェインの王である故にタリア自治の内部にも食い込んでいる。いずれチェインはチアロに任せてタリアの大人たちの派閥に匹敵するような自分の派閥を築いていくことになるだろう。
 やがて報告が済んで幹部たちが解散すると、オルヴィが彼に向かって深く頭を下げた。今後幹部として取り扱うと宣知したことは、きっと彼女のためになることだった。
「ありがとうございます、ライアン」
 呟く声音には過剰な感情は浮かんでいない。北へ連れて行った時から期待はあっただろうが、それを表面にする女ではなかった。ライアンは軽く頷き、そこに残っているチアロを見た。長く馴染んでいる故に、この少年がなにかもの言いたげにしている空気が分かる。
「……話は裏で聞こう、来い」
 ライアンはそう言って裏廊下へ出た。オルヴィにはチアロが首を振ったらしく、足を止めてライアンにもう一度礼を言うに済ませた。では、これは確実にクインの話だ。オルヴィはクインとひどく折り合いが悪い。折り合いというよりはお互いに絶対に折れないと決めたような頑なさと似たような底意地の悪さで以て、ちくりちくりと相手を攻撃することをやめようとしなかった。
 クインかと思うと途端に気が滅入ったのが分かった。激しく強くライアンを縛ろうとする意志を感じるたびに、何かに気圧されるような苦い忍耐を強いられる。ライアンは長く大きく嘆息した。
「あれのことはお前に任せてあったはずだ、いちいち俺に持ち込むな」
 それが本当にうんざりした声音であったことにライアンは一瞬遅れて気付き、自分で顔をしかめた。チアロはちらりと彼のそんな表情にライアンと苛立った声を出した。裏廊下の壁にもたれてライアンは一度火を切った煙管にもう一度煙草をつめる。それで続きを促されていると悟ったチアロは、話を切り出す為らしい溜息をついた。
「どうやらタリアの外に女が出来たみたいなんだ……その、女客となんだかいい感じみたいでさ……」
 ライアンは舌打ちし、煙草に火を入れた。
「だから俺は女客をつけるのには反対したはずだったな、チアロ」
 自分の声は不機嫌と困惑と、それを感じざるを得ないという怒りが滲んで低く冷たい。だがチアロは彼の言葉にはっきりと首を振り、ライアンと彼を真正面から睨むように見た。この1月と少しの間にまた背が伸びたらしく、もう視線の位置は殆ど変わらない。間近にするチアロの目線は強く、底が苦い色に覆われている。
 ───チアロもまた、怒りを覚えているのだ。それは自分に対してなのだとライアンは視線の強さで悟った。
「……クインはあんたのものだ、ライアン。俺はそれでいいと思う。でも、飼い主ならその責任をとってやれよ。変な同情や気遣いでそのままにしておくより、ちゃんと支配してやらなきゃ、誰が主人かも分からなくなる」
 ライアンは黙って煙を吐く所作で天井を見上げた。はぐらかされたと思ったらしいチアロの声が更に怒りと苛立ちに低くなる。一体いつ頃から変声したのだったか、チアロもからを脱ぎ捨てるような勢いで成長していくのだ、とぼんやり思った。
「俺はあんたのせいだと思ってる。クインが荒れるのもオルヴィに下らないことで噛みつくのも、今度のことも。相手は普通の女だ、本当に普通のね。特別美人でもないし頭が良さそうにも見えないのにクインはあっという間に夢中だよ」
「……忠告は?」
「一度。拒否された。ディーに相談したら、ディーは女の方を始末しろと言った。俺はそれは賛成できないからライアンが戻ったら話をするとディーと約束した」
 経緯の説明にライアンは頷いた。チアロの対処は正しかった。クインのこととなるとどうにもうまい対応を見つけられないのはいつも自分の方なのだ。
 一体あれは何者なのだろう。ライアンに対等を要求し、同じ口で庇護を頼む。かと思えば頼りしなを浮かべ、撥ねつける癇癪を投げ、全く一貫性が無い上に凄まじく求められていることだけは分かってしまうのだから始末に困った。どこへどう分類すればいいのかが分かれば対処も出来るが、クインはその分類に収まらない。範疇があちこちに逸脱しているために分類が出来ぬ。出来ぬ故に、その不可解さに苛立ってしまうのだ。
「ならばもう一度同じ事を言ってやれ……ディーと一緒にな。俺はまだエリオンから戻っていないと言えば、奴がどうするつもりなのかはすぐに結果が出る」
 チアロはこの言葉にすぐに渋い表情を作った。ライアンはふっと年下の少年から視線を逸らす。何をチアロが怒っているのかなど、考えることでさえなかった。
「……俺は奴の飼い主だ、確かにな。だが、それと奴を抱くのと何の関係がある」
「クインはそれしか知らないんだ、他にどうやって甘えていいのか分かんないんだよ」
「それは俺のせいか」
「ライアン、そうじゃないだろ?」 
 チアロは呆れたように声を荒げ、そして溜息になった。くしゃくしゃと亜麻色の髪をかき回している。ライアンは自分を落ち着かせる為に煙管をゆっくりさすり、やがて深く頷いた。
「相手というのはどんな女だ」
「ん……絵を描いてる。結構その世界じゃ有名みたいだね。家族は田舎に妹が一人だけ。盲目で、盲字学校に通ってる。本人は帝都、西の八区」
 ライアンはそうかと頷き、では、と強く吐き捨てるような口調で言った。
「クインが警告を無視した時は、その女の方に接触しろ」
「───殺すの?」
 さらりと口にするのはやはりチアロもチェインの子供であった。命の価値をクインのように重大で尊崇すべきものだというとらえ方をしない。但し、簡単なことのように聞きながらもチアロの頬は厳しい。一般の女に手を出すのは確かにチアロにとっては倦厭すべきことのようだった。
「いや……そうだな、クインに近付いたら妹を目の前で八つ裂きにするとでも言ってやれ。多分、折れる」
「やな言葉」
 チアロはくしゃっと顔を歪めた。賛同してはいないものの、ライアンの示した逃げ道の存在には気付いているようだ。殺せ、と命じたわけではないから事実上チアロへ裁量を与えたに等しい。であればチアロは女を殺すのは最後の手段として他の手を考えるだろう。それがチアロの気の済む方法であるなら好きにするのが良かった。
 ライアンは煙管をくわえなおしながら裏廊下を歩きだした。この廊下の深奥にはずっと以前に死んだリァンの隠し部屋がある。ぼんやりとした時間を過ごす時はその場所が気に入っていた。
 ───まだ、彼の気配が残っているような気持ちになるのは、自分の気のせいなのだろうけど。
 その背をチアロが呼び止め、ライアンは怪訝に振り返った。ライアンがリァンの部屋へ向かう時は邪魔をしないのがチアロのいつもの配慮だったのだ。どうした、と言うとチアロは苦く苦く、微笑んだ。
「ライアン、クインが怖い……?」
 その言葉にライアンは背中を一瞬痙攣させた。ぎくりとする、という言葉が浮かんだのはそれから一瞬後のことである。それを知覚した途端、今度はさあっと血が上ってくるような音がした。
 ───耳の奥に、まろやかな鈴の音がする。何かを憎しみ、八つ裂き、血を啜って命を踏みにじりたいという欲望の音だ。怖いのかという質問にライアンは首を振った。けれど、憎いのだろうかという自問には何も返らない。ただ、鈴の音が弱くなり強くなり、陣営を決するための何かを待っていると言わんばかりの焦れったさを誇示するかのようだ。
 ライアンはもう一度首を振った。恐怖、という意味においては感じたことはなかった───そのはずだった。
 チアロは頷き、ならいいんだ、と軽く流した。またねと言い置いて戻っていくチアロの背にひどく安堵を覚えていることを、ライアンはしばらくの間気付かなかった。

 忠告は二度目はないのだと言われてクインはきっと目線を据えて相手を睨んだ。きつい視線を投げつけられた方は平然とそれを受け流し、クイン、と低く言う。
「ライアンのものだからそう扱え、というなら理解しよう。もし扱いがお前の思うに足りないと言うならライアンに伝えよう。だが、自分だけが好きに出来ると思うのは間違いだ。あまり我が儘が過ぎるとお前自身が処分の対象になることを覚えておけ。詮議になればお前の味方はこいつだけだと心得ろ、いいな」
 ディーは側に立つチアロを目線で示した。チアロの方は最前の忠告の時と同じ、淡く歪んだ表情をしている。それにわけのない怒りを覚えるのは、ディーの乱暴な言葉をチアロが全く制しないことが大きいだろう。つまり、チアロも同意見なのだ。
 これは恫喝であった。紛れもなく圧力とよべる種類のものだ。けれど、ここに至るまでに自分を追いやってきたのはライアンではなかったろうか。自分は何度も言葉やそれ以外のもので彼にやり場のない胸苦しさを訴えようとし、ライアンはそれを冷淡に退けてきた。
 冷ややかな彼の態度に癇癪を起こし、知っている限りの罵詈雑言を投げつけ、一瞬の狂熱が過ぎて残るのは、白けた怒りと感情の煤けた灰だけだった。だから彼に頼るのはやめた……その何がいけない。
 クインはじっと二人を睨み据え、ゆっくり、深く呼吸をした。そうでないといつものように怒りにまかせて奔流のようにわめき散らした挙げ句、自分の悲鳴で一層追い込まれていってしまう。
「……ライアンには、そう何度も言った。奴は、俺とは関わりたくないと、言った。ディーが同じ事を言ってもやっぱり同じさ、──なぁ、チアロ?」
 話を振られた友人は曖昧に笑い、クイン、と穏やかな声を出した。これが何であるかは知っていた。この前にも聞いた、彼をどうにか宥め、落ち着かせようと懐柔する声音だ。そうだと感覚が頷いた瞬間、背がざわりと冷えた。紛れもなく怒りの為だ。
「ライアンには俺からももう一度、強く言うから。彼が帰ってきたらもうやめた方がいい。ほんのちょっと遊ぶつもりだったと思えば俺もディーも、黙っていてやるから」
「黙っていてやる? へぇ、ありがたいね」
 言葉尻を捉えて吐き捨てると、チアロは困ったような溜息になった。ディーをちらりと見やっているのは、助力を求めているのだろう。困惑を隠さないという表情で自分をやわらかに制するチアロのやり方だ──いつもと同じ。
 同じ、と思うと尚更胸の中に荒れる音を聞く。お仕着せの服のように慣れて扱われることはひどく誇りを噛んだ。
「ライアンは俺とは関係ないんだと、奴が自分でそう言った。だから俺が何をしてようと、奴は構わないはずだ」
 クインの言葉に二人は顔を見合わせ、小難しい表情で目線を交錯させた。クインは舌打ちをして、椅子に投げかけてあった白レースの上着を取る。日光に肌を直接晒さないように日中出る時は羽織るものを持つのが習慣で、今まさに外へ行こうとしていた矢先の二人の訪問であったためにそこへ置き放してあったものだ。
 意図を悟ったチアロが彼を遮ろうとする。先日の彼への些細な暴力が咄嗟に浮かんでクインは柔らかにチアロを押し戻し、ごめん、と彼にだけ聞こえるように囁いた。
「もう少し勝手にさせてよ──ライアンが戻ってきたら、もっと上手い方法を考える。お前に迷惑はかけないから」
 チアロは痛ましそうに眉を寄せ、首を振った。何を言いたいかはこれまで散々聞いてきたはずであった。クインはごめん、ともう一度を言って振り返らずに部屋の外へと歩き出した。背中でディーがクインと呼んでいるのが聞こえる。
「いいか、これは忠告じゃない。警告だ。警告の次はもうない、それを覚えておけ」
 クインはちらと振り返り、出て行きざまに隻腕の男へ嘲けるような笑みを浮かべる。それは自分の突出した美貌に被さると、ひどく相手の神経を逆撫でするものになるのは承知していた。
「───うるさいよ、あんた」
 吐き捨て、クインはアパートの部屋を出た。
 ふらりと路地へおりて太陽のきつさに目を細め、日陰を選んで歩き出す。外へ行こうとしていたのは飲料水が少なくなりかけていたからだが、最初から彼女のところへ向かうのだと二人とも思いこんでいたようで、それも面白くない。
 クインは熱線にじりつく石畳の白茶の眩しさに、目を細める。ディーにむかってうるさいと言い、チアロには迷惑をかけないと口にしながら次第次第に最後の線が忍び寄ってくるのを感じないではいられなかった。ライアンが帰ってくる。そうしたらエミルとは終わりだ。
 チアロやディーに散々繰り返されるまでもなく、ライアンの所有物だから尊重しろという主張を勝ち得た時から、それを自ら覆してはならないことは知っている。けれど、その冷静な囁きとは全く違う場所からそんなのは嫌だと叫ぶ声が聞こえて、クインはついそちらにふらふらと引き寄せられてしまう。
 声は強く激しく主張する。嫌だ。嫌だ。やっと見つけたのに。やっと会えたのに。
 優しい人に優しくしてもらえて嬉しいのに。それが今の生活の中にたった一つの温かな色をしたものなのに。
 何故。
 何故。
 何故、何故、何故それを捨てなくてはいけない、──と。
 警告、とディーは言った。忠告と言ったチアロがあくまで善意であるならば、警告と口にしたディーはその次に来るものを既に考え始めている。処分という言い方をしていたが意味するところはなぶり殺しだ。ライアンもチェインの自治を乱した子供に対しては容赦しない、それと同じことをするという示唆であった。
 エミル、とクインは呟いた。彼女の与えてくれる許容と抱擁のなだらかな海に身を委ねていたいという欲求は強く、他の何よりも第一の望みであった。甘えであるかもしれないし、依存であるかもしれない。
 けれど、彼女の優しく温かな視線と手が導き出す絵の中に、クインは満たされて幸福な顔の自分を見つけてしまった。知ってしまえばもう戻れない。それを手放したくない。彼女と共にいることが出来れば、いつか彼女の絵の中にいるような表情が出来るような気がするのだ。
 けれどこのまま進んでいけば破滅するとチアロは忠告し、ディーは更に警告という言い方で威嚇に変えた。クインが拒否し続ければエミルにも危害を加えるとライアンは言うかもしれない。否、それは突然現実になって自分の前に突きつけられるかもしれないのだ。
 クインは僅かに首裏が冷えた気がして身震いした。恐怖と呼ぶには薄い冷気であったが、その可能性が低いと言いきるだけの材料は何もない。むしろ、短絡にエミリアの命を奪って決着とすることは十分に考え得る未来であった。
 失いたくない。けれど今のままではいけない。その上手い均衡点を見つけられない苛立ちにクインは秀麗な面差しをぎりっと歪めた。どこかで蝉が鳴いているのまでが気に障る。
 クインは貯まってきた鬱を吐き出す長い溜息になった。エミリアとのことは現実、まさしく袋小路へ向かって走り出している。ライアンはきっと許さないだろう。怒り狂うに決まっている。
 けれど、それは無視されるより遙かにましだ。奴が俺を引き裂いても俺はきっとそれを嗤ってやろうとクインはその予行の為に唇を吊り上げる。
 行き場のなかった苛立ちや不透明な鬱屈をすくい上げてくれたのはエミリアであって、ライアンではなかった。何度もライアンには救済を求めたはずなのに、それを一顧だにしなかった。飼い主だと名乗ったくせに、事実を放り投げている。
 それが許せない。憎い。彼への怒りと当てつけの為に何でも出来る気がする。つまりそれに踏み出すきっかけと勢いの問題なのだ。
