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29. 幸せになるために

 サイファはレイチェルの部屋の前に立ち、軽快に扉を叩いた。
 しかし返事はない。
 耳を澄ましてみるが、静まりかえったまま、物音一つしなければ、気配すらも感じられない。窓の外から届く小鳥のさえずりだけが、やけに大きく聞こえる。
「レイチェル?」
 僅かに語尾を上げて呼びかけると、静かに扉を開いて中を覗き込む。
 ガランとした広い部屋。
 その奥の机で、レースのカーテン越しに降りそそぐ柔らかな光を受けながら、彼女はうつぶせになっていた。背中が小さく上下している。顔は見えないが、おそらく眠っているのだろう。
 サイファは音を立てないように足を進めた。
 教本やノートを広げたその上で、彼女は子供のようなあどけない顔で眠っていた。細い金の髪は透きとおるようなきらめきを放っている。それを目にするだけで、サイファの口もとは自然と緩んだ。彼女の柔らかい頬にそっと指先を滑らせると、耳元に口を寄せて、慈しむような音色で名前を呼ぶ。
「レイチェル」
「ん……」
 レイチェルは眠たそうな声を漏らすと、睫毛を震わせてうっすらと目を開いた。気だるそうに体を起こしながら辺りを窺おうとする。その後ろから、サイファは椅子の背もたれ越しに彼女を抱きすくめた。ふわりと広がった甘い匂いが鼻をくすぐる。
「サイファ……」
 レイチェルは子猫のように目をこすりながら呟いた。そんな仕草も、サイファにはたまらなく愛おしく感じられ、思わずくすっと笑みをこぼした。
「身体には気をつけてね。眠かったらベッドで寝た方がいいよ」
「ありがとう」
 彼女は小さな花がほころんだように愛らしく笑った。だいぶ意識が明瞭になってきたようで、今日が平日であることに気づいたのか、サイファに不思議そうな目を向けて質問する。
「お仕事は?」
「今日はお休み」
 サイファはにっこりと答えた。今は仕事もさして忙しくはなく、また、事情を理解してくれていることもあり、希望をすれば簡単に休暇がとれるのだ。
「レイチェルは勉強していたの?」
「他に、することがないから」
 彼女は少しためらいがちに、しかし笑顔を浮かべてそう言った。
 万が一のことを考えて、彼女にはなるべく家の外に出ないようにと言いつけてあった。敷地外だけではなく、文字通りの家の外、つまり庭にも出ないようにという意味だ。いささか過剰な対応ではあるが、アルフォンスもそれには積極的に同意した。ことレイチェルに関しては、サイファ以上に過保護なのである。
 きっかけは、先日、隠れ家で聞いたティムの話だった。
 彼からはその翌日に平謝りされた。話した内容は事実だが、ずっと誰にも言わず自分の心だけに留めておくつもりだったらしい。まして何らかの行動を起こすつもりなど微塵もない、ということだ。それは嘘ではないだろう。彼のことを疑っているわけではない。1年という期間、一緒に仕事をしてきて、彼がどういう人間であるかはだいたいわかっているつもりである。
 だが、彼以外の誰かがやるかもしれない。
 ラグランジェ家に正面きって喧嘩を売ればどうなるか——王宮に勤めるものであれば、誰しもわかっているはずである。しかし、可能性はほぼゼロに近いだろうが、破滅覚悟ということもありうるのだ。用心するに越したことはない。
 だが、彼女を閉じこめておきたい理由がそれだけではないことも、むしろそれ以上に怖れる理由があることも、サイファは自覚していた。
「ごめんね、しばらくは我慢して」
 少し申し訳なさそうに言いながら、サイファは彼女の側頭部に頬を寄せ、机の上に開いたままになっていた教本とノートに目を落とす。
 そこにはラウルの文字が走っていた。
 家庭教師が教え子の教本やノートに文字を書き入れることは、決して不自然な行為ではない。現にサイファのものにもラウルの書いた文字がたくさん残っている。
 ただ、彼女がそれを開いていたのは——。
 サイファは小さな体を抱きしめる腕に、少し力を込めた。
「ラウルに、会いたい?」
 レイチェルはビクリと体を硬直させた。何も答えないまま、口をきゅっと結ぶ。息さえも止めているようだ。細い指先だけが、膝の上で微かに動いた。
「正直に答えていいんだよ」
 出来るだけ柔らかく、サイファはそう促した。
 レイチェルは僅かにうつむくと、長い沈黙のあと、小さくも明確にこくりと頷いた。間髪入れず、いささか慌てたように言葉を繋ぐ。
「でも、会わない……から……」
「……ごめん」
 サイファは低い声を落とした。彼女の華奢な肩に顔を埋めると、抱きしめる腕にさらに力を込める。縋りつくように、逃さないように、縛り付けるように——。
 その枷に、レイチェルは小さな手を重ねた。
「私、お母さまにお茶を淹れてもらってくるわ」
「……いや、今日は長くいられないんだ」
 ほのかな温もりに心が融けていく。本当はずっといつまでもここにいたいが、そういうわけにはいかない。サイファは体を起こしてやんわりと断ると、不思議そうに小首を傾げるレイチェルに微笑み、その頭にぽんと手をのせた。
「祖父にお願いしないといけないことがあってね」
「ルーファス前当主に……? 何を……?」
「僕たちが幸せになるために必要なこと」
 サイファは努めて明るく言った。しかし効果はなかったようだ。彼女は何か言いたげに小さな口を開くものの、一言も発することなく目を伏せて深くうなだれる。その表情は明らかに自分自身を責めているものだった。
「心配しなくても大丈夫だから」
 サイファは優しく元気づけながら、隣に膝をついて覗き込む。
 蒼の瞳は不安定に揺れていた。
 それでも、彼女は幼い表情をきゅっと引き締め、真摯な眼差しを返して尋ねる。
「私は、何をすればいいの?」
「……嘘を、つき続けて」
 少し考えた後、サイファは答えた。
 それを15歳の少女に強要するのは酷かもしれない。しかし、他のことはサイファが可能な限り手を打つとしても、それだけは彼女自身がやるしかないのだ。失敗は決して許されない。彼女もそのことはすでに理解しているのだろう。決意を秘めた面持ちで、その重みを受け止めるようにゆっくりと頷いた。

