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21. 流れゆく星のような

 ラグランジェ家のパーティから二ヶ月が過ぎていた。
 レイチェルの両手首の傷はすでに完治している。痕も残っていない。
 そのことは、彼女自身よりも、彼女のまわりの人間を安堵させた。当然ながらラウルもそのひとりである。サイファやアルフォンスと違い、あまり言葉や態度には表さなかったが、彼らに負けないくらいに心配していたのだ。
 それ以外では特に大きな出来事もなく、ただただ平和な日々が続いていた。ラウルが家庭教師としてレイチェルの家に向かい、彼女がお茶を飲みにラウルの部屋へ来るという、そんな穏やかでささやかな関係も、当たり前のように続いていた。

「今日はここまでだ」
 ラウルが終了を告げると、レイチェルはいそいそと教本を片付け始めた。授業中はそうでもなかったが、今はすっかり落ち着きをなくしているように見える。きのう彼女から聞いた話では、このあと何かとても楽しみなことがあるらしい。そのためラウルの部屋には行けないとも告げられている。もう気持ちはそちらに向かっているのだろう。
「私はこれで帰る」
 ラウルはそう言って立ち上がり、教本を脇に抱えて背を向けた。
 思えば、彼女が部屋に来るようになってから、一人で帰るのは初めてではないだろうか。そのことが思いのほか寂しく感じられた。彼女と並んで歩くことが当たり前になりすぎていたのかもしれない。
「待って」
 レイチェルの凛とした声が、去りゆくラウルの足を止めた。せっかく気持ちを振り切ろうとしていたのに、と少し恨めしく思いながら、彼女にしかめ面を振り向ける。
「何だ?」
「ラウルも用事があるのよ」
 レイチェルはニコニコしながらそんなことを言う。だが、ラウルにはその意味するところがまるでわからなかった。少なくとも自分はその用事とやらに覚えはない。
「来て」
 レイチェルは困惑しているラウルに駆けていくと、その大きな手を引いて、何の説明もないまま強引に部屋から連れ出した。

 ラウルが連れて行かれた先は、階下の応接間だった。
 レイチェルはラウルの手を引いたまま、その重みのある扉をゆっくりと押し開く。
 広がる視界に飛び込んできたもの——。
 それはホームパーティでも始めるかのような光景だった。気軽に食べられるような料理がテーブルの上にいくつも並び、その端にはグラスと取り皿が用意されている。いずれも手をつけられた形跡はない。
「あれ? ラウルも呼ばれていたのか?」
 窓際のソファでひとり寛いでいたサイファは、読みかけの本を置きながらそう言うと、立ち上がって二人の方へと足を進めた。濃青色の制服を崩さずきっちりと身に着けている。休暇というわけではないようだ。
「……おまえ、仕事はどうした」
「家庭の事情で早退だよ」
 サイファは悪びれもせず、あっけらかんと答えた。確か、以前もこんなことを言って早退していたことがある。そのときはレイチェルに勉強を教えるためだった。おそらく今回もたいした理由ではないのだろう。
「勝手なことばかりせず真面目に仕事をやれ」
「レイチェルの誕生日くらいいいだろう?」
 サイファは両手を腰に当て、軽く肩を竦めながら言った。
「誕生日……?」
「聞いてなかったのか? これからレイチェルの誕生日パーティだよ」
 それを聞いて、ラウルはようやく悟った。これはレイチェルの幼い策略なのだということを。前もって招待しても断られると思ったのだろう。だから何も教えることなく直接ここへ連れてきたのだ。
 彼女がこの手を使ったのは何度目だろうか——。
 確かに、以前は彼女に頼まれたことを何もかも断ろうとしていた。だが今は違う。出来るだけのことはしてやりたいと思っているのだ。しかし、それが伝わっていないのは自業自得なのだろう。ラウルは溜息をつきながら、ニコッと無邪気に笑う彼女を見下ろした。

「あ、ちょっと待っていてね」
 サイファは急に何かを思い出したようにそう言うと、部屋の隅に駆けていき、そこに用意してあったものを取って戻った。
 それは、十数本のピンクローズを中心とした花束だった。
 強烈な派手さはないが、上品な華やかさがあり、なおかつ可憐な雰囲気も持ち合わせている。それは、花が完全に開ききっていないことに起因するのかもしれない。無垢な色の柔らかな花弁は、まだその奥を隠したままだ。まさにこれから咲き誇るところなのだろう。
「レイチェル、お誕生日おめでとう」
「わあ、ありがとう」
 サイファが花束を差し出すと、レイチェルは嬉しそうに甘い笑みを浮かべて受け取った。そのピンクローズを胸いっぱいに抱え、ほのかな芳香を楽しむように、心地よさそうに目を閉じる。僅かに開いた窓からは、柔らかな風が滑り込み、淡いピンクの花弁と細い金の髪をささやかに揺らした。その姿はまるで絵に描いたように愛らしく、そして美しかった。
「ラウルはお誕生日いつなの?」
 彼女はふいに顔を上げて尋ねた。それはたわいもない世間話のようなものである。特に深い意味はなかったのだろう。だが、ラウルはすぐに言葉を返せなかった。
「……知らん」
 暫しの沈黙のあと、感情を抑えた低い声でぶっきらぼうに答える。
 レイチェルはきょとんとして瞬きをすると、不思議そうに小さく首を傾げた。
「教えてくれないってこと?」
「知らないと言っている」
 それは言い逃れなどではなく、紛れもない事実であり、ラウルの精一杯の答えだった。
 レイチェルは急に真面目な顔になると、少し考えてから口を開く。
「じゃあ、ラウルも今日が誕生日ってことにすればいいわ」
 あまりに簡単になされた突拍子もない提案。
 ラウルは面食らって息をのんだ。
「……おまえは何を言っているのだ」
「私と一緒の日なら忘れないでしょう?」
 レイチェルはくすりと笑って言う。そして、抱えていた花束から一輪のピンクローズを抜き取ると、ラウルの目の前に差し出した。
「お誕生日プレゼント」
 彼女のペースに流され、ラウルは呆気に取られたままそれを受け取った。微かな甘い匂いが鼻を掠める。頭の芯が少し痺れるように感じた。
「私、花瓶に活けてくるわね」
 レイチェルは二人に笑顔を見せてそう言うと、軽い足どりで応接間を後にする。後頭部の薄水色のリボンが、その足どりに合わせて小さく弾んだ。

「わかってるのかなぁ、年の数だけ贈ったってこと」
 サイファは片手を腰に当てて、小さく笑いながら言った。そこに責めるような響きはなく、ただ無邪気なレイチェルを慈しむような、そんな彼の想いが溢れていた。
「せっかくレイチェルがくれたんだ。大切にしろよ」
「ああ……」
 ラウルはそう答えながら、手の中のピンクローズを何気なく回した。
 そのとき、指先にチクリと痛み感じた。ごく軽い痛みである。顔をしかめるほどでもなかった。人差し指をそっと茎から離すと、そこからじわりと赤い血が盛り上がる。
「どうしたんだ? 棘? 全部とってもらったはずなんだけど……」
 出血したラウルの指を覗き込みながら、サイファはのんびりと考え込む。しかし、ふと何かに気づくと、血相を変えて弾かれるように飛び出していった。
「レイチェル、待って!!」
 まるで人生の一大事かのごとく焦った声が、廊下の高い天井に響き渡る。
 ラウルは遠ざかる靴音を聞きながら、血の盛り上がった指先を口に含んだ。少し気持ちの悪くなるような生ぬるい鉄の味が広がる。
 不用意に触れるから、か——。
 ふと頭をよぎったその言葉は、かつて自分がサイファに言ったものである。あのときの彼も同じようにピンクローズの棘で怪我をした。そのことに因縁めいたものを感じ、何ともいえない奇妙な気持ちになった。

「棘はそれ一つだけ取り忘れていたみたいだね。怪我をしたのがレイチェルじゃなくて良かったよ。身代わりになってくれて感謝すべきかな。さ、座ってくれ」
 応接間に戻って来るなり上機嫌で喋り出したサイファは、どこからか持ってきた薬箱を掲げて見せながら、近くのソファを勧めた。
「手当ての必要などない」
「医者のくせに舐めておけばいいなんて言うなよな」
 拒否することを予想していたかのように、サイファは間髪入れず嫌なところをついてくる。こういうときの彼には勝てない。ラウルは小さく溜息をつくと、怪我をしていない方の手を差し出した。
「それを貸せ。自分でやる」
「いいから座れよ」
 サイファは少しも譲歩しなかった。怪我の心配をしているというより、自分が手当てをすることにこだわっているようである。反論する気も失せて、言われるままソファにドカリと腰を下ろし、今度は怪我をしている方の手を差し出した。
 サイファは満足げに微笑むと、向かいに座って手当てを始めた。念入りすぎるほど丁寧に消毒し、傷薬らしきものを塗ると、ガーゼを当てて幾重にも包帯を巻いていく。どう考えても大袈裟すぎる。
「おまえ、楽しんでいるだろう……」
「今ごろ気付いたのか? 医者を手当てするなんて滅多にないことだからね」
 睨みを利かせるラウルに怯みもせず、サイファは澄ました顔でしれっと答える。
「この怪我もおまえが仕組んだことではないだろうな」
「まさか。ラウルが呼ばれていたことさえ知らなかったよ」
 確かにここに来たときの態度はそう見えたが、サイファならその程度しらばくれるのは造作もないことだ。しかし——。冷静に考えてみれば、ラウルの言うようなことを実現するには、レイチェルの協力が必要である。彼女がそんな計画に加担するとは思えない。自分の考えすぎだったのだとラウルは思い直す。
「そうか、ラウルに気を遣っていたんだな」
 サイファは薬や包帯を片付けながら、ふと呟いた。
 ラウルは怪訝な視線を彼に送る。
「毎年、レイチェルの誕生日はみんなで普通に食事をするだけだったんだよ。だけど、今年はパーティみたいにしたいって言い出したからさ。どういうことかと少し不思議に思っていたんだけど、どうやらラウルを呼ぶためだったみたいだね。普通の食事会ではラウルは居づらいだろう? 彼女なりにラウルが来やすい形を考えたんじゃないかな」
 サイファは薬箱の金具をカチンと留めると、取っ手を掴んで立ち上がった。
「楽しそうにしろとまでは言わないが、レイチェルの気持ちを踏みにじるような行動だけはとるなよ」
 ソファに座るラウルを見下ろし、真面目な顔で念押しをすると、踵を返して応接間を出て行った。颯爽とした足どりに合わせ、長くはない金の髪がさらりとなびいた。
 ひとり残されたラウルは、ソファの背もたれにゆっくりと身を預けた。そして、怪我をした手を視線の先に掲げ、巻かれた白い包帯をじっと見つめると、目を細めて小さく溜息をついた。