 憎い。ただ───憎い。チアロに向けるものが淡い不満でオルヴィやディーに感じるのが嫌悪だとしたら、ライアンへのそれは憎悪と呼んでも良かった。強い思い入れがあるほど憎しみも増すし、苛立ちも募るのだ。
 彼への意趣返し。エミリアの安全と自分の未来。全てを平等で公平な単位には振り分けられない。一つ一つが全く別のものであると同時に、根深いところで堅牢に繋がっている。通算が出来たところで感情の振り幅の予測など出来るはずもなかった。
 クインが軽い舌打ちをした瞬間、あら、という軽い声がした。クインははっと視線を上げる。じっと考え事をしながら足早に歩いているうち、どうやら自分は彼女のアパートまで来ていたらしい。
「エミル……」
 呻くような声音で呟き、クインは唇を引き結んだ。エミリアの死のことばかり考えていたせいなのか、ぱあっと胸詰まるものが駆け上がってきて自分でも上手く制御できない。いけない、と面伏せた先の睫毛をぱらぱらと涙が伝い、夏の乾いた石畳に水滴の染みを作った。
「どうしたの? ……泣かなくていいのよ……」
 何の見返りも打算もなく降り注ぐのは、優しい声、そして温もりの気配。そっと彼女の指先が頬に触れて、クインは目を閉じる。無条件に自分を受け入れてくれる人の肌に涙が止まらない。気力が抜けていく証左のように、涙だけが溢れてくる。
 クインの肩をそっとエミリアが抱いて、慰撫のためにゆっくりさする。うん、と意味なくクインは頷き、頷きながら彼女を見、そしてやっと足下の旅行鞄に気付いた。ここへ歩いてきたことがそもそも無意識の作為であったから忘却していたが、彼女は今日から南行であった。
「ごめ……いかない……と、船……」
 クインは整わない呼吸のせいで途切れがちな言葉を呟き、彼女の旅行鞄を見た。鞄には絵の具の染みがつき、中には入らなかったらしい大きめの画帳が無理矢理くくりつけてある。 
 それが目に入った瞬間に、一つの夢が胸底から転がるように目の前に出てきた気がした。
 海に行きたい。広くて自由な海、遠く遙か南の海へ。いつか母と渡った美しい碧緑の彩の海、風駆け上がる坂が繊細レースのように町中をめぐる街、聖都の名をいただく沿海の海泡ミシュア。
 あの海へエミリアと行けたら、それはどんなに美しく凝固するだろうか。
 ライアンのことも、彼の布く掟のことも、別離、恫喝、反発、混乱、そんなもの、どうでもいい。考えたくない───せめて一瞬、ほんの僅かな時間でも、綺羅めかしくて温かな夢を見たい。
 その何がいけない。考えたくない。ただひたすら、彼女と一緒にいる時間が欲しい。逃避なのだと分かっていても、その淡く甘い夢は魅惑的だった。
「俺も……行く」
 クインは呟いた。エミリアは首を傾げ、いいの?と聞いた。それが自分の仕事や学校や、その他のものを指していたのは分かっていた気もしたが、この瞬間に、それはライアンへの密かな背反を問うように聞こえた。
「いいんだ」
 クインは僅かに動揺した自分を叱りとばすように、しっかりとした声で言った。
「いいんだ、エミル……いいよ、全部いい。一緒に行く……駄目?」
 エミリアは明るい笑みになって首を振った。クインは頷き、エミリアの鞄を取った。着替えも何も持っていなかったが、耳にはいつかの真珠がはまったままだったから不安はなかった。いざとなればどうにかなるという楽観もある。
 それに多分、これが最後の機会になるはずだった。ライアンがもうすぐタリアへ戻るだろうことは、チアロやディーのせわしない態度や目線の動きで分かる。はやく自分を納得させて事態を収束させたい目つきだった。
 ならば一層、今を離れてはいけない。時限は近く、その限界線を越えた先には暗い未来しかないのが分かっている。母のことがある故に、結局自分はライアンのものだと誓う羽目になるだろう。
 だから今、尚更今、彼女と離れたくない。どこからが恋で何が依存なのかも知りたくない。彼女といることで得られる安堵も安息も失いたくない。彼女といれば自分が少しはましになれるような気が、彼女がふざけて描いた翼をいつか本当に持てるような、そんな気がする。
 もっとエミリアに近くなりたい、側にいて肌の温度の分かるところで微笑み合って、心の感触が浸透するほど近付きたい。
 これは恋なのだろうか。恋というのは存外分かっているようで分からない。けれどこのもの狂おしいような希求と切ない傾倒は何か劇的なものの前触れだと根拠なく信じている。だから告げなくてはいけないことはただ一つきりだ。クインは彼女の鞄を持って歩きながら、小さく言った。
「好きだ」
 エミリアはじっとクインを見上げ、それから少し掠れた声をだした。
「私、あなたより3つも年上よ」
「関係ない」
「絵のことで利用してるだけかもしれないのに?」
「そんなこと、関係ない、全然」
 重ねて言葉を返されて、クインはやや不機嫌な声音になった。彼女の方はじっと俯き加減に歩き続けていたが、やがてそっとクインの名を呼んだ。
「私、きっとあなたを好きになるわ──気が狂いそうになるくらい、今、あなたを描きたいと思ってる……」
 エミリアの言葉にクインは頷き、鞄を持ち替えた。軽くあたった肘の下がするりと寄り合い、やがて指を絡めて掌が重なる。
 二人は手を繋いだまま、ゆっくりと南と自由へ歩き続けた。クインはただ幸福だった。あれだけ罵りあい言葉を突き刺しながら一つも理解できなかったライアンとのことが急速に薄れ、遠くなっていく。
 それはきっと、良いことに違いなかった。何よりも自分のために悪いことだとは思えなかった。
 ユーエリ河に接岸する南下船への連絡馬車へ二人は乗り込んだ。時間は差し迫っていたから馬車はすぐに出立する。それが大路を折れて見えなくなってから、チアロはゆっくりと街角から歩み出た。停車場の行き先をみて頷き、流しの馬車を止める為に手を振って合図する。
 乗り込む直前、やはり同行していたショワを振り返り、チアロは言った。
「行く先はどうやらミシュアだ、ライアンにそう伝えろ。3日後の昼過ぎに船がミシュアに着くはずだから、クインは夕方までに奴の部屋へ戻す、と」
 ショワが頷いて駆け去っていく。それを見送ってチアロは御者にたっぷりの金を押しつけ、目的地と急用を告げて馬車の座席に身をうずめた。
 馬鹿だな、と低く呟いた声は誰にも届かない。それはむしろ、クインに何も有効なことを出来なかった自分に向けた声であるかもしれないとチアロはふと思い、こみ上がってきた苦いものに頬を歪めた。

 優しい波だ。ずっと昔に家族で行ったシタルキア東部の海よりも、ずっと透き通るように淡い水がなだらかにうち寄せてくる。潮の匂いはごく僅かで、それよりも南から渡ってくる駘蕩とした風が肌にまろい。
 どさりと砂に旅行鞄を置いて、クインが大きく伸びをする。時々はっとするほど粗野な仕草がなければ、完璧な少女に見えるだろう。ミシュアへ下る船の中でも彼は一際の美少女として耳目を集めていて、彼はそのあしらいに慣れた微笑みで周囲を圧倒するばかりだった。着替えがないから服を融通したが、実際エミリアよりも数段映えるのが苦笑になる。
 クインは海風に乱れる髪をうるさそうに手で制しながら、エミル、と言った。
「あとで、その……どっか泊まるところを探さないと……」
 最後にふわっと赤くなるあたりが、商売に関わらず妙にすれていないようで、エミリアはついくすりと笑った。時々彼は、こちらが面食らうほど幼く初心い。
 無論、泊まるところを探そうという彼の言葉が何を含んでいるかを察しないことはない。船の中は一番安価な他の旅客と共同の大部屋で、広い空間に一応の仕切線がひいてあるだけの場所だ。
 ──それでも夜は二人で一枚の毛布をかぶり、額を寄せ合い、手を繋ぎあって眠った。彼が主人にはぐれた獣のようにおずおずと身を寄せてきた時、胸にゆるく湧いてきた気持ちは一体何に例えたらいいだろう。それはぬるい湯のようなもので、全身をひたして柔らかく、温かくしてくれるものだ。
 彼の身体はぬくやかで、身を寄せていると小さく心臓の音が聞こえた。彼の皮膚も血も冷たいとどこかで思っていたのだろうか、それがひたすら胸に迫ってエミリアは最初の夜を殆ど眠ることが出来なかった。
 伏せた瞼の半月のように魅惑的な曲線。薄く開いた唇の蓮桃色。頬に優美な影をうつす長い睫毛。そのどれもが美しいのは、それら全てが不安定で強く儚い魂の上に乗っているからなのだ。
 横になったままで眠り込んでいるクインの頬を撫でると喉を鳴らしてエミリアの鎖骨あたりに額を寄せてきたから、腕を回して彼の頭をかかえるように抱いた。僅かに髪の匂いがして、それはとても愛しく切なく自分を取り込んでいくようだった。
 出会った時の顔を、思い出せない。あの時の彼はひどく歪んでくすんだ印象だけが全てで、他に記憶から探すとしたら何かに傷ついてひび割れたままの声でしかない。
 一目見て可哀想な子だと思った。それは理屈ではなかった。ただ感じる、彼の背負った何かの影が目に痛いほどだったから。辛さが頬の歪みに淋しげな色になるまでに滲んでいたのに、不満を口にしない。何よりもそれが胸を刺した。辛さや苦しさを訴える相手がいないのだ、この子は──……
 そう悟ったから妹の為の絵を彼に見せた。人は何にでも救われるし希望を持てるのだということを知ってほしいとそれだけの願いだった──彼は泣いた。ぽろぽろと涙をこぼして、無言のまま泣いていた。希望、と一言呟いた声音の震える重みがまだ耳の奥に残っている。
 そして自分は彼に見惚れていた。あっけに取られるほど、彼は綺麗だった。誰かを困惑させる為とか引き寄せる為の罠ではなく、純粋に胸の中の痛みをこぼす涙。それを見た瞬間に息苦しいほどの感情が降りてきたようで、彼を描いても表情がうまくまとめきれない。自然に背中ばかりが多くなってしまう。
 だから船の中でクインが見せた沢山の表情が尚更眩しい。彼はとにかく良く喋ったし、笑いもしたし、なるほど成長期なのだと感心するほど食欲もあった。これが素地なのだ。
 だとしたら、あれほどまでに追いつめられていた理由は彼が自分で言い出すまでは絶対に聞くことは出来ない。自分で言い出すまではまだ少しかかりそうだったが、ともかく明るい彼を見ていれば安堵になる。
 船がミシュアに到着したのは昼過ぎのことだが、宿よりも先にエミリアは海を見たかった。そう言うとクインは何度かミシュアへ来たことがあるらしく、この浜へ案内してくれたのだ。遠く霞む岬の遠景が、海の青さに色濃い緑をまぶして目に優しい。波の音も、光の影も、このミシュアを基点にやがて南海と言われる美しい島々へ到達することを信じさせてくれる。
 エミリアが黙って遠くを見ていると、その袖が軽く引かれた。クインの方は少し怒ったような、困惑したような表情で佇んでいた。
「……あの、あのさ、部屋なんだけど……一緒でいい……かな」
 そういえば、彼にきちんとした許しの証拠を与えていなかったとエミリアは気付いた。縋るような目をしている。心細くて不安な瞳の青が、この海の穏やかな色にゆったりとほぐれていくなら、それもいいかも知れない。
 エミリアは自分の心をまさぐって曖昧に笑った。クインのことを一人の男として好きか、という問いにはまだ自信を持って頷くに足る確信がない。彼を見れば美しいと思い、その美しさが脆く繊細で不安定な魂の産物だと知り、知れば憐憫に変わる。実のところ自分のこの締め付けられるような胸の痛みが、一体同情なのか恋なのか判然としないのだ。恋愛は慈善事業ではないし、これが彼の不幸への共鳴なのかそれとも庇護欲なのか、そしていずれもっと昂る気持ちへ変わる前哨なのか、どれに結論つけて良いのか分からない。
「エミル……」
 クインは返答がないことを焦れたように彼女を呼んだ。それから一瞬迷ったように目線を彷徨わせてエミリアの肩に手を伸ばし、ためらいながら抱きしめる。他にどうして良いのか分からないようだ。
 ───可哀想だ。エミリアは目を閉じて、クインの背中をそっと撫でてやる。彼への気持ちの中核にあるのは同情なのだろう。けれど、この気持ちはいずれもっと激しく強い何かに変わっていく。そんな予感がする。
 描きたいという思いはその指針であったし、それがある限り彼をきっと愛するようになるだろうという確信はいずれ見つけられるはずだ。鏡の中の自分の瞳に。
 エミリアはいいわ、とクインの耳元に囁いた。
「今日は一緒に……ずっと一緒にいるわ……」
 クインが頷いたのが分かった。
 やがて体を離したクインは照れくさそうにありがとうと言うと、腰の時計をちらりと見た。これは彼が最初から身につけていた物だ。
「俺、ちょっと行かなくちゃいけないところがあるんだ。……あの、そんなに長くはしないから、1刻かあと半分くらい、待ってて欲しいんだけど」
 エミリアはそうね、と時計を覗き込んで頷いた。夕方には戻ってくるという意味であろう。分かった、とエミリアは頷き、砂に置かれたままの旅行鞄にくくりつけてあった画帳を引っ張り出した。
「いいわ、私ここで描いてるから気にしないでいってきて」
「ん……ごめん」
 すまなそうに目線を下げる彼にエミリアは微笑み、いいわよと強く言った。鞄を開けて固形絵の具の箱を取り出す。それくらいの時間があるなら、色絵の一枚は写生できそうだった。どんな時でも一人で時間を潰すことが苦になったことはない。あいた一人の時間はエミリアにとって大切で貴重な時間でもあったのだ。
 クインはここで待っていて欲しいと繰り返して、最後にもう一度ごめんと付け加えた。繰り返すのは不安だからだ。
 ──エミリアが自分を置いてどこかへ去ってしまう、という怖れにただ震えている。
 行かないで。置いていかないで。クインの切羽詰まった目の色が訴えていて、深い青をしたそれを見つめれば切ない。信じていないのではなくて、ただ失うことが怖いのだ。何かを失うことしか知らなかったと泣きながら彼がこぼした夜の記憶がたった今、その淡い恐怖を気付かせて、エミリアを絡めてしまう。
 彼を見捨てられない。彼が求めるのなら、一杯の水にでも頼りない糸にでもなろう。それが愛であれば、いつか必ず答えが出る。
「待ってるわ……ずっと、待ってるから」
 エミリアは子供を諭すように、ゆっくり優しく言った。クインは頷いて、ごめんと同じ事を言った。目の中の切なく求める光はやはり変わらない。こんなにまで必死でクインが自分を恋していたことなど、今、初めて見る気がする。
 愛おしい。
「どこにも行かないわ」
 ただひたすらに、切なく悲しいほど愛おしい。
「あなたを待ってる、ずっとずっと」
 うん、と頷く仕草が素直で普段よりもずっと幼くいとけなかった。クインはエミリアにそっと唇をよせようとし、何かに気付いたように離れた。人の声もするし、第一彼は今、少女の格好をしている。女二人でひたすら触れ合っているのは人目に奇妙に映るだろう。
 クインはやっとぬるい笑みになった。それがようやくごく普通の笑顔に戻ったようで、エミリアはほっと息を付いた。
「じゃあ、また。その……後で」
