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22. プレゼント

「誕生日プレゼント?」
 レイチェルはきょとんとして小首を傾げた。いつもの指定席に座ったまま、両手をダイニングテーブルの上に置き、向かいのラウルに不思議そうな視線を送る。
「そうだ。おまえからはもらったが、私は何もやっていなかっただろう」
「そんなこと気にしなくてもいいのに」
「そういうわけにはいかない。誕生日パーティに出席したのだからな」
 ラウルは真剣な顔で言った。
 彼女の誕生日から二日が過ぎてしまったこともあり、少し迷っていたが、結局やはりプレゼントくらいは贈るべきだという結論に達したのである。そうしないことには自分の気持ちも治まらない。そこにはサイファへの対抗心も少なからずあったと思う。
「何か欲しいものはあるか?」
「別にないけど」
 レイチェルはあっさりと言う。しかし、それではラウルが困るのだ。
「何かひとつくらいはあるだろう」
「うーん……そうね……紅茶が飲みたいわ」
 レイチェルは少し考えてから答えた。はぐらかしたわけではなく、思ったまま素直に言っただけなのだろう。確かに彼女の欲しいものには違いない。だが、ラウルの求めていた答えとは違う種類のものだ。
「わかった、今から淹れてやる。ただし、これはプレゼントとは別だからな」
 ラウルはそう前置きしてから立ち上がった。

 芳醇な香りの紅茶に、ふんわりと甘いケーキ——。
 それらをレイチェルの前に差し出すと、彼女は待ちきれないとばかりに顔を綻ばせた。いただきますと行儀よく言ってから、紅茶をひとくち飲み、続けてケーキを口に運ぶ。その幸せそうな笑顔を眺めながら、向かいのラウルもフォークを手に取った。
 いつもと変わらない優しく穏やかな空気が二人の間に流れる。
 だが、先ほど中断した話のせいか、今日のラウルは心から落ち着くことはできなかった。機を窺いつつ、その話を切り出す。
「それで、誕生日プレゼントのことだが……」
「ラウルにはいつもお茶を飲ませてもらっているし、それで十分よ」
 レイチェルはティーカップを両手で持って微笑む。
「いや、それでは私の気がすまんのだ。遠慮はするな。何でも欲しいものを言え」
「そう言われても……」
 彼女は困ったように眉を寄せて口ごもった。
 それを見て、ラウルはようやく気がついた。自分の行為はただの身勝手な気持ちの押しつけにすぎない。彼女が望んだわけでもないのに、答えを強要する権利などないのだ。彼女を困らせるのは本末転倒である。諦めるしかないと思った、そのとき——。
「あ、だったらラウルが考えて」
 レイチェルはパッと顔を輝かせ、胸元で両手を合わせた。
 ラウルには彼女の言わんとすることがわからなかった。怪訝に眉をひそめると、無言で問いかけるような視線を送る。
「ラウルが私のために選んでくれたプレゼントが欲しいの」
 レイチェルはにっこりと微笑んで言い直した。そして、ちょこんと首を傾げると、大きく瞬きをして続ける。
「考える時間は二日でいいかしら。あまり長く時間をとっても、ラウルが大変になると思うの。二日で考えつかなかったら、そのときはプレゼントは無しにしましょう」
「……ああ、わかった」
 ラウルは一方的な提案に動揺しつつも、何も言い返すことなく了承した。
「じゃあ、楽しみにしているわね」
 そう言って、レイチェルは屈託のない笑顔を見せた。少し残っていた紅茶を飲みきると、椅子から立ち上がり、じゃあねと小さく手を振りながら部屋を出て行った。

 物音ひとつしない静寂の中、ラウルは両手で頭を抱え込んでダイニングテーブルに突っ伏した。長い焦茶色の髪が、丸くなった背中からさらりと滑り落ちていく。
 自分で考えて選べだと——?
 そんなことが出来るくらいなら、初めから尋ねたりはしない。出来ないから尋ねているのだ。相手の喜びそうなものを察する能力など、あいにく持ち合わせていないのである。
 それにもかかわらず、レイチェルはとんでもない難題をふっかけてきた。もちろん彼女に悪意がないことはわかっている。しかし、だからこそ、そんな無邪気な彼女を少し憎らしく思った。

 ラウルは気持ちを落ち着かせようと、紅茶を淹れ直し、再びダイニングテーブルについた。しかし、紅茶には手をつけないまま、腕を組み、目を閉じ、身じろぎもせずじっと考える。
 無難なところでは花束か——。
 彼女に贈るとなればピンクローズ以外に考えられない。それが彼女に最も似合う花であり、また、彼女自身も気に入っている花だ。しかし、それではサイファと全く同じになってしまう。花の種類が違うのならまだしも、種類まで同じのというのは、さすがにありえないだろう。
 花以外となると何が——。
 彼女の好きなもの、興味のあるものを贈るのが筋だろうが、それが思いつかない。
 紅茶とケーキは好きなようだが、毎日のように出しているものを改めてプレゼントなどということはおかしい。茶葉であればと思ったが、彼女は自分で茶を淹れたことがないと言っていた。自分でどうにも出来ないものをもらっても、あまり嬉しくはないだろう。
 ラウルは紅茶を口に運んで溜息をついた。
 再び目を閉じて、彼女の部屋の様子を思い浮かべてみる。そこは、広くはあるが殺風景なくらいに簡素で、これといって彼女の趣味や好みが窺えるようなものはなかった気がする。
 思えば、自分は彼女のことを何も知らなかったのかもしれない。好きなものも、嫌いなものも、興味のあるものも、あらためて考えてみるとほとんど思いつかない。サイファならば彼女のことを何でも知っているのだろうか。
 ラウルは眉根を寄せて頬杖をつくと、深く盛大に溜息を落とした。
 今からこんなことでは先が思いやられる。約束の期限は二日後。それまでに何としても用意しなければならないのだ。彼女へのプレゼントを——。

 翌日——。

「何か考えついたの?」
 授業を終えたレイチェルは、手を伸ばして教本を片付けながら、楽しそうに浮かれた声で尋ねた。一方、彼女の斜め後ろに座るラウルは、腕を組んで苦渋に満ちた表情を浮かべている。
「まだ考えているところだ」
 昨晩は一睡もしなかった。とても眠れるような心境ではなかったのだ。一晩中ずっと考えていたものの、これといって進展はなく、いつまで経っても結論に辿り着けない。そのうちに、いつのまにか思考が別の方に向かってしまい、そんな自分の不甲斐なさに落ち込んだりもした。
 レイチェルはくすりと小さな微笑みを浮かべた。
「行きましょうか」
「少し待て」
 ラウルは細い肩に手を置いて、立ち上がろうとする彼女を制した。そして、代わりに自分が立ち上がると、振り返って部屋をぐるりと見渡す。
 やはり殺風景だ。
 それでも何か少しでも手がかりがないかと、その広い部屋をゆっくりと歩きまわる。
 目立つものは天蓋付きのベッドだ。しかし、これは彼女の趣味というわけではないだろう。万が一そうだとしても、こんなベッドは二つもいらないはずだ。枕にしても布団にしても一つあれば十分である。
 それ以外でめぼしいものといえば、大きめの本棚くらいである。ラウルの背丈と同じくらいの高さがあり、横幅もラウルの片腕ほどの長さはある。ラウルはその前で立ち止まると、上から下までじっくりと眺めていった。若い女性が好みそうな小説などはひとつもなく、固い内容の書籍ばかりが並んでいる。経済学や経営学、経済法などの、経済に関するものが多いようだ。
「おまえ、経済に興味があるのか?」
「それはほとんどお父さまが買ってきたものよ。あとは経済学の授業で使った本がいくつか。一応すべて読んだけれど、別に興味があるってわけじゃないの」
 一筋の光明が見えた気がしたが、すぐにそれは断たれてしまった。
 それ以外には特にこれというものはなく、結局、何の手がかりも見つけられなかった。すべてを見たわけではないが、さすがにクローゼットや引き出しの中まで覗くわけにはいかないだろう。
「ラウル?」
 先ほどまで椅子に座っていたはずのレイチェルが、いつのまにか隣に立っていた。心配そうに顔を曇らせて覗き込んでいる。
「ああ、行くか」
 ラウルは我にかえってそう言うと、教本を脇に抱え、彼女とともに部屋を後にした。

 二人の前には紅茶とケーキが置かれている。
 レイチェルは嬉しそうにケーキを食べていたが、ラウルは紅茶に少し口をつけただけで、腕を組んで目の前の彼女を見つめながら、じっと考え込んでいた。
 彼女の好きなもの、興味のあるもの——。
 今度は彼女の姿から手がかりを探す。最初に目についたのは、後頭部に付けている薄水色の大きなリボンだった。ラウルが知る限りでは、彼女はいつも同じリボンをつけている。おそらく気に入っているのだろう。
 リボンがいいかもしれない、と思う。
 しかし、すぐにその間違いに気がついた。彼女がこのリボンを気に入っているのだとすれば、別のものを贈っても仕方がない。今のリボン以上に気に入るものを選べばいいのかもしれないが、それがわかるくらいならば苦労はしない。今のものとそっくりなものにすれば、とも考えたが、誕生日プレゼントがスペアなどどう考えてもおかしい。
 ラウルは小さく溜息をつき、ティーカップを持つ彼女に目を向けた。
 ドレスはたくさん持っているようだ。似たような雰囲気のものが多い。それゆえ彼女の好みそうなものは何となく想像がつく。ドレスについての細かいことはわからないが、そのあたりは店の人間に任せればいいだろう。今から作り始めてはいつになるかわからないが、そのくらいは待ってもらえばいい。もうすでに誕生日は過ぎているのだ。一週間や二週間遅れたところでたいした違いではない。
 問題は、採寸をどうするかだ。
 彼女に気付かれないように採寸するのは不可能だ。目測なら何とかなるだろうか。しかし、彼女は平均からだいぶ離れた体型をしている。どうにも当たりがつけづらい。
「……何?」
「いや……」
 レイチェルにきょとんと尋ねられて、ラウルは慌てて視線を外した。
 やはりどう考えても無理がある。ドレスとなると細かく正確に採寸しなければならないはずだ。目測でどうにかなるものではないだろう。だからといって採寸させてくれとは言いにくい。理由も告げずにそんなことを頼んではただの変態である。いや、何も自分が採寸することはない。店で採寸してもらえばいいのだ。そうなると、プレゼントをする前に一緒に店に行くことになる。事前にあまり手の内を明かしたくないが、他に方法もないので、ここは妥協するしかないだろう。
 そこまで考えてふと思った。
 ドレスというのはどこに行けば買えるのだろうか——。
 そういう店にはこれまでまったく縁もなく、ラウルには見当もつかない。今どき日常的にドレスを着ている人間などそう多くはない。当然ながら扱う店も多くはないだろう。また、あまり頻繁に売れるものでないとすれば、専業で店を構えている可能性は低いのではないだろうか。サイファに訊けばわかるかもしれないが、それだけはどうしてもしたくなかった。
「ラウル、食べないの?」
「ああ、食べる」
 不思議そうに小首を傾げるレイチェルに、ラウルは抑揚のない声で答えた。組んだ腕をほどいてフォークに手を伸ばす。美味しいはずのケーキだが、このときばかりはほとんど味を感じなかった。

「ねー、ラウルいないの?!」
 レイチェルが帰ったあと、ラウルが医務室の自席で頬杖をついていると、外から大きな呼び声が聞こえた。それと同時に、ドンドンドンと急かすような速いテンポで乱暴に扉が叩かれる。
 普段は診療を受け付けている時間だが、今日はすでに鍵をかけてあった。
 いつもほとんど患者が来ないこともあり、どうせ来るのはサイファくらいだろう高をくくっていたのである。今は彼の相手をするより、静かにひとりで考えたかったのだ。しかし、この声はサイファではなく女性のものである。随分となれなれしい言い方をしているが、ラウルは誰だかわからなかった。
 鍵を外して扉を開ける。
 そこに立っていたのは、白衣を着た小柄な女性、王宮医師のサーシャだった。同じ立場ということもあり、会議などで顔を合わせることはあるが、仕事以外の話はしたことがない。わざわざラウルの医務室を訪ねてきたのも初めてのことである。
「何だ?」
「報告書、出てないって」
 サーシャはラウルを見上げて、ぶっきらぼうに言った。白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、仏頂面で面倒くさそうに続ける。
「期限はきのうだったよ」
「わかっている」
 王宮医師は月ごとに活動報告書を提出することになっている。その今回の期限は、彼女の言うように昨日だったのだ。午前中に報告内容はまとめてあったのだが、レイチェルのプレゼントのことで頭がいっぱいになってしまい、提出するのをすっかり忘れていたのである。
「じゃあね、伝えたから」
「待て」
 素っ気なく立ち去ろうとするサーシャを、ラウルは肩を掴んで引き留めた。
「……何?」
 サーシャは思いきり眉をひそめ、あからさまに嫌そうにラウルを睨んだ。もともと愛想のいい方ではないが、今日は一段と機嫌が悪そうに見える。ラウルのせいで面倒なことを押しつけられたせいかもしれない。
 しかし、今のラウルにはそんなことを気に掛ける余裕もなかった。
「おまえ、プレゼントに何が欲しい」
「え? くれるの?」
「やらん。参考にするだけだ」
 目を丸くして聞き返したサーシャに、ラウルは無表情で冷たく答えた。彼女に対する配慮などまるでない身勝手な言い方である。サーシャは呆れたようにじとりとした視線を向けた。
「私の答えじゃ参考にならないと思うけど?」
「いいから言え」
「現金」
 あまりにも想定外の答えに、ラウルは無表情のまま固まった。
「……現金以外だ」
「じゃあ、ダイヤかなぁ。高く売れるし」
 サーシャは斜め上に視線を流しながら、少しとぼけたように言う。
 ラウルは深く息を吐きながら肩を落とした。
「……おまえに聞いたのが間違いだった」
「だから参考にならないって言ったじゃない」
「そうだな」
 面倒くさそうにそう答えると、前髪を掻き上げて額を押さえる。同じ女性であれば何か参考になることがあるのではないかと思ったが、サーシャとレイチェルはあまりにも違いすぎた。藁にも縋る思いだったとはいえ、完全に縋るものを間違えてしまったと思う。
 ラウルは足を引いて医務室に下がろうとしたが、そのときサーシャが何か意味ありげに笑っていることに気がついた。口もとに手を当てて、上目遣いでラウルを見ながらニヤニヤしている。
「何だ?」
「もしかして、恋、しちゃった?」
 ラウルの息が止まった。大きく目を見張ったまま呆然とする。思考が停止してしまい、何の答えも返すことができなかった。しかし、サーシャはそれを肯定と受け取ったようだ。嬉しそうに一人で頷きながら声を弾ませる。
「うんうん、そうか、ラウルも人間らしいところあるんだ」
「お、まえ…………」
 ラウルは唸るような低い声でそう言うと、氷のような目で威嚇するように睨み下ろした。その視線だけで、蛇に睨まれた蛙のように、サーシャはビクリと体を強張らせた。引きつった笑顔を見せながら、それでも軽い口調を装って言う。
「やだ、もう、そんな怖い目で睨まないでよ」
「もういい、行け」
 ラウルは吐き捨てるようにそう言うと、医務室に引っ込んで扉を閉めかけた。
 そのとき——。
「プレゼント、何でもいいと思うよ」
 落ち着いたサーシャの声が耳に届いた。思わず手を止めて顔を上げる。少し離れたところで、彼女は僅かに微笑んでいた。それはからかうような表情ではなく、優しく見守るような表情だった。
「相手がラウルのことを好きなら何をもらっても嬉しいし、嫌いなら何をもらっても不快だし」
 彼女は真面目に身も蓋もないことを言った。
 ラウルは視線を落とし、奥歯を噛みしめる。サーシャの言うことはわかっていた。レイチェルはきっと何でも喜んでくれる。笑顔でありがとうと言ってくれる。それでも、下手なものは贈れないと思ってしまうのだ。それは自分の臆病さによるものなのだろう。そして、やはりサイファへの対抗心も少なからずあるのだと思う。
「頑張ってね」
 サーシャは軽い口調でそう言うと、左手を白衣のポケットに突っ込んだまま、右手を上げて背中を見せた。颯爽とした足どりで立ち止まることなく歩き去っていく。後ろでひとつに結んだ赤茶色の髪が、小さく上下に弾んでいた。
 ラウルは医務室の扉を閉めると、そこにもたれかかって大きくうなだれた。

