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2.赤い小鳥

 彼女は生まれたときから奴隷だった。奴隷の子は奴隷と決まっている。無戸籍の連中が彼女の父を金に困って下働きとしてこの貴族の荘園屋敷へ売り、母も同じように売られてきた。その二人の間に生まれた娘であれば最初からいないも同然で、だから養ってもらい、一人前の仕事が出来なくても置いてもらえるだけで幸福だった。
 彼女の記憶には父の姿はない。父は彼女が2才の時に病で死んだのだ。彼女が生まれたときに主人が祝賀として撮ってくれた記念写真の微笑みだけが、彼女の知る父であった。ぎこちなくゆるめようとしている口元とそれに比して柔和な目が、父の優しい不器用な性質を教えてくれる気がした。隣に自分を抱いて映る母も若い。10才の時に母親も事故で亡くなってからはこの写真が殆ど唯一の形見だった。
 母を失ったとき、彼女はまだ子供と呼ぶべき年齢であったが、物心つく頃から下働きとして体を動かしてきたことを主人は評価してくれたらしい。荘園に残ることを許されてからは彼女は誰よりも一所懸命に働いた。
 明け方には起き出して、まずは厨房の掃除から。専任の料理人がやってくるまでにはそれを済ませ、指示されていたことをおおかた終えておかなくてはいけない。少し早めの朝食を簡単に摂ると主人とその家族が起き出す時間になるから身支度を手伝い、後始末をする。その後はいいつかったことがあればそちらをし、なければ広い屋敷の手入れなどに日々を過ごしていく。
 けれど彼女はそのどれもが嫌いではなかった。例えば硝子一つにしても丁寧に、丹念に磨けば拭く前よりももっときらきらと光を通して廊下に美しい模様を作ってくれる。馬だって愛情を込めて世話をしてやればどれだけ優しい目をするか。
 掃除一つ、洗濯一つ、手を抜いては自分が本当にいいと思う状態になどなりはしない。無心にただひたすらに働いた時だけ、神様はご褒美のように綺麗なものを見せてくれる。
 神様、と彼女はその存在についてぼんやりと思う。彼女は勿論学校になど縁はなかったし、時々主人達が通っている教会というものに足を運んだこともない。
 だが主人の家族のうち一番年齢の近い少年が神様と言うとき、その口調には冒しがたい尊崇と温かな憧憬が潜んでいるようで、それを発音する唇の動きごとに彼女は胸が膨らむような気がした。
 雨上がりの雲の切れ間から細く差し込む光の糸々。朝露に輝く花壇の薔薇と飛び交う蝶の羽音。沢山の幸福に美しいものは皆、自分たちの手の届かないところからの贈り物だ。目で見て肌で感じて受け取ることの出来る幸福は、沢山ある。主人達のような上等の服や豪華な食事など欲しくないと言うなら嘘になろうが、彼女は自らの範囲で幸福を数えるのになれていた。
 神様。
 時折彼女は眠りの前に屋根裏の自室で少年がするように手を胸の前に組み、そっとうなだれる。他愛ない祈りは聖句も良く知らない彼女の精一杯の夢想ともいえた。
 どうかもう少しだけ背を伸ばして下さい。もう少しだけ美人にして下さい。ほんのちょっとだけでいいんです。沢山働いて、一所懸命何でもしますから―――
 そして横の鏡をちらっと見て、首をかしげて苦笑するのだ。
 父も母も美形ではなかった。それは自分にも受け継がれている。人より少し大きい黒目がちの瞳が可愛いと女中頭は誉めてくれるが、これは他に目立ったところのない平凡な顔立ちの中では却って違和感に思えてならない。真っ黒でたっぷりした髪も何だか鴉のようで悲しい。色白なのもよりけりで、日に当たるとすぐにそばかすが浮いてしまう。家の中の仕事だけではないのだ。
 時折化粧品を女中頭やこの屋敷の女主人が使い残したからとくれることがあるが、勿体なくて使えない。特別なときに特別に使いたいと引き出しの奥に仕舞ったままで、鏡の中に一瞬でも少しましな自分を見つけたいとき、彼女はきゅっと唇を結んだ。そうすると僅かな間だけ、唇はほんのりと赤くなる。
 けれどそれも一瞬の魔法。次に気付いて鏡を見るときにはもう、少し怯えたような目つきの少女に戻っている。
 彼女はそれをねじ回して悲観はしない。美人でなくても財産などなくても、健康で良く働く身体があればきっと生きていけるから。
 生きていける、という自負がこの屋敷の中という狭い世界に限定されていたのを、勿論彼女は気付かなかった。彼女にとって人生は日常の延長であり、日常はただ無心に働くことだった。
 余計な望みは抱かないこと、自分が今持っているものに満ちていればいいということ、その二つをしっかり胸に刻んだ上で彼女は毎日を仕事の中に埋めることに腐心した。それ以外考えられなかったし、他のことを覚えることも考えることも必要でなかった。
 貴族荘園といってもこんな田舎で麦や綿花をするのは下位貴族だ。本当の大貴族は荘園など持たない。彼らは債権証書の売買や貸付やらで莫大な利益を上げる。荘園などと呼ぶのも苦笑するような、主人一家と使用人全部を含めて20名もいない小さな農園だったが、それだけに関係は密だった。真面目でよく働く彼女を屋敷の人々は慈しんでくれた。
 化粧品もそうだが、少し生地がよれて薄くなっているコートや意匠が古くて着られなくなった服などを女主人は彼女にくれた。他の奴隷達も親を亡くした彼女をよく構ってくれた。主人がかつかつと奴隷達を扱わないことで、奴隷と言っても鞭打たれたり過酷すぎる労働に無理に従事させられることもなかった。それを語る他の農場から売られてきた奴隷達の話から比較して、自分は運がいいのだと彼女は知っていた。
 屋敷には彼女より一つ年上の少年がいた。主人譲りの明るい金髪と優しい青灰色の瞳が自分を見て微笑むと、誰に笑いかけてもらうよりも気後れがした。
 それは何故だろうと彼女は思う。向こうがいずれ自分の主人になる身で、自分が奴隷だから?
 いいえ、と彼女は床を磨く手をしばし止めて顔を歪める。
 少年が自分に笑みを与えてくれたその瞬間に、そんな身分差など考えているほどの余裕はないのだ。ただ怖じて、どんな顔をすればいいか分からなくて、困惑した挙げ句に目線と頭を下げることしかできない。
 少年が笑うと何か透明な、硝子で出来た石のようなものが心の中で僅かに転がる音がする。それは勿論空耳なのだが、その音を聞いたと思った瞬間に何故か恥ずかしくて居たたまれなくなるのだ。
 彼女は微かに溜息をついて床磨きを再会する。考え事をするときは大抵床磨きだ。屋敷の古い木の回廊は、年代を経た木材だけが放つまろやかな光を保つために時折は専用の薬剤で力一杯磨かなくてはいけない。両膝をついて雑巾でごしごし擦る姿勢は表情を隠してくれる。
 少年の笑みを今更脳裏に呼び戻して、彼女は僅かに今度は赤面する。今自分がとてつもなく不埒なことをしているような気がしたからだ。
 彼女がそれを躍起になって頭から追い出そうと床を磨く手に力を込めていると、足音が聞こえた。視線をあげすぎないようにそちらを見ると、上等の靴が見えた。靴の刺繍でそれが少年であることが分かった。
 彼女は廊下の端へ寄って深く叩頭する。すぐに行きすぎるだろうと思っていた靴は、だが彼女の目の前で止まった。
 顔を上げるように言われて彼女は恐る恐る少年を見上げる。例の音が耳から遙か遠くで続いている。名前を呼ばれて、はい、と返事をした声は凍えた小鳥のように密やかだった。
「13の誕生日、おめでとう」
 誕生日、と彼女はぽかんとした声で聞き返した。少年は一瞬美しい青灰の瞳を見開き、違った?と小声で言った。彼女は首を振る。ただ、誕生日を祝うという習慣が身に付いていないだけで、この日が生まれた日であることは知っていた。
 上手く返答もできない彼女に少年はそっと笑い、小さなリボンの掛かった包みを差し出した。胸がどくんと鳴る。今までのさやかな音など吹き飛ぶような大きな音が耳を打ち、うち続けているのが痛い。
「……いいから、取っておくれ。大したものじゃないけど、僕はお前にやりたいんだ」
 彼女は動けなかった。現実でないことが起こっているような、白昼夢の中に彷徨い込んでしまったような、恐れと怯えで身体が固まってしまったようだ。どうしていいのか分からないまま膝をついて震えていると少年は遂に苦笑し、手にしていた包みを彼女に握らせた。
 手が触れた瞬間に、彼女は微かに吐息を漏らした。自分の指を開く手の温かさに惑乱して、泣き出しそうになる。心臓の音だけが世界に飽和していて、他のことなど何も考えられない。
 少年はじゃあねと柔らかに言い、回廊を戻っていく。その後ろ姿が遠くなっていって、ようやく彼女は落ち着きを取り戻した。
 ……まだ心臓が大きく波打った余韻は引かない。それを宥めるために彼女は大きく呼吸をし、それから少年の指の触れた辺りをそっと撫でた。胸の中にこぼれてくる温かな湯のようなものを、何と表現していいのか分からない。ようやく胸を押さえると、そこが痛いほど波打っているのが分かった。
 夜、仕事を終えてから彼女は自室で包みを解いた。中身は硝子の小鳥だった。掌に乗る程度の大きさで、色の付いていない透明な硝子が蝋燭の光をゆらゆら通して仄かに耀いている。
 彼女はじっとそれを見つめる。それは生まれて初めて彼女に与えられた、世の中で一番美しく可愛らしいものであったかも知れなかった。
 その晩彼女はいつもより長く、名も知らぬ神に祈った。
 もう少しだけ睫を長くして下さい。
 もう少しだけそばかすを消して下さい。
 神様、あともう少しだけでいいから、あの人の目に映る瞬間だけでいいから、私が綺麗に見える魔法を下さい―――
 神様と、呟きながら眠りに落ちていったその夜。彼女は人より遅めの初潮を迎えた。
 日常はたゆまず流れていった。少年は時折彼女に珍しい茶や砂糖菓子をくれた。それにリボンや派手すぎない髪留めなども。何を貰っても彼女は嬉しかった。少年がほんの少し自分に心を選り分けておいてくれることが、暖かく、幸福な気持ちにさせてくれた。
 それに、物を渡すときに一瞬触れる手が、手の温もりが。それが何よりも彼女に熱を与えてくれる。
 彼女の部屋は屋根裏で、傾いた屋根の斜傾を切り取るように窓と腰台がある。腰台には鏡と両親の写真が飾ってあり、それが彼女の部屋で一番良い場所だった。光が射し込むとそこだけぽっかり明るくなる。
 硝子の小鳥が部屋の一番良い場所に飾られるようになってから半年で、少年からの贈り物はその場所を占領するようになった。リボンだけは色褪せてしまうのが怖くて、やはり彼から貰った小さな疑似宝石の付いた小箱に仕舞ってある。少年が持ってくる品物は大抵日常には身につけられない物ばかりであったが、それでも譬えようもなく嬉しかった。
 彼女が自分の供物を使えないことに少年が気付くのが遅れたのは、彼と彼女の決定的な生活の差であった。少年は末端とはいえ貴族の範疇にあり、働いたことなどは皆無であった。
 少年の仕事は今は勉学であり、そうでなければ収穫時の収益の計算を手伝う程度のことだ。長じて家の仕事と名の付くものをするとすれば、それは肉体労働ではなく、奴隷達を監督しきちんと利益を上げることなのだ。
 ごめんよ、と少年はそれをすまなそうに言った。彼女は激しく首を振った。少年の持ってくる物はどれも繊細で美しく、砂糖菓子一つにしても壊したくないと思えるほどに上等だった。それらを見ているだけで、彼女は自分の手の届かない遠い世界を夢想することができた。きらびやかで華やかな夢を描いているときだけは、彼女は完全に幸福であったのだ。
 つっかえながらどうにかそんなことを説明すると、少年は苦笑したようだった。
「……お前がそれでいいというならいいんだけど」
 それでも少年は自分の気持ちを何かに託したいと思ったのだろう。やや思案の後に、自分の襟元から銀の細い鎖を指で引き出した。その先に揺れる複雑な紋様板と中央に埋まった真珠で、これが少年の祈る神の持ち物であることが分かった。
「じゃあ、これを持っておいで。神様のご加護がお前にあるように、僕も祈っておくから。首からかけて服の中へ入れてしまえば、誰の目にも付かないだろう?」
 ほら、と手渡された銀の薄板にまだ少年の体温が残っていた。彼女はそれを握りしめた。神様、と呟くと少年は頷いて笑った。
「そのうち、聖句や祈りの作法も教えてあげるよ。信仰を馬鹿にする人もいるけど、僕は好きだな。心がとても落ち着くんだ」
 彼女は深く頷き、促されるままに鎖を首に掛けた。微かにこすれる金属の高い音が、心の奥を高揚させる。
 紋様板がちょうど胸の淡い谷間と鎖骨の中間辺りに止まったのを、彼女は服の上からそっと押さえた。その部分に泣きたいほど温かな物が宿った気がしたのだ。
 それから彼女は顔を上げた。信仰の道具を簡単に他人に譲るというのは如何にも不埒なことのような気がしてならなかった。
「あの……若様、こんな、頂いてしまったら、ご迷惑なのではないでしょうか……」
 少年は軽く笑い、いいんだよと言った。
「来週は僕の誕生日だから、父上からまた新しいのを頂くことになっているんだよ。もうそれは要らなくなるし、引き出しに仕舞っておくよりはお前に持っていて欲しいんだ」
 はい、と頷いた時に彼女の胸を占めていたのは圧倒的な幸福だった。
 少年の眼差しや言葉が優しく自分をからめる度に、竦み上がってしまうほどに幸福な気持ちになる。他に何も要らないと思えるほど、この一瞬が永遠に続かないだろうかと思うほど。
 嬉しくて嬉しくて、他には何も考えられない。
 あまりに幸福で、それを逃がしたくない一心で彼女は目を閉じる。祈りをするようにうなだれていると、そっと頬に少年が触れたのが分かった。ふっと視線をあげると少年が自分の頬に指をまつろわせながら、じっと彼女を見ていた。
 瞳があってしまえば、捕らわれたように動けない。少年がゆっくり顔を自分に寄せてきたとき、彼女は怯えるように目を閉じた。
 初めて他人と交わす口付けは、ひどく長い時間のような気もした。彼の唇は少し乾いて暖かく、触れた箇所から全てが抜け落ちていきそうな安堵を彼女は覚えた。
 唇が一瞬離れた瞬間、掠れた声が好きだよと囁くのを聞いた。彼女は頷き、僅かに涙ぐみ、もう一度頷いて少年が再び寄せる唇を受け止めるために目を閉じた。
 2人で持った秘密は、秘密だと思うことで尚更大切なものになった。仕事の合間に時折彼女は少年と逢うようになった。抱きしめられれば嬉しく、口付けを受ければ嬉しかった。彼の胸に甘えていることも、彼の腕にまかれていることも、全てがきらめくような幸福だった。
 少年はその年齢特有のまっすぐさと生真面目さでいつか彼女を妻としたいと誓ってくれた。無邪気で無垢な約束事を交わす度に彼女は悲しくなった。自分と少年では明らかに身分に差があった。奴隷から自由市民になるには沢山の金がいる。市民になったからといって、その先にはまだ騎士階級を越えた上で少年の家門が位置する下級貴族というものに辿り着くのだ。あり得ない。
 だが、そうと分かっているからこそ少年の情熱も真摯な言葉も嬉しかった。嬉しくて悲しくて、その二つがいつもない交ぜになって、眠りに落ちる前はいつも惑乱の中だ。
 夢を見ているときだけが彼女を癒してくれた。身分差など考えず、2人で微笑みあっていられさえすればそれで良かった。
 だが現実はやはり悲しいことが多い。少年が沢山の物を彼女に降り注ぐように彼女はどうにかして自分から何かを差し出したかったが、自分に持てるものは何もなかった。
 庭の薔薇の世話の折りに拾っておいた花弁で作った香袋、女主人の使い残したレースで編んだ小さなタイ。でもそのどれもが彼が最初から持っている物に比べ、なんてみすぼらしくて見劣りがするんだろう。
 何も持たないことがこれほど恥ずかしいと思ったことはなかった。少年が自分にしてくれるように、同じように気持ちを返したいのに何も出来ない。彼はいつでも優しくしてくれるのに、自分ときたら色々な思惑に足を取られてぎこちなく、彼の言葉に頷くしかできない気がする……
 彼女はそんな自分が厭わしくなる。人を好きになればなるほど欲張りになる。物欲しがるようになる。少年を慕い見つめる気持ちが純粋であればあるほど、彼に似つかわしくないことが重くのし掛かってくるのだ。
 せめて自分がもう少し美人であったら良かったのに。奴隷じゃなければ良かったのに。
 けれどそれを思っても何も変わらない。目覚めれば窓の外にはいつもと同じ夜明け前の紺青の空、薄汚い寝台の上―――
 悲しみは少年と逢う僅かな時間にだけ、姿を見せなかった。彼女はそれを念頭から追い払うことだけを考えた。その時間は確かに満ち足りていたから、余計なものを入れたくなかったのだ。
 そしてなるべくそれを脳裏から追い払うために彼女は益々仕事に熱心になった。食器も調度品もいつでもきちんと磨き、丁寧に掃除をし、料理の手伝いをし、女主人のする糸細工と呼ばれる手刺しの刺繍絵の糸を紡いだ。働いて働いて、誰かの役に立ちたかった。
 14になる頃には彼女は誰からも重宝される小間使いになっていた。特に女主人は彼女をよく可愛がった。糸細工には細かな神経を必要とするし、丁寧に紡いだ色糸の具合が出来を左右する。
 時折配色の相談などを受けるようになり、女主人の手から彼女はそれを教えられた。貴族の女達の間では教養ともされているそれを自分の手が生み出すのは不思議な奇跡だった。
 自由にして良いと与えられた絹地に、彼女は硝子の小鳥を刺繍した。それは人生で最初に目にした、何の混じりけもなく純粋に美しいものであった。小鳥を刺し終わった後で彼女は僅かに考えて、その横に一回り大きな小鳥を寄り添いあうように刺した。これが彼女に出来る、精一杯の表現であった。
 刺繍の入った絹地を切り取り、縁を丁寧にかがってレースで装飾すると、みすぼらしくはない程度のタイにすることが出来た。彼女はほっと息を付く。ようやく何か返すことが出来るのだと思うと嬉しかった。
 少年はそれをとても喜んでくれた。こんなものしか出来なくて、と俯く彼女に何度も首を振り、有り難うと言った。
「こんなものだなんて、あんまり自分を卑下するのはおやめ。今のままでいいんだよ」
「若様……」
 言葉が詰まるときは、胸も詰まる。どう言葉にして良いか分からない。
 いつの間にか定まった2人の密会場所は滅多に人の来ない機織り小屋だった。昔は織布もしていたが綿花を手広く始めたせいで手が回らず、いつの間にか止めてしまった家業だ。糸紡車や織機などはまだ残っているが使う者もいない。
 いつものように唇をよせ、彼の胸にじっと身を預けていると精神全体が弛緩するような安らぎを覚えた。彼の鼓動も息づかいも、全てが彼女を包む世界になってくれた。
 何度目かの口付けを交わしていると、少年がふうっと溜息をついた。彼女はじっと、彼女の神様を見上げる。
 少年は彼女の黒髪に手を差し入れて、ゆっくり愛撫しながら呟いた。
「……でも、何かをくれるというなら……少しの間目を閉じていてくれないか」
 彼女は素直に従った。少年の腕が自分の肩を抱き寄せ、いつもよりも丁寧なキスをした。
 何度も離れては重なる唇が、ついばむように自分の同じ箇所を撫でる。最初の頃のぎこちなさは既に抜けて、彼女は全く警戒心なく心を預けていた。
 不意に唇を割って何かが入ってきたのが分かった。驚いた身体が一瞬、反射的に離れようとするのを少年の腕が押さえるようにして遮った。
 それが彼の意志だということをはっきり悟って、彼女は微かに身を縮めた。不意打ちの荒々しい仕種はただ恐れに変わるものであった。
 きつく目を閉じてなされるままにしていると、やがて唇が離れた。うっすらと目を開けると少年の唇が赤く、ぽってりと濡れているのが分かった。きっと自分も同じようだろうということに気付き、彼女は羞恥に俯いた。どんな顔をして良いのか分からない。
「―――ごめん……」
 少年の声は苦しげで、ひどく痛々しかった。わずかな間をおいて、彼女はいいえと細く答えた。
「あの、私……驚いただけで……」
 言い訳がましく口にして、彼女は僅かに首を振った。少年の謝意が何に向けられたものかを理解したのだ。彼は自分が怯えていたのを分かったのだろう。だから謝っている。それが嬉しくて、彼女はようやく微笑んだ。
「若様、私、本当に驚いただけなんです……あの、わ、私に出来ることってこれくらいしかないのかもしれないですし……」
「そんなことない!」
 反射的に少年が声を荒げ、彼女は微かに怯えて呼吸を止めた。自分の語気が彼女を怖れさせたのに気付き、少年はやや長い溜息をついて首を振った。
「ごめん、怒鳴るつもりじゃなかった……でもお前はいつもそんなことばかり言うんだね。僕はお前がお前の言うようにつまらないものだなんて、思ったことはないよ」
 彼女は俯いて首を振る。少年の周辺にあり集うものはみな繊細な技巧を凝らした優美さばかりで、そこに自分がぽつんと混じるのはどう考えても不自然だった。闇のように閉塞した重い色の髪、同じ色の瞳。頬にぽつぽつ散る淡いそばかす。全てが不調和なのだ。
 彼と、彼の持つ世界の空気とは。
 彼女が黙っていることで少年は再び溜息になったが、それ以上を続けようとしなかった。若い2人にも薄々分かりかけている。いずれにしろ、このままでは限界があることを。
 ぎこちない空気を残しながら、彼女は夕方の仕事へ行かなくてはならなかった。仕事の最中は敢えて他のことは考えないようにしているが、この日は払っても払っても沢山の悲しみが沸いてきて手に負えなかった。
 自分はこんなにも若主人を恋していると思うと息苦しくなる。
 何が悲しくても切なくても、その気持ちだけは持っていていいはずだ―――と思う。明日逢ったら謝らなくてはと彼女は決意し、その晩、いつものように神様に少しだけ祈りをして眠りについた。
 それから時折、あの深い口付けを交わすようになった。最初あれだけ驚いたのに身体は順応する。少年の望むようにすることが自分に出来る精一杯なのだと思い定めてしまえば、後は彼の言うがままにするだけで良かった。
