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04/29/13 wikiのまとめにしか過ぎない

最近は歴史ものを書くことが多くなっているが、それを知った知人に「wikipediaをまとめればいいんでしょ。楽だよね」と言われて、ムっとした。

別に楽な訳ではないし、単純にまとめている訳でもない。ネットがなかった頃は本を集めて、それをまとめて文章にしていたが、ネット時代の現代ではいくつかのサイトを見てまとめることが多い。

確かに図書館や本屋に行かなくて良くなった分、楽になったとは言える。しかし逆に調べなければならない情報が増えた分、辛くなったとも言える。

例えば「三国志」についてまとめる際、従来なら研究書の1、2冊でも読んでおけばよかったが、今では原典から中国語サイトまで、様々な情報源にアクセスできるため、かえって手間がかかるようになった。

「赤壁の戦い」など、解説サイトによってマチマチなことが書いてあるので、それらを比較検討して、自分なりの解釈を打ち出さなくてはならない。

もちろん、そうでない書物があることも知っている。よくコンビニなどで売っている、紙質の悪い粗製乱造な本は、本当にwikiを丸写ししているのがある。たぶん先の知人もそれをイメージして「楽なんだろう」と率直に漏らしたのだと思う。

     ☆

ただよく反省してみると、確かにwikiを丸写しはしなくても、それに引きずられてしまうことはないとは言えない。wikipediaは便利だけれども、その記述が間違っていることも少なくない。特に「三国志」ともなると、「演義」の話なのか、「正史」のエピソードなのか、「史書」なのか、それとも「伝説」なのか、区別をつけないとならないが、正史と言えども絶対正しいわけではないので、その真偽の判別は自分でしないとならない。

しかしうかうかしているとwikiを頼り過ぎて、鵜呑みにしてしまうことがある。

まあこうした間違いは比較的簡単に修正できるのだが、「史観」となると気づきにくいのでそうもいかない。

あまり知られていないことだが、wikiの歴史記述には史観がある。左翼・右翼のそれもあるが、自分にとって問題となるのは、「日本人の素人」が往々にしてもつ史観だ。wiki日本版は当然、ほとんどが日本人が編集しているし、wiki編集に携わっているのは素人が多いと聞く(専門家はwikiをバカにしている父子がある)。

すると「三国志」などでは、「横山三国志」などの記述や感じ方がひょい、とwikiに忍び込んでいたりする。

もっともこれは日本の三国志本にはよくあることなので、wiki特有のものではないかもしれない。

またネット上の文章はバラバラでまとまりがないので、それを一つの流れで繋ぎとめていくのは、よほどの集中力も必要になる。情報は集めただけでは、知識にならないのだ。




04/17/13 流行語を翻訳に使うべきか

翻訳するとき、流行語を使うかどうかは、悩ましい問題だ。


"pretty curious!"を「チョーヘン!」と訳した人がいたが、背筋がぞわぞわするようなキモチ悪さを感じた。出版物というの全年齢層対象だから、若年層だけに通じる表現を使うのは憚られる。


また出版物は十年、二十年という時間経過にも耐えなくてはならないから、流行語をむやみに使うと後でイタイ目に遭うこともある。例えば1970~80年代の本では「ナウい」とか「フける(老けるでなく、さぼる、の意)」などの流行語が使われているが、今読み返すと異様な古さがいたたまれない。


そうすると流行語はなるべく避けるべき、という結論になるが、流行語の中には定着して行き、日本語の主流となっていくものもあるので、一概に排除するわけにもいかない。


例えば「クラブ(語尾上げ)」や「食べれる」などの言葉は、かなり浸透しており、逆に排除すると変な日本語になりかねない。「情けは人のためならず(情愛はその人のためにならない)」という誤った表現も、次第に市民権を獲得してきていて、近い将来、本義を喰ってしまうほどの勢いだ。


その一方で、「DQN」や「てへぺろ」などのネットスラングやギャル語は残らない予感がある。これらの言葉や表現は日本語という大海からすると浮き上がっていて、時間が経つにつれ水没していくと思われるからだ。