 さらに翌日——。

 今日が期限の日である。
 レイチェルの授業に向かう前に、ラウルは母親のアリスに面会を求めた。広い応接間に通され、彼女と向かい合って革張りのソファに座る。レースのカーテン越しに差し込む光が、ガラスのローテーブルに反射し、少し眩しく感じて目を細めた。
「レイチェルのことかしら?」
「いや……頼みがある」
「ええ、私に出来ることなら」
 アリスはにっこりとして胸に手を当てる。その屈託のない微笑みは、どこかレイチェルと重なるものがあった。親子なのだから当然といえば当然である。
 ラウルは少し視線を外して言う。
「おまえたちのドレスを作った店を教えてほしい」
「……ラウルもドレスを着るの?」
 アリスは真顔で無謀なことを尋ね返した。
「そんなわけないだろう」
 ラウルは半ば呆れたような視線を送りながら否定する。しかし、本当の理由について話すつもりはなかった。いずれレイチェルにプレゼントをすればわかってしまうだろうが、今はまだ伏せておきたかったのだ。
「おまえたちに迷惑を掛けるようなことはしない」
「わかっているわ」
 アリスは安心させるようにあたたかく微笑んで言う。
「店主にラウルのことを紹介しておきましょうか?」
「いや、店の名前と場所を教えてくれるだけでいい」
 紹介してもらえば何かと利点があるのだろうが、自分の行動が筒抜けになってしまうなど、かえって面倒なことになる可能性の方が高いような気がした。もちろんそれは成り行きでそうなるという話であり、彼女の親切心に疑念を持っているわけではない。
「少し待っていて」
 アリスはそう言って他の部屋から上品な桜色の便箋を持ってくると、丁寧な文字で店の名前と住所、そして、その下に簡単な地図を書いた。二つ折りにしてラウルに差し出す。
「すまない、感謝する」
 ラウルは低い声でそう言うと、その紙を受け取って教本の間に挟んだ。その様子を眺めながら、アリスは背筋を伸ばして小さくくすりと笑う。
「レイチェルもそろそろ新しいドレスを作らなくちゃいけないわね」
「新しいドレス……?」
 ラウルが怪訝に聞き返すと、アリスは膝の上に手をのせたまま肩を竦めて見せた。
「あの子、あと一年で結婚するでしょう? そうしたらあんな子供っぽいドレスを着るわけにいかなくてね。分家ならまだしも、レイチェルが嫁ぐのは本家だから、そのあたりはきちんとしないといけないのよ」
「そうか……」
 ラウルの中で最後のプレゼント候補が消えた。せっかくもらった店の情報も、おそらく使うことはないだろう。膝の上にのせた教本を持つ指先には、無意識に力が入っていた。

 レイチェルの授業は普段どおり滞りなく終わった。
 その後ラウルの部屋にやってきた二人は、いつもの席で向かい合いながら、紅茶を飲み、ケーキを食べる。ただ、いつもと違って今日は二人とも言葉少なだった。
「ラウル、今日が期限だけど」
 レイチェルが二杯目の紅茶を飲みながら切り出した。それは、ラウルが避けられないとわかっていながらも、出来れば避けたいと願っていた話題である。ドキリとして苦い顔でうつむく。
「……すまない、何も考えつかなかった」
 自分から言い出したことにもかかわらず、こんな結果になってしまい、あまりにも情けなくて彼女の目を見ることが出来なかった。しかし——。
「ありがとう」
 耳に届いたのは思いもしなかった言葉、そして屈託のない声。
 ラウルは驚いて顔を上げた。聞き違えたのかと思ったが、そこにあったのは言葉に違わぬ優しい微笑みだった。しかし、礼を言われる覚えは全くない。逆に非難されても仕方のない状況である。彼女の態度の理由が掴めず、尋ねかけるように眉をひそめた。
「たくさん考えてくれたのよね。その気持ちがプレゼント」
 彼女の答えはとても単純で、とても優しいものだった。
 何でもいいから用意すれば良かった——。
 ラウルは強烈に後悔した。しかし、その「何でもいい」がわからなくて苦労していたのである。たとえ時間を巻き戻せたとしても、また同じ結果になるような気はする。不甲斐ない自分には、結局のところ無理だったのかもしれない。
「ラウルの悩んでいる姿を見られて嬉しかったわ」
 レイチェルは笑いながらそう言うと、空のティーカップをソーサに戻して椅子から降りた。じゃあね、と手を振って部屋を出て行こうとする。
「ま、待て」
 ラウルは慌てて声を掛けると、ガタン、と大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
 レイチェルはきょとんとした顔で振り返る。そして、ラウルを見つめたまま、不思議そうに小さく首を傾げた。
「どうしたの?」
「何か、本当にないのか? 欲しいものは」
「そう言われても……」
 似たやりとりは二日前にもあった。あのときと同じように、自分の身勝手な気持ちの押しつけで彼女を困らせている。これでは堂々巡りである。ラウルはすぐに後悔して撤回しようとした。だが——。
「じゃあ、キスして」
 レイチェルは無垢な瞳を向けてそう言うと、ニコッと愛らしく微笑んだ。
 その瞬間、ラウルは体中に電流が駆け巡ったように感じた。
 息を止めて彼女と視線を合わせる。
 冗談を言っているようには見えなかった。思いつめているようにも見えなかった。普段と変わらない様子で、彼女はただ自然にそこに立っている。
 ラウルに断る理由はなかった。
 気持ちを静めるように深く呼吸をすると、一歩、二歩と足を進めた。彼女と近い位置で向かい合うと、白く柔らかい頬に、大きな手をそっと添えた。
「目はつむった方がいいの?」
「好きにしろ」
 無表情を崩さぬまま、腰を屈めてゆっくりと顔を近づけていく。しかし、唇が触れる寸前、互いの体温さえ感じられるくらいの距離で、ピタリとその動きを止めた。
 息を詰めて目を閉じる。
 そのとき、レイチェルの小さな吐息が、ラウルの唇に掛かった。それはまるで媚薬のような甘い刺激——彼女は無自覚なのだろうが、誘いかけているようにしか思えない行為である。
 自分の鼓動がやけに強く感じられた。体が熱くなっていく。
 そんな自己の昂ぶりを懸命に抑えながら、そっと、触れるだけの口づけを彼女の唇に落とす。おそらくこれが彼女の望んだこと。それ以上でも以下でもない。だから、自分は——。
 ゆっくりと顔を離し、体を起こす。
 視線の先のレイチェルは、焦点の合わない目でぼんやりとラウルを見ていた。しかし、ふとその目が合うと、急に我にかえってにっこりと微笑んだ。
「また、あしたね」
「ああ……」
 レイチェルは手を振って部屋を出て行く。
 その間際、一瞬だけ彼女はふっと寂しそうな表情を浮かべた。ラウルははっとして再度確認しようと思ったが、そのときにはもう扉は閉ざされ、彼女の姿を視界に捉えることはできなかった。
 なぜ、そんな顔をする——。
 ラウルにはその理由がわからなかった。大した理由などなかったのかもしれない。もしかすると気のせいだったのかもしれない。ただ、ほんの一瞬だけ見た彼女の横顔が、いつまでも脳裏に焼き付いて消えなかった。


23. 残された時間

「三ヶ月……」
 医務室の自席に座るラウルは、向かいのアルフォンスが口にした言葉を、呆然としながら確認するように繰り返した。

 レイチェルの誕生日から二ヶ月が過ぎた。
 プレゼント騒動以降は特に何事もなく、レイチェルの家庭教師を淡々とこなし、そのあと一緒にお茶を飲むという、極めて平穏な日々を送っていた。いつか来るであろう終わりの日については、レイチェルは少しも触れることはなく、また、ラウルの方もできるだけ意識しないようにしていた。
 しかし、今、アルフォンスが唐突にラウルの医務室を訪れて告げたのだ。
 あと三ヶ月だと——。

「ああ、アリスと相談して決めたのだ。結婚の準備や諸々のことを考えると、そのくらいが妥当だろうと。何か問題でもあるのか?」
「いや、授業をどこまで進めるか考えていた」
 ラウルは冷静な口調で先ほどの動揺を取り繕った。あまり上手い嘘とはいえなかったが、生真面目なアルフォンスは疑うことなく言葉どおりに受け取ってくれた。
「そのことならば気を揉む必要はない。これまでどおり授業を行い、進められるところまで進めてくれればいい。中途半端に終わっても構わないと思っている」
「わかった」
 ラウルは低い声で静かに返事をした。自分はただ雇われているだけの家庭教師である。雇い主の決定が間違ったものでなければ、それに従う他はない。
「君には心から感謝している。レイチェルが真面目に勉学に取り組むようになったのも君のおかげだ。レイチェルを研究所の実験から守ってくれたこともあったな。君がいなければどうなっていたかわからん」
 アルフォンスはもうすべてが終わったかのように、思い出話を交えながら感慨深げに礼を述べた。しかし、ラウルの方はそれを素直に受ける気持ちにはなれなかった。
「まだ三ヶ月残っている」
「そうだな、少し気が早かった。終了後にあらためて礼に来るとしよう」
 アルフォンスは律儀に答える。
「その必要はない。今ので十分だ」
 ラウルは感情を押し隠し、無愛想にそう言うと、椅子をくるりと回して背を向けた。机に肘をつきながら読みかけの本を開く。
 その後ろで、パイプ椅子の軋む耳障りな音が重々しく響いた。

 アルフォンスの靴音が遠ざかり、医務室は時が止まったかのような静寂に包まれた。早朝のため、外からの雑音もほとんど聞こえてこない。細く空いた窓からは新鮮な空気がするりと滑り込み、薄いクリーム色のカーテンを緩やかに波打たせた。

 あと三ヶ月——。
 近いうちに終わりの日が来るということは、言われるまでもなくわかっていたことである。覚悟もしていたつもりだった。しかし、現実として突きつけられると、そんな覚悟などどこかに吹き飛んでしまったかのように胸がざわついた。
 どうしようもないことだ。
 わかっているのにわかりたくない自分がいる。心がバラバラになりそうだった。机に肘をついたまま、大きな手で額を掴むように押さえる。長い焦茶色の髪がさらりと肩から滑り落ち、暗幕のようにラウルの視界から光を遮断した。

 その日の午後、ラウルはいつも通りレイチェルの家に行き、家庭教師の授業を行った。いまだに動揺を引きずってはいたが、彼女に悟られるわけにはいかない。冷静な態度を装いながら粛々と進めていく。
 授業中、特に変わったことはなかった。
 レイチェルも普段とまったく同じように見えた。あと三ヶ月ということを知っているのかいないのか、その様子からは窺い知ることが出来ない。気にはなった。それでも今は授業に集中すべきだと、彼女に尋ねることは思いとどまった。