 味わうように舌を絡ませ、吐息で呼吸する心地よさ。優しくて穏やかな海に投げ出されているようなゆらめく安堵感。縋り付いていられる安心感。そんなものの全てが好きだった。
 彼の手が自分の薄い胸を服の上からそっと触るようになったのも、自然な成り行きだった。大切な、壊れやすい卵でも扱うようなやわい手の感触を彼女は目を閉じて受け入れた。心臓の音が掌から彼に伝わってしまうのだけが怖かった。
 少年はそれから先には進もうとしなかった。いつか、その時がきたら僕に全てを預けて欲しいといわれてただ頷いた。自分は大切にされていたのだと、本当に彼女が思い知るのはこれから随分先のことだ。
 その時は、彼の体温と呼吸を近く感じていられればそれで良かった。他のこと一切が自分に合わないと分かっていても、いずれは住む世界が違うことを知らねばならないことも、全てを忘れていられた。幸福だった。
 いつまでもそんな日々が続いて欲しいと願っていたのは幼い証拠だったろうか。彼女は主人の家業については全く知らなかった。綿花の不作や麦の不出来から重なった借財がかさみ、軋んでこの家を押し潰してしまうまで、その暗い足音を聞くことなど出来なかったのだ。
 ある朝に全ては消えていた。今までのことが夢のように。
 最初に不審に思ったのは、いつもの時刻に料理人が来なかったことだ。料理人は几帳面な性格の初老の男で、時間には正確だった。準備が少しでも出来ていないと不機嫌になったから、彼女はいつでも彼よりも早く起き出して、厨房の掃除やら言いつかっている下準備やらをしておくのが日課だった。
 主人達の起きてくる時間になっても、料理人はやってこなかった。彼女は迷いながら、それでも仕事を優先すべく厨房を出た。準備は整っているから自分がいなくても良いだろうと思ったのだ。
 女主人の部屋の扉を叩いても、返答はなかった。まだ起きていないのだろうかと彼女は不安になる。が、絶対に起こせといわれていない日は主人達の眠りを妨げるべきではなかったから、彼女は首をかしげながらも馬小屋へまわる。餌をやりブラシをかけておくのも彼女の習慣だった。
 馬達だけは相変わらずで、いつもの世話係が来たことを理解したようだった。獣特有の温かさに触れながらブラシを丁寧にかけ、蹄鉄の具合を見、餌をやる。それが終わって館へ戻ると、先程まで誰の気配もしなかった屋敷の中に人の気配があって、彼女は心底から安堵しながらそちらへ歩いた。
 だが、そこにいたのは見知らぬ男達だった。今まで彼女が触れたことのない、どこか薄暗い雰囲気を持っている。背負う空気が尋常でないことに、彼女は怯えて立ちつくした。
 男達のうちの一人が彼女に気付いて振り返った。ああ、と軽く頷いて歩み寄ってくる。数歩あとずさって彼女は足を止めた。圧倒的なものに呑まれてしまったように、身体が動かない。
 男は彼女を覗き込んでこの家の娘か、と聞いた。彼女は首を振った。家付きの奴隷かと聞かれてそれにはようやく頷く。男はそうかと頷き、来るように手招きした。
 連れて行かれた先はこの家の一番に良い居間で、そこには自分と同じく奴隷階級の者たちが集められていた。どうやら自分が最後であるらしかった。一緒に座るように促されて彼女はいつも可愛がってくれた母親替わりの中年女の隣へ腰を下ろした。
「どうしたんでしょうか」
 そっと聞くと、女はぎゅっと渋面を作って囁き返してきた。
「旦那様が、破産なさったらしい。夜のうちに現金と宝石だけ持って逃げたんだって」
「ハサ、ン……?」
 ぽかんと彼女は聞き返した。耳慣れない言葉だった。そうだよ、と女は溜息になり、これからどうなるのかねえと呟いた。彼女はまだ良く分からなかった。
 前の晩に眠るまでは特に変わったことなど何もなかった。主人一家はごく普通に過ごしており、ごく普通に就寝したはずだ。一夜が明けただけで劇的に何かが変わることなど感覚として馴染まなかった。
 それに、と彼女はそっと周囲を見渡す。少年はどうしたのだろう。一緒に行ってしまったのだろうか―――自分を置いて……置き捨てて。
 それに気付いた瞬間、目の前が暗くなった気がした。同時に鼓動が大きく激しく打ち始める。主人の破産という事実よりも、少年に会えなくなったことの方が彼女にとっては重大だった。捨てて、と呟くと唇ごとが震えだした。ようやくその意味を全身で理解したのだ。
 屋敷の中を我が物顔に検分している男達はどうやら債権者であった。主人一家が持ち去った軽量の宝石類などは諦めて、この館にある絵画や骨董、それに勿論土地と屋敷全て含めての金額の打算に余念がない。半日ほどかけてそれを終えるとそれぞれ荷造りをするように言われた。
 この屋敷を出て行かなくてはならないのだと彼女は悟った。この屋敷に付随するものは全て処分して金に換えるのだろう。奴隷というのは物と同じだ。自分たちもどこかへ売られていくはずだった。
 そのことに対する嫌悪や拒絶は、自分でも驚くほど少なかった。どこに行っても仕事の内容まではそう変わるまいという達観に似た諦めであったかも知れない。早朝から深夜まで、沢山の仕事に手を染めて身を粉にして働くことに今更抵抗はなく、だからどこへ売られていっても大丈夫だという確信のような物があった。
 荷造りをしに一度自室へ戻ると、夕日が丁度窓から腰台にまっすぐ差し込んでいた。落ちかけた西日の淡い灯火色が、硝子の小鳥に映えて切なくなるほど綺麗だった。
 若様、と呟くと微かに嗚咽が上がってきた。住み慣れた屋敷を出ていくことよりも、どことも知らぬ土地へ行かされることも、そんなことはどうでも良かった。
 自分をまっすぐに見て笑ってくれた優しい瞳が二度と得られないのだという悲しみだけが、彼女の全てだった。
 僅かな時間を泣いた後、小さな袋に彼女は簡単な着替えと両親の写真と、硝子の小鳥を入れた。これに詰められるだけだと渡された袋は酷く小さくて、それだけを入れると他の物は諦めるしかなさそうだったのだ。
 荷造りを終えて階下へ降りると、既に他の女達は馬車に乗り込んで行くところだった。その最後に加わろうとした腕を、債権者の男が掴んで首を振った。
「お前さんはこっちだ、いいな」
 彼女は素直に頷いた。出ていく馬車に乗っていた女たちが彼女に向かって手を振り、何か叫んでいたがよく聞こえない。困惑したまま傍らの男を見上げると、男の方は彼女に何かを答える気はないのだろう、黙って首を振り、別の馬車に乗るように促した。

 他の奴隷達と別れた先の旅路は、そう長くはなかった。
 馬車で僅かに北へ2日、見えてきた巨大な城壁に彼女は目を見張った。遠くから見れば距離感さえ分からなくなりそうな、高く分厚い壁が街道筋の遙か先に立っている。呆然とそれを見つめていると、あれが帝都だと債権者の男がつまらなそうに言った。
「帝都……ザクリア、ですか……?」
 それは何かの話にしか出てこない、華麗で風雅な幻であった。美しく着飾った人々が行き交い、目に麗しい通りが並び、昼間の明るい光の下ではきらめき夜の淡い灯火の中では幻想に揺れるはずの、夢のような都。
 だがそれを包むはずの城壁はあまりにもいかつい色をしていた。
 中に入れば尚更落胆は激しくなった。確かに色を揃えたタイルや繁った街路樹などの優しい光景ではあるが、そこにいる人々はごく普通で、話に聞いていた華やぎとはまるで違うことを分からざるを得なかったのだ。
 だが、流石に帝都というべきだろう。その人波も商店の数、通りの数さえも圧倒されるような奔流であった。それによく見れば歩いている人々の服装がどことなく垢抜けているし、化粧も地味ではあるが上手い。少女達の明るい美しさは同性であっても目を奪われた。
 馬車は蜘蛛の巣のように張り巡らされた街路を抜けて、迷わずにどこかへ向かっているようであった。窓から見るもの全てが珍しく、彼女はじっと外を見続けた。
 やがて馬車が止まり、降りるように言われて彼女は従った。周囲の様子は最初に帝都に入ったときよりも格段に薄汚い。恐らく下町と呼ばれている区域であろうと察しは付いた。
 男に手を引かれて街の一角のアパートに入っていく。誰かの家だろうかと思ったら中には帳簿を付けている男が一人いて、どうやらそれは事務所であるらしい。奥の部屋には更にもう一人男がいて、こちらはやはり書類の整理であるようだった。しばらく男達が話しているのを聞き流し、彼女は窓の外の帝都の光景を見つめる。季節は盛夏をようやく越したばかり、陽射しはまだきつい。光の反射が作る路地土の白い輝きと、建物の落とす濃い影がそれを能弁に語った。
 小鳥が枝にとまり、枝がしなる。もう一羽が横へ並ぶ。ついばみかわす嘴の仕種に彼女はふと胸の辺りを押さえた。そこには少年から貰った銀の紋様版が下がっている。一所懸命に自分が刺繍した硝子の小鳥たちのタイは、一体どうしたのだろう。彼は持っていってくれただろうか。私が、あの人の拠り所に小鳥を持ってきたように。そうでないなら悲しかったし、そうしてくれたならなお、悲しかった。
 彼女が唇をきゅっと結んで下を向いたとき、男達がじゃあ、と別れの挨拶を交わしたのが聞こえた。一緒に出ていこうとした彼女の腕を、事務所の男が掴んだ。男の手は酷くひんやりしていた。
「お前は残るんだよ。……暑いかい? 冷たい物でも飲むかね? 少し休んだらお前の行く先を決めなくてはいけないが、なあに、今日の夜にはお前専用の寝台でぐっすり眠れるようになるともさ」
 宥めるような声音が優しく聞こえた。債権者の男はぶっきらぼうで、彼女に対しても殆ど口を開こうとしなかったから、こうした何気ない会話で安堵もしたのだろう。彼女がほっと唇を綻ばせると、男は良いね、と笑った。
「お前は決して美人じゃないし、これから先飛びきりになる保証はないが、笑った顔がとてもいい。素直で素朴で、まっとうな感じがする。なに、化粧の方法さえ覚えればすぐに美人に化けられるようになるさ」
 彼女はそれにも少し笑う。自分が人目を引く美人でないことは分かっている。女の子は残酷なほど、容姿の差は幼い頃から出てしまうものだ。当人の努力などで追いつく部分もあるという希望を与えようとする男の言葉はいたわりに満ちていた。
 日が落ちる前に、と男に促されて彼女は事務所を出た。乗ってきた馬車の影はもうどこにもなかった。しばらく歩くと地面から生えたように立つ、二本の柱が見えた。そこを通過すると周囲の様子は切り替わるように変化した。
 今までもそう美麗とは言えない町並みであったが、そこは更に汚かった。煤けた赤い格子の店棚と、やけに毒々しい色の金泥の紋様だけが目に付く。古びた塗りや剥げかけた模様がみすぼらしく、どこか生々しい。
 これも帝都の一部なのだろうかと思うと足が竦んだ。怖かった。怯えた様子の彼女に男は宥めるように笑った。
「この町はお前と同じで、素顔はあんまり美人じゃないんだ―――だけど、夜になってちゃんと化粧をすれば違う、すぐに分かるよ」
 男の朗らかさに押し切られるように、彼女は頷いた。男はさあと殊更に明るい声を出して彼女の手を引き、柱をこえてまっすぐに続く通りに面した大きな格子棚の店に入っていった。
 中は女達ばかりであった。美しく着飾った衣装は何故か揃ってみな赤い。意匠は少しづつ違うのか、金糸でかがられた刺繍の模様が多様だ。女達は一斉に彼女を見たが、誰も近寄ってこようとはしなかった。奥から中年よりも多少年齢のいった女が出てきて彼女をちらと見、そしてすぐに首を振った。
「駄目だよ、若い娘が欲しいとはいったけどね、もうちょっと見栄のするのでないとうちにも格ってものがあるんだから」
 はっきりした拒絶に彼女は僅かに怯んだ。それに追い打ちをかけたのは、女達の一斉のささめきのような笑い声だった。男は舌打ちし、彼女の手を引いてその店を出た。
 次に行った店でも、その次でも、殆ど異口同音に出てくるのはもっと綺麗な娘でないと駄目だという拒絶だった。彼女は次第に重くなってくる足を引きずるように、自分を連れて歩く男についていった。
 5軒目に断られたとき、とうとう彼女は啜り泣き始めた。前から自分が美しくないことくらいは知っていた。人よりも少し大きい瞳だけが特徴の、何の取り柄もない平凡な顔立ち。あの少年の優美さに気圧され、今日出会った沢山の女達に圧倒されるだけの惨めさをなんと表現して良いかさえ、分からない。かぼそく泣き続けることだけが出来た。
 男は足を止めて溜息になった。
「泣くな泣くな、あのかあさん方はちょっと見る目がないね。俺はお前さんがきっとよく稼ぐ娘になると思ったから良い所へ連れて行ったのに」
 それでも嗚咽の止まらない彼女に、男は明るく笑いかけた。
「いいかい、確かにお前は目を引く美女じゃない。それは分かってるだろう?」
 諭すような穏やかな声音に、彼女はこくりと頷いた。良い子だねと頭を撫でられて、自分がとても幼くなった気がする。
「だが、お前には何かがある。―――自分の容姿が気になるかい? そばかすがいやならあまり日に当たらないことだ。もう少しちゃんと肌をお磨き。お前は肌が白いし、白い肌に黒髪はよく映える。ねえさんたちに化粧の方法を教わって綺麗にして着飾れば、お前を気に入る客はたくさんいるだろうよ」
 彼女は頷いた。男の言葉は慰め以外の何でもなかったが、自分の気を休めてくれることの方を優先したのだ。ぎゅっと唇を噛んで嗚咽をどうにか飲み込んでいると、男がやあ、と明るい声を出した。
「ほらごらん、タリアに灯りが入る」
 言われて彼女は顔を上げ、微かに吐息を漏らした。
 遠く晩鐘が響いている。それが合図なのだろう、通りに面した赤い格子の店棚に一斉に篝火が焚かれていく。
 炎の色が街角に立ち始めた途端、先程まで汚らしく古びた色を呈していた赤い色が沸き上がるように濃厚になった。金泥がきらきら、灯りに映える。通りごと朱泥に浸かったように赤い。赤い中に黄金の川が流れるように、金色の沢山の紋様が踊る。
 化粧を終えると先程男が表現した意味が分かった。
「すごい……」
 思わず漏らした呟きに、男はそうだろうと満足そうに笑って彼女の手を引いた。大通りの店を諦めたのか、男は路地の方へ入っていく。路地といっても同じように明るく火が焚かれており、通りはやはり濃い赤に染まっているのだった。
 最初に連れて行かれた店よりは小さめの店の扉を男は押した。今までと同じように奥から出てきた中年の女は彼女をじっと見つめ、ふうん、と首をかしげた。奥へ上がるように言われたのは初めてだった。個人の部屋というよりは応接室であろう。そのソファに座るように言われて従うと、女は改めて彼女をまじまじと見つめた。
 先程の女達の淡い笑い声が耳に戻ってきて、彼女はつい俯く。女はすかさず、顔をお上げと言った。強い語調に僅かに身をひくと、女は今度は苦笑になった。
「……どうだいかあさん、悪くはないと思うんだが」
 男の声に女はそうだねえとゆるく笑う。かちかちいうのは火種石だろう。この女は煙草のみらしい。
「悪くはないが。化粧しだいかね……ねえ、お前、名前は」
 彼女はやっと顔を上げた。名を聞かれるのは元の屋敷を出てから初めてだった。
「……リィザ、です」
「ふうん、『矢車草』か。可愛い名前だ」
 父の命名を誉められて、ようやく彼女は少し笑った。その控えめな笑みを見て、今度は女は大きく頷いた。
「なるほど、笑うとちょっと違うね……いいだろう、貰うよ」
 男と共に彼女もまたほっと息をついた。男を帰した後で、女はこちらへおいで、と手招きした。彼女は素直に女の側に寄った。化粧の匂いがぬくやかで、安堵を呼び起こした。
「ここがどんな店だかは分かる?」
 聞かれて彼女は首をかしげる。入ってきた一階には酒と料理の匂いが満ちていたから料理屋ですか、と聞くと女は困ったように笑った。
「違うよ。料理も酒も出すが、本当の売り物は娘達だね」
 意味が良く分からない。彼女は急に不安になって、あの、と細い声を出した。女は軽く頷き、あたしのことはかあさんとお呼びと付け加えた。
「うちに限らずどの店でも、女将はかあさん、遊女は娘、先に入った方がねえさんで後から来たのがいもうとだよ、覚えておおき―――で、何だっけね」
「あの……娘たちを売るって、どういう意味ですか……?」
 女将はその質問に暫く考えていたようだった。彼女は首をかしげて自分の雇主となった女を見つめた。何だか、肝心の部分にもやが掛かったようになってしまって良く分からない。困惑しきって俯くと、女将の生温い吐息が聞こえた。
「……お前は何も知らないんだね。男と女のことは分かる?」
 微かに彼女は赤面しながら頷いた。一応のことは初潮を迎えたときに、女中頭から聞いている。ただそれはいつか結婚したらという注釈付きで、決して売り物になるようなことだとは思われなかったのだ。
 少年のたどたどしい手の動きが不意に身体の奥から戻ってきて、彼女は震えた。あれだって怖かった。相手が彼だからじっと耐えていたというのに―――
 そこまできて、やっと彼女ははっとした。自分の仕事が何であるのかを理屈でなく悟ったのだ。
 微かにあげたはずの悲鳴は喉で凍り付き、掠れた吐息にさえならなかった。
「わ、わ、私、私は、下働きだと……」
 言葉までが小刻みに震えていて、既に文脈にさえならない。女将は首を振り、やや困ったような表情で彼女の頬を撫でた。
「ここに来るまで誰もお前に説明しなかったと見えるね―――まあいい。お前の仕事は客と寝ることだ。ここの仕組みなんかが分かるまでは暫く下働きの真似でもしてもらうが、いずれ、そうしてもらうからね」
 言葉を誤魔化したりしないのが女将なりの優しさだと、彼女が気付いたのはずいぶん後のことだ。この時は女将の一言一言が突き刺さるように耳を打つだけ、ひどくそれが胸に痛いだけであった。
 お願い、と彼女は女将の袖を掴む。その手はどうにもならないほど痙攣し、白く蝋けていた。
「それだけは、お願い、他のことなら何でもします、本当に何でも……」
「何でもする、何てことを気軽に言うんじゃないよ。幾ら泣いてもこれは決まったことだからね、恨むならお前を売った相手にしな……でもね、いくら恨んだところで何も変わりゃしないんだから、もっと他のことに頭を使う方が得だよ」
 そんなことを言って女将は彼女の睫の辺りをそっと撫でた。押されるように目を閉じると、微かににじんでいた涙が目の周辺を濡らした。女将の指がそれを丁寧にこそぐ。指先の熱が優しく思えて、彼女はお願いです、と胸の底から声を絞り出した。
「私、好きな人が……」
「そんなのはどの娘も同じだよ」
「でも約束を……」
「みんなそうだよ。お前だけ特別というわけにはいかないんだ、分かる? あたしが今ここでお前を可哀相だと思って赦せば今まで同じ事を言った娘たちにどう言えば良いんだろうね?」
 それは、と言ったきり彼女は黙った。女将の言葉に何かを返したいとは思うものの、何を言って良いのか見当がつかない。たった一つ分かることは、自分の論理では女将に太刀打ちできないということだけだ。
 彼女は俯いた。女将の袖を掴んでいた手がそっと外されて、しっかり握り込まれた。
「泣くんじゃない。いいかい、泣いてどうにかなることなんて、世の中には無いんだよ……」
 それに頷いたかどうか、彼女ははっきりと覚えていない。顔を覆って泣き出したのは確かであったが、その後のことは曖昧なままだ。
 女将がゆったりした優しい声で、気が済むまで泣けばいいかと言ってくれたのは呆れていたのかいたわりなのか、そんなことも判別する気力無く、彼女は泣いた。ひたすらに泣き続けた。
 ―――これが彼女、リィザ=ラグロゥのタリアでの第1夜となった。
 窓をいっぱいに開けると海からの風が入り、療養所の美しい緑の彼方に海が見えた。海の表面には沢山の船舶がある。
 シタルキアの第2の都ミシュアは建国伝説の多く残る土地柄、それに付随して聖都の名称を与えられている美しい都市だが、沿海州を挟んで南部大陸との交易中継点として富を孕む場所としても有名だ。
 行き交う船は貨物船か、それとも定期航路の客船か。窓から沢山入り込む明るい陽射し、遠く見える海、目の下の緑。
「いい部屋で良かったわ」
 クインは明るい口調でそんなことを言い、寝台に半身を起こす母親を振り返って微笑んだ。介添えの看護婦が遮蔽幕から出て手を洗い、何かあれば呼ぶようにと言い残して消えていく。母親は遮蔽幕の向こう側で心配そうに目を伏せた。
「お前、お金はどうしたの……ねえ、怒らないからちゃんと説明して頂戴」
「お母さん」
 クインは宥めるように笑って膝丈のスカートを揺らし、遮蔽幕のすぐ脇に出してある小さな椅子に座った。
 そっと指先で触れる遮蔽幕は透明で、絹のような不思議にぬめらかな肌触りだ。黒死病は空気感染するため、患者の呼吸から発見される感染菌が一定値に下がるまでは遮蔽幕を取り去ることが出来ない。
 だが、患者とふれあうことは出来た。遮蔽幕といっても殆どその存在は感じない。虹色の光沢を放つ薄い何かが寝台を中心にして蚊帳のように下がっているが、お互いに身体を寄せ合えば幕越しにでも体温を感じることも、勿論会話も出来た。
 クインは母に手招きする。母の耳元でそっと囁く言葉は、最初から考えていた言い訳だ。
「ちょっと魔導で幻覚作用をつけた酒を馬鹿みたいな値段で媚薬ですって売ったんだよ。詐欺だけど大丈夫、幻覚は見るように調整してあるから気付かないって」
 くすくす、少女の声音に立ち返ってクインは笑い、肩をすくめて見せた。
 母親はそれでもまだ不安そうに彼を見ている。いいのよ、とクインははっきり言った。部屋には音声官が通っているから、用心するにこしたことはなかった。
「いいのよ、本当に心配しないで、母さん。私は私で上手くやってるわ。今日だってちゃんと休暇で来てるんだから」
 上級学校や中等学院を受験する子供達のための塾が帝都には幾つかある。その内の一つに教師として潜り込んだのだと母には説明してあった。全てを話す必要など、どこにもなかった。正直になれば、母親を嘆かせ悲しませるだけだから。