 飾り気のない地味な黒ワンピースに、控えめなフリルの白エプロンという、典型的な身なりのメイドに案内され、サイファはやや古めかしい応接間の扉の前に立った。いつもより力を込めて、その扉をゆっくりと二度叩く。
「入れ」
 扉越しにも威圧感のある声が、端的に命令を下す。
 サイファは扉を開き、一歩、足を踏み入れた。そこで深々と一礼して背筋を伸ばす。
「ルーファス前当主」
「堅苦しい挨拶はなしにしよう」
 言葉を継ごうとしたサイファを遮り、ルーファスは自分の座るソファの向かいを勧めた。サイファは再び一礼して、示された革張りのソファに腰を下ろすと、眼前の男をじっと注視する。彼は鷹揚に背もたれに身を預けていたが、その姿には貫禄と風格があり、また、体勢にもまったく隙は感じられなかった。
 油断ならない——。
 とうの昔からわかっていたことだが、彼と対峙するといつも、そのことをあらためて実感させられるのだ。
「おまえが私のところへやってくるのは、何か頼みごとがあるときくらいだな」
 ルーファスはどこか楽しげな声音を響かせると、口角を上げ、すべてを見極めるような抜かりのない視線をサイファに向けた。
 体中が竦むような感覚。
 サイファは唇を引き結んだ。それでも退くわけにはいかない。毅然とした表情の下に戦慄を押し隠し、単刀直入に切り出す。
「私を近くラグランジェ本家の当主にしてください」
 ルーファスの目が少し大きくなった。それは、単なる驚きというより、感嘆といった方が近いかもしれない。鼻から小さく息を漏らすと、抑揚のない低い声で尋ねる。
「なぜそれほどまでに急ぐのだ」
「父は……リカルド=キースは、当主の器ではありません」
 サイファは臆面もなく答えた。
「私を見くびっているのか」
 鋭い眼光がサイファを貫く。それが本当の理由ではないことを、ルーファスはすぐに見透かしたのだろう。だが、それも想定済みである。サイファは狼狽することなく落ち着きはらって続ける。
「事実には違いないでしょう」
 ルーファスは険しい表情を崩さなかった。眉を寄せたまま睨み続けている。そして暫しの沈黙の後、ゆっくりと口を開いて言う。
「おまえの思考はいつも理路整然としている。それゆえに読みやすい。だが、このところはどういうわけか必然性のない暴走が続いている。とち狂ったのかとも思ったが、実際に会ってみると以前とまるで変わっておらん。むしろ以前より聡明さを増しているようにも見える。そんなおまえが、くだらん失敗をしたり、考え無しの行動をとることはないだろう。そうなると考えられることは一つだ」
 そこで言葉を切ると、サイファの瞳を奥底まで探るように見つめる。
「私の理解を超えるところで、おまえは何らかの計略を巡らせている……違うか?」
 静かだが威圧感のある声で尋ねられ、それでもサイファは少しも怯むことなく、ふっと薄く笑みを浮かべた。
「たとえそうだとしても、訊かれて素直に答えると思いますか」
「答えなければ当主の座を認めない、と言ったらどうする」
 ルーファスは悠然と肘掛けに頬杖をつきながら問いかける。
「あなたはそれほど小さな人間ではないでしょう」
「長く権力を手にするものは、皆、慎重なものだ。私とて例外ではない」
「だとしたら、答えたとしても認められることはなさそうですね」
 サイファは爽やかに笑って言った。
 しかし、ルーファスの表情はピクリとも動かなかった。ただ、全てを見透かすような青い瞳でじっとサイファを見据えている。そこには攻撃的な強い光が宿っていた。
「下手なハッタリだな」
「さあ、どうでしょう」
 互いに正面から視線をぶつけ合い、絡め合い、探り合う。
 息の詰まるような、長い、長い沈黙。
 その重苦しい空気に押しつぶされないよう、サイファは気を張って耐える。先に目を逸らせたら、口を開いたら負けだと思った。だが、それは浅はかな考えであることを知る。
「いいだろう」
 ルーファスが静寂を破った。
「今すぐというわけにはいかんが、結婚式と同時に就任ということで手を打とう」
「ありがとうございます」
 サイファはその場で頭を下げる。しかし、これが礼を述べる類のものでないことは理解していた。ルーファスは負けたわけでも譲歩したわけでもない。挑戦状を叩きつけたのだ。ここからが戦いの始まりなのだろう。彼の獰猛さを増した瞳がそれを物語っていた。
「ただし、リカルドはおまえが説得しろ」
「たやすいことです」
 サイファは無感情に答えると、立ち上がって一礼し、静かに応接間を後にした。

 入れ替わりに、別の扉から大きな体が応接間に入る。無言で足を進めると、先ほどまでサイファが座っていた場所に腰を下ろし、深く溜息をついた。
「これを聞かせるために私を呼んだのですか?」
「面白かっただろう?」
 ルーファスは口の端を吊り上げた。
「悪趣味ですね」
 アルフォンスは腕を組んで窓の外に目を向けた。
 すぐに、ルーファスの妻が二人分のチーズケーキと紅茶を運んできた。そのケーキはアルフォンスが手土産として持参したものである。
「このチーズケーキはなかなか美味しいですよ」
 アルフォンスの機嫌はもう直っていた。嬉々として子供のように頬張る彼の姿を見て、ルーファスは呆れたように眉をひそめながらも、勧められるまま一欠片を口に運ぶ。
「……甘いな」
 ぼそりとそう呟くと、フォークを置き、ストレートの紅茶を口に運んだ。
 アルフォンスはゆっくりと手を止めた。
「あなたも、サイファには随分と甘いですね」
「不服のようだな」
 淡泊な口調でそう聞き返すと、ルーファスはティーカップをソーサに戻し、皮の擦れる鈍い音を立てながら、背もたれに深く身を預けた。
 アルフォンスはうつむいたまま答える。
「不思議に思っているだけです。ラグランジェ家の品位を貶めたサイファに何の罰も与えず、婚姻を認め、さらにあの若さで当主にするなど……」
「それだけの価値があるということだ」
 ルーファスは答えた。それは全ての疑問に対する簡潔明瞭な答えである。それでもアルフォンスは感情的に受け入れがたく、眉間に皺を寄せ、迷いを含んだ複雑な顔を見せていた。
「おまえは自分の娘のことがあるせいで冷静に考えられないのだろう。あの二人の子供は、ラグランジェ家の飛躍のためには必要な存在だ。この調子で10人くらい作ってほしいものだな」
 愉快そうにそんなことを言うルーファスを、アルフォンスは抑えきれない反感を滾らせながら凝視した。彼に自覚はなかったものの、それは睨んでいるとしかいいようのない眼差しだった。
「気に入らんか」
「いえ……」
 感情を抑えた声を落とすと、奥歯を噛みしめて目線を外す。彼は、勝算のないものに真っ向から対立するほど無謀ではなかった。
 ルーファスは冷たく目を細めた。
「おまえはレイチェルにいつまでも無垢な子供のままでいてほしかったのだろう。だが、そんなものはとうになくなっていたのだ。あの子はおまえの願いを酌み取って、そういう振る舞いを続けていたにすぎん」
「子供を演じていたと?」
「おそらく無意識だろうがな。レイチェルは他人が自分に望むことを敏感に感じ取り、それに応えようとするところがある。サイファは彼女におまえとは違うものを求めたのだろう。それが女か、共犯か、それとも他の何かかはわからんがな」
 そう言うと、彼は窓越しに遠くの空を仰ぎ見た。端整な横顔に柔らかな陽光が降りそそぎ、その立体感をよりいっそう際立たせている。
 アルフォンスは僅かに顎を引いた。
「だからといってサイファの行為が正当化されるわけではない」
「感情に流されて目を曇らせるなということを忠告しただけだ」
 ルーファスは空を眺めたまま素っ気なく答える。アルフォンスのことはあまり眼中にはないような素振りだった。おそらくはサイファのことを考えているのだろう。彼に入れ込む理由はわからなくはない。だが——。
「リカルドは良い傀儡だ、と言っていませんでしたか?」
 その問いかけで、ルーファスはようやく視線を戻した。ゆっくりとアルフォンスに向き直ると、深く息をついて答える。
「ああ、だが表に立つ者として、あまりにも威厳がなさ過ぎる。サイファの言うように当主の器ではない。ただ従順なだけが取り柄の出来損ないだ。人の好さで皆に好かれてはいるようだが、ラグランジェ家は畏怖される存在でなければならない。そろそろ打開策を考えねばと思っていたところだ」
 重く厳しい口調で述べると、その身を深くソファに沈め、小さく眉をひそめて続ける。
「とはいえ、他の子供たちもリカルドと変わらんからな」
「性格はみんな母親似ですね」
 リカルドには弟と妹が一人ずついるが、三人とも優しく穏やかな性質で、そのためかきょうだいの仲も良かった。しかし、そんなことは、ルーファスにとっては何の評価にもならないのである。
「性格だけではなく、頭脳も、魔導の能力もだ」
 返す言葉の端々に、抑えきれない苛立ちが覗いていた。
「あいつは妻としては従順で申し分ない女だが、子供の母親としては物足りなかった。その点、シンシアは優秀だ。あれを選んだ私の目に間違いはなかっただろう。彼女の聡明さを、サイファは受け継いだのだからな」
 ラグランジェ本家の次期当主は10歳になるまでに婚約者を定められる。当然ながら本人が選ぶことはできない。そんな事情もあり、ルーファスは、親に押しつけられた妻よりも、自らが選んだシンシアの方を誇りに思っていた。それは、これまでも幾度となく本人が口にしてきたことである。彼はさらに調子に乗って続ける。
「おまえの娘の潜在能力も素晴らしいぞ。私の子供を産ませたいくらいだ」
 耳を疑う言葉が聞こえた。アルフォンスは頭の中が真っ白になり、即座に反応できなかった。膝に置いたこぶしを、青筋が立つほど強く握りしめ、低く震える声を絞り出す。
「冗談にしては、度が過ぎます」
「安心しろ、手を出したりせん」
 ルーファスはさらりと流した。
 彼の倫理観は、アルフォンスのそれとは大きく乖離している。必要があれば、そのくらいのことは何の躊躇もなく実行するだろう。だが、今回のことに関しては単なる例え話であり、願望はあるのだろうが、少なくとも現時点では本気ではなかったようだ。いまだに許しがたい気持ちは燻るものの、しつこく食い下がることに意味はないと思い、昂ぶった感情を抑えて話を本筋に戻す。
「サイファが何を考えているかわからないのに、当主に据えて良いのですか」
「退屈していたところだ」
 ルーファスは含みを持った薄笑いを浮かべる。
「リカルドと違って、あいつは素直に言いなりにはならんだろう。対立は必至だな。おまえはどちらにつく? 私か、サイファか」
 挑発的に問いかけられ、アルフォンスはごくりと喉を鳴らした。少し考えてから、額にうっすら汗を滲ませつつも、今の気持ちを正直に答える。
「中立でいさせてください」
 ルーファスはフッと鼻先で笑った。
「今はそれでもいいだろう。だが、どちらかを選択しなければならないときが、いずれ来るかもしれん。覚悟だけはしておけ」
「……楽しそうですね」
 その声には無意識に角が立った。しかし、気づいているのかそうでないのか、ルーファスはまるで気に掛ける様子もなく、不敵に笑みを浮かべて答える。
「ラグランジェ家の幸福ために必要なことを為そうとしているだけだ」
 その言葉をどこまで信じていいのか、アルフォンスには判断がつきかねていた。