 それから間もなくしてアルフォンスが帰ってきた。
 彼もまた、少し早く仕事を切り上げてきたらしい。応接間で待ち構えていたレイチェルを抱き上げると、普段の彼からは考えられないほどに表情を崩した。娘を溺愛しているのは相変わらずのようである。
 応接間にいるのはレイチェル、サイファ、ラウル、アルフォンス、アリスの5人——これが、今から始まるパーティの出席者だ。
 自分以外は身内だけということに、ラウルは多少の居心地の悪さを感じたが、今さら帰るわけにもいかなかった。サイファにも釘を刺されている。そうでなくても、レイチェルに不快な思いをさせるような行動をとるつもりは微塵もなかった。

「レイチェル、お誕生日おめでとう」
 アルフォンスの声で皆が乾杯し、パーティが始まった。
 ラウル以外は楽しそうに会話をしていたが、ラウルだけはひとりで離れたソファに座った。あまり食べるつもりもなかったが、アリスが気を利かせて料理や飲み物を運んでくれたので、手持ち無沙汰にそれを口にする。
 テーブルの方を窺うと、レイチェルは立ったままサイファと楽しそうに話をしていた。パーティが始まってからずっと一緒にいるようだ。二人にとって、それはごく自然なことなのだろう。
 ラウルは不意にやりきれない虚しさに囚われた。
 今日がレイチェルの誕生日であることすら知らなかった。当然ながらプレゼントも用意していない。そして、おめでとうの一言さえ言えていないのだ。このパーティにいる意味など無いも同然である。そもそも何のために呼ばれたのかもわかっていない。彼女は自分に何を求めているのだろうか——。

「ラウル、いいか?」
 頭上から降ってきた太い声で、ラウルは現実に引き戻された。顔を上げると、そこにはアルフォンスがワイングラスを片手に立っていた。同席の許可を求めているようである。
「……ああ」
 ラウルが承諾の返事をすると、彼はその正面に大きな体を下ろした。手にしていたグラスをローテーブルに置き、離れたところにいるレイチェルを横目で窺うと、抑えた声で話を切り出す。
「レイチェルの魔導のことなんだが……」
 ラグランジェ家のパーティのあと、レイチェルは魔導の訓練を行うことを決意したが、いまだにアルフォンスの許可は下りていない。この二ヶ月の間、彼女が折に触れて説得を試みているようだが、まだ成功はしていないと聞いている。
「ラウル、君は聞いているな? あの子の決意を」
「ああ」
 ラウルは腕を組み、無表情のまま相槌を打つ。
「私は娘を危険な目には遭わせたくない。だが、出来れば意思を尊重してやりたいとも思っている。しかし、君もわかってくれるだろうが、これがなかなか難しい問題でな。どうすればいいか決めかねているのだ」
 アルフォンスは膝の上で両手を組み合わせてそう言うと、顔を上げ、怖いくらい真摯な眼差しでラウルの双眸を見つめた。
「そこで君の意見を聞かせてほしい。魔導の訓練がどのような影響を与えるのか、そしてどれほどの危険があるものなのかを」
 ラウルは僅かに眉を寄せた。
「……正直言ってわからん。このまま魔導から遠ざけておけば、暴発することはないのかもしれん。だが、もしそれを誘発するような何かが起これば、今の彼女にそれを止める手立てはない。魔導の制御だけでも身に着けておくべきだとは思う」
「訓練に危険がないのかを聞きたい」
 アルフォンスはラウルから少しも目を離さずに追及する。
「以前のような無謀なことはしない。精一杯、慎重に行うつもりだ」
「それは答えになっていない。危険はないのかと聞いているのだ」
 ラウルの答えに納得しなかったアルフォンスは、感情を昂ぶらせ、ローテーブルに片手をついて身を乗り出した。革張りのソファが高い摩擦音を立てる。だが、その音で我にかえったのか、複雑な表情を浮かべると、ゆっくりとその身を引いていった。そして、組んだ両手を腹の上に乗せ、疲れたように深く息を吐いて言う。
「私は君を信じる。君が大丈夫だと断言するのならば、許可をしようと思っている」
 それはまるでラウルを試しているかのような言葉だった。
 実際にアルフォンスの意図はそこにあるのかもしれない。
 ラウルは無表情を装ったまま考え込む。
「レイチェルの場合、何が起きるかは未知数だ。どれほど配慮したとしても、絶対に危険がないとは言いきれない」
 静かに口にした答えは、自分の正直な考えだった。
 アルフォンスは目を細めて溜息をついた。
「そうか……、それでは許可はできんな。張り切っているあの子には可哀想だが、諦めてもらうことにしよう」
「ああ……」
 危険はない、そう答えるべきだったのだろうか——。
 だが、それを言い切るだけの自信がなかった。以前のような目に遭わせてしまうことが怖かった。要するに逃げたのだ。そんな自分には、やはりレイチェルを指導する資格はないのだと思う。
「何も起こらないことを祈るしかないな」
 アルフォンスはそう呟くと、ローテーブルに置いたグラスを手に取り、半分ほど残っていたワインを一気に呷った。