 クインの気安い笑みにつられてエミリアは頷き、後でね、と繰り返した。クインは嬉しそうに笑った。
 花開く笑み。やっと見つけた。この表情だ──多分。
 エミリアは彼の面差しをじっと見つめて深く頷く。自分は今、圧倒的な者の前に仕える敬虔な巫女であるような気がした。
 夢中で描き上げた最後の一枚に日付を入れると、エミリアは画帳ごと鞄にくくりつけた。これは彼にはまだ見せたくない絵だ。筆致も感情も、全てが乱れていてとても絵になっていない。けれどその惑乱は決して悪いものにはならなかった。
 自分の印象に刻まれたままに先ほどのクインの破顔した笑みを描き写したが、自分でも制御できない何かが指先から溢れてきて止まらない。まるで自分の意志とは関係ないかのような早さで手が彼を描き出す。
 止まらない、止まる気配さえない。今までザクリアのアパートで見た彼の微笑みや不満な表情や、虚をつかれたまばたき、歪めた唇、淋しげな横顔、皮肉な影の落ちる頬、何もかもが一度に降りてくる。何故今までこれを描けなかったのか、忘れていられたのか、そんな疑問さえ浮いてくるほどだ。そんな狂騒の熱に浮かされるように1冊画帳を使い切って、はっと気付けば既に日は和らいで優しくなりつつあった。
 クインが戻ってくると言った時刻までにはまだ少しありそうだった。エミリアは苦笑してはいていたサンダルを脱ぎ、海へ足を入れた。練炭で汚れた利き腕を軽く洗う。
 それが済むと旅行鞄の中に入れておいた小さめの画帳を取り出し、絵の具で直接浜で遊ぶ子供たちを写し始めた。幻想画が画題の中心のように言われているエミリアであったが、実題のうち家族の絵は好んで描いた。
 温かで柔らかい一つの箱のような、ぼんやりと優しい印象をエミリアは持っている。表現したいものがどうやら自分の場合は美しい光景ではなくて、優しく普遍な愛と祈りなのだと確信するのはこんな時だ。妹を描くのもその為なのかもしれない。エミリアは少し息をついて、遊ぶ子供たちを眺めやった。
 アスナの黒々とした目には深淵の闇が棲んでいる。それは月のない夜の星空と似た暗闇で、だからこそ美しかった。失ってみて初めて気付くものもあり、気付いた故に一層愛しくなるものもある。アスナの幸福が何であるかを自分が決めることは出来ないが、あの子にはどんなことでもしてやりたい──それが喩え罪であったとしても手をつけるだろうという確信が、どこかに眠っているのがわかる。
 エミリアはそっと笑った。この旅行が終わったら故郷のステリオへ寄って妹の顔を見て帰るつもりが最初からあった。出来れば彼を連れて行ってやりたいが、クインはどれくらい一緒にいられるのだろう……仕事、ということは帝都を出た日からついぞ口にしないが、彼の仕事が決して暇であるとは思っていなかった。
 今クインに必要なのは戻る巣であり、温かな寝床であるようにエミリアは思えてならない。自分に縋り付いてくる目が必死で、切羽詰まっているから分かる。
 その為に彼が求めているものを自分が持っているなら差し出してやりたい。去り際にクインの浮かべた安堵の笑顔が瞼の裏に強くまざまざしく蘇ってきて、エミリアは感歎の吐息を漏らす。あれが彼の最も明るい笑みだ。そして、一番幼い。
 彼はまだ子供だ、どんな意味においても。だから守りたいと思うのだろう。無垢であることが子供の証明ならば彼はまさしく無垢のままであり、自分が汚れていると感じつづけることで尚更頑なに美しく孤高にあり続けている。それがとても綺羅しく感じると同時に、痛々しさを覚える要因だったはずだ。
 彼のことを、好きになるだろうか。エミリアは手を止めて子供たちを見やる。いつか自分にも、きっと愛し合って結ばれる相手が出来るはずだ。クイン以前につき合っていた男は故郷のステリオでの絵画鑑賞の同好会で知り合ったが、最後にはエミリアをなじって離れていった。
 ──君は絵が描ければいいんだろう? 俺のこともきっと絵のついでかその肥やし程度にしか出来ないんだ……彼は絵を愛していたが描く男ではなかった。自分では描けないから一線で描く人を尊敬できると言ったのは同じ唇だったのに、エミリアの描く世界に彼の印象の色であった白が混ざり始めたのを喜んでくれたはずなのに、結局自分を踏み台にされたのだと言って離れていった。
 好きだという気持ちならば、彼とのことにより多く見つけられた。絵の中でしか愛を語れないと言われてエミリアはそれなりに傷つきもしたし、怒りもした。クインに同じ不満を与えたいはずもないが、ではどうしたらいいのかは全く分からない。
 エミリアは軽い溜息をついて、写生を再開した。そろそろ夕刻近い海は淡い灯火色になりはじめた光線を乱反射して、巨大なだんだら模様を描き始めている。それは一瞬の魔法のような風景だったから、描き留めるのを急かされるようで、自然に手が早くなり意識は平板になっていった。集中する時はいつもそうだ。
 ──だから、人の気配が背後にしたのをエミリアは長く気付かなかった。光の幻想を淡い色で写し終えて一息ついた時に、やっと背後に誰かが経っているのに気付いたのだ。絵を描いていると時折後ろから覗き込む者もいるから、それにやや鈍感になっていたのも本当だろう。
「こんにちは」
 ふと振り返ったエミリアが何かを言う前に、少年はにこりと笑った。笑顔が明るく屈託ない。背はすらりと高く、手足が長い印象があった。色素の薄い髪は夕日に今染まり始めていて定かではないが、亜麻色というところだろうか。とにかく体格が細く長い印象が強く、ついで笑顔の人なつこさが胸に残った。
 こんにちは、とエミリアは笑って見せた。相手の明るさに合わせた笑顔であったが、普通の挨拶ではこれで十分だった。
「絵、上手いね……声をかけようと思ってたのに、ずっと見ちゃったよ」
 少年の言葉にエミリアは軽く微笑み、ありがとうと言った。絵は彼女の本業であったから、素人にこうして写生を誉められることには慣れている。少年は頷き、ちらりとエミリアの横を見やった。
「……隣に座っても?」
 聞かれてエミリアは頷いた。少年の持っている空気には敵意を感じさせるものが何一つなく、朗らかな気配の居心地がよかった。少年は嬉しそうにエミリアの隣へ腰を下ろし、もう一度エミリアの絵を誉めた。
「俺、あんまり絵は見ないんだけどあなたの絵は好きだな……何だか優しくて泣ける」
 エミリアは首を傾げ、そう、と曖昧な返答をした。写生は子供たちと夕日の海だけで、それも素描に近いからそんな印象を受け取るには多少材料が足りない気もしたのだ。少年は訝しげなエミリアの表情に気付いたらしく、照れたように笑った。
「ああ、いやほら、この前ザクリアで展示会やってたでしょ?」
 それでエミリアは多少の納得に微笑んだ。この少年のことは記憶にはないがずっと会場にいたわけでもないし、展示会のことは事実だったからだ。ほら、と少年は証拠を掲げるように上着のかくしからカードを取り出す。エミリアはそれに破顔した。
 それは展示会の告知に使った天使の絵だった。水の青を基調に天使と魚群を描いた絵で、これは評価会でもよい評をつけて貰えた一幅だ。何故か巡り巡って今、リュース皇子の元にあると聞いている。絵のモデルを最初皇子に頼もうとして断られたのだから、不思議な縁に思われた。
「この絵が綺麗だったから、俺、ザクリアであなたの画集も探したんだ。結構出てるんだね、色々あって驚いたよ」
 エミリアは曖昧に頷いた。今何冊出ていたろう──画集については本人に権利料が僅かに支払われるだけであまり現金に変わるものではなかったが、何よりも絵の告知になるために厳密に条件を取り決めたことはなかった。少年の言う画集が何であったのかは分からないが、そんなうちの1冊だろう。
「画集はいろんな所から出ているから、気に入ったら見てやって」
「うん、そうする。妹さんの絵があったでしょ、幻想の連作のやつ。あれが入ってるのがいいな。何かある?」
「そう……だったら、そうね……」
 エミリアは少し考え、画集の内で妹を描いたものが多めに入っている本を記憶に探り出し、題名を画帳の隅に書いてちぎった。これがいいわ、と言うと少年はありがとうとくしゃりと顔を潰すようにして笑う。笑顔の心地よさが明るくて、一瞬クインにもこんな顔が出来ればいいのにと、そんなことを思った。
 少年は紙片を服の内側に入れ、エミリアに頷いて立ち上がった。夕日というべき温かな色に照らされて、少年の影が長く伸びる。彼は決して飛び抜けた美形ということではなかったが、人好きのする性質と穏やかで明るい笑顔が人に落ち着きと微笑みを与えるようであった。天真爛漫というほどに幼くもないが、それでも明朗な表情が誰であっても悪い印象を受けないだろう。
 エミリアは置きかけていた練炭を取った。表情や仕草の雰囲気を、僅かでも写し取っておきたかったのだ。と、それに気付いたらしい少年がやめてよ、と苦笑になった。
「俺なんか描いてもいいことなんかないよ」
 いいえとエミリアは首を振る。少年の身についている雰囲気は、どこかに描き留めておきたいという欲求を興させた。エミリアはすぐだからと素早く言って、写生を続けようとした。
 待って、と手首が掴まれたのはその時だった。そんなことをされるのは初めてで、エミリアは思わず小さな声を上げる。だが、少年は掴んだ手を放さないままやめてよ、と繰り返した。
「俺なんか描いてもろくな事にならない───無論、彼もだ」
 エミリアはふと表情を引いて少年を見た。彼、と少年は言った。それが誰のことであるのかが、一瞬繋がらない。彼、と怪訝に呟いた次の瞬間、それが最前まで自分が呟いていた言葉と重なった。
「彼……」
 エミリアは喘いだ。上手く呼吸が出来ない。彼、と繰り返してエミリアはふと冷たい眩暈を感じてこめかみに手をやった。そう、と少年が肯定する為の強い口調で言ったのが聞こえた。エミリアは顔を上げ、側に立つ少年を見上げる。彼はまだ微笑んでいて、それは先ほどまでと変わらない、明るく裏のない笑顔だった。
「そう、彼。あなたに何と名乗っているかは知らないけど、彼だよ。……彼と最初に会うのに俺たちに連絡を取ったのはあなただったね、エミリア=スコルフィーグ? 担当していたのが女だったろう、やけに暗い女──つまり、あなたはあの女を通して彼にまつわる世界のことを感じなくてはいけなかった」
 エミリアはじっと少年を見つめた。夕映えの中で少年は苦笑気味ではあるが、やはり明るく笑っている。何の気負いや凄みも感じない。だからこそ、これが少年にとって特に威圧を加えなくてもよい程度の、ごく普通の通告だと知れた。
 潮風が一瞬強く増し、エミリアの肌を叩いた。それに我に返ったように、背がぞくりと冷えた。
「……でも……あの子は」
 何の当てもないまま反論しようとした時、手首が痛んだ。少年が掴んだままだったそこを、きつく握りしめたのだ。一瞬の圧迫の後で手先が痺れてくる。エミリアは呻き、その瞬間に指先から練炭が砂に落ちた。関節がぎりっと合わさって軋む音がする。ぴくんと反射で自分の指先が撥ねるのにエミリアは喘いだ。息苦しい。
「例えば、あなたが絵を二度と描けないようにする、ということも出来る。どこをどうすれば人の身体が駄目になるかくらいは俺でも知ってるんだ、ご主人にそう教えて貰ったから……あ、ごめんね、痛いでしょ?」
 少年はにこりと笑って手を離す。途端にどっと血が通い始めてエミリアはそこを押さえた。急激な血液の温度がかあっと火照るようで、強く手をさする。感覚は見失ってはならない。
「でも、俺はそんなのはやだな。あなたの絵は本当に好きなんだ……彼のことで色々とこっちで調べた時に見て、本当に好い絵だと思った。だから、これが俺の好意だと信じて欲しいんだ──今すぐ一人で、帝都へ帰ってくれたら二度とあなたの周辺に近付かないと約束する」
 エミリアは反射的に首を振った。クインに二度と会うな、と言う意味であることはすぐに分かった。そんなことは出来ない───すべきではない。彼の瞳に自分へのまっすぐな光を見てしまったのに、それを見捨てるなど出来るはずがない。
 だめよ、とエミリアは低く呟いた。
「今私があの子を見捨てたら、あの子には帰る場所がなくなってしまう。それは駄目よ。絶対に駄目。せっかく、良くなってきたのに……」
 描けなかった表情。彼の上全体に落ちていた、重苦しい影。それが次第に薄れていった夜と昼が、言葉につられるように戻ってくる。エミリアはだめ、と繰り返した。
「駄目よ、また元に戻ってしまうわ……」
 言いながらエミリアはその胸痛む想像に顔を歪めた。出会った夜のような歪んだ印象へ彼が戻ってしまうとしたら、途方もない罪悪感だけが残るだろう。やっと普通の少年らしい表情が覗くようになったのに、それがまた取り繕って刺々しい殻に引き戻されていくかと思うと胸が裂けそうだ。
 だめ、と繰り返しながらエミリアは何度も首を振った。少年は曖昧に頷き、エミリアに額を寄せて囁いた。
「そのことは俺も反省しているし、後悔してる。奴がずっと淋しくて苦しんでたのを俺は知ってた。知ってたけど、俺はそんなに酷いことじゃないと思ってた……少し我が儘なところがあるんだと。でも、奴がどれだけ追いつめられた気分だったかは良く分かった。奴の渇きを俺は癒してやれないが……」
 少年は頬を歪めて切なく笑う。
「けれど、その方法を知っている。こんなことは二度とさせない。奴をこんな風に飢えさせない。それも約束しよう」
 だから、と言われてエミリアは首を振った。だめよ、と言い募る自分の声が揺らいでいる。彼を今この瞬間に愛しているかと言われたら分からない、としか言いようがない。けれど彼の助けを求める声に頷き伸ばした手を、今ここで引いたらあの子は二度と立ち上がれないかもしれない……
 それだけはしてはだめ、とエミリアは強く自分に頷きかける。駄目よと更に繰り返した声はそれまでよりもしっかりと強く聞こえた。
「私は、あの子を見捨てたらいけないわ。出来ない、そんなこと……」
 言いながらエミリアは立ち上がる。少年から少しでも離れたいと思ったのだ。少年はその反応に淡い苦笑を浮かべ、エミリアの鞄をさっと奪い取って行こうか、と言った。
「船着き場まで送るよ。帝都まで一人、個室を買っておいたから。さあ、急がないとあまり時間がない」
「返して。私はいかないわ。ここで待っていると約束したもの」
 手を突き出すと少年は仕方なさそうに笑い、エミリアの鞄を砂に置いた。
「……君がどうしても、と言うなら仕方ないね」
 声はあくまでも軽く明るい。それがひどく底知れなく恐ろしくて、エミリアは半歩後じさった。逃げないで、と少年が素早くエミリアの腕を掴む。離して、と叫んだ声が途中で裏返り、悲鳴のようになった。けれど、誰も近寄ってこない。自分の声が酷く掠れて震え、小さく強張っているのに気付いたのはこの時だ。エミリアは低く呻き、離して、と震える声で言った。
「離して、……私を……どうする、の」