「父上、ラグランジェ本家当主を退いてください」
「……え?」
 向かいに座るサイファの露骨な要求に、リカルドの目は点になった。思考が停止したのか、短い一言を発したきり、蝋人形のように固まって動かない。
 同席していたシンシアは、鋭く険しい視線を向けて追及する。
「理由を言いなさい」
「ラグランジェ家のためには、その方が良いと判断しました」
「私を見くびらないでちょうだい。本当の理由を言いなさい」
 眉を吊り上げて語気を強める彼女を見て、サイファはフッと小さく笑った。その小馬鹿にしたような態度に、彼女はますます怒りを露わにする。
「何がおかしいの?!」
「ルーファス前当主と同じことをおっしゃるので、つい」
 厳しい一喝にも動じず、サイファは人当たりの良い笑みを浮かべながら、小さく肩を竦めて答えた。
 それを聞いた瞬間、シンシアはハッと息を呑んだ。
「まさか、サイファあなた……」
「はい、すでにルーファス前当主の承諾はいただいてきました」
 サイファはさらりと答える。
 シンシアの双眸に非難の色が浮かんだ。言いたいことはたくさんあったのだろう。だが、それらは胸に押しとどめたまま、ただひとつ重要なことだけを尋ねる。
「ルーファス前当主は……何と、おっしゃったの?」
「レイチェルとの結婚式と同時に就任だそうです」
「父が承諾しているのなら、私に反対する理由はないよ」
 それまで二人のやりとりを見守っていたリカルドが、冷静に意見を述べた。
「あなた……」
「確かに私よりサイファの方が当主に向いているからね」
 悲しげなシンシアを宥めるように、彼は人の好い笑顔で、ごく自然にそんなことを付言する。そこからは悲嘆も自嘲も感じられなかった。あらためて真面目な顔になると、サイファを見つめて続ける。
「だけど、おまえはそれでいいのか? 当主といってもラグランジェ家を思いどおりに動かせるわけではないんだよ。何かと煩雑なことも多い。私にはシンシアがいるので助かっているが、今のレイチェルではまだおまえの助けにはならないだろう」
「わかっています」
 そんなことは以前から理解していたし、覚悟もしていた。今のような状況にならなかったとしても、いずれ当主になることは決まっていたのだ。多少、その時期が早まっただけのことである。
「サイファ、あなたはレイチェルを守るために、出来る限りの力を手に入れようとしているのね?」
 シンシアは静かに言う。
 思いもよらなかった鋭い洞察に、サイファは目を大きくした。薄く微笑んで溜息をつくと、「母上には敵いませんね」と言いながら、両の手のひらを上に向けて見せる。考えのすべてを見透かされたわけではないが、それでも事情も知らずにここまで言い当てた母親には、素直に感服するより他になかった。
「あなたが責任を感じて、彼女を雑音から守ろうとする気持ちはわかるわ。けれど、そんな個人的事情で当主になろうとするのは間違っている。別の方法を考えなさい」
 彼女の言い分はもっともだった。反論の余地はない。だが、自分が間違っているとわかっていても、ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
「申し訳ありません。しかし、この決定を覆すつもりはありません。私は当主になります。ラグランジェ本家当主として、年齢や経験不足を言い訳にせず、父上や母上以上に良い仕事をすると誓います」
「わかった」
「リカルド……」
 シンシアの声には同情が滲んでいた。
「父が承諾しているんだ。決定事項だよ。それに、レイチェルを守りたいというサイファの気持ちを尊重してやりたいとも思う」
 リカルドは優しく包み込むように微笑んだ。観念したのか、シンシアはもう何も言わなかった。
「ありがとうございます」
 サイファは淡々と礼を述べると、精一杯の感謝を込めて深々と頭を下げた。長くはない金色の髪がさらりと頬を撫でる。ふと目元が熱を帯びていくのを感じた。
 また、両親を裏切ってしまったのかもしれない。
 それでも後には引けないのだ。
 レイチェルと生まれてくる子供を守るため、出来る限りの手を打っておかなければならない。単に誹謗中傷を軽減するためならば、ここまではしなかっただろう。それよりももっと懸念すべき重大なことがあるのだ。
 子供の髪と瞳が、ラグランジェ家としてはありえない色になるかもしれない——。
 ラグランジェ家の人間は誰しも、これまで例外なく青い瞳と金色の髪を持っていた。それは一族のみで子孫を繋いできた結果であり、ラグランジェ家の誇りでもあった。
 だが、違う血が混じれば、その伝統も崩れる。
 さらに悪いことに、ラウルの瞳も髪も濃色であり、遺伝的にはレイチェルのものより強い。つまり、子供の髪や瞳の色は、ラウルのものに近くなる可能性が高いのだ。
 もし、そうなったら——。
 彼女と子供を守りきれるだろうか。いや、守らねばならない。そのためにここまでのことをしているのである。弱気になりそうな自分を心の中で叱咤すると、サイファは小さく息をつき、表情を凜と引き締めて顔を上げた。


