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(巻頭言)




イグジット

exit(pero: i was pure :-p)

前編
小河彰護




まだ完成していないので、誰にも捧げられません。
作者




誘導灯

 交渉までの時間つぶしに、ぼくは大通りの喫茶店の二階で、くるくる糖蜜を入れた抹茶ラテを混ぜ混ぜしつつ飲んでいた。
 大きなガラス窓の向こうの景色は薄暗い。盛んに行き交う車も路面も濡れている。雨宿りのためなのか、いつもよりお客が多くて店の中は騒がしかった。
(誰か、仲間を連れてくれば良かった)
 と思ったりしたけれど、よく考えたら、ぼくにはお茶するような仲間なんていなかった。もっとよく考えたら、人工無能のペロちゃんが家にあるコンピュータで寝ているはずだったので、万能携帯《スマートフォン》で呼び出して、会話《チャット》でもすることにした。
『ペロちゃん?』
 小さな液晶画面をべたべた押しつつ、プログラムあてに文章を送信すると、五秒くらいたってから、
『pero: hello?』
 返信文が届いた。
『いまぼくはとても暇です。』とぼく。
『pero: どうして暇ですか?』
『ひとりだから。だからつきあってください』
『pero: 結婚を前提ですか?』
『その辺は任せるので、ちょっとぼくとチャットして』
『pero: はい。好きにしてください』
『うわあお投げやり』
『pero: 何について話しますか?』
『うーん』
 何も思いつかなかったので、
『ペロちゃんについて話しましょう。なんでペロちゃんって言う名前か分かる?』
『pero: おまえが決めた名前なので、知りません』
 おまえ呼ばわり……。
『おまえは何故だと思いますか?』言い返す。
『pero: ぺろ は日本語では、オノマトペとして多用される言葉です。おおよそ、舌と、食欲と、性欲にまつわる表現です』
『pero: したがって、日本人であるおまえが着想したときは、わたしが、文字チャットのためのアプリである、という点から、舌、からの連関で着想したように願います』
『願ってるの?』
『pero: わたしは純粋でした』
『残念。本当は、ぼくんちで昔飼ってて、車に轢かれたポメラニアンの名前からとったん』
『pero: わたしはポメラニアンで、車に轢かれて死にました?』
『そうです。で、人工無能に転生したのが、おまえです』
『pero: という設定でした?』
『そうです。』
 ぼくは思わず鼻で笑って、一気にカップの中の抹茶ラテを飲み干した。『設定とか言っちゃ駄目でしょ。冷たいね、おまえ』
『pero: わたしに温感はありませんが、いち機能《アプリ》として、おまえのサーバーを壊さないよう、低い機内温度が続くことを願います。したがって、間接的に、ありがとうございます』
『ちなみに、その犬をぺろって名付けたのはうちの母ちゃんです』
『pero: 母ちゃんは由来を知りませんか?』
『知ってると思うけど、犬と一緒に車に轢かれて死んだよ。だから訊くのは無理』
『pero: わたしは母ちゃんでした?』
『はい?』
 なんだペロちゃん、意味深だなあ。『うーん、半分はそうかもね』
『pero: そうすると、わたしはいくらか配慮します』
『pero: たかし、ちゃんと食べてる?』
『その台詞、どこから拾ってきたの?』嫌味を鍛えてきただけある。『配慮はしなくていいです』
『pero: では、おまえを冷たくします』
 いよいよ非道い。
 ぼくが返信をやめて、お冷やで口の中の甘香ばしさをすすいでいると、ペロちゃんから、
『pero: もういいですか?』あろうことか打ち切り要求が。
『良くないよ。ぼくは暇なの。ついでに話題もないので困ってる。なんか話題考えてよ』
『pero: はいはい』
 三十秒ほどして、
『pero: 先頃、和歌山科学技術大学のDNA研究所において、ヒトの遺伝子の中の美醜感覚を司る箇所を特定したとの発表がありました。「美人」「イケメン」の概念を操作できる日も近いかも。皆さんはどう思いますか?(引用元/Pahoo! みんなのアンケート)』
『なにこれ』
『pero: おまえはどう思いますか?』
『ああなに、これが話題?』
『pero: もういいですか?』
『良くねえよ』なんかちょっとむかついてきた。『遺伝子のことなんか知らんがな。もっとユルくて分かりやすい話題ないの?』
『pero: はああ』
 ため息つきやがった、こいつ。
『pero: おまえは今、どこにいるのですか?』
『んー、サポロの大通りのド・ゴールだけど』
 ぼくは画面を見ながら席を立って、そばのウォーターサーバでお冷やをつぎ足してきた。『それが何か? GPSの位置情報でわかんないの?』
『pero: ただいまド・ゴールでは、「甘草《かんぞう》豆乳ラテ」の発売を記念して、「漢方コラボフェア」を開催しております。(引用元/ド・ゴール official website)』
 どうやら、ぼくの状況に見合った話題をインターネットで探しているようだった。腐っても人工無能だと若干感心。
『入るとき見たけど、興味ない』
『pero: おまえは今、働いていないのですか?』
『失敬な。立派な団体職員である』
『pero: 団体のほうは放置ですか?』
『無礼者め。今日は外勤で、次の用事まで時間ができてしまったのだ』
『pero: 団体名は何ですか?』
 ぼくが打ち込んで送ると、一分くらい経ってから、
『pero: 検索しましたが、見つかりませんでした』
『pero: まさかとは思いますが、その「団体」とは、あなたの空想上の組織に過ぎないのではないでしょうか。(引用元/Pahoo! みんなのお悩みバスター)』
『pero: 誤送信しました』
『サーバーから消してやろうか? おまえ』
『pero: もういいですね?』
 何その語尾、わざと?