 クインの関わっているのが帝都の闇にほど近いのだと知っていたはずだった。タリアから彼が来ていることも。タリアの華やかで猥雑な表面の下にはこの国の暗部を引き受ける深い闇がある。その王たるのがタリア王であり、その幹部たちや部下たちがどれだけ悪辣で残虐かは今更語るほどのことでもないはずだ。
 沢山の暗い逸話が不意に瞼の奥をよぎった気がしてエミリアは震える。それを何とか悟られないように殺そうとしていると、少年がどうもしない、と返答した。
「あなたのことはどうもしない。でも、今帰らなくてはいけない。そうでなければ、まず5日後にあなたの親しい人がいなくなるよ」
「──何……?」
 エミリアは思わず瞬きをした。彼の言う意味が良く分からない。ぽかんとしていると、少年はゆっくりエミリアに近付いて、その頬を軽く撫でた。神経の具合が繋がるように、その瞬間にざあっと背中が粟立つような感覚が走った。
「……そしてそれでも帰らなければまた5日後に、別の人がいなくなる。悪いけど、留守中にあなたの部屋には何度か入らせて貰った。手紙があるね──故郷の恩師、近所に住んでいる親戚、それと初等学校の頃からの友人たち……帝都の同僚、絵の同人会の仲間、あなたにちょっと気のある画廊の若旦那、学院の友人たちに、写生を教えている生徒たち、それに」
 少年は一度言葉を句切り、まっすぐにエミリアを見た。
 エミリアは口を開けた。悲鳴を上げたいと思ったのだ。けれど、唇からは何もこぼれてこない。上擦った自分の呼吸が不規則に打ち出す音だけがする。木枯らしのような音が。
「それに……」
 少年が言いかけた言葉を引き留めるようにエミリアは彼の腕を掴んだ。やめて、と動かした唇が、一体どこまで正確に発音を刻んでくれたか分からない。けれど、彼が何を言おうとしたのか、直感が教えてくれたのだ。
 少年はエミリアの制止には構わず、それに、と強い声を出した。
「あなたの肖像画はよく似せてある。妹の題の絵を見れば、どれがあなたの妹かはすぐに分かるはずだ……あなたの部屋にあった彼の絵も、背中だけなのに確かに奴だったから」
「やめて……あの子は、関係ないわ……」
 エミリアはぎゅっと目を閉じる。黒く冴えた瞳の少女が、脳裏をゆっくり歩いている。姉さんと呼ぶおっとりした、芯の強い声。やめてと呻いた声は、今度こそ震えて強張っていた。
「妹は──他の人は、関係ないでしょう? どうして、そんな、……酷いわ」
「うん、そう、酷いよね」
 他人事のように少年は呟き、彼に縋り付くような姿勢のエミリアの背をゆっくりと撫でた。でもね、と呟く声は最初に声をかけてきた時とやはり同じだ。
「あなた、彼と会うのは一度きりだという約束を守らなかったね……それだけでも本当は殺せと言う連中もいる。俺は俺たちのことに本当は関係ないあなたを巻き込むのはいやだから、一度あなたを説得する機会をもらった」
「説得ですって?」
 エミリアは急にかあっと頬に血が上るのを感じて面差しをすくい、相手へ強い視線をあてた。少年はやはり微笑んだままで、それが尚更怒りに変わった。
「これは脅迫でしょう? 私があの子を捨てなければ、私の周りの人を殺すというのに!」
「決めるのはあなただよ、エミリア? それに脅迫っていうのは、最初の一人を殺してからするものさ」
 エミリアはきっと奥歯を噛みしめて相手を睨んだ。睨まれた方はゆるい笑みを浮かべたままでどうする、と何度目かを口にした。
「あなたは帰らなくてもいい。すぐに妹さんにも危害が及ぶわけではないしね。でも、それがいつになるかは教えられない。だからいつ手が伸びるのかをあなたはいつも怯えていなくてはいけなくなる──奴とのことをその他全部と引き替えてもいいというならそれでもいいんだ、ただ、それにどれだけの覚悟と実際の犠牲を伴うか、というだけの話」
 少年は軽く笑い、つとエミリアから離れて大きく伸びをした。しなやかな背中。気負いなくまっすぐに伸びて、まるで影さえもない。ひどく惨い脅迫を口にしながらも終始彼は穏やかで、どこか済まなそうな気配さえあった。裏も感じないから、これがこの少年の素地なのだろう。クインにあったのが思いの外幼い明るさであったことと同じように。
「で、どうするの? 奴の為に全て失っていいというなら、俺にはもうあなたには何も言うことがない……奴が帰ってくるのを待って奴に同じ事を言うさ」
 エミリアは低く喘いだ。クインに同じ事を言った時、彼はどんな顔をするだろう。あの強く切ない光で自分を見つめて、何を言うのだろう。
 ──それが全てを捨てて欲しいという言葉だったら、どうしたらいいの。それが思いの外強い動揺であったことにエミリアはうろたえ、うろたえたことで目の前が暗くなったような気がした。
 迷っている。いいえ、多分これは迷いでさえない。彼には救いが要る。エミリアはそれを与えてやりたい──でも。
 目を閉じるとこの春に最後に会った時の妹の、あどけない笑みが浮かんでくる。細い首と手足、華奢な肩とほっそりした指。あれを失うことなど考えられない。
 アスナ、私の可愛い妹。たった一人の肉親、私のための希望。
 アスナ。呟くと、涙が出そうになる。それを飲み込んで堪えた時、おこりのように震えが来た。
「駄目よ、そんなのは駄目」
 叫ぼうとしても声にならない。今頷いたら全てが消えてしまう。紺青の海にしどけなく漂う水泡のようにその淡い夢のように、全てが呆気なく終わってしまう。彼のことを愛そうと思ったことも、彼が自分を見て切なく縋り付いたことも、二人で手を繋いで眠った時間も、───彼の背中に垣間見た美しい翼も。
 それは駄目だと思う側から、だが体は動かない。震えているだけで、ぴくりとも出来ない。エミリアはたった一つ出来ることをする。目を閉じればやはり浮かぶのは黒髪を風に軽く任せて笑う、妹の無垢な笑顔だった。
 少年がそっと近付いてきて、エミリアの肩を抱いて言った。
「大丈夫。ゆっくり息をして。俺は約束したことは守るよ──彼のことは俺がどうにかするから、心配しなくていい」
 囁くような声音が優しい。エミリアはそれに引かれるように頷いた。頷いた瞬間に、体中から力が抜けて座り込んでしまう。
 戻れない。分からない。
 何が正しくて間違った判断なのか、きっと一生答えなんかでないはずだ。妹を助ける為にクインを見捨てる、これが正しいはずはないのに。
 けれど怖い。クインの背後にあるはずの組織の全容は知らないが、ある、ということだけでも十分なはずであった。そしてそこからの使者はエミリアの知人と肉親を無差別の人質に取ると宣告した。エミリアが折れなければきっと実行に移す。
「だから先に帝都に戻ってくれるね?」
 念を押すように囁かれた言葉にエミリアはがくりと項垂れ、小さく首肯した。こくりと頭が垂れた瞬間に、堰を切ったように涙がこぼれ落ちてくる。
 彼を哀れんでいたし、彼を愛しんでもいた。青い宝石のような瞳が切なく自分を見つめていることが歓喜と困惑を両方連れてきた。
 エミリアに縋る目、ためらいがちに伸ばされてきた手、好きだと言った時の切羽詰まって掠れた声。そのどれもが淋しげで、だからぬくぬくと甘やかしてやりたかった。湯浴のようにゆったりと普遍の愛と祈りに浸らせて癒してやりたかった。
 ──でも、妹と引き替えには出来ない。
「ごめんね……」
 掠れた呻きに少年がごめんよと付け足し、エミリアの腕を掴んで立ち上がらせた。砂に足を取られて僅かによろめく。
「もう行こう、船の時間がある。荷物はこれだけ?」
 少年が鞄を取ろうとしたのをエミリアは触らないで、と強く言った。クインを失う悲しみよりも、このやり方や唐突さへの怒りがひどく暗い声音にしていた。
「── 一人で行くわ。構わないで……」
 呟いて鞄を自分の方へ抱き寄せる。鞄にくくりつけた画帳ごと一度抱きしめて、エミリアは画帳を外した。
「これをあの子に渡して……あの子を描いてたの、全部この中にあるから」
 うん、と少年が頷き、代わりに船の指定切符を差し出した。エミリアはそれを受け取る。これを少年がお詫びにと言うならそれも良かった。何より、他人に紛れたくない。河を上る便だから帝都まで5日ほどかかるその間を、一人になりたかった。
「あの子にごめんねって、言って」
 少年は肩をすくめてそれは言わない方がいいと思うよ、と言った。エミリアは一瞬を置いて頷く。確かに少年の言うことは正しかった。
「……これは必ず彼に渡しておく。……中を見ても?」
「いいえ」
 エミリアは強く言い捨て、返答を待たずに背を返した。
 回帰線の間際に太陽が隠れていこうとしている。その薄く弱い光を頬に感じながら、エミリアは早足でその場から、そしてクインの未来と運命の中から立ち去るために歩み出した。
 窓の外には緑の濃い色が、夏の明るさを主張している。途中で母の為に買ってきた花を適当に水に挿しながら、自分は何かを口ずさんでいたらしい。
「今日は何だか嬉しそうね」
 母親の言葉でそれに気付き、クインは照れの為に頬を歪めた。エミリアが自分を待っているだろうと思うと足が着かないほど浮かれているのが気恥ずかしい気もしたし、自覚していてさえ胸の奥が柔らかくさざめいているのが分かる。
「何でもない……わ。大丈夫。上手くやってるから、心配しないで」
 いつもと同じ言葉をすらすらと口に乗せ、クインは花の角度を指先でいじった。白い薔薇の大輪がそっと揺れる。母は手にしていた刺繍枠を下ろし、クインの横へ立った。こうよ、と言いながらこうしたことに器用でない息子の仕業を直していく。
「……いい薔薇ね」
 肉厚でしっかりした花弁を指で撫でながら、母が呟いた。
「お前、これがなんて花だか知っているの?」
「薔薇……じゃないの?」
 きょとんとしたクインに母親は少し笑い、『麗しきイリーナ姫』よ、と言った。ふと細くなった母の瞳が哀しげに淡く微笑んでいる。
 イリーナという名にクインは内心ぎくりとする。その名は現在の皇妃であるイリーナ・ロシェルを指しているのだろう。あの皇子の実母であり、即ち自分のおそらくは真実の母の名であった。それを思えばひどく切ない。皇子のことを憎んではいけないと知っているはずなのに、皇子のことを思うたびに焼き切れそうな怒りと憎悪を覚えるのは自分が狭いのだと理解しているはずなのに、それはいっかな弱くなる炎ではなかった。
 自分の胸の中の、荒れる炎の幻影。何もかもを手に入れなくては嫌だと吠えて、自分を捨て去ろうとするもの全てを焼き尽くしたがっている。ライアンのことも、その熱に煽られあぶられて追いつめられていった。自分でさえ焼いてしまいそうな激しさが、時折自分で恐ろしくなる。──いつかこれが自分自身を殺しそうだ。
 不意に胸に湧いた不吉な言葉にクインは目を伏せ、ゆっくり呼吸をした。イリーナの名の由来を自分が知っているとは悟られたくなかった。母の胸の中にある罪をいつか聞かなくてはいけないとしても、それを受け入れることが今の自分に出来るなどとは到底思えなかった。
「そう……イリーナ姫? 綺麗な品種ね。香りがちょっと強いから、窓を開けるわ」
 クインは微笑みながらそんなことを言い、手を伸ばして硝子窓を押した。小さく木枠が軋み、ついで外の風と空気が吹き込んでくる。
「いい風……」
 クインは呟いて、梢の向こうに瞬き見える海へ視線をやった。エミリアは今、何をしているだろう──絵を描いているだろうという予測とは別に、今彼女がどんな表情で何を描いているかが知りたい。
 もっと知りたい。彼女のことを。二人で身を寄せ合って眠った船の中、目覚めると彼女の柔らかな腕の中に収まっていたことがあった。指を絡めると、無意識に握り返してきた。
 掌の熱、肌の温度、髪の匂い。決して美しい女でもないし、絵のこと以外にはごく普通の女だ。それは分かっている。
 けれど──でも、彼女しかいない。自分を捕まえ、微笑み、特別だと優しい言葉をくれるのは、彼女しかいないのだ。ライアンが戻ってくれば彼女の為に二度と会わない方がいいとは分かっている。ライアンがどう判断するかは分からないが、エミリアを手にかけて全てを短絡に葬る可能性は低くない。奴は人を殺すのが好きだからな……クインは苦く奥歯を噛み合わせる。チアロでさえ眉をひそめているではないか。元々チアロは殺人についてはあまり積極的でないことはあるが、それにしてもよい趣味だとは思えなかった。
「……何かあったの?」
 母親の優しい声が背中を撫でて、はっとクインは顔を上げた。自分は随分難しい顔つきで窓の外の枝を睨んでいたらしい。慌てて顔を弛めるための満面の笑みを作り、何でもない、と言った。
「もうすぐ夏期の中途入学の受験期だから、少し気になるのね。生徒から何人かは受けることになってるから」
 仕事は塾の講師ということにしてある。いつまでこんな風に誤魔化すのだろうという自嘲がそっと胸の奥に囁いたが、クインはそれを無視した。いつまで、ならば簡単だ。この嘘が知れてしまうまで──つまり、永遠に。
「そう……あまり無理はしないのよ。昔から、そんなに丈夫な方じゃないんですからね」
 クインは頷く。虚弱というほどでもないが頑丈ではなかった体質は、やはり根の弱い体質だというリュース皇子のそれと重なる。こんな些細な状況証拠を積み上げた末に、血縁はやはり確信というものに変わっているのだった。
「大丈夫、母さん。私は……全部大丈夫だから」
 母を安心させる為に繰り返してきた台詞をまた口にして、クインは笑って見せた。そう、と母は頷きかえし、しばらくクインを愛しげに見つめてから言った。
「ねぇ、お前……好きな人でも出来た?」
 母の声にクインは思わずえ、と聞き返した。それからぱあっと赤くなる。慌てて俯いても、尚更頬に血が集まってくるようで止まらない。
「や、ちょっと待って、何でそんな……母さん」
 何か取り繕うようなことを口の中でしきりと呟いていると、母は明るい笑い声をたてた。クインはますます赤面するが、表情に出るものは隠しようがない。次第に仕方ない笑みになってクインは照れたまま肩をすくめた。
「別に、そんなことないわ……第一こんな格好でどうしろっていうのよ」
 女装のままの姿であったから、母はそうねと苦く笑う。でも、と付け足された言葉は優しいが苦みに満ちて悲しげであった。
「でもね、お前もどんどん成長するわ。見る度に大きくなる気がする……この格好もあともう少しになってしまうわね」
 クインはやや真面目な表情でそうね、と曖昧に返答した。体つきはどんどん男性的になっていく。細身の体格はともかく、肩の広さや腕の関節の大きさは確かに男のものだ。身長がどこまで伸びるかは分からないが、女装では目立ちすぎるようになってしまうまで僅かというところだろう。
 但し、クインは自分の美貌については強烈に自負というものを持っている。まだ少しの間ならば、女装でも通せるのではないかという感触はあった。誰もがクインの容貌に目を奪われるため、体型は後から印象に付加されるだけの追加事項に過ぎないのだ。美少女という印象さえ与えてしまえば後はどうにでもなる、というのはあまりに適当な仕儀だが、それをまっとうするだけの雰囲気を作る自信はあった。まだしばらくは大丈夫だろうとクインは考えている。
