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25. 本当のけじめ

「今日はここまでだ」
 ラウルがいつものように授業の終わりを宣言すると、レイチェルはすぐに机の上を片付け始めた。そそくさと教本を本棚に収め、筆記具を引き出しにしまい、机に手をついて軽やかに立ち上がる。
「行きましょう」
 そう言うと、ふわりとドレスを揺らして振り向き、ニコッと無邪気な笑みを浮かべた。
 しかし、ラウルは椅子に座ったまま動こうとしなかった。自分の教本を片付けようともせず、ゆっくりと腕を組んでうつむく。
「どうしたの?」
「話がある。座れ」
 レイチェルは不思議そうな顔をしていたが、命じられるまま素直に腰を下ろした。机ではなくラウルの方を向き、行儀良く膝の上に両手をのせて、大きな瞳でじっとラウルを見つめながら次の言葉を待っている。
 ラウルは深く息をしてから口を開いた。
「今後、もうおまえを私の部屋には入れない」
「……どうして?」
 レイチェルは大きく目を見張ったが、それでも冷静を保って理由を尋ねた。
「どうしてもだ」
 ラウルは答えにならない答えで突き放す。
 これは彼なりのけじめである。
 残りの三ヶ月、出来ることなら彼女とともに過ごしたかった。だが、同じ過ちを繰り返さないためにはこうするしかない。一度外れた箍は、完全には元通りにならないのだ。もう自分を抑える自信はないのである。
「今までのように一緒にお茶を飲むだけでいいのに」
「駄目だ」
 寂しそうに呟くレイチェルを、ラウルは冷淡に一蹴した。そうしなければ、せっかくの決意が揺らいでしまいそうだった。しかし、それは自分の不甲斐なさを彼女に押しつけていることに他ならない。申し訳なく思う気持ちが胸を締めつける。
 しかし、当然ながら、レイチェルはそんなラウルの心情を知るはずもなかった。拒絶されている理由すらわからないのだろう。蒼の瞳が不安そうに揺らぐ。そこには微かな怯えも見て取れた。だが、すぐにそれを隠すように目を伏せると、遠慮がちに小さな口を開く。
「私、気にしていないから……」
 ラウルはその意味がわからず、怪訝に眉をひそめて彼女を見た。
「誰かの代わりだったとしても、私は気にしていないから」
 レイチェルはそう言い直して、どこか寂しそうに小さく微笑むと、さらに淡々と言葉を重ねていく。
「本当は私のことを好きになってほしかったけれど、ラウルが救われるのならそれでいい。役に立てるだけで嬉しいの。だから、ラウルが罪悪感なんて感じることはないわ」
 ——こいつ、まさか今までずっと……!
 ラウルは砕けんばかりに強く奥歯を噛みしめた。彼にしてみればもう終わったことである。それにもかかわらず、今さらこんなことを言い出され、まるで不意打ちを食らったような気分だった。
 確かに、三年前のあのときに指摘されたことは事実である。
 レイチェルを通して別の少女を見ていた。守るべき役目を負っていながら、守ることができなかった少女を——。彼女は自分にとって、幼い頃から大切に育ててきた、いわば娘のような存在である。レイチェルに対する思いも、当初はそれと似たものだったかもしれない。だが、今ではもう別のものに変わっているのだ。
 ラウルが我を忘れるほど渇望したのはレイチェルただ一人である。
 心も体もすべてを手に入れたいと思ったのは彼女が初めてである。
 誰かの代わりであるはずがないのだ。
 知ってほしくないことは敏感に感じ取るくせに、察してほしいことは何も気づいてくれない。それが故意でないことは理解している。それでもどうにも納得がいかず、抑えようのない怒りが胸に湧き上がる。
「おまえは……」
 眉をしかめて低い声で文句を言いかけたそのとき、ふとある考えが頭に浮かんだ。
 このことを利用すれば、レイチェルを確実に諦めさせることができる。彼女ならそれで身を引くはずだ。少なからず嫌な思いをさせてしまうことは間違いないが……いや、いっそこれで愛想を尽かしてくれるのならば、その方が都合がいいのかもしれない。
 ラウルはしばらく難しい顔で逡巡していたが、やがて意を決すると、真剣な眼差しでまっすぐに彼女を見つめ、躊躇うことなく決然と言う。
「おまえでは、あいつの代わりにはなれない」
 それは彼女が縋った存在理由の否定。
 レイチェルは雷に打たれたように硬直した。
「…………そう」
 息が詰まりそうなほどの長い沈黙のあと、小さな声でようやくそう言うと、首が折れそうなほどに深くうなだれた。細い金の髪がさらさらと肩から滑り落ち、白いうなじが僅かに覗く。彼女がどんな表情をしているのか、ラウルからは見えなかった。
 重苦しい静寂が続く。
 レイチェルは膝の上においた手をギュッと握りしめて顔を上げた。その表情は硬いものだったが、気丈にもすぐにニコッと笑顔を作って明るく言う。
「わかったわ。でも、家庭教師は続けてくれるのよね?」
「ああ、あと三ヶ月は約束どおりに行う」
 本当は家庭教師もきっぱり辞めてしまった方がいいのだろう。しかし、ラウルはアルフォンスに雇われている身である。ラウルの一存で決めることはできないし、辞めると申し出れば間違いなく理由を詮索されてしまう。その理由を答えられない以上、あと三ヶ月、当初の約束どおり続けるしかないと思う。
「じゃあ、門のところまで送るわね」
「……ああ」
 ラウルが静かにそう答えると、レイチェルは椅子から立ち上がり、くるりと身を翻して足早に扉へと向かった。薄水色のリボンが後頭部でひらりと揺れている。その動きに誘われるように、ラウルは無言で教本を脇に抱えてついていった。

「またあしたね」
「……ああ」
 レイチェルは門を出たところで立ち止まると、後ろで手を組み、少しぎこちない笑みを浮かべてラウルを見送る。それは彼女の精一杯の優しさだったのかもしれない。
 理由も言わず一方的に拒絶したのはラウルの方だ。
 それにもかかわらず、素直に従う彼女を見ていると、申し訳なく思うと同時に、胸にすきま風が吹き抜けるような寂しさを覚えた。そんなのは嘘だと責めてくることを、嫌だと泣きついてくることを、心のどこかで期待していたのだろう。もちろん、それが呆れるほど理不尽な気持ちであることは十分に自覚している。
 彼女に背を向けて歩き出す。
 すぐに振り返りたくなる衝動に駆られるが、思いとどまり、前を向いたまま足を止めずに歩き続ける。視線の先には優しい色の空が広がっていた。繊細なレースのような薄い雲がゆっくりと漂い流れていく。
 そこにあったのはとても静かで穏やかな空気だった。
 ただ、頬に当たる風だけは少し冷たかった。

 翌日も家庭教師の授業は予定通りに行った。
 レイチェルの様子は、たった一日ですっかり元に戻っていた。真面目に授業を受ける姿勢も、屈託のない笑顔も、明るく澄んだ声も、拍子抜けするくらい普段どおりである。そこに悲しさや寂しさといった感情は見つけられなかった。
 彼女にとって、所詮、自分はその程度の存在なのかもしれない。ともに過ごせないことをつらく思ったとしても、それは最初だけで、すぐに他のもので埋め合わされてしまうのだ。いつまでも引きずっているのは自分だけなのだろう。
 しかし、それでいいのだとラウルは自分に言い聞かせた。
 レイチェルには婚約者のサイファがいる。ラウルとのことにこだわり続けるよりも、きっぱりと断ち切った方が幸せになれるはずだ。彼女が幸せであればいい——それがラウルのほんの少しの強がりを含んだ本音だった。
 彼に残されたのは味気のない毎日である。
 レイチェルとともに過ごす時間がどれほど大きな意味を持っていたか、ラウルはそれを失うことであらためて思い知らされた。それでも家庭教師が続いているだけまだましなのかもしれない。家庭教師が終わってしまえば、味気ないどころではなく、彼女と出会う以前のような空っぽの日々が続くことになるだろう。
 ひとりで暗く静かな部屋に戻ると、ラウルはダイニングテーブルを見下ろす。
 その瞬間、指定席に座って紅茶を飲む彼女の姿が思い出される。毎日のように目にしていたその光景は、もう現実になることはないのだ。目を瞑り、深く溜息をつく。叶わない夢を見るのはもう止めなければならない。
 この状況を招いたのは自分の行動である。
 それがなければ、残りの三ヶ月を穏やかに過ごすことが出来ただろう。
 しかし、後悔しているのかは、ラウル自身にもわからない。
 その行動が正しいものでないことは理解している。彼女のためを思うならば、やってはならないことだった。後悔すべきなのだろう。だが、自分の中にはそれを肯定する気持ちも少なからずあった。自分が強く望んだことなのだ。当然といえば当然なのかもしれない。平穏な三ヶ月と引き替えに、叶わないはずだった奇跡のような時間を手に入れた——そう考えれば悪くない。いや、十分すぎるほどだ。あの日のことは、彼女と会えなくなっても一生忘れることはないだろう。
 しかし、それは身勝手で一方的な思いだ。
 レイチェルがどのように考えているのかは、ラウルにはわからない。それを彼女に尋ねようとも思わない。今さら知ってもどうにもならないことである。ただ、せめて思い出として心に留めるつもりでいてくれればと、そんな未練がましいことを密かに願った。

 けじめの日から静かに二ヶ月が過ぎ、ラウルがレイチェルの家庭教師でいられるのは残り一ヶ月となった。未だにもどかしく思う気持ちは燻っているが、それでも何も行動を起こすわけにはいかない。ラウルに出来ることは、引き続き、ただ黙々と役目を果たすだけである。

 その日の空は果てしなく澄み渡っていた。
 ラウルはレイチェルの家へやって来ると、いつものように二階にある彼女の部屋へ向かおうとした。しかし、階段に足をかけたところで、居間から顔を覗かせたアリスに呼び止められる。
「ちょっとだけ、いいかしら」
「何だ」
 アリスの小さな手招きに従い、ラウルは彼女の立つ居間の前へと足を進めた。しかし、彼女はなおも手招きをして、ドレスの裾が触れるほど近くまでラウルを呼び寄せると、顔の横に手を添えながら少し声をひそめて尋ねる。
「もしかして、レイチェルと喧嘩しているの?」
「……そういうわけではない」
 彼女の唐突な質問に、一瞬、ラウルは息が止まりそうになった。
「それじゃあ、あの子が一方的に怒らせたのかしら?」
「いや……」
 今度は歯切れ悪く答える。下手なことは言えないと思った。どう答えるのが最善なのか、今の段階では情報が少なすぎて判断がつかない。彼女の出方を窺う方が賢明だろう。無表情を装ったまま、促すようにじっとその双眸を見つめる。
 アリスはふっと息をつくと、少し困ったような顔で小さく笑った。
「このところ、あの子、すっかり元気がなくてね。何か思いつめている様子で、かなり参っているみたいなの」
 ラウルは少し目を大きくした。教本を持つ手に無意識に力がこもる。
「ラウルと喧嘩でもしたの? って訊いたら、『私がいけなかったの』って……。何があったのかは、いくら訊いても言おうとしなかったわ。多分、あの子が我が侭を言ったか、配慮のないことを言ったかだと思うんだけど……」
 アリスはそこで言葉を切り、上目遣いでラウルを窺った。それでも何も言おうとしないラウルを見て、自分の推測は間違っていないと勝手に確信したようだ。軽く溜息をつくと、申し訳なさそうに切り出す。
「母親の私がこんなことを言うのも何だけど、あの子も反省しているだろうし、そろそろ許してやってもらえないかしら。きちんと謝るように言っておくから」
 ラウルは眉根を寄せてうつむいた。
 考えてみれば、レイチェルはつらいことがあっても、悩みごとがあっても、滅多にそれを他人に見せることはなかった。常にまわりの人間に心配を掛けないように振る舞おうとしていた。ラウルに突き放された今なら、なおのこと本音を見せようとはしないだろう。そんなことにも気づかないなど、自分はいったいこれまで彼女の何を見ていたのだ——。
「いや……謝るのは私の方だ。すまなかった」
 カラカラの喉の奥から絞り出すようにそう言うと、アリスは心からほっとしたように、胸に手を当てて柔らかく微笑んだ。それはいつもレイチェルが見せる甘い笑顔と重なるものがあった。
 ラウルは正視できずに顔をそむけた。
 それをごまかすように素早く身を翻し、足早に階段の方へと歩き出す。そして、深く呼吸をして気持ちを静めると、教本を抱え直し、レイチェルの部屋へと続く階段を一段ずつ踏みしめながら上っていった。

「今日も来てくれてありがとう」
 家庭教師の授業が終わると、レイチェルは門の前まで足を運び、屈託のない愛くるしい笑顔を見せながら、感謝の言葉とともにラウルを見送る。
 それはこの二ヶ月の間、ずっと続いてきたことだった。
 その度にラウルは取り残されたような寂しさを感じていたが、笑顔の裏に秘められた思いを知った今は、胸が潰れそうなほどに苦しく、そして焦がれるほどに愛しく思う。
「レイチェル、明日は休日だな」
「……ええ?」
 レイチェルは大きく瞬きをしながら少し訝しげに返事をした。当たり前のことを確認するラウルの意図がわからなかったのだろう。それに答えるように、ラウルはまっすぐに彼女を見据えて言う。
「二人でどこか、誰もいないところへ出かけたい」
「……どうして?」
 レイチェルは感情の抜け落ちた声でぽつりと尋ねた。
 それでもラウルは動じることなく、なおも真剣な眼差しを向けて説得を続ける。
「おまえに話したいことがある」
「今、ここでは話せないの?」
「長くなりそうだ。落ち着いて話をしたい」
「そう……わかったわ」
 レイチェルは少し考えてから静かにそう答えると、ニッコリと明るい笑顔を見せた。そして、後ろで手を組み、小さく首を傾げながら尋ね掛ける。
「どこへ行くの?」
「そうだな……」
 ラウルは眉根を寄せて考え込む。彼女を誘うことに精一杯で、そこまで具体的には考えていなかった。誰にも邪魔をされず、二人だけで落ち着ける場所は——。
「前にサイファと行った森の湖畔は?」
「そこにしよう」
 レイチェルの提案を即座に採用する。ラウルの条件にこれほど合致する場所は他にないだろう。少なくとも、あまり外を出歩かないラウルには思いつかなかった。
「馬の手配と昼食の用意はしておく」
「私は、朝、ラウルのところへ行けばいいのね」
「ああ……そうだな、それでいいだろう」
 ラウルが迎えに行ってもよかったが、それではアリスやアルフォンスにいろいろと詮索されかねない。レイチェルが来てくれるのであれば、その方がありがたいと思う。
「楽しみにしているわ」
 そう声を弾ませるレイチェルに、ラウルはそっと左手を伸ばして柔らかな頬を包み込んだ。そのまま瞬きもせず彼女の瞳をじっと見つめる。そしてゆっくりと身を屈めると、反対側の頬に軽い口づけを落とした。
 それは約束のしるしである。
 その意図を理解できなかったせいか、触れることすら久しぶりだったせいか、レイチェルは驚いたように大きく瞬きをした。呆然とラウルを見つめる。しかし、やがて小さくこくりと頷くと、華やかな愛くるしい笑みを顔いっぱいに広げた。
 それが心からのものかはわからない。
 だが、そうであってほしいと願わずにいられなかった。

 二人を急かすように、強い突風が通り過ぎた。
 ラウルは目を閉じて踵を返すと、長い髪をなびかせながら歩いていく。
 心は決まった。
 明日、レイチェルにすべてを話す。かつて守るべきだった少女のことも、その面影を重ねていた頃の想いも、それとは違う今の想いも、唐突に遠ざけた本当の理由も、そしてラウルがいま願うことも——その上で彼女に判断を委ねるつもりだ。
 夢を見ているわけではない。
 おそらく結果的には何も変わらないだろう。彼女はこの国でサイファとともに生きることを選ぶに違いない。それが最も有り得べき妥当な予想である。
 しかし、それでもやらねばならない。
 今までのラウルは狡かった。自分のことは何も話さず、彼女のためだと理由を付け、勝手に先回りして決めつけていた。それで彼女を守っているつもりだったのだろう。だが、その身勝手な気持ちの押しつけが、逆に彼女を追い詰めてしまったのだ。
 彼女もいつまでも守られるだけの子供ではない。
 嘘やごまかしではなく、彼女を信じ、本心で向かい合うべきだった。しかし今からでも遅くはない。期限が来る前に気づけたことは幸運だったといえる。きちんと誤解を解いたうえで彼女を送り出そう。それこそが本当のけじめだと思う。
 ラウルは立ち止まって顔を上げた。
 明日も晴れるだろうか——。
 彼女との約束に思いを馳せながら、どこまでも続くような青い空を仰ぎ、その眩しさに少しだけ目を細めた。