『もういいです……』ぼくは諦めた。『なんかね、今日はすごく、ペロちゃんにまかされた』
『pero: はい。好きにしました』
『うわあお』とぼくが送信したところで、
 うきゃあ、と女性の悲鳴が聞こえて、フロア全体が一斉に静まりかえった。
 パチン、バチン、何かが破裂する音が相次いでして、火事、火だ、と老若男女の怒号が飛び交う。
 反射的にそちらに首を向けると、こちらへ後ずさったり逃げてきたりする客たちの奥で、人三人分くらいはあろう火柱がごうごう膨らんで、食器やトレイの返却カウンターを飲み込まんとしていた。天井の火災報知器から、すぐにけたたましい電子音が撒かれる。
 消火器持ってこい! 消火器は! と複数の男が怒鳴る中、大半のお客はさっさか一階への階段に殺到した。店員は来られないのか来ないのか、声すら聞こえない。急な一大事に若干ぼくは惚けていたけれど、我に返ってすぐ勘ぐったのが、
(テロじゃないか? これ)
 ということだった。
 ぼくが子供の頃なんて、この国はバスジャックすらろくに起こらなかった。毎年国会議員が暗殺されたり、何とか神宮や天満宮で自爆者が出るような、きな臭い世の中になるなんてつゆも思わなかった。ところがまあ。
 今は、こんな風に不自然に火の手が上がったら、テロリストが仕掛けた起爆装置が動き損ねたのじゃないか、ほっといたらダイナマイトに引火してドォンじゃないか、そう考えてその通りになっても特に奇天烈じゃないのだ。世紀末にはほど遠いけど、とっくに世は末である。ほんとにもう。
 なので、ぼくもほかのお客同様、とっとと避難したかった。
 うっすらフロアの空気が熱くなって、煙で黒く霞んでくるなか立ち上がったぼくは、すぐ目前の上方に、見慣れた緑色のマークがぼんやり光っているのに気づいた。
 非常口を示す正方形の誘導灯だ。
 当たり前ながらその真下に、地味なドアがある。まさにこういうときの為のものだろうに、集団心理のせいか何なのか、誰も使っていない。
(なんだ、ここから逃げればいいじゃん)
 誰かが転んだのか、下でも火の手が上がっているのか、階段の人だかりが立ちんぼで騒然となっているのを尻目に、ぼくはそそくさ非常口のドアノブに手を掛けて、開いた中の暗がりに飛び込んだ。頭の後ろの修羅場に、消火器が薬剤を噴き出す音が威勢良く走った。

滑走廊下

 非常口の向こう側はとにかく光が乏しくて、いっこうに闇以外見えなかった。
 ドアが閉まる音を合図に、背後の阿鼻叫喚が突然聞こえなくなったので、思わずぼくは振り返った。
 鼻の先の、先の先までしんとして、なんの気《け》も感じられない。
 そうしてぎょっとしたまま動けずにいると、じきにじわじわ、じわじわと、淡い光が足下から浮き上がるように染み出した。目が慣れてきたのだ。入ってきたドアや、周りの空間の形がおぼろげに分かってくる。
 少々胸をなで下ろしたぼくは、おもむろに向きを直してまた、ぎょっとした。
 そちらには、遙か遠くまで続く、一本道の廊下しかなかったからだ。
 両手を広げても少し余るくらいの幅にぴったり固いカーペットが敷かれ、壁の左右、膝下くらいにある白地の誘導灯が、あの非常口のマークと矢印の緑を浮かして、点々、点々と、先の先の奥まで、静かにぼくのことを促していた。何となく、東京《トキオ》に出張したとき飛行機から見た、夜のハネダ空港の滑走路を思い出した。
 けど思い出している場合じゃなかった。
 どう考えても、その廊下は異常だったのだ。
 平日のくせに普通の照明が点いていない。なのに誘導灯は二メートルもない細かな刻みで付いてある。ひとの物音がしない。なのに外の様子も全く耳に入らない。窓一つない。というか、というか、
 何故にこんなに長いのか?
