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3.かもめたちはうたう

 やがて夜の始まる時刻、常連の言葉にまんざらでもない様子で酒場女は進み出る。太り気味の身体を些か持て余すように狭い卓の間をすり抜けて、彼女は店の隅で暇を囲っていた鬱気分の竪琴弾きを小突いて商売道具を取り出させ、深く息を吸い込んだ。
 そして場末酒場に溢れ流れ出す、豊かな音量。昔劇場で歌っていたのだという女の経歴自慢を信じる者はここには誰もいない。劇場にはあり余る豊潤な香りの年代酒や煌めく宝石の偽物の、安い酒と硝子玉に囲まれて、だが女の歌だけは真実本物だった。音楽のための楽器でない、心震わせる、魂の歌。
 女は一心に歌う。あいのうたを。


波間流離う海鳥たちの 叫びが今宵も 耳を打つ
遠く聞こえる潮騒の うねりをかき消す 声がする
お前の胸にも聞こえている? 私の歌う、海鳥の歌
見つめてよ
お前の世界の中心を 私がすっかり占めるまで
 日が落ちると一斉に回廊に揺らめく炎が灯った。リュース皇子は香料油の匂いはどうしても苦手だったが、立場上好みを言うべきではないという習慣のためにそれを口に出したことはない。
 だが、一瞬眉をひそめたのを父は素早く見たようだった。
「――深く吸い込まないで、回廊の真ん中を歩きなさい」
 皇子は微笑んで自分の父を仰ぎ見る。
 すぐ下の異母弟カルア皇子は父に生き写しだと今更ながらに思う。しっかりした健康な体つきと精悍を感じる面差しは、あの明るい異母弟にそっくりだ。
 皇子の視線に父帝はゆっくり微笑んだ。明るい夜空の色をした瞳の奥に、自分に対する情愛と慈しみを簡単に見つけることが出来て、皇子は胸の底が静かになるような安堵を感じた。
 両親からの情という意味において、皇子は父からより多くのものを受け取っている。
 父の言葉に皇子は頷き、父が先へ行くようにと半歩引いて道を譲った。皇子の訳知りの仕草に父は苦笑し、彼の肩を抱いて共に後宮への道を戻り始めた。
「……あまり根を詰めるんじゃないぞ、リュース。お前は何でも徹底的にやろうとしすぎる」
 父の言葉に皇子はええ、と軽い相づちを打った。父上が何でも適当になさりすぎるのです、という返答は心の中にしまい込む。
 父は鷹揚な登極者であり、実に大らかに執政の長として過ごしているように皇子には見える。気概や意欲というものをさほど感じたことがないが、それが現代の皇帝に求められている資質なのだろう。
 既に時代は移り変わり、皇帝が権威と権力の掌握者であった時間は去った。今はその二つの象徴という意味が正しい。が、皇子はそれには僅かな疑問を覚えている。政治であれ軍事であれ、まれにそのどちらかの見識の深い皇帝は存在した。彼らはそれ故に失脚し帝位を去らねばならなかった。定まった権力の機構に口を入れる支配者など、貴族達は欲しくないのだ。
 リュースはそれには疑問と不服を覚える。皇帝はこの国の最高権力者では既にないが、敬意を払われても不思議ではないはずだ。なのに頂点にいるその人が国政というものに真剣に関わることを望んでいる者など、誰もいない。
 父は周囲の期待に実に良く添った皇帝であるかもしれなかった。それを面と向かって非難は出来ないのだが、リュースは何か釈然としない。
「お前の考えていることは分かるよ、リュース」
 父が優しく言った。リュースは今日はほぼ一日父や廷臣達と共に在った。殆ど父が発言をしないことにも驚いたし、臣下もそれに慣れているように全く勝手に議事を進めていくやり方にも仰天した。
 それが顔に出ていたのだろうかと皇子は思い、曖昧に微笑みながら父上、と言った。
「父上はご自分で国政をご指導なさろうと思ったことはないのですか? 彼らの議論と来たら同じ場所を行ったり来たりで……」
「歯痒いかね?」
 父の穏やかな言葉に性急さを諭されているようで、リュースはやや赤面して俯いた。父帝は喉を鳴らすようにして笑った。
「お前にはそうかもしれんな。だが、実際登極してみれば違うものだと分かろう。それに議論はされないよりも尽くされるほうがより正しいと、私は信じているからね」
 それは立憲君主制という機構の心臓でもあった。
 リュースは曖昧に頷いて、ゆっくり歩を進めた。この国では昔から官僚と政治の絡み合う機構が複雑に、だがしっかりと構築されている。それは初代の皇帝があまりに早く逝去したせいであろう。即位時の2世皇帝は僅かに6才、国家とその周辺の廷臣達が生き残っていくためにはそれしかなかったのだ。
 皇帝は富と名誉と権力の象徴とし、実際の為政を官僚が担当し、官僚を法務で縛るというやり方をさまざまな規制と法令でほぼ完全な形で組み上げた太祖皇帝の遺臣ケイ・ルーシェンの呼吸が未だに法令の底辺には潜んでいる。
「私たちは祖先から受け継いできた遺産をまた次世代に伝えていくことを考えなくてはいけないのだよ、リュース。分かるね?」
 穏やかに諭されて、皇子は頷く。それはそれで正しかろう。それに父は立太子されて皇帝になったわけではない。16年前に当時の皇帝であった同母兄が結婚問題のもつれから失踪し後継者がいなかったため、暫定の継承順が一位であった父が急遽即位することになったのだ。
 父にとっては予期せぬ即位であったはずだし、帝位を望んでいたかどうかはすこぶる怪しい。情熱というものを持って望めと父に号令するのは酷というものかも知れなかった。
 それを理解していても、皇子は自分の心の奥底に父の言葉への違和感があることを否めない。何がどう、とはっきり指摘することは出来ないにしても、納得しているというわけには行かなかった。
 皇子は固く唇を結んだ。資質や皇帝の意欲の増減で簡単に翻弄される国政というのも良くないが、いずれ自分が帝位につくことを思うと暗澹とした気持ちになる。現在まで彼が学び築いてきた知識も理論も全く役に立たないということなのだ。
 努力すれば結果は出せる。それを厭うたことはない。だが、結果を出すことを求められていない時はどうすればいいのか、皇子は更に暗い気分になった。
 無理矢理それを貫こうとするならば、それを試みた歴代の皇帝達と同じように臣下を相手に泥沼のような権力闘争に明け暮れなくてはならないだろう。勝つか負けるかも分からない争いに身を投じなくてはならないことを思うと、傀儡でも静謐な一生を送りたいと願った皇帝たちの心情も理解できなくはなかった。
 それは父の願いであるのかも知れなかった。父帝は実権を掌握することを望んでいない。父の望みは恐らく、家族に囲まれて温かに一生を終えることであるのだろう。他人の価値観を理解し納得するには、リュース皇子は未だに若いという年齢であった。
 彼の表情を見て取ったらしい父帝は鷹揚に微笑んだ。
 父の大きな手が自分の額の髪を払いのけ、愛しく輪郭に触れてくる。その手の温もりのように愛されている実感はあった。細められた目の奥にも、優しい声音の静かさにも、それは暗闇の蝋燭のように灯っている。
「私には私のやり方もあるし、お前にもそれがあるだろう。しばらくは勉強がてら私の側にいるといい。それにまだお前になると決まったわけではないからね」
 立太子の条件に実は出生順はさほど関係がない。皇室の権威の失墜と共に有力な皇子の暗殺や失踪が相次いだ時代を経たために、年長の皇子3~4名の資質が大まか明らかになった時点での合議によって継承権順を決定するのがこの500年ほどの慣例である。
 現在一番近いと目されているのはリュース皇子でありそれを自分で自負してもいるが、異母弟カルアにもさほど欠損はなく、その下の異母弟エセルは自分と似た思考型のおとなしい人格だ。末弟ラインは勉学より剣術の才能が飛び抜けて光っているが、実は座学とて悪くなかった。
 誰が立太子されてもおかしいわけでない。カルア・エセルの両異母弟にあまり意欲がなく実弟ラインに至っては尻込みするような素振りがあることを考えるに自分だろうという未来観があるだけのことだ。
「……でも、父上。私は皇太子になりたいのです」
 皇子は低く、父にだけ聞こえるようにそっと呟いた。父は頷き、不意に立ち止まって彼の肩を抱き、額に軽くキスをした。
「――私もイリーナも、お前を愛しているよ。私たちの大切な皇子」
 囁きが耳元でした。リュースは微笑み、はい、と明るい声を出して頷いた。
 母イリーナ妃の住む小宮は夏薔薇庭園の中にある。丁度季節は夏をゆっくりと過ぎていく頃で、まだ咲き残っている色とりどりの薔薇が見事に美しい。侍女が摘んでいた花を受け取って、皇子は父と共に母の元へと歩いた。
 窓辺に母の姿が見える。皇子の視線が向いたのを気付いたのか、軽く手を振ってくれる仕草に皇子はほっと息を付いた。最近どうにも母が余所余所しいと感じていたから、皇子にとっては何気ないことでも宝石のような事実に変わる。
 最近という言葉が一体どの辺りからを指すのか、皇子は始まりの地点をはっきりと示すことは出来ないが、それが暫く続いていることは確かだった。だから尚更、立太子への道を選ぼうと決めているのは意固地なのだろう。それでも何か一つでも気を惹くことが出来て喜んでくれるなら――と、皇子は考え続けている。
 母は窓辺でレース編みの途中だった。弟のライン皇子はいない。日が完全に落ちるまでは剣の稽古であるのだろう。ラインの不在に皇子はあからさまに安堵し、安堵したことに気付いて自己嫌悪で頬を厳しくした。弟を決して嫌いではない。明るい上に他人をよく気遣う優しさを持っており、彼にも良く懐いている。それは一種彼の理想の人格であった。
 皇子が呼吸を整えている隙間に、両親は軽い挨拶のキスを頬に交わしていた。
 父帝と母妃の間には烈しく燃えるような情熱や甘い空気はないが、年月と共に培われてきたらしい信頼がある。それも愛情の一種の形であるだろう。父の愛というなら明らかにもう一人の皇妃ユーデリカに注がれているが、母はそれにはさほど頓着した様子を見せなかった。
 来月の誕生日で15才になるリュースと3ヶ月ほど前に13になったカルアの両皇子に皇太子候補としての諸処の知識や学問を教える特設の学問所が後宮内に開く。それがどんな立場に基づき土台に根ざしているのかを知らしめるために今日は父の側に一日おいて貰っていたが、候補となるのは彼一人ではない。
 アルカナ大公系の母を持つ自分に対してアイリュス大公系の母から生まれた異母弟のカルア皇子が共に席に着くことになる。父が異母弟を現在ユーデリカ妃が暮らすロリス湖畔の離宮からこの後宮へ連れてくることに際し、母親替わりに面倒を見てやるよう母妃に頼んでいるのはその為だ。
「あちらは大分やんちゃだが」
 父の声は苦笑している。カルアは良く言うなら闊達、悪く言うなら落ち着きがない。半刻もじっとしているのが苦手だが、体を動かすことならば大概好きだった。彼とその実弟エセルが遊びに来ると連れ回されて疲労で熱を出すのがリュースの現状だ。
「ええ、ラインも遊び相手が来ると喜びますし」
 母の返答に父が刹那、目配せした。それに籠もる厳しさが何であるのか分からずにリュースは持ってきた花を渡すための侍女を呼ぼうと硝子の呼び鈴を取った。ちりちりなる甲高い音の隙間から、母の声がするりと抜けて届いた。
「――勿論、リュースにだっていいことです。……言葉の綾ですわ」
 自分の耳が一瞬引きつったように動いた気がした。父の一瞬の所作の意味がやっと彼にも分かったのだ。母の言葉から綺麗に自分の存在だけが抜き取られていたことに。皇子は僅かに身を固くしかけ、それをどうにか押しとどめた。自分が気付いたことを、両親に悟られたくない。二人ともが今皇子に気を遣っていることを分かっているから尚更だった。
 現れた侍女に皇子は夏薔薇を手渡す。先ほどの両親の会話など聞いていなかったように微笑んで、今年の薔薇は白が多いですねと他愛ないことを言った。
「母上のお名前を戴いた薔薇でしょう? 香りも強くて綺麗な品種です」
 母イリーナは淡く笑んで頷いた。彼と似た繊細な顔立ちが美しく曇りないことを注意深く観察し、皇子はようやく内心で安堵した。
 どんな形であれ、皇子は母に負担を強いることはしたくないのだった。