26. 覚悟

「レイチェル、ミルクティが入ったよ」
「ありがとう」
 サイファが白いテーブルにティーポットを戻しながら声を掛けると、窓越しの空をぼんやりと眺めていたレイチェルは、我にかえったようにニコッと微笑んで振り向いた。ティーカップを手に取り、少しだけ口をつけ、丁寧な所作で音を立てないようソーサに戻す。

 サイファはここ二ヶ月ほど仕事が忙しく、休日出勤続きで、レイチェルとはほとんど会うことが出来ずにいた。会えたとしても文字通り顔を会わす程度で、のんびりとお茶を飲むような余裕はなかったのである。
 その仕事もつい先日ようやく一段落した。
 そのため、今日は上からの命令で代休ということになり、サイファは久々に自宅で一日を過ごすことになった。一人でのんびりと疲れた体を癒すのも悪くはないが、それより何より、まずレイチェルにゆっくり会いたいという願いを叶えるのが先だと思った。ずっと楽しみにしていたことである。浮き足立つ気持ちのまま、今朝の早い時間に連絡を取り、家庭教師の授業が終わったら一緒にティータイムを過ごそうと誘ったのだった。
 レイチェルも喜んでその誘いを受けてくれた。だから、今、こうやってサイファの部屋でミルクティーを飲み、サイファの話を聞き、甘く愛らしい微笑みを見せているのである。
 しかし、彼女の様子には少し気がかりなこともあった。
 サイファと会話をしているときは普段どおりなのだが、それ以外のときになるとぼんやりしていることが多く、虚ろに空を眺めていたり、遠くを見つめていたり、心ここにあらずといった感じなのだ。
 もしかすると、会えなかった二ヶ月の間に、何かがあったのかもしれない。
 サイファは僅かに眉根を寄せる。しかしすぐに表情を取り繕って頬杖をつくと、もう一方の手を伸ばし、慈しむように彼女の柔らかい頬を包み込んだ。そのまま、小さな子供を安心させるような優しい声音で言う。
「レイチェル、僕で良ければ、遠慮しないで何でも話してね。話したくないことは無理には聞かないけれど、話して解決することもあるかもしれないし、そうでなくても心の負担は軽くすることが出来ると思うから」
 レイチェルは目をぱちくりさせてきょとんとしていた。前置きもなく唐突にこんな話を切り出されれば、面食らうのも無理からぬことだ。だが、彼女はすぐにニコッと小さな笑みを浮かべて言う。
「ありがとう」
 紡がれた言葉はそれだけだった。
 何もないのならはっきりとそう言うだろう。おそらく彼女は話さないということを選択したのだ。つまり、話せないほど深刻な悩みを抱えているということになる。聞き出したい気持ちはあるが、そんなことをすれば、口は開いても心は閉ざしてしまう。それでは本末転倒なのだ。
 一緒に暮らしていれば、いくら忙しくとも顔を合わせる機会はあるわけで、少なくとももう少し早く異変に気づくことは出来ただろう。深刻な悩みになる前に手が打てたかもしれない。
 あと8ヶ月か——。
 それは二人がともに暮らせるようになるまでの時間である。
 レイチェルが16歳になったらすぐに結婚できるよう、サイファは水面下で少しずつ準備を進めていた。まだ早いという反対意見もあったが、一番の問題だったアルフォンスはどうにか説得し、ラグランジェ家で最も大きな力を持つ前当主のルーファスにも承諾を受けた。これで障壁となるものは何もない。あとは双方の両親を巻き込んで本格的に行動を起こすだけである。
 幼い頃から待ち望んでいたその日は、足音が聞こえるほどすぐそこまで来ていた。
「サイファ、どうしたの? 大丈夫?」
 サイファが考えを巡らせていると、レイチェルが不安そうに覗き込みながら尋ねてきた。これでは立場が逆である。心配している相手に心配されてしまっては世話がない。自分の不注意に思わず苦笑を漏らして答える。
「僕は大丈夫だよ。少し考え事をしていただけだから」
「ずっとお仕事が忙しかったんでしょう? 疲れているんじゃない?」
「まあね、でも、だからこそレイチェルに会いたかったんだよ」
 それは、彼女を気遣っての言葉ではなく、サイファの偽りない本心だった。彼女の愛くるしい笑顔を見ると元気になれる。この笑顔を見るために、そして守っていくために、つらくとも頑張ろうと思えるのだ。
「これからも僕と一緒にティータイムを過ごしてくれる?」
「ええ、私も楽しみにしているもの」
 レイチェルはティーカップに両手を添えて、ふわりと花が咲いたように、可憐に愛らしく微笑んだ。それは、まさにサイファが切望していたものだった。

 二人の間に穏やかな時間が流れる。
 向かい合ってミルクティーを飲んで、温かいスコーンを口に運んで、取り留めのない会話をして、二人で笑い合って、ときどき見つめ合って——。
 たったそれだけのことで、サイファは心から満たされていくのを感じた。
 しかし、レイチェルが同じ気持ちでいるかはわからなかった。彼女の笑顔は幸せそうに見えた。だが、会話が途切れて静寂が訪れると、また目を細めてふっと遠くを見つめるのだ。
 やはり悩みがあるのだろう。
 もどかしく思いはするものの、それでも無理に聞き出すようなことはしないと決めていた。彼女が相談しやすい雰囲気を作り、ときおり優しく促しながら、彼女自身の決断で口を開くのを待つしかない。それが最善であると判断してのことである。焦ってはいけないと思った、そのとき——。
「サイファ、あのね……」
 レイチェルはぼんやりと遠くを見たまま、淡い声で切り出した。
「ん、何かな?」
 サイファは彼女を怯えさせないよう、しかしこの機会を逃がさないよう、柔らかいながらもしっかりとした口調で聞き返した。そして、ティーカップを口に運びながら、にこやかな笑みを浮かべて次の言葉を待つ。
「私、子供ができたの」
「!!」
 サイファは口に含んだ紅茶を吹きそうになった。それをこらえて飲み込むと、今度は気管に入ってしまい、ゲホゲホと咽せながら涙目で顔を上げる。
「えっと……それって、ペットを飼い始めたってこと?」
「そうじゃなくて、私のおなかの中に赤ちゃんがいるの」
「あ……あのね、レイチェル……」
 彼女の突拍子もない発言に慣れているサイファも、これにはさすがに狼狽せずにはいられなかった。困惑した笑みを張り付かせながら途方に暮れる。彼女がなぜそんなことを言い出したのか見当もつかない。もちろんサイファには身に覚えなどなかった。
 もしかして、何も教わっていないのか——?
 彼女はもう15歳であり、数ヶ月後にはサイファと結婚することになっている。なのに、そういったことに関して何の知識もないのだとすれば大問題である。アルフォンスもアリスも今まで何をしていたのだと心の中で嘆息した。
 とりあえず、間違った思い込みだけでも正さなければならない。どのように説明しようか頭を悩ませながら、慎重に言葉を選んで口を開く。
「知っているかな? 赤ちゃんってコウノトリが運んでくるわけじゃないんだよ?」
「知っているわ」
 レイチェルは当然のようにさらりと答えた。
 そのまっすぐに前を見据えた表情は、夢や幻想を語る少女のものではない。
 ゾクリ、とサイファの背中に冷たいものが走った。
 まさか、本当に——?
 額に汗が滲んでいく。頭はぐちゃぐちゃに混乱していた。何が何だかわからなかった。考えもまとまらないままに上ずった声を漏らす。
「じゃあ……でも、そんなこと……だって僕たちはそんな……」
「サイファじゃないの」
 対照的に静かに落とされた彼女の言葉。
 ドクン、と飛び出しそうなほどに大きく心臓が跳ねる。同時に、頭の中に鋭い閃光が走った。そこに見えたものは荒唐無稽とも思える推測——。なぜそんなことを思いついたのか自分でもわからない。信じたくはない。だが、それは残酷なまでに抗いがたい説得力を持っていた。おそるおそる、それでもまっすぐに彼女の目を見て尋ねる。
「もしかして、ラウル……?」
 レイチェルはじっと見つめ返し、無言でこくりと頷いた。
 ——ガタン!
 サイファは両手をついて勢いよく立ち上がった。優雅な意匠の白い椅子が後方に弾き倒され、カップの中のミルクティーが波を打って縁から零れた。
 頭の中が真っ白になる。
 言いたいことも聞きたいことも山のようにあるはずなのに、口を半開きにしたまま、ただその場に立ちつくすことしかできない。白いテーブルの上に置かれた手は、固く握りしめられ小刻みに震えている。その上に、額から伝った汗がポタリと落ちた。
 僕は、馬鹿だ——。
 きつく奥歯を噛みしめてうなだれる。金の髪がはらりと頬に掛かった。窓越しに降りそそぐ明るい光が、それをより鮮やかに華やかに煌めかせ、その下の顔に深い影を落とした。
 これまで疑惑を持ったことは一度たりともなかった。二人のことを信用していたというよりも、そんなことは考えすら及ばなかったのだ。だが、その考えが頭に浮かんだとき、まるでバラバラだったパズルが一瞬で完成したかのように感じた。ピースは手元にあったのだ。一つ一つは何でもないことでも、すべてを正しく合わせれば見えてくるものがある。難しいことではない。なのに、なぜ今の今まで気づかなかったのだろうか。もっと早く気づいていれば止められたはずなのに——。
 後悔するだけでは何も始まらない。
 サイファはゆっくりと深く息をしてから顔を上げると、きょとんとしているレイチェルに、出来うる限りの落ち着いた口調で尋ねる。
「お医者さんには診てもらったの?」
「ううん、でも間違いないと思うの」
 レイチェルはサイファを見上げて真面目に答えた。
「……行こう」
 サイファは静かにそう言うと、向かいに座るレイチェルの手を取り、早足で彼女とともに部屋を後にした。ティーテーブルの上には、飲みかけのミルクティーが二つ、そのままの状態で放置されていた。

「ねぇ、サイファ、どこへ行くの?」
「医者にきちんと検査してもらうんだ」
 レイチェルの手を引いて王宮への道を歩くサイファは、足を止めることも振り返ることもなく答えた。どうしようもなく気が焦り、走り出したい衝動に駆られるが、それを実行に移すことはできない。もし彼女の言ったことが事実ならば、気遣わねばならない身体である。走らせて転倒するようなことがあれば、大変な事態になるかもしれないのだ。
「医者ってラウルのところ?」
「……違うよ」
 その声の冷たさに、サイファは自分のことながら驚いた。眉根をきつく寄せ、口をかたく結ぶ。こんなことではいけない——瞳を閉じて心の中で頷くと、右手の中の小さな温もりを逃さないように、強く、優しく力を込めた。
「僕に任せて」
 それは、彼女に向けた言葉であると同時に、自分自身を奮い立たせ、揺らぎそうな決心を支えるための言葉でもあった。

 王宮の一角にある一室——その扉の前に二人は立った。
 可能ならば人目を忍んで裏口から入りたかったが、残念ながら、サイファの知る限り出入口はここひとつきりである。レイチェルの手をしっかり握り直すと、小さく息を吸ってその扉を引いた。
 ラウルのところとは随分と様子が違うが、ここも王宮医師が常駐する医務室である。
 入ったところは小さな待合室になっており、すでに5人が長椅子に座っていた。正面には受付窓口がある。その横にある扉の奥が診察室で、最初に来たときには、意外と立派な設備が整っていて驚いたことを覚えている。
「こちらに名前を書いてお待ちくださいね」
 受付の女性が二人に愛想良く声を掛け、窓口から受付票とペンを差し出した。
 しかし、サイファはそれを受け取らず、窓口に手を掛けて覗き込むと、背後を気にしながら声をひそめて言う。
「内密で先生に相談したいことがあります。取り次いでもらえますか」
「……しばらくお待ちください」
 サイファがラグランジェ本家の次期当主であることを知っていたためか、彼女は無理な要望にもほとんど困惑を見せることなく、事務的にそう言い残して奥に消えていった。

「それで、何? 診察だっけ?」
 30分ほど奥の部屋で待たされたあと、この医務室の主であるサーシャが不機嫌に姿を現した。彼女は王宮医師の一人であり、まだ若いが腕は確かだと聞いている。愛想がないのが玉に瑕だが、言動がぶっきらぼうなだけで、心まで冷たいというわけではない。実際、サイファの突然の要望にも、こうやって渋々ながら応じてくれたのだ。扉に休診の札を掛け、待合室にいた5人の診察を終えてから、サイファたちを待たせていたこの部屋へ来たのである。
「個人的な、それも極秘のお願い、ということにしたいんですが」
「報告書には書くなってことね」
 サーシャは向かいのソファに腰を下ろすと、溜息まじりにサイファの意図を確認した。
「さすが話が早いですね」
「今度、昼メシくらい奢りなさいよ」
「それくらいなら喜んで」
 サイファは人なつこい笑顔で応じた。しかし、何が気に障ったのか、サーシャはなおさらムッとして気色ばんだ。面倒くさそうに視線を送りながら言葉を繋ぐ。
「それで何の診察をすればいいわけ?」
「妊娠しているか検査をお願いします」
 サイファは躊躇いもせずさらりと言う。その瞬間、サーシャは僅かに眉を寄せた。
「あんた男でしょう?」
「僕じゃなくて、この子、僕の婚約者のレイチェルを」
 サイファは隣の彼女を抱き寄せて示した。
 サーシャはじとりとレイチェルを見つめた。彼女はきょとんとしていたが、サーシャと目が合うと、途端にニコッと無邪気なまでの笑顔を見せた。まるで状況を把握できていない子供のようなその笑顔に、サーシャはどっと疲れたように深く溜息をつき、顔をしかめながら頭を押さえてうなだれた。

