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東雲 夜宵 - Yayoi Shinonome -
暁刻 - Akatoki -
皇城 輝羅 - Akira Sumeragi -
桜月 愛 - Kana Hanazuki -
橘 千歳 - Chidose Tachibana -
陸守 葵 - Aoi Kugami -

一色 - Issiki -
二極 - Nikiwame -
三角 - Mitsukado -
四季 - Yotsuki -
五行 - Gogyo -
六道 - Rikudo -
七宝 - Shippo -
八戒 - Hakkai -

九鬼 - Kukami -

 人は嘘を吐く。
 その中に含まれるのは、善意だったり、悪意だったりする。人を慕い、厭い、想い、嫌い、祝い、呪いながら、人は偽りを口にする。
 それを、俺は知っていた。幼い頃から。
 眼下を見下ろす。足の下に、陸守の町が広がっていた。
 比喩ではなく、真下――だ。足場は無い。何を支えにする事もなく、この体は中空に浮いている。この高さからだと、人は米粒よりも小さく見える。
 そんなものなのかも知れないと思う。人は米粒以下の存在だ。俯瞰した、この――飾り立てられた墓場のような――光景こそが、本質なのだ。そう考えた方が、きっと潔い。
 誰も自分を見付ける者などいないだろう。上というのは人間の死角だ。人は常に、下ばかり向いている。
 幾つかの小学校。中学校。高校は私立と公立が一つずつ。この町の大体の高校生が、この公立高校に通っている。何を考える事もなく。
 町の端には低い山があり、その頂上近くに陸守神社があった。この辺りでは最も大きい神社だ。今年の元旦にも、初詣の客が多く詰め掛けていた。
 そんな事を一つ一つ思い出しながら、俺は町を見下ろしている。
 家に帰る気にはならなかった。暫くはこのままでいようと決めて、視線を少しだけ上げる。
 月が、浮いていた。
 満月。
 何の気無しに、それを眺める。沈み掛けの月の色は、濃い。常に人間は、この姿に幻想を抱きながら生きてきた。
 色の波長によって簡単に説明出来て仕舞う事象の一つにすら意味を見出すとは、随分とご苦労な事だ――そう思って、途中で思考を止めた。
 生きているなぞ、皆『ご苦労な事』をしている。
 もう一度視線を戻した。見下ろした時に真っ先に浮かぶのは、高い、という印象ではなく遠いという感想だ。だが、丁度良い。
 自分には、このくらいの遠さが合っている。
 景色を見ながら考える。通行人は少ない。時間が時間だから、当然だろう。そう、この眼に見える範囲で生活している人間の中に、嘘を吐いた事の無い者は存在するのだろうか。
 思わず笑った。
 嘘を吐いた事の無い人間なぞ、いる訳が無い。
 安堵した自分に、思わず嗤ったのだ。
『――――様』
 呼び掛けられて、俺は視線を滑らせた。近くに気配は無い。声だけを届けて来たのだろう。そう判断して、答える。
「……何だよ?」
『近くに、吸血鬼が“発生”した模様です』
「あぁ……」
 そんな事か。
 息を吐く。鼓膜を震わせた声は、男のものとしては高過ぎ、女のものとしては低過ぎる。耳に心地の良い声。
「放っとけ」
『御意』
 丁重な返事を最後に、声は聞こえなくなる。六道。《九鬼》の鬼。
 吸血鬼の“発生”なぞ久し振りだった。彼等は、“覚醒”――完全に力を己のものとするまでに、凡そ一箇月程掛かる。闇の貴族。異形の中でも最高峰の力を持つといっても過言ではない存在。確かに脳裏に留めて置いた方が良い情報なのかも知れない。《九鬼》の名を持つ俺は。
 だが、と――思う。正直に言えば、興味が無かった。
 いつもの事だ。そう思う。大体、非力な雛では一箇月生き残れるとも思えない。
 息を吐く。この一瞬で、どれ程の存在が動いた?
 全ての命は死んでいる。
 全ての命は生まれている。
 全ての命は流れている。
 何の変化も、相変わらず起こらない。
 例外はあるか? 答えは否だ。考える必要すら無い。この世界で、頭を使わなければならない事柄はどの程度あるのだろう。
 緩やかに思考は停止する。停止して、元の位置に戻る。
 人は嘘を吐く。
 人は存在し始めたその瞬間から嘘吐きだ。産まれたという嘘を吐く。生きているという嘘を吐く。
 一切の例外はあり得ない。
 いつの間にか、月は完全に沈んでいた。西から陽が昇る。一日の始まりだ。