 父を迎えに来た侍従が扉を閉める音がした。今夜は父帝は北接の大国ヴァリエーンの大使との食事会、つまり公務での晩餐である。公務がない夜でも両親と弟が揃っての食事は珍しいが、これは父と母の間の事情であった。
 元々親好的な間柄で結婚したというわけではない。父の兄であった先帝の失踪を受けての取り急ぎの即位と結婚だったのだから、二人が今強い愛情で結ばれていなくても仕方がないのかも知れなかった。一方のユーデリカ妃とは父は従兄妹同士であり幼馴染みでもあったから、自分にとってのエリザ公女のようなものであろう。
 皇子は母との食事は久しぶりだった。先年の終わりに中等学院を首席で卒業して以来、後宮の片隅で本に埋もれているか魔導の塔に集蓄されている文献の研究に殆ど毎日を費やしている。食事は気の向いた時に食べられる分だけという不規則さで、自然一人で何かつまむことが多かった。
 それは皇子にとって、気楽さへの依存でもあった。所詮自分は他人に合わせるのに慣れていないのだ。気心の知れた人間はとても少なく、心許せる者は更に少ない。母も例外ではなく、例えばこうして夕食に戻ってくるはずのラインを待つ間、何を話していいのかよく分からない。
 中等学院に通っていた頃にはその話を母の方から尋ねてくれたりもしたのだが、卒業してしまえば何もない。しばらくは体調のことも考えて高等学院への進学を数年先送りするように典医に言われたために、現在は魔導学の講義だけを聴講するにとどめている。
 一つにはこの年齢で高等学院へ進んでも周囲が全員20才を幾つか過ぎていて、今までのように周囲から完全に浮き上がることが分かっているからでもあった。
 魔導学の講義にしても、4年前に論旨を後継した時間生成理論の、皇子は今や旗手であり第一人者であった。魔導学は論理と仮定と計算と実験の永遠の螺旋だが、そのどれも皇子は筆頭に立つ実力があった。
 時間生成の実験だけは2年前の失敗によってしばらくは凍結だろうが、他愛ない他の検証実験程度なら皇子は一人で十分だった。そしてその度自分を見る学生達の奇異と賞賛と嫉妬と、恐れるような目つきを皇子は知っている。それがある限り、彼らとは相容れないことも分かってしまうのだ。
 だが、こんな話を母にしようと思ったことはなかった。中等学院のときもそうだった。どうにかして明るい話を掘り起こすことに熱心だったのだ。何か材料を捜してリュースは部屋をざっと見渡し、最近増えたらしい一枚の絵に目を留めた。光臨する天使と周囲に群がる魚の群れが幻想的な青を基調にまとめられている。
「天使画よ。綺麗でしょう」
 母の声がそっと囁くように言った。リュースは頷いた。宗教画としてよりも幻影画としての価値を追ったような一幅であるが、揺らめく波間に魚鱗が光る様や手を差し伸べて微笑む天使の顔が天上の安らぎを思わせる。よい絵であるといって良かった。
「どうしたのです、これ? 献上品……ではないですよね、まさか」
 天使画を書く画家は大抵若い。これは最近の若手や新人の画家の間で天使を意匠に使った絵が流行しているからだ。献上品として納宮される品は既に作家として名の立った者の作品が主流だから、天使画を後宮で見ることになるとは思っていなかったのは事実だ。
「ええ、勿論。美術監長がこの前持ってきてくれた画集の中に入っていたの。とても気に入ったと言ったら本物を持ってきたのよ」
 母は苦笑しているのだった。ねだったわけではないが、取り上げてしまったような気持ちもするのだろう。
 皇子はそれにそっと笑い、母の向かいの席を立って絵の前に立った。画家の名前は大抵右隅に完成した日付と共に入れてある。
「――スコルフィーグ……ああ、彼女ですか」
 皇子は署名を見やって呟いた。知っているのという母の声には曖昧に頷く。
「高等学院に聴講で行った時に、学院の中庭で声をかけられました。まだ若い……そうですね、多分20才にもなっていない女性です」
 経緯が分からないというように微笑みながら首を傾げる母に、皇子は向き直る。
 エミリア=スコルフィーグは皇子に絵のモデルになって欲しいと言ったのだった。絵画にも派閥や学閥があり、高等学院の芸術部展に出展するために学院を訪れた時に皇子を見かけたらしい。
 それを皇子は断った。忙しいと彼女に言ったのは間違いではなかったし、写真だけでもと食い下がられても、自分の写真には沢山の権利や営利が絡んでいるため気軽に許可を出せないのだ。
「まあ……こっそり写真だけでも撮らせてあげれば良かったのに」
 母の残念そうな物言いに皇子は少し笑い、露見したら彼女の方が困りますからと言った。自分は父帝からの口頭での軽い叱責で済むが、相手はそうはいかないだろう。平民層であるから尚更だ。口にしない部分を母は察したのだろう、残念ねと柔らかく笑ってじっと天使の面輪を見つめた。
 光臨する天使の表情は甘く優しく、微かに開かれた唇の微笑みが慈悲の形に納まっている。
「気に入ったなら持って行きなさい、リュース」
 絵にじっと視線をやっていた王子にイリーナ妃が言った。皇子は母を振り返り、いいのですかと目線で問うた。母妃は笑って頷く。それはいずれ侍女の手によって包まれて彼の部屋に届くことになるだろう。
 皇子が礼を口にしていると、侍女が茶を運んできた。くせのない発酵茶にいくつかの香料が混ぜてある香料茶で、母妃好みのいつもの凛とした強い香りがついている。この茶の匂いに触れるたびに、皇子は母親の元にいることを強く実感にするのだった。
「ご苦労。そこにおいて下がっていいよ」
 皇子はそう言って侍女を払った。どんなにぎこちなくても感触が掴めなくても、母親の側にいる時間は皇子にとっては貴重であり、全てに代え難かった。そこに他人を入れることを歓迎しない自分の狭量さに苦笑になりかける。
 が、それは彼にとっては何をおいても欲しいものであり、殆ど望みを持たない彼の唯一に近いものだった。なめらかな磁器のカップに茶を注ぎ、皇子は母親に受け皿ごと差し出す。どうぞ、と微笑んだ皇子はだが、一瞬後に怪訝にその笑みをおさめた。
 母はじっと皇子を凝視していた。僅かに見開かれた瞳の端で、睫が震えている。
「……母、上……?」
 ぼんやり皇子が呟くと、それで我に返ったように母は肩をひきつらせた。
「あの……何でもないのよ、大丈夫……」
 無理矢理笑う顔をどこかで見たことがあると皇子は自分の記憶に捜し、去年の聖誕祭へ辿り着いた。あの時も、母は自分を見て呆然とした。食い入るような真剣さと、驚愕と、泣き出しそうな瞳の奥の潤みがひどく似ている。
 それを聞きたいと皇子は思った。何故ですか、と口にしたかった。だが現実に立ち返った瞬間、皇子はもの柔らかに自分が笑って母親を気遣っていることに気付いた。
 ――聞けない。涙をこらえようとしている母の理由を聞くのが怖い。何故かと口に出してしまったら、答えを知りたがっていることが母に分かってしまう――
「母上、大丈夫ですか? ……これ、どうぞ。落ち着きますよ」
 いつもと変わらないように注意深く笑いながら、皇子は母妃の手にカップをそっと取らせようとした。
 その瞬間、母が掠れた悲鳴のようなものをこぼして身を折った。耳障りな音を立てて磁器のカップが皇子と皇妃の手の間で倒れる。皇子は反射的に皿を自分の方へ傾けた。母に熱湯がかかると思ったのだ。
「――っ……」
 カップから勢い付いて溢れた茶の飛沫が皇子の華奢で白い手に掛かる。一瞬上げかけた声を押し殺した時、床でカップが割れた。
 その音でイリーナ妃ははっとリュース皇子を見、彼が自身を庇って押さえた手へ目をやって、今度ははっきりした理由のために細い悲鳴になった。
「リュース――ああ、ごめんね、誰か、誰か! リュース、リュース、手を見せて――火傷になってしまうわ、ごめんなさいごめんなさい、ひどいことを――」
 母は狼狽えて口走り、彼の手を取って撫でさすった。
「大丈夫です、あの、殆ど掛かってませんから……」
 皇子はなるべく優しい声を出した。実際僅かに数滴が手の甲に飛んだだけで、殆ど跡にも残らない、冷やす手間も要らないようなものだ。痛みさえ、たいしたものではなかった。
 だが彼の声は母の耳には殆ど入っていないようだった。皇子の手を握りしめておろおろしながら、ごめんなさいとばかり繰り返している。リュースも次第に困惑が濃くなってきて、母上、と宥めるような声になった。
「もう大丈夫です。ほら、全然痕にもなっていない。どこに飛んだかなんて分からないでしょう――片付けを頼む」
 最後は母の声に駆けつけてきた侍女達に言い置き、皇子は皇妃の手を取ってその場を離れた。砕けた磁器のかけらが床に散らばって危険でもあったし、何より母を落ち着かせなくてはいけない。ラインが戻ってきたら庭へ出てくるように言伝して、皇子は母を連れて薔薇園へ出た。
 夏の夕暮れはようやく沈み始めており、空の一番高い部分は紺青だった。薄くたなびく紫金の雲、名残の日差し、そして夕日に温かな茜色に色づく白い薔薇。その薔薇は母イリーナの名を冠された比較的新しい品種で、ほっそりしたうてなから開く大輪だ。
「……今年はいい薔薇が出来ますね」
 皇子は今にも開きそうにふっくらした蕾をそっと指で撫でながら呟いた。とにかく彼の被ったささやかな災難のことを忘れさせたかった。
 未だに啜り泣いていた母は微かに頷き、彼の触れた蕾をよく見るようにかがみ込んだ。
「この薔薇はね、私がアルカナの本家を出て後宮に入った時に記念に贈られたのよ。もう……16年になるのね……」
 その声にはそれまで積み上げてきた経緯を振り返る感慨が滲んでいて、皇子は自分の表情がやっと和らいだのを感じた。母はじっと薔薇を見つめていたが、やがて両手で顔をそっと覆った。母の声が小さく、恐らくは自分にだけ向けた言葉を呟く。
 ――マリア。
「……母上……?」
 皇子の不思議そうな声に、母ははっと顔を上げて無理矢理微笑もうとした。
「大丈夫よ。何でもないわ……」
 皇妃は彼に首を振り、ようやく立ちあがって薔薇園の中央にある小さな泉へ歩いていく。整えられた庭に俯き加減に歩く母の細長い影が落ちて、どこかひどく寂しげであった。
 先ほど呟いた言葉は恐らく誰かの名前であろう。それが誰であるのか、皇子は知らない。ただそれに滲んでいた沈鬱さに母の痛みが宿っている気がして、皇子は余計な好奇心であると自覚はしながら、つい口を開いた。
「マリア……って誰です?」
 母は足を止めた。
 肩越しにゆっくり振り返る視線がじっと皇子に当てられて、やがて外された。伏せられた睫の影が頬に落ちる。
「……お友達よ。もうずっと昔の……綺麗で、可愛くて、素直で……とっても優しい子だったわ……私の大切な……妹……」
 一瞬皇子は去年の聖誕祭に聞いた母の妹のことだろうかと思ったが、すぐにそれは否定できた。母方の叔母はメリーナといったはずだ。貴族間では時折親しい年下の女性を妹と呼ぶこともあるから、きっとそれだろう。友人という言葉もそれを裏付けている。
 そうですか、と皇子は言った。母の友人達は誰も彼もみな華やかで眩しい。その中にマリアという女性がいたかどうかを記憶に捜し、遂に見当たらなくて皇子はでも、と続けた。
「最近は顔を見せていないのではありませんか? 一体どうしたんでしょうね」
 何気ないその言葉に母は視線をそっと戻した。何かいけないことを聞いてしまったのだと悟って皇子が慌てて何か付け加えようとしていると、母は低く呟いた。書かれた台本を丁寧に、しかし感情の籠もらないように棒読みしたような口調だった。
「――その友達は、もう、死にました」
 そう言った途端母妃はがくりとうなだれた。皇子は狼狽して母上、とだけ言った。母は彼を涙で赤く腫れた眼で見つめ、突然彼をきつく抱きしめた。一瞬肩の骨が軋んだように痛んだ。
「リュース」
 強い腕の力で母に抱かれ、息苦しささえ覚えながら皇子ははいと生真面目に返事をした。母の言葉はそれきり途絶えた。嗚咽が彼の耳元で続いている。呼びかけることも身じろぎすることも出来ず、皇子は黙って母の慟哭を聞いていた。
「リュース、リュース……愛しているわ」
 母は同じ事を繰り返している。愛している、愛していると何度も呟くたびに、その言葉の濃厚さが薄まっていくような気がするのは不思議だった。
 夕映えをじっと見ていた目を皇子は閉じて、母の繰り言をずっと聞いた。口を挟むことではない気がして、自分の呼吸音さえ押し殺した。
 母は確かにおかしかった。彼のことを呼び続ける低い声も、愛しているという囁きも、その両方が上の空のようにせかせかと流れていってしまう。その言葉が嬉しいという感情の反応を自分に連れてこないことが不思議で、皇子は溜息になった。
 それを聞きとがめたのか、母が不意に体を離した。皇子は既にさほど変わらない位置にある目線を怪訝に見上げる。母はじっと彼に注視を与え、そして再び顔を歪めた。
 ぐにゃりとゆがんだ表情が涙の前触れであることを分からない皇子ではなかった。具体的な方法は思いつかないものの、どうにか宥めなくてはと思うのは先ほどと同じで、皇子は母にそっと手を伸ばした。
 だがその瞬間母妃は半歩後ろに下がった。皇子は僅かな時間、まばたきをする。
 ――避けられた、という衝撃はやや遅れてやってきた。耳元を雪崩落ちていくような音がする。夏の余韻の虫の音のこだまと分かっていても、それは自分の血潮が脳天からひいていく音に思われてならなかった。
 皇子は何かを言おうとし、母親の様子に沈黙した。彼よりも尚更皇妃は蒼白であった。
「リュース、リュース、ごめんね、ごめんなさいね、愛してる、愛してる、お前のことを愛してる、お願い、ごめんね、愛しているわ――」
 怒濤のような言い訳を口走り、皇妃は彼と似た美しく繊細な顔を痙攣させた。救いを求めるように、首から下がった白金の神紋板をしきりにまさぐっている。
 その指先が神経質に板に埋まった瑠璃石をいじるのを皇子は視界に入れながら、母親のこの神経のかぼそさとささくれやすさは、確かに自分の中に流れている血なのだとぼんやり思った。
「ごめんね、愛しているわ、お願いよ、愛してる、愛してるわ……」
 呻きながら母は彼に向かって微笑み、そして首を振った。
「あの、あのね、もしお前が忙しいなら――」
「母上!」
 皇子は咄嗟に大きな声を出した。母は怯えたようにまた半歩、後じさった。その永遠に遠い距離に皇子は思わず顔を苦くし、それに自分で気付いて慌てて笑みを作った。
「あの、そ、そう、魔導学の論文を仕上げなくてはいけないんです、急がなくてはいけないから、その、今日は帰ります!」
 思いついた用事を口走り、皇子は母の返事を待たずに背を返した。
 東からゆっくり上る月に白薔薇が本来の青白さを取り戻しつつある中を、皇子は逃げるように走って抜ける――いや、多分これは逃げているのだろう。
 跳ね上がるほどに走る側から涙がこぼれそうになる。怖かった。母があの瞬間何を言おうとしたのかを考えたくもないし分かりたくもないのに、直感が声高に叫んでいる。
 忙しいなら来なくていいのよ。もう来ないで。来るな。
 最後に浮かんできた強い言葉に皇子は走りながら喘ぎ、奥歯をきつく噛み合わせた。母は泣きながら自分を愛していると言った。信じて欲しいと何度も目で訴えながら繰り返した。
 けれど、それをまるで信じていない。彼に対する最近、母はいつでも怯えたように彼を見ている。どんなに言葉を優しくしても穏やかに笑って見せても、喜んで貰えるように何をしてもそれは同じだった。
 自室に駆け込み、彼がいつも一人でいる場所になっている書庫に籠もると、全身から汗がどっと噴き出てくるのが分かった。
 息を整えながら、皇子は本棚に並ぶ皮の装丁の背を軽く拳で叩いた。どの本も政治学や経済学や、その他の皇帝教育のためにと母が贈ってくれた本だ。お前にその気があるならしっかり頑張りなさいと言ってくれた。その言葉一つで自分は本ごと覚え込んでしまうほど勉強したのに。
 なのに、その視線一つ微笑み一つ、弟から取り戻すことが出来ない……
 皇子は走ったせいで上がった呼吸が次第に胃の底で吐き気に変わるのを無理矢理押さえ込んだ。ライン、と呟く。
「愛してる、弟を、愛してる、ラインは可愛い、大切な、私の、大事な弟……」
 早口で呟く口調が母と酷似していることに皇子は気付き、小さく笑った。無性におかしくなってきたのだった。
 くすくすという乾いた笑い声をあげて暫く皇子は笑った。自分と母は全くよく似ている。これだから母は私が嫌いなのだ。自分の嫌な部分まで、全くそっくりに再現してみせるから――でも。
 皇子は自分の胸ぐら辺りを片手で掴んだ。心臓は壊れてしまいそうにきりきりと波打っている。その痛みで今死ねたらいいのに。そんなことをちらっと思い、皇子は苛立ちのまま本の背表紙を今度は思い切り叩いた。
 重い樫の書棚が揺れて乱雑に皇子が積み上げた本が崩れ、何冊かが彼の肩や背を打ちながら転がり落ちた。
 打擲に皇子は喉で呻き、背中の鈍い痛みを与えた本をまさぐりよせて適当なページを開いた。夜が落ちた書庫は暗い。だが、彼が何か書き込んだ痕跡を認めればそれで十分だった。
「――かくて行政の責任の所在は官僚を総括すべき統合機関に最終的には委ねられるがそれ以前に監査機関を置くことを厭うてはならないことを念頭に置くべきであろう。監査の監査を永遠に続けることは無意味であるとしても最低限に行うかその姿勢を常に見せておくのは為政者として当然の責務であり義務である――」
 皇子は本の一節を呟いた。どの本でもそうだ。彼は既にこの書庫にある本などは処分しても記憶の中から同じものを探し当てることが出来る。
 皇子はその本を放り投げ、次の本を手に取った。僅かな灯りに金文字の題名が光る。皇子は目を閉じてその中の一節を暗誦しはじめた。この本は行政学ではなく経済学の本だ。債券売買とその数値の理論について。その次は法律。次は軍学。歴史。地理。古典……そして魔導。
「時間軸は存在を前頁資料22にあるように数値上、絶対存在を確信するものであるが、次元軸との交錯におけるたわみは未知数である。帝歴1995年の魔導士カシュラムによる実験の際にはそれは極めて高い数値を示しており、それを付属効果として計算に組み込まなくてはならないことは必至といえよう。計算式は次頁資料23にて示す(資料23参照)。この計算が正しく効果が順調に魔導効果として成長をすることを前提にするならば、時の魔法はいずれ、「魔法」ではなく「科学」の名の下に実体を明らかにするはずである……」
 自分が書いた論文を暗誦し、皇子はそれを収録した魔導学の本を思い切り床にたたきつけた。
 こんな論文、書かなければ良かった。あんなに必死に学業になど専念しなければ良かった。知識や学問など、極めるために突き進んでいっても最後に待っているものが母からの隔絶だと知っていたらそんなこと、最初からするはずなんてなかったのに……!
 皇子は上がってきた苛立ちのまま、床に散らばった本を壁に叩きつけた。自分の中にある納得しきれない怒りや、弟に対するどす黒い感情をどうしていいのか分からなかったのだ。
 更に投げつけるものをと床にあった本に腕を伸ばした時、手首が突然捕まれて皇子ははっと振り返った。微かにある灯明が仮面の銀を反射して光った。
「殿下、それ以上はどうか」
 彼の随従の魔導士が、表情の見えない仮面の下から心痛めたような声で彼を気遣っていた。
 マルエス、と皇子は顔を苦く歪めた。この瞬間に、誰とも顔などあわせたくなかったし会話もしたくなかった。一人になりたかった。その身に馴染んだ孤高で自分をひたすら慰撫してやる時間だけが欲しかった。他人の気配など、身近にしたいとは思わなかったのだ。
 下がれ、と一喝するとマルエスは彼の手首を放して平伏した。魔導士の長く暗い色の衣が黒い沼のように床に広がった。
「いずれ、そのようにも。しかし殿下、本をお仕置き下さっても何かが変わるわけではありません」
 核心を一言で射抜かれて皇子は僅かに呼吸を飲み込み、頬にかあっと上がってきた熱さに押し出されるようにうるさい、と怒鳴った。
 マルエスがお許しをと低く言って彼の足の甲に額を押しつける。仮面のひやりとした感触に、皇子は急に心臓を掴まれたようにどきりとした。
 その一瞬で皇子は我に返った。まだ燻っているような火種は胸の中にあるが、頭の方は至極冷静な、普段の彼の通りに戻りつつある。自分を巻き込んだ一時の熱狂とも言うべき荒廃から目を背けた時、真っ先に随従を怒鳴ってしまったことが胸に落ちた。
「――すまない……怒鳴って悪かった」
 俯きながら皇子は呟いた。自分の声にひび割れるような疲弊が滲んでいることに一瞬置いてから気付き、溜息になる。
 緩く首を振って本棚にもたれ座り込むと、顔を上げたマルエスが何かお持ちしましょうと言って手を差し出した。彼の手に掴まって腰を上げ、皇子は居間へ戻る。大して動いたわけでもないのに息が切れた。
 窓辺の椅子でじっとしていると、目の前に切り子硝子のグラスが置かれた。口をあてると苺の甘い香りと共に微量の酒精がした。苺を漬けた酒を水で薄めたものだろう。
「落ち着かれましたら少しお休みになって下さいませ。夕食はライン殿下がこちらでご一緒されるという連絡を母妃殿下から頂きましたので、もう少々かかります」
「ラインが? ……そう」
 皇子は深く頷いた。母のこれは気遣いだ。または本当に気分が悪いのか。いずれにしろ皇子が逃げるように自室へ戻ってしまったことを気にかけて弟をこちらに寄越すのだから、母が彼に申し訳なく思っているのは本当だろう。
 そんな遠慮。
 皇子は胸の内で苦々しく呟き、軽く目を閉じた。激高と滅茶苦茶な運動が彼の強健でない身体を次第に気怠い沈黙へ押し込めようとしている。腕が重い。
 自分のひ弱さ加減に皇子は今度は苦笑し、マルエスに下がるように言った。
「大丈夫……大丈夫だから、ラインが来るまで少し一人にしておくれ」
 彼の既に去った激しさを理解したのだろう、魔導士はゆっくり頷いた。
 マルエスは皇子に随従するようになって長い。勿論他の皇子達にも両親にも護衛の魔導士がいるが、一番馴染んでいるのは皇子であったかも知れなかった。魔導に通じ才能があることを誰よりも知っているのは皇子であり、その為にマルエスは彼の良き相談相手でもあったからだ。
 マルエスが軽く一礼して書庫の方へ歩いていく。皇子が散々投げ散らかした本を片づけてからこの部屋を去るのだろう。多少気恥ずかしい思いをして皇子はその後ろ姿を見やり、そして呼び止めた。
「マルエス、彼のことはどうなっている?」
 去年の夏頃から皇子は中等学院でわずかな時間を共にした少年を捜すことに魔導士を従事させている。
 さほど急いだ報告がないということはまだ見つかっていないと言うことではあろう。もっと人手がいればとも思うが、これが皇子の個人的な感情を満たす物であるという気枷があって申請を出来ない。マルエスの方は案の定、困惑したような吐息を落とした。
「――ラウール本家の屋敷には既にラウニス伯爵家が入っておりまして、痕跡が入り乱れております故、判別に多少時間が」
 ラウニスはラウール本家の門閥家の係累だが、ラウール失脚の余波の通りにさほど勢いがない一族といえた。が、散り散りになったラウール系閥の今は筆頭でもある。他の家と結託はしていないから再興などという夢は見ていないのだろう。ラウール本家の門地に移住したのはそれを受け取る権利があったからに過ぎない。
 旧ラウール屋敷の中に残る沢山の痕跡、例えば誰かの触れた壁、使った机、そんなものに残る気配の残り香をマルエスは捜していた。人には必ず固有の斑紋がある。気の流れでもあるし指紋などの具体的な物まで含まれているが、屋敷の中の多々ある痕跡を総検討し、どれがキエスのものであるかを判別し、特定が済んだ後にそれを元に探索を開始するという腹だ。
 但し、現在その屋敷にはラウニス伯爵やその家族、召使いなどが起居している。彼らの痕跡とキエスの痕跡をより分けていく作業は膨大で、マルエスが時間が欲しいというのはそのことであった。
 だが、マルエスは出来ないとは口にしていない。だから時間は掛かってもいずれその答えも結果も皇子に披露するだろう。
「……期待している。よろしく頼む」
 はい、とマルエスが仮面の下でそっと笑う気配がした。皇子は視線を随従の魔導士へやる。マルエスは軽く会釈すると、皇子に銀の仮面をまっすぐ向けた。
「殿下が御熱心ですので、つい」
 僅かにリュースが赤面すると、それを見なかったようにマルエスは深く腰を折り、書庫へ入っていった。扉が閉まって魔導士の長衣が消える。皇子は何故かほっと溜息になり、目の前の淡酒を含んだ。
 何故、とはマルエスは聞かなかった。それを聞くことの出来る立場でもない。それに甘えて自分が説明を怠っていることを、リュースは自覚していた。
 何故彼に会いたいのだろう。その疑問は、自分に何度問いかけても毎回違う答えが返ってくる。
 彼は私に何か話があるはずだから?
 魔導論文の賞金を渡してやりたいから?
 彼の逃亡の理由を聞き、出来ることなら力になってやりたいから?
 そのどれもが間違いではなくて、完全に正しい訳でもない。会って一体どうしたいのかと聞かれれば、皇子は曖昧に微笑むしか出来そうになかった。
 けれど気になる。自分を見つめていた眼差しも、身を翻すように逃げてしまう時にもきつい輝きになる気性も、偽悪的な口調でさえ、何かの声にはならぬ言葉である気がして落ち着かない。
 あえて無理に総括するなら、と皇子はふと思い浮かんだ言葉を呟いた。
「彼と……友達、に、なりたいのかな……」
 名前も知らないのに、とリュースはぼんやりと思い、唇で薄く笑った。それでも思いついたその言葉は自分の胸にひどくしっくりと納まるようだった。
 彼の抱える孤独と皇子の抱える孤独はよく似ていた。気位が高くて他人を寄せ付けない――彼はいつでも人の中心にいたが誰にも心を許していなかったことは分かる――所も、誰からの理解も欲していないと身構えてみせる所も、孤独に慣れてしまった所も。だから会えばきっと――多分、話が出来る。リュースはそれが自分の勝手な空想であることを承知しながらも、うち捨ててしまうことが出来なかった。
 彼の話を聞きたい。今まで何処にいて、どうして生きてきたのかを。喜びの話を苦しみの話を、辛さも楽しさも、その生きてきた軌跡を知りたい。
 話がしたい。どんな下らない話でも。皇子はきゅっと唇を結んだ。
 ――淋しい。それは皇子が次第に重苦しく感じ始めていた身の孤独であった。
 彼を取り巻く人々は彼を憧憬し崇拝しても、決して近寄ってこようとはしなかった。彼に取り入ろうとする者たちは沢山いたが、彼に近しくなろうとする人間はついに見当たらなかった。憧憬があるなら嫉妬もある。双方の視線の重さだけが共通だった。
 少女達はまた違う目で彼を見た。沢山の手紙、手作りの押し花の栞、刺繍の入ったスカーフ、そんなものと共に愛の告白も嫌というほどきいた。
 けれどそれは皇子は全て断っている。よく分からないのだ。人を恋すること。愛すること。その心が一体どこから派生してくるのか、彼には全く理解できない。エリザ公女は呆れ顔で、考えることがそもそもいけないのだという事を言ったが、その意味さえあやふやで掴めない。
 気持ちという不可解は自分の中の薄暮であった。うっすらと見える気もするが、何があるのか得体が知れない。そして正体の見えないものは怖い。
 けれど、母の関心は欲しい。あの視線や弟に向けるような優しい笑顔や穏やかな声が、もっと欲しい。弟に目を取られがちな母の、年上である彼に理解と分別を求めている母の、柔らかな腕に抱き巻かれて感じる安息を、もっと欲しい。そしてそれは弟がいる限り自分に燦々と注がれないだろう。
 胸に一瞬さした鋭い痛みに、リュースは端麗な頬を歪めた。これはきっと、淋しさのための苦痛だ。決してラインを自分は嫌ってなどいない。だから母上、もう少しでいいから、ほんの僅かでいいから、一瞬でいいから、
 ――私を見て下さい。
 皇子は首を振る。彼に会いたい。会って話がしたい。その淋しさを、例えようのない孤独感と虚無感を、彼は分かってくれるだろうか……
「……本当に、何て、都合のいい……」
 リュースは低く呟いた。けれど、淋しい。
 誰よりも孤独だと、淋しいと、皇子は呟いて滲んできた涙を押し出す為に目を閉じた。



見つめてよ
お前の世界の中心を 私がすっかり占めるまで──


 酒場女の歌声は朗々と、小汚くて薄暗いホールに響き渡る。
 安酒を更に水で薄めて飲む客達が、女の歌に口笛で加勢する。竪琴の音は陰鬱で、それを弾く指の持ち主のように暗い表情だ。
 きらきらひかる、硝子玉の髪飾り。
 安直な煌めきが安酒場での余興に相応しく、床に淡い影を落とす。
 女の歌は、まだ続いている。