「してるわよ、妊娠。二ヶ月ちょっとってところね。医学的には問題なし」
 一通りの検査を済ませると、サーシャはレイチェルとともに奥の部屋に戻り、待たせていたサイファに前置きもせずテキパキと報告した。
「そうですか」
 すでに心の準備が出来ていたサイファは、動揺を見せることなく静かに返事をした。そんなサイファを見ながら、サーシャはソファの背もたれに腕をかけて、呆れたように溜息をついた。
「ったく、どうかしてるわ。こんな子供をよくもまあ……15歳って聞いたけど、顔だけ見てるとまるきり子供じゃない。何にもわかってないのかぽけーっとしてるし。まあ、身体だけは随分成長しちゃってるみたいだけど。何を食べたらあんなに大きくなるんだか……」
 ぶつくさと文句を言う彼女の視線は、レイチェルの胸元に注がれていた。
「聞いているの? サイファ」
「聞いていますよ」
 サイファは苦笑しながら答えた。
「あんたまさか無理やりやったわけじゃないわよね」
「そんなわけないじゃないですか」
 疑わしげに尋ねるサーシャを、サイファは軽く笑ってあしらう。しかし、内心はドキリとしていた。考えもしなかったが、ありえないとは思うが、そういう可能性もゼロとは言いきれない。頭では否定しつつも、心は不安に絡め取られる。鼓動が次第に速くなっていくのを感じた。
 レイチェルにそっと横目を流す。
 彼女はすぐにそれに気づいたようだった。不思議そうに小首を傾げると、じっとサイファを見つめながら、無言の問いに対する答えを口に上らせる。
「無理やりじゃなくて、私も好きだったから……」
「ほらね、だから言ったでしょう?」
 彼女の答えはおそらく本当のことなのだろう。少なくとも彼女の意思に反する行為ではない。もしかすると彼女自身が望んだことなのかもしれない。サイファは切り裂かれるような痛みを胸に感じたが、同時に大きく安堵もしていた。
 サーシャは呆れたように溜息をついた。
「だからって、何もわかってないようなポヤポヤのお嬢ちゃんに手を出すんじゃないわよ。あんたはもう立派な大人なんだから、考えなしに行動しちゃいけないってことくらいわかるでしょう?」
「そうですね、反省しています」
 サイファは笑顔のまま肩を竦めて見せた。
 その隣で、レイチェルは混乱したような顔でちらりとサイファに視線を送る。誤解されているにもかかわらず、それを否定しないことが理解できないのだろう。それでもこの場で尋ねたり反論したりしないのは、ここに来る前にそう言いつけておいたからである。
「で、どうするのよ」
「産みますよ」
 サイファは間髪入れずに答えた。
「どうせあと数ヶ月で結婚するつもりでしたし、少し予定が早まっただけです」
「そ、ならいいけど。後味の悪い結末は見たくないしね」
 サーシャは無愛想にそう言って脚を組んだ。
「でもそんなに簡単にいくの? サイファってラグランジェ家の次期当主なんでしょう? いろいろ面倒なことがあるんじゃない?」
「それ以前に最大の難関がありますよ」
 サイファは少しおどけたように遠回しな表現をした。
 しかし、サーシャにはすぐに何のことかわかったようだ。
「ああ、この子の両親はまだ知らないわけね。そういえばこの子の父親って、娘を溺愛していることで有名な、あのやたら体格のいいおっさんだっけ? ……あんた、殴り殺されるわよ」
「そうならないよう努力します」
 サイファは苦笑しながら、それでもしっかりとした声で答えた。
「私に出来ることがあったら言って。可能な限り協力するから」
「ありがとうございます」
 ぶっきらぼうに気遣うサーシャの言葉が、今のサイファにはとても心強く感じられた。深々と頭を下げて、精一杯の感謝の意を示す。
「しっかし、あんたはいつもやっかいごとばかり持ち込んでくるわねぇ」
 サーシャは両腕をソファの背もたれに掛けると、顔をそむけて脚を組み替えながら、照れ隠しのように急に大きな声で話題を変えた。
「ただでさえ忙しいんだから、もうこれ以上は勘弁してほしいわ。最近じゃ、色ボケラウルの世話まで焼かなきゃならないし」
「色ボケ……?」
 ラウルにはおよそ似つかわしくないその形容に、サイファはほとんど反射的に聞き返していた。その途端、サーシャは目を輝かせて、ぐいっと前のめりに身を乗り出す。
「そうなのよ! それがどうやら恋してるらしくてね。ビックリでしょ?」
 驚いて何も言えないサイファを見ると、彼女は満足げに大きな笑みを浮かべた。
「これまで真面目なだけが取り柄だったのに、このところ報告書の提出を忘れてばかりでね。かなり重度の恋煩いみたい。本人にも恋してるのか訊いてみたけど、否定しなかったから間違いないわ」
 なぜかこぶしを握りしめながら、勝ち誇ったように力説する。
「でも、残念ながら相手がわからないのよねぇ。サイファ、あんたは知らないの? ラウルとけっこう親しいんでしょう? 聞いてはなくても予想くらいはつくんじゃない?」
「わかりませんよ」
 サイファは素っ気なく答えた。
 察しはついている。いや、確信していると言ってもいい。だが、断じてそれを悟られるわけにはいかないのだ。下手なことを言わないようにと気を引き締める。
「じゃあさ、ちょっと探ってきてくれない?」
「冗談じゃありません。僕を殺す気ですか?」
「やっぱりサイファでも無理なんだぁ」
 サーシャは派手な抑揚をつけて残念がると、頭の後ろで手を組みながらソファにもたれかかった。そして、サイファに物言いたげな視線を流して尋ねる。
「あんたは気にならないの? あのラウルなのよ?」
「先生も命が惜しかったら詮索なんて止めた方がいいですよ。ラウルの機嫌を損ねないうちにね。どうせ成就しない恋なんですから」
 サイファは冷ややかに言い切った。
「それどういうこと?」
「二人は生きる時間の流れが違う。そんな二人が寄り添って生きるなんて無理な話ですよ。たとえ、どれだけ想い合っていたとしてもね」
 静かに、しかし重々しく言葉を落とす。
 隣のレイチェルがどんな顔でそれを聞いているのか、正面を向いたままのサイファにはわからなかった。いや、わかろうとしなかった。目を向けるだけの勇気がなかったのかもしれない。
「若いのに夢も希望もないことを言うわね」
「現実的なだけですよ」
 感心したような呆れたようなどちらともつかないサーシャの言葉に、サイファはふっと小さな笑みを漏らして答えた。

 話が一段落したところで、サイファは帰ることにした。
 無理を聞いてくれたサーシャに丁寧に礼を述べると、レイチェルの手を引いて医務室を後にする。廊下にはほとんど人通りはなかった。転ばないように配慮しながら、彼女の歩調に合わせて足を進める。
 外に出ると、もう日が落ちかけていた。
 長い長い影が二人の後方に伸びている。
 地平近くから注がれる色づいた光は、まわりの空と地上を朱に染め上げていた。それは強烈なまでに鮮やかながら、何とも言いようのない物寂しさを感じさせる光景だった。
「どこへ行くの?」
「いいから来て」
 家路とは違う方向へ足を進めるサイファを見つめ、レイチェルは不安そうにしていたが、それ以上はもう何も尋ねることなく、手を引かれるまま素直についていった。
 ふたりは王宮の外れにある小さな森へとやってきた。
 ひっそりとした薄暗い散歩道には、まったく人の気配は感じられない。昼間でも寂しい場所である。夜が訪れようとしているこの時間に、あえてここに来る人間はほとんどいないだろう。
 サイファは森の中ほどで足を止め、しつこいくらいに注意深く周囲を窺った。そして、誰もいないことを確信すると、真正面からレイチェルと向かい合う。彼女は困惑したように瞳を揺らしながらサイファを見上げた。
「レイチェル、おなかの子のことは誰かに話した?」
 レイチェルは無言のまま首を横に振った。細い金の髪がさらさらと小さく揺れる。
「ラウルにも?」
「話していないわ」
「よし……」
 サイファは小さく頷いてそう呟くと、レイチェルの両肩に手を置き、強い光を湛えた瞳で覗き込む。
「レイチェル、一度しか言わないからよく聞いて」
 レイチェルは緊張した面持ちでこくりと頷き、胸元でそっと両手を重ねた。不安そうにサイファに視線を送る。それを正面から受け止めつつ、サイファは芯の通った力強い声で言う。
「君のおなかの子は僕の子だ。今後そのつもりで振る舞ってほしい」
「今後……これからずっと……?」
 レイチェルは理解できないというように首を傾げて聞き返した。
 サイファはますます真剣な表情になって答える。
「そう、僕たちは予定どおり結婚して、その子を僕たちの子として二人で育てる」
「でも……」
「だから本当のことはもう二度と口にしないで。僕たち二人きりのときでもね。どこで誰が聞いているかわからないだろう? 誰にも知られるわけにはいかないんだ。ラウルにも当分は会わない方がいい。連絡もいっさい取らないで」
 サイファは自分の意見を押しつけるように早口で捲し立てた。その一方的な物言いに、レイチェルは戸惑ったように顔を曇らせる。
「でも、まだ家庭教師が……」
「アリスから断ってもらうよ。それは僕が頼むから心配しないで」
 サイファがそう宥めても、彼女はまだ何か言いたげにしていた。上目遣いでサイファを見ながら、おずおずと遠慮がちに切り出す。
「あのね、私、あしたラウルと一緒にお出かけする約束をしたの」
「……駄目だよ、僕が断っておく」
 サイファは低い声で諭した。そして、再び、彼女を強く覗き込みながら訴えかける。
「レイチェル、君は事の重大さを理解していないだろうけど、これはとても大変なことなんだ。このことが他に知られれば、おなかの子は確実に生きられないし、下手をすると君も……」
 結婚できなくなるのは当然のことだが、婚約解消だけですむ問題とも思えない。
 下世話な話題を好む人間は多い。ラグランジェ本家の次期当主が婚約解消したとなれば、世間から理由を詮索されることは避けられない。中絶の話もどこからか漏れる可能性が高いだろう。
 そんな醜聞をラグランジェ家は許さない。
 それよりは、事故に見せかけて殺した方が手っ取り早いし、危険因子も遥かに少なくなる。ラグランジェ家を何よりも重んじ、非情なまでに合理的な考えを持つ前当主ルーファスならば、その手段を選択しても不思議ではない。実際、ラグランジェ家の過去には、不可解な死と噂されるものがいくつもあるのだ。
「私、殺されてしまうの?」
 レイチェルはぽつりと呟くように尋ねた。
「そうならないように努力する。いや、必ず僕が守る。君も君のおなかの子も。だからお願い、僕の言うことを聞いて……」
 サイファは必死に哀願しながら、彼女の肩を掴む手に力を込める。
 レイチェルは小さくこくりと頷いた。だが、じっとサイファを見つめるその顔は、まだ事情を飲み込めていないような、どこか曖昧な表情をしていた。

「ふざけるな!!」
 応接間が震えるほどの怒号とともに、サイファは焼けるような強烈な痛みを頬に感じた。床に叩きつけられるように横向きに倒れ込む。口には生ぬるい鉄の味が広がっていった。
「誰がおまえなんぞに娘をやるか! 婚約など破棄だ!! 帰れ!!!」
「本当に申し訳ありませんでした……」
 よろりと身を起こしながら謝罪する。それだけで殴られたところがズキズキと痛み、思わず顔をしかめる。しかし、すぐに表情を引き締めると、床に両手をついて頭を下げ、真摯に言葉を繋いでいく。
「どのような謝罪でもしますし、罰を受ける覚悟もあります。ですが、レイチェルを諦めることだけは出来ません。結婚を許してくださるまで帰るつもりはありません」
「よくもぬけぬけと……おまえは殺す……殺してやる……」
 アルフォンスは低く唸るようにそう言うと、ギリギリと音が聞こえるくらいに歯がみした。サイファとの距離をじりりと詰め、大きなこぶしを強く握りしめて震わせる。そこには何本もの青筋が浮き出ていた。
「やめて!!」
 甲高い悲痛な叫び声が、張り詰めた空気を切り裂く。
 レイチェルは弾かれるように無抵抗のサイファの前に飛び出すと、彼を背に庇うように両手を広げて膝をついた。血の気が引いた真っ白な顔で、小さな口をきゅっと結び、完全に沸点に達している父親を仰ぎ見た。
「どけ! レイチェル!!」
 体の芯を震わせる怒鳴り声にも、彼女は一歩も引かなかった。何度も首を横に振って懸命に訴えかける。
「サイファは悪くない、何も悪くないの!!」
「レイチェル、いいんだ」
 サイファは後ろから静かに制止した。
 しかし、その言動がアルフォンスの怒りにさらなる油を注ぐことになった。蒸気を吹き上げんばかりの勢いで頭に血を上らせると、眉間にいくつもの深い皺を刻み、腹の底から重低音を響かせて怒りを爆発させる。
「サイファが悪くなければ誰が悪いというのだ!」
「殺すなら私を殺して!!」
 レイチェルは瞳を潤ませながら、全力で声の限りに叫んだ。
 アルフォンスはその迫力に圧されて息を呑んだ。当然ながら、彼が愛娘に手を上げることなどできない。だからといって許すこともできない。ただ全ての元凶であるサイファを刺すように睨みつけるだけだった。
「アルフォンス、とりあえずここは引いて。レイチェルの体に障るわ」
 それまで黙って成り行きを見守っていたアリスが、ソファから腰を上げて静かに言った。握りしめられた大きなこぶしに、細い手を添えて制止する。
「話はあらためてにしましょう」
「くっ……」
 アルフォンスは悔しげに声を詰まらせると、修羅のような形相でサイファを一瞥し、床をドカドカと踏み鳴らしながら応接間を後にした。叩きつけるように閉められた扉の向こうから、何かを盛大にひっくり返したような音がいくつも重なり合って聞こえてきた。

「レイチェル、大丈夫?」
「サイファ、ごめんなさい、本当にごめんなさい」
 床に座り込んだままのサイファが背後から声を掛けると、レイチェルは涙を溢れさせながら倒れ込むように抱きついてきた。彼女も少しは事の重大さを実感したのだろう。体を震わせながら、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返す。
 サイファはその背中にそっと手をまわし、あやすように軽くポンポンとたたく。
「僕は平気だから。でも、約束だけは忘れないで」
 声をひそめて耳元で囁くようにそう言うと、レイチェルはサイファの肩に顔をのせたまま、小さくしゃくり上げながらこくこくと頷いた。彼女の涙がサイファの頬に触れる。その温かさは、少しの痛みを伴って、胸にじわりと沁み込んできた。

「サイファ、今日はとりあえず帰ってくれる?」
 アリスは抱き合う二人を見下ろしながら淡々と言った。
「アルフォンスは私が説得するわ。今は感情的になっているけれど、冷静に考えればわかるはずよ。二人の結婚を認めるしかないということ、それが誰にとっても最善だということがね」
「本当に申し訳ありません」
 サイファは立ち上がって深々と頭を下げた。ズキズキと疼く頬を、金の髪が掠めていく。それだけでさらに痛みが増したような気がした。
 アリスは少し顔を曇らせて続ける。
「あと数ヶ月後には結婚する予定の二人なんだから、私個人としては認めてあげればいいと思っているけれど、ラグランジェ家としては大変なことなのよ。アルフォンスだけではなく、前当主ルーファスの許しも得なければならないわ」
「はい、説得するつもりです」
 もちろんそのことも忘れてはいなかった。しかし、アルフォンスほど説得は困難ではないだろう。彼はレイチェルとサイファの子供を待ち望んでいるのだ。ラグランジェ家にさらなる飛躍をもたらすであろう、二人の能力を受け継ぐ優秀な子供を——。そのためには、これくらいのことは不問に付すのではないかというのがサイファの目算だった。
「そこまで考えているのなら、もう私が言うことは何もないわね」
 アリスは両手を腰に当てて小さく息をついた。
 サイファは重々しく頭を下げた。これで何度目だろうかと思う。しかし、このくらい大したことではない。土下座をすることも、罵られることも、軽蔑されることも、殴られることでさえも、すでに覚悟を決めていたのだ。
「それにしても意外だったわ」
 一息ついて緊張が弛んだのか、アリスはそれまでとはまったく違うのんびりした声でそう言うと、立てた人差し指を唇に当てて斜め上に視線を流した。
「サイファって理性的だし、次期当主の自覚もあるし、そういう間違いを起こすなんて考えもしなかったわ。今でもまだ信じられないくらい」
「僕もただの男ですよ」
 サイファは苦笑しながら言った。そんな彼を、アリスは探るような眼差しで覗き込む。
「ねぇ、もしかしてレイチェルが誘ってきたのかしら? あの子さっき自分が悪いって言っていたでしょう? サイファに何度も謝っていたのも、そういうことなんじゃない?」
 それは大胆な推測だったが、筋は通っていた。レイチェルの少し行きすぎた行動の理由としても納得がいく。彼女には悪いと思ったが、サイファはあえてそれに乗ることにした。
「それでも悪いのは僕の方です」
「どっちもどっちね。まったく、子供だと思っていたのにこの子は……」
 アリスはそう言って溜息をつくと、サイファの腕に縋りつくレイチェルを見下ろし、窘めるようにその額を人差し指で弾いた。そして、再びサイファに視線を戻し、真面目な顔になって言う。
「サイファ、何があっても諦めないでね。レイチェルのためにも」
「たとえ諦めろと言われても、諦めるつもりはありませんから」
 レイチェルの華奢な肩を抱き寄せ、その手に力を込めながら、サイファはにっこりと力強く微笑んで答えた。

「父上、母上、お話があります」
 サイファは自宅に戻ると、居間の扉を開くなりそう切り出した。
 両親はソファで向かい合って何か話をしていたようだが、その声につられてほとんど同時に振り向いた。
「サイファ! おまえどうしたんだ、その顔……」
 途端にリカルドはぎょっとしてサイファを指さした。
 その理由はわかっていた。鏡を見たわけではないが、殴られたところが腫れている自覚はある。もしかすると、変色もしているのかもしれない。相当ひどい状態になっているのだろう。
「これからあなたがする話と関係があるのね?」
 一方のシンシアは落ち着きはらっていた。実際のところはわからないが、少なくとも表面上はそう見えた。聡明な光を宿した双眸で、射抜くようにサイファを見据えている。
 それでもサイファが怯むことはなかった。
「はい、説明させてください」
「聞きましょう」
 シンシアはリカルドの隣に移動して座り直すと、先ほどまで自分がいた向かい側を示し、サイファにそこに座るように促した。