「二人で何の話ですか?」
 サイファは人なつこい笑みを浮かべながら、ソファに座るラウルたちに声を掛けた。その返事を待たずにアルフォンスの隣に腰を下ろすと、ローテーブルの上に置かれていた淡緑色のワインボトルを示して尋ねる。
「いただいても?」
「ああ」
 アルフォンスはそう答えると、ボトルのコルクを外し、サイファが持ってきた空のグラスに注ぐ。微かに黄味を帯びた液体が、その中で大きくまわりながら波を打ち、爽やかな香りを立ち上らせた。
 サイファはそのグラスを持ち上げ、アルフォンスに軽く会釈をした。
「ほら、ラウルも付き合えよ」
「酒は飲まないことにしている」
 ラウルは紅茶を手にして素っ気なく答える。逃げ口上ではない。特に理由があるわけではないが、以前から自分でそう決めているのだ。
 しかし、サイファは納得しなかった。ムッとして口をとがらせながら言い返す。
「乾杯のときに飲んでいたじゃないか」
「あれは付き合いだ」
「僕には付き合えないっていうのか?」
 まるで酔っぱらいのようにしつこく絡んでくる。それも、いつもの彼らしくない稚拙な絡み方だ。顔を見る限りではまだ素面に見えるが、頭の方には少し酔いがまわっているのかもしれない。
「レイチェルに嫌な思いをさせるなと言ったのはおまえだろう」
「ああ、だから乾杯には付き合ってくれたってわけか」
 レイチェルの名前を出すと効果覿面だった。彼にしては簡単すぎるほどにあっさりと頷いた。やはり酔っているのかもしれないと思う。
 そういえば……と、ラウルはあたりを見まわす。
「おまえ、レイチェルはどうした? 一緒にいたのではなかったのか?」
「向こうのソファで寝ているよ」
 ラウルはサイファが指さした方に目を向ける。先ほどは間にあるテーブルが邪魔をして気付かなかったが、確かにレイチェルはソファで横になっていた。体の上には毛布が二枚ほど掛けられている。
「まさか酔わせたのではないだろうな」
 訝しげにそんな疑念を口にすると、サイファは眉根を寄せて睨み返した。
「僕がそんなことをする人間に見えるのか? 酒は飲ませてないし、他に何もしていない。ただ普通に話をしていただけだ。だけど、急に眠いって言って寝ちゃったんだよ」
 多少の怒りを含んだ声で毅然と反論すると、隣のアルフォンスに同意を求める。
「アルフォンスは信じてくれますよね?」
「ああ、あの子はそういう子供みたいなところがあるからな」
 アルフォンスは何か思い悩むような様子でそう答えると、硬い表情で目を伏せる。
「15……か……」
「15ですね。ようやくあと1年です」
 サイファは落とされた言葉を引き取ると、満面の笑みを浮かべながらそう続けた。
 あと1年——。
 それは、彼が待ち望んでいることが実現するまでの時間であり、自分と彼女の関係が終わる期限でもある。そのことについて、具体的な話はまだ聞いていない。だが、自分が彼女の家庭教師でいられるのは、長くてもあと1年なのだろうと思う。
「サイファ、そのことなんだが……」
 アルフォンスは苦渋に満ちた顔で、言いにくそうに切り出した。
「どうだろう? あと4、5年ほど待ってはもらえないだろうか」
「手放すのが惜しくなってきたのですか?」
 サイファは薄く笑みを浮かべ、反応を愉しむように尋ねる。
「そういうことではない」
 アルフォンスは慌てて否定した。
「あれはおまえも知ってのとおり、まるきり子供でな。とても結婚など……」
「16歳のアリスと結婚した人が何を言ってるんですか」
 サイファは動じることなく鋭い反撃をする。
 アルフォンスはますます慌てた。顔に赤みが差し、うっすらと汗が滲む。
「いや、アリスはしっかりしていたのだ。しかしだな、レイチェルは無邪気というか、危なっかしいほどに幼い。とても嫁にやれる状態とは思えん。そう育ててしまったのは私たちなのだが……」
 そこで言葉を詰まらせると、申し訳なさそうにうつむいた。
「だから、あと4、5年……、その間に色々と身に付けさせ、しっかり役目を果たせるように育てるつもりだ。おまえのためにも、レイチェルのためにも、それが最善の選択だと思う」
「今のままでいいですよ」
 サイファはアルフォンスの提案をやんわりと突っぱねた。
「とりあえず結婚をして、それから少しずつ出来ることを増やしていけばいいでしょう。無理はさせませんよ。ルーファス前当主の言ったように、ラグランジェ家のことはすべて僕がやります。といっても、今はまだ父が当主なので、僕の仕事はそれほど多くないですけどね」
 涼しい顔でそう言ってワイングラスを口に運ぶ。
 対照的に、アルフォンスは難しい顔をしていた。
「しかし、そうはいってもな……おまえ、一度、過労で倒れたことがあっただろう。魔導省の仕事だけでもきついというのに、レイチェルの面倒までみることになったら体が持たんぞ」
「では鍛えておきます」
 サイファはにっこりと微笑んで答える。その返答からは、絶対に引き下がらないという強い意志が透けて見えた。何を言われようとも、どんな説得をされようとも、決して考えを変えるつもりはないのだろう。
 アルフォンスは当惑したように彼を見つめた。
「おまえは、なぜそれほどまで……」
「レイチェルと少しでも長く一緒にいたい、ただそれだけです」
 普通であればにわかに信じられない答えだが、サイファの場合は偽りない本心だろうとラウルは思う。彼の家庭教師をしていた頃から、幾度となく同様の話を聞いていたのだ。彼がどれほどその日を心待ちにしているか、どういう思いでそれを望んでいるか、どちらも嫌というほど知っている。
 アルフォンスも彼の気持ちは疑っていなかった。だからこその苦悶を滲ませる。
「サイファ……残酷なことを言うようだがな、おまえとレイチェルとでは随分と温度差があるように思う。レイチェルにとっては、おまえが特別というわけではないぞ」
「わかっていますよ」
 サイファは動揺も見せず、静かに受け止めた。
「お父さまが好き、お母さまが好き、サイファが好き、ラウルが好き——彼女にとってはどれも同じようなものですよね」
 ラウルも薄々そんな気はしていた。そう思うようになったのはわりと最近のことである。初めから気付くべきだったのかもしれない。そうすれば、これほどまでに振り回されることはなかっただろう。
「でも、それでもいいと思っています。少なくとも、僕を好きだということは確かなわけですから。他に添い遂げたい人がいるのであれば、話は別ですけれども」
 サイファの言葉が途切れると、アルフォンスは目を閉じて小さく息をついた。
「おまえの気持ちはよくわかった。レイチェルのことをそこまで想ってくれて、父親として本当に深く感謝をしている。レイチェルを託せるのはおまえしかいない。だからこそ、こちらも相応の準備を整えてから嫁がせたいのだ」
「駄目ですよ、約束は守ってください」
 サイファは鋭い視線を向け、丁寧ながら強い口調で言う。
「しかし……」
 アルフォンスは視線を落として言い淀んだ。反論の言葉ならいくらでもあるはずだ。それを飲み込んだのは、少なくともこの件に関しては、自分の方が弱い立場にあることを理解しているからに違いない。相手は本家であり、しかも既に約束を交わしているとなると、覆すのは難しいだろう。
「ラウル、おまえはどう思う? 意見を聞かせてくれ」
 今まで黙って聞いていたラウルに、サイファは急に話を振ってきた。
「私には関係のない話だ」
「だから聞きたいんだよ。第三者の意見としてね」
 サイファがなぜ今さら自分に意見を求めるのか、ラウルにはわからなかった。話はすでに彼自身の望んだ結論に達しかけている。何に頼ることもなく押し切れるはずだ。それとも他に何か意図でもあるのだろうか。
 いずれにしても、自分には彼の意に沿うようなことは言えそうもない。
「レイチェルのためを思うなら、こんな結婚はやめた方がいい」
 それは、これまでの話を根本から否定するものだった。
 サイファは息をのんで大きく目を見張った。ゆっくりと顎を引き、青く燃えたぎる瞳でラウルを睨みつけると、低く抑制した声で尋ねる。
「どういうことだ」
「あいつはおまえたちが思っている以上に、自分の立場や自分に求められていることを考えている。そして、しなくてもいい苦労を背負い込んでいる。レイチェルを救うには、その呪縛から解放してやるしかないだろう」
 ラウルは感情を見せないように、冷静な意見として述べていった。
 サイファは不機嫌に、しかし真剣にそれを聞いた。じっと目を伏せて思考を巡らせると、僅かに視線を戻し、おもむろに形のいい唇を開く。
「確かにつらい目に遭わせたことはあるし、彼女が自分ひとりで抱え込んでいることも知っている。それでも僕は諦めはしない。彼女のそばで、彼女を守っていくつもりだ。そして、つらさや悲しみを補って余りあるくらいの愛情を注ぎ、彼女を幸せにする——それが僕の決意だ」
 静かに迷いなくそう言い切ると、挑むような瞳をラウルに向けて畳み掛ける。
「僕との婚約を解消したとして、それで彼女はどうなる? 幸せになれるというのか? 誰が僕以上に彼女を守ってやれる? 幸せにしてやれる? ラウル、おまえならそれが可能だとでも言うのか?」
「…………」
 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、ラウルは何ひとつ答えられなかった。自分ならレイチェルを幸せに出来る——そう断言できるほどの自信があるのなら、とっくに彼女を連れ去っていただろう。
「サイファ、おまえ少し酔っているのではないか?」
「かもしれません」
 心配そうに顔色を窺うアルフォンスに、サイファは弱く微笑んで溜息まじりに答えた。彼にしてはめずらしく感情的になり、少し息を切らせていた。興奮のためか、酒のためか、顔も少し紅潮している。ゆっくりとソファの背もたれに身を預けると、深く呼吸をし、額に手の甲をのせて目を閉じた。
「でも、いま言ったことは僕の本心だよ」
「意見を求められたから言っただけだ。議論するつもりはない」
 ラウルは冷ややかな態度でティーカップを手に取った。
 そんなラウルの様子を、サイファは目を細めて見つめる。
「ラウルには、認めてほしかったんだけどな」
 どこか寂しげな声でそう呟くと、気を取り直したように、体を起こして笑顔を作る。
「まあ、確かに僕にもまだ至らない面はあるし、力不足は否めないからね。ラウルの忠告を真摯に受け止めて、今後さらに努力を重ねていくよ」
 彼は冷静に自分を見つめながら、前向きに決意を述べていく。忠告のつもりではなかったが、彼はそう受け取ったらしい。いや、あえてそう解釈することにしたのだろう。
「そういうわけで、いいですよね?」
 サイファは他人事のように聞いていたアルフォンスに振り向いた。
「レイチェルが16になったら結婚します」
「あ……ああ……」
 静かだが強い決意を秘めたその宣言に、アルフォンスは押し切られるように肯定の言葉を返した。