「チョー」や「冷たっ」などの口語表現は、微妙な立ち位置にある。これらは一応定着しているように見えるが、その実もっと奇抜な表現が出てくると置き換えられる可能性が高い。


翻訳するということは、単に外国語を日本語に置き換える平面的な作業でなく、現在日本語を見極めて未来を予測する時間軸の作業でもある。


09/18/12 痴漢とイジメ

電車の中で身体が触れる。

 

あなたが男性で、相手が女性の場合、「痴漢」だとして訴えられるかもしれない。その場合、あなたに逃げ道はない。痴漢の意思があろうがなかろうが、あなたは警察に連行され、痴漢行為を認めるか、裁判にかけられるかしか選択の余地はない。

 

学校の中で子供が殴られている。

 

その子供の親が、「いじめ」だとして学校や警察に訴える。その場合、いじめっ子には逃げ道がたくさんある。いじめの意思があっても、「じゃれているだけ」として、その子が警察に連行される可能性はほとんどない。そしていじめられっ子はイジメられ続けるか、自殺を選ぶしか、選択の余地はない。

 

痴漢といじめ。

 

一見異なるように見えるが、「犯罪行為と非犯罪行為の線引きが難しい」という点において、両者は同等の行為である。しかし社会のそれへの対処は180度異なる。痴漢においては「疑わしきは罰する」、イジメに対しては「疑わしきは看過する」である。

 

その違いの根底にあるのは、「弱者救済」とでも言うべき心情である。女性はか弱きものであるから、痴漢されていても口に出せないだろう。だから女性に有利なように、制度設計しておかなければならない。あるいは、子供は幼いものだから、本当にいじめであっても、過酷に罰するのは良くないだろう。

 

しかし、このような人間観は正しいものだろうか。女性、子供=弱者、という観念は最早時代遅れではないだろうか。

 

痴漢に関しては、男性=加害者、女性=被害者というステレオタイプが、警察官や裁判官の間に罷り通っている。残念ながら、日本の警察・司法では、この種のステレオタイプが強く、いったん木曽されたら、証拠をでっち上げられ、虚偽の自白を仕立て上げられ、何が何でも犯罪者にされるという恐ろしい面がある。

 

実際、女性側の証言だけで痴漢認定を下されたケースは山ほどあり、その中には後に証拠不十分だとして判定が覆ったケースもいくつかある。車内での携帯使用を注意された腹いせに男性を訴えたり、示談金ほしさに騒ぎ立てるというケースまであったというから、驚きである。

 

「物的証拠」「複数証言」といった裁判のルールを遵守することで、被疑者の権利を守らなくては、ならないのではないだろうか。

イジメに関しては、逆に「イジメは犯罪!」という原則を徹底することで、被害者の権利を守る必要がある。現在の仕組みでは、被害者は泣き寝入りするしかにのが実情だからだ。

 

     ☆

イジメ報告があったなら、きちんとそれを犯罪として認め、事実関係を調査し、事実と分かれば、加害者には適切な処罰を加え、被害者の生命を守る。そんな当たり前のことが、できていないのである。

 

できないのは一つには、学校側のマンパワーが足りないせいでもある。授業や会議で忙しいのに、いじめまで関わってられるか、ということである(その発想自体が、いじめ軽視なのだが・・・)。

 

これに関して、某和民の社長が「いじめのあったクラスの担任は、給料を減らせばいい」とtweetし、「そんなことしたら担任はいじめを隠すだけ」とtwitterで猛反論されていたが、社長の言うことにも一理ある。ただ罰するだけではダメで、うまく解決したら賞を与えるなど、信賞必罰が必要だと思う。要は教師にもいじめ解決へのインセンティブを与えなければ、ということである。

 

また教育委員会もまた、問題である。本来こうした問題を解決すべき教育委員会だが、昨今では地元名士がつく「名誉職」と化していることが多く、イジメ問題などという「不名誉」は隠すか無視してしまう。ましてや大津いじめ自殺事件では、加害者の親らと委員会の間に繋がりがあったも言われており、その場合は尚更、委員会に解決は期待できないだろう。

 

(かといって、教育委員長の頭をトンカチで殴りつけるのは犯罪であり、「テロ」であるが)