 サイファは今日の出来事を端的に話した。
 ほとんどはありのままだったが、最も肝心な部分だけは事実を伏せてごまかした。つまり、サイファがおなかの子の父親であるという前提で話を組み立てた。もっとも、ことさらにそれを強調する必要はない。疑われることはまずありえないのだ。サイファがそうだったように、おそらく誰も考えもしないことである。
 両親の顔はみるみるうちに険しくなっていった。
 サイファが話し終わると、シンシアは怖いくらいの真剣な眼差しを向けて言う。
「サイファ、あなたにはいつも言っていたはずよ。ラグランジェ本家次期当主としての自覚を持ち、場の感情に流されることなく、自らの冷静な判断をもって、常にその名に恥じない行動をとるよう心掛けなさいと」
「申し訳ありません」
 サイファは神妙な顔で頭を下げた。事実はどうであれ、母親を落胆させたことには違いない。ラグランジェ家の当主に相応しい人間であるようにと、彼女はこれまで厳しくも愛情を持って育ててくれた。その恩を仇で返す結果になってしまい、本当に心苦しく思う。
「終わったことをしつこく責めても始まらないわ。あなたももう十分に反省しているのでしょう。お説教はこれで終わり。ここからは今後の対処について考えましょう」
「そうだな……」
 リカルドも溜息をつきながら同意した。しかし、あまりの難題に苦悶の表情を浮かべる。ゆっくりと腕を組むと、首を斜めにして考え込んだ。
 シンシアはサイファから目を逸らさずに尋ねる。
「あなたの気持ちは固まっているのね?」
「はい、僕はレイチェルと結婚します」
 サイファは前を向いて毅然とした口調で断言した。
「そうは言っても問題は山積しているぞ」
 リカルドは腕を組んだまま眉根を寄せた。
 だが、シンシアはその非建設的な意見を無視して話を進めていく。
「アリスはどう言っているの?」
「アルフォンスを説得すると言ってくれています」
「そう、アリスが味方なら心強いわ」
 少し安堵したように息をつくと、再び厳しい顔つきになって続ける。
「まずはアルフォンスの説得ね。アリスと相談してからこちらの出方を決めるけれど、早いうちに私たちも謝罪に行った方がいいでしょうね」
「そうだな、それは避けられないだろうな……」
「あなたもサイファのように殴られることを覚悟しておいて」
「えっ?!」
 リカルドは隣のシンシアに振り向き、目を見張って素っ頓狂な声を上げた。しかし、シンシアは、今さら何をという半ば呆れたような面持ちで付言する。
「それだけのことをしたのよ、サイファは」
「そ、そうだね……」
 すでにリカルドの顔からは血の気が失せていた。引きつったごまかし笑いを張り付かせている。サイファの顔の状態を見て、同じ目に遭わされるのだと思えば、怖くなるのも当然だろう。
「申し訳ありません」
 サイファはソファに座ったまま深々と頭を下げた。
「サイファ、あなたは部屋に戻って休んでなさい。用があればこちらから呼ぶわ。それと、その顔、冷やしておいた方がいいわね。かなり腫れているわよ」
 シンシアは歯切れよく指示を送る。
「はい」
 サイファは素直に返事をすると、丁寧に一礼して居間を後にした。

 カタン——。
 サイファは二階の自室へ戻ると、静かに扉を閉めた。
 灯りもつけず暗い部屋で立ちつくす。
 窓際のティーテーブルには、レイチェルと紅茶を飲んでいたときの状態がそのまま残っていた。ただそのときの温度はもうそこにはない。月明かりを受けて、白い陶器が冷たい光を放っている。
 ——自分は、何も、何一つ間違っていない。
 サイファは薄い唇をきゅっと結び、僅かに顎を引いた。
 レイチェルを見捨てていいはずがない。そもそも二人を仲良くさせようとしたのはサイファである。自分の好きな二人が仲良くしてくれると嬉しかった。ただそんな単純なことしか考えず、してはいけないことも教えず、こうなるまで何も気づかなかった自分にも責任がある。そして何より、サイファ自身が彼女を失いたくなかったのだ。
 彼女を助けるための選択肢は二つあった。
 ひとつはサイファがおなかの子の父親になること。
 もうひとつはすべてをラウルに託すこと——。
 サイファは迷うことなく前者を選択した。もしかすると、それは彼女のためというよりも、彼女と離れたくないという自分自身の身勝手な思いによるものかもしれない。彼女のことは全力で守るつもりだが、ラグランジェ家にいる限り、つらい思いをさせてしまうことは避けようがない。まして、ラグランジェ家を捨てて逃げ切る力などあるはずもないのだ。
 それでも、自分の選択は間違っていなかったと思う。
 確かにラウルの圧倒的な魔導力を持ってすれば、ラグランジェ家から逃げることも、ラグランジェ家を黙らせることも可能である。何の不安もない環境で、彼女は大きな力に守られながら安穏と過ごしていくことができるだろう。
 だが、二人は生きる時間の流れが違うのだ。
 そのことがサイファの唯一の拠り所だった。長い目で見れば自分の方が彼女を幸せにできるという自信を持てた。今後の人生を懸けてそれを証明していくつもりである。
 しかし、それも一方的な押しつけでしかない。
 もしも彼女に二つの選択肢を提示したら、どちらを取っただろうか——。
 頭を掠めた不安から逃れるように、サイファは顔をそむけてうつむいた。
 ふと、壁掛けの鏡が視界の端に入った。そこに映し出されている哀れな姿は、とても自分とは思えないほどだった。あらためて正面から向かい合う。殴られた部分は想像以上に痛々しかった。輪郭が変わるほどに腫れ上がり、内出血のためか黒ずんだように変色している。
「はは……ひどい顔だな……」
 小さな声で自嘲ぎみに呟くと、両手を伸ばして鏡に手をついた。小さく顎を引き、上目遣いで向こう側の自分をじっと見つめる。差し込んだ月明かりが、鮮やかな青の瞳を冷たく輝かせていた。
 ラウル、おまえには渡さない。絶対に——。
 鏡に手をついたまま、奥歯を食いしばって下を向く。全身が強張った。肩は小刻みにわななき、爪先は強く押しつけられて白くなっている。
 雫がひとつ、震える頬を伝った。
 それは拭われることなく滑り落ちると、月明かりを受けて刹那に煌めき、音も立てず密やかに床の上で砕け散った。


27. 約束の日

 その日は絶好のピクニック日和だった。

 ラウルは起きてすぐに窓を開け、身を乗り出して早朝の空を見上げた。そこにはどこまでも澄み渡った優しい空色が広がっていた。緩やかに頬を撫でる風は、まるで洗い立てのように爽やかで瑞々しく、ほんの少し朝露の匂いがした。
 このような中をレイチェルと二人きりで遠出することができるのは、これが最後だとしても、それでもやはり幸せだとしか云いようがなかった。全てを話すと決意したことで多少は緊張もしていたし、つらく思う気持ちもないわけではなかったが、それよりも高揚する気持ちの方が勝っていたのだろう。ラウルはいつになく浮かれた自分を感じていた。
 さっそく持参する昼食の準備にかかる。
 以前の遠乗りに彼女が持ってきたものと同じになるが、やはり手軽に食べられるものがいいだろうと思い、サンドイッチを中心とした軽食を作ることにした。それに加えてデザートとしてプリンも用意する。これはある意味において二人の絆ともいえるものであり、今日というけじめの日にはどうしても欠かすことはできないと考えたのだ。
 それらを慣れた手際で作り終えると、部屋の隅に立ててあった真新しい藤製のピクニックバスケットを手に取った。出かける直前まで冷やしておくプリン以外のものを、一つずつ丁寧にバランスよくその中に詰めていく。このピクニックバスケットも、中のビニルシートや水筒なども、すべて彼女と約束を交わした後に急いで買いそろえたものである。こうやって律儀にピクニックの準備をするなど、彼女と出会った頃の自分からは想像もつかず、何か懐かしいようなくすぐったいような不思議な感じがした。
 馬の手配は昨日のうちにすませてあった。
 湖畔までの交通手段となるものが何もなかったため、サイファが遠乗りのときに使っていた王宮所有の馬を借りられるよう話をつけてきたのだ。本来、貸し出しはしていないらしく、ラウルも最初はにべもなく突っぱねられた。サイファはラグランジェ本家の人間ということで特別だったらしい。だからといって素直に引き下がるわけにはいかなかった。褒められた方法ではないが、圧倒的な魔導力をちらつかせ、軽く脅し文句を口にすることで、今日一日の貸し出しを強引に承諾させたのである。サイファが良くて自分が駄目な道理はないだろう、というのが自身の行動に対する言い訳だった。何より他に当てがなく、時間も迫っていたので、手段を選んでいる余裕などなかったのだ。

 遅いな——。
 ラウルは遠乗りの準備を万端に整え、医務室で本を読みながらレイチェルを待っていたが、来るはずの時間が過ぎても彼女は一向に姿を現さなかった。そろそろ出発しなければ昼に着くには難しい時間になっている。
 多少、遅れることくらい構わないが、理由がわからないので不安になる。
 いくらなんでも忘れているなどということはないと思う。昨日の今日である。それほど物忘れのひどい女ではない。むしろ記憶力に関していえば、並みの人間よりも遥かに優れているのだ。
 おそらく少し寝過ごしてしまっただけなのだろう。きっと今に小走りで駆け込んできて「ごめんなさい」と愛らしくも申し訳なさそうに詫びてくれるに違いない——そんなふうに楽観的に考えることで、ラウルは焦燥感に駆られる自分自身を無理やり落ち着かせようとしていた。

 しかし、昼になってもレイチェルは来なかった。
 昼休みの喧噪が遠くに聞こえる。時折、医務室の前を通る足音にドキリとしたが、それはどれも素っ気なく通り過ぎるだけで、医務室に入ってくるものは皆無だった。
 何かあったのだろうか、それとも——。
 ラウルは本を閉じて頬杖をつく。活字を目で追っても少しも頭に入ってこない。頭は無意識にこの状況についてのあらゆる可能性をシミュレーションしていた。次第に心のさざなみが広がっていき、いてもたってもいられなくなる。
 こちらから連絡を取るべきなのかもしれない。
 衝動に突き動かされるように、机に両手をついて立ち上がろうとする。しかし、その勢いは途中で止まった。中途半端に腰を浮かせたまま思案すると、やがて溜息をつき、深くうつむいて静かに座り直した。
 あともう少しだけ待とうと思った。
 それがどのくらい意味のあることなのかわからない。ただ逃げているだけなのかもしれない。そんなことを考えながらも、やはり行動を起こすことはできなかった。眉根を寄せて頬杖をつき、どこでもない一点を見つめながら、医務室に届く音にじっと耳を澄ませた。

 遠くのチャイムが昼休みの終わりを告げ、医務室の周辺には再び静寂が訪れた。聞こえるのは風に揺れる木々のざわめきくらいである。
 レイチェルはいまだに来ていない。
 ラウルは頬杖をついたまま微動だにせず考え込んでいる。まだその場から離れることは出来ずにいるが、いいかげん現実を受け入れようとする気持ちが起こり始めていた。今日はもう諦めた方がいいのかもしれない。急用があって来られなくなったのなら仕方のないことである。
 だが、連絡すら寄越さないのはなぜなのだろうか——。
 そのことが、ラウルの心に仄暗い不安を募らせていった。

 ドンドンドン——。
 唐突に建て付けの悪い扉が派手な音を立てる。
 ラウルはハッとして弾かれたように立ち上がった。焦茶色の髪をなびかせ一目散に駆けていくと、飛び出さんばかりに威勢よくガラリと扉を開け放つ。
「レ……」
 しかし、そこにいたのは待ち人ではなかった。ラウルと同じく王宮医師として勤務しているサーシャである。扉の開かれた勢いに面食らったのか、少し身を引き、目を丸くしながら呆然としていた。だが、すぐに眉を寄せて口をとがらせると、長身のラウルをじとりと睨み上げる。
「ねぇ、なんか今、ものすごくガッカリしなかった? 私の顔を見て」
「おまえの顔を見て喜べとでも言うのか」
 思いきり図星を指されたが、まさか他の女と間違ったなどと言えるはずもない。無表情を装ったまま捻くれた言葉を返すことで誤魔化そうとした。だがそれも徒労に終わる。
「もしかして恋人と勘違いした? 待ちぼうけくらってんの?」
 サーシャはニヤリと口の端を上げ、見透かしたかのようにそう尋ねてきた。
 プレゼントの一件以来、彼女は何かにつけてラウルの恋愛話を聞き出そうとつついてくるようになった。物珍しさから面白がっているだけなのだろう。もちろんラウルが取り合うことはない。そのためいろいろと勝手な解釈をしているようだが、彼女にどう思われようと知ったことではない。誤解でも何でも好きにすればいいと思っていた。
 だが、今は気が立っているせいか、些細な一言が聞き流せなかった。
 待っているのは「恋人」などではない。自分の気持ちはともかく、関係としてはただの教え子でしかないし、今後そういう関係になる可能性もゼロである。たとえ、自分がどれほど強く切望したとしても——ラウルはやり場のない怒りを内に秘めたまま、冷たく燃えたぎる瞳でサーシャを射抜き、一段と低い凄みのある声を突きつける。
「何をしに来た」
 彼女の好奇の笑みは一瞬で消え去った。蛇に睨まれた蛙のごとく身を竦ませると、目を見開いたままごくりと唾を飲み込んだ。それでも仕事に関する話のためか、もともとの性格ゆえか、強気な態度だけは崩さずに答える。
「ほ……報告書、締め切りきのうだったよ。いいかげん手間かけさせないでよ」
「……悪かった、明日には提出する」
 昨日の午前中までは確かに覚えていたが、レイチェルと約束を交わしてからは、それ以外のことを考える余裕がなくなってしまったようだ。このところいつも同じような理由で失念している。サーシャに催促されるのもこれで三度目だろうか。彼女が不機嫌になるのも当然のことである。
「頼んだわよ」
 サーシャはぶっきらぼうに白衣のポケットに両手を突っ込んだ。小さく息をついて踵を返そうとするが、ふとその足を止めると、遠慮がちにそろりと振り向いてラウルを窺う。
「……ねぇ」
「何だ」
 ラウルは訝しげに眉をひそめて尋ねた。それを見て、なぜか彼女はふっと寂しげな笑みを浮かべ、目を伏せながら小さく頭を横に振った。
「何でもない。じゃあ、報告書のこと忘れないでね」
 さらりと念を押すようにそう言うと、今度は振り返ることなく軽く右手を上げながら立ち去っていく。その足どりに合わせて、後ろでひとつに束ねた赤茶色の髪が小さく上下に弾んでいた。

 それから数時間が過ぎた。
 その間も、ラウルは何も手につかないまま医務室の自席に座り、ただひたすらじっと静かに待ち続けていた。もう来ないだろうとほとんど諦めかけていたが、一縷の望みまでもはどうしても捨てきれなかった。そして、そのことが余計に彼を苦しめていた。
 薄い唇から溜息がこぼれる。
 ラウルは机に手をついて立ち上がった。淡々とした足どりで窓際へ向かうと、クリーム色のカーテンを体の幅ほど開き、ガラス越しに外の景色を眺める。
 日はすでに半分ほど沈みかけていた。地平近くの空は朱く鮮やかに染まり、対照的に、医務室の真下の裏道には大きな影が落ちている。日中でも人通りの少ないそこには、当然のように誰の姿も見つけることは出来なかった。

 コン、コン——。
 再び、医務室の扉をノックする音が聞こえた。
 頬杖をついていたラウルの心臓はドクンと大きく跳ねる。落ち着きを取り戻した今ならば、誰であるかはノックの仕方である程度の判別がつく。これは少なくともサーシャではない。彼女はいつも怒ったように乱暴に扉を叩くが、今回はそれとはまるで違う、優しく上品なノックなのだ。
 今度こそレイチェルではないか。
 望みなど持ってはいけないと思いつつ、自ずと高まりゆく期待は止められない。今からではもう出かけることは無理だが、それはまた次の機会にすればいいだけのことだ。急用で行けなかったのだと、連絡する余裕もなかったのだと、そのことがわかりさえすれば十分である。
 ラウルは立ち上がって扉へ向かうと、息を止めてガラリとそれを引いた。
「こんにちは、ラウル。突然お伺いしてごめんなさい」
 そう言って微笑んだのは、レイチェルではなく、その母親のアリスだった。彼女一人だけで他には誰もいない。用件はおそらくレイチェルに関することだろう。それ以外にアリスがわざわざラウルを訪ねる理由はない。
「中でお話させていただきたいのですけど、よろしいかしら?」
「ああ、構わん」
 ラウルは平静を装ってそう言うと、扉を大きく開いて彼女を中に招き入れた。