 愛を囁く海鳥たちの 歌は掠れた しゃがれ声
 嗄れた喉から啼きあげて 今宵も死ぬほど 呼んでいる 
 お前の元にも届いている? 悲鳴のような、海鳥の歌

 抱いていてよ
 お前の持てる両腕の その長さに余らぬように
  海から上がってくる風が枝をゆらした。盛夏に茂った濃い緑がざわめくと、耳に遠く巻いているような潮騒と混ざって不思議な音になる。療養所の庭は患者達を宥めるために広く作られていて、木陰とその下のベンチが存在するが、広さ故に他の患者と出会うことが珍しいのも気楽で、最近は尋ねてくると庭に出ることが多い。
 ベンチに腰を落として自分の肩を枕に眠る母にちらりと目をやり、クインは自分のスカートの皺を丁寧に伸ばした。
 顔色は確かに良くなった。感染値も下がって療養所の中であれば条件付で歩くことが出来るようになった。頬の血色もいいし、薬も効いている。その薬のせいで母親は先ほどから目を覚ます気配がないが、それでもクインは良かった。
 月に一度顔を見にミシュアまで空間転移してくるが、その都度母は身体を回復させていくように見えた。この療養所に母を置いて最初の数ヶ月、自分が半信半疑であったことは否定しない。
 本当に薬は効くのだろうか。本当に母は助かるのだろうか。母には言えない身の切り売りをしてまで稼いだ金は有効に、自分を救う柔らかな腕の持ち主を現世につなぎ止めてくれるだろうか。そうでなかった時、自分はどうしたらいいのだろう。
 最後の疑問が浮かんだ時、クインは恐怖のあまりにそれから目を逸らした。そんなことは考えたくなかった。彼の中にある不安という根は雑草のように頑迷で、幾ら千切っても千切っても次々に芽を出しては彼を苛立たせる。
 けれど母の様子を見ている限り、薬は良く効いているようだった。療養所に連れ込んだ時は既に美しかった爪の色が奇妙に黒くなり、左の小指と薬指は麻痺が進行していた。
 指先の色はもう戻らない。黒死に罹患した患者がよくするように、母もまた、色の変わった指先を隠す為に手袋をしている。
 無造作に膝に置かれている手を、包み隠す布地の上からクインは撫でた。この手の熱さが彼をひたすらに導き、守り、愛してくれていたのだ。離れていても、それは変わらない。
 自分は母を愛しているし、母も自分を愛している。
 ――でも。クインはそっと溜息になった。
 離れている時間は彼と母の間に遮蔽幕のように薄く、何かをかけてしまった。手袋のごく薄い遮断でも決して素肌に触れられないように、自分とこの優しい人の間に、何かが横たわっている。
 離れて過ごしているせいなのか、それとも母に話せないことばかりが増えていくからなのか、クインはそれを考える度に自分の胸の中を烈しい苛立ちや屈折した怒りが荒れ回ることを自覚している。
 自分は何かのせいにしたいのだ。クインは他人からは表情が見えないように俯き、ぎゅっと唇を噛んだ。
 憎いというなら全てが憎い。
 何故俺ばかりがこんな怒りを抱えなくてはいけない。生まれた瞬間の星の配置のせいか、それとも宮廷内の事情ってやつか、どれにしたって俺を放り出してもう片方だけを大事に暖めている理不尽のつけを、払わせてやりたい。
 理不尽、理不尽、理不尽。呟く口調に潜む切羽詰まった苛立ち。クインは表情に出ないようにゆっくりと奥歯を噛み合わせた。
 納得なんか、出来るものか。俺が母さんに話せない秘密で苦しい時に、あっちは大切に絹の衣装にくるまれて微笑んでいればいいなんて、どうして決まったんだろう……
 そしてクインはいや、と自分を宥める為に首を振った。
 皇子は彼に優しくあろうとした。何かの共感をその瞳に見ることが出来た。ほんの一瞬の交感でも分かることもある。
 皇子は自分の正体を知らない。けれど、自分と話をしたいに違いない。ほんの僅かに目を見交わした瞬間も、曇りのない明るい、嬉しそうな笑顔だった。
 ―――皇子になど、会いたくない。皇子の優しい笑みも素直な視線も、事情の内実を知らないなりに気遣うだろう態度も、全てが自分を鞭打つのが分かっている。それは自分の持ち物であったかも知れないのに、自分の可能性の影と現実を突きつけられれば痛い。
 痛いことは分かっているから自分がどうするかも知っている気がするのだ。
 会いたくない。自分を何の条件も見返りも期待せずに優しくしようとしてくれる人を、この手で、言葉で、蹂躙するようなことはしたくない。
 会いたくない。会えばきっと自分は彼を傷つける。そうしてしまいたくて仕方がないのだ。
 この煮えるような黒い気持ちを憎悪と呼ぶのかも知れない。自分の上を通り過ぎていく男たちの仕打ちなど、憎しむのにも値しない。あんなものはただの仕事だ。流れていく時間を、滑稽で奇妙な仕草を、目を閉じるなり天井を見上げるなりで潰していればその内に終わる。
 最初の頃に感じていた生理的な嫌悪感も、精神的な負荷感も、全ては消えた。その方が自分にとって楽であることを承知して享受しているはずなのに、何故それがこんなに気に食わないのだろう。そして思考は皇子の元へ戻る。自分と同じ血を持つ、彼の幸福について。
 死んでしまえばいい。ちらりと湧いたそんな言葉にクインは溜息をついた。皇子のことを思うたびに、憎悪だけが募った。間違っていることは知っていても。クインはじっと目に鮮やかに映える芝生を睨み、唇をひき結んだ。
 ―――もうすぐ、15になる。
 母はあの約束を覚えているだろうか。黒猫の小さな友人を置き捨てていった夜、全てを話してくれると言ったその言葉を。
(15になったらね。そうしたら教えてあげる……)
 その声の暗さを記憶から呼び戻し、クインはぞっと目を閉じた。何かに押し潰されそうな、母の声音の重さと暗さがひたすら耳元でうなっている。掠れた蜂の羽音のように、それは彼の心に煩わしく寄ってくるのだ。
(お前の母親は私よ。私一人よ。お前は私の子よ、私の子なのよ……―――)
 私の子。母親は私。愛してるわ。繰り返される呪文のような呟きに、自分はいつだって頷き、微笑み、母の温かな身体に抱きついて頬をすり寄せて受け入れてきた。それをしなくなったのは母が発症し、療養所へ入ってからだ。
 肌が直接触れなくなったからなのか、それとも自分が次第に沢山のことを知り得たせいなのか、同じ事を言われて以前と変わらず頷いていても、胸の奥では別のことを考えている―――何故。
 何故自分だけが王宮を出されて市井にいるのか、母が自分を連れているのか。答えは既に輪郭を掴めるような位置にある気がして、クインはそこから顔を背けることしかできない。
 それは自分を今まで愛してくれたこの女の、暗い部分を知ることと同じ意味だからだ。
 マリア・エディアルという名前は恐らく虚偽だ。どういう事情であれ、母が皇子を皇城から連れ出すことが出来たとするならば、自分とリュース皇子の出生時に皇城に出入りできる立場にいたということに他ならないが、現在行方不明となっている貴族の名前の一覧にはなかった。
 貴族の俸禄も収支も、租税や諸権利が密接に国庫と絡む為に戸籍に付随する形で公開されている。帝都の台帳管理事務所へ行けば、誰でも閲覧が出来るのだ。
 母の実家と正体さえ、分からない。闇に紛れた根の部分に向かって進むことは出来るはずなのに、怖い。だって……
 浮かんできたまがまがしい言葉の毒気を抜いて鎮める為だけにクインは深く呼吸をした。
 皇城から皇子を一人連れ出してその後連れて歩いているとなるなら、それは誘拐というものではないのだろうか? その証拠に一度は迎えが来たのではないか?
 そしてそれを母は振りきって逃げた。クインを少女に擬態させ、母娘の記載の戸籍まで探し、殆どの財産をなげうって安全を買った。
 中央中等学院に入学することをあれほど恐れていたのは、貴族の子弟の多さや何よりも皇族の教育機関としての役割を知っていたからで、いずれ自分がリュース皇子と再会することも理解していたのではないだろうか。リュース皇子と自分が真向かえば、そこから何かが零れてしまうと思ったから?
 いずれにしろ、どの仮定も母をおとしめることしか出来ない。彼女が今まで注いでくれた愛情を疑っている訳ではないが、基盤となる血縁関係を自分で否定してしまっている今、それは疑問と過去の真実への欲求に変化するしかないのだ。
 けれど怖い。母親の過ちを自分で暴きたいと願うことなど、どれだけ恐ろしいだろう。彼女の悲しむ顔など見たくない。恐怖で強ばる顔も、絶望に黒く塗りつぶされた顔も、何もかも見たくない。
 それを見なくてはならないとするなら、真実など要らない。母、マリア・エディアルと名乗る女の為に。
 クインが再び長い溜息になると、肩がふっと軽くなった。知らない内に身体が揺れていたのだろうか、母が長いまつげをゆっくりとあげていくのが見えた。その奥に濡れ輝く黒い瞳が夜空のように美しい。
 こんなに綺麗な人だったろうかとクインは不意に恐ろしくなる。病のせいで暫く沈んでいた肌の色はやや戻ってはいるが、血の気の薄い頬などは透けるような白さだ。けれどそれは母の美しさを少しも損ねない。却って空恐ろしくなるような肌の美しさにいつの間にかすり替わっている。
 一瞬のぼんやりを癒すように母は笑い、そして彼の背後へ向かって会釈した。
 クインが振り返ると、同じ療養所の患者であろう老婦人が杖を手にゆっくり歩いてくるのが見えた。患者と分かるのは母と同じように手袋をしているからだ。クインは立ち上がって椅子を譲ろうとするが、老婦人は穏やかな笑みのままに首を振った。
「一度座ってしまうとね、立つのが辛いのよ。こんなお婆さんになったら分かるわ」
 機嫌良く、小さく笑う声に悪意がないことを知り、クインはほっと微笑む。それでも座ってしまうには居心地が悪かったから、何となく、立ちつくした。
 母と老婦人は患者同士の気安さでひそひそと世間話をしている。他愛のない話に適当に付き合って微笑んでいると、老婦人は彼を見て目を細めた。
「でも本当にいいわねえ、こんなふうに娘さんがしょっちゅう会いに来てくれるんですもの、お幸せだわ」
 母は微かにくすぐったそうな表情をし、そしてゆったり頷いた。この子は、と彼の腕をそっと撫でる仕草に籠もる熱は以前と全く変わらない。手袋の薄い遮蔽が悲しいと思うのは自分の勝手なのだろう。
「この子は私しか家族がいなくって……父親はとうに亡くなりましたし、私の方は天涯孤独の身ですから……」
 老婦人が頷き、彼に向かって淋しいわねと微笑んだ。それに曖昧に笑って首を振り、母さんがいますからとクインは呟いた。社交辞令のようにでも口にすると、それが真実胸に沁みた。
 この母が居たからこれまでを過ごしてこられた。逃亡の理由も身分の詐称や秘匿の理由も、どうでもいい。母を守ることが自分に出来る限りそうし続けたいと願い、望み、帝都へ戻ったのだから。
 今更後悔などはしない。母を離れて見捨てることなど出来はしない。けれど、自分がこの世に生きていることの真実を知りたい。だがそれは、母を糾弾し追いつめることと同じ意味ではないのだろうか―――
 クインはふっと母達から視線を外すことで、それを忘れようとした。
 彼の翳った表情に気付いたのか、老婦人は散歩の途中だと笑って立ち去った。木漏れ日の強い日差しに彼女の背が遠くなるのを見つめていると、母が消え入りそうな声で低く呟いた。
「―――カース……」
 思わずクインは振り返った。その名前は彼の耳を通って心臓を凍りつかせる効果をもった、魔術であった。
 様々な疑心と惑乱が脳裏を通り過ぎていくのを呆然と見送って、何かを言おうと唇を動かしたが、そこからは言葉は遂に出てこない。強い嵐に全てをさらわれて惚けているようだ。すうっと脳天から血がひいていくような感覚がした。それでやっとクインは我に返る。何を言っていいのか未だに分からないまま、母さん、とだけ呻いた。
 母は視線をまっすぐに彼に与え、そして眩しそうに手をかざした。それが木漏れ日の強い光を遮ったのか、それとも母の胸内にある何かを直視しない為の仕草であるのか、クインは知りたいとも思わなかった。
「……覚えていたのね……もう子供の時のことだから、忘れてしまったのだと思っていたけど」
 母の声は何かを懐かしがる甘さを含んでいる。彼を攫いに来た男が彼の目の前に現れてから、10年がやっと経過しようとしていた。この秋でクインは15才になるのだ。
 微笑む母の面差しの影の薄さに、クインははっきりと戦慄を覚えた。何かを悟ったような表情は、人の命の薄さの証明のような強さをかいま見せられてどんな言葉よりも烈しく怖ろしい。自分を見て遠く懐かしいものを見るような顔になったことが、母の命数の少なさを叫んでいるようで、クインは怯えの為に視線を外した。
「私はお前に沢山の話を―――」
「母さん」
 クインは反射的に母の言葉を遮った。声音を使うことさえ忘れていたのに気付いたのは一瞬おいてからだ。
 彼は真実震えていた。一番冷たく寒いものは、いつも身の内側からやってくる。母の語る真実を聞きたいだろうか。自分は何を一体知りたいのだろう。
 中核は既に知っているとクインは考えていた。自分はまず間違いなくリュース皇子の双子の兄弟だと、考えるまでもない。あの皇子を見た瞬間にそれは知り得た気がする。生まれた年や時期もほぼ同じ、まるで鏡の中から抜けてきたようにうり二つの自分たち、そして何よりも、あの幼いばかりだった夜に彼を迎えに来た男が言った言葉。
(それが身分というものであるからです)
(母君が悲しまれます)
 彼は自分に膝をついた。母のことはマリアと呼べと言った。それが身分だからとも。あの言葉や仕草の一つ一つが自分の推測に強い信憑を持たせている。だから母の口から語られる真実が何であるのか、そちらの方が今となっては怖かった。
 自分は臆病なのだとクインは唇をゆっくり噛んだ。夏のむせるような熱気の中にあって、そこは酷く渇いていた。
「母さん、いいの。大丈夫。私は、今のままで、本当にいいの」
 どうにか作り出した少女の声音は、それまで自然に使いこなしていたものとさほど音調が変わらない。それに気付いてクインはようやく掴まることの出来る安堵を見つけた。
 呼吸を僅かに整えて、それまで凍えているように固まっていた頬を弛め微笑んだ。
「……母さんが私のことを愛子だと言ってくれるから、私はそれだけでいいから。ね、私、お父さんのことなんか興味がないの。今までだって助けてくれなかったもの。お父さんが生きているにしても死んでいても、今の私には関係ない」
 関係ない、と強く言いきると、母は眉を僅かに寄せた。悲しげというにはあまりに淡く、切ないと呼ぶにはひどく穏やかな顔であった。
「……そう、ね。そうかもしれない……でも、私は私の罪の話をお前には聞いて貰わなくてはいけないわ……」
「罪」
 クインは低く繰り返した。その禍言に一度は落ち着いた胸があやしく騒ぎ始める。心臓が次第に痛みを訴え始める。波打つように耳音で鼓動が響いた。
 母の罪、が一体何であるかはもう知っている気がした。その罪ゆえに追われ続け、流れ続けなくてはならなかった。追っ手の影を感じるたびに暗くひきつった頬の歪み、怯えたような瞳の色、切羽詰まった声音が彼を抱きしめてお前は私の子だと囁き続けた。
 そこまでして自分に刷り込みたかった幻影を未だに共有しているのだと母には永遠に信じていて欲しい。自分がどうやら真実に近いものを知りつつあることも、真相を知ろうと思えば手段がない訳ではないことも、教えたくない。
 何故そんなことをして、彼女を悲しませなくてはいけないのだろう。自分を守り、導いてくれた優しく白い手を、拒絶することなど出来ない。そんなことが出来るはずがない。
 母が何故自分を連れているのかは知らないが、注がれてきた愛はこの世で唯一信じるものを選べと言われれば指さすものだ。
 彼女の微笑みを信じている、愛している、他に何も信じられなくても愛せなくてもいい。それだけが重要で絶対で唯一なのだ―――
 躍起になってそれを自分に刷り込もうとしていることに、クインは薄々気付きながらも目を逸らした。罪と言われて騒ぎ始める血潮が喉を上がってきそうで苦しい。
 クインは微かに喘ぐように呼吸をし、母さん、と震える声で言った。
「母さんの言うことが何であっても、私は母さんの味方だから。罪なんて言わないで。そんなこと、聞きたくない。私は知りたくない。母さんの罪なんて、あるはずがない……」
「―――私は聖女ではないわ、カース……」
「私、そんな名前じゃない。そんな人知らない、お願い、母さん、俺は母さんとずっと一緒にいるだけで、いいんだ……」
 言葉の輪郭が不意に少年のものへ揺らいだのにクインは遅れて気付き、自分を落ち着かせる為に首を振った。その仕草に弾かれたように澄んだ、甲高い音がした。腰のベルトから通した銀の懐中時計が指定した時刻を告げている。
 クインは明らかに安堵し、時間だわ、と呟いた。空間移転は身体への負担が少なくはない。今夜の客のために、もう移転座標まで戻らなくてはいけないだろう。
「仕事、忙しいのね」
「ええ、そう……ね。でも慣れてきたから平気よ。母さんは心配しないで。また、ね」
 マリアはクインを見上げてゆったり頷いた。
 彼女に微笑み返してクインは血縁のない、自分を皇城から拉致したはずの女の頬に、そっと唇を押し当てようとした。母がごく自然に、しかしいつものように決然と身を引いた。母は、彼に死の病が伝染することを心からおそれている。
 クインは母に淡く笑いかけ、そしてごく簡単な肌の触れる喜びを放棄して、彼の住処へ赤い色をした迷路の中へ戻るために背を向けた。
 空間転移から抜けて現実へ出る瞬間は、いつも極彩色の悪夢を見る。胸が悪い。それまで水中にいたような身の重さがふっと消えて空間へまろび出るような感覚と、僅かな座標の誤差のために、クインは転移から降りるときは大抵転倒した。勿論そのために、転移から抜けてくる場所は彼の部屋の寝台の上になっている。いつものようにそこにどさりと勢いで転がり、クインは吐息を漏らした。
 魔導で空間を渡る時の酩酊感はいつまで経っても慣れそうにない。身に馴染んだ悪寒を喉で宥め、クインはのろのろと寝台に座り直した。襟元に柔らかく結んだスカーフを引き抜いて首を楽にすると、自然と溜息が零れた。
 母さん。呟きは既に少年としての落ち着きに戻っていたが、一度覚えた動揺はなかなか静まってくれそうになかった。母が言いかけた罪という言葉が、払っても払っても重く蘇ってくる。
 ―――罪の話を聞いて貰わなくてはいけないわ。私は聖女ではないのよ。
 クインは頬を歪める。彼にとって母親の聖性は絶対で、世界で最も美しいものであった。そこが汚されることへの怖れは根深く彼の中に居着いている。
 母が15になったらと期限を切った夜から、自分は一度も真実を尋ねなかった。髪の青が少しでも覗く日は、閉じこめてでも外へ出さなかったような頑とした人であった。はっきりと口に出したことを、撤回する人でもない。
 それに流転の最中の母の怯えように、不用意に聞いてはいけないことなのだとクインはいつしか悟っていった。母を悲しませ恐れさせるものこそが幼い流転の日々に知っている一番の敵であったのに、自分が同じ事をしようなどとどうして思えただろう。
 それでも10才の秋に彼の分裂した運命に出会った瞬間、逃亡の理由の方はするするとほどけていったのに、肝心の動機は却って絡まってしまった糸のようであった。
 尋ねなかったことが今更正解だったと安堵するのは自分が逃げているせいだろうか。母が言う罪とやらが真実許されざるものならば、そんなことは知りたくないのだと思っているのは否認という罪だろうか。そして何よりも、母の元から帰ってくる度に募る、渇仰のような思慕をどうしたら。
 母親の腕の温かみを知っていた時代から急に放り出されてしまったからなのか、クインはそれに巧く対応できない。ふと気づけば人肌の恋しさ故になのか、気に入った客には最初の頃より甘い態度をとっている。
 それを認めざるを得ない夜は、ひどく打ちのめされた、惨めな気持ちになった。クインは記憶から吹き上がってきた沢山の痛みをこらえるために唇を噛んだ。
 誰か。胸の奥からかすかに聞こえてくる声を、クインはいつも遠くに聞いている。ミシュアの海から駆け上がってくる潮騒と似た、心ざらめく悲鳴のようなその声を。
 誰か、誰か───お願いだから……───
 その後の言葉が何であるか、クインはいつも聞かない。そんなものに耳を貸してはいけないのだということだけがわかっていれば十分だった。
 母の不調は仕方がない。それを救うためにはこれしかなかったと納得はしている。けれど心の中にある痛みまではどんなに慰撫しても頑として折れなかった。そのために皇子を憎むのは間違っているなら、あとは自分を厭うしかなかった。
 クインは寝台に座り込んだまま、片手で顔を覆い、そしてもう片方の手を自分を抱くように回した。誰か。耳の奥から何かが囁いている。
 母の腕に巻き取られて幸福だと思っていた日々が遠い。あの頃のように誰かと何の見返りも打算もなく、ただ愛のためだけに手を取り合うことは自分にはもうやってこない気がしてたまらない。そんなことを考えただけで、震えがくる。母を失いたくない。彼女をどうしても自分の元から無くしたくない。
 マリア=エディアルと名乗っている彼女の正体も罪とやらの内容も、どうでもいい。彼女だけが自分を真実愛している、この世でたった一人なのだ。
 クインは顔を覆っていた手を外し、今度は両腕でしっかりと自分を抱いた。外は夏のぬるい黄昏で、寒さを覚えているわけではない。けれど、そうでもしていなければ自分がいつまでも震え続けなくてはいけないようで、居たたまれなかった。
 長い溜息が、床に落ちていく。
 客はその欲求に従ってクインの内面には無頓着、それがましな言い方であるならば無神経だった。そう振る舞う権利も他の娼婦たちなどと比較にならない金額に含まれているというなら間違いではあるまい。それにいちいちつきあう義理もないと反発を覚えたのも最初だけだ。
 物として扱われることにクインは慣れた。極上の人形のように仮想の天使や悪魔のように客たちは彼を愛でたが、それはすべて彼の表面を滑り落ちていくもので一晩たてば忘れるもの、朝の水浴と共に流れて消えていくものとなった。
 それでよかった。彼らの勝手な幻想や妄執に関わるよりも、自分は物であるのだと暗示して天井の模様を数えている方がよほどましだった。
 けれど、そうして頑として無機質を装った心をしどけなく解放する場所が、ついに見つからない。以前は母が彼の負荷を柔らかに吸い取ってくれていた。幼い頃に涙を唇でついばんでくれたような暖かさがいつでもクインの還る場所だった。
 それはもう身近にはいない。抱きしめようとすると離れてしまうようになった。その寂しさを、その度に胸を突かれるような痛みを、感じないようになるにはどうしたらいいのだろう……
 誰か。胸の奥から何かがこみ上げるように聞こえてくる。
 いつかおまえを愛してくれる人を、おまえが愛する人を見つけなさいと母は言った。それはおそらく正しいのだろう。自分には誰もいないのだと思うときはこんな時だ。
 それを当初クインはライアンに求めようとした。ずっと昔彼が彼でいられる場所を作ってくれた男、クインの望みを叶えてくれた男。
 ライアンにこだわるのは彼がクインの状況や事情を考慮することが出来る男であったこと、昔からクインを一段下として見ずにほぼ対等に相手をしてくれた男であったことが大きいだろう。
 特に4年前帝都にいた頃はクインはやや年上に見えたとはいえ10歳の子供で、ライアンは18か9だったはずだ。ライアンの正確な年齢は本人も知らない。
 この場合、8の年齢差は大きいはずであった。ライアンは既に少年期の終わりにおり、自分はそこへ踏み出す時期であったのだから。だがライアンは彼を子供扱いにはしなかった。クインが語る継承戦争を勝ち抜くための方策に価値があると認めてからは尚更クインの話をよく聞いてくれた。
(俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ)
 帝都から逃げ出す日にライアンはそう言った。それは彼の信頼と感謝の印だった。ライアンの多くはない言葉の中に籠もる真摯を嗅ぎとって信じたからこそ、クインはライアンを頼って帝都へ戻ったのだ。
 だが数度の関係を持った後はライアンはクインを以前ほどは寄せ付けなくなった。ライアンがタリア王の側近でありタリアの自警や派閥抗争に既に深く関与している以上、時間がとれないのはあるいは不可抗力であろう。
 が、ライアンから訪ねてくるときも淡々と最近の様子を訪ねるくらいで、クインの訴えようとする言葉にはほとんど頓着しない。適当にあしらわれ続け、クインはライアンのことを考えようとすると反射的に苦い怒りがこみ上げてくるのが最近になりつつある。
 チアロはライアンが十分に自分に目を向けていると言うが、どこが一体そうなのか自分にわからないなら全く無意味だ。
 ライアンか、と呟いてクインは自分を抱いたまま舌打ちした。彼が何を思っているのかわからないのは昔からだが、それがこんな根の深い苛立ちに変わることを、クインは自分で持て余している。
 苛立つ波は次第に強くなっている。心の中に荒れる海を見る日には、何をしていても神経が尖って落ち着かない。自分でも幼いと承知しつつ、だがどうしようもなく焦がれている。待っている───誰か、を。
 そしてそれはライアンではないのだろう。苛立ちを収め寂しさを埋めるためだけに彼に縋り付こうとしたとき、ライアンは彼に言った。
(俺はお前の保護者でも愛人でもない。俺を特別にしようとするな、お前はただ勘違いをしているだけだ)
 その時なんと答えたかは忘れてしまった。ライアンが自分を突き放したことだけが絶対の現実だった。
 現実はクインにはいつも辛く苦く、そして痛い。勘違いという言葉で示されたライアンのはっきりした拒絶を、クインは思い返す度に激しい怒りに襲われる。
 ライアンは俺に関わる気がないのだ。4年前と同じく、仲間とは決して認めず頑として一枚壁を隔てた距離をとる。時間さえも惜しいのか、滅多に姿も見せない。それが自分の抱える秘密のためであるのか、それとも自分の中にある何かの要因のせいなのか、クインはわからない。どちらであっても現実が動く訳ではなさそうだった。
 4年前に彼の側にいた頃は、ライアンは素っ気はなかったがクインのことをよく気にかけ、救ってくれた。それは自分が子供だったからか、それとも継承戦争を勝利するために彼にいくつかの助言を与えたからなのか。
 けれど、役に立ったからというのならばその理由は今クインの身体を通り過ぎていく男たちと同じ、彼をただの小綺麗な小物のように扱うことと変わらない。ライアンからはその無機質さは感じたことはなかった。彼は良くも悪くも、自分の思惑に忠実にクインを遠ざけている。
 そこへ思い至りライアンの冷淡さについて考えるとき、クインは怒りと苛立ちを濃厚に眷属として持つ寂しさを感じずにはいられない。チアロはクインにとって大切な友人であり気安く心を許せる希有な相手だったが、ライアンは友人ではない。かといって確かにライアンが言うように愛人でも保護者でもなく、まして主人でもなかった。
 彼は一体自分の中の何であろう。こうして彼のことをつらつらに考えていると、彼にまるで恋するようだとクインはふと思い、苦く唇だけで笑った。それは恋ではなかった。愛というものも違う。
 けれど、彼の視線が向かないと知れば身を切られるほどに欲し、得られないと知れば焦がれるほどに切なく、悲しい。それをどうにかして彼に理解させたいはずなのに、気づけば彼に嫌味をいい、八つ当たりをし、不機嫌に鼻を鳴らすことしか出来ていないのだった。
 ───でも、ライアン。
 クインは長い溜息をつき、身体をゆっくり寝台に横たえて目を閉じた。転移の時の眩暈も悪寒もまだ身体の底辺に残っているようで、ひどく応えた。
 でも、俺は、淋しいんだ。
 生活の不満や仕事の鬱憤などではなく、友人の不在などでもなく、ただ、───淋しい。
 母の腕の中にいてぬくやかに守られていた時代から突然身ぐるみを剥がされて世間に転がされたせいなのか、暖かであったという記憶のままに、還りたい場所を探している。
 自分が求め求められる場所へ。誰かと見つめ合いながら微笑みあいながら、幸福をしっかりと感じ取れる心の棲家へ。還るための道を、共に歩く相手を、探している。
  ─── 一人では、あまりに淋しくて。
 淋しい、と呟けばそれが真実のような気もした。それを和らげる役割を彼に求めるのは間違っているのだろうか。ライアンは暗にそう示しているが、クインはライアンの意志には気付かないふりをし続けている……
 閉じた瞼の裏が滲むようにじんと熱い。クインは枕にあ顔を押しつけ、声を殺してわずかに泣いた。食いしばった歯の隙間から漏れる吐息が、震えている。
 淋しい、淋しい、母さん、俺から離れていかないで。
 俺を一人にしないで、置いていかないで。
 脳裏を巡り回る言葉だけが、世界のすべてのようにのしかかってくる。誰もいない部屋で一人で泣くときでさえ、大声にならない逼迫が、今のクインの全てだった。
 ……そうして寝台にうつぶせてしばらく体を震わせていた彼の耳に、扉が軋む音がした。誰かが入ってきたらしかった。
 クインは素早く身を起こし、目元をこすった。涙はほとんど止まっていたが、痕跡を他人に見せるのは何があっても承諾できなかった。
 この家に出入りしているのはライアンとチアロの二人だけではない。チアロ一人では結局手が回らないこともあると結論したライアンが彼の側近から一人、オルヴィという女を時折寄越す。ライアンは夕方近いこの時間は大抵タリア王屋敷だから、チアロかその女かのどちらかであろう。
 オルヴィはライアンの性質に近い、暗く陰気な女だ。だからという訳ではないが、クインは彼女を苦手としている。ライアンに輪をかけて口数が少ないのもそうだろう。彼女に泣き顔を見せるものかという奇妙な意地でクインは尚更平静を装うように呼吸を整えた。
 簡単に扉をたたく音がして、寝室の扉が開く。よう、という軽い挨拶が耳にした瞬間にチアロであることを悟り、クインはやや息を戻した。
「転移してきたばっかりだろ、顔色悪いぜ」
 そんなことを言いながら気安い表情で近寄ってきたチアロは、だが彼の手前で足を止めた。いつも明るく翳り無い表情に、一瞬さっと怪訝な線がよぎる。クインははっとして顔に手をやろうとするが、その華奢な手首をチアロが素早くつかんだ。
「……泣いてたのか? どうした、お前の母さんに何かあったのか」
 彼の声音はなだらかに暖かい。その温もりに溶かされたように、一度止まったはずの涙がふとこぼれた。
 瞬きに頬を転がり落ちていく水滴の数をぼんやり数えていると、チアロが彼の隣にすとんと座り、肩に腕を回して彼を引き寄せた。
 チアロの大きくて骨ばった手が子供をなだめるように頭を撫でている。彼の仕草にクインは消え入りそうな嗚咽をこぼして友人の肩に顔を押しつけた。チアロは彼に先に聞いた以上のことは何も聞こうとしなかった。クインの気が済むまでこうして彼を捕まえているつもりなのだ。チアロが自分を追いつめないことは、クインにとっては安息であった。
 チアロはよく知っているのだ。クインの気分の上下が激しいときはクインにとってひどく心痛い何かがあったときで、この頃は療養所から帰ってくる度にこんな風に滅入って気怠く鬱に沈むことも。何も追求せず何も要求しない彼の優しさが真実胸に染みた。
 ───淋しい。
 それでも身の内で吠え回っている声はどれほど貪欲なのだろう。わずかな仕草や時間で癒されることに激しい抵抗を叫んでいる。淋しい淋しいと訴える声に半ば押し切られるように、クインは顔を上げてチアロの首に腕を絡めた。
 ───淋しい。
 自分の中で何かが決壊したように、それだけが流れてくる。声が背を押すような感覚にとらわれて、クインはそっと唇を彼に近寄せていった。
 吐息が交わされるほど近くになる。チアロの肌の温度までが唇で感じるような錯覚を覚えた瞬間、それがすっと離れた。クインは視線を友人に与えた。何故か彼の方が泣き出しそうな顔をしていた。
「……クイン」
 チアロは彼の名を呼び、肩をつかんでゆっくり揺すった。
「俺とお前は友達だ。俺は、友達と、こんなことはしない……分かるか?」
 クインはゆっくり頷いた。チアロの声はひたすらに静かで、穏やかだった。クインはもう一度頷き、分かる、と呟いた。
「ごめん、もうしない……」
 付け加えるとチアロは眉根をよせるようにして切なく笑い、彼の肩を軽くたたいた。
「俺とお前は友達だ、いいな。何があっても俺はお前を見捨てない、約束する」
 クインは頷いた。チアロの言葉も眼差しも、疑うことなど出来なかった。それを切り捨ててしまえば、今持っている数少ないものをさらに失うことになる。
 その恐怖を一瞬ぞっと背中に覚え、クインは俯いた。衝動が過ぎ去った後は、増して荒涼とした気分になる。
 黙ってじっとあらぬ方向の床を見つめていると、チアロの苦笑のような吐息が聞こえた。
「……なあ、気休めみたいなことでしかないけど、お前、女の客でも取ってみるか?」
 クインは怪訝な面もちで友人を見つめた。今まで寝てきた客は夫婦が二組あっただけであとは全て男であったのだ。女の客、という耳慣れない事象にぽかんとしていると、チアロは数は多くないんだけどね、と付け加えた。
「でもいないことはないんだよ、春先から5人くらいは聞かれてる。ほら、夫婦にお前を入れたことがあったろう。あのときの奥さんあたりから漏れたんだろうな。……気分くらいなら変わるかもしれないぜ、男相手と違って女だったら主導権も取れるだろうから」
「うん……そう、だな。そうする。そうだ、それもいいかもしれない……」
 男たちが自分に加える身勝手で気ままな愛情に似たものを、別の形で他に吐き出す行為であることを薄く承知しながらも、クインはその話に深く頷いた。あるいは、飛びついたと言ってもよい。
 母が抱えている暗部を思えば恐ろしく、自分の中にとぐろを巻く怒りは悲しい。
 この二つに翻弄されるだけでこの先の時間を埋められていくのかと思うと、胸が潰されそうになる。頼む、とクインは低く呟いた。どんなものにでも、縋り付けば楽になると思っている自分自身を厭いながら。
 ───やがて日は落ちて、クインは身支度を整えて地下水路からタリアへでた。
 涙の痕跡も荒れた心の海も全てが彼の堅い殻の中へ仕舞われて、この世で一番美しく圧倒的で、そして生身でないものになる時間がくる。
 いつもの貸し部屋の主人は彼を見て曖昧に笑いかけ、そして一抱えもある深紅の薔薇の花束を押しつけた。一体何かと目で問うと、あんたの前の客が届けてくれってさ、と主人は言い、今日の客への牽制だろうと苦笑する。
 独占欲の証左である薔薇の花を抱えてクインは最上階の部屋へと階段をのぼる。鼻腔からむせるような甘くきつい香りが身体に吸い込まれていくようだ。
 部屋が決まっているのは事前にチアロかオルヴィかが隠した写真機などがないかどうかを確かめやすいからだが、おかげでとうに天井の模様は数え終わってしまっている。次からは何をしようかと考えながら、クインはいつものように部屋の扉を3度叩いた。少しの間をおいて扉が開く。中に足早に入り込む彼の肩をつかみ、男は花屋は呼んでいないと言った。
 クインは振り返り、抱えた花束をずらしてちらりと男を見やった。この男は今日初めて見る顔だ。それがみるみる上気していくのに微かに笑い、そして今度はまっすぐに男へ視線をやって婉然というように唇をゆるめた。
「でも……今夜の花は買ったでしょう?」
 そんなことを戯れに口にしたとき、男の強い力が自分を抱きすくめた。腕から花束が転がり落ちる。ふわりと舞い立った強い香りに喘いだクインの視界の端に、男が踏みにじった薔薇の花弁がとまった。
 今夜はあれを数えようかとクインは思いつき、先を急ぐ男の身体に腕を回した。