 優しい色の空には薄い雲がかかり、微かに風が吹いていた。
 授業が終わった二人は、連れ立ってラウルの医務室へと向かう。互いに確認するまでもないくらいに、それは二人にとって日常の行動になっていた。ときどきレイチェルが話しかけ、ラウルが無表情のまま答え、人通りの少ない道を一緒に歩いていく。
 その途中、レイチェルは不意にラウルの手を取った。
「寄りたいところがあるの」
 顔を上げてニコッと愛らしく微笑むと、その手を引き、医務室とは違う方向に延びる小径へと足を踊らせた。ドレスがふわりと風をはらみ、後頭部の大きなリボンが軽く弾む。
 彼女がこんな行動を起こすのはめずらしい。
 ラウルは少し怪訝に思いながらも、彼女の小さな手をそっと握り返し、素直にその導きに従って歩き出す。その先に何があるのかは尋ねるまでもなくわかっていた。
 人気のない静かな小径が続く。耳に届くのは、木々の葉が触れ合う音、自分たちが草を踏みしめる音、頬を掠める風の音くらいである。息を止めれば、陽光の降りそそぐ音さえ聞こえてきそうだった。そんな静寂に圧倒されたのか、二人とも口を開こうとはせず、ただ無言のまま歩き続けた。
 しばらく道なりに進むと、予想通り、蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチが現れた。少し足を速めてそれをくぐる。すると一気に視界が開け、一面に広がる色鮮やかなバラ園が目に飛び込んできた。
「ここは久しぶり?」
「あのとき以来だ」
 小首を傾げて覗き込むレイチェルに、ラウルは前を向いたまま答えた。
 あのとき——それは家庭教師を引き受けて間もない頃のことである。今日と同じように、彼女に連れられてここに来たことがあったのだ。当時はまだ彼女と距離を取ろうと突き放した態度で接していた。しかし彼女はそれをものともせず懐に飛び込んでくる。おかげで随分と扱いに手こずった。そんなことが少し懐かしく思い出される。
「深呼吸して」
「なぜだ」
 唐突な彼女の要求にラウルは戸惑った。
「してくれないの?」
 レイチェルはラウルの疑問に答えることなく、無垢な瞳でじっと見つめながら小首を傾げた。断られるとは少しも思っていないようだ。催促するかのように瞬きをする。
 ラウルは溜息をついた。
 半ば投げやりに大きく息を吸って吐くと、レイチェルに視線を落として仏頂面で言う。
「したぞ」
 それでも彼女はただ無言で微笑むだけだった。
 ラウルは怪訝に眉をひそめた。彼女の目的がさっぱりわからない。深呼吸にどういう意味があるのだろうか。それをさせるためにここへ連れてきたのだろうか。なぜ質問に答えないのだろうか。言えないわけでもあるのだろうか。
 考えを巡らせるうちに、ある推論に行き当たった。
 もしかしたら、彼女もあと三ヶ月ということを聞いたのかもしれない。それでなぜ深呼吸なのかはまだわからないが、自分と同じように感じているのだとすれば、いつもと違う行動をとる理由にはなりえるだろう。
 バラ園の細道を軽やかに進む彼女に、ラウルは三歩ほど後ろから見守るようについていく。両脇にはピンクローズが咲いていた。むせかえるような緑の中に、ほのかな甘さが漂っている。
「おまえもアルフォンスに聞いたのか?」
「えっ? 何を?」
 レイチェルはきょとんとして振り返り、大きく瞬きをした。不思議そうな顔でじっとラウルを見つめる。とぼけているようには見えない。
「……なぜ、ここへ来た」
「それは……」
「言えないのか?」
 思わずラウルはきつい口調で問いただす。
 レイチェルは当惑したように目を伏せた。しばらくそのまま考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げ、まっすぐにラウルを見据えて答える。
「ラウルが落ち込んでいるみたいだったから、元気になってほしかったの」
 濃色の瞳が大きく揺らいだ。
 確かに彼女の言うように落ち込んでいた。しかし、彼女にはそのことは何も言っていないし、むしろ悟られないように気をつけていたつもりだ。態度に出ていたとは思わない。それなのに、どうして気づかれてしまうのだろうか。
 今回だけではない。似たようなことはこれまでに何度もあった。
 ときどき、そんな彼女のことを怖いと思う。
 それは自分の中にどうしても知られたくない気持ちがあるからだろう。知られれば確実に軽蔑され、拒絶されてしまう。そうならないように、是が非でも最後まで隠し通さなければならない。
「元気になるおまじない、欲しい?」
 ふとレイチェルがそんなことを尋ねてきた。後ろで手を組んでにっこりと微笑んでいる。そのおまじないが何であるか、ラウルにはすぐにわかった。
「……ああ」
「じゃあ、しゃがんで」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませ、せがむように右手を上に伸ばす。
 しかし、ラウルは彼女の要望とは違う行動をとった。彼女の体を片腕ですくい上げるようにして肩に座らせる。安定感のないそこで、レイチェルはバランスを崩して上体をふらつかせた。慌ててラウルの頭に両手を掛けて自身を支え、小さく息を呑み、高い位置から辺りを見まわす。
 ラウルが顔を上げると、彼女と視線が合った。
 彼女はきょとんとしていたが、すぐにニコッと笑い、体を屈めてラウルの額にそっと唇を寄せた。軽く触れるだけの口づけ。それが彼女の言う“元気になるおまじない”である。
「少しは元気になった?」
「少しはな」
 ラウルの答えは素っ気ないものだったが、それでもレイチェルは屈託のない幸せそうな笑顔を見せた。肩に座ったまま、目を閉じて少しだけ体を寄せる。願うことは同じ。言葉はなくても通じ合っている。それが二人の間に心地よいあたたかな空気を作り出していた。
 ふいに背後から突風が吹いた。
 瞬間的に二人の長髪を舞い上がらせ、服をバサバサとはためかせると、すぐに上空へと抜けていった。巻き込まれた木の葉が高く吹き上げられる。二人はそれにつられるように顔を上げた。その先には、穏やかな澄んだ青色が、どこまでも続くかのように広がっていた。

「あと三ヶ月?」
 部屋に着いてからそのことを尋ねてみると、レイチェルは目を丸くして聞き返した。いつもの指定席に行儀良く座ったまま、ダイニングテーブルの上で両手を重ねる。
「やはり聞いていなかったのか」
「ええ、今夜お父さまが帰ってきてから話すつもりだったのかしら」
 彼女は首を傾げて独り言のように呟いた。そこには悲嘆や落胆のようなものは微塵も感じられなかった。表情も普段とまったく変わらないように見える。
 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら眉根を寄せた。
「わかっているのか」
「うん……もう少し一緒にいられると思ったんだけど、予想よりも早かったわ。でも、これからだって会えないわけじゃないもの」
 レイチェルは小さく微笑んで言った。
 やはりわかっていない——。
 確かに会えないわけではない。だが、会うことはなくなるだろう。
 ラウルは王宮医師として医務室に籠もり、ほとんど王宮の外に出なくなる。レイチェルはラグランジェ本家に嫁ぎ、今ほど自由に行動できなくなる。用がなければ外出することもないだろう。
 ふたりに接点はない。
 どちらかが行動を起こさない限り、会うことは出来ないのだ。そして、それは許される行為ではない。彼女は名門ラグランジェ本家当主の妻になる。たとえ、ただ顔を会わせるだけだとしても、誤解を招くような行動は慎まなければならないのである。
 ラウルはうつむいたまま紅茶をティーカップに注いだ。そのひとつをレイチェルに差し出す。そのとき、彼女を目にして妙なことに気がついた。
「おまえ、後ろを向いてみろ」
「後ろ?」
 レイチェルは椅子に座ったまま、椅子の背もたれを掴み、言われるまま素直に後ろを向いた。何かを探すようにきょろきょろと上下左右に目を走らせたあと、不思議そうにラウルに視線を戻し、尋ねかけるように小さく首を傾げた。
 ラウルは腕を組み、軽く溜息をついた。
「リボンが縦になっているぞ」
「えっ?」
 レイチェルは慌てて頭の後ろに手を伸ばし、手探りでリボンの状態を確認した。実際に縦になっていることがわかると、髪から外して手元に持ってくる。それを表にしたり裏にしたりするうちに、彼女の表情はみるみる曇っていった。
「破れているわ……」
「新しいのを買ってやる」
 ラウルはほとんど反射的にそう答えていた。誕生日プレゼントに何も贈れなかったことを後悔していたので、むしろちょうどいい機会だと思った。こういう状況ならば、自分で何を買うか悩まなくても、彼女に気に入ったものを選んでもらえばいい。
 しかし、その目論見はあっさりと根本から崩れ去った。
「いいわ、もったいないから」
「遠慮はするな」
「そうじゃなくて、せっかく買ってもらっても、すぐに使わなくなってしまうから……。いま新しいドレスを作っているの。結婚したらこんな子供みたいな格好はいけないって。だから、このリボンも今日で終わりにするわ」
 レイチェルは微笑みながら淡々と述べていく。
 ドレスのことは母親のアリスに聞いていた。わかっていたことだったが、あらためて彼女の口から聞かされると、その日が迫っているのだと否が応でも実感させられる。
「……貸してみろ」
 ラウルはそう言って手を差し出すと、彼女からリボンを受け取って観察した。それは髪留めにリボンを括り付けてあるものだった。その括り付けてある部分が半分ほど破れて、リボンが縦になっていたらしい。これならば、破れた部分を縫いつければ何とかなりそうだと思う。
「おまえはここで待っていろ」
 ラウルはそう言い残すと、リボンを持って隣の寝室に向かった。

 ラウルが戸棚から裁縫道具を取り出そうとすると、レイチェルがそっと扉を開けて顔を覗かせた。興味深そうにあちこち眺めながら、勝手に中に足を踏み入れる。
「待っていろと言ったはずだ」
「ひとりでいるのは寂しいの」
 彼女はニコッと笑って言う。
 ラウルはもう戻れとは言えなくなってしまった。結局、彼女には甘いのだ。部屋を見てまわる彼女を放置したまま、ベッドに腰掛け、リボンの修復を開始すべく針に糸を通す。
「これ、私があげたの……じゃないわよね?」
 レイチェルは窓際に置いてある一輪挿しのピンクローズを覗き込みながら首を傾げた。
「おまえにもらったものだ」
「でも、あれから二ヶ月も経っているのに……」
 彼女の疑問はもっともだった。そのピンクローズはレイチェルの誕生日パーティでもらったものである。あれから二ヶ月が過ぎており、通常であればとうに枯れているはずだが、それは当時と変わらない可憐な姿を留めていた。
「長期間保存が利くように加工してある」
「そんなことが出来るの?」
 レイチェルは目を大きくして驚いた。
「大切にすると約束したからな」
「花は枯れるものよ。気にしなくても良かったのに」
 指先で花弁をなぞりながらそう言うと、そっと視線を流して微笑む。
「優しいのね、ラウルは」
 ラウルは無言のまま、針を持つ手を動かした。
 彼女の認識は間違っている。自分の行動は優しさからのものではない。ただの身勝手である。レイチェルからのプレゼントを失いたくなかっただけなのだ。たとえ自然の摂理を曲げてでも——。だが、それを彼女に告げる勇気はなかった。
「一輪挿しはわざわざ買ったの?」
「いや……それはサイファからもらったものだ」
 ラウルは少し躊躇いつつも事実をありのままに答える。
「お誕生日プレゼント?」
「そうではない。もっとずっと昔のことだ。あいつの家庭教師を終えたときに、礼だと言って持ってきたのだ」
 ずっと昔、と言ってしまったが、よく考えてみれば、まだほんの三年ほど前のことである。端整な中にあどけなさの残る彼の笑顔、柔らかなピンクローズ、箱から取り出した一輪挿し——きのうのことのように鮮明に思い出せるが、ひどく昔のことのようにも感じる。それほどこの三年の間に様々な出来事があった、ということだろうか。
「じゃあ、私も何かお礼を考えておくわね。三ヶ月後までに」
 無邪気なレイチェルの言葉が、ラウルの心を深くえぐった。うつむいたまま返事もせず、ひたすらその手を動かし続ける。
「すごい、お店の人みたい」
 レイチェルは小走りで近づいてくると、ラウルの手元を興味深げに覗き込んだ。
 感心されて悪い気はしないが、ただ縫いつけているだけで難しいことは何もしていない。彼女にその知識がないので難しく見えているだけだろう。
「ラウルって何でも出来るのね」
「おまえが出来なさすぎるだけだ」
「そうかしら?」
「おまえはそれで構わないがな」
 ラウルの場合は生きていくために必要だったので自然と身についただけである。彼女は家事などする必要はないはずだ。結婚して妻となっても、それは彼女の役割ではない。
「できたぞ」
 糸をハサミで切って言う。水色の糸がなかったので、白い糸を使ったが、目立つ部分ではないので構わないだろう。これで三ヶ月くらいなら余裕でもつと思う。
「つけて」
 レイチェルはすぐ隣に腰掛けると、ラウルを見上げてニコッと笑った。
 ラウルは彼女の横髪をすくい、後ろでまとめて、リボンのついた髪留めをつけようとする。しかし、向かい合ったままで後ろが見えないせいか、髪がきれいにまとめられず、なかなか上手くいかない。
「あ、私、後ろを向くわ」
 ラウルが苦戦しているのに気がつくと、レイチェルはそう言って体を離し、ベッドに座ったまま向きを変えようとした。
 しかし、ラウルは咄嗟にそれを阻んだ。
 逃れられないように彼女の細い両肩をきつく掴む。その行動に明確な理由があったわけではない。ただ、彼女に背を向けられることに耐えがたいものを感じたのだ。自分の傍から去っていかれるような、そんな幻想さえ重なって見えた。
「ラウル……?」
 レイチェルはきょとんとしてラウルを見つめた。
「行くな……」
 ラウルは溢れるように小さな声を落とした。肩を掴む手に力が入る。大きく瞬きをする彼女をじっと見つめながら、ゆっくりと顔を近づけていき、小さな薄紅色の唇に自分のそれを重ねた。柔らかな感触が理性を融かしていく。思考が真っ白になった。何も考えられない。ほとんど無意識のまま、その口づけを深いものへと進めていった。
 レイチェルの体がビクリと震えた。
 しかし、今のラウルにはそれに気づく余裕などなかった。手にしていたリボンを床に落とし、求めるままさらに深く口づけていく。
 レイチェルは押し倒されるように、仰向けにベッドに倒れ込んだ。
 ラウルは覆い被さるように彼女の両側に腕をつき、目を細めて彼女に顔を近づけていく。
 ベッドのスプリングがギシリと音を立てて軋んだ。
 その音でラウルは我にかえる。
 自分の下にある彼女の顔には恐怖の色が浮かんでいた。表情は引きつったままこわばり、蒼の瞳は怯えるように小さく揺れている。それを見た瞬間、頭から氷水をぶちまけられたかのように感じた。全身から血の気が引いていく。
 自分はとんでもないことをしようとしていた——。
 体を起こすと、深くうつむいて掴むように額を押さえる。力を込めた指先が震える。彼女に目を向けることは出来なかった。
「すまない」
 彼女に嫌われることよりも、怯えられることの方が怖かった。自分のとった行動を振り返ると、体の芯から凍りつきそうになる。いくら後悔してもしきれない。今はとりあえず彼女から離れるべきだと思い、ベッドに手をついて腰を上げようとした。
 しかし、そのとき——。
 小さな手でしっかりと手首を掴まれた。力自体はたいしたことはないが、そこからは明確な意志が感じられる。ラウルはおそるおそる彼女に振り向いた。
「やめないで」
 レイチェルは強い引力を秘めた瞳を向けて言った。小さな声だったが、凛としており、そこに迷いや怯えは微塵もなかった。
 ラウルは息を呑んだ。
「……馬鹿を言うな」
 声が掠れた。視線を逸らし、唾を飲み込んでから続ける。
「そもそもおまえはわかっていないだろう、私が何をしようとしていたのかなど」
「わかっているわ、多分……何となく……」
 手首を掴む彼女の指先に少し力が入った。
 ラウルはシーツを掴みながらこぶしを握りしめる。布が擦れる小さな音がして、そこから放射状にいくつもの皺が走った。
「わかっていない」
「わかっているわ」
 もしかしたら他の家庭教師からそういう教育を受けたのかもしれない。しかし彼女の言動からすると、あまりわかっていない可能性も高い。いや、わかっているかどうかなど今は関係のない話である。どちらにしても自分の取るべき行動はひとつだ。
「忘れてほしい、本当に悪かった……」
「いやっ!」
 これまで聞いたこともないくらいに強い、彼女の声。
 ラウルは目を見開いた。
「あと三ヶ月でしょう? 私たちの時間」
「会えなくなるわけではない」
 彼女を説得するために咄嗟に嘘をついた。先ほどまではわかってほしいと願っていたのに、今はそれを否定する言葉を口にしている。本意ではないが、この状況を切り抜けるにはそうする以外になかった。
 しかし、彼女は僅かに声を震わせて言う。
「会えなくなるも同然だわ。ラウルだってわかっているはず……」
 そのときの何もかも諦めたような寂しげな表情は、二ヶ月前の誕生日プレゼントのあと、去り際にちらりと見せたものと同じだった。
 そうか、おまえは——。
 おそらく、あのときにはすでにわかっていたのだろう。家庭教師が終わってしまえば、もう会うこともなくなるということを。
「だから、やめないで。ラウルに後悔してほしくない」
「怖がっていたくせに何を言う」
 ラウルの鼓動は痛いくらいに強く打っていた。喉もカラカラに渇いている。それを悟られないように顔をそむけ、突き放した態度で諦めさせようとする。
「少し驚いただけ。怖くなんかない。ラウルと一緒なら何も怖くないから」
 彼女は自分に言い聞かせるように繰り返す。ラウルを掴む小さな手は、緊張からか、僅かに湿り気を帯びていた。
「おまえ……は……」
 サイファの婚約者なのだ——。
 彼女はわかっているのだろうか。その行為はサイファに対する裏切りになるということを。そこまで考えが及んでいないのかもしれない。許されないことだという認識がないのかもしれない。だとすれば、自分がそのことを諭してやめさせなければならない。そう思うものの、どうしても口が動かない。
「私はラウルが好きだから」
 レイチェルは澄んだ大きな瞳でラウルを見つめた。そして、ラウルの手を自分の胸元にゆっくりと導く。柔らかく温かいそこから、微かに鼓動が伝わってきた。少し速いその鼓動に、ラウルの鼓動も同調していく。
「レイチェル……」
 その声には自分でも驚くほど熱がこもっていた。声だけでない。体も熱くなっていた。彼女の存在を確かめるように、その頬に手を置くと、ゆっくりと輪郭をなぞり、白い首筋へと滑らせていく。
 レイチェルは小さく吐息を漏らし、首筋を伸ばすように顔を上に向けると、微かに震える瞼をそっと閉じた。