 そう、と母はそれには頷いた。少し痩せてしまった首筋の細さにクインは痛みを覚えて目を細め、そして力無い自分を憎くさえ思った。もっと早く何とか出来たはずだという思いもあるし、どうにか間に合ったという安堵もある。何を引き換えにしたかなど、もうどうでもよかった。
 ライアンに大半のことを教えられて初めて他の男と寝たのも、その時の僅かな嫌悪も最早遠い。身体は否応なしに慣れて行くし、心は最初から硬く目を閉じて気に入らない事実は見ないことにしてしまっている。
 ただ、何か―――とても重くて大切な何かが胸から欠け落ちてしまったように、落ち着かない。ライアンにもチアロにも、苛立っていると指摘されて尚更怒鳴り散らしてしまった……これは帰ったら謝らなくてはいけない。
 僅かについた溜息に、母の視線が向いた。何でもないのとクインは殊更明るい笑顔を作り、本当にいい部屋ね、と話題を転じた。そうね、と母は笑った。
「夜になるとミシュアの都の灯りが綺麗よ。お前は今日は帰らなくてはいけないの?」
「ええ。あの……明日の朝早くから補講があるから……」
 微笑みながらクインは返答し、今夜の仕事について内心で溜息になった。ライアンは夕方までには戻るようにと言った。魔導による空間移転だからゆっくり3数えるほどの時間があれば平気だが、空間移転はひどく消耗する。夜は夜で別の意味において消耗するのだから、そのための休養を入れるとするなら時間は残り少なくなっていた。
 遮蔽幕越しに、クインは母の肩に頭をのせた。
「はやく、良くなってね……遮蔽幕が取れたら、散歩くらいなら出来るんでしょう?」
 呟いた声は、ひどく寂しげだった。母の微笑む吐息が耳元でした。
「お前は昔から本当に寂しがる子だったわね……愛してるわ、私の可愛い子。寂しがらないで、私はいつでもお前を一番に思ってるから……」
 幕越しに、頬に軽く唇が触れた。クインは頷き返し、母の頬に同じように返した。腕を伸ばして痩せてしまった母の手に手を重ねると、母は頷いた。
 言葉数を少なくしても通じ合うものはまだ残っているのだった。
「寂しいときは母さんを思って頂戴。きっとお前が想っている時間、私もお前を想っているから。でもね、可愛い子―――」
 母はクインの頬を愛しげに撫でながら切なげに笑った。
「いずれはお前も誰か大切な人を見つけなさいね……お前を心から愛してくれる人、お前が本当に愛する人に出会えれば、きっと寂しさも消えるから」
 クインは曖昧に笑った。愛という言葉は彼からは遠く隔たっていて、とても現実味のあるものではなかった。
「私には母さんだけよ」
 クインは優しく頷きながら言った。
「母さん以外の誰のためでも死ねないし、生きていけな……」
 そんなことを囁きかけて、クインは不意に喉を詰まらせた。
 男達に身体を開くようになってから、確かに自分はおかしい。こんなこと、今までなかったのに。
 肩を震わせていると母がごめんね、と呟くのが聞こえた。いいえ、とクインは首を振るが顔は上げられなかった。母の顔を見て甘えてしまえば一気に決壊してしまうものが怖い。
 ごめんね、と母が同じ事を言った。
「寂しいのね、ごめんね、お前を本当は抱きしめてキスをしてあげたいのに」
「母さん……」
「心の傷にはキスの薬が一番効くのに、ごめんね、私の可愛い子……」
 クインは唇を噛んだまま、首を振った。母の顔はまだ見られなかった。泣くな、と自分を叱咤する。
 泣くな―――化粧が崩れる、から。クインはのろのろした仕種で首を振り、何度も深呼吸をしてから目元を拭った。考えすぎるのは良くない。それは先日ライアンに指摘されたことでもあった。
(あまり自分の中を自分で探ろうとするな。お前は自分で苛立っている)
 その時何と返事したかは忘れてしまった。多分、まともに答えていないだろう。苛立っている。それは分かっている。慰められるとするなら誰かの真剣な愛情でしかないことは薄々勘付いてはいたが、これほど自分でひどいものだと思っていなかったのかも知れない。
 母の愛を疑ったことも信じなかったこともない―――けれど。多分、身体を結ぶことを知ってしまえばそれだけでは最早足らないのだ……
 黙っているクインの肩を、母が丁寧にさすった。それさえも全てが遮蔽幕を挟んでいて、切なかった。
「お前のことを愛してくれる誰かを見つけてね……いつか、きっとそれで良かったのだと思う日が来るから……」
「母さん」
 クインは母にだけ聞こえるように、小さく低く呟いた。
「母さんのこと、本当に大切に思ってる。母さんが俺を愛していると言ってくれるように俺も母さんのことを愛してる。他に何も要らないから、だから早くよくなって、俺を一人にしないで……」
 母はそっと笑ったようだった。クインは自分の言い草に曖昧に首を振った。苦笑がこぼれた。
「……また来るわね。母さん、それまで元気でいてね。来月にはまたお休みがもらえると思うから」
 少女の仕種に立ち返ってクインは窓際に置いた帽子と鞄を取った。長居しすぎると全てを母に告白したいような気分になってくる。罪悪感のようなものなのか、母が何も知らないと思うほどに背筋を嫌な汗が通っていく気がして居たたまれないのだ。
 母の視線が無垢だからかもしれないとクインは思う。その無垢に耐えられないほど自分が情けなくて汚い生き物であると念を押されている気がしてたまらなかった。
 母に飛びきりの笑顔を作って見せて、クインは廊下へ出た。やっと重たい溜息がこぼれた。
 自分の嘘を母はどこまで信じているのだろう。疑われていないとするなら上首尾として良いはずだったが、素直に喜ぶ気にはならなかった。
 唇をきゅっとしめて廊下を歩いていくと、丁度担当の医者と行き違うことが出来た。母をよろしくお願いしますと頭を下げると、医者は慣れた仕種で頷いた。患者の家族の言うことなど、みな同じだ。
「経過はいいようだから、来月の面会日には遮蔽幕は下ろせると思うからね」
 はいと深く頭を下げると、医者は頷いて傍らを過ぎていこうとする。その背を先生と呼び止め、クインは駆け寄って鞄の中から50ジル金貨を3枚包んだひねりを引き出して医者の手に素早く握り込ませた。
「治療費のこと、母にはくれぐれも内緒にして下さいね」
 医者は何事もなかったように、金貨を懐へ入れてそうだったねと返答した。
「君のような熱心な家族を持つと、お母さんも幸せだね」
 それが嫌味かどうかは微妙なところだった。クインは苦笑し、くるりと踵を返して廊下を歩いていった。
 転移してきた地点まで戻って、再びタリアまで空間転移を行わなくてはいけない。詠唱の時間とその後の休養の時間を考え合わせれば、あまりゆっくりしている暇はなかった。
 どれくらいの期間を泣き暮らしていたのか、リィザは数えていなかった。
 悲しい、と思う。思えば涙が出る。切ないとも苦しいとも怖いとも思えば女将が呆れるほど容易く涙がこぼれてくる。自分はどこかがおかしくなってしまったのではないだろうかとリィザは泣きながら思い、でも、と強くその度に胸の間にひっそり収まる銀の紋様版を握りしめるのだ。
 ―――会いたい。きつく目を閉じれば、瞼の裏には遠い面影が微笑んでいる。彼の優しい手がそっと触れた以上のことを、更に進んだことをこの身体に加えるのかと思うだけで、身体の真芯から冷える。未だに知らぬ領域への本能的な恐れと共に、根深い嫌悪が身体を縛り上げてしまうようで動けない。凍り付いてしまった四肢の内側の、泣き続ける心にだけ、血が通っている。
 リィザは自分の首から下がったままの紋様版を硬く握りしめる。これをくれたときの少年の微笑みや紋様版に漂っていた彼の気配を思い出したいと願いながら。
「―――神様……」
 喉嗄れてしまったような声でひたむきに繰り返す言葉は同じだ。助けて欲しいとそれだけを願っている。いつもと同じ言葉を呟くと、また目の奥が熱く潤んできたのが分かった。
 その前日まで、彼の様子に全く変化はなかった。リィザは予兆さえ感じることが出来なかった。どこへ行ってしまったのだろうとか、何故だとか、そんな疑問は既に流されて見えなくなってしまっている。
 無事でいるだろうか。今、何をしているのだろうか。その二つばかりが交互に脳裏を浮かんでは沈んだ。
 少年は両親と共に行ったのだろう。債権者が押し掛けることを思えば親戚筋は危険だし、親の元に子があるのが自然だ。それに、親を捨て家を失った上でリィザ一人を連れて逃げおおせることは不可能だ。
 もう会えないだろうと薄く感じていることを、リィザは自分で認めたくなかった。そう思ってしまったら最後、本当に再会できない気がして怖い。明るすぎる未来ばかりを描けたわけではないにしろ、少年との恋が彼女を支えていたのは確かだったから。
 少年の名を呟き、リィザは自分の唇をそっとなぞった。そこにいつかあった優しい温もりを取り戻したかった。
 微かに熱っぽい吐息を落としていると、与えられた小さな部屋の扉が叩かれた。外から呼ぶ声は女将の声であった。慌てて扉を内側に開くと、女将はリィザの顔をちらと見て大仰に肩をすくめた。
「また泣いていたと見えるね。よくもまあ、そんなに泣くことがあるものだ」
 声音はさほど不機嫌でもなければ苛立ってもいない。呆れているのだ。リィザは俯き、小さく済みませんと呟いた。女将は溜息になったようだった。
「泣いてたって何も変わりゃしないんだって、何度言ったら分かるのかね、この子は」
 リィザはそれには返答をせず、ただ更に深くうなだれた。女将はいいよいいよと軽く言い、彼女の肩を数回叩いた。
「それはいいから、今日こそはもう働いて貰うよ―――そんな怯えた顔をおしでないよ、いきなり不意打ちで水揚げということは私は嫌いだからね。お前がちゃんと事情を飲み込んでくれるのが一番いいんだ」
 一瞬強張った表情をリィザはやっとゆるめ、黙って女将を見た。騙しうちにはしないという言葉を信じる程度には、女将の人為が飲み込めてきている。そうしない、と彼女がいったならそれは本当だろう。
「―――仕事……ですか」
 遊女でない者の仕事というものが何であるのか良く分からない。リィザが困惑したように首をかしげたのを見て、女将は軽い溜息をついた。
「今日は若い連中の貸し切りになってる―――他の娘達のお使いと、下準備をね。字は大丈夫って言ってたから、宴会の給仕もしてもらうよ」
 てきぱきと指示されて、リィザは頷いた。使役奴隷であったせいなのか、他人から指示を受けると無条件に頷いてしまうところが彼女にはあった。
 遊女達から買い出しの希望を聞き、それを簡単な書き付けに起こしてリィザは妓楼を出た。一人でそこを出るのは初めてだった。泣き暮らして涸れて死んでしまいたいと思っていた頃に数度、女将が外へ行くときに同行している。
 女物の小物や化粧品を扱う店はタリアの中に分散しているが、大抵は妓楼に出入りする特定の業者がいる。彼らの持ってくる見本帳をめくって遊女達は自分の欲しいものを指定するのだ。店の方には女将と共に足を運んでいるから地理は問題なかった。案内ということだけであれば。
 店はタリアの最浅部周辺にある。頼まれた小物の名を店員に告げて店先の椅子に腰掛ける僅かな間、店の硝子窓から目をやればすぐそこにタリアと通常の世界の区切りである二本の柱が立っているのだ。
 ―――あそこを抜ければ。リィザは僅かに瞬きをする。
 あの2本の柱を抜けてしまえばそこは彼女が以前住んでいた世界だ。僅かに息を潜めて駆け抜けてしまえばあの温かで幸福だった日々が待っているような錯覚さえ呼び興ってくる。それは幻覚だ。幻覚だと、自分の夢想だと、頭のどこかで弱々しく囁く声を聞くことが辛い。辛さはすぐに痛みに変わって胸を貫く。細く。
 リィザは微かに唇を噛み、柱から視線をもぎはなしてじっと俯いた。帰りたかった。自分の帰還できる場所などもうどこにもないと知っていても、ここではないどこかへ帰りたかった。逃げ出したいという衝動が僅かに足下から忍び寄ってくる。
「……お嬢様?」
 強く呼びかけられてリィザははっと我に返った。注文の品を入れた籠を持った店員が、所在なく立っている。お嬢様というのが自分のことであると気付かなかったのだ。慌てて立ち上がり、中身を確認して外へ出る。代金は商店から月末にまとめて請求が来るのだ。
 外は薄暮にかかり始めていた。宴会は通常日が落ちてからだから、下準備をも手伝うならばもう帰らなくてはいけない時間だ。けれど、どこへ。
 リィザはじっと柱を見つめる。あの向こう側、僅か数十歩の先に走り出せば助かるかも知れないという囁きは、先程よりも遙かに大きく、強かった。
 帰りたい。呟いた瞬間に、脳裏に再び恋しい面影がよぎった。帰りたい。帰りたい、あのなだらかで平和だったあの日々へ。あの人の腕の中へ。身体の温度で癒されて幸福だと信じていられた遙か、―――遙か、遠い過去へ。
 帰りたいと繰り返して呟いたとき、自分の声が低く濡れているのに気付いた。逃げ出したいというよりは、それは遙かに回帰衝動に近かった。今居る場所がどうしても自分の身に合わない、その現実からも目を背けてしまいたい。
 帰りたい。帰りたい。その言葉だけが胸の底から、心の奥から、ただひたすらに込みあげてくる……
 ふらりと最初の一歩が出た。いけない、とリィザは思う。だがその制止はひどく弱くて自分を止めてくれる力にはなり得なかった。
 何かに酔ったようにふらふらと柱の方へ行こうとした、その時だった。
「―――お前、見習いだろう?」
 低い声と共に肩に置かれた手が、リィザの意識を現実へ引き戻した。ぎくりとして立ち止まり、それから恐る恐る振り返るとそこにいたのはまだ年若い男であった。左側の袖が肩から軽く風になびいている。そこに中身がないとすぐに分かった。
 リィザの視線がそこへ行ったのに気付いたのか、男は苦笑した。
「左腕は2週間くらい前に無くしたんだ。生えてくるのを待ってる」
 まるで財布を落としたのだというように軽く言い、男は右手でリィザの腕を掴んで僅かに自分の方へ引き寄せた。
「……どこかの妓楼の見習いなんだろう? あの柱を越えたら酷いことになる、あまり遅くならないうちに自分の店へお帰り」
「あの……私」
 何かの言い訳を探して唇を動かし、リィザは俯いた。ここから逃げ出したいという瞬間の思考を、まるで見透かされていたような男の口振りに微かに恐れが忍び寄ってくる。女将に知れてしまったらと思うと、叱られるという恐怖よりも信頼を裏切ってしまったという罪悪感の方が胸を刺した。
 リィザが黙っているのに男はゆるく笑い、ちゃんと帰れよ、と念を押した。
「その白い衣装は妓楼の見習いの印だから、あそこを出て1日もたたないうちに掴まるよ。タリアの自警衛士ならいいけど、脱走した女を専門に狩る連中だっている。そんな連中に掴まったら終わりだ」
 淡々と語られる内容に、過剰な恫喝は感じられなかった。だからこそそれは事実であると信じることが出来た。リィザは僅かに身震いし、尚更深く俯いた。
 今リィザが着ているのは白い簡素なワンピースだ。遊女達の衣装は赤地に金と定まっており、いずれ遊女となるべき見習いは白となっている。それはタリアに店を構える妓楼全体に共通する規範であった。この衣装はそうしたときの目印でもあるのだ。いつか客を取る身であることを報せるための、どこかの妓楼の抱える身であることを教えるための。
 リィザは男に深く頭を下げた。逃げられないのだと思った瞬間にまた、涙が上がってきそうになったからだ。それを無理矢理飲み込もうとしていると、男が大丈夫か、と宥めるような声を出した。
「道が分からなくなったのなら、送っていこう。お前はちょっとぼんやりだな」
 こつんと額を指で叩かれて、リィザは首を振る。迷っていたのは道ではなかった。
「大丈夫です。あの……あ、ありがとう、ございました……」
 それだけを言い捨てるようにして、リィザはくるりときびすを返した。早足だった歩調がすぐに小走りに変わった。
 走りながら息苦しくリィザは目を細める。逃げたかった、帰りたかった、どこでもいいから投げやりに全てを放擲したかった。それを見透かしていたように、男は自分を呼び止めた。多分、あれも運命だったと思えるほどに。
 殆ど逃げ帰るようにして妓楼へ帰り着くと、女将がお帰りと微笑んだ。この場所こそが帰るべき所なのだと念を押されたような気持ちになり、リィザは僅かに切なく目を細めた。女将は籠の中身を簡単に確認するとさあ、と彼女の背をさすった。
「あっちで顔を洗ってあたしの部屋へおいで。化粧と髪を直してあげようね、ご褒美だよ」
「ご褒美……?」
 そう、と女将は笑い、下働きの少女にリィザの持ってきた籠を渡して遊女達に中身を振り分けるように言いつけた。少女が頷いて消えるのを待って女将はリィザの頭を丁寧に、優しく撫でた。
「お前はちゃんと帰ってきた―――ここへね。良く戻ってきたね。逃げ出したってすぐに掴まるんだってことを、10人に一人くらいは経験するんだよ。お前は逃げなかった。だから誉めているんだ。……お帰り、あたしの娘」
「……私……」
 逃げようとはしたんです、という言葉は喉に引っかかって発することが出来なさそうだった。リィザの様子に女将は少し笑い、いいんだ、と簡単に流した。
「顔を洗っておいで。綺麗になれる魔法をかけてあげよう。―――今日の宴席はタリアの裏のチェインって辺りに溜まっている若い連中のだから、年齢の近いのも沢山居るよ。気楽に話くらいしておいで」
 僅かにリィザは怯む。既に店に上がり込む客としての彼らを見知ってはいたが、彼らは一様に年齢若い者特有の残酷さを持っているように思われた。この店に辿り着く以前に男に連れられて巡った妓楼で聞いた、微かに哀れむような女達のさわめきが耳の奥に蘇ってくる。
 僅かに青ざめたのが分かったのか、女将はどうしたの、と彼女を覗き込んだ。
「そんな顔をするんじゃないよ。折角可愛い顔立ちだっていうのに、台無しじゃないか。お前はもうちょっと自信を持った方がいい。だから魔法をあげようと言っているんだから早いとこ顔を洗っておいで」
 ほら、と背をつつかれてリィザは頷くが、不安は拭えない。丁寧に顔を洗ってふと鏡を見ても、そこにいるのはいつもと同じように怯えた目つきの痩せぎすな少女でしかない。
 黒い髪。黒い瞳。少年はいつも黒曜石のようだとか夜闇の静かな美しさに譬えてくれていた……
 いけない、と思ったときにはもう涙になっている。これほどまでに恋しい気持ちを抱えてこれから先、どうして生きていけばいいのかリィザには分からない。
 だが、今すべきことは明らかであった。リィザは帰りたいという呪文が再び浮かんでこようとするのを押し込め、もう一度、今度は冷静になるために顔を洗った。

 宴席というには無秩序な享楽であった。彼らのために用意されたたっぷりの食事も酒も、腹を空かせた獣が貪るように、あっという間になくなっていく。遊女達への戯れも直裁だ。元々遊女の服だから、その衣装は結び目を一つか二つほどいただけで簡単に脱がせることが出来るようになっている。半裸に近く剥かれた遊女たちの、それでも華やかに笑い交わす声と相まって1階の食堂と待合室を全てつなげて作った即席の広間は酷い喧噪だ。
 それでも彼らはましな方なのだ、と女将に言い含めてもらっていなければ怯えて広間に入ることさえ出来なかったろうとリィザは思う。それほど彼らは無遠慮で、粗野の塊のようにさえ見えた。
(あいつらはそれでも大分ましだよ。あの連中を締めてる頭がうちの馴染みだから、そう無体すぎることはしない―――チェインにもまあ沢山の派閥があるようだが、今日のは正真正銘、チェイン王の宴席だからね。連中も、自分たちの頭の機嫌を損ねることはしないから安心して行っておいで)
 チェイン王、と聞き返すと女将は苦笑し、それを少年達の上に立つ少年王の呼び名だと教えてくれた。タリアを束ねているのがタリア王でこれが大人達の王であるとするなら、タリアの中の更に真奥に位置するチェイン地区にたむろする少年達の王はチェイン王であり、即ち少年王なのだ。少年王自らの臨席というのがどれほどの意味や価値を持つのか良く分からない。だが、この宴席に出入りしている少年達の数は半端ではない。席を持ってくつろいでいるのが十数名いるがその下にもまだ配下がいるようで、おこぼれを貰いに入れ替わり立ち替わり目が回るような人数が行き来している。少年達の数は全体で2000人を越す程度と聞いているが、それよりも遙かに多い気さえした。
 酒や食事の追加を聞くだけでも目が回るほど忙しい。これが一体どれだけの金額の宴席なのかは知らないが、少年王の懐だとするなら感嘆するばかりだった。
 言いつかった酒を持って広間に戻っていく度に、場は乱れていた。男女のことを一応程度に知っていたリィザには刺激の強い光景で、一体どこへどう視線をやったらいいのか困惑することしきりだ。戯れ程度に身体のあちこちに手を伸ばしている者、泥酔している者、そして他人の目など気にならないというようにか遊女にのし掛かる者。普段外から内側の遊女達を観賞できるようにと作られている赤い格子には全て簾が降りてはいるが、声は漏れているはずだ。大分ましというのはどこがどう「まし」なのか、女将にもう一度聞いてみたくなる。
 リィザはなるべくそうした連中に目をやらないように給仕に専念しようとした。そうやって忙しく立ち働いていれば目に留まらないと思ったのだ。が、それも甘い考えであった。女将が上機嫌に可愛くなったよと誉めてくれた鏡の中の自分は、いつもより更に目が大きく肌が美しく見えていた。魔法といった意味がそれで分かった気もしたが、目立たない方が良かったと少年が腕を掴んで無理矢理座らせたときに思った。
「新入り? ねえ、水揚げはまだ? なあ、座って酌くらいしてくれたっていいだろ?」