 ―――今日も、朝焼けが来る。
 一瞬。
 体が浮遊する。その錯覚。意識が引き上げられる、その感覚。
 毎朝感じるそれが、私は嫌いだ。見たくもない現実を見せる檻。
 だからと言って、夢が惜しいという事は、無い。私は基本的に夢を見ない。もしかしたら、覚えていないだけかも知れないが。
 不快感と嘔吐感に顔を顰めて、私は体を起こした。息を吐き出して、ベッドから立ち上がる。
 淡い色のカーテン――これは私の趣味ではなく、この家の主が用意したものだ――を引くと、鈍い光が部屋に入る。空を見上げる。
「……曇りか」
 雨でなかっただけ、マシだろう。晴れたのは幾日前だったか。梅雨に入ってからというもの、青空を見る回数が格段に減っている。
 晴れだったからといって、何が変わる訳でもないが。
 起きて、至極寝起きの悪い同居人を起こす。私の一日は、そこから始まる。私が、この――皇城の――家に引き取られてから、何も変わる事のない日常だ。
 親の顔は、遠い時間の向こうに霞んでいる。気付かぬ内に、随分と時間が経って仕舞った。
 同居人――というよりも、居候先の息子。私と同い年の少年。名は、皇城輝羅。彼の部屋は、私の隣だ。
 戸籍上では、私はこの家と何の関係も無い。親族ですらない。親の親友だったらしい、とは人から聞いた話だった。
「輝羅、入るぞ」
 軽く言葉を掛ける。無論、この程度で彼が眼を覚ます筈も無い。向かいのベッドで暢気に寝ているのは、整った顔立ちをした少年だった。
「起きろ」
 朝だ。声を掛けてみる。何の反応も無い。予想済みだ。
「輝羅、輝羅!」
 面倒臭いが、今この家には輝羅と私しかいないのだ。私が起こさなければ、この男は間違い無く遅刻する。別に構わないのだが、それは私に輝羅の世話を任せて海外に行った輝羅の両親に申し訳無い。そのような訳で、耳元で大声を出してみる。
 ベッドに引き摺り込まれかけた。腹筋に肘を打ち込んで逃げ出す。この時点で普通なら起きる。
 暢気に寝息なんぞ立てている少年の口と鼻を塞ぎたくなる衝動を堪えながら、私は用意してきた武器を使用した。
 即ち、氷水。
「――――冷た……!?」
 顔などという優しい事はせず布団を捲って胸の上に掛けてやる。布団で温まっていたのだから、それなりの衝撃だろう。案の定飛び起きた少年に向かって、極上の笑みを向けた。
「お早う、輝羅」
「夜宵!」
 残念ながら、その程度の怒りで動じてやる程可愛い性格はしていなかった。毎朝毎朝学習しない方が悪い。眼を開けて睨んで来る輝羅を見下ろす。
 寝ている時に綺麗だった顔は、矢張り起きている時も綺麗だった。しかし、彼を見た時に真っ先に眼を奪われるのは、その藍色の瞳だろう。私は密やかにそう思っている。
 異国の血でも混ざっているのかも知れなかったが、問うてみた事はない。そう言えば、彼の父親が若干日本人離れした顔立ちをしていた気もする。それ程興味のある事柄でも無かったのだが。
「用意をして来い」
 その間に、私はいつも朝食を作る。そうは言っても、トーストを焼くだけだ。そんな簡単な作業すらしようとしないこの男は、放って置くと三食抜いて平然としているのだ。
 バターと牛乳を準備し終わった時に、丁度輝羅が出て来る。まだ不機嫌そうな顔をしていたが、これもいつも通りの事なので、気にせず食べさせた。私は君の親ではないのだが?
 家を出るのは、私の方が若干早い。同じ高校に通っているが、寄る所があるからだ。
 玄関にある鏡で、制服姿の自分をちらりと確認する。本当に一瞬見る程度だ。私は己の顔が好きではない。
「待て、夜宵」
「……うん?」
 呼ばれて振り返ると、輝羅が立っていた。手を伸ばした、と思ったら、ネクタイを直して離れていく。
 その寸前に軽く髪を撫で付けられて、寝癖でも残っていたのかと首を傾げた。
「有り難う」
「お早う」
「―――――」
 反応が遅れて、あぁそう言えばまだ挨拶を返されていなかった、と思い出した。順序が可笑しい。小さく笑い、頷いて見せる。輝羅はそれで満足したようだった。
「では、後で」
「気を付けろよ」
 何に気を付けろと言うのだか。
 互いに出掛けて、しかも学校で再び顔を合わせるのだから見送りの言葉を口にするのも不自然だろう。そんな思いから、毎朝の遣り取りはいつも中途半端なものになっている。
 私が完全に家を離れるまで、彼が視線を外さないのも毎日の事だった。いつ転ぶか判らない、とでも思っているのかも知れない。事故で亡くなった両親を前に、訳も判らずに泣き喚いていたのは、もう随分と昔の話なのだが。