「そのことはどうにか考えるわ。あんまり厳しいと、ここへも来られなくなってしまう……」
 言いながらそれが一番恐ろしいことだとクインは思う。やはりあの時ライアンに下手に取りすがって戸籍を貰わなくて良かった。真実母娘の戸籍を用意できていたら、臨機応変というわけにはいかなくなるではないか。今更自分の選択を追認してクインは大きく安堵の溜息をはき、母さん、と言った。
「でもしばらくは大丈夫。まだ普通にしていれば誰も気が付かないから」
 クインは笑い、母親の手袋の上から軽く唇を押し当てた。この病にかかってから母は接触を極端に怖れるようになった。感染値は下がっているから今はもう遮蔽幕もないし部屋の外へも出ることが出来るが、素肌を触れ合わせることは絶えている。
 だからいつも頬ずりや軽いキスで確認してきた愛情は、いまは薄い手袋越しのこのキス一つであった。それでも、黒死の証明とも言える黒ずんだ肌は今のところ指先だけだ。それ以上広げない為にクインは自分を提供することを選んだのだから、手袋をしていても唇の温度を知っていて貰えるならば報いはあるのかもしれなかった。
「またね……母さん」 
 クインは柔らかに笑いながら告げる。陽は次第に傾き始めていて、窓の向こうの遠い海は屈託ない青から夕陽の反射の鈍い灰色になりつつあった。今からミシュアの街へ戻るならば、夕方になってしまうだろう。
 母は頷き、ねぇ、と優しく彼を呼び止めた。クインは首を傾げてみせる。窓辺の椅子から母は立ち上がり、愛しくクインの前髪を整えてやりながら言った。
「いつか好きな人が出来たら教えて頂戴ね……お前の為にいつでも祈っているわ。お前の幸せと、お前の愛を」
 クインはじっと母と決めた女を見つめる。マリアは柔らかに笑ってクインの手をぎゅっと握りしめた。うん、と小さくクインは呟き、誰にも聞こえないように母の耳元で小さく囁く。
「分かってる。でもそれはもっと遠い時間だと思う……」
 ライアンとのことがある限り、エミリアは通り過ぎていくだけのことになるだろう。それでもいい。今彼女の持つ愛と癒しが欲しいのは本当だから。
 母は頷き、ごめんねと小さく言った。クインは首を振る。本当は、マリアと名乗り彼の母だというこの女を見捨ててもいいはずだ。けれど、そんなことは出来るはずがない。それは既に自明であり、納得が済んでいることでもあった。そして血のつながりがないことをクインが知っている、ことをマリアには悟られてはならなかった。あくまでも優しい子として、ただ母を思い案じている子であると思っていて欲しいのだった。
 クインはまた、と強く言うと背を返した。扉を閉める一瞬に、母の笑みが視界をよぎった。瞳の奥にある、柔らかで温かな表情。かちゃりと錠金具が噛む音がした瞬間、クインは既視感に微かな溜息をついた。瞬間母の瞳にあった光と良く似たものがエミリアの目にもある。
 途端、クインは上がってきた羞恥の為に赤くなる。エミリアへ向かう心の中核が何であるかを突然思い知ったような気になったのだ。まるで子供じゃないかと自分を苛立たしく思いながら、クインは溜息になった。エミリアが完全に自分を愛しているとは思っていない。どこか彼女は同情的でそれが自分を多少卑屈な気持ちにさせるけれど、いとおしさというものに完全な境界線などないのだから、それも一つの思いなのだろう。それでも今夜はずっと一緒にいてくれると言った。
 ───どこか、眺めのいい部屋を探そう。町の向こうに海が見える部屋を。ミシュアの街は大きくて、きっと夜でも明かりを消せば地上の灯火が星のように綺麗なはずだ。一晩だけでも一瞬でも、彼女とのことを一番美しく思い出せるように。
 愛や恋という名前は後から考えればいい。後から振り返れば幻のようなことかもしれない。たった一夏で通り過ぎていく、美しい夢のような。
 けれどそれに縋って僅かにでも希望を見ていられたらどれだけ幸せだろう。希望という言葉を教えてくれたのもエミリアだった。彼女の持っているごく普通の当たり前の優しさにずるずると甘えたくなる。陽の降り注ぐ窓辺やぬるい湯に浸かっている時のようなゆったりした心地よさにただひたすら身を沈めたい。
 エミリアに会う以前ならばそれが真実からの愛ではないと叫んで拒否しただろうか。けれど、それをはねつける気力などもう僅かも残っていない。彼女の微笑みというぬるま湯につかりきってから、ああ自分は本当に傷ついていたのだと感じることが真実なのだ。
 クインは足早に療養所を出てミシュアの街へ向かう。来る時は坂を上るためにやや時間がかかるが、帰りはほとんど駆け下りていくような勢いで下っていった。頬を海からの風が撫でて通り過ぎていく。エミル、と胸内で彼女を呼んでクインは一人で笑い、慌てて顔を引き締めた。
 エミリアが待っていると言った砂浜は船着き場からほど近い。療養所は市街地からやや北寄りに外れた場所にあったから、畢竟ミシュアの街をよぎる格好になる。
 クインがやっと元の浜へ戻ったのはだから、陽が落ちてからのことだった。まだ残光の気配が濃厚に漂って、空の低い場所は燃えるような色だ。砂浜には既に人影がまばらだった。そろそろ家路を辿る時間であるのだ。
 クインはざっと周辺を見渡し、怪訝に首を傾げた。彼を待っているはずの人の姿はどこにも見えなかった。確かこの辺りに、とエミリアが座り込んでいたような箇所へ歩いていっても、そこには夏の光線のせいでまだぬくい砂があるばかりで、彼女の気配さえない。
「……エミル?」
 口に出して名を呼んでみても、返事はどこからもこない。クインは眉をひそめて辺りを落ち着き無く見回し、腑に落ちないままその辺りの適当な店を目で探したが、やはりエミリアの優しい姿は見つけられなかった。
 エミル、とクインはもう一度呟く。訳が分からない。何度か瞬きしてからやっと、彼女の荷物であった大きめの鞄が消えていることに気付く。
 クインは首を傾げ、唇を結びながらじっと砂へ視線をやった。鞄がない、エミリアがいない。……先に宿でも探しに行ったのだろうか。それはそれで構わないのだが、自分を待ってくれないのがいかにも彼女らしくなくて……奇妙だった。
 戸惑ったままクインは更に近辺を見やり、溜息になって砂に座り込んだ。場所はここで良かったはずだ。宿でも探しに行ったのか、とにかくここを離れたなら必ずここへ戻ってくるだろう。鞄がないのは置き放しておく訳にもいかないからだ。
 自分の中でそう整合をつけて決着すると、クインはまだぬくい砂に指で意味のない線をゆるゆる描き始めた。
 浜辺とはいえ波打ち際からは遠い場所では砂は乾いてさらさらと指を滑る。他にすることもなくてぼんやりかき回していた無意味な線はいつの間にかエミリアの名をつづっていた。
 エミル。クインはそれに目を落とす。彼女の空気もなだらかな優しさも、全てが欲しい。女を知らないわけでは勿論なかったが、いつものような態度で相手を蹂躙する気にはならなかった。そんな事を考えていると、ひどくそぞろで高ぶった気持ちになる。意味のないあやふやな笑みをこぼしては飲み込んでいると、砂をかき回す手にこつんと硬いものが当たった。
 視線をやると、黒い小さな棒のようなものが目に入った。クインはそれをつまみ上げる。これは見たことがあった──エミリアの手にある所を何度も目撃しているからすぐにわかる。写生用の練炭だ。エミリアが自分で使いやすいように握る部分を若干えぐってあるため、彼女の持ち物だとすぐに分かった。
 クインは一瞬それに視線を与え、立ち上がった。彼女がこれを捨てていくなどあり得ない。何かがあったのだ。探さなくては、と軽くスカートの砂を払って走り出そうとした時、黄昏の中を歩いてくる人影に気付いた。
 ちらりと視界の端をよぎった影を無視して通り過ぎようとし、クインは足を止めた。一瞬逆光になる影の中に、既知の空気を感じ取ったのだ。クインは影に向き直り、二、三度まばたきをした。……微かに呼吸が上擦ってくる。すらりとした上背のある身体が片手を挙げて簡単に彼に合図した時、クインは何かを呻いて後ずさった。
「チアロ……」
 夢うつつに呟いた自分の声に撲たれたようにクインははっと身を強張らせ、近寄ってくる友人から更に同じだけ後ろへ下がった。痺れたような塊が腹の底から上がってくる。それが喉を通過した時、喘ぎになって唇からこぼれた。
「……チアロ、お前……」
 何故、という疑問は浮いてこなかった。クインは一瞬強く目を閉じる。最初から尾行られていたのだという確信は少しも動かない。何のためにという疑問さえ、愚かだ。
 急に心臓が早く打ち始め、クインは呻きながら額に手を当てる。喉が干上がったように痛い。全身から水が抜けてしまったようにかあっと頭の中までが熱いのに、血の流れだけが速くどくどくと脈を打って止まらない。クインは喘ぎ、首を振った。
「大丈夫か、クイン?」
 いつもと変わらないチアロの声が、その瞬間、混乱の為に濁った脳裏にきりっと一本の正気を与える。それは重要で重大なことを聞く理性だ。
「俺に触るな」
 差しのばされたチアロの指先を叩き返し、クインはその腕で友人の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「エミル──は、エミリアは、彼女は、」
「大丈夫。無事に帝都行きの船に乗せたから」
 クインは持てるだけの力を視線に込めて友人を睨み据えた。チアロは少し困ったように笑い、本当だよ、と穏やかに言った。
「5日後に帝都に着く便だから、心配なら見に行けばいい。但し、遠くから見るだけだ。二度と会うな……次があればライアンは俺に命じなくてはいけない」
 その名前にクインははっと手を離した。チアロがこの瞬間にこの場所にいること、ザクリアから尾行されてきたこと、いや違う──ミシュア行きはクインにとっても唐突で衝動的な行動だった。
 次があればというチアロの言葉がするすると全ての解答を掴み出す。
「ライアンは……もうタリアにいるんだな」
 クインは呻き、更に導き出した答えに全身が逆巻くような眩暈を覚えた。
「俺を……試した、な……」
 最後の忠告とやらをチアロやディーを通じてクインに与え、その上でクインがどう判断するのかを待っていたのだ。チアロが僅かに時間を迷った後で頷いた。
 クインは目を閉じる。憎悪や怒りさえ、唖然というべき自失の前に崩れ落ちていきそうだ。試した、と繰り返して呟いて、ようやくそれを飲み込むことだけに成功する。
 無事だとチアロが言うならそれは信じてもいい。二度と会うなという通告も、これは最前から自分でも覚悟していたことだ。
 けれど、こんな形でこんなに唐突に、呆気なく終わってしまうものだということは予想していなかった。覚悟などというものは追い付かない。何もかもが不意に消えて、残されてどうしていいのかさえ分からないのだ。
 いや、たった一つだけすべきことがある。クインは小さくエミリアの名を呟きながらチアロを軽く突き放し、その反動で後ろへ下がった。
「俺は、許さない」
 エミリア。エミリア。俺の希望。
 優しい声で俺を抱き寄せて大丈夫よと笑ってくれた──クインは喘ぐ。涙も枯れてしまったように、ただ、駆け上がってくるものに揺すぶられるように呼吸を荒げるしか出来ない。
 チアロが何かを言いかける前に、クインは背を返した。待て、と叫んだ声と同時に腕がぴんと引っ張られ、その場にたたらを踏む。離せ、と怒鳴ってクインは身をもぎはなす間際にチアロの爪が引っかかったのだろう、腕の内側をすっと細い痛みが走った。僅かな間を置いて、そこがうっすら滲むように痺れてくる。
「ああ悪い、傷が……」
 そんなことを言いかけたチアロの声が宥めるように優しげで、クインはやめろとひきつった笑みになった。
「やめろ、今更──そんな偽善、違うか」
「そんな言い方こそやめろ、クイン。俺はお前に傷を付けたくないだけで……」
「へぇ? ああ、大事な商品だもんな!」
 首筋ががくがく震えている。俯いていることさえ頭が重くてままならず、クインは振りかぶるように顔を上げ、そのままの勢いで喉をのけぞらせて笑い出した。やめろ、というチアロの声が淡い恐怖に変わっている。
 クインは甲高く音を外した声で笑い続けながら、右手を左の耳の付け根へ持っていく。何をしようとしているのかを悟ったチアロが飛びかかろうとするより早く、思い切り爪を立てて唇の方へ引き下ろした。チアロの呻きが聞こえた次の瞬間、左の頬を何条にも細く強い痛みがはしった。
「顔だろ? なぁ、顔だろう、チアロ? だったら、ほら、こんな、」
「よせ──やめてくれ、頼むやめてくれ……」
 あまりに弱々しい友人の声をクインは初めて聞いた。軽く鼻で笑い、やめてやるよ、と吐き捨てて今度こそ走り出した。クイン、と叫ぶチアロの声がみるみる遠くなる。
 エミリアと過ごすはずの夜に浮かれ飛んできた道を、クインは全速力で戻りだした。療養所の近くに空間移転の為の移転座標を置いている。魔導での移転には正確な相対座標を示す必要があるから、それをザクリアの自室とこの場所において誤差をごく僅かに抑えているのだ。
 月が次第に辺りを照らし始めていた。いつもの街道の目印から脇へ降り、まっすぐに座標まで駆け寄っていく。自分で書いた石盤の赤い塗料文字が目の奥でちかちか瞬いている。この場所と自室をつなげる空間の魔導の数値を確かめ、クインは一息を置いてすぐに詠唱を始めた。
 途端、ふっと身体が浮くような感覚がして、すぐにたたき落とされる。失敗したのだ。あまりに呼吸が乱れていて上手く行かない。地に落ちた瞬間に足を少しひねったらしく、足首の辺りから軽い痺れと痛みで力が入らなかった。
 クインはぎゅっと唇を噛んだ。ほんの僅か、血の味がする。落ち着かなきゃと深く呼吸をした時、まるで凍えた時のように唇が震えているのに気付いた。
 これを止めなくては詠唱どころではないと口元へ手をやると、かちかちと歯が鳴っている。クインは呻きながら石版に額を押しつけた。脳幹から発熱する、とぐろを巻く熱さが僅かに冷える気がした。
「エミル、エミル、エミル」
 呟いているとそれはやはり目のくらむような怒りへ変わった。それが逆に激しく荒れる胸を一瞬だけ宥めてくれる。
 クインはきっと顔を上げた。月は自然にあわあわと世界を照らし、星が次第に姿を現し始めている。紫紺の空を睨み、クインは激しく首を振ると始めから詠唱を始めた。
 ──ライアン。目を閉じたまま、その名を胸に呼び起こす。瞬間全身が沸騰しそうになる。
 許さない。許さない。
 エミリアは本当にただの女だ。巻き込んだな──俺が勝手をするからという理由をつけて彼女を巻き込んだ。エミリアには手出しをしていないとチアロがいうなら、もっと身近な、おそらくは妹あたりを脅迫に使ったはずだ。
 それが簡単で何の負担も要らない方法だから。エミルに俺と妹を選ばせた。
 それを思うと目の前が血に染まるような怒りを覚える。あの子は私の希望だとエミリアは言った。あの子のために描き続けるとも。
 エミリアから絵を取り上げてはいけない。彼女から彼女自身の翼をむしりとってはならない──分かっていた、そんなことは!
