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0.序章

序章:流転 1

 彼には最初から父親がいなかった。彼はそれを多少寂しく思ったり、お父さんが欲しいなどと他愛のないことも考えたりしていたが、本心のところ、切実に父親たる存在が欲しいかどうかは分からなかった。 誰かの家に行くと、夕方になれば帰ってくる父がいる。単純に他人と比べて足らないものが欲しかっただけなのかも知れない。 
(お父さんが、欲しいよう) 
 勇気を絞り起こして彼が言うと、母親はひっそり笑った。 
(愛しているわ、私の可愛い子……) 
 母の顔を見た時、多分父に関する事柄全ては口にしてはいけないのだと彼は知った。現実彼には母親しかいなかったし、母は彼を育てていくことで必死であったから、そのことも心に掛かっていたのだろう。 
 生活はまるきり平穏とはいえなかった。母は時折、何かに追い立てられるように、全てを放擲して彼の手を引き、住む町を変えた。どこかに向かっているということではなく、それはまるで出鱈目な転居の軌跡であった。 だが生活がそれほど苦しくなかったのは、母が隠し持っていた幾つかの宝石と、母自身の手から紡がれる美麗な模様の功績といえた。糸細工と呼ばれている手刺しの美しい刺繍の技術を身につけている者は珍しく、母の織りなす綾はよい値段で金に換わった。裕福というわけにはいかないが、不足はなかった。 
 ――それは彼にしてみれば唐突に始まった物語であった。それを彼は、5才になったばかりの冬だと記憶している。突然の転居の数は多すぎて、それに対する感覚は完全に麻痺していたといってもいい。 その晩彼が夜中にふと目を醒ましたのは、偶然という天の好意だったのかも知れなかった。隣室から押し殺した声がする。その声に籠もった緊張感に、彼は母親の異変を感じて寝台を滑り降りた。
「帰って下さい」 
 寝室の扉のすぐ外で、母の声がする。彼は出ていこうか否かを迷って一瞬立ちつくした。子供ながらに刷り込まれてきたことは足かせになる。 
(髪を染めていないときは、絶対に外に出ては駄目よ) 
 彼の髪は瑠璃石のような、純粋で鮮やかな青をしていた。 母はそれを隠蔽した。髪はいつでも黒に染められて、少しでも青い色が覗くときは、決して外へ出しては貰えなかった。 彼がそれを押して外へ行きたいと泣いてだだをこねる日は、寝室に閉じこめまで母は彼を外に出さなかった。そのために寝室には外側からかかる鍵が取り付けられていた。 母の頑なさを不思議に思っても、彼は何故かを聞いたりはしなかった。彼は年齢に似合わず聡い部分があった。 
 髪をどうしよう、と彼は自分の肩の辺りで揃えた部分に触れながら考え込む。今夜は風呂を使ったから、染め粉は全部落ちてしまっている。明日の朝にまた染め直すことになるはずだったが、今は地毛の青い髪そのものだ。 外に出ては駄目、というのは他人に姿を見せてはいけないという言葉そのものだったし、彼はそれくらいなら理解していた。それに、どうやら自分が無戸籍児であることも。 
 年齢の同じ子供たちは昼間学校へ行っている。満で5才になれば誰でも迎え入れてくれる公立学校から、彼は招かれていない。書類がないのだ。 無戸籍の子供はそうした国からの保養一切合切を受け取る権利がない。何もかもは戸籍証明と引き替えで、彼にはそれがなかった。 だから、彼は自分がどうやらこの国の制度から浮いた存在であると感じていたし、髪のこともその一部なのだと考えていた。 
「あの子は、私の子です……」 
 母の声が、一層低くなる。扉の向こうで誰かが吐息で笑った気配がした。 
「あの子は私の子です、私の大切な子なんです、お願い、許して……」 
 お母さん。彼は呟く。これほど切羽詰まった母の声音を聞くのは初めてだった。どうしようか逡巡のままに立ちつくしていると、突然扉が開いた。薄い闇に慣れた目には光は強烈で、思わず彼は手で眩しさを遮る。 かすれた吐息がした。 
「これは……」 
 知らない男の声で、まだ光に馴染まない目を懸命に眇めて彼は自分の前に立つ影を見上げる。目があったような気がした瞬間、影はふっと下へ沈んだ。 それが自分に膝をついているのだと分かるまで、ほんの少しの時間が必要だった。 
「カース様でいらっしゃいますね? ああ、本当によく似ておられる……」 
 彼は後じさる。明らかに自分に向けた言葉であっても、その名には聞き覚えがなかったからだ。 
 困惑して母を見ると、そこにあったのは淡く歪んだ表情だった。 お母さん、とそちらへ行こうとすると、男がその身体で遮った。 
「いけません。あれのことは、マリアとお呼びになりますよう」 
 彼は明らかに蒼白となった母を見、そして男を見た。多少の時間を混乱に過ごし、彼はやや俯く。考え込むような顔になってしまった彼に気遣ったのか、男が再び、彼を聞いたことのない名で呼んだ。 彼はぴくりと聡明な額を上げた。まっすぐに向かう視線のしなやかさに、男は僅かに居心地悪く背を正した。あるいは、怯んだとも言えた。 
「どうして?」 
 彼は男を見つめながら言った。男は何度も頷いて見せた。 
「それが身分というものであるからです。あれのことは、母とお呼びになりませんよう。母君が悲しまれます」 
 言葉の意味が彼にはよく分からなかった。黙っていると、男は練れた笑みを浮かべた。 その表情に浮かんでいる優しさだけを鵜呑みにするのが危険だという、本能のようなものが、彼の内側で叫び始める。 
 駄目だ。彼は見切る。こいつを信じては、いけない。 
「お探しいたしました。どうか、非才と共に帝都へご帰還を。お父上も、兄君も弟君も、カース様のお姿を見る日を心待ちにしておりますよ」 
 信じてはいけない、といい聞かせていた彼にとっても、父、そして兄弟という言葉は十分に不意打ちだった。 
「――いるの……?」 
 思わず呟いた言葉に、彼は自分で驚愕していた。 父。兄。弟。この母以外に自分に連なる者がいたということが、処理できなくて混乱している。駄目、と彼は首を振る。 
 男の口調からは甘く誘う、そんな執拗さが感じられた。例えば甘いものをくれるとか、高価なものを買って上げるとか、そんな囁きに負けて暗い路地へ消えていった子供の話を彼は母から執拗に聞かされていた。 母は半ば神経質ともいえるしつこさで、彼にそれを刷り込んだのだ。 知っている人からでも、声をかけられてついていっては駄目よ。どんなにいい話でも、お母さんに話してくれなくては駄目。いいわね、約束できるわね? 何を言っても、絶対に、ついていっては駄目よ…… 
 そう、多分今考えなくてはいけないのは、この言葉の方だ。彼は鼓動が上擦ってきた胸を押さえる。目を逸らさなくてはと思う傍らから、男の囁いた単語がぐるぐると脳裏を回った。 
 父? 兄? 弟? ――それは一体、何の話なのだろう?  男の言葉は更にそれをあおるものであった。 
「ええ、勿論。皆様お元気ですとも」 
 更に男が何かをいおうとするのを、彼は片手を上げて遮った。待って、というと男は穏やかに黙り込んだ。 
「僕は、お父さんに会えるのかな?」 
 男は破顔する。これはまさしく、歓喜の顔であった。 
 彼は思う、後10年経ってこの笑顔を見ればきっと自分はこう名付けただろう――舌なめずり。 このときの彼はそれを表現する言葉を知らなかったが、男の見せようとしない部分が酷く混濁した闇であることを、肌に感じていた。 だから殊更笑って見せた。彼の顔立ちは同年代の子供たち、更にいうなら少女たちの中に混じってさえ、輝くように美しく、くっきりと整っていた。それまで満面の笑顔を向けて彼への矛先をゆるめなかったのは、母だけだったのだ。 
 案の定、男は呆気にとられたような顔をした。僅かに頬に血の気が上がってくる。彼の笑みは、長じて大人と呼ばれる年齢に入った後でも万人を動かす最大の魅惑であった。 
「僕……お父さんに会いたい」 
 彼はそう絞り出した。声が若干震えていたのを、子供なりの幼い惑乱のせいだと思った男が、満面の笑みで頷く。視界の隅で母が両手で顔を覆ったのが見えた。 男が自分を抱き上げる。母の脇をすり抜けて外へ出ようとした時、彼は待って、と言った。 
「リーリーを連れて行かなきゃ。僕がいてやらないと、あいつ、眠れないんだ」 
「リーリー?」 
「猫だよ。黒いの」  
 男は軽く頷き、彼を一端腕から下ろして奥の寝室へ入っていく。その姿が寝室の闇に紛れた瞬間、彼は母親を見上げてお母さん、と囁いた。 その一言で母の目つきに炎がともったように見えた。険しく真剣な母の顔を見るのは初めてで、彼は多少それに感嘆を覚える。 半ば表情は怒りに似ており、それが自分を連れていこうとした事実に対するものであることを、彼は感覚で読みとっていた。 
 母は素早く部屋を横切り、寝室の扉を閉めた。外側から鍵を回す。彼に謹慎を矯正するためにつけられていた鍵だから、内側からでは開かないようになっている。それまで散々嫌な思いをさせられてきた外鍵に助けられて彼は少し口元を歪めた。 寝室の扉は激しく叩かれて、中から何かを吠えている男の声がする。意味はよく分からなかったが、籠もる声音が良くない種類であることが感じ取れれば十分といえた。 
 母はぼんやりなどしていなかった。彼に沢山の服を着せて髪をスカーフで捲いて中に完全に押し込み、自分もまた最低限の荷物を作った。 この街を出ていくのだと彼は悟った。今までも、こんな事はたくさんあった。だから、彼はそれには驚かない。母がいつものように宝石と現金を小さな鞄に押し込むのも、自分の手を引いて足早に階段を駆け下りるのも、いつものことだ。 
