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8/25/11 日韓ドラマ戦争

某俳優が「○○テレビ局は韓国ドラマばかり放送していてる」と噛み付いて、それに賛同するおかっぱ頭の某タレントが気炎を上げたりと、喧しい。

正直、不愉快なら見なければいいだけの話だと思うのだが、俳優ともなると、収入に響いてくるので、そうも言ってられないのだろう。

韓国ドラマが持て囃される理由は簡単である。おもしろいからだ。あるいは逆に言ってもいい。日本ドラマがつまらないから、相対的に韓国ドラマが面白く感じられるのである。

90年代の日本ドラマは面白かった。もう圧倒的に面白かった。韓国でも台湾でも、日本ドラマは引っ張りだこだった。それがつまらなくなった理由は、幾つもある。

1)きちんとオーディションをせず、軽率に人気タレントを多用した。

これには視聴者も一役かっている。人気タレントが出るというだけで、そのドラマの視聴率は上昇するので、テレビ局もその方を選んでしまう。結果、俳優の層も質も低くなり、まともに芝居のできる人が少なくなってしまった。さらに人気タレントを起用し続けた結果、

2)芸能プロダクションの言いなりとなって、演技の下手なタレントを起用し続けた

という弊害も大きい。これを拒否するとプロダクションは人気タレントを回さなくなるため、視聴者は事務所のごり押しするタレントの大根芝居を見させられるハメとなった。この現象が永続化した結果、ドラマは話の面白さ、演技のうまさ競う場でなく、タレントの宣伝の場と化してしまった。

3)細切れの放送スケジュール。

日本のドラマは週一回3ヶ月、12回程度であり、大河ドラマにしても50回前後である。一方韓国ドラマは50回がスタンダード(チャングム)であり、80回(イサン、チュモン)もざらである。このような長い話になると、監督も脚本家もあるていど冒険ができ、目先に追われずに骨太のドラマを構築することができる。

4)マンネリ化したストーリー

大河ドラマがつまらないのは、毎年毎年戦国時代ばかり飽きもせずにやり続けているからである。たまに幕末維新をやることはあっても、それ以外の時代は滅多にやらない。卑弥呼や壬申の乱などもやればいいと思うのだが、絶対にやろうとはしない。結果、先が完全に予測できてしまうので、見る気が失せてしまう。

対するに韓国の歴史ドラマは日本人にとっては新しく、先が読めない上、脚本家の創意工夫が詰まっているので、毎回ハラハラしながら見ることができる。

5)クサイ芝居

何と言うか、日本演劇にはうまければうまいほど臭くなるという問題がある。日常言語と演劇言語が乖離しているので、演劇的に洗練された言葉を発すれば発するほど、白々しくなるという難問である。海外ドラマは吹き替えだったり、字幕だったりするので、このような問題は回避できる。

ただこの問題は大河などの時代劇を見ると、単なる乖離の問題とは片付けられない射程をもつ。というのは時代劇は日常と乖離して当然なのに、なぜかそれを演じる役者は異様な臭気を臭わせるのである。「おれは時代劇してるんだぞい」という自意識過剰のようなものが、あるいは歌舞伎と時代劇を取り違えているのか。

6)コスト

もともとドラマは製作するより買った方が大抵は安くつくが、ウォン安も追い風となったのが、実は韓国ドラマ全盛の舞台裏だろう。いわば海外の格安製品に侵食され、空洞化が進んでいるというのが日本のドラマ界である。

日本ドラマ界も悪習にメスを入れ、大胆な構造改革を行って生産性を引き上げなくてはいけない。問題の一つは下請け構造である。スポンサーからの資金をテレビ局がほとんど搾取してしまい、プロダクション、下請け、孫請けを経て、実際にドラマを作る側にはほとんど資金が行き渡らないという悪癖を続けていると、姉妹には共倒れとなるだろう。

またこのことと絡んで、テレビ局設立が認可制となっているのも大きな問題である。事実上新規参入が不可能であり、新規組はネットなどに参入せざるをえず、それがテレビ局の地盤沈下を加速化させている。テレビ局はそろそろこの斜陽化現象の遠因が認可制度にあると認めるべきだとおもう。