「サイファの粘り勝ちね」
 アルフォンスの斜め後ろに立っていたアリスは、くすりと笑ってそう言うと、プレートに載せてきた人数分の小さなカップを、男たちの前のローテーブルに置いた。
「おまえ、聞いていたのか……」
「あら、秘密のお話だったの?」
 アリスが立てた人差し指を唇にあて、悪戯っぽくそう尋ねると、アルフォンスはきまり悪そうに頭に手をやった。
「おまえはどう思っている? 16で結婚させてもいいのか?」
「そうね、サイファがそこまで言ってくれているんだから」
 アリスは悩むこともなくさらりと答えた。彼女の中ではすでに結論は出ていたようだ。そのことが面白くなかったのか、アルフォンスは複雑な表情で眉をひそめた。気を悪くしていることは明らかである。しかし、アリスは平然としたまま小さなカップを差し出して言う。
「これでも食べて機嫌を直して。レイチェルが作ったのよ」
「レイチェルが、作った……?」
 アルフォンスはその小さなカップを覗き込み、大きく瞬きをする。
「アルフォンスは知らなかったんですか? レイチェルがプリンを作っていたこと。僕とラウルはこれで二回目ですよ」
 サイファは少し得意げな顔でカップのひとつを手にとった。
「なっ……、私を差し置いて、そろって抜け駆けとは……」
 アルフォンスは本気で悔しそうだった。サイファに対抗するようにプリンを手に取ると、少し慌てたようにスプーンですくって口に運ぶ。
「……美味い」
 彼は一口食べて動きを止めると、ぽつりと一言呟いた。カップを持つ指先が僅かに震え、心なしか目も潤んでいるように見える。
「あの子もこんな美味いプリンを作るまでに成長していたのか……」
「どういうわけかプリンしか作らないんだけどね」
 アリスは肩を竦めて言い添えた。それは、今は何も耳に入らないであろうアルフォンスにというより、その隣のサイファに言っているようだった。二人は互いに小さく笑い合うと、感慨に耽るアルフォンスを優しい眼差しで見つめた。
 そんな三人を横目に、ラウルも自分の前に置かれたプリンに手を伸ばした。
 それは自分の作るものと遜色のない出来だった。美味しいことは前回食べてわかっていたが、見た目も申し分なく、そのまま市販されてもおかしくないくらいである。
 当初は、作れるようになるとは思わなかった。
 火傷をしたときはもう無理だろうと思った。
 しかし、彼女は少しずつ努力を重ね、いつしかここまで出来るようになったのだ。それは、自分の意思を持って着実に歩いてきた結果である。
 ラウルは彼女の成長に思いを馳せながら、じっくりとそれを味わった。

「ラウル、来て!」
 寝ていたはずのレイチェルが、庭からガラス戸を開けて声を弾ませた。いつのまにか起きて庭に出ていたようだ。少し息がきれているが、溌剌としていて、とても眠そうには見えない。
 なぜ自分だけが彼女に呼ばれたのだろうか——。
 ラウルにはまったく見当がつかず、期待と不安の入り交じった気持ちが胸に渦巻いた。少し躊躇いながらも立ち上がり、彼女の方へと向かう。
「何の用だ?」
 その極めて端的な質問に、レイチェルは何も答えなかった。ただにっこりと微笑むと、小走りで庭へと駆けていく。芝生を踏みしめる規則的な音が、次第に遠ざかっていった。
 ラウルも庭に降りて後に続いた。
 すると、彼女は庭の中央で足を止め、くるりと振り返った。ドレスが大きく風をはらみ、金の髪がさらりと艶やかに舞い上がる。
「一緒に星空を見るって約束したでしょう?」
 澄んだ声が一面の空に拡散する。
 彼女は両腕を大きく広げて、愛らしい笑顔を浮かべた。彼女の背後には濃紺色の空が広がり、そこにいくつもの星がキラキラと瞬いている。彼女の言ったように、それは宝石よりもずっときれいだった。
 ラウルは目を細め、ゆっくりと腕を組んだ。
「あら? どうしたの?」
 レイチェルはふと何かに気付いて尋ねる。その視線は、ラウルの人差し指に巻かれた白い包帯に注がれていた。
「ああ、棘が刺さったのだ」
 ラウルは問われたまま、何の気なしに答えた。
 しかし、それを聞いたレイチェルは、口もとに手を当てて顔を曇らせる。
「私のあげたバラのせい?」
「いや、たいしたことはない、気にするな」
 もとよりレイチェルを責めるつもりなど微塵もなかった。原因は自分の不注意であり、彼女に非がないことは明らかである。そして、実際に怪我はごく些細なものなのだ。
「でも、包帯が……」
「サイファが大袈裟に巻いただけだ」
 本当に余計なことをする奴だ、と心の中で舌打ちする。たいしたことはないと言っても、確かにこれでは説得力がない。そもそもこんなものを巻かなければ、彼女に気付かれることすらなかったはずだ。
「ごめんなさい……」
「おまえは悪くない。そんな顔をするな」
 自責の念に駆られる彼女に、ラウルは拙い言葉を掛けることしか出来なかった。本当は彼女の頬に触れたかった。その方が気持ちを伝えられる気がした。しかし、その衝動は理性が押しとどめる。求める指先をこぶしの中にしまい込むと、うつむく彼女を見下ろして静かに口を開く。
「プレゼント、大切にする」
 レイチェルは驚いたようにラウルを見上げた。彼女にとってはそれほど意外な言葉だったのだろう。大きくぱちくりと瞬きをして、ラウルと目を見合わせると、やがて小さくはにかんで頷いた。

「ねぇ、どうしてラウルなの?」
 サイファも庭に降りてきて、二人に足を進めながら尋ねた。取り立てて不機嫌な様子はなく、ニコニコと笑顔を浮かべている。もしかすると内心は面白く思っていないのかもしれないが、少なくともレイチェルの前でそれを見せることはないだろう。
 レイチェルは弾むように一歩飛び出すと、無邪気な笑顔を見せて答える。
「パーティのときの星空の話をしたら、ラウルも見たいって言ったから」
「そうは言っていない」
 ラウルは焦って振り返り、釈明しようとする。自分から言い出したわけではなく、彼女が言ったことに頷いただけである。たいした違いではないかもしれないが、ラウルにとっては譲れない部分だった。変に誤解をされては困る、ということが大きかったのかもしれない。
「むきになるなよ。だいたいわかるからさ」
 サイファは軽く笑いながら受け流すと、ラウルの肩に腕をのせて声をひそめる。
「それより何の話をしていたんだ? 深刻そうに見えたけど」
 ラウルはじとりとした視線を流すと、包帯が巻かれた人差し指を立てた。
「おまえがこんなものを巻くから心配させてしまうのだ」
「ああ……」
 サイファは気の抜けた返事をすると、いきなり何の躊躇いもなくその包帯をほどいた。そして、不思議そうな顔をしているレイチェルの前に、包帯を取ったラウルの右手を晒して言う。
「レイチェル、これ、本当にたいしたことないんだよ」
 サイファにとってはレイチェルが何よりも最優先である。わかってはいたことだが、ラウルはその身勝手さに閉口した。しかし、ほっとしたように胸を撫で下ろすレイチェルを見て、それですべてが報われたように感じている自分は、サイファとたいして違いはないのかもしれないと思う。
「そんなことより空を見ようよ」
 サイファはレイチェルを引き寄せると、後ろから優しく抱きすくめた。
「この前のパーティのときの方がきれいだったかな」
「今日は特別だから一緒に見られただけで嬉しいの」
 レイチェルは幸せそうに柔らかく微笑むと、小首を傾げて振り向く。
「ラウルも嬉しい?」
「……ああ」
 ラウルは腕を組んで空を見上げながら、小さく返事をする。緩やかな風が頬を撫でるように掠め、長い焦茶色の髪を小さく揺らした。
「三人で星空を眺めるなんて、これが最初で最後かもしれないね」
 サイファは誰にともなくそう言った。
 それきり会話は途絶えた。

 星がひとつ流れた。
 一瞬だけ強い煌めきを放ち、すぐにすっと消えていく。

 自分とレイチェルの出会いは、この流れゆく星のようなものかもしれない。
 煌くような二人の時間は、やがて思い出だけを残して終わりを告げる。それはどうすることもできない。誰にも止めることはできないし、止めてはならないのだ。
 変わらないものは何もない。だからこそ、今という時間はかけがえのないものになる。
 そんな当たり前のことを、長い時間を無為に生きる中で、ラウルは忘れてしまっていた。思い出させてくれたのは、紛れもなく——。
 まっすぐ空を見上げるレイチェルの横顔を、ラウルはそっと見つめて目を閉じた。


22. プレゼント

「誕生日プレゼント?」
 レイチェルはきょとんとして小首を傾げた。いつもの指定席に座ったまま、両手をダイニングテーブルの上に置き、向かいのラウルに不思議そうな視線を送る。
「そうだ。おまえからはもらったが、私は何もやっていなかっただろう」
「そんなこと気にしなくてもいいのに」
「そういうわけにはいかない。誕生日パーティに出席したのだからな」
 ラウルは真剣な顔で言った。
 彼女の誕生日から二日が過ぎてしまったこともあり、少し迷っていたが、結局やはりプレゼントくらいは贈るべきだという結論に達したのである。そうしないことには自分の気持ちも治まらない。そこにはサイファへの対抗心も少なからずあったと思う。
「何か欲しいものはあるか?」
「別にないけど」
 レイチェルはあっさりと言う。しかし、それではラウルが困るのだ。
「何かひとつくらいはあるだろう」
「うーん……そうね……紅茶が飲みたいわ」
 レイチェルは少し考えてから答えた。はぐらかしたわけではなく、思ったまま素直に言っただけなのだろう。確かに彼女の欲しいものには違いない。だが、ラウルの求めていた答えとは違う種類のものだ。
「わかった、今から淹れてやる。ただし、これはプレゼントとは別だからな」
 ラウルはそう前置きしてから立ち上がった。