 外に出ると、きんと冷えた夜だった。下には男が乗ってきたらしい馬が繋がれている。母は手綱を解くと鞄で思い切り馬の尻を叩いた。驚いた馬が一声いなないて、街のどこかへ野放図にかけ去っていく。 
 それを終えると母は家から離れた場所で辻馬車を拾った。夜明けの船という単語が聞こえたから、少し離れた河岸の街からは乗船するようだった。大河ユーエリを下る船は3日に1便、乗り込んでしまえば取りあえずは追っ手を振りきることが出来る。 御者が急ぎだねと暗に小金を要求してきたから、それも母の思惑の範疇であった。 
 ただ、彼がこの辺りの事情を理解したのはもう少し先のことだ。この時、彼は馬車の窓から遠くなる街を眺めてこみ上げてくる涙をこらえるので精一杯だった。 
 リーリー。僕の黒猫。 
 それはあまり外に出して貰えず、転居が多く、学校へ行けなかった彼の唯一の話し相手であり、友達であったぬいぐるみに彼が与えた名前だった。それを置いて行かなくてはならなかった悲しみが、彼の全てだった。 街の明かりが闇に消えて、彼は窓から離れた。諦めなくてはいけないことが、それまでも沢山あった。置いて行くしかなかった友達のことも、きっとその中の一つになってしまった。 
 彼が黙って俯いていると、母が自分を抱き寄せたのが分かった。豊かな胸に顔を寄せて啜り泣いていると、ごめんね、という声が聞こえた。 彼は首を振り、そしてお母さん、と泣きくれた後特有のかすれた声で言った。 
「お父さんとか、お兄ちゃんとかって、なんのこと……?」 
 母はじっと彼を見つめた。 
 ……長い、長い時間が流れた。 
「……ごめんね、今はまだ、あなたは知るべきじゃないのよ。でも、15才になったらね。そうしたら教えてあげる。だから、それまではいい子にして、お母さんの言うことを聞いて頂戴」 
 彼はもっと何かを聞きたいのをこらえて頷く。母の身体が小刻みに震えているのに気付いたからだ。馬車の中は温められていて寒くはなかった。 
「でも、覚えておいて。お前の母親は私よ。私一人よ。お前は私の子よ、私の子なのよ……」 
 母の声音には反駁を許さないような逼迫があり、彼はそれに頷くしかできなかった。そうだよね、と囁くと、母が彼の小さな身体をきつく抱きしめた。 その腕がまだ痙攣するようにぶれていること、私の子なのよとひたすら繰り返す細い声、その2つが延々と彼の周囲を取り巻いていった。 



 それはもう、8年も前の物語。 
 彼が初めて、失うことを悲しんだ夜。 

序章:流転 2

 それから3年が平穏に過ぎた。それまでの流転の生活からすれば、文字通り平穏であった。男の来訪から逃れた母は、腹を据えたようだった。船を下りた街で彼は服を買い換えた。 
 黒や青の動きやすくて遊びやすい服から、レースのついたブラウスや小花の柄の散ったスカートへ。髪を丁寧に梳いてリボンを結ぶと鏡の中にいるのはどこから見ても幼い少女であった。 
 いやだと彼はごねてみせたが、母親の顔にしばらく出てこなかった焦燥と苦悩が現れてきて、それを言うのを飲み込んだ。目立たない方がいいのだということを、彼はそれとなく理解していた。 
 長い旅程の後にたどり着いたのは帝都ザクリアであった。女の子のふりを出来るなら学校に行ってもいいという母の許しが出て、彼はそれに飛びついた。彼は真実、寂しかった。 
 ……それが戸籍の記載にあわせた擬態であることを彼が知ったのはもう少し後だ。母は自分の持てる殆どの金を注ぎ込んで戸籍を買ったのだった。勿論正規の取引ではないが、無戸籍家庭であることと非常に整った顔立ちの息子がいるという二つの特定条件をやりすごしてしまえば、年月はなるほど無事に過ぎていくものであった。 
 彼は黒く染めた髪を伸ばし、眼鏡をかけた。美少女ということになってしまうと少年たちがそれはそれは煩わしかったからだ。彼のその態度が「男嫌い」と映ったのだろう、少女たちとはそれなりにうまく運ぶことが出来た。淡い恋心を抱いた相手もいたが、かなわない望みでもあった。 
 女として生きていく不都合は次第に彼に蓄積されていった。少年たちからは相変わらず絶賛を受けた。華奢な体つき、優しい笑顔、どんなに必死で隠そうとしても零れるような美貌は幼いながらに姫君のように崇拝されるに十分だった。 
 少年たちの視線に次第に過敏になっていく彼を、少女たちは守ろうとしてくれた。だが、少女たちの中にも彼の居場所はなかった。元々、かけ離れた思考癖の生き物なのだということが次第に理解されて行くばかりであった。彼女たちはいつでも笑いあいお喋りに熱中していたが、内容は恋愛のことばかりで正直辟易した。 
 彼がその話に決して加わろうとしないのは、すぐに知れた。少女たちはそれが原因で彼を苛めたりはしなかったが、有る意味で彼には辛い居場所を与えた。――よそよそしくするわけでもなく冷たくするわけでもなく、ただ完全には立ち入らせない賓客としての扱い。 
 成績は良かった。それも飛び抜けて良くできた。大抵のことは一度目にすれば理解できたし、すんなり覚えることも難しくなかった。彼にとっては何もかも、立ち上がって歩くほど簡単なことだったのだ。 
 最初の飛び級の試験を満点で通過し、彼は特待で優等校へ進んだ。学費は全て免除だった。本も、制服も、全てが支給された。その学校でも難なく学年主席を飾り一年で飛び級の試験に2つ通ると、帝立の学舎へ飛び級での入学試験招致を受けた。 
 中央中等学院と呼ばれるそこは、成人前の子供たちのための、国で最高の学び家であった。本来皇族と貴族のための教育を引き受ける機関だが、同時に将来のために優秀な子供たちの育成も行っており、入学した子供は自動的に国の最高学府である中央高等学院への進学が保証される。
 だが、母の顔は彼が難しいとされる試験を楽々と突破していくに従って曇っていった。素直に喜べない理由を彼は薄く察してはいたが、何故という疑問に答えて貰えない苛立ちも事実であった。 
(答えを間違えるのよ) 
 母は悲愴という目つきで彼にそう言った。 
(お願い、分かる答えでもわからないと書いて頂戴。あの学校に行っては駄目。ねぇ、勉強が出来たって……お前はちゃんとしたお役人になれるわけではないのよ……) 
 彼はじっと俯いた。母の言うことも分かった。彼は真実男であるが、戸籍は女として記載されている。学家の中ではどうにか過ごしていけることも、外へ出れば違うかも知れない。買い取った戸籍は綻びなく彼と母を守ってくれたが、事実が頑として異なっていることが知れたら。彼はじいっとお願いだからと繰り返す母の、粗末な靴を見つめる。 
 けれど、自分の力でこの母に安穏とした暮らし、朝から晩まで働かなくてもいいような暮らしを与えてやりたかった。友達を部屋に捨ててきた夜のようなことが再び起こるのは避けなくてはいけない、でも。 
 僕は、僕だ。 
 幼い矜持は理屈と納得の間に均衡点を見つけられない。 
 彼は母の言葉に曖昧に頷いて試験会場へ向かった。試験を休むことは無意味だった。後日再試験となるのに決まっているからだ。 
 試験会場には彼より年上の子供たちばかりだった。彼はこの場でも、そして記録の上でも最年少の受験者であった。最初の一年を殆ど留年していることを考えると驚異的だと大人は誰でもそう言った。 
 試験は簡単だった。少なくとも彼にはそう思えた。開始してそれほど経たない内に全ての解答の記入を終えて、彼はそっと周囲を見回す。 
 ―――多分、合格してしまうだろう。周囲の少年や少女たちの様子を見ていると必然に思われた。彼は自分がびっしり書き込んだ解答用紙に目を落とす。 
 数学。古典。次元換算。化学。歴史。魔導。 
 馬鹿馬鹿しいほど、簡単な問題ばかり。ちょっと本を読んで考えればすぐに導き出せる答えばかりだ……僕にとっては。 
 彼は目を閉じて、この学校に入学する自分、を考えてみる。 
 中等学院は修了年限6年となっている。今8才だから、順当にいけば14才でここを卒業し、中央高等学院へ進むことになるだろう。多分、それは最年少の記録になる。中等学院には飛び級の制度がない。単位を取って上級課程に進むことは可能だが、全ての学課を履修して年限が残っていれば新入生への簡単な講義や自主履修の手伝いをすることになる。 
 彼は、そうなったときのことを正確に思い描くことが出来た。新入生といってもその時の自分と同じ年齢が中心だ。妬み、やっかみ、そんなものと同時に降り注がれる感嘆と賞賛と……憧憬の視線。 
 彼は少し、溜息をつく。それは今までの経緯の忠実な複写であった。 
 彼の吐息に、隣の席に座った少年がちらりと彼を見た。彼は少年の手元へ視線を動かす。解答用紙は3科目目の半ばから以降が白紙のままだった。時間はそう残っていない。落伍するのを覚悟したのか、少年は彼にそっと笑い、溜息をついて解答用紙に戻った。 
 彼はつま先で、少年の足をつついた。自分の答案用紙をわし掴み、試験官の目が逸れた隙に机の下からそれを押しつける。同情に対する怒りと、刹那的な希望が少年の顔に相互によぎった。彼は首を振る。一瞬目があって、少年は次の瞬間に自分の答案用紙を彼と同じようにして渡してきた。 
 名前をお互いに書き直し、素知らぬ顔で提出すると、彼は逃げるように家に戻った。不合格は決まっているようなものだったが、それでもあの少年がどうなったかも気になる。だから、不合格の通知が学校に来たときに彼は教師に聞いてみた。今年の主席だという少年の名は、自分が書き直す前に答案に書かれていた名前であった。 