抱いていてよ
お前の持てる両腕の その長さが余らぬように


 夜を往く人々の間をか細く縫って、小さな酒場から歌が聞こえてくる。流れ豊かな雑踏の中、小魚が泳ぎ渡るようにその歌は誰かの耳をかすめゆく。それはもう若くはない女の声。けれど人生の不確かさと悲しみを知っている声音。どこか突き放した他人さが気楽で、だが誰もが覚えのあるような温もりが懐かしい。
 女の歌にふと足を止めた通りすがりの男は一瞬迷い、おぼろな光がこぼれてくる酒場へと足を踏み入れた。主人らしい初老の男が目で好きなところに座るように促して、席に着くとほぼ同時に女が次の一節を歌うために深く息を吸い込んだ。
 女は歌う。あいのうたを。




愛からはぐれた海鳥たちの 叫びは風に紛れゆく
 流浪い彷徨い鳴き立てて 戻らぬ人を呼び続け
 お前の耳にも流れてくる? 慟哭のような、海鳥の歌

 帰してよ
 お前の姿が世界から 消えてしまったあの日まで
 むせかえるような血臭の中にライアンは立っている。彼の足下に転がる、ほんのさっきまで人間だったものは既に動かない。僅かにあがった呼吸は疲労のためではなく、ねっとり汗ばむような歓喜のためだ。息を深く整えながら、その度にむら立ち上る血液の残り香の中、ライアンは今、うっすらと笑っていた。
 呼吸ごとに鼻腔から全身に回る血の生臭さが自分を今、満たしている。握りしめた細刃刀が痙攣している。たった今殺したこの相手の最期の悲鳴や彼をにらんだ目つきや、そんな記憶を目の裏に呼び戻そうとライアンは目を閉じ、僅かに身を震わせた。
 それは彼にとって快楽であった。他人の前に命を奪うために立つ、その瞬間の憎悪さえ悦楽だ。背中を駆けていく一瞬の戦慄も、時折は身体に加えられる痛みでさえも、ぎりぎりの相克のなかにあればライアンのための麻薬と変わった。
 陶然とした甘美を咀嚼するためにライアンは手袋をしたまま両手をじっと見やった。黒い皮の手袋にヒルのようにこびりついているのは相手の皮膚だ。最近は相手を苦しめるために一息には殺さず、苦しむ方法をまさぐりながらゆっくりと奪い尽くすことが多い。
 僅かに手袋についていたそれをライアンは指先でこそげとり、その場に捨てた。この相手には恨みどころか面識もなかったから、既に彼はこの快楽から醒めかけている。何の感情も持たなかった相手ではやはり現実へ戻ってくるのが早い。
 ライアンは手袋の先からのぞいている指先をちろりと舐めた。細刃刀は菱形のむきだしの両刃だから、使うときは指先のあいた手袋をする。
 血の匂いは陶酔の極みにあるときの甘さを既に失いつつあった。ライアンは舌打ちした。
 死を与える瞬間に自分を高い位置まで引き上げてくれる歓喜は、やはり何かの思い入れがある相手の方が強い。嫌悪程度でも数日は記憶からゆっくり引き出して楽しむことが出来るのに、真実憎んでいたり愛していたりすれば、自分はきっと気が狂うに違いない───脳髄ごと犯される、快楽や背中合わせの悲痛のために。
 ライアンはふっと吐息を漏らした。今でさえ、クインであれば彼を見て狂っているというだろうか。あれの中の天秤はまだ水平だ。水平を知って常にそこへ戻ろうとしているから均衡をとろうとして振り幅が大きい。
 ライアンは長々と嘆息した。僅かな時間彼を支配していた熱狂的な高ぶりは既に散り散りになり、残滓はかえって気分を悪くする。眉をひそめて細刃刀の刃尻から鋼糸を抜こうとした。
 鋼糸を残すのはライアンが自分の仕業だと宣言するための方法だ。誰の仕事であるのかを知らせる場合にはみな、自分なりの方法を持っている。
 だが興奮はまだ身体の方には残っているらしく、指先が僅かに痙攣していてなかなか糸をはずせない。苛立ちが次第に募ってくる頃、他人の気配が背後からした。
 ライアンは振り返らなかった。その気配の主が誰であるか最初の足音を聞いたときから分かっていて、それは自分の服従者だったからだ。
「どうした、チアロ」
 巧く動かない指先にじれながらライアンは言った。チアロが微かに溜息になったのが聞こえた。肩越しに視線を一度やると、チアロは顔をしかめて彼の足元を見ていた。
「見る度にひどくなる───ライアン、大丈夫なのかよ」
「何が」
「何がって……あんただよ。頭、大丈夫」
 さあな、とライアンは素っ気なく応じた。チアロの嫌悪も次第にひどくなる。無論それは自分が誰かを屠る仕業が次第にむごくなっていることに対応しているのだった。
 興味のなさそうな彼の返答にチアロはくしゃりと顔を歪めて、面白くないと表現した。ライアンに向かってこれほど明け透けにするのは今はチアロくらいのものだ。ライアンはそれにとうに気付いていて、だからチアロの不満も反抗も、不愉快ではなかった。それに配慮する気がないだけなのだ。
 チアロは大人びた仕草で肩をすくめ、ライアンに歩み寄った。誰かを手にかけてまだ完全に甘美な夢から戻っていない彼に向かって警戒心なく近寄ってくるのもまた、チアロだけだ。並ぶと背丈はほぼ同じだ。僅かにライアンが彼を見下ろす格好になる。それを意に介さないという風で、チアロはライアンの手にある細刃刀をつまみ上げた。今までほどけなかった綱糸を簡単にほどき、チアロが彼の手からそれを振り落とす。血溜まりの中にきらりと光りながら、綱糸が浮き上がった。 
 ライアンはそれを一瞬みやり、そして肉塊をつま先でよりわけて左手であった部分を拾った。死してなおまだ握りしめている拳をむりやり開く。中に籠められていたのは1本の鍵だった。
 これだな、とライアンは呟いて新しい綱糸を鍵に通し、腰のベルトにくくりつけた。視線でそれが何かを問うているチアロには首を振った。
「お前はまだこちらのことに首を入れなくていい。チェインの方を固めておくんだな」
 チアロは唇を尖らせて分かってるよ、と言った。そうした表情はチアロがライアンの元に来た頃から変わらない。やんちゃ盛りの子供と同じ顔を今でも彼の弟分はする。
 そしてライアンはそれを甘いと苦笑しても、決して侮蔑や嫌悪にはならない自らの胸の作用を知っていた。
 チアロと話していると、いつも心のどこかが淡く弛む。それを自覚できる程度に血の色をした白昼夢から醒めてくると、やっとこの場に立ちこめる生臭さがむっと気分を悪くしたのが分かった。
「話があるなら歩きながら聞こう」
 ライアンは既に身長では彼に追い付きつつある部下の頭をぽんと軽く叩き、歩き始めた。
 僅かに遅れたチアロが彼に並ぶ。路地を一つ通り過ぎるまで性質に反してほとんど無言だったチアロは角を曲がるときに背後へ一瞬視線を与え、大きく呼吸をした。
「ああ、気分悪い。ライアンよくあんな中に立ってられるよね? おまけに見るたびになんか気味悪く一人でにやにや笑ってるしさ。ほんと、あれだけは頂けないよ」
 血の臭いが薄れたことで、やっと本来の気ままさのままにチアロがしゃべり出す。それを適当に耳に流れ込む側から捨てていると、ほら、と明るい声を立てて少年が笑い出した。
「ライアンは興味がないことは片っ端から聞き流すんだ。せめて聞いてますって顔でもして適当に真剣に頷いてればいいのにさ。興味がないので聞いてません、って思い切り顔に書いてある」
 チアロの言葉にライアンは唇を少しゆるめ、首を振った。チアロのように何事にもせわしなく反応するだけの、何かがこの世にあるとは感じられなかった。自分を取り巻く世界に色素は薄く、ほどんど無彩色の平板な視界だけが全てだ。
 そこに何らかの色が入るとしたら赤だ。それは血の色だ。命飛び交う血しぶきの中でだけ、自分が現実を生きているのだという強烈な実感を得ることが出来る。それに比べたら他のものはなんと薄く白けているのだろう。
 何もかも、黒白の点描のようにしか見えない。過去を追想しても、やはりそれは同じだ。そしてそこに入り込む色もまた同じく赤い。彼の永遠の主人であり、これからもあり続けるであろうリァン・ロゥの髪の色。
 ふと溜息になったライアンの腕を軽くつねり、チアロは声を上げて笑った。この少年がそんな仕草をするときは、自分の正気を咄嗟に引き戻そうとしているのだ。ライアンは大丈夫だと口にして、チアロの肩を軽く叩いた。
「……ライアン、ねえ、本当にさ。俺のことやチェインの他の連中のことはいいけど、クインの話だけはちゃんと聞いてやってよ。俺たちはあんたが王様だから、王様のなさることには関与せず、だけど。でもクインはあんたの臣下じゃないんだろ? あんたがそう扱うから、あいつもそう思ってる」
 ライアンは頷く代わりに長く嘆息した。クインの語った本来の出自とやらがどこまで真実であるか、今はまだ定かではない。だがリュース皇子との相似は尋常ではないことであるという認識はあった。クインが双子なのだというなら、それは信じてもいいだろう。
 兄弟順などは些細なことだ。要は大貴族と国家の中枢へつながる糸へ彼が変化する可能性があるということで、それが重要であった。だからこそクインのしたいことはさせてきたし、ある程度自分の感情などを押し込んでつき合ったこともある。正直、ライアンは性的な対象としての男には興味を感じない。女であっても少女と呼ぶような年齢にはあまり衝動が起こらなかった。少年となると尚更だ。
 クインのあの我が儘と呼んで一蹴すべきだった願いを聞き入れ、数度の関係を持ったことで、ライアンの中でクインとの契約は終了した。半ばは義務感でもあったのだが、けれど、クインの方はまだ終わっていないと考えているらしい。
 客にひどくむごたらしく扱われて寝付いた時でさえ、流石に様子を見に顔を出したライアンに向かって手を差し伸べたではないか。
(ライアン、来てくれたんだ? なんか、久しぶりに見るね……)
 他愛のない言葉とは裏腹に、彼を見る視線の縋り付くような光は強かった。それにどうしたのか竦んだように怯んでしまい、彼に近づくことさえ躊躇われた。
 クインが時折発する、飢えて泣く猫のような声音に絡め取られてしまってはいけない。あれに耳を貸してはいけない。誰かに深く荷担し手を伸べるということはライアンにとって、彼の全てをそれに賭けるということと同じだった。
 クインを自分の特別の位置に置くことは断じて、してはならない。クインは彼の契約の相手であって、過去の感謝の印を渡しているのであり、それ以外でも以上でもないのだ───ということを自分に言い聞かせ続けている。
「……あれはまだ何か言っているのか」
 クインのことを考えると否応なしに気が滅入る。元来感情の隆没が少な目のライアンにとって、それだけでも特別ではあるのだ。
 その問いにチアロはふふんと鼻を鳴らし、自分で聞けばいいじゃない、と言った。これはチアロなりの当てこすりというものであった。ライアンは吐息をぬるめて笑い、首を振った。
「奴のことは放っておけ。いつまでも誰かに甘えていればすむ年じゃないだろう」
「誰もいないのもどうかと思うけど? だからライアン、あいつと話し合ったんだけどさ、今度から女の客もつけてみようと思って」
「……女か……」
 ライアンは曖昧な返答をした。女客を取らせて彼の感情の均衡をとるというチアロの提案は実はかなり前に聞いた。そのときは甘えさせるなと簡単に退けたものの、同じことをチアロが蒸し返したならば、クインは相当煮詰まっているのだろう。だが、気が向かないのは確かだった。
「……俺はそれには賛成しないと言ったはずだなチアロ?」
「でもライアンはその代価を支払わないじゃないか」
 クインの放置をきっぱりと非難し、チアロはライアンにきつい目線をくれた。一瞬それに目を合わせ、ライアンはやがて溜息と共に頷いた。
「……分かった、好きにしろ。但し、一人の女に深入りさせるな」
 クインが快楽の供給者として自分を買う女に興味を抱くとは思えなかったが、男と女の間には突然何が起こっても不思議ではない。クインが突然それまでの主張や過去を放り出して女との生活を選ぶなどということはさせてはならなかった。
 クインの顔を実際に見たことがある者は限られてくるが、チェインの幹部たちには存在自体は教えざるを得なかった。彼がライアンと密接な関係にあること、チアロが彼のために時間を大量につぎ込んでいることを幹部達に提示したことで、ライアンはクインへの手出し無用を宣言している。そんなことでもしてやらなければ、クインはチェインの中を歩くだけで身の危険を考えなくてはならないだろうから。
 だがそれはクインがライアンの持ち物だというのと同じ意味であった。少なくともチェインの中ではそうだ。チェイン王ライアンの所有物だから保証される。
 だからクインがライアンの庇護を蹴って遁走するなどということは、ライアンの体面に深い傷を付けることと同じだ。タリアもチェインも、最後は力だけが支配を正当化する。そんな場所において、現実はただ一つであった。
 ───舐められたら終わり。
 チェインの子供達の上に立つ身として、タリア王の幹部の中に座る身として、そんなことは断じて許すべきではなかった。実際問題としてその不安は薄いが、可能性はないわけではない。勝手はさせるなよと付け加えると、チアロは頷いた。この少年もまた、彼の系譜に連なり彼の思考を理解し手を貸す者であるのだ。
 同じ客は二度と取らせないこと、保険のためにこちらは写真を密かに撮っておくことをチアロは口に出し、ライアンに視線で許可を問うた。
 ライアンは頷いた。クインに関わるのはこれ以上は余分だという自身の中の警鐘を鑑みるに、それは渋々でも同意すべきだった。これを拒否すればチアロはクインへの時間をもっと割くようにと言うだろう。
 次の路地をすぎようとしたとき、チアロが足を止めた。ここで、という少年にライアンは苦笑気味に頷く。チアロはタリア王屋敷とそこにたむろしている大人連中が苦手なのだ。ライアンに連絡をつける以外では滅多に近寄ろうとさえしない。
 明日、とライアンは言った。翌日はチェインの幹部達から地場の様子を聞くためにライアンがチェインの煉瓦屋敷に必ず戻る日だ。チアロの煙草を買っておくよという声に頷き、軽く手をうち振って王屋敷へ歩き出す。
「ライアン」
 その背にチアロの声がかかって、ライアンは振り返った。彼の部下の表情は光源の向きのせいで淡い陰になり、よく見えない。けれど、いつものように朗らかに明るく笑っていないことは、空気だけで分かった。
「───リァンはもう還ってこないよ」
 その瞬間に、自分の肌が凍るように震えたのが分かった。
 その名は今でもライアンの支配を握っている。死してなお、ライアンの胸に呪縛を加える男。ライアンを拾い、彼にふんだんに笑顔と視線を与え、利害づくでライアンの心を自分に縛った男。
 その狡さを計算を、ライアンは既に知っている。だが、それでもどうしようもない。リァンは彼にとって父性の代弁者であり、神でもあった。その死から、4年を経過した今でも。
 ライアンは何かを言おうとし、そして沈黙した。リァンの死は既に乗り越えた。4年前の継承戦争時に、そうすることで彼はチェインの王となった。
 けれど、その後に心に残った甘い追憶と思慕だけは、捨て去ることが出来ない。彼の残像を追い、面影を踏み、その奇跡のような生が辿るはずだった道のりを自分の手で作り上げることに躍起になっている。
 チアロの言葉はあるいは非難の続きであった。けれど、それになんと返していいのかさえ、見当がつかない。クインが彼をなじるときの引き合いにリァンを出すのは許せなかったが、チアロの言葉にはそんな揶揄がないだけに困惑する。
 ライアンが黙っていると、チアロは吐息で笑ったようだった。
「リァンは戻ってこない。俺はでも、リァンよりはライアンが好きだよ」
「……チアロ」
「いいよ、無理しなくたってさ。でも、クインよりも俺はライアンを見てる方がきついときがあるってことを、覚えといてよ───また、明日ね」
 それ以上をライアンに言わせず、チアロは素早く身を返して立ち去った。ライアンはチアロの消えた路地をしばらくじっと見つめて立ちつくした。
 分かっている、と呟く。
 分かっている。リァンの死も、彼が俺にかけた打算の魔術も、それに気付きながら自分がまだ囚われていることも、リァンの出来なかったことを実現するために生きていることでさえ、自覚している。けれど、彼の代わりなど見つからない。そうしなくてはいけないのだということは理解しているが、理性の部分よりも深く暗い淵の中に感情は沈み込んでいて、乖離したままであった。
 ライアンはゆっくりかぶりを振った。過去の日々が眩しかったというなら間違いではなく、今でも自分を一度は通り過ぎていった真夏のような日々を恋うているなら正しい。それが二度と自分には戻ってこないであろうことも分かっている。誰かに指摘される以前に、死者は蘇りはしないのだから。
 だから、それから先はライアンの勝手な夢想と追憶の仕業だった。けれどリァンがいなくなって自分のために生きていく人生を結局タリアの中に求めたときに気付いたこともある。
 リァンの面影と追想はいつでもライアンの胸の内にあって、誰にも邪魔をされず勝手に連れ去られないものなのだ。自分律というものの中にリァンの行動規範が深く刻まれている以上それを切り離すのは至難であるし意味がないが、そんなことをしなくてもいいのだ。
 リァンはその死によって、ライアンの中に永遠に根を下ろした。その木が枯れないように、彼自身が注意深く見守っていればいいのだ。そしてそれは永久にライアンだけのものだ。今度こそ、誰にも邪魔はさせない。
 クインはそれを敏に感じ取って、それがいかに無意味な仕業であるかを彼に教えようとしているのだろう。
 けれど、そんな言葉など、聞きたくない。自分の中にあるものを他人が触ろうとしているのだと思うだけで反射的に怒りさえ覚えた。
 ライアンは僅かに舌打ちをし、歩き出した。タリア王屋敷へたどり着く前に、この自分の中の不愉快をせめて表情からはうち消しておかなくてはいけない。
 タリア王アルードとその周辺に巣食う側近達が今のライアンの相対しない、だからこそ恐ろしい敵なのだった。