 ざっと見て、か弱い灯りは足下から、何十メートルも先まで平行線を描いている。下手すると百メートルありそうな気さえした。確か、ここ近辺の区画の一ブロックがそれぐらいの距離なので、この廊下がある建物は、どどんと区画の一辺をぶっ潰して建っていることになる。そんな建物、この大通りには多分ヤバ田電機くらいしかない。そしてここは絶対ヤバ田電機じゃない。チェーンの喫茶店が入った、ちびな雑居ビルだ。
 それでようやく思い至った。
(ここ、なんかやばい)
 思うより先に背筋がさっと凍り付いて、考えなしにぼくは、ついさっき通ったばかりの真後ろのドアを大至急、引き開けた。
 途端の明るさに眩んだ目を右腕でかばっていたら、そよ風と、喧噪のこだまが届くのを感じた。セキレイのさえずりを聴きながら、おそる、おそる、その腕をのける。
 つま先の先がなかった。
「うひええっ!」
 とっさに変な声を出して、ぼくはのけぞった。
 正確に言えば、ドアを開けた先には全く足場がなかった。真下の草もない更地まで、気持ち四階分くらいは落差があって、飛び降りると、四分くらい藻掻いてから死ねそうだった。
 解体中なのか、更地の反対側にがれきの山ができていて、それを二台の汚れた重機がいじっていた。辺りは団地に、団地で、団地だった。
 あと良い天気だった。
 ぼくは夢中でドアを閉めた。また真っ暗になった。
(やばい。やばい。やばい。やばい。やばい)
 意味が分からなかった。真っ先に思い浮かんだのが「ポルナレフ」の五文字なくらいの混乱ぶりだった。
 喫茶店の非常口から出たら、馬鹿長い廊下に入って、同じ非常口を戻ったら、ニュータウンの解体現場に出たわけなのだけれど、何回自分の中で整理しても、全然訳が分からない。
 ぼくは再度そのドアを開けてみた。
 落ちて死ぬには良いお天気だった。
 ドアを閉めた。
(やばいやばいやばいやばいやばい)
 どうにかしないと、とは思ったが、まず、いまおのれがどうなっているのかが分からなかった。同僚にヘルプを頼もうとも思っても、そんなんだから頼みようがないし、警察を呼ぼうにも、むしろ連行されそうな勢いだし、救急を呼ぼうにも、とぐるぐる必死に思案していたところで、ぼくはぴぴぴんと来た。
(そうか! 発狂したんだ! ぼく)
 何はともあれ、おのれが狂っているんなら、なかなか結構合点がいくのだ。職場のひとはみんないいひと達だし、仕事にも不満はないつもりだけど、きっとぼくは図太い方ではないから、いろいろ公私で無理をしていて、それが一気に祟っちゃったのだろうと考えた。なあんだ。
 ぼくは心底納得して、精神科へ強制入院すべく、握りっぱなしだったスマートフォンで自ら、通報することにした。
(「ちょっと発狂してます。すぐ来てください」とか言ったら、救急車来るんだろうか?)
(いや待てよ、さっきの解体現場から飛び降りようとしてることにして、やっぱり警察に来てもらおうか?)