(満点だそうだよ。前代未聞だとすごい騒ぎになっている) 
 彼は一瞬を置いて、頷いた。 
 そして逆転の運命はすぐに訪れた。不合格通知から3日目、彼は教師に呼び出され、何故不正をしたのかと尋ねられた。 
「不正なんか、してません」 
 彼は呟くように答えた。教師はゆるく首を振った。 
「字が全く違うそうだよ。私もあちらに呼び出されて解答用紙をみたが、あれは君の字ではないね。満点を取った方の解答用紙が君の字に見える」 
「……不正は、してません……」 
「君と彼は席が隣同士だったそうだね。君は割に早く答えを書き終わったようだったと試験管の方も言っていた」 
「本当に、わたし……」 
「相手の子も認めているんだよ。自分の点数が満点だったと知って、泣きながら謝ってきたそうだ」 
「……」 
「教えてくれないか。何故、答案をすり替えるようなことをしたのかな? 君は主席で、前代未聞の満点で、史上最年少で、記録づくめで合格したのに?」 
「……」 
 彼は俯いた。事情は何一つ、口に出来なかった。口惜しさと諦めなければいけないのだという飲み込めなさが、涙になって落ちた。嗚咽になってしまった彼から事情を聞くのを諦めて、教師は母親を呼びだした。 
 母は教師からおおよその説明を受けて、彼を見た。彼は涙でしゃくり上げながら母親を見上げた。 
 家に戻ると母親はぐったりと椅子に座り込んだ。彼はごめんなさいと呟いた。母はゆるく首を振ると、彼を手で招いた。母の側によると、温かでふんわりとした匂いがした。 
「あの学校は駄目。あそこでなかったら、どこでも好きなところへ行っていいから、中央中等学院だけはやめてちょうだい。お願いよ……」 
 頷こうとしたとき、先にその言葉が唇から零れた。 
「いやだ」 
 彼は自分の言葉に今更気付かされたようにはっとし、それから毅然として首をもたげた。 
「僕は、学校に行きたい。早く大人になりたいんだ」 
「駄目よ……中央中等だけは、行っては駄目。お願い、そこだけは、本当に諦めて頂戴、お願いだから」 
「いやだ!」 
 彼は首を振る。今まで仕方ないと飲み込んできたことや、我慢してきた不都合が一気に喉を逆流して駆け上がってくる。 
「僕は学校に行きたい! 僕は本当は女の格好するのだって、女言葉つかうのだって、全部、全部いやなんだ! でもちゃんと女の子のふりだってしてるじゃないか! 髪だって毎日染めてるじゃないか! 僕は学校に行きたい! 中央中等から中央高院へ行って、そこでだって絶対に一番になってみせる! そしたら学者にだって偉い役人にだって、僕がやりたい事を選べるんだ!」 
 母親は怯えたように首を振るばかりだった。どうして、と彼は怒りのままに自分の髪に手を入れて、ぐしゃぐしゃにかき乱す。母が丁寧に編み上げた髪が乱れてまとまりなく崩れた。 
「どうしてだよ! 僕は、学校に行きたいんだ!」 
 それだけを叫んで彼は自分の部屋に駆け込む。着ていた少女の服装を全て脱ぎ散らかして毛布をかぶり、わあわあ泣いていると、母が寝台に腰を下ろす気配がした。優しく、背中を撫でてくれる手。その手に宥められて収まっていく涙が悔しくもあった。 
「中央中等に行きたいのね……お前はもっと、沢山のことをしなくてはいけないし、決して学者や役人になんかなれないわ。分かる? 戸籍はちゃんとしているけど、学者にも役人にも、身元の保証人が必要なの。私たちにはそんな人はいないの、分かるでしょう?」 
 彼は遅れて頷いた。そう、と呟くと何かが急激に落胆に変わった。 
「でも学校に行きたいのね……そうね、でも、お前にはこれ以上は負担だと思うのよ。お前もすぐに大きくなるわ。男の子だから、声が変わる」 
 彼は毛布の下から顔を出して、母親を覗いた。声、と聞き返すと、母は苦笑した。 
「男の子は12、3才くらいから声が低くなって、身体もどんどん男っぽくなっていくわ。喉のここの部分が出て、一目で男だって分かるようになるの。だから、女の子の姿でいられるのもその頃までね……そうしたらいずれ、辞めなくてはいけないわ……」 
 彼は母さん、と強い声を出した。 
「声が変わるのなら、最初から喋らない。太らないようにする。化粧して学校に行けば誤魔化せる。制服のブラウスは普通の形だけど……」 
 彼は寝台の上に起きあがり、教師から押しつけられた入学手続きの書類を鞄から抜き出した。 
「ブラウスと制服は、全国の中等学院の共通だけど、中央中等だけは特別の学生ばかりだから、目印にスカーフを巻くんだ。首の所に」 
 一瞬、母が返答を見つけられないのに便乗して、彼は強く言った。 
「だから僕は、中等へ行くからね。学者や役人になれなくても、他にも沢山やれることはあるはずだから。僕は、学校に行けるならどんなことでもする。将来きっと役にたつからね。それが母さんと、僕のためなんだ」 
 ―――口がきけなくなってしまったんです。 
 母は周囲の人々と学院の関係者にそう説明して回った。 
 不正だとか、不合格の撤回だとか、そんなことで暫く塞ぎ込んでいたら、喋り方を忘れてしまったみたいで。ええ、ええ、精神的なものなので、好転することもあると思いますし、魔導の研究の実地や古典の朗読などを配慮していただければ十分だと思います。身体が少し弱めなので、出来れば運動科目は見学ということに…… 
 そしてそれを学院側は承知した。彼の優秀すぎるほどの成績はそれらを一介の塵にしてしまう力があった。 
 彼が最初に教室に入っていくと、ざわめきがやんだ。天才少女という言葉は既に流布していたし、そうでなくても彼はこの沈黙に慣れていた。実年齢よりも少し年上に見える顔立ちに、淡い色の口紅を差して眉を整えた彼の美貌は、その場の全員に一瞬言葉を忘却させるのに十分であった。 
 以前の学校にいた頃はかけていた眼鏡は捨て、彼は久しぶりに素顔で他人の前に立っている。 
 自分はどうせ、違和感になる。年齢も飛び抜けて若いし、試験の時の成績は自分の点数だけで平均点を6点上昇させたという噂付きだ。それ以上にこの顔立ちは以前も韜晦しきれなかったほどの麗質で、いずれ少年たちが自分を見る視線に熱がこもっていくのは自明に見える。 
 ならば、最初から君臨してやろうではないか。少年たちのあしらい方は既に知っていたし、少女たちの扱いはよく分かっていた。  彼は自分を見つめて唖然としている級友たちに悠然と微笑むと、割り当てられた席に着いた。 
 彼の目論見は当たった。一月もしない内に彼は学年の象徴として扱われるようになった。誰もが自分に一目置き、丁寧に接し、決して無理や難題を言わなかった。礼儀正しい少年たちと少女たち、彼らの崇拝を受け取る資格となる成績も、まるで比較にならなかった。 
 特に魔導は講師たる魔導士までが彼の別解や呪文構成を聞きたがった。 
 彼は決しておごることなく、誰に対しても謙虚に振る舞い、優しく、柔らかく微笑みながらそれらをこなしていった。 
 降るように来る、告白の手紙。 
 窒息するほど注がれる、憧憬の視線。 
 薄く微笑むだけで、淡く目を伏せるだけで、どんなことでも通った。

序章:流転 3

 やがて2年が経過した。戸籍の上で彼はその初夏に10才になり、秋になった頃に真実その年齢に達した。彼は天才を通り越して神童という称号を得ており、彼は一層厚みを増した庇護の情と取り巻きに囲まれて幸福であった。 不足が無いという意味に置いては。 
 ――馬鹿馬鹿しい。 
 全ては彼の思うままに進んでいた。成績は危なげなく学年主席を通し、運動系と魔導の実践科目の替わりに魔導理論の研究をと促されて書いた論文が賞を取る。実績を積み上げればますます周囲は彼を丁重に扱い、更に高度な課題が現れ、それを片づけ、更に前へ先へと進まされた。 
 6年の年限分の履修科目の内の中級までを取り終えて上級課程に混じると、そこは彼よりも7、8才は年上の連中が殆どだった。そこでも同じように彼は神童たり続けた。彼の足下をすくおうとしたり、意味のない嫉妬の視線をぶつけられるのも最初のうちだけで、彼が微笑むと日向の氷のように、それはぬるく溶けていった。 
 ――馬鹿馬鹿しい。 
 魔導と次元換算は既に履修する科目が残っていないことを理由に特例として高等学院の講義の聴講が許された。行ってみれば更に年齢の離れた青年期の学生ばかりだった。彼はその学生たちと対等に講義の内容を検討することが出来た。青年たちはまず最初呆気にとられ、感嘆と僅かな奇異の混じった目で彼を見、そして年齢を尋ねて一様に複雑な顔をした。彼は、そこに学ぶ彼らの半分も生きていなかったのだ。 
 ――馬鹿馬鹿しい。 
 大人たちはこぞって絶賛した。賞賛と特例が彼に夕立のように降った。特賞金、奨学金、奨励金、論文の賞金。降り積もる金と記念品と賞と名誉。中等学院長の自慢げな笑み。 級友たちは揃って崇拝した。思慕と渇仰が夕立のように降った。手紙、贈り物、花束。降り積もる憧憬の証。彼と近しくしようとする者たちの、奇妙なほど、媚びを含んだ笑み。 
 ――馬鹿馬鹿しい。 
 嫉妬ややっかみもまた存在したが、それを排除するほどの分厚い庇護がいつでも与えられた。中等学院では彼は既に絶対存在であり、高等学院では保護対象者であった。悪意はそれらの濃厚な取り巻きで遮られ、彼を直接傷つけなかった。彼を包む大人たちも子供たちも、彼の周囲に群がっては彼の美貌と叡智を賞賛した。 
 全ては上手く回っていた。 
 誰も彼を傷つけなかった。 
 誰からも特別に愛された。 
 辛い事など何もなかった。 
 ――なんて、馬鹿馬鹿しい! 
