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1.祝祭の日

 夜の闇がざわめいている。祝祭の日はこんなそぞろな空気が帝都ザクリアのどこへ行っても感じられた。
 6月は祭事が多い。シタルキア皇国は大海を挟んで二つに分かれた両大陸の内の北側、北部大陸の中でもやや北よりに位置する国だ。夏の始まりはその年の眩しく希望に満ちた季節の幕開けでもあったから、自然そうした行事の先駆けが増えたのだろう。
 この日は皇帝の誕生日であった。帝都のいたる箇所で振舞酒が出、宮城から続く大路には国旗がはためき、灯火が明るく享楽を謳歌している。帝都中が浮ついた雰囲気と手を取りあって軽やかに踊っているようだ。
 大路から伸びる主幹路にはぎっしりと縁日屋台が立ち、呼び込みをする威勢の良い声が溢れ、それでなくても雑踏を行き交う人々の朗らかな笑顔が充満している。
 シタルキアの治世は民草に関わる範囲では上手く回っていた。これは為政者の功績ではなく、機構の手柄である。皇帝リシャーク3世は際だった辣腕でも呆れるような暗愚でもなく、既に完成された立憲君主制度を踏み外すことなく歩いており、また、歩き終えるだろうと言われていた。
 宮廷へ入ればそれなりに主導権の引き合いなどもなくはない。だがそれも2大公家の専任であり、膠着とも陰険な和解ともいえる状態が続いていて、安定している。
 世の中は平和で、これからもそれが続いていく。それを信じ切っているからこそ、祝祭の日にはこうして沢山の人々が休日と愉楽を楽しむことが出来ているのだ。
 華やかな音楽。どこかで鳴らされる爆竹。笑い声。
 母親の手を離れて子供が一人、屋台の方へ駆け寄っていく。並ぶ駄菓子に目をきらきらさせていた子供は、ふと顔を上げた。どうしたの、と母親が聞く。
「お母さん、誰かいるみたい?」
 子供が指さす路地は、大通りから漏れる明かりで多少は奥まで見える。はっきりしない人影のようなものが確かにあるから、誰かがいるという子供の指摘は正しい。だが、母親は顔をしかめた。
「人様を見るんじゃありません――行くわよ、お父さんと待ち合わせでしょ? 何か美味しいものでも食べましょうね」
 母は子供の手を引いてそそくさと立ち去る。客を逃がした屋台主の男が路地を振り返り、影に目をすがめ、溜息をついた。
「どうしたい」
 隣で蜜氷を売る店主の言葉に、男はふん、と鼻を鳴らした。
「全く、やるなら余所でやれってんだ」
 顎をしゃくる仕種につられて覗き込んだ側も、闇に目が慣れると同時に苦笑した。
「追っぱらちまえよ、営業妨害だってな――おい!」
 路地の奥を怒鳴りつけると蠢いていた影がふと動きを止めた。一瞬の躊躇を置いて、ずるり、と影が更に路地の奥へ光の射さない場所へ移動する。
「――もう、やめて、よ……」
 引きずられて呻いた少年の肌を直接まさぐりながら、男は低く、少年にしか聞こえないような小さな声で笑う。
「向こうからは見えないぜ――なぁ、幾らでも出すって言ってンだろ?」
「身体、触るだけって、最初に言ったろ……お前となんか誰がやるかよ」
「ふ、ん……男娼のくせに……」
 違う、と少年は否定し、男の肩を押しのけようとする。だがその抵抗は弱く、男は薄く笑いながら少年の顎を捉えて自分の方を向かせた。ここが暗い路地で残念だと呟く。もっと明るい場所か貸し部屋あたりなら、この顔をゆっくり拝めるのに。
 薄暗い闇の中でも、それはくっきりとした美貌であった。冴え冴えと輝く青い瞳に、どこまでも完璧で繊細な顔立ち。自分の愛撫にゆるくこたえて喘いだ唇の可憐さ、淫蕩さ。全てが夢の中から抜け出てきたような美しさだ。
 どこか危うい足取りで歩いていたのを捕まえたのは幸運だった。路地へ連れ込んで金を握らせると、戸惑ったような沈黙と共に抵抗がゆるんだ。身体を触るだけだからと口説き、それだけにしては少し多めの額を懐に押し込めて男は少年へ戯れる。少しづつ熱を付帯させながら。
「もう、やだ……よ、やめてよ……」
 身をよじろうとするのを男は片手で難なく押さえ込み、再び顔を自分の方へ向けさせた。
「お前、キスは幾らだ」
 形の良い唇が吐息に微かに湿り気を帯びているのがたまらなく扇情的で蠱惑的だ。
「そんなもん、売らない……」
 言いかけた少年の手に、男は硬貨を落とす。金属の鳴り音がかちりといった。少年がいらない、と突き返そうとする手を無理矢理こじ開けて、降り注ぐように硬貨を押しつける。
 少年は俯いた。自分の手に落ちる金額に、この話を突き放すかどうかを考えているのだ。……考えている、ということが分かれば十分だった。
「もっとか? 幾ら欲しい」
「――いや……」
 力無く首を振る仕種で、肩を過ぎた辺りの長さの髪がゆらゆら揺れる。そこからちらちら覗く白いものは少年の肌の色だ。年齢の若さゆえのなめらかさに男は喉を鳴らす。
 男は素早く金を握らせ、少年の喉顎を捉えて唇を押しあてる。少年は微かに身じろぎしたが、男を振りきるほど強く抵抗しようとはしなかった。
 すべらかな肌と同じように、やわやわとした唇の感触は素晴らしく美味だった。髪に手を差し入れ、かき回しながら男は貪るようにそれを味わう。角度を変えて何度も繰り返すと、少年が息苦しく喘いだ。
 ゆるく開いた唇から強引に舌を口腔へ押し込む。少年の身体が一瞬跳ねる。無理矢理押さえ込む。首を振ろうとするのをしっかり顎を掴んで阻止する。逃げ回る舌を追いかけ回していると、突然強烈な痛みが唇にした。
 男は反射的に身体を離す。一瞬の間をおいて、じんわりと鉄の匂いが口に広がった。噛まれたのだ。
「やめろ、って、言ったろ……」
 苦しそうな呼吸のままで少年が吐き捨てた。男は頬にかあっと血が昇るのを感じた。狩人は自分で、獲物がこの少年だったはずだ。逆ではなかった。不意をつかれた衝撃が、怒りに変わる。
「お前……!」
 振り上げた手が、容赦なく美しい顔に降り落ちる。少年が悲鳴をあげてよろめき、ずるずると座り込んだ。
 男はその腕を掴む。どこでもいい、転がり込める暗がりへ行って懲罰を与えてやろう、そんなことを思いながら男が少年を引きずろうとしたとき、路地の向こう側からどうした、という声が聞こえた。
「おい、あんまり乱暴はいけねぇぞ!」
 男は舌打ちをする。少年がさっと顔を上げ、助けを求める声を出した。路地を抜ければそこは縁日の人の海だ。男は顔を歪め、一瞬の躊躇いの後にそこから走り去る。
 少年は身体を起こした。殴られた箇所がしびれるように痛んだ。手を当てるとぴりりと痛みが走る。少年は顔を歪め、自分の手に残った金を見つめた。
 握りしめると硬貨のこすれ合う音がした。少年は腕を振り上げ、……そのまま力無く下ろした。投げつけるはずだった硬貨の替わりに零れていったのは幽かな嗚咽だった。殆ど一瞬と言える短い間、少年は涙を形の良い指で押さえ、ゆるゆる溜息をついた。
 吐息が唇を撫でると、先ほどまでの男の感触が蘇ってきて、吐きそうになる。男がかき回して乱れた髪を手で簡単に整え、少年はよろよろ立ち上がった。
 路地から大通りに出ると、そこにいた屋台の主が振り返った。
「おう、無事だったか、兄ちゃ……」
 店主の言葉が止まる。少年は凍えたような顔をどうにか動かして、微笑んでみせる。自分の顔立ちには昔から絶対の自信があった。誰であれ、微笑みを向けて買えない同情などなかったのだ。
「ありがとう。助かりました」
 かすれた声で呟くと、店主は頷く。隣で蜜氷をさばいていた男も振り返り、彼の尋常でない美貌に目を奪われて沈黙した。
「……災難、だったな」
 ぼんやりした声に少年は僅かに頷く。売り物の筈の氷を男は手早く麻袋に入れて少年に放り投げた。
「頬、冷やした方がいい。せっかくの美形なのに台無しだ」
 ははは、と作ったように明るい声を上げて笑う男に、駄菓子屋の店主も弾かれたように倣った。
「まぁ、そこ、座んなよ……あんた、どこの子だい? この辺じゃちょっと見かけない顔だね」
「この辺じゃなくてもなかなか拝めない顔だよなぁ」
「違げぇねえ」
 笑い合う2人の男に少年は困ったように笑い、もらった氷袋を自分の頬にあてた。屋台の後ろへ座り込む。仕種の鈍重さから、少年が衰弱しているのが分かった店主がやはり売り物の中から蜂蜜飴をつまんで少年に握らせる。ぺこりと会釈をして少年はそれを口に放り込んだ。
「さっきのは何だったんだい、兄ちゃん」
「……路地を歩いてたら、いきなり腕を掴まれて……」
 ふうん、と商店主たちは少年を見、懐から覗く10ジル紙幣を見た。男娼にしては慣れていないことこの上ない。恐らく、あれは男が無理矢理押し込んだのだろうと推測して苦笑になった。何かがあったときに「こいつだって金を受け取った」と主張するための所作だ。
 無理もなかろうと彼らは目を合わせて頷き合う。
 濡れたように輝く漆黒の髪によく映える白い肌、そこに配置された宝玉のような瑠璃色の瞳。一瞬目を疑うような造形美。端麗というにはあまりに言葉が足りない。一度見たら忘れ得ぬ、そんな美貌であった。年齢は14、5というあたりだろうか。目を伏せると少女めいた儚さが、視線を向ければ少年特有の透明さが視界に入ってくる。誰であれ、この美貌を目にすればもっと触れたいと望むだろう。その相手が悪いとああいうことになるのだった。
「少し息が落ち着いたら、ちゃんと人の通りがある道を選んで帰りなよ。あんた、なんだか頼りなさげだから変なのにつけ込まれるんだからな」
 触れなば落ちん、という表現を思い出すほどに。
 少年は僅かに頷き、頬にあてていた氷袋を返した。撲たれた箇所の腫れはそうひどくなかった。指でつついて僅かに顔をしかめているが、耐えられない痛みではなさそうだ。大丈夫かいと声を掛けてみると、案の定少年は頷いた。
「氷、ありがとう、ございました……」
 声はまだかすれている。蜜氷の店主はああ、と頷いた。
 少年は彼らに軽く会釈をすると、再び歩き出した――暗がりの、薄闇の彼方へ。
 慌てて店主たちは声を掛けようとした。今忠告してやったばかりなのに、聞いていなかったのだろうか。だが、少年が振り返るほうが早かった。
「ありがとうございました。俺のことは気にしないで下さい。俺は人に酔うので、人混みはどうして歩けないんです……」
 そうしてもう一度、深く頭を下げると少年は背を向けた。
 2人は顔を見合わせて同時に肩をすくめた。半ばは呆れたのかもしれない。だが、長い時間少年の行く先へ思いを馳せることは出来なかった。6月は祝祭日が多いとはいえ、今日の祭りは既に終幕へ向かっている。稼ぎ時も、あとわずかだった。
 少年はぼんやりした感覚の中を歩いていた。足をすすめる度に脳天から何かが抜けていきそうな、そんな頼りない眩暈がする。原因は分かっている。単に貧血なのだ。
 人通りの多い場所へ、という屋台の店主たちの言葉の正しさは理解していた。そんなことは、言われるまでもなく分かっている。だが、どうしても人通りの多い場所は嫌だ。とても怖いから。
 人混みに酔う訳ではない。他人の目が怖いからだ。いつ、誰がどこで自分を見ているか、分からないから。
 彼は物心ついたときから追われる者であり、3年前からは逃亡者だった。母と2人でこの国を離れ、生活の道もどうにか見つかり、2人で支え合って生きていけるとそう思っていたのに。
 甘いのだ、という自嘲を彼は自分の中で何度聞いただろう。自分は甘い。詰めが甘く、予測が甘い。同じ轍は二度と踏むまいと思う側から現実は怒濤のようにやってきて、少年をいつも翻弄した。
 ――溜息が、漏れる。母が何を考えていたのか分からない。ただ、自分を守ろうとしたその意志だけを信じている。だから、母の守護に返すのはやはり守護だ。自分の力で今度は母親を守り抜かなくてはならない。
 そう思うとその困難な道に彼は顔を歪めざるを得ない。金。金さえ、あれば……――
 それを思うことだけでは何も進まないことを承知の上で、考えてしまうのは何故だろう。こんな事、一つも自分の前進に役立たないのに、もし、とか例えば、という冠詞のついた夢想がひどく心地よくて逃げ込んでしまいそうだ。
 胸がきりきりと痛んで、彼は自分の胸倉を思わず縋るように掴んだ。ぐしゃりという紙の潰れる音がして、そこに押し込まれた10ジル札のことを思い出す。口の中が急激に苦くなってきて、唾を吐いた。
 路地には人手を見越して集まってきた娼婦たちや男娼たちがうろついている。彼はそれに間違えられたのだった。少しの嫌悪と金の重みを図りかねているうちに更に奥へ連れ込まれて悪戯された。それは初めての経験ではなかった。完璧な美貌とも、完全な麗玉ともいうべき彼の容貌は沢山の光と濃い影を呼んだ。それをいつでも鼻で笑い、強かに頬を打ち、時には急所を蹴り上げるなり罵倒するなりで寄せ付けなかった過去が、遙かに遠いことのような気がした。
 彼は、片手で顔の半分を覆う。突き放せなかったのではなく、そうしなかった。端金とも言うべき額を押し込まれて、それに迷い迷いながらも抵抗を放棄した。屈服したのだ。怒りは自分に向けたものであり、苛立ちは今の事情へ向かうものであった。
 彼は襟の隙間から札を抜き出し、握りしめていた硬貨と合わせて額を数える。小銭は額面がバラバラだったが、全部合わせると18ジルになった。
 18、と彼は暗澹とした気分になる。身体中を取り巻いている絶望感や疲弊感と引き換えにしたのが、この額。一晩の安い宿を探すのさえ困難な金と自分の矜持を引き換えにしたのかと思うと目が眩みそうだ。悔しくて。
 彼はそれを暫く見つめていたが、やがてゆるく頭を振った。どんな手段で手に入れたとしても金は金だと呟いてみる。自分に刷り込む作業はそう上手くはいきそうになかったが、いつまでも拘泥しているわけにもいかなかった。
 人通りの少ない広路へ出て、彼は自分の来た方向を振り返った。夜の闇に煌々と月が落ちたように、遙か遠い場所が真白く光っているのが見える。今日は祝祭の日、きっと更に遅くまでそこは光の溢れる場所なのだろう。歩いてきた距離を思い、彼はぼんやりと光を見つめた。
 朝の鐘が帝都に鳴ると、城塞都市ザクリアの城壁門が開く。すると前夜の閉門に間に合わずにその場で屯していた旅人達が帝都の中へ消え、城壁の中からも旅立つ人々が流れ出てくる。人の流れに添うようにしてザクリアへ入ったとき、自分は何を考えていただろうか。
 母の安否か。それともこれから先のことか。否、底をついた所持金のことだったろうか。実際ここ3日ほどはまともなものは口に出来ていなかった。水だけは街道沿いの村や都市の井戸を使うことが出来たが、その他には金がかかる。
 それまでも節制ばかりだったから、元から豊かと言えなかった体力は目に見えて落ちていき、それに伴って視野が狭まっていくのが自分で分かった。未来のことや将来のことなどよりも、その日の食事の方が気にかかるのだ。
 それでも自分は還ってきた―――最も古い血を誇る皇帝の下繁栄と豊穣を遍く享受する都、美しく整えられ拡張を繰り返してきた歴史と文明の息づく都、そして彼自身の血の根元の回答が秘められている都、
 ―――シタルキア皇国、帝都ザクリアへ。
 そして、これからいくべき場所も決まっている。それは3年前に彼の秘密を見抜いた上で力になろうといってくれた優しい皇子の下ではなく、勿論世話になった学校の関係者でもない。
 ザクリアの暗部、国家の闇と快楽を引き受ける赤い格子の町、タリアへ―――
 まだ奴は生きているだろうかと彼は目を閉じる。面影は3年前で止まっている。
(何かあって俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ。借りは必ず清算する)
 この言葉に縋りたいのは自分だ。奴は覚えているだろうか。自分が一時保護していた子供のことを。言質といえる言葉を与えたことを。生きて、覚えていてくれるだろうか……
 もし男が既に世を去っているのなら、自分はとんでもなく間違っていたことになる。だが、他に頼っていく人間を思いつかなかったのだ。
 生きていてくれ。そう願う自分の思いが全く利己主義から発しているのを承知の上で、彼は強く念じた。
 どうか、お願いだから。希望と呼ぶには余りにか細い糸を切らないで。
 そんなことを強く祈り、そして彼は固まったような頬で無理矢理笑おうとした。殴られた跡が引きつって痛んだ。そしてその後は? 奴が生きていて、再会した後は……
 頬が歪んだのと同時にそこが激しく痛みを訴えた。だが彼はそこに手をやらない。彼の手は、自分の胸の前で祈りをするときのように組まれたまま、微かに震えている。
 本当にこれしかないのかは母を連れて海を渡る間中、ずっと考えていた。きらめく波間の美しい水影を睨み据えながら、ずっとずっと、考え続けた。
 自分たちに頼れる身内は存在しない。追っ手のことも怖い。帝都から逃げ出したときに持っていた現金も宝石類も、殆ど使い果たしてしまった。
 皇子の下へはいけない。そこへ顔を出すことは藪蛇になる。襲撃者達の雇い主に、自分の帝都への帰還をわざわざ教えてやることは愚かというものだ。いっそ魔導士となって魔導の塔に身売りしようかとも思ったが、国家の奴隷となることは即ち母に会えなくなるということだ。
 だが金は必要だ。それも早急に、莫大な額が。
 彼は唇をやわく噛む。まるきりの八方塞がりというわけではないのだ。道はある。ただ、それにどれだけの覚悟がいるのかというだけの話だった。……胸が痛む。
 母さん。
 母さん、俺は間違っているのだろうか? でもこの場合は正しい答えなど何の価値もないんだ。要するに結果なんだ。自分を折る相手は自分で選ぶ。それが俺の結論だから……
 だが、それでも泣きたくなる。屠所に引かれる羊の心境というのはこうしたものかもしれなかった。神妙に項垂れて目線だけをあげながら、落ちつきなく周囲を見回している受刑者のようなものだ。
 そしてどれもこれも、あの男が生きていなければ水泡になって消えていく夢のようなものでしかない。生きていてくれ、と願うこの言葉があまりに切羽詰まっているのが自分でも悲しかった。
 タリアは帝都ザクリアの中心から南西に下った辺りに位置する。城壁門は北と西の2ヶ所にあり、彼は西の門をくぐって帝都に入った。一日歩き詰めてどうやら皇宮から続く大路に出た。距離に直してようやく半分に足らないほどというべきだろうか。
 彼は痛む足をじっと見下ろす。半ば機械的に足を動かしてきたが、もうこの辺りが限界というものだった。18ジルで宿を探すとなると、安宿の集中するあたりまで行かなくてはならないが、それはタリアの近辺だった。食事をしてもいいが、今夜の安全を確保することと一体どちらが大切だろうか。
 そんなことを考えていると、視界の端に馬車が見えた。彼はそれを見つめる。御者の方も彼に気付き、近く寄ってきた。
「乗るかい、兄ちゃん?」
 首を振りかけて、彼はふと思う。この金でタリアまで行くというのも悪くなかった。タリアについた挙げ句に自分の望みが叶わなければ、それはその時考えても良い。空腹と疲労は思考力を奪い、刹那的な未来しか考えられなくなる。彼はとにかく疲れていたし、動けなくなる寸前であった。
「……タリアまで、いくら?」 
 御者はなんだ、という顔をした。先ほどの男と同じように彼を男娼だと思ったのだろう。
「25」
 ぶっきらぼうに返してきた。25、と彼は繰り返して呟く。手の中で彼の全財産がこすれあい、音を立てた。
「乗らないのかい?」
 せかすような調子で御者が言った。彼はゆるく首を振る。御者は彼の様子がしおらしかったのを哀れに思ったのだろう。幾ら持ってる、と聞いた。
「今、これしか……」
 彼は自分の手を広げる。御者が唸る。彼は半ば祈るような気持ちで御者を見上げ、彼の行く先を照らすランプの近くへ出た。目があって、御者が微かに息を呑んだ気配がした。彼は縋り付く顔をする。今は誇りだの矜持だのと理屈を並べるときではなかった。
 やがて溜息がした。
「……いいだろう、乗りなよ。今日はお祭りだからまけといてやるさ」
 彼は頷く。金を全部御者に渡すと馬車へ乗り込む。一瞬の間をおいて走り出した馬車の出立を祝砲するように、どこか遠くで爆竹の音が聞こえた。
 しばらく馬車の中で、彼はまどろんでいた。訳の分からない色味と暗闇が混じり合って、ひどく気疲れした。御者が彼を揺すって到着を告げたとき、目覚めは明らかに安堵だった。
 去っていく馬車の轍の音をぼんやり耳に拾いながら、彼は赤く塗られた柱を見上げた。その柱から先の町は、今までの青黒い石の町とは明らかに違っていた。
 びっしりと通りを埋め尽くす赤い格子。華やかな音楽が微かに聞こえ、猥雑なさざめきと女達の嬌声、そして甘い化粧の香りが満ち満ちている。決して狭くはない道の両側に焚かれる篝火が朱塗りに金泥の模様の店棚に照り映えて、通りごと燃えるような色に染めている。
 懐かしく、変わらぬ光景であった。3年前に帝都から逃げ出す前と、何一つ変わっていない。人の欲望を満たすための町は、欲望の本質が変わらないことには変化などないのだろう。
 彼はその中へふらふらと足を入れていく。振り返る人々の、強烈に突き刺さってくる視線が肌に痛かった。彼は娼家の赤い格子にはめられた飾り硝子をちらりと見る。
 黒い髪は魔導の効果だ。本来の髪の色を変えることは出来ないが、幻術という形で違う色に見せることは出来る。染め粉を買えなくなってからはずっと魔導の力だった。
ただ、魔導による幻術で姿を変えても魔導禁止結界に触れるとか、施術時の体温と著しく離れたとかですぐに効果がなくなる。だから一番確実なのは今でも染め粉を使った上で傘を持つこと、なのだった。
 髪の色がまだ気になる辺り、自分も3年でそう変わったわけでもないな、と彼は自嘲する。男に殴りつけられた顔は押さえるとまだ痛んだが、青くなってはいなかったから痣にはならないだろうが、それにしても頬の痛む箇所の痕跡が目立った。
 人の視線はこれだろうかと思いながら、彼は路地へ入っていく。3年前の秋の日に、毎日のように通った道も変わらない。どこもかしこも昔のままに薄汚れた町並みだった。
 細い路地に入っても、暫くは安い娼家や貸し部屋などが並び、やがて更に怪しげな雰囲気を漂わせる店が続き、それがぱったりなくなると今度は非合法のものばかりを扱う闇の市場になる。市場といっても店があるわけではない。たむろしている男達が大抵仲介屋で、欲しいものを告げれば元締めの所へ連れていくという段取りだった。
 そうした路地を抜けた先に、チェインはある。少年達が巣くう、タリアで最も危険な場所の一つだ。
 昔出入りしていた屋敷はトリュウムと呼ばれていた。チェインの中程にある、大きな石のアパートだ。馬車の中で少しまどろんだせいで、足取りは以前よりは少しましだった。どうにかトリュウムの黒々した影姿が目に入るようになって、彼はほっと息を吐く。男が生きているか否かという賭はともかく、ここへ辿り着いた旅路の終焉が見えて、少し楽な気分になった。
 トリュウムに近付いていくと、門のところで雑談に興じていた少年達が顔を上げ、彼を認めて一斉に凄む目つきになった。明確な味方か明らかな身内でないときに身構える彼らの反応がやはり同じで、彼は思わずゆるく唇で笑う。自分たちに対する嘲弄だと思ったのか、一番身体の大きな少年が何がおかしいのだと低い声で聞いた。
「あんまり無遠慮だと知らねぇぞ」
 ああ、と彼は微笑みながら頷く。変わっていない。ここの少年たちの気質は昔のままだ。余所者を嫌い、自分たちと違う境遇の子供を憎しむ。彼がそんなことを思っていると、急に胸倉が掴まれた。抵抗する体力は殆ど残っていない。彼はそのまま引き寄せられ、咳き込んだ。
「随分楽しそうだな、お前、酔っぱらってんのか? それとも――」
「ねぇ」
 彼はその言葉の終わるのを待たずに呟く。
「あんたたちの頭って、まだ、ライアン?」
 一瞬の沈黙の後、不意に空気が戸惑いへ変わった。
 そうか。彼は破顔する。
 生きているのだ、彼を保護し彼に居場所をくれると約束したあの男は。少年達の戸惑いと、その眷属である沈黙は彼らが支配者の機嫌を損ねやしないかと考えている証拠だ。
「……ライアンに何の用だ」
 掴まれていた部分が急に楽になって、彼は呼吸を整える。自分の周りを少年達がぐるりと囲んだ。彼は薄く笑いながら、俺は奴に話があるんだと言った。少年達がお互いに視線を交わし合いながら、口にしない会話をした。
「―― お前には会う資格がない。俺達は何も聞いていないし、お前がライアンの知り合いだという証拠もないからな」
 そう言われて彼はゆるく首を振った。腰のベルトに繋いであった漢氏竜の煙草入れを抜き出して、彼らに見えるように掲げる。
「ライアンから貰った。3年前だ。……信じなくてもいいけど、もし俺が本当にライアンの知り合いで、ライアンが俺にいつでも訪ねて来いとこれを寄越したのも本当だったらあんた達、ただじゃ済まないんじゃない?」
 この恫喝は効いた。僅かなざわめきがして、少年達は沈黙へ還った。先ほどの大柄な少年が取り巻きの一人に何かを言いつける。暫くにらみ合っていると、やがて軽い足音が聞こえた。
 彼はそちらをちらりと見る。自分を取り囲む少年達の姿に隠れて顔はよく分からないが、飛び抜けて背が高い。ライアンではないのがすぐに分かった。彼の記憶の中にあるライアンの背格好とは似ていなかったし、3年前ライアンは既に外的成長は終えた年齢だった。