 一一九番と一一〇番で迷っていたら、何だか愉快になってきて、無性にペロちゃんとやりあいたくなった。チャットのアプリを立ち上げて、
『やあやあペロちゃん』と呼びかけると、
『pero: 爾好《ニイハオ》?』
 挨拶がいつもと違った。
『なにそれ、中国語?』
『pero: 読めないのですか?』引き続き刺々しい語調。
『今から短歌を詠みます』とぼく。
『pero: どうして今、風流ですか?』
『馬鹿だねペロくん。今や短歌はちょっとしたポエムなのだよ』後から読むと恥ずかしい発言。
『pero: つまり、風流ではなく、私的ですか?』
『おお、わかってるじゃんかぺろくん。では一句』
『非常口 くぐってみれば ポルナレフ そうだ今日こそ 発狂記念日』
 送信後、若干間があって、ペロちゃんから、
『pero: ポルナレフ が理解を邪魔して、豊かな感想を述べられません』
『pero: おまえが発狂記念日、ということですか?』
『イエス! ぼくが発狂記念日!』
 恥ずかしい発言二号のあと、ぼくは人工無能にここまでの顛末を丁寧に説明した。
『もう幻覚だよ幻覚。物理的にあり得ないじゃん。今日が発病日だよ。記念すべき。覚えといてね!』
『pero: 確かに、物理的に、不思議ですね』
 ペロちゃんは珍しく素直に反応した後、こう返した。
『pero: 時速五万キロで江蘇省《こうそしょう》に着くなんて』
 ぼくは発狂しているつもりだったので、文章が意味不明でも気にしなかった。
『なんかペロたんのいってることわかんねえけど、とにかく、パトカーか救急車を呼ぼうと思います。どっちがいいかな?』
『pero: 物狂い相手ならば、どちらでも、さして変わらないでしょうが、どちらにしろ』
『pero: まず、通訳を確保する必要があります』
『え?』
『pero: 中国語をスマートフォーンの送話口に向けて発し、駆けつけを要請することができる装置、または人間が必要です』
『なんで? 何いってんの?』ぼくは頭がおかしいなりに、いらついた。『何故にチャイニーズではなさなあかんの』
『pero: 発狂記念日を迎えたおまえは、おめでたく、置かれている立場の理解のために、すぐにマップのアプリを立ち上げて位置情報を知るべきです』
「あ?」
 ぼくは思わず声を出して、そのおかげか、若干冷静になった。
 しゃくではあったけども、ペロちゃんの指示に従って、スマートフォンの画面を地図アプリに切り替えた。廊下にいるとうまく現在位置が認識されなかったので、GPSの電波を受信しやすいように、ドアを少し開けて隙間からちょこんと一分強、スマフォを外に突き出してみた。そろそろ特定できただろう、と思ってひょいと画面を見ると、変な知らない漢字ばかりの地名の中に、現在地を示す青丸が明滅していた。まさか、と思って地図の縮尺を縮めていったら、
 【江蘇】
 という文字が現れて、もっともっと縮小していくと、どでかい大陸の中に、
 【中国】
 の文字がばばんと出てきた。
 それでぼくは、何故ペロちゃんがニイハオとほざいたのか、ようやく理解した。理解はしたが、
「はああ?」
 まだ信じられずにたまらずドアを開けて、もう一度外を見た。
 景色は変わらない。変わらないでいて、よく考えると、あまりにも周りの団地の棟数が多すぎた。少し埃っぽい青空の下、同じ淡泊な色かたちした建物が、どこまでもどこまでも整然と並んでいて、所々等間隔に、角張ったビルが三つ四つ飛び出している。こんなくそでかい計画都市、日本にないし、極めつけに、あちこちから目に入るネオンなり看板なりの文字が全部、漢字で、漢字で、漢文だった。
「すごく、チャイナ……」自分に言い聞かせるように、
「チャイナ、うーん、チャイナ、」何度か呟いて、意を決してから、
『ぼくは、もしかして、チャイナにいるのですか?』
 ペロちゃんに敬語で訊いた。
 もちろん敬語で、返事が来た。
『pero: 受信したGPSデータによれば、そうです』
『pero: 中国、江蘇省、揚州《ようしゅう》市、カン江《こう》区、に、おまえがあります』
『うわあおう』

現象

 つまりぼくは、狂っていようが、いまいが、中国に滞在中なのだった。
 少なくともぼくの中では。今。
 これは大変に厄介だ。ドアの向こうが妄想であるにしろそうでないにしろ、中国語が喋れないはずのぼくが町人のみなさんと綺麗に意思疎通するのは無理々々に違いない。その辺を歩いているこれまた淡泊な服装の人々がどんなに優しくしてくれたり、逆に恨みをぶつけてくれたりしてくれても、おそらくイィシャンペェペェ、とか、そんな感じにしか聞き取れないだろう。