 彼はいつも穏やかな笑みを絶やさないでいる内に、その形に凍えてしまったような頬を思い切り不機嫌に歪める。自分がまだ、他の表情が出来るのを確かめるように。 苛立ちのままに唇を軽く噛むと、血の味がする。級友たちが見たこともないほど険しい表情で俯いたまま、彼は足早にタリアと呼ばれている一角へ入っていくのが最近になりつつあった。 貴族の子弟が中等学院の生徒には多い。級友たちはそもそも、タリアのかなり手前の、下町と呼ばれている辺りから先は貧民窟だと思っているらしい。見咎められる可能性はなかったし、この街の外郭をぐるりと回ると家に戻るための近道にもなった。 
 タリアは色町であると同時に、この国の闇の部分を引き受ける者たちの巣でもあった。表通りは妓楼、飲み屋、連れ出し用の貸し部屋などが並び、裏通りには非合法のものを含めて何でも揃う闇の市場がある。金さえ積めば自分の楽しみのために他人を殺めることも出来る。 猥雑でどこか危うい空気は、日暮れが近くなると一層強まった。通りに並ぶ妓楼に一斉に火が入ると、妓楼の目印である朱色が照らされて、落日よりも尚赤く染まった。 大通りを歩いているだけで、彼を娼婦だと思ったのか声をかけてくる男たちは数え切れないほどいた。じろりと睨むと彼らは怯んだが、そんな反応でさえ面白かった。 
 学院の大人しい羊の群たちに囲まれて、壊れ物のように大切に扱われて、それでも足りない、満たされないものがどこかにある。 優しい人々。愛情に満たされた日々。 そこへ美しく自分をはめ込むことだけに執心した。他人の目にどう映っているのかだけに腐心した。彼はひたすら可憐で聡明な少女を演じることだけを考え、――そして多分、考えすぎたのだ。 
 この街に身を置くとほっとするのは何故だろう。美しくも清潔でもなく、安全でもなく、平穏でもない街にいて、気の抜けるほど楽なのは何故。 
 それを思うと彼はひどく悲しく、そして自棄ばちな気分になった。 繕った表面などよりも、遙かにタリアの方が自分に近い気がした。内面に巣くう魂は、享楽と隣り合わせの地獄との微妙な均衡を感じて高鳴る。彼はこの街の徘徊によって、自分の中にある、飢えるものを満たしたかった。 
 それはあるいは無防備とも言って良かった。彼はそれでも慎重にタリアの奥には近寄らず、安全ともいえる大通りの周辺ばかりをうろついていたが、背後から軽くぶつかってきた少年が彼の鞄を持って逃げたことで、かあっとなったのは事実であった。 鞄の中には身分証明書やら財布やら本やらの、大切ではないが失うと困るものが入っている。……ただの掏摸かと思ったのだ。 
 彼は全力で少年を追いかける。運動能力の差異が明らかになる前にと母は中等学院へ運動科目の見学を承知させていたが、中身は少年だった。普通の少女より、余程足は速い。 路地を回ったところで少年に追いつき、鞄を掴む。返せと言う替わりに強く鞄を取り上げようとすると、そちらも渾身で引きかえしてきた。この、と彼は膝で回し蹴りを食らわそうとした。 
 何が起こったのか、一瞬理解できなかった。相手の身体に当たるはずだった足が見事に空中を蹴ったのと同時に、ふわっと身体が浮いた。次の瞬間、まともに後頭部を打ち付けて彼は喉で呻いた。 周囲でせわしなく、囁いている言葉がある。 
 美人だぜ。処女かな。売り物だろ。遊ぼうぜ。金に……女の……薬が…… 
 それらが目眩と混沌の中でぐるぐる回っている。小さな羽虫のようでうるさい…… 
 僅かな時間、彼は意識を閉ざしていた。気付いたのは、なま暖かい吐息が、頬にかかったからだ。 
 悲鳴は喉で凍ったが、それは習性だったかもしれない。制服の上着は前がはだけられ、引き出されたブラウスの下から手が潜り込んでいる。自分に被さろうとしていた少年の肩を思い切り突き飛ばして立ち上がると、酷い目眩がした。 よろめいた彼の制服の襟が捕まれて、乱暴に後ろへ引き倒される。一瞬目の前が暗くなるほどの恐怖を感じ、そしてそれはすぐに怒りに替わった。彼は自分の意志を通すことに慣れており、それを無視されることは屈辱的な出来事といえた。 
 身をよじり、彼らの手をすり抜けて壁際へ立つ。 
 ――全員、焼き殺してやる。 
 魔導は彼の得意だった。それほど長い詠唱がいるわけでもない炎の誕生を促す呪文を口にしようとして、彼ははたと止まる。口をきいてもいいだろうか。 
 炎の誕生自体は難しい呪文構成をしていない。最初の義務教育の際に、魔導の例示として教えるくらいだ。攻撃をするための手段としては他に沢山の稼働が必要になるから上級となって構成も緻密になって行くが、炎を呼ぶことは難しくはない。 
 だが、一辺に多人数を相手にすることは難しい。自分が話せることをこの連中に教えていいのだろうか。 
 それは一瞬の躊躇であり、十分な間であった。上着の袖が掴まれる。乱暴にふりほどこうとすると、更に乱暴に引き倒された。袖がちぎれた音がした。 彼はそれでも必死でもがく。万一のことを恐れて言葉は喉の奥に引き込んだまま、遂に出そうになかった。 
 何とかしなきゃ。家へ帰らなきゃ。それだけが脳裏を渦巻いている。 
 自分の呼吸が大分上がってくるまでさほどかからなかった。元々彼は、母親が言ったとおりに虚弱な部分があった。体力もない。動きが止まったときが、全部が終わるときだという思いが彼をひたすら突き動かしていたが、じりじりと身体から力が失われていくのは分かった。 
 空気がふと変わったのは、そんなときだった。自分を押さえつける少年たちが一斉に沈静した。何か話し声がする。 それに耳を傾けるほどの余裕はなく、転がったままで体力を少しでも回復させるために何度も深く呼吸をする。 そうしていると、誰かが自分の頬を掴んで強引に正面を向かせた。意地でも顔を見てやるものかと彼は目を伏せる。煙草の匂いがするから男だろう。なるほど、というかすれた声は、男が自分の美しさに興味を持った証拠のような韻であった。 彼はあざ笑ってやろうかと目を上げる。非難というなら罵倒でぶつけてやりたいし、他人を連れ込んで強姦するような連中に掛けてやる情けもなかった。どれだけの者かを試すように、彼は目の前の男を睨んだ。 
 彼の前にいたのは、顔立ちの整った、だがひどく陰気な空気をちらつかせる男だった。年齢は分からないが、二十歳には届いていないだろう。 男の言葉を僅かな仕種を、この場の少年たちが息を潜めて見守っている。これが「頭」なのだと理解したのは早かった。存在感が確かに違うのだ。 手はつけるな、と男が言い置いて出ていこうとする。歓声があがり、自分を押さえていた手が再び肌に潜り込んでこようとする。 
 彼は身体をよじってうつぶせた。スカートの中に入った手が、違和感にぴたりと止まった。 あ、というぽかんとした声がした。彼は思い切り足を跳ね上げた。少年の横面を強かに撲った感触がして、一瞬手が動く。彼を脅すつもりだったのか抜き身になったままのナイフが、置き捨てられている。素早くそれを拾って、「頭」の方へ突進した。 
 男は自分の所作に僅かに後ろへ下がった。彼は男の喉へナイフを押しつけながらその背に素早く回る。勝った、と思った。これで自分が優位に立てるのだといく確信が、次第に誇らしく上がってくる。 鞄と上着をよこすように彼は言った。正体が知れてしまえば後は失うものなど無かったのだ。 
 だが彼の優位は長く続かなかった。男は落ち着いていた。命の危機などまるで感じていなかったのだろう。男の背中越しに簡単に投げ落とされたのは、実戦の経験の違いでもあったし、そもそも持っている力量の、明らかに広大な差でもあった。 
 男は少年たちのように彼を襲いはしなかった。子供には興味がないという顔をしている。あしらわれたのは悔しいが、この男に頼む以外にこの少年窟から帰還できる方策を、彼は思いつかなかった。 別部屋へ隔離された彼の様子を見に顔を出した男に、彼は言った。 
「俺を家へ帰してくれ」 
 口にすると、失笑と言うべき表情を男が浮かべた。それは当然だった。彼をどうするかはこの男の胸一つだが、逃げないようにと肌を傷つけない帯で縛られ、丁寧に扱うところを見ると、自分はどうやら誰かの愛玩物に売られるらしい。それくらいは想像が出来た。 彼は自分の顔立ちに絶対の自信を持っていたし、そうした陰惨な話ならタリアの中で幾らでも耳にすることが出来たのだ。 
 そんなことをちらつかせると、男は沈黙へ戻った。男は口数が少なく、黙りこくると頑として全てを受け付けないような空気を放っていた。どうやら男から何かを聞き出すことは出来ないようだった。雑談のふりで言葉を振りまいてみても、ぶつりと途中で途切れてしまう。 多少の知識と知恵を総動員して取引をしようという思惑はどうやら使えそうにない。適当なことを喋りながらそんなことを思っていると、男が不意に言った。 
「思いついたことをべらべら喋るうちは、お前もまだ子供だということだ」 
 彼は一瞬言葉を失う。怒りなのか悔しさなのか、こみ上げてくるもので口がきけない。 
「俺がさっきの言葉に食いついてきたら、適当に翻弄して取り引きして自由にしてもらおうと思っていたな」 
 これはまさしく図星というものであった。男は何故か不機嫌だった。家に帰りたいか、とからかわれる。彼は頷く。それだけが今の望みであり、その為には何を差し出しても良いような気にもなっていた。 
 暫くは雑談のような、微妙な会話になった。何故男がそれで自分を解放する気になってくれたのか、正直なところ、彼には分からなかった。本当に良いのかと聞き返して藪蛇になるのもおかしな話であるため素直に好意に甘えることにしたが、それが何故であったのか、彼には今でも分からない。 
 だが、男のくれた通行証代わりの細刃刀は役に立った。男は徒党を組む少年たちの上にいる立場のようで、男の名と、細刃刀をちらつかせればどんな少年たちでも怯んだのだ。 彼は殆ど毎日のように、タリアの間奥、深淵に近い路地へ足を向けた。男の周辺には彼と同じくらいの年の少年もおり、彼とは妙に気があった。お互いに言葉数が多く、よく喋り、よく笑うたちであったのが良かったらしい。 一度自分が男であることが知れてしまった以上、ここで口をきかないで微笑むことは無意味であり、彼にとっては愚劣ともいえた。学院を出てから家に戻るまでのほんの短い間、チェインと呼ばれている少年たちの巣窟にいる時間だけ、彼は思うままに言葉をふるい、悪態をつき、大声を上げて笑っては下らない話に熱中した。 
 楽しかった。本当に、楽しかった。 そして彼は自分を幸福だと思った。

序章:流転 4

 例えば、不意打ちの言葉が。例えば、何気ない日常が。そんなありふれたものたちの無意識の悪意を感じる瞬間は、ひどく無口になる……―― 
 彼は黙って雨を見つめる。いつもじゃれつくように遊んでいた少年がどうしたんだよと不思議そうに、雨の中を数歩先へ行きかけて戻ってくる。 
「どうしたんだよ、傘、持ってないならさっさと帰ろうぜ? トリュウムへ戻って何か喰おうよ。俺、腹減ったし」 