 タリア王屋敷にはいつものように王側近の数名がてんでに好きな部屋にたむろしている。彼らにはそれぞれ手持ちの領域があって、それをお互いに侵し合わないことで表面上の結託をしているが、末端では時折境界区域の支配や利権を巡っての抗争がある。それはライアンの総括するチェインでも全く同じで、この町の少年達は大人達の鏡でもあった。
 2階の奥にあるいつもの居間へ入ると、魔導士を相手にアルード王はなにやら話をしているようであった。あの魔導士は国からアルードが借り受けているもので、タリアの抗争自体には関わらせないものの、情報収集などには重宝するようだ。
 クインが魔導を使うのを見ているから初めて人外の力を見たときよりは衝撃は薄まっているが、今でもそれは十分に気味が悪く、そして得体の知れない脅威だった。
 アルードはライアンにすぐ気付き、こちらへくるように手振りで指示をした。そっと近寄っていくと、魔導士が振り向きもせず、ライアンに位置を譲る。彼らは銀の仮面を付けているから実際の目で物を見ない。にもかかわらず盲目であるようなぎこちなさは動作にはなかったから、この場合もなにがしかの力でもって位置関係を把握しているのだろう。
「戻ったな、ライアン。首尾は良かったと見える」
 ライアンは首肯し、最前奪い取った鍵をアルードに手渡した。それを一瞥してアルードは微かに笑って側に控えている魔導士の肩を叩いた。退出を命じる仕草である。
 魔導士は無言のまま立ち上がった。仮面のせいで顔も何も分からないが、時折聞くその声で、どうやらこれが少年であることは分かる。背丈はクインとさほど変わらないが、カノンという魔導士名を持つ彼に関して、知りうるのはそれくらいだ。
 魔導士がアルードへ会釈して立ち去ってのち、アルードは手振りで自分の前の椅子を示した。座れということであった。アルードの前で腰を下ろすことが出来るのは、幹部だけだ。チェインにおいてもそれはほとんど変わらない習慣である。
「……これで全員のはずです」
 ライアンは低く言った。アルードは曖昧に頷いて、彼の手に渡った鍵をちらちらと硝子越しの日射しにきらめかせている。
 その鍵が境界地区の利権の源へたどり着くための最初だと、ライアンは知っている。新興派閥が今までの境界主の権利を侵害して勢力を伸ばしつつあるあたりであった。アルードの判断はその新興の派閥への援助だった。おそらくそちらのほうが彼にとって実入りがあったのだろう。
 旧閥の連中が仕切っていた町の権利証明に債権の証書、それに薬や武器の裏の流れを管理していた帳簿がある。部屋の鍵はすぐに開くが、複雑な仕掛けと魔導斑紋の入った錠前は専用の鍵でないと無理なのだ。
 ここ半月ほどは旧閥の連中のうち、抵抗を選択した者を一人づつ食い荒らしていくことにライアンは使っている。チェインの王として少年達の上に君臨している身であることで、ライアンはタリアの複雑に張り巡らされた境界権利に絡んでいない。彼だけがどの派閥とも利害関係を持たない、無派閥であった。
 そのせいで、こうした境界権利の絡む抗争の始末にライアンはよく顔を出した。逆にほぼ関係しないのが魔導の力をほどこした禁制品に関わる全てであるが、これは得手の者がいるのだから、均衡は取れているというべきであろう。
 アルードはご苦労だったなと薄く笑い、既に用意してあったのだろう懐から小さな袋を取り出した。中は小指の爪ほどの碧玉と紅玉の裸石だった。これが今回のこの件全てを決算する報酬であった。
 ライアンはそれを手の中に入れて、アルードに軽く会釈した。次の話を切り出さないから、どうやらこの場を出ていいらしい。そう結論して立ち去ろうとしたライアンを、アルードは待てと呼び止めた。
「……そろそろお前にも、こちらの中に本格的に入ってもらわなくてはならない。分かっているだろう───お前の身内をこちらへ寄越せ、あの……何とかいったか、お前の可愛がっている小僧でも構わんさ」
 チアロのことだろう。ライアンは苦く笑い、あれはここのしきたりを守れるほど大人ではありませんから、と言った。アルードもまた似たような笑みになった。数度ではあるが、チアロをつれてきたこともある。その性質が大人達の内に潜む駆け引きに向く者では到底ないことを、彼も知っているのだ。
 もしくは、とアルードは続ける。
「7地区の妓楼に馴染みの女でもいるのなら……」
「いえ───あそこの女将と多少、縁がありまして」
 その縁とやらの内容を目線で問われ、ライアンはアルードに向き直った。
「俺の母親の妓姐なのです。ずっと昔、母に連れられて数度、会ったことが。あちらもそれを覚えているので多少気安くて……それに俺は同じ女とは続けない、知っているでしょう」
 それは確かにライアンの習性だった。妓楼はタリアの派閥に関与しないために自らの組合において自治を行っているが、それはすなわち特定の者の意志の働く妓楼はないと言うことと同じだった。無論、タリアの奥に進めばそんな規範さえ関係のないもぐりの女部屋はあるが、誰が関与しているか分からないような場所でライアンは女を求めない。
 それに表妓楼の彼女たちは客の秘密を守るという一点において徹底した教育を受けているので、比較的ぬるくしだらかに神経を休ませてやることが出来る。だがそれも馴染んでくれば分からない。だからライアンは、どこかの妓楼に通い詰めて一人の女に入れ込むということはしない。
 ───それはあの女だけなのだ。一瞬でも、彼に血のつながりのある家族という夢を見せてくれた少女。クインとよく似た感情の激しさと心根の弱さが、ひどく哀れで愛しいような気もして、つい突き放すことも出来ずにずるずると年月を重ねている、あの少女。
 けれどシャラを事実上の人質として差し出すことは、やはり躊躇われた。それはいずれ見捨てなくてはならなくなる彼の手駒でなければならないのだから。
 同じ女とは関係を持たないというライアンの言葉に、アルードはそうだったなと苦笑気味に応じた。
「だがいずれ、それに代わるものでも差し出してもらわなくてはならない。他の連中にもそうさせているからな───が、まあいい。今度の件で一本、麻薬の筋があいている。お前にやろう」
 ライアンは僅かに姿勢を直し、深く頷いた。先に手にした宝玉よりも、こちらの方が破格によい報酬であった。チェインからあがってくる収入などとは比較にならない。あちらは人数の増減や抗争の有無で多少変動があるが、麻薬は一度網を張り巡らせればあとは勝手に満ち、手にこぼれ落ちてくる。どんな場合でも金は要る。これから先、さらに重要になってくるに違いないのだ。
 ライアンは僅かに時間をおいた後、ありがとうございますと言った。アルードは小さく頷き、誰かを王屋敷に伺候させることを忘れるなと付け加えて手を払った。
 タリア王の元から退出して、ライアンは回廊を戻りながら長く嘆息した。タリアの内側にいることで、次第に足下であるチェインの支配からは縁遠くなっている。それもアルードの狙いの一つであることは確かだ。アルードに目をかけられているのだという幻想など抱いたことはないが、ライアンの働きに応じて報酬を与えなければ他の者達への示しがつかないとアルードが踏んだのだろう───つまり、現状は満足すべきであった。
 タリア王屋敷をすぐに辞して、ライアンはゆっくりタリアの表通りの方へ歩いた。王屋敷は彼にとって居心地の良い場所ではなかった。アルードと同じ場所の空気にあると思うだけで、肺の中が濁る気がする。
 それに身体の奥底には殺人の快楽に身を委ねた後の、気怠い疲労がたゆっている。血を見た後は命の根元に触れたせいなのか、ひどく気が荒ぶって鎮めるのに手間がかかった。
 だからライアンはあの少女に会いに行く。シャラの顔をみて他愛ない話に気を紛らわせていれば過ぎ去っていく倦怠があった。それはほぼ唯一、過去の呪縛から逃れてしどけなく他愛ない戯れに興じていられる時間であったかもしれなかった。
 あの少女は自分の中に殆ど唯一残っている庇護すべき花だ。摘み取るのは簡単で、それを待っていることも知っているが、けれど一度折った花は二度と土に根付かない。
 彼女が特別であるのは寝ていないからで、それ故にずっと自分の中にあるだろう聖域といえた。それを自分の手でわざわざ壊すようなまねなど、すべきではない。
 それにどうしてもライアンは彼女を自分の愛人にしようと思えなかった。まだ水揚げ前の、白い衣を着た無垢の痛々しさを見知っているからだろう。
 けれど、胸が渇く日は彼女に会いたい。何の血縁もなくても、彼にとってシャラはただ一人の妹だった。父を元より知らず、母には売り飛ばされてのち他人の手を転々として生きてきた彼の、血の証明のような気がするのだ。
 全くの他人であることは知っている。自分が母に売られたときの状況やお互いの顔立ちの相似からライアンは当初、異父妹であろうかと考えていたがそれはすぐに否定された。あの妓楼の女将はシャラの母と親しかったせいで、ライアンという名であったというシャラの兄を見たことがある。瞳の色が違うなら、それは状況が似ているだけの他人であろう。
 だが、それとライアンの心の中の作用とは全く関連がなかった。
 妓楼はようやく始まる時間を迎えて、階下に降りている遊女達が多かった。他の女達には視線を殆どやらず、ライアンはいつもの場所に座る女将に目礼する。女将は簡単に頷いてこちらへとライアンを手招きした。
 前と同じ金額を彼女の前に置くと、女将は苦笑する。
「揚げ代、あがったんだよ。部屋も一つ良くなっている。今日はいいよ、まけておくさ。あんたには大分注ぎ込んでもらっているからね」
 差額のおごりは女将の厚意であったから、ライアンはありがたく頷いた。金に困っているわけではないが、こうしたささやかな貢ぎ物を断るのもおかしな話だろう。
 小間使いの少女が彼を案内していった先は、確かにそれまでよりも一段上の階級に属する部屋だった。年数や揚げ代の多少によってやはり遊女にも格がある。
 次第に上へあがっていくシャラの身なりを、ライアンは微妙な困惑で眺めている。それに自分が相当関わっているのは確かだったが、実際二人の間に何かがあるわけでもなかった。
 ただ、シャラの方は上機嫌だった。この少女は一面現金で、生活の環境が上向けばそれで虚栄心を満足させるところがある。アルードからもらった宝玉を並べてどちらが欲しいかと聞くと、紅玉をさして指輪にして欲しいとねだった。
「で、こっちはライアンがお揃いの指輪にして持っていて。ね、いいでしょう?」
 ライアンは曖昧に喉を鳴らした。シャラがどちらか好きな方を選んだ後は換金しようと考えていたのだ。
 彼の思惑を悟ったのかシャラは冷たく整った面差しを、暗く俯けた。その表情に差し込む気鬱と悲しみが濃い。揃いの指輪などという児戯のような記号を欲しがる裏に、不意に彼女の深い苛立ちと懊悩が揺らめくように見えた気がした。
 シャラは黙って唇を尖らせたまま、彼の煙管をいじっている。ライアンもまた黙り込んで煙管を撫でるシャラの指先を見つめている。シャラの思いが次第に蓄積されていくことを感じないことはなかった。
 彼女の目線がただひたすらに自分に向けられていることを理解し、それに当惑とぼんやりした畏れを覚えながらも突き放せない。
 縁を切るなら簡単だ。二度とこの妓楼に足を向けなければいい。
  それを彼女も分かっていて、ライアンが不機嫌やその淡い怯みのために沈黙するとき、その先をなじる言葉を絶対に口にしない。彼から見捨てられてしまうことを、何よりも恐れているのだ。
 それに深い哀切を感じないではいられない。それにシャラはどうしたところで自分の妹だと思い続け、本人にもそれを言い続けてきた。態度を今更翻すことは出来そうにない。
 このままでは永遠にシャラを傷つけるだろうことも分かっているのに。
 ……ふと、ライアンはシャラを見た。彼女のすすり泣く声が聞こえたのだ。
 シャラ、と呼ぶと少女は自分の口元を手でしっかり押さえたまま首を振った。
 ぱらりと後れ毛がおちて、首筋を軽く叩く。肩との付け根に一葉咲いている、赤い斑紋にライアンは気付いた。昨晩の客がつけていったのだろうか。シャラは遊女なのだ。それを今までも知っていたくせに、今初めて目にしたような気持ちになる。そして巻き起こってくる大量の感情はやはり、憐憫なのだった。
 ライアンはもう一度シャラの名前を呼んだ。シャラはやはり首を振った。
「……ライアン、いいでしょ? 少しくらい、あたしに、希望くらい、くれったって、いいじゃない……ちょっとくらい、いいじゃない……」
 呟く言葉は甘く弱い、非難と言うほどもない繰り言であった。彼女に言えるこれが限界なのだ。ライアンは微かに呼吸をふさがれたように喘いだ。何かを言ってやることも、抱き寄せてやることも、しようと思えば出来るだろう。けれどそれが一瞬の慰めでしかないことを、ライアンは分かっている。
 そんなありきたりのものに引き替えてしまえば、この少女はただの年若い遊女でしかなくなる。それを押してまでシャラを自分のものにしたいかと問えば、彼の中の判断はいつでも首を振った。
 シャラ、とライアンは3度目を言った。
「分かった、宝玉はそうしよう……」
 これが逃げなのか妥協なのか、ライアンには判別が出来なかった。シャラはやっと頷き、少しだけ笑った。ライアンは僅かな安堵のために溜息になった。
 その吐息をすくうようにシャラは彼の口元に手を伸ばし、それはだめだと言うようにか、指先をライアンの唇に押し当てた。同じ色の瞳が絡み合うようにぴたりと合わされる。涙のせいで僅かに潤んでいるシャラの目がじっと彼を見つめ、そしてゆっくり近づいてきたのが分かった。
 ライアンは腕を伸ばし、シャラの首を巻き取るようにして抱き寄せた。自分の肩に埋めるようにシャラの頭を押しつける。シャラが微かに震えた気配がした。
 遊女の貞操は唇にある。それをどうしても彼女はライアンに与えたいようだった。回避するための抱擁にシャラは震えていたが、やがてライアンの背に微かに爪を立て、ばか……と耳元で囁いた。
 ライアンは返答をしない。シャラはしばらくそうしていたが、やがてすすり泣き始めた。張りつめていた彼女の身体から力が抜ける。それに合わせて腕をゆるめてやると、子供が親の腕に収まるようにするするとシャラはライアンの胸に収まり、顔を当てて嗚咽を始めた。
 しがみついている指先は、それでも服をゆるくつかんでいるだけで決定権をライアンに与えている。それに気付かないようにして少女の頭をゆっくり撫でてやると、シャラは不意に泣き崩れた。たくらみをはぐらかされたのを分かったのだろう。
 ばか、と呟く口調はそれでも切なく訴えるもので、彼を責めるものではなかった。泣き続ける少女の身体を包む赤い人工絹の薄さは遊女特有のものだ。手で触れるとすぐに体温が伝わってくる。
 シャラの身体に籠もる熱が厭わしいのか、哀しいのか、ライアンにはよく分からない。けれど今、この少女を宥めてやれるのが自分の沈黙であることは知っていた。
 連綿と続く嗚咽が収まったのは結局シャラが寝付いてしまったからとなった。泣き疲れて眠ってしまうところ、やはりまだ子供なのだとライアンは意味もなく安堵する。
 遊女の部屋であるから寝台は一つきり、その上に抱き上げてそっと横たえてやると、シャラは一瞬目を開いたが、ライアンがその瞼を閉じるように手で押さえてやると、すぐにまた眠りへ戻っていった。
 ライアンは溜息になった。シャラの視線の強さはいつでも変わらずにまっすぐに彼を射抜いている。それが気鬱な圧迫と思えるときもあるし、憐憫の哀しみに見えるときもある。
 どんなときでも変わらないのは、シャラが彼の庇護対象者であって、決して愛を紡ぐ相手ではないということだった。
 それだけ分かっていれば十分だとライアンは自分に言い聞かせ、部屋の明かりを落とした。
 遊女の部屋には天窓が一つきり、そこからはタリアの炎の色が月光と共に差し込んできて、ほんのりと赤い。しんと静まりかえればどこからか、はぐれた羊が鳴くような声がとぎれとぎれに聞こえる。
 それが何であるかは考えるべくもなかった。この妓楼は決して安普請ではなかったが、よほど好きな客の相手でも誰かがしているのだろう。甘えるようなもの悲しさが、声のどこかに潜んでいるようであった。
 ライアンは服を脱ぎ、簡単な夜衣に袖を通した。泊まる客のために、大抵こうした服がどの妓楼にもおいてある。煙草入れと煙管をつかんで寝台にあがり、眠ってしまったシャラを真横においてライアンは天窓に移る月を眺めあげた。
 誰かを手にかけた興奮と苛立ちと歓喜と倦怠は、彼女を傍らにして次第に流されていくものだった。そういう意味において、シャラは確かに特別な女だった。
 愛しかったし、大切だった。恋情と愛欲は彼の中では切り離されて別々のものとして成立しつつあるが、その二つを繋ぐ可能性があるとしたら、今はシャラであるとしか考えられない。無論これから先自分にも命をかけるほどの女が現れるかもしれなかったが、だがその女は決して自分の妹ではないのだ。
 ライアンは煙草の一服を長く吸った。物事をじっと考えるときにはそれは手放せない癖になっている。
 ふっと煙草の香りが消えて苦みだけになった。種草が尽きたのだ。それでライアンは煙草をやめて、寝台の脇の灰皿にそれをことりと置いた。
 ───抱こうか。
 陶器が鳴る冷たい音と共に腹の底に転がりでてきた新しい考えにじっと目を凝らす。このままではいずれ、どのような形であっても破綻するだろう。
 失いたくないという思いは確かにある。シャラのために死ぬことは出来ないが、だが出来うる限りのことはしてやりたいと思っている。シャラの一番の望みが自分と関係を持つことであるなら、そうしてやってもいいかもしれない。
 ……何より、自分にも何かが起こるかもしれなかったから。あるいはそれを知りたいのかもしれない。リァンがいなくなってのち、色素が薄まって濃淡でしか見えない世界に、劇的なものが紛れ込むならそれが何であるかを自分も知りたいのだ。
 ライアンは溜息をついて、そっと手を伸ばした。シャラはよく眠っている。
 遊女の衣装は大抵簡単に脱がせることが出来るように、前の袷を何カ所か紐で結んだだけの作りになっているのが普通だ。首元の大きなリボンをするりとほどき、そして肩から胸にかけての袷目をほどく。腰の横の紐を解き、何か大切な包みを開くように丁寧に左右に開く。
 ───そしてライアンは、僅かに呻いた。
 淡い赤に染まる月光に照らし出された肌はあわあわと白く、その中で呼吸のためにゆっくり上下する裸の胸はこちらが怯むほどに頼りなく小さい。右の腋横に僅かに残っている痕跡の赤い色が目に痛くて見ていることさえ辛かった。ライアンは開いたときと同じような手つきで、シャラの肌を隠すように衣装を着せた。紐を最初より丁寧に結んでやる。ひどい罪悪感だけが残った。
 駄目だ、とライアンは呟いた。彼女は駄目だ。一生駄目だ。まだ幼さを片隅に残したままの身体が記憶の端をよぎる。ライアンは首を振ってそれを追い出そうとした。
 自分はきっと、見てはならないものを見てしまった。シャラと関係を結ぶことは出来ない。無理だ。この同情と哀憫とが胸にある以上、彼女を抱こうとすることさえ罪悪であるような気がして居たたまれない。
 自分にとっての快楽は既に女などではなく、人を狩る獣としての衝動へ変化しているのかもしれなかった。
 リァン、とライアンは呟き、堅く目を閉じた。彼に人を手にかけることを快楽として教えたのはリァンだった。ライアンは彼のためにそうなるべきだという目論見を体現した存在だった。リァンの手腕は確かに見事だった。暗示をかけた主人がこの世から消えてもなお、呪縛はライアンの中に残っている。
 ぎりぎりの命のやりとりを交わしている時、微かに彼の耳には鈴の音が聞こえる。涼しく鳴り響くその音を聞いていると、全てのものを引き裂き、八つ裂き、奪い尽くしたいという衝動が呼び興る。相手によってその感情の多少はあったが、やはりそれは彼にとっては絶対快楽であった。
 自分は、どこかがおかしいのだ。リァンが握っていた彼の調律を、引き受けることの出来る者はいない。だから何かが狂ったまま、それでも生きている。生き続けていく。リァンが辿り着くはずだったその場所に、自分が座るその日まで。
 ライアンは顔を歪めた。リァンのいなくなった世界には、彼を縛るものはなくなった。
 けれど、人は何かのためにと自ら捕縛されることで生きていける生き物なのでないか。解き放たれた野生に打ちのめされて死ぬよりも、共生で繋がり作り上げた広大な籠の中で不自由を歌いながら自己憐憫で満足する鳥ではないのだろうか。世界はそんな構築に出来ている。
 だから一度その輪から外れてしまった者に戻る場所などないのだ。仄かに明るかった場所を振り返り振り返り、それでも待ち受けている闇へ飛び続けるしかない。そうするしか出来ないのだ。今は。
 リァンの呪術がまざまざと身に甦る日は、彼というライアンを繋いでいた籠の大きさと、それが今は既に失われていることを教える現実の狭間にあって疲弊が激しい。彼のいない世界に、今生きている、その不思議。
 リァンのために死にたかった4年前に、死んでいればこんなことを思うこともなかっただろう。それが一体自分にとって至福なのか悪意なのか、何故判別する必要がある。
 ───あなたが、いない。
 それだけが真実なのだ。
 ───この世界に、あなたが、いない。
 それだけが現実なのだ。
 身を取り巻く環境も人間も、全てが変わったところで起こったことは頑として動かない。時間は戻らず、人は甦らない。リァンのために生きていたことは恥じることではなかったが、それだけが全てであった時からは、自分は確かに大人になりつつあった。
 そしてそれを自分のために喜べないでいる。リァンはその死の前日まで、確かにライアンの全てだった。
 あなたのために生きて、あなたのために死ぬのが夢だった。その他の全てのことは色彩の薄い写真のように、現実味が薄かった。命の辿る道筋に落ちているものが、自分を責め苛むものばかりでないことを教えてくれた。だから自分にとってあなたは光であり、神であり、世界そのものだった。何も考えたくなかった、ただあなたの語る世界が正しいのだと闇雲に信じていればそれでよかったのだから。
 ライアンは閉じた瞼の裏で、リァンの面差しを呼び戻そうとする。彼の植え付けた種子が今ライアンを支配する絶対律ならば、そうでなかったはずの未来もまた存在したはずだった。
 そのとき自分はシャラを抱いてやることが出来たろうか。彼女に求めているのは渇きを潤すための僅かな弛緩の時間だが、命を奪い啜り尽くす快楽を知らなければあるいはごく自然に、関係を持っていただろうか。
 どんな仮定にも意味がないと知っていながら、ライアンはそれを何度も繰り返す。リァンを少しでも責難するための材料を探して記憶の海を彷徨いながら、しかし遂に感傷に負けて、それが遠く懐かしく、帰りたい日々であることを認めざるを得ない。
 この世界に、あなたがいない。
 もしもという言葉になんの意味もないことを知っているけれど───帰りたい。
 ただひたすらに、帰りたかった。


帰してよ
お前の姿が世界から 消えてしまったあの日まで


 ゆるくたゆたう竪琴の、音色は淡く消えていく。儚さは世の宿命で、生まれれば消える運命のまま、歌は今宵も消費される。使い捨ての歌、使い捨ての涙。それは何のこともない流行歌。時が来れば誰の脳裏からもこぼれおちていく砂。
 けれども歌に籠められた、ほんの僅かな真実が時には誰かの胸を打つ。強く。叩く。強く、強く。それが歌の普遍というものならば、魂をこめて歌うこの余興にも、何かの愛があるだろうか?
 女の歌は、続いている。