 クインはようやくいつもの落ち着きを取り戻したように慣れた詠唱を続けながら薄目を開けて月を見上げた。ぼんやりと滲んでいるのは淡い雲か、涙だろうか。分からない。喉の奥に悲しみがこみ上げてくるのをぐっと殺した時、詠唱が終わった。
 身体があり得ない形にぐにゃりと歪み、すっと足下が消えたような感覚が降りた。数度の失敗の後にやっと成功したらしい。
 空間を渡る時間はほんの十を数える間だが、水中を無理矢理連れ回されているような浮遊感と体の重さは何度経験しても慣れるものではなかった。いつもの寝台の上にどさりと身体が落ちた瞬間、ミシュアの浜から疾走してすぐに転移を始めた呼吸の合わなさが強烈な吐き気に変わる。
 それを目を閉じて飲み込んでいると、寝室の扉が開いた。ザクリアの方がミシュアよりも若干東にあるからこちらは既に夜の中に世界がある。居間はそのせいで明々とランプが灯され、一瞬目を焼くほど眩しかった。
 思わず手をかざしたクインの耳に、低い声がした。
「……戻ってきました、ライアン」
 ああ、と返答する重い声。かつんという硬い音は灰切りだろうか。それを耳にした瞬間に凄まじい怒りが跳ね上がってきて、クインは出来うる限り素早く身を起こし、そちらへ向かって駆け出そうとした。
 途端、かくんと膝が落ちる。足をひねったことを忘れていたせいか、勢いで床へ身を打ち、喉で呻いた。
「消耗してますが」
 ごく冷静に自分を見つめて呟く声はディーだ。姿は逆光の暗い影とクイン自身の燃えさかるような血熱のためによく焦点を結べないが、好意の欠片もないからすぐ分かる。
 クインが体を起こそうとゆっくり腕に力を込めていると、ディーがまっすぐに歩いてきて腕を取った。立たせるというわけでもなく、床を引きずられて居間へ放り出される。
 軋む肩を押さえながら、クインは半身をやっとあげた。久しぶりに見るライアンは居間の長椅子にもたれ、じっと腕を組んで自分を見つめていた。
 その目に表情がない。ディーがクインの襟首を掴み、ライアンの足下に這いつくばるように押さえ込んだ。微かな失笑。オルヴィが暗い笑みを口元に歪めながら、ゆっくりと腕を伸ばしてライアンの背後から彼の首にまきつけている。挑発だと分かっていても、忍耐など出来なかった。
「離れろ、馬鹿女」
 掠れた声音で呻くと、オルヴィはたまらないといったように背をそらして笑い出した。それは確かに哄笑だった。勝ち誇ったような声にクインは相手を睨み、黙れ、と低く吠えた。
「お前の顔を見るだけで吐き気がするんだよ!」
「そう。私もお前が嫌いだから丁度いいな」
「お前と一緒にするな! 最低の売女のくせに!」
「それがお前とどう違う。お前だって男に足を開いて金を貰ってるだろう」
 クインが何かを言い返そうとした時、不意にライアンが顔、と呟いた。
「その顔はどうした」
 声がいつもよりかなり低い位置に掠れている。クインは別に、と押さえられたままでライアンから顔を背けた。自分の顎にディーが指をかけ、強引に上を向かせる。ひっかいたんでしょうね、と淡々と呟いた声に、ライアンが頷いた。
「顔はどうした。……あの女にされたのか」
 クインは首を振ってディーの捉える顎を無理に振り切り、床にぺたりと額をつける。顔などよりも、どんな表情をつくればライアンの胸に同じような傷を作ることが出来るのか、まるで見当が付かないからだ。
 不意に自分の上から重力が消えた。ディーが押さえていた体を離したのだ。クインは身を楽にするために丸めようとする。呼吸を整えようとしていると首根がおもむろに掴まれ、長椅子へ引きずりあげられた。
「顔はどうした、と聞いたな。自分でやったのか」
 ライアンが身を寄せるようにして呟くように言った。クインは無理矢理笑おうとして頬を歪め、傷の痛みに顔を痙攣させた。今更疼くような痛みが幾らでも湧いてくる。
「それが何だよ」
 脳裏に逆巻く荒波の幻影が、言葉を上手く紡がせない。とどろく音がただ憎い憎いと呻いているのだけが聞こえる。それに耳を傾けていると、ああ本当に自分はこの男が憎いのだと次々に湧いてくるようだ。馬鹿な、とライアンが低く言ったのが聞こえた。
「お前の価値は顔だと自分で知っているはずだな。──オルヴィ、しばらくは仕事は休ませろ。使い物にならない……そう、連絡を。チアロが戻ってきたらあれに身の周辺のことをさせておけ」
 オルヴィが簡単に頷いた気配がした。ライアンは視線をクインに戻した。彼のまろい緑の瞳が何かにかぎろい、ひどく不安定な明滅を繰り返していることにクインは気付いた。ライアンの感情が何かに揺すぶられているのだ、それもかなり強く。
 クインは唇をめくりあげるようにして、吐息で笑って見せた。ライアンが喉を鳴らしたのが聞こえた。僅かに細められた瞳の奥に、たわめようとしているらしい激しさがある。
 ──怒りだろうか。それとも、自分の胸にあるような憎しみだろうか。
 それをライアンが理性というもので押さえ込んで今までのように冷淡にあしらおうとするなら、それが最も許せなかった。エミリアの優しい温もりを手放して遂に何も得られないとすれば、それは全ての敗北に等しい。
 それだけは嫌だ、とクインは奥歯を一度きつく噛み合わせ、そして傷のせいでひきつれ痛む頬をぐしゃりと歪めて笑った。
「……あんた、何か言うことはないの? 浮気された亭主だってよっぽど腑抜けじゃなけりゃ、ひとくさり言うぜ」
「二度とこんな面倒を起こすな」
 ライアンの言葉はいよいよ低い。語尾が微かに震えている。
「いいな、お前は俺の特別だから許されていることが沢山ある。旨い汁だけ吸って身分を逸脱することは許さない」
「特別だって? どこが? あんたの特別はリァンだけで俺のことは付録だろ? チアロだってあんたにはリァンの模造品じゃないか……!」
 ライアンが不意にクインの喉を掴み、黙れと掠れた声で言った。ぼそりと呟くような声音は感情を無理に轢き殺した時特有の抑揚の無さで、クインはそう、と更に笑った。ライアンの内側に爪を立てることは出来たらしい。
 あとは思い切りひっかき下ろすだけであった。
「で、俺はそれ以下って態度なんだろう、はっきり言えばいいじゃないか! ライアンは俺が怖いんだ、俺が消えたら守るべきお可哀想なリァンの幻だって消えちまうんだからな!」
「黙れ!」
 ライアンの叫びがした瞬間、耳元で火花が散ったような衝撃がクインを身体ごと横へはじき飛ばした。椅子の脇の机に体側を強く撲ち、身体が反射で撥ねる。
 クインは薄目を開けてライアンを見た。自分は泣いているのだろうか、視界がぼやけてはっきりとしない。けれどそのもやのかかったような世界の中心でライアンが肩を震わせて、荒い呼吸を宥めすかそうとしているのは見えた。
 クインはしゃくりあげるような呼吸でどうにか笑った。耳の奥で空気の塊がはね回っているようで、自分の声さえあやふやになりそうだ。だから尚更くっきりと発音する。
 ライアンの心に噛み付いて、そのまま引きちぎってやりたい。──エミリアとのことを簡単に裂き壊したように。
「怒ってるんだ、図星なんだな、ライアン! あんたは俺が怖いのさ、リァンの代わりにしたはずの庇護人形が自分にいちいち噛み付くのが気に入らない癖に、リァンの代替品だから殺せないんだもんな! やってみろよ! 案外楽しいぜ!」
 クインの叫びがきんと響いて一瞬世界は静まりかえった。ライアンが物も言わず青ざめていく。それは驚愕や不快のためではなく、血の気の引くような怒りのためだった。
 貴様、とライアンが呻いたのが聞こえた。クインはふんと鼻を鳴らして笑おうとした。それが終わらぬうちに喉が急速に締めあげられ、体重が消えた。次の瞬間、がくんと首の付け根に重量がかかり、足が勝手に空中を蹴る。
 喉元をひっつかまれて吊り上げられているのだと悟った時、ライアンが何かを吠えてクインは壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
 一瞬呼吸が止まり、それを回復するように大きく肩で息をする。全身が軋み痛むのをこらえ、クインはそれでもこらえきれずに笑い出した。それは弱々しい吐息のような物でしかなかったが、ライアンをあぶるには最早十分すぎる炎だった。ライアンが喉を鳴らして唸ったのが聞こえた。
 ライアンが足早に自分に近寄って胸ぐらを掴み、宙へ再び吊り上げる。衝撃にそなえてクインは奥歯を噛みしめて息を殺すが、殴打は頬ではなく腹へきた。
 みぞおちに膝が入った瞬間、クインは呼吸を喉で詰まらせた。床に落ちる。咄嗟に頭を庇って丸くなろうとした腕が踏みつけられ、無理な角度で筋がみしりと引き延ばされる激痛がはしった。
 クインは悲鳴を上げた──気がした。後のことははっきりと判別が出来ない。
 嵐のように突き刺さる力が自分を散々なぶり、痛めつけている。朦朧とした意識の中で、クインは確かにライアンの小さく殺した声を聞いた。笑っている。ひきつったような声で、しかし確かにライアンは笑っているようだった。
 何かを言ってやろうと唇を開くと、そこからしまりなく何かが零れ落ちていく。鉄の錆びたような臭い。
「──死んでしまう、殺す気ですか、ライアン!」
 掠れた声が怒鳴っているのを耳に留めたのを最後に、ふっと意識が暗闇へ紛れ込んだ。
 ステリオは丘の街だ。シタルキア中北部の丘陵地帯の中に属し、ゆったりした隆没が波濤のように遠くまで続いているのが街外れから見える。夏の草の緑が溢れてくるようで、強い光線の下にあれば一瞬目を細めてしまうほど眩しい。
 エミリアは鞄を肩からかけ直し、振り返った丘の様子が記憶と変わらないことに安堵して歩き出した。まっすぐに街の中央区からやや外れた地区へ入り、やがて背の低い薔薇の木の双柱門を抜ける。夏薔薇の甘く清涼な香りがふっと鼻先をかすめ、やっと自分が元の場所へ戻ってきたような気になる。
 奥から偶然歩いてきた中年の女に軽く会釈すると、女はあら、と明るく笑った。
「まぁ、エミリアさん? 帰省は再来週って聞いてましたけど、早めたのね?」
 女の表情にどんな影も苦悩も遂に見つけられず、エミリアはやっとぬるい笑みになることが出来た。何かがあれば、きっとこんな風に屈託なく話しかけると言うことはしないだろう。
 それが思いの外自分の頬を弛めたらしい。ほっと溜息になると、女はエミリアに満面の笑みを向けた。
「面談室をお使いになる? それとも帰宅するかしら? アスニアったら養家に迷惑だからってなかなか帰らないのよ」
 エミリアは苦笑になった。叔父夫婦には子供がおらず、そのせいでエミリアもアスナも実の子のように愛しまれている。葡萄園も年によって作付けに波があるのは仕方がないが、片手間に仕込んでいる葡萄酒の評判が存外良くて、不足のない暮らしだ。口減らしではなく、自分の世話に手がかかることを気にしているのだろう。
 それはエミリアも同じであった。だからアスナが全寮制のこの盲学校に入りたいと夢想を語った時に絵の新人奨励賞を貰った絵を売って金を作ったのだ。
「連れて帰ります。部屋へ行って荷造りを手伝ってもいいですか?」
 どうぞ、と女が微笑む。エミリアが頻繁に面会に行く部類であることもあって、面談には比較的甘い。盲学校特有の手すりや階段の終わりの鳴き床を通り、妹の部屋の扉を叩く。どうぞ、という声は明るくて、いつもの妹のまま、何も変わらないごく普通の日々のままだ。
 部屋の扉を開けると、妹は窓辺にいた。開け放した窓硝子に耳を当て、じっと目を閉じている。窓に跳ねる風の音を聞いているのだ。
 扉が開くと一瞬通りが良くなった風が強く硝子を震わせて、それが楽しいのだろう、アスナは小さく喉を鳴らして笑っている。ちりんと扉にくくりつけられた合図の鈴が鳴った。
「……だれ?」
 おっとりと口にして妹は窓から身を離す。傾げていた首を直すと長く伸ばしている髪がさらりと肩を滑って落ちた。妹の目と同じ、美しい夜空の色だ。落ち着いて扉の方角へ向けられる目は、それでも見当違いの場所を見ている。というよりは、振り向いた耳に気配を悟ろうとしているからどうしても見えている者とは視線のやり方が違うのだ。
 エミリアは私よ、と小さく言った。妹の無事を目にした瞬間、気が抜けてしまうほどの安堵に襲われて、口を開くのもおっくうなほどだ。
「──姉さん? 姉さんね、その声、すぐに分かる!」
 アスナは朗らかな声を挙げてするりと窓際の椅子から降りた。自室の中は既に未知の世界ではないらしく、歩いてこようとする。
 姉の身体を一瞬でも早く確かめようと伸ばされてきた手の先にエミリアは指を添わせ、絡めて引き寄せた。妹の身体はまだ少女の入り口にある年齢のままに小さく、すっぽりとエミリアの両腕の中へ収まってしまう。この小さな宝石の愛しさにエミリアは破顔し、きつく妹を抱きしめた。腕の中にある身体の温度と質量が、やっと確かな実感に変わる。
「アスナ、アスナ……会いたかったわ」
 エミリアはうわごとのように口走り、何度か再会の軽いキスを頬に交わしあってから長い溜息になった。一つが無事に解決すれば、更に一つが浮いてくる。不安というのは大抵一つの根に連なっていて、全てが消えるという確信に至るまでには一つ一つを丁寧に潰していかなくてはならなかった。
 エミリアは僅かに呼吸を飲み込み、重大なことだと悟られないようなさりげない声音を作り出した。
「ねぇ、何か最近おかしな事はなかった?」
「おかしな? ……例えばどんなこと、姉さん?」
「あぁ、いえ……いいのよ、気にしないで──ちょっと見ない間に大人びた感じがしたからびっくりしただけ」
 妹の反応が余りに無邪気で、エミリアはやっと自分の暗い想像を振り切ろうと決意する。この小鳩のような妹が不幸になることを想像するよりは、幸福に微笑んでいる姿を思い描くことの方が重大で重要で、大切なことだ。叔父さんの所へ帰るわよ、とエミリアは努めて明るく口にして、簡単に荷物をまとめて外へ出た。
 ザクリアのような大都市とは違って流しの馬車などはほとんど無い。二人で田舎道を歩いている途中で捕まえた農馬車に便乗出来たのは運が良かったほうであろう。
 アスナは刈り取った牧草に夏の匂いがすると身を投げて笑っている。朗らかな笑い声が耳に響くたびに少しづつ、エミリアの不安や恐怖を埋めていくようだ。可愛い子。エミリアは草の束に頬を押しつけている妹を見やる。
 草の匂い、風の音、小鳥の声、太陽の熱。視覚を失ってしまった代わりにアスナは全てを肌と心の感触で捉えている。悲壮でもなく、自棄ばちな明るさでもない。これがこの子の芯なのだとエミリアは不意に妹を頬ずりしてやりたくなる。両親がいなくなってからは唯一残された最も濃い血の相手であったし、何よりも幼く守るべき者なのだ。
 叔父夫婦の家に着いたのは夕方近くになってからだった。馬車を降りてから少し歩いたが、しっかりと手を繋いでいるせいなのか、アスナの足取りにあまり不安はない。最近の寄宿舎での生活や、習いだした点字のタイプのことなどを嬉しそうに語っている。
 やはりあの少年の口にしたのは単なる恐喝なのだとエミリアは次第に心がぬるく解けていくのを感じてそっと笑った。黄昏に埋没する農園はいつもの色で、何も変わらない光景を見る度にほっと長い溜息になる。忘れようと努めても、一度刷り込まれた恐怖を捨ててしまうことは難しい。それが検証によって少しづつ安堵にすり替わっていっても同じだ。
 姉さん、と妹が強くエミリアの手を握った。どうしたの、と優しい声を出すと、見えないはずの黒々した瞳をまっすぐに向け、アスナは微かに憂えたような表情で言った。
「姉さん、何だか怖いことがあったのね? 震えてるもの、ずっと」
 エミリアは一瞬返答が出来ない。真夏のぬるい残照の中でアスナの手を強く握りしめて震えていたとするなら、やはり怯えているのだろう。失いたくないのだ。全てを。
「大丈夫。アスナと一緒にいれば、きっと落ち着くからね」
 返答は下手に誤魔化さない。肌で触感を読むごとく、アスナは気配に敏感な娘だった。光を失うまでもその傾向はあったが、それは更に強まっている。妹はそれに直接答えず、そっと笑った。遠くから自分たちを見つけたらしい叔母の驚きと歓喜の声が呼んでいる。それに何の暗さも感じない。エミリアはまた同じような溜息になって手を振り返した。
 久しぶりの養家は記憶の通りの野暮ったくて温かな色味をしている。手縫の壁掛けも毛布のつぎも、そこに溢れるように縫い込められている住人の愛情が真冬の雪のようにじんわりと重たい。けれど、それに埋もれてやっと暖まるような心地もあるのだ。
 エミリアの帰郷は予定よりも半月早く、これは相当突然といって良かった。どうしたのだと苦笑する叔父たちにも、アスナと同じく日常の明るさはあっても恐怖の影は見つけられない。3ヶ月ほど前に帰省した時の空気と同じものをふんだんに与えられて、ようやく神経ごと弛緩していくようだった。
 夕食が終わると妹を連れてエミリアは二人の部屋へ引き取った。昼下がりの埃っぽい道を歩いてアスナも疲れているようだったし、エミリアも船を降りてからは強行軍であったといってよい。
 一刻も早く妹の無事を確かめたかったし、叔父夫婦の息災を見たかったのだ。
 アスナはついてすぐに自分で整理した棚を開けて、手探りで寝着を取り出している。着ていた木綿の服をぱっと勢いよく脱ぎ捨てているのはやはり、自分に対する目の意識の薄さなのだろう。見られている、ということに対して無頓着なのだ。