 少年達が割れる。ある程度を束ねている幹部と言うところだろうかと彼は顔を上げてまじまじと相手を見つめ、……そして首をかしげた。面差しを知っている。すぐに分からないのは余りに成長が著しくて、一瞬目を疑うほどだからだ。
「……チアロ?」
 呟いた自分の声に触発されるように、相手の顔がぱっと明るくなった。
「クイン!」
 久しぶりに呼ばれた名前に彼は微かに震える。最後にその名を呼ばれたのは一体いつのことだったろうか。抱きついてきた身体は温かで、背を抱き返しながら、彼はうん、と頷いた。
「ああ、久しぶりだな、クイン、お前元気? なぁ、今までどこで何を? ライアンもお前のこと懐かしがってさぁ、あ、ライアンに会うだろ? 今ちょっと忙しいけど、お前が戻ってきたって言ったら飛んでくるよ! ライアンには俺から連絡するからさ、ライアン今王屋敷の方にいるから、多分ね、でもすぐには無理かもしれないけど、会いたいだろ? 懐かしいなぁ、なぁ、本当に何年ぶりだっけ?」
 3年だよ、とクインはゆるく笑った。3年前このチェインに出入りしていた頃、ライアンの弟分としていつもその側にいた子供だったチアロは、子供を脱して既に少年から大人への階段に足をかけようとしていた。少い日の年月は余りに多くのものを変える。
「知り合いですか」
 チアロの後ろから先ほどの少年が声を掛けた。チアロは振り返り、軽く頷いてみせる。
「お前ら、余計なことはしなかっただろうな」
 クインは微かに眉をあげる。この3年でチアロの身に加わったものは、どうやら背丈だけではなさそうだった。今でも明るく人好きのする性質は変わっていないが、それと同時に、他人を従える威圧感のようなものを備えつつある。少年達に下す言葉の一つ一つが小気味よいほどはっきりしていた。
 少年達を手で追い払い、チアロは彼の顔を覗き込んでくる。何、と聞き返すとチアロは自分の頬を軽く指で叩いた。ああ、とクインは苦笑になり、そしてまだ痛むそこに片頬を引きつらせた。
「何でもないよ。ちょっと揉めて殴られただけだから……それより、ライアンは……」
 言いかけた言葉を、チアロが手で制した。そうした仕種の中にも、チアロが少年達の上に立つ身である空気があった。
「ライアンは少し、忙しいんだ。もちろんお前が帰ってきたことを知らせるけど、いつとは約束できない。配慮はしてくれると思うけど……ああ、立ち話なんかするもんじゃないな。食事は? もしまだなら、近くに軽く飲み食い出来る所があるけど」
 クインは一瞬返答につまる。馬車代で所持金は使い果たしてしまい、無一文だった。彼が返答を躊躇った僅かな時間は、チアロの気安い、朗らかな声ですぐにかき消された。
「久しぶりの再会なんだから、俺がおごるよ――さ、行こう」
 明るく笑ったチアロの顔が、クインの視界で歪んだ。
 ライアンの生存。チアロとの再会。希望が潰えていなかったことに対する安堵。ようやく呼ばれた自分の名。帰ってきた、自分の巣。
 それがないまぜになって喉からこみ上がってくる。チアロがそれに素知らぬ顔をしてくれるのが嬉しかった。
  祝祭を鮮やかに彩る光の花が夜空に咲いた。火薬は貴重品だが、それを一瞬の見物に費やすことが出来ることこそを奢侈と呼び、富貴という。こうして自分たちが贅沢を享受できるのも安定した宮廷と安泰な国家の成せるものだと思いながら、皇子はそれを見上げた。弟のはしゃいだ声がする。
「母上、ほら、また違うのがあがりました! すごいなぁ」
 皇子はちらりと視線を隣へ座る同母弟の皇子へ向けた。母親譲りの菫色の髪が、花火の明るく刹那的な光の下でなめらかに輝いている。父の誕生日の園遊会は晴天であれば城の広大な中庭で行うのが慣例であった。
 弟を挟んで母がゆったりと座り、更にその隣に父が居る。両親は祝辞を受け取るので忙しいが、自分や弟はまださほど構われなかった。
「ライン、母上はお客様のお相手で忙しいのだから煩わすのでないよ」
 弟の手を軽くたしなめるように叩くと、弟はぺろりと舌を出して笑った。屈託ない笑顔、明るくて人懐こい性質、そんなものをこの弟はきっと父親から譲り受けたに相違ない。外見は母によく似ているが、中身は父とそっくりだ。――だから、だろうか。
 皇子は微かに目を伏せる。自分もまた、母と似ている。表面ではなく、内面が。神経が細く、苛立ちやすく、そしてそれを口に出せない性質が。母も自分も絶対に口にしないだろうが、お互いに似過ぎたせいで、2人きりになると妙に気まずい。親子だからという括りを取り除いてしまえば単に気が合わないで済むことも、母と子であるから複雑であった。
 母であるイリーナ正妃は明らかに弟を溺愛しており、愛情の取り分の比率だというようにか、彼には弟に対するような関心を持たなかった。
 もちろん親子であるから普段の生活の中で情愛を感じないことはない。母は自分を理解するように努めようとしているし、彼の生来の病弱さを気に掛け、それと引き換えにしたような聡明さを喜んで沢山の教師をつけてくれた。
 ただ、と皇子は花火を見上げながら思う。
 そうやって母と離れて過ごした時間の長さが、きっと今のぎこちなさの原因なのだろうな、と。
 教師たちが皇子を褒め称えると母はとても喜んでくれた。だから努力もしたし、そもそも皇子にとっては勉強などはとても簡単な事に思われた。道ばたの花を手折るほどのことにしか思えなかった。
 それに勉学というものはどんなに複雑でも煩雑でも、そこには必ず答えがある。明確な回答がある。本当に分からなくて難しいのは他人だ。母とはいえそれは他人、他人のことは分からない。
 そっと皇子が溜息を落とすと、兄上、と小さな声がした。弟が少し心配そうな顔つきで彼を見上げている。
「どこか具合でも? 僕、お部屋までお送りしましょうか?」
 いや、と彼は微笑む。弟を愛しているのは母だけではなく、それは自分も同じ事であった。ラインという4才年下の弟の一番良いところは、こうして何の見返りや算段などもなく他人に優しく振る舞えるところだろう。意識して出来る年齢ではないから、これが本質なのだ。
 愛されやすい気質というものがある。それは確かに弟に宿り、自分には欠けているものなのかもしれなかった。
 3年前から通っている中央中等学院でも皇子は完全に周囲から浮き上がっていた。自分はどうやら近寄りがたいらしい。そう級友を邪険にしているつもりはないのだが、他人とつき合うのが苦手なのだ。
 成績は飛び抜けており、身分と、そして級友と呼ぶべき同学年の在籍者達が自分よりも5,6才は年上な事もあって皇子は大抵一人だった。
 そして自分を遠巻きにする級友達に囲まれて、彼は時折「彼女」のことを思い出した。正確に言うならば、少女に擬態して中等へ通ってきていた、あの少年のことを。
 彼が何を考えていたのかは分からないが、彼は自分の顔立ちの麗しさと、飛び抜けて年少であることを上手く利用して立場を作っていた。共に過ごしたというほどの時間さえ共有できなかったが、彼の意図したことは分かる。年齢と成績と美貌が揃うことで孤立するなら、崇められる孤独を選んだ者の微笑みだった。
 彼とならば少しは共感を持てただろうという感慨は、年月を経るごとに深くなっていった。彼もまた、孤独を知っていたから。
 それはよく分かる。「彼女」が突然学院から去ったとき、驚愕と疑問の嵐が通り過ぎていったが、それはまさしく一過性のものだった。2ヶ月もすると、そんな少女などいなかったように級友達の環は閉じた。幻のような少女だったという言い方を皆がした。
 いつでも微笑みを絶やさずに、誰に対しても誠実で優しい。誰とも上手くやっている―――それは誰にも都合が良かったということだ。
 人は自分の都合で生きているが、友人は友人なりの、教師は教師なりの都合がある。他人である以上、それを受け入れろと押しつけてくる。級友たちもそうだったろう。「彼女」に対して聡明で大人しい美少女の役を与えて、そこから逸脱することは歓迎しなかったに違いないし、何を言っても微笑む「彼女」はある面、確かに好都合なのだ。
 「彼女」がよく告白を受けていたと後に聞いたが、その理由も分かる。美しく聡明な少女が自分の言うことを否定せずにいちいち頷いてくれる、その満足感はどれだけだろう。自分を全肯定してもらえることほど、心地の良いこともないだろうから。
 そして友人や教師の、全員の望みが一致することなどあるはずがない。だが、現実「彼女」はみなとうまくやっているように見えた。誰ともうまくやっていて、そして誰とも特別親しくなかった。誰にとっても都合の良い少女ではあったが、それ以上ではなかった。
 それを虚しいと思っていなかったはずはないだろうと皇子は思う。それが分からないというような鈍感さは持ち合わせていなかったように思われた。
 あの子は、と皇子はその面影を目の裏に描こうとしてみるが上手くいかなかった。非常に整った顔立ちであったことは覚えているのだが、何故か記憶が薄い。級友達も似たようなことを言っていたから、これは恐らく印象の問題なのだろう。
 だから「彼女」は幻になってしまったのだ。本当にそこにいたのかどうか分からないような、曖昧な存在感しか残さなかったから。
 皇子とてそれは同じだった。「彼女」のことは、曖昧な色のような印象でしか記憶に残っていない。
 だから彼と話した時の記憶は鮮明で、輪郭もくっきりと鮮烈だった。あれが彼の本質なのだ。
 動揺して青ざめた後、自分を強請っても何も出ないと呟いた声。いつか彼が少年であることが露見する可能性があると分かった瞬間の、諦めの早さと見切りの鋭さ。逃げていくのだと悟った皇子が差し出した餞別を撥ねつけた潔癖さときつさ。
 彼とだったら、少しは話が出来たかも知れない。皇子はそんなことを思う。
 自分の疑問を優先させてしまった幼さを今更後悔しても取り返せないが、孤独を知る者同士の共通が自分たちを結んでくれただろうか。
 もう一度会いたい。皇子は時々、そんなことを考えている。今度は少年として生きている、素の彼に会いたいものだ。
 あの時彼が処分してくれと言った魔導論文は、先に賞を取った時間の生成に冠する魔導理論の発展と展開だった。
 論旨を大まか記憶し、皇子はそれを自分で書き直して提出した。「彼女」の論文の抜けた部分や補足の足らなかった部分を説明し、半ば引き継いだような皇子のその論文は、やはり賞を取った。
 去年その検証実験が行われたが、呪文構成は皇子の論文に基づいて書かれたため、術者の魔導士は男性であった。「彼女」の足跡を消すことが出来て、皇子は真実、彼との約束を果たしたような気になった。賞金は使わずに残してある。会えたら渡してやりたかったから。
 皇子はいつしか、「彼女」と似たような場所にいた。
 飛び抜けて若く、魔導に才能があり計算に強く、虚弱な体質のせいで運動を休み、他人を寄せ付けない空気をまとって教室に座っている―――
 「彼女」と自分は同じなのだ。
 「彼女」として生きていた少年が中庸の孤独を選んだように、皇子は孤高であることを選んだ。いずれにしろ、級友と呼ばれる者たちと話が合うとも思えない。
 ラインだったら、と皇子は思う。この弟であればそんなことはないだろう。きっと友人という輪の中に入って楽しく明るく生活を始めるに違いない。
 第4皇子という生まれなど感じさせないような気安さと、身分高く大切に育てられた者特有のまっすぐな愛らしさ、屈託なく他人を信じる人の良さがある。
 自分にはとても出来そうにないけれど、と皇子は内心で苦笑し、まだ心配そうにしている弟の肩を叩いた。
「大丈夫だよ、ライン。……向こうで雑技が始まるから見に行こうか。私たちがここにいてもすることもないしね」
 弟はこっくりと頷き、母にそこを離れる旨を告げて立ち上がる。その手を引いてやりながら皇子はまだ続いている花火を見上げた。
 彼は今どこで何をしているだろう。
 逃亡生活を続けているのだろうか、まだ少女として生きているのだろうか。だが、それは彼のためにはならないはずだ。いずれ大きな齟齬が生まれるだろうし、そうでなくても秘密が多いと呼吸をするのも苦しい。
 だが、彼が今を幸福だと感じていればそれでもいいことかもしれなかった。
 また会えるかどうかは分からない。魔導士を使って足取りを追ってもいいしそれは不可能なことではなかったが、皇子はそれをする気はないのだった。
 ゆるやかな覚醒であった。目を開けても暫く動けないほどの疲労が身体を低く押し込めていて、溜息一つ付くのにもひどく毛布が重い。軽く漏らした吐息が自分のものではないように沈んで、彼は瞬きをした。ぼんやりした遠景は最初、暗い色にしか見えなかった。目に映る濁った色の物が薄汚い天井板だということを理解するまでにややあって、彼はやっとここが何処であるのかを納得した。
 自分は戻ってきた。戻ってきたのだということを先にも思ったはずであったが、昨晩の記憶が次第に蘇ってくるのと同時に、それが強烈な実感になって自分の中に根を張っていくのが分かった。3年前に帝都から逃げ出す直前まで、自分の一番の居場所であったはずの街は、相変わらずだった。巨大な歓楽地を回遊する男達の顔付きも、女達の振りまく華やかな光彩も、そこにいる人々の顔ぶれは変わっても、色味は何も変わらない。3年前に自分と同じようにどうしようもなく子供であったはずのチアロが、少年という年代の階段を歩み上がってはいても、彼特有の明るい空気がそのままであったように。
 ライアンも同じだろうかとクインは思いながら、ゆっくり起きあがった。
 最初に感じたのは酷い眩暈だった。体が重い。食事をしながらチアロと近況の話などをしていたような記憶があるが、それも途中から急速に不明瞭になっていく。酒だろうか、それとも疲労だろうか。どちらにしろ、自分でこの部屋に転がり込んだというわけではなさそうだ。
 3年前に出入りしていた古屋敷の内装とはやや違う。あちらもこの場所とそう変わらぬ汚さであったが、それでも部屋の造りの雰囲気が違うことだけは分かる。寝台の横の窓から外を眺めると、やや離れた場所に煤けた赤い色にぼんやりと染まる地域があった。あれがタリアの境界門から続く大通りであるはずだった。その遙か向こう側に、魔導の塔の威容が霞んで見えている。距離感と方向から自分がいるのがやはりタリアの中であることは分かった。
 クインは再び溜息をつく。物音が殆どしないから、人が少ないのだろう。チアロと行動を共にしていればその内に昨晩のような余所者への干渉は減っていくだろうが、今はさほど期待できない。自分の顔立ちはひどく目立つはずだったが、期待しすぎるのは間違っていた。
 だが、この部屋はチアロの自由になる内の一つに違いなかった。タリアには無数の覇権や利権を巡る派閥がある。大人達にもそれがあり、少年達にもそれがあった。どちらにしろ頂点に立つ者は存在するが、だからといって下位の派閥が解消するわけでもない。チアロがここへ自分を連れてきたというならば、この場所はチアロにとっては安全地帯であるということだ。ならば、まだこの建物の中にいるかもしれない。もしくは、信頼できる配下に何か言い残しているかどちらかだ。とにかく他人を捜さなくてはいけないとクインは結論をつけ、寝台から滑るように下りた。
 立ち上がろうとした瞬間、鈍い痛みと共に膝ががくんと抜けた。思わず前のめりに倒れて手をつく。足裏がじりつくように痛い。クインは床に手をついたまま怪訝に振り返り、両足首から下に捲かれた包帯に目を留めて眉を寄せた。
 床に座り直して足を引き寄せてみれば、包帯の巻き方はいい加減で適当ではあったが強い消毒薬の臭いがした。おそるおそる包帯の上から足を触ると、全体が軋むように痛むのと同時に、足裏が痺れたようにずきずきと脈打っているのが分かる。
 この所ずっと歩き詰めだったからなとクインは苦笑した。それでもどうにか帝都の門を潜りタリアまで辿り着けたのは他のことで飽和していて痛みなど感じている余裕がなかったからなのだろう。これは呼吸が落ち着いてから魔導で多少癒してやれば良いように思われた。旅を重ねながらもクインは魔導の鍛錬だけは続けていたし、どうやら自分にそちらの方面に置いて突出した才能があることも知っている。魔導は才能の要る科学であるということはよく言われているが、その才能は遺伝する。魔導士は出自の秘匿が義務であるが、優秀な魔導士のごく近い血縁者を半ば強制的に入塔させているという噂も昔から存在するほどだ。
 他人を呼んだ方が良いという結論は変わらないから、クインは扉まで這って進んだ。扉に手を掛けようとしたとき、だがそれは外側へ逃げるように開いてクインは再び手をついた。軽くあげた驚声が可笑しかったのか、朗らかに頭上で声が笑った。
「悪い悪い、お前が絶対に自分で何でも解決したがる奴だって事は知ってたつもりなんだけどな」
 昨晩と変わらない明るい笑顔でそんなことを言い、チアロは手にしていた盆を寝台に素早く置くとクインの肩を支えた。半ば担ぎ上げられるようにしてよろよろ寝台に戻ると、クインは肩で呼吸をしている自分にようやく気付いた。
「大丈夫かよ、本当に。お前さ、どこから歩いてきたんだよ。普通に歩いてたみたいに見えたから構わなかったけど、かつぎ込んでからびっくりしたんだぜ。一応手当はしといたけど、ちゃんとした医者を知ってるならそっちに行った方がいいかも知れないってライアンも言ってたからな」
 軽く頷き、クインはライアン、と聞き返した。自分は彼に会いに来たのだった。どうやら眠っている間に一度、彼は自分の顔を見ているらしい。
「ライアンは? あいつ、来てるの」
「いるよ。今ちょっと出ていったけど、煙草じゃないかな。すぐ戻ってくるさ。そんなことより、取り合えず何か食えよ。お前、しばらく殆ど食べてないだろ? ちょっとは顔色も戻ってきてるけど、酷いもんだぜ」
 クインはやや頬が紅潮するのを感じた。返す言葉は何もなかった。それが事実であるからだ。彼の決まり悪そうな顔付きにチアロは笑い、食えよ、と先程彼が寝台に置いたままになっていた盆をクインに押し出した。クインは簡単な礼を言って盆の上のパンに手を伸ばした。どう繕っても金がないことは変化しなかったからだ。口を動かしていると頬が鈍く引きつった。
 祝祭の夜に通りすがりの男に殴られたことを、クインはようやく思い出した。そっと指先で触れてみると、既に痛みは引き始めていた。痣にはなっていないだろうか。胃に物が入る度に、押し上げられるように思考力が戻ってくる。痣になっていたら困る。自分の価値も財産も、今はこの顔一つであるのだから。
 クインの様子で何を思っているのかを察したのだろう、チアロが洗面所から小さな鏡を取ってきて差し出してくれる。中を覗き込むとまず頬の痣が気になったが、そちらは既に肌の上には殆ど痕跡を残していなかった。この様子では明日には殆ど分からなくなるだろう。
 だがもっと衝撃的な物を見つけてクインははっと顔を上げる。思わずわし掴むようにして目の前に引き寄せたのは、髪。
 幻術が解けて、元の瑠璃石色に戻っている髪であった。
「髪だろ」
 彼が何か口にする前に、チアロが素早く言った。クインはごくりと生唾を飲み込みながらチアロを見た。
「チアロ、これは」
 あてもなく言い訳を探してクインは唇を開き、そのまま沈黙した。何から、どうやって説明すれば誤魔化せるのか、それとも自分の知っている事実を話す方がいいのか、どうすれば一番良いのか、沢山の言葉や方策がぐるぐる脳裏を巡って収拾がつかない。
 チアロはライアンの一番の配下だ。ライアンと自分が顔見知りであるか否かの判別をさせるのに少年達がチアロを呼ばせたほどに。ライアンと自分の間の話は彼に筒抜けていく可能性も大きい。ライアンが忙しいというのが本当だとするのなら、自分とライアンを繋ぐ役割を負うてくれるのはチアロだろうから―――
 自分の顔から血の気が引いていくのがはっきり分かった。自分の目立つ顔立ちに更に目立つ髪の色はきっと何処かで極悪な外札を掴ませるための罠だという囁きが、ぐるぐる、めまぐるしく、ひっきりなしに、自分の中を動いている……
「クイン」
 呼ばれるのに続いて肩が揺すられ、クインはやっと返事代わりに一つ頷いた。チアロの目は優しく笑っていた。
「ライアンの言うとおり、お前には秘密が多い。だから俺は、お前が自分で判断するまではお前を目立つように振り回したりはしない、これは約束だ。ここに押し込んで次の朝に様子を見に来たときには変わってたけど、俺以外は誰もいないから少しは落ち着け」
 クインはややあってから今度ははっきり頷いた。その言葉よりも、彼の目の柔らかさに安堵したのかも知れなかった。ごめん、と呟くと真実それに近い申し訳なさが胸に興ってきた。話せないことも多く、秘密にしておくことも多い。悔しいのはそれをどれだけチアロに話していいのか、今の時点ではまるきり見当が付かないことだ。謝るしか出来なかった。いいって、とチアロは重ねて笑い、そしてすっと立ち上がった。この3年で見違えるほど伸びた背丈が見上げるほどすらりと高かった。
 彼の視線が滑るように部屋の扉に動いたのが合図だったように、音もなく扉が開いた。入ってきた男にクインは目を細めた。男もまたクインを見た。彼の淡い緑色をした瞳が迷い無く、適格に自分を射抜いていくのが分かった。クインは痛む頬に構わず、笑って見せた。 
「久しぶり、元気そうだね」
 クインの目の前で、ライアンはやや苦みの混じったような笑みになった。大げさに表情が変わらない辺りは3年前と大差ない。
「お前もな、と言ってやりたいところだが、何日かは派手に出歩かない方がいいだろうな。必要な物は全て揃えてやるからそうしておけ」
 ライアンの声は低く落ち着いて、3年前最後に彼が見た、怒りと憎悪で煮えたぎるような熱は既になかった。彼が今生きているということは、あの決闘に勝ち、それからも沢山の物に勝ち、これからも勝ち続けて行かなくてはいけないのだろう。
 ──多分、それは都合の良いことなのだ。ライアン自身の負担や重苦などとはまるで別の観点の、例えばクインが彼に寄生する条件としては。
 それを思うと自嘲の苦い潮が口の中へ上がってきそうだった。クインは重苦しい空気を無理に喉奥に沈めて、今度は持ちうる限りの虚栄をかけて華やかに微笑んで見せた。ライアンは僅かにすがめになり、そして苦笑した。
「……済まないが、これから王屋敷へ行かなくてはならなくなった、お前の話は今夜にでも聞いてやるから――チアロ、クインを地下水路の俺の部屋に移せ」
「でも足が、ライアン」
「お前はこれをどうやってここまで連れてきたと言った」
 チアロがくしゃりと顔を歪めて、ふてくされたように唇を尖らせた。不承諾であるというよりは明るい不満顔というところであろう。後でな、と言い残してライアンはそれ以上二人に口を挟ませずに出ていった。相変わらずライアンの行動律に一葉も噛みつけない苛立ちが持ち上がってきそうになる。それが表情に出る前にクインは大仰に溜息をつき、チアロに向かって肩をすくめて笑った。
「全くお忙しいことで」
 からかうなよ、とチアロは今度はやや真面目な表情になった。
「去年タリア王の交代があって、ライアンはもうチェインだけのことに関わっていられない――って、昨日その話もしたはずだけど、お前、綺麗に忘れてるだろ? ライアンは今のタリア王アルードの気に入りだから、細々したことが沢山有るんだよ」
 クインは曖昧に頷いた。チアロが説明したというならそれは本当のことだろう。結局のところ、途中で意識を見失った方が悪い。クインはばつの悪そうな顔をするよりも謝るよりも、もっと自分らしいとチアロが笑うであろう方を取った。
「で? 連れていってくれるんだよな?」
 チアロは一瞬を置いて、予想の通りに笑い出した。
 チアロがぶつぶつ軽口を叩きながら彼を連れていったのは、迷路のように入り組んだ地下水路の奥の、深淵といって良い位置にある小さな部屋だった。
 目覚めたアパートの地下室から潜り込めるようになっている辺りは、チアロもこの街の住人なのだとクインは奇妙なところで合点した。人目に付かない通路を幾つも使っていることが、彼の立場の高さを教えてくれる。用心を知っているのだ。
 地下は土と黴の独特の臭い同士が入り交じって、胸が悪くなりそうな空気が充満していた。地下水路に下りて部屋に辿り着くまでクインはずっと顔をしかめ通しであったが、部屋の方はかなりましであった。若干空気の匂いは残っているものの、気にしないように努めることが出来る。
 ライアンが姿を現したのは、暫く雑談に費やしていた時間を次第に退屈に感じ始めた頃だった。地下水路を巡るための通路際にある部屋のことで、窓はない。通気口らしき古びた配管が通っているが、そこからでは外の様子も分からないから、尚更時間も長く感じるのだろう。
 待たせたな、と呟きながら薄い上着を脱ぐライアンの表情には特別な感慨や感情は読みとれない。3年前に知り合ったときから変わらぬ、ライアンの性質の癖という物であった。クインは次第に上がってきた呼吸を落ち着けようと、帰還の理由となったはずの男を見つめた。
 顔立ちはそもそも悪くない。華やかさや明朗さという色相には決定的に見放されてはいるが、端正と言うべき整った顔立ちである。線が細く、どことなく女性にも共通する美形なりのきつさがあるが、彼の身に付いた空気は女性的なものとは隔絶した厳しさだった。
 体躯は3年前とほぼ変わらない。多少肌がくすむように色濃くなった気はするが、向き合っている場が光の少ない地下だということも加味されているだろう。
 じっと見つめていると、ライアンは素っ気なく視線をクインに与えた。