 あちこちにある紫陽花に視線を向けながら歩く。色は皆、若干ずつ違っている。
 私は毎朝、駅に寄っている。学校は町内で、歩いて行ける距離にある。駅に行くのは、町外から通っている友人を迎えに行く為だ。
 大きくはない時計台。大体彼女はそこにいるのだが、さてどこに行ったかと視線を走らせた。時間的に、既に来ている筈だ。
 そんな事をしていた自分は、恐らくとんでもなく無防備だったのだろう。横合いから飛び付いて来た小柄な体に、危うく押し倒される所だった。
「おっはよおぅ!」
 素っ頓狂な挨拶とともに抱き付いて来る少女。驚きは一瞬だ。
「お早う」
「うん、今日も希望に満ち満ちた清々しくて綺羅綺羅しい朝だね!」
「嘘」
 ダウト。きょとんとした顔。
「そんな事思っていないだろう、愛――?」
 桜月愛は、薄らと微笑んだ。

 俺の朝は早い。
 少なくとも始業の三十分前には、自分の席に着いて教科書を広げている。今日の範囲。昨日の範囲。家でもやった予習と復習を、ざっともう一度確認しておく。
「橘!」
 呼ばれて、顔を上げた。眼の前にはクラスメイト。面倒だという思いを隠すのも億劫で、眉を顰める。
「ンだよ?」
「英語見してくんね? お願い!」
 同じ男に上目遣いで見られても、嬉しくもなんともない。断るにもしつこそうだったので貸してやった。大袈裟な程に喜ばれて、溜め息を吐く。
「よっしゃあ! 流石橘大明神様! 恩に着るぜ!」
 別に着なくても全く構わないし、大体三分後にはその恩を忘れているに決まっているのだ。そう言ってやるのも面倒臭くなった。
 もう一度教科書に視線を落とす。現代文。どこまでやったか、ちょっと判らなくなった。今日はあまり集中力が持続しないらしい。
 舌打ちし、諦めて思考を放棄した。早めにクラスメイト達の会話に加わろうかと思う。少なくとも始業数分前はそうするようにしている。円滑な人間関係も大切なものだろう。
 自分にとっても、自分の周囲にとっても。
「昨日のドラマ観たか?」
「……何かやってたっけ?」
 さっぱり記憶が無い。大体ドラマを放映する時間には勉強している事が殆どだ。
「阿呆かあぁ! 何でだよ、何でそうなんだお前は!」
「『好きなテレビはニュース』だもんな、橘は」
 横合いからからかわれて、むっとして言い返した。
「何だ、何か悪い事でも?」
「くそぅ、これだから良い子ちゃんは!」
 この年頃の人間は、どいつもこいつも動きがオーバーだ。すぐ隣で盛大に悶絶されて、少し引いた。
「おい、ドン引きされてるぞお前」
「何ぃ!? 俺とお前の間にはそんな薄っぺらい友情しか無かったのか!」
 薄っぺらいも何も、近頃の子供ってのはそんなもんなんじゃないのか。返そうとして、止めた。何もかも面倒だ。
「ま、所詮学年二位様は俺達とは違う頭をお持ちだって事だな」
 揶揄する声には、その台詞程の険は含まれていなかった。その程度には、俺はこのクラスに馴染む事に成功している。
「そんな事言ったらお前、一位様はどうなんだよおおぉ」
 情けない声は、机にへばり付いた男から漏れたものだ。先程自分が引く破目になった原因である。
