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 世界は美しい。
 そんなふざけた事を思えるようになったのは、果たしていつからだっただろうか。
 視線の先は、灰色だ。灰色の街、灰色の人、灰色の空。
 空からは雨が降っている。灰色の空から断続的に降る、――そう、あれは五月雨といったか。
 思い出しながら、僕は自分の手元に視線を落とす。
 手元には、一通の手紙があった。いつかの誰かが書いた、未来への手紙。そんな、夢物語に似たものを持ちながら、僕はただ佇んでいる。
 すぐ近くから、子供達の声が聞こえる。生憎僕の眺めている窓は校庭には面していなかったから、彼等の姿が見える事は無いのだけれども。
 この雨の中でも、元気な事だ。
 そう思って、僕はふっと笑った。思い付いて、鼻から息を吸い込んでみる。
 ここ数日ですっかり馴染んだ匂いが、鼻孔を擽った。
 湿った土。
 腐った錆。
 子供の頃は不思議で堪らなかった特徴的な雨の匂いが、空気中に微量に混ざる酸の匂いであると、既に自分は知っている。
 僕は、雨が好きだった。

 世界は美しい。

 降り頻る雨は、それを損なうものでは決してなかったからだ。
 雨は空気中の淀みを浚って、地面の泥と一緒に流れるだろう。雨が上がった後の清涼な空気も、心地良くて好きだった。
 手の中にあった手紙を、気紛れに開いてみる。かつての自分の拙過ぎる筆跡に、こっそりと苦笑した。
 母校であり、現在の勤務先でもあるこの小学校で、偶々見付けたものだった。誰かと示し合わせた訳でも、学校の行事などでもなく、最早記憶が霞む程の昔に、一人でこっそりと隠した誰かへの手紙。
 雨は好きだ。
 生あるものが、雨に打たれる様は美しい。
 だから同時に、眼の前の光景が少しだけ残念でもあった。灰色の街、灰色の人、灰色の空。
 命の気配など、どこにも無かったから。
「せんせい――」
 呼ばれて、僕は振り返った。さようなら、という低学年に特有のゆっくりとした挨拶に、自分も同じテンポでさようならと返しながら、そっと微笑む。
「それ、どうしたの?」
「どうしたんですかぁ?」
「おなかいたい?」
 目上の人間に対しての言葉遣いを諌めるべきか悩みながら、僕は子供達に手紙を広げて見せた。
「おてがみ?」
「そう――」
 鉛筆で書かれた文字を指でなぞる。何一つ知らなかった、知らずにいられたあの頃、成る程、確かに自分は幸せだったのだ。
「だれからぁ?」
「……さて、ね。さぁ、もう帰りなさい」
「はぁい」
「さようならぁ」
「さようなら」
 それは、手紙だった。いつからの誰かからの、いつかの誰かに向けての手紙。

『がっこうのせんせいになって、ここでみんなと――』

 叶った夢がある。
 勿論、叶わなかった夢も。
 新しい世界に、そうと知らずに踏み込んできた子供達。彼等は何を思うのだろう。何を、夢に見るのだろう。
 そして、これから踏み込んでいく、どこかの誰かは。
 雨は降るだろう。子供達の不安も期待も困惑も希望もそれから未来も、全て全て何もかもを飲み込んで、只管に。
 そうしていつか、虹が架かるだろう。
 灰色の世界なぞ、知らぬとでも言いたげに。
 僕の手の中には手紙がある。いつか手放した夢の欠片。
 このちっぽけな掌に収まる、いつかの誰かが、いつかの誰かへと託した想いが。
 僕は昔のように笑った。それから手紙を折って、出来上がった紙飛行機を雨の中に飛ばした。

この本の内容は以上です。


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