24. 静かな決断

 いつの頃からだろう、彼女のすべてを求める感情が芽生えたのは。
 しかしそれは心の奥底に留めておかなければならないものだった。
 そんなことはわかっているつもりだった。
 それなのに——。

 ラウルは目を細めて眼下に広がるバラ園を見下ろした。
 昨晩は一睡も出来ず、今朝になっても何も手につかず、気分転換のために外に出たのである。どこへ行くかは決めていなかったが、足は自然とここへ向かっていた。今の自分の状況を考えれば、それも当然のことだったのかもしれない。
 少し冷たい風が頬を掠めた。
 色鮮やかなバラ園をぐるりと見渡す。普段から人の少ないところだが、早朝のためか、今は誰ひとりとして見当たらない。静かだった。さわさわと葉の擦れる微かな音だけが耳に届いている。
 足を一歩踏み出した。
 彼女がきのう通った道をなぞるように、バラ園へと降りていく。
 相変わらず手入れは隅々まで行き届いていた。遠くで見ても、近くで見ても、非の打ち所のないくらいに整えられている。そしてそれを引き立てるように、花びらや葉にはいくつもの朝露が降り、清廉な朝の光を浴びて無垢に輝いていた。
 幾多のピンクローズに彩られた細道を進んでいく。
 すれ違い際に微かな風が起こり、淡く色づいた柔らかな花弁を揺らす。そこからキラリと光るひとしずくが滑り落ち、地面に弾けて消えた。
 何気なく顔を上げてあたりを見まわすと、隅にひっそりと佇む大きな木が目についた。引き寄せられるように、そのもとに足を進めて腰を下ろす。地面のひんやりとした感触が布越しに伝わってきた。立てた膝の上に腕をのせ、大きく顔を上げて目を細める。
 空は優しい色をしていた。
 ところどころにかかる薄い筋状の雲がゆっくりと形を変えていく。世界が止まったかのような静けさの中で、そのことだけが辛うじて時の流れを感じさせた。
 横からのそよ風が長めの前髪をさらさらと揺らす。
 ラウルは大きく息を吸い込み、ざらついた木の幹に体重を預けて目を閉じた。何も考えずに、ただそうしていたかった。強制的に思考を閉じる。しかし、それでも心のさざなみまでもを消すことは出来なかった。

「ラウル」
 頭上から降る澄んだ声とともに、日差しが遮られた。
 ラウルは目を開く。
 そこには、後ろで手を組んでにっこりと微笑むレイチェルが立っていた。逆光を浴びた細い金の髪が透けるように輝いている。後頭部にはいつもと同じ薄水色の大きなリボンがつけられていた。一瞬、幻覚かと思ったが、間違いなく現実である。
「なぜここへ来た」
「ラウルを探していたの」
 彼女はそう言うと、ラウルの隣に腰を下ろした。何かを敷くこともなく、直接、土の上に座った。ドレスが汚れるのではないかと思ったが、彼女はまったく気にしていないようだった。小さな手で軽く膝を抱えると、遠い空を見上げて言う。
「今朝、お父さまから話があったわ。あと三ヶ月って」
 ラウルはちらりと視線を流した。
「何と答えた」
「わかりました」
「……そうか」
 彼女はまっすぐに空を見ていた。その横顔はいつもと何ら変わりのないものだった。無理をしているようには見えない。
 ラウルは探るようにじっと彼女を見つめた。
 その視線に気づいたのか、レイチェルは不思議そうな顔で振り向いた。きょとんと瞬きをして小首を傾げる。しかし、ラウルと視線を絡ませて見つめ合うと、無防備に愛らしくニコッと微笑んだ。
 何も、何ひとつ変わっていない——。
 ラウルは僅かに目を細めた。彼女を取り巻く状況も、彼女自身も、すべて見事なくらいに以前のままだった。何かを変えるためにあんな行動を起こしたわけではない。だが、心のどこかで期待はしていたのだろう。いざこの現実を目の前に突きつけられると、どうしようもなく胸がざわめき、やるせない思いが湧き上がった。
 いっそ、連れ去るか——。
 あどけない笑顔を瞳に映しながら、ふとそんなことを思う。
 彼女ほどの魔導力があれば、おそらく、自分と同じ時間を生きることが可能になるはずだ。そうなれば、これから先の永い時間を彼女とともに過ごしていける。誰の手も届かないところで、自分の本来いるべき場所で。
 しかし、それは自分の身勝手な願いにすぎない。
 彼女は望んでいないだろう。両親やサイファと離れることも、時の流れを変えられることも。彼女のためを思うなら、やってはならないことだ。彼女を悲しませることも苦しませることも本意ではない。
 諦めるしかない。
 結局はいつもと同じ結論に辿り着く。違う筋道で考えても変わらない。これ以外の解決策は見つけられないのだ。見つけられないのではなく、そもそも存在しないのかもしれない。
「私ね……」
 レイチェルが空を見上げて静かに切り出した。
「ずっと続くような気がしていたの、こんな幸せな今の日々が。お父さまとお母さまのもとで暮らして、サイファと休日を過ごして、ラウルと一緒にお茶を飲んで……」
 淡々とそう言うと、僅かに目を伏せる。
「もちろん終わりが来ることはわかっていたけれど、遠い話のようで実感が持てなくて……でも、15歳の誕生日あたりから少しずつまわりが動き始めて、嫌でも実感させられるようになったわ。そのうちにラウルとも会えなくなるんだって寂しくて仕方なかった。それでもラウルを困らせたくなかったから、知らないふりをしようと思っていたの」
 それは初めて聞いた彼女の本心だった。
 ズクン、とラウルの胸が大きく疼く。自分のためを思っての行動だったとは思いもしなかった。そもそも知らないふりをしているとわかったのも昨日のことである。もっと早く気づくべきだった。寂しさを隠して無邪気に振る舞っていた彼女の心情を思うとやりきれない。
「私も男だったら良かったのに」
 先ほどまでの雰囲気とは一変した明るい声。
 ラウルは面食らって振り向き、怪訝に眉をひそめる。
「おまえ、何を言っている」
「そうしたら、サイファみたいに自由に会いにいけるでしょう?」
 レイチェルは顔を斜めにしてにっこりと微笑みかけた。屈託のない無邪気な笑顔である。しかし、もしかするとそれも無理をしているのかもしれないと思う。
「……ああ、そうだな」
 ラウルは目を細めて空を見上げた。
 隣のレイチェルもつられるように空を見上げた。
「これからも、サイファとは仲良くしてね」
「あいつは来るなと言ってもしつこく来る」
 サイファはこのところ足繁く医務室を訪れていた。もちろん患者としてではない。長居することこそ少ないが、仕事の合間や終わったあとに顔を見せ、軽く無駄話をしていくのだ。冷たくあしらっても一向に懲りる様子はなく、それどころか反応を楽しんでいる様子さえ窺えた。
 レイチェルは空を見たままくすりと笑った。
「サイファはラウルのことが大好きなの」
 それが事実かどうかはわからないが、ラウルにとってはどうでもいいことだった。はっきり言えば興味がない。彼がどう思っていようと自分には何の影響もないのである。
「ラウルもサイファのことが好きでしょう?」
「さあな」
 ラウルは頬杖をつき、素っ気なくはぐらかした。
 それでもレイチェルは引かなかった。
「好きだと思うわ」
「……おまえがそう言うのなら、そうなのだろう」
 考えてみれば、自分と彼女を繋ぐことができるのはサイファだけになる。彼女はそれを守ろうとしているのだろうか。それとも孤独なラウルを一人にさせまいとしているのだろうか。
 彼女が意図するものが何であるか、本当のところはわからない。
 だが、それを問いただす必要はないと思った。

 それきり二人の会話は途絶えた。
 草の匂いの混じった風が頬を撫でる。
 二人はただ空の青をその瞳に映していた。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。
 気がつけば太陽は高い位置に来ていた。二人が座る場所には陰が落ち、強烈な白い日差しが足先を照らしている。
「私、そろそろ帰らないと」
 レイチェルはぽつりとそう言うと、地面に手をついて立ち上がろうとした。
 咄嗟にラウルはその手首を掴んだ。
 引き留めてどうするつもりだったのか、自分でもわからない。考えるよりも先に手が動いていた。怖がらせる前に放すべきだと思いつつも、手の力を抜くことが出来なかった。
 レイチェルは大きな瞳でじっとラウルを見た。
「さみしいの?」
 ラウルは目を大きく見開いた。返答に困った。顔を少しだけ逸らすと、無言のまま彼女の肩を抱き寄せる。レイチェルはなすがままラウルの胸に寄りかかった。瞬きをして不思議そうにラウルを見上げたが、視線が合うと、くすりと笑って幸せそうに目を閉じた。
 胸にかかる小さな重みが愛おしい。
 彼女の白く柔らかい頬に指先で触れた。ゆっくりと顎へと滑らせ、軽く持ち上げる。それでも目を閉じたままの彼女に、許されたような気になって、身を屈めてそっと唇を寄せた。
 だが、触れる寸前でそれを止めた。
 しばらくそのままじっとしていたが、やがて少しだけ顔を離して小さく溜息を漏らす。
 どうかしている——。
 こんなところを誰かに見られでもしたら言い訳のしようもない。ここは二人きりの部屋ではなく、王宮からは出入り自由の場所である。普段から人の少ないところではあるが、まったく誰もいないというわけではない。バラの手入れをしている人や、散歩をしている人たちが、遠くに数人ほど見えている。いつ目撃されてもおかしくない状況だ。
 レイチェルが何かを感じたのか目を開いた。
 その澄んだ大きな瞳に、ラウルは吸い込まれそうになる。くらりと目眩がして頭の中が真っ白になった。抗えぬ引力に落ちるようにそっと口づける。薄紅色の甘く柔らかい感触が頭の芯を痺れさせた。息を止めたままゆっくりと顔を離していく。
 レイチェルはニコッと笑った。
 曇りのないその笑顔を目にし、ラウルは胸が強く締めつけられた。彼女はわかっていない。ずるく身勝手な自分には、その笑顔を向けられる資格などないのだ。彼女の小さな体にまわした手に、無意識に力を込める。
 私は、弱い人間だ——。
 このままでは彼女の歩むべき人生を壊しかねない。もちろん壊すことなど望んではいない。だが、いっそ壊してしまいたいという黒い感情が潜んでいるのは事実だ。自分には衝動を抑える自信などない。取り返しのつかなくなる前に、決断しなければならないだろう。
 彼女と寄り添いながら鮮やかな青い空を見上げた。彼女も同じ空を見ている。交わされる言葉は何もない。ただ、穏やかな空気だけが二人を包んでいた。
 正午を告げる鐘が遠くで鳴り響いた。
 ラウルの心は決まった。
 だが、ここで彼女に話すつもりはない。気持ちの整理がついていないという以上に、二人のささやかな今を壊したくないという思いが強かった。
 おそらくこれが最後になるだろう。
 だから、せめてもう少しだけ、この時間が続いてほしいと願った。