「俺に話があるようだな、だから戻ってきた……違うか」
 上着を適当に椅子に掛け、卓の上の水差しを手繰り寄せながらライアンが言った。クインの様子から、単に懐かしさで戻ってきたわけではないと察しているようだった。
 それはすぐに分かるだろうとクインは納得する。無理を言うけど無茶はしない、とチアロが次分を評するように、自分は自分の限界を超えることには手を出さない。出来ることと出来ないことの見極めくらいは出来る。
 そして限界を超えながら戻ってきた事実が、何よりもこの場合は雄弁だった。
 クインは僅かに俯く。
 ライアンしか頼って行ける相手を思いつかなかった、それは確かだ。これから自分が切り出す話はライアンの掌握するこの地域には向いた話だし、何かあれば自分を頼って良いのだという言質を与えてくれたのは彼だ―――
 だが、理屈よりも何よりも、怯懦が言葉をせき止めてなかなか唇が動かなかった。未知の物に対する怖れ、結論は出したはずなのに抜け道を必死で捜し続けている事実、その事実を自分で認識する度に苦く胸に捲く自嘲と、諦観と、ないまぜになった混乱。そんなものが唇を開こうとする度に、クインの身体を酷く硬直させた。
 自分は怯えているのだ。敢えていうなら、自分自身を排除させようとする全ての世界に。
 クインが言いよどんでいる空気をライアンは何と思ったのか、微かに頷いた。チアロ、とライアンが呼ぶと、それまで二人のやり取りと空気を眺めていた少年は心底はっとしたように彼の主君を見た。
「奴らの残党の根城の一つが見つかった。案内の男がもうすぐ煉瓦屋敷の方へ行くから、チェインからも数名出して繋ぎに使え。動向と、出入りしている連中を逐一報せろ」
 仕事を命じた上での退去令だった。チアロは素直に頷いた。ライアンの意志に添うことはチアロの中では至上であるらしかった。
 連絡の段取りを簡単に打ち合わせてチアロが消えると、ライアンは慣れた仕種で煙管を取り出した。自分がライアンとの繋がりを証明するために差し出した煙草入れがその腰にぶら下がっているのを見て、クインは不意に安堵のような軽い吐息をついた。
 ライアンはそれに構わず深く一服を入れてから呟いた。
「俺もお前に聞きたいことがあった。お前が俺に頼み事というなら、他人には話せない上に俺にも切り出しにくい話だろう。どちらが先がいい」
「……あんたの質問から先に聞くよ」
 持ち出す一瞬が僅かに先にずれただけで浮かぶ大量の安堵感に辟易しながらクインは言った。幾つかの会話を重ねていれば切り出すきっかけも掴めるかも知れないと、そんな思考に逃げ出しそうになる自分の臆病さが鬱陶しかった。
 そうかとライアンは軽く頷き、おもむろに口を開いた。
「あの皇子はお前の何だ」
 クインはゆっくりと視線をあげた。
 驚愕は緩やかだった。ライアンはいつも俺の足下をいきなりすくう、という囁きが唐突に浮かんできて、クインはつい苦笑になりかけた。思えば髪の色を指摘された時も、相当に突然であったはずだ。
 この国には現在リュース皇子を筆頭に4人の皇子を持っているが、他の皇子達はさほど自分と似ているわけではない。一番下のライン皇子だけが、どちらかというなら女性的という意味に於いて顔立ちの系統が似ている程度だ。皇族の写真は公開されているから顔を知ることは難しいことではなかった。
 あの、とライアンが言うのならリュース皇子に間違いないだろう。鏡に映し込んだように、自分と同じ姿形をした皇子。
 皇子のことを思えば、懐かしさがまず先に来た。ライアンがあの皇子と言った相手とほんの2日間机を並べていたことがあった。彼の正体を見抜き、その上で手を貸しても良いと言った皇子。恐らくは、推測に過ぎないが自分自身の濃い血縁に連なる相手。
 クインは不意に自分が薄く笑っているのに気付いた。
「……そう……、見たんだ、あの人」
 胸に上がる感慨はそう暖かみのある物ではなかった。あのまま知らぬふりをして皇子の庇護を受け入れ中等学院へ居残っていれば、もう少しはましな親しみを感じることが出来ただろうか。推測は出来なかったし、第一それには意味がなかった。
 いつ、とクインが視線で問うと、ライアンは僅かに眉を寄せて記憶を探すために宙を見上げた。
「お前が帝都から出て行って、すぐの新年の園遊会で。……意外か? タリア王は特殊とはいえ官吏の端だからな。カレルの供でアルードと共に王城へ行った時に、あの皇子を見た――お前かと、最初は思った」
「声をかけた?」
 いや、とライアンは首を振った。
「同じ顔と同じ声をしているが空気が違ったからな、お前ではないと思ったが……あれが他人だという方が今更驚きだな、全く。園遊会が終わって戻ってきたときに、お前ではないのだと確信した。お前であれば俺に分かるように合図を寄越すだろう、そういう奴だ」
 まあね、とクインは苦笑して頷いた。ライアンをからかう絶好の機会を見逃すはずもなかった。そうだろうとライアンもまた薄く笑った。3年前の、長くはない期間でも二人はお互いの性質を飲み込むことは終えていた。
「年齢は10才だとカレルに聞いた。お前も確か同じ年だったはずだ、あの年の秋には」
 クインは頷く。ライアンが一呼吸を置いて、最初の質問を重ねた。
「――あの皇子は、お前の、何だ」
 視線をまっすぐにあげてクインはライアンを見た。ライアンの緑色の瞳に僅かにかかった熱の影が、逸るほどに心臓を打った。
 彼が自分に興味を示すことがひどく誇らしかった。3年前にはライアンは崇拝していた少年王の死だけを見つめて生きており、彼に目線を向けることが殆どなかったからだ。3年を経てようやく勝ったような、何か取り戻したような気持ちになる。だから自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
「双子の、……多分、兄だ」
 一瞬開けてライアンが頷いた。クインがずっと放浪者であった理由をそれなりに見出したのだろう。全く予測していなかったという顔付きではなかったから、ライアンなりに推論は出来上がっていたようであった。
「多分というのは」
「どっちが兄かっていうのはもう母親でないと分からないからさ。ただ、俺の方が後宮を出されていることを思えば俺が弟なんだろうし、何かの具合で正式に皇族の列に加わることになっても俺を『兄』にはしないだろうね」
 皇位継承権が発生するとしても、場を混乱させないために弟とするのが普通であろう。だからどちらに転んでも弟である、としか言いようがないのだった。そんなことを説明すると、ライアンは深く頷いた。彼の質問はそれで終わりだった。
「では、お前の話というのを聞こう。俺と昔の話をするために戻ってきたということではないなら用件を言え。……金か?」
 クインはぴくりと頬を引きつらせながら顔を上げた。最初から焦点に分厚い鉈を下ろす辺りは直裁であった。金とライアンが総括したことで自分が情けない生き物であると念を押された気になる。
 生きていくために必要だと知っているし、それを無視して世間を渡っていけるとも思っていないが、やはり矮小感はあった。返答が鈍いことでライアンは何事かを察したらしく、更に深く頷いた。
「幾ら要る? 3年前よりは多少俺にも余裕がある、額を言え」
「……いいよ。昔のことを種にして強請るにはいい額だから」
 ライアンは苦笑し、吸いかけだった煙草を一口吸った。
「だが、金に困っているのは本当だろう。……俺は3年前にお前に礼を言った。借りは必ず清算するとも。だからその清算をしてやりたいと思っている。額をいえ、クイン。俺は今、幾ら欲しいのかと聞いている」
 クインはぎこちなく笑った。
「―――取りあえず、2万……」
 ライアンが煙管を弄る手を止めた。ゆっくり彼の整った顔が自分の方へ向けられるのを見て、クインは自棄気味に更に笑顔になってみせた。
「2万だけじゃどうにもならないから、あと2千……それと、毎月500……」
 呟く声が次第に小さくなっていくのが自分で分かった。声音が低くなるに連れてそれは暗く強張っていく。視線が下がっていってやがて完全に俯くと、黙り込んだライアンの呼吸と合って、部屋は完全に静寂となった。
「……ジルで?」
 問い返すライアンの語尾に、たちまち苦い自嘲が混じった。当然のことだったからだ。だが通貨の単位を思わず確認させたくなるほど、それは途方もない額であった。慎ましく生活するならば一人が3年間は働かずに暮らすことが出来る額だ。田舎に行けばその金額で手に入る家と門地くらいはあるだろうか。
 2万か、と呟くライアンの声が耳に入った。煙管から上る薄い煙にも気付かぬように、ライアンは無表情に俯いていた。彼が何かめまぐるしく考えている時の顔だった。
「―――1万ならすぐに……そうだな5、6日で揃えてやれるが、2万となると……」
 その後をライアンは口の中で濁した。
 1万であればすぐに出せるというのも多少豪気といえた。ライアンはチェインにたむろする行きはぐれの少年達の王だ。チェインの中に細かい派閥もあるがその全てに共通の自治律を布き、彼らからの上納金を得る代わりに彼らの行動の自由と背反時の懲罰を引き受けている。彼が現在タリア王の配下となって大人達の組織の末端に食い込んでいる以上は自治の統制と懲罰の実施は配下に委ねられているのだろうが、彼は金は持っているとクインは知っていた。
 そして、それをライアンは自分の為だけに使うわけにいかないことも。金だけでも信義だけでも、他人を動かす事は出来る。だがその二つが上手く噛み合ったときほど強いものもない。時折は彼の下にいる子供達に甘い汁を吸わせてやらなくてはならないのだ。
 そして1万というのは彼がそうした報償に取り分けて置いた分を放出する額であり、2万というならその他の全てまでもなげうたせる額だ。ライアンは金の力を知っている。知っていて彼が考え込んでいるのは、その額と自分の地盤を支えている彼らという重みの均衡点を探してくれているからだろう。
 クインはいいよ、と再び言った。ライアンに全てを援助して貰うつもりは最初から無かった。
「強請るには額が大きいって言ったろ? あんたを破産させる気はないよ」
 ライアンはちらりとクインを見た。微かに頬にかかる影の具合が彼の戸惑いを素直に教えてくれた。
「7千までならすぐに出せる。後でチアロに金を届けさせてもいい。1万であるなら1週間待ってもらえればどうにかしよう。……だが、2万は無理だ、済まないが」
「いいって。ライアンから金をむしりとるつもりは、本当にないんだ」
「……何があったか話せと言ったら答えるか? すぐに出せるといっても、何も聞かずに払ってやれる額じゃない」
 うん、とクインは唇端をゆっくりつりあげた――笑おうとした。だがそれは上手くいかない。途中で奇妙に凍えたときのようにぎこちなく固まってしまって、それ以上は動かせそうになかった。
 暫くライアンの顔を見つめたまま何かを言おうとしていると、不意にライアンが表情をゆるめてクインの頬に触れた。
「どうした」
 彼の声はいつもの通りの低さであったが、声音に籠もった温もりは確かだった。うん、と意味のない返答を喉で鳴らすと、そこが空気で震えたような気がした。
 ライアンの指が丁寧に、ひどく優しく自分の頬をなぞっている。子供を慰めるような仕種だとそう思い、思いながらクインはゆるく首を振った。ぽろぽろ涙が落ちていった。思わず目を閉じると双眸の流滴が転がる。
「どうした、大丈夫か」
 ライアンの声が優しい。宥めるような低い声が、何故だか染みてくる。クインは再び首を振り、自分を落ち着けるために何度か呼吸を整えてライアンに頷いて見せた。
「大丈夫だよ、ごめん、ちょっと……混乱してるのかも知れない……ごめん、大丈夫だから……」
 言い訳に似たような口調でクインは呟き、手で涙をこそぐように拭った。
「か―――母さんが……」
 絞り出すように呻いた言葉に、ライアンが小さく頷いた。3年前に彼を一度だけ、自宅であったアパートに泊めた事がある。だから母のことを彼は知っていた。
「かあ、さんが、……倒れて……し、死ぬ、かも……しれな……」
 死を口にするとその言葉が急に現実味を帯びて底光りした気がした。
 クインは身震いした。いつでも自分の手を引いてくれたあの温かな人がいなくなると考えるだけでも恐ろしかった。
 いつでも自分たちは二人きりだった。父が欲しいと言ってみたこともあるし、そんなことをあれこれ空想していたこともある。けれど、最終的に自分の側にいるのは母一人であり、真逆、母の側にいるのは自分一人だった。母に再婚の話が全くなかった訳でもないだろう。息子の目から見ても、十分に美しい母であった。流石に年齢だけは下げることが出来ないが、整った目鼻立ちは誰かの気を惹くには不足ないはずだ。
 だが、現実そんなことは起こらなかった。時折親切そうに近付いてくる男もいなくはなかったが、母は彼らをやんわりと押し返した。それが自分のためであることを、クインはかなり早い頃から気付いていた。戸籍の擬態や幼い頃の転居の出鱈目な履歴を思えば推測は難しくなかった。正体は分からなかったが、何かがあるという感触ならば容易に得ることが出来る。
 自分と皇子の間に血縁を確信してからは沢山の疑問が一息に溶解していった。自分を守るために母は誰も寄せ付けるわけにはいかなかったのだ。何故母が自分を連れているのか、そこまでして自分を養護するのか、不思議に思ったことはあるが聞くだけの勇気はなかった。
 ……不思議というなら、何故自分だけが王宮を出されたのかも分からない。あるいは最も理屈の通らない選定である呪占だろうか。血の繋がりのない女に皇子を預けたというのも不可解だ――将来に渡って不都合があるなら殺してしまうか、魔導の塔にでも送ってしまうのが普通だろうから。
 自分が市井で生きていることは事実だから過去を今更まさぐっても仕方がないと理解しつつ、クインはそれらを思う度に母へ降り積む感謝が増えていくのを感じていた。
 長い月日の内に情が移ったということならあるだろう。あるいは、何かの事情でいなくなってしまった母自身の子の代理なのかも知れぬ。
 それが始まった理由はともかく、マリア・エディアルといった彼女が自分を半ば身をすり減らすように庇護しようと努めたことは確かだ。そのありがたみが胸に詰まる。
 だから自分の母はあの人一人だ。他の誰でもない。今更、どんな保護も父親からなど欲しくない。母が必死で逃亡を続けていたことを考えると、追っ手であった連中は父のあずかり知らぬ場所からの使者なのだろう。
 相手が父であるならそれほど怯えなくてもよいはずなのだ。父―――今上帝、リシャーク3世なら。
 クインは母との行程をぐるりと思いめぐらす。
 早く大人になりたかった。一瞬でも早く成長して、自分の手で自分と、母を守りたかった。優しく大丈夫よと微笑む優しい空気の裏で、決して自分に悟らせないように気を向けながらも母が怯えているのは分かっていた。
 自分の手をひいて母が沢山の物を繋ぎ与えてくれたように、同じ事を返してやりたかった。怖がらなくても良いのだと、母がそうしてくれたように相手を安心させるためだけに微笑みたかった。……それら全て不確かで楽観的な未来予測の上に成り立っていることなど、現実になるまで理解できなかったのだ。
 そして母の病によって初めて守護者となったとき、クインは自分たちの孤独についてやっと思い知った。
 母は自分の実家さえ口にしなかった。そこへクインが顔を出すことが連鎖的に自分達を追いつめるだろうという恐怖が母の口を異様に重くしていると察することは出来た。帰る場所も、頼る他人も血縁さえも、何もない。無いのだ、ということを理解するしかなく、クインが出来たのは母をどうにか説得してシタルキアへ連れ戻すことだけであった。
 それさえも母は渋ったが、医療技術に限らず学術研究に於いてはシタルキアが突出して高水準を誇っている。全ては長い歴史と安定した政権による安定した環境の提供がもたらしたものだが、施設も薬剤も、シタルキアに戻らなくては手に入らない物の方が多かった。
 頼っても良い相手をライアンしか思いつかなかったせいもあるだろう。いつでも自分たちは二人きりだった。二人きりであることが当然だった。母には自分だけしかないのだとクインは認識していたが、自分にもまた母一人だった。本当に、それしかなかったのだ……
 しばらく止まらない涙は何のせいだろうとクインは指先で拭いながら思う。母への思いだろうか。ようやく事情を話すことの出来る他人に出会えた事への安堵だろうか。涙と共に胸に支えていた物が剥落していくのが分かった。
 クイン、というライアンの声は自分が落ち着く頃だった。彼はクインの様子を見て話を繋ぐ瞬間を計らってくれたのだろう。
「……俺には医術のことは何も分からん。分からんが、馬鹿ほど金を食う病は一つしか知らない―――黒死だな?」
 具体的な病名が出てきてクインは微かに身を震わせ、頷いた。そうか、と呟くライアンの声も重い。死病だな、と更に続けたライアンの言葉が胸を射抜いて、クインは堅く目を閉じた。
 黒死病と呼ばれているそれは奇病であった。手足の末端から次第に肌が黒ずみ、やがて麻痺して動かなくなり、やがて肌から黒く濁った血胞が沸いては潰れていくのを繰り返しながら身体ごとが生きたまま腐敗していく。伝播力は弱いものの空気感染するため、医療施設に入れるとなると必ず個室を使うし、専属の看護人を数人つけなくてはならない上に薬が非常に高額であった。
 高額なのは魔導の力が施されているためであるが、薬を定期的に打てば進行を抑えることは可能である。治癒するわけではないのだが、進行をほぼ完全に止めることが出来るのだ。
 そしてそれは中流階級以下の人々にとっては不治の病であることと同じ意味であった。
 寒村などでは隔離して見殺しにすることも珍しくはない。それは大勢の住人を救済するための措置ではあったがまっとうに承認される質のものでもなかった。故に、黒死の病とされる患者は殆どが帝都に在住している。
 クインは帝都にまで母親を連れ戻すことは考えなかった。シタルキア第2の都市であり南部海域との接点でもあるミシュアの街近くにも療養所がある。殆どの有り金をはたいて2ヶ月の約束でそこへ預けてきたが、もし期日までに金を用意できないとなれば容赦なく放り出されるだろう。……それは母の死の決定を意味する。
「……2ヶ月で2万か……べらぼうだな」
 ライアンの声はどこまでも沈鬱だった。
 診療所は基本的に年単位で患者を預かる。それに加えて年間の保証費や看護人の選定もあるから初期費用は更に跳ね上がるのだった。
 そうだね、と軽く同意したのはクイン自身そう思っているからであった。とても通常の手段では捻り出すことは出来ない額だ。―――だから戻ってきたのだとクインは深く呼吸をした。
「ねえ、ライアン―――昔、あんたが俺を捕まえたとき……あんた、俺をタリア王の稚児にたたき売るつもりだったはずだね……俺に、その価値は、まだあるかな?」
 ライアンは怪訝な顔で眉を寄せた。クインの言おうとすることが掴めないといった顔付きであった。クインは泣いたせいで火照っている頬を無理に動かして笑った。
「客を取りたいんだ。俺のこの顔に、馬鹿ほど法外な金を払う連中を知らないか?」
 ライアンが、不意をつかれたように瞬きをした。

 奇妙な沈黙が暫く続いた後、自分の唇から最初に漏れてきたのが失笑だったことに、ライアンは一瞬置いてから気付いた。溜息であったはずのそれにクインがさっと頬を赤らめて彼を睨みあげたからだ。相変わらず、自身に対する故のない否定には過敏であった。
 少なくともふざけているわけではなさそうだとライアンは思い直し、ゆるく首を振った。
「お前は客を取るという意味を知っているのか」
 我ながら馬鹿なことを聞くとライアンは思ったが、それは思わず確認したくなる事柄でもあった。
 彼自身、稚児上がりであった。陰気だ鬱だと言われながらもライアンの顔立ちは整った部類に入り、普段さほど感情を表現しない彼の痴態を見たがる者も多かった。
 ライアンの母はその日暮らしの街の娼婦であり、金に困って幼い彼を芸団に売った。顔立ちが良く運動の勘があったことで彼は殺陣を主体とした活劇に従事したが、どこかの公演で自分を見かけたらしい金満家の老人に稚児として転売された。それが最初だ。
 老人の元から脱走してタリアに住みつくようになっても、時折その手の暴力はあった。少年達ばかりの集団にいれば力は即ち存在の重さであり、最初に通る原始的な相克であった。
 そして芸団から転売されたときと同じように、ライアンを欲しがった男もいた。それが先のタリア王カレルだった。だから今でもライアンのことを稚児上がりだというなら間違いでもない。その冷蔑があることをライアンは知っている。知っているが、事実であれば取り繕うこともなかった。確かに自分はカレルと寝て、チェイン地区に於ける自治を買っていたのだから。
 そしてそのこと自体は彼には苦役としか表現できなかった。他に愛しい女がいるわけでも男と寝ることに抵抗があるわけでもなかったが、彼を求める者が彼をいたぶり踏みにじり、彼のあげる苦痛と懇願の悲鳴が聞きたいのは明白だったからだ。自分のこの陰鬱な無表情がそうした衝動を引き起こしているのだと朧に理解はしたがどうにかなるものでもなかった。
 客を取りたいというクインの言葉は、ライアンには狂気の沙汰としか思えなかった。既にカレルが死に、現王アルードはライアンに対する性的興味を持たない。男娼まがいのことをする必要が消えた今となっては、ライアンは幾ら積まれてもそれをするつもりはなかった。
 あの苦痛。無理矢理水の中を歩かされているような息苦しさと閉塞感。辛い苦しいと嘆くことをしない程にライアンは自分の心理に無頓着であったが、ねじ伏せられて一番痛かったのは矜持であった。その部分だけが血を流すほどに痛かった。
 ライアンは苦い記憶を一通りめぐらして渋面になった。クインには分かっていない。寝る相手が男だろうが女だろうが、それは酷く自己を摩耗させる。肉体でなく、精神の方が。
 何から言ってやろうかとライアンが僅かに思考する間に、クインの声が割って入った。
「……ライアンは俺がふざけてると思ってるんだ。こんな馬鹿馬鹿しい冗談を言うために俺は戻ってきたんじゃない」
 一度は落ち着いたはずの彼の瑠璃玉石の瞳に、再びうっすらと涙が捌けたのが見えた。但しそれは懇願のためでなく、自分の言葉と真剣に向き合っていないと非難するためのものだとライアンは悟った。クインは本気なのだ。自分の身を切り売りして母親の死を回避することで躍起になっている。
 今度唇から漏れたのは、真実溜息であった。
「……お前の現状は理解した。金が必要な理由も良く分かった。だが、客を取ることには賛成しない。現実男娼を買う客の9割が男だが、……男と寝たことは?」
 クインは具体的な質問にやや怯んだようだった。僅かに目元が痙攣する。返答が一瞬遅れたことで、ライアンはその経験はないのだろうと見切りをつけた。クインが返答するよりも早く、無いんだな、と遮る。クインは曖昧に頷き、付け足した。
「でも、ちょっと……その……身体、触らせたり……キスくらいなら……」
 口ごもる様子から、それが成り行きであったことくらいは分かった。キスか、とライアンはまた溜息になる。クインは本当に何も知らないのだ。
「……遊女でも同じだが、キスは普通しないな。男娼でも娼婦でも、唇が貞操の代わりになるのはこの世界では常識だ」
「……そう……なの?」
 ぽかんとしたクインの表情が全てだった。そうだ、とライアンは生真面目に頷いて見せた。
「特別高値をつければ売る奴もいるかも知れないが。客もそもそもそれを要求しないのが暗黙の了承になっている――お前は舐められたんだ。素人だと知れて好き勝手なことをされたな」
 クインはそう、と呟いて俯いた。翳っていても輝いていても、その顔立ちはなお華やかに美しかった。そうだと念を押し、ライアンは再び溜息になった。何度目のそれであるかは数える気にもならなかった。
 自分は困惑している。クインの母を知らないことはなかったし境遇については不幸だとも思うが、彼に今出来ることは限られていて、しかも自分の助力では足らないのは明らかだった。
 それでもクインの話を簡単に了承して客を探してやろうという気は起きなかった。ライアンはそれが何故のものか自分の内をまさぐり、やがて苦笑した。結局自分はこの少年を好きなのだ。3年前、まだ子供だったクインが自分の身辺を回遊するに任せていたのも彼を決して憎くは思わなかったからだ。
 ―――自分は力弱い者が好きだった。自分の庇護なくしては生きていけないような、か弱い存在が好きだった。闇雲に誰かをを守りたかった。
 それが何であるかをライアンは既に正確に捉えている。
 ずっと昔、老人の所から逃げ出したライアンを拾い、それまで彼が知らなかった他人の明るさと温もりを教えてくれた相手がいた。彼を守るため、彼を喜ばせる為だけにライアンは強くなった。彼の為に生きて、彼のために死にたかった。
 3年以上の年月をかけて彼とほぼ同等に至るほどに強くなれたのも、兄のように父のように慕った彼への憧憬の結果だった。彼を自分が守るのだという高揚はいつでも自分の中にあった。彼のために身をなげうち死ぬことこそ、その頃のライアンの全てだった。
 そして彼は死んだ。ライアンの目の届かない場所で、唐突に。