 

有名無実化した教育委員会は解散させ、新たに「イジメ取締委員会」を発足。地域のイジメに目を光らせてもらうべきだと思う。無茶な要求と思われるかもしれないが、「学校カウンセリング」に大金払うぐらいなら、その予算を一人分削って取締者を採用してもいいのではないだろうか。あるいはボランティアでもいいだろう。PTAは意味の乏しい作業に血道をあげるより、こうした本当に必要な作業に力を注ぐべきである。

 

またイジメがなくならない理由として、「お礼参りを恐れて、被害者が訴えでない」こともある。先生にチクったことが分かれば、余計虐められる以上、訴え出る子供は少なく、統計上「いじめは存在しない」などという学校も多いと思われる。

 

DVにならって、「被害者と加害者を3m以内に近づけさせない」「クラス替え」「転校」などの処分が必要と思われる。もちろん転校するのは被害者でなく、「加害者」である。

 

守るべきは「子供全員」だ、として加害者も被害者もいっしょくたにして不問に帰する、というやり方が限界に来ている。今やるべきは、「イジメを犯罪と認識し、被害者の権利をしっかり守る」ことなのである。

 


5/23/12 自転車は車道へ、でいいのか

エコにいい、電気を使わない、メタボ対策、交通費不要、ということで流行が拡大している自転車だが、それを取り巻く環境は険しい。

昨年、警視庁は「自転車の車道通行徹底」なる方針を打ち出した。その理由は「自転車が歩道を暴走し、歩行者の危険となっている」、「自転車と歩行者の事故が増加している」。

一見もっともな意見だが、ちょっとまて、自転車の死亡事故の9割は車道で起きている。

おなじ警視庁によると、平成22年において、自転車による死者の90%は自動車と乗用車によるものであり(600人)、自転車が加害者となって歩行者を死に追いやったケースは全体の1割にも満たない(5人)。

このデータが正しければ、自転車を車道に追いやっても事故は減らず、逆に激増するのは眼に見えている。(自転車→歩行者の事故ケースは減るが、それは全体の数%でしかなく、90%以上を占める自動車→自転車のケースは大幅に増加する)

それなのに警視庁からマスコミ、さらには自転車団体や自転車ジャーナリストまでもがこぞって「自転車は車道へ」キャンペーンを展開しているのには、おかしなものを感じる。

     ☆

まずなぜ警視庁は自転車の歩道通行を眼の敵にするのか。巡査が日ごろ歩道を自転車走行している姿からすれば、それは現場から出た発想ではないことが窺える。上層部が何らかの意図をもって、この計画を進めているわけだ。

また自転車の車道通行は、全国自治体が賛成しているわけでなく、東京都が反対していることからすると、地方発のアイデアであるようだ。

すると自転車を歩道から車道に切り替えることによって、「道路整備の必要が生じ、それが地方の土建業者を潤す」、という構図が見えてくる。東京都は常時土建工事が行なわれているので、そのように無理やり土建需要を喚起する必要がないのだろう。

さらに自転車を車道に流せば、「車両」として規制もしやすくなると言うメリットが、警察側にもあるようだ。現在、暴走自転車を発見しても、歩道に逃げられてしまうとパトカーでは補足しづらい。それを踏まえての改正案と思われる。

また自転車規制を強化することで、警察の権限強化、ステータス向上、ひいては仕分けの嵐の吹を避けようとの、警視庁の自己保存という意図も透けて見える。周辺諸国の脅威を煽り立て、予算を増やそうとの防衛省にも似た動きだ。

そして自転車団体や、自転車ジャーナリストにも資金が配られ、そのキャンペーンに参加するよう、促された可能性は高い。(出版業界、ウェブ業界には弱小ライターがひしめきあっており、些細な金で御用記事を書く人はごまんといる)

     ☆

もっとも、車道化が悪いというわけではない。

自転車先進国たるヨーロッパを見てみると、ほとんどの国では車道通行がデフォになっている。そうすることで、自転車は本来の高速走行性能を発揮し、都市交通の一翼を担うことができるのである。