25. 本当のけじめ

「今日はここまでだ」
 ラウルがいつものように授業の終わりを宣言すると、レイチェルはすぐに机の上を片付け始めた。そそくさと教本を本棚に収め、筆記具を引き出しにしまい、机に手をついて軽やかに立ち上がる。
「行きましょう」
 そう言うと、ふわりとドレスを揺らして振り向き、ニコッと無邪気な笑みを浮かべた。
 しかし、ラウルは椅子に座ったまま動こうとしなかった。自分の教本を片付けようともせず、ゆっくりと腕を組んでうつむく。
「どうしたの?」
「話がある。座れ」
 レイチェルは不思議そうな顔をしていたが、命じられるまま素直に腰を下ろした。机ではなくラウルの方を向き、行儀良く膝の上に両手をのせて、大きな瞳でじっとラウルを見つめながら次の言葉を待っている。
 ラウルは深く息をしてから口を開いた。
「今後、もうおまえを私の部屋には入れない」
「……どうして?」
 レイチェルは大きく目を見張ったが、それでも冷静を保って理由を尋ねた。
「どうしてもだ」
 ラウルは答えにならない答えで突き放す。
 これは彼なりのけじめである。
 残りの三ヶ月、出来ることなら彼女とともに過ごしたかった。だが、同じ過ちを繰り返さないためにはこうするしかない。一度外れた箍は、完全には元通りにならないのだ。もう自分を抑える自信はないのである。
「今までのように一緒にお茶を飲むだけでいいのに」
「駄目だ」
 寂しそうに呟くレイチェルを、ラウルは冷淡に一蹴した。そうしなければ、せっかくの決意が揺らいでしまいそうだった。しかし、それは自分の不甲斐なさを彼女に押しつけていることに他ならない。申し訳なく思う気持ちが胸を締めつける。
 しかし、当然ながら、レイチェルはそんなラウルの心情を知るはずもなかった。拒絶されている理由すらわからないのだろう。蒼の瞳が不安そうに揺らぐ。そこには微かな怯えも見て取れた。だが、すぐにそれを隠すように目を伏せると、遠慮がちに小さな口を開く。
「私、気にしていないから……」
 ラウルはその意味がわからず、怪訝に眉をひそめて彼女を見た。
「誰かの代わりだったとしても、私は気にしていないから」
 レイチェルはそう言い直して、どこか寂しそうに小さく微笑むと、さらに淡々と言葉を重ねていく。
「本当は私のことを好きになってほしかったけれど、ラウルが救われるのならそれでいい。役に立てるだけで嬉しいの。だから、ラウルが罪悪感なんて感じることはないわ」
 ——こいつ、まさか今までずっと……!
 ラウルは砕けんばかりに強く奥歯を噛みしめた。彼にしてみればもう終わったことである。それにもかかわらず、今さらこんなことを言い出され、まるで不意打ちを食らったような気分だった。
 確かに、三年前のあのときに指摘されたことは事実である。
 レイチェルを通して別の少女を見ていた。守るべき役目を負っていながら、守ることができなかった少女を——。彼女は自分にとって、幼い頃から大切に育ててきた、いわば娘のような存在である。レイチェルに対する思いも、当初はそれと似たものだったかもしれない。だが、今ではもう別のものに変わっているのだ。
 ラウルが我を忘れるほど渇望したのはレイチェルただ一人である。
 心も体もすべてを手に入れたいと思ったのは彼女が初めてである。
 誰かの代わりであるはずがないのだ。
 知ってほしくないことは敏感に感じ取るくせに、察してほしいことは何も気づいてくれない。それが故意でないことは理解している。それでもどうにも納得がいかず、抑えようのない怒りが胸に湧き上がる。
「おまえは……」
 眉をしかめて低い声で文句を言いかけたそのとき、ふとある考えが頭に浮かんだ。
 このことを利用すれば、レイチェルを確実に諦めさせることができる。彼女ならそれで身を引くはずだ。少なからず嫌な思いをさせてしまうことは間違いないが……いや、いっそこれで愛想を尽かしてくれるのならば、その方が都合がいいのかもしれない。
 ラウルはしばらく難しい顔で逡巡していたが、やがて意を決すると、真剣な眼差しでまっすぐに彼女を見つめ、躊躇うことなく決然と言う。
「おまえでは、あいつの代わりにはなれない」
 それは彼女が縋った存在理由の否定。
 レイチェルは雷に打たれたように硬直した。
「…………そう」
 息が詰まりそうなほどの長い沈黙のあと、小さな声でようやくそう言うと、首が折れそうなほどに深くうなだれた。細い金の髪がさらさらと肩から滑り落ち、白いうなじが僅かに覗く。彼女がどんな表情をしているのか、ラウルからは見えなかった。
 重苦しい静寂が続く。
 レイチェルは膝の上においた手をギュッと握りしめて顔を上げた。その表情は硬いものだったが、気丈にもすぐにニコッと笑顔を作って明るく言う。
「わかったわ。でも、家庭教師は続けてくれるのよね?」
「ああ、あと三ヶ月は約束どおりに行う」
 本当は家庭教師もきっぱり辞めてしまった方がいいのだろう。しかし、ラウルはアルフォンスに雇われている身である。ラウルの一存で決めることはできないし、辞めると申し出れば間違いなく理由を詮索されてしまう。その理由を答えられない以上、あと三ヶ月、当初の約束どおり続けるしかないと思う。
「じゃあ、門のところまで送るわね」
「……ああ」
 ラウルが静かにそう答えると、レイチェルは椅子から立ち上がり、くるりと身を翻して足早に扉へと向かった。薄水色のリボンが後頭部でひらりと揺れている。その動きに誘われるように、ラウルは無言で教本を脇に抱えてついていった。

「またあしたね」
「……ああ」
 レイチェルは門を出たところで立ち止まると、後ろで手を組み、少しぎこちない笑みを浮かべてラウルを見送る。それは彼女の精一杯の優しさだったのかもしれない。
 理由も言わず一方的に拒絶したのはラウルの方だ。
 それにもかかわらず、素直に従う彼女を見ていると、申し訳なく思うと同時に、胸にすきま風が吹き抜けるような寂しさを覚えた。そんなのは嘘だと責めてくることを、嫌だと泣きついてくることを、心のどこかで期待していたのだろう。もちろん、それが呆れるほど理不尽な気持ちであることは十分に自覚している。
 彼女に背を向けて歩き出す。
 すぐに振り返りたくなる衝動に駆られるが、思いとどまり、前を向いたまま足を止めずに歩き続ける。視線の先には優しい色の空が広がっていた。繊細なレースのような薄い雲がゆっくりと漂い流れていく。
 そこにあったのはとても静かで穏やかな空気だった。
 ただ、頬に当たる風だけは少し冷たかった。

 翌日も家庭教師の授業は予定通りに行った。
 レイチェルの様子は、たった一日ですっかり元に戻っていた。真面目に授業を受ける姿勢も、屈託のない笑顔も、明るく澄んだ声も、拍子抜けするくらい普段どおりである。そこに悲しさや寂しさといった感情は見つけられなかった。
 彼女にとって、所詮、自分はその程度の存在なのかもしれない。ともに過ごせないことをつらく思ったとしても、それは最初だけで、すぐに他のもので埋め合わされてしまうのだ。いつまでも引きずっているのは自分だけなのだろう。
 しかし、それでいいのだとラウルは自分に言い聞かせた。
 レイチェルには婚約者のサイファがいる。ラウルとのことにこだわり続けるよりも、きっぱりと断ち切った方が幸せになれるはずだ。彼女が幸せであればいい——それがラウルのほんの少しの強がりを含んだ本音だった。
 彼に残されたのは味気のない毎日である。
 レイチェルとともに過ごす時間がどれほど大きな意味を持っていたか、ラウルはそれを失うことであらためて思い知らされた。それでも家庭教師が続いているだけまだましなのかもしれない。家庭教師が終わってしまえば、味気ないどころではなく、彼女と出会う以前のような空っぽの日々が続くことになるだろう。
 ひとりで暗く静かな部屋に戻ると、ラウルはダイニングテーブルを見下ろす。
 その瞬間、指定席に座って紅茶を飲む彼女の姿が思い出される。毎日のように目にしていたその光景は、もう現実になることはないのだ。目を瞑り、深く溜息をつく。叶わない夢を見るのはもう止めなければならない。
 この状況を招いたのは自分の行動である。
 それがなければ、残りの三ヶ月を穏やかに過ごすことが出来ただろう。
 しかし、後悔しているのかは、ラウル自身にもわからない。
 その行動が正しいものでないことは理解している。彼女のためを思うならば、やってはならないことだった。後悔すべきなのだろう。だが、自分の中にはそれを肯定する気持ちも少なからずあった。自分が強く望んだことなのだ。当然といえば当然なのかもしれない。平穏な三ヶ月と引き替えに、叶わないはずだった奇跡のような時間を手に入れた——そう考えれば悪くない。いや、十分すぎるほどだ。あの日のことは、彼女と会えなくなっても一生忘れることはないだろう。
 しかし、それは身勝手で一方的な思いだ。
 レイチェルがどのように考えているのかは、ラウルにはわからない。それを彼女に尋ねようとも思わない。今さら知ってもどうにもならないことである。ただ、せめて思い出として心に留めるつもりでいてくれればと、そんな未練がましいことを密かに願った。

 けじめの日から静かに二ヶ月が過ぎ、ラウルがレイチェルの家庭教師でいられるのは残り一ヶ月となった。未だにもどかしく思う気持ちは燻っているが、それでも何も行動を起こすわけにはいかない。ラウルに出来ることは、引き続き、ただ黙々と役目を果たすだけである。

 その日の空は果てしなく澄み渡っていた。
 ラウルはレイチェルの家へやって来ると、いつものように二階にある彼女の部屋へ向かおうとした。しかし、階段に足をかけたところで、居間から顔を覗かせたアリスに呼び止められる。
「ちょっとだけ、いいかしら」
「何だ」
 アリスの小さな手招きに従い、ラウルは彼女の立つ居間の前へと足を進めた。しかし、彼女はなおも手招きをして、ドレスの裾が触れるほど近くまでラウルを呼び寄せると、顔の横に手を添えながら少し声をひそめて尋ねる。
「もしかして、レイチェルと喧嘩しているの?」
「……そういうわけではない」
 彼女の唐突な質問に、一瞬、ラウルは息が止まりそうになった。
「それじゃあ、あの子が一方的に怒らせたのかしら?」
「いや……」
 今度は歯切れ悪く答える。下手なことは言えないと思った。どう答えるのが最善なのか、今の段階では情報が少なすぎて判断がつかない。彼女の出方を窺う方が賢明だろう。無表情を装ったまま、促すようにじっとその双眸を見つめる。
 アリスはふっと息をつくと、少し困ったような顔で小さく笑った。
「このところ、あの子、すっかり元気がなくてね。何か思いつめている様子で、かなり参っているみたいなの」
 ラウルは少し目を大きくした。教本を持つ手に無意識に力がこもる。
「ラウルと喧嘩でもしたの? って訊いたら、『私がいけなかったの』って……。何があったのかは、いくら訊いても言おうとしなかったわ。多分、あの子が我が侭を言ったか、配慮のないことを言ったかだと思うんだけど……」
 アリスはそこで言葉を切り、上目遣いでラウルを窺った。それでも何も言おうとしないラウルを見て、自分の推測は間違っていないと勝手に確信したようだ。軽く溜息をつくと、申し訳なさそうに切り出す。
「母親の私がこんなことを言うのも何だけど、あの子も反省しているだろうし、そろそろ許してやってもらえないかしら。きちんと謝るように言っておくから」
 ラウルは眉根を寄せてうつむいた。
 考えてみれば、レイチェルはつらいことがあっても、悩みごとがあっても、滅多にそれを他人に見せることはなかった。常にまわりの人間に心配を掛けないように振る舞おうとしていた。ラウルに突き放された今なら、なおのこと本音を見せようとはしないだろう。そんなことにも気づかないなど、自分はいったいこれまで彼女の何を見ていたのだ——。
「いや……謝るのは私の方だ。すまなかった」
 カラカラの喉の奥から絞り出すようにそう言うと、アリスは心からほっとしたように、胸に手を当てて柔らかく微笑んだ。それはいつもレイチェルが見せる甘い笑顔と重なるものがあった。
 ラウルは正視できずに顔をそむけた。
 それをごまかすように素早く身を翻し、足早に階段の方へと歩き出す。そして、深く呼吸をして気持ちを静めると、教本を抱え直し、レイチェルの部屋へと続く階段を一段ずつ踏みしめながら上っていった。