 寝着をもそもそと着ている仕草はたどたどしい以外の何でもないが、手伝ってはいけないと言われている。身辺のことは自分で一通り出来るようにするのが自活の最初だと盲学校で教えているようだ。
 だから手を貸さずにエミリアはじっと待っている。釦の数を丁寧に数え、指がゆっくりと着替えを仕上げていく。次第に子供から大人へ渡り始める身体はどこも淡く薄い、女の匂いがする。未完成で危うい身体の線が、この一瞬しかない美しさをもっている。それは殻を破ろうとする直前の息吹だ。
 見る度に妹の身体がゆっくりと、しかし確実に子供時代の次の季節へと歩んでいくのが分かった。それに比して笑顔は昔の通り、屈託なく明るい。子供のままのような、無垢の永遠を垣間見る気がする。
 けれど、その身体のように妹が子供のままだとは思ったことがなかった。他人には無邪気で明るく、やや年齢にしては幼く思われるほど素直に大人しくやわやわしい少女であったが、真実子供であれば言うはずの他愛ない我が儘も癇癪も持っていない。何かを無理矢理主張して誰かを困惑させたりすることがないのだ。
 ──優しい子。エミリアはやっと全ての釦をかけ終えて、一番下から順にきちんと止められているかを確かめている妹を見ながら思う。
 優しくて、傷つきやすく、そして強い。両親の死、自身の盲。そんな境遇の中にあってもアスナはいつもエミリアを支え、励まし続けた。辛くないなどとは思わない。アスナの強さは何事にも動じない鉄ではなく、しなやかに風にそよぐ若木のそれだからだ。
 不意に愛おしさの波が零れてきて、エミリアはそっと目元を拭う。妹と自分と、支え合って生きていきたい。可愛い子。優しい子。私の希望。エミリアは口の中で呟いた。ふと意識のそこを何かがかすめようとするのを無理に押し殺し、着替え終わって寝台に座る妹の隣へ腰を下ろす。
「……綺麗な髪ね、アスナ。やっぱり長いのが似合うわ」
 言いながらエミリアは櫛で丁寧に妹の髪を梳いてやる。これは久しぶりにあった時の姉妹の心を近くする儀式のようなものであった。流れるような黒髪は艶やかでどっしりした重みがある。量が多いが美しい髪だ。妹の身を整える閉じた幸福を噛みしめていると、不意にアスナが姉さんと言った。
「──ねぇ、前の手紙にあった男の子は元気?」
 ふっと瞬間、手が止まった。胸の深いところが一瞬で射抜かれて、僅かな時間呼吸も出来ない。
 エミリアはそうね、とあやふやな事を返答し、もう寝なさいと強く言った。寝台に入れてからそう立たない内に妹が寝付いてしまうと、エミリアはほっと溜息になって自分も寝台へもぐりこんだ。船の中の揺らぎがなくて、真実自分は戻ってきたのだと思う。
 目を閉じると真っ先にクインのことが浮かんだ。
 ──クイン。見捨ててしまったという罪の意識や哀れだと思う胸の作用よりも早く、彼の表情が豊かにあふれ出してくる。
 苛立つ頬の線、癇性に歪めた唇。そんな翳りばかりの面差しが、いつしか素直に明るく変化していったのをみたのは、奇跡か幻のような出来事であったはずだ。
 船の中でみたのはいとけなく縋りつく、切羽詰まった依存であった。怒り、笑い、不機嫌になり、毒づき、そして強く禍々しい言葉に自ら傷つくような顔。沢山の彼を見たはずなのに、最後に他のもの全てを消し去って浮かんでくるのは、ミシュアの浜で別れた時の幸福そうな笑顔だ。
 心の温度のままに全てを全身から発散する彼の、あれが最も力ある表情だった。あの瞬間に自分たちの間に秘密も打算も形式もなく、ただ惹かれるままに相手を見つめていればそれで良かった。そのはずなのに。
 エミリアは毛布を頭まで引き上げ、中で丸くなった。涙がたぎるように溢れてくる。ここに至って初めて、ミシュアの浜で膝を折った時から自分は茫然としていたのだとやっと思う。
 結局のところ、自分は何に負けたのだろう。
 クインのことは愛しかった。彼が自分のためにそこにいてくれと言うのなら、彼の繊細な神経を宥める鎮静剤だったとしても意味があると思った。彼の心はひどく荒くて激しい波だが、その根底にあるのは絶望的な寂しさだった。
 だから可哀想に思った、それが間違っているはずはない。男として愛していたかという問いには今でも答えがないが、それも仕方がない。憐憫は決して恋ではないが、それも人への真摯な祈りならば、愛と呼べる種類でないか。
 手放してしまった希少な宝石。彼はその硬質な心でもって自ら傷ついていく。それを自分に止めることが出来るなら、それに準じる巫女でもいいと確かに思った。女というものは殆どが絶望的に美しいものが好きで、それは馬鹿馬鹿しいことではあるが仕方がない。圧倒的なものの前にひれ伏すならば、愚かしさでもってしか出来ないからだ。
 彼は美しかった。表面に浮かぶ外殻ではなく、胸の奥津城に誰にも触れさせない頑とした純粋を飼っている。それを自分でどうしていいのか分からずに、秘密を分かち合う相手を必死で捜そうとして遂に見つけられない悲哀が彼をどうしようもなく打ちのめしていたのだ。
 エミリアはこぼれる涙を枕に押しつけながら深く頷いた。彼の背中に翼を描いたのが何故だったのか、ようやく解答が見つかった気がした。それはきっと彼が最も欲しているものだから。力強く羽ばたいて地上より少しでも高く、天へ近付いていきたい、そしてそれが出来ないことに絶望しつつあった天使。
 ──それを捨ててしまった。自分の手で。一度は彼は翼を見つけたはずだ。そんな表情を知っている。
 彼はどうしただろう。あの少年は彼の、おそらくは友人なのだろう。名前は遂にその唇から零れなかったが、彼の口から陽気な友人の話は聞いたことがある。それに任せていいのだという声が自分の中からすることを許せない。彼への罪悪感と自分への絶望が、家族の無事を確認し、確信してから湧いてくる。
 それが自分で本当に卑怯だと思う。あんなに心細く不安な声で自分を呼んで、どうしていいのかも分からないまま身を寄せてきた獣のような彼を見捨てて、全てに目を瞑り耳を塞いで逃げてきたのだ。
 心の底から彼を哀れだと思う、張り裂けそうなほど悲しいと思う。けれど、それを救うために自分の根底を構成するこの家の温かな色をした全てを差し出せと言われたら、それは出来なかった。出来ないならば、これは全てを賭けて狂っていくような恋ではなかったのだ。
 そう呟く側から言い訳のようだという自嘲が湧いてきて、エミリアはきつく歯を食いしばる。少年がエミリアに彼を不幸にはしないと言った言葉を鵜呑みにする気はなかった。第一、それは自分とは関係がない。気休めにもならないのだ。
 クイン、とエミリアは小さく名を呼んだ。もしあの時全てが順調に流れていたならば、今頃は彼と身体を寄せ合い名前を呼び合っていたかもしれないのだという新しい推測は、思った以上に胸を刺した。痛い。彼は今、どうしているだろう。
 その資格は既に無いとしても、案じているのは本当だ。あれが恋でなくても、愛の種類ではあったから。思えば全てが幻の儚さであった気がした。夏の海にくゆる、蜃気楼のような。
 違う、とエミリアは反射的に強く思った。全ては自分の目と、心が真実だと思うのがうつつであり、幻だと思うものが夢だ。醒めて消える夢にはしない。誰がどんな思惑を持っていたかも関係ない。エミリアの中にある、一番の彼が全てで現実だ。
 現実、と呟く。あれが幻でなかったことを証明するために、うつつの夢であったことを残しておくために、この胸の後悔と彼への追憶のために、差し出せなかった自分の全てを賭けるとするなら、方法はたった一つだ。
 ──描きたい。
 自分の身体のそこから力強く浮いてきた言葉に深く頷き、エミリアはゆっくりと身体を起こす。妹を起こさないようにそっと寝台を抜けてショールを羽織ると、静かに家の外へ出た。葡萄畑は月夜に照らされて、青緑色の海のように葉がうねっている。
 その中をエミリアは足早に作業小屋へと向かった。作業小屋の屋根裏は昔からエミリアの絵のための部屋になっている。専用の部屋を増築してもらう事が出来なかった代わり、エミリアが好きなだけ一人で絵を描けるようにと叔父が作ってくれたのだ。
 屋根裏へあがるとそこは昔のままの世界であった。賞を取ることも、芸術院へ進むことも、絵を売って生活することも、全く思いもせずに自分のためにただ描いていた頃の気配がまだ残っているようだ。
 描きかけてそのままになっている何冊もの画帳、何を描くか迷って手をつけていない木綿の画布はやや日向焼けしているが、構わずにエミリアはそれを作業台へ立てかけた。
 ──描きたい。
 胸の奥から衝動が、それだけを囁いている。
 床に落ちていた炭は写生用の柔らかいものではなく、おそらく子供の頃に母屋の備蓄庫から拾ってきたものだ。それをも愛しいとエミリアは微笑み、画布と真向かった。
 ──彼を描きたい。いいえ、描かなくては。
 更地のような何もない画布に、たちまちクインの沢山の表情が零れてくるようだ。これまでに見た綺羅綺羅しいものではなく、人形のような魂のない端正さではなく、たった一つ、描きたいと心から思う表情が出るまで、じっとエミリアは画布を睨み据えて待っている。
 ──描きたい。
 ここへ戻るのは自分の持っている業なのだろう。それをなじって離れていった恋人もいた。全てのことを絵のための土台であると言われて悲しかった。けれど、それは今的中ではなくても何かの真実を含んでいるかも知れないとそう思う。
 描きたい。クインという奇跡を描き留めておきたい。そうしなくてはいけない。全てがエミリアの中で昇華されていくのなら、通り過ぎていった恋愛でさえなかった交感を形に残し現実だったと振り返るよすがとなるのはやはりこれしかない。
 自分自身の中から溢れてくる、この衝動と情熱の帰結しかないのだ。
 描きたい、とエミリアは強く画布を睨んだ。
 彼を描きたい。美しさで周囲に君臨する王ではなく、ただ寂しさと怒りと、それでも希望を手に入れようとするあの目を持った少年としての彼をとどめておきたい。
 自分でも意識せずに最初の一線が出た。何も描かれていなかった処女雪の上に足をつけた僅かな罪悪感が手を止め、やがてそれは突き進み、滑り出す。
 彼を描きたい。今、描きたい。
 ひたすら突き上げてくる衝動がエミリアの手を自動筆記のような勢いで動かしている。ザクリアのアパートにある美しい幻想画とは違う絵になるだろう。この高揚感をしばらく味わっていなかった気さえする。
 売り絵は否定しないしそれで食べていこうとしているのも事実だが、他人が求める自分の絵はいつの間にか幾重にも張り巡らされていた自分らしい優しさという枠の中であった。慣れた技法と慣れた愛に、僅かに疑問を持ったことはなかったろうか。エミリアの持つ魂の複製品のような絵を沢山描いてきた気がする。
 ──描きたい。
 エミリアは自分の手が勝手に彼の姿を描き出していくのを見つめながら、深く頷いた。これは彼だ。誰がどう言っても、私の中の彼だ。技術でもなく、色彩の綾でもなく、彼の魂をこの一枚に塗り込めておきたい。その為だけに描く、自分のための絵。
 描きたい、とエミリアは呟いた。途端に何かが決定的に弾けたらしく、一度は止まっていた涙が溢れてくる。それを空いた手で払いのけながら、エミリアは忙しく手を動かした。
 描きたい。全ての決算に、自分と彼が僅かにでも同じ地平に存在した証拠に、今描きたい。この絵を最後に情熱全てを燃やし尽くしても構わない。
 これが描くということで、これが想うということだ。
 絵のために生きているのだという非難はあるいは正しいかも知れない。けれど、それがどうしたっていうの。それが生きていくということなのよ──私にとって。
 クインのことがこの絵の代償であったということではないのだ。全ての魂への打擲があるからこそ、それを糧に出来るのだから。
 エミリアは夢中で描き続けた。この絵を彼に見せてあげられるかは分からない。けれど、描くことで彼への祈りを形残すことが出来る。
 その為に描くのだ。愛も、祈りも、形にならないものだからこそ、胸の中にあった証明と追憶のために。
「天使」
 エミリアは呟く。
「天使にするわ──夜明けに空を見る希望を」
 これがエミリアにとっての彼と過ごした夏、奇跡のような短い季節の決算であった。
 ──これは後に、『暁の天使』として展覧会で最高の評価を得、また画家エミリア=スコルフィーグの劇的な質的転換を示す一枚として扱われるようになるが、それはまた別の話である。
 ゆっくり目を開けると、視界は白く濁っていた。瞬きをすると涙がこぼれていく。おかしい、何が悲しくて泣いているんだろう。それが分からなくて更に瞼を動かしていると、次第に世界が形を表してくるようであった。目線をあげるとよく知った木の節の模様、窓硝子の気泡。光は斜めにたっぷり差し込んで、寝台の端と床に日向の匂いを振りまいている。
 吐息を漏らして起きあがろうと右手を寝台に支えると、途端に腕がひきつるような激痛がはしり、思わず呻いて身体を倒れこんだ。まるで右腕に力が入らない。手の指が一斉に痙攣し始めて、自分でもどうしていいのか分からなかった。枕に頬を押しつけて次々に浮いてくる脂汗を拭っていると、軽く駆け寄ってくる足音がした。次の瞬間、ぴたりと冷たい感触が額に押しつけられて心地よさに僅かに喘ぐような声が出る。
「右腕は痛めているから、あんまり使うなよ」
 聞き慣れた明るい声に振り仰ぐと、チアロが柔らかに笑いながら自分に濡らした布を押し当てているのだった。ああ、という、喘ぎとも吐息ともつかない声がこぼれた。
 チアロがクインの額に濡布を押しつけ、肩を抱くようにして体勢を直す。起きるか、と聞かれて頷くと、寝台にもたれるように身体をあげてくれた。
「起きたな、クイン。……今、食べるものを持ってきてやるから」
 クインはぼんやりしたまま頷いた。全身が気怠く、ぎしぎしと軋んでいる。ばらばらにされたのを無理矢理繋ぎ直したように、関節が重くてなかなか動かすことが出来ない。ちらりと右腕を見るとこれでもかというように包帯が巻かれており、添え木までがあった。それを見た途端、強い湿布薬の臭いがした。
 クインはそれをじっと見つめて首を傾げた。記憶が不鮮明で、どこからが夢で現実なのか、まるで分からない。一体何故こんなことになっているのかも。左手でそっと右腕の包帯を撫でようとすると、左の小指と薬指にも包帯があった。こちらは固めてあるらしく、ぴくりとも動かせない。
 クインはぽかんとする。現実味のない世界に突然迷い込んだようで、どう反応していいのかも分からなかった。厨房からチアロが戻ってきて、寝台の隣に椅子を引きずり腰を下ろす。甘い匂いがした。
「蜜桃の甘煮だよ。昨日買っておいたんだ、お前、食べたいっていったろ?」
 クインは目をしばたき、そう、と小さくいった。その記憶は完全に抜け落ちていて、チアロがそう言うならということでしかない。クインの反応でそれをチアロも悟ったらしく、何だよと苦笑して皿の中の刻まれた果肉を匙ですくった。
「ほら、口開けて……遠慮すんなよ、その指じゃ匙を持つのもすぐには無理だから」
 どうやら右手は力が入らないし、左手は動かせない指がある。それを悟ってクインはおとなしく唇をあけた。匙のひんやりした感触が割り込んできて、舌先にあたる。舌の上を転がって落ちていく桃のざらっとした表面が気持ち悪い。クインが顔をしかめているのにも構わず、チアロは定期的にせっせと桃を口に運んでくる。どうやら自分は長く眠っていたのだろうと思ったのはこの時だった。皿の中をあらかた嚥下し終えてから、クインは腕なんだけど、と言った。チアロは頷き、完治まであと3週間、と告げた。
「筋をひねって傷めただけだから、使わないようにその期間吊っておけば大丈夫だってさ。あ、それと左手の指は骨がぱっきり折れてるけど、無理しなければちゃんとつくって。あと、肋骨が何本かいっちゃってるからしばらくの間、仕事は休み」
 クインは頷いた。全てがもやのかかったような断片的な記憶ばかりで、何一つ系統立てて思い出せない。ただ、夏の美しい幻影を見た気がする。眩しくて綺羅しい、紺青の海の幻を。
 海が……と言いかけると、チアロがごめんよ、と素早く遮った。
「俺が一緒に帰れば良かったな。お前にあんな馬鹿なことを言わせなかったのに……」
 クインはじっとチアロを見つめた。友人は昼下がりの明るい空気の中で柔らかに、どこか哀しそうに笑っている。馬鹿なこと、と復唱するとチアロはリァンのことだよと苦く笑い、クインの額にはりついている髪を丁寧により分けた。
「リァンのことは、俺にはいいんだよ。お前がそう思っててくれたのをディーから聞いたけど、嬉しかった。ありがとう」
 クインの身体に負担をかけないように配慮された抱擁が、温かだった。クインはじっとそれを受け止めながら、自分の脳裏を検証する。チアロの言葉にも、肯けるような気がしたが決定的な確信がない。全てはぼやけた曖昧な世界にあって、何もかも現実味がない。クインの反応がどうやっても薄いことに気付いたらしく、チアロはやや置いて寝台の脇から大きめの何かを取り上げた。
「あ……」
 クインは喘いだ。それを目にした瞬間に、薄い皮膜が破れたように全てのことが次々に溢れ出てくる。
 エミリア、暖かな色をした優しい絵の人。一度は澄んだ視界が見る間にぼやけてくる。自分は泣いているのだ。出会いの夜に目を見張った彼女から一息に、最後に見たミシュアの海での微笑みまでを駆け上がる。
「これ、彼女から預かったんだよ。お前に渡してくれって言われた」