30. 15歳の花嫁

「母上、レイチェルの方の準備は進んでいるのですか?」
「いいかげん馬鹿みたいに何度も同じことを訊かないの」
 毎日のように繰り返されるサイファの質問に、母親のシンシアはうんざりしたように答えた。ティーカップをソーサに戻して小さく溜息をつく。
 テーブルの上にはシンプルな朝食が並んでいる。
 サイファは小さく肩を竦めると、アプリコットジャムのトーストを口に運んだ。その甘酸っぱさを味わいながら、三日ばかり会えないでいるレイチェルへと思いを馳せる。
 二人の結婚に許可が下りてまもなく、結婚式の準備が始まった。
 レイチェルはまだ15歳であるが、子供が生まれる前に式を挙げたいというのが、双方の両親の一致した意見だった。幸い母子ともに健康で、安定期に入れば問題ないだろうという医師の見解もあり、その方向で話が進められることになったのである。サイファとしては身重の彼女に負担をかけたくなく、無理に式を挙げなくてもいいのではないかと思ったが、同時に、ラグランジェ家としてはそうもいかないのだということも理解していた。
 式の日取りは、レイチェルの身体の都合を優先して決められた。つまり、安定期に入ってまもなく、おなかが大きくなりすぎない時期にということである。
「きれいにドレスを着せてあげてくださいね」
「はいはい、それももう耳にタコができそうよ」
 この国のしきたりで、新郎は新婦の花嫁姿を当日まで見てはならないことになっている。そのため、ウェディングドレスについてはアリスとシンシアに任せるしかなかった。おなかが目立ってきたこともあり、ドレスが着られなくなったりしないのか、窮屈で苦しくなったりしないのかなど、サイファの心配は尽きない。
「私たちに任せて、あなたは落ち着いてどっしりと構えてなさい。まもなく当主になろうという人が、おろおろと狼狽えていてはみっともないわ」
「レイチェルのことだけは特別です」
 悪びれもせずに答えるサイファに、シンシアは溜息まじりに呆れた視線を送る。
「そんなことで胸を張ってどうするの。自慢できることじゃないでしょう。今になって心配するくらいなら、初めから妊娠させるようなことをしなければ良かったのよ」
「申し訳ありません。反省しています」
 責められることにはもう慣れていた。誰に何を言われようとも、素直に非を認めて謝罪するだけである。迷いはなかった。そのことで不道徳な人間という烙印を押されたとしても、レイチェルさえ本当のことをわかってくれていれば十分だった。
 サイファは残りの紅茶を飲み干し、ティーカップを戻すと、薄暗い窓の外に目を向けた。鈍色の空からは冷たい雨が落ちている。
「あさって、晴れるといいんですが——」
 結婚式は教会の中で行うため、雨でも特に支障があるわけではないが、せっかくの門出の日であり、やはり晴れてほしいと願う気持ちは大きかった。

 サイファの祈りが通じたのか、結婚式当日は雲ひとつない突き抜けるような晴天だった。二人を祝福するかのように、青い空から眩いばかりの光が降りそそいでいる。時折、小鳥のさえずりも聞こえてきた。
 二人が式を挙げる教会は、王宮の隅にひっそりと佇んでいた。小さくて古めかしい建物で、普段はあまり人の寄りつかない寂れた場所だが、その日はいつになく華やいだ空気が流れていた。
 結婚式は、双方の家族のみが列席するささやかなものである。披露宴も行わない。ラグランジェ本家としては異例のことだった。本来であれば、本家で盛大なパーティを開き、サイファの当主就任の告知とともに、二人を皆に披露するところだろう。だが、今回は事情が事情であり、あまり騒がれたくないというラグランジェ家の意向に加え、レイチェルの体調の心配もあり、パーティは行わず告知だけに留めることになったのである。

「レイチェルの身支度が終わったわよ」
 シンシアとアリスが連れ立ってレイチェルの控え室から出てきた。二人とも落ち着いた濃色のドレスを身に纏っている。教会での挙式ということで、華美なものは控えなければならないのだ。扉の前で今か今かと待ち構えていたサイファに、シンシアは少しだけ口もとを斜めにして言う。
「私たちはあなたの控え室にいるから、何かあったら呼んでちょうだい」
「ありがとうございます」
 ひらひらと手を振りながら去りゆく二人に、サイファは深く丁寧にお辞儀をした。

 ようやくレイチェルの花嫁姿を目にすることができる——。
 サイファの胸は高鳴った。
 ごくりと唾を飲み込んでから、ドアノブに手を掛けてまわし、ゆっくりと扉を押し開ける。ギ、ギギ……と控えめな軋み音が響いた。
 白い光が溢れる小さな部屋。
 そこに、レイチェルは後ろ向きで立っていた。まるでスローモーションのように、そっと、サイファの方へと体を向けていく。
 ロングトレーンの純白のドレスは、肌の露出がほとんどなく、胸元には上品なレースがあしらわれ、また、幾重にも重ねられたオーガンジーには丁寧に刺繍がほどこされており、クラシカルな品格を感じさせるものだった。腰の高い位置からふんわりと広がる形のためか、心配していたおなかはまったくといっていいほど目立たない。
 光に包まれながら、レイチェルは甘く愛らしく微笑んだ。
 サイファは小さく息を呑む。
 まるで夢の一場面でも見ているかのような非現実感に包まれた。目の前にいるのは、花嫁というよりも、光とともに地上に降り立った天使か妖精のようだと思う。
「サイファ……?」
 レイチェルは小首を傾げてきょとんと尋ねた。澄んだ瞳をまっすぐに向け、不思議そうな顔のまま、じっと微動だにせず反応を待っている。
「……すごく、きれいだよ」
「ありがとう」
 やっとのことで言葉を発したサイファに、レイチェルはいつもと変わらない可憐な声で応じた。それを聞いて、サイファはなぜだか少し安堵した。夢でも幻でもなく、現実なのだと認識できたからかもしれない。ふっと小さく笑みを浮かべ、彼女へと足を進めながら問いかける。
「おなかは大丈夫? 苦しくない?」
「ええ、大丈夫」
 レイチェルはニコッと答えた。その愛くるしい無垢な笑顔を眺めながら、サイファは優しく目を細めると、そっと慈しむように彼女の柔らかな頬に手を置いた。