 彼は黙って首を振る。分かっている。これは神の悪意で自分のせいなのだ。少年から貸してもらった服の肩口にぽつんと黒い染みが出来ている。それが見えないように首を傾げて殊更俯いた。 
「なぁ、そんなに酷い雨じゃないじゃん。走っていけばすぐだよ、すぐ」 
 更に彼は首を振る。顔が強ばっているのが分かる。 
「なぁ、俺の鞄に傘が入ってるんだ。それ、取ってきてくれないか。頼むよ」 
 彼が言うと、少年は不機嫌そうに顔を歪める。頼むよ、と彼は繰り返す。そうしてしばらく見つめ合ってから、少年が貸しだからな、と叫んで雨幕に霞む路地へ消えていった。 
 彼はほうっと溜息をついた。雨。雨。これほど、憎らしい。 
 彼は濡れないようにと身を寄せた軒先で、更に身体を壁に押しあてる。水滴から、彼から全てを剥がすものから身を守るように。 
 黒い髪は彼を安全に保つ魔法であった。その下に隠れた真実がさらけ出さないように、彼を守ってくれる。青い髪が持つ意味を、彼は既に知っている。学院にも沢山いる。――沢山、いるのだ。 
 記録は既に千年以上前のことになるらしい。魔導革命の頃とほぼ時期的に一致するからそのせいだというものもいるが、確証ではない。確かなことは誰にも分からない。ただ、皇族を筆頭とした貴族たちに青い髪を持つ者が頻出する事が事実だった。地位がすりあがるほど、青みは濃く深くなっていく。
 彼は雨を見上げる。魔導は今は使えない。呪文の詠唱には音律を刻む時間の長さ速さも関係するため、指針となる特殊な振り子か時計がないと効果が期待できず、それは鞄の中にあるのだった。 
 髪。俯いたまま、彼は首から下げた細刃刀を、これをくれた男が無意識のうちにかいつもしているように弄り回す。 
 ……男は死にたがっている。それは男が文字通り全身全霊をかけて崇拝していたチェインの先の少年王が暗殺されたのを自分のせいだと思っているから、らしい。そしてその後継争いでチェインの少年たちはひどく殺気だってもいたし、浮かれてもいる。そわそわとして落ち着かないのだ。 
 男がいなくなれば、彼はこの街に出入りする口実ときっかけを失う。それだけはどうしても承諾できなかった。だから彼は男にこの街を支配するための手段を吹き込んだ。それで少年たちの抗争に弾みがついて死人も出ているようだったが、そんなこともどうでも良かった。 
 この街にいたい。自分が自分として在り得る場所に。その為には何でもする。どんな事でも、自分の身に危険が及ばない限りは首を突っ込むし、口を出した。 
 そしてそれは成功しているようだった。男は彼にあからさまに感謝を唱えたり礼をしたりはしなかったが、彼を保護する意志は見せてくれた。男の体面にかけても守ってくれるだろう。 
 ……けれど、髪。自分の話していない秘密、話す気さえない秘密が知れたらここも出て行かなくてはならない。青い髪は貴族の血を引く証明だ。彼を庇護する男が最終的に少年たちの王として君臨すれば問題はないが、現実、男はそれらの8割程度を統率しているに過ぎない。大勢は決定しているともいえるが、堅固な組織だとか成文化された規範がない故に個人の技量でそれは大きく左右される。 
 簡単に言えば、男に従わない勢力の頭たる少年が、男を殺すことに成功すれば再び大きく勢力図が変わってしまう。確定がしていないということは、未来に渡って絶対保護があるか否かがまだ分からないということだ。 
 彼は大勢を決めるために幾つかの助言をして効果を得ているが、結局のところ、男の器量次第であった。他の勢力が自分を歓迎してくれるかどうかなど、今は考えたくない。が、男に入れ知恵をしていたのが知れたら今度こそ稚児に売られるに決まっている…… 
 彼は大きく溜息をつく。男のことも、いつも一緒に遊んでいる少年のことも彼は気に入っていた。失いたくなかった。何があっても。 
 だから、男にもう来るなと言われたとき、彼は最初ぽかんとした。自分は何か失態をしただろうかと考えて、それが遂に見つからなかったとき、脳天から血が引いていく音が聞こえた。 
「なんで。俺の言うとおりにしてうまくいったじゃないか。それとももう俺には用がないって訳?」 
「俺は死ぬかも知れない」 
 男は淡々と言った。どんな事態であれ状況であれ、男の声には極端に抑揚が少なく、感情もあまり波立たない平板さばかりだったが、死を覚悟していると言うにはあまりにも静かだった。男の言う意味は分かっていた。結局、抗争中のもう一派閥の主と直接対決することになったことは、少年から聞いている。 
 男はどちらでもいいのだろう。死ぬのも、生き残るのも。そんなことを思うと苛立ちのようなものと諦めが同時に沸いてきて、彼は無口になる。 
 食い下がってみても結果は同じだった。男は自分の意志を通すとき、頑として譲らない。一歩もそこから動こうとしない。それまでの経験で彼は男の頑なさを知ってもいたが、納得出来なかった。 
「俺、あんたに必要とされているんだと思ってた」 
 悔し紛れにそんなことを言うと、男はそうだな、と頷いた。男が自分に掛けている希望の種類を、彼は知っていた。彼の助言も意見も考察も、男にとっては付属物だ。男が欲しかったのは男が守るべき対象であって、それは先に死んだ少年王の身代わりという意味でもあった。 
 彼は不愉快だった。自分が誰かの代わりだという侮辱など、受けたことがなかった。少年王のことに関しては男は酷く衝動的で、いつにも増して頑なになる。死人に心を連れて行かれがちにか男の彷徨う視線が、いつでも面影と幻影を探しているのは知っていた。不愉快だった。とても。会ったこともない死者を嫌うのも馬鹿馬鹿しいとも思うが、彼にとっては不機嫌きわまることでもあった。 
 そして、それにも縋り付くほど自分は動揺している。 
 離れたくない。ようやく見つけた呼吸の楽に出来る場所。生まれて初めての男同士の連帯感や共通を感じられる友達。笑い合ってふざけあった、ぬるく柔らかな日々がこれからも欲しい。どうしても欲しいのだ。 
 何をどう言っていいのか分からないまま、彼は唇を噛みしめて俯く。考えろ、と叫ぶ声が胸の奥から聞こえてくる。考えろ、考えろ、首から上は他の奴らの観賞物じゃないんだろう! 
 だが、その声がふっと消えた。彼は顔を上げる。彼は信じられない言葉を聞いたのだ。 
「お前、髪、青いんだろう」 
 例えば、不意打ちの言葉が。例えば、何気ない日常が。 
そんなありふれたものたちの無意識の悪意を感じる瞬間は、ひどく無口になる……―― 
 どれくらい呆然としてしまったのか、彼には分からなかった。あるいは、そう長い間でなかったかも知れない。だが、自失というものを味わうのに時間は関係なかった。 
「違う……」 
 呻いた声が、低い。彼は膝が微かに笑い出しているのに気付く。いきなり胸の真奥を強かに撲たれて倒れそうだ…… 
 男はどこまでも淡々とした声で言った。 
「違うなら水をかぶって見せろ」 
 答える言葉を、持っていない。何故、いつ、どこで、どのようにして、男がこれを勘付いたのかまるで分からない。だが男がそれを知っていることだけが重い事実であった。 
 彼は黙りこくる。他にする事を思いつかなかった。男は彼の様子に構わずに続けた。 
「俺は今貴族と事を構える気はない。俺は俺たちのことで手が塞がっている。他のことをしている余裕はない。これ以上余計な因子を抱え込むのは御免こうむる」 
 彼は半ば白く塗りつぶされてしまった思考の片隅が、そうだろうね、と皮肉に頷くのを聞いている。貴族の落胤であると知れたらそれはそれで面倒なことになる。男の口調からして、この秘密を勘付いたのは男一人なのだろう。だからわざわざ人払いまでしてくれたのだと、彼はやっと気付いた。男の周囲にはいつも他人がいる。仲良くしている少年もしかりだが、男が少年王の系譜を継ぐ手足となるべき少年たちがたむろしているのだ。 
「あんたに迷惑かけてたのかな、俺」 
 彼は呟く。男の周囲にいる少年たちに悟らせないように気を配られてきたのだとすると、自分に何か大きな失態があったのだろう。男がそれを否定したことで、彼はようやく多少楽になる。呼吸がふうッと通った瞬間に、喉で凍り付いていたような言葉が零れた。 
 縋りついても頼み込んでも、男は一向に彼の要求を飲もうとしなかった。彼は言葉を連ねながら、その無駄さ加減を思う。無理かも知れない。駄目かも知れない。可能性のない時、自分は諦めてしまう。諦めなくてはならないことが、沢山あった。それと同じように、いつか置き捨ててきた猫のぬいぐるみのように、大切であったものを簡単に手放す時は目をつぶって一息にしなくては。駄目だという証拠が見つかってしまえば、放り出すしかない。今までのように、簡単に。 
 それだけは嫌だ…… 
 彼は泣き出しそうになっていることに不意に気付く。 
 リーリー。お前を置いていったときも、俺は泣いてた。 
 あの猫のぬいぐるみは、それがないとなかなか寝付けなかった彼にいつでも添い寝するように枕元へいたはずだ。主人のいなくなった、明かりの灯らない部屋にころんと転がる姿が目に浮かぶ。それはいつか、誰かの手によって片づけられただろうか。捨てられてしまったろうか。自分が置いてきたのを分かっていても、それを思うと胸が苦しい…… 
「そうだよ、確かに俺の髪は青いよ。この瞳と同じ色だ。それがどういうことか分かるよな」 
 否、分かるからこそ男は彼に来るなと言う。それも分かっていて、彼は更に言い募る。 
 追われて流れてきたことを。夜の中から現れた恐怖の話を。必死で逃げ、どんな擬態でもしてきた過去を。誰かに訴えたかったのかも知れないし、同情をひこうとしたのかも知れない。そして効果のほどを一番信じていないのは、自分だ。だから多弁になる。これが最後になるかも、知れなかったから。 
 男は大半を聞き流しているようだった。悔しくて涙になる。それが死んだ少年王であれば、きっと一言も漏らさず聞き入っているだろうと思うだけに尚更だった。彼は誰からも一番に愛されるのになれていた。男が自分に過剰な興味と関心を抱かないことが、自身を全部否定されたような気持ちを連れてくる。 
 だからだろうか。俺は追い出されるのか。そんなはずはないと理性が言うのも分かる。そして感情的なものが怒りで荒れているのも。 
 男は彼の言葉が途切れるのを待っていたようだった。 
「俺が勝てばいいが、そうでなかったときはお前はまたどこかへ売られるはめになる」 
 彼は一瞬をおいて頷きかけ、慌ててそれをとめる。それは道理だった。その危険は既に分かっている。結局のところ、彼の秘密を知った上で彼を守り、彼に居場所を与えてくれるのは男一人だろう。他の連中は殆ど例外なく彼を余所者として扱っている。支配者が変わればきっとろくな目には遭わない…… 
 彼は微かに震える唇で、長く溜息を吐く。ぬるい吐息が痺れたような唇を温めて動くようにしてくれた気がした。 