「今日も来てくれてありがとう」
 家庭教師の授業が終わると、レイチェルは門の前まで足を運び、屈託のない愛くるしい笑顔を見せながら、感謝の言葉とともにラウルを見送る。
 それはこの二ヶ月の間、ずっと続いてきたことだった。
 その度にラウルは取り残されたような寂しさを感じていたが、笑顔の裏に秘められた思いを知った今は、胸が潰れそうなほどに苦しく、そして焦がれるほどに愛しく思う。
「レイチェル、明日は休日だな」
「……ええ?」
 レイチェルは大きく瞬きをしながら少し訝しげに返事をした。当たり前のことを確認するラウルの意図がわからなかったのだろう。それに答えるように、ラウルはまっすぐに彼女を見据えて言う。
「二人でどこか、誰もいないところへ出かけたい」
「……どうして?」
 レイチェルは感情の抜け落ちた声でぽつりと尋ねた。
 それでもラウルは動じることなく、なおも真剣な眼差しを向けて説得を続ける。
「おまえに話したいことがある」
「今、ここでは話せないの?」
「長くなりそうだ。落ち着いて話をしたい」
「そう……わかったわ」
 レイチェルは少し考えてから静かにそう答えると、ニッコリと明るい笑顔を見せた。そして、後ろで手を組み、小さく首を傾げながら尋ね掛ける。
「どこへ行くの?」
「そうだな……」
 ラウルは眉根を寄せて考え込む。彼女を誘うことに精一杯で、そこまで具体的には考えていなかった。誰にも邪魔をされず、二人だけで落ち着ける場所は——。
「前にサイファと行った森の湖畔は?」
「そこにしよう」
 レイチェルの提案を即座に採用する。ラウルの条件にこれほど合致する場所は他にないだろう。少なくとも、あまり外を出歩かないラウルには思いつかなかった。
「馬の手配と昼食の用意はしておく」
「私は、朝、ラウルのところへ行けばいいのね」
「ああ……そうだな、それでいいだろう」
 ラウルが迎えに行ってもよかったが、それではアリスやアルフォンスにいろいろと詮索されかねない。レイチェルが来てくれるのであれば、その方がありがたいと思う。
「楽しみにしているわ」
 そう声を弾ませるレイチェルに、ラウルはそっと左手を伸ばして柔らかな頬を包み込んだ。そのまま瞬きもせず彼女の瞳をじっと見つめる。そしてゆっくりと身を屈めると、反対側の頬に軽い口づけを落とした。
 それは約束のしるしである。
 その意図を理解できなかったせいか、触れることすら久しぶりだったせいか、レイチェルは驚いたように大きく瞬きをした。呆然とラウルを見つめる。しかし、やがて小さくこくりと頷くと、華やかな愛くるしい笑みを顔いっぱいに広げた。
 それが心からのものかはわからない。
 だが、そうであってほしいと願わずにいられなかった。

 二人を急かすように、強い突風が通り過ぎた。
 ラウルは目を閉じて踵を返すと、長い髪をなびかせながら歩いていく。
 心は決まった。
 明日、レイチェルにすべてを話す。かつて守るべきだった少女のことも、その面影を重ねていた頃の想いも、それとは違う今の想いも、唐突に遠ざけた本当の理由も、そしてラウルがいま願うことも——その上で彼女に判断を委ねるつもりだ。
 夢を見ているわけではない。
 おそらく結果的には何も変わらないだろう。彼女はこの国でサイファとともに生きることを選ぶに違いない。それが最も有り得べき妥当な予想である。
 しかし、それでもやらねばならない。
 今までのラウルは狡かった。自分のことは何も話さず、彼女のためだと理由を付け、勝手に先回りして決めつけていた。それで彼女を守っているつもりだったのだろう。だが、その身勝手な気持ちの押しつけが、逆に彼女を追い詰めてしまったのだ。
 彼女もいつまでも守られるだけの子供ではない。
 嘘やごまかしではなく、彼女を信じ、本心で向かい合うべきだった。しかし今からでも遅くはない。期限が来る前に気づけたことは幸運だったといえる。きちんと誤解を解いたうえで彼女を送り出そう。それこそが本当のけじめだと思う。
 ラウルは立ち止まって顔を上げた。
 明日も晴れるだろうか——。
 彼女との約束に思いを馳せながら、どこまでも続くような青い空を仰ぎ、その眩しさに少しだけ目を細めた。


26. 覚悟

「レイチェル、ミルクティが入ったよ」
「ありがとう」
 サイファが白いテーブルにティーポットを戻しながら声を掛けると、窓越しの空をぼんやりと眺めていたレイチェルは、我にかえったようにニコッと微笑んで振り向いた。ティーカップを手に取り、少しだけ口をつけ、丁寧な所作で音を立てないようソーサに戻す。

 サイファはここ二ヶ月ほど仕事が忙しく、休日出勤続きで、レイチェルとはほとんど会うことが出来ずにいた。会えたとしても文字通り顔を会わす程度で、のんびりとお茶を飲むような余裕はなかったのである。
 その仕事もつい先日ようやく一段落した。
 そのため、今日は上からの命令で代休ということになり、サイファは久々に自宅で一日を過ごすことになった。一人でのんびりと疲れた体を癒すのも悪くはないが、それより何より、まずレイチェルにゆっくり会いたいという願いを叶えるのが先だと思った。ずっと楽しみにしていたことである。浮き足立つ気持ちのまま、今朝の早い時間に連絡を取り、家庭教師の授業が終わったら一緒にティータイムを過ごそうと誘ったのだった。
 レイチェルも喜んでその誘いを受けてくれた。だから、今、こうやってサイファの部屋でミルクティーを飲み、サイファの話を聞き、甘く愛らしい微笑みを見せているのである。
 しかし、彼女の様子には少し気がかりなこともあった。
 サイファと会話をしているときは普段どおりなのだが、それ以外のときになるとぼんやりしていることが多く、虚ろに空を眺めていたり、遠くを見つめていたり、心ここにあらずといった感じなのだ。
 もしかすると、会えなかった二ヶ月の間に、何かがあったのかもしれない。
 サイファは僅かに眉根を寄せる。しかしすぐに表情を取り繕って頬杖をつくと、もう一方の手を伸ばし、慈しむように彼女の柔らかい頬を包み込んだ。そのまま、小さな子供を安心させるような優しい声音で言う。
「レイチェル、僕で良ければ、遠慮しないで何でも話してね。話したくないことは無理には聞かないけれど、話して解決することもあるかもしれないし、そうでなくても心の負担は軽くすることが出来ると思うから」
 レイチェルは目をぱちくりさせてきょとんとしていた。前置きもなく唐突にこんな話を切り出されれば、面食らうのも無理からぬことだ。だが、彼女はすぐにニコッと小さな笑みを浮かべて言う。
「ありがとう」
 紡がれた言葉はそれだけだった。
 何もないのならはっきりとそう言うだろう。おそらく彼女は話さないということを選択したのだ。つまり、話せないほど深刻な悩みを抱えているということになる。聞き出したい気持ちはあるが、そんなことをすれば、口は開いても心は閉ざしてしまう。それでは本末転倒なのだ。
 一緒に暮らしていれば、いくら忙しくとも顔を合わせる機会はあるわけで、少なくとももう少し早く異変に気づくことは出来ただろう。深刻な悩みになる前に手が打てたかもしれない。
 あと8ヶ月か——。
 それは二人がともに暮らせるようになるまでの時間である。
 レイチェルが16歳になったらすぐに結婚できるよう、サイファは水面下で少しずつ準備を進めていた。まだ早いという反対意見もあったが、一番の問題だったアルフォンスはどうにか説得し、ラグランジェ家で最も大きな力を持つ前当主のルーファスにも承諾を受けた。これで障壁となるものは何もない。あとは双方の両親を巻き込んで本格的に行動を起こすだけである。
 幼い頃から待ち望んでいたその日は、足音が聞こえるほどすぐそこまで来ていた。
「サイファ、どうしたの? 大丈夫?」
 サイファが考えを巡らせていると、レイチェルが不安そうに覗き込みながら尋ねてきた。これでは立場が逆である。心配している相手に心配されてしまっては世話がない。自分の不注意に思わず苦笑を漏らして答える。
「僕は大丈夫だよ。少し考え事をしていただけだから」
「ずっとお仕事が忙しかったんでしょう? 疲れているんじゃない?」
「まあね、でも、だからこそレイチェルに会いたかったんだよ」
 それは、彼女を気遣っての言葉ではなく、サイファの偽りない本心だった。彼女の愛くるしい笑顔を見ると元気になれる。この笑顔を見るために、そして守っていくために、つらくとも頑張ろうと思えるのだ。
「これからも僕と一緒にティータイムを過ごしてくれる?」
「ええ、私も楽しみにしているもの」
 レイチェルはティーカップに両手を添えて、ふわりと花が咲いたように、可憐に愛らしく微笑んだ。それは、まさにサイファが切望していたものだった。

 二人の間に穏やかな時間が流れる。
 向かい合ってミルクティーを飲んで、温かいスコーンを口に運んで、取り留めのない会話をして、二人で笑い合って、ときどき見つめ合って——。
 たったそれだけのことで、サイファは心から満たされていくのを感じた。
 しかし、レイチェルが同じ気持ちでいるかはわからなかった。彼女の笑顔は幸せそうに見えた。だが、会話が途切れて静寂が訪れると、また目を細めてふっと遠くを見つめるのだ。
 やはり悩みがあるのだろう。
 もどかしく思いはするものの、それでも無理に聞き出すようなことはしないと決めていた。彼女が相談しやすい雰囲気を作り、ときおり優しく促しながら、彼女自身の決断で口を開くのを待つしかない。それが最善であると判断してのことである。焦ってはいけないと思った、そのとき——。
「サイファ、あのね……」
 レイチェルはぼんやりと遠くを見たまま、淡い声で切り出した。
「ん、何かな?」
 サイファは彼女を怯えさせないよう、しかしこの機会を逃がさないよう、柔らかいながらもしっかりとした口調で聞き返した。そして、ティーカップを口に運びながら、にこやかな笑みを浮かべて次の言葉を待つ。
「私、子供ができたの」
「!!」
 サイファは口に含んだ紅茶を吹きそうになった。それをこらえて飲み込むと、今度は気管に入ってしまい、ゲホゲホと咽せながら涙目で顔を上げる。
「えっと……それって、ペットを飼い始めたってこと?」
「そうじゃなくて、私のおなかの中に赤ちゃんがいるの」
「あ……あのね、レイチェル……」
 彼女の突拍子もない発言に慣れているサイファも、これにはさすがに狼狽せずにはいられなかった。困惑した笑みを張り付かせながら途方に暮れる。彼女がなぜそんなことを言い出したのか見当もつかない。もちろんサイファには身に覚えなどなかった。
 もしかして、何も教わっていないのか——?
 彼女はもう15歳であり、数ヶ月後にはサイファと結婚することになっている。なのに、そういったことに関して何の知識もないのだとすれば大問題である。アルフォンスもアリスも今まで何をしていたのだと心の中で嘆息した。
 とりあえず、間違った思い込みだけでも正さなければならない。どのように説明しようか頭を悩ませながら、慎重に言葉を選んで口を開く。
「知っているかな? 赤ちゃんってコウノトリが運んでくるわけじゃないんだよ?」
「知っているわ」
 レイチェルは当然のようにさらりと答えた。
 そのまっすぐに前を見据えた表情は、夢や幻想を語る少女のものではない。
 ゾクリ、とサイファの背中に冷たいものが走った。
 まさか、本当に——?
 額に汗が滲んでいく。頭はぐちゃぐちゃに混乱していた。何が何だかわからなかった。考えもまとまらないままに上ずった声を漏らす。
「じゃあ……でも、そんなこと……だって僕たちはそんな……」
「サイファじゃないの」
 対照的に静かに落とされた彼女の言葉。
 ドクン、と飛び出しそうなほどに大きく心臓が跳ねる。同時に、頭の中に鋭い閃光が走った。そこに見えたものは荒唐無稽とも思える推測——。なぜそんなことを思いついたのか自分でもわからない。信じたくはない。だが、それは残酷なまでに抗いがたい説得力を持っていた。おそるおそる、それでもまっすぐに彼女の目を見て尋ねる。
「もしかして、ラウル……?」
 レイチェルはじっと見つめ返し、無言でこくりと頷いた。
 ——ガタン!
 サイファは両手をついて勢いよく立ち上がった。優雅な意匠の白い椅子が後方に弾き倒され、カップの中のミルクティーが波を打って縁から零れた。
 頭の中が真っ白になる。
 言いたいことも聞きたいことも山のようにあるはずなのに、口を半開きにしたまま、ただその場に立ちつくすことしかできない。白いテーブルの上に置かれた手は、固く握りしめられ小刻みに震えている。その上に、額から伝った汗がポタリと落ちた。
 僕は、馬鹿だ——。
 きつく奥歯を噛みしめてうなだれる。金の髪がはらりと頬に掛かった。窓越しに降りそそぐ明るい光が、それをより鮮やかに華やかに煌めかせ、その下の顔に深い影を落とした。
 これまで疑惑を持ったことは一度たりともなかった。二人のことを信用していたというよりも、そんなことは考えすら及ばなかったのだ。だが、その考えが頭に浮かんだとき、まるでバラバラだったパズルが一瞬で完成したかのように感じた。ピースは手元にあったのだ。一つ一つは何でもないことでも、すべてを正しく合わせれば見えてくるものがある。難しいことではない。なのに、なぜ今の今まで気づかなかったのだろうか。もっと早く気づいていれば止められたはずなのに——。
 後悔するだけでは何も始まらない。
 サイファはゆっくりと深く息をしてから顔を上げると、きょとんとしているレイチェルに、出来うる限りの落ち着いた口調で尋ねる。
「お医者さんには診てもらったの?」
「ううん、でも間違いないと思うの」
 レイチェルはサイファを見上げて真面目に答えた。
「……行こう」
 サイファは静かにそう言うと、向かいに座るレイチェルの手を取り、早足で彼女とともに部屋を後にした。ティーテーブルの上には、飲みかけのミルクティーが二つ、そのままの状態で放置されていた。

「ねぇ、サイファ、どこへ行くの?」
「医者にきちんと検査してもらうんだ」
 レイチェルの手を引いて王宮への道を歩くサイファは、足を止めることも振り返ることもなく答えた。どうしようもなく気が焦り、走り出したい衝動に駆られるが、それを実行に移すことはできない。もし彼女の言ったことが事実ならば、気遣わねばならない身体である。走らせて転倒するようなことがあれば、大変な事態になるかもしれないのだ。
「医者ってラウルのところ?」
「……違うよ」
 その声の冷たさに、サイファは自分のことながら驚いた。眉根をきつく寄せ、口をかたく結ぶ。こんなことではいけない——瞳を閉じて心の中で頷くと、右手の中の小さな温もりを逃さないように、強く、優しく力を込めた。
「僕に任せて」
 それは、彼女に向けた言葉であると同時に、自分自身を奮い立たせ、揺らぎそうな決心を支えるための言葉でもあった。