 芳醇な香りの紅茶に、ふんわりと甘いケーキ——。
 それらをレイチェルの前に差し出すと、彼女は待ちきれないとばかりに顔を綻ばせた。いただきますと行儀よく言ってから、紅茶をひとくち飲み、続けてケーキを口に運ぶ。その幸せそうな笑顔を眺めながら、向かいのラウルもフォークを手に取った。
 いつもと変わらない優しく穏やかな空気が二人の間に流れる。
 だが、先ほど中断した話のせいか、今日のラウルは心から落ち着くことはできなかった。機を窺いつつ、その話を切り出す。
「それで、誕生日プレゼントのことだが……」
「ラウルにはいつもお茶を飲ませてもらっているし、それで十分よ」
 レイチェルはティーカップを両手で持って微笑む。
「いや、それでは私の気がすまんのだ。遠慮はするな。何でも欲しいものを言え」
「そう言われても……」
 彼女は困ったように眉を寄せて口ごもった。
 それを見て、ラウルはようやく気がついた。自分の行為はただの身勝手な気持ちの押しつけにすぎない。彼女が望んだわけでもないのに、答えを強要する権利などないのだ。彼女を困らせるのは本末転倒である。諦めるしかないと思った、そのとき——。
「あ、だったらラウルが考えて」
 レイチェルはパッと顔を輝かせ、胸元で両手を合わせた。
 ラウルには彼女の言わんとすることがわからなかった。怪訝に眉をひそめると、無言で問いかけるような視線を送る。
「ラウルが私のために選んでくれたプレゼントが欲しいの」
 レイチェルはにっこりと微笑んで言い直した。そして、ちょこんと首を傾げると、大きく瞬きをして続ける。
「考える時間は二日でいいかしら。あまり長く時間をとっても、ラウルが大変になると思うの。二日で考えつかなかったら、そのときはプレゼントは無しにしましょう」
「……ああ、わかった」
 ラウルは一方的な提案に動揺しつつも、何も言い返すことなく了承した。
「じゃあ、楽しみにしているわね」
 そう言って、レイチェルは屈託のない笑顔を見せた。少し残っていた紅茶を飲みきると、椅子から立ち上がり、じゃあねと小さく手を振りながら部屋を出て行った。

 物音ひとつしない静寂の中、ラウルは両手で頭を抱え込んでダイニングテーブルに突っ伏した。長い焦茶色の髪が、丸くなった背中からさらりと滑り落ちていく。
 自分で考えて選べだと——?
 そんなことが出来るくらいなら、初めから尋ねたりはしない。出来ないから尋ねているのだ。相手の喜びそうなものを察する能力など、あいにく持ち合わせていないのである。
 それにもかかわらず、レイチェルはとんでもない難題をふっかけてきた。もちろん彼女に悪意がないことはわかっている。しかし、だからこそ、そんな無邪気な彼女を少し憎らしく思った。

 ラウルは気持ちを落ち着かせようと、紅茶を淹れ直し、再びダイニングテーブルについた。しかし、紅茶には手をつけないまま、腕を組み、目を閉じ、身じろぎもせずじっと考える。
 無難なところでは花束か——。
 彼女に贈るとなればピンクローズ以外に考えられない。それが彼女に最も似合う花であり、また、彼女自身も気に入っている花だ。しかし、それではサイファと全く同じになってしまう。花の種類が違うのならまだしも、種類まで同じのというのは、さすがにありえないだろう。
 花以外となると何が——。
 彼女の好きなもの、興味のあるものを贈るのが筋だろうが、それが思いつかない。
 紅茶とケーキは好きなようだが、毎日のように出しているものを改めてプレゼントなどということはおかしい。茶葉であればと思ったが、彼女は自分で茶を淹れたことがないと言っていた。自分でどうにも出来ないものをもらっても、あまり嬉しくはないだろう。
 ラウルは紅茶を口に運んで溜息をついた。
 再び目を閉じて、彼女の部屋の様子を思い浮かべてみる。そこは、広くはあるが殺風景なくらいに簡素で、これといって彼女の趣味や好みが窺えるようなものはなかった気がする。
 思えば、自分は彼女のことを何も知らなかったのかもしれない。好きなものも、嫌いなものも、興味のあるものも、あらためて考えてみるとほとんど思いつかない。サイファならば彼女のことを何でも知っているのだろうか。
 ラウルは眉根を寄せて頬杖をつくと、深く盛大に溜息を落とした。
 今からこんなことでは先が思いやられる。約束の期限は二日後。それまでに何としても用意しなければならないのだ。彼女へのプレゼントを——。

 翌日——。

「何か考えついたの?」
 授業を終えたレイチェルは、手を伸ばして教本を片付けながら、楽しそうに浮かれた声で尋ねた。一方、彼女の斜め後ろに座るラウルは、腕を組んで苦渋に満ちた表情を浮かべている。
「まだ考えているところだ」
 昨晩は一睡もしなかった。とても眠れるような心境ではなかったのだ。一晩中ずっと考えていたものの、これといって進展はなく、いつまで経っても結論に辿り着けない。そのうちに、いつのまにか思考が別の方に向かってしまい、そんな自分の不甲斐なさに落ち込んだりもした。
 レイチェルはくすりと小さな微笑みを浮かべた。
「行きましょうか」
「少し待て」
 ラウルは細い肩に手を置いて、立ち上がろうとする彼女を制した。そして、代わりに自分が立ち上がると、振り返って部屋をぐるりと見渡す。
 やはり殺風景だ。
 それでも何か少しでも手がかりがないかと、その広い部屋をゆっくりと歩きまわる。
 目立つものは天蓋付きのベッドだ。しかし、これは彼女の趣味というわけではないだろう。万が一そうだとしても、こんなベッドは二つもいらないはずだ。枕にしても布団にしても一つあれば十分である。
 それ以外でめぼしいものといえば、大きめの本棚くらいである。ラウルの背丈と同じくらいの高さがあり、横幅もラウルの片腕ほどの長さはある。ラウルはその前で立ち止まると、上から下までじっくりと眺めていった。若い女性が好みそうな小説などはひとつもなく、固い内容の書籍ばかりが並んでいる。経済学や経営学、経済法などの、経済に関するものが多いようだ。
「おまえ、経済に興味があるのか?」
「それはほとんどお父さまが買ってきたものよ。あとは経済学の授業で使った本がいくつか。一応すべて読んだけれど、別に興味があるってわけじゃないの」
 一筋の光明が見えた気がしたが、すぐにそれは断たれてしまった。
 それ以外には特にこれというものはなく、結局、何の手がかりも見つけられなかった。すべてを見たわけではないが、さすがにクローゼットや引き出しの中まで覗くわけにはいかないだろう。
「ラウル?」
 先ほどまで椅子に座っていたはずのレイチェルが、いつのまにか隣に立っていた。心配そうに顔を曇らせて覗き込んでいる。
「ああ、行くか」
 ラウルは我にかえってそう言うと、教本を脇に抱え、彼女とともに部屋を後にした。

 二人の前には紅茶とケーキが置かれている。
 レイチェルは嬉しそうにケーキを食べていたが、ラウルは紅茶に少し口をつけただけで、腕を組んで目の前の彼女を見つめながら、じっと考え込んでいた。
 彼女の好きなもの、興味のあるもの——。
 今度は彼女の姿から手がかりを探す。最初に目についたのは、後頭部に付けている薄水色の大きなリボンだった。ラウルが知る限りでは、彼女はいつも同じリボンをつけている。おそらく気に入っているのだろう。
 リボンがいいかもしれない、と思う。
 しかし、すぐにその間違いに気がついた。彼女がこのリボンを気に入っているのだとすれば、別のものを贈っても仕方がない。今のリボン以上に気に入るものを選べばいいのかもしれないが、それがわかるくらいならば苦労はしない。今のものとそっくりなものにすれば、とも考えたが、誕生日プレゼントがスペアなどどう考えてもおかしい。
 ラウルは小さく溜息をつき、ティーカップを持つ彼女に目を向けた。
 ドレスはたくさん持っているようだ。似たような雰囲気のものが多い。それゆえ彼女の好みそうなものは何となく想像がつく。ドレスについての細かいことはわからないが、そのあたりは店の人間に任せればいいだろう。今から作り始めてはいつになるかわからないが、そのくらいは待ってもらえばいい。もうすでに誕生日は過ぎているのだ。一週間や二週間遅れたところでたいした違いではない。
 問題は、採寸をどうするかだ。
 彼女に気付かれないように採寸するのは不可能だ。目測なら何とかなるだろうか。しかし、彼女は平均からだいぶ離れた体型をしている。どうにも当たりがつけづらい。
「……何?」
「いや……」
 レイチェルにきょとんと尋ねられて、ラウルは慌てて視線を外した。
 やはりどう考えても無理がある。ドレスとなると細かく正確に採寸しなければならないはずだ。目測でどうにかなるものではないだろう。だからといって採寸させてくれとは言いにくい。理由も告げずにそんなことを頼んではただの変態である。いや、何も自分が採寸することはない。店で採寸してもらえばいいのだ。そうなると、プレゼントをする前に一緒に店に行くことになる。事前にあまり手の内を明かしたくないが、他に方法もないので、ここは妥協するしかないだろう。
 そこまで考えてふと思った。
 ドレスというのはどこに行けば買えるのだろうか——。
 そういう店にはこれまでまったく縁もなく、ラウルには見当もつかない。今どき日常的にドレスを着ている人間などそう多くはない。当然ながら扱う店も多くはないだろう。また、あまり頻繁に売れるものでないとすれば、専業で店を構えている可能性は低いのではないだろうか。サイファに訊けばわかるかもしれないが、それだけはどうしてもしたくなかった。
「ラウル、食べないの?」
「ああ、食べる」
 不思議そうに小首を傾げるレイチェルに、ラウルは抑揚のない声で答えた。組んだ腕をほどいてフォークに手を伸ばす。美味しいはずのケーキだが、このときばかりはほとんど味を感じなかった。