 酔った吐息に思わず顔を曇らせると、少年の癇に障ったのか、いきなり引き倒される。悲鳴さえ出ない。怖くて怖くて、身体全体が凍ってしまったように固まっている。
 怯えた獲物の様子に少年は意地悪く笑い、共にいた仲間達に目配せをした。あっという間に取り囲まれてしまった輪を抜けようとしても、ぴったりと身体を寄せてきて尚更彼らの輪の奥へ押し込められる。
「いいじゃない、そのうち客になってやるからさ……」
 そんな呟きが聞こえた瞬間に、腰がぐいと引き寄せられ、ワンピースの上から胸の膨らみが掴まれた。
 一瞬走った電流のような痛みに思わずリィザは呻き、慌てて身体をひねった。やめて下さいとやっとの思いで絞り出した声は、彼らの奇妙にはしゃいだ声にかき消されて殆ど聞こえなかった。口を塞がれてがっちり押さえ込まれた身体を、幾本もの手が這い回る。やがてそれがスカートの中へ潜り込み、一番奥の部分をまさぐり始めてリィザは喉を鳴らした。嫌悪よりも遙かに強い恐怖が駆け上がってくる。
 ふりほどこうと必死でもがいていると、突然それが止んだ。少年達の嬌声が一瞬止んで、すぐさま怒りの吼音に変わる。離れた手からやっとすり抜け、リィザは服の裾を掴んでじりじりと後ずさりながら彼らを見つめた。
 目に入ったのは少年達の周囲に散らばる氷と、そして遊女の証である赤い衣装の裾だった。
「あんたたち、適当も程が過ぎると良くないわよ」
 声はまだ若い。リィザが視線をあげていくと、不機嫌な表情で佇んでいたのは先輩の遊女だった。源氏名はシアナという。きつめの線で構成された顔立ちの、美しい少女だ。シアナはリィザを見て、行きなさいと顎をしゃくった。助けてくれるのだと悟ってリィザはよろよろ立ち上がった。年齢は変わらないと知っているが、既に彼女の方は客を取り始めて3年ということもあって、少年達のあしらいも心得ているようだ。
「―――向こうへ行って、着付け直して、髪もほどいておいでよ。こんな連中に着飾るのも馬鹿馬鹿しいったらありゃしないわね」
 斜な口でそんなことを言い、シアナはふん、と鼻を鳴らした。その言い草に少年達が殊更に怒り立てようとしたとき、更にその後ろから低い声がした。
「見習いに手を出すくらいなら、女を取れ。馬鹿だな、何のための妓楼だと思ってる」
 新たに出現した男の声に、少年達が一斉に沈黙した。ちらちらとお互いを俯いた視線で見交わし合っていたが、やがて一人が済みませんでした、と呟いたのが聞こえた。男の声には自然な威圧が備わっていた。これがチェインの王だろうかとリィザは声の主に目線をやり、軽い驚声をあげた。それはつい先程彼女の衝動を止めた男であったのだ。
 男の方はそれでリィザに気付いたらしい。ああ、と小さく笑った。
「なんだ、お前か。……大丈夫か、とお前に言うのは二度目だな。ここの妓楼の見習いだったのか」
 見習いかと問われれば頷くしかない。こくりとすると男は苦笑した。ねえさんにもお礼を言いなと付け加えられてリィザは助けてくれた遊女を見た。シアナの方はつまらなそうに肩をすくめると、ぼんやりしてるからよ、と口にして彼らにぶちまけてくれた氷桶を拾って戻っていこうとする。
 リィザは男に軽く会釈してそれを追った。追いついてねえさんと呼ぶと、シアナはちらっとリィザを振り返り、溜息をついた。気に入らないことをしたのだろうかという反射的な怯えでリィザは僅かに怯む。主人達の機嫌を敏感に察していた毎日の積み重ねが、他人の不機嫌にひどく鋭い反応を引き起こした。
「あの、私、何か……」
 言いかけるとシアナは別に、とすらりと口にした。冷淡というよりは無関心であるような響きであった。リィザがそれにも過敏に反応すると、シアナの方はやや困ったような顔をしてリィザに向き直った。
「あんたね。びくびくするの止めてよ。あたしが何か悪いことでも言った? 言っておくけどね、目を付けられたのは不運だったけどその後はあんたがびしっとしないからよ? 若いほど歯止めが利かないんだから、最初にもっと適当にあしらうべきね」
 忠告してくれているのか怒っているのか、その口調からは推し量れなかった。シアナの言葉はどれも鋭くて、はっきりとしている。それでも咄嗟に氷を彼らに浴びせてリィザを救ってくれたのは事実だったから礼を言うと、今度はシアナはくすりと笑った。
 細い線で美しく構成された端正な顔立ちは、そうすると悪戯っぽくなって煌めきを増した。綺麗な人、とリィザは眩しくそれを見つめる。リィザは大きな目と素直な雰囲気を持っている、どちらかというなら純朴な可愛らしさの少女だったが、シアナの場合は逆だ。匂うように華やかで、揺らめくように美しい。少女である年齢を超えていけば、いずれ相当な美女になるだろうと思われた。
「……あんたはさ、周りを気にしすぎなの。お礼をしてくれるなら氷、取ってきてよ。その前に着替えて、髪をどうにかしといで。かあさんが折角してくれたんだろうに、馬鹿な奴らのせいで台無し」
 冗談なのだろうか、自分の言葉に小さく笑うとシアナはじゃあね、とリィザに背を向けた。彼女の侍る席を記憶につけて、リィザは一度自室へ戻った。彼らの仕業で髪は乱れ、衣装も滅茶苦茶になってしまっている。女将がしてくれたようには自分では出来ないから、髪はほどいて丁寧に櫛を入れてとき流すしかなかった。
 新しい衣装に着替え、氷を持ってシアナの所へ行くと、ご苦労様、と先輩の少女はそれだけを言った。彼女の中では先ほどのことは全て終わっているようであった。彼女は同じ席に着いている少年と雑談に熱中している。馴染みなのだろう、その様子はとても気安く楽しげであった。邪魔をするつもりはなかったから、リィザはすぐにそこを離れる。目の端に誰か手招きしているのが入って視線をやれば、それはあの男であった。自由になる方の右手でリィザを招き、自分のグラスを軽く指で弾く。
「酒を作ってくれ……さっきの連中のことは気にするなよ」
 穏やかに言われてリィザは頷く。恐怖と嫌悪でどうにも身体が動かなかったのは自分の臆病さのせいかもしれない。シアナはもっとしっかりしろという意味のことを言った。いつまでも泣き暮らしている自分を、遊女の側から見ればもどかしいのかも知れない。
 男に酒を調合して出すと、男は少し笑って口を付けた。男には備わった風格のような気配がある。それに、リィザを側にとりとめのない話をしながら飲む男にはひっきりなしに少年達が挨拶に訪れた。その誰もが敬語を使い、この広間全体に満ちている野卑た空気など払拭した顔で現れる。
 男は大抵ディーと呼ばれていた。挨拶が一段落ついたあたりでリィザは男を見上げた。彼は体格が悪くはない。左腕がないことだけが欠陥のような、よく引き締まった、鍛えられた体つきをしている。美形というわけではないが精悍な空気がよく似合った。
 チェイン王であるのかという質問に、ディーは一瞬面食らったように目をしばたき、そして笑い出した。その声は朗らか過ぎはしなかったが十分明るくて、リィザは安堵を覚えた。
「俺はただの幹部だ……ただの、といっても幹部は6人しかいないがな。だから俺の所に顔を繋ぎたい奴が来るのさ。俺についていればライアンに近いと思うんだろう」
 ディーはそんなことを呟いて皮肉げに頬で笑った。それに何と返していいのか分からずにリィザは俯く。沈黙をどう埋めていいのか見当がつかない。何か言った方がいいのだろうかとそわそわそんなことを考えていると、ディーの方はゆるく笑った。
「……お前は本当はこんな商売には向かないのかもしれないな。何も考えないのも時には手だが」
 リィザは曖昧に返事をする。向かないというならば確かなことであるように思われた。自分に出来ることは主人の機嫌を窺うことであって、取り持つことではないのだ。主人の命じたことに素直に従っていればそれで良かったはずなのに、どこで何が狂ってしまったのか、まだ理解が出来ない。ディーはリィザが客慣れしていないのを分かったのだろう、それ以上は特に話しかけては来なかった。暫く俺の側にいればさっきみたいな馬鹿どもは減ると言われて彼の酒を作り足したりこまめに料理を取り分けたりだけをしていると、ふっと音がやんだ。
 それは劇的な瞬間でもあった。今まで聞こえていた嬌声も、明るくも淫猥でもあった笑い声もがなり声も、何もかもが聞こえない。一瞬自分の耳が聞こえなくなったのかと思うほどに、しんと静まり返っている。
 と、隣で酒を飲んでいたディーが立ち上がった。それを合図にしたようにか、全員がそれに倣っていく。今まで戯れに遊女達にしなついていた彼らの面差しから浮ついた気分も酒精さえも抜けて、緊張という糸に引かれるように誰もが背を伸ばして立ちつくしている。
 ぱたん、という軽い音がした。静寂になってからそれが初めての物音であった。妓楼の扉が自然に閉まった音であろう。それが再びの沈黙に馴染んだ頃、足音がした。木張りの床を踏む足音は、ごく小さい。
 だが、注視の塊がゆっくり歩いてくるのは分かった。
 リィザは伏せた面輪をそっとあげて、その音の方向を見た。広間を奥へまっすぐに歩いてくる影は、まだ青年期の初端に連なる年齢の男だった。脇に何か大きな、細長い荷物を抱えている。薄い茶色の髪は首筋にまつろう辺りで乱雑に切られており、端正と言って良い整った顔立ちではあったが、底冷えするように重い視線だけが目に付いた。
 ―――怖い。
 リィザが感じたのは、ただ恐怖であった。表情が殆ど無いことも、少年達の息詰まるような注目を全く介さない無関心さも、その恐怖を煽った。何より、彼の身に付いている厳しく凍り付くような、壮絶な空気が怖い。迂闊に触れれば切れそうなほど。
 微かに震えているリィザの前を通りかかったとき、男はふと視線を流した。ディーが会釈するのが見えた。
「この前は災難だったな」
 聞こえた声も低く、抑揚もほとんど無かった。ええ、と頷くディーの声音には一種の緊張と心酔の入り混じったものが紛れている。
「しかし、腕1本でどうにかなるなら安いものだ。そうでしょう、ライアン」
 小さく男は笑ったようだった。
「お前の新しい腕だ、受け取れ」
 男はそう言って抱えていた包みをディーへ投げ寄越した。一部が解けて中から人の手が覗く。女達の小さな悲鳴が上がったが、それを手で均して男はまっすぐに広間の最深部へと歩いていった。一番の上座が今まで空いていたことに、やっとリィザは気付いた。そこは王の席としてはあまりに小さく、ぽつんと一つだったからだ。
 男がチアロ、と呼んでいる。それに応えるように先程までシアナと雑談に興じていた少年が彼に駆け寄っていくのが見えた。その途端にほうっと周囲が溜息をつき、以前のような雑多なざわめきへと急速に空気がぬるんでいったのが分かった。
 リィザは再び座って先程の包みをディーが開けるのを手伝う。人の手だと思ったのは半分当たりだ。それは良くできた義手で、何のせいなのかひどく重たかった。リィザがどうにか悲鳴をあげなかったのは、彼女が一番近くでそれを見ていたからであろう。さすがに人の肌であるか否かは分かる。
「あれがチェインの……俺達の王だ。ライアンという」
 ディーが先程のリィザの誤解を丁寧にほどくように言った。リィザは頷いた。確かにそれは桁が違う。存在感も、空気の重さも、何もかもが誰よりも重い。王という古風な呼び方の意味さえ、身に感じるようだった。
 ディーはライアンから渡された義手を検分していたが、やがて頷いた。いい手だな、と呟く声には仄かな感謝が滲んでいる。
「……生えてきた、んですか?」
 リィザが囁くと、ディーは淡く笑った。
「そうだな。この腕のいいところは斬られても殴られても痛くないことと、駄目になったら生えてくるところだ―――しかも大体はライアンの奢りときてる」
 リィザはついくすりと喉を鳴らして笑った。彼の持つ空気はなだらかで、ようやく安堵できるほどの会話になった気がする。
 ―――と、不意にディーの視線が自分に向いたのに気付いてリィザは不思議に目を瞬いた。お前、とディーは言いかけ、そして苦笑した。
「……お前、笑うと少し感じが変わるな。そう言われたことはないか」
 この妓楼へ売られてきた初日に女将も、そして自分をここに連れてきた男も同じ事を言った。それを思い出してリィザは怪訝に思いながらもこくんと頷く。そうか、とディーは唇で笑い、義手を彼女の目から隠すように押しやった。伸ばした指先が、リィザの頬に触れる。
 源氏名は、と聞かれてリィザは首を振った。女将は考えておこうと言っていたが、それがつくということは即ち客を取るということだ。楽しみにしているとは言い難かった。名を名乗ろうとするとディーはいい、と苦笑して遮った。
「普通、遊女の名は源氏名でしか聞かない。源氏名がなければありませんと答えるのが普通だな……気に入った相手には教えてもいいがそれは特別だ、そのうち源氏名がついたら教えて貰おうか」
 リィザは首をかしげる。意味を測りかねたのだ。リィザの反応が薄いと見て取ったディーは再び苦笑になった。
「その内お前と寝てみたいという意味……」
 言いかけてディーは言葉を途切らせた。大丈夫かという3度目の言葉にリィザは頷こうとするがままならなかった。震えが止まらない。全身に打ち返ってくる、圧倒的な恐怖。先程の少年達の声がぐるぐると周囲を回っている。冷たい汗が吹き出てくるような怯えが遊女になるのだと聞かされたときの恐怖にまで遡って、目の前がちかちか点滅した。気分が悪い。胃の辺りが締まるような痛みにリィザは喘ぎ、思わず両手で顔を覆った。大丈夫か、と自分の肩を揺する男の手の温度が熱い。その熱さも痺れるような痛みになる。
 ずるずると彼の膝に縋るように身を崩すと、ディーが微かに舌打ちしたのが聞こえた。怒らせてしまったのだろうかとリィザは震えながら彼を見上げた。ディーはさほど不機嫌な顔付きはしていなかったが、困惑気味ではあった。
「ご、ごめ……んなさ……い……」
 呻くような声を絞り出すとディーは彼女を安心させる為だけの薄い笑みになり、いいからとリィザの背を軽く撫でた。
「―――男は嫌いか?」
 密やかに落とされたその声に、リィザはようよう首を振る。嫌いだというよりは遙かに恐怖に近いものであったし、怯えにも惑乱にも似ていて、自分で上手い言葉を見つけられない。
 ディーは自分と寝たいと言った。それは実に簡単そうな響きだった。目に留まったから、気に入ったから、だからいつかお前を買うのだと。違うそうじゃない、という反発は強かったことで尚更自分を怖れさせた。
 いつかと囁いたときの少年の声ばかり思い出された。それはこんなに簡単で呆気ないものであってはいけない。いつかという甘い響きに込められていた万感が、溢れてくるような思いが、いつかという夢に集約されて結実していくはずだった―――そうなるはずだったのに。僅かにリィザは震え、胸の前で手を組み締めながらうなだれた。怖かった。
「……怖い、か」
 呟いたディーの声には苦笑のような響きがある。リィザはのろのろ首を振り、ごめんなさい、と小さく言った。いや、とディーは更に曖昧に笑い、傍らにあった彼のグラスに手を伸ばした。中で氷が高く澄んだ音を立てて回った。
「だが、いつかは水揚げもその後のこともやってくる。ここに来た以上は例外はない。……さっきも言ったな、何も考えない方がいいこともあるんだ」
 リィザはぎこちなく頷く。ディーの言葉の真意とそこに潜む気遣いは本当だ。言われていることもその理屈も正当性も理解できるのに、心だけが頑として折れない。ひたすらに懸命に、過ぎてしまった過去だけを探している。……帰りたい、と呟きながら。
 帰りたいのだと思った瞬間に目が潤んできたのが分かった。いけないと慌てて手をそこへやるが、零れてくるものは止まらない。これをどうしていいのか分からずに唇を押さえて肩を震わせていると、ぐいと肩が掴まれてふり起こされた。リィザは振り返り、女将を見つけて反射的にごめんなさいと呟いた。
「ごめんで済むかどうか、自分で良く考えな。―――奥へおゆき。今日はもういいよ」
 明らかに含まれているのは怒りであった。リィザはごめんなさいと繰り返した。宴席で泣き出して、相手を不愉快にさせたというなら確かに罪であった。ほら、とせかされてリィザは立ち上がり深々と頭を下げて広間から走り出た。
 帰りたい、とだけ脳裏を巡った。
「……本当に、ごめんなさいね」
 改めて彼についた遊女が苦笑しながら作ってくれる酒を飲み干し、ディーはいやと曖昧に笑った。
 怯えるばかり、震えるだけの小鳥。あの小鳥は一体どんな声で啼くだろう。そんなことを考えると笑みが零れてくる。遊女に向かない性質であろうことは分かったが、それに配慮しすぎるほどディーもまた、優しい男ではない。珍しい毛色の女であるとは思うが、尚更自分の腕の中で啼かせてみたいと思うのは性であろう。
 それに、笑うとどこかが違う。含羞のような淡く大人しげな気配が立ち上ってきて、思わず抱きたいなどと言ってしまった。いずれ水揚げが終われば買ってみようという魂胆は既に出来上がったから、誰かが彼女の涙を謝ることではなかった。
「彼女は……いつもあんな調子で?」
 遊女はそうね、と苦笑する。境界門の双柱をじっと見つめていたときの感触からも、その返答は外れていない。だろうな、とディーは苦笑した。
「そいつは先々苦労するだろうな」
 そんなことを呟くと遊女はまたそうねと頷いた。妓楼へ来たからには、真実例外はない。女将とて客への供物としての査定に叶ったからこそ彼女を買ったのだから、その元は取ろうとするだろう。
 それにしてもあの笑顔の心地よさは特別だった。あれは一体何だったのだろうとディーはふと思い、自分でゆるく笑った。性質も身体も、相性というものがある。話してみなくては分からないこともあるし、寝てみなくては知り得ないこともあるのだ。その点ライアンも同じようなことを言っていたから、自分だけが特別ではあるまい。
 ちらとライアンを見ると、彼はこの宴席の喧噪など全く気に掛けず、いつものように煙草に執心していた。あれだけが彼の道楽なのだとディーは知っているから止めるでもない。恐らくはライアンの生涯ただ一人の主人であるリァン・ロゥの仕種と似てきた気がするのは自分の錯覚か、ライアンの無意識の故意か。
 王として君臨し、他人からの崇拝を受け取り、自ら更に上を目指して力強く飛翔していくという王者としての器量の一点において、ライアンはリァンに遠く及ばない。リァンは明るく燃え輝く太陽そのもののような男だった。他人の下にいるのを潔しとしないきつい自尊心が誰をも惹きつけ、魅了した。
 ライアンの寡黙な性質はその影響を殆ど受けていないように見える。だがいつでも心の底からそれを渇望し、焦がれ、欲しがっているのは知っていた。
 ―――越えるべき者をいつまでも懐かしんでいては先はない。いつか彼にそう言ってやりたかったが、それをライアンが受け取ることが出来るようになるには、まだ時間がかかろう。何故なら、ライアンは未だに囚われているからだ。リァン・ロゥの残像に。過去の幻に。過ぎ去ってしまった夢のような時代に。
 リァンはまさしく夢であった。チェイン地区というのはタリアの中でも最も奥、殆ど日の射さない路地に嫌な臭いの充満した地下道の入り組む貧民窟だ。
 それでも石造りのアパートに入り込めるならましな方で、冬にはそこからあぶれた大量の凍死者が出る。その死体から金に換わりそうなものを剥ぎ、服を、靴を盗り、用のない身体の方は裏手の運河へと捨てるから冬の川は亡霊の棲家―――
 リァンはそこに突然降臨した神であった。彼の指導のままに大人達から追いやられて条件の悪い場所へと吹き寄せられてきた子供達は結束しはじめた。ディーは少年時代の始まりにそれを目の当たりにした。
 ディーの兄はリァンの幹部の一人、ディー自身も兄の派閥の下で少年窟を自分たちの王国にしようと指針するリァンの輝きに目を奪われた。まとまりなく派閥と縄張り争いに明け暮れていた子供達をあっという間にまとめ上げていく求心力、誰をも虜にする明るい笑顔と朗らかな性質。誰もがリァンを崇拝し、リァンの足下に平伏し、リァンの為にと誓っていた。
 ディーの兄もリァンの腹心として上り詰めていった。リァンが幹部として認め、自身の元への直接の出入りを許していたのは当時2000人を越していた子供達の内で僅かに8名、兄はその内でも3幹部と呼ばれるほどにリァンの重鎮だった。───残りの2人は殺傷能力よりもその知力を買われたヴァシェル、そしてリァンの身辺を警護し命を楯とするべく育てられたライアンである。
 兄もヴァシェルも既にこの世にいない。3年前にリァンが突然暗殺された後の、少年王の跡目争いの際に2人とも死んでいる。ヴァシェルは兄が、兄はライアンがそれぞれ手に掛けた。激烈な抗争を勝ち抜いて今のライアンがある。
 ライアンの明るい笑顔は当時から珍しい部類ではあったが、リァンが死んでからは殆ど見られなくなった。気鬱に沈みがちな空気をディーにはどうすることもできなかった。自分がそれほど策略を巡らすのに向いていないのをライアンが理解してからは、彼は益々無口になった。一人で黙々と思考している姿を、ディーは半ば痛々しい思いで眺めていたことを覚えている。
 抗争を勝ち上がり、チェインの王となってもライアンの顔は晴れなかった。その座に着くべきはリァンであって自分ではないとでも思っているのだろう。ライアンが今、チェイン王という力を背景にしてタリア王アルードと共に在るのもきっとリァンの為なのだ。
 リァンはタリア王になるべき男だった。ディーでさえ、彼の死から3年を経てもそう思う。彼こそ真実、チェイン王に相応しくタリア王に手をかける資格のある男だった。
 それが死によって閉ざされてしまったことを誰よりも理不尽に感じているのはライアンだ。彼はまだリァンの死を傷として抱えたままでいる。
 彼がタリア王になるべく頭を上げているのは偏にリァンへの追悼だ。ただ一途に、彼が成し遂げるはずだった奇跡を実現するためにライアンは生きている。
 ―――だがライアンは?