8/24/11 エンデュランス号漂流記

1914年、南極大陸黄疸に赴いたイギリスのシャクルトン探検隊だが、船は流氷に阻まれた挙句、圧壊。人の乗組員は犬ぞりに船荷を積み込み、南極脱出を目指す。

苦闘の末に海に出た一同は、エレファント島にたどり着くが、そこは絶海の孤島で助けが来る見込みはなかった。本国も第一次世界大戦に突入し、救援隊を送る余裕はない。

窮まったシャクルトンは、自らと部下5人でボートに乗り込み、千キロも離れたサウス・ジョージア島に向けて旅立つ決意を固める。その島には捕鯨基地があり、そこで救援隊を組織して戻ろうというのである。

航海は辛苦を極めた。

帆と甲板を付けたとはいえ、6,7mのボートで千キロも行くのは日本近海でもたやすいことではない。ましてや南極周辺の海は「roaring forty, furious fifty, shrieking sixty - 吠える40度、怒り狂う50度、叫ぶ60度」と呼ばれるほど荒れ狂う海で、しかも季節は冬で、水飛沫はすぐさま氷結してしまう。

しかシャクルトンらはわずか2週間の航海で見事に目的を達成したのである。

     ☆

一方取り残された退院らも無事ではなかった。

エレファント島は岩石に覆われ、草木はおろか、風雪を凌ぐ場所さえなかったのである。隊員は石を積み上げ、ボートを屋根にして小屋を設営。アザラシやペンギンを獲って食糧とし、その油脂を燃やして暖を取り、冬を過ごした。

一名の隊員は鬱病となり、もう一名は凍傷で足指を切断しなければならなかった。

待つこと4ヶ月、ついにシャクルトンは島に戻り、探検隊員は全員が無事、救出された。

極地探検というのは、実に死傷率の高い活動であった。シャクルトンより少し前、南極点を目指した同じイギリスのスコット探検隊は全滅。人類初の南極点到達をめぐってスコットとデッドヒートを繰り広げたアムンゼンも、最後には北極で遭難死した。

その中で一名の死者を出さずに生還を果たしたシャクルトンの手腕には、特筆されるものがある。分析すれば彼および隊員らの成功はこのような点にまとめられるだろう。

1)判断の迅速さ、的確さ
刻一刻と変化する探検隊の状況、周囲の環境から、固定観念に囚われずに、取りうべき最善の行動を選択。船が沈没すれば犬ぞりに、犬ぞりが危険だと判断すればすかさず海路に、切り替える状況判断は実に見事である。

2)無理をしない現実的な判断
通常人であれば、ボートで一気に有人島めざして北上しただろう。しかしそれは危険極まりなく、シャクルトンは無理せずに一度、エレファント島で体勢を整えてから、再出発した。この無理をしない慎重さは、随所でシャクルトン隊の命を救っている。

3)意志の強さ、気力のコントロールのうまさ
どんな苦境に陥っても、決して諦めない意志の強さ。幾度となく絶望の淵に叩き込まれても、必ず復活する気力の確かさ。

日本人には我慢強い人が多いが、シャクルトンのような打たれ強さがある人は稀有なように思う。シャクルトンは無理に気力を保つよりも、酒や賭けなどを許して隊員の気力を保つなど、気力のコントロールにも気を配っていた。

4)創意工夫、臨機応変
何も無い島で小屋を作り、食糧を確保し、燃料を手に入れる。船が揺れれば寝袋をクッション代わりに使う。様々な創意工夫が、隊員の命を繋いだのである。

8/23/11 ドリトル先生

ドリトル先生シリーズ第二弾、「航海記」の翻訳にとりかかる。

今回の主人公はいよいよ狂言回し、スタビンズ助手の登場。貧乏靴屋のせがれ、スタビンズと先生との馴れ初めが描かれている。

ドリトル先生を読んだのは、小学生のころだが、大人になって読むと、色々な伏線や背景があったことが分かって、けっこう味わい深い。

たとえばこの航海記は、動物史を探るのが主目的だが、当時は新進気鋭の学者、ダーウィンが登場したころで、進化論についての論争が喧しかった頃である。結局は進化論が正しいと証明されるのだが、作者ロフティングは創造説を信じていたようだ。

また海底を旅するエピソードも出てくるが、ロフティングがこの本を書いたのは、ちょうどWW1でUボートが圧倒的な戦果を収めた直後のことである。(ロフティングは第一次世界大戦に従軍している)