「ねー、ラウルいないの?!」
 レイチェルが帰ったあと、ラウルが医務室の自席で頬杖をついていると、外から大きな呼び声が聞こえた。それと同時に、ドンドンドンと急かすような速いテンポで乱暴に扉が叩かれる。
 普段は診療を受け付けている時間だが、今日はすでに鍵をかけてあった。
 いつもほとんど患者が来ないこともあり、どうせ来るのはサイファくらいだろう高をくくっていたのである。今は彼の相手をするより、静かにひとりで考えたかったのだ。しかし、この声はサイファではなく女性のものである。随分となれなれしい言い方をしているが、ラウルは誰だかわからなかった。
 鍵を外して扉を開ける。
 そこに立っていたのは、白衣を着た小柄な女性、王宮医師のサーシャだった。同じ立場ということもあり、会議などで顔を合わせることはあるが、仕事以外の話はしたことがない。わざわざラウルの医務室を訪ねてきたのも初めてのことである。
「何だ?」
「報告書、出てないって」
 サーシャはラウルを見上げて、ぶっきらぼうに言った。白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、仏頂面で面倒くさそうに続ける。
「期限はきのうだったよ」
「わかっている」
 王宮医師は月ごとに活動報告書を提出することになっている。その今回の期限は、彼女の言うように昨日だったのだ。午前中に報告内容はまとめてあったのだが、レイチェルのプレゼントのことで頭がいっぱいになってしまい、提出するのをすっかり忘れていたのである。
「じゃあね、伝えたから」
「待て」
 素っ気なく立ち去ろうとするサーシャを、ラウルは肩を掴んで引き留めた。
「……何?」
 サーシャは思いきり眉をひそめ、あからさまに嫌そうにラウルを睨んだ。もともと愛想のいい方ではないが、今日は一段と機嫌が悪そうに見える。ラウルのせいで面倒なことを押しつけられたせいかもしれない。
 しかし、今のラウルにはそんなことを気に掛ける余裕もなかった。
「おまえ、プレゼントに何が欲しい」
「え? くれるの?」
「やらん。参考にするだけだ」
 目を丸くして聞き返したサーシャに、ラウルは無表情で冷たく答えた。彼女に対する配慮などまるでない身勝手な言い方である。サーシャは呆れたようにじとりとした視線を向けた。
「私の答えじゃ参考にならないと思うけど?」
「いいから言え」
「現金」
 あまりにも想定外の答えに、ラウルは無表情のまま固まった。
「……現金以外だ」
「じゃあ、ダイヤかなぁ。高く売れるし」
 サーシャは斜め上に視線を流しながら、少しとぼけたように言う。
 ラウルは深く息を吐きながら肩を落とした。
「……おまえに聞いたのが間違いだった」
「だから参考にならないって言ったじゃない」
「そうだな」
 面倒くさそうにそう答えると、前髪を掻き上げて額を押さえる。同じ女性であれば何か参考になることがあるのではないかと思ったが、サーシャとレイチェルはあまりにも違いすぎた。藁にも縋る思いだったとはいえ、完全に縋るものを間違えてしまったと思う。
 ラウルは足を引いて医務室に下がろうとしたが、そのときサーシャが何か意味ありげに笑っていることに気がついた。口もとに手を当てて、上目遣いでラウルを見ながらニヤニヤしている。
「何だ?」
「もしかして、恋、しちゃった?」
 ラウルの息が止まった。大きく目を見張ったまま呆然とする。思考が停止してしまい、何の答えも返すことができなかった。しかし、サーシャはそれを肯定と受け取ったようだ。嬉しそうに一人で頷きながら声を弾ませる。
「うんうん、そうか、ラウルも人間らしいところあるんだ」
「お、まえ…………」
 ラウルは唸るような低い声でそう言うと、氷のような目で威嚇するように睨み下ろした。その視線だけで、蛇に睨まれた蛙のように、サーシャはビクリと体を強張らせた。引きつった笑顔を見せながら、それでも軽い口調を装って言う。
「やだ、もう、そんな怖い目で睨まないでよ」
「もういい、行け」
 ラウルは吐き捨てるようにそう言うと、医務室に引っ込んで扉を閉めかけた。
 そのとき——。
「プレゼント、何でもいいと思うよ」
 落ち着いたサーシャの声が耳に届いた。思わず手を止めて顔を上げる。少し離れたところで、彼女は僅かに微笑んでいた。それはからかうような表情ではなく、優しく見守るような表情だった。
「相手がラウルのことを好きなら何をもらっても嬉しいし、嫌いなら何をもらっても不快だし」
 彼女は真面目に身も蓋もないことを言った。
 ラウルは視線を落とし、奥歯を噛みしめる。サーシャの言うことはわかっていた。レイチェルはきっと何でも喜んでくれる。笑顔でありがとうと言ってくれる。それでも、下手なものは贈れないと思ってしまうのだ。それは自分の臆病さによるものなのだろう。そして、やはりサイファへの対抗心も少なからずあるのだと思う。
「頑張ってね」
 サーシャは軽い口調でそう言うと、左手を白衣のポケットに突っ込んだまま、右手を上げて背中を見せた。颯爽とした足どりで立ち止まることなく歩き去っていく。後ろでひとつに結んだ赤茶色の髪が、小さく上下に弾んでいた。
 ラウルは医務室の扉を閉めると、そこにもたれかかって大きくうなだれた。

 さらに翌日——。

 今日が期限の日である。
 レイチェルの授業に向かう前に、ラウルは母親のアリスに面会を求めた。広い応接間に通され、彼女と向かい合って革張りのソファに座る。レースのカーテン越しに差し込む光が、ガラスのローテーブルに反射し、少し眩しく感じて目を細めた。
「レイチェルのことかしら?」
「いや……頼みがある」
「ええ、私に出来ることなら」
 アリスはにっこりとして胸に手を当てる。その屈託のない微笑みは、どこかレイチェルと重なるものがあった。親子なのだから当然といえば当然である。
 ラウルは少し視線を外して言う。
「おまえたちのドレスを作った店を教えてほしい」
「……ラウルもドレスを着るの?」
 アリスは真顔で無謀なことを尋ね返した。
「そんなわけないだろう」
 ラウルは半ば呆れたような視線を送りながら否定する。しかし、本当の理由について話すつもりはなかった。いずれレイチェルにプレゼントをすればわかってしまうだろうが、今はまだ伏せておきたかったのだ。
「おまえたちに迷惑を掛けるようなことはしない」
「わかっているわ」
 アリスは安心させるようにあたたかく微笑んで言う。
「店主にラウルのことを紹介しておきましょうか?」
「いや、店の名前と場所を教えてくれるだけでいい」
 紹介してもらえば何かと利点があるのだろうが、自分の行動が筒抜けになってしまうなど、かえって面倒なことになる可能性の方が高いような気がした。もちろんそれは成り行きでそうなるという話であり、彼女の親切心に疑念を持っているわけではない。
「少し待っていて」
 アリスはそう言って他の部屋から上品な桜色の便箋を持ってくると、丁寧な文字で店の名前と住所、そして、その下に簡単な地図を書いた。二つ折りにしてラウルに差し出す。
「すまない、感謝する」
 ラウルは低い声でそう言うと、その紙を受け取って教本の間に挟んだ。その様子を眺めながら、アリスは背筋を伸ばして小さくくすりと笑う。
「レイチェルもそろそろ新しいドレスを作らなくちゃいけないわね」
「新しいドレス……?」
 ラウルが怪訝に聞き返すと、アリスは膝の上に手をのせたまま肩を竦めて見せた。
「あの子、あと一年で結婚するでしょう? そうしたらあんな子供っぽいドレスを着るわけにいかなくてね。分家ならまだしも、レイチェルが嫁ぐのは本家だから、そのあたりはきちんとしないといけないのよ」
「そうか……」
 ラウルの中で最後のプレゼント候補が消えた。せっかくもらった店の情報も、おそらく使うことはないだろう。膝の上にのせた教本を持つ指先には、無意識に力が入っていた。