「……今まで楽しかった。ありがとう」 
 諦めろ。理性の声がするうちに手を引く時間だった。確定できない未来に全てを賭ける事は出来ない。母の為にも。 
 母さん。彼は胸で呟く。母のことはいつでも彼にとっては最優先だった。意志を通しきる形で中央中等に入学したが、それでもいざとなれば母の忠告を受けて辞めても良かった。学院に入っても何にもなれないという母の言葉の正しさを次第に理解できるようにもなっていたし、何よりも、学校という閉鎖された学舎の空気に既に飽き飽きしていたからかも知れない。 
 男は彼の決別の言葉に頷いた。懐から男がいつも使っている煙草入れを取り出して、彼に放り投げる。餞別というわけであった。 
 形見を渡しておきたいのだろうかと彼は思い、男の死をどことなく予感している自分に気付いて苦笑になりかける。漢氏竜の浮き彫りのある銀の箱は、その重み以上にずっしりした感触を手に与えた。 
 これは男の命そのものに思えた。男が地上から消えたときに、その生きていた証拠を残しておきたいのだろうか。そんなことを思えば尚更悔しい。 
 いなくなった少年王の後を追って行きたがっている。男の頭の中は結局死者のことで占められていて、自分は入り込めなかったのだから。 
 馬鹿だと言ってやりたい気もするし、形見を預けてもらったことを感謝したい気もする。だからどちらでもなく、彼はありがとうといった。男は微かに笑った。嫌な笑顔だ、と彼は思った。 
 死ぬことも覚悟してしまったから、突き抜けたように穏やかだ。 
 馬鹿野郎。腹が立って仕方なかった。 
 彼はだから自分の心残りだけを満たすことにした。もういい。関係ない。だから最後は自分の好きなように利用するだけでも良いんだ。偽悪だったのかどうか、判別はしがたい。 
 ……先の少年王を暗殺した相手は不明であった。男も手を尽くしたようだったが結局分からないらしい。その時の様子は他の少年たちから小耳に挟んでもいるが、男は犯人を断定できないまま勝負へと踏み込もうとしている。犯人というのが誰であるか、興味がなくもない。男からは何かを聞き出すことが非常に困難……と言うより気骨の折れる作業だったが、別れの間際に隠し事もすまい。 
 少年王が死んだとき、まず最初に疑いの目を向けたのはタリア王であったと男は言った。状況が示唆していたのもそうだし、決闘をすると決まった相手もそう強く主張していたようだ。 
 ああ、そいつか。彼は思う。何かを強く言い募るときは、それを頑なに信じているときか、そうでなければ他人の目を違う方向に向けておきたいときだ。その相手が何故、という動機の部分は残っているが、身内であるからには降り積もるものもあったのだろう。血縁はないようだから、手に掛けるのに躊躇う理由は殆ど存在しなくなる――本人の、自覚と自戒以外には。そして聞くだけでもあるが、その相手にはそうした部分が欠けているようだった。 
 大まか真実を得て、彼は男に背を向けた。もう会うまい。自分を棄てた相手にしがみつくなんて、女じゃあるまいし。刷りこもうとする傍らから、この場所が好きだったのだという思いがこみ上げてくる。彼はまっすぐに男に視線を向ける。これが最後になるのか否かは分からないが、死に行くつもりであるならば手向けに、そしていつか再会することがあるならば小綺麗に飾りたかった。 
「俺、あんたのこと、好きだった。本当だぜ。助けてもらったことは忘れない。どこにいても何をしていても、あんたの為に幸運を祈ってやるよ」 
「そいつはどうも」 
 他愛なく男は返答し、やや間をおいて元気でなと付け足した。男が自分を気遣うのを何故か誇らしく受け止めながら、彼はあんたもね、と返して背を向けた。 
 多分、もう会わない。それが良かった。
 彼は不機嫌だった。今日から再び、刺激も何もない退屈きわまる日常が始まる。学舎の中では「可憐で華奢で聡明な美少女」となっているから一挙手一投足まで気を遣いひたすらに少女らしい仕種や表情を心がけているが、それも裏町で奔放に楽しんでいたときに比べれば味気ない、砂のようなものだ。身に染みついている動作だからそう違和感はないだろうが、どんな時にも自分のまとう表面が気になる辺り、習慣というのは恐ろしいものだった。 
 そんなことを思って微かに溜息になる。そうすると、隣に座っていた少年が彼を見た。何でもないわと笑ってみせると微かに頬を赤らめて俯く。
 ――あー……やってらんねー…… 
 うんざりという表情を今ここで出来ればどれだけ爽快だろうかと、彼はそんなことを考える。また面白くもない一日が始まるのだと思いながら鞄の中から本やノートを取りだしていた彼の耳に、教室の扉が開く音が聞こえた。 
 各科目は運動科目以外は個人の進行の度合いによって特科・上級・中級・初級に分かれているが、同じ学年ごとの行事などもあるために朝の最初の時間は学年講義ということになっている。ほとんどは、教師の訓示やら成績の伝達やらに使われているが。 
 ざわめきが聞こえたときも、そう気にせずに彼は本の背表紙についた汚れを取ることに熱中していた。どうやら新入生らしい。年次の途中での新入生は非常に珍しかったが、そういうこともあるだろう。 
 だが、級友たちのさざ波は少しも収まらなかった。肌にちくりちくりと突き刺さるように視線が向いてきて、彼は居心地悪く顔を上げる。級友たちのほぼ半数は彼を見て、残りの半数は教師の方を向いていた。 
 彼は怪訝に横を見る。隣の級友はぽかんとした顔で前を見ており、彼の視線に気付いたらしくふと横を向いた。 
 深い井戸に投げた石の音が、数瞬遅れて響くように。級友の顔に驚愕と呆然の混濁された色が立ち現れてくる。その視線が吸われるように前へ戻ったことで、つられて彼も教壇を見た。 
 まず目に入ったのは、射し込む日に輝き返す瑠璃色だった。僅かに遅れてそれが他人の髪であることに気付く。 
 心臓が僅かに……止、ま、る――― 
 彼は唇を僅かに開き、そして身動きをやめた。同じ顔。 
 自分と、全く同じ顔をした少年が、そこにいた。髪を染める前に鏡を覗けば現れる自分と、全く同じ顔立ち、同じ髪色、同じ瞳色。頬の形や肌の色味、背格好までほぼ同じだ。 
 教室全体が揺らめくように囁きが行き交うのも無理はなかった。彼は髪を黒く染めて化粧をし、やや眉の形や睫の長さなどをいじって少女に近く自分を擬態しているが、鏡に映したように自分たちは似ている。染め粉を落として衣装を変えれば、誰も気付かないかもしれない。 
 そうでなくても彼も、そしてこの少年も類い希な美貌の持ち主であった。似通った系統の正統派の麗質が2人もいるならば、確かに話題には十分といえた。 
「リュースといいます。よろしく」 
 やや平板な声は多少違って聞こえるが、自分の声というものは案外自身では認識しにくいということは知っている。彼の声を聞いたことのある人間なら声も同じだというかも知れない。少なくとも、骨格が似ていることで、ある程度の近似はあると予想は出来た。 
 スカートの下で震えている膝に彼は不意に気付き、片手でそれを押さえ込んだ。 
 なんだ、これは。 
(中央中等だけは駄目) 
 母さん、どういうことだよ? 
(あそこでなかったら、どこでも好きなところへ行っていいから) 
 こういうことなのか? だから駄目なのか? 
 教師の指示で彼の隣に腰を下ろした少年は、教室内の私語の波など聞こえないように平然とノートを取りだしている。整いすぎるほど端正な横顔。一瞬目を奪うような美貌。こんなものが、自分以外にいたなんて……! 
 彼の視線に少年は気付いたようだった。ふと顔を向けて仄かに笑う。こうした他人の反応になれている笑みだった。 
 彼はそれに気の抜けるような安堵を感じてゆるく笑った。気を揉んでも仕方がない。それよりも少年に近付けば、自分の知らなかった回答が沢山転がっているかも知れない……その考えが彼を更に笑みにした。母は15才になったらと期限をつけてしまったが、それ以前に彼が真実にたどり着くことが出来れば尚更だった。 
 ノートの端に(よろしく)と書き付けると、少年が微笑みながら頷いた。 
(珍しいわね、中途学年に編入するなんて) 
 教室の中のさざめきは収まっていない。彼が声を発しないことで、少年は口がきけないのだと了承したようだった。悪戯っぽく笑って彼の手口を真似、彼の落書きの下に書き連ねる。 
(典礼行事が重なって、入学試験を受けられなかったから。でも10才になったらここへ行くように、父上からも言われていたし。本当は初学年からなんだけど試験の成績が良かったらしくて、この級でいいだろうって) 
(同じ年なのね) 
 何か、ぞろりざわめくものに手が触れたように、心が粟立つ。 
(そうなの? 君は少し年上かと思った) 
(誕生日は?) 
(秋の初め頃) 
 爆弾だった。 
 目の前が白くなった気がした。一瞬焦点が戻らない。彼は目を押さえた。痛い。頭が痛い。亀裂が入って割れていきそうだ。 
「大丈夫?」 
 のぞき込んでくる少年に首を振り、ふらりと彼は立ち上がった。気分が悪い。彼が思わずよろめいたのを、少年が腕を掴んで座らせる。青ざめているのも確かなのだろう、級友たちが彼を見て救護室へと付き添った。 
 救護室の簡易寝台の上で毛布にくるまりながら、彼は目を閉じる。寒い。とても。 
 誕生日は近い。もしかしたら、それも同一かも知れなかった。
 それに……名前。リュースと聞こえた。それが確かなら、更に眩暈のするような事実に向き合わざるを得ない。名前の最初の綴りを一文字変えるだけで、その名は別の響きに生まれ変わるのだ。 
 一度だけ呼ばれた、あの名前。 
(カース様でいらっしゃいますね? ああ、本当によく似ておられる……) 
 多分。何かがある。 
 彼は毛布をかぶったままで必死に考える。まずは少年に近しくなることからで、今まで以上に全てに置いて完璧に少女たらなくてはいけない。顔立ちは誤魔化せる。戸籍上の誕生日は重なっていないし、名前も少女らしい偽名だから問題ない。学年講義以外の授業は重ならないだろうからそれも安全弁の一つになるだろう。 
 必死で自分の足下を確かめる作業をしているのが可笑しかった。彼が皮肉に頬を歪めながら考えに耽っていると、救護室の扉が軋んだ。級友が彼の鞄に荷物をまとめてきてくれたのだった。 
 虚弱と言うほど弱くもないが、壮健といってしまうには根が弱い彼の体質のせいで、これまでも何度か早退している。珍しいことではなかったのだ。口々に彼を気遣う言葉も慣れている。適当にあしらいながら、彼は額に浮いた汗を丁寧にぬぐって笑って見せた。 
(少し気分が落ち着いたら自分で判断するから。ありがとう、みんな) 
 彼の申し出に級友たちはほっとしたように一様に頷く。 
「殿下となにか喋ってたと思ったら急に倒れるからびっくりしたよ」 
 彼が落書きのように筆記で雑談することをみな、「喋る」と表現しているのだった。 
(殿下?) 