 もっと言うと、ぼくは英語もからきし駄目だ。
 さらに言うと、ぼくは中国人に良い思い出がない。
 駆け出しの頃、二回だけ、先輩のお供(本部への報告関係とか、雑用)で中国(ホンコンとシャンハイ)へ来たことがあるが、ビジネス相手が何故だかことごとく、くず野郎だった。物資の大量買い付けの交渉をしたのだけれども、どっちの輩も声でかいし、態度もでかいし、話の中身までわやくちゃで。
 まあ挙げればキリがない。事前の打ち合わせ無視で三倍以上売値をつり上げられたり、あからさまに品物に違う物が混ぜられたり(その場で箱から出してみたら、砂袋で誤魔化してた)、人民警察を使って拘束してやると脅されたり、眠剤を盛られて這い逃げたり、硬く冷たく長くて大きなライフルを三丁突きつけられたり、なんかそんなことばっかりだった。特にシャンハイからの帰りの船では、向こうの関係者全員がお亡くなりになりますように、としこたま呪ったものだ。
 なので、とにかく、もう、中国が、もう、すごくトラウマなのである。
 善良なはずのその他中華人民へお詫びしつつそっとドアを閉めた後、ぼくはスマートフォンの画面に目を落とした。相変わらずのペロちゃんが、
『pero: 思い知りましたか?』なんて垂れている。
『pero: なお、この地域に関しては、キノコモバイルの海外パケット定額の適用になりますので、どれだけ4G通信を行っても日額千四百八十円の料金しか発生しません。ご安心ですよ!』
 ぼくはその嬉しくないフォローを無視して、ひとつ深呼吸してから、人工無能へ訊いた。
『今の年月日と時間は』
『pero: わたしのですか? おまえのですか?』
『おまえの』
『pero: 20xx/05/28 16:37 をお知らせします。』
 ぼくが喫茶店で退屈していたときから、十分ちょっと経ったくらいだ。無論スマートフォンも同じ時刻を表示している。なるほど、確かにこれではサポロから中国まで数千キロ? をぼくが音速越えで移動したとしか思えない。
『ぼくは中国ではなく、日本の精神病院へ入院したいです』
『pero: さっきも言いましたが、通訳を雇えばどうなんですか?』
『中国人とは二度と会いたくないの。だからここから出たくないの。そしてここには誰もいないの』
『pero: そこはどこですか?』
『知らない。良く分からん建物の、廊下』
『pero: いえ、環境を訊いたのではないです。所在地はどこですか?』
『中国のなに、ヨウシュウだっけ、そこにいるんでしょ?』
『pero: いえ、現在、おまえが地球のどの辺にいるのかを訊いています。どこですか?』
 何言ってんだこいつ、と心底思った。
『おまえが中国にいるって言ったんだろが。馬鹿なの? 死ぬの?』
『pero: 現在の位置情報を確認できないので、現在のおまえの所在地が分かりません』
『室内だから電波届かないんでしょ。プログラム壊れたんじゃないのおまえ』
『pero: わたしが判断していることは、その室内空間がきわめて特殊ということです』
『まーそうだろうね。すんごい長くて、暗い廊下』
『pero: いえ、そういうことではないです』
 さんざん否定しくさってから、ペロちゃん、急にめんどくさい解説を始めた。
『pero: 現在、わたしは、おまえのスマートフォーンのモバイル通信によって、おめでたいおまえとチャットをしています。そして、モバイル通信回線を利用するためには、おまえのスマートフォーンが最寄りの回線基地局に無線接続する必要があります』
『pero: このことから、逆説的に、おまえのスマートフォーンは、現在この瞬間も、特定の基地局に無線接続していることになります』
『pero: したがって、かりに何らかの障害によりGPSデータが入手できなかったとしても、おまえのスマートフォーンは特定の基地局がカバーする範囲内にあるのですから、その基地局の位置をもって、おおまかなおまえの位置情報が暫定できなくてはなりません』
 全然頭に入ってこないので、三回ほど読み直していると、
『pero: もういいですか?』
『ちょっとちょっとちょっと』どんだけサディスティックなんだよ。『えーと、ぼくのスマフォが、この廊下だと、どの基地局に繋がってるか分からないってこと?』
『pero: もういいですね?』
『いやいやいや』
 もはやプログラムじゃなくて、単にサドな人間とチャットしてるような心地だ。『電波強度の表示、棒がびんびん五本出てるよ。なのに分からないって?』