 守るべき者を失って呆然としていた頃、クインはライアンの前に姿を現した。この子供に構うのが満たしきれなかった庇護欲を補う行為だと薄く承知していたが、どうしようもなく、止めることは出来なかった。
 クイン自身も死んだ男と多少似た、良く喋りよく笑う質だった。負けん気の強さも豊かな表情も、年齢の離れた弟を構うような気持ちでライアンは庇護し、気を掛けた。クインの助言によって得た幾つかの結果もあるが、そんなことよりも存在自体が重要であったのだ。だから彼に身売りさせるのが気に入らない。身勝手な考えだと分かっていながら気が進まないのはそのせいだろう。
 ライアンは一息呼吸を置いて諭すようにゆっくり、静かに言葉を紡いだ。
「やめておけ、と俺は言う。お前は本当に素人だし、そもそも俺達の世界に首を突っ込むのは大概にしておけ。俺が言うのもおかしな話だが、俺達にあまり深く関わらない方が本当はいいはずだ。俺はこの世界でしか生きていけないが、お前はもっと違う場所でもいいんだからな」
 クインはじっと下を睨み据えたまま、ぴくりともしなかった。自分の言葉が表面を流れ落ちて行くだけなのを理解して、ライアンはそれ以上を言うのを止めた。頑なな表情は3年前と同じ、母のために全てを投げ出しても未来を掴もうとする顔だった。
「でも……他に、金を稼ぐ手段が、ないよ……」
「俺がどうにかしてやる。取りあえず1万用意してやるから、残りの1万をもう2ヶ月待って貰え」
 言いながらライアンは脳裏で大まかな計算を始める。
 チェインから毎月彼の元に上がってくる上納金がジルで8千余、そのうち2千5百はそのままタリア王へ渡る。残りの金でライアンは一月を過ごすが配下の少年達にばらまく額も多い。全てがそのまま自分の金ということではなかった。
 が、タリア王アルードから幾ばくかの金も出ているし、自分一人のことは困らない。適当に口実を見つけて2ヶ月ほど節制しても誰にも不服は言わせるつもりがなかった。
「駄目だよライアン、あんたが自分の足下を削ってまで俺に肩入れする話じゃないはずだ。それに俺はあんたに借りを作りたくない。3年前の言質を楯にするにはちょっとたちの悪い強請だろ?」
 ライアンは僅かに吐息で答えた。途方もない額であるのは確かだった。
「減額は出来ないのか」
 クインに言っても仕方のない話であると思いながらもライアンは口にした。そうね、とクインは曖昧に笑った。
「無理だね、保証費がべらぼうなんだ。医療費だけならシタルキアの戸籍があれば少しはましだけど―――」
「戸籍?」
 ライアンはクインの言葉を途中で強く遮った。クインは軽く頷いた。
「一応医者ってのは国立の医学校を出ている官吏だからさ。戸籍証明があれば薬代と個室代は安くなるから……そうだね、1万2千ってところだけど。でも、戸籍は高いだろ? どのみち金は持ってないから同じ事だよ」
 肩をすくめるクインに、ライアンは少し笑って見せた。ようやく彼の手の届く範囲に話が転がってきたような感触があった。自分は明らかに安堵していると思いながら口を開く。
「戸籍であれば俺がどうにか出来るはずだ。戸籍の条件は?」
 クインは多少面食らったような表情になった。曖昧に頷きながらライアンは事情の補足をしてやる。
 戸籍の売買は元々がタリア王の掌握している事項の一つであった。取引は闇市場の連中に任されているが、元となる空籍を探してくるのは安い金で使える少年達が殆どだ。そして子供達の中のことであるならライアンの自由にならないことなど一つもない。
「戸籍の条件を、クイン。母と娘がいいか、それとも息子がいいのか。母子の大体の年齢と組み合わせの希望を言え」
 クインはまだ少し、戸惑ったような顔付きであった。ライアンはゆっくりと頷いた。
「戸籍は俺が用意してやろう。なに、探す戸籍が一つくらい増えたところでどうということもない―――少し、時間はかかるが……猶予は2ヶ月だったな。それまでには間に合わせよう」
 その上で1万2千ジルというなら、どうにか目処がつくだろう。その計算に一人深く頷いたのをクインがまだぼんやり見つめているのに気付き、ライアンは自分を頼って帝都へ帰還した少年へ向き合った。
「だから、男娼になりたいなどと二度と言うな。俺はお前にそんなことをさせたいとは思っていない」
 クインは何か言いたげにしていたが、唇は遂に開かれなかった。それをなし崩しに了承の証とするためにライアンは素早く立ち上がった。
「俺はもう行かなくてはいけない。この部屋にあるものは好きにしろ。チアロがじきに来るだろう」
「ライアン、俺」
「俺に3年前の清算をさせろ、クイン。……お前一人が全部背負い込むことはない」
 そのことばにクインは微かに顔を歪めた。人一倍麗しい面差しが翳り、淡い影が差した。
「……甘えても、いいかな……」
 掠れた呟きにライアンは深く頷いた。クインの表情に立ち現れては消える安堵と、依存に対する不服を何故か微笑ましく見つめている自分にライアンは気付いた。
「いいと言った。言ったことは守る」
 何かに負けたように、クインの首がこくんと項垂れた。控えめな謝意にライアンは唇だけで笑い、背を返した。
 扉を抜ける瞬間にありがとうと聞こえた気がした。

 皇子がフォークを置くと、その眼前で口直しのための氷菓を口にしていた皇妃は微かに眉をひそめた。口に運びかけていた銀の匙が下りて、形の良い唇から微かに溜息の混じった声が零れる。
「……もうお終いにするの、リュース?」
 言葉に混じった僅かな非難に、皇子は俯いた。
 食が細く体力がないのは昔からのことだが、立太子の話がちらほら見え隠れし始めた頃から母は自分に足りないものを付け足そうと必死になっている。体が弱いこと、他人と合わせて生きていくのが苦手なこと、その二つが酷く重大な欠陥のような気が自分自身の中に芽生えてくるのが分かって、皇子はどこか心重い。
 が、母との食事を避けようとは思わなかった。中等学院という、王宮の外の学舎に通い始めたことで日中殆どお互いを見かけなくなっている。せめて共にいられる時間である夕餐を大切にするのが彼に出来る最大限でもあった。
「済みません、母上」
 視線を下にやったまま呟くと、母は困ったような溜息をついた。
「いいのよ、謝らなくても……そうね、適量ということもあるのだから」
 そして、ぎこちない沈黙になった。
 何故こんな風なのだろうと皇子はいつも思う。今日は実弟のラインが剣の稽古で倒れるように眠ってしまったせいで母と二人の夕食なのだが、明らかに弟がいるといないでは会話の滑らかさに差があった。お互いに接点を探り合っているような不思議な長さの沈黙や唐突な話題の転換など、もう珍しくもない。
 自分は確かに他人が苦手で、母も同じくだからだろうか。弟が楽に母と言葉を重ねていられるのは弟の特性である人懐こさのせいだろうか。
 何故、自分は駄目なのだろう。気安い方がいいのは確かだから、弟を母が溺愛するのは当然にしても。愛される気質でないのだと無理に結論づけてはあるが、皇子はどことなく納得できなかった。
 理屈ぽくて引っ込み思案なのは、昔からだ。他人と上手く手を取り合うことが出来ないのも、友人を作るのが苦手なのも、それはずっと子供の頃からの自分の性質だ。中等に上がる以前、父が大人しい自分を心配してつけてくれた学友たちとも微妙な距離感しか築けなかった。
 唯一の例外といえるのはさらにそれ以前からの、幼なじみと言って良い少女だけだ。彼女エリゼテールは皇子より1才の年長で、異母弟たちの母方の従姉ということにもなるが、物心つく頃から共に王宮で育ってきたという心安さが相当大きいことは自分でも分かっていた。
 皇子は溜息はつかない。僅かな呼吸が自分と母の間にかかるかぼそい何かを吹き飛ばしてしまいそうだから。
「そうそう、そう言えば」
 氷菓を匙で崩しながら母がようやく見つけた糸口を話し出した。
 皇子は何です、と微笑む。空気の流れが気分を酷く楽にした。大体何の話であるかは予測できたがそれは勿論言わなかった。
「ラインがね、あの子、剣の才能があるって―――」
 弟の話に皇子は儚い少女のようだと喩えられる美貌を淡くほころばせながら頷いている。胸の奥にほんの僅か、苛立ちが揺らぐのを皇子は知っていて、それを見ない振りをすることさえ出来た。
 母上と言葉を遮ることが出来たらどれだけ爽快だろうかと皇子は脳裏でちらと考え、すぐに自分でそのことを忘れようとした。
 弟のラインを可愛いと思うのは母だけでなく、自分だけでもなく、家族のみではない。天真爛漫を実体として表現するなら自分ではなく弟なのだ。同じ両親の血を引きながら性質の差で全てが変化するのもまた、人間であった。
 ラインに剣術の天与があるらしいことはここ暫くで明らかになりつつある。
 ライン皇子は彼よりも4才半下であるが、身体は丈夫で運動勘が目立って良かった。弓も悪くないが運動能力に比して目がさほど良くない。が、剣術は砂地に水をまくように飲み込みが早いようだった。
 末々剣士として身を立てるなどということは起こらないし、ライン以外の二人の異母弟を含めて兄弟の誰が将来皇帝となってもラインは宰相か大元帥あたりの要職へ座らなくてはならない。個人としての剣の技量など何の意味も価値もないのだ―――ということは自明ではあったが、母に指摘したことはなかった。弟の才能というものを素直に喜び楽しんでいる母にそれを言うのは残酷であろう。
「……私は身体が弱いので、母上」
 皇妃の話が一段落付いた辺りで皇子は使用人達に聞こえないよう、小さな声で言った。
「ラインと将来、多方面で助け合っていけるならとてもいいことだと思います。……近衛に任せてみるのもいいのじゃありませんか」
 皇帝の私兵とされる近衛には、戦場での皇帝警護という性質上良い指導者がいる。皇族も護身術の一環として武術を一通り教えられるが、護衛のために魔導士をつける方が一般化しており、自分で剣を取るなどは非常に珍しい部類に入った。その為に良い指導者は近衛に多いのが現状である。
 母は思案気味に微笑んだ。いいのよ、と優しく言われて皇子は頷く。そうしたことまで気を回す必要はないという母の気遣いであった。
 空気が一段落したのをきっかけにして皇子は食堂を辞した。食事が進まないことであまり母に心配をかけたくなかった。
 皇子の夜は大抵読書で更けていく。皇子は自分の身体が他人と比べて頑健でないことを、知識の補充でまかなおうとしているのだとはっきり認識していた。追い立てられるような焦燥も、立太子への重圧も、既に肌に馴染んでしまった。自分こそが次代の皇帝たらんというような強烈な自負は胸にない。ただ……―――
 皇子はふと頁をめくる指を止めて唇だけで笑った。立太子されたら、母は喜んでくれるだろうか? ラインが去年、少年剣術会で圧勝した時のように? もしかしたらそれ以上に。
 立太子されるということは将来皇帝として即位するということになるが、皇帝の地位というものに希望も絶望も皇子は抱いていない。立憲君主制度という頑とした機構が先にあり、法律でそれを更に強固にしているこの世の中で、至高の位置にあること自体にどれだけの意味があるのだろうか。
 皇帝親政を布いた者はシタルキアの長い歴史の中でも僅かに10数名を数えるのみ、その半数はごく初期に集中する。太祖皇帝時代の慣習を受け継いだような形だ。
 皇帝に実権は既になく、それは慣習と慣例と過去の遺産の継承程度の意味になり果てている。だが、皇子はそれにも悪い感情を持っていない。皇帝という個人の器量に大きく左右されるよりも、それは世界にとって健全なはずだから。
 皇帝となるというのは、そうした機構の頂点で儀式を執り行うための派手な冠となることと意味が変わらない。個人の実力や資質などまるで無関係なのを承知の上で皇子は自分に立太子の目標を与えている。
 その人の言葉が眼差しが欲しいから。多分この世の何よりも。微かに自分が溜息をついたことに皇子は一瞬後から気付いた。

 試着室の野暮く分厚い布がさっとひかれ中から颯爽という空気と共に少女が出現すると、狭くはない店内に溜息が漏れた。待合いの椅子で暇を噛み潰しながら自分の爪に溜まった埃を取ることに熱中していたチアロは若干首をもたげ、その姿に周囲とは少し毛色の変わった吐息になった。
 少女はまっすぐに彼の元に歩いてくる。人の視線がそれに伴って自分に動いてくるのを知覚することが出来た。尋常でないものに対する好奇の目は、だがそれだけでもない。
 誰もが目を疑い、奪われるほどの美貌というものがそこに現実存在する、その驚愕。
 少女が自分の前で立ち止まるときに一斉に集中する意識の、突き刺さるような感覚が肌に痛い。
「どう? さっきのとどっちが似合う?」
 ご丁寧にスカートをつまみ片足をちょんとたててみせる仕種が華奢な体格とよく似合っている。どっちでも、とぶっきらぼうに答えたのは女の服の善し悪しなど全く分からないからだ。似合うか否かという問題に関しては、チアロは考えることを放棄している。似合わない服というものが存在するならば、それはこうした小綺麗な店では売られていないものに違いないから。
「無愛想なんだから。ねえ、さっきの服とこれと、ブラウスと靴と帽子と手袋、いい?」
「あーあー、もう欲しいもの何でも買えったら」
 少女はくすくすと声を立てて笑う。明るく華やかな笑顔にチアロは薄い苦笑になって椅子に座り直した。店主だろうか小柄な中年男が少女に飛んできて、新しい服を勧めている。服に合わせた帽子に髪飾り、レースの手袋、刺繍の入った靴、夏用の薄いカーディガン、ワンピースと共布で作られた鞄、そんなものを携えては鏡の前であて、外し、組み合わせを変えるという作業に熱心だ。
 上機嫌に笑う少女の視線がちらと自分に向いてきてチアロはむくれてそっぽを向く。中流といわれるよりは上の生活階級者のための服飾店は彼には上品すぎて居心地が悪い。
 もういい加減にしろと言ってやるつもりでチアロは鏡の前でくるりと回ってみせる少女に近付いていくと、店主の声が聞こえた。
「……鞄まで全部差し上げますから、うちの服を幾つか着ていただいて、写真を撮らせて貰えないでしょうか、お嬢様」
 あら、と笑う声はひどく機嫌がいい。再会した瞬間の疲れ果てたような土気色の顔を見ている身としては、それは喜ぶべき事であるはずだった。白い肌に血の気が戻り、初夏の薔薇の色が頬に彩りを添えている。
 店主の申し出はあるいは当然かも知れなかった。この少女の美貌というものだけで十分に人目を引く写真になるはずで、宣伝としては申し分ないだろう。おい、と言いかけたとき、少女は微笑んで手にした帽子を店主に柔らかく押し返した。
「申し訳ないのですけど、父から禁じられておりますの。私もあまり人前に出るのが好きではありませんし」
 さらりとあしらい、後を言わせないのはさすがであるかも知れなかった。あるいは慣れているのだろう。店主は残念そうだったが、チアロの清算をせかす声に頭を下げて金額の計算のために場を離れた。
「お前も大概化けるなぁ」
 誰にも聞こえないようにこっそり耳元に呟くと、少女の方は小さく笑って同じように耳元へ返してきた。
「俺くらい完璧な美人だと男とか女とか、関係ねぇんだよ」
 声は少年のものへ戻っている。声色の方は気味が悪くなるほど少女少女していたから、この落差もまた激しかった。
 金のやり取りをしながらチアロは棚の帽子をいじっているクインに目をやる。完璧と言うしかない擬態であった。
 元々の美貌もさることながら、ほんのわずかに眉を整えて薄い口紅を差しただけで完全に女として通用する繊細な空気は特筆かも知れなかった。
 華奢な体格もいい。細い体躯が幸いして腰の部分をきゅっと締めた服を着て下半身を膨らむスカートに隠してしまえば、同じくらいの身長と体重の女性に比して直線的な体の線が目立たない。咽喉部はさほど目立たないから襟元の詰まった服かスカーフで対応できる。
 こうして化けた挙げ句に更に完璧を期すために洋服や靴などを買い出しに来ているが、やはりというべきかひどく目立つ上に、本人がその擬態を面白がって楽しんでいるのがよくわかる。
 再会してすぐやその翌朝などは余裕のなさがそのまま表情に出ていたほどに目つきが暗く、凄まじく重かったが、ライアンと話をして何かから解放されたのかここ暫くは3年前と同じような明るさを取り戻していた。それをクインのために良かったとチアロは安堵で眺めていた。
 チアロは閉塞した空気がひどく苦手だ。彼の死んだ父親は良く喋る明るいたちで、悪い人間では決してなかった。ただ、子供一人を連れて法螺なのか詐欺なのか良く分からないことを繰り返した挙げ句に流れていく生活しかできなかったのは、地道な生活を営む能力が欠けていたとしか言いようがない。けれど何もなくても父と2人、そうやって生きていくことが苦痛だと思ったこともなかったのは確かだ。
 父の姿を思い出すときは、大抵のんびりした声音で危機感なく笑っている。喩えそれが土地のならず者たちに手荒く暴行された後でも、死ななくて良かったな生きてるかと笑う父の声が耳に遠くまだ残っている気がした。
 そんな風に2人明るく楽しく世の中をやっていた時代の名残なのか、チアロはタリアの中に住みつき悪童たちの仲間に入り、やがて小さな派閥の頭になっていても、のびやかで明るい空気が好きだ。自分も軽やかでありたいし、自分についてくる少年たちにもそうであって欲しいと思っている。
 逆から言えば、そうでないときの空気というのはチアロはどんなに他人が表面を繕っても本能に近い部分で嗅ぎ取ることが出来た。どんなに激しい状況であっても、他人の余裕の幅を感じ、それによって自身の余裕を作り出す部分がチアロにはある。長く、そして深く馴染んでいるという慣れにおいてその同調が一番高いのはライアンであるが、クインについても同じ事が言えた。
 ……再会したときの、切羽詰まった空気。良くないことがあるのだと、その空気に触れた瞬間に分かった。
 目を見たときにそれは確信になった。傲慢と呼んで良かった3年前の姿を眩しく思い返すなら、それは一瞬胸を衝かれるほど必死で縋り付くものを探している目だったからだ。咄嗟にライアンに会うだろうと言ったのも、それを自分が救うことが出来ないと直感したせいでもあった。
 適当に移動する間も食事をする間も、チアロは殆ど一人で喋った。クインの目つきはやや怪しげで、暫くまともなものを口に入れていないことが推測できた。目の焦点がどこかぼんやりしているからだ。
 そう時間も経たない内にクインが昏倒してしまうと、明らかにチアロは安堵した。何か言いたいことも訴えたいこともあるだろうに、それを喉の奥に押し込んで表面を賑やかな自分に合わせようとするクインを直視するのはひどく辛いことであった。
 同情だとか憐憫だとか、そんな名を付ける気はない。クインは何の打算も駆け引きもなくチアロの前に現れた、大切な友人であるということだけだ。
 だから今クインが本来の享楽的な部分を取り戻していることが嬉しい。気楽な笑みを悪戯気味の仕種を見るにつけ、クインの負荷を恐らくライアンが取り除いてやったことが自分の仕業ほどに誇らしかった。
 靴や鞄や小物を大量に買い込み、更にクインは彼の先に立って歩いていく。以前帝都にいたときに黒髪であったことを受けて今日は彼は金髪のかつらを被っているが、女装は久しぶりだと笑う割には堂に入ったものだった。
「お前、歩き方まで女になるんだな」
 一つ一つの仕種まで、完全に切り替わる。これに神経を使いすぎて気が尖っていることはなかったから、擬態になれているのだと察しはついた。
「つまらないことでばれちゃうより全然ましでしょ?」
 声も、上目に軽く睨む目つきさえ、少女のものだ。頭おかしくなりそう、とチアロが呟くとクインは朗らかに笑い、化粧品の店の扉に手をかけた。今度はこれであるらしかった。必要性は理解できるが、正直なところチアロは服と小物だけで既に食傷気味だ。うんざりという心象がそのまま表情に出たのだろう、クインは小さく笑った。
「……ここが終わったら、本屋へ寄ってそれで終わりにするから」
「まだあるのかよ」
「ちょっとね。お小遣いのある内に欲しいものがあるの」
 小遣いね、とチアロはゆるい溜息をつく。実際ライアンから渡されているクインの生活費とやらは、真絹に包んで大切にするつもりかと聞きたくなるほどだ。ただ、ライアンがそこまでするからには好意だけではない理由も在ろう。
 3年前、チェインの少年たちの王であった男が死んでからの激烈な派閥抗争は今思い返しても震えが来るが、それを優位に勝ち抜いていった背景にクインの的確な助言があったことは後にライアンに聞いて知った。
 当時のチアロはまだライアンの周囲を回遊する被保護者程度のものであって、抗争にもその結果である殺戮にも殆ど関わらなかった。クインが何故口を出しライアンがそれを受け入れたのかは分からないが、最終的に少年たちの派閥の熾烈な競争をライアンが収束したのは事実だ。
 その恩義もライアンは感じているだろう。他にも何かあるかもしれないが、それはいずれ必要となればライアンから話があるに違いなかった。今の自分はライアンの役に立つ存在であり、自惚れることが許されるなら殆ど唯一ライアンが心から信頼している相手であるのだから―――それが何に起因するのかも、知っているけれど。
「金だけ食う女囲ってるみたいだ……」
 クインは店の扉から手を離してチアロを振り返り、彼の手を軽く叩いた。
「私、ちゃんと彼に助力したもの。3年前の、これはお給料」
「いつまで給料もらうつもりだよ」
「例の書類が見つかるまでよ。だ、か、ら、頑張って、ねー」
 チアロはふんと鼻を鳴らす。
 戸籍の捜索はライアンから彼に伝わり、彼から更に下の子供たちに委譲されている。ライアンがタリア全般に関わる自警で引き回されているのと同じように、チアロは自らの派閥の保持で忙しい。
 チアロの背後にライアンがいるのは皆知っているから立場は強いが、チアロが少年たちの王として君臨するライアンの後継者となってチェイン地区の王となるには何かが足りないと思っている連中も多く、チアロも気を抜くわけには行かないのだ。自由に使える配下たちに仕事を回すのには他にも沢山の理由があるが、その辺りをチアロは抜け目なく立ち回っていた。
「お前の条件が結構狭いから苦労してんだよ」
 チアロは不機嫌に唇を尖らせる。
 クインが出した戸籍の条件は確かに厳しい。母と娘一人で父親は不明もしくは10年以上前に他界しており現実その母娘の周辺に父の影がないこと―――つまり母と娘以外には全くの天涯孤独であること―――に加えて母の年齢と娘の年齢の両方に制限がある。
 条件が狭い、という言葉にクインの秀麗な顔がやや曇った。クインとて、それは承知しているようだった。
「……仕方ないじゃない、あんまり書類と実物が違うのもまずいんだから」
 戸籍の取引は非合法だから、自然町中では声が小さくなる。戸籍ではなく書類と呼ぶのもその係累だ。無論タリアの内側ではそれは罪ではない。だからこうした非合法の取引は大概タリアへ流れてくる。
「ま、その内に条件にあった親子が見つかるとは思うよ。帝都も広いしね」
 クインの僅かに重い顔を払拭したくて口にした言葉に、ふとクインが首をかしげた。ちょっと、と袖を掴まれて路地の端へ寄っていく。人の気配のない場所まで来て、クインは彼に顔を寄せるようにして低く聞いた。
「―――親子が見つかるってどういう意味だ」
 どんな意図の質問か分からなくてチアロはぽかんとする。クインは確かに複雑な思考を巡らすのに向くが、その過程を説明されないと分からないことも多い。
「いや、別に、その言葉の通りだけど?」
 分からないまま返答すると、クインは軽くチアロを睨んだ。表情から先程までの甘さがすっかり抜けて、素の少年の顔が覗いている。
「……チアロ、戸籍って……どうやって探してる?」
 先程よりは分かりやすい質問にチアロはだから、と言いかけて口をつぐんだ。
 反射的にしまった、と思った。結局この子共は自分たちの仲間ではないという基本を忘れていたのだ。
 戸籍記載者がいなくなって抹消される前の戸籍を買うこともあるが、それは役府の戸籍係を買収して行うものであり、自分たち子供の手には余る。それは大人たちが取り引きすることだし、そうして取引に出てくる戸籍は条件を選べない。
 条件を付ける戸籍は、それを求める者たちのために特別に探すものだ。この場合、探すのは戸籍ではない。条件にぴたりと添う上で、突然消えても周囲がわざわざ探さない戸籍保持者を探すのだ。
 ―――記載者を全て葬り去り、戸籍を完全に乗っ取るために。
 クインの場合は母娘の組み合わせと年齢のくくりがあるから多少難しい。女だけの家庭だと往々にして男が入り込んでいたり親や兄弟と密な連絡があることも珍しくはない。戸籍のない女であれば探すのは難しくないが、なまじ戸籍保持者であればこの条件はひどく狭い部類に入る。
 ……そしてそれは結局クインの求める戸籍のために、運の悪い母娘がいなくなるということでもあった。
 ライアンはその辺りの情状に全く関心がない。チアロとて、不幸だとも哀れだともさほどは思わない。ライアンはクインの要望を優先するのに他のことは関係ないと言うだろうし、チアロもそれは同じだ。世の中には運の悪い家族もいる、その程度だ。
 だがクインは違う。これはどんなに斜な口をきいていてもチェインの子供ではない。自分のために見知らぬ他人が消えるという現実に激しい拒否反応を起こすだろうと危惧したのだろう、ライアンは彼に何も教えていないのだ。
 何でそれを俺にも言ってくれないんだよ!