 ディーは微かに苦い顔をする。兄の死は仕方がない。ディーはそれを自分でも驚くほど冷静に受け止めている。
 ライアンはディーを身辺におき、継承戦争時に失ってしまった本来の左腕の代わりに惜しみなく信頼を注いでくれる。左腕の義手には沢山の仕掛けがあって単に見栄えや重心の問題ではないが、それでも長じていけばチアロの方がディーよりもずっと強い戦士となるだろう。自分は既に、頂点へ至る道は閉ざされているのだ。
 だからこそ、ライアンが自分を未だに重鎮として扱ってくれることが誇りでもある。ライアンがリァンのために生きていきたいと願うように、自分は彼のために生きていたかった。
 ふとそのライアンの視線がディーを見た。随分と自分は彼を見つめていたようであった。遊女にもういいからと言い残し、ディーは席を立つ。ライアンは新しい一服の葉を煙管に詰めているところだった。
「腕をありがとうございます」
 そんなことを言うと、ライアンは淡く唇だけで笑った。働けよ、というのは激励でもある。それに頷き、ディーはライアンの煙草の火石を打つ遊女へ視線をやった。この女はライアンの特別だ。3年前からずっと彼の指名を受けている。
 2人はどことなく似た顔立ちをしていた。目の流線や鼻筋の影が醸す雰囲気が特によく似ている。ライアンの方が奇妙に陰気な空気を背負い、対して遊女の方は化粧のせいなのか華やかな印象にまとまっているが、容貌には共通するものが多い。
「ねぇ、ねぇ、新しい服と髪飾り」
 遊女がライアンの袖を引いて甘えた声を出している。
「この前やった髪留めでは足りないか」
「それとこれとは別だってば。それに紅玉は服に滲んじゃうからやだって言ったもん。ライアンあたしの話聞いてないでしょ。翡翠がいいの、ひ・す・い! ライアンの目の色とお揃いの」
「贅沢な奴だな」
「何よ、あたしが綺麗にしてるほうが嬉しいくせに」
 ライアンがそれに曖昧に笑って細かい希望を聞いているのは贈るつもりなのだ。
 遊女の衣装も装身具も化粧品も彼女たちの自腹だから、少しでも貢いでくれる男を増やせばそれなりに彼女たちは潤うようになっている。やれやれだとディーが思っているのが顔に出たのか、遊女の方はきっと彼を睨みあげた。視線のきつさと瞳の色はライアンとそっくりだ。
 正直なところ、ディーは彼女を好ましくは思っていない。ライアンは一度心許すと全力を以て守ろうとするところがある。この女が長じてライアンの足に絡みつく網にならないと、誰が言えるのだろう。
 今でさえ十分、ライアンは彼女に執着している。彼女に笑いかける空気は普段の凍てつくような厳しさとは全く違う温度だった。
「ライアン、話が」
 ディーが遮ると、遊女の方は更に不機嫌な顔になった。それを宥めるようにライアンが彼女の頬を撫でる。あとで、と彼に言い含められて渋々頷き去っていく背を、ディーは溜息で見送った。
「……彼女には随分とご執心で」
 半ば嫌味のような口調になったのを、ライアンは苦笑めいた表情で流した。
「あれはあれでいい、お前には関係ないだろう」
 そうですが、とディーは肩をすくめる。遊女の方はチアロをからかっているようだ。ライアンといるときとは一転して、明るい子供同士じゃれあうような笑顔が見える。
 話とは、とライアンが呟いて、ディーは視線を主人に戻した。ディーは頷いて声を潜めた。ライアンの周囲には自分以外に人が居らず、話が聞こえる危惧はなかったが、それは十分に密やかな話なのだった。
「……クインが戻ってきたというのは本当ですか」
 3年前にチェインを吹き荒れた抗争に部外者ながら口を出し、ライアンに知恵を付けたあの子供のことを、ディーは忘れていない。一度目にすれば焼き付くような美形であったこともあり、噂を聞いたときにすぐに分かった。
 ライアンの煙草入れを掲げて彼に会いたいと言った美少年の話。チアロが楽しそうに話しながら連れていったという目撃。チアロとクインは3年前から気の合う友人同士だった。
 ディーはクインをも気に入らない。それは先程の遊女と同じくライアンの弱みにならないだろうかという懸念がそうさせている。3年前もライアンはクインを助け庇った。クインを当時のタリア王への貢ぎ物にしようとしていたのを撤回してまでそうしたのだ。
 結果ライアン自身がタリア王と寝て自治を買うに至ったことを、ディーは怒りにさえ変えることが出来た。あの子供を差し出しておけば貴方の身は安全だったのにと。
 ライアンはディーの質問に簡単に頷いた。それで彼の顔が曇ったのを見て取ったのか、曖昧に笑った。
「あれのことは内密にな。俺はクインをなるべく他人の目からは隠してやりたい―――タリアに戻ってきた以上の噂になっているのか」
「いえ、チアロがどこかへ連れていったという辺りまでしか……」
 ならいい、とライアンは深く煙草を飲んだ。
「……根城から出入りするときは女装だから目立たないんだろう。お前もあまり他人に話すな。噂が酷く頻繁になるようなら俺に報せろ」
 ライアンの命令は絶対であった。ディーは軽く頭を下げる。ライアンは苦笑した。
「そんな顔をするな。お前は3年前からあれが気に食わないんだろう? だが、あれのことは口出し無用だ。そのうち必要があればお前にも伝えるべきことを伝えなくてはいけないが、あれを保護することがいずれ俺の切り札になるかもしれん」
「切り札……ですか」
「そうだ」
 ライアンは不意ににやりと笑った。不敵と表現すべき笑みは珍しく、それは滅多に表現しないライアンの自信の証明でもあった。
「あれは、俺の切り札になる―――どう化けるかはまだ分からんが……そうだな、手なづけておけばどんな場合になっても損はしない」
 そう言ってライアンは何かを思い定めたのか、深く頷いた。
「……ダルフォ」
 低く呼ばれた自分の本名を、ディーは懐かしく聞いた。その名は3年前に彼自らが撤回したのだ、ライアンの元で生き直すために。わざわざ本名で呼ぶときは、だから重要な話であった。ええ、と返答する自分の声が更に低くなる。
「チアロはしばらくクインのことで忙しくなる。何しろクインのご機嫌を取っておくには奴が一番良さそうだからな―――チアロのことを頼めるか」
 僅かにライアンの目が鈍く光った気がした。
「……正直、俺はいずれチアロにチェインをやりたい」
 ライアンの口から後継の話が出たのは初めてのことであるかも知れなかった。ディーはどっしりした緊張感が腹に居座ったのを感じた。
 ライアンの意向を薄々みな気付いているが、それを本人は公言したことはなかったはずだ。他の幹部達への示しや折り合いもあろうし、幹部として扱っている連中の中でチアロは一番年齢が下だ。ライアンの側小姓だからという冷笑も無くはない。
「本来ならお前だが」
 ライアンの言いかけた先をディーは分かっていますと遮った。
「チェイン王はチェインの強者でなくてはいけない。一番分かりやすい支配は力です」
 左腕の欠損は極みに到達するには決定的な瑕疵だった。ディーはそこには成り得ぬ現実を知っていた。ライアンは重く頷いた。
「チアロがクインのことで引き回されている間、チアロの後見として構えてやって欲しい。あれは……あれは、まだ甘い。甘いが、見込める。今は奴をしてクインの機嫌を取らせておくのが優先だが、それでは足りない部分が出てくるだろう。支えてやってくれないか」
 ディーはチェイン王たるライアンの、一番の腹心であると見なされている。それをディーも知っているし、ライアンも彼をそう扱ってきた。
 それをしてチアロの後見たれというならば、ディーに自分を棄てろというのに等しい。命じるのではなく、頼めるかという言い方しかできないのだ。
 ディーは頷いた。チェイン王の後継は自分でない場所へ行くのがいいと彼も思っていたのは確かだった。ライアンはほっとしたように温く笑った。
「……いずれ、お前はタリアの方へ関わって貰う。俺にもそこそこアルードが仕事を回すようになってきているからな」
 ディーはまた頷いた。自身の足らない部分を承知しても使ってくれるライアンの意志に感謝さえ覚えた。いずれライアンがタリア王になる時に自分はまだ生きて、彼の側にいられるだろうか。そんなことを思えばゆるく笑みもこぼれてくるのだった。
 ライアンは彼に軽く頷き、立ち上がった。重い存在感のある身体がそこから歩み去っていく。例の遊女がそれをめざとく見つけて彼の側に寄り、手を引いた。彼女の部屋へ上がるのだろう。
 この後は正真正銘の無礼講だ。あの見習いの少女がこの場にいたら卒倒するだろうと思い、ディーは少年達の捌け口になるまえにと目についた女に声をかけるために歩き始めた。
「……さ、これで大体いいわ。やっぱりリュースちゃんってば美人ねえ」
 ちゃんはやめてよ、とリュース皇子は照れついでに苦笑になる。エリゼテール大公女は彼の幼なじみだが、お互いに物心つく頃から共にいることもあって尚更砕けた呼び名になる。
 彼女は皇子よりも1歳年長で、幼い頃はひどく苛められたものだ。母妃がいつもそれを思い出しては笑う。エリザちゃんが来たわよっていうと、お前はいっつも後ずさりして怯えて泣き出してたんだから―――
 皇子はそんな遠い話にまた苦笑した。何よ、と目の前の公女は彼の手を優しくつねる。彼女の淡い金髪が窓から注ぐ陽光にきらきら輝いて目に眩しい。緑柱石の色をした瞳の明るさも、そしてその顔立ちも美しいといってよい少女だ。彫りが深くくっきりした顔立ちはアイリュス大公家系の特徴だが、エリゼテール公女にはそれ以上の神の愛を感じるほどに麗しく華やかなものが備わっている。
 ―――尤も、リュースがそれに気を向けるときは誰かの誉め言葉があったときだけだ。彼自身が神の愛し子であるような美貌の持ち主であり重要なのは中身だという倫理の信奉者でもあったから、なおさら他人の美醜には疎い。疎いというよりは単純に興味がないのだろう。
 公女がほら、と差し出してくれた手鏡の中にあの日見かけた少女の面差しを見つけ、皇子は溜息になった。本当に似ている。こうしてほんの少し化粧して髪や眉を整えただけで「彼」が鏡の向こうにいるようだ。
「綺麗に出来たでしょ……ねえ、本当にこんなことしてどうするの?」
 化粧道具一式を順序よく小箱にしまいながら公女が聞いた。皇子は鏡から視線を離して曖昧に笑った。彼の返答を諦めて公女が肩をすくめる。幼い頃からの日々の積み重ねが、言葉をさほど必要としない関係を作りだしていた。
「いろいろありがとう、エリザ」
 鏡を机の上に伏せ、皇子は何か飲むかと公女に聞いたが、公女はいらないと首を振った。
 皇子は顔を洗おうと席を外した。化粧した顔立ちを確認できればそれで良かったのだ。自分たちの相似を改めて見つめるために。
 似ていると気付いたのは初夏の頃だったが、既に季節はゆっくり秋へ向かい始める残暑の中だ。皇室行事やら夏離宮への行幸など、国と家の用事が重なってなかなか検証する時間がなかったが、離宮での避暑生活でも皇子は彼のことを考えていた。
 ―――あれは誰なんだろう?
 最初、皇子はごく単純に自分に双子の兄がいるのだろうかと考えた。先に胎内から産み落とされた方が兄であるが、現実自分一人しか王宮にいない。自分が弟なのは、最初の一人を王宮外に出して後から生まれてきた方を手元に残すだろうからだ。
 皇帝の嫡子であるならば、出生と同時に沢山の儀式がある。母親たる皇妃も同じだ。一人産んだ後でもう一人を極秘に出産するよりは兄の方を王宮から連れ出してから産気づいたと人を呼ぶ方が遙かに楽であるし、方法として自然だ。
 だが、ここで皇子はふと深淵に気付かざるを得ない。子を授かったときから皇妃と胎内の子は国家のものだ。あらゆる意味で人の目がある。母胎に双子があるということを、誰も気付かなかったとするならそれは極め付きの不自然だった。
 診療記録をこっそり盗み見ても、皇妃の腹には心音は一つとしか見えない。太古であるなら双子は国家の安泰を損ねるとして片方を―――大抵は弟の方を―――生まれた直後に水につけて葬ってしまうのだが、今は双子だからといって国家鎮護の妨げになることはない。それほどの魅力が帝位にないのだ。記録は書き換えた後が見られない。だから13年と11ヶ月前に母后の腹にいた子供はやはり自分一人なのだ。
 ―――では、あれは一体、誰なんだろう……?
 血縁がまるでないと仮定した上での酷似であれば、祝祭の日に自分を見つめていた彼の複雑な目の色を説明する道が失われる。何かしらの血縁があるとするなら一体どこだろうか。自分たちの顔立ちの相似と特徴から、それは少なくとも母の実家であるアルカナ公系だろうと皇子は最初見当をつけてはみたが、その門閥家系は巨大だ。末端まで含めれば家名は200を越す。
 数名の魔導士に命じてその中で行方不明になっている子供を捜してみたが、そんな子供は存在しなかった。
 ……それに戸籍はどう考えても偽造だったから、貴族の子弟が戸籍を偽ってまで中央中等へ通っていたというのなら、正直、訳が分からない。
 皇子は首をかしげた。洗面所の鏡の中で、「彼」を模した姿が困惑した顔をしている。血縁がないならそれでも構わないのだが、祝祭の日の彼の表情が心のどこかに爪を立ててしがみついていて、無視できない。
 皇子は小さく溜息をもらし、エリザにしてもらった化粧を落とすために水をすくった。
 部屋へ戻ると公女は露台へ通じる硝子戸を開け、手すりに腰掛けながら大きく伸びをしていた。しなやかに伸びた手足の形良さ、肌の白い美しさ。ずっと昔から知っていたはずなのに、彼女の仕種の一つ一つに時折見知らぬ他人を見る気がする。
 公女はすぐに彼に気付き、リュースと呼んだ。彼を呼び捨てにするのは両親と彼女くらいなものであった。
「こっちへ来なさいよ、やっぱりここが涼しいから」
 夏の間はこの夏の居宮で過ごしているが、この宮は人工池の上に何本もの柱で支えられて建っている。晩夏の風が渡って吹き来れば、それは水面をさらって若干潤み、清涼で心地よい。
 100年ほど前の皇帝が四季に合わせた居宮を建てたのだが、特にこの夏の居宮と冬の居宮は居心地が良かった。風に蓮の蕾が揺れいている。
「落としちゃったんだ、せっかく可愛かったのに……」
 エリゼテール公女は彼の頬を残念そうに撫でて呟いた。皇子は苦笑気味に微笑む。
 彼の面影をもう一度見たくて化粧という方法を思いついたのはいいが、どうしていいのか見当もつかない。困った末に幼なじみの少女に頼んだのは、彼女くらいしか身近に頼める相手がいなかったからだ。皇子は自分が中等学院の仲間達から遠巻きに浮いていることを承知していたが、こんな時は微かな物寂しさを覚えた。
「来月はお誕生日ね、リュース。何か欲しいもの、ある?」
 公女は明るく彼に話しかけた。皇子は首を振った。
「うん、別に……でもだからって、武器とかは嫌だ」
 公女は片手間に弓を遊び馬を操る。身体も頑健と言って良いほど健康で、快活な性質であった。自分が大人しすぎるきらいがあることを考えると、逆であれば良かったのかも知れないと、皇子はいつも思う。
「何か希望を言いなさいよ。先月の私の誕生日には、ちゃんとくれたじゃない」
 この年中央中等へ入学した彼女に皇子は本とペンを贈っている。本はこれから履修する科目の参考書、ペンの方は軸が精緻な白金細工で出来た美しい品だ。いいよ、とリュースは仕方なく笑った。
「いずれ結婚するんだし……あまり気にしないで、受け取って置いてくれればいいから」
 それは自明に思われた。エリゼテール公女は父帝の第2妃の姪、現アイリュス大公の一人娘だ。立太子されてもされなくても、いずれ門閥の提携のために彼女は自分の妻になるだろう。彼女の方が年齢が上ではあるが、彼より下となるとアイリュス大公本家とやや離れた血縁にしかない。シタルキアが婚姻政策によって他国と連帯しないことは常識であるため、公女と釣り合う縁となると限られてくるのだ。
 婚約するのは数年先になるだろうが、彼女と睦まじいことを周囲に教えておくことは無意味ではない。婚約の形式というものもあってまずは数度こちらから尋ねていって彼女に伺いを立てるという手順を踏むが、その前哨として申し分ないはずだった。
 エリゼテールは一瞬眉をひそめ、それから長い溜息をついた。何か気に障ったのだろうかと皇子は怪訝に将来の婚約者を見つめる。
「ねえリュース、好きな人はいないの?」
 これには皇子は即答する。彼にとって、これは深く考えることではないのだ。
「エリザが好きだよ、どうして?」
 公女は肩をすくめた。皇子はその仕種に不安を抱く。皇子にとって彼女は殆ど唯一の友人でもあり、恐らくは一生共にいることになる相手であった。彼女以外の女性と添うことなど出来ない以上、最初から目をやらない方が全てにとって上手く回る。よそ見した上での寄り道など、時間と手間の無駄だとしか思えなかった。
 簡単にそんなことを説明すると、公女は不機嫌に顔をしかめてから苦笑した。やはり彼女の気に入らないらしい。エリザ、と皇子は少し強い声を出した。
「だって、どうせ君と結婚するんだからいいじゃないか」
「分かったわよ。もういいったら……」
 うんざりという表情であった。公女の真意が分からず邪険にされて、皇子もやや不機嫌になる。公女は彼と並んで遜色無いほど整った形の頬を寄せて、密やかな声を出した。
「……ねえ、秘密よ? ……私、付き合ってる人がいるの」
 皇子は一瞬おいて頷いた。公女の悪戯っぽく笑う吐息が、喩えようもなく幸福そうな響きに聞こえた。
「そう……なんだ。じゃあ、こんな話不愉快だったね。いいよエリザ、私のことは気にしないでも。うまくいくといいね」
 公女は頷き、彼の頬に軽くキスをした。彼女の髪からほんのりと香料が薫った。
「でもね、リュース。あなた出来ればちゃんと恋愛くらいしたほうがいいわよ? 私でよければいつでも相談に乗るから」
 皇子はまた頷いた。エリザの言う内容の真意は何故か曖昧にぼやけて見えないのだが、彼女が自分を気遣っているのだと分かっていれば十分だった。
 これから彼と会うのだと彼女が帰っていくのを後宮外まで送り、皇子は少し溜息をついて夏の宮の道までを戻り始めた。
 鏡の中にいた自分はやはり、祝祭の日に見かけた彼の姿であった。本当に、自分たちはよく似ている。双子であるという結論は既に否定しているが、母方の縁を辿っていけばそのうちに巡り会えるだろうか。
 皇子は曖昧に頷き、マルエスと呟いた。歩き続ける皇子の背後の空気がたわみ、彼の背後ではい、と返事がした。皇子は視線だけで振り返り、そこに彼の随従を見つけた。
 マルエスは皇子の護衛の魔導士であった。魔導士の掟に従い、全身を覆う外衣と銀の仮面を身につけている。階級は第3位従、全階級の内中の上程度に属する位置である。魔導士の出自などは全て破棄されていて個人情報など知りようもないが、声や背格好からまだ若い年齢の男であることは知っていた。
「……マルエス、彼のことは何か分かったか」
 皇子は呟くように小さく言った。魔導士はいえと即答する。あの仮装行列に参加する皇子の側に姿を隠して彼もいたから、皇子は彼を捜すと決めたとき、容貌を説明するよりはマルエスに命じた。
 すぐに見つかると思ったのだ。魔導の力は一般の人々が思うよりも遙かに広くて深い。彼の気配や残像の足取りを追っていけば簡単に辿り着くだろうと思っていたのだが、あの彼が魔導論文の新旗手であったことを思い出す結果となってしまった―――魔導によって痕跡を追うことが出来ないよう、路地に入ってすぐに簡単な結界罠を残し仕掛けていったのだ。
怪我をするほどの大仰なものではなかったから単なる警告であるとは思われたが、自らの足跡をひたすらに隠そうとする意志はやはり鮮明だった。
 困難だな、と思ったのはその時のことだ。魔導によって過去の残像をどうにか捜しだし、他人の目の底に残る記憶をかき集めていけばどうにかなると思っていたのを修正しなくてはならない。
 地道に血縁からだと結論してアルカナ大公系の家閥の子供達を捜し、失敗し、今はもう一つの大公家アイリュス系の子供達を辿っている。この二つの大公家は以前から姻戚関係を複雑に結んでいる。お互いに血が入り交じっているのだ。
「殿下、卑才思うところがございますが」
 マルエスの声が囁く。皇子は許すと歩きながら呟いた。
「―――ラウール大公という可能性はございませんでしょうか。……つい5年前に家門を取り潰されてございますが、当主は現在生きておれば殿下よりも一つ、年下であったように心得ます」
「……ラウール、か」
 皇子はその可能性に気づき、大きく頷いた。それは確かにあり得る話だった。
 ラウール大公家は5年前に当時の当主が死去し、その息子が幼くて家を後継できないことを理由に完全に断絶を宣言され、全ての利権を取り上げられている。これは国政に深く関わるアルカナ、アイリュス両大公家の意向であった。
 200年ほど前のラウール大公家系の高位貴族が乱心し、当時の皇帝を人質にとって籠城した事件を以てラウール大公家は凋落の道を辿り始めた。
 この事件の真相は未だに闇の中であるが、どうやらアルカナ家の陰謀であったらしいことは当時から囁かれており、確証はないが皇子もそうであろうと考えている。
 アイリュス大公家はラウールを蹴落とすことに関してアルカナと結託し、事件の後はラウールという家名を貶め続けることに熱心だった。
 アルカナもアイリュスもここ500年ほどの間に隆盛してきた比較的新しい血筋だ。この国で尤も古いのは勿論皇族であるエリエアルの姓を抱く一族だが、それと同じほどの古さを誇っていたのがラウール大公の血脈であった。その開祖は建国の功臣にして始祖大帝の寵臣であったケイ・ルーシェンである。
 嫉妬と呼ぶには余りにも暗い情熱であったが、古い国の古い血筋を以て儀式や慣習に深く食い込んだ一族を追い落とさねば、アルカナもアイリュスも長く国の根幹に止まることは出来なかったであろう。貴族間の勢力の引き合いであると一括出来る話であり、結果アルカナとアイリュスは勝って未来を手に入れ、ラウールは負けて遂に消えたということなのだ。
 5年前に当主が死んだとき、アルカナもアイリュスもようやく時期だと思ったのだろう。既にラウールの閨閥の家門は散り散りになり、いくつか残ってはいても結託をしていない。
 復興を目指す勢力がなくなるように両大公家は時間をかけてラウール大公家を腐らせていった。後継者が幼いのであれば同じ家門閥の中から後見人を立てて成人である15才を以て正式に襲名という手続きで十分であったはずだが、既にそれを幼い子供のために唱えてやる正論者はいなかったのだ。
 ラウールか、と皇子は今度はやや低く呟いた。アルカナやアイリュスなどよりもラウールの方が血が古く、始祖大帝の頃から連綿と続く一族であるからには皇族との婚姻も両家とは比較にならないほど繰り返されている。似ているとしても不自然であるとは思えなかった。
 なるほどね、と皇子は深く頷いた。その可能性は確かにあった。
「ラウールの子供は確か、行方不明だったね……」
 極秘裏に暗殺されたのだという噂が一時流れていたと後で知ったが、誰もその生死の決着を知らない。逃げて今でも生きているとしたら、それは確かに戸籍を偽るべきだし性別さえ誤魔化すべきだ。用心深くもなろう。何より、皇子へ向けた彼の視線の複雑そうな色を説明できそうだった。
「ラウール……確か、キエス……と言ったね、マルエス?」
「は、記録には確かにそのように」
「……探せるか、キエス・ラウール?」
 恐らく、とマルエスが軽く腰を折る。皇子はほっと唇をほころばせた。
 どこの誰かも分からなければ捜索はしらみ潰しというほどに労力を使うが、それが判明しているのならずっと作業は楽になるだろう。皇子は彼の正体を見つけた気持ちでどことなく安堵を覚えた。昔から分からないことがあるのが無性に不安なのだ。
 それと、とマルエスが続けたのがだから皇子は意外であった。視線を向けるとマルエスは僅かに恐縮したように会釈をした。それを手で制して皇子は続けるように促す。
「それと殿下、子供一人では何かと出来ぬ事の方が多いと思われます。誰か大人が……恐らくお探しの相手には親と認識されている大人が共にいるのではないでしょうか。行方不明者の捜索の年齢の幅をお広げになってみるのは如何でしょう」
「そうか―――そうだね……マルエス、有り難う。そうしておくれ」
 親という概念を全く失念していたのは自分の感覚に近くないからだろうかと皇子は思い、苦笑になった。
「ならば学院に残る『彼女』の戸籍を調べてご覧。彼の方は性別は偽りだったけれど、保護者の方はそうはいかない。共にいる相手の性別が分かればお前たちも楽だろう―――ああ、もういいよ」