 ——ガチャリ。
 ドアノブのまわる音がして、扉が開いた。
 シンシアたちが迎えに来たのかと思ったが、振り返った先にいたのは子供だった。レイチェルの隣家に住む少年、レオナルドである。彼は浮かない表情でピンクローズの花束を抱えていたが、サイファの姿を目にすると、ハッと息を呑んで顔をこわばらせた。嫌悪感をあらわに奥歯を噛みしめて睨みつける。
「何でおまえがここにいるんだよ」
「おまえこそ呼んだ覚えはないぞ」
 サイファは冷ややかに見下ろして言い返す。
 レオナルドはムッとして頬を膨らませた。しかし、すぐさま真剣な眼差しをレイチェルに向けると、すっと小さな手を差し伸べて言う。
「レイチェル、行こう!!」
「行こうって……どこへ?」
 レイチェルがきょとんとして聞き返すと、レオナルドは強引に彼女の手を掴んだ。
「どこか遠いところへ行って二人で暮らそう! 親が勝手に決めただけの結婚なんてすることない!! こんな腹黒で最低なやつとじゃ、幸せになんかなれないよ!!!」
 彼は真剣だった。
 それゆえにレイチェルは戸惑っていた。あまりにも突拍子もないことを言われ、そしてその思いの強さを目の当たりにして、どうしたらいいのかわからないという心情がありありと感じられた。彼女は心苦しそうにレオナルドを見つめると、蒼の瞳を揺らしながら、薄紅を引いた小さな唇を開いて言う。
「ごめんなさい、私、サイファと結婚するから……」
「聞いただろう? もう帰れ」
 サイファは少年の手首を掴んで彼女から引き離そうとする。
 だが、レオナルドは従わなかった。触れることさえ許さないといわんばかりに、思いきりサイファの手をはねのけると、一歩下がって上目遣いでキッと睨みつける。
「こんなの無理やり言わされてるだけだ。本心じゃない。レイチェルはおまえなんかと結婚したくないんだ。レイチェルのことが好きだったら自由にしてやれよ!!」
 レオナルドの言葉はすべて思い込みの産物にすぎない。レイチェルがこんな相談をするはずはないのだ。そのことはわかっている。しかし、サイファの心には、確実に深く突き刺さるものがあった。
「わかったようなことを言うな」
 感情を押し殺した声でそう言うと、レオナルドの小さな肩に手を掛け、ゆっくりと背後の扉に押しつけた。怯えた色が覗く双眸を、まじろぎもせずに凝視する。
「レイチェルに身勝手な考えを押しつけているのはおまえだろう。二人だけで遠いところへ行くだと? 何の力も持たない子供のおまえが、レイチェルを守っていけるなどと本気で考えているのか」
 レオナルドの顔は凍りついていた。足も震えているようだった。それでも、ごくりと唾を飲み込むと、額に汗を滲ませながら、精一杯の虚勢を張って言い返す。
「おまえみたいに何でも力ずくで奪うのが偉いのか?! レイチェルの気持ちを無視して自分のものにして、父親を蹴落として当主の座を奪って……そんなの最低だ!!」
「理想だけでやっていけるほど世間は甘くないんだよ」
 サイファの瞳に冷たく鋭利な光が宿った。
 ビクリ、とレオナルドの体が竦んだ。
 それでも彼は引き下がらなかった。両肩を押さえつけられたまま首を伸ばし、奥のレイチェルを見上げて必死に訴えかける。
「レイチェル、これがこいつの本性なんだ! 逃げよう! いま逃げないと絶対に後悔するから!!」
 レイチェルは曖昧に視線を落としたが、胸元に手を置くと、意を決したように唇をきゅっと引き結んだ。まっすぐに彼を見据えながら、今度は毅然とした口調で言う。
「私、サイファと一緒にいるって決めたの。私自身が決めたの」
「おまえには勝ち目なんて最初からなかったんだ」
 サイファの言葉が追い打ちをかける。
 レオナルドはカッと顔を真っ赤にすると、持っていたピンクローズの花束で、サイファの頬を思いきり横殴りにした。反射的に顔をしかめたその目の前を、千切れた薄紅色の花びらがはらはらと静かに舞い落ちていく。
「後悔しても知らないからな!」
 レオナルドは大粒の涙をこぼして捨て台詞を吐いた。すでにボロボロになっている花束を床に叩きつけ、控え室から勢いよく飛び出していく。足音はあっというまに遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
 開け放たれた扉がゆっくりと戻り、ガシャンと乱暴な音を立てて閉まる。
 息を呑んで立ちつくしていたレイチェルは、その音で我にかえり、慌ててドレスの裾を持ち上げてサイファに駆け寄った。心配そうに顔を曇らせて横から覗き込む。
「サイファ、大丈夫?」
「たいしたことないよ」
 サイファは軽く答えながら、痛みのある顎の下あたりを指先で触れてみる。うっすらと血がついた。どうやら少し切れているようだ。しかし、先ほど自分の言ったとおり大したことはないだろう。レイチェルに振り向くと、きまり悪そうに苦笑して肩を竦める。
「ごめんね、大人げないところを見せてしまって」
「ううん、謝らなければいけないのは私の方なの」
 レイチェルは小さく首を振って言った。思いつめた表情で目を伏せる。瞼は微かに震えていた。その原因は先ほどのことだけではないだろう。自分のせいで酷い目にばかり遭わせてしまって、大変なことを背負わせてしまって——そんな彼女の苦悩は、あの日以来ずっと続いていたのだ。
「やっぱり、私は……」
「駄目だよ」
 サイファは彼女の話をピシャリと遮ると、眉根を寄せ、その潤んだ蒼の瞳をじっと射抜くように見つめた。
「レイチェル、君のことは誰にも渡さない。君自身にもね」
 随分なことを言ったという自覚はあった。しかし、それは偽りのない本心でもある。ラウルにも、レオナルドにも、ルーファスにも、他の誰にも渡すつもりはない。そして、彼女自身にも、間違った償いをさせるつもりはない。
「この結婚は僕たちの幸せのために望んだことだ。君を救うために仕方なく選択したわけじゃない。だから君がいなくなっては駄目なんだよ」
 サイファは真剣にそう言い聞かせると、少しふくらみのあるおなかにそっと手を置く。
「きっと幸せにするから。この子も、君も、そして僕自身もね」
 それは真摯な誓いであり、確固たる決意であり、心からの祈りでもあった。
 一転して悪戯っぽい笑みを浮かべると、柔らかい声音で、しかしはっきりとした自信を覗かせて尋ねる。
「僕の判断が一度でも間違ったことがあった?」
 レイチェルはふるふると首を横に振った。それでもまだ表情は硬く、その瞳には仄暗い陰が落ちている。サイファの言ったことを理解していないわけではないだろう。ただ、そう簡単に自責の念を拭うことができないのだ。
「ねえ、レイチェル」
 サイファはゆっくりと呼びかけた。
「もし僕のことを思ってくれるのなら、いつも、どんなときでも、僕の隣で笑っていてくれないかな。君の笑顔があれば、僕は、頑張ることができるから」
「……うん」
 レイチェルは微かな声を落とした。そして、気持ちを切り替えるように小さく呼吸をすると、顔を上げ、まわりの人間までも幸せにしてくれるような、あたりの空気までもが優しくなるような、ふわりとあたたかな笑みをその満面に溢れさせた。
 それは、まさにサイファが望んだものだった。
 胸が詰まるのを感じて目を細めると、身を屈め、彼女とおでこをコツンと合わせた。

 サイファはわかっていた。
 自分の要求したことは、簡単なようでいて、とても酷なものだということを。それでも彼女は従い続けるだろう。他の選択肢はないのだ。サイファに従順な彼女にとって、それは呪縛にも等しいものなのかもしれない。
 けれど——。
 自分にはそれくらいのことを求める権利はあるだろう、それくらいのことを望んでも許されるだろう、そんな傲慢なことを心の奥底で密やかに思った。