 王宮の一角にある一室——その扉の前に二人は立った。
 可能ならば人目を忍んで裏口から入りたかったが、残念ながら、サイファの知る限り出入口はここひとつきりである。レイチェルの手をしっかり握り直すと、小さく息を吸ってその扉を引いた。
 ラウルのところとは随分と様子が違うが、ここも王宮医師が常駐する医務室である。
 入ったところは小さな待合室になっており、すでに5人が長椅子に座っていた。正面には受付窓口がある。その横にある扉の奥が診察室で、最初に来たときには、意外と立派な設備が整っていて驚いたことを覚えている。
「こちらに名前を書いてお待ちくださいね」
 受付の女性が二人に愛想良く声を掛け、窓口から受付票とペンを差し出した。
 しかし、サイファはそれを受け取らず、窓口に手を掛けて覗き込むと、背後を気にしながら声をひそめて言う。
「内密で先生に相談したいことがあります。取り次いでもらえますか」
「……しばらくお待ちください」
 サイファがラグランジェ本家の次期当主であることを知っていたためか、彼女は無理な要望にもほとんど困惑を見せることなく、事務的にそう言い残して奥に消えていった。

「それで、何? 診察だっけ?」
 30分ほど奥の部屋で待たされたあと、この医務室の主であるサーシャが不機嫌に姿を現した。彼女は王宮医師の一人であり、まだ若いが腕は確かだと聞いている。愛想がないのが玉に瑕だが、言動がぶっきらぼうなだけで、心まで冷たいというわけではない。実際、サイファの突然の要望にも、こうやって渋々ながら応じてくれたのだ。扉に休診の札を掛け、待合室にいた5人の診察を終えてから、サイファたちを待たせていたこの部屋へ来たのである。
「個人的な、それも極秘のお願い、ということにしたいんですが」
「報告書には書くなってことね」
 サーシャは向かいのソファに腰を下ろすと、溜息まじりにサイファの意図を確認した。
「さすが話が早いですね」
「今度、昼メシくらい奢りなさいよ」
「それくらいなら喜んで」
 サイファは人なつこい笑顔で応じた。しかし、何が気に障ったのか、サーシャはなおさらムッとして気色ばんだ。面倒くさそうに視線を送りながら言葉を繋ぐ。
「それで何の診察をすればいいわけ?」
「妊娠しているか検査をお願いします」
 サイファは躊躇いもせずさらりと言う。その瞬間、サーシャは僅かに眉を寄せた。
「あんた男でしょう?」
「僕じゃなくて、この子、僕の婚約者のレイチェルを」
 サイファは隣の彼女を抱き寄せて示した。
 サーシャはじとりとレイチェルを見つめた。彼女はきょとんとしていたが、サーシャと目が合うと、途端にニコッと無邪気なまでの笑顔を見せた。まるで状況を把握できていない子供のようなその笑顔に、サーシャはどっと疲れたように深く溜息をつき、顔をしかめながら頭を押さえてうなだれた。

「してるわよ、妊娠。二ヶ月ちょっとってところね。医学的には問題なし」
 一通りの検査を済ませると、サーシャはレイチェルとともに奥の部屋に戻り、待たせていたサイファに前置きもせずテキパキと報告した。
「そうですか」
 すでに心の準備が出来ていたサイファは、動揺を見せることなく静かに返事をした。そんなサイファを見ながら、サーシャはソファの背もたれに腕をかけて、呆れたように溜息をついた。
「ったく、どうかしてるわ。こんな子供をよくもまあ……15歳って聞いたけど、顔だけ見てるとまるきり子供じゃない。何にもわかってないのかぽけーっとしてるし。まあ、身体だけは随分成長しちゃってるみたいだけど。何を食べたらあんなに大きくなるんだか……」
 ぶつくさと文句を言う彼女の視線は、レイチェルの胸元に注がれていた。
「聞いているの? サイファ」
「聞いていますよ」
 サイファは苦笑しながら答えた。
「あんたまさか無理やりやったわけじゃないわよね」
「そんなわけないじゃないですか」
 疑わしげに尋ねるサーシャを、サイファは軽く笑ってあしらう。しかし、内心はドキリとしていた。考えもしなかったが、ありえないとは思うが、そういう可能性もゼロとは言いきれない。頭では否定しつつも、心は不安に絡め取られる。鼓動が次第に速くなっていくのを感じた。
 レイチェルにそっと横目を流す。
 彼女はすぐにそれに気づいたようだった。不思議そうに小首を傾げると、じっとサイファを見つめながら、無言の問いに対する答えを口に上らせる。
「無理やりじゃなくて、私も好きだったから……」
「ほらね、だから言ったでしょう?」
 彼女の答えはおそらく本当のことなのだろう。少なくとも彼女の意思に反する行為ではない。もしかすると彼女自身が望んだことなのかもしれない。サイファは切り裂かれるような痛みを胸に感じたが、同時に大きく安堵もしていた。
 サーシャは呆れたように溜息をついた。
「だからって、何もわかってないようなポヤポヤのお嬢ちゃんに手を出すんじゃないわよ。あんたはもう立派な大人なんだから、考えなしに行動しちゃいけないってことくらいわかるでしょう?」
「そうですね、反省しています」
 サイファは笑顔のまま肩を竦めて見せた。
 その隣で、レイチェルは混乱したような顔でちらりとサイファに視線を送る。誤解されているにもかかわらず、それを否定しないことが理解できないのだろう。それでもこの場で尋ねたり反論したりしないのは、ここに来る前にそう言いつけておいたからである。
「で、どうするのよ」
「産みますよ」
 サイファは間髪入れずに答えた。
「どうせあと数ヶ月で結婚するつもりでしたし、少し予定が早まっただけです」
「そ、ならいいけど。後味の悪い結末は見たくないしね」
 サーシャは無愛想にそう言って脚を組んだ。
「でもそんなに簡単にいくの? サイファってラグランジェ家の次期当主なんでしょう? いろいろ面倒なことがあるんじゃない?」
「それ以前に最大の難関がありますよ」
 サイファは少しおどけたように遠回しな表現をした。
 しかし、サーシャにはすぐに何のことかわかったようだ。
「ああ、この子の両親はまだ知らないわけね。そういえばこの子の父親って、娘を溺愛していることで有名な、あのやたら体格のいいおっさんだっけ? ……あんた、殴り殺されるわよ」
「そうならないよう努力します」
 サイファは苦笑しながら、それでもしっかりとした声で答えた。
「私に出来ることがあったら言って。可能な限り協力するから」
「ありがとうございます」
 ぶっきらぼうに気遣うサーシャの言葉が、今のサイファにはとても心強く感じられた。深々と頭を下げて、精一杯の感謝の意を示す。
「しっかし、あんたはいつもやっかいごとばかり持ち込んでくるわねぇ」
 サーシャは両腕をソファの背もたれに掛けると、顔をそむけて脚を組み替えながら、照れ隠しのように急に大きな声で話題を変えた。
「ただでさえ忙しいんだから、もうこれ以上は勘弁してほしいわ。最近じゃ、色ボケラウルの世話まで焼かなきゃならないし」
「色ボケ……?」
 ラウルにはおよそ似つかわしくないその形容に、サイファはほとんど反射的に聞き返していた。その途端、サーシャは目を輝かせて、ぐいっと前のめりに身を乗り出す。
「そうなのよ! それがどうやら恋してるらしくてね。ビックリでしょ?」
 驚いて何も言えないサイファを見ると、彼女は満足げに大きな笑みを浮かべた。
「これまで真面目なだけが取り柄だったのに、このところ報告書の提出を忘れてばかりでね。かなり重度の恋煩いみたい。本人にも恋してるのか訊いてみたけど、否定しなかったから間違いないわ」
 なぜかこぶしを握りしめながら、勝ち誇ったように力説する。
「でも、残念ながら相手がわからないのよねぇ。サイファ、あんたは知らないの? ラウルとけっこう親しいんでしょう? 聞いてはなくても予想くらいはつくんじゃない?」
「わかりませんよ」
 サイファは素っ気なく答えた。
 察しはついている。いや、確信していると言ってもいい。だが、断じてそれを悟られるわけにはいかないのだ。下手なことを言わないようにと気を引き締める。
「じゃあさ、ちょっと探ってきてくれない?」
「冗談じゃありません。僕を殺す気ですか?」
「やっぱりサイファでも無理なんだぁ」
 サーシャは派手な抑揚をつけて残念がると、頭の後ろで手を組みながらソファにもたれかかった。そして、サイファに物言いたげな視線を流して尋ねる。
「あんたは気にならないの? あのラウルなのよ?」
「先生も命が惜しかったら詮索なんて止めた方がいいですよ。ラウルの機嫌を損ねないうちにね。どうせ成就しない恋なんですから」
 サイファは冷ややかに言い切った。
「それどういうこと?」
「二人は生きる時間の流れが違う。そんな二人が寄り添って生きるなんて無理な話ですよ。たとえ、どれだけ想い合っていたとしてもね」
 静かに、しかし重々しく言葉を落とす。
 隣のレイチェルがどんな顔でそれを聞いているのか、正面を向いたままのサイファにはわからなかった。いや、わかろうとしなかった。目を向けるだけの勇気がなかったのかもしれない。
「若いのに夢も希望もないことを言うわね」
「現実的なだけですよ」
 感心したような呆れたようなどちらともつかないサーシャの言葉に、サイファはふっと小さな笑みを漏らして答えた。

 話が一段落したところで、サイファは帰ることにした。
 無理を聞いてくれたサーシャに丁寧に礼を述べると、レイチェルの手を引いて医務室を後にする。廊下にはほとんど人通りはなかった。転ばないように配慮しながら、彼女の歩調に合わせて足を進める。
 外に出ると、もう日が落ちかけていた。
 長い長い影が二人の後方に伸びている。
 地平近くから注がれる色づいた光は、まわりの空と地上を朱に染め上げていた。それは強烈なまでに鮮やかながら、何とも言いようのない物寂しさを感じさせる光景だった。
「どこへ行くの?」
「いいから来て」
 家路とは違う方向へ足を進めるサイファを見つめ、レイチェルは不安そうにしていたが、それ以上はもう何も尋ねることなく、手を引かれるまま素直についていった。
 ふたりは王宮の外れにある小さな森へとやってきた。
 ひっそりとした薄暗い散歩道には、まったく人の気配は感じられない。昼間でも寂しい場所である。夜が訪れようとしているこの時間に、あえてここに来る人間はほとんどいないだろう。
 サイファは森の中ほどで足を止め、しつこいくらいに注意深く周囲を窺った。そして、誰もいないことを確信すると、真正面からレイチェルと向かい合う。彼女は困惑したように瞳を揺らしながらサイファを見上げた。
「レイチェル、おなかの子のことは誰かに話した?」
 レイチェルは無言のまま首を横に振った。細い金の髪がさらさらと小さく揺れる。
「ラウルにも?」
「話していないわ」
「よし……」
 サイファは小さく頷いてそう呟くと、レイチェルの両肩に手を置き、強い光を湛えた瞳で覗き込む。
「レイチェル、一度しか言わないからよく聞いて」
 レイチェルは緊張した面持ちでこくりと頷き、胸元でそっと両手を重ねた。不安そうにサイファに視線を送る。それを正面から受け止めつつ、サイファは芯の通った力強い声で言う。
「君のおなかの子は僕の子だ。今後そのつもりで振る舞ってほしい」
「今後……これからずっと……?」
 レイチェルは理解できないというように首を傾げて聞き返した。
 サイファはますます真剣な表情になって答える。
「そう、僕たちは予定どおり結婚して、その子を僕たちの子として二人で育てる」
「でも……」
「だから本当のことはもう二度と口にしないで。僕たち二人きりのときでもね。どこで誰が聞いているかわからないだろう? 誰にも知られるわけにはいかないんだ。ラウルにも当分は会わない方がいい。連絡もいっさい取らないで」
 サイファは自分の意見を押しつけるように早口で捲し立てた。その一方的な物言いに、レイチェルは戸惑ったように顔を曇らせる。
「でも、まだ家庭教師が……」
「アリスから断ってもらうよ。それは僕が頼むから心配しないで」
 サイファがそう宥めても、彼女はまだ何か言いたげにしていた。上目遣いでサイファを見ながら、おずおずと遠慮がちに切り出す。
「あのね、私、あしたラウルと一緒にお出かけする約束をしたの」
「……駄目だよ、僕が断っておく」
 サイファは低い声で諭した。そして、再び、彼女を強く覗き込みながら訴えかける。
「レイチェル、君は事の重大さを理解していないだろうけど、これはとても大変なことなんだ。このことが他に知られれば、おなかの子は確実に生きられないし、下手をすると君も……」
 結婚できなくなるのは当然のことだが、婚約解消だけですむ問題とも思えない。
 下世話な話題を好む人間は多い。ラグランジェ本家の次期当主が婚約解消したとなれば、世間から理由を詮索されることは避けられない。中絶の話もどこからか漏れる可能性が高いだろう。
 そんな醜聞をラグランジェ家は許さない。
 それよりは、事故に見せかけて殺した方が手っ取り早いし、危険因子も遥かに少なくなる。ラグランジェ家を何よりも重んじ、非情なまでに合理的な考えを持つ前当主ルーファスならば、その手段を選択しても不思議ではない。実際、ラグランジェ家の過去には、不可解な死と噂されるものがいくつもあるのだ。
「私、殺されてしまうの?」
 レイチェルはぽつりと呟くように尋ねた。
「そうならないように努力する。いや、必ず僕が守る。君も君のおなかの子も。だからお願い、僕の言うことを聞いて……」
 サイファは必死に哀願しながら、彼女の肩を掴む手に力を込める。
 レイチェルは小さくこくりと頷いた。だが、じっとサイファを見つめるその顔は、まだ事情を飲み込めていないような、どこか曖昧な表情をしていた。