 目に夏宮の涼しげな姿が入ってきて、皇子は言った。魔導士の黒い衣は夏の光景の中では奇妙に浮き上がる違和感であった。
 昔ながらの慣習に従い、魔導士を猟犬以下のように扱う人々もいる。会話が出来る相手を皇子は犬だとは思わないが嫌がる者もいたし、第一子供にはあまり受けが良くない。怖がらせてしまうからねと言うと、マルエスはそっと笑ったように空気をぬるませて消えた。姿を隠しただけで実際は側にいるのだが、それでも見えているよりはいいだろう。
 そんなことを思いながら、皇子は露台から自分を見つけて手を振っている弟達に軽く手を挙げた。異母弟である第2妃腹の皇子二人が避暑地から一緒に王宮へ戻っているのだ。ラインも含めて3人で、どうやら自分を待っていたらしい。
 何の遊びの相談だろうかと皇子は思い、池での水泳だけは勘弁して貰おうと考えながら宮の扉に手をかけた。
 昼間をようやく迎える妓楼の中は白けた明るさが漂っている。店棚の格子窓には全て簾が降り小間使いたちが夕方からの営業に向けて立ち働いていて、活気はあるがからんとした空気が支配していた。
 その合間を抜けて遊女たちは食堂や針部屋へてんで勝手に集まってくる。乾いた明るさは遊女たちが殆ど素顔で、化粧気も飾り気もない素のままの個人に戻っているからかも知れなかった。
 食事は部屋で取っても勿論構わないが、気のあった女たちは大抵こうして食堂で一緒に昼食を取る。夕食は客から奢られるものであるから、実際何時になるかは分からない。
 リィザが食堂で昼食を取るようになったのはごく最近のことだが、新しく遊女になる娘は今は彼女しかおらず、他の女たちは概ね彼女に優しかった。
 同姓という気安さの連帯なのか、それとも自分たちが通ってきた苦悩の中に未だに住んでいる彼女を哀れんだのか、そのどちらだとしても、リィザは「ねえさん」たちからの細やかな愛情を感じるほどにはこの妓楼になじみ始めている。
 一番彼女に口を開くのはシアナという少女であった。無論それは本名ではなく遊女としての源氏名だが、チェイン王の宴席の晩にリィザへ乱暴を働いた少年たちに氷をぶちまけて救ってくれた遊女だ。
 シアナはリィザが来たのが単純に嬉しいのだろう、こと良く彼女を構った。口調は素っ気なくてきついが、さして嫌みであるつもりが無いを理解すれば、その裏の不器用でぎこちないリィザへの興味に気付くことが出来る。
 同年齢である共通に何かを見いだしたいのだろう。
 薄茶色の髪は昼間の光の下では琥珀が輝くような色味に淡く煙り、翡翠をはめたような美しくまろい緑の瞳と整った輪郭線が同性であっても目を引きつける。
 シアナには美貌の恩寵のままに既に複数の常連客がついていて、その中で最も彼女にとって重要で妓楼にとって上客と言うべきはチェイン王ライアンであるようだった。
 あの宴席もライアンがシアナと馴染んでいるからこそこの妓楼を選んだようだ。妓楼はタリア内の組合の規定で客の個人情報を徹底的に秘匿するが、遊女たちの目にも明らかにライアンはシアナに3年通い続けている男であった。
 自分の女の株を上げてやろうという彼の思惑なのだろう。
 このところ、あの晩のことが縁でリィザはシアナと昼食が多い。シアナは更にミアというこの妓楼一番の娘によくなついており、自然その集団に混じることが多くなった。
 シアナはつっけんどんと言っても良いような口の悪さだが、ミアの方は柔らかに優しい。声音のとろけるような甘さが心地よかった。
「……この子は、本当にライアンばっかりだから」
 ミアの声が可笑しそうにころころと笑っている。シアナは端麗な頬の曲線を思い切りぷうと膨らませ、だって、と唇をとがらせた。
「だってねえさん、ライアンより綺麗な男なんか見たこと無いもの―――ねぇ?」
 ふっとシアナの視線が自分に向いてきて、リィザは微かに笑って首を傾げた。
 宴席で見かけたチェイン王だという青年の顔立ちは確かに小綺麗にまとまってはいたが、それよりも圧迫さえ覚える存在の重圧感と痛みを覚えるほど冷えた視線、その二つが合わさって出来る永久凍土のような荒涼とした空気だけが吹き付けてきたことだけしか思い出せない。怖いというのがリィザの感じ取った全てであり、それ以上ではなかった。
 それでもシアナの喜ぶ顔も見たくてリィザは記憶の中からライアンの面差しを恐る恐る引き出す。それは今まで見た誰よりも確かに整ってはいたが、陰鬱で、やはり瞬間的に目を閉じてしまいたくなるほどに恐怖を引き起こすものだった。
「……ライアン様、ええ、確かに綺麗な方ですよね」
 やっとそれだけを返答すると、シアナの方は得意そうな笑顔になった。彼女にはそうした自信に満ちた、ややもすると驕慢といって良いほどの傲岸な笑顔がよく似合った。華やかな顔立ちが一層際だつのだ。
「でしょ? ―――ね、ほら、これ……ライアンに貰ったのよ」
 シアナは一層得意満面という表情で自分の髪をまとめていたかんざしをすらりと抜いた。
 それまで髪に隠れて見えなかった柄の部分は透かし抜きになった黄金の蔦唐草文様に縁取られた翡翠であった。飾りの部分はやはり翡翠、こちらは唐草とあわせた芙蓉花がくりぬかれた贅沢な品だ。
 精緻な細工、おそらくは本物の金に翡翠、どれだけの品なのか見当がつかない。
 リィザが見入っていると、シアナは得意そうに吐息で笑った。
「あたしの目の色が緑だからね、それで翡翠なの。柄の飾りは髪の色と合わせた琥珀がいいって言ったんだけど、それは細工がとても難しくて探せなかったんですって。でも黄金ならいいわ、―――似合う?」
 とりとめもないことを話しながらシアナは器用に髪を元のように結い上げて、かんざしで固定した。シアナの言うようにその翡翠は彼女の瞳から吸い出されてきたような美しい色合いであったから、リィザは深く頷いた。
 自信に満ちた微笑みを浮かべているシアナは本当に美しく、同じ年齢であるとは信じられないほど大人びて華麗であるように思われた。
 リィザの返答に満足したのだろうシアナはリィザの黒髪に手をやって、櫛を丁寧に通して頬の横側を軽く編んだだけの髪型を崩し、せっせとそこを編み始めた。
「……何が似合うかって難しいけど、あんたの場合は髪が黒いから真珠がいいわ。きっと黒髪に雪花がかぶるみたいに綺麗に映えると思う」
 シアナが視線で同意を求めたのか、そうねとミアが優しく頷いた。
「私たちは衣装は決められているけど、髪や装身具は特に決まりがないから好きにしていいのよ。リボンも花も、みんな大好きでしょう?」
 はい、とリィザは頷く。
 遊女たちの衣装は決まっている。いずれ遊女となる娘は白、体を提供しない下働きは黒、遊女たちは赤地に装飾は金糸、そして月が満ちる期間だけはくすんだ赤い絹地。身につける色が決まっているせいで、却って女たちは金糸の刺繍の具合に気を遣ったし、髪を飾るリボンや造花に熱中している。
 シアナが今リィザの髪に編み込んだ造花もその内の一つだ。
 リィザは水揚げを待つ身であることを示すために白以外の色は身につけることが許されていない。だから造花は白、優しく愛らしい鈴蘭に白いレースのリボンが絡んでいる。鏡の中の自分の髪には確かに彼女たちの言うように、白が良く映えた。
「だからお前にね、水揚げが済んだらみんなで髪飾りをわけてあげるわ。みんなから少しづつ贈ることになってるの。この店の習慣よ―――覚えておいてね」
 リィザは曖昧な返答をして俯いた。ミアの言葉もシアナの見立ても、自分の水揚げが近いせいなのだろうかという淡い恐れを連れてくる。
 涙の一件を女将は殆ど叱らなかったが、その代わり娘たちからは一斉に呆れ加減の馬鹿ねという言葉を聞いた。その大半には軽い哀れみも込められている。
 リィザの顔が曇ったのにまず気付いたのはミアで、ミアの表情からシアナの方もそれを悟ったようだった。
 あんたね、と髪を弄る手を止めて、ひょいと横からリィザの顔をのぞき込む。間近で見ても欠損一つ無いシアナの肌はなめらかに輝くようだった。
「いい加減、覚悟しちゃったら? どんなに拗ねたって泣いたって、あんたはあたしたちの仲間になるんだからさ。……水揚げが済んだらあたしのリボンからあんたの好きなのをあげる。口紅と頬紅も、あたしたち肌の色が殆ど同じくらいだからきっとあんたにも似合うよ。ねえ、もっと楽しい方のこと考えよ?」
 ね、と笑顔で念を押されてリィザはどうにか微笑んだ。シアナの意図もそれが気遣いだということも分かるのに、素直に頷いて流れに身を任せてしまうには覚悟が出来ない。最初の日にすくんだままになってしまった心が、どうしても折れないのだ。
 自分がこんなにも彼を恋うていたのかと思うのはこんな時だ。せめて思い出になるようにと持ってきた硝子の小鳥を部屋の鏡台の脇に見つける度に泣きたくなる。それが美しい過去であればあるほど、哀しく見えてくるのが辛かった。
 だが、黙り込んでしまったリィザに明らかにシアナは不機嫌になった。彼女は機嫌の善し悪しがすぐに顔に出る。リィザが自分の言葉に不承であることが気にくわないのだ。
「何よ、すぐ浸っちゃってさ……本当の、本当に、抜け道はな、い、か、ら、ね!」
 シアナはそう吐き捨てるように言い、編みかけていたリィザの髪を放り出した。ばらけた髪が頬にかかる。
 リィザは振り返って面白くなさそうにつんと唇をつきだしているシアナを見つけた。目が合うとシアナは不機嫌そうに視線を逸らし、ことさら取り繕ったような無表情になった。その顔立ちに何処か見覚えがあるような気がしてリィザは目を細め、それから納得して微かに声を上げた。
 彼女は似ているのだ。ライアンといったはずの、あのチェインの王に。
 シアナの方が格段に表情が豊かで性別と年齢の差があるが、彫りが深くてくっきりした顔立ちや面輪全体に漂っている空気が酷似している。
 髪の色が余り変わらないのもその印象を深める一因であろう。瞳の色まではリィザのいた位置からは見えなかったから、それは分からないが。
 リィザは思わずじっとシアナに見入っていたようだった。同い年の遊女はその視線に居心地悪そうに身じろぎし、何よ、と不満声で言った。
「いえ、あの―――」
 何でもありませんと言い掛けてリィザは言葉を飲み込む。シアナが曖昧な誤魔化しを好かない性質であることは既に知っていたからだ。
 あれほど好きな男に似ていると言われれば不機嫌にはならないだろうとリィザは思い直し、暗く凍えかけた頬を懸命に動かして微笑みを作った。
「ただ、シアナねえさん、ライアン様に似ているなって……」
 それを言い終えない内に、シアナがいきなり口を歪めてうるさいと怒鳴った。驚愕で思わず固まってしまったリィザの髪から編み込んでいた白い造花をむしり取り、シアナはぎゅっと唇を噛んだ。
 その顔色が怒りにか別のものにか赤く染まっていく。
 自分がシアナのどの部分の急峻な激高に触れてしまったのか分からないままで、リィザは取り繕うためだけにごめんなさいと口にしかけた。
 それをやんわり遮ったのは白い手だった。唇を塞いだ手がそのまますっと自分を抱き寄せ、香の種類でミアだと分かる。
 ミアはリィザを包むように後ろから抱き、シアナ、と強い声を出した。
「―――いもうとを、理不尽に怒っては駄目よ。かあさんだっていつも言ってるでしょう、理由があって叱るのはいいけど、怒っては駄目、いいわね?」
 シアナは頬を紅潮させたまま、じっとはたき落とした白い造花を睨んでいる。その時間が気の遠くなるほど流れた頃、やっとこくんと一つシアナは頷いた。
「……ごめん」
 低くそれだけ呟いて造花を拾いもせず、自分の部屋へ走り戻っていくシアナにリィザは何を言っていいのか思いつかなかった。
 シアナの姿が遊女部屋へ通じる回廊へ消えてしまうと、ミアは抱擁を解いた。彼女からはいつでもふんわりした香と化粧の混じった仄かな薫りがした。
 ねえさん、とミアを不安に見やるとミアは仕方なさそうに微笑んで、首を振った。
「あの子には、ライアンと似ていると言っては駄目よ。それをとても気にしているからね。この前の宴席の時にでも教えてやれば良かったわ」
 何故であるのかをミアは口にしなかった。それは彼女も知らないのか、それとも告げる気がないのかどちらであるかは推し量れないが、少なくとも誰かに聞くことの出来る種類でないことを理解すればそれで良かった。
「……シアナねえさん、いいんでしょうか……?」
 ただ、自分が彼女を酷く傷つけてしまったのだろうかと思うと胸が痛い。
 あれほど馴染ませようとし、可愛がろうとしてくれるシアナに対して申し開きの出来ない仕打ちをしてしまったような罪悪感が深く自分を刺し貫くようで、リィザは痛みのために深く呼吸をした。
 ミアは再び困ったように笑い、周囲の女たちを見回した。
 彼女たちもまた、シアナの怒りの顛末を息を潜めて見守っていたのだと分かったのはそのときのことだ。ミアの視線に重い空気がなぎ払われていくようにか、ようやく彼女たちから忍び笑いのような、微かな苦笑がこぼれ始めた。
「仕方ないわ、知らなかったんですもの」
「シアナはちょっとかあっとなる子なのよ、悪気はないから放っておきなさい」
「ライアンのことはあの子が言い出した時につき合ってあげたらいいから」
 一つ一つに頷きながら、リィザはやっと人心地ついたように体を楽にした。ぬくやかな女たちの言葉にも、シアナの怒りにも、女ばかりの格子の中の王国の、自然な流れがあった。
 いつか自分もその中に入らなくてはいけないのだろうか。そんなことを思うとリィザは溜息がこぼれそうになる。
 それを誤魔化すために身をかがめて鈴蘭の造花を拾っていると、ミアがいらっしゃいとリィザを手招いた。
「―――シアナを許してやって、嫌わないでね……あの子は言いたいことを言うけど、嘘をつくほど姑息じゃないの。それがとても良いところなのよ」
 はい、と呟くとミアはほっとしたように笑い、シアナが滅茶苦茶に崩してしまったリィザの髪を改めて編み始めた。
 他の遊女が自分の化粧箱の中から白菫の小花のついたリボンを、更に他の女は大輪の百合を彫り抜いた象牙の腕輪を、それぞれ貸してあげるわと寄越してくる。
 そうやって飾り立てて化粧を薄くはたけば、鏡の中にいる自分はそれまでのどんなときよりもましに見えた。
 この姿を少年に見せることが出来なかったのが不幸なのか幸いなのかリィザは考えようとしたが、思うだけで哀しくなるのはいつもと同じだった。
 彼にはもう会えないかも知れないという薄い恐怖は日ごとに重くなってきている。
 否、それよりも……遊女として帝都にいることを知ったら彼は一体どんな顔をして何と言うだろうか。
 自分を蔑むなら辛いし、哀れむなら尚辛いし、それでも変わらず好きだと言ってくれたら―――多分、それが一番悲しいだろう。
 いくら思考を重ねても、辿り着くはずだった幸福の彼岸は遠く、既に遙かに霞んで見えなくなっている。彼の手がそこへ導いてくれると信じていられた無邪気な未来への絶対信頼は、不意打ちに崩れてしまったのだった。
 暗くなりがちな思考を、リィザはそれでも振り切ろうとする。遊女たちは優しく、女将は厳しいながらも情理の通る人柄で、自分は恵まれている方なのだ。
 妓楼でも酷い場所になると部屋らしい部屋もなければ、日に幾人もの客を無理矢理取らせることもあるのだと他の遊女たちの眉をひそめた訳語りで学んでいる。更に女を道具としてしか扱わないような娼窟になると、薬を使って3年で廃人にして顧みないらしい。
 タリアの大通りから1本入った辺りのこの妓楼は、遊女の揚げ代は大きな棚よりは手頃で娘たちの管理はしっかりしている。少なくとも、女将があたしの娘という時はきちんとした情を感じることが出来た。
 だから、自分は運がいいのだ―――恐らくは。
 生きていけるだけで幸福だと素直に信じていられた日々、自分はきっととてつもなく稚なかった。人生は連綿と続く日常そのものであって、それ以上のものではなかったのだ。
 首を傾げると、鏡の中の着飾った少女が同じ仕草をした。黒い髪にさやさやと触れて揺れる白菫の飾りが愛らしい。
 それを愛でるのが永遠に少年ではないだろうと思うと、ひどく息苦しくなる―――
 リィザは首を振った。周りからこれほどに気遣われて優しくされて、なお自分一人がかたくなに全てを拒否できるとは既に思うことが出来ない。足らないのは覚悟なのだ。
 もう彼には会えないのだと認める覚悟、これから先しばらくをこの妓楼で過ごしていくための覚悟、そして未知なるものへ闇雲に身を任せてしまう覚悟、それとも全てを放擲して天窓からでも身投げしてしまうというような、思いに殉じる覚悟も。
 じっと鏡を見据えたまま考え込んでいるリィザの頬を、そっと撫でた指先はミアだった。先輩の遊女を見上げると、彼女は淡く悲しげな陰をまつろわせて笑っていた。
「……また彼のこと、考えてる」
 それはその通りで、リィザは気恥ずかしさのために赤面して俯いた。いつまでも自分一人がぐずぐずと思いめぐらしても状況は変わらないのだから。
 羞恥の仕草をミアは笑わない。ますます優しげに笑ってそっとリィザの手を握り、囁いた。
「忘れなさい」
 きゅっとその瞬間にきつく握りしめられたやわい痛みを、リィザはきっと忘れないだろうと思った。
「忘れなさい、もう会えないわ―――いいえ、会わない方がいいのよ」
 頷きたい、とリィザは思った。
 ここでひとつ、こくんと首を動かして気の済むまで泣いてしまえば何かが遠い河へ滑り落ちて涙の海へ落ち着くように、想いの漂う海へ還るように、きっと何かが軽くなるだろう。それが分かっていても、どうしても、どうしても。
 彼が好きだという気持ちが恋であるのか愛であったのか、もう分からない。確かめるすべは残っていないのだから。
 ずっと以前、もう殆ど思い出せないような昔に思える過去、リィザは名も知らぬ神へ祈っていた。他人に話せない大それた、密やかで重大な望みを口にする時にすがるものはそれしかなかったのだ。
 そしてその神への祈りは少年の名を呟く事へすり替わっている。
 彼との恋だけが、彼女の希望だった。それが潰える瞬間さえ分からなかった。
 それが誰の罪なのかリィザには判断が出来ない。いっそ自分が全てを背負い込んで卵殻に籠もる雛のように、世界から巣籠もってしまえばいいのかもしれなかったが、それもまた覚悟が―――性根が、足らない。
 何もかも中途半端に足らない自分こそ、最も罪深いのかもしれなかった。
「……ねえさん、私……」
 握られている手の暖かさに泣き出しそうになりながら、リィザはミアを見上げた。ミアは首を振り、先ほどよりももっと優しい声を出した。
「会わない方がいいの。もう、忘れなさい。苦しいと思うなら心を眠らせて、綺麗な夢を見るといいわ。次の朝に目が覚めるまで、うんと綺麗で楽しい夢を」
 ミアはそんなことを言って、リィザの目をじっとのぞき込んだ。
 夢、とぼんやりリィザが繰り返すとミアはそうよと深く頷いた。
「私たちが夜眠るのは次の明日を生きていくためなのよ。そのために人は眠るの。どんなに辛い夜でも夢を見て癒されれば、きっと次の朝にはまた生きていけるから」
 リィザにとって今が明けない夜であるならば、次の朝を目覚め生きていくために心の目を閉じて夢に遊んでも良いのだとミアは言い、そして囁きよりももっとさやかな声で呟いた。
「みんな、好きな人くらいならいるのよ……大好きな人がいるなら幸福よ。巡り会えただけでもいいんだって、そう思ってる……でも、もう会えない人を思うのはおよし。いつかきっと、これで良かったんだって思えるような恋をまた見つけられる。そんなに好きな人に出会えて恋が出来たんだもの、あなたは幸福なのよ。過去だけは自分が幾らでも綺麗に繕える、誰にも持って行かれないものだもの」
「わたし……」
 リィザは呻くように言った。
「私、若様に会いたい……会いたい、会いたい、会いたい……会いたい……」
 繰り返して呟くと、一層それだけが全てであったのだと思い知った気分だった。
 彼にもう一度だけ会いたい、会ってさよならを言いたい―――いいえ、それよりも。
「私、若様のこと、大好きでした。本当に、好きだった……」
 本当に言いたかったのはその感謝だったかもしれなかった。それを告げたいと思った時には既にこの赤い格子の中の小鳥として生きていくことが沢山の他人の思惑で決定してしまっていて、リィザにはどうする術もなかった。
「ありがとうって言いたかったんです……こんな私でも、好きになってくれて、嬉しかったって……本当に幸せだったって……」
 そうね、とミアが握り込んだ手をさするように撫でた。
 はい、とリィザは頷き、ねえさん、と顔を上げた。
「でも、もう、会えないんですね……?」
 ミアはゆっくりと、しかし確実に深く頷いた。リィザもまた頷き返した。
 誰かがはっきりと口にするまで、認めたくなかった。夢を見るような未来がまだあると信じていたかった。白昼にも目を開けてみる種類の夢を見続けたかった。
 でも、それはもう自分の元には返らない未来なのだ。
「あの人に、もう、会えない……」
 口にした瞬間に、それはざあっと流れ落ちてくるように身の周囲に現実として降った気がした。リィザは微かに肩を震わせて、きゅっと唇を噛んだ。遊女たちが丁寧に入れた紅のにおいだけが鼻についた。
 不意にミアが彼女を抱きしめた。彼女の化粧の薫香に誘われるように最初の涙が落ちた瞬間に、リィザは声を上げて身を崩しながら年上の女にすがりついた。
 小間使いの少女が来客を告げた時、女将はちょうど帳簿をつけ終えて一服を始めるところだった。煙草は振り出しの妓楼にいた頃に覚えたが、悪い習慣だと思いつつも手放せない。来客といっても気兼ねするような仲ではなかったから、女将は煙草に火を入れながら、手振りで適当に座るように客に促した。
「かあさんが用事っていうのは珍しいね」
 そんなことを笑いながら言って女将の前の椅子に腰を落とす男も煙草のみだ。暫く二人で向き合って黙りこくりながら煙管をいじりあっていれば、いつものようにぬるく空気はほどけていくものであった。
 この男が自分を名で呼ばなくなったのはいつ頃だったろうと女将はふと思い、所々に白いものが混ざり始めた鬢を見やる。
 お互いに出会った頃は10代の若さであったが、年月の神というものは容赦がない。男からは脂気を、女からは水気を、それぞれ等しい量、奪っていく。
 うんと遠い昔はこの男の肩に爪を立てたこともあった。けれど遠景の中の陽炎のように、それは既に霞んでいる。
 一体それがどんな気持ちであったのかを説明することは難しかったが、自然と体が離れていくに従って、心は近くなっていくのは不思議だった。あるいは沢山の修羅場を同時に見た悔恨と歓喜が強く自分たちを結んでいるのかも知れない。
 いずれにしろ、今は既に自分は瑞々しい奢りと華やかな驕慢の中にあった遊女ではなく、男もまた上だけを睨むようにしてぎらぎら輝いていたタリア王の若い幹部ではない。お互いに未来が自分の良い方に転がっていくと頑なに信じていた時代は終わったのだ。
 そんなことを思って女将はふと鼻で笑った。自分もずいぶんと老けたものだと思ったのだ。
 ほんの10年ほど前まで自身の馴染みの客とも時折寝るくらいはしていたはずなのに、まるですっかり干上がった年寄りみたいなことを。
 けれど、店棚にいる年若い娘たちが繰り返す恋情沙汰の一つ一つがいつか自分が見ていた過去の光景と重なって、自分の経験からひいては年齢までを感じることも多い。
 結果も結末も分かっているはずなのに娘たちの真剣な愛情を一息に切り捨てることが出来きずに却って苦しめてしまうこともあると、分かっていながらの自分の甘さに再び女将は苦笑になった。
「今日はご機嫌だね、かあさん」
 男が煙管をいじりながら言った。女将はそうだねえと笑い、一服吸ってからあのね、と切り出した。
「あんたに見て欲しい娘がいるんだよ」
 男は煙草を続けながらふん、と何度か頷く。あの白い衣装の子だねと言われれば頷いた。
 見て欲しいという言葉には気に入ったかどうかを尋ねる意味が含まれている。だとするならそれは水揚げ前の娘についての話である以外にはなく、今この妓楼には見習いは一人しかいない。この店の一番の揚げを誇っている娘の説得で、やっと客を取ることに同意してくれたばかりだ。
 未だに痛々しく目を腫らしたまま起きてくるのも、仕方あるまい。いずれにしろ、何にでも人は慣れていく動物だと信じる他はなかった。
 だからそれには頓着しないふりでてきぱきと水揚げの準備を進めてきたが、肝心の入札が入らない。例えばシアナの時には数件の入札があって比較的高い値が付いたものだが、本人が人目を引く美少女というわけでもなく、明るく客に愛想を言うでもないのならば、これは諦めるしかなさそうだった。
「……若いよね。いくつ」