 開放された入口から白い陽光が溢れ込み、赤い絨毯を鮮やかに照らしている。
 その奥にある、年老いた神父が立つ祭壇の前に、サイファとレイチェルは並んで立っていた。足下にはステンドグラスの幻想的な光が落ち、純白のドレスの裾を色とりどりに染め上げている。
 両脇に並んだ古びた木製の長いすには、双方の両親がそれぞれ座っていた。神聖な場所に相応しい表情で、しかし、時折いとおしむような笑みを覗かせ、主役の二人を見つめている。
 神父は誓いの言葉を読み上げ始める。
「サイファ=ヴァルデ=ラグランジェ、あなたはいまこの女性と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかなときも、病めるときも、豊かなるときも、貧しきときも、この女性を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちの限りともに生きることを誓いますか」
「誓います」
 サイファは厳かに答えた。
 神父は続けてレイチェルに読み上げる。
「レイチェル=エアリ=ラグランジェ、あなたはいま——」
 その誓いの言葉を聞きながら、サイファはそっとレイチェルを流し見た。ここに来るまでの道のりを思い返し、胸に熱いものがこみ上げる。今日という日を幼い頃からずっと待ち続けてきたのだ。少し形は変わってしまったが、その輝きが失われたわけではない。
「誓います」
 レイチェルは前を向いたまま、躊躇うことなく凜とした声で答えた。
「結婚の誓約の印に、指輪の交換をいたします」
 神父が二人の結婚指輪を取り出す。それは上品な輝きを放つプラチナ製で、内側に文字が刻まされただけの、シンプルで飾り気のないものだった。
 サイファは小さい方の指輪を取った。見た目よりも重く感じるのは、込められた想いと責任によるものなのかもしれない。こんなもので彼女を縛りつけようなどと考えているわけではないが、こんなものに縋りたくなる気持ちも心のどこかにあった。彼女の左手を取ると、その薬指にゆっくりと指輪を嵌めた。
 今度はレイチェルが指輪を取り、たどたどしい手つきでサイファの薬指に嵌めていく。やや不格好におさまったそれを見て、レイチェルはくすっと笑った。つられてサイファも笑った。
 神父は場を引き締めるためか、こほんと小さく咳払いをしてから次の段取りに移る。
「それでは、誓いの口づけを——」
 その言葉を合図に、二人は同時に見つめ合った。
 サイファは彼女の両肩に手を掛ける。
 冷静を装ってはいたが、心臓は壊れそうなほどに強く打っていた。これまで生きてきた中で、いまこの瞬間ほど緊張したことはなかったと彼は思う。
「目を閉じて」
 囁くような声でそう言うと、彼女は素直に従い、瞼を下ろしてそっと瞳を閉じた。
 サイファはゆっくりと身を屈め、彼女に顔を近づけていく。
 二人の唇が初めて触れ合った。

 ゴーン、ゴーン——。
 荘厳な鐘の音が二人を祝福するように響き渡る。

 サイファとレイチェルは手を取り合って赤い絨毯の上を歩き、光の溢れる扉の向こう側へと足を踏み出した。頭上には雲ひとつない透き通った青空がどこまでも広がっている。そこから降りてきた優しい風に、教会のまわりに咲いている草花が小さくそよいだ。
 ここからが新たな始まり——。
 自分たちは新しい家族を作っていく。楽しく幸せなことが数多くあるように、そう努力するつもりだが、現実としてそればかりではすまないだろう。困難は確かに存在する。それでも誓ったのだ。どんなときも助け合い、愛し合い、ともに生きていくのだと。
 サイファは繋いだ手をしっかりと握りしめた。
 それに応えるように、彼女の手にも強く力が込められた。


31. あの頃、思い描いた未来

 昼下がりの白い日射しが、タイル張りの床を強く照らしている。その上に引かれている薄いクリーム色のカーテンは、小さな風を受けて緩やかにそよぎ、そこから広がる柔らかな光もほのかに揺らめいた。
 世間から切り離されたような場所。
 ラウルは一人でそこにいた。広くはないスチール机に向かい、頬杖をついて本を読んでいる。限りなく無に近い静寂の中で、規則的にページを繰る音だけが、その存在を主張していた。

 レイチェルとの約束の日から4年が過ぎた。
 家庭教師終了とともに常勤に戻ったラウルは、これといった用件もなく、医務室を離れることはほとんどなくなっていた。せいぜいが報告書の提出と会議のときくらいである。あとは滅多に来ない患者を待ち、日がな一日、読書にふけったりカルテの整理をしたりするだけだった。
 会わないというのが彼女の答えなのだと、あのときはそう考えた。
 しかし、今になって思えば、それは事情を知ったサイファの判断だったのだろう。それまで何かにつけ医務室を訪れていた彼が、その日以来、急にぱったりと来なくなったのである。レイチェルとの関係を知られてしまったとしか考えられない。
 しかし、二人は予定どおり結婚し、子供も生まれたと聞いた。
 おそらくサイファは全てを承知の上で、彼女を受け入れることを選んだのだ。意地や体面もあったのかもしれないが、それだけではなく、彼女への想いを失わなかったのだと信じたい。
 レイチェルは、今、幸せなのだろうか——。
 何度も繰り返し心の中で問いかけてきたことだが、答えが返ってくるはずもなく、また、それを知るすべも持ち合わせていない。机の上に佇む一輪挿しのピンクローズを見つめながら、ラウルはただ祈ることしかできなかった。

 ガラガラガラ——。
 ノックもなく、唐突に扉の開く音が聞こえた。
 患者が来るのは何週間かぶりである。このところ流行りだした風邪の影響で、他の王宮医師たちはみな手一杯になっているのかもしれない。そんなことを思いながら、ラウルは本を閉じて扉の方へと振り向いた。その瞬間、ハッと息を呑んで凍り付く。
「やあ、久しぶりだな」
 そこにいたのはサイファだった。人なつこい笑顔を見せながら、軽く右手を上げている。平日の昼下がりという時間からも、魔導省の制服を身に付けていることからも、おそらくは勤務中なのだろう。返答を待たず勝手に医務室へ入ると、パイプベッドに腰を下ろして両手をついた。
「ここはいつ来ても変わらないな」
「……何をしに来た」
「ラウルの顔を見たくなってさ」
 サイファはニコッと邪気のない笑みを浮かべて答える。
 しかし、そんなことを素直に信じられるはずもなかった。彼と顔を合わせたのは4年ぶりである。これまでずっと避けておきながら、突然この医務室にやってきたのは、何らかの目的があるとしか考えられない。思いきり訝しむ視線を送るが、サイファは気にする様子もなく受け流した。
「今も相変わらず?」
 軽い口調でそう尋ねると、机上のピンクローズに目を向ける。
 それだけで、ラウルには何が言いたいのか察しがついた。しかし、その意図するところまではわからない。今になって過ちを咎めるつもりなのだろうか、それとも未練がましい自分を嘲笑うつもりなのだろうか。表情は無意識のうちに険しくなっていく。
 そんなラウルを見て、サイファはふっと小さく微笑んだ。
「僕は幸せだよ」
「おまえのことなどどうでもいい」
「レイチェルも幸せだよ……多分ね」
 ラウルは眉をひそめた。口を閉ざして背を向けると、先ほどまで読んでいた本を開く。しかし、意識は彼の方に奪われたままで、文字を追っても全くといっていいほど頭には入ってこない。
「今度、娘を連れてくるよ」
「いらん」
「そう言うな。見たいだろう? レイチェルの娘を」
 淡々とした口調だったが、「レイチェルの」という部分にだけ、僅かながら力がこめられているように感じた。それで気持ちが動かせると計算していたのだろう。その小賢しさを腹立たしく思うものの、ラウルはまんまと術中にはまったことを自覚していた。
「アンジェリカっていうんだ」
「……大層な名前をつけたな」
「これほど相応しい名前はないよ」
 やや呆れ口調のラウルに、サイファは軽く笑って応じた。
 アンジェリカとは「天使のような」という意味の言葉である。それを臆面もなく名付けたうえ、相応しいとまで口にするなど、相当な親馬鹿といっても過言ではない。もっとも、レイチェルに対する保護者のような溺愛ぶりを見てきたせいか、彼の子煩悩もすんなりと納得できた。
「ラウルもあの子を可愛がってくれよ」
「おまえの娘など可愛がる義理はない」
「アンジェリカを見たら、そうは言えないと思うけどね」
 その言葉に何か引っかかるものを感じ、ラウルは怪訝に眉を寄せて振り返る。
「どういう意味だ」
「それくらい可愛いってことさ」
 サイファは軽くあしらうように答えると、パイプベッドから立ち上がり、涼やかな視線を流して口もとに微笑を浮かべた。また来るよ、とその口で言い残し、扉から出ていく。タイルを打ちつける乾いた靴音は、一定のリズムで遠ざかり、消えていった。
 医務室に静寂が戻った。
 窓からふわりと滑り込んだ風が、クリーム色のカーテンを揺らしながら、微かな木々のざわめきを運んでくる。ラウルはもう誰もいない扉を見つめて溜息を落とすと、頬杖をつき、読みかけていた本を開いてページを繰った。