「あぁ、そろそろ――ほら、来たぜ、一位サマが」
 一位サマ。
 その言葉に、思わず反応して仕舞う。幸い、気付いた者はいないようだったが。
「ちぃっす、皇城」
「あぁ、お早う」
 俺達の中に、するりと入り込んで来た。その男は、始業の五分前に毎日到着する。
 整った顔立ちに穏やかな笑みを乗せて、それが嫌味にならないのが皇城の魅力なんだよなぁ、と体をくねくねさせながら気持ち悪い事を言っていたのは誰だったか。
「どうした、橘?」
「あ、いや……」
 黙り込んだ俺に気付いたのか、案ずるように覗き込んで来る男。
 皇城輝羅。学年一位。当然クラス順位も一位だ。多数の運動部から熱烈なラブコールを受ける程の運動神経の持ち主。整い過ぎた顔立ちに、珍しい藍色の瞳。
 当然、女子からはしょっちゅう告白されている。一度も誰かと付き合った事は無いらしいが。かと言って泣かせる事もなく、上手く宥めて事を収めるらしい。らしい、というのは、それが人伝に聞いた話だからだ。
 実際、彼は優しい。他人を泣かせる事など思いも寄らないだろう。男子にも女子にも人気があり、その品行方正な態度は教師にも高く評価されている。
 要するに、過ぎる程に出来る男。欠点が無い所が欠点のようなクラスメイトだ。
 皇城に自分が複雑な思いを抱えている事は、本人は勿論誰にも知られていない。努力など知らない、涼しい顔で、あっさりと自分の努力を超えていく男。恐らくは、己が誰かを踏み躙っている事にすら気付いていないだろう少年。
「何でもねぇよ」
 眼の前にある端整な顔に舌打ちしそうになるが、それを堪えて俺は笑った。皇城との仲を壊す事は、このクラスで生活していく上でマイナスにしかならない。
「そっか」
 ほっとしたように笑う顔。罪悪感よりも、嫌悪感が先に立つ。
「もうすぐテストだろ? 調子はどうよ?」
 その話題を今出すな。そう言う訳にもいかず、口を開いたクラスメイトに視線を送る。皇城は苦笑していた。
「あぁ、どうだろうな……」
「お、何々? もしかして首位転落かぁ?」
「じゃあ、俺が一位かな」
 冗談交じりに、俺は言った。皇城が悪戯っぽく笑う。
「負けないぜ?」
「どうだか」
 そんな事判ってる。返しそうになって、慌てて取り繕った。どうあっても、自分はこの男に敵わない。
 始業のチャイムが鳴って、それぞれが席に着く。その直前に、俺は皇城に囁いた。
「なぁなぁ、東雲さんは――」
「ん? あぁ、相変わらず」
 男なんて出来てないよ。その言葉に安堵する。男自体に興味が無いのかも知れないが、振り向かせる努力はしてみる心算だ。
 東雲夜宵。俺の片想いの相手。昔から皇城の家に居候して、彼とは半ば兄妹のような関係らしい。皇城と東雲さんは、色恋めいた関係には程遠いし互いにそんなものは望んでいない。それは知っている。
 だが、それでも不安になる事はあるのだ。自分よりも東雲さんに近い位置にいる男。その前提が、俺から皇城への感情を更に鬱屈させている。
 そんな事は知らない教師が、教壇に立っていつまでも席に座らないこちらに視線を向けてくる。何か言われる前にと、席に戻った。
 今日も変わらぬ一日が始まる。