海を漂う海鳥たちの 声は今夜も 啜り泣く
  呼び恋い続ける鳴き声の 悲鳴を飲み込む 海潮音
  お前の胸には触れている? 私の歌う、海鳥の歌

  殺してよ
  お前が別離を告げる前に 私が憎んでしまわぬ前に
 ちかちかと天窓から陽光が射している。その眩しさでシャラは目を覚ました。遊女の部屋は客の使う表廊下と、下働きが使う裏廊下に挟まれていて、窓は天井に四角く切られたものが一つだ。天窓からの光だとすれば、既に昼が近いはずであった。そんなことを思いながら寝返りを打つと、その横に男がいたことにシャラは驚いて微かに息をのんだ。無論それは前の晩の客なのだが、この時間になっても部屋から出さないのはやはり具合が悪い。
 と、いうよりもこの時間まで客がいることが信じられない。しっかり朝寝を決め込んでしまった自分も悪いが、相手も良くない。大体、こんな時間に帰したのが知れたらねえさんたちに具合が悪いわ。起きなさい、とシャラは隣でまだ寝息を立てている少年の肩を揺する。彼はうん、と曖昧な返事をして目をしばたきながら起きあがった。
「……なんだよ、もう朝……」
 そこまで来て、彼も時間の遅さにようやく気付いたようだ。天窓を見上げ、ついで寝台の脇に適当に放り出されている彼の時計を拾い、長い長い溜息になる。
「やっちまった……ま、いいや。俺がいなくても他がどうにかするさ」
 最後についていた呟きは楽観というよりは期待であろう。その証拠に少年は急いで身支度を始めた。短い髪がまだ寝癖のままになっているのを、シャラは適当に直してやる。ありがとうと笑う顔は屈託なく、これが彼女についている客の中で一番若くて朗らかなたちだ。
「あんたも本当に不思議よね」
 彼の支度を手伝いながら、シャラは呟く。鏡をのぞき込んで寝癖を押さえるのに懸命だった少年は何が、と振り返らずに言った。けれどその視線は鏡の中で動いて自分を見ている。彼は自分が好きなのだとシャラはとうに知っていて、それをこんな僅かな仕草でとらえ直すたびに、決して不愉快にはならないのだった。
「あたしとあの人のこと知ってるんでしょうに。よくもまあ、自分のご主人様の女に手を出そうなんて思えるわ。あんたの図太いとこ、尊敬しちゃうわよ、チアロ」
「だって、彼は駄目だって言わなかったよ」
 その言葉にシャラは胸の奥がちりっと焦げた匂いをたてるのを感じる。けれどそれを表情に出してしまったら、自分の中の誇りや矜持というものが全て崩れ去ってしまう気がして、ことさら笑顔になるのだ。
「そりゃ駄目だとは言わないでしょうよ。身請けもまだなんだし、妓楼に置いてるからにはあんた以外の他の客とだって寝るんですからね。神経が鉄で出来てるのはだから、あんたの方。いい根性してるわね、本当にさ」
 チアロはどうにか跳ねた髪を撫でつけ終わり、くるりと彼女に向き直った。彼の表情はいつもの通りに明るいが、瞳にある光はひどく真剣で、切なくなるほど強い。その強さが逆に喜びと怯みのない交ぜになったものに彼女の胸の中で変化して、チアロのことを決して嫌ってはいないのに、この目をされると喉がふさがれるように呼吸が苦しい。
 ──そして彼と同じ目で、自分もあの人を見ている。あの人があたしを見て、微かに逃げ出したいような素振りを隠そうとするのはそのせいだ。でも、じゃあ、どうしたらいいの? シャラがきゅっと唇を結んだとき、だって、というチアロの声が聞こえた。
「だって、俺、お前が好きだもの。お前がいいなら今すぐここから出してさ、二人でタリアなんか出てどっか別の場所へ行ってもいいよ。俺、他のどんな事のためにも痛いことは嫌いだけど、お前のためだったら死んでもいい」
「馬鹿ね」
 シャラはあきれた風を装って、つんと肩をそびやかした。チアロのまっすぐで直截で、軽やかではあるが真剣な言葉を聞くとき、ひどく心浮かれている。けれどそれは本当に欲しいものの代価品であって、所詮偽物でしかない。偽物であることを承知してもいるが、チアロの真摯な気持ちを知りながらそんなことしか考えていない自分にも嫌気がさすのだった。シャラの表情が曇ったのに気付いたのか、チアロはやっと上着をかぶりながら彼女に近寄ってきて、ゆっくり顔をすり寄せた。
「……暗い顔すんなよ、せっかく綺麗な顔してるのに台無しになるぜ」
 こつんと額同士を打ち合わせてチアロは笑い、彼女の手を軽く握った。
「また来てもいいだろ?」
 ご勝手に、とシャラはふいっと顔を逸らす。いつでもこうしてじらしてやれば、彼はまた熱心にシャラへの賛辞を降り注ぐのだ。その言葉を聞くのは好きだった。後から自分で適当にこじつけ、改竄し、もっと別の声で囁かれるのを夢想するために。
「───待ってるくらいの殊勝なこと言ってよ、たまにはさぁ」
 チアロの甘えるようなすねた声に、シャラはつんと顔を背ける。慣れ親しんだ関係が既にこれを冗談に流せるほどに積み重なっていた。彼女から気に入る言葉を引き出せないのはいつものことで、チアロはやれやれと肩をすくめる。出会った3年前にはまだ子供の領域を出ていなかった身体も仕草も、既に少年と呼ぶ域へ達し、やがて大人と呼ばれる時代へ入っていくだろう。彼の未来は何故かすんなりと、良いものばかりを描くことが出来る。
「お前の気位の高いとこ、すごく好きだけどね」
 チアロの声は苦笑を含んで甘い。シャラはふうんと素っ気なくそれも流した。
 恋愛には必ず勝利者がいる。力関係は決まっていて、逆転することは滅多にない。この場合はシャラの方が明らかな優位であった。チアロの率直な賛辞も洪水のように溢れてくる愛の言葉も、全ては彼女の意のままであって、止めろと本気で言えば彼は飲み込むだろう。チアロの言葉はどれも軽やかに明るいが、誇張や戯れのような嘘の匂いはしない。それがどれだけ自分を慰めているかシャラは知っている。本当に振り向いて欲しい人に顧みられないまま年月だけが流れ堆積していくのを、見ているしかできないから。
 またね、と簡単な言葉だけを残してチアロが出ていくと、シャラは長い吐息を落として寝台に座った。昼近い陽光はやけに明るくて、それが天窓の硝子を通して降り注いでくる健康な目覚めが自分に不釣り合いに似つかわしくない、そんな居心地の悪さがじりじりとあがってくる。
 チアロのことは嫌いじゃない。あれは自分の崇拝者で、彼の気持ちに頷けばその性質の通りに明るく力強く自分を愛するだろう。それは分かっている。彼が今シャラに降り注いでいる陽光のごとくにまっとうに自分を恋していることはきっといいことなのだろう。
 でも、そんなもの要らない。
 どんなに辛くても苦しくても、焦れても泣いても苛立っても、自分の心が吸い付いていく背中は一つきりだから。
 好き、とシャラは呟いた。その声が耳から胸にするりと落ちた瞬間、そこが鈍く痛んだ。あの人があたしのことを特別に思っているのは知っている。でも、それはあたしが欲しい視線じゃない。あたしが欲しい熱じゃない。彼に温かに大切に扱って欲しいなどと思ったことなんか、一度だってない。彼がシャラの目の届かない場所できっとしているであろう、取り巻く女達にするように戯れに踏みにじって欲しいのだ。
 彼の長い指が自分を愛撫するならば、どれだけの歓喜になるだろう。彼のよく鍛えられた身体が自分の身体を法悦の中に押しつぶしてくれたら。たった一度で死んでもいいのに──……
 その瞬間、シャラは微かに呻いて首を振った。やけに生々しいことを考えている自分がひどく淫蕩な女であるような気がする。あの人のことを考えると胸が苦しく切なく痛い。この痛みが次第にひどくなるのを自覚して、自分がどれだけ彼を恋しているかを思う瞬間は自嘲の入り混じった哀しみの中だった。
 ───自分も母のようになるのだろうか? そんな疑問がちらと脳裏をかすめるとシャラはいつも恐ろしいものを見たように、その考えから目をそらした。シャラの母は多情で恋の多い女だった。どこまでが客でどこからが男であったか遂に分からないが、それでも恋し、夢中になり、最後は決まって捨てられることの繰り返しだったことは知っている。男に騙され、殺されかけた末に運河に身を投げて死んでしまった母。シャラとよく似た顔立ちの女は結局幸福にはなれなかった。自分も同じ運命の車輪に乗っている気がして、シャラは怖くてたまらない。遊女になるまでは今のところ、同じではないか。
 それを救ってくれるであろう相手にシャラはたった一人をさだめた。彼以外知らなくていいし、見えなくてもいい。他のことなど必要がない。いつか彼が自分に向かって膝をつき、低く数少ない言葉で何かを語ってくれたら。それだけで死んでもいいくらい、あたしは彼が好きなのに。
 ちりっと胸の奥が焦げるような痛みがした。シャラは溜息になった。自分が考えている半分も、彼は自分を思っていないだろう。あの人には沢山の敵と沢山の配下がいて、何かにかかりきりになるには手に持つものが多すぎる。その内の一つが自分であることを疑ったことはない。水揚げから既に4年、シャラの元にずっと通い続けているのは確かなのだ。3度ほどミアの部屋にあがるのを見たことがあるが、自然にそれは消えて今はこの妓楼ではシャラだけに金を落としていってくれる。
 ───でも、そういうことじゃない。
 彼が自分を特別の女だと周知のために環境を美しく整えていくにつれて、どこへも捨てられない怒りだけがたまっていく。
 ───そういうことじゃない。
 彼の視線も吐息も言葉も、全てが自分一人のものであって欲しい。彼の中の一部分を分け与えるのではなく、何もかもがあたし一人に注がれるようであって欲しい。彼という存在の、全てが欲しい。妹だなんていう檻に入ったままではそれは永遠に手に入らないだろう。
 いつかあの人にも自分ではない誰かを愛して特別に想うことがあるだろうかとシャラは不意に思い、瞬間的にわいた激しい怒りにぎゅっと手を握りしめた。そんなの、絶対に、いや。そんな女、あたしが殺してやる───
 激高につられて浮かんできた言葉の強さにシャラははっとし、そして辟易して額に手をあてた。振り回されたときのように、ひどい眩暈がする。
 彼のことになると全く盲目のように何もかもが消えてしまう癖を、シャラは半ば呆れ加減に見つめた。そんなことではいけないと自分でも思うし、女将や先輩の女達からも言われてなお、その癖はいっかな直りそうにない。それが自分でも可笑しいと思うし、仕方ないような気もして、こんな事を考えるときは堂々巡りの惑乱の中だ。シャラは長い溜息になり、そして勢いよく寝台から立ち上がった。
 あまり彼のことを考えても今は仕方がない。この夜にも自分を買うであろう見知らぬ男達のために適当に部屋の掃除でもして、身綺麗にしておかなくてはいけないだろう。入浴や化粧はタリアの火入れの時間が近くなってからでもいいが、洗濯と掃除だけは早めにしなくてはいけない。シャラは昨晩来ていた人工絹のスリップドレスを拾い、下着と一緒に洗濯用の手桶に入れて部屋を出た。遊女達の部屋から裏廊下へ出れば、そこには高い位置の格子窓からさんさんと昼に近づいていく強い日射しが注いでいる。
 遊女達の部屋には簡単な浴室がついているが、こうした日々の細かな雑用に使うための水場は別にある。客を傷つけないように部屋に刃物や針なども置かないから、裁縫のための部屋もあって、昼前はみなてんでにそこで必要なことをしているのが普通だ。
 シャラが水場に入っていくと、先客がいた。長いことそうして足で踏んでいるのか、洗い桶の中の白い足が赤く染まっている。とんとん続く小気味よい音が何かの拍子のように規則正しい。不意に女は足を止めた。水を換えるのだろう。一度桶から出たときにシャラにようやく気付いたらしく、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、シアナねえさん」
 源氏名で呼び合うのはどの妓楼も同じ習慣である。シャラは軽く頷いておはよう、と言い、女の隣に洗濯用の桶を引き出した。
「随分丁寧にしてるのね。リーナは相変わらずこんな事が好きなんだ」
 シャラの言葉にリーナは小首を傾げて笑う。シャラが恋心という煉獄から目覚めて混乱し、立ち直りながら出てくる不機嫌な朝であるとするなら、この女は朝方は奇妙なほど明るい。ごく自然に呼吸をしているように見える。
 だがそれが不幸の臭いであることを、シャラは誰に教えられずとも知っていた。不幸な女は同じく不幸な女を見抜くのだ。恐ろしく正確に。
 ───彼女の前に出るといささか怯むのはそのせいだろう。彼女の真闇色の瞳に見つめられると、真っ黒な空に映る星のように自分の中身もそこに浮かんでしまう気がするのだ。シャラは彼女から視線を外し、洗い桶にぬるま湯を張った。自分の洗い物を入れて隣で踏み始める。同じ事をしていたリーナが成果を確かめるように彼女の木綿のワンピースを広げた。
 それで彼女が長く洗濯をしている訳が分かった。客が吐いたのだろう、その痕跡がくっきりと裾に残っている。シャラが一目見て分かるくらいだから、落とすのには時間がかかるだろうと思われた。リーナの溜息が聞こえる。
「吐かれたの?」
 シャラが聞くと、リーナはええ、と困ったように笑って頷いた。
「お酒が欲しいっておっしゃるからお出ししたんですけど……明け方に。シーツはさっきやっと干したんですけど、こっちはまだまだですね……」
「あんまり飲ませちゃ駄目よ。酒は繰り越しが出来るからって言って、適当に切り上げさせないと。酔っぱらってる奴の相手は疲れるでしょ」
「ええ、まあ……無茶を言う方が多くなるのだけが本当に困ってしまって」
 その無茶というのが何であるか、聞きたい衝動にシャラは駆られた。リーナというこの遊女が水揚げから半年にもなろうというのに未だに客あしらいというものが出来ないことを、女将が嘆いているのを聞いたことがある。遊女達の間でひそひそ交わされる性技のあれこれなどを本当に試したことがあるのかどうか、一度聞いてみたくて仕方がない。
 ───あんたまさか、寝転がってるだけじゃないでしょうね? そんな意地悪い言葉が浮かんでくるのは自分が苛立っているからで、その苛立ちはあの人のせいだ。シャラの世界で一番美しく力強い男。
 シャラはふっと溜息になって、肩をすくめて見せた。
「泥酔する前に寝台に引っ張り込んじゃえばいいのよ。お酒が残ってたらまた来る人も多いしね。気に入った客だったら半分くらいは残して置いて、次に来たときに、って言うの」
「ええ、そうなんですけど」
 気弱く微笑む面差しに僅かに浮かぶ困惑の色を、シャラは素早く嗅ぎとって目を伏せた。彼女のしていることは明らかだった。水揚げの時と同じような調子でたおやかにちょこなと座っているだけなのだろう。シャラの母も娼婦であり、シャラはこの世界に入ることを嫌悪したことはなかった。そうしないと生きていけないことくらいは分かる。
 この場所で生きていくからには仕事としてするべきことはする、というのがシャラなりの意地であるが、彼女はそれを放棄しているのだ。いつまでお姫様のようにいたいのだと怒鳴りつけたい衝動もあるし、そんなにここが嫌なのかと聞いてみたい気もする。それにいつまでもリーナ一人だけが無垢のような顔をして何も出来ないのですと装っていると、自分がひどく薄汚れた娼婦であると言われているような気になる。
 けれどそれを口に出さないのはリーナ自身がその困惑に開き直っていないのが分かるからだ。どうしていいのか、リーナには分かっていない。臆病というなら正しいであろうしそれを怠慢とそしるなら正しい。けれどそれを本人が気に病んでいる、その不幸をシャラは薄々知っていて、だから彼女に何かを言ってやりたいと思いながらも口にすることが出来ない。年齢が同じだからもっと馴染んでもいいとは思うのに、なかなか世間話程度から先に進まないのはそのせいだ。
「……もし衣装が足らなかったらあたしに言いなよ。ちょっと古くなったやつだけど、あんたに似合いそうな可愛いやつ、あげるから」
 彼女に一瞬抱いた苛立ちを鎮めるために優しいことを口にして、シャラは自分の洗濯物を勢いよく踏み始めた。

 彼がシャラの元を訪れたのはそれから4日ほどしてからだった。日付も曜日もまるで定まっていないが、月に2度か3度は顔を見せる。小間使いの少女の案内でシャラの部屋の前に立つ彼の表情は冷たく整って、どこからも何も寄せ付けない酷薄さが目立っているが、シャラの側に腰を下ろすときには微かにではあるがぬくまるのを、シャラはいつものようにじっと見つめた。
 その整った面差しを見るたびに思うのは、息苦しくなるほどの思慕であり、眩暈がするほどの憧憬だ。彼はあたしの神様。あたしを生かして殺すための神様。
 ほうっとシャラは見惚れるための吐息をつく。するりと腰のベルトに挿されていた煙管を取り出して火をつける仕草。薄い唇がついばむように吸い口に触れるその風情。彼のすることは全てが美しく、完璧に整っているようにシャラには見える。
「……珍しいか、煙草が」
 今日は彼は機嫌がいいらしい。シャラがいつものように自分を見つめている視線を厭う素振りなく、薄く笑っている。
 自分と同じ翡翠色の目が、自分をじっと見ているのにシャラは気づき、そっと手で髪の形を確かめた。日付が決まっているのならその日は特別に綺麗にしておくのにといつも思うのだが、その約束はくれたことがなかった。
 毎日そうしておけばいいのかもしれなかったが、シャラは日常を巧く運営していくことは苦手で、部屋の片づけや洗濯や針子作業もどうにも好きになれない。料理などはしたことがないが、おそらくこれも同じだろう。
 シャラはつまらない空想をすぐに捨てた。あれほど待ちこがれていた時間を目の前にして、他のことを考えるのは馬鹿馬鹿しいことであった。
「いいこと、あったの?」
 微かに自分の声が上気して、いつもよりとろんとしている。この声音がひどく女臭く甘たるく聞こえるのは知っているが、こんな声にしかならないのだ。
 別に、と返答する声は先ほどとは一転して固い。何か良いことがあったとしても、それはきっとタリアの内律に関わることであって、くちばしを入れるなという態度だった。それはそれで正しいだろう。シャラにはタリア王を頂点とするこの町の機構のことはよく分からない。自分たちは緋房の籠の鳥であって、美しくさえずっていればそれでいいはずなのだ。
「ちっとも自分のことは話してくれないんだ……」
 それでも拗ねたふりで彼の顔をのぞき込めば、そこにあるのは淡く翳ったぬるい表情であった。彼は苦笑しているのだ。
「俺のことなど聞いてもつまらんさ。それよりも最近はどうだ───チアロも相変わらずのようだな」
「……他のお客のことは話せませんよーだ」
 きゅっと顔を縮めて愛嬌のある表情を作ると、男は今度こそ唇をゆるめて笑った。はっきりした彼の笑顔はごく珍しく、それに見入ってしまう自分がつくづく馬鹿な女だとシャラは時々恨めしくなる。彼の僅かな仕草や造作で簡単に幸福になってしまうのは、一体損なのだろうか、得なのだろうか。たった一つ言えることは、こうして容易く見つけることの出来る幸福は、やはり容易く散ってしまうということだ。
 彼の表情が僅かに変わるたびにそれが何を意味するのか必死でシャラはくみ取ろうとするが、その性癖のおかげで先ほど感じていたはずの光は気付いたときには既にない。ただ光感の気配だけが胸のどこかに漂っている。
「……チアロの奴が、しばらく来られないと───」
 言いかけた形良い唇にシャラはだめ、と人差し指を押し当てた。
「今は他の人の話なんかしないで。あたしはチアロの話なんかしたくないわ」
「だが、奴はお前が」
「関係ないわ。あたしはあなたしか好きじゃないもの。そうあの子にも言ってあるもの。だから今は他の人の話なんか、聞きたくないししたくもない」
 きっぱりと言い切ると、シャラはさっとその場を立った。彼のためにいつものように酒と食事を頼まなくてはならなかった。酒は飲まない男だが、食事は抜かない。
 簡単に注文を書き付けて小さな袋に入れ、下の調理場へ通じる管へそれを放り込む。袋にはそれぞれの遊女の源氏名が書いてあるから、それを見て部屋へ注文の品を裏廊下を通じて小間使いが持ってくることになっているのだ。酒にしろ料理にしろ、彼の好みと量は大まか掴んでいる。何を食べるのか最近は聞くこともなくなってきていた。
 作業を終えて男の所へ戻ると、彼は煙草を楽しんでいた。煙草を吸う男の肌からは草の甘枯れた匂いがすると他の遊女達が言うように、彼の側によると確かにその匂いがした。時折夜中に目を覚まして彼の鼓動を聞くために耳をつけると、正しく脈打つ動音と共に煙草の甘く渋い匂いにふわりと包まれるようで、シャラはそれが好きだ。
 長い一吐きを終えると彼は服の内側から小さな袋を取り出した。あけるように目線で促され、シャラは口を縛っている綾紐をほどく。中から転がり出てきたのは紅玉の指輪であった。血の色をしたそれをぐるりと白貴石で囲み、ぐっと爪で立ててある。何、と言いかけてやっとシャラは気付いた。
 以前彼がタリア王からもらったという紅玉と碧玉の一揃いを指輪にして一つづつ持ちたいと言ったはずだ。それを彼は律儀に守ってくれたというわけであろう。
「すごい……綺麗」
 シャラはそれをつまみ上げて灯りにかざした。深く濃い赤に白貴石の眩しい輝きがはえて目を奪われる。あの紅玉以外にも彼が色を付けてくれたのだった。
「すごい、綺麗、すごい、……似合う?」
 右の中指に押し込むと、何の抵抗もなくぴたりと入った。ずっと以前、別の指輪をねだったときに教えておいた輪径を彼はまだ覚えていたらしい。
 けれど彼の指には揃いの指輪はなかった。そんな風にしてくれると言ったのをもちろんシャラは覚えているから、ねえ、とその袖を引く。責められずなじれない、そんな弱さがひどく甘ったれた声音に変わった。
「一緒に作ってくれるって言ってた指輪は? 今日は持ってないの?」
 僅かに男は苦く笑ったようだった。
「……指輪は、細刃刀の手袋に引っかかるからな。俺が持っていろという意味だったと思ったから結局」
 言いながら彼は左の頬をかすめて落ちる髪をかき上げる。その耳朶に柔らかく噛み込む、青い光があった。
「邪魔にならない選択が優先なのは仕方がないだろう……それとも指輪をこちらに作り替えるか、シャラ? 細工屋の親爺はお前の指輪に使った石と細工は上等だからそれが一番いい形だと言っていたが」
 うん、と曖昧な返事をしてシャラは自分ではめた指輪の輪郭を指先でなぞった。彼の言うとおり、これはこれでよい細工物だった。それに彼の理屈も分からないとは言えない。それが嫌だとかどうしても駄目だとか、そんなわがままを言えば彼を怒らせるかも知れない。その最後の考えがどうしても抜けないのだ。
 わかった、とシャラは明るい声を出した。自分と彼の間に共通するものを持ちたかったのに、それは結局微妙にどこかがずれた形となって実現した。けれど、それをシャラは責めない。───そんなことが出来るはずがないのだ。
「いいわ、ありがとう。大切にするね」
 男はゆったり頷き、髪を押さえていた手を煙管に戻した。シャラとほぼ同じ、とってつけたような薄い茶色の髪が落ちて碧玉の色味は完全に視界から消えた。
「ねぇ、見てもいい?」
 シャラは立ち上がり、側に寄る。無造作に男が頷き、彼女から顔を背けて煙を吐いた。
 そっと手を伸ばして彼の髪をかきあげると、先ほどと同じように深い青がきらめいた。耳朶に指で悪戯するように軽く触れると、男は僅かに喉を鳴らした。まるで猛獣を撫でてやっているようだとシャラは思い、確かに自分がこの男の特別な相手であることを思い知った。
 彼は気安く誰にでも触れさせるような空気を持たない。以前の宴席でリーナなどは本気で怯えていたようで、それ以後もシャラの語る彼の話を聞きながらの表情は硬い。
 時折彼がこの技楼で派手に振る舞う宴席においても、チアロ以外の誰一人、寄っていこうとしないではないか。
 その特別さを何度も違う角度から見つけるたびに、シャラはねじれたような気持ちになる。彼がシャラに心やすくぬるくほどけているのは、彼女を妹だと認知しているからだ。それは彼にそっと身体を預けてみた幾多の夜、背中に手を回してみた数多の朝に、その度に告げられてきた言葉だ。
 あまりしつこくかき口説くようなら俺は寝台で眠らなくてもいいのだと言われたのが丁度1年ほど前のことだ。そのとき涙をこぼさないように意地だけで目を一杯に見開きながら頷いたのは、彼が遠くなってしまうという恐怖ゆえのもので、決して納得したわけではない。
 だが、向こうはシャラが理解して聞き入れたような態度をとる。シャラの涙が見えなかったはずはない。自分がどれだけ彼を好きか、知らないはずはない───なのに。
 そっと落とした溜息に、ちらと男はシャラを見て煙草に戻った。シャラは彼の耳を飾る宝石から視線を離して寝台にぽんと座った。
 彼の側にいると泣きたくなる。どうしていいのか分からない。この人を好きで、とても好きで、どんな風にされても殺されたっていいと思っているのに、彼はきっとあたしを何気ない女のようには愛さないだろう。兄妹だという確証もないくせに一貫して態度を変えない。
 閉塞した状況をどうにかしたいとどれほど願ってもどれほど思っても、彼はシャラに対する線引きの位置を変える気配がなかった。
 すり寄れば押し戻され、泣けば宥められ、これ以上の何かを出来るとは思えない。
 そのくせ何か他愛のない我が儘を通したいときには泣けばいいと知っている。彼の目の前で、ぽろぽろ涙をこぼしてみせれば彼が大概怯むと分かっているのだ。指輪のこともそうやって泣き落とした。例えばずっと来てねという約束も、抱けと言わない代わりに一緒の寝台で眠ってもらうことも、そうやって承知させてきたのだから。
 これは狡いのだろうか。あたしは陰険で悪知恵の働く女? それともこの人を振り回すだけの足かせ? 当人はともかく彼の下にいる幹部の数名はシャラをそう見ているのが明白だったから、この考えはシャラの中に根深く住み着いている。宴席で当然のように彼の側にいる自分を見る連中の目つきと来たら、まるであたしが彼を都合良く利用しているだけのような、うろんなものを見るように蔑むのよ。
 だから彼らの前では絶対に笑ってやるのだとシャラは決めている。彼らの前では華やかで驕慢で艶やかな花になってみせる。ことさら連中の前で供物をねだるのも、甘えた声を出すのも、彼らの不愉快が多少は溜飲を下げるからでもあるのだ。
 シャラは黙ったままで煙草を続けている彼を見やり、寝台にゆっくり身体を倒した。真横になった世界には、やはり彼しか見えない。どんなときもいつでも、彼はシャラの全てだった。
 ───神様。
 シャラはリーナが時々呟いているその言葉を思い起こす。彼女の不幸は明らかだが、それを彼女は祈ることで忘れようとしているように見えた。目に見えない何者にそんなに真剣に心を傾けられるのか、シャラにはさっぱり理解が出来ない。けれど神様という時の彼女の口調には全てを委ねたような敬虔さと安堵感があって、それはそれでよかろうとも思う。
 神様、という言葉を思いついたのはだからリーナのおかげだ。彼女の言う、崇高でこの世で最も正しい人だというのなら、シャラの神は彼だ。彼女の神は見えないが、シャラの神は目に出来る。
 冷淡な陰がさす整った面差しをして、低い声で、広い肩で、細い指で、シャラを捕らえて彼女に君臨し続ける、絶対の相手。───でも。
 シャラは目をすがめる。そうすると視界が狭くなって彼の姿もほっそりとして見えるが、どんなときでも見えるものの中心に据えられているのだった。
 でも、リーナの言っている神様は安息をくれるけど、あたしの神様はそんなものをくれないわ……一体何が違うのかしら……? シャラは半身を横たえたままじっと彼を見つめた。いつどんな角度から眺めても、彼の冷たく整った顔貌にはシャラの視線を引きつけてやまない不思議な力があった。
 ちらと彼の視線が自分を向いたのが分かった。きっとずっと長く見つめていたのだろう。彼を見ていると心浮き立ち悲しくなり、その両方がぐるぐると巡って次第に訳が分からなくなる。
 そんなときに自分がどんな表情をしているのか、シャラはよく知らなかった。だが、彼がそれを見つけるときに憐憫のような淡いかげりを瞳にくゆらせることは既に気付いている。
 だからきっと、今にも捨てられそうな顔をしているのだ。
 それを思うと自分で自分が厭わしくなる。彼が自分を見捨てきれない甘さや弱さにつけ込む真似だと分かっているのに、それを止められない。そうでなければいつか彼から見放されてしまうような気がして、怖い───怖くてたまらない。
 こんな状態が一体いつまで続くのだろう。
 それでもシャラは同情など要らないと、憐れみなど欲しくないと、訴えることが出来ない。そんな言葉は一瞬の激しい怒りを焚きつけても、決して燃え広がらせてはならない炎だ。
 彼がもう自分の元にこなくなると言うことを、考えるだけでも恐ろしく、気が狂いそうになる。
「───どうした、シャラ」
 いつもと同じ低い声音が自分の本名を呼ぶ。
 本来はシアナという源氏名で呼ばれるべきであったが、これを許すことが特別である証なのだ。遊女と客という枠を越えるという表示であり、それは二人の間に流れている現実という河そのものであるようにも思われた。自分は客ではない、という意味であろう。
 それもよく分かっていて、シャラは別に、と素っ気ない返事をした。けれど彼のやや困惑じみた、淡い影のくゆる表情は変わらない。どうしたのだろうとシャラがまばたきすると、ぽろりと涙がこぼれたのが分かった。
 ああ、自分は泣いているんだ。だから彼はあんなに困ってるのね。意地悪く囁く自分の中の呟きにシャラは唇を噛み、いいの、と小さく声にして寝台に顔を押しつけた。
 僅かに場の空気が対流する気配がする。彼が何かを言おうかどうしていいのか考えているときは大抵こんな奇妙な沈黙になるのだ。
 考え抜かれた言葉など要らなかった。シャラの気持ちに配慮するためだけの優しい言葉をなんと紡いでいいのか彼が考えているとしたら、それはシャラの胸にある恋情となんと不釣り合いで薄い心なのだろうか。
 ───恋愛には必ず勝利者がいる。力関係は決まっていて、逆転することは滅多にない。恐らく、自分たちの間には永遠にないだろう。自分は彼のために生きて彼が死ねと言ったら死んでもいいとさえ思っているのに、彼はきっとあたしのために命を捨ててくれるとは言わないだろう。
 いっそ死にたい。今彼があたしを大切にしてくれるこの瞬間に。そうでないといつか、彼を憎んでしまいそう───……
 死という単語がふっと脳裏に浮かんだ瞬間、それへの甘美な憧れと本能的な畏れによってシャラは堪えきれずに声を上げて泣き始めた。それを全て彼にぶつけるには覚悟と勇気が足りず、飲み込んでしまうには溜め込んできたものが多すぎた。
 そっと自分の髪を撫でる手がある。シャラは顔を上げてその手の主の首にしがみついた。
 こんな時でなければこの男はシャラが身をすり寄せるのを避けようとする。自分がどこまでも計算高い女であるという自嘲を心に聞きながら、それでもシャラは離れられない。
「好き……」
 結局、自分に残っているのはこの言葉だけなのだ。呆気ないほど簡単な、たった一つの言葉によって自分は自分を苦しめるもの全てと戦わなくてはいけない。そしてその戦いを見て見ぬ振りをされるなら、自分は本当に彼をいつか殺したいほど憎しむかもしれなかった。
「……大好き……」
 熱に浮かされたように呟くシャラの髪を、大きな手がゆっくり撫でる。この中途半端な優しさなど要らないとはっきり言えたらどんなにいいだろう? でもそうしたら彼はあたしから離れていかないだろうか。あたしを嫌いにならないだろうか。あたしにもう二度と会ってくれないんじゃないだろうか……
 知りたくない。知りたくない。この仮定を投げたときにどんな目を出すのかなど、知りたくもないし考えたくもない。だから言ってやれることはそう幅がなかった。
「ねぇ……いつか、あたしのこと、殺してくれる?」
 一瞬自分を抱き留める肩が痙攣したのをシャラは感じた。
 彼の呼吸はいつものように静かだが、その僅かな所作で鋭く心に噛みついたことをシャラは知る。泣きたくなるほどそれが嬉しいような気もしたし、取り返しのつかないことをしてしまったような恐れも同時にわいてきて、シャラはねえ、と再び言った。
「あたし、死ぬときはあなたに殺されたいの。ねえ、そうしてくれる?」
「馬鹿なことを言うな」
「……そう……ね、馬鹿みたい……」
 シャラは小さくしゃくり上げるように笑った。彼のことばかり考えている自分が可笑しかったし、こんな簡単な泣き落としの罠にはまる男もひどく可笑しかった。
 でも───死にたい。彼の手で死ねたらどんなに幸福だろう。こんな事を考える自分は本当に馬鹿なのだろうか。
 それを思ってシャラがもう一度小さく忍び笑ったとき、裏廊下から通じる扉が叩かれるのが聞こえた。注文に出していたものが揃ったのだろう。シャラはぱっと体を離して小さな仕出窓から出される銀盆を受け取った。代金はあたしにつけておいて、と窓越しに小間使いに言いつける。
 出てきた食事を彼に差し出しながら、シャラは彼が火を消した煙管を手に取った。漢氏竜の彫刻のある柄に指を這わせる。この煙管ほどに彼にほど近くいられたらどれだけ嬉しいだろうかと下らないことを思い、胸内にそっと溜息を落とした。
 彼のしていることはあたしを緩慢に殺すことだ。だからいっそ一息に殺して欲しいと願うことの何がいけないんだろう。それをいつかこの男に言えるだろうかとシャラは彼女の神に視線をやり、ふと笑った。
 多分かなわないことであろうと思うことのほうが、空想の中では美しく見えるものなのだ。シャラはそれをとうに知っているはずであった。
「───ライアン……」
 彼の名を戯れのように口にして、シャラはもう大丈夫よと言う代わりに笑う。
 悲しいときは、笑うしかないじゃない?
 死にたいときは、尚更笑うしかないじゃない。
 あたしたちは、美しく着飾って華やかに笑ってこその緋房の籠の鳥なんだから。
 せめてその小鳥の中で一番に愛でて欲しいという願いに突き動かされて、シャラは上機嫌に見えるように笑った。
 笑いながら手に残る煙管を、胸に燻っている何物かのためにへし折ってやりたくなる。
 その時、ほんの少し彼を憎んでいる自分にシャラは気付いた。