「14。男は知らないから、まあ、なるべく優しくしてくれるのをと思ってね」
 タリアの男には奇妙にゆがんだ性癖を持っている者も珍しくない。外から来る客などはそうでもないが、タリアの内側の抗争に身を置いていれば緊張の解ける瞬間には何かがたわむのかも知れないと女将は思っている。
 最初から娘たちにそんな応用問題を解かせるつもりがないのは確かだったし、この男がごく普通に女を扱うことも知っていた。
 若い連中のうち宴席で親しげに話していた隻腕の男でも良かったが、後で他の娘に聞いたところによるならば、彼女は他の無軌道な少年たちの悪戯に衝撃を受けていたようだった。だから女将は彼女が宴席で泣き出してしまったことを殆ど叱ることが出来なかったが、若い男はこの際しばらくつけない方がいいかも知れない。
 適度に油の抜けた優しげな中年男の方が、恐らくは彼女を安堵させるだろう。父親は記憶にないと言っていたから、いっそそんな風にでも慕ってくれさえしたら。
 女は大切な商売道具であると同時に女将にとっては娘でもあるのだった。
「彼女ねえ……かあさん、どうしてあの娘を買ったんだい」
 意外なことを聞かれた女将がどうして、と聞き返すと男はいや、と苦笑気味のような曖昧な顔になった。
「かあさんの好みじゃないからさ―――あんたは昔から、明るい娘が好きだったろう。割とね。だからちょっとかあさんの趣味に合わないような気がしてさ」
 別に彼女がどうこうじゃないよ、と付け加えて男は煙管をくわえた。
 男の言いぐさに女将はそうかも知れないと何度か意味無く頷いた。
 確かに女衒の男たちが連れてくる少女たちのなかから自分は明るくて快活な娘を取る傾向にある。というよりも、宴席の座持ちのことなどを考えていると自然とそんな娘が増えてきたという方がいいだろうか。
 ただ、と女将はあの少女の笑顔の印象を思い出す。それまでは平凡といってよい顔立ちに見えていた少女が、微笑むと何かが切り替わったように愛らしく見えた。
 笑顔が良いというのは女を口説く古典のような文句だが、その究極に強力な形を見た気がする。
 大人しげな風情、大きな瞳、黒い髪。多分これらが全て完全に調和したならば、女神の如く崇められなくとも、天使のように愛されるに十分だと直感したのだ。
 それに、連れてきた女衒の男は基本的には大通りのもっと大きな妓楼に出入りしている。時刻は既に夕方を過ぎて妓楼の長い夜が始まった後、女衒は本来客のいない時間に娘を連れて売り歩くものだから、自分の所へくるまでに大棚を相当回ったに違いない。
 女衒は彼女をもっと大きな店へ入れようとした―――それだけの価値があの少女にあると踏んだのだ。その読みを、女将は信じている。
 そんなことを女将は煙草の合間に説明した。男は既にタリアの住人ではないが、元はタリア王の配下であるから妓楼の仕組みや女衒の勘は知っている。
 女将の言葉が終わるのを待って、男は頷いた。
「まあ、いいさ。かあさんに貸しとくよ」
 水揚げを引き受けたことを簡単に告げて、男は煙草の火種を灰皿に落とした。
 男の年齢からして、怯える娘を宥めながらの破瓜の儀式はそろそろ気が重くなってくる頃だ。それには粗野な衝動が要るが、脂が抜けていくにしたがってそうした部分もまた、落ちていくものだ。
 だがこの男に頼もうと思いついたのは決して間違いではないはずだと女将は考える。タリア王の元に出入りしていた頃の男にはなかった余裕と穏やかな優しさが、彼がタリアをでてから20年で身に付いた結果だとするならば信じるに足りた。
 いつ、と聞かれて来月の頭にはと返答する。その直前に少女の月経が終わるから、それを待つつもりであった。
「……優しくしてやっておくれよ。無理はさせないで。最初の男で全てが決まるとは思ってないが、ある程度の価値観は決まるからね」
「分かっているとも。かあさんの信頼を裏切るようなまねはしないよ」
 男は仄かに笑った。
 灰を切った煙管を丁寧にぬぐい、腰のベルトから差し込むのは煙草をする男たちの大体の習慣だ。次の一服を始めないと言うならば、男はもう帰るつもりでいるのだろう。
 場に現れてからさほど時間はたっていないが、男は忙しいのは知っているから引き留めるつもりはなかった。
 女将は立ち上がって応接室の扉を開けてやった。昔はタリアの中でも修羅と呼ばれて憚らなかった男の背は同じような高い位置にあるが、以前のような体全体から発散されるような蒼い凄味は消えている。
 20年前に彼は突然人の諍いに愛想を尽かして修道僧になってしまったのだ。その心境の変化を男は気が向いたのだと笑ったが、きっと何かがあったのだろう。
 それが何かと聞かないのも言わないのも、自分たちの間にある信頼がそうさせている。僧職に水揚げを頼むというのも奇妙な話ではあるが、男が承知したならよいのだろう。
 帰りしな、男は思いだしたように幾ら、と聞いた。女将は少し思案顔にしてから言った。
「200で全部揃うようにしておくよ」
 水揚げには揚げ代の他にも祝儀や花や記念の衣装など、細かなものが沢山入り用になる。それを全部で200で揃えるというなら、こちらから頼んだ負い目を差し引いた程度の勉強はしたということになる。
 だが、男は明るく笑った。彼の笑顔の嫌み無い朗らかさだけは、ずっと変わらないものであった。
「いいや、かあさん。後100、出そう。それで少しは良い花と良い衣装を揃えてやっておくれ」
 女将はありがとうと呟いた。男は軽く笑い、ふと真面目な顔つきで女将に向き合った。
「あんたとつるんでいられるのもそろそろ終わりかもしれんからな。どうやらこの秋には北部へ出向だ―――やっと、正式な教師免許が降りたからね」
 そう、と女将は頷いた。地方の教会は大概、子供たちのための初等学校を兼ねている。そこで教鞭を執るのは神職者であるのが普通だ。
 男が以前から人生の最後をどこかの鄙村で穏やかに過ごしたいと望んでいたことを女将は知っている。教師免許を持って地方の教会へ出向するというのなら、望みが叶ったことになるのだろう。
 だから女将はおめでとうと言った。男は軽く頷いた。
「だから、これがかあさんにしてやれる最後かも知れないと思ってね―――どれ、娘はどこに? 少し話をしていこうか……源氏名はなんと」
「リーナ。矢車草の淡い紫」
 女将はゆっくり言った。本名が矢車草を意味するリィザであるなら、そこから派生する薄青紫の色名を与えるのがいいだろうとここしばらくで出した結論である。本名とさほど変わらない呼び名を与えるのも習慣であったし、その響きは彼女には似合っているように思われた。
 リーナね、と男は繰り返して出ていった。残されて女将は新しい葉を煙管に詰め始める。この習慣だけはどうやら墓場まで持っていくことになりそうだった。男はきっと上手くあの娘を言い宥めてくれるだろう。あの娘が持っていた銀の板は神へ祈る時の道具だし、適当に威圧の抜けた年上の余裕に甘えさせるだけの、男には器量がある。
 娘たちのことはいつでもそれなりに女将には気懸りだった。最初に入った妓楼から身請けされて出ていった先で女将は一人女の子を産んでいるが、実娘は3歳の誕生日を迎える直前に死んでしまった。
 今いる娘たちは、だからみなあの子の代わりだ。死んだ子の年齢を数えるのが如何に馬鹿馬鹿しいかと思いながらも、それは今一番年齢が上の遊女と同じくらいだと知っている。
 身請けされた先の主人が亡くなると保証もなしに屋敷を追い出されたから、タリアに戻ってきた。
 主人の存命中に買い集めておいた宝石などを元手に、タリアのもっと奥の方に小さな妓楼を開いたのは、自分の知る世界があまりにも狭いのだと気付いたからだ。
 娘たちは4人、その全員はもう妓楼にはいない。自分も彼女たちよりも10ほど上であるだけだったから、時折は客も取った。
 そうして生き抜いてきた挙げ句、やっとこの店にまでたどり着いたのが7年前のことだ。
 タリアというのは不思議な町で、これほどの妓楼が建ち並び、女の美しさが一番にまず価値を持って品定めされるというのに、この町で勝ち抜いていく女たちはさほど美しくない。
 無論何を以て勝利とするかで基準は違うだろうが、女将は決して娘たちが夢見がちに語るように恋を得た相手に望まれて幸福な結婚のために出ていくこと、であるとは思っていなかった。
 最初の妓楼を出ていく時には自分もそう信じていたが、普遍や永遠はこの世にない。男は確かに自分の人生に豊かな色彩を与えてくれる。恋も愛も、どんな色であっても眩しく見せてくれる。
 けれどそれは一瞬の所作、年月の大河の中で水泡になって弾け消える夢でしかない。どれだけ美しい色を添えてくれるとしても、その中核にいるのは自分自身であり、染められるのは自分の人生なのだ。相手の男ではない。
 生き抜いていくのに必要なのは自分の意地と才覚で、それだけが娘を亡くしてタリアへ舞い戻らざるを得なかった女将を支えてくれた。女将は年齢を重ねた今でも整った容色を持っているが、自分の美しさになど何の価値も見いだしていない。
 そうしてがむしゃらに生きていた日常の、ふっと空く陥没のような時間には、女将は今まで知ってきた沢山の女たちが押し流されていった赤い奔流を見る。その色が酷く暗く悲しげであればあるほど自分の正しさを確信できるのに、時折は全く反対のことを考えもするのは可能性をさぐる人の本能だろうか。
 女将が思い出すのは決まってあの異国の女だ。南の国から連れてこられた、美しい女だった。最後までこの国の言葉が片言のあやしさのままで、だからこそ一層に可憐であった女。
 恋をして舞い上がってつぎ込んで、裏切られては泣く事を繰り返して最後には運河に身を投げた、ずっと昔の妓楼で一番仲が良かった、あのいもうと。
 彼女の華やかで寂しい人生を思う時、自分は明らかに勝利者であるという自負と共に一抹の羨望を飼う。それは自分が恋に遂に耽溺しきれなかった女であることと密着していることなのだろう。
 あのいもうとの息子も娘も、母親によく似た線のきつい美しさを持っていた。息子の方は2度ほどしか見たことがないが人形のように凛と整った面差しをしており、娘の方は……今は女将の娘だ。源氏名をシアナ、本名をシャラという。
 女衒が連れてきた中では久しぶりに極上の美人になるだろうと買ったのだが、身の上を聞いて不思議な縁に驚嘆した。似ているとは思っていたが、いもうとのようなやや冷たく見えがちな美女は多い。珍しい顔立ちではないのだ。
 シアナか、と女将は深く煙を吸いながら、目をすがめた。リーナのことも確かに案じているが、シアナの先ゆきも別の意味で溜息をつきたくなる。
 シアナもいもうとと同じく恋に身を滅ぼす種類の女だ。少なくとも、その素質はある。ライアンにひたすら入れあげて他のことを構わない狭窄を女将は何度も叱ったし、そのせいで他の客が疎かになりがちなのはすぐに指名の減少につながると他の遊女たちにも散々言われてなお、シアナの性癖はいっかな直りそうにない。
 ライアンがその欠損を派手に埋めようとする結果が数度の宴席という形になって実際は潤っているのかも知れなかったが、女将はその方法も気に入らなかった。土台、それはライアンが彼女を身請けるか彼女を諭すのが一番良いのだ。それを金でうやむやにしてしまう方策が癇に障る。
 これまでも何度か女将はその話をライアンにしてみたことがあるが、彼は身請けに関しては素っ気なく断り、説得に関しては乗り気でなかった。
 ライアンはシアナを自分の異父妹だと思っているのだろうかという疑問は、女将の中ではすぐに否定されるべきものだ。
 確かにいもうとの最初の子はライアンと言い、後に生まれてくるシアナの7歳上の、暗い目つきの笑わない子供であった。いもうとがシアナを生む金ほしさにライアンをどこかの曲芸団に売り払った経緯や、シアナが日ごろ顔も知らない兄の話を聞かされて育っていたことをあわせれば、境遇や年齢の相似から兄妹であると考えることは不自然であるとは思えない。
 だが、ライアンは自分がシアナの兄ではないと知っているはずだ。シアナから聞いたのか女将と彼女の母が古い知己であると聞いて、自分に問うたではないか。
(シャラの兄を見たことがあるか)
と。
 いもうとの息子が名をライアンと言ったことを女将は覚えていたから、そのときに彼がシアナを妹ではないのかと思っているのだと知った。
 だが、自分はすぐに否定したはずだ。シアナの兄である子供を見たことはある、だが、その瞳の色はあの下らない父親と同じ琥珀色だったと返答した。ライアンはシアナと同じ緑色の瞳を僅かに歪め、すぐに分かったと言った。兄妹であることを否定した後にライアンはシアナに通うのをやめるのかと思ったが、そうではなかった。以前と変わらずに姿を見せるのが、不思議でたまらない。
 一体二人はどうなっているのだろうと女将は思うことがある。
 シアナがライアンと自分の面輪の相似を指摘されて怒るのは、それが彼女の胸奥に巣くう不安の根に近いからだ。兄妹だと本当に証明されてしまったらライアンは自分にますます遠くなるだろうという恐怖から、半ば反射のように反応してしまう少女を哀れにも思う。
 ライアンは兄妹である可能性を否定する材料をシアナには一切伝えていないし、女将にもその口止めを頼んでいる。だから二人が馬鹿馬鹿しいことではあるが男女の関係を結んでいないのは女将から見れば明白であった。
 シアナがライアンの特別な女だと吹聴するのは意地でもあろうし見栄でもあろう。
 それに合わせている男の方がどちらかというなら悪いが、それでシアナの気が済むならば黙っていてやってもよかった。
 可哀相だと思うのは、シアナのそうした性格の偏りや脆いくせに高い矜持ではない。人を形作る神というものがいるのなら、何故、丁寧に造形した美女たちに限って内部のねじをいい加減にするような真似をするのだろうということだ。
 そんな女たちを厭と言うほど見てきた。
 とてつもなく男にだらしがない、絶句するほど金銭感覚が荒い、そして呆れるほど純情すぎて頭が悪い―――
 そのどれか一つでも内側に持った麗女は不幸になると決まっている。遊郭にくる男たちの戯れのような言葉に本気になって金がないと言えば揚げ代を自分が肩代わりしたり小遣いをやったりする娘、男に与える金のために必死で他の客の気を惹こうとする娘、そんな娘たちを叱って良かったことなど一つもないが、それでも言わずにはいられなくなる。
 それを言った時に娘たちがいう言葉も決まっている。愛しているのだとか身請けの約束をしただとか。愛している女から金をむしる男などいない、金も持っていないくせにどうやって身請けするつもりなのか、そう言っても大概聞く耳を持たないものだ。
 信じてはならないものを信じて身を持ち崩していった女たちの結末は、大抵聞かない。彼女たちは消えていくのだ。赤い河の先に待ち受ける、黒い闇の中へ。
 シアナもそうやって消えていく運命にある女になるだろうか。女将はそれを思い、自分で否定したいために首を振った。
 少なくともライアンは金払いは悪くない。彼女を悪く利用していないだけでもまだましであると自分に言い聞かせ、それでも気に入らないと不満を呟く胸を宥めるために煙草を飲んで呼び鈴を取った。
 リィザに与える水揚げのための衣装の採寸と生地の選定をしてやらなくてはならない。水揚げの衣装は特別なもの、一度袖を通してそれきりにするものだが、男が多少奮発してくれた分をそちらへ回してせめて飾ってやりたかった。
 幾ら美しく着飾らせても、あの娘の心が晴れやかになるわけではないと分かっていても、してやっても良いことというなら、女将にはそれくらいしか思いつかなかった。

 貸し部屋の主人からの連絡で、チアロはタリアの最浅部付近にあるその場所へ顔を出した。彼とすっかり馴染みになった主人は最上階にある特別室の鍵を彼に放り投げる。それを手早く空中で捕まえて、チアロはありがと、と軽く笑って見せた。
「いいけどよ、チアロ。おまえさんたちがどんな商売しようが勝手だがね、それにしたって限度があらぁな」
 主人の言葉は半ば呆れたようでもあり、そして残りは本気での憂慮であった。無論その気遣いの中には上客に対するおもねりも入っている。チアロはその言葉に浅く肩をすくめ、そして苦笑になった。
「俺もそう思うんだけどね。でもまあ、本人がいいって言ってんだから」
「そりゃあ──そうかもしれねえけどよ。あんまり続くとあのお嬢ちゃん、あと3年で使いもんにならなくなるぜ?」
 本当はお坊ちゃんなんだけどねとチアロは内心で補足し、そして大丈夫だよと明るい声を出した。
「本人は割り切ってる。だからいいのさ。ありがとうよ親父さん、あんたが心配してたって聞いたらあいつも喜ぶかもな」
 チアロの言葉に主人はふんと照れ臭そうに鼻を鳴らし、もういけという合図に顎をしゃくった。深く追求しないのはこの街の住人の習性でもあった。それに今更に感謝しながら、チアロは階段を軽々と駆け上がった。特別室は最上階の全ての面積を使っている。そこは他の客とは絶対に顔を合わせなくても済むようにと配慮された、文字通りの特別な部屋だ。調度も、専用の廊下も、全てが。
 チアロが部屋へ入っていくと、微かに奥から物音がした。いささかの用心のために腰に差した細刃刀に手をやりながら、チアロは寝室へ足を進める。恐らくは彼一人しかいないのだと分かっていても、それは身に付いた慎重さの一端だった。
 果たしてそこにいたのはクイン一人であった。生白い裸身を投げ出すように広い寝台の上にうつぶせになり、じっと動かないでいる。呼吸を示す肩の上下がひどく弱い。意識はあるのだろうかといぶかりながら近寄っていっても、彼はやはりぴくりともしなかった。
 チアロは彼の名を優しく細く呼び、肩をゆすった。反応のなさに不安になる直前に、彼の瑠璃色の瞳がゆるく開いた。それがは僅かに不思議そうに瞬いた後にようやく具象を現実として認識したらしい。唇から掠れた吐息がもれた。
「ああ……ごめん……」
 呟く声の掠れ具合から、彼の消耗の激しさが窺えた。無理もないとチアロは思う。客の具合が混んでいて、彼はこの4日ほどは仕事だけに時間を費やしている。明日は休みであったはずだが、最後の最後ではずれを引いたのだろう。大抵の客はクインの尋常ならざる美貌と唖然とするほど高い矜持に呑まれたようにか彼を大切に扱うが、逆にそれで暗い情熱を発見する者もいる、ということだ。彼は今回は運が悪かったのだろう。
 体に傷がないのはそれをチアロが煩く騒ぎたてるためであって、その制約がなければどうなっていたろうかという想像を一巡まわし、チアロは苦い笑みになった。
 それは自分が考えるだけでも偽善でなかっただろうか。結局、クインの望みであったとはいえ彼の身体を素通りしていく男たちから金を巻き上げる、女衒のような真似であることは確かなのだ。
 クインは体を起こそうとしていたが、なかなか巧くはいきそうになかった。消耗しきった気だるさが全身から滲んでいて、半身をあげるのさえ辛そうだ。それを手伝おうと手を差し出すと、クインははっきりした声で遮った。
「自分でする、から──放って、おいて……」
 それを呟く声音のひどい無力さにチアロは肩をすくめた。それは到底無理だといわざるを得ないが、クインは自分の限界を知らないように試してみるつもりのようだった。好きにするがいいさと半ばは投げやりな気持ちになってそれを見つめていると、やがてクインのほうが仕方なさそうな溜息と共に折れた。
「……ごめん、やっぱり、手、貸して……」
 軽い言い方の中にも滲んでいる口惜しさにチアロは微笑みそうになって、慌てて口の内側を軽く噛んだ。そんなことをしたら後でクインに散々噛み付かれるのに決まっている。気位が高いのは彼の長所でもあり短所でもあった。だから黙って手を貸してやると、クインはのろのろした仕草で体を預けてきた。元々隆とした筋肉がついているわけではないことは知っているが、こんな瞬間は、ぎくりとするほど軽い。自分が酷くむごい事をしているような気持ちになる。
「大丈夫か?」
 思わず口にした言葉にクインはうなだれていた首をゆっくり動かした。
「──大丈夫、じゃねえから、呼んだんだってば……」
 それはその通りであった。自分一人では家まで帰り着けないと判断したクインが貸し部屋の主人へ音声管ででも連絡したのだろう。客はそこまで親切なものは滅多にいない。
「悪い、そうだな。あんまり喋るなよ、体力をやけに食うぜ」
 クインはチアロの言葉に曖昧に喉を鳴らした。分かったという意味に思われた。
 彼が湯を使いたいといったので、チアロは肩を貸して彼を風呂場へ行かせた。足取りは酷く重かったが、自分で行けるだけましというものかもしれない。最初にこんなことがあった時は彼は全身の血が抜けてしまったように真っ青で、目を閉じてじっと動かないままであったのだから。
 客を何かで怒らせたのだというようなことを後から言っていた気がするが、それが何であったかは忘れてしまった。最近は立てなくなるまで相手をさせられることが減ってきたことで、客あしらいというものを覚えていっているのだろうとチアロは思ってきたが──それにしても。
 チアロはそっと彼に捕まって歩く美貌の主を見る。雪のように白く抜ける肌にぽつぽつと散っている紅華が目に痛い。それは確かに好き勝手な陵辱の後でもあったし、愛された痕跡とも言えた。どちらにしろ、彼は愛でられるべき存在であることは確かなのだ。基礎体力の貧弱さとすぐにかあっとなる熱しやすい性質がもう少し改められたなら、きっと今以上に寵児となっていくだろう。その資格はある。
 今この現在にも、幾つか彼を引き取りたいという申し出があるくらいだ。絹と宝石に埋めて溺れるほどに愛しんでくれるという言葉を信じていないわけではないが、本人が是と言わないのだから仕方が無かった。クインの考えていることといえば母親のことばかりで、誰かの稚児になってしまえば母親に対しての面目も言い訳も立たなくなると恐れているのだ。
 黒死病であるとライアンの口から聞いている。それが死病であることも。もう療養所から生きて出ることは無いだろうとライアンは言い、そしてそれをクインには言うなと付け加えた。チアロは頷いた。ライアンの言うことは完全に正しかった。黒死が死病でありなおかつ他人に感染するならば、症状が収まっても決して療養所の外へは出さないだろう。
 そしてクインにそれを指摘するのは酷だ──気づいていないのかもしれないが、いずれ分かるときが来るだろう。その時どうするかは、彼が自分で決めることだ。
 力が抜けているせいで重たい体を引きずるようにし、チアロはクインをようやく陶器の風呂桶の中へ放りこんだ。適当にお湯をかけてやると初めて目覚めたようにぶるりと体を震わせる。髪の黒い染料が落ちて湯船の中はあっという間に黒くなった。
 クインはそれをぼんやり見つめ、不思議そうにも見える顔つきで湯をかき回した。黒ずんだ液体が彼の雪色の肌に染みをつけるような錯覚に囚われてチアロはおい、とそれを制止した。それに素早く片手を挙げて合図した仕草は、いつもの通りの彼の知る小生意気な少年であった。
「──大丈夫」
 先刻よりはよほどしっかりした声でクインは言い、ほうっと溜息になった。吐息はまだ掠れ気味に疲れているが、湯の感触でどうにか自分の位置や現実をつかめるようになったらしい。少なくとも、先ほどまでのような危うい感じはしなかった。自分でこの先を出来るかと聞くと、クインは彼を見上げて目線で頷いた。チアロはそれに頷き返して風呂場を出た。
 彼の服は部屋のそこかしこにてんでに散らばっている。どんないきさつがあったかは聞かないが、ふざけて部屋中を転げまわったのでないとするなら狩られたのだろう。同じ客からの次の指名を受けるかどうか、落ち着いた頃を見てクインに聞かなくてはならない。彼が嫌だといえば次からはこの客はなし、ということになる。
 服を拾い集めて適当に検分したが、ボタンが2ヶ所、ちぎれてどこかへ行ってしまっているだけで他に欠損はなかった。秋用の薄い外套は最初に脱いで扉の内側に掛けたままであったから、羽織らせればいい。飛んでしまったボタンを探してみたが、とうとう見つからなかった。
 それにしても、とチアロは風呂場から時折聞こえてくる湯水の音が一定でないことを耳の端に挟みながら溜息をつく。クインのこの、ひたすらに噛みつき吠え立てて客をわざと怒らせるような真似は何だろう。大人しくひっそりと微笑んでいれば壊れてしまうのを恐れるように男たちが彼を扱うのは分かりきったことであるのに、彼は時折それに無理やり逆らうように毒づいて見せる──最初彼をこうして迎えに来たときは、彼でなく、客からの要請であったのだ。
 ぴくりともしなくなってしまった、死んだかもしれない──……