 心中で八つ当たりしてチアロは黙り込んでしまったクインを見る。先程まで上機嫌に楽しげだった顔から既に血の気が引いているのが見えた。
「―――帰ろう、チアロ」
 くるりと背を返しかけた華奢な手首を、チアロは反射的に掴んだ。
「化粧道具と本を買うんだろ? ……戸籍のことはあんまり深く考えるなって。必要だから頼んだんじゃないか。だったらよけいなことに気を回すなよ」
「……余計なこと、か」
 苦く低くクインが呟いた。彼は今何を思っているのだろうとチアロは俯く細い首を眺める。覚悟が足らないと怒鳴ってもいいが、自分たちの価値観を押し付けるには酷な相手だとチアロはそれを飲み込んだ。
 育った環境は、金が無いという点に関しては自分たちはあまり変わらない。違うのは境遇だ。クインには正しくまっとうとされる道へ導く母親がいた。タリアの中で成長したチアロには、善悪という基準がない。あるとするなら自分やライアンの派閥に対する義理という物差しだけだ。
 クインが何を考えているのかは分かる。戸籍を探すのを中止しても更に切り抜けていく道があるかどうかを思考しているのに違いない。戻ってきたときからクインは追い立てられて必死だった。知り合ったときから自負の塊のような子供だった。それがただ縋り付くために戻ってきたらしいことで、それがクインにとって酷く重く切実な事情であることも肌に感じた。
 だからライアンに言われたままに戸籍を探している。クインのために割けるだけの人数を回しているというのに、本人が要らないと言い出すならこちらの気分を傷つけた。
「お前が欲しいっていうから探してるんだろ? 気分でいい加減なこと言うなよ」
 苛立つ気持ちのまま吐き捨てると、クインが凄まじい勢いで顔を上げた。
「何にも教えないのは公平じゃない!」
 思わず声を荒げてからクインははっとしたように唇を押さえ、囁き声で続けた。
「お前もライアンも、肝心なことは何一つ俺に教えないんだな。どうせ俺は余所者だよ、理解なんかできっこないって思ってるんだろ」
「思ってるさ」
 チアロは軽く返答し、下に置いたままだった服や靴の袋を取った。
「化粧道具、買えよ。本屋にも付き合ってやる。それ以上の話はライアンにしろ、俺は知らない……2、3日中にライアンと会えるように伝えておいてやるから」
 クインはもの言いたげに唇を結んでいたが、やがてチアロの言葉に頷いた。戸籍のことに関してはチアロに言うよりもライアンと直接話さなくてはいけないことを納得したらしい。
 クインは振り切るように一つ首を振ると路地を出て、化粧道具を揃えるために店の扉に手をかけた。白粉と香水の匂いは苦手だとチアロは外に残り、クインがまたしても人目を華やかに惹きつけているのを硝子越しに見つめる。
 明るい笑顔。新しい口紅を試すのか、差し出した小指の切なくなるほどの細さ。
 あれは確かに愛でられるべきものだ。愛される対象としては申し分のない麗しさだ。その為にだけ生まれてきたかのように、利口ぶる口調も押さえればたわむ気の強さも、全てが彼を生きたまま宝石にしている。
 けれど、それは自分たちの仲間には決してなれないと言うことだ。彼にはその覚悟もない。ない、というよりはタリアの外の世界の規範に既に染まっている。
 ライアンが言っていたことが今更身に染みた。
(クインは俺たちに染まるには完成している。あれは俺たちとは全く違う生き物だ。友人として仲良くしていても、理解しあえるわけではないことは知っておけ)
 その通りだとチアロは目を伏せた。
 自分たちは何かを見るときも考えるときも、立つ地平が違う。戸籍の件にしても、自分なら躊躇わない。どうしても欲しいものがある時に、何故、立ち止まる必要があるのだ。
 理解できない―――ライアンの言ったとおりだ。
 チアロは軽い溜息になる。戸籍の調査は順調で、既に幾つかの候補はあがっている。これを今更中止するとなると、不満だけが残った。
 タリア王屋敷の門をくぐるとまず目に入るのは美しく整えられた前庭と馬車寄せだ。タリア王というのは通称で、タリアの支配者は系譜上、国の末端にいる。官位は下端であったが、実状は悪くない程度の影響力を持っていた。治外法権ともいえる自治制度を許されているのは、タリアから回る献金が国を実際に利しているからだ。逆に返せばその金があるからこそ、自治が認められている。
 官位がありその公邸であるならば、馬車寄せは必須だ。皇城、つまり国府との行き来は馬車に決まっている。実際は殆ど使われていないにしろ、それは様式であった。
 馬車寄せから扉を抜けて吹き抜けの玄関ホールになめらかに降りている螺旋階段を上り、左へ行けばタリア王の執務室ということになる。
 執務室といっても大抵はタリア王の側近たちがたむろしている。タリア王自身はいないこともあるが、これは個人の資質に寄るところが大きいだろう。
 先のタリア王であったカレル=コリーグは外へ出ることが多く、そして彼を駆逐してその座についた現王アルード=クールは屋敷にいることが多い。カレルは高官との接触が多かったが、それを国からの過干渉と捉えて不満に思う者も多く、カレルを葬ってタリア王となったアルードはまずはタリア内の方向の統一を強いられている。故に、あまりタリアを離れることがなかった。
 ライアンが執務室へ入っていくと、側近の男たちがちらりと彼を見た。男たちと同じようにライアンもまた、アルードの配下といわれる立場にある。
「お前の陰気な顔を見るのは久しぶりだな」
 そんなことを言ってアルードの隣に佇む男が笑った。彼も側近の一人だ。
 久しぶりというのは単なる嫌味で、ライアンは2日と続けてアルードの側を離れたことが殆どない。
「例の連中の残党がほぼ掴めたので、その報告を」
 抑揚なく呟くと、ライアンはここ数日かけて集めた情報を口頭で伝えていく。ライアンは字が読めないから自身で告げるくらいしか方法がなかった。それにアルードから次の指示があるだろうから、代理を立てるくらいなら自分でこなした方が早い。
 例の連中というのはタリアの中の不穏分子だ。前王カレルの派閥は首塊が倒れた後に徹底した残党狩りに遭った。宗旨替えした者もいるが、前王の頃よりは明らかに遠ざけられている。タリア王に近い位置にいるほど旨い汁を吸うことが出来るゆえに、放逐と呼んで差し支えない扱いだった。
 彼らにとってはアルードは元の主人の仇であるという単純な理由だけでもなく憎むべき相手であった。そしてアルードがカレルを暗殺したとき、それに積極的に協力したのがライアンであったせいで、ライアンもまた、その連中には敵視されている。
 ライアンの報告が終わるのを待って、アルードは呼び鈴を取った。その音に反応してすぐに現れたのは魔導士であった。国から借り受けているのだろう。
「カノン、連中の根城の座標を取れ。場所はこれが案内する」
 はい、と返答する魔導士の顔は銀の仮面に覆われて見えない。カノンというのも魔導士としての名であって本名ではない。だが背格好や声からさほど年齢のいかない、まだ少年という範囲に属することはわかった。
 それ以上の指示はなかった。戻ってこいとは言わなかったから、今日はどうやら好きにしていいらしい。ライアンは内心でやっと呼吸をした気分になった。
 アルードがライアンを側に置きたがるというのは事実だ。それを気に入っている、と表現するなら現実に即してはいるのだろう。が、ライアンはそんな単純な話ではないことを知っている。アルードもライアンと2人の時はそれを隠さない。
 前王カレルの死に関わる幾つかの謎とされている部分の殆どをライアンが引き受けたのは事実だ。アルードはライアンもいずれ始末する気でいる、その秘密を共有する者として、生存さえも気に入らないから。
 アルードがライアンを側近として年齢若い割に厚遇するのは秘密の保持料だ。能力がないとは思われていないらしく、いくつかの末端的な仕事は任されているがそんなことであれば幾らでも代わりはいる。ライアンを近くにおくのはその方が言行や挙動を監視しやすいという理由であろう。
 ライアンは前王カレルが嫌いだった。もしくは憎んでいた。
 カレルはライアンをチェインの自治と引き換えに愛人になるように強要した。まだ彼が少年だった頃に、当時のチェインの王であったリァン・ロゥがカレルの望みに応じてライアンを差し出したときには死の影さえ見た。
 カレルの目を引いたのが自分の顔であるのなら傷つけて焼いてしまいたいと思ったこともある。
 だからアルードがカレルを暗殺する計画を持ちかけてきた時、若干の勿体はつけてみせたものの承知した。それはライアンにとっては解放を意味したからだ。
 そしてそれが済み、ライアンは別のものに縛られることになった。アルードとの共棲は悪くはない。少なくともカレルのようにライアンは神経を逆立てなくて済む。
 だが、危機感はカレルの時よりも数段上だった。カレルの場合はライアンをそれでも単純な意味で気に入ってもいたから、チェインの自治を買うために彼と寝ていても以前のような恐ろしさは感じなかった。
 だがアルードは違う。アルードとの間にある緊張はカレルの時よりも増していた。
 そしてそれでもお互いに離れていかないのは、お互いの利用価値を良く知っているからでもある。
 2人とも相手に決して好かれていないことを承知の上で共に在るのはタリアの自治のために必要なことを知っているからだ。力は正義であり、正義は力ある者のものだ。タリアの中の法律を究極に簡略するとこういうことでもあった。
 だから力無い者たちは排除され、敗者となり、更に踏みにじられる。カレルの残した残党を狩るのも当然の成り行きだった。
 魔導士に座標をとらせる、ということはそのうち建物ごと始末するつもりだからだろうか。魔導というものにライアンは詳しくないが、それを扱うのにかなり細かい計算や座標の把握が必要なことは見て知っている。
 少年魔導士を根城になっているアパートまで連れて行った帰りにライアンは自身の本拠であるチェインの「煉瓦屋敷」と通称されるアパートへ入った。ここは建物ごと、丸ごとがライアンのための要塞だ。彼の手足となるべき少年たちが常時たむろしているし、彼らをまとめる幹部たちも半数程度は残っている。
 幹部という扱いをしているのは現在6名。一人はチアロだがこれが一番年齢が下で、残り5人の内3名はライアンがチェインを完全に掌握した頃からの配下である。チェイン自体の人数は2千人見当といったあたりだが、派閥は100以上あった。彼らの棲み分けから小さな抗争などに至るまでライアンが全て面倒を見ているわけではないが、起こったことの報告は受ける。
 1階の広間の隅にライアンの席はある。北側の窓の側に置かれた椅子、脇の小卓とその上の灰皿と火種箱。いつもの場所で煙管に火を入れるライアンに幹部たちが大体の事を告げていると、視界の隅に一番の側近が入ってきたのが映った。
 こちらへ来るように軽く手で合図すると、頷いて寄ってくる表情がいつもより暗い。普段は多少あてられるほど明るく振る舞う少年である。それは他の幹部たちにも分かるのだろう。
「どうしたチアロ、悪いもんでも食ったか」
 軽口にチアロはやや憤然という調子で違うよ、と切り返したがあまり表情の色調は変わらない。煙草を続けながらライアンは手振りでチアロに側にいるように指示する。どんなに配下が増えて幹部が彼に忠誠を誓っていても、ライアンが最も心許しているのはこの少年だった。……それが何のためでありどれだけ下らないことか分かっていながらも。
 チェインの中の報告が済むとライアンはそれに指示を出す。例えば規律を破ったものには制裁を、派閥同士の抗争にはある程度の決着を。
 タリア王の元では手駒の一つに過ぎないライアンでも、チェインに戻れば確かに年若い者たちの王であるのだった。
 それも一段落ついた頃、ライアンは他の連中を追い払ってチアロの手を軽く叩いた。何か言いたそうにしていたが口を開かないのは、他人に聞かせたくない話だからだろう。
 チアロとの連絡は密で、お互いに相手がどんな出来事を抱えているかは知っている。チアロが人前で自分に話せないというならば、クインのことだろうと察しはついた。
 ライアンは食事にでも行くかと腰を上げた。チェインにいるときに彼の身辺を守る役目の男が合わせて立ち上がるが、ライアンはそれには首を振る。
 護身役は万一の時のライアンの身代わりになる役目だが、今は必要ない。ライアンは殆ど酒を飲まない上、体調も悪くなかったから、自分の身を守ることくらいは不足ないであろう。警護を連れていくときは人死が出ると分かっている時と、酒が入ると分かっている時だった。酒は元々体質に合わない。有り体にいうなら弱いのだ。
「あれがどうかしたのか。小遣いが足らないと言うなら馬鹿とでも言ってやれ」
 煉瓦屋敷の廊下を歩きながらライアンは言う。クインの身辺を整え、不自由ない生活をさせてやるには十分な額を既にチアロに渡してある。それ以上というなら浪費の限度というものであった。
「そのことなんだけどさ……」
 チアロがぼそぼそと、申し訳なさそうに呟いた。
「ごめん、俺、つい戸籍の話しちゃって……そしたらあいつ、戸籍いらないって言うんだ。あと、ライアンと話がしたいって……痛っ」
 考えるより先に出てしまった手を軽くうち振り、ライアンは溜息になった。
「奴は俺たちとは考え方が違うと言っただろう。迂闊にも程が過ぎる」
 チアロは打たれた首を片手で押さえながらごめん、ともう一度言った。ライアンは舌打ちをした。今更取り返しようもなかった。
 クインが何を言い出すかは分かっている。戸籍の拒否ともう一つ、最初の話へまた立ち戻るのだ。一度は言いくるめたはずの話を蒸し返されてはライアンも面白くない。
 奴の誇り高さは本物だとライアンは溜息になった。売春などは自分の身の上に起こる出来事であると見切っている。
 出来事は波だ。荒いものもあればゆるやかなものもあり、そして自分自身が硬く砕けない岩であると自負するなら、波は自分を妙な形に変えたり削ったりはしない。長い時間にそんなことにならないように波打ち際を駆けていく気でいる。
 不意に最初の夜のことが蘇ってきて、ライアンは苦い顔になった。老人に稚児に売られたことさえ知らなくて、彼にしてみれば突然の出来事に驚愕と恐怖で動けなかったあの日のことを。
 あんな風になりたいのかと思うと怒りさえ沸いた。
 ライアンは苛立ちのまま何度か溜息をついた。チアロが重ねて謝罪の言葉を吐いた。ライアンはそれに頷き、腹心に言った。
「で、戸籍の調査の方はどうした。止めたのか」
「いや。俺の主人は奴じゃなくてライアンだからね」
 それでライアンは僅かに機嫌を直した。戸籍の調査までをクインの言葉に付随して止めたなら、チアロに更にもう1発くれてやるところだ。それはそれでいい、と呟き、ライアンは煉瓦屋敷を出た。
 外は既に夕暮れの気配であった。
「食事が終わったらお前は奴の所へ行け。明日の昼過ぎに行くと伝えろ」
「ライアンは?」
「……あの女の所へ」
 分かったとチアロは頷いた。明日は昼からまた同じ話の繰り返しになるかと思えば気が滅入る。その前に考える時間も欲しかったし、何も考えない時間も欲しい。
 そして何よりも、芯からの休息が欲しかった。そんなときに行く場所をライアンはあまり持っていない。
 が、あるだけましというものかも知れなかった。
 食事が済んでチアロと別れると、ライアンはタリアの大通りの方へ足を向けた。境界門から続く妓楼の赤い格子が日暮れと共に一斉に燃えるような色に変わる。
 篝火が照らす通りから僅かに奥へ行ったところにその妓楼はあった。柱や格子の塗りはそう新しくはないが、まめに磨いているのか小綺麗だ。他の娼家とおなじように1階は食事や酒を楽しめる場所であり、身の空いている遊女や遊女の見習いの少女たちなどが忙しく華やかに立ち働いている。
 看板は余所の店に負けじと盛大に焚かれている篝火の煤で黒ずみが既に取れないが、駒鳥と桜桃の浮き彫りが見えた。それがこの妓楼の屋号である。識字しない連中のためにこうした看板は必ずどの妓楼にもあった。
 ライアンは慣れた足取りでその中へ入る。女たちの視線が一瞬向き、それからやはり慣れた笑みになった。軽い挨拶に素っ気なく応じてライアンは食堂の奥、遊女たちの部屋へ通じる回廊の前の女将の陣取る帳面台の前に立ち、それを軽く指で叩いた。帳簿に没頭していた女将はやっと顔を上げ、ああ、と練れた笑みになる。
「今、空いてるよ―――今日は泊まりで?」
 ライアンは頷き、いつもと同じだけの金をそこへ置いた。一瞥で金額を確かめた女将が小間使いの少女を呼ぶ。もう何度も上がっている部屋であるから案内は必要ないが、これは妓楼の方の都合である。
 タリアが男たちの王国であるなら妓楼は女たちの国だ。女たちには女たちの、沢山の見栄も思惑も打算もあろう。そこに口を挟むのは愚か者のすることだった。
 案内の少女が連れていった先の部屋はこの妓楼では悪くない方に属する。遊女の部屋の格というのは即ち指名の多さと揚げ代の額を示すものだ。この部屋の主が最初に貰った部屋はもっと小さく、狭かった。これが昇格したのに一端噛んでいるほどに注ぎ込んでいる自覚はある。
 小間使いの少女が姐さん、と扉を叩くと返答があった。細く扉が開いて、ライアンを認めた瞳がぱっと明るくなる。白い腕が伸びてライアンの袖を掴まえ、軽く抓った。
「久しぶり、ライアン、全然来てくれないからあたしのこと忘れちゃったのかと思った」
 端からそんな明るい怨み事を言い、遊女はライアンをそそくさと部屋に引っ張り込む。彼女もまだ少女と呼ばれる程度の年齢だ。翡翠色の瞳と薄い茶色の髪がライアンと共通していた。
「しばらくだったな、元気か」
 ひどく月並みなことを口にしながらライアンは薄い外套を脱ぎ、彼女に渡した。それを受け取って客用のクロゼットにしまいながら、まだ扉の外に控えている小間使いに酒とあて水を言いつけ、遊女は元気じゃないわよ、と軽やかに笑った。
「ライアンが来てくれないと寂しくて死んじゃうって、この前も言ったのに。ホントに死んじゃったのかと思って、滅茶苦茶、心配するんだからね」
 唇をつんと尖らせて不満不平を鳴らす様子も、さほど嫌味ではなかった。どうこう言いながらもまっすぐにライアンを見る瞳が嬉しさで輝いていることが大きいだろう。
 ライアンはゆるく笑った。神経ごと羽を伸ばしている彼のこれほど明るい表情を、恐らくはこの女以外の誰も知らない。
 シャラ、とライアンは彼女の名を呼んだ。うん、と笑う少女が飛びきりに嬉しそうだ。まだ少女の範疇に入る年齢特有の顔立ちの定まらなさではあるが、目鼻立ちは整った部類にはいるだろう。
 少し彫りの深い、冷淡にも一瞬見える顔貌はライアン自身に似ている。シャラと自分が並んでいるところを見たことがある人間は限られているが、彼らは総じて自分たちを似ていると言った。そもそもどことなく特徴のない美女系であるのだ。
「俺の心配はいい、俺は俺で適当にやっている」
 シャラは僅かに首をかしげた。
「うん、でも、今日はちょっと機嫌が悪いね。何かあった?」
「……よく分かるな」
「ライアンのことだから分かるの。他の客の機嫌なんか知ったこっちゃないわよ」
 ちょこんと舌を出して肩をすくめる仕種に、彼女が遊女として自然に身につけている媚態があった。彼女と知り合い指名するようになってから既に3年が経過しているが、少しづつこうして経験を重ねていく様子をどこか複雑な思いで眺めている。
 かといって妓楼から出すにはタリアの様子は自分に有利すぎない。チェインの子供たちは自分の女だと興味で見るだろうし、タリアの大人たちはこの女を自分との取引の材料にしたがるだろう。この中が一番安全というのは微妙な事情であった。
 酒が来るとシャラはついていた水に自分の砂糖菓子を取り出して放り込んだ。ライアンが酒の新しい瓶を開けてやると、瓶首を掴んで洗面所へ立っていく。中身は捨ててしまうのだ。
「いつものことだけど、勿体ないわよね」
 シャラは苦笑している。
 ライアンは酒を殆ど飲まない。酔いが欲しいときは少しだけ分けておくこともあるが、それは珍しい出来事に属した。それでもライアンが酒を頼むのはそれについてくるあて水と、酒代に含まれている遊女への見返りの金銭のためだ。何かを頼むのはシャラの体面を優先してやるためでもある。
 いいさ、とライアンは気楽に言い、シャラの作った砂糖水を含んだ。彼女の所に来るときは大抵日の終わりだ。好きで甘いものを食べるわけではないが、疲労が溜まってくると欲しくなった。
 シャラは大体ライアンの顔色を見ながらそれを作るべき時に作る。自分に関する限り、シャラは敏で聡い女であった。そしてそれ以外、全く無頓着な女でもある。
 その現金な好悪を、ライアンは憎くは思えなかった。この中途半端な感情がこの3年でねじれて奇妙なことになりつつある。多分それは自分が悪いのだろう。悪いと分かっていても胸にあるのは罪悪感ではなく、諦めに似た怯みであった。
「ねえ、機嫌悪いの、どうして?」
 シャラは無邪気を装い、ソファに身を預けながら水を舐めているライアンに身を摺り寄せてくる。肌の熱が触れる。まだ子供に近い身体は、体温が高い。
 それをさりげなく押し戻し、ライアンは曖昧な返事をした。遠ざかった身体を更に寄せるようにシャラはライアンの膝にもたれ、上目遣いに彼を見た。微かに開いた唇と吐息が、既に十分すぎるほどに男を知っていることを伺わせる。
 ねえ、と甘えた声を出すシャラの頬を指先でなぞりながら、ライアンはじっと自分の思考に沈んでいく。シャラを構っているときは寂しがる猫を撫でているような気分であった。
 クインの申し出の内容は推察している。恐らく外れはないだろう。嫌だと言い出したら絶対に聞かないだろうとライアンは半ば諦めている。クインに男娼としての価値があるかと聞かれれば大いにあると答えるところだ。
 自分で客を探すことをしないと言うなら賢い選択であるとも言える。街角にそれと分かる格好で立とうものならすぐに食い物にされて終わりだ。クインは自分が素人であることを理解はしている。だからこそライアンに上客を知らないかと聞くのだ。