 自らの宣言を違えることなく、サイファは翌日からたびたび医務室を訪れるようになった。ラウルがいくら拒絶しても懲りる様子はない。仕事の合間などにふらりとやってきて、とりとめもない雑談をして帰っていくのだ。
 まるで昔に戻ったようだった。
 ただ、話の内容は昔と少し違っていた。レイチェルや仕事の話は相変わらずだが、それに加え、娘の話を嫌というほど聞かされるようになった。あんなことを言っただの、こんなことをしただの、たわいもない出来事を嬉しそうに楽しそうに話すのだ。
 彼の考えがわからなかった。
 自慢のつもりなのか、報復のつもりなのか、それとも単純に幸せに浸っているだけなのか——いずれにしても、ラウルがそれを問いただすことなど出来るはずもなく、ただ彼の作った状況に流されるしかなかった。

 しかし、一ヶ月ほどして、サイファはまたぱったりと来なくなった。
 来てほしいわけではない。
 ただ、何の前触れもなく急に途絶えてしまうと、心配になるのも当然のことだろう。今回は4年前と違って心当たりがないので、なおさらそう思うのかもしれない。
 いきなり来たり、来なくなったり、本当に勝手な奴だ——。
 何もない空っぽな日常の中で、気がつけばラウルはそのことばかり考えていた。しかし、それでも答えに辿り着くことはなく、ひたすら悶々とするだけだった。

「やあ、しばらく来られなくて悪かったな。寂しくて泣いてたんじゃないのか?」
 来なくなってから三ヶ月が経ち、いいかげん諦めようとしていたところへ、サイファが何事もなかったかのようにひょっこりと姿を現した。清々しいばかりの笑顔でそんな憎まれ口をたたくと、勝手に中へ入り、迷いなくパイプベッドに腰を下ろす。
「静かになってせいせいしていた」
 ラウルは冷たい視線を流して言い返した。しかし、サイファは懲りもせずにっこりと微笑むと、芝居がかった大きな抑揚をつけて話し始める。
「別にラウルのことを避けていたわけじゃないぞ。この三ヶ月は本当に忙しくて大変だったんだよ。王子の見初めた女性を口説き落としたり、頭の固い老人連中に彼女を認めさせたり、それから——」
「そんなことまでやっているのか」
 ラウルは呆れ半分に口を挟んだ。どう考えても魔導省の仕事を逸脱しているようにしか思えない。そういうことは王家に仕える者たちの役割であり、少なくとも、ラグランジェ本家当主という立場の人間がすべきことではない。
「仕事ではなく個人的に引き受けたんだよ。彼女を説得できるのは僕だけだろうしね。それに、未来の王に恩を売っておいて損はないだろう?」
 そう言うと、サイファはニッと口角を上げた。
 ラウルは無表情のまま小さく溜息をつく。
「騙されたその女が不憫だな」
「人聞きの悪いことを言うなよ。微妙な言葉の綾はあったかもしれないが、少なくとも嘘をついたつもりはないからな。まあ、どちらにしても自分のために利用したのは事実だし、責任を持って彼女の面倒は見るつもりだけどね」
 悪びれもせずに平然とそんなことを言うと、急にパッと顔を輝かせて振り向く。
「そうそう、近いうちにアンジェリカを連れてくるよ」
「いらんと言ったはずだ」
「本当はもっと早く連れてきたかったんだけど、けっこう人見知りが激しくて、王宮へ行くのをずっと嫌がっていてね。最近になってようやく承知してくれたんだ」
 嬉しそうに声を弾ませるサイファに、ラウルはうんざりして再び溜息をついた。
「性格はおまえに似なかったようだな」
「……そうだな」
 サイファは視線を落として薄く笑った。そして、目を閉じて小さく息をつくと、安っぽい軋み音を響かせながら、パイプベッドにゆっくりと上半身を横たえた。白いシーツに浅い皺が走る。後ろ向きなので表情は見えないし、何のつもりなのかわからないが、体調が悪いわけではないだろうと思う。
「用がないのなら帰れ」
 ベッドの上に投げ出された背中に、ラウルは冷ややかな声を送った。
 しかし、サイファは背を向けたまま起き上がろうとしない。
「久しぶりの逢瀬なのにつれないことを言うなよ」
「ふざけたことを言ってないでとっとと出ていけ」
 ラウルはムッと気色ばんで立ち上がると、ベッドに横たわるサイファの腕を乱暴に掴もうとする。しかし、サイファの動きの方が一瞬早かった。
 パシッ——。
 伸ばされたラウルの腕を、逆にサイファが素早く掴んだ。そのまま、見た目からは想像もつかないほどの強い力でギリギリと締めつける。痛いとさえ思うくらいだった。眉をひそめて見下ろすラウルを、仰向けになった鮮やかな青の双眸が捉えている。じっとまっすぐに、奥まで探るように、そして、どこか物憂げに——。
「もうすぐ会議に行かねばならない」
 ラウルは淡々と理由を述べて解放を訴えた。サイファの手を振り払うことなどたやすいはずだが、彼の瞳を見ていると、なぜだかそうすることはできなかった。
「逃げるのか?」
「本当のことだ」
「それなら仕方ないな」
 意外にも、サイファは拍子抜けするくらいあっさりと引き下がった。ラウルの手を放して自らの上体を起こすと、少し長めの前髪を掻き上げながら、引き寄せた腕時計に目を落とす。
「もしかすると、その辺でばったり会うかもな」
「何の話だ」
 ラウルは少し語調を強めて尋ねた。これ見よがしに時間を確認し、あえて口に出したということは、おそらく独り言ではないのだろう。ラウルを簡単に解放した理由もここにあるのかもしれない。
 だが、サイファは何も答えず笑顔だけを返した。
 いったい何を企んでいるのかと、ラウルは問い詰めるような険しい眼差しを送るが、サイファは動じることなく悠然と襟を直してパイプベッドから立ち上がった。故意なのか、偶然なのか、腕を掠めてラウルとすれ違っていく。そして、扉に手を掛けたところで動きを止めると、僅かに振り返り、妖艶なまでの笑みをその唇にのせた。
「それじゃあ、またな」
 そこには明らかに何かの含みがあった。怪訝に眉をひそめるラウルを残し、サイファはガラリと扉を開けると、長くはない金の髪をなびかせながら医務室をあとにした。