 アリスがこの医務室を訪れたのは初めてのことである。
 中ほどまで歩を進めてから立ち止まると、一通り観察するように、広くはない部屋をぐるりと見まわした。それからラウルに振り向き、くすっと笑って言う。
「飾り気がないのがいかにもラウルらしいわね」
「話があったのだろう」
 ラウルは焦る気持ちを声に乗せないよう用心しながらそう言うと、自分の席に腰を下ろし、アリスに患者用の丸椅子を差し出した。促されるまま、彼女は流れるような所作でそこに座った。両手を重ねて膝の上に置き、背筋をすっと伸ばすと、まっすぐにラウルの瞳を見つめて言う。
「レイチェルの家庭教師の件です」
 ラウルは表情を動かすことなく、じっと次の言葉を待った。
 アリスはそれに応えるように、落ち着いた明瞭な声で本題に入る。
「予定ではあと一月でしたけれど、こちらの事情により、昨日の授業で終わりにさせていただくことになったの。誤解はしないでね。ラウルには何の問題もなくて、本当にこちらの都合なの。勝手を言ってごめんなさい」
「……いや」
 彼女の話す内容については理解できたが、それを飲み込むには少し時間がかかった。ラウルは暫しの間の後に曖昧な返事をした。それが精一杯だった。思考からして混乱しているのに、口にする言葉など思い浮かぶはずもない。
 アリスは申し訳なさそうに肩を竦めて付け加える。
「約束どおり来月までの授業料はお支払いするわ」
「不要だ。働いてもいないのに受け取るつもりはない」
 ラウルは金目当てで家庭教師を引き受けたわけではなかった。そもそも王宮医師としてそれなりの報酬を得ている。一人で慎ましやかに暮らしていくには十分すぎるほどの金額だ。それ以上は望んでいないのである。
「では、これまでの謝礼ということでどうかしら」
 アリスは目をくりっとさせて悪戯っぽく問いかける。それを見て、ラウルは小さく溜息をついた。娘のレイチェルと同じく、アリスにも自分の意思を曲げない強情なところがあるようだ。
「好きにしろ」
 いかにも面倒くさそうに、仏頂面でそう言い捨てる。
 アリスはくすっと小さく笑った。
「近いうちにアルフォンスが挨拶に伺うわ。都合がいいのはいつかしら?」
「いつでも構わん。たいていはここにいる」
 もはやラウルには何の予定もなかった。出かけることさえほとんどないだろう。せいぜいが王宮医師としての会議くらいのものだ。あとは患者すら滅多に寄りつかないこの医務室で、ひたすら空疎な時間を送るだけである。
「では、アルフォンスにそう伝えておきます」
 そう言って立ち上がろうとしたアリスに、ラウルは咄嗟に声を掛ける。
「レイチェルは……その、大丈夫なのか」
「えっ? ああ……」
 アリスは一瞬きょとんとして聞き返したが、すぐにラウルの言いたいことを理解したらしく、低めの声を落として僅かに目を伏せた。そして、少し困ったような笑みを浮かべて言葉を繋ぐ。
「病気や怪我ってわけじゃないの。心配するようなことは何もないわ。ただちょっとした事情があって理由が話せないだけで……ごめんなさい、あなたにはこれまでさんざんお世話になっておきながら、こんな筋の通らない終わらせ方をしてしまって。許してもらえるかしら?」
「私はおまえたちの決定に従うだけだ」
 ラウルは投げやりにそう言って腕を組んだ。無表情のまま口を固く結ぶ。自分はただ雇われただけの存在であり、解雇の理由を問いただす権利も、それを非難する権利もありはしない。
 アリスは神妙な面持ちでラウルの瞳を見据えた。
「ありがとう、あなたの優しさに感謝します」
 包容力を感じさせる温かな声で言葉を落とすと、椅子に座ったまま深々と頭を下げる。レイチェルのものより少し濃い金色の髪が、細い肩からサラサラと滑り落ちた。

 ラウルは医務室を後にするアリスを見送ると、重い腰を上げて、朝から待ち続けたその場所を離れることにした。もう待つことに意味はなくなったのだ。そうなるまで動くことができなかった自分を情けなく思う気持ちもあるが、今さらそんなことを嘆いたところで何もなりはしない。
 奥の薄暗い自室に戻ると、灯りもつけずにじっと佇む。
 ダイニングテーブルの上には藤製のピクニックバスケットが鎮座していた。それを照らすかのように、カーテンの隙間から一筋の光が差し込んでいる。しかし、その光も急速に弱まり、みるみるうちに掻き消えていった。
 ラウルはテーブルの端に手を掛けると、椅子に腰を下ろし、背中を丸めて大きくうなだれた。焦茶色の髪が肩から落ちて横顔を覆う。
 アリスの口ぶりからすると、レイチェルの身に何かが起こったわけではなさそうだ。それについては素直に安堵した。連絡すら来なかったので、事故に遭った可能性もあるのではないかと心配していたのだ。
 しかし、そうなると本当に理由がわからない。
 今日の約束を反故にするだけでなく、家庭教師までも終わりにするなど、これではまるでラウルのことを避けているとしか思えない。
 これが、おまえの答えなのか——?
 最後に見た彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。つい昨日のことだ。楽しみにしていると声を弾ませて愛くるしく笑っていた。なのに、彼女にいったいどんな心境の変化があったのだろうか。
 いや、そうではない。
 ラウルには素振りすら見せていなかったが、レイチェルはこのところ元気をなくしていたらしい。深く悩んでいる様子だとアリスから聞いた。ずっと考えた上で出した結論なのかもしれない。もしかすると、一方的に持ちかけたこの約束が、そのきっかけになったのだろうか。
 ラウルは机に肘をつき、額を掴むように押さえた。
 自分にその決断を責める権利はない。だが、せめてレイチェル本人の口からそのことを聞きたかった。それすらも身勝手で傲慢な言い分あることは理解している。言えなかったから、もしくは言いたくなかったから、このような手段を選んだことくらい推測がつく。それでも、このままさよならすら告げることができず、これきりになってしまうことを、容易に受け入れることは出来なかった。
 崩れるようにダイニングテーブルに突っ伏す。
 藤製のピクニックバスケットに腕が当たり、床に落ちて中のものが散乱した。水筒が転がり戸棚にぶつかって止まる。しかし、そんなことはもうどうでもよかった。どうせ必要のなくなったものである。この先ずっと、もう二度と——ラウルはテーブルの上に投げ出したこぶしを震えるほど強く握りしめる。爪が食い込んだ手のひらに、生ぬるい血がじわりと滲んだ。


28. 変わらない関係

 サイファはペンを机に置き、小さく息をついた。
 魔導省での忙しかった二ヶ月が終わり、今は報告書を作るくらいで急ぎの仕事はない。腕時計で定時を過ぎていることを確認すると、書類をまとめて机の上を片付け始める。

 レイチェルが身ごもっていることが発覚したあの日から二日が過ぎ、殴られた頬の腫れはだいぶ引いていたが、内出血による変色はまだ治っておらず、何らかの問題があったことは誰の目から見ても明らかだった。
 休日明けの今朝、出勤早々に上司に尋ねられ、サイファは正直に理由を答えた。
 サイファが口にしたのはそれ一度きりであるが、まわりで聞いていた人が多かったせいか、話は瞬く間に内局中に広がってしまったようだ。
 隠すつもりはなかったので構わないが、その予想を超える速さにはただ驚くしかなかった。もう誰も自分には訊いてこない。ただ、触れてはならないという空気と、それでも止められない好奇の眼差しがあるだけである。陰ではさぞかしこの話題で盛り上がっていることだろう。サイファがラグランジェ本家の次期当主であるということが、必要以上に皆の関心を引いていることは想像に難くない。
 あらかじめこうなることは覚悟していた。
 それでもこの居心地の悪さは尋常ではなく、いずれ時間が解決してくれるのを待つしかないが、今日ばかりは一刻も早くここから離れたいと思わずにはいられなかった。

 サイファが書類を机の引き出しにしまって立ち上がろうとした、そのとき——。
「よお、サイファ!」
 野太いにもかかわらずよく通る声が、広いフロア中に響き渡った。
 サイファを含めた皆が、一斉に振り向く。
 そこにいたのは山のように大きな体躯のマックスだった。サイファがかつて配属されていた公安局一番隊第二班の班長である。彼は場違いともいえるタンクトップ姿のまま、軽く右手を上げ、何の躊躇いもなく豪快な足どりで内局に入ってきた。
 その後ろには、部下であるエリックとティムが、ビクビクと身を縮こまらせて歩いていた。ティムはマックス以上に良い体格をしているが、マックスの陰に隠れるように背中を丸めて「班長〜」と今にも泣き出しそうな情けない声で縋りついている。
 現場の人間が内局に来ることはほとんどない。
 入室を禁止する規則があるわけではないが、暗黙の了解のようなものがあり、普通は気軽に足を踏み入れることなどまずありえないのだ。それは一年目の新人でさえも知っていることである。魔導省で長く勤務するマックスが知らないはずはないだろう。知っていてあえて無視したに違いない。
 サイファは椅子に座ったまま、自分の方へやってくるマックスに無表情で横目を向けた。マックスはそのすぐ前まで来て立ち止まると、両手を腰に当て、まるで少年のように邪気なくニカッと白い歯をこぼして笑う。
「おまえ、婚約者を孕ませちまったんだってな!」
 その瞬間、フロアの空気が凍り付いた。内局の皆が固唾をのんで状況を見守っている。マックスの後ろのティムは頭を抱えてしゃがみ込み、エリックは申し訳なさそうに顔をしかめてサイファに両手を合わせて見せた。
「何か御用ですか」
 サイファはピクリとも表情を動かさず、横目を向けたまま冷ややかに言った。しかし、マックスは臆することなく、明るく笑いながら非常識に大きな声を弾ませる。
「めでたいことだから祝いにきたんだよ。破談にならずに結婚も決まったんだろ? 久しぶりに俺たちで飲みに行こうじゃねぇか!」
「お気持ちだけいただいておきます」
 サイファは丁寧な口調で突き放した。
「つれないこと言うなよ。おまえいつからそんなに可愛げがなくなったんだ?」
 マックスは逞しい腕を机について、ぬっと身を乗り出し、正面からサイファの顔を覗き込む。その途端、彼の目は大きく見開かれた。
「うわっ、おまえこんなにひどく殴られたのか! くっ……綺麗な顔を台無しにするような奴は許せん! あの研究所の所長だったな? 待ってろ! 腕っぷしでは負けんぞ!!」
「班長! 落ち着いてください!!」
 腕の筋肉を見せつけながら鼻息荒く捲し立てるマックスを、エリックとティムは後ろからタンクトップの裾を掴んで懸命に引き留める。食い込むくらいに引っ張られて、ようやくマックスは我にかえった。
「そうだ、まずサイファを祝ってやらねぇとな」
「そうそう、そうですよ、班長!」
 サイファは騒々しい三人組を見て小さく溜息をつくと、一度は片付けた書類を引き出しから取り出し、机の上にパサリと置きながら言う。
「申し訳ありませんが、仕事が忙しいんです」
「それは嘘だろう」
 間髪入れず横やりを入れたのは、隣に座る先輩のデニスだった。彼はサイファと同じチームで仕事をしており、今は互いにさほど忙しくないことを知っているのだ。それでもサイファは負けじと言い返す。
「探せばやるべきことはいくらでもあります」
「仕事は逃げ込むためにあるんじゃない。そんな理由で残業など迷惑だ」
 デニスは淡々とした口調で、しかしきっぱりと言い放つ。
 その正論に、サイファは何も言い返すことが出来なくなった。自分の方が間違っていることは初めからわかっていた。これ以上の反論は見苦しいだけである。
「いいこと言うな、兄ちゃん!」
 マックスは白い歯をこぼしながら、奥のデニスに力強く親指を立てて見せると、いきなりサイファの体をひょいと荷物のように肩に担ぎ上げた。脚は太い腕でがっちりと抱え込まれ、頭は背中側に落とされて逆さになっている。今までずっと冷静を装っていたサイファも、これにはさすがにギョッとした表情を見せた。
「んじゃ、行くぞ、サイファ!」
「自分で歩きます! 逃げませんから下ろしてください!」
 マックスの広くがっちりとした背中を叩きながら、サイファはめずらしく慌てふためいて訴えかけた。顔が火照っていたのは、逆さにされたせいなのか、恥ずかしさによるものなのか、自分でもわからなかった。

「飲みに行く口実が欲しかっただけですよね」
 夕日に染まる寂れた道を歩きながら、サイファは隣のマックスにぽつりと問いかけた。離れてからもう2年になるというのに、なぜ自分を祝おうなどと言い出したのか理解できず、単純に訊いてみたくなっただけである。今さらつまらない理由をつけて逃げ出すようなみっともない真似をするつもりはない。
「いや、俺は口実なんかなくても飲みたければ飲みに行く」
 マックスは胸を張って堂々と言った。
 言われてみれば、確かに彼はそういう性格である。本能の赴くままに生きているような男なのだ。こんなことで下手な小細工などしないだろう。
「祝ってやるって言ってんだから素直に喜べばいいんだよ」
「強引に連れ出しておいて、よくそんなことが言えますね」
「細かいことは気にするな!」
 サイファが落とした呆れ口調の怨言を、マックスは軽く一蹴して豪快に笑った。一方、やはり強引に連れ出されたらしいエリックとティムは、後ろで力なく乾いた笑いを浮かべていた。

 カランカランカラン——。
 マックスが勢いよく扉を開くと、チャイムは急かすように乾いた音を立てる。客は誰もいないようだ。ひとりカウンターにいた白エプロン姿のアルティナは、パッと振り返ると、屈託のない弾けんばかりの笑顔を見せた。
「いらっしゃい、マックス!」
「よっ、アルティナちゃん!」
 マックスは敬礼のようなポーズを取りながら、彼にとっては狭い戸口をくぐって中に入る。そして、続いて入ったサイファの頭をがっちりと抱えて、アルティナに見せた。
「今日はサイファも一緒だぞ」
「お久しぶりです」
 サイファは頭を抱えられたまま、少し苦しそうに、それでも笑顔を見せて挨拶をした。
 アルティナはぽかんと呆気にとられた。
 しかし、その顔はすぐに険しいものに取って代わる。顎を引いてキッとサイファを睨みつけ、両のこぶしを握りしめながら、全身をわなわなと小刻みに震わせた。
「こんの……はくじょーものっっ!!!」
 そう叫ぶやいなや、彼女はカウンターに置いてあったレモンを全力で投げつけた。まっすぐにサイファの顔面を目掛けて飛んでいく。直撃する寸前で、サイファはそれを受け止めた。右手にレモンを収めたまま不思議そうに尋ねる。
「薄情者って僕のことですか?」
「今さら何しに来たのよ!!!」
 傍から見ているとまるで痴話喧嘩のようなやりとりである。マックスもそう思ったのだろう。腕の中のサイファにじとりと訝るような視線を落として尋ねる。
「おまえ、まさかアルティナちゃんに手ぇ出したんじゃねえだろうな」
「そんなことするわけないじゃないですか」
 サイファは苦笑しながら否定した。そうするより他になかった。彼女の怒りにはまったく心当たりがないのである。それでもマックスは信じていないようだった。
「いや、何かはあっただろう。じゃなきゃ……」
「何もないから怒ってるのっっ!!」
 天井に向かって力いっぱい声を張り上げたアルティナに、マックスとサイファは大きく瞬きをして振り向いた。
「また来るって言ってからもう1年よ? ひどいじゃない! せっかくサイファにボトル入れてもらおうと思って、すっごく高いウィスキーを仕入れて待ってたのに!!」
「それは、申し訳ありませんでした」
 サイファは小さく笑いながら肩を竦めて詫びた。いかにも彼女らしい理由にほっと胸を撫で下ろす。マックスもやはりほっとした様子で、「そうだよな」などと言いながら、短い前髪を掻き上げて苦笑していた。
 しかし、アルティナはなおもきつく睨みつける。
「ねえ、サイファ。あなた自分が金づるだって自覚あるわけ? ちゃんとこまめに通ってきて、たくさん飲み食いして、しっかりお金を落としていってよね。当てにしてるんだから!」
 それはあまりにも身勝手で無茶苦茶な言い分だが、彼女が言うとなぜか憎めない。直球で嫌味がないからだろうか。サイファは微笑みながら「はいはい」と軽い調子で返事をした。
 その扱いに、アルティナはムッとして頬を膨らませた。しかし、すぐにパッと表情を晴らすと、カウンターに両肘をついて身を乗り出し、流れるような銀の髪を肩から滑らせながら声を弾ませる。
「じゃあさ、とりあえず今日はじゃんじゃん飲んでくれる? 酔いつぶれるまで!」
「……そうですね、たまにはいいかもしれませんね」
 サイファは口もとに淡い笑みをのせると、小さく独り言のようにそう呟いた。