 彼は怪訝に聞き返す。 
「さっきの彼だよ。本当はほら、初学年への編入のはずだったけど、編入試験が満点で……――」 
 彼は目を閉じる。他の言葉は耳に入らない。殿下。それは皇族に与えられる呼称だったからだ。 
 麻痺したように、呼吸が出来ない。沢山の情報を一息に手に入れてどうにかなってしまったのだろう。無口になってしまった彼が、まだ本調子でないと思ったのだろう。級友たちはゆっくり寝ていればいいといたわって出ていく。そろそろ授業が始まることもあるだろう。 
 彼は静かになった救護室で、深く、呼吸をする。 
 皇族の構成などそれまで興味がなかったから、最低限のことしか彼は知らない。皇族と呼ばれる範囲は非常に狭い。今上帝を中心にして下は孫まで、女性は降嫁が前提となり、男性は特殊な場合を除いて臣籍降下が当然だ。今上皇帝の2人の正妃とその子供たちくらいしか今はいなかったはずだと彼は一人頷く。 
 皇子たちは4人。2人の正妃から謀ったように2人づつだ。正妃が2人いるのは慣例で、ここ100年ほどは国の重鎮である2大公家から排出されている。誰がどうというのは分からないが、これはいくらでも調べる方法があるだろう。昔と違って今は皇室も民衆の前に出るようになってきているから、写真くらいはあるかもしれない。 
 彼はうっすらと笑う。そう、自分を皇帝の落胤で5人目の皇子だと考えると全ての辻褄はぴたりと合うのだ。 
(あれのことはマリアとお呼びになりますよう) 
(それが身分というものであるからです) 
 この言葉も、そして今彼の前に現れた皇子と自分がうり二つであることも。 
(お前の母親は私よ。私一人よ。お前は私の子よ、私の子なのよ……) 
 あの母の言葉は虚偽か。真実か。
 多分、……嘘だ。彼は顔を歪める。 
 何故なら皇帝の庶子であるなら皇族とはいえず、継承権なども発生しないからだ。自分が真実母マリアの実子であるなら皇帝の庶子であり、これは母親の出自に準じることになっている。あの夜彼を連れにきた男の主人が誰であったのかはまだ分からないが、彼に皇族としての価値がなければ追っ手もかからないし、これほど何かを警戒しながら暮らさなくても良いはずなのだ。 
 彼は毛布の下で涙をかみ殺した。これは母にはいえないことであった。自分を真実産んだか否かはさておいて、今まで自分を守り、十分に愛し慈しんでくれたという意味に置いて、母親でなくとも母は彼女一人だった。 
 彼は溜息になった。 
 今日は母の顔を、見たくない。ひどく、心苦しくて……悲しかった。ほんの一日前から、沢山の物がまた自分の手から零れて、深淵の闇の中へ落ちていくのが見えた気がした。
 翌日寝不足のままで中等学舎へ行くと、例の殿下は既に来ていた。挨拶代わりに微笑んでみせると、そちらも頷く。他愛なくノートの端で雑談を交わしながら2人で微笑み合っていると、級友たちの目がこちらへちらちらと向いているのが分かった。 
 皇子はその生まれと年齢の若さ故に孤独たることをある程度覚悟していたのだろう。同じ年齢の子供がいるとは思っていなかったようで、それが嬉しかったようだった。崇められる孤独というものを彼が感じているのも皇子は分かったらしかった。それは恐らく、皇子も身に覚えのあることなのだろう。 
 皇子がこの学年に編入してきたのはどうやら偶然ではなかった。皇子の孤独というものに学院が配慮し成績の良さも加味した上で、彼と競わせあるいは共同で魔導の研究にいそしませるつもりがあるのだろう。 
 彼と同じく皇子も魔導にはよく通じていた。体力の問題があって詠唱は殆ど行わないようだが、皇子はその気になれば魔導士を借り出すことが出来る。 
 殆どの科目を皇子は中級から始めるようだった。恐らく、すぐに自分に追いついてくるだろうと彼はほくそ笑んでいる。接する機会が多くなればそれだけ皇子の周辺について知る機会が増えるからだ。雑談の端々から皇子が後宮でそれなりに教育されてきたことが窺えた。 
 まるきりの他人ではない。自分たちは似すぎているし、魔導の資質は遺伝する。皇族を中心とした筆頭の貴族たちはそれが不得手ではないのだ。兄弟であることは間違いないだろうと彼は思っている。 
 問題は自分が何故今まで放り出されていなくてはならなかったのかということだ。その疑問が解けるまでは様子を見なくてはいけない。何よりも、母があれだけ怯えているのだから。 
 午前中の科目が全て終わり、昼食の時間になると再び皇子と同じ教室になった。本当に仲の良い兄妹のようによりそう自分たちを見て、全員が溜息になっている。絵になるのだろう。 
 ノートの端の雑談。本当に、何の変哲もない光景に見えているだろうか。彼は既にそれが癖になりつつある、「他人から見た自分」の検証に余念がない。ほころびがないかどうかをいつでも確かめているのは最早習性に近かった。 
 午後に入って最初の科目は運動で、これは彼は免除されている。いつものように魔導論文の続きでもと彼は図書館へ向かった。司書も心得ていて、彼の来る時間にはいつもの籍に、魔導呪文用のタイプを置いてくれているのだった。呪文用の記号は日常の言語とは全く異なる字体を使用するため、専用のタイプがある。 
 秋も少しづつ深まっており、所々に落葉が彩る中庭を彼は図書館へ急ぐ。今手に掛けている論文が当選すれば、賞金が出る。金は幾らあっても邪魔にはならないものな、と内心で皮肉に笑っていたとき、後ろから呼ぶ声が聞こえた。皇子の声だとすぐに分かった。 
「私も運動は免除で。昔から、身体が弱くてね」 
 だろうね、と彼は心で深く納得する。自分もそれほど強い方ではない。体質も似ているのだ。自分はそれでも環境で鍛えられた部分を持っているが、皇子の場合は国で最高の医師団がおくるみについている。耐性がついていないのだった。 
 図書館はいつものように司書以外は誰もいなかった。ここが学生でにぎわうのは基本的に放課後のことだ。司書は彼と皇子を認めて頷き、いつもと同じように何かあったら呼ぶようにと言い残して奥の司書室へ消えた。本の整理や管理は彼女の仕事だったし、彼がいつもここで魔導論文を書いているのを知っていたから配慮でもあろう。タイプはいつものようにいつもの場所へ置いてある。 
 彼は前回の続きをタイプに差し込み、資料を揃えて普段と同じくそれを打ち始めた。 
 静かな図書館に、彼の打つタイプの音だけが響く。必要な資料を取りに行って戻ってくると、離れた席で進級試験のための参考書を読んでいたはずの皇子が自分の打ちかけのタイプを覗き込んでいた。 
 どうしたの、と彼は皇子の肩をつつく。皇子は少し笑い、そして司書室の方を見、図書館全体を見回した。彼は曖昧に首を傾げて微笑んでみせる。資料の本を机に置こうとしたとき、皇子の声が細く言った。 
「一つ聞いてもいいかな」 
 魔導の話だろうかと彼は頷く。自分の椅子に腰掛けながら隣を勧めると、皇子は素直に従った。筆談を、と雑記用のノートを取りだしていると、その手を皇子が押しとどめた。彼は怪訝な顔で皇子を見た。皇子は苦笑していた。 
「何故、女の子の格好をしているの?」 
 ――息が、止まる。 
 彼はしばらく皇子の顔を見つめていた。指がゆるんでノートが床に落ちる。軽い音が僅かに広がった後は、静寂になった。皇子は彼と同じに美しく瑕疵のない顔でゆるく笑った。 
「女の子のふりをしているのは何故? 喋らないのはそのせいだね?」 
 微かに唇が震え出すのが分かった。 
 今、貧血で倒れてしまえば全部聞かなかったことに出来るかも知れないのに。彼はそんなことを思ったが、僥倖は訪れそうになかった。凍り付いたように身体全てが動かない。 
 彼が黙っていると、皇子は微かに、彼を宥めるように笑った。 
「誰にも喋らないと約束する。何か事情があるんだろう? 私は立場上、魔導士を借り出すこともできるし軍務と王宮に関することならどうにかなることも多い。このままでは君は、とてつもなく不幸になるよ」 
 彼はぎこちなく首を振る。皇子の最初の言葉だけがぐるぐると渦を巻きながら胸に落ちてくる。胸内の深淵にそれが沈んだとき、彼は喉をならした。身体中の血液が冷えたようだった。 
 この皇子は一体何をどこまで知っているのだろう。どこで、いつ、どうして勘付いたのか。そんな疑問と、この言葉自体が何かの罠ではないのかという疑念がせめぎあって、瞬き一つできない。 
 彼が痺れたように硬直したままで震えているのを見て、皇子はますます柔らかに笑った。多分それは自分が他人に向けていた笑顔そのままだった。自分のしてきたことを正確に打ち返されて、彼はすとんと観念する。一番深い場所に覚悟が座ってしまうと、ひどく気が抜けた。 
「……何故……」 
 皇子以外には絶対に聞こえないほどの小さな声で、彼は呻く。皇子はそうだね、と笑うと彼が取り出しかけて床に落としたままのノートを拾い上げた。 
「君の魔導論文、昨日おおまか読ませてもらった。とてもいい論文だと思う。特に新機軸といわれている時間の生成は面白かった。実に興味深い。あれを読めば誰でもそちらへ目がいくと思うけどね」 
 通常、時間というのは等しく流れていくものだ。魔導もそれを歪めることは出来ないとされる。彼の論文というのは層次元換算の数値をあらかじめ導いた上で次元軸に理論上存在するといわれている時間軸を融合させて魔導に組み込む、というものだ。 
 魔導士はおしなべて身が軽いが、これは身を軽くするための沢山の魔導の力と本人たちの鍛錬の成果で、同じ一瞬でも動作をより多くこなすことによって、常人からは驚異的に見える身体能力を生み出している。 
 彼の唱える理論は時間軸を魔導の力で調整するもので、簡単に言うなら時間を無理矢理個人の裁量で引き延ばすことが可能であるとするものだ。数字的には未知数が多いとしながらも実験の価値はあるとまとめられたそれは、魔導理論の中では数十年ぶりに出てきた新理論であった。 
「でも、あれはいくら優秀でも女の子の書く論文ではないよ」 
 皇子は呆然としたままの彼の肩を軽く叩き、魔導理論の最新の本を広げた。 
「男性と女性では詠唱可能な呪文の範囲が違うよね」 
 魔導とは音階と韻律で自然界との契約を為し、力を自分なりに組み合わせて使用するものだ。呪文は知識のないものが聞けば歌に近く聞こえるはずであり、音域の幅に関わらず一つの効果を生むための絶対音階が存在するため、男性と女性では明確に得手と不得手があった。子供でもまた少し違う。 
「――君の論文は明らかに男性向けだ。低い音が沢山出てくる。女性向けの呪文でも構成さえ変われば同じ事が出来るはずなのに、それには一言も触れていないよね。自分で使うことをまるで想定していない術者って、いるものなのかな? それに魔導の呪文を構成するときって、無意識に自分の性別に沿うものだ。本能に近い部分で、自分に出来る方を選ぶんだよ。私は最初にこの論文を見たときとても面白いと思った。そして読み返して呪文の構成を見たときに、男性向けだなと思った。でも本当は」 
 皇子は苦笑する。 