だから「航海記」は、出版当時(1920年代)としては流行にのった、センセーショナルな側面をももった本ともいえる。

8/22/11

冷房が壊れた。

修理を依頼したが来るのは9月になるという。仕方ないので扇風機を買った。S友の在庫一掃セールで、投売りされていたヤツを買ってきた。

いかにもすぐ壊れそうな、長持ちしなさそうなヤツだ。実際、説明書を読むと、設計寿命は6年間だという。つまり6年たてば死ぬように出来ているのである。

人間には、寿命がある。

当たり前と思われるかもしれないが、「寿命」というのは身長や体重と違って、少々物理的な性質が異なる。というのは長さや重さは人間が自由に変えられる物理量だが、時間はそうではないからである。

時間は一方方向にしか進まない。そしてその方向とは、エントロピーの増大である。エントロピーというのは無秩序を測る指標で、時間がたてばたつほど、無秩序は増大していく。この現象を人間は「時間がたった」と定義したのである。

これを生命に当てはめると、生命にとっての時間とはDNAのコピーの連続であり、コピーである以上、次第に無秩序が侵入してコピーが劣化していく。そして劣化し切ってガンが発生したり、諸機能が弱ってもはや生命を維持できなくなったときが「死」である。

しかも面白いことに、その「コピー」の回数を司る遺伝子まであるのだという。つまり何千回、何万回かコピーが繰り返されると、自滅するような時限爆弾がDNAには仕込まれているのだという。これは古い遺伝子は早々に遺伝進化の舞台から消え去ってもらうための仕組みなのだそうだ。

逆に言えば、そのような時限爆弾を解除してしまえば、人間の寿命は百を軽く超えることができることになる。

だが生物の操作というのは理屈は簡単でも、実行はむずかしい。時限爆弾を解除すると、いつまでも死なず、無限に増殖してガン化する細胞が出てくるからである。

ただ寿命のメカニズムがかなり解明された以上、今世紀、人間の寿命は劇的に延びる可能性はおおいにあるだろう。

長い長い寿命をもちながら、その足元には寿命が短い扇風機がくるくる回っているのだ。なにか滑稽なようでいて、その実ある種の軽い真理に触れたような気もした。

8/21/11

グループ参加型クーポンが日本に上陸して一年ほどたち、外資系の「グルーポン」と、リクルート系の「ポンパレ」が詩情を二分しているもようだ。

激安、ものによっては70%, 80%の割引は当たり前と、メリットは大きい。当初は注文が殺到して店が応対できず、「いつも予約がいっぱいで、空きを待っているうちに期限が切れてしまった」、「写真と全然違う御節料理が届いた」など、苦情が多かったが、今では店側も利用者側もコツがつかめてきて、すっかり定着した感である。

ただ依然、デメリットも多い。一つは期限が短いこと。ちょっと忘れている間に期限が切れてしまった、ということがよくある。クーポン会社も「1~2割は期限切れ」と店側に説明していることが明らかにされたが、道徳心がないと感じてしまう。

道徳心がないといえば、クーポン会社の取り分が50%というのもかなりの暴利である。これでは店側には利益は出ないし、下手すると赤字である。それでもなおグルーポン市場が活発なのは、宣伝効果が大きいからである。リクルートのような大手に宣伝を打ってもらえば数百、数千万の宣伝費が必要となるが、グルーポンならそれが不要、というメリットは大きい。クーポンとしてみれば阿漕な商売だが、宣伝としてみれば良心的といえるかもしれない。

もう一つの欠点は、品物が高いことだ。按摩やエステ、飲食についてはかなり安いが、物品は市場価格の1.5~2倍がグルーポンの相場。ヤマダで千円で売っているような電線コードが、一万円で売られていたのを見たときは驚いた。製品類は仕入れ価格がかなり決まっているので、思い切った値下げをできないことは理解できるが、お店側はまだグルーポンの仕組みを理解できてないな、と思った。

グルーポンは儲けるのでなく、宣伝と割り切って使うべきなのである。そして消費者は市場価格をしっかり調査してから、安くなったものだけを買えばよいのである。

(御節料理事件:横浜の某料理店が、仕様と全く異なるひどい御節料理を配達してしまったこと。白衣も着ず、普段着で若者らが笑いながら御節を詰めていた写真も掲載されたことから、不謹慎だと非難が殺到した。ことの原因は、予想を超えた注文量に対し、材料を買い増さなかった「金儲け主義」、中身がスカスカでも平気で客に出す「顧客軽視」、さらにはそうした悪習を正せなかった「客と従業員がお友達感覚な経営思想」(お友達なら、これくらい許せるよね~、うん社長の言う通りだよ~)・・・・にあるようだ)



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