「ええーっ?! 婚約者が妊娠?!!」
 アルティナはカウンターの中で素っ頓狂な声を上げた。持っていたグラスを落としそうになりながら、混乱したように眉をひそめて尋ねる。
「ちょっと待ってよ、サイファの婚約者って私と同じ年じゃなかった?」
「ああ、だからこれ、相手の父親に殴られたんだとよ」
 マックスは隣に座るサイファの肩に手をまわして抱き寄せると、細い顎を持ち上げて、痛々しく変色した頬をアルティナの方に向けた。
「うわっ、痛そう……でも、殴りたくもなるわよねぇ……」
「まあ仕方ねぇかもな。15じゃまだ結婚もできないしな」
 アルティナが複雑な表情で相手の父親に同情を示すと、マックスもめずらしく真面目に同調した。サイファも同じ気持ちではあったが、張本人が言うべきことではないと判断し、口をつぐんだまま静かにビールを口に運んだ。
「でもちゃんと結婚は認めてもらえたんでしょう?」
「ええ、渋々ですけどね。そもそも僕は婚約者ですし、彼女が16になったらすぐに結婚する予定になってましたので、まだ説得の余地があったのかもしれません」
 それでもまだアルフォンスの怒りはおさまっていない。心情的には認めたくなかったが、様々な状況を鑑みると、認めざるをえなかったというのが実際のところなのだ。
 決め手となったのはサーシャの言葉だったらしい。
 レイチェルの体のことを考えるならば、中絶するよりも産んだ方がいいだろう——彼女はアルフォンスを医務室に呼びつけて、そのような医師としての見解を述べたのである。それは、感情的になっていたアルフォンスに現実を直視させるには十分な内容だった。
「ふーん、こんな状況でもサイファは冷静なのねぇ」
 アルティナはカウンターに頬杖をつき、理解を超えると言わんばかりの口調で相槌を打った。
「ま、自分がやっちゃったことなんだから、オロオロしてる場合じゃないわよね」
「そうですね。きちんと説得しなければ、彼女までも不幸にしてしまいますから」
 そう答えながらも、本当は逆ではないかとサイファは思う。自分のしでかしたことでないから、これほどまでに冷静でいられるのではないだろうか。そして、アルフォンスをまっすぐに見据えることができるのではないだろうか——。
「アルティナ! しゃべってばかりいないで、こっちを手伝いなさい!」
 奥からフェイが大きな声で呼んだ。マックスたちが大量に注文をした料理を作っているのだろう。何かを炒める音、水を流す音、歩きまわる足音などが、慌ただしく重なって聞こえてくる。
「えー、せっかく面白い話をしてるのにぃ」
「遊ぶためにいるわけじゃないでしょう!」
「わかったわよ」
 アルティナは不服そうに口をとがらせてそう答えたが、すぐに気を取り直すと、笑顔でサイファたちに手を振りながら小走りでカウンターの奥へと消えていった。

「しかしなぁ、話を聞いたときは本当に驚いたぜ。何もかもすべて計算づくで行動しているようなおまえが、まさかそんなヘマをするとはな」
 マックスはカウンターに両腕を置いて、遠くを見ながらしみじみと言った。それが何の話であるかは今さら聞き返すまでもない。サイファは緩慢に頬杖をつくと、僅かに顔をしかめて息をついた。
「本当に、どうしようもない馬鹿ですよ」
「まあそんなに自嘲するなって」
 マックスは大きな手でサイファの背中をバシンと叩き、白い歯を見せてニッと笑う。
「俺はちょっと嬉しかったぞ。おまえの人間らしい一面が見られて」
 サイファは頬杖をついたまま、隣のマックスにちらりと視線を流して言う。
「人ごとだと思って気楽ですね」
「まあな。でも、俺にできることなら何でも協力するつもりだぞ。たいして役に立てんかもしれんが、愚痴くらいならいつでも聞いてやれる。こう見えても俺は口が堅いからな」
 マックスは親指で自信たっぷりに自らを指し示す。
「本当ですかね」
 サイファは小さく笑みを漏らしてそう言うと、グラスに両手を添え、泡の少なくなったビールをじっと見下ろした。

「うぉぉおぉん!」
 突如、唸るような太い泣き声が、小さな酒場を揺るがすように響いた。
 カウンター席に座っていたサイファとマックスは、その声のするテーブル席の方に振り返る。泣いていたのはティムだった。小さな机を覆い隠すように突っ伏し、大きな背中を震わせている。その前に座るエリックは、皿やジョッキを隣のテーブルに移しながら、困ったように眉尻を下げていた。
「班長、助けてくださいよ」
「どうしたんだ、そいつ?」
「どうも悪酔いしたみたいで……」
 エリックが説明しようとした途端、ティムはガバッと体を起こした。目元の涙を拭おうともせず、赤ら顔でこぶしを振り回して力説する。
「そりゃ、自分だってわかっていました! いずれはサイファと結婚するんだって……わかってはいたけどよ……だけど、いきなり子供ができたなんて、そんなのあんまりじゃねぇか!」
 それがレイチェルの話であることに間違いはないだろうが、なぜ彼が泣き叫んでいるのかはさっぱりわからない。そもそもティムとレイチェルに面識はなかったはずである。サイファが不思議に思っていると、隣のマックスはニヤリと口の端を吊り上げた。
「おまえ、横恋慕してたのか?」
「そんなんじゃないですっ!!」
 いつもは弱気なティムが、驚くほど強い調子でマックスに言い返した。
「俺にとって、彼女は一点の曇りも穢れもない神聖な存在だった。なのに、こんな……。百歩譲ってサイファになら彼女を託してもいいと思ってたんだぞ! 人の信頼を裏切りやがって!!」
「そう言われても……」
 矛先を向けられたサイファは、言葉を濁して口をつぐんだ。確かに責められるべきことではあるが、ティムに言われるのはどうも筋違いのように思えて、素直に謝る気にはなれなかった。
「まあ落ち着けや」
 マックスが二人の間に割って入り、ティムの肩に大きな手を置いて覗き込んだ。
「確かにあの子は可愛いと思うが、もうちっと現実を見た方がいいぞ。なんだったら何人か女の子を紹介してやろうか。どんな子が好みだ?」
「だからそんなんじゃないんですって!!」
 ティムは再び憤慨して反論すると、胸ポケットから端がボロボロになっている年季の入った写真を取り出した。寂しげな顔でそれを見つめながら、目に涙を溜めて言う。
「彼女への思いは恋愛感情とは別物です。付き合いたいとか、お近づきになりたいとか、そんな畏れ多いことは思っていません。こうやって無垢な笑顔を眺めて彼女のことを思う、ただそれだけで自分は幸せな気持ちになれたんだ」
 マックスとサイファは背後からその写真を覗き込む。そこには10歳くらいのレイチェルが写っていた。アルフォンスと思しき男性に手を引かれているところだ。
「これ、隠し撮りですよね……」
「王宮に来たときに撮ったんだな」
 さすがのマックスもこれには渋い顔になった。まさかこれほど重症だとは思っていなかったのだろう。体を起こして腕を組むと、深く重く溜息をついた。
「ここまでくると、さすがにどうしたもんかと思うな」
「班長! この純粋な気持ちのどこが悪いんですか!!」
 ティムの必死な訴えに、まわりの皆は苦笑するしかなかった。確かに純粋といえば純粋なのかもしれないが、むしろ恋愛感情の方が良かったような気がするのは、サイファだけではないだろう。
「まあティムがどうこうするとは思わんが、中には頭のおかしいヤツもいるかもしれん。逆恨みで襲われる可能性もあるだろう。おまえも婚約者も気をつけろよ」
「ええ、そうですね」
 マックスの忠告にサイファは真面目な顔で頷いた。レイチェルは王宮内の人間に可愛がられている、という話は聞いたことがあったが、まさか神聖視されているなどとは考えもしなかった。それがごく一部の人間であっても用心するに越したことはない。自衛の手段を持っているサイファはともかく、そうでないレイチェルはなるべく外出させない方がいいだろう。何かがあってからでは遅いのだ。

「ねえ、それサイファの婚約者の写真? 見せてっ!」
 どこから聞いていたのかわからないが、アルティナはそう声を弾ませながら、ビールのジョッキと料理を山盛りにした皿を運んできた。それを急いでテーブルに置くと、ティムの肩に寄りかかって後ろから写真を覗き込む。
「あ! 可愛い!! でも、これまるきり子供にしか見えないんだけど……」
「10歳くらいのときの写真ですからね。今はもっと成長していますよ」
 サイファはカウンターのスツールに腰を掛けながら説明した。
「いや、そんなに変わっちゃいないぞ。顔だけなら今でも10歳で通用するな」
「そんな子を襲っちゃうなんて、サイファってやっぱりロリコンだったんだ」
 マックスとアルティナは写真を眺めつつ口々に言った。サイファは思わず苦笑を浮かべる。この状況ではどうにも分が悪い。言い訳をすればするほど不利になるだろう。
「襲ってはいませんけどね」
 独り言のようにぽつりとそれだけ反論するのが精一杯だった。

 サイファはひとりカウンターでグラスを傾けた。
 マックスはテーブル席の方で、エリックとともにティムを元気づけながら飲んでいる。彼の豪快な明るさは十分ティムの救いになるだろう。そのことはサイファ自身が身をもって実感していた。
「サイファ、ちゃんと飲んでる?」
 アルティナはテーブル席にジョッキを運んでカウンターに戻ると、そう尋ねながらサイファのグラスを横から覗き込んだ。あまり減っていないのを確認すると、口をとがらせて恨めしそうにサイファを睨む。
「すみません、本当に強くないんですよ」
「じゃあせめて、コレ、入れてくれる?」
 下の方からボトルを取り出してそう言うと、ニコニコしながら顔の横で掲げて見せる。
「ああ、先ほど言っていたすごく高いウィスキーですか?」
「未開封だから大丈夫だと思うわ。ね? いいでしょう?」
 媚びを売るでもなく、策を巡らすでもなく、ただ単刀直入に身勝手ともいえるお願いをする彼女に、サイファは思わずくすりと笑みをこぼした。
「いいですよ」
「やった! ありがと!! 水割り、作ってあげるわね」
 アルティナはボトルを抱えて無邪気に小躍りすると、長い銀の髪をなびかせながら、グラスを取り出してテキパキと水割りの準備を始めた。その背中に、サイファは声を送る。
「みなさんの分も作ってあげてください」
「ダメよ! これはサイファがひとりで飲んで」
 アルティナはそう言いながら、ボトルを片手に持ったまま顔だけ振り返った。少し口をとがらせて怒ったような表情を作っている。
「どうしてですか?」
「マックスに飲ませたら今日で空になっちゃうわ。それじゃ意味がないの。私はサイファにボトルを入れてもらって、こまめに通ってもらおうと思ってるわけ。金づるを逃さないための作戦よ」
 軽妙にそう言って人差し指を立てるアルティナに、サイファは笑顔を浮かべながら肩を竦めて見せた。たいして飲まない自分を通わせても金にならないのではないかと思ったが、あえてそのことは指摘しないことにした。
 アルティナは水割りを作ると、サイファに差し出しながら言う。
「ね? 私もサイファと乾杯したいな」
「お酒はダメですよ」
 サイファはさらりと窘める。彼女はまだ15歳であり、酒の飲める年齢ではない。これまで飲んだことがあるのかは知らないが、少なくとも自分の前で飲ませるつもりはなかった。
「わかってるって。ジュースにするわよ」
 そんなことは承知していると言わんばかりに、アルティナは歯切れよくそう答えると、冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出してウィスキーグラスに注いだ。
「じゃあ、あらためて……おめでとー!」
「ありがとうございます」
 二人はグラスを掲げて軽く合わせた。少し濁った音が鳴る。
 アルティナはオレンジジュースを一気に呷り、まるでビールでも飲んだかのようにプハァと息を吐くと、空になったグラスを無造作にカウンターに置いた。その様子を目を細めて眺めながら、サイファは静かにグラスに口をつける。
「何かあんまり嬉しそうに見えない。私じゃ不満?」
「そんなことありませんよ」
 酔っぱらいのように絡んでくる彼女に、サイファは落ち着いた口調で返事をした。他意があったわけではないが、その軽くあしらうかのような態度が気に入らなかったのだろう。彼女の機嫌はますます悪くなった。
「じゃあ何? マリッジブルー? 男のマリッジブルーなんて見たくないんだけど! 念願叶って大好きな彼女と結婚できるんだから、もっと素直にパーっと喜べばいいじゃない」
「いろいろと大変なことがあるんですよ」
「でも、それって自業自得でしょう?」
「ええ、そうですね。わかっています」
 彼女の厳しい追及にも、サイファはまるで達観したかのように淡々とした答えを返した。無表情のままグラスを手に取る。しばらくそのまま身じろぎもせずじっとしていたが、突然、勢いよく流し込むようにウィスキーを呷った。
 アルティナは顔を曇らせ、カウンターの上で重ねた手に顎をのせた。
「後悔……してるんだ……」
「彼女とはみんなに祝福されて結婚したいと思っていました。彼女には笑顔で花嫁になってほしかった。僕がもう少し気をつけていれば、こんな事態を招かずにすんだのかもしれません」
 サイファはグラスを静かに戻し、中のウィスキーを見つめながら言う。その視線に耐えかねたかのように、氷が溶けてカランと小さな音を立て、琥珀色の水面に細波が起こった。
 アルティナは少し顔を斜めにして上目遣いで尋ねる。
「もしかして子供が嫌いなの?」
「好きとか嫌いとか考えたことはありませんね。でも、彼女の子供ならきっと可愛いでしょうし、生まれてくる日を楽しみにしていますよ」
「サイファに似ちゃうかもしれないわよ?」
 サイファはふっと小さな笑みを浮かべた。グラスに掛けた指先に力を込め、ゆっくり顔を上げると、優しく目を細めてここではないどこかを見やる。
「どちらに似ても可愛いですよ、きっと」
「そういうこと自分で言っちゃうんだー」
 アルティナはからかうように茶化して言った。彼女には何の意図もなかったのだろうが、そんなふうに笑い飛ばしてくれたことで、サイファの気持ちは少しだけ軽くなった。
「お父さん、かぁ……」
 不意に、アルティナは遠くに思いを馳せるようにぼんやりと呟くと、カウンターの上で腕を組み、そこに埋めるように顔をのせた。彼女には生まれたときから父親がいなかったらしい。それを気にしている様子はこれまで見られなかったが、それなりにいろいろと思うことはあるのだろう。
「サイファはどんなお父さんになるのかしら」
「さあ、想像もつきませんね」
 サイファはまるで人ごとのように答えた。現実を受け止めたつもりではいるが、父親になる実感まではまだ持てずにいた。雲を掴むように捉えどころがなく、考えようとしても何も思い浮かばない。それでも諦めているわけではなかった。
「でも、きちんと精一杯の愛情を注いで育てるつもりではいます。彼女も子供も幸せにしますよ。それが自分の選択に対する責任ですから」
「サイファはきっといい父親になるわ。何かちょっと羨ましいかも」
 アルティナは眩いばかりの笑顔を浮かべてそんなことを言った。その言葉のせいか、アルコールのせいか、サイファの胸は焼けるように熱くなった。

「まさか本当に酔いつぶしちまうとはな……」
「そんなつもりなかったわよ!」
 カウンターに伏せて眠るサイファを見下ろしながら、マックスは深く息をついて腕を組んだ。アルティナはなおも必死になって弁明する。
「だって酔った様子もなくて、顔も赤くなってなくて、全然普通に話してたのよ? なのに急にくてーんって寝ちゃって……。私だってビックリしたんだから!」
 マックスはカウンターに置かれた飲みかけのウィスキーを指さして尋ねる。
「それ、何杯目だ?」
「最初がビールで、次がウィスキーで、そのあとボトルを入れてもらって水割りを作ったのがこれだから……多分3杯目だと思う」
 アルティナは指折り数えながら答える。
 マックスは溜息をつきながら頭に手をやった。
「酒が弱いってのは本当だったんだな。名家の坊っちゃんだから、酔ってみっともないところを見せないように控えてるだけかと思ってたんだが……」
 サイファはいつも弱いと言っているものの、飲んでも見た目上の変化はあまりなく、言い訳だと思われるのも仕方のないことだった。それでもマックスはサイファの意思を尊重し、無理に飲ませるようなことはしなかったのである。
「どうしよう?」
「まあしゃーねーな。俺が送っていってやるさ」
 アルティナが心配そうに尋ねると、マックスは両手を腰に当てて筋肉のついた厚い胸を張った。仕方がないとは言いながらも、どことなく嬉しそうに見える。
「もしかするとガッポリ謝礼をもらえるかもな」
「それはないと思います」
 まるで子供のように短絡的な発想を、エリックは後ろから冷ややかに否定した。しかし、マックスは聞いているのかいないのか、それに反応することはなかった。
「んじゃ、そろそろ帰るか!」
 前を向いたまま威勢よくそう声を張ると、寝ているサイファの頭を軽くポンポンとたたく。それでもピクリとも瞼を動かさず、目を覚ます気配はまったくない。
「おぶっていくんですか?」
「美人は前、巨乳は後ろというのが俺のポリシーだ。美人で巨乳だと悩むところだが、サイファの場合は迷うことなく前だな。いわゆるお姫様だっこというやつだ」
 マックスはニッと白い歯を見せて、太い腕で抱きかかえるようなポーズを取った。エリックとアルティナは呆れた視線を送ったが、それでも彼は一向に気にすることなく、親指と人差し指を顎に添えながら、眠っているサイファに顔を近づけてじっと覗き込む。
「こいつは寝顔も本当に綺麗だな。酔っぱらいとはとても思えん」
「……班長、お願いですから変な気は起こさないでくださいよ」
「おまえは一々くだらん心配をするな! これでも妻子ある身だぞ! 変な気を起こしても実行には移さん!!」
 大きなこぶしを握りしめながら真顔で力説するマックスに、エリックは深く息を吐いて体中から疲れを滲ませた。アルティナも同情するように頷きながら、エリックの肩にポンと手をのせた。