それが日本でできないのは、一つには「圧力団体が存在しない」からである。

現在のような「車道・歩道」体制が出来上がったのは、自動車業界と市民団体という二つ圧力団体が衝突し、葛藤した結果である。(さらに自動車産業の背後には自民党、市民運動には社会党という援助政党もあった)

しかし自転車にはそれを擁護する圧力団体が存在しない。

自転車乗りには若者が多いが、彼らの絶対数は少ない上、政治的にも組織化されていない。若者が反対するにも関わらず、彼らの年金が毎年値上げされるのと同じ、政治的な理由がそこにはある。

もう一つは歩道走行に反対する圧力団体が存在するからである。

近年、全国的に自転車レーンの設置が増えているが、成功例は少ない。東京都では世田谷区に自転車レーンが整備されたが、違法駐車が跋扈していて自転車レーンの役目を果たしていない。

その理由は商店を利用する車が多いからである。地元の商工業界は自転車レーンには反対だし、地元警察もそれを知っており、取締りに消極的なことも多い。

(そのため柵を設けて物理的に路駐できなくする手法も採られているが、これは自転車のハンドルが取られることがあって危険だし、また「荷物の積み下ろしができなくなる」として商工業者も反対している)

これを排除し、自転車を都市交通の一環として位置づけるには、ある程度、上から強制的に押し付けないとならない面もある。自転車団体やジャーナリストが、こぞって警視庁に賛成なのも理解できないわけではない。

      ☆

ただ自転車レーンが未整備な現状で、自転車を車道に流し込めば、死傷者が激増する。

日本の車道は自転車を無視して作られており、自転車で走って行くと「自転車通行禁止」になる道路は少なくない。そこでUターンしようにも、物理的に対向車線に入れないようになっているから、やむをえず逆走となって危険極まりない。

車道の端はゴミや土砂が多く、これにつまずいて転倒しようものなら、後ろからダンプに引かれてしまう。

また交差点では左折車が接近してくるため、巻き込まれ事故も多い。強引に巾寄せして交差点で急停止、という車も多く、自転車としては危険極まりない。

こうした事故は、自転車レーンを設けることで減少させられるが、それを行わないまま、拙速に自転車を車道に移そう、という姿勢には、やはり問題があると言わざるを得ない。

05/21/12 金環日食

三大首都圏では1000年ぶり、平安時代以来、という踊り文句に踊らされ、早起きしてみて見る。

が、空はどんよりと曇っており、とても日食は拝めそうにもない。

諦めて二度寝に入ろうと思うが、TVを見ているうちに気分が盛り上がってきて、雲も切れ目が入ってきたので、外に出てみる。

このあたりはビルが密集していて、ベランダや窓からは空が見えない。。

外にでてもその状況は変わらず、ビルの切れ間を探すのが人苦労だが、人だかりがするので近寄ってみると、そこに太陽があった。

     ☆

「世紀の日食」なんて言うが、日食は結構何度も起きている。東京だと3年前にも起きたし、4年後にも起きる。自分も何度か見たことがある。

ただ今回のような金環日食となると、確かに一世紀に5,6度くらいしか起こらない。

その金環食だが、見上げると眩しすぎて良く分からない。以前見た日食は晩秋の夕方ごろだったので、裸眼でも見れたが、今日のは初夏の強い日差し。裸眼で見るには痛すぎる。

一生に一回使うか使わないかのようなものを買う気になれなかったので、「日食メガネ」を買わなかったのを後悔する。

筋雲がすだれのように太陽を隠してくれたので、見る事ができたが、なるほど、光の円盤の中に、真っ黒なボーリングの玉がはまっている。

それでもなお太陽というのは偉大なもので、そのほとんどが隠されているというのに、それほど明るさは変わらない(もちろん普段よりは暗いし、寒いのだが)。

皆既日食ともなると、あたりは神秘的な暗さになるというが、金環なのでそこまでは行かない。中途半端な感じで、面白いことは面白いが、少々マスコミに踊らされてしまった気もする。

ちなみに今回の日食は太平洋沿いに、アモイからフィリピン、台湾から日本と、次々に見えて、最後はテキサスの日没で幕を閉じた。地球は繋がっているんだな。



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