「昨日君の腕を掴んだとき、少し変だなって思った。だって、君は細くて痩せている割に腕にちゃんと筋肉がついているから……女の子の腕はもっと柔らかい。力のある女の子であるなら、もう少し大柄だ。だから君の魔導論文を読んだとき、この子は男の子じゃないのかと思った。喋らないのも、運動に出ないのも、全部それで分かった気がした。喋らないのは声が変わるからで、運動に出ないのは女の子とは明らかに記録が違うのが分かっているからだ。君は……」 
 皇子は彼が打ちかけて止まったままになっているタイプに視線をやる。彼は喘いで額を指で押さえた。 
 そこにあるのも、隠しようもなく男性向けの呪文構成であった。人は呪文の構成をするとき、誰でも自分の性別に添う。絶対音階に照らして少しでも自分の楽になるように、頭の中で詠唱しては無意識に調節しているのだ。 
「君は、徹底して男性向けの呪文しか書かないんだね」 
 彼は立ち上がる。もう駄目だ。 
 この皇子が気付いたことを他の誰かが気付かないと言う保証はどこにもない。彼の論文がひどく複雑な呪文の構成と長い詠唱と、煩雑な次元換算の知識がいることがどうやら幸いして今まで論文の理論を確かめるような実験は行われていない。 
 だが、それもいつかはやってくる。論文の筆者が女性なら、最初の実験に選定される詠唱者は女性の魔導士になるだろう。そして、それはこの疑問の露呈だ。似たような疑いを持つ人間が必ず現れる。 
 母さん。終わりだ。 
 襲撃者たちがそれを見過ごしてくれると言う甘い期待を彼は抱いていない。皇子に接近して自分の身の上を知ることも、その上で自分の選択を決めることも、全ては身の安全の確保が前提だ。自分の命と母の平穏を賭けてまで欲しい答えではなかった。 
 諦めろ。この、理性の声がするうちに。今までのように。鮮やかに。 
 彼はゆるく首を振り、それまで打っていたタイプから用紙を引き抜いた。皇子が彼を見上げた。 
「逃げるんだね」 
 皇子の声が言った。彼は皇子を見る。同じ顔の、同じ色の瞳に映るのは哀れみだった。彼は顔を歪める。憐憫など欲しくなかった。皇子もまた立ち上がった。背丈はほぼ同じくらいだった。真向かって立っていると、まるで鏡に映ったようだと彼は思った。 
「私は君が可哀相だと思った。君はこのままでは一生日の当たる場所に出ることが出来ない。公職はもちろん、まともな仕事にだって怪しい。君には沢山の才能があるはずで、それを自分でも知っていると思うのに君には何一つ、正当なものは手に入らないだろう」 
「……うる、さい」 
「そうだね。これは余計な世話というものだ。だから私は君が逃げていくことを知らないふりをしよう。君は少し気分が悪くなったから早退するんだ」 
「……あんた、」 
 彼は声を絞り出す。押し殺した声は緊張で震え、自分でもおかしいほどかすれて男らしい声に仕上がっていた。 
「俺を強請っても何も、出ない、ぜ……」 
「ああ、そんな風に喋るんだね」 
「うるさい」 
「ごめんよ。私はそんなに大ごとだと思っていなかったのかな。でも私のせいで逃げていくというのなら、謝ろう。これを」 
 皇子は自分の髪を留めていた金のピンを抜いた。さらりと瑠璃色の見事な髪が肩を覆ったように落ちた。 
「地金の純金と、ついている石は本物の紅玉だから」 
 彼は泣きそうになる。皇子は確かに善意で言っているのだ。彼の正体を暴いてやろうという気はなかったのには違いない。だから餞別を躊躇いなく受け取るには抵抗があった。 
「いらない」 
 彼は皇子の憐憫を払いのけ、図書館の出口に向かって歩き出した。数歩行って振り返り、掴んだままだった書きかけの論文を机に置く。 
「殿下の指摘してくれたことは、俺には救いだった。礼を言っておくよ。気付かなかったら間に合わなかったかも知れないから……でも、何かをしてくれるというならこの論文を、処分してくれたら嬉しい」 
 皇子は頷く。ありがとうと彼は呟き、まっすぐに出口へ、再びの迷走の中へ、流転の旅へと向かうためにその場から立ち去った。
 ……母に皇子の話は出来なかった。ただ、彼は魔導の一件を掻い摘んで説明し、未来に渡って危険の目があることだけを母に告げた。母の決断はそれまでと同じく早い。制服や鞄や本などの日常使っていた品は殆どそのままに、身の回りの最低限のものだけを鞄に詰め込んでいく。
 5年前のあの夜よりは時間に余裕があるのは確かだった。母は預けて置いた現金と宝石を引き出しに出かけていく。この戸籍ももう、使えない。この国を離れた方が良さそうだと母は言っていたし、それには彼も賛同した。他国へ紛れ込んでしまえば少しはましだろう。 夕暮れの中を女装のままで彼は母の帰ってくるのをぼんやりと待つ。駄目だと思った瞬間に諦めてしまう自分の性癖を、少しばかり悲しいと思いながら。 
 彼は張り出し窓にもたれながら、次第に暗くなってくる路地を見つめる。 ―――裏町の少年王を決めるための勝負はそろそろ刻限のはずだ。本当ならどこかで自分はそれを見物していただろうに。 奴に教えてやろうか。そんな考えが彼の脳裏に浮かんでくるのを沈め、沈めてはまた発見し、それを繰り返して彼は溜息になった。鏡に映る自分はやはり女装姿、これから先の町々でもこんな事に繰り返しになるのだろう。 
(このままでは君は、とてつもなく不幸になるよ) 
 皇子の言いたいことは分かる。どんなに親しくても自分自身を全て預ける相手を持てなければ、それは不幸だ。他人の好意という海の中で、信頼が掴めなくて溺れ死ぬ。 彼はまた溜息になる。あの男に話した以上の秘密を抱え込んでしまったとはいえ、彼にとっては男こそが信頼を預けた相手といえるのかも知れなかった。多量に結果論的なものを含んではいても、自分の秘密を見せたのは事実だ。 
 男は……死ぬだろうか。どちらでもいいと言うような投げやりさだった男の態度を思い返すにつけ、そうなるだろうという確信が上がってくる。男の一番の従者だった少年も、そうなれば生きていられないかも知れない。少年たちは徒党を組んで相争うことに血道を上げており、人を殺すことなど少しも躊躇わない。男の寵臣であった者たちは揃って死を迎えるだろう。残酷で激しい死を。 
 彼は顔を歪める。 裏町での日々は楽しかった。彼にとっていつか再び会いたいと思う相手がいるとすればあの連中だ。学院の級友たちでも、優しい皇子でもない。還る場所をみすみす失うのか、俺は。 窓の外は、次第に濃い夕闇。彼は目をすがめる。藍色の空に消えていく、日の名残…… 
 彼は跳ねるように背を起こした。飛ぶようにアパートの螺旋階段を駆け下り、表へ飛び出す。間に合うだろうか。男に怒りと、決闘の相手に対する憎悪を呼び、ひいては勝利を確約する魔法を、彼は知っているのだった。 
 裏町の根城へ近付いていくと、通りは静かだった。不気味なほどの静寂が汚い町並みに沈殿している。いつもここを通って男の根城へ行くとき感じた刺さるような視線もない。全員が息を潜めて成り行きを待っているのだ。 彼は男が根城にしていた古い屋敷へ駆け込む。丁度顔見知りの少年が、廊下を歩いてくるのが見えた。 
「あれ、どうしたんだよ? 出入り禁止って言われたんじゃなかったっけ?」 
 不思議そうな少年に構わず、彼は男の足取りを聞く。回答だけを頭に叩き込んで、来たときと同じくらい迅速に、全力で駆け出した。背後で少年がどうしたんだよと叫んでいるが、子細を話している時間も、少年に構っている時間もなかった。 少年に教えられた道筋を駆けていくと、やがて見慣れた背中が見えた。男の名を呼びながら彼は男を追う。振り返ってくれないのは男が無視を決め込んでいるからだ。畜生、と顔を歪めるが、それは苦笑に似ていた。 
「もう来るなと言ったはずだ」 
 男の声は僅かに低い。彼は少し笑って苦しい呼吸を整えるために膝に手を当てた。その脇を男がすり抜けていく。慌てて前に回り込むと、男が心底つまらなそうな顔をした。 
「もう来るな」 
「分かってるよ」 
 男は眉を寄せる。分かっているものかという言葉が出る前に、彼は自分の切り札を示す。――即ち、少年王の死の真相を。 
 男の反応は顕著だった。僅かな時間の呆然を抜けると、そこにあったのは全てを焼き尽くすような怒りだった。肌は夕暮れの中でも分かるほど青白い。怒りのあまりに青ざめているのだ。 彼は男の端整な顔立ちを見つめる。今まで彼が接してきた無気力感や厭世観などは剥げ落ちて、男の煮える憎悪が青白い燐光になる気さえした。背が冷える。圧倒的な威圧の前に、彼は暫くそれを見つめていた。 
 男は目を閉じる。何か呟いたが分からない。喉が干上がったように痛くて、どうしたのかは聞けなかった。男は笑っているようだった。嬉しくてたまらないというように喉を鳴らし、それが声になって溢れてくるまで幾らもなかった。真実男は歓喜している。自分の手で、崇拝していた少年王の敵を殺し、八つ裂き、死と、死より深い苦痛を与えることが出来るのだと狂喜しているのだ。 
「礼を言う」 
 男が笑いながら言った。彼の秘密の替わりに俺の勝つところを見せてやろうとも言い、陶然と笑っている。出入り禁止も同時に解かれた。男は自分の勝利を信じている。彼が男の元にこれからも通うことが出来るということは、男がこの決闘に勝つということであった。 
 彼は寂しく笑った。欲しかったものが手にはいるのに、それを棄てて行かなくてはいけないから。けれど、それはいつかまたこの街に足を踏み入れても良いのだという希望にすげ替えようと思いながら彼は淡々と、転居することを伝えた。 もう家に帰らなくてはいけない時間だった。母もそろそろ戻ってくる。自分が家にいなければそれは心配するだろうから。 
「そうか、だが、何かあって俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ。借りは必ず清算する」 
 男の言葉が沁みるほど、嬉しかった。 
「また、いつかね」 
 それを言えるということも、何より貴重だった。 
「俺、あんたたちといて楽しかった。本当に、楽しかった。とても」 
 彼は言って、手を差し出した。握り返された手のぬくみ。それが手から消えない内に彼は背を返し、未練と過去となるべきものから走り去った。 
 ―――男の名はライアン・ロゥ。 彼の人生の中において、避けては通れない共棲者であり罪の理解者であり、最大の敵と最良の下僕の全てを兼ねる男、……いずれ。 



 そしてそれから3年を、流浪しながら彼はほぼ平穏に過ごす。簡単な魔導を施した硝子玉や母の手刺繍などを売りながら旅を歩き、その時の売り物によって性別を適当に振り替えた。 
 背が伸び、声が低くなってもそれは続いた。魔導の修練を続けていた彼は声音を使うことが難しくなかった。襟の詰まった服を着て薄化粧をして微笑みながら男相手に飾り釦を、化粧を落としてすらりとした体格のままに人懐こく笑いながら女相手に小物を売っていくことが、彼は決して嫌いでなかった。 
 永遠にこんな日々が続くと思っていたのは幼い証拠なのだろうか。 母が倒れたとき、彼はそんなことを思った。
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