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傑作

山奥の作家のインクを奥さんが溢しちまった。冬の間は買いに行けない。怒った作家は妻の血を抜いて小説を書いた。奥さんは失血死しちまったが作品は完成した。春に編集に渡そうとすると、強い風が吹き乾いた血文字が残らず剥がれ落ちたそうだ。作家は今でも言うよ。あれは傑作だったと。

機械時計

お祖父様の形見の機械時計は、0時に赤いドレスの娘が現れてくるくる劇を踊るのです。弟はそれを観るときだけ昔を思い出すようです。ほら、もうすぐですよ。ポーン、ポーン、ポーン。さあ踊りましょう、一緒に。何故、秒針が動かないのかって? どうでもいいでしょう、そんなこと。

テーブルの向かいから見た君は、いつも愛らしく僕に微笑みかける。マンションの二階から見送る君の姿は美しくて、雑踏の中歩む君はすでに遠い人だった。飛行機から見下ろした君は都市の中の豆粒のような人にすぎず、宇宙から見た君はいるかいないのかわからない何かでしかなかった。

駅前のカフェ

見ろ、駅前のあの男。彼はああして可哀想な娘に手を差し伸べるのを待っているのさ。下心とか詐欺とかじゃなく、それが自分の役割と本気で信じている。そして毎日違う男が役割を果たしに来る。え、俺たちの役割だと? すると男たちはそそくさと自分のカップを手にカフェを後にした。

人魚

水中を漂う女は、わたしが溜め息をつくたび、肺に水を吸い込んで水底に沈むんだって。だからわたしは、なるべく浅く息をする。けれども女は、わたしが笑うと膨れ上がって水面に浮き上がり、網にかかって陸に打ち上げられるんだって。だからわたしは、水中を密かに泳ぐように生きる。

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