 レイチェルの授業は普段どおり滞りなく終わった。
 その後ラウルの部屋にやってきた二人は、いつもの席で向かい合いながら、紅茶を飲み、ケーキを食べる。ただ、いつもと違って今日は二人とも言葉少なだった。
「ラウル、今日が期限だけど」
 レイチェルが二杯目の紅茶を飲みながら切り出した。それは、ラウルが避けられないとわかっていながらも、出来れば避けたいと願っていた話題である。ドキリとして苦い顔でうつむく。
「……すまない、何も考えつかなかった」
 自分から言い出したことにもかかわらず、こんな結果になってしまい、あまりにも情けなくて彼女の目を見ることが出来なかった。しかし——。
「ありがとう」
 耳に届いたのは思いもしなかった言葉、そして屈託のない声。
 ラウルは驚いて顔を上げた。聞き違えたのかと思ったが、そこにあったのは言葉に違わぬ優しい微笑みだった。しかし、礼を言われる覚えは全くない。逆に非難されても仕方のない状況である。彼女の態度の理由が掴めず、尋ねかけるように眉をひそめた。
「たくさん考えてくれたのよね。その気持ちがプレゼント」
 彼女の答えはとても単純で、とても優しいものだった。
 何でもいいから用意すれば良かった——。
 ラウルは強烈に後悔した。しかし、その「何でもいい」がわからなくて苦労していたのである。たとえ時間を巻き戻せたとしても、また同じ結果になるような気はする。不甲斐ない自分には、結局のところ無理だったのかもしれない。
「ラウルの悩んでいる姿を見られて嬉しかったわ」
 レイチェルは笑いながらそう言うと、空のティーカップをソーサに戻して椅子から降りた。じゃあね、と手を振って部屋を出て行こうとする。
「ま、待て」
 ラウルは慌てて声を掛けると、ガタン、と大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
 レイチェルはきょとんとした顔で振り返る。そして、ラウルを見つめたまま、不思議そうに小さく首を傾げた。
「どうしたの?」
「何か、本当にないのか? 欲しいものは」
「そう言われても……」
 似たやりとりは二日前にもあった。あのときと同じように、自分の身勝手な気持ちの押しつけで彼女を困らせている。これでは堂々巡りである。ラウルはすぐに後悔して撤回しようとした。だが——。
「じゃあ、キスして」
 レイチェルは無垢な瞳を向けてそう言うと、ニコッと愛らしく微笑んだ。
 その瞬間、ラウルは体中に電流が駆け巡ったように感じた。
 息を止めて彼女と視線を合わせる。
 冗談を言っているようには見えなかった。思いつめているようにも見えなかった。普段と変わらない様子で、彼女はただ自然にそこに立っている。
 ラウルに断る理由はなかった。
 気持ちを静めるように深く呼吸をすると、一歩、二歩と足を進めた。彼女と近い位置で向かい合うと、白く柔らかい頬に、大きな手をそっと添えた。
「目はつむった方がいいの?」
「好きにしろ」
 無表情を崩さぬまま、腰を屈めてゆっくりと顔を近づけていく。しかし、唇が触れる寸前、互いの体温さえ感じられるくらいの距離で、ピタリとその動きを止めた。
 息を詰めて目を閉じる。
 そのとき、レイチェルの小さな吐息が、ラウルの唇に掛かった。それはまるで媚薬のような甘い刺激——彼女は無自覚なのだろうが、誘いかけているようにしか思えない行為である。
 自分の鼓動がやけに強く感じられた。体が熱くなっていく。
 そんな自己の昂ぶりを懸命に抑えながら、そっと、触れるだけの口づけを彼女の唇に落とす。おそらくこれが彼女の望んだこと。それ以上でも以下でもない。だから、自分は——。
 ゆっくりと顔を離し、体を起こす。
 視線の先のレイチェルは、焦点の合わない目でぼんやりとラウルを見ていた。しかし、ふとその目が合うと、急に我にかえってにっこりと微笑んだ。
「また、あしたね」
「ああ……」
 レイチェルは手を振って部屋を出て行く。
 その間際、一瞬だけ彼女はふっと寂しそうな表情を浮かべた。ラウルははっとして再度確認しようと思ったが、そのときにはもう扉は閉ざされ、彼女の姿を視界に捉えることはできなかった。
 なぜ、そんな顔をする——。
 ラウルにはその理由がわからなかった。大した理由などなかったのかもしれない。もしかすると気のせいだったのかもしれない。ただ、ほんの一瞬だけ見た彼女の横顔が、いつまでも脳裏に焼き付いて消えなかった。


23. 残された時間

「三ヶ月……」
 医務室の自席に座るラウルは、向かいのアルフォンスが口にした言葉を、呆然としながら確認するように繰り返した。

 レイチェルの誕生日から二ヶ月が過ぎた。
 プレゼント騒動以降は特に何事もなく、レイチェルの家庭教師を淡々とこなし、そのあと一緒にお茶を飲むという、極めて平穏な日々を送っていた。いつか来るであろう終わりの日については、レイチェルは少しも触れることはなく、また、ラウルの方もできるだけ意識しないようにしていた。
 しかし、今、アルフォンスが唐突にラウルの医務室を訪れて告げたのだ。
 あと三ヶ月だと——。

「ああ、アリスと相談して決めたのだ。結婚の準備や諸々のことを考えると、そのくらいが妥当だろうと。何か問題でもあるのか?」
「いや、授業をどこまで進めるか考えていた」
 ラウルは冷静な口調で先ほどの動揺を取り繕った。あまり上手い嘘とはいえなかったが、生真面目なアルフォンスは疑うことなく言葉どおりに受け取ってくれた。
「そのことならば気を揉む必要はない。これまでどおり授業を行い、進められるところまで進めてくれればいい。中途半端に終わっても構わないと思っている」
「わかった」
 ラウルは低い声で静かに返事をした。自分はただ雇われているだけの家庭教師である。雇い主の決定が間違ったものでなければ、それに従う他はない。
「君には心から感謝している。レイチェルが真面目に勉学に取り組むようになったのも君のおかげだ。レイチェルを研究所の実験から守ってくれたこともあったな。君がいなければどうなっていたかわからん」
 アルフォンスはもうすべてが終わったかのように、思い出話を交えながら感慨深げに礼を述べた。しかし、ラウルの方はそれを素直に受ける気持ちにはなれなかった。
「まだ三ヶ月残っている」
「そうだな、少し気が早かった。終了後にあらためて礼に来るとしよう」
 アルフォンスは律儀に答える。
「その必要はない。今ので十分だ」
 ラウルは感情を押し隠し、無愛想にそう言うと、椅子をくるりと回して背を向けた。机に肘をつきながら読みかけの本を開く。
 その後ろで、パイプ椅子の軋む耳障りな音が重々しく響いた。

 アルフォンスの靴音が遠ざかり、医務室は時が止まったかのような静寂に包まれた。早朝のため、外からの雑音もほとんど聞こえてこない。細く空いた窓からは新鮮な空気がするりと滑り込み、薄いクリーム色のカーテンを緩やかに波打たせた。

 あと三ヶ月——。
 近いうちに終わりの日が来るということは、言われるまでもなくわかっていたことである。覚悟もしていたつもりだった。しかし、現実として突きつけられると、そんな覚悟などどこかに吹き飛んでしまったかのように胸がざわついた。
 どうしようもないことだ。
 わかっているのにわかりたくない自分がいる。心がバラバラになりそうだった。机に肘をついたまま、大きな手で額を掴むように押さえる。長い焦茶色の髪がさらりと肩から滑り落ち、暗幕のようにラウルの視界から光を遮断した。

 その日の午後、ラウルはいつも通りレイチェルの家に行き、家庭教師の授業を行った。いまだに動揺を引きずってはいたが、彼女に悟られるわけにはいかない。冷静な態度を装いながら粛々と進めていく。
 授業中、特に変わったことはなかった。
 レイチェルも普段とまったく同じように見えた。あと三ヶ月ということを知っているのかいないのか、その様子からは窺い知ることが出来ない。気にはなった。それでも今は授業に集中すべきだと、彼女に尋ねることは思いとどまった。