 女衒のような真似をしろというからにはその見返りも考えているだろう。高級娼婦たちの相場からすれば取り分は娼婦が8の雇主が2程度だが、9をやってもいい。高額であるならその一割だとしても悪い商売にはならない。
 実際自分が手がけるには細かい仕事だし、クインの事情から鑑みてそもそも客として扱えない人種を取り除くこともしなくては。その辺りはチアロを通じてもっと下層の、チェインの子供たちにさせてもいいが、決して駄目な商売であるとは思えなかった。
 クインの切った期限まで、正味1ヶ月と3週間。
 女のように休養をとらなくてはならない期間がない分、彼の望む金額までは決して無理ではないだろう。一晩で―――500から600、というところだろうか……
 具体的な計算はもっと得意な者にさせるとしても、概容はすぐに弾き出せた。
 無理はない。ほころびはない。クインには確かに万人に君臨するような美貌が備わり、自分にはそれを最も効果的に売りさばく為の方策がある。
 だから躊躇う気持ちの中核が自分自身の嫌悪であることは余計に鮮明であった。ライアンは溜息をつき、構ってくれないとふくれている少女の頬をゆっくりさすった。
「……知り合いが、体を売りたいと言っていてな。俺は賛成しないが本気らしい……」
 相談というよりは愚痴であった。ライアンはそれだけ口にすると再び溜息になった。
 クインの主張も戸籍の入手に関わる事柄の秘匿に対する怒りも、全てを容易く想像できるだけに気が重い。
 乗り気でない自分の側の理由というのが結局自分の感情論であるから尚更だ。きっと話がもつれればクインはそのことも指摘するだろう。彼は容赦がない。
 と、不意に手が叩かれる。ライアンは何故か一瞬にして不機嫌になった少女の顔をまじまじと見た。
「何よ、それってライアンに抱いて欲しいって事じゃない。やだやだやだやだ、絶対に駄目っ」
 ぷいとその場を立ってシャラは寝台に転がり込み、ふてくされたままで毛布を被って何か意味の通らないことをわめいている。
 ライアンは一瞬呆気にとられ、それから軽く声を立てて笑った。彼もまた席を立ち、寝台に座り込みながら毛布の下で丸くなるシャラの背を撫でてやる。猫を宥めるときのように。
「相手は男だ、変な気を回すな」
 ひょこんと毛布から顔だけが出る。
「……ほんと?」
 ライアンが頷くと、したり顔で毛布から出てきて柔らかく腕を彼の首に巻き付ける。シャラの吐息が耳に掛かってライアンはそれを押し戻した。
 シャラの表情に僅かに陰りが差す。その翳りの濃さを暗さを、次第に重くしつつあるのが自分であるという認識はある。あるが―――ライアンもまた、生きていくのに他人が必要な類であった。
 絶対数は少ないが、彼にも守り庇護したいものがある。
 その内の一人、シャラ=クルーエル。
 彼の中では妹として知覚される存在。
 肉体関係がない故に、いつまでも特別であり続けるであろう女。
 妹だと思う心が少女を容易く自分のものに出来る状況においてもそれを押しとどめている。時折この少女の顔を見て、下らない話をする為だけにライアンは妓楼へ通ってくる。
 それももう3年になった。最初の頃ライアンに身の回りの出来事や不平や不満を洪水のように話すことで満足していた少女もあと数ヶ月で成人である15才を迎える。加齢と共に次第に彼女の瞳にむら立ち上る思慕も濃く深くなっていった。
 ライアンもそれにはとうに気付いている。気付いていて、それでも通うことをやめないのは多分、シャラが記憶に遠く薄い陽炎だけを残す、母と似ている気がするからかも知れない。
 下らないということは承知している。以前からもライアンはそうした感傷に足を取られて身動きできないことがあった。その時も自分のいたらなさを痛感したが、人はそうそう変わらない。
 シャラの思いを知っていてなお、それを無視してまでライアンはシャラに会いたい。似た顔立ちも、同じような色の瞳や髪も、全てが系譜としてつながる気がするから。
 シャラはしばらく不機嫌に黙っていたが、やがて気を取り直したように煙草を吸うかと聞いた。
 ライアンが彼女に会いたい理由とは全く違う次元で、シャラはライアンに愛想を尽かされることを心から怖れている。臆病な素振りは見せないが、やけに明るいときや不意に今までのことを知らないふりで他のことをするとき、彼女が自分の機嫌を損ねたのではないかと怯えているのは感じていた。
 それも哀れでライアンは余計にこの女を突き放せない。
「こんなもの、どこがいいんだか」
 憎まれ口を聞きながら、シャラはライアンの煙草を鏡台の引き出しから取り出した。多少の量は部屋においてあるのだ。
 癖だからなとライアンもまた、それまでの会話など忘れたように応じた。
 ライアンはタリアに来てから煙草を覚えた。彼を拾い、兄のように父のようにいてくれた前チェイン王リァン・ロゥが大変な愛煙家で、ライアンが彼の真似をして煙だけを口の中で転がしてはむせ返るのを面白がって幾らでも与えてくれたのだ。
 リァンの行動を通して彼を知りたい一心でライアンは煙草に手を出したのだが、結局習慣になって根付いてしまった。今更手放せなかったが、最初にリァンから貰ったときはこんなもののどこがいいのか理解に苦しむと思ったのも事実だったから、シャラの感想も身にしみる。
 ソファに戻って一服を始めると、シャラがふと、呟いた。
「―――やりたきゃ、やらしてあげればいいじゃない」
 一瞬おいて、それが先程の自分の呟きに関するシャラの回答であるとライアンは気付いた。視線が自分に動いてきたのを分かったのか、シャラはライアンの飲み残した砂糖水をすすっては自分の言葉に頷いている。
「いいじゃない、自分からやりたいって言ってんだから。馬鹿だなって思うけど。それにただ寝転がってるだけじゃ駄目だって事ぐらいすぐに分かるわよ。それから後のことは本人に決めさせたら? 大体ライアンが心配したって、切羽詰まったらおんなじことすると思うわ」
 ライアンは僅かに眉をひそめた。確かにシャラの言うことは正しかった。
 クインに金が必要なのは動かせない事実だ。金が用意できなければ、クインの母親は死ぬだろう。それが十分に分かっているのだから、ライアンが断って戸籍を突きつけても話がこじれて行くだけだ。
 クインの価値を知り、それを効果的に使うという意味に於いて自分は適任だ。クインもそう思ったからこそこの話を持ちかけているのだ。ライアンは深く頷き、そして煙草を深く飲んだ。
 クインを説得して戸籍の譲渡を受けさせることがまずは優先であろうが、それは断固として拒否されるという未来を、既に彼は脳裏で確定にしていた。
 太陽が中天を回ったと時計が示す頃から明らかに呼吸と鼓動が落ち着かない。頻繁に時刻を確かめながら、クインは昨晩から少しも重たくならない瞼を遂に諦めて起きあがった。少しは落ち着かなくてはいけないと目を閉じ横たわると、自分の心臓の音が耳を打つ。それが酷く激しく主張する気がしてどうにもならない。
 今日の昼過ぎに、とチアロが連絡してきたのは昨晩だ。頷いた時、自分の首の付け根は軋まなかったろうか。分かったと答えた声は掠れなかったろうか。
 結局こういうことになるのだ、といい聞かせてみても一度知った安堵感が後ろ髪を引く。帝都に帰還した祝祭の日、見知らぬ男に悪戯されたときの嫌悪が肌に蘇ってきてクインは思わず顔をしかめた。
 気分が悪い。口の中に酸い味が広がっていくのを止めようと舌打ちをすれば、また同じ記憶が戻ってきては更に不機嫌になった。
 知らないふりをしてしまえという声は実はそう小さくない。それでもライアンと話をしたいと告げたのは、全てにけりをつけて後の時間が気になるからだ。ほんの数日とはいえ、まるきり無駄にしてしまったことが、心の隅から重く増殖していく。肝心なところで道を間違えたような居心地の悪い焦燥であった。
(条件にあった親子が見つかる)
 何気ない言葉だったからこそ、真実を知ってしまった。自分の要求に応じて、何の罪科もない母娘がこの世から消える。他人、といってしまえばそれだけのことかもしれなかったが、それは即ち帝都で暮らしていた頃の自分たちの姿そのものだった。
 消えても構わない母と娘、ということはそう裕福ではあるまい。父に限らず母親に恋人はおらず誰の妾でもないだろう。そうやって地道に生活を営んでいることが裏目になる。
 ―――帝都にいた頃、自分たちは幸福だった。沢山の忍耐も苛立ちも飲み込まなくてはいけなかったが、静かで落ち着いた、明るい生活だった。母と自分、2人だけの生活はその時間に美しく完全に固定している。消えていく親子の幻はいつの間にか自分たちの過去にすり替わりつつあった。
 それと、とクインは顔を歪める。3年前から自分は賓客だった。ライアンは決してクインを自分たちの仲間であると認めなかった。それが悔しくもあったし、寂しくもあったし、逆にライアンの配慮であることも分かっていて嬉しくもあったが、3年が経過してなお、自分は同じ扱いにしかされていない。俺達のことなど分からないだろうとチアロでさえ思っている。
 チアロは余計なことといった。詰まらないことであると言わんばかりだった。彼らにとっては比較するのも馬鹿馬鹿しいほどのことなのだろう。
 それを非難するのは簡単だ。倫理や道徳などを持ち出すまでもなく、明らかに非道と言われる種類である。だがライアンやチアロが辿ってきた道筋を考えると、あからさまに言うのは気が引けた。
 ライアンは昔、稚児として飼われていた屋敷を自力で抜け出してこの町に転がり込んだといい、チアロは父の死後に食い詰めて流れてきたという。彼らはその話を被害者のようには語らない。そんな話は珍しくはないからだ。
 それに僅かに胸を衝かれる気がするのは自分が甘いからだろうか。この世界の水を飲めないと念を押されている気がして、尚更クインは不機嫌になった。やらなくてはいけないことははっきりしている。自分の力で母を救い、どうにか今後の目処をつけること。出来なければ母の死を見ることになるだろう。後1、2年の内に残酷な死を。
 黒死は死病だとライアンでさえ知っている。金のない者には容赦がない。だが金さえあれば違う。進行を食い止め、療養所の中では普通に生活することさえ出来るのだ。薬に施されている魔導の構成さえ分かれば自分でしてみてもいいが、母の身体で実験するわけにも行かないし、第一医療に関してはクインは素人であった。今から必死でその方面を勉強したところで通常10年以上掛かると言われる医学の修得を2ヶ月で成し遂げることは出来ない。
 金さえあれば。それだけが懸案だった。だから戻ってきた。最後に残る身一つでも、まだ価値のつくものが自分自身に残っているかどうかを確かめに。
 ライアンの反応は困惑と淡い怒りであり、それも予想は出来ていた。彼が昔男に飼われていた身であることも無関係ではないだろう。ライアンはそれを屈辱的な過去だと思っている。だから自分が同じ事をしたいというのが信じられないという目をした。
 馬鹿な奴、とクインは唇を無理矢理に笑顔の形にする。
 そんなことは出来事だ。自分の身体の上を通り過ぎて行くだけの通り雨だ。そんなものに撲たれて自分を変えることなどあり得ない。それに嫌悪感が伴うのは仕方ない。通り雨だとしても濡れたら気持ちが悪いのは当たり前だから。
 だが、手段を既に選ぶ時間ではない。自分の力でどうにかしてみせると確かに自身に誓ったはずだ。
 戻ってくる間、ずっと考えていたことだ。元に戻るだけなのだ―――そしてクインは思い切り苦い顔になった。一度安堵を覚えてしまったつけを今、一息に払わされている気分だ……
 クインが何度目かも分からないような溜息になったとき、軽く扉が叩かれてすぐに開いた。入ってきたライアンはいつもと全く変わらぬ無表情だ。やあ、と軽く挨拶をするとただ頷いた。表情が読めないのは普段と同じだが、それさえ当てつけかと思えてくる自分にクインはようやく苦笑した。
「―――話があると聞いた」
 やはりライアンの切り出しは単刀直入であった。適当に座って煙草を始める彼の仕種を暫く眺めていると、最初の一服を終えたライアンの目が自分にまっすぐに向いた。
「……チアロから何も聞いてない?」
「お前が話があるとしか言っていなかったが」
 チアロは余程腹に据えかねたのだろう。クインが切り出し難かろうと知っていて説明していないのは微かな抵抗といえた。もしくはライアンは知っていてしらを切っていることもあり得る。どちらにしろ、彼を呼びつけた理由を口にしなくてはならないことは変わりなかった。
「―――ライアン、戸籍のことなんだけど」
 そう口に乗せるとライアンはちらりと彼を見て、再び煙管に口を付けた。僅かに頷いたのは促してくれているのだろう。クインはあの、といいかけて乾いていた唇を舐めた。
 心臓の音が激しい。血潮の登る感触がこめかみ辺りを酷く叩いている。
「戸籍……戸籍を、探すのは……条件に合う相手を捜すことだっていうのは本当に……」
 呟いた言葉に呆気なくライアンが頷いた。そう、とクインは一瞬痙攣した頬を隠すために俯く。自分の推測は正しかった。チアロがしまったという顔をしていたのも自分がこれに抱く嫌悪感の種類を察したからだ。
 そしてライアンは恐らくそれを知っていてクインには言わなかった。内実を知れば拒否するだろうと思っていたから。
「戸籍のことは俺に任せろと言ったはずだ。今更要らないというのじゃないだろうな」
 ぴしりと釘を差されてクインはいや、と苦笑に見えるような顔を作る。ライアンが一瞬それを目に留めて、やや温い吐息をついた。
「要らないか……」
 ライアンの言葉にクインは頷こうとし、そしてぎこちなくしか動かなくなっている体に気付いた。痺れたように、顎を引くことだけが出来ない。
 微かに震えている彼に気付いたのか、ライアンは一服を長く吸った。吐き出されるほの青い煙がそのままライアンの溜息に見えた。
「理由を言え、クイン。俺は命じるだけで済むが、実際戸籍を探しているのはチアロとその下の連中だ。連中に何と言い訳すればいいのかを教えろ」
 ライアンの物言いで、彼が戸籍の拒否を不愉快に思っているのは分かった。そうだろうとクインも思う。自分とて是非にと頼まれて引き受けたことをそうそう撤回されては面白くもない。
「……俺は、戸籍は空いたのを探すんだと思ってた。条件に合うのを探すんだと。でも、違うんだろ? 戸籍じゃなくて、戸籍を持っていて条件に合う人間を探すんだ……乗っ取るために」
 ライアンは一瞬おいてから頷き、それで、とつまらなそうに促した。クインは苦い顔をして見せた。チアロの反応よりもライアンの方が数段冷徹であった。余計なこととチアロが表現した感覚を、ライアンは更に際だった形で持っている。
「俺はそんなことだって知らなかった。最初に言ってくれなかったのは不公平だ。俺が……俺が余所者であんたたちの世界に馴染めないし付いていけないと思ったから? でも、それは不公平だ、ライアン、そんな事だって知ってたら最初から頼まなかった」
 ライアンは黙ったままクインを見つめた。視線には特別な力みがなかった。クインはそれを殆ど睨むようにして返した。ライアンの緑の瞳の中にいる自分の顔がひどく強張っていて、しかも泣き出しそうな顔付きをしている。
 泣いて嫌だと言えばライアンは折れるだろうかとクインはちらと思い、そして強烈な嫌気に顔を歪めた。そんなのは泣き落としだ。それでは全く自分はライアンの荷物でしかない。
 自分は彼と対等になりたいのだ。彼に保護を求めることがどれだけ自分の負荷であるかを噛みしめているのも、彼に頼ることに居心地の悪さを感じるのも、その係累の感情だった。
「俺には価値があると、あんたが昔そう言った。もう一度、同じ事を聞きたい。俺には価値があるか」
 ライアンは黙っていた。沈黙は長く続いた。煙管を持つ指が何度も柄の部分を撫でるのを見ていると、やがて低い声が言った。
「ある」
 クインは大きく頷いた。だから、と言いかけたとき、ライアンが素早く遮った。
「だが、俺は賛成しないと言ったはずだ。クイン、お前が何も娼婦のような真似をしなくても俺が出来ることはしてやる、それで何故いけない」
「俺が望んでいたのは、無関係の他人を殺すことなんかじゃない! そんなのはいやだ、俺に価値があるっていうならそれで済むじゃないか!」
「―――誰かを犠牲にしながらでないと生きていけないのは当たり前だ、自分の見えない範囲のことなど考えるな」
「へえ? じゃああんたが犠牲にして踏み台にしたのはリァン・ロゥってわけ?」
 口にした瞬間にしまったとクインは顔を引きつらせた。それとライアンが思い切り側の小卓の足を蹴ったのが殆ど同時だった。大きな音にクインは一瞬身を強張らせ、そして怯んだことへの反射的な嫌悪でさっとあらぬ方向を見た。
「……リァンのことは、口出し無用だと、何度言ったら分かる……」
 ライアンの声は一層低く、掠れて途切れるようだった。これがライアンの胸奥に深くえぐり残る傷であると、知っていたはずなのに咄嗟に出るのは何故だろう。ライアンがリァンの死に深く傷付き、自分の追憶と胸に流した血の涙で溺れて死にたがっていたことさえ、見ていたはずなのに。
 3年前に同じようなことを何気に口にしたときは手加減なしに殴られているのだから、ライアンの反応はましになった方であるかも知れない。だが、未だに先のチェインの少年王の死をライアンが後生大事に抱えていることが癇に障る……
「ライアンは死んだ人間のことばかり見てる……」
 独り言のような呟きに、ライアンの方は黙り込むことで対話を拒否した。クインは暫くライアンの顔を見つめていたが、そこにあったのは普段と同じ無表情であった―――が、煙管をいじる指が、せわしない。
 自分の言葉は確実にライアンを強かに撲ったのだということは分かった。分かったからこそ、苛立ちも募る。3年前からそれは同じだった。誰からも特別に扱われることに慣れていたクインにとって、そうでない者もいるということが驚愕であり、侮辱でもあった。
 ライアンは彼が庇護し、庇う相手が欲しかった。それは自分でなくても良かった。ライアンにとってそれは誰であっても少年王の身代わりであって、それ以外の意味などなかった。
 だからあんなに苛立ちを覚えたのだろうかとクインは今更思い、唇を噛んだ。
「……いいよ、あんたは俺のことを好き勝手に守りたいってやつなんだ。俺はそんなのはいやだ。俺はあんたの付属物じゃないし手下でもない。俺は取り引きしたいと言ってるんだ、あんたにだって損な話じゃないのに」
 ライアンは返答をしない。黙って煙管の柄をいじり回している指先が、先程よりは落ち着いているのは彼も冷静に立ち返ってきているということであった。自分の言葉を吟味しているのだろうかとクインは時間を待ち、軽い溜息をついて寝台にぽんと座った。
 地下のじめついた空気がこんな時は溜まらなく煩わしかった。地下に潜るという言葉のいかがわしさを、文字通りに湿度の高さで肌に感じている。それが我慢ならないと思った頃に、ようやくライアンが重い口を開いた。
「何故、戸籍ではいけない―――かつてはお前の母親だってそうしたはずだ」
 クインは虚を突かれて目をしばたいた。
 それは、と呟いた瞬間に冷たい汗が駆け上がってくる。それきり言葉を見失ってクインは凍えたように固まった。
 自分が性別を偽りながらも学校へ行くことが出来たのは戸籍の賜物だった。母と自分を平穏に守ってくれたあの戸籍。偽名に使っていた少女の名が噴き上がってくる。その少女は一体どうしたのだろう……
 母さん、と低く呻いた言葉に自分でもはっとするほどの苦みが混じっていた。クインは意味もなく首を振り、そして長い溜息になった。母は戸籍の取引の内実を知っていたのだろうか。そんなはずはないと思いたいのは自分の感傷で、実際がどうであったか分からない。だが、知っていたとしても買ったかも知れないと思うと、胸が重い。
 母は疲れていたはずだ。流転の続く幼い日々に、母の恐れと怯えを敏に感じ取って自分でさえ酷く神経質だった。今でも根幹は変わっていない。自分の真実の姿がさらけ出されていないかどうか、どんな時でも冷めた意識が検証している。
 追われて流れて辿り着いた帝都は自分が皇帝の落胤であることを思えば敵中に飛び込むのとあまり変わらない。その時に自分たちを安全に守ってくれる戸籍がどれだけ眩しく見えただろう。田舎に行けば無戸籍は目立つ。帝都であるならさほどではないが、個人を特定する条件に無戸籍があるのならば、戸籍はどれだけ役に立っただろう。
 母は戸籍を買った。意味を知っていたかどうかはもう分からない―――聞くのも怖かった。
 長い時間をやりすごし、クインはようやく顔を上げた。ライアンは目を逸らさずに彼をじっと見ていた。その視線を正面から見るのが酷く辛く、クインは視線を下へやった。
「……でも、あの戸籍は……もう……撤回するわけに行かないじゃないか……」
 これが単に論旨のすり替えであり、言い訳であることをクインは承知していた。
 ライアンは黙っていた。それが彼の気遣いであることを承知して、クインは再び俯いた。それは哀れみとさほど意味が変わらなかったからだ。
 過去のことはいい、とクインは自分に刷り込もうと躍起になった。今優先しなくてはいけないのは他のことだ。誰かを犠牲にしながら生きて行くしかないのだというライアンの言葉も一面においては正しく、このタリアではより真実に近かろう。倫理観や世界観というものの認識の深い溝を埋めるべきは今ではなかった。
 苦い残滓を胸に噛みしめながらも、それを思考の隅へ追いやろうとクインは深く呼吸をし、ふり起こすように首をもたげた。
「だから、戸籍は要らない。何にしろライアンの負担になるのは分かってるけど、俺に価値があるというなら、少しは返せるはずだ。そうだろ、違う?」
 一瞬おいてライアンは違わないな、と苦笑し、煙草を吸った。
「……俺は賛成しない、と何度も言っているな。同じ事を今俺が言ったらどうする」
 クインはその質問に首をかしげ、ややあってから肩をすくめた。