 チアロがエミリアの画帳をクインの膝におき、口を綴じていた紐をほどいた。クインは頷いた。夢ではなかった。あの心穏やかで楽しかった日々は幻でも空想でもなく、最後に身に残った傷と共に確実に刻まれている。エミル、とクインは呟いた。俯くと涙が落ちて画帳の表紙にこぼれた。それをチアロの指がこそげとる。ごめん、とチアロの声が聞こえた。
「……こんな風にはしたくなかったのに、お前にもライアンにも、一つもいいことしてやれなかったな」
 チアロの声音には深い悔恨が滲んでいる。お前のせいじゃないよ、とクインは言った。誰のせいだということには意味がなかった。ライアンの仕打ちに憤っていても、それが自分の癇癪で利己的な欲求だということくらいは知っていた。けれど、それを押してでもライアンには自分を見て欲しいと思い、願いが叶わないと焦れて自棄になったのだ。
 エミリアに出会ったのは、そんなときだった。乾いた砂に吸い込まれていくように、エミリアの全てが胸に通っていった。誰でも良かったのだろうかという疑問は、さらさらと目の前を通り過ぎてしまった。自分に希望という言葉を教えてくれたのは、彼女であったはずだから。
 いいんだ、とクインは繰り返した。チアロが切なく笑ってごめんよと呟いた。クインは首を振り、そっと画帳の表紙をめくった。一人にしてくれるつもりなのだろう、ゆっくり休めと言い残してチアロが席を立っていく。それを視界の端で確認しながらクインは目を落とした。
 練炭の強く淡い濃淡で描かれた世界は、良く知った温もりのままにあった。最初の一枚には近所で遊ぶ石蹴りの子供がある。
 ──私とうとう見つけたわ あの人は私の運命の人──
 耳の奥に明るい恋の歌が蘇る。エミリアのアパートから覗いた日常の写生だ。日だまりの猫に逃げてしまったという注釈、蝶の展翅。側に走り書きの文字が日付と場所を教えている。
 自分もいる。最初の一枚は背中だけで表情さえないのに、尖りきって折れそうなナイフのようだ。ひどく苛立ち、暗く出口のない怒りで気が狂いそうだったのだと今なら思える。エミリアの部屋での写生もやはり背中が多い。けれど、何かが劇的に変化したのが背中だけでも分かる。自分の肩や俯く首筋から暗い翳りが消えている。
 これが彼女の力だった。いつでもクインを許し、優しく笑ってくれた。大丈夫よと囁いてくれた。自分が彼女の優しさに甘えつけ込んでずるずると居着くのを、黙って受け入れてくれたのだ。
 エミル、とクインは呟いた。居心地が良かった、甘えていた。自分の背負うもの全てを投げて彼女に縋り付こうとしたのだ。そしてそれをエミリアは受け入れようとしてくれた。船の中で手を繋いで眠った記憶、ミシュアの砂浜で約束のために抱きしめた身体。肌の熱。平凡な女の平凡な優しさでも良かった、彼女が自分を抱きしめて、大丈夫よと言ってくれればそれだけで良かったのだ。
 クインはこぼれる涙を左手の甲で拭った。胸にあるのは引き裂かれたという痛みでもなければ世界への煮えたぎるような怒りでもなかった。
 ──淋しい。ただ、淋しい。たまらない。
 寂寞とした大地に一人で立っているようだ。ほんの僅か先に潤う泉が見えていた気がしたのに、それは蜃気楼だったのだろう。真夏の光線と紺青の海に抱かれて一度は取り戻せると思った自分の中の平均律が霞み、消えていく。
 次の頁をめくると、項垂れる自分の背に翼が描かれていた。これが希望の形なのだ。俯きながらも前へ行きなさいとエミリアの声が耳元で謳っている気がする。
 行きなさい。前へ未来へ進んで行きなさい。
 今はまだ小さいけれど、いつか広げて飛ぶことが出来るわ。
 エミリア、とクインは喘いだ。目を閉じると涙がぼたぼたと紙に零れる音がした。上掛けの端でそれを吸い、クインは自分の背にあるとエミリアが言った翼を見つめた。彼女の瞳にこれが見えていたなら、いつか自分にも見えるようになりたいと思っていた。いつかエミリアの見る世界を、自分で見たかった。──エミリア、あなたの手の紡ぐ、愛と祈りといたわりに満ち満ちた世界を。
 クインは泣きながら次をめくる。船の中で彼女が描いていた小品がいくつか続き、それは突然現れた。自分だ。はっきりと分かる。笑っている、胸が痛むほど明るく強くまっすぐに、自分が笑っている。沢山の笑顔。いくら描いても足りないと思ったのか、筆致は急いで早い。勢いのある線が自分の満面の笑みを描き留め続けている。日付はミシュアで別れた日だ。砂浜でこれを描いたのだろう。
 エミル、とクインは呻いて画帳を閉じた。正視は難しかった。何を失ってしまったのか、はっきり分かったのだ。エミリアは確かにクインの希望かそれに近いものだった。彼女は全身全霊を籠めて自分への慈悲を描いてくれた。これほどまっすぐで堂々とした視線を、何の含みや翳りもない笑顔を、クインは鏡の中にさえ見つけることが出来なかった。それを簡単にエミリアは掴みだし、紙の上に広げて見せてくれている。
 大丈夫よ。エミリアの優しい声がした気がして、クインはゆっくり身体を寝台へ横たえて画帳を抱き寄せた。彼女の代わりにこれを抱いて眠りたかった。暖かさは同じだ。そう信じればかなう。大丈夫よ、大丈夫よ……エミリアの声が遠く歌っている。彼女の世界を抱いて、クインはゆるやかに微睡みへ漕ぎ出した。
 目が醒めたのは夕方近い時間だった。差し込む日が赤い。気付くとチアロが出し放しにしていった椅子で、ライアンが画帳をめくっていた。身じろぎするとクインが起きたのを分かったのだろう、画帳を閉じて足下へ置く。
 クインはじっとライアンを見つめた。ライアンも同じように自分を見つめ返してくる。彼とこうして視線を意味無くかわすのは本当に久しぶりだと思った時、声が聞こえた。
「済まなかった」
 うん、とクインは長い吐息と共に言った。チアロは言わなかったが、自分の怪我は殆どをライアンの暴力がつけたものなのだろう。それをさせたのは自分だ。あの瞬間瞬間のことを時系列立てて思い出すことは出来そうにないが、ライアンの傷だと知っていてリァンの名を持ち出し、そこに爪を立てたのは自分なのだ。
「あと二十日もすれば右腕の包帯は取れるはずだ、医者がそう言っていた」
「うん」
「足はひねっただけだから、もう大丈夫だとも」
「ああ、うん……」
「……済まなかった」
 ライアンの声が呻くように言った。そこに籠もった深い慚愧にクインはもう一度、うんと返事をした。ライアンが自分の額を指でなぞり、頬に触れる。傷は残らない、と言われてクインは目をしばたき、そういえば自分で左の頬をひっかき下ろしたことを思い出した。
 クインはそれにも頷き、ライアンの置いた画帳へ視線をやった。泣いた痕跡も残っているだろう絵を見られるのはひどく恥ずかしく、そして居たたまれなかった。自分が何をエミリアに求めていたかまでを見透かされそうだ。
「あの女の絵だな」
 ライアンの言葉には抑揚がない。これはいつものことだったが、急に不安がこみ上げてきてクインは左腕を伸ばし、ライアンの服の裾をつまんだ。握りしめたかったが、無事な三本の指ではそうするしかできなかった。
「彼女には手を出さないで……お願いだから」
 必死の思いで口にした言葉に、至極あっさりとライアンは頷いた。その反応の早さが却って不安を呼んでいることに気付いたらしく、大丈夫だと付け加える。
「俺はチアロに任せた。だからあとは奴に言え」
 クインは頷いた。チアロに一任した時からライアンはエミリアのことを手にかける気はなかったのだろう。むしろ、その気がないからチアロに任せたということも言えるはずだ。チェインでは特に頭目の面目が重要視されている。エミリアのことを知りながらライアンが彼女を放免したならば甘いと言われる種類であろう。チアロならば、まだ目立たない。ありがとう、とクインは呟いた。ライアンは頷き、それと、と続けた。
「オルヴィはお前の身辺から外す。お前とは本当に駄目だな、まるで合わない」
 そんなことを今更気付いたのかとクインは呆れかえる。ライアンは溜息になった。
「別に俺の愛人だからという理由でお前に添わせていたんじゃない。だが、どうやら無理のようだ。今後はチアロのところの子供が来る。オルヴィがしていた仕事はディーに割り振る。ディーの方がまだましだろう、お前にとってはな」
 クインは曖昧に頷いた。どちらがより嫌いかということになれば、確かにディーの方がオルヴィよりも数段はましだったのだ。クインが頷いたのを見て、ライアンはそれと、と付け加えた。
「それと、ディーに礼を言っておけ。奴が止めなければ俺はお前を殺していたはずだ」
 それにもクインは頷いた。記憶のどこかで殺す気ですかと怒鳴っている声を知っている。あれはディーだったのだろう。彼がライアンを止めたのは自分へのいたわりなどではなく、基本的にはライアンがその意志で庇護していることを急激な怒りのために破綻させることをためらったせいだ。それがすらすら理解できるが、助けられたのは事実であるらしい。分かった、とクインは小さく言って目を閉じた。
 ディーの思惑を指摘して毒づく気力は既にどこにも見あたらなかった。すっかり何もかもが燃え落ちて、残っているのは温かな記憶の気配だけだ。全てを失って茫然としている。ここにあるのは脱け殻のようなものなのだ。エミリアが去り、再び世界は薄暮へ落ち込もうとしている。彼女の希望という言葉がなければ、既にくず折れていたかもしれない。
 エミル、とクインは呟いた。その瞬間に、瞳が潤み出す。その熱さに耐えられず瞬きをすると、涙がこぼれて頬をかすめていった。むず痒い感触を嫌って枕に頬を押しつけていると、それを大きな手がゆっくりと撫で取っていくのが分かった。
 クインは目を開けてライアンを見る。自分を見やる彼は自分と同じ程度に傷ついたような表情をしていた。クインをこうして寝台に送り込んでしまったのは彼自身だった。そのための痛ましさを簡単に表情に見つけることが出来る。クインは混濁した記憶の中に残っているライアンを巻き戻し、あんた、と呟いた。
「笑ってたよね、ライアン……俺を殴りながら、笑ってた」
 ライアンの指が一瞬ぎくりとしたように止まり、そしてややあって再開する。そうらしいなという声にはひどい悔恨の影があって、クインをやや落ち着いた気持ちにさせた。
「多分、お前を殺せるのが嬉しかったんだろう」
 ライアンの返答に、クインは吐息で笑う。
「倒錯してるね」
「本当だな」
 ライアンがゆるく笑うのが聞こえる。それに合わせるようにクインがそっと笑うと、ライアンは涙をぬぐっていた手をクインの髪に置いてゆっくりと撫でた。
「だが、お前が死ななくて良かった──自分でしておいてと思うだろうが、時々自分で歯止めが利かないことがある……済まなかった、殺してしまうところだった……」
 彼の声が吐息のようにかすれて消えた。クインはライアンを見た。年長の男はクインの髪を撫でながらどこかで放心したような表情をしていた。過剰な安堵のためなのか、それともその余韻を引き戻して怖れているのか、いずれにしろクインに手をあげたことを痛みとして覚えている。
 いいよ、とクインは言った。彼を怒らせ挑発したのは自分だったのだ。あの瞬間、殺されてもいいとさえ思っていたはずだ。ライアンがリァンへの追悼に縛られて身動きが取れないことを誰よりも苦く思っているのは本人なのかも知れないと初めて思う。
 けれどそれを責めてしまうのは、ライアンの視線が自分だけでなく、例えば彼に忠実で明るい友人のことも見ようとしないからだ。チアロはいいよと笑っていたが、彼の胸内を思えばただ切なく、哀しかった。
「いいよ、分かってる……あんたには特別はリァンだけで、俺も他の奴も誰もそこに入れる気がないんだ」
 クインの言葉にライアンは苦く笑い、長い溜息をついた。
「……リァンの替わりはいない。誰であっても。お前に何を言われても、それを譲る気はない……彼を信じているし、信じることを信仰と呼ぶなら彼は俺の神だ──死んでしまった今でも」
 僅かに何かを思いだしたのか、ライアンの目元が痙攣した。目にあるのは未だに癒えないままでじくじくと膿続けている傷であった。クインはそう、とその目の影を見つめながら言った。
「淋しいね」
「そうだな」
 ライアンは少し笑い、けれど、と続けた。
「けれど、今を生きている奴らを厭うていることはない。チアロのことも、お前のこともな……ただ、俺は求められるのに慣れていない……のだと思う。欲することは知っていても、どう受け取っていいのか、分からない」
 クインは頷いた。ライアンはまだ子供と呼べる頃、ろくな記憶さえ残っていない頃に母親に身売りされて厳しい環境を生きてきたと聞いたことがある。最も最初に与えられる無償の愛情は母からの慈雨だ。彼はその経験が殆ど無いのだろう。歯痒いね、と言うと、ライアンはそうかと頷いた。
「そうか、歯痒いか。……そう、なのだろうな多分……けれど、お前が苦しむのは俺にも辛い。どちらが辛いかは良く分かった」
 クインはじっとライアンを見つめる。薄暮で次第に視界の悪くなる世界の中、ライアンは確かに目を伏せてクインを見ていた。
 この視線だった。自分を案じ、心を推し量ろうとする目。ライアンが自分を気にかけているのだという事実に突き当たり、クインは瞬きをした。焦がれるほど欲しかったはずなのに、なだらかに満ち足りた気持ちになっても歓喜とは遠い。エミリアのくれるはずだった安息とは、これは決定的に何かが違うのだ。
 エミリア、と湧いてきた言葉を呟くと、ライアンがあの女か、と低く言った。
「忘れろ。お前が忘れてやることが、あの女のこれからを保つ。二度と会うな」
 クインは返答をせず、肩を震わせた。一度は引き込んだ涙がエミリアの優しさの追憶に触れて再び零れだした。
 エミリア。好きだったのだ。どんな依存であっても甘えであっても、その腕に巻かれて心跳ねるほど嬉しかった。愛かどうかは分からない。恋していたという確信もない。けれど、母親から離れて初めてクインのために胸をさらけて好意を見せてくれた、貴重な時間だった。
 エミルと泣きながら呟いたとき、ライアンがその涙へ唇を寄せた。泣き火照った肌にはそれは一瞬震えるほどに冷たい。やめろ、とクインは唸ってどうにか動く方の腕でライアンを押しのけた。
「やめろ、俺は、もう……」
 ライアンの関心は要らないのだとは言えなかった。けれど、エミリアとのことの埋め合わせだとするなら酷く傷つくとしか思えなかった。ライアンはクインが飲み込んだ部分を察しているのか何も言わずに体を離し、そして置き捨ててあったエミリアの画帳を手にとった。
 足早に部屋の隅にある石の暖炉に立ち寄って中へ放り込む。たまっていた去年の灰が舞った瞬間に、何をしようとしているのかを悟ってクインは喘いだ。やめろと呻いた声が既に潤んでいる。
 ライアンは振り返らずに、腰に吊った煙草入れから火種石を取り出して躊躇わずに火をつけた。クインは自分のかすれた悲鳴を聞いた気がした。エミリアの全てがあっという間に燃えていく。
「忘れろ」
 ふと気付くとライアンがクインの側にいて、震える体をきつすぎないように抱いていた。その腕に縋るようにクインはじっと暖炉を見つめ、喘いで身を折る。ライアンに力の入らない身体を預けたまま、全てが燃え尽きるのを見るように言われて黙って画帳の末期を見つめた。
 エミリアとの全てのことが、今炎の中に消えていく。最初から幻だったように、何もかもが燃えてしまう。涙が出る。
 それを惜しんで泣き叫んでいいのか、それとも理不尽だと声を荒げていいのか、それとも麻痺したように茫然としていることを悲しめばいいのか、まるで分からない中で、クインはひたすら泣きじゃくった。
 黒ずんだ塊が最後にぼろりと崩れるとクインはライアンを押しやり、身体を寝台へゆっくりと戻した。片腕の痛みのためにひどく緩慢な仕草を見かねたのか、ライアンが一度抱き直して横たえる。その優しさに見える仕草が辛くて顔を背けると、ライアンが低く言った。
「忘れろ。全て無かったことだ──いいな」
 クインは首を振ろうとした。
「ライアンは、彼女の代わりに、ならないんだろう? 俺のことはどうでもいいと」
 言いかけた時、ライアンが不意にクインの唇を手で塞ぎ、涙の後へ口づけをした。ぴくりと身体が揺れる。自分が欲しかったものとは何かがずれていることを承知していても、それはひどくよく似た幻影だった。
「忘れろ。無かったことだ。最初から何もなかった。忘れろ、クイン。今から記憶を繋ぎ直せ」
 ライアンは口早に言って、それへの返答を拒否するようにクインの頬の爪痕に唇を落とした。クインは呻いた。息苦しさだと思ったのかライアンが、口を塞いでいた手を離す。それに大仰に呼吸をしていると、ライアンの唇が自分の頬を何度もついばむようにかすめた。
 目線をあげると瞳がかち合った。一瞬戸惑ったようなライアンの目にまっすぐ視線をあてながら、クインは彼の頬に触れて目を閉じる。手でゆっくりと導くと、わずかな躊躇いの時間をおいて、唇が塞がれたのがわかった。娼婦の世界の口づけは、貞操の意味だとライアンから聞いた。それを迷った律儀さがひどくおかしい。
 そしてエミリアと最後までキス一つさえしなかったことに気付き、クインは急にこみ上がってきた何かと、その何かを忘れるために無事な方の手をライアンの首に巻き付けた。ずるずると曖昧になる世界の中で、自分の声は確かに啜り泣き、泣き続けていた。
 それはこの夏を葬るための鎮魂歌であるように耳に響いた。