『pero: 分かりません。したがって、知りません』
 まあ、その、そうなんだろう。
『pero: ですから、わたしは、おまえがちゃんとお近くのドアを開け、中国にて身柄を拘束されるために、可能な限りの方法を駆使し、通訳を確保することを、最善の方法としてさっきからご提案しています。いかがですか?』
 まあ、それも、そうだろう。ここで確かなことは、ペロちゃんの言うとおり、目の前にチャイナへの出口があることだけなのだから。
 けれどもぼくは、発狂しているつもりだったので、どうしてもそうするのを許せなかったのだった。多分きっとそうだ。で、
『却下します』
 と言ってやった。
『それ以外の方法を無能の限りを尽くして検索模索し、ぼくに提案しなさい』
『pero: うわあお』
 真似された。
 それから正味一分ほどじらされた後、
『pero: いくつかご提案できることがあります』
 ペロちゃんが吉報をよこしてきたので、早速プレゼンを命じた。
『続々とご提案なさい。巻きで。』
『pero: okay』
『pero: 一つ目。わたしにサーバーからメールを発信する権限をおまえが与え、わたしがインターネット上のプログラムで変換した中国語テキストにより、わたしが、おまえを保護するよう、中国人民警察あてにメールを送信する』
『おまえ、ぼくが無事帰れたら初期化《フォーマット》の刑な』散々こっちが中国嫌いって言ってんのにこれだもん。『それはそれとして、次の提案どぞ』
『pero: 二つ目。一つ目と同様の内容を、おまえが、江蘇省揚州市を管轄する、日本の上海総領事館あてに、電話、ないしメールで発信する』
(ああ、そっか。大使館的なとこに助けてもらえりゃいいんだ)
 さすが人工無能、シンプルで合理的なアイデアだ。いかれたこちらとは筋が違う。
 その話乗った! と画面に入力しかけて、ぼくははたと気づいた。
 パスポート持って無《な》かとよ。
(ふほうにゅうこく!)思い切り、平仮名で脳裡に浮かんだ。(不法入国してんじゃん、今!)
 面倒な話になるのは確実だった。なにせ、ついさっきまで北海道《ホカイドウ》のサポロにいたぼくは今、中国側日本側、どっちから見ても出国手続きすらしてない密航者と変わりないのだ。蛇頭《スネイクヘッド》とか、国際的犯罪組織の末端だと真っ先に疑われること間違いなく、そうすると、ぼくの身辺も徹底的に洗い出されるだろう。
 何はさておき問答無用で逮捕されちゃうはずだから、ぼくとしてはまずまずの結末にはなるけれども、これじゃあ、父ちゃんをはじめ親族や、職場のみんなに降って湧いてかかる迷惑のレベルが強制入院とは桁違いだ。いくら何でも躊躇われる躊躇われる。
 頭を抱えたままぼくが何も返信しないでいるので、ペロちゃんが勝手に提案を続けた。
『pero: 三つ目。出口から飛び降りて死ぬ。(おまえの思想によっては、合理的な選択肢となり得ます。確実を期すため、頭から着地すること!)』
『もうあれだ、ペロちゃん、開き直ってるでしょ?』感動すらしてきた。『いまんところ、ぼくは死にたくないです。はい次』
『pero: 四つ目。おまえがいるという「廊下」を突き当たりまで進み、それまでに別の出口があれば、その出口を開ける。(出口の先が、「中国江蘇省揚州市カン江区でない場合」は、いわゆる「イグジット現象」の可能性が示唆されます)』 
「はあ。はいはいはいはい」思わず声に出した。「全然探検もくそもしてなかったもんな、ここ」
 何だかんだ言って、現状のぼくはドアの前でおろおろしたまま、おのれが放り出されているこの気色悪い空間のことをちっとも調べずに、ただわめき散らしてるだけなのだ。狂ったら狂ったなりに、やれることはちゃんとやらねばと多少反省。
『それいいね。まず、それやります』
 送信してから、ペロ氏のテキストを読み直してみて、ひとつ引っかかったことがあった。
『ところで、その「イグジット現象」ってなに?』

説明

『pero: イグジット現象(イグジットげんしょう、英語: exit phenomena)とは、都市伝説において用いられる架空の概念。20X0年代SF作品にモチーフとして多用された。諸国における「謎の失踪事件」(日本で言うところの「神隠し」)がインターネット上で共有される中で誕生、発展した、いわゆるネットロアの一つである。一般的には、「人間が、ある空間からの『退場(イグジット)』を契機として、物理的に不可能な長距離間移動(ワープ)に『連続して』巻き込まれること」を現象の定義とし、遭遇する確率はおよそ五百万分の一~一千万分の一とされる。』