  殺してよ
  お前が別離を告げる前に 私が憎んでしまわぬ前に 




 酒場の中はいよいよ暗い。注文の酒がグラスごと目の前に置かれると、中の液体が僅かな灯りに揺らいで琥珀色の淡影を男の手に落とした。下町と呼ばれるこの界隈でそれほど良い色の酒があるはずがない。この薄暗がりはそのせいなのだろうかとぼんやり思いながら男は客席の間に立ちつくす、酒場の歌姫を見つめた。
 声は神が人に与えた最良の楽器だと、誰かが言った。それが最良だとするならば、それは魂からほとばしる熱の量に浮かされてのことでないだろうか。
 けれど、それは悪くない。男はふと唇だけで淋しく笑う。女が揺るがす声の中に籠もる熱は確かに魂の形に似ていた。
 歌はゆるやかに続いている。


   涙を持たない海鳥たちの 悲鳴は海へ墜ちるもの
  泣けずに沈んだ宿定は 閉じて籠もった貝のよう
  お前の元には届いている? 涙の代わりの、海鳥の歌

  探してよ
  波間にさすらう魂と 私の欠片をいつの日にか 

 夕方近くなってくると技楼には次第に活気のようなものが満ちてくる。タリアの火入れの時間はまだ少し先だが、それに合わせて開く店棚の支度のために、遊女達はお互いに品評を試合ながらの化粧に余念がない。
 この時間、彼女たちの忍び笑いや取り交わす言葉で地階の客用の食堂は明るい活気に溢れているのが通常だ。仲の良い遊女達はそれぞれにかたまって、化粧小物や簡単な装身具を貸し合ったりそれぞれにいる想い人の話をしたり、時間が来るまではくつろいでうち解けて過ごす。
 リィザも同じようにそこに入り、いつもと同じ椅子に座って簡単に化粧を始めた。水揚げの時に女将がしてくれた化粧が魔法のようであったと今更に思うがそれでも慣れというものはあって、最初の頃よりは全てがましに傾いている。
 外のざわめきが微かに流れ込んでくる。開業前だから外に面した格子の窓は閉められ、全てに簾がおりているが、音だけは完全に遮断できない。通りの浮かれるような賑わいは全くいつも通りの日常であった。
 リィザはちらりと外を見やり、微かに吐息を漏らした。深闇の始まりがそこに迫り来る時間、外の繁賑が華やかであればあるほど、心が暗くうち沈んでいく。リィザはそれには既に気付いているが、一体どうしたらいいのか自分でも分からないまま、ただ日々を流していることに怯み続けているのだ。
 水揚げから既に9ヶ月と12日を過ぎている。日数までがすらりと出てくるのは自分が一日一日を丁寧に、あるいは執拗に数えているからだ。この一日一日が、終わるのを数えている。指を折りながら日々が過ぎ去っていくのを見ている。
 そうやって待ちこがれているのは恐らく、朝を告げる遠い鐘声であった。あるいは早朝を歌う鳥の声、微かに白み始める空の色。
 その時間になると、明らかにリィザは安堵した。距離感を掴めないままに通り過ぎていく沈殿した空気から僅かな間でも解放されるかと思うと、自分でも情けないほどにほっとするのだ。
 こんなことではいけない、もっと努めなくてはという声が次第に自分の中で小さく縮こまっていくのが分かる。
 その代わりに聞こえてくるのは、何かに潰されるように呻いている自分の声だ。押し殺した呼吸の息づかいがひどく苦しげで、それを聞くだけでも胸がしめつけられそうになる。
 リィザは僅かに溜息をつき、その記憶を振り払おうとした。タリアの火入れの時刻は近い。そろそろ長く赤い夜が始まろうとしている。化粧と身繕いくらいは終わらせておかなくてはならなかった。
 鏡の中にいる自分の瞳にある光は弱く暗い。それを直視しないように気を払いながら、リィザは白粉を軽く肌に乗せた。
 元々日に当たって色素が浮く程度には白かった肌が最近は更に透明になってきている気がする。見習いの頃とは違い、遊女となった今では外で日に照らされることなどあり得ない。そばかすなどすっかり消えて、真白の雪のようだと時折は寝語りに口にする男もいるほどだ。
 それを思い出してふと漏らした笑みを鏡の中に自分で見つけ、リィザは一瞬僅かに唇を結ぶ。それは自分ではっとするほど嘲笑と酷似していたからだ。
 あざけっているのは男達か、それとも労働の質が変わった途端に美しくなっていく肌の現金な作用か───否、多分一番嗤ってやりたいのは自分だ。何もかもを微笑みで誤魔化し、真実をひた隠し、表面だけを慣れたように振る舞う心中で全く別のことを考えている自身なのだろう。
 この妓楼に来た頃、リィザは自分の身に起こった運命の流転を飲み込めなかった。毎日泣いてばかり、帰りたいと呟くばかりだった。それでもこの場所で生きていくことを納得して受け入れて、水揚げを迎えた。その時には確かに未来を良い方に考えようとしていたし、リィザなりに覚悟は決めたつもりであった。これが芝居や物語だったらそれで一件落着、であったのだろう。
 けれどどうしたことなのか、身体は頑なに全てを拒んだままだ。心は受け入れても、身体はぴったりと閉じられたまま、自分の運命を声無く呪い続けている───それが分かる。
 天窓から淡くこぼれ落ちてくる赤い夜光の中で男の手が自分の直肌を遊び始めると、呼吸が止まりそうになる。ぎゅっと目を閉じて一刻も早くその時間が過ぎ去ってしまわないかと息を潜め気配を殺していると、必ず悪い夢を脳裏に見た。
 それはあの貴族荘園で闇雲に働いていた頃の幻だった。幻影としては美しかった。あのころに見知っていた、虹や優しい小糠雨や蝶の乱舞や蜘蛛の巣の朝露や……それに、彼。思い出しては駄目だと必死でうち消そうとするたびに、自分がいかに幸福だったか満ち足りていたかを思い出す。
 そしてその瞬間、身体の上にある違和感に気付いてリィザは小さな悲鳴を上げて目を見開いてしまう。行為の最中におもむろに凝視されるほど男を興ざめさせるものもないらしく、大抵の客は鼻白み、何かを言う。それは直截な怒りであったり苛立たしい嫌味であったりしたが、言われた瞬間からリィザの身体はますます強張って、やがてそれは激しい苦痛に変わるのだった。
 それは勿論、自分が悪い。リィザは理性では理解している。
 相手は客で、自分は遊女だ。見合う金額を支払って楽しむ為にそこにいるはずなのに、歓待する側が醒めていることほど腹立たしいものもないだろう。それは分かる。けれど、何を自分に言い聞かせても納得させようとしても頑なな身体はどうしたらいいのだろう。これだけはどうしていいかも分からずに途方に暮れている。
 ───神様。
 逃げ込む先は、それしかなかった。水揚げの相手の男が無名神教会の僧職者であったのも何の偶然であったのか、最前から興味はあった無名神への祈りの聖句や紋様板の使い方などを教わることが出来た。名無き神は全てを知り、赦し、癒してくれるという教えに逃げ込みたくなるほど現実は閉塞という城壁の中に在って、そこから動こうとしない。
 だからリィザはそれまでよりの何倍も、真剣に祈った。助けてくださいとは言わない。どうか救ってくださいとも思わない。ただひたすらに、この現実から逃れる術として、安息を求める場所として、姿のない相手に黙祷した。祈りをしている時には現実という籠の中に在る疎ましいことも気の重いことも全て忘れていられた。
 ───神様……
 安息を少しでも探そうと、悲鳴と共に目を開けてしまった後はリィザは尚更目を固く閉じ何も考えまいとする。だがその所作をあざ笑うかのように幻は今度はそれまで相手をしてきた沢山の男達が与えてきた様々な苦痛に変わり、脳裏をぐるぐると回り続けるのだ。
 絶望という言葉がうっすらと胸に広がっていくのを感じるのはそんなときだ。その息苦しさを振り払う為にますます瞼を強く閉ざすと、ついには涙になりそうになる。───客といて涙を浮かべるなど、論外以前の問題だ。
 他にどうしようもないではないのだ、とリィザは自分を必死で言い含める。この妓楼以外に居場所などないのは理解せざるを得なかったし、自分でも納得したと女将に告げたからこそ水揚げもその後のこともあるのだからと。
 自分が在るべき場所はこの妓楼であることは明白であった。この中で自分なりの希望も未来も探していくべきで、それがいつか幸福というものへ至るかぼそい道を見つけてくれる……そのはずなのだ。なのに。分かっているのに。
 リィザは長い溜息になって鏡の中の自分に目を凝らす。
 時折訪ねてくるディーと他に二人ほど以外には常連客を持たないリィザは夜ごと客を誘う為に待合室に入らなくてはならない。身の空いている遊女達はそこか食堂かのどちらかにいて、通りすがりにでも目をとめてもらうのを待っているものだ。
 夕食は客のおごりにしてもらうのが殆どで、そうでなければ自分で頼まなくてはならないが、それには金がかかる。勿論妓楼の女なのだから客のものよりも安価だが、それにしても全てにつけて金が要った。
 その金はどうやって作るかといえば、結局客からの小遣いや客が頼む食事や酒に含まれている見返り料、そして指名料だ。何がいいとか嫌だとかご託を並べていては新しい衣装どころか下着の一枚も買えない。水揚げの時に多少のものは揃えてあるが、衣装も2枚や3枚では具合が悪いし、第一リボンや造花などの髪飾りに装身具なども多少無くては淋しく見えて余計に客がつかなくなる。
 この場所で生活をしていく為には客を取らねばならない、そういう機構は既にくみあがっている。なのに、それに馴染めず気付けば日数だけをひたすら数えている自分は一体何なのだろう。
 妓楼に売られた来たときにも自分の中の頑迷さに自分で微かに辟易したことがあった。今、その真芯の強情さをほとほと持て余している。
 男には慣れていくものだし行為自体には馴染んでいくものだと遊女達はみな言った。水揚げの翌朝にはそんなことは信じられないと溜息をついたものだったが、相手には慣れた。僧職のあの男からは女慣れた手つきや仕草などにも関わらず、どこか愛情めいたものの匂いを嗅ぎとった。その頃にはまだ男の腕の中にいるときに目を開くようなことはなかった気がする。
 僧職の男が秋を過ぎてぷっつりと来なくなり、やがてそれが転任であることを女将から知らされて後、完全に身体の感覚は閉じこもった。そんなことではいけないと思えば思うほど、吐息さえぎこちなくかたまっていく。
 他の遊女達の言う歓びというものを得ることが出来ない行為が、苦手から苦痛、苦痛から苦役に変わるまでそう時間はかからなかった。リィザは怯えているのだ。男という生き物全てが空恐ろしく、得体が知れなくて怖い。
 リィザが遊女としての素の部分にひどく乾いたものしか持ち合わせていないことは、肌を合わせていれば分かるらしい。怒る客、白けて不機嫌になる客、または逆にどうにか自分に感覚を与えようと躍起になる客、───そして、一番恐ろしいのはそれを知って殆ど一晩中責め苛む客だ。そういう性質の男はそれこそ文字通り夜の間中、言葉でも肉体でも彼女を追いつめることしかしない。多分、自分の怯えて強張り青ざめた顔もそれをあおっているはずだった。
 水揚げの相手には僅かに感じることが出来た情愛めいた空気は完全に見失い、どう探していいのかも分からなくなっている。こんな状態の自分にも僅かながらいる常連客というものが、一体何が良くてリィザに時折顔を見せるのかも分からない。
 ───それとも自分は彼らを憎んでいるのだろうか。どんなに冷えてあしらってもしつこく自分を買い続けるから?
 自分に問えばいつも答えは分からない、だった。反射的に否定が出てこないところが更にリィザを暗澹とさせる。馴染みの客達は行きずりの相手よりはまだ安堵を覚えることができるのに、彼らさえ厭うているなどと思いたくない。
 だが嫌悪感が少なく悪夢がやや淡いことと、愉楽というものを取り違えることは出来ない───……
 がちゃりという重たい音でリィザははっと我に返った。黒い制服を着た小間使いの少女が表の篝火にくべるための薪籠を扉の側に置いたのだ。細く扉を開けてその支度の為に外へ行く黒い衣装を見送り、リィザは鏡に向き直った。
 化粧はあまり凝ったことをしない。少し前に15になったばかりの肌は下手に飾り付けるよりも素の若さを売った方がいいと皆言ったし、同い年のシアナという姐妓もそうしている。だからごく簡単にそれをすませ、淡い色の口紅を置いて頬にかかる髪だけを後ろでまとめて百合の造花のついた櫛を挿した。
 この櫛はチェインの若い王の側近であるディーという男が彼女に買い与えたものだ。そう高価な品ではないが、衣装の布地がさほどまだ良くない。髪飾りにだけ金を注ぎ込んでいても均衡が取れなくて奇異なだけだろう。
 自分の指先が慣れた仕草で身支度を終えていく。仕上げの真珠粉を軽く目元に掃かせてぱたりと化粧道具の小箱を閉めると、それが合図だったように遠く一つ、空気をふるわせる鐘の音がした。夜の開始を告げる晩鐘の、予告の鐘だ。
 微かに絹のさやかな音がした。僅かに3名の遊女が立ち上がって自分の部屋へ戻っていく。彼女たちは客がつかなくてもこの待合室には入らなくてもいい権利を得ているのだ。この妓楼で一番良い部屋住の遊女達は揚げ代もリィザの5倍からというところで、客を選ぶ権利さえ在る。彼女たちが嫌だと言えば女将は上客を断るであろう。
 そしてそんな権利は彼女たちが特別である証左であり、リィザにはきっと降りてこないものであった。今のままでは無理だと考えるまでもない。
 正直なところリィザはほとほと嫌になっているのかも知れなかった。妓楼での生活も、男も、どこかに現実乖離したままの部分を残している。馴染めないと一言で斬って開き直ることが出来たらどれだけ楽だろうか。
 夕方が近くなるとリィザはいつもこんな気鬱に囚われる。次第に憂鬱は深く重くなっていき、鳴り響く晩鐘と共に簾があげられて通りに火が入ると、それは鉄のように固まって動く気配さえなくなってしまうのだった。
 ───早く、朝が来ないだろうか。リィザはこの夜の身の置き方などへの思考を振り飛ばし、ただひたすらに、解放される時間のことばかりを考えている。
 待っているのは朝、天窓から次第に白ける月が見えなくなって鳥の声がする時刻。自分の隣にいる見知らぬものがようやくいなくなる時間。夜の始まるこの時間にそんなことばかり考えているのがいかにも不遜で、リィザは微かに吐息を漏らし、立ち上がった。
 化粧道具を一度部屋に置いて裏階段から待合いへ下りてきたその瞬間に、耳に響き渡る四点鐘があった。火入れの時間である。巻き上げられた簾の向こう側の赤い光の洪水はこの日も目に痛いほど眩しくて、リィザはつい目を閉じた。

 この日の最初の客は泊まらなかった。まだ部屋にあがるのを差し止める時刻ではなかったから、リィザは身体と部屋の痕跡を丁寧に消してから階下へ降りた。身体の中の倦怠と嫌悪はこのまま自分の部屋で新しい毛布に潜り込んでいたいのだと一心に訴えているが、それに耳を貸してはならないことはよく分かっていた。
 そんなことをしても、結局何の進展にも進歩にも、無論解決にもなりはしない。どんな風に自分を慰めても宥めても潤わない性質に呆れながらも、根気よくつき合っていくしかないことは分かっている。それにどれだけの苦痛が伴うかという問題だけで。
 さすがに待合室には遊女達はまばらだ。そろそろ泊まりの客が主体になってくるほど夜は深まっていて、既に今宵の相手を見繕った娘達は自室に籠もっている。これから先の時間はやや揚げ代もまかることもあるから、外をそぞろ歩く男達の視線がちらちらと待合室の格子の向こうから注がれているのが分かった。
 リィザは格子のすぐへりにある腰台を見やる。身の空いた遊女たちが身体を置いて、外を行き交う男に視線を流して声をかけるための場所だ。数名の女達が既にそこにいて、格子の隙間から手を招いたり、お互いに何かを言い合って笑っている。
 そこに行かなくてはと思う瞬間には、リィザの足は動かない。おっとりとも内気とも表現できる怯えがちな性質が、見ず知らずの男に笑いかけるような真似をさせてくれないのだ。
 第一、何を言っていいのかもまだよく分からない。
 けれどいつまでもそこに杭のように立っているわけにもいかないとリィザが呼吸を飲み込もうとしたとき、後ろから声がかかった。
「空いてるわよ、あそこ」
 振り返るとシアナであった。リィザとは妓楼の中で唯一年齢が同じ少女だ。リィザのたおやかな風情とは反対の、煌めくような華やかさを放つ顔立ちは整っていて美しい。ライアンというチェインの若い王と容貌に共通するものが多かったが、どちらが綺羅しいかというならば、間違いなくこのシアナの方であった。彼女を目にする度に、はっとするほど綺麗だとリィザは思う。それは最初に出会った頃からまるで変わらない。
 リィザが一瞬自分に見とれているのに気付いたのか、シアナは肩をすくめて唇だけで笑った。彼女の仕草はどれも素っ気なくて強いが、そのどれにもさして悪意はなかった。
「今、身体空いてるんだったらあそこで外でも見てればいいじゃない?」
 シアナはまっすぐに腰台を指して淡々と言った。シアナねえさんは、と聞き返すと同い年の遊女は微かに笑って首を振る。
「あたしはこの後指名が入ってんのよ。部屋で待ってるのも暇だから、ここに誰かいないかと思ってさ」
 シアナはいいながら、リィザの背をとんと軽く押した。そこへ行くようにと促されているのが逆に楽に足を動かしてくれた。元々他人に指示されたことをつつがなくやり遂げてきた生活であったから、こうしなさいと強く言われると反射的に頷いてしまう。
 指名の入っている客というのはライアンのことだろうか。遊女間でもお互いの客の個人情報は秘匿が鉄則だったから聞くことは出来ないが、シアナの表情はさほど待ちかねているという風ではなかったから、違うのかも知れない。
 リィザが腰台に身を寄せて座ると、シアナがリィザの黒い髪を手で梳き流して何やら編み始めた。
「黒髪もいいわね、あたしも一度染めてみようかな」
 衣装には規定があるが、髪型なども自由になることの一つだ。リィザは背の中程で揃えているが、シアナの方は肩にまつろうあたりで切ってすそだけを簡単に巻いている。それがふわふわと彼女の秀麗な面差しを彩って、いっそう華やかに見えるのだった。
「シアナねえさん、でも今の髪型もとっても似合ってますけど」
 リィザの言葉にシアナは曖昧に笑い、そうねぇと呟いた。
 彼女の方がリィザよりも3年も早く水揚げを迎えているせいか、男のことにしても妓楼の中のことにしてもよく知っている。お互いに持っている性質が組違っているために実は雑談していても感覚の機微がよく掴めないのだが、これはリィザが薄々感じているならばシアナも思っているだろう。こうしたことは伝播するように正確に相手が鏡になる。
 けれどリィザを経験の浅いいもうととして、何くれと面倒を見ようとする辺り、根は悪い少女ではない。多分、それだけ分かっていれば良かった。
「───姐さん、客待ちかい?」
 格子の外から声がかかる。
 太い銅鑼声にリィザが僅かに怯みながら格子の外を見やると、朱塗りの菱木に手をかけた大柄な男がじっと二人の方を見つめていた。その視線は迷わずシアナの方に向けられている。二人並ぶと紛れもなく、人目を引くのはシアナなのだった。
 この瞬間に自分の胸に湧いたのが、微かな痛みだったのかそれとも大量の安堵だったのか、リィザには区別が出来ない。この男は自分に興味を持たないが、それが何故なのかを考えたいとは思わなかった。
 シアナはふっと唇をゆるめて笑った。リィザよりも遙かに面差しが整っていることを彼女は知っていて、こうした小さな表情に僅かに優越感のようなものが滲む。リィザはそれを当然だと思う。客の前で笑うことさえ難しい自分などよりも、今から美女になると明白で明るく振る舞う彼女の方がよほど大人びて華麗だった。
「あたしは待ってないわ、これから他の旦那様が来るもの……ねえ、この子は? まだ水揚げからそんなに経ってない新人よ。可愛い子でしょ?」
 ぐいとシアナの腕が自分を押し出して、リィザは籠のように巡らされた格子へ縋り付くような格好になった。のぞき込む男を、上目に見上げる。僅かな時間男は考えていたようだったが、急に明るく笑った。この笑顔になったときの返答は決まっている。
「いやいや、俺は姐さんが空いてるときにまた来ることにするよ」
「そう……じゃ、またね」
 シアナはぷいと顔を逸らす。こんな高慢に見える仕草でさえ、彼女は華やかさにすり替えることの出来る、希有な少女ではあった。
 雑踏の中に男が消えるのをリィザはぼんやり見送る。あの行きすがりの男がリィザを買わなかったのはシアナと比べて明らかに顔立ちが平凡だからだろうか、それとも自分の隠し持った性質を素早く嗅ぎとったからだろうか。直感のようにそれを見抜く男達もいる。
 リィザは小さな吐息を漏らした。あの男が自分を買わないという選択をしたことが、明白な安堵になってしまうのが自分でも疎ましい胸の作用だった。と、急に耳が引っ張られてリィザは隣の少女を見る。シアナの方はやや機嫌を曲げたらしく、むくれたようにとがらせた唇からおもむろに溜息を吐いた。
「あんたねぇ、せっかく勧めてんだからさ、お愛想の一つくらい言いなさいよ」
「あ……ごめんなさい……」
 リィザは目を伏せて小さく謝罪を呟いた。違う違うそんな言葉など口にしたくないのだと誰かが耳の奥で叫んでいるような気がしたが、それは黙殺するしかない。今更処女だと気取るわけでもないし、この9ヶ月間で相当の数の男を知っているのは事実だ。
 リィザの反応のにぶさにシアナは顔をしかめ、長い溜息をついた。何かを言われるよりもそのほうが応えた。
 リィザはもう一度ごめんなさい、と言った。
「……謝って欲しいとは思わないけど」
 シアナは中断していたリィザの髪結いを続けながら低く尖った声で言った。
「あんたがそうやって不幸です不幸ですって顔してるとさ、こっちも滅入ってくるのよね。何とかならないの、それ。もうちょっと明るい顔してればお客だってもっとつくわよ」
「そう、なんです、けど……」
 だが実際どうしたらいいのか見当がつかない。男という未知の生き物は、身体を重ね合わせた後でも未知のままであった。
 見えないものに好奇で以て突き進むことが出来るのはそんな性質の女だけで、リィザのように見えないものに対峙したときにまず恐怖を覚えるような者は、ただひたすら怖い恐ろしいと震えているしか出来ない。
 リィザの返答はやはりシアナの気に入らなかったらしい。彼女は苛立ったように軽く舌打ちすると、理解できないと言いたげに首を振った。それも仕方ないだろうとリィザは思う。シアナが自分を分からないのと同じように、自分も彼女がよく分からない。
 ライアンに彼女が夢中になっていることは傍目にも明らかであったが、あの端正な顔立ちの男の一体どこがそんなに好きなのか全く分からない。それに彼を深く恋しながらも他の客もあっけらかんと受け入れていることに、矛盾を感じないのだろうか。
 ……勿論そんなことを聞けば彼女が不機嫌になることは分かっていたから口には出したことがないが、リィザにはシアナの明るさも不思議だった。彼女とは仲の良い姉妹にはなれても、決して愛し合う友人同士にはなれないと思うのはこんな時だ。持っている性質が違いすぎる。
 けれどシアナが何くれと気をかけてくれることも本当だったから、シアナについてはよい先輩としてリィザは彼女を敬った。シアナにもそれは分かっているのだろう、時折かみ合わなくなる会話などには執着せず、構ってくれるのはそのためだ。 
 シアナは今までの会話のことなど忘れたようにリィザの髪をいじっている。細い指が器用にリボンと髪を編み合わせていくのを壁の鏡で見ていると、シアナを呼ぶ女将の声がした。指名の客とやらが来たのだろう。行きがけにしっかりしなさいよ、とリィザの背を軽く叩いてシアナは待合室を出ていった。
 取り残されて、リィザは赤い河のような通りを見やる。そこを流れていく人の波はそぞろに陽気で、これからの夜を楽しむつもりの男達の期待感が見えるような気さえした。
 ふっと溜息をつこうとしたとき、隣にいた遊女がリィザの膝をつついた。女将が自分を呼んでいるのが聞こえた。
 待合室を外から見かけて時折は指名する男もいたし、特に敵娼を指名しない客に女将が空いている遊女をつけることもある。仕事に直接関わらないことは大抵昼間自室に呼んで話をするのが女将の癖だったから、客に違いなかった。
 待合室から出ると、女将が機嫌良く頷いた。その奥に立つ男には、見覚えがある。
 リィザは一瞬翳りそうになった面輪を、会釈のようにして伏せることで誤魔化した。
「指名だよ、リーナ。旦那様をご案内おし」
 女将の声に頷いて、リィザはディーに淡く微笑んでみせる。笑いかけることが出来る程度には、馴染んでいる相手だった。
 ディーはいつもと同じくそれに合わせるように笑う。その笑みには確かに情のようなものが滲んでいる。彼が外で何をしているのか薄々知っていても、リィザの元を訪れるときには血生臭い気配は消すように努めてくれるのはありがたかった。リィザの臆病さも物怖じする性格も、半年も経てば分かってくるのだろう。
 部屋へ入るとディーは服の前ボタンを片手で器用に外した。リィザは彼の背後に回り、上半身を覆っていたシャツを肩から剥がすようにして脱がしてやる。よくついた筋肉があがる右肩に比して、左側にはそれはない。人の体を造り上げる血肉の鎧の替わりに、金属の留め金がにぶく光を反射している。
 機械人という名称は後になってから聞いたが、失った身体の一部をこうして補うことは時折あった。金額によって多少は機能にも差があるが、彼の腕は安くはない部類に入る。その証拠に、簡単な動作なら胸筋と複合させた疑似神経の働きで単独で動かすことが出来た。
 が、腕はそれなりに重く、動かすのにも労力が要るために、神経を休ませるべき妓女の部屋では大抵外してしまうのだとディーは最初の晩に言った。
 今日もその言葉通り、腕を外しにかかっている。手伝うのも初めてではなかったから、リィザはいつものように彼の右手の届きにくい左肩の後の留め金をあげて腕を身体から分離した。ディーは礼のつもりなのだろう、リィザの頬を軽く撫でると寝台の脇の椅子に腰を下ろした。食事は、と聞かれてリィザは済みました、と答えた。それは嘘だったが、先の客が帰った後の気の重さなどで食べる気にはならなかった。
「……お前さんは会うたびに痩せていく気がするな? 大丈夫か」
 彼には気遣われてばかりだとリィザは苦く微笑み、はい、と頷いた。
「水揚げの頃とあまり体重は変わらないんです。ディー様が心配下さるから、そんな風に見えてしまうんでしょうか」
 リィザはディーに気を遣わせたくなかった。本来気遣いをするのは自分の役割であるはずなのに、逆のことをされると気恥ずかしい。但し痩せているというのは本当だ。体重が変わらないというのも嘘ではないが、背が伸びていて、相対的には痩せている。
 ディーは体格のことにはそれ以上触れなかった。リィザが痩せ気味なことを自分で気に病んでいるのを察しているのだろう。こんなところでこの男の優しさを知るにつけて、彼に対して何故もっと心が開いていかないのか、自分で不思議になる。それは数少ない常連客といえる男達全てに共通することでもあった。
 リィザの特性なのか、彼女を気に入って時折通ってくる男達は優しい。多分それはリィザ自身が怯えなくていい空気を持っている相手であるからだろう。相手を怖がっているときの自分の弱々しい怯えに怒りを覚えたり白けて苛立ったりするような男は、まず二度と来ない。
 食事を終えたディーと雑談などに興じていると、遠く鐘が鳴ったのが聞こえた。これは日の最後の鐘だ。雪崩のように遠く幾重にも拍っているのがわかる。
 ディーが天窓を見上げ、時間だな、と呟いた。リィザは一瞬ぴくりと肩が痙攣したのを感じ、それには気付かなかったように部屋の灯りを落とした。
 この最後の一点鐘を合図に妓楼の娘達は闇に潜り込む。妓楼の扉も閉められて、これ以後は翌日の開棚までは客は中にはいることは出来ないことになっていた。
 周辺の妓楼も規定によって同じ行動をしつけている。だから、夜半の一点鐘の後は、赤い格子の町であることが信じられないほど青く澄んだ夜が天窓から差し込むのだった。
 寝台の脇の小卓に残した油皿の炎だけが揺らめいている。ディーが黙ったまま自分を引き寄せて、丁寧に髪をほどいていく。彼の指が自分のこめかみ辺りから髪の中へ入る。ゆっくりと頭部の輪郭をなぞる。
 リィザは目を閉じて、じっと息を潜める。自分が情けなくて、ただ彼に申し訳が無くて、涙がこぼれそうになる。彼のことを嫌ったことなど一度もない。ディーは出会った頃から彼女に辛く当たったこともなかったし、声を荒げたことさえない。
 だのに、心安いはずなのに、身体のほうはいつものような苦痛の予感に強張ってどうにもならない。彼に申し訳ない、悪いという罪悪感はあるのに、それは少しも胸の中からこぼれてこなかった。
 片腕の欠損の為に、ディーはいくつかの要求をいつも囁く。それに頷いて従って、やがて彼の身体が自分に被さると、リィザは現実的なものと罪のものと、両方の重みに耐えかねるように吐息になる。それが何かの加減か、男が快さのものだと思いこんで一言二言、呟く言葉にリィザは答えない。ただ、没頭するふりをする。
 自分は勤勉な女優のようだと思うのはこんな時だ。けれど、勤勉であればあるほど惨めな気持ちになる。一体これはどうしたら解消するのか、それとも一生自分について回るのか。
 一生この妓楼の中にいるという仮定がちらっと脳裏をかすめ、リィザはその想像の荒涼さに呻く。
「……どうした」
 かすれた声が自分のごく近くに聞こえる。いいえ、と首を振ってリィザは彼の首に腕を絡めて引き寄せた。彼の唇が自分の首筋を確かめるようになぞっている。
 ディーの視線が自分のひどく醒めた表情に向かないようにして、リィザは天井の方向を見あげた。
 天窓に映る月。その青ざめた色をじっと見つめ、リィザは待っている。───朝を。解放される時間を。しばらくは放心していられる、その瞬間を。
 いつか彼を愛せるだろうかという問いには答えがない。けれど待ち続けている。誰もがいうように、愛し、愛される、その相手を。全ての苦しいことから解放されるはずの、その愛を。
 それがこの男になるかどうかは分からない。もしくは彼の腕の中でそんなことばかり考えていることが答えかも知れなかった。
 でも。リィザは溜息をつきそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。
 いつかという魔法があるのだと、自分に言い聞かせていればそれを遠い明日には信じることが出来るだろうか。いつか誰かと巡り逢うだろうか。いつか誰かを愛するだろうか。自分に欠けているのは恐らくそれだ。
 全てを怖がって閉じこもってしまいそうになる心、追憶と現実の間でばらけて砕けてしまいそうな自分、それをまとめてあげてくれるたった一つの力。
 その魔法を、いつか。
 相手がディーであるならそれも良かったが、今はこうして彼の肩越しに月を見上げる勤勉で怠慢な娼婦だ。リィザは目をすがめた。天窓の月がやわく歪んだ。