 無機質な廊下に柔らかい光が射し込んでいる。
 その光を遮りながら、ラウルは書類を脇に抱えて会議室へと足を進めた。医務室から離れるにつれて人通りが少しずつ多くなる。それでも、勤務時間中のためか、昼休みの喧噪にはほど遠い。急ぎ足で通り過ぎる人や、立ち止まって中庭を眺めている人、会話をしながら歩く人たちがちらほらと目につく程度である。そんな人々とすれ違い、通り越し、角を曲がったそのとき——。
 ラウルはハッと息を呑んだ。
 冷静に考えればそれほど不思議なことでもないが、不意を突かれ、にわかには現実として受け止めることができなかった。しかし、それは夢でもなく、幻でもなく、まして見間違いなどでは決してない。
 長い廊下の先に立っているのはレイチェルである。
 緩くウェーブを描いた金の髪、薄く紅を引いた唇、胸元の開いた濃色のドレス——4年前とはだいぶ雰囲気は変わっていた。当然だが少し大人っぽくなっている。しかし、愛らしい笑顔はあのときのまま変わっていない。
 レイチェル、今、おまえは幸せなのか——。
 その言葉を胸に秘めたまま、ラウルは何も言わずに通り過ぎようとした。視線を落として足を速める。しかし、すれ違う間際に、レイチェルの方から声を掛けてきた。
「久しぶりね、ラウル」
「……ああ」
 ラウルは足を止めて応じた。
 互いに何気ないふうを装ってはいたが、その声にはともに硬さがあった。多少の気まずさと、緊張からくるぎこちなさが、言葉の途切れた二人の間に淀んでいる。
「何? 知り合い? 紹介してよ」
 そんな二人の様子に気づいているのかいないのか、彼女の隣にいた同じ年頃の女が、煌びやかな銀髪をなびかせながら、無邪気に声を弾ませてそんなことをせがむ。レイチェルは優しく微笑んで、小さな手でラウルを示した。
「こちらはラウル。王宮付きのお医者さんよ。そして、こちらはアルティナさん。今度、王子様と結婚することになっているの」
「どうも、よろしく!」
 アルティナは威勢よく右手を差し出した。一瞬、ラウルはそのざっくばらんな態度に面食らったが、それでも無表情を保ったまま、ぶっきらぼうに右手を出して握手に応じる。
「おまえか、サイファに騙されて来た女というのは」
「失礼ね、騙されてなんかないわよ!」
 そんな二人のやりとりを聞いて、レイチェルは口もとに手を当てながらくすくすと笑い出した。それだけでまわりの空気が柔らかくなる。張り詰めた心さえも和らいでいくようだった。
 ふと、下方で何か黒いものが動いたことに、ラウルは気づいた。
 そこにはレイチェルのドレスにぎゅっと縋りつく小さな女の子がいた。後ろに隠れるようにしながら、大きな漆黒の瞳で、こわごわとラウルを見上げている。肩より少し短く切りそろえられた黒髪が、微かな風にさらりとそよいだ。
 ラウルの視線に気づいたレイチェルは、にっこりと微笑むと、くるりとその女の子の背後にまわってしゃがみ、小さな体を優しく抱きしめながら言う。
「この子は娘のアンジェリカよ」
 娘? これがレイチェルの娘だと——?
 ラウルは口を閉ざしたまま目を見張った。言われてみれば、確かにレイチェルと顔立ちはよく似ている。だが、その髪と瞳の色は、彼女のものでもサイファのものでもない。
 この国で暮らすようになって以来、ラグランジェ家とは多少の関わりを持ち続けてきた。それゆえ彼らの事情はそれなりにわかっているつもりである。一族の中だけで血を繋いでいることも、そのせいか例外なく金髪碧眼であることも。
 つまり、この娘は——。
 これまでの出来事が走馬燈のように脳裏を駆け巡る。レイチェルと過ごした時間のこと、彼女が約束の日に来なかったこと、唐突に家庭教師を解雇されたこと、サイファが医務室に来なくなったこと、今になってまたやってきたこと、娘を連れて来たがっていたこと、意味ありげな言葉の数々、娘と似ていないと言ったときの反応、ラウルを見つめる物憂げな瞳、そして、娘の髪と瞳の色——それらがすべてひとつに繋がった。
「抱いてみる?」
「いや……」
 小さく首を傾げて尋ねるレイチェルに、ラウルは目を伏せて曖昧な言葉を返す。
 これまで考えもしなかった事実を突きつけられ、まだ気持ちの整理がつけられずにいた。だが、受け入れなければならない。自分の行動の結果を、レイチェルの意思を、そしてサイファの覚悟を——。

 会議が終わったあと、ラウルは何年かぶりに外に出た。王宮の外れにある小径を淡々と辿っていく。背後からの喧噪が次第に小さくなり、代わりに、さわさわと葉の擦れる音が降りそそいだ。しばらく歩を進め、蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチをくぐると、眼前の視界が一気に開ける。
 そこには、果てしなく優しい青空と、色鮮やかなバラ園が広がっていた。
 ラウルは引き込まれるように細い坂道を降りていった。隅に佇む大きな木のもとに腰を下ろすと、ざらついた木の幹に体重を預けて目を閉じる。少し湿った土の匂い、ひんやりした木陰の地面、頬に当たる暖かい風、ほのかに甘いバラの匂い——そんなものを感じながら小さく息を吸い込んだ。
「やあ、また会ったな」
 頭上から降りかかった声に驚いて目を開くと、そこには笑顔で覗き込むサイファがいた。そよ風にさらさらと揺れる金の髪が、木漏れ日を受けて透き通るように煌めいている。
「おまえ、なぜ……」
「あのあとずっとここで待っていたんだよ。もしかしたらラウルが来るかもしれない、なんてちょっとそんな予感がしてさ。まさか本当に来るとは思わなかったけどね」
 サイファは小さく肩を竦めて見せる。
 ラウルはうつむいて溜息をついた。
「おまえ、少しは真面目に仕事をしろ」
 それを聞いて、サイファは懐かしそうにくすりと笑った。そして、立ったまま背後の木にもたれかかると、腕を組み、遠くの空を見上げて真面目な顔で目を細めた。
「会ったんだろう? レイチェルと娘に」
「……ああ」
「今度、また連れていくよ」
 ラウルは何も答えられなかった。風に揺れる薄紅色のバラを眺めて眉を寄せる。
「ねえ、ラウル」
 サイファはあらためて切り出した。
「僕は欲しいもののためには手段を選ばない」
「知っている」
 ラウルは正面を向いたまま答えた。彼のことは子供の頃から見ているのだ。今さら言われるまでもなく、彼がそういう人間であることは理解していた。そして、これから何を言おうとしているのかも——。
「僕から逃れられると思うなよ」
 今になって彼がラウルに近づいてきたのは、おそらく娘を守るためだろう。異端の外見を持つ彼女が、ラグランジェ家でどういう扱いを受けているかは察しがつく。もしかすると命すら危ういかもしれない。それがわかってしまった以上、そしてその責任が自分にある以上、逃れることなど出来るはずもない。
 風が強く吹いた。長い焦茶色の髪が横に大きく流される。
 ラウルは鉛のように重たい口を開いた。
「サイファ、今、おまえは幸せなのか」
「これからもっと幸せになるよ」
 サイファはその瞳に空を映したまま答えると、さらりと金の髪をなびかせて振り向く。
「あの頃、思い描いた未来を手に入れるんだから」
 そのとき彼の見せた眩い笑顔は、澄み渡る青空のように曇りなく、しなやかな風のように力強く、そして、大地に咲き誇るバラのように気高さを感じさせるものだった。まっすぐに未来を見据え、行動し、誰よりもレイチェルを幸せにしようと努力する——そんな彼の行動と信念がそこに表れているのだろう。
 多分、ずっと前からわかっていた。
 とても、彼には——。
 ラウルは立てた膝に腕をのせたまま、果てしなく広がる空を仰いで目を細めると、すぐ隣に立つ凜とした気配を感じながら、そっと瞼を下ろして瞳を閉じた。


この本の内容は以上です。


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