 そう、もしも。

 例えばそれが悪意だったとして。

 世界は赤によって構成されている。
 邪魔だ。私は何度思ったか知れない感想を抱いて眉を寄せた。
 自分ではそんなに気にしていないのだが、私は背が低い。当然、座高も低い。眼の前に背の高い男なぞが座っていれば、考えるまでもなく黒板は見辛くなる。
 別に無意味な黒板も不景気な教師の顔も見る必要の無いものである事は確かだが、親愛なる私の親友殿がノートは書いておけと煩いのだ。そんな事をせずともテストは適当に出来るものなのだが。
 自分自身だって必要としていない割には、妙な所で生真面目だ。現に私は、彼女が七十点以下を取ったのを見た事が無かった。いや、私自身もそんな低い点数は取ったりしないが。或いは親友殿の場合は、擬似兄が勉強を教えているのかも知れない。あの男は確か学年一位だと聞いた事がある。
 諦めて、ノートも教科書も閉じる事にした。後で夜宵に見せて貰おう。
 この席は窓が遠いのが難点だ。それでも、重い空は眺める事が出来る。今日は降らないだろうが、明日以降はどうなるか判らない。
 外が明るくないからだろう、窓には教室の全景が映っていた。黒板、教師、教壇、机、椅子、生徒、鞄、ロッカー。その中にうとうととしている親友殿を見付けて嬉しくなる。彼女は大概の場合に無防備だが、眠い時は更に無防備だった。いや、毎日遅くまで読書をしている所為で眠そうな顔をしていない日の方が少ないが。私も読書量は多い方だ。
 自然と眼に入りそうになる自分の姿は見ない。窓を通していても、教室は何も変わらない。
 学校というものは概ね何処も似ている。私はそう思う。
 古くても新しくても、広くても狭くても、大きくても小さくても。等しく社会を構成して正しく世界を拒絶した子供を抱えている。
 学校の教室に共通の、一種独特の倦怠感とも呼ぶべきものに身を委ねて、私は今日も授業を受けている。子供が学校に求めているのは、知識ではなく学歴だ。否、子供ではなく子供の親と言った方が正確だろうか。どちらにせよ、話を真面目に聞いているものが何人いるのだろうか。
 子供が学校に求めるものがあるとすれば。それは、そう――変化ではなく、きっと、真逆の安寧だろう。私はそう考えている。
 例に漏れず、私は話を聞き流している。外の景色は変わらない。内の景色も変わらない。両方の様子を同時に眺めながら、私は益体も無い事を考えている。そんな事をしていれば、当然眠くなるに決まっていた。

「アイちゃん」
「!」
 一瞬――否、暫くは意識が飛んでいたのだろう。前触れも無く呼ばれて――『アイちゃん』は私の愛称らしい――、私は跳ね起きた。話し掛けた相手が、可笑しそうに笑う。
「すっごい寝てたねぇ? 挨拶にも反応しなかったよ?」
「……ありゃりゃ。寝ちゃったにゃあ」
 本当に気付かなかった。チャイムにすら反応出来なかったとは不覚である。
 自分は座っていて、相手は立っている。当然、見上げる形になった。
「お早う、アイちゃん」
「おはよぉ」
 今更聞こえなかったフリは出来なかったので、普段通りに返した。私がある程度の人間と友好的関係を築いているのは、単純に我が親友殿の為だった。彼女が困った時に私の力でどうにもならなかった場合、手を借りられるように。
 当然私の思惑など見透かしているであろう親友殿は、こちらに視線を向ける事もなく窓を見ていた。相変わらず、窓には二重の世界が映し出されている。
 彼女は何を見ているのだろう。思ったのはそんな事だ。
 ちらちらと視界を遮る赤。それに気付かないフリをして、私は今日も生活している。
「次、英語でしょ? 予習して来た?」
 する訳が無い。
「……うわぁ。カナ忘れたよ」
「やっぱり? 忘れっぽいなぁ」
 呆れたように笑った少女が、何がそんなに楽しいのか笑みを浮かべながらノートを持ち出して来た。誰かを世話する事によって得られる自己陶酔と、若干の優越感。彼女が求めているのはそれだろう。私は、クラスメイトの間でマスコットキャラのように扱われている。
 それに文句があろう筈もない。概ね皆、私には甘い事を知っている。
 赤が煩い。逃れるように視線を窓に向けて、胸に浮かんだのは後悔だった。
 自分の顔が見える。自分が映っている。自分と眼が合っている。『桜』と書いて『はな』と読み、『愛』と書いて『かな』と読む――名前の通りに偏屈な自分。その自分の内面を表したかのような顔。
「判る?」
「うぅん?」
 判るに決まっているが、私は首を傾げるに止めた。程々に頭が悪い方が、下手に出来るよりも印象は良いだろう。
 彼女の説明を聞きながら、意識の全ては親友殿に向かっている。東雲夜宵。綺麗な顔と心を持つ少女。私の唯一。いつだってたった一人、自分を見抜いてくれる人。この赤い世界の色彩。
 世界は赤に遮られている。
 赤が人の悪意の色だと、知ったのはいつの頃だっただろう。錯綜する赤。赤。赤。人間とはそんなものだ。
 只管に、滑稽。
 嗚呼、今日もこの命に意味は無い。その素晴らしさに、私は少しだけ微笑んだ。


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