「置いていきなさい」
 不意に聞こえた鋭く冷徹な声。
 マックスたちが振り向くと、奥から仕切りのカーテンをくぐってフェイが姿を現した。声と同様にその表情も厳しい。黒髪をさらりと後ろに払いながら、煩わしそうに気だるく溜息をついて続ける。
「甘やかすことないわ。酒の飲み方も知らない坊やは一度痛い目を見た方がいいのよ」
「相変わらずフェイは厳しいなぁ。こいつ、ちょっといろいろあったらしくてな、参ってるみたいなんだ。今日くらい大目に見てやってくれよ」
 マックスは軽く笑いながらサイファを庇ったが、フェイは同情することなく、さらに表情を厳しくして刺すように睨んだ。
「落ち込んで酒に逃げる人間が一番危険なのよ」
「わかった、わかったよ」
 マックスは顔の横で両手を広げ、ご機嫌ななめの彼女を懸命に宥めようとした。めずらしく腰の引けている彼を、エリックは不思議そうに見上げて尋ねる。
「置いて帰るんですか?」
「フェイは言い出したら聞かねぇんだ。俺も昔、酔いつぶれてきついお灸を据えられたことがある。あのときのことは、今でも思い出すだけで身の毛がよだつぜ」
 マックスは目をつむって強く眉根を寄せながら腕を組んだ。
「それ以来、俺は酒の量には細心の注意を払うようになったってわけさ」
「……いや、とてもそうは見えませんけど」
 エリックの脳裏にはひたすら豪快に飲みまくっているマックスの姿しか思い浮かばなかった。一体どのあたりが気をつけているのかさっぱりわからない。
「でもいいんですかね。ラグランジェ本家の次期当主なのに……」
 まさかこの酒場で彼の身に何かが起こるとは思わないが、名家の一人息子を酔い潰したまま残していくことに、エリックは多少の抵抗を感じた。しかし、マックスの反応はあっけらかんとしたものだった。
「ま、いいんじゃねぇか? こいつも大人なんだし」
 たいしたことではないかのように軽く流すと、残っていたサイファの水割りに手を伸ばし、顔を上に向けて一気に飲み干した。空になったグラスを戻してエリックに振り向く。
「じゃ、俺らは帰るぞ。ティムはどうした?」 
「まだ泣いてますね……」
 エリックはテーブル席を振り返って答えた。そこにはテーブルに突っ伏して嗚咽している大きな体があった。マックスは面倒くさそうに顔をしかめて呟く。
「あいつも置いて帰るか……」
「班長ーっ!!」
 その小さな呟きが聞こえたのか、ティムはガバリと体を起こし、ますます大泣きしながら、あからさまに嫌がるマックスに駆け寄って縋りついた。

 マックスたち三人が帰り、酒場は嵐が去ったように静かになった。
 カウンターで眠っているサイファはそのままにして、アルティナは手際よく後片付けを始めた。食器やグラスを洗い、テープルを拭いて床を掃く。もう他に客がいないため、明日に備えて開店時の状態に戻すのだ。
 一通りの作業を終えると、アルティナはカウンターに伏せているサイファの様子を窺った。結構うるさくしていたにもかかわらず、まだ安らかな寝息を立てて眠りこけたままである。呆れたように溜息をつくと、隣に腰掛け、頬杖をついてじっと観察するように見つめた。殴られた部分は下になっていて見えないこともあり、マックスの言うように、確かに酔い潰れているとは思えないくらい綺麗な顔をしていた。同時に、まるで子供のようにあどけなくも感じられた。
「ねぇ、母さん。サイファどうするの? 居間のソファくらいしかないけど……」
 アルティナは奥で仕込みをしているフェイに尋ねた。彼女は手を拭きながら出てくると、サイファに冷たい一瞥を送って言う。
「そこにそのまま置いておきなさい」
「ここに? だって夜中は冷えるわよ?」
「死にはしないわ」
 フェイは情け容赦なく突き放した。どうなろうと知ったことではないという口調である。アルティナは眉をひそめて母親を見上げた。
「母さん、冷たい……」
「そうじゃないとお灸にならないでしょ。ちやほやされてきたおぼっちゃんには、こうやって放置するのがいちばん効くのよ」
「でも、だからって……」
 そう言いながら、なおも顔を曇らせるアルティナに、フェイはわざとらしく肩を上下させて面倒くさそうに言う。
「女二人だけのところに男を泊めるなんてできるわけないでしょう。それが危険だってことくらい、あなたもそろそろわからなければならない年頃よ」
「サイファはそんな人じゃないわ」
 アルティナはキッと睨んで反論する。それでもフェイは冷淡な態度を崩さなかった。
「店でしか会ったことのないあなたに何がわかるの」
「わかるわよ!」
 強気な光を湛えていた深い紺色の瞳がじわりと潤む。そこには目一杯の怒りと悔しさが滲んでいた。それを横目で見ながら、フェイは壁に寄りかかって腕を組んだ。
「男なんて簡単に信用するものじゃないわ。特に酒に酔った男はね」
「…………」
 アルティナは隣のサイファをちらりと見やる。確かに、酒に酔った男を信用するなという母親の言葉は理解できる。そして、ここにいるのは酒に酔った男だ。だが、それでもサイファは違うのだと、母親の言うような男ではないのだと、そう信じていた。
「ねぇ、アルティナ」
 フェイは低い声で切り出した。呼ばれたアルティナが不安げに顔を上げると、彼女はおもむろに目を閉じて、静かに言葉を繋いだ。
「サイファはやめておきなさい。あなたがつらいだけよ」
 ——バン!
 カウンターに両手を叩きつけて、アルティナは立ち上がった。上目遣いにフェイを睨むその顔は、みるみるうちに、耳たぶまで真っ赤になっていく。
「何よそれ! そんなんじゃない!!」
 腹の底から猛然と抗議をすると、下唇を噛み、くるりと背を向けて全速力で走り出した。居住側の階段を一段とばしで駆け上がり、自分の部屋に飛び込んでバタンと勢いよく扉を閉める。
「そんなのじゃ……ない……」
 月明かりだけが差し込む暗い部屋で、アルティナは自分の言葉を確かめるように口先でそう繰り返すと、閉めた扉に背をつけて崩れるように座り込んだ。体を拾い集めるようにぎゅっと膝を抱え、そこに額をつけて顔を埋める。長い銀色の髪がさらさらと腕を掠めて流れた。
 ——そんなのじゃない、私は、ただ……。
 アルティナはそれに続く言葉を、頭の中で懸命に探した。

 サイファは薄暗い中で目を覚ました。小さな暖色の灯りがひとつだけ自分の上にともっている。それだけの光量でも、ここがフェイの酒場であることはすぐにわかった。しかし辺りには誰もいない。背中には柔らかい毛布が掛けられていた。
 酔って寝てしまったのか——。
 ゆっくりと頭を持ち上げると、それだけでズキズキと痛みが走る。少し気分も悪い。前髪を掻き上げながら、頭を掴むように押さえて顔をしかめる。
 アルティナと話をしていたことは覚えているが、その途中からの記憶がない。醜態をさらしたくらいならいいが、言ってはならないことを口走っていないだろうか——そのことを考えるとぞっとするものの、今はどうすることもできない。杞憂であることをただ祈るしかなかった。
 視線を落とすと、すぐそばに水の入ったコップと錠剤が置いてあることに気がついた。誰かの飲みさしというわけではないようだ。コップの下にはメモが挟まっている。
『二日酔いに効くから飲むように!』
 そこに名前は入っていなかったが、アルティナの書いたものに間違いないだろう。いつも伝票を見ているので彼女の文字は知っているのだ。そのぶっきらぼうな優しさに、思わずふっと笑みがこぼれる。
 サイファは素直にそれを飲んだ。
 一息ついて腕時計に目を落とす。もう朝といってもいい時間だった。そろそろ日も昇ってくるだろう。帰らなければならない。このような状況下において、酒を飲み過ぎたなどという理由で仕事を休めば、どういう噂を立てられるかは目に見えている。これ以上、ラグランジェ家の品位を落とすことは本意ではない。
 サイファはメモの下に『ありがとうございました』と返事を書くと、毛布を畳んでスツールの上に置き、なるべく音を立てないようにそっと外に出た。ゆっくりと閉めた扉の向こうから、カランカランとチャイムが小さく音を立てた。
 ちょうど朝日が顔を出し、空は白みかけている。
 早朝の空気には凜とした冷たさがあった。二日酔いの体には効き過ぎるくらいである。額を押さえて顔を上げると、細い階段を上がり、家路に向かって足を進めた。
「サイファ!!」
 呼ばれたサイファが振り返ると、そこには、酒場からの階段を駆け上がって息を荒くしているアルティナがいた。エプロンこそつけていなかったが、着ている服は昨晩と同じもののようだ。肩幅ほどに脚を開いてしっかりと立ち、膝丈のスカートをギュッと握り、上目遣いでサイファを凝視している。会話をするには少し遠い距離だが、それ以上、彼女は間を詰めようとはしなかった。
 サイファはにっこりと人なつこい笑顔を浮かべた。
「薬、ありがとうございました」
「うん……」
 アルティナは目を伏せて消え入るような声で返事をした。そして、しばらく何か物言いたげに視線を泳がせていたが、やがてキュッと下唇を噛みしめると、手にしていたレモンを大きく腕をまわして投げた。緩やかな弧を描いて手元に来たそれを、サイファは右手で受け止める。
「それも二日酔いに効くからあげるわ」
 アルティナは少し睨むような目つきで無愛想に言った。息を切らせたせいなのか、それとも他の理由なのか、その頬にはほんのりと赤みが差しているように見えた。
 サイファは顔の横にレモンを掲げたまま、柔らかく微笑んだ。
「また行きます、薄情者にならないうちに」
「ヤケ酒は禁止だからね!」
 アルティナは怒ったように苦言を呈すると、不意に目を伏せ、彼女にしてはめずらしく躊躇いがちな弱々しい声で続ける。
「元気、出してね……」
 思いがけない彼女の言葉に、サイファは少し目を大きくした。そして、ふっと表情を緩めて、精一杯の気持ちを伝えるように、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
 その瞬間、アルティナは僅かに目を逸らした。だが、もう一度サイファと視線を合わせると、大きく息を吸って、いつもと変わることのない清々しいくらいに晴れやかな笑顔を見せた。
「じゃあ、またね!」
「ええ、それではまた」
 サイファもいつもと同じように簡潔な言葉を返した。手にしたままのレモンを軽く掲げると、踵を返し、薄い朝靄のかかる帰路に足を進めていく。そのまま、立ち止まることも振り返ることもなく、規則正しいリズムを刻む靴音を、早朝の寂れた街に響かせた。


29. 幸せになるために

 サイファはレイチェルの部屋の前に立ち、軽快に扉を叩いた。
 しかし返事はない。
 耳を澄ましてみるが、静まりかえったまま、物音一つしなければ、気配すらも感じられない。窓の外から届く小鳥のさえずりだけが、やけに大きく聞こえる。
「レイチェル?」
 僅かに語尾を上げて呼びかけると、静かに扉を開いて中を覗き込む。
 ガランとした広い部屋。
 その奥の机で、レースのカーテン越しに降りそそぐ柔らかな光を受けながら、彼女はうつぶせになっていた。背中が小さく上下している。顔は見えないが、おそらく眠っているのだろう。
 サイファは音を立てないように足を進めた。
 教本やノートを広げたその上で、彼女は子供のようなあどけない顔で眠っていた。細い金の髪は透きとおるようなきらめきを放っている。それを目にするだけで、サイファの口もとは自然と緩んだ。彼女の柔らかい頬にそっと指先を滑らせると、耳元に口を寄せて、慈しむような音色で名前を呼ぶ。
「レイチェル」
「ん……」
 レイチェルは眠たそうな声を漏らすと、睫毛を震わせてうっすらと目を開いた。気だるそうに体を起こしながら辺りを窺おうとする。その後ろから、サイファは椅子の背もたれ越しに彼女を抱きすくめた。ふわりと広がった甘い匂いが鼻をくすぐる。
「サイファ……」
 レイチェルは子猫のように目をこすりながら呟いた。そんな仕草も、サイファにはたまらなく愛おしく感じられ、思わずくすっと笑みをこぼした。
「身体には気をつけてね。眠かったらベッドで寝た方がいいよ」
「ありがとう」
 彼女は小さな花がほころんだように愛らしく笑った。だいぶ意識が明瞭になってきたようで、今日が平日であることに気づいたのか、サイファに不思議そうな目を向けて質問する。
「お仕事は?」
「今日はお休み」
 サイファはにっこりと答えた。今は仕事もさして忙しくはなく、また、事情を理解してくれていることもあり、希望をすれば簡単に休暇がとれるのだ。
「レイチェルは勉強していたの?」
「他に、することがないから」
 彼女は少しためらいがちに、しかし笑顔を浮かべてそう言った。
 万が一のことを考えて、彼女にはなるべく家の外に出ないようにと言いつけてあった。敷地外だけではなく、文字通りの家の外、つまり庭にも出ないようにという意味だ。いささか過剰な対応ではあるが、アルフォンスもそれには積極的に同意した。ことレイチェルに関しては、サイファ以上に過保護なのである。
 きっかけは、先日、隠れ家で聞いたティムの話だった。
 彼からはその翌日に平謝りされた。話した内容は事実だが、ずっと誰にも言わず自分の心だけに留めておくつもりだったらしい。まして何らかの行動を起こすつもりなど微塵もない、ということだ。それは嘘ではないだろう。彼のことを疑っているわけではない。1年という期間、一緒に仕事をしてきて、彼がどういう人間であるかはだいたいわかっているつもりである。
 だが、彼以外の誰かがやるかもしれない。
 ラグランジェ家に正面きって喧嘩を売ればどうなるか——王宮に勤めるものであれば、誰しもわかっているはずである。しかし、可能性はほぼゼロに近いだろうが、破滅覚悟ということもありうるのだ。用心するに越したことはない。
 だが、彼女を閉じこめておきたい理由がそれだけではないことも、むしろそれ以上に怖れる理由があることも、サイファは自覚していた。
「ごめんね、しばらくは我慢して」
 少し申し訳なさそうに言いながら、サイファは彼女の側頭部に頬を寄せ、机の上に開いたままになっていた教本とノートに目を落とす。
 そこにはラウルの文字が走っていた。
 家庭教師が教え子の教本やノートに文字を書き入れることは、決して不自然な行為ではない。現にサイファのものにもラウルの書いた文字がたくさん残っている。
 ただ、彼女がそれを開いていたのは——。
 サイファは小さな体を抱きしめる腕に、少し力を込めた。
「ラウルに、会いたい?」
 レイチェルはビクリと体を硬直させた。何も答えないまま、口をきゅっと結ぶ。息さえも止めているようだ。細い指先だけが、膝の上で微かに動いた。
「正直に答えていいんだよ」
 出来るだけ柔らかく、サイファはそう促した。
 レイチェルは僅かにうつむくと、長い沈黙のあと、小さくも明確にこくりと頷いた。間髪入れず、いささか慌てたように言葉を繋ぐ。
「でも、会わない……から……」
「……ごめん」
 サイファは低い声を落とした。彼女の華奢な肩に顔を埋めると、抱きしめる腕にさらに力を込める。縋りつくように、逃さないように、縛り付けるように——。
 その枷に、レイチェルは小さな手を重ねた。
「私、お母さまにお茶を淹れてもらってくるわ」
「……いや、今日は長くいられないんだ」
 ほのかな温もりに心が融けていく。本当はずっといつまでもここにいたいが、そういうわけにはいかない。サイファは体を起こしてやんわりと断ると、不思議そうに小首を傾げるレイチェルに微笑み、その頭にぽんと手をのせた。
「祖父にお願いしないといけないことがあってね」
「ルーファス前当主に……? 何を……?」
「僕たちが幸せになるために必要なこと」
 サイファは努めて明るく言った。しかし効果はなかったようだ。彼女は何か言いたげに小さな口を開くものの、一言も発することなく目を伏せて深くうなだれる。その表情は明らかに自分自身を責めているものだった。
「心配しなくても大丈夫だから」
 サイファは優しく元気づけながら、隣に膝をついて覗き込む。
 蒼の瞳は不安定に揺れていた。
 それでも、彼女は幼い表情をきゅっと引き締め、真摯な眼差しを返して尋ねる。
「私は、何をすればいいの?」
「……嘘を、つき続けて」
 少し考えた後、サイファは答えた。
 それを15歳の少女に強要するのは酷かもしれない。しかし、他のことはサイファが可能な限り手を打つとしても、それだけは彼女自身がやるしかないのだ。失敗は決して許されない。彼女もそのことはすでに理解しているのだろう。決意を秘めた面持ちで、その重みを受け止めるようにゆっくりと頷いた。