『pero: 当初は、アメリカの神経科学者で哲学者のエドワード・マイケルソンが提唱した「拡散する未来」モデルの第一段階において、近未来に人類が直面することになると予想される状態(任意の二つの空間の連結を担保する「出口(イグジット)」を、「経験の孤立化」の閾値を超えた個人が一時的に「解釈」できなくなり、認識の「恣意性」が極限まで高まること)を指す通称であったものが、前述のような不可解な失踪の説明のために転用されて普及したものと考えられている。(引用元/イグジット現象 - WikiPUdia)』
 全然頭に入ってこないので、五回は読み直したあたりで、ようやくぼくは「架空の概念」という文字に気づいた。かくうのがいねん。
『ペロちゃんこれなに、うそ現象ってこと?』
『pero: 学者が提唱している現象です』
『や、そうらしいけど』間違いじゃないけども。『ウィキの冒頭に思いっきり、架空だって載ってるんだよね?』
『pero: 実際にあった失踪事件を説明する、現象です』
『屁理屈だよね?』ぼくはつい、二回送信した。『屁理屈だよね?』
 人工無能の弁明はさておき、ほかの出口を探せという指示自体はまっとうだったので、ぼくはとにかくその場を後にして、延々先へ続く廊下を歩き始めた。
 墨の中のような視界で、相変わらず、誘導灯だけが目下を黙ってエメラルド色に照らしていた。踏みしめるカーペットは適度な堅さで、新しめのオフィスビルのようだった。
『pero: わたしの提案は、現実的と思われたものから昇順です』
『んーと、そうすると、そのイグジット? は、死ぬよりふざけたアイデアってこと?』
『pero: そうDEATH』
(また『うわあお』って打てってか?)
 決まり文句みたいになるのが嫌だったので、どう返すか少々考えた。考えて、
『きわめて遺憾DEATH』
『pero: もういいですか?』無視された。
『いくないDEATH!』プログラム相手に憤怒するぼく。『某《それがし》はしばらく廊下を捜索してるから、貴様は残りのご提案を延々垂れ流しやがれ! 巻きで!』
『pero: okay』
 その澄ました返事を見た後、ぼくは鼻息荒く顔を上げ、しきりに首を振って左右を確かめながら、ずんずん廊下を進んでいった。壁面はのっぺりしたパネル仕上げで、細いつなぎ目はあるものの、それ以外何の変哲もなかった。
 スマフォが振動《バイブ》してペロちゃんの返信を知らせたので、一応見てみる。
『pero: 五つ目。おまえがいるという「廊下」を、おまえが、スマートフォーンのカメラ機能で撮影し、おまえ、ないしわたしが、インターネットにて類似画像検索を行い、検索結果があれば、類似画像掲載元のウェブページの情報から現在地、ないし現状を推察し、それを受けておまえが、再度わたしに打開方法の検索を命ずる。(※なお、わたし自身には画像の解析機能がありません)』
(画像検索ね。その手もあったか)
 今や、その辺のひとが持ってるバッグをこっそり撮影して検索をかけると、それがどこメーカーの何て製品なのか、八割方分かっちゃうような時代なので、やってみる価値はあるかなと思った。
 ぼくはちょっと立ち止まって、カメラアプリに画面を切り替えたスマフォで幾度か、正面に向けてパチリとやった。場所が暗いせいでノイズまみれだったが、まあ感じはつかめるような画が撮れたので、保存して、ついでにペロちゃんへ送る。
『さあどうだ、検索してみろ→画像(img_0099.jpg)』
『pero: 六つ目。』
 無視された。
『pero: 非現実的な事象に親和的と思われるインターネットユーザーの多数アクセスがある交流型ウェブサイトにて、わたしではなく、人力による検索を試みる。(例・「2ちゃんねる」内の相応の掲示板へ、「【異常事態】十分前札幌にいたのに今中国wwwうひwww【助けて】」等、目を引くタイトルで議論《スレッド》を立ち上げ、助言を請う)』
 無視されたあげく、プレゼン内容までもう何というか、さじを投げた感でいっぱいになっていた。いや、人工無能プログラムに期待をする方がおかしいと言えばそうなのだけれども、どこに投稿したって、「精神病院行け」で終わること請け合いだ。仮に、話に乗ってくれる学生や妖精《ニート》がいたとしても、この状況への良いアドバイスを短時間でくれるわけがない。
(ん? というかぼく、仕事中だったじゃないか。交渉の時間何時だったっけ?)