「ふざけるな!!」
 応接間が震えるほどの怒号とともに、サイファは焼けるような強烈な痛みを頬に感じた。床に叩きつけられるように横向きに倒れ込む。口には生ぬるい鉄の味が広がっていった。
「誰がおまえなんぞに娘をやるか! 婚約など破棄だ!! 帰れ!!!」
「本当に申し訳ありませんでした……」
 よろりと身を起こしながら謝罪する。それだけで殴られたところがズキズキと痛み、思わず顔をしかめる。しかし、すぐに表情を引き締めると、床に両手をついて頭を下げ、真摯に言葉を繋いでいく。
「どのような謝罪でもしますし、罰を受ける覚悟もあります。ですが、レイチェルを諦めることだけは出来ません。結婚を許してくださるまで帰るつもりはありません」
「よくもぬけぬけと……おまえは殺す……殺してやる……」
 アルフォンスは低く唸るようにそう言うと、ギリギリと音が聞こえるくらいに歯がみした。サイファとの距離をじりりと詰め、大きなこぶしを強く握りしめて震わせる。そこには何本もの青筋が浮き出ていた。
「やめて!!」
 甲高い悲痛な叫び声が、張り詰めた空気を切り裂く。
 レイチェルは弾かれるように無抵抗のサイファの前に飛び出すと、彼を背に庇うように両手を広げて膝をついた。血の気が引いた真っ白な顔で、小さな口をきゅっと結び、完全に沸点に達している父親を仰ぎ見た。
「どけ! レイチェル!!」
 体の芯を震わせる怒鳴り声にも、彼女は一歩も引かなかった。何度も首を横に振って懸命に訴えかける。
「サイファは悪くない、何も悪くないの!!」
「レイチェル、いいんだ」
 サイファは後ろから静かに制止した。
 しかし、その言動がアルフォンスの怒りにさらなる油を注ぐことになった。蒸気を吹き上げんばかりの勢いで頭に血を上らせると、眉間にいくつもの深い皺を刻み、腹の底から重低音を響かせて怒りを爆発させる。
「サイファが悪くなければ誰が悪いというのだ!」
「殺すなら私を殺して!!」
 レイチェルは瞳を潤ませながら、全力で声の限りに叫んだ。
 アルフォンスはその迫力に圧されて息を呑んだ。当然ながら、彼が愛娘に手を上げることなどできない。だからといって許すこともできない。ただ全ての元凶であるサイファを刺すように睨みつけるだけだった。
「アルフォンス、とりあえずここは引いて。レイチェルの体に障るわ」
 それまで黙って成り行きを見守っていたアリスが、ソファから腰を上げて静かに言った。握りしめられた大きなこぶしに、細い手を添えて制止する。
「話はあらためてにしましょう」
「くっ……」
 アルフォンスは悔しげに声を詰まらせると、修羅のような形相でサイファを一瞥し、床をドカドカと踏み鳴らしながら応接間を後にした。叩きつけるように閉められた扉の向こうから、何かを盛大にひっくり返したような音がいくつも重なり合って聞こえてきた。

「レイチェル、大丈夫?」
「サイファ、ごめんなさい、本当にごめんなさい」
 床に座り込んだままのサイファが背後から声を掛けると、レイチェルは涙を溢れさせながら倒れ込むように抱きついてきた。彼女も少しは事の重大さを実感したのだろう。体を震わせながら、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返す。
 サイファはその背中にそっと手をまわし、あやすように軽くポンポンとたたく。
「僕は平気だから。でも、約束だけは忘れないで」
 声をひそめて耳元で囁くようにそう言うと、レイチェルはサイファの肩に顔をのせたまま、小さくしゃくり上げながらこくこくと頷いた。彼女の涙がサイファの頬に触れる。その温かさは、少しの痛みを伴って、胸にじわりと沁み込んできた。

「サイファ、今日はとりあえず帰ってくれる?」
 アリスは抱き合う二人を見下ろしながら淡々と言った。
「アルフォンスは私が説得するわ。今は感情的になっているけれど、冷静に考えればわかるはずよ。二人の結婚を認めるしかないということ、それが誰にとっても最善だということがね」
「本当に申し訳ありません」
 サイファは立ち上がって深々と頭を下げた。ズキズキと疼く頬を、金の髪が掠めていく。それだけでさらに痛みが増したような気がした。
 アリスは少し顔を曇らせて続ける。
「あと数ヶ月後には結婚する予定の二人なんだから、私個人としては認めてあげればいいと思っているけれど、ラグランジェ家としては大変なことなのよ。アルフォンスだけではなく、前当主ルーファスの許しも得なければならないわ」
「はい、説得するつもりです」
 もちろんそのことも忘れてはいなかった。しかし、アルフォンスほど説得は困難ではないだろう。彼はレイチェルとサイファの子供を待ち望んでいるのだ。ラグランジェ家にさらなる飛躍をもたらすであろう、二人の能力を受け継ぐ優秀な子供を——。そのためには、これくらいのことは不問に付すのではないかというのがサイファの目算だった。
「そこまで考えているのなら、もう私が言うことは何もないわね」
 アリスは両手を腰に当てて小さく息をついた。
 サイファは重々しく頭を下げた。これで何度目だろうかと思う。しかし、このくらい大したことではない。土下座をすることも、罵られることも、軽蔑されることも、殴られることでさえも、すでに覚悟を決めていたのだ。
「それにしても意外だったわ」
 一息ついて緊張が弛んだのか、アリスはそれまでとはまったく違うのんびりした声でそう言うと、立てた人差し指を唇に当てて斜め上に視線を流した。
「サイファって理性的だし、次期当主の自覚もあるし、そういう間違いを起こすなんて考えもしなかったわ。今でもまだ信じられないくらい」
「僕もただの男ですよ」
 サイファは苦笑しながら言った。そんな彼を、アリスは探るような眼差しで覗き込む。
「ねぇ、もしかしてレイチェルが誘ってきたのかしら? あの子さっき自分が悪いって言っていたでしょう? サイファに何度も謝っていたのも、そういうことなんじゃない?」
 それは大胆な推測だったが、筋は通っていた。レイチェルの少し行きすぎた行動の理由としても納得がいく。彼女には悪いと思ったが、サイファはあえてそれに乗ることにした。
「それでも悪いのは僕の方です」
「どっちもどっちね。まったく、子供だと思っていたのにこの子は……」
 アリスはそう言って溜息をつくと、サイファの腕に縋りつくレイチェルを見下ろし、窘めるようにその額を人差し指で弾いた。そして、再びサイファに視線を戻し、真面目な顔になって言う。
「サイファ、何があっても諦めないでね。レイチェルのためにも」
「たとえ諦めろと言われても、諦めるつもりはありませんから」
 レイチェルの華奢な肩を抱き寄せ、その手に力を込めながら、サイファはにっこりと力強く微笑んで答えた。

「父上、母上、お話があります」
 サイファは自宅に戻ると、居間の扉を開くなりそう切り出した。
 両親はソファで向かい合って何か話をしていたようだが、その声につられてほとんど同時に振り向いた。
「サイファ! おまえどうしたんだ、その顔……」
 途端にリカルドはぎょっとしてサイファを指さした。
 その理由はわかっていた。鏡を見たわけではないが、殴られたところが腫れている自覚はある。もしかすると、変色もしているのかもしれない。相当ひどい状態になっているのだろう。
「これからあなたがする話と関係があるのね?」
 一方のシンシアは落ち着きはらっていた。実際のところはわからないが、少なくとも表面上はそう見えた。聡明な光を宿した双眸で、射抜くようにサイファを見据えている。
 それでもサイファが怯むことはなかった。
「はい、説明させてください」
「聞きましょう」
 シンシアはリカルドの隣に移動して座り直すと、先ほどまで自分がいた向かい側を示し、サイファにそこに座るように促した。

 サイファは今日の出来事を端的に話した。
 ほとんどはありのままだったが、最も肝心な部分だけは事実を伏せてごまかした。つまり、サイファがおなかの子の父親であるという前提で話を組み立てた。もっとも、ことさらにそれを強調する必要はない。疑われることはまずありえないのだ。サイファがそうだったように、おそらく誰も考えもしないことである。
 両親の顔はみるみるうちに険しくなっていった。
 サイファが話し終わると、シンシアは怖いくらいの真剣な眼差しを向けて言う。
「サイファ、あなたにはいつも言っていたはずよ。ラグランジェ本家次期当主としての自覚を持ち、場の感情に流されることなく、自らの冷静な判断をもって、常にその名に恥じない行動をとるよう心掛けなさいと」
「申し訳ありません」
 サイファは神妙な顔で頭を下げた。事実はどうであれ、母親を落胆させたことには違いない。ラグランジェ家の当主に相応しい人間であるようにと、彼女はこれまで厳しくも愛情を持って育ててくれた。その恩を仇で返す結果になってしまい、本当に心苦しく思う。
「終わったことをしつこく責めても始まらないわ。あなたももう十分に反省しているのでしょう。お説教はこれで終わり。ここからは今後の対処について考えましょう」
「そうだな……」
 リカルドも溜息をつきながら同意した。しかし、あまりの難題に苦悶の表情を浮かべる。ゆっくりと腕を組むと、首を斜めにして考え込んだ。
 シンシアはサイファから目を逸らさずに尋ねる。
「あなたの気持ちは固まっているのね?」
「はい、僕はレイチェルと結婚します」
 サイファは前を向いて毅然とした口調で断言した。
「そうは言っても問題は山積しているぞ」
 リカルドは腕を組んだまま眉根を寄せた。
 だが、シンシアはその非建設的な意見を無視して話を進めていく。
「アリスはどう言っているの?」
「アルフォンスを説得すると言ってくれています」
「そう、アリスが味方なら心強いわ」
 少し安堵したように息をつくと、再び厳しい顔つきになって続ける。
「まずはアルフォンスの説得ね。アリスと相談してからこちらの出方を決めるけれど、早いうちに私たちも謝罪に行った方がいいでしょうね」
「そうだな、それは避けられないだろうな……」
「あなたもサイファのように殴られることを覚悟しておいて」
「えっ?!」
 リカルドは隣のシンシアに振り向き、目を見張って素っ頓狂な声を上げた。しかし、シンシアは、今さら何をという半ば呆れたような面持ちで付言する。
「それだけのことをしたのよ、サイファは」
「そ、そうだね……」
 すでにリカルドの顔からは血の気が失せていた。引きつったごまかし笑いを張り付かせている。サイファの顔の状態を見て、同じ目に遭わされるのだと思えば、怖くなるのも当然だろう。
「申し訳ありません」
 サイファはソファに座ったまま深々と頭を下げた。
「サイファ、あなたは部屋に戻って休んでなさい。用があればこちらから呼ぶわ。それと、その顔、冷やしておいた方がいいわね。かなり腫れているわよ」
 シンシアは歯切れよく指示を送る。
「はい」
 サイファは素直に返事をすると、丁寧に一礼して居間を後にした。

 カタン——。
 サイファは二階の自室へ戻ると、静かに扉を閉めた。
 灯りもつけず暗い部屋で立ちつくす。
 窓際のティーテーブルには、レイチェルと紅茶を飲んでいたときの状態がそのまま残っていた。ただそのときの温度はもうそこにはない。月明かりを受けて、白い陶器が冷たい光を放っている。
 ——自分は、何も、何一つ間違っていない。
 サイファは薄い唇をきゅっと結び、僅かに顎を引いた。
 レイチェルを見捨てていいはずがない。そもそも二人を仲良くさせようとしたのはサイファである。自分の好きな二人が仲良くしてくれると嬉しかった。ただそんな単純なことしか考えず、してはいけないことも教えず、こうなるまで何も気づかなかった自分にも責任がある。そして何より、サイファ自身が彼女を失いたくなかったのだ。
 彼女を助けるための選択肢は二つあった。
 ひとつはサイファがおなかの子の父親になること。
 もうひとつはすべてをラウルに託すこと——。
 サイファは迷うことなく前者を選択した。もしかすると、それは彼女のためというよりも、彼女と離れたくないという自分自身の身勝手な思いによるものかもしれない。彼女のことは全力で守るつもりだが、ラグランジェ家にいる限り、つらい思いをさせてしまうことは避けようがない。まして、ラグランジェ家を捨てて逃げ切る力などあるはずもないのだ。
 それでも、自分の選択は間違っていなかったと思う。
 確かにラウルの圧倒的な魔導力を持ってすれば、ラグランジェ家から逃げることも、ラグランジェ家を黙らせることも可能である。何の不安もない環境で、彼女は大きな力に守られながら安穏と過ごしていくことができるだろう。
 だが、二人は生きる時間の流れが違うのだ。
 そのことがサイファの唯一の拠り所だった。長い目で見れば自分の方が彼女を幸せにできるという自信を持てた。今後の人生を懸けてそれを証明していくつもりである。
 しかし、それも一方的な押しつけでしかない。
 もしも彼女に二つの選択肢を提示したら、どちらを取っただろうか——。
 頭を掠めた不安から逃れるように、サイファは顔をそむけてうつむいた。
 ふと、壁掛けの鏡が視界の端に入った。そこに映し出されている哀れな姿は、とても自分とは思えないほどだった。あらためて正面から向かい合う。殴られた部分は想像以上に痛々しかった。輪郭が変わるほどに腫れ上がり、内出血のためか黒ずんだように変色している。
「はは……ひどい顔だな……」
 小さな声で自嘲ぎみに呟くと、両手を伸ばして鏡に手をついた。小さく顎を引き、上目遣いで向こう側の自分をじっと見つめる。差し込んだ月明かりが、鮮やかな青の瞳を冷たく輝かせていた。
 ラウル、おまえには渡さない。絶対に——。
 鏡に手をついたまま、奥歯を食いしばって下を向く。全身が強張った。肩は小刻みにわななき、爪先は強く押しつけられて白くなっている。
 雫がひとつ、震える頬を伝った。
 それは拭われることなく滑り落ちると、月明かりを受けて刹那に煌めき、音も立てず密やかに床の上で砕け散った。



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