「そしたら皇城で一騒動起こすしかないね……でもそこから足がついて母さんに何かあったら、俺は首を吊りたくなる」
 自分とよく似たあの皇子のふりをして中に潜入し、めぼしいものでも盗んでくるしかない。皇城の内部に関しては全く未知であったから、これは危険が酷く大きいとしか言いようがなかった。
 クインは自分がこの一点に関して酷く神経質だと言うことを承知しながらも、自分を追っていた者たちの影をみすみす踏む気がしてならない。皇位継承だとか立太子だとか、そんなことに興味はない。だがそれは自分の気を惹かないだけであって他人には違うのだろう。だからずっと追われていた。立太子が済むまでは安楽に構えたくないのだ。
 ライアンはそうかと頷き、煙管の灰を小皿に落とした。
「いいだろう。取り分は経費を引いた後の9と1だ。細かいことは俺に任せろ」
 それがあまりに唐突だったのと抑揚のない呟きだったことで、クインは僅かの間ぽかんとした。ライアンが煙管をいじりながら続けた。
「お前の事情は先に聞いている。最大限、出来る限りの配慮をしよう―――いつから出来る」
 最後の質問でようやくクインは顔を上げた。ライアンはいつもと同じように静かであった。いつでも、と返答したのはひどく長い一瞬の後であったようにクインは思った。微かに呼吸が乱れた後で強烈に喉が渇いてきて、唇をゆっくり舐めた。
「なん……だよ、急に反転しやがってさ」
 自分の動揺を苦く思う気持ちが責める言葉になってこぼれたことを、クインは自分で嫌悪した。ライアンはぬるい吐息を落とした。
「俺が幾ら嫌だ駄目だと言ったところで実際客と寝るのはお前だからな。それにお前の母親には多少借りがある。お前がそうしたいと言って俺が出来ることというならそれくらいしかないのも本当だろう」
 一宿一飯の恩ってやつ、と混ぜ返すとライアンは彼には珍しい温かな笑みを浮かべて曖昧に首を振った。それ以上を聞ける雰囲気ではなかった。クインがそれを混ぜ返さなかったことで話は終了したと取ったのか、ライアンは一際大きく煙管を叩いて立ち上がった。
「後のことは話が付いたら連絡しよう」
 話の時間は終わりのようだった。時計を見るとライアンが来てからまだ半刻もしていない。ライアンは大体の道筋の整理をつけてきたのだろう。
 結局ライアンが手を貸さないと言い張ったところで、自分も意固地に戸籍は要らない自分で金は稼いでみせると主張したに違いない。手間を省かれたのだとも思われたが、さほど駆け引きを好まないライアンの性質に照らせばそれも頷けた。
 火の消えた煙管を腰のベルトに差し込み、ライアンが椅子から立ち上がった。帰るつもりなのだと考えるまでもなかった。やや長身に属する身体が扉の前まで歩くのを見送りかけたとき、やっと声が出た。
 ―――大切な話は、実はもう一つある。
「頼みがあるんだ」
 絞り出したような声に、ライアンは視線だけを振り向けさせた。僅かに寄せた眉の隙間から、怪訝といった表情が見えた気がした。
「1万、俺にくれるんだろ? ……だったら……」
 そこまで口にしかけてクインは羞恥と気後れのためにすっと顔をライアンから背けた。
「だったら、何だ」
 ライアンの声が僅かに低く促した。うん、と頷くと耳朶がひどく熱い。かあっと血の気が上がってくるのが分かる。クインと更に要請されて、もう一度クインはうんと頷いた。
「だったら、その……あんた、ひ、暇な時でいいんだけど―――あ、いや、割とすぐにがいいんだけどさ……」
 言いよどみ、口ごもりながらクインは視界の端にライアンの姿を入れて、彼が煮え切らないことに痺れを切らして出ていこうとしていないかを確かめた。ライアンは僅かに彼に向き直ったようだった。そんなことくらいなら分かる。その仕種で続きをせかされていることも。
 クインはあのさ、と意味のない言葉を連ねて舌打ちをした。踏切が甘いのは覚悟が足らないからだ、という非難が跳ね上がってきそうになる。
 どうした、という声が程近くでしたことで、クインははっと顔を上げた。出ていこうとしていたライアンは今は彼の側にいて、彼の顔を覗き込んでいる。端正な顔が殆ど眼前にあるようで、クインは僅かに後ずさった。
 ライアンは彼の仕種が子供を怯えさせてしまったと気付いたのだろう、唇をゆるめて彼から離れた。ほんの少しだけ喉を空気が通るようになった気がして、クインは長い溜息をついた。溜息の最後にくくられていたように、するりと最初の言葉が出た。
「……あんたは俺が素人だって言ったよね―――俺もそう思う。キスのことだって、言われなければ多分今でも知らなかった……」
 あの瞬間の苦い怒りが微かに遠く、届かないところで海鳴りのように轟いている。それは何のためであったろうか。自分の幼さに嫌気がさしたのか、何も知らないのだとたかを括られていたことが腹立たしいのか、それとも―――
 クインは内側に閉じこもっていきそうな思考を振り切るように首を振った。
「だから、その……何ていうのかな、さ、最初の客になんないか?」
 死ぬような思いで吐きだした言葉の後、クインは俯いたまま目を閉じてはそっぽを向いた。ライアンの返答を待つ。
 彼の顔など見られない。
 たっぷりした、間があった。
「……何て?」
 ライアンの返答には肯定も否定も載っていない。どれかというなら呆気にとられているというのが正しいだろう。
「だからその1万で俺を買わないかって言ってんの!」
 吐き捨てるように叫ぶと、ぱあっと血の気が更に上がってきたのが分かった。ライアンの回答はない。面食らい、戸惑っているのだろう。それくらいなら分かる。何故、と聞く声も詰問ではなかった。まるで子供のように、ライアンは素直な疑問を口にしている。
「だから……俺が素人だって分かってる奴に、その……色々、教えて欲しいこともあるんだってば……べ、別にあんたじゃなくたっていいんだけど……」
「お前の秘密を知っている俺に秘密の分の担保にしろと?」
 思っていたことの大まかを指摘されてクインは頷くが、ライアンの顔はまだ直視できなかった。暫くして聞こえた溜息は長い。多分に呆れたような空気が含まれているのも錯覚ではあるまい。
「―――必要なことは客の方が面白がって教えるだろう。それでいいじゃないか」
「俺が嫌なんだよ!」
 叫んでからクインは顔を上げてライアンを睨むように見据えた。クインの突然の反目に彼は驚いたようにぴくりと眉を動かした。
「俺が嫌なんだよ、そんなのは! 素人だって分かってなめられるのも、面白がられるのも、全部全部嫌だ! 俺は主導権を取りたい、ライアン、どんな奴だったとしても俺が絶対に優位にいなきゃ嫌なんだよ!」
 誰かが自分を優位に操るなどということを考えただけでも胸が焼けるほど苦しい。それは屈辱ではなく、怒りのためだ。自分の心の作用は刺々しくなる方に突き抜けている。思い通りにならない苦しみや不快は苛立ちになり怒りに変わる。
 それは最終的に他人に投げた罵詈雑言が自分に返ってくるように、明確な作用といえた。クインは自分の心理について、根元は理解している。誰に対しても主導権を握りたい、好意を持った相手とは対等でいたい。その根は不安だ。いつでも傍らにあった、ひっそりと生活に影を落としていた、見えないためになお暗い闇。
 それはどれだけ自分の神経を細く、そして過敏にしていることだろう。クインはいつでも思考を重ねることで不安から逃れようとした。大丈夫だ絶対に平気だと熟慮の末に辿り着いた結論でも、それをひっきりなしに検証しようとしているのは確かだ。
 誰かが自分を好きなようにするのかと思うだけで、まともに立っていられないほどの不安に駆られる。その逆であれば自分は落ち着いていられる。誰であれ、自分を手玉に取ろうとするなら許さない……
 許さないと口の中で呟いた瞬間に、脳裏で逆巻いていた沢山のうねりがぽろりと頬を伝ったのが分かった。悔しくて。
 クインはそれを急いで拭う。泣き落としなどと思われるのは心底腹に据えかねた。
 ライアンは黙っていた。彼は元から無口だが、こんな時は何か言ってくれないだろうかと焦れたものを感じる。だが今、口を開くと何が飛び出してくるか自分でも良く分からない。分からないままにクインもまた沈黙するしかなかったが、ライアンが涙のことについて何も触れないことに安堵を覚えた。彼は自分を理解しようと努めてはいるのだとクインは思い、その思考でようやく溜まっていたものを飲み下すことに成功した。
「……あんたは、俺が、あんたたちのことなんか分からないだろうって思ってる……」
 涙の余韻で震える語尾を無理に押さえながら言うと、ライアンは一瞬おいて頷いた。それは自明だった。3年前から一切変わらぬ態度も同じ事を教えてくれる。
 クインは睫に溜まった残りの水滴を指で拭い、唇を笑うような形にゆるめて見せた。
「そして俺も思ってる、俺のことなんか分からないくせにってさ……ライアン、俺は、誰かが俺をいいようにしようとするのが嫌だ。他人の思惑に乗せられるのは絶対に嫌なんだ。身体を売ることなんてどうとも思っちゃいない、とは言わない……これでも一応高等教育ってやつを受けてるんでね、ある程度のことは刷り込まれてるからさ―――でも、嫌なことにも順位がある。俺が一番嫌なのは、俺の意志を無視して俺を好きにしようとされることだから……」
 ライアンは身動きせず、じっと彼を見つめていた。自分の奥を透かされるような気後れと怯みにクインは一瞬目を閉じ、怯んだことを自分で苦く感じて視線をライアンに戻した。
「だから、俺は―――俺は割とあんたを信用してる。3年前に俺を何故助けてくれたのかは知らないけど、その事実だけで、その後のことも含めて十分だったから……だから、俺はあんたに頼みたいんだ」
 言葉をようやく切って、クインはライアンを見つめた。
 ライアンはやはり瞬きもせずに彼を見ていた。緑の瞳の奥に自分が映っているのは見える。だがその更に奥で彼が何を考えているのかは計り知れなかった。突飛な言いだしだと分かっていても、結局クインの要求を満たす相手として資格があるのは事情を知っているものだけだ。
 ライアンは担保という言い方でそれを表現した。説明しなくてもいいことが少ないとほっとする。必要だとしても口に出すことに踏ん切りがいることもあった。
「……俺が拒否したら?」
 ライアンの声が低く尋ねた。クインはさあ、と首を振った。
「分からない。でも……」
 未知の物に対する怖れも、怯えも、否定はしない。ただそれを見知らぬ他人に見透かされるのが嫌なのだ。帝都へ帰還したあの晩に、路地裏でされたような屈辱はもう沢山だった。
 クインが口ごもりながら語尾を濁したことで、ライアンは溜息になった。だがそれはそう長いものではなかった。彼は一瞬ぎゅっと眉を寄せて渋面を作ったが、呆気なく頷いた。
「分かった。ではお前の担保というのをもらっておこうか」
「―――いいの?」
 クインは不思議にライアンの面持ちを眺めあげる。暗い地下の部屋で、灯りから遠い位置にあっては微妙なところは良く分からなかった。
「お前を暫くは飼わなくてはならない。躾は飼い主の義務―――というところだろう。いい、俺も……そうだな、客の下で泣きわめくお前よりはその方がいいと思う」
 クインはゆっくり頷き、言うべきことを全て終えた安堵のための眩暈に僅かに均衡を崩した。半歩下がって長い吐息を捨てていると、ライアンがまた、と出ていこうとした。クインは顔を上げる。まだ具体的な話は一言も進んでいないのだ。
 それを言おうとした瞬間、ライアンが振り返った。
「戸籍の撤回のこともあるし、上客の選別もある。2、3日は何もしなくていいから身体を休めておけ。……長く暮らすにはここは環境が悪い、新しい部屋へ移る用意をしておくように」
 クインは頷いた。それに素っ気なく頷き返してライアンが出ていくと、部屋はやっと静寂になった。
 膝から力が抜ける。その場に座り込みながらクインは僅かに身震いし、そして自分の身をしっかり両腕で抱きしめた。
 あの晩の男の執拗な愛撫が払っても払っても蘇ってくる。意識が半ば朦朧としていたせいだろうか、肌に直接ねじ込まれたような刻印は記憶の底に沈めようとする度一層鮮やかであった。
 ライアン、と呟く。信用だとか、そんな話ではない。結局自分にとって心許せるといっていい人間は母と、チアロと、彼しかいない。それしかないのだと、分かっているからこそライアンを無理矢理巻き込もうとする自己がひどく厭らしい生き物だと思った。

 帝都の夜空に花火が咲いている。6月は祭事が多い。北寄りの国々では待ちかねた、短い夏を楽しみ昇華するために沢山の祭事がおかれている。初夏シタルキアにおいて最大の祝祭は始祖大帝の生誕祭であろう。始祖大帝の生誕の日付は実は不明なのだが、6月の末日を最終日として3日間帝都を華やげてくれる。
 縁日、見せ物、それに滅多にはない皇族の臨席、貴族の子弟達の仮装行列―――
「聖祖大帝ってどんな方だったんでしょうね?」
 山車の上に座りながら、きつい帯のせいで苦しく先程から呼吸をしている弟にリュース皇子はさあ、とゆるく笑った。
「記録はあんまり信用できないからね……知りたければ父上の跡を継いだらどう?」
 皇帝にしか代々伝授されていかない秘密もある。それがどんなものか想像もつかないが、大量に神秘的なものも混じり込んで、一種嫌悪さえ抱くようなおどろしさを醸していた。秘伝、秘宝、秘画に儀式。
 皇子の返答に弟は途端に厭な顔をした。
「僕、勉強ってからきしだから……兄上の方が絶対向いてると思うんですよね」
 弟の言葉にリュース皇子は苦笑した。自分が立太子に一番近いことは知っているが、母の違う弟が2人いる。第1皇子は自分だが体の弱さを引き合いに出されれば苦しいだろう。
 が、異母弟たちとて憎くはない。彼らの母は宮廷の華やかさが苦手で、次男を出産した頃から帝都郊外の静養地、ロリスに引き込んでいる。帝都よりは遙かに自然の豊富な環境でのびのび育ったせいなのか、2人とも非常に素直で明るい性質だ。
 ライン皇子がまたふう、と苦しい呼吸をついた。もう千年以上も昔に滅びた漢氏という少数民族の民族衣装は裾が長く、帯がきつく、それを幾重にも捲くために傍目にも苦しげだ。リュース皇子も同じような格好であるが、明確に2人の衣装には差があった。
 自分の衣装は右肩を脱いでその上から漢氏様の甲冑を被せてある。刺繍も縫いの糸も全てが燃えるように赤い。これは建国の功臣、イダルガーンの扮装である。
 そしてラインの方は同じような赤い衣に金糸銀糸で細かく刺繍の入った打ち掛け、沢山のかんざし、施された化粧、刺繍は蘭の花の図案。これは始祖大帝の皇后であったラファーナ妃を模している。ラファーナ皇后の逸話として最も有名なのは「オレセアルの緋天使」としての救世伝説で、剣の名手として名高い。ラインは先の少年剣術会での優勝を受けて、この仮装行列の後の剣の模範演武までを担当するのだ。
 同じ漢氏の衣装でも、女物の方が格段に身体にはきつかろう。そんな状態で剣の型の披露をするということで、ライン皇子はここ暫くそれに引き合わされていたが、天性の勘があるのか昨日最後の練習を覗いたときは流麗な動きであった。
 ふう、とまた同じような溜息を弟がついた。リュース皇子は小さく笑い、弟の胴をきつく締める帯の隙間から、数本隠し紐を抜いてやった。抜いても差し支えない部分の紐だから構わないだろう。少しは楽になったのか、ライン皇子はにこりと笑う。そうすると扮装のせいもあってか少女のようだった。
 その笑顔に見せられたのか、歓声が上がった。適当に曖昧で反感を持たれない程度の微笑みを振り分けながら、リュース皇子は弟に手を振ってやるように囁く。他の高位の貴族の子弟達も華やかに笑顔を振りまき、聖祖大帝とも呼ばれる建国者の時代を模した仮装行列を盛り上げることで熱心だ。
 頭上で光の花の咲く音がする。つられたようにライン皇子が見上げ、素直に笑顔になった。刹那炸裂する光に照らされて、弟の頬が微かに反射する。
 花のようだと讃えられる自身の美貌とは少し異なるが、同じような女性系の顔立ちは似たところがなくもなかった。今の自分の年齢と同じくらいになればきりりとした少年のようになり、いずれは瀟洒で華やかな宮廷貴公子となるだろう。その時自分が皇帝であろうがなかろうが、こうして幼い日々に密な閉鎖空間を持つことがきっと良い方に作用する。弟の気性からしてそれは確定に思われた。
 仲の良い兄弟であることはいずれ、何かの武器にもなろう。ましてリュース皇子は元来が虚弱で、戦向きのことが出来にくい。軍学として用兵や戦略を学ぶことが出来ても、実際戦場にたてるかどうかは微妙なところだ。ライン皇子はそれを補完してくれる存在となるに違いなかった。
 ライン皇子は花火に見とれたり沿道に詰めかけた群衆に手を振ったりで忙しい。それを微笑ましく見守りながら、リュース皇子は自分も同じように軽く手をあげて愛想を振りまいた。
 視線を投げかける度にその周辺が熱を持つのが嬉しいようでもあり、それが自分という個人へ向けるものでないと知っているから複雑でもあり、だがあまり小難しく考えることでもないと思うこともあり、リュース皇子はただ意味のない笑顔だけを零すことに専念している。
 沿道の人群れをさらりと流した視線が、ふっと引っかかるように戻った。何かを見た気がしたのだ。とても懐かしい、何か大切なものを。
 その感触を確かめるように、ゆっくり進む山車の上から皇子は視線を流し返した。ふと何かを掠め、気付いて戻り、そうして焦点を絞ったその瞬間。
「あ……!」
 皇子は思わず腰を浮かせて振り返った。彼の珍しい動揺に、周囲の人垣が触りと蠢く。それが決定的な違和感になろうとした刹那、人々の波間からくるりと背を返す細い身体があった。
 待って、と叫ぼうとしてそれを思いとどまったのは3年前の苦い記憶が蘇ったからだ。
(逃げるんだね)
 自分の不用意な言葉で蒼白となったあの顔。間違いがない。人目を引かないように髪を……染めているのかかつらなのか良く分からないが金色にして編み上げ、当時と変わらぬ少女の様式に身を擬態しながらこちらを見ていた。
 名前も知らぬ、あの「少女」。帝都にまだいたのか、それともどこかから戻ってきたのだろうか。いずれにしろ、間違いなく自分を見に来たのだと皇子は確信した。自分や弟がこの仮装行列に参加することは前もって告知されている。そのせいもあって沿道は凄まじい人だかりだ。
 その中から見つけた奇跡に皇子は笑った。これは本心からこぼれてくる、安堵と嬉しさのためのものであった。皇子の晴れやかな笑みに一層周囲が歓声を上げる。それに上の空で手を振りながら、皇子は群れを抜けて流れに逆らって泳いでいく、美しく伸びた背筋を見つめた。
 背は良く伸びている。以前から背格好は同じ程度であったが、今もそれは変わらないだろう。少女としては既に長身という部類にはいるほどに背丈はあるが、細身の印象が強いためにすらりとしたしなやかさだけが目に残る。
 3年前に見失ったときにも卓越した美貌であったはずが、再び目にすれば一層鮮やかであった。その場だけ、空気の色が変わるほどに。多分彼は自由に生きているのだろうと皇子は悟った。一目見たときの印象があまりにも違う。
 良かったと僅かに唇を綻ばせていると、ようやく人垣を抜けた彼が振り返った。皇子はそっと視線を彼にまっすぐあてた。彼もじっとこちらを見ている。
 まさぐりあうようなもどかしい一瞬の後に、瞳がかち合った。夜といっても沿道の灯りで昼間ほどに明るい大路では、全く同じ色の瞳が見て取れた。
 皇子は彼に笑いかける。単純に、皇子は再会が嬉しかったのだ。だが彼の方は反応が違った。一瞬何かに撃たれたように頬を痙攣させ、そして顔を歪めて隣の男に何かを言った。
 それで初めて連れがいることに皇子は気付いた。年齢の頃はそう変わらないだろう少年が一緒だ。背は随分と高いが顔立ちが幼さの片鱗を残している。
 少年が「彼」の肩をぽんと叩いて背を返す。それを追うように身を返して、彼は振り返った。こちらを見つめてくる眼差しは、色味が複雑すぎて明確な名を付けられない。
 憧憬でもない。再会の喜びでもない。帝都から追い出したのだという元凶を憎しむ目でもない。
 どれかというなら、と皇子は路地に紛れて消えていく背を見送りながら思った。あの僅かに痙攣した頬の種類は、切なさだったかもしれない。哀しげであったかもしれない。それは単純な理屈ではなく、彼が皇子に対して複雑な思いを抱いていることの証明の気がした。
 ……だが、何のための? 皇子は僅かに顔を曇らせる。兄上、というライン皇子の声に気付いたのはその時のことだった。
「そろそろ城へ入りますから、立って歓呼を、って」
 仮装行列もそろそろ終幕というわけであった。山車の上で皇国万歳を叫ぶ民衆に応えながら、皇子は彼の消えた方角を目で追っている。帝都にいると分かっただけで胸が温かになった。
 探そうという気はなかった。彼が皇子を恐らくは自分の意志で見に来たことで、そして憎まれていなかっただけで十分であった。皇子と話がしたいと思うなら、幾らでも方法はあるはずだ。例えば中等学院だとか。今年の冬には卒業ということになっているが、自分がまだ在籍していることは知っているはずだから。
 やがて山車が完全に城の内部へ入ってしまうと、皇子は弟と共にそれを降りた。ライン皇子はすぐに演武が始まるため、簡単に着付けを直して最後の練習にと借り出されていく。皇子は着替えをするために、控え室の方へ足を向けた。
 皇族用の控え室には皇子の母がいた。父帝は見えない。他の儀式があるのだろう。始祖大帝の遺産と呼ばれるものは沢山ある。それらをいちいち確認するような儀式はうんざりするほどあった。
「あら、終わったのね、リュース」
 母が微笑む。ええ、と頷いて衣装の裾を踏まないように気をつけながら皇子は母の隣へ座った。侍従がすぐにやってきて、彼の衣装をいくつか手早く見せていく。その内の一つを適当に指定し、合わせた他の衣装や装身具を揃えるために侍従が下がると彼は甲冑の紐を解いた。本物ではないからそれは殆ど繊維で出来ていて身体に負担はないのだが、やはり開放感はあった。
「ラインの演武が始まる前に着替えますから、一緒に行きましょう、母上」