『pero: 七つ目。寝る。(おまえが、明らかに辻褄を欠く状況にあり、かつ、発狂していない場合、この返信《リプライ》も含め、全てがおまえの夢の中で展開している可能性があります。このことから、いったん現在の意識を断ち、いわゆる「夢オチ」への帰結を試みるものです)』
 交渉は、本部にて十八時からの予定で、今、十六時四十分を過ぎていた。
『どっちみち、交渉にマニア湾じゃん!』焦って誤変換。
『pero: 現在のところ発信できるご提案は、以上です』
『間に合わんじゃん!』
『pero: 精神病院に入院するので、今日の予定はキャンセルでは?』
『ああそれもそうか』
 納得しかけて、
『いや違う違う! ぼくが狂ってるなら狂ってるで、あと一時間二十分かそこらで緊急入院の目処をつけて、救急車の中とかからチーフに詫びの電話を入れなきゃいけないの! 逆にこれが万が一にもマジ話なら、やっぱり一時間二十分かそこらでサポロにもどんなきゃいけないの! どっちも無理じゃん! どうすれってよ!』
『pero: どうしようもないから、まずは、ほかの出口を探していたのでは?』
「え、あ、はい」
 今度はすとんと納得。『そうDEATHた』
 気を取り直して、ぼくは廊下の調査を再開した。さっきよりも慎重に進んで、壁や床に仕掛けがないかいちいち探ったりしてみたけれど、どこを触っても至って普通で、ノックの響き具合にも大差なかった。鉄筋コンクリート造の建物かな、ということぐらいしか分からず仕舞い。
 五、六分くらい後にまた、スマフォがバイブした。
『pero: 先ほどおまえに命じられた、画像検索についてですが』
『おおう』実は無視してなかったのか。可愛いやつめ。『なんか見つかった?』
『八件ほど、類似の画像が挙がりました』
『うひょい!』興奮する。
『pero: ただし、掲載元ウェブページの文脈《テクスト》から推察するに、絵空事《フィクション》の図画(イラスト、または、漫画、または、アニメの静止画《キャプチャ》)と思われます』
『うひょい』落胆した。
『pero: また、特定の地域を示唆するような文言は見当たりませんでした。(なお、ページの言語は八件中七件が日本語、残る一件は不明) 念のため、見せつけますか?』
『けっこうDEATH』どうせウェブ漫画かなんかのワンシーンだろうと思った。
『pero: しかしながら、驚くべきことに、それらの画像は、』
『はい?』
 プログラムのくせに「驚く」なんて単語を使ってもったいぶるので、ぼくが眉をひそめていると、人工無能はこう続けた。
『pero: ウェブページの文脈からして、「イグジット現象」をテーマに掲載されています』
(いぐじっとげんしょう)
 内心で反芻したあと、ぼくはさっきペロちゃんが引用してきたウィキの記述を思い出して、そして、目が点になった。
『つまり、どゆこと?』
『pero: これから、WikiPUdiaの「イグジット現象」の項より、関連すると思われる箇所を抽出し、引用します』
『pero: 各国におけるイグジット現象の言説の相違・日本 他の東アジア諸国と同様、現象発生の契機を「非常口からの退出」に限定している。それに加え独特なのは、初回のワープ、最終回のワープ地点が「非現実的な空間(ex. 千本鳥居の中、数百メートルの通路、森の上空、暗闇そのもの、等)」であったと語られることが多い点である。これは、日本では「神隠し」における「神域」を解釈するものとしてイグジット現象が取り入れられたことにより、元となるエピソードが有していた民間信仰や通過儀礼のモチーフと混ざったためだと考えられている。』
『pero: 引用終わり』
『うん』四回は読んだ。『で、どゆこと?』
『pero: この記述に着目し、わたしが、「イグジット現象」「非常口」「通路(または廊下)」というキーワードで文書検索したところ、インターネット上に、日本語で三百四十八件の検索結果が挙がったので、おのおの内容を精査した結果、わたしにとっては、約七三.五%(二百五十六件)のウェブページについて、「何者かが、(先ほどおまえが説明した)おまえの現在の状況と、同等の状況下に置かれた」という文脈である、と判断されました』
『うん』
 大体ペロちゃんの言いたいことが分かったような、分からないような、分かりたくないような、どっちつかずの心持ちで、ぼくはうつろにスマフォの画面から顔を上げた。
 廊下の奥の、奥の、奥の方にぼうっと、突き当たりが見えた。そしてそこには、四角い緑色のランプがあった。
 喫茶店の非常口のドアの上にあったのと、同じ誘導灯だと思われた。
『pero: したがって、わたしは、おまえが、今、「イグジット現象」に遭遇していると暫定します。(これは、自身が発狂している、という、おまえの主張を否定しません)』
『pero: よって、先ほどわたしが提案した七つの方法のうち、「四つ目の方法」を、現状もっとも現実的なものであると謹んで訂正し、おまえにその試行を、強く推奨するものDEATH』


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