 そんなことをいわれて慌てて駆け付けてみれば単に失神であったのだが、これはまさしく運がいいというものであった。そんなことは時折あった。珍しいという出来事ではなくなってきた頃、チアロはようやくそのきっかけの一端に気づいた。
 鍵は、恐らくライアンだ。クインが自棄に荒れる日は、大抵ライアンと会った後だから。クインはひどく神経質で、心理の上下が激しい。機嫌の良い時は朗らかで明るい子供であるが、一旦荒れ始めるとそれはどこまでも続いていくようだった。それを自分でも持て余している。何度かそれを注意してみたことがあったが、彼は大抵訳のわからないことを怒鳴り散らすか不機嫌に黙り込んでしまうかで、埒があかない。落ち着けば反省はするらしく照れ半分の謝罪を呟いたりもするが、それにしてもその回数は随分と多かった。
 そしてライアンはクインの心理状態には頓着しなかった。うるさい、とはっきり口にしないまでも、ひそめた眉や殆ど彼の言葉を無視した挙句の勝手な呟きは言葉よりも雄弁に語っている。ライアンはクインを手駒のひとつとして扱うことに決めたようであったが、クインのほうはライアンと対等に在ることを望んでいる。
 クインの不満は分かる。ライアンは自分ときちんと向き合っていないと考えているし、それはおおむね正しいだろう。ライアンの言い分があるとするなら、それがどんなであるかもチアロは理解できる。彼はクインの事にばかり関わりあっている訳にはいかないのだ。彼の仕事は今のところタリアの中に巣食っている不穏当な連中を狩りだし噛み破るための猟犬というものであって、他のことは彼にとっては小遣い稼ぎ程度の重要さしか持たない。
 チェインのことばかりは別であったが、それも大体をディーやノイエといった連中に任せてあって彼自身は週に二度チェインの彼の根城へ戻れば多いほうだ。忙しいという曖昧な単語でクインが納得しないゆえに、大体の事情は説明してみたのだが、クインのほうは昔のように嬉々として首を入れたがった。ライアンはそれをわずらわしく払いのけてしまい、クインはむくれて荒れる──
 チアロは溜息になった。クインがライアンを何故かはしらないが特別視するように、ライアンも確かにクインのことは特別に考えている。ただ、その表現は天と地のように違う。クインは比較的素直にライアンに寄っていくが、ライアンのほうは気安いとはいえなかった。
 いずれライアンはタリア王の継承争いに全面的に関わることになるだろう。周囲もそう見ているし、本人もどうやらそのつもりらしい。それを現王アルードも知っている。だからライアンは見捨てられるものしか身近にしない。彼の周辺にいて彼が自分にまとわりつくことを許している者たちは、いずれ彼がその手で切り離しても構わない者たちだ──自分も含めて。
 チアロはクインの服を揃えてやりながら、苦く笑う。そこから一段上ってライアンの特別に擦り上がるためにはチェインを実力で手中にするか、いっそライアンの敵に回るか、それとも──残りの一つはあまりにえげつない。チアロはそれを自分がしないだろうということは理解している。
 だからライアンがクインを容易に身辺に寄せ付け、またはあからさまに可愛がろうとしないのは彼に対する尋常ならざる拘りの証明だ。実際、ライアンの特別であると分かったら、どんな目に遭うか保証は出来ない。だからライアンは失って困るものは身近にしないが、肝心の望みは聞いてやる。他者に漏れる可能性が少ないとなった時点で、ライアンは彼の望みをほぼ全面的に受け入れてやったではないか。
 これ以上は彼は自分と関わらせたくないのだ。何より、深く絡み合うことで出来あがる強い絆を、失うことばかり考えてしまうのだから。リァンという奇跡を、見失ったときのように。
 チアロが再び溜息になったとき、風呂場の扉が開いた音がした。振り返ると多少回復したらしいクインが、火照って血色よく見える肌色で立っている。立てるならとチアロは安堵し、笑って頷いて見せた。クインは柔らかい絹地の長衣をかぶり、染め粉が落ちてすっかり地毛の色となった髪を適当に布でふきながらチアロの側の長椅子にどさりと座った。ましな気分になったとはいえ、まだ疲労はあるらしかった。
「──何か、飲むもん、ある?」
 声はまだかすれ気味だ。チアロは頷いて客の残していった飲み掛けの葡萄酒の壜を傾けた。赤紫の濃い色がグラスにたまっていく。クインは部屋の保冷庫から氷を取って放りこんだ。
「自分だけ飲みたいもの飲みやがって……」
 呟いている口調はすでに普段どおりの偽悪調だ。いいじゃないか、とチアロは軽くそれを流した。
「残していってくれたんだから、もっと堪能しろよ。この部屋の客なら好い酒だろ?」
 クインはまあね、と肩をすくめる。ちろちろとグラスの中の酒を舐めている仕草は猫のそれとそっくりだ。彼は酒にはどうやら素質があるらしく、飲み始めたのが最近だといいながらも良く飲んだ。酩酊してくるとまたやっかいなことを怒鳴ったり陽気に騒いだりと煩いのだが、酒の味を楽しんでいるならばまずは機嫌良く落ち着いているといえる。それを見計らってチアロはクインの名を呼んだ。
「今日の客はどうだった。また指名されたら断ろうか」
 クインはグラスを唇にあてたまま、こぼれるように笑った。この笑顔になったときは彼本来の悪魔的な美しさが満開に開くような錯覚を見る。
「また、取ってよ。面白かったよ。あんまり馬鹿だから笑っちまったらかっとなったらしくて酷い目に遭ったけど、次はさせないから。それにこいつ、酒の趣味はいい」
 そう言ってクインは何かを思い出したらしく、くつくつと喉を鳴らして笑った。最初の頃のように一人終わるごとに真っ青になって延々洗面所で吐いていたのとは雲泥の差だ。一晩が終わるごとに彼は嬌態と華やぎを身につけていく。それが眩しいとは思わない。誤魔化し方だけを覚えているとするなら何かが悲しかった。
 チアロは彼の瑠璃色の髪に手をやって撫で、クイン、と淡く言った。
「無理、するなよ」
「うん……ありがと」
 クインは少し笑い、グラスの酒を一息に飲み干して、続きのために酒壜をつかんだ。
 ……僅かな時間、夢を見ていたようであった。今日は眠っていてもいいのよという遊女たちに従うように、リィザはひとときを自室として与えられた小さな部屋でまどろんで過ごした。
 部屋中を圧迫するように飾られた白い花の香りは甘く、神経の底を幽かにたゆる。それが気詰まりなのか高揚なのか分からないままに、包まれていれば胸の奥がざわついて、まともに眠ることが出来るかどうかは怪しかった。
 だが、目を閉じていれば少しの時間でも意識は無かったらしい。帝都の時間を打つ時刻点鐘にはっと起き上がれば、既に天窓の外の空は暮れ始めていた。
 リィザは身を起こし、丁寧に髪を手櫛で整えると顔を洗った。鏡の中にいる少女はいつもと同じように脅えたような目つきをして、じっとこちらを見つめている。黒い瞳、白い肌に流れる黒い髪。美女ではないと誰もが言う、ほんの少し大きい目が不安げに瞬き、濡れたような黒い色を際立たせた。
「……リーナ」
 リィザは低く呟いた。女将は自分にそう源氏名をくれた。あまり本名から離れた名はつけないのがこの妓楼の慣習らしい。リィザの名前は矢車草を意味するが、色は数種類あって、大抵は白い花を指す言葉だ。リーナというのは亜種の淡薄な紫色の花を示すときの言葉であった。
(紫は夜明けの茜色だよ)
 女将の優しげに躾る声が耳朶の奥から甦ってくる。
(一番空が綺麗な時の一つ。誰かが空を見て希望を思う時間。おまえも、誰かにとってそんな風になってくれたらいいだろうね)
 リィザはさほど遠くない記憶の中のその声に、曖昧に頷いた。沢山いる姐たちも口を揃えて言った――いつか、必ずお前を本当に大切にしてくれる人がここから出して連れて行ってくれるからね。そうして妓楼を出ていった遊女は沢山いる。全員が幸福になっているというわけでもないだろうが、それは自分次第であると誰もがリィザに諭した。それを信じたふりで、ずっと頷いている。
 逃げたい。忘れるように言われて押し込んできた言葉がこの日は朝から浮かんで消えることを繰り返している。目を閉じていても胸の中で騒いでいるのはこの言葉だけ、危うい明滅がちらちらと脳裏を瞬いて、少しも落ち着かない。
 リィザはこの日何度目かも分からない溜息になった。溜息はほんの一瞬、胸の中にある不穏な痛みをぬるめてくれる気がしたが、それは確かに刹那の安堵であった。冷水を浴びた反動で火照っている顔にゆっくり白粉を馴染ませていく指先さえ、幽かに震えている。
 自分は一体何のためにこんな事をしているのだろう――ということに気付いてしまうと全てを投げ出してしまいたくなる。
 だからリィザはそれに目をくれず、頬に僅かに残っているそばかすを覆い隠すことに専念しようとした。
 日に当たるなという女衒の男や女将の言葉は正しく、この妓楼で暫く見習いとして働いている内にそばかすは次第に消えていったのだ。まだ多少は残っているが、荘園屋敷で労働に精を出していた頃よりは遙かに肌は白く美しくなった。普段使う化粧水もいいのだろう。
 白粉、口紅、多種多様の化粧品と装身具。髪に飾る造花にリボンに銀花板。花板は手で曲げることの出来る薄い金属の板で、大振りなリボンや結い上げた髪を捲くときの飾りとして用いられるものだ。大抵は透かし抜きの模様が入っている。
 リィザに与えられた花板は銀、模様は蝶と矢車草。彼女の水揚げを買った男からの沢山の贈り物の内の一つだった。
 女将が気を回してくれたのか、水揚げが決まってから数日に一度はリィザの顔を見に来てくれている。本業は神職であると言ったが、彼は出身はこの街だとも言って笑った。タリアから神へ仕える者への転身は並大抵のことではなかったはずだが、彼はそれについては余り話そうとしなかった。
 その代わり、リィザの持っていた神への紋様板を褒め、若主人が切れ切れに教えてくれた祈りの聖句や神話や教義のことなどをかみ砕いてリィザに語ってくれた。
 中年にさしかかった肌は流石に若い者とは違うが、彼の持っている雰囲気はとても落ち着いて穏やかで、恐怖や気後れを感じることがない。彼が決して嫌いではないのは実はそれが大きかった。包み込まれ守られているような感触が安堵に変わるのだ。
 リィザはその男の顔立ちや僅かに肌から漂う香料のことを思い出そうとする。そうしていないと、他のことに心がおぼれてどこかへ沈んでいきそうだった。
 天窓の外は、ぼんやりしている間にも秋の早足の落日が終わりかける証拠の金色の雲が見える。この場所がタリアの中で格子窓から外を覗けば雑多で猥雑な通りが見えるだけと知ってはいても、空だけは何処で見上げても変わらなかった。
 リィザは天窓をじっと見上げ、やがて目を細めた。
 悲しい時も、寂しい時も、飼い葉桶や洗濯籠や刈り取った綿花の袋を抱えて、同じように黙って見つめた荘園の空も同じようだった。綺麗な空だった。綺麗なものが好きだった。見つめていれば時間を忘れていられるから。
 何も持たなかった日々には、それは庭園の夏薔薇であったり小糠雨に煙る虹であったりした。
 それはいつからか硝子で出来た小鳥になった。透明で、窓から降る太陽や星や月の光にきらきら光る小鳥を見ていると、自分にある不幸など忘れていられた。
 あの人、とリィザは呟いた。
 彼は今、どうしているだろう。元気でいるのだろうか。
 幸福に――というのが無理でもせめて、不幸と呼ぶ境遇の中にいなければいい。彼の明るい笑顔と律儀で真面目な性格は、そんなものには相応しくないのだから。
 出来ることなら幸福であって欲しいとリィザは空に浮かぶ、金から紺紫に色を変えていく雲を見つめながら思った。
 幸福であって欲しい。
 あの幸福だった日々の決算とその象徴である彼の優しい瞳が、どうか今も曇らず、元のままに明るく清潔でありますように。そしてかなうならば彼が幸福でありますように。私に出来ることは、空から一枚硝子を隔てた場所で祈ることしかなくなってしまったけれど――
 リィザは幽かに潤んできた目元をゆっくり拭った。あの日々はそれまで幸福の具体的な形を知らなかったリィザにとって、紛れもなくそうだと頷くことの出来る、貴重な時間であった。彼の肌の暖かみを知り、心の熱を知っていった過去は今完全に閉じられた、思い出という籠の中の幸福な宇宙のようだ。
 もう一度遭いたい、とはもう思わない。そう決めたのだ。
 彼が過去を大切にしてくれるだろうということをリィザは何故か無条件に信じることが出来た。信じることが出来たからこそ、自分は幸福だった。誰かをこんなに信じて想うことが出来た。何も持っていない自分の胸にも美しいと思える花があったことが嬉しく、そして愛しかった。
 彼にはもう会えないだろう。会わないほうがいい。
 いつか自分がこうして彼を思って覚える胸の痛みさえ薄れ、消えていくだろう。それが時間という薬の作用だから。他に思う人が出来るかどうかは分からないが、目の前のことを少しづつやっていこう。お金を貯めれば自分の自由さえも買えるのだという女将の言葉を信じよう。この場所で、生きていくために。
 リィザはじっと雲を見上げ、深く呼吸をした。彼のことを思うとやはり胸の奥が鈍く疼いたが、それを無視しなくてはいけない時間であった。
 もう、無垢でいられる時間はそれほど残っていない。水揚げは今夜だ。あの聖職の男がやってくるまでにあと一刻か一刻半――
 リィザが本能的な怖れのために身を僅かに震わせた時、裏廊下からの扉が叩かれた。遊女の部屋は客を連れて部屋へ案内する時の表廊下と裏方の者たちが使うための裏廊下に挟まれている。その構造上、窓は天窓だけであった。
 裏廊下の方の扉ということは妓楼の者だ。果たしてリィザが扉を開けるとそこにいたのは黒服の小間使いの少女だった。黒い服の少女は単なる従業員で、身売りをしない。
「かあさんが部屋に来なさいって」
 言われてリィザは頷いた。男が来るまでに時間はさほど残っていなかった。
 リィザが裏廊下へ出ると少女は彼女に与えられた部屋に入っていき、彼女の装身具や衣装を抱えてきた。赤い絹地にたっぷりと金糸で刺された花の繍い、前の襟目に結ぶ繻子の金色のリボン。未だに無垢であることを示すための髪に挿す白い造花、矢車草の抜かれた花板。
 衣装の後ろ側にも大きな結び目を作ることが出来るようにピンがついているし、水揚げを示すための沢山の装身具や髪挿花などもあって、一人では出来そうにない。時間が来たら手の空いている姐さんに手伝って貰って身につけようと思っていたそれを、女将は自分でしてくれるつもりがあるのだろう。
 ゆっくり裏廊下を渡りながら、リィザは一足進むごとに全身の血が騒ぐような感覚にじっと耐えた。逃げ出したいというなら確かだった。
 それは以前彼女の上に起こっていたような過去への闇雲な回帰や追憶のための衝動ではなく、逆らえない運命に直面した時の居竦みや怯えと同じものであった。怖いというなら確かだった。未知のものは、いつでも怖い。次第に俯いていく首筋の張りつめた筋肉の重さを、感じないわけにはいかなかった。
 女将は自身の部屋で帳面をめくっていた。それがぼんやりする時の女将の癖であることを、リィザは既に知っている。小間使いの少女がかあさんと声をかけて下がっていくと、女将は少女の置いていった衣装やらを抱えて自分の側に座るように手振りした。
 リィザは素直にそれに従う。脳裏は次第に白くなりつつあって上の空ではあったが、命じられれば従ってしまうのは性質だった。
 女将は言いつけた通りの位置に座ったリィザと目を合わせ、やがてゆったり頷いた。
「リーナ。もう誰もお前を本当の名前で呼ばないよ。いいね、自分も言ってはいけない。客の素性を知っても誰にも言うんじゃないよ。他の娘達にもだ。それと、他の娘に付いている客は盗らないこと。向こうから指名されたなら仕方がないが、決して自分から媚びを売ってはいけない――お前はそんなことをしそうな娘には見えないが、まれにそんなこともあるからね。他の娘達の言うことをよくお聞き。無論あたしの言うことも、だ。避妊薬は毎日タリアの火入れの鐘がなる時間に飲むこと。何か聞きたいことはあるかい?」
 リィザは少し考えてからあの、と言った。一番聞きたいことは口に出来ない。だからそれに近いことを聞く。
「……私、お客さまと二人になったらどうしたらいいのか……」
 女将はリィザにここの理を言い聞かせるために張っていた神経をふっと弛めたような、気の温んだ笑みを浮かべた。
「なあに、最初から気世話しく何でもしてやることはないよ。水揚げなんていうのはね、男になれてない娘の反応も好きで買うんだから、相手の好きなようにさせてればいいさ。お前が今からやきもきすることじゃないよ」
「でも、もし、つまらないって思われたら……」
 リィザは細い声で呟いた。
 女としての価値が自分にあるのかどうかさえ曖昧であるのに、誰かを楽しませることなど出来そうになかった。水揚げにと贈られた衣装も装飾品も、決して安いものではあるまい。新しく与えられた部屋に溢れるように飾られた花もそうだ。
その金を受け取るだけの価値が自分にあるのかどうか、それを査定されるような気がして溜まらなく落ち着かなかった。
 水揚げの男は自分を買って失望しないだろうか。そうであって欲しい気もするし、それはひどく悲しいことのような気もした。
 女将は喉を鳴らして笑った。猫が含み笑うような、上機嫌な声だった。
「大丈夫、お前がそういう娘だってことくらいは奴は分かっているだろうからね。あの男は女には優しい。安心して奴に任せていればいいさ」
 女将はそう言って、リィザに今着ているものを脱ぐようにと付け足した。リィザは一瞬躊躇してからそれまで着ていた白い木綿のワンピースを脱ぎ捨てた。
 それを女将はさっと遠い場所へ押しやり、化粧台の脇においてあった洗い桶を引き寄せた。
 中には絹布が数枚、水に浸されている。引き寄せた時の反動で水がぱちゃんと跳ねると、ふわりと優しい薫りがした。水に花香が溶かされているのだろう。
 女将は布を一枚固く絞ってから取り出すと、それでリィザの身体を丁寧に、清めるように拭き始めた。ひんやりした感触が肌を滑っていく度に淡香がたった。
「綺麗な肌だ、大切におし」
 女将の呟きに、リィザはこくんと頷いた。
 体を拭き終わると次は髪だった。櫛に滑らせる梳水からも同じ香りがした。何の香ですか、と聞くと女将は淡々と蓮華だと答えた。
 長い黒髪をまとめ、何度も細かく編み込みを繰り返して結い上げていく女将の手さばきは流石で、あれほどあった造花や花板も美しく飾られているのにすっきり見える。両方のこめかみの辺りから一房づつとった前髪を長く垂らし、その先に小さな造花を飾る。
「可愛いよ」
 女将が深い満足を示すような声音で言い、リィザはそれにもこくりと頷いた。
 途端、ぽろりと涙が落ちた。ここにいたって初めて、水揚げの実感が湧いてきたのだ。
 リィザは声を上げて泣きはしない。妓楼に来たばかりの頃のように止めどもなく涙を流さない。それをするには諦めてしまったものが多く、無理矢理思い出にしてしまったものは更に多い。
 けれど、自分の生きてきた今までとの完全な決別にはやはり、覚悟が要った。
 黙ったまま僅かに涙をこぼしてリィザは唇を結んだ。その目端にそっと女将が指をそわせた。優しく丁寧にされる仕草が嬉しくて、リィザは目を閉じる。ぽろりとこぼれた流滴が最後の涙となった。
「――お前はきっと、好い娘になる」
 女将の言葉はいよいよ優しく、囁くように甘い。
「客に気に入られようとか楽しませようとか、そんなことを気にかけすぎるんじゃないよ。お前は多分、そのままで微笑んでいればいいんだ。あるがままに、愛される娘におなり。性根の優しい、声の可愛い、温かな腕を持つ娘に」
 リィザはまた頷いた。先ほどから自分は頷いてばかりいる。
「そしていつかここを出ていく日がお前の幸福の最初の日になるといいね……」
 その声には万感が籠もっているような気がした。リィザが目を開けて女将を見ると、中年の女は彼女を優しく見つめていた。視線にあるのはいたわりと、自分に向ける痛ましさと憐憫と、そして紛れもなく情愛であったように思われた。
 かあさん、とリィザは呟いた。
「私……自分に出来ることは、してみたいと思ってます――かあさん、私を買ってくれてありがとう……」
 女衒の男に連れられてタリアの大店を巡っていた時の惨めさを払拭し、今リィザに真剣に娘としての愛情をかけようとしてくれている。
 馬鹿だねと女将は呆れ半分のように笑うが、その目の奥が思わずというように嬉しく光ったのを見た気がした。
「私、何も出来ないですけど、せめてかあさんの言いつけをきく娘になりたいと思ってます……」
 馬鹿、と女将は二度目を呟いた。
「あたしのことなんか、お構いでないよ。お前はお前に通ってくる男のことでも考えていればそれでいいんだから……」
 照れのためにか尚更突き放したような物言いになり、女将は溜息になった。リィザはその表情に、やっと薄く微笑むことが出来た。落ち着きや余裕というものではないにしろ、誰かの確かな情によって足場があることを確認できたと感じたのだろう。
 女将はリィザの涙の跡を丁寧に拭き、いいね、と念を押した。リィザが頷くのを見てほっと笑い、良くできた人形に魂を入れる職人のような神妙で真剣な顔つきで、彼女の顔に化粧を入れ始めた。
 薄く真珠粉を肌にはたき、大きな目を際だたせるために僅かに睫を上向きにし、頬紅をひとはけする。その作業を鏡の中に見ながら、リィザは次第に匂うように変わっていく顔立ちを見つめた。自分ではないように見える。
 と、女将が不意に呟いた。
「――あたしを信じてくれるというのは結構。でもね、お前に信じていて欲しいのは、男ってものが決して不純で裏切るばかりの生き物じゃないって事だ」
 リィザは一瞬を置いて頷いた。これは女将の感慨のようなものであろう。それに口を挟むことなど出来るはずがなかった。
「この商売をしていると沢山の男に会う。騙されることも、裏切られることも、あるかも知れない。でもね、それで誰も信じない女にだけはなるんじゃないよ。一人去ってもまた必ずお前を見つめてお前に愛を囁く男が現れる。その男の言葉を疑いだけで眺め回さないでおくれ……忘れることが出来るから、幸福にもなれるんだからね……」
 リィザは何かを返答しようとしたが、出来なかった。彼女が唇を開く前に女将は紅筆を執り、唇に丁寧に色を付け始めたからだ。返答は要らないという態度が女将の言葉の真実さなのだろう。
 口紅を終えて軽く薄紙を噛む耳に、タリアの火入れの時刻を告げる晩鐘が聞こえた。もうそんな時間であるようだった。一瞬震えた肩に女将がそっと赤い絹の衣装を着せかけて、大丈夫だからね、と囁いた。
 リィザは深く頷き、かあさん、と呟いた。
「……ありがとうございます」
 女将は吐息で頷いたようだった。
 リィザは小さく頷き、大丈夫ですと低く言った。実際心臓は壊れてしまいそうなほど音を立てているし身体中の血は逆巻いているようで自分がどうにかなってしまいそうだったが、それを誰かに訴えても仕方のないことのように思われた。
 支度を終えて一度部屋に戻ると、日がすっかり暮れて灯りのない部屋はにぶい暗闇の中にあった。天窓から注ぐ光は僅かに赤い。通巷に溢れる篝火と塗紅の朱が反射して、タリアはこの時間には赤い光と熱の中にある。
 灯りを入れようとリィザは部屋の隅にあるランプに近寄りかけて足を止めた。鏡台の前に置き放してあった硝子の小鳥が、天窓から落ちる赤光に薄ぼんやりと光っている。透明で淡い色だったそれにタリアの赤が灯り、奇妙なほどに赤い。
 胸を突かれる赤にリィザは暫く佇んでいた。泣かない、と呟く。もう泣かない。二度と会えない人にだけ、心を連れて行かれてはだめ。この場所の人たちは優しいから、いつか貴方を忘れていくために、だから泣かない。
 リィザは低く自分に言い聞かせるように数度繰り返し、そっと小鳥に近づいた。指先で撫でると硝子特有の凛とした冷たさ。これをくれた時、彼の指は温かだった……不意にそれを思いだし、リィザはくすりと笑った。あれから1年と少ししか経っていないというのに自分がひどく年をとった様な気がしたのだ。
 タリアの淡い紅灯に燃えるような色に染まる、硝子の小鳥。リィザはそれをそっと掌に納めて愛しく撫でた後、鏡台の引き出しの一番奥に仕舞った。小鳥の姿が視界から消えた一瞬、リィザはそっと目を伏せて微笑んだ。
 ――さよなら。思い出の奥を、若主人の面影が通り過ぎていった。
 やがて水揚げのしきたりや慣行は順調に進んでいき、彼女は穏やかな声に促されるままに闇の中へ入った。そこで行われたことは、今までリィザが知識としてだけ知っていたことであった。