探してよ
波間にさすらう魂と 私の欠片をいつの日にか



 まばらな拍手が酒場に起こる。伴奏の竪琴がひときわ大きく込み入った和音を奏で、それはやがて一段高くずれた主旋律を導き出す。
 歌い女はそれに頷き、豊かな胸に手をあてて深く息を吸い込んだ。
 てらてらと安く光る口紅の色が、開いて溢れてくるのは───歌。
 女は歌う。
 あいのうたを。


  生まれつきの海鳥たちが うたいつづける、魂は
  お前がどこかで捨ててきた 真珠のような、涙と似ている

  私は今宵もお前を呼ぶ
  お前を呼び戻す為に うたいつづける、海鳥の歌

  愛してよ
  お前の全てをなげうって
  愛してよ
  お前の胸の中にあるはずの
  愛してよ、愛してよ
  流れる血潮 その最後の一滴までに刻んでよ
  愛してよ、愛してよ
  お前の胸に届くまで 叫び続ける、私の声で
  繰り返し、繰り返し
愛して欲しいと、かもめたちはうたう


 ……やがて夜は更けていき、女の歌は記憶の中へ放り投げるようにしまわれる。酒場女は常連客の愛想に頷いて、彼らのおごりの酒をあおった。
「……彼女は昔、どこかで歌を?」
 男は聞いた。酒場の主人はさあねと笑った。
「こんなのは流行歌だからね。劇場に出ている女がこんな安い歌を知っているなんぞ、聞かないね」
 主人の言葉はもっともであった。男は苦笑し、酒と女へ渡す小銭を置いて店を出た。
 外はまだ、夜の半ば。夏の宵は短いが、それをひたすら楽しみ尽くそうとするための赤い格子の町はまだ眠らない。男は僅かに溜息をつき、雑踏の中へ紛れていった。

 どこかから、安い歌が聞こえる。流行歌に乗せた薄っぺらい愛を唇の端で嘲笑しながらクインは赤い迷路の中を歩いていた。
 今日の客は彼の気に入らなかった。初めて買うはずなのにやけに尊大で、それを思い切り顔に出したクインを薄汚いと罵ったのだ。じゃあそれを買うあんたは何なんだよとクインはつい笑いだし、かっとなった客に平手で打たれ、腹を立ててそのまま部屋を出てきたのだ。
 明日になればきっとオルヴィから一くさりあるだろう。この仕事は彼女がとってきたものだから、嫌になったら放り出しても構わないとクインは決めてかかっている。チアロの仕入れてきた話であったなら多少は忍耐することも、オルヴィへの当てつけのためであれば我慢するという選択はなかった。一晩くらい投げても十分に余裕がある程度には、忙しい。
 赤い格子棚の中をぼんやり彷徨いながら、クインは苛々と爪を噛む。
 今日は素の少年の姿であった。身長が最近日ごとに伸びていくようで、女装だと却って目立つようになりつつある。背の高さが既に少女の範疇には修まりが悪くなってきていた。
 だから女装と通常の服装とを最近は取り混ぜている。どちらにしても目立つことには変わりなかったが、少年の格好をしているときには眼鏡をかけているのが普通だ。度は入っていないが、多少印象が変わる。髪は魔導で黒く見せ、体温を安定させる為の保定の魔導を施した指輪をはめて、あとは少しだけ化粧で面差しの印象をいじるのだ。
 妓楼の硝子に映る自分の顔がひどく険立っているのを見つけ、クインは不機嫌にそこから顔を逸らした。この夏が終われば15になる。母の罪という言葉が重く胸に沈んでいて、そこへ歩き続けていく一日一日が息苦しく、気鬱だった。
 二度と会いに行かないわけにもゆかないし、真実の中核となっている部分を知りたい気持ちは確かにある。けれどそれに母と自分の間の血縁の否定や贖罪を含まなくてはならないとなると、理性などとは全く別の部分から、聞きたくない知りたくないと叫ぶ声がして、クインはそれを無視することが出来ないでいる。
 ───苛々している。
 それは確かだった。女の客を取ってみるかという提案に飛びついたのはいいが、これもまったくチアロが最初に言ったとおり、気休めにしかならない。むしろ適当に調子を合わせながら天井の模様で謎解きをしている男のほうが何も考えないでいられる分ましかもしれなかった……若い女がいないのも確かではあったけれど。
 クインは吐息を漏らして髪をぐしゃぐしゃとかき回した。この晩はまるきり空いてしまったが、まっすぐアパートに戻る気にはならない。
 以前同じようなことがあって早戻りしたときに、自分のいないがらんとした建物で微かな声を聞いてしまったのだ。
 彼の住み着いている部屋は最上階だが、地下水路から抜けて上へ向かう階段の途中でそれは聞こえた。不審に思ってそっと声のする部屋に近づきながら、クインは仕方ない笑みになるのを押さえられなかった。
 彼の住処とは階層が違うその部屋にいたのは一組の男女であるようだった。乱雑に放り出されたままの家具が視界をでたらめに遮っていて姿は見えないが、声の具合からして間違いないと見当がつく。無人だと思って紛れ込んできたのだ。ここは俺の城だから出て行けというつもりでクインが口を開こうとしたとき、男のほうが半身を起こした。右肩にはっきりと分かる古い傷が見えた。
 その傷をクインは知っていた。数度とはいえ寝たことのある男にうたれた刻印を、忘れるはずはなかった。苦い感情が口の中に湧いた。何かを言ってやろうとしたとき、女の声が今頃、と呟くのが聞こえた。
(───今頃、あの子も、同じことしてる……)
 その声もクインは知っていた。チアロと共に彼の身辺にいて、仕事を世話し生活の細かな面倒を見る役割を与えられている女。クインはきつく奥歯をかみ合わせた。怒濤のように巻き起こった眩暈は、恐らく怒りのためであった。
(奴のことは今は関係ないだろう)
 ライアンの声が低く答えた。その声には怒りのようなものが籠もっていて、オルヴィは小さく喉で笑ったようだった。クインは足音をたてないようにして、そっとそこを離れた。
 クインの仕事は通常朝までかかる。拘束時間が翌朝の一番鐘までであることで、大抵の客は彼を一瞬でも長く手元に置きたがったのだ。二人とも自分が朝まで戻ってこないと思っていたのだろう。
 自分の部屋で絡み合っていたなら絶対に赦せなかっただろうとクインは思う。そうでなくても、オルヴィのことは最前から気に入らなかった。ライアンと似た寡黙な質の女だったが、彼女が自分に最初から好意の欠片もいていなかったことは肌に感じている。
 それはこのせいだったのだろうかとぼんやり思い、階下から時折聞こえる彼女の声から逃れるように毛布をかぶって目を閉じなくてはならなかった。
 逃げたのだという自嘲と、ライアンへの苦い怒りと、オルヴィへの嫌悪が混じり合った末にクインはこのところひどく苛立っている。だが、今日も早く戻れば同じ光景が広がっているような気がして、居たたまれない。チアロに愚痴のように訴えると友人は決まり悪そうな顔をして、いつか話さなくちゃいけないとは思ってたけど、と言った。チアロも知っていたのだ。
(女がチェインで暮らすのは大変なんだよ。チェインなんて男ばっかりだから下手なことすりゃ便所にされて終わりだし、そんなことなら町に立ってりゃ金になるからな。だからライアンの周りにいることを選んだんだろう。彼女、字が読めて計算が出来るし、無口だからライアンには合うみたいだ)
 ライアンと寝たのはオルヴィなりの保険だろうと付け加え、チアロは気にするなとクインに笑った。
 ライアンがあの女を寄越した理由の一端はそれで分かった。オルヴィはライアンの愛人の一人で、それをつてにチェインでのし上がって行こうとしている種類なのだ。そしてライアンもそれを承知しているであろう。自分の周りにいることがどんな羨望と利益を生むかを知らないわけではあるまい。
 チアロから話が行っているのかいないのか、ライアンもオルヴィもそれ以後態度を変えることはなかった。けれどクインにも見知ったことがある。少し前からライアンの左の耳朶に碧玉が留められているが、オルヴィの右耳にもそれがある。石の形や大きさは殆ど同じだが、彼女のほうが紅玉なのは揃えたのだろうか。オルヴィは時折それを彼に見せつけるためなのか、わざわざ右の耳に髪をかけるような仕草をする。
 嫌な女だ、とクインは歩きながら顔をしかめる。あの女と気が合うなどという幻想は抱いたことがないが、ライアンを挟んであちらが寵を誇るのは、自尊の意地にかけても認めることが出来ない。
 今夜の客があの女の持ってきた話で良かったとクインは当てつけに思い、そして長い溜息になった。今戻れば同じ事が行われているかもしれず、それを関知した瞬間に今度こそ声を上げて彼らをなじれば敗北感だけが残るのは分かっている。面白くなかった。
 不機嫌に俯いたままクインはタリアの赤い格子の中を回遊している。男も女も彼は客として巡りあうままに知ったが、女であっても自分を思うようにしようとする相手には少しの関心も持てなかった。
 同じ女でも、自分が全ての主導権を握ることが出来れば違うかも知れない。恋人を作るという選択肢も本当はあるのだろうが、誰かと巡り逢う機会など無いに等しかった。
 一番身近にいる女といえば実はオルヴィなのであるが、それを思う度に冗談じゃないという白けた気持ちになり、最後は失笑がこぼれてくるのだった。
 けれど今、自分の巣であるはずのアパートには戻りたくない。帰る場所を一時見失い、ふらふらと華やかな迷路の中をうろついている自分が可笑しくて、クインは唇を歪めて鼻を鳴らした。
 母親からの乖離、心預ける相手の不在。その二つが入り混じりあい、手を取り合って踊りながら、胸の内でただ身の切るような寂しさを訴えている。
 お前を心から愛してくれる人、お前が本当に愛する人に出会えればきっと寂しさも消えると母は言った。それは真実だろうとクインも思う。母の語る言葉は彼にとって、いつでも煌めくように美しい真実であった。
 けれど、現実は理想のようにはいかない。その理想を求めて胸の痛みに殉じるのか、手に入らないものだと諦めてこれからも同じように日々を流していくのか、その選択肢は自分の前に並べてみせるだけで辛かった。
 どこからか歌が聞こえてくる。この春先から時折流れる、お仕着せのような愛の歌だ。
『涙を持たない海鳥たちの 悲鳴は海へ墜ちるもの───』
 題名は知らない。かもめがどうとか、海鳥がなんとか、そんな淋しげな歌だった気がする。まともに聞いたことのない歌の俗っぽさにクインは肩をすくめた。こんな物欲しげな歌を考え出す奴はよっぽど強欲に違いない。
 そんなことを思いながらクインは歌の出所を探すようにぐるりと周囲を見回した。
 タリアの大通りからは少し入ったこの界隈も、並ぶ店棚は妓楼が圧倒的に多い。顔見世のための格子部屋から手招いている、白く優しい腕たちと笑い交わす女たち。クインがちらりと視線を向けてやると、彼の尋常でない美貌にあがる歓声。
 今夜はどこかへあがろうかとふとクインは思いつき、自分の耳に嵌めた大ぶりの真珠を撫でた。
 現金はあいにく殆ど持ち合わせていないのだが、以前客からもらったこの耳飾りを換金すれば足りるはずだ。大抵出入りの鑑定屋が妓楼にはいるから、揚げ代とやらを差し引いた釣り銭を、帰る前に貰えば済む。
 ……妓楼などに足を入れるのは実は初めてなのだが、大体の仕組みはチアロとの雑談で知っている。多分相手のほうでどうにかしてくれるはずだし、女そのものは知らないわけではなかった。
 ライアンへの不愉快な怒りも、オルヴィへの苛立たしさも、全て忘れてどこかで明るく華やかに発散するというのは悪い考えには思えない。ただの思いつきにしては欠損はなさそうで、クインはやや考えた末に娼家にかかる絵看板を見つめた。屋号は駒鳥と桜桃だと聞いている。確かライアンが通いつめ、チアロが必死で気を惹こうとしている女がこの近辺の妓楼にいたはずであった。
 ライアンがひたすらに構いあげている女、チアロが夢中になる女というのは一体どんな女なのだろう。オルヴィなどはライアンの愛人に過ぎない───とクインは底意地悪く笑う───あの嫌気の差すほど情感の薄い男が愛しているという女。チアロは美人だと繰り返していたが、この友人の場合は惚れた欲目の無意識の嘘だったとしても不思議ではなかった。
 クインはゆっくりと来た道を戻り始めた。この先は組合に入っている妓楼が少ない、次第に全ての質が落ちていく坂道でしかない。気付かずに通り過ぎたのだろう。歩いていると歌が近くなる。音源はどうやら遠くない場所にあるようだ。
『泣けずに沈んだ宿定は 閉じて籠もった貝のよう───』
 悲しげな声が歌っている。それを聞くともなく耳に入れながら、クインはことさらゆっくり歩いた。自分の部屋に戻れないという奇妙な現象が腹立たしくもあり、けれどたまさか思いついた思案が存外面当てには良さそうだという意地の悪い面白みもある。ライアンへの当て付けとするならこれもよさそうだった。
 妓楼はそう時間をかけずに見つけることが出来た。こぢんまりというには大きいが、タリアの大通りの店に比べれば遙かに気安そうな風情だ。屋号である駒鳥と桜桃の浮き彫りになった看板がぶらさがっている。ライアンの女だという遊女の源氏名は聞いていないが、聞けばなんとかなるだろう。
 クインはそろそろと妓楼へ近寄っていく。大体の話は聞いているものの、最初に足を入れるには多少の踏ん切りがいった。妓楼の地階は大抵食堂と顔見世のための待合室になっていて、両方が塗り格子の向こう側に見て取れるようになっている。赤い衣装を着ているのが遊女、白が見習いで黒がただの下働き、だったはずだ。
 一体どれがライアンの執心するという女なのか、クインは格子の向こう側をほんの少しの間、眺めやる。女達はそれぞれに美しく装っており、待合や食堂で華やかに笑ったり客であろう男と何かを話したりしているが、どれがそうなのかはやはり分かりそうになかった。
 あまりこれは考えることではなかった。思考を重ねて理解できることと、賽を投げてみるまで分からないことがある。クインは自分の性癖を緩く笑いながら、妓楼の格子からこぼれ落ちてくる明るい光のほうへ歩いていった。
 ───と、その耳に微かに異音が聞こえた。硝子が砕ける音はどれほど小さくてもはっと首をすくめたくなるような痛さであった。
「───ごめんなさい……ごめんなさい……」
 一瞬の空白の後、壊れてしまったようにそれだけを繰り返す細い声がする。それに被るのは客であろう男の怒鳴り声、そして怯えたように弱々しくも同じ事をひたすら呟く声、だがそれは何かに窒息するように聞こえなくなる。
 クインは足を止めて格子の向こう側へ視線をやった。食堂が見渡せる格子に男の大きな手が遊女の喉を掴んで身体ごと格子に押しつけ、何かを早口で言っている。
 他の遊女達が悲鳴のような声を上げて客に縋り付く。男は何かを低く言って喉輪にしていた手を離し、おもむろに華奢な体つきの遊女を平手で思い切り打ち据えた。その音が自分の鼓膜の近くに炸裂した記憶が一瞬戻り、クインは顔を引きつらせた。
 殆どたたきつけられたように遊女が食堂の格子に背を打ち、崩れ落ちた。長く豊かな黒髪に挿されていた百合の造花が片方ぽろりと格子の外側へ落ちて、風に送られ通りのほうへ転がる。
 クインは足をとめて顛末を見やった。
 客の男はどうやら女将なのだろう中年の女に食ってかかっているが、女将のほうはそれを適当に慰撫するつもりのようだ。食堂の奥の方に小間使いの少女が先ほどからせっせと上等の酒や食事を用意している。
 遊女達もこぞって男の機嫌を取り始め、とってつけたような明るいさざめきが空気を支配しようとする奔流の中で、黒髪の遊女は誰にも構われずに俯いたまま、打たれた頬を押さえた。細い肩が震えているのが見える。客に打たれることも暴力をふるわれることも、クインは自分の身に甦るようでぞっと背を冷やした。直接の肌の痛みよりも、見えない傷として胸に突き刺される痛みのほうがよほど辛いだろう。
 その遊女がひどく哀れに思われてきてクインは足早に造花に近寄り、拾い上げた。大して良い品でないのはすぐわかったが、遊女は格子の外へ勝手に出ることは出来ない。小間使いの少女がこの花に気付くまでには散々踏みにじられてしまうだろうという予測もなぜだかひどく哀しかったのだ。
 返してやろうと近寄っていくと、彼女がまだ少女と呼べる年齢であることにクインは気付いた。恐らく自分と対して年齢は違わないはずだ。肌の白さ、そこに被さる黒髪の見事な対比、けれど打たれた衝撃のせいなのか、まだごめんなさいと呟きながら震えている。頬を押さえる手では隠しきれないほど大きな赤い痕跡が、くっきりとそこに残っていた。
 クインはそれを見ないようにしながら格子に手をかけ、なあ、と荒ぶる男の気を引かないように小声で言った。
「───なあ、これ、あんたの花だろ……」
 掌に造花を乗せ、クインは格子の隙間から差し入れるようにしてやる。少女が頬を押さえたまま、ゆっくりと彼を見上げた。
 その瞬間に、クインの目の前に広がったのは黒く輝く深淵のような宇宙だった。一瞬遅れてそれが少女の大きな黒い瞳に潤んでいた涙の輝きだと気付く───気付く、時には既に、クインは息苦しさを覚えて喘ぐように喉を鳴らしていた。
 ふっと世界の音がまるで消えてしまったような刹那の時間に、転がり込んでくるのは歌だ。
 誰かが、どこかで歌っている。
『探してよ 波間にさすらう魂と、私の欠片をいつの日にか─── 』
 それだけが聞こえる。まるで何かの暗示のように。
 今自分の前にあるのは一体何だろう。頭の中が次第に白くぼやけて霞み、その代わりに真闇色に美しい夜空とよく似たものが広がっていく。
 何かの壮大な光景に似ている。分からない。これは何だろう……
 魂を抜き取られたように少女の目を見つめていたクインの耳に、微かな、彼と同じほど呆然とした吐息が聞こえた。それはやはり震えていたが、先ほどまでの暗い彩りでは既になかった。
 少女の目が限界までに大きく見開かれ、その中の光がひたと彼を見据えて離さない。
『愛してよ お前の全てをなげうって……』
 かすれた歌声以外には、互いの胸衝かれるような呼吸しか聞こえない。
『愛してよ 流れる血潮 その最後の一滴までに刻んでよ───』
 クインの手から知らず、百合の造花が転がり落ちた。
 星が瞬く束の間、あるいは永遠のような悠久の時間。
 二人は惹かれ合うように、求め合うように、運命を互いの中に探すように、目線さえ離せずただじっと、見つめあっていた。