 そうね、と母妃は笑って頷き、皇子の頬をゆっくり撫でた。そんな風に母に触れられるのは本当に久しぶりで、皇子は嬉しくなって俯く。ラインのように満面で表現できないのは性分であったが、それでも彼の顔がほころんだことで母もまた、にこりと笑った。
「演武が終わったら花火のいいところが残っているから、高演台にでも行きましょうね」
 皇子は他愛ない約束に微笑んで頷く。母と持てるゆっくりした時間を、皇子はとても貴重に感じていた。
 やがて侍従が戻ってくると、先に結い上げて飾り羽をさしてあった髪を解きほぐした。きつくあげられていた髪の根本が弛むと同時に痛む。微かに顔をしかめてこめかみを押していると、母が隣で呼吸を呑んだのが分かった。
「……母上?」
 皇子は不思議に母を見つめる。母妃は一瞬泣き出しそうな顔で頬を歪めたが、すぐにそれを取り繕った。が、慌てて浮かべた微笑はぎこちない。何か、信じられないものを見てしまったという顔をしている。
 母上、ともう一度皇子は呼びかけた。皇妃は僅かに首を振り、何でもないのよと笑ったが、それが嘘であることは考えなくても良かった。怪訝な感触に皇子が戸惑っているのを配慮したのか、母はいいのよと重ねて笑い、皇子の手を取った。
「妹の子供の頃に似ていたから吃驚したのよ。あの子もとても美人だったから……」
 そうですか、と皇子はそれに異論を唱えなかった。母方の叔母は十九の時に亡くなっている。写真を見たことがあるが、確かに母や自分と共通する繊細で端麗な美貌の持ち主であった。
 ともかくお召し替えをといわれ、皇子は控え室を出る。衣装室で漢氏様の仮装を脱いで新しい衣装に袖を通していると、目の前に鏡がおかれた。髪の手入れを始めるのだろう。
 視線を鏡の中の自分に与え、そして皇子もまた驚愕して声を挙げた。どうしました、と侍従が聞くのに首を振り、今度はゆっくりと鏡に映る姿に目を走らせた。
 髪は漢氏の扮装用に黒く染めてある。きつく高めに結い上げられていたせいで、下ろされた髪は僅かに波打ち、皇子の形の良い頬を縁取っては流れ落ちている。仮装の際の見栄えを考慮して、ラインほどではないにしろ施されていた化粧が唇に華やかな色として残っている。
 まるで少女のような姿。
 3年を経て見失った少女が鏡の中から戻ってくるようだ。
 皇子は他人がひっきりなしに賞賛することに殆ど無関心で、自分の容姿には無頓着であった。3年前も美しい少女だと思った。だが、それは印象だけで顔立ちの明確な刻印ではなかったのだ。
 だが、今ならはっきり分かる。自分が最初に中等の教室に入っていったとき、教室を包んで鳴り止まなかったざわめきの意味でさえ。
「似てる……」
 皇子は呟いた。似ている。自分たちは鏡に真向かうようにそっくりだ。髪を黒く染めて印象が変わったことで初めて気付いた―――
 そして皇子は僅かに振り返り、いや、とすぐに首を振った。自分を見つめる視線に何が籠もっていたのかは分からない。……彼の方は自分たちの相似について知っているのだろうか。
 探したい、と皇子は思った。今までの何よりも強く、そう思った。
 水滴が跳ねた音が、狭い浴室に響いた。浴槽の中で膝を抱えていたクインは物憂く顔を上げ、完全には閉まっていなかったらしい蛇口をぎゅっとひねった。金属のこすれる感触が、手の平に痛い。
 のろのろした仕種でその手を浴槽に戻し、再び同じ姿勢に戻る。前と違うのは顎を膝に乗せたことだけだ。張った湯は既に熱を失いかけ、出ていくのに勇気がいる。
 ……クインは微かな溜息をもらして瞬きし、浴室の換気窓を見た。一瞬の閃光が窓を光らせているのは城を中心にあがる花火だろう。
 クインは城か、と呟いてゆるく首を振った。何故見に行ったのだろう。……行きたいなどと言ってしまったのだろう。後悔ばかりだ。
 埋もれるほどに花を飾り、美しいリボンを結び、静やかに進む始祖帝の故事に倣った仮装行列は馬鹿馬鹿しくなるほど豪勢だった。一際歓声の上がる山車は遠目からもすぐに分かった。近づききれず、遠くなり過ぎるほどに離れられず、中途半端な距離の人垣の中でじっと山車を見ていた時、自分は何を考えていたのだろう。
 漢氏の扮装のせいで黒く染めた髪は、いつか自分がしていたのと同じような艶やかさだった。大衆に合わせたような微笑みも、きっと過去の自分とよく似ている。改めて見つめれば、似通った部分ばかりが発見できた。
 きっと入れ替わったって誰も気付かないだろうに。あそこにいるのが何故自分でないのだろう……
 妬みというわけでもなく、憧憬というものでもない。ただ自分がきっと永久に手にしない、だが権利はあったはずの輝きを見せられては胸が痛かった。
 皇子は相変わらず彼と同じ顔立ちをして、そしてずっと無垢に美しかった。手入れされた肌やよく磨かれた爪などは付属物に過ぎない。誰をも寄せ付けない輝きを、本人は殆ど意識しないままに放っていることがたまらなく眩しい。涙が出る。
 皇子が自分を見つけて笑ったことも、一瞬巻き起こった激しい怯みのために思わず逃げてしまったことも、全てが哀しく思われた。皇子は悪くない。いつか彼が逃げていくのを見ないふりをしようといってくれた言葉の通り、今でも彼を庇ってくれるつもりでいる。
 その慈悲。憐れみ。そんな言葉を思う度に腹の底から噴き上がってくるようなものがある。双子でありながら片方は城で大切に跪かれ、片方はタリアの奥の汚いアパートで子供自体との永訣を決める瞬間をどうしていいのか測りかねて震えている……
 クインは顔を歪めた。誰が悪いと声高に訴えることが出来れば楽だったのに。あの皇子の微笑みさえ辛い。同情なんか欲しくないのだと斬り捨てることは簡単なのに、理性はそれを捉えているはずなのに、納得させきれないものが残る。
 過去にどんな理由があったかは知らない。だが今自分がここに、皇子が城にいることは確かだった。山車の上で隣にいた蘭芳皇后の扮装の少女は弟のライン皇子だろう。皇族の隣に同位置で座ることが出来るなら限られてくる。
 あそこにいて、弟皇子と微笑みを交わしていたのは自分だったかも知れないのにと思うことを止められない。
 何故、何故、自分ばかりが不幸の籤を引くのかと何かにたたきつけたい衝動を止められない。
 そして、それは誰のせいにも出来ないからこそ、自分の中に跳ね返ってくる。
(誰かを犠牲にしなくては生きていけない)
 ライアンの言葉に反発を覚えたことさえ巧妙な偽善に思えてくる。
 クインは舌打ちした。狭い浴室にそれが殷々と響いた。また一瞬の閃光が窓の向こうで輝き、やがて遠雷に似た音が微かにした。それが合図だったかのようにクインは身震いをした。肩の辺りまで深く温い水に浸かった肌は既に水気でふくらと柔らかになっている。いい加減にここから出て、寝室に行かなくてはいけないと分かっていて、足が竦む。
 水から上がりかけては寒いと呟いて戻ることを繰り返している。陥没にはまって上がれなくなった獣みたいな真似だとクインは皮肉ぽく口元を歪めてみるが、あまり面白くなかった。
 長い溜息を落としながら、クインは浴室の窓をずっと見ている。花火が断続的に初夏の夜空を照らしているのをここで見終えるほど時間を潰す気はないが、だが現実、湯から抜けて部屋へ行くだけの勇気がない―――寒いから、とクインは呟き、唇を軽く噛んで額を膝に押しあてた。目の裏が熱い。
 いっそ、早くしろと呼んでくれたらいいのに。クインは歯を食いしばって嗚咽を飲み込みながら、ライアンの冷淡さについて一瞬激しく憎み、そして彼の正しさに苛立った。まだ機会はあるのだとライアンは言外に告げている。彼が自分の言った担保を受け取ると承諾したのには、この最後の機会を与えることも含まれていたのだろう。
 ライアンの考えは分かっている。彼は自分を手持ちの男娼にすることには乗り気でない。今でも。クインが怖じ気づいてやめるというのを待っているのだ。頭でしか痛みを想像できない他人のことよりも自分に起こる出来事の痛みを優先しろと、言っても分からないなら感覚で判断しろと迫る、そういうやり方だ。
 ライアンは正しい。クインは温い水で目元を微かに洗いながらそれを思い知る。
 自分がまだ子供で攻撃的なのは不安だからということさえも見抜いている。不安でなくなれば少しはましになるだろうか。……子供でなくなれば、もう少しはましになれるだろうか。
 無垢という言葉の意味をさほど深く考えたことはなかったが、この夜を境にして別のものになるということは永遠の無垢からは見放されるということなのだ。
 そしてあの城に入るには、無垢であることが相応しく、そして絶対条件であるように思われた。
 もう二度とあの場所に行く資格さえなくすような気がしてたまらない。来るなと言われているようで居たたまれない。自分の帰る場所を、最後に行き着くべき場所を、その門を潜る資格を自分で手放そうとしている。
 クインは顔を歪めた。
 何故という憎しみだけが、誰に向けても間違いだと分かっている憎悪が、頭の中を散々走り回っている。
 美しい扮装。綺麗に整えられた衣装、染められた髪、磨き抜かれた爪の淡い色。
 その全てが、憎い。憎い。憎い。
 何故。何故。何故。
 何故、俺なんだろう。何故、皇子ではないのだろう。何故、俺じゃなくちゃいけないんだろう。何故、何故―――
 僅かに首を振ると、水面に映る花火が目の奥を焼いた。
 憎んでやりたい、呪ってやりたい、口汚く罵り引き据えて、自分をいずれ買うだろう客達の前に放り出して目の眩むような絶望に食らいつくされてしまえ―――それが何故、俺でなくてはいけない!
 何故、と呟くと一度は沈んでいった涙がまたこぼれ、顎から落ちた。僅かな波紋がゆらりとのたうつ。
 自分は汚い。自分の不服従を誰かのせいにしたくてその相手が見つからないのを、皇子に被せて憎しむことで釣り合いを取りたがっている。必要なのだと分かっていても、身体が動かない怯懦をも、憎い。それも皇子のせいにしたいのだ。
 どれだけ理不尽かも知っていて。
 皇子は十分自分に優しかった。事情など何も知らなかった故に、あれほど直截な聞き方をした。それを憎いと思ったことは今までなかった。皇子の指摘がなければ気付かなかった瑕疵がある。あのまま魔導実験にまで進んでいれば、破滅は明らかであった。
 理性では分かる。十分に。だが、今自分を支配しようとしているのは衝動であり、衝動は感情の突端、心の真奥の反射だ。嫌だ嫌だと泣き叫びながら、他人が自分のために苦難を浴びることを肯定したくなる。
 そしてそれは完全に自己の言葉と矛盾であった。取るべき道が一つであることは帝都に戻ってきたときから分かっていた。自分で考え、自分で決めたことを守れないなら、自分の意志なんてないのと同じだ、とクインは僅かに頷く。その新しい考えは、やっと自分を納得させうるものに近かったのだ。
 ぴちゃんという音が、もう一度した。蛇口はやはりよく閉まってなかったらしい。クインはゆっくり腰を上げ、きつく蛇口をひねった。僅かに軋む音がして、水はどうやら完全に止まったようだった。
 それをきっかけにしたようにやっと足が出た。長く、もう殆ど水と言っていい温度になっている湯の中にいたことで、やはり肌がいっぺんに冷える。反射的に身震いし、クインは浴室から出て手早く身体の水気を布で拭くと、一瞬迷ってから夜着の長衣を被った。釦を止める指先が細かく震えている。
 その作用を、もうどうこう誤魔化す気はなかった。クインは眉をひそめて笑い、やはりライアンに頼んで良かったと自嘲と共に安堵した。怯えている自分を知るのは彼だけだ。彼が黙っていてくれればそれで済む。それにライアンはチアロのように喋り回るのが得意ではないのだから。
 ライアンは寝台に登って高い位置の窓を開けていた。何かと思えばそれは煙草の煙を逃がすためであるらしい。初夏の夜はさほど寒くないのだろう、上半身は既に全て脱ぎ捨てて、ゆるいズボンだけだ。
 右肩に、一目で分かる深い傷の痕跡があった。クインがそれに目を留めたのに気付いたのか、3年前にな、と薄く笑う。
「完全に直っているから気にするな。目に触るようなら見ないほうがいい」
「直ってる割には傷は残ってるんだね」
 驚くほどすんなり声が出た。さほど声が強張ったりしていないことにクインは強く安堵した。
 ああ、とライアンは軽く頷く。カレルが面白がって傷をいじり回したからな、と前タリア王の名をあげながらの彼の声は苦笑気味だ。
 そう、とクインは微笑み、寝台にすとんと座った。彼が引かない姿勢なのを見て取ったのかライアンは微かに眉を寄せ、すぐに元の無表情に戻って煙管を窓枠に軽く打った。灰を切るのだ。
「写真、そこにある内から好きなのを選べ」
 ライアンが軽く顎で示す小卓に、幾枚かの写真があった。
 少女の扮装と少年の格好の2種で一昨日チアロが撮ったものだ。写真という容姿を形残すものへの反射的な嫌悪はあったものの、客に見せるのに必要だからといわれれば頷くしかない。後はライアンやチアロが写真を他人の手には絶対に渡さないといってくれた言葉を信じるしかなかった。
 どれもそう写りは良くないが、ライアンに言わせるならその方がいいらしい。チアロが客の約束を取り付ける時に有利に運べるからと言われて良く分からないまま頷いた。いずれにしろ、クインはそちらには疎いことを自分で承知している。
 ライアンがようやく煙草を終えて窓を閉めた。
 10日ほど前にライアンが宣言したように、クインはチェインよりはやや外れた場所のアパートにいる。周辺は安い飲み屋や賭場などがぽつりぽつりとあるような、タリアの中では閑散とした地区だ。
 チェインに置くとライアンの目が届く代わり、少年達の目に付くと敬遠された。ライアンは堂々たる少年達の王だが、彼の特別扱いという位置は諸刃の剣だ。厚遇もされるだろうが危険も増える。
 このアパートには他の住人がいないのもよかった。前タリア王の残党の根城であったというここを、彼らを狩った報酬にライアンがアルードにねだったのだとチアロが言っていた。後でライアンも似たようなことを言っていたから、多分それは本当だろう。
 地下から例の地下水路へ降りることが出来るし、水路はタリア中へつながっている。ライアンがアルード王にねだったというならその辺りを考えているのだ。
 好きな部屋を選べと言われて最上階にしたのは、今し方ライアンが喫煙のために開けていた窓から遠く魔導の塔と、その更に向こうに皇城が見えるからかもしれない。白く輝く光の色のような城壁を見た瞬間に、この部屋がいいと口にしていたのだから。
 選別した写真を渡すとライアンは頷き、他の写真に火をつけた。灰皿の上で身をよじるようにめくれ、瞬く間に黒い塊になっていくそれをクインはじっと見つめる。写真に対する嫌悪を考えてくれることを有り難く受け止めながら。
「……やめるかと思ったが」
 ライアンの方も何かを思ったようで、そんなことを言った。クインは僅かに笑ってみせる。それは思っていたよりもずっと晴れやかであったように思われた。
「止めたって何も変わらないよ……」
 口にしながらそれが真実であるようにクインは思った。
 ライアンは僅かに首をかしげ、それから水差しを傾けて灰皿の上に残る僅かな火種を完全に消した。水差しを戻すそのままの手で、クインの手首を掴んで寝台の上に引き倒す。
 それがいかにも唐突で、クインは慌てて待って、と遮った。ライアンは少し笑った。
「止めるか?」
 からかうような素振りが滲む口調にクインはライアンを軽く睨みあげ、そして違う、と首を振った。
「そうじゃなくて……あ、灯り、消してよ……」
 何か理由に見えるものを探して口走った言葉に、ライアンはああ、と素っ気なく応じた。自分の手首を掴んでいた手が離れ、寝台のすぐ脇に置かれていたランプの灯火が簡単に消える。
 ふっと夜に沈んだ部屋で、クインは微かなライアンの吐息を聞いたように思った。
 店の少ない路地近いアパートでは、窓からの明かりは殆どない。月はあるだろうが、今は建物の影になっていて光は射さない。いくら目を凝らしても、ライアンの表情はだから読みとれなかった。
 寝台に引き倒されたままの姿勢で背を預けていたクインは、居心地悪く身体をずらした。どうしていいのか本当に分からない。何か言うと支離滅裂になるのは自明に思われたから殊更、黙り込んだ。
 ライアンが今度は正真正銘の溜息をついた。何を待たれていたのかを知っても、声高に非難する気にはならなかった。それが非難に値することなのかどうか、クインには判断が付かない。
 身体の方は既に震えが止まっていた。深いところで観念してしまったのか、すとんとした脱力で湯船の中にいたときより余程呼吸が正しい。あとはライアンがしたいようにすればいいのだという諦観と、彼ならそう酷いことは強いまいという安堵がやや自分を落ち着けている。
 ライアンが唇を開いたような気配がした。黒い空間の中で、全ては気配であった。クインがじっと彼の顔の辺りを見上げると、ライアンは僅かに首を振り、そして頷いたようだった。
 ライアンの影が動き、彼の指が自分の頬に触れた瞬間、撥ねるように迫り上がった動悸をクインは聞いた。自分の耳元で、自分の心臓の音が激しく聞こえる。
 それに追い立てられるようにクインは目を閉じ、深く呼吸をした。その音と鼓動だけが世界に満ち満ちていく。閉じた瞼が痙攣している。噛みしめた唇を呼吸のために僅かに開き、長い溜息が震えていたような気がして左手で口元を押さえた。
 そのまま呼吸を整えようと何度か肩でそれを均していると、他人の指が自分の胸の位置にある釦を外すのが分かった。微かに肌に触れる衣の動きさえ、いちいち気に掛かる。
 鳩尾のあたりまでをはだけ終えた指が、何かを辿るように探すように、ゆっくり上がってくる。喉に指が触れる。込み上がってきた吐息を逃がそうと背をよじると、ぽろりと頬を伝うものがあった。
 それを空いていた右手でそっと拭い、クインはその右手をライアンの方へ伸ばした。何かに闇雲に縋りたい瞬間であったかも知れなかった。指先に、彼の体温が近くなる。だが、それを感じた瞬間にクインは手を引いた。そんなことをして得られるのはライアンの同情だけであると思ったのだ。
 どこへやるか困惑した手を迷っていると、指の間にするりと彼の指が入り、組合わさるようにして頬の横の辺りへ落とされた。
 掌の熱。体温と、微かに感じる脈。
「ライ……」
 クインは何かを言いかけた。何を言おうとしたのか、良く分からない。
 ―――その瞬間、不意に白い光が部屋を照らした。驚愕でクインは反射的に跳ね起きた。何があったのか、理解できなかったのだ。
 一瞬の後、低い轟音が遠くから聞こえた。花火だ、と理解するのに少しかかった。この祝祭の日の終わりを告げるべく、皇城からあげられていた花火の最終幕が始まるらしい。最初の閃光を皮切りにしたように、次々と光の花が空に咲いては消えていく。
 ライアンがするりと重ね合わせた手を離し、花火だな、と呟いた。そうだね、とクインは淡く返答し、寝台の上に起きあがった。前だけが空いた衣の隙間から入る夜気が肌を僅かに冷やす。
 そしてそのまま2人、黙ったまま夜空を見上げた。
 窓の向こうに鮮やかに展開する明るい世界を眺めている間、決別の言葉をそれに投げかけている間、クインはじっと花火のちょうど真下辺りにいるはずの、兄のことを思った。
 兄のことを思い、見知らぬ母のことを思い、そして自分を連れていた母のことを思った。
「……綺麗だね」
 クインの呟きに、ライアンの吐息のような肯定が返った。
 視界の中に四角く切り取られた窓、窓の向こうの夜、夜の上に乱舞する光たち。瞬き、消え、開き、名残と残像を残し、再び上がっては黒空に描き出される沢山の花。あの下にいる彼らと今、同じものを見ている。いる場所は違っても。
 そんなことを思うと泣き笑いのような、微妙な表情になった。ライアンの方を横目で窺うと、彼はそんなクインの様子を知らぬふりでじっと夜空を見上げていた。
 ……あるいはそのふりをしてくれていた。どちらでも良かった。今、声をかけられたら、浴室で憶えた憎悪のことを、思い出してしまいそうだったから。
 クインは視線を花火に戻した。美しいものを見ているときだけは、全てを忘れて没頭していられた。何故自分がここにいるのかという疑問も、取り返しのつかないことへ踏み出そうとしている恐怖も、全てが光の中に紛れて消えてしまう気がした。
 次々と連続して打ち上げが続くならば、幕切れは近い。今頃帝都は祝祭の歓喜の中にあって一際華やかな熱狂を享受しているだろう。明日の朝になればその余韻だけが残っている一過性の、だが確実な快楽が皇城の下から広がり、道と人々を満たしている。
 そして自分もまた、闇という部類の祝祭を通過しようとしている。熱と痛みを享受しながら。
 クインは軽く頭をうち振り、ライアン、と呼んだ。花火をじっと見つめていた男はクインを見返した。それは彼が見た中で一番落ち着いて穏やかな表情であった。それに酷く強い安堵を覚えながら、クインはもう一度ライアンと言った。
「……花火が終わったら……さっきみたいに、手……重ねてて……」
 体温があるだけで随分と鼓動の早さが違う気がした。本当は手ではなくて唇の方がいいのだと言いかけ、クインは自分の感傷気味なことを苦く笑った。ただ、最後に唇に残っている記憶があの男のものであることが、気に入らない。が、ライアンに告げてもそれは是と言わないだろうと分かっていた。
 クインの言葉にライアンは頷き、どうしても変わらないか、と尋ねた。クインはうん、と僅かに微笑んで返答し、花火へ視線を戻した。
 光花の饗宴は一層たけなわで、夜空全体が太陽に煌めく海のようにさえ見える。
「クイン」
 ライアンが唐突に言った。
「お前が担保にしたものの代わりに、俺の真実をやろう。お前には嘘をつかないと誓う」
 クインはライアンを見、そして破顔した。炸裂する光に明滅するライアンの緑色の瞳の奥の自分が、晴れやかに、嬉しそうに笑っていた。
 やがて花火が終わり、部屋と夜は闇に戻った。そこで行われたことは、それまでクインが知識としてだけ知っていたことであった。