 飾り気のない地味な黒ワンピースに、控えめなフリルの白エプロンという、典型的な身なりのメイドに案内され、サイファはやや古めかしい応接間の扉の前に立った。いつもより力を込めて、その扉をゆっくりと二度叩く。
「入れ」
 扉越しにも威圧感のある声が、端的に命令を下す。
 サイファは扉を開き、一歩、足を踏み入れた。そこで深々と一礼して背筋を伸ばす。
「ルーファス前当主」
「堅苦しい挨拶はなしにしよう」
 言葉を継ごうとしたサイファを遮り、ルーファスは自分の座るソファの向かいを勧めた。サイファは再び一礼して、示された革張りのソファに腰を下ろすと、眼前の男をじっと注視する。彼は鷹揚に背もたれに身を預けていたが、その姿には貫禄と風格があり、また、体勢にもまったく隙は感じられなかった。
 油断ならない——。
 とうの昔からわかっていたことだが、彼と対峙するといつも、そのことをあらためて実感させられるのだ。
「おまえが私のところへやってくるのは、何か頼みごとがあるときくらいだな」
 ルーファスはどこか楽しげな声音を響かせると、口角を上げ、すべてを見極めるような抜かりのない視線をサイファに向けた。
 体中が竦むような感覚。
 サイファは唇を引き結んだ。それでも退くわけにはいかない。毅然とした表情の下に戦慄を押し隠し、単刀直入に切り出す。
「私を近くラグランジェ本家の当主にしてください」
 ルーファスの目が少し大きくなった。それは、単なる驚きというより、感嘆といった方が近いかもしれない。鼻から小さく息を漏らすと、抑揚のない低い声で尋ねる。
「なぜそれほどまでに急ぐのだ」
「父は……リカルド=キースは、当主の器ではありません」
 サイファは臆面もなく答えた。
「私を見くびっているのか」
 鋭い眼光がサイファを貫く。それが本当の理由ではないことを、ルーファスはすぐに見透かしたのだろう。だが、それも想定済みである。サイファは狼狽することなく落ち着きはらって続ける。
「事実には違いないでしょう」
 ルーファスは険しい表情を崩さなかった。眉を寄せたまま睨み続けている。そして暫しの沈黙の後、ゆっくりと口を開いて言う。
「おまえの思考はいつも理路整然としている。それゆえに読みやすい。だが、このところはどういうわけか必然性のない暴走が続いている。とち狂ったのかとも思ったが、実際に会ってみると以前とまるで変わっておらん。むしろ以前より聡明さを増しているようにも見える。そんなおまえが、くだらん失敗をしたり、考え無しの行動をとることはないだろう。そうなると考えられることは一つだ」
 そこで言葉を切ると、サイファの瞳を奥底まで探るように見つめる。
「私の理解を超えるところで、おまえは何らかの計略を巡らせている……違うか?」
 静かだが威圧感のある声で尋ねられ、それでもサイファは少しも怯むことなく、ふっと薄く笑みを浮かべた。
「たとえそうだとしても、訊かれて素直に答えると思いますか」
「答えなければ当主の座を認めない、と言ったらどうする」
 ルーファスは悠然と肘掛けに頬杖をつきながら問いかける。
「あなたはそれほど小さな人間ではないでしょう」
「長く権力を手にするものは、皆、慎重なものだ。私とて例外ではない」
「だとしたら、答えたとしても認められることはなさそうですね」
 サイファは爽やかに笑って言った。
 しかし、ルーファスの表情はピクリとも動かなかった。ただ、全てを見透かすような青い瞳でじっとサイファを見据えている。そこには攻撃的な強い光が宿っていた。
「下手なハッタリだな」
「さあ、どうでしょう」
 互いに正面から視線をぶつけ合い、絡め合い、探り合う。
 息の詰まるような、長い、長い沈黙。
 その重苦しい空気に押しつぶされないよう、サイファは気を張って耐える。先に目を逸らせたら、口を開いたら負けだと思った。だが、それは浅はかな考えであることを知る。
「いいだろう」
 ルーファスが静寂を破った。
「今すぐというわけにはいかんが、結婚式と同時に就任ということで手を打とう」
「ありがとうございます」
 サイファはその場で頭を下げる。しかし、これが礼を述べる類のものでないことは理解していた。ルーファスは負けたわけでも譲歩したわけでもない。挑戦状を叩きつけたのだ。ここからが戦いの始まりなのだろう。彼の獰猛さを増した瞳がそれを物語っていた。
「ただし、リカルドはおまえが説得しろ」
「たやすいことです」
 サイファは無感情に答えると、立ち上がって一礼し、静かに応接間を後にした。

 入れ替わりに、別の扉から大きな体が応接間に入る。無言で足を進めると、先ほどまでサイファが座っていた場所に腰を下ろし、深く溜息をついた。
「これを聞かせるために私を呼んだのですか?」
「面白かっただろう?」
 ルーファスは口の端を吊り上げた。
「悪趣味ですね」
 アルフォンスは腕を組んで窓の外に目を向けた。
 すぐに、ルーファスの妻が二人分のチーズケーキと紅茶を運んできた。そのケーキはアルフォンスが手土産として持参したものである。
「このチーズケーキはなかなか美味しいですよ」
 アルフォンスの機嫌はもう直っていた。嬉々として子供のように頬張る彼の姿を見て、ルーファスは呆れたように眉をひそめながらも、勧められるまま一欠片を口に運ぶ。
「……甘いな」
 ぼそりとそう呟くと、フォークを置き、ストレートの紅茶を口に運んだ。
 アルフォンスはゆっくりと手を止めた。
「あなたも、サイファには随分と甘いですね」
「不服のようだな」
 淡泊な口調でそう聞き返すと、ルーファスはティーカップをソーサに戻し、皮の擦れる鈍い音を立てながら、背もたれに深く身を預けた。
 アルフォンスはうつむいたまま答える。
「不思議に思っているだけです。ラグランジェ家の品位を貶めたサイファに何の罰も与えず、婚姻を認め、さらにあの若さで当主にするなど……」
「それだけの価値があるということだ」
 ルーファスは答えた。それは全ての疑問に対する簡潔明瞭な答えである。それでもアルフォンスは感情的に受け入れがたく、眉間に皺を寄せ、迷いを含んだ複雑な顔を見せていた。
「おまえは自分の娘のことがあるせいで冷静に考えられないのだろう。あの二人の子供は、ラグランジェ家の飛躍のためには必要な存在だ。この調子で10人くらい作ってほしいものだな」
 愉快そうにそんなことを言うルーファスを、アルフォンスは抑えきれない反感を滾らせながら凝視した。彼に自覚はなかったものの、それは睨んでいるとしかいいようのない眼差しだった。
「気に入らんか」
「いえ……」
 感情を抑えた声を落とすと、奥歯を噛みしめて目線を外す。彼は、勝算のないものに真っ向から対立するほど無謀ではなかった。
 ルーファスは冷たく目を細めた。
「おまえはレイチェルにいつまでも無垢な子供のままでいてほしかったのだろう。だが、そんなものはとうになくなっていたのだ。あの子はおまえの願いを酌み取って、そういう振る舞いを続けていたにすぎん」
「子供を演じていたと?」
「おそらく無意識だろうがな。レイチェルは他人が自分に望むことを敏感に感じ取り、それに応えようとするところがある。サイファは彼女におまえとは違うものを求めたのだろう。それが女か、共犯か、それとも他の何かかはわからんがな」
 そう言うと、彼は窓越しに遠くの空を仰ぎ見た。端整な横顔に柔らかな陽光が降りそそぎ、その立体感をよりいっそう際立たせている。
 アルフォンスは僅かに顎を引いた。
「だからといってサイファの行為が正当化されるわけではない」
「感情に流されて目を曇らせるなということを忠告しただけだ」
 ルーファスは空を眺めたまま素っ気なく答える。アルフォンスのことはあまり眼中にはないような素振りだった。おそらくはサイファのことを考えているのだろう。彼に入れ込む理由はわからなくはない。だが——。
「リカルドは良い傀儡だ、と言っていませんでしたか?」
 その問いかけで、ルーファスはようやく視線を戻した。ゆっくりとアルフォンスに向き直ると、深く息をついて答える。
「ああ、だが表に立つ者として、あまりにも威厳がなさ過ぎる。サイファの言うように当主の器ではない。ただ従順なだけが取り柄の出来損ないだ。人の好さで皆に好かれてはいるようだが、ラグランジェ家は畏怖される存在でなければならない。そろそろ打開策を考えねばと思っていたところだ」
 重く厳しい口調で述べると、その身を深くソファに沈め、小さく眉をひそめて続ける。
「とはいえ、他の子供たちもリカルドと変わらんからな」
「性格はみんな母親似ですね」
 リカルドには弟と妹が一人ずついるが、三人とも優しく穏やかな性質で、そのためかきょうだいの仲も良かった。しかし、そんなことは、ルーファスにとっては何の評価にもならないのである。
「性格だけではなく、頭脳も、魔導の能力もだ」
 返す言葉の端々に、抑えきれない苛立ちが覗いていた。
「あいつは妻としては従順で申し分ない女だが、子供の母親としては物足りなかった。その点、シンシアは優秀だ。あれを選んだ私の目に間違いはなかっただろう。彼女の聡明さを、サイファは受け継いだのだからな」
 ラグランジェ本家の次期当主は10歳になるまでに婚約者を定められる。当然ながら本人が選ぶことはできない。そんな事情もあり、ルーファスは、親に押しつけられた妻よりも、自らが選んだシンシアの方を誇りに思っていた。それは、これまでも幾度となく本人が口にしてきたことである。彼はさらに調子に乗って続ける。
「おまえの娘の潜在能力も素晴らしいぞ。私の子供を産ませたいくらいだ」
 耳を疑う言葉が聞こえた。アルフォンスは頭の中が真っ白になり、即座に反応できなかった。膝に置いたこぶしを、青筋が立つほど強く握りしめ、低く震える声を絞り出す。
「冗談にしては、度が過ぎます」
「安心しろ、手を出したりせん」
 ルーファスはさらりと流した。
 彼の倫理観は、アルフォンスのそれとは大きく乖離している。必要があれば、そのくらいのことは何の躊躇もなく実行するだろう。だが、今回のことに関しては単なる例え話であり、願望はあるのだろうが、少なくとも現時点では本気ではなかったようだ。いまだに許しがたい気持ちは燻るものの、しつこく食い下がることに意味はないと思い、昂ぶった感情を抑えて話を本筋に戻す。
「サイファが何を考えているかわからないのに、当主に据えて良いのですか」
「退屈していたところだ」
 ルーファスは含みを持った薄笑いを浮かべる。
「リカルドと違って、あいつは素直に言いなりにはならんだろう。対立は必至だな。おまえはどちらにつく? 私か、サイファか」
 挑発的に問いかけられ、アルフォンスはごくりと喉を鳴らした。少し考えてから、額にうっすら汗を滲ませつつも、今の気持ちを正直に答える。
「中立でいさせてください」
 ルーファスはフッと鼻先で笑った。
「今はそれでもいいだろう。だが、どちらかを選択しなければならないときが、いずれ来るかもしれん。覚悟だけはしておけ」
「……楽しそうですね」
 その声には無意識に角が立った。しかし、気づいているのかそうでないのか、ルーファスはまるで気に掛ける様子もなく、不敵に笑みを浮かべて答える。
「ラグランジェ家の幸福ために必要なことを為そうとしているだけだ」
 その言葉をどこまで信じていいのか、アルフォンスには判断がつきかねていた。

「父上、ラグランジェ本家当主を退いてください」
「……え?」
 向かいに座るサイファの露骨な要求に、リカルドの目は点になった。思考が停止したのか、短い一言を発したきり、蝋人形のように固まって動かない。
 同席していたシンシアは、鋭く険しい視線を向けて追及する。
「理由を言いなさい」
「ラグランジェ家のためには、その方が良いと判断しました」
「私を見くびらないでちょうだい。本当の理由を言いなさい」
 眉を吊り上げて語気を強める彼女を見て、サイファはフッと小さく笑った。その小馬鹿にしたような態度に、彼女はますます怒りを露わにする。
「何がおかしいの?!」
「ルーファス前当主と同じことをおっしゃるので、つい」
 厳しい一喝にも動じず、サイファは人当たりの良い笑みを浮かべながら、小さく肩を竦めて答えた。
 それを聞いた瞬間、シンシアはハッと息を呑んだ。
「まさか、サイファあなた……」
「はい、すでにルーファス前当主の承諾はいただいてきました」
 サイファはさらりと答える。
 シンシアの双眸に非難の色が浮かんだ。言いたいことはたくさんあったのだろう。だが、それらは胸に押しとどめたまま、ただひとつ重要なことだけを尋ねる。
「ルーファス前当主は……何と、おっしゃったの?」
「レイチェルとの結婚式と同時に就任だそうです」
「父が承諾しているのなら、私に反対する理由はないよ」
 それまで二人のやりとりを見守っていたリカルドが、冷静に意見を述べた。
「あなた……」
「確かに私よりサイファの方が当主に向いているからね」
 悲しげなシンシアを宥めるように、彼は人の好い笑顔で、ごく自然にそんなことを付言する。そこからは悲嘆も自嘲も感じられなかった。あらためて真面目な顔になると、サイファを見つめて続ける。
「だけど、おまえはそれでいいのか? 当主といってもラグランジェ家を思いどおりに動かせるわけではないんだよ。何かと煩雑なことも多い。私にはシンシアがいるので助かっているが、今のレイチェルではまだおまえの助けにはならないだろう」
「わかっています」
 そんなことは以前から理解していたし、覚悟もしていた。今のような状況にならなかったとしても、いずれ当主になることは決まっていたのだ。多少、その時期が早まっただけのことである。
「サイファ、あなたはレイチェルを守るために、出来る限りの力を手に入れようとしているのね?」
 シンシアは静かに言う。
 思いもよらなかった鋭い洞察に、サイファは目を大きくした。薄く微笑んで溜息をつくと、「母上には敵いませんね」と言いながら、両の手のひらを上に向けて見せる。考えのすべてを見透かされたわけではないが、それでも事情も知らずにここまで言い当てた母親には、素直に感服するより他になかった。
「あなたが責任を感じて、彼女を雑音から守ろうとする気持ちはわかるわ。けれど、そんな個人的事情で当主になろうとするのは間違っている。別の方法を考えなさい」
 彼女の言い分はもっともだった。反論の余地はない。だが、自分が間違っているとわかっていても、ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
「申し訳ありません。しかし、この決定を覆すつもりはありません。私は当主になります。ラグランジェ本家当主として、年齢や経験不足を言い訳にせず、父上や母上以上に良い仕事をすると誓います」
「わかった」
「リカルド……」
 シンシアの声には同情が滲んでいた。
「父が承諾しているんだ。決定事項だよ。それに、レイチェルを守りたいというサイファの気持ちを尊重してやりたいとも思う」
 リカルドは優しく包み込むように微笑んだ。観念したのか、シンシアはもう何も言わなかった。
「ありがとうございます」
 サイファは淡々と礼を述べると、精一杯の感謝を込めて深々と頭を下げた。長くはない金色の髪がさらりと頬を撫でる。ふと目元が熱を帯びていくのを感じた。
 また、両親を裏切ってしまったのかもしれない。
 それでも後には引けないのだ。
 レイチェルと生まれてくる子供を守るため、出来る限りの手を打っておかなければならない。単に誹謗中傷を軽減するためならば、ここまではしなかっただろう。それよりももっと懸念すべき重大なことがあるのだ。
 子供の髪と瞳が、ラグランジェ家としてはありえない色になるかもしれない——。
 ラグランジェ家の人間は誰しも、これまで例外なく青い瞳と金色の髪を持っていた。それは一族のみで子孫を繋いできた結果であり、ラグランジェ家の誇りでもあった。
 だが、違う血が混じれば、その伝統も崩れる。
 さらに悪いことに、ラウルの瞳も髪も濃色であり、遺伝的にはレイチェルのものより強い。つまり、子供の髪や瞳の色は、ラウルのものに近くなる可能性が高いのだ。
 もし、そうなったら——。
 彼女と子供を守りきれるだろうか。いや、守らねばならない。そのためにここまでのことをしているのである。弱気になりそうな自分を心の中で叱咤すると、サイファは小さく息をつき、表情を凜と引き締めて顔を上げた。



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