 優しい色の空には薄い雲がかかり、微かに風が吹いていた。
 授業が終わった二人は、連れ立ってラウルの医務室へと向かう。互いに確認するまでもないくらいに、それは二人にとって日常の行動になっていた。ときどきレイチェルが話しかけ、ラウルが無表情のまま答え、人通りの少ない道を一緒に歩いていく。
 その途中、レイチェルは不意にラウルの手を取った。
「寄りたいところがあるの」
 顔を上げてニコッと愛らしく微笑むと、その手を引き、医務室とは違う方向に延びる小径へと足を踊らせた。ドレスがふわりと風をはらみ、後頭部の大きなリボンが軽く弾む。
 彼女がこんな行動を起こすのはめずらしい。
 ラウルは少し怪訝に思いながらも、彼女の小さな手をそっと握り返し、素直にその導きに従って歩き出す。その先に何があるのかは尋ねるまでもなくわかっていた。
 人気のない静かな小径が続く。耳に届くのは、木々の葉が触れ合う音、自分たちが草を踏みしめる音、頬を掠める風の音くらいである。息を止めれば、陽光の降りそそぐ音さえ聞こえてきそうだった。そんな静寂に圧倒されたのか、二人とも口を開こうとはせず、ただ無言のまま歩き続けた。
 しばらく道なりに進むと、予想通り、蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチが現れた。少し足を速めてそれをくぐる。すると一気に視界が開け、一面に広がる色鮮やかなバラ園が目に飛び込んできた。
「ここは久しぶり?」
「あのとき以来だ」
 小首を傾げて覗き込むレイチェルに、ラウルは前を向いたまま答えた。
 あのとき——それは家庭教師を引き受けて間もない頃のことである。今日と同じように、彼女に連れられてここに来たことがあったのだ。当時はまだ彼女と距離を取ろうと突き放した態度で接していた。しかし彼女はそれをものともせず懐に飛び込んでくる。おかげで随分と扱いに手こずった。そんなことが少し懐かしく思い出される。
「深呼吸して」
「なぜだ」
 唐突な彼女の要求にラウルは戸惑った。
「してくれないの?」
 レイチェルはラウルの疑問に答えることなく、無垢な瞳でじっと見つめながら小首を傾げた。断られるとは少しも思っていないようだ。催促するかのように瞬きをする。
 ラウルは溜息をついた。
 半ば投げやりに大きく息を吸って吐くと、レイチェルに視線を落として仏頂面で言う。
「したぞ」
 それでも彼女はただ無言で微笑むだけだった。
 ラウルは怪訝に眉をひそめた。彼女の目的がさっぱりわからない。深呼吸にどういう意味があるのだろうか。それをさせるためにここへ連れてきたのだろうか。なぜ質問に答えないのだろうか。言えないわけでもあるのだろうか。
 考えを巡らせるうちに、ある推論に行き当たった。
 もしかしたら、彼女もあと三ヶ月ということを聞いたのかもしれない。それでなぜ深呼吸なのかはまだわからないが、自分と同じように感じているのだとすれば、いつもと違う行動をとる理由にはなりえるだろう。
 バラ園の細道を軽やかに進む彼女に、ラウルは三歩ほど後ろから見守るようについていく。両脇にはピンクローズが咲いていた。むせかえるような緑の中に、ほのかな甘さが漂っている。
「おまえもアルフォンスに聞いたのか?」
「えっ? 何を?」
 レイチェルはきょとんとして振り返り、大きく瞬きをした。不思議そうな顔でじっとラウルを見つめる。とぼけているようには見えない。
「……なぜ、ここへ来た」
「それは……」
「言えないのか?」
 思わずラウルはきつい口調で問いただす。
 レイチェルは当惑したように目を伏せた。しばらくそのまま考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げ、まっすぐにラウルを見据えて答える。
「ラウルが落ち込んでいるみたいだったから、元気になってほしかったの」
 濃色の瞳が大きく揺らいだ。
 確かに彼女の言うように落ち込んでいた。しかし、彼女にはそのことは何も言っていないし、むしろ悟られないように気をつけていたつもりだ。態度に出ていたとは思わない。それなのに、どうして気づかれてしまうのだろうか。
 今回だけではない。似たようなことはこれまでに何度もあった。
 ときどき、そんな彼女のことを怖いと思う。
 それは自分の中にどうしても知られたくない気持ちがあるからだろう。知られれば確実に軽蔑され、拒絶されてしまう。そうならないように、是が非でも最後まで隠し通さなければならない。
「元気になるおまじない、欲しい?」
 ふとレイチェルがそんなことを尋ねてきた。後ろで手を組んでにっこりと微笑んでいる。そのおまじないが何であるか、ラウルにはすぐにわかった。
「……ああ」
「じゃあ、しゃがんで」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませ、せがむように右手を上に伸ばす。
 しかし、ラウルは彼女の要望とは違う行動をとった。彼女の体を片腕ですくい上げるようにして肩に座らせる。安定感のないそこで、レイチェルはバランスを崩して上体をふらつかせた。慌ててラウルの頭に両手を掛けて自身を支え、小さく息を呑み、高い位置から辺りを見まわす。
 ラウルが顔を上げると、彼女と視線が合った。
 彼女はきょとんとしていたが、すぐにニコッと笑い、体を屈めてラウルの額にそっと唇を寄せた。軽く触れるだけの口づけ。それが彼女の言う“元気になるおまじない”である。
「少しは元気になった?」
「少しはな」
 ラウルの答えは素っ気ないものだったが、それでもレイチェルは屈託のない幸せそうな笑顔を見せた。肩に座ったまま、目を閉じて少しだけ体を寄せる。願うことは同じ。言葉はなくても通じ合っている。それが二人の間に心地よいあたたかな空気を作り出していた。
 ふいに背後から突風が吹いた。
 瞬間的に二人の長髪を舞い上がらせ、服をバサバサとはためかせると、すぐに上空へと抜けていった。巻き込まれた木の葉が高く吹き上げられる。二人はそれにつられるように顔を上げた。その先には、穏やかな澄んだ青色が、どこまでも続くかのように広がっていた。

「あと三ヶ月?」
 部屋に着いてからそのことを尋ねてみると、レイチェルは目を丸くして聞き返した。いつもの指定席に行儀良く座ったまま、ダイニングテーブルの上で両手を重ねる。
「やはり聞いていなかったのか」
「ええ、今夜お父さまが帰ってきてから話すつもりだったのかしら」
 彼女は首を傾げて独り言のように呟いた。そこには悲嘆や落胆のようなものは微塵も感じられなかった。表情も普段とまったく変わらないように見える。
 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら眉根を寄せた。
「わかっているのか」
「うん……もう少し一緒にいられると思ったんだけど、予想よりも早かったわ。でも、これからだって会えないわけじゃないもの」
 レイチェルは小さく微笑んで言った。
 やはりわかっていない——。
 確かに会えないわけではない。だが、会うことはなくなるだろう。
 ラウルは王宮医師として医務室に籠もり、ほとんど王宮の外に出なくなる。レイチェルはラグランジェ本家に嫁ぎ、今ほど自由に行動できなくなる。用がなければ外出することもないだろう。
 ふたりに接点はない。
 どちらかが行動を起こさない限り、会うことは出来ないのだ。そして、それは許される行為ではない。彼女は名門ラグランジェ本家当主の妻になる。たとえ、ただ顔を会わせるだけだとしても、誤解を招くような行動は慎まなければならないのである。
 ラウルはうつむいたまま紅茶をティーカップに注いだ。そのひとつをレイチェルに差し出す。そのとき、彼女を目にして妙なことに気がついた。
「おまえ、後ろを向いてみろ」
「後ろ?」
 レイチェルは椅子に座ったまま、椅子の背もたれを掴み、言われるまま素直に後ろを向いた。何かを探すようにきょろきょろと上下左右に目を走らせたあと、不思議そうにラウルに視線を戻し、尋ねかけるように小さく首を傾げた。
 ラウルは腕を組み、軽く溜息をついた。
「リボンが縦になっているぞ」
「えっ?」
 レイチェルは慌てて頭の後ろに手を伸ばし、手探りでリボンの状態を確認した。実際に縦になっていることがわかると、髪から外して手元に持ってくる。それを表にしたり裏にしたりするうちに、彼女の表情はみるみる曇っていった。
「破れているわ……」
「新しいのを買ってやる」
 ラウルはほとんど反射的にそう答えていた。誕生日プレゼントに何も贈れなかったことを後悔していたので、むしろちょうどいい機会だと思った。こういう状況ならば、自分で何を買うか悩まなくても、彼女に気に入ったものを選んでもらえばいい。
 しかし、その目論見はあっさりと根本から崩れ去った。
「いいわ、もったいないから」
「遠慮はするな」
「そうじゃなくて、せっかく買ってもらっても、すぐに使わなくなってしまうから……。いま新しいドレスを作っているの。結婚したらこんな子供みたいな格好はいけないって。だから、このリボンも今日で終わりにするわ」
 レイチェルは微笑みながら淡々と述べていく。
 ドレスのことは母親のアリスに聞いていた。わかっていたことだったが、あらためて彼女の口から聞かされると、その日が迫っているのだと否が応でも実感させられる。
「……貸してみろ」
 ラウルはそう言って手を差し出すと、彼女からリボンを受け取って観察した。それは髪留めにリボンを括り付けてあるものだった。その括り付けてある部分が半分ほど破れて、リボンが縦になっていたらしい。これならば、破れた部分を縫いつければ何とかなりそうだと思う。
「おまえはここで待っていろ」
 ラウルはそう言い残すと、リボンを持って隣の寝室に向かった。

 ラウルが戸棚から裁縫道具を取り出そうとすると、レイチェルがそっと扉を開けて顔を覗かせた。興味深そうにあちこち眺めながら、勝手に中に足を踏み入れる。
「待っていろと言ったはずだ」
「ひとりでいるのは寂しいの」
 彼女はニコッと笑って言う。
 ラウルはもう戻れとは言えなくなってしまった。結局、彼女には甘いのだ。部屋を見てまわる彼女を放置したまま、ベッドに腰掛け、リボンの修復を開始すべく針に糸を通す。
「これ、私があげたの……じゃないわよね?」
 レイチェルは窓際に置いてある一輪挿しのピンクローズを覗き込みながら首を傾げた。
「おまえにもらったものだ」
「でも、あれから二ヶ月も経っているのに……」
 彼女の疑問はもっともだった。そのピンクローズはレイチェルの誕生日パーティでもらったものである。あれから二ヶ月が過ぎており、通常であればとうに枯れているはずだが、それは当時と変わらない可憐な姿を留めていた。
「長期間保存が利くように加工してある」
「そんなことが出来るの?」
 レイチェルは目を大きくして驚いた。
「大切にすると約束したからな」
「花は枯れるものよ。気にしなくても良かったのに」
 指先で花弁をなぞりながらそう言うと、そっと視線を流して微笑む。
「優しいのね、ラウルは」
 ラウルは無言のまま、針を持つ手を動かした。
 彼女の認識は間違っている。自分の行動は優しさからのものではない。ただの身勝手である。レイチェルからのプレゼントを失いたくなかっただけなのだ。たとえ自然の摂理を曲げてでも——。だが、それを彼女に告げる勇気はなかった。
「一輪挿しはわざわざ買ったの?」
「いや……それはサイファからもらったものだ」
 ラウルは少し躊躇いつつも事実をありのままに答える。
「お誕生日プレゼント?」
「そうではない。もっとずっと昔のことだ。あいつの家庭教師を終えたときに、礼だと言って持ってきたのだ」
 ずっと昔、と言ってしまったが、よく考えてみれば、まだほんの三年ほど前のことである。端整な中にあどけなさの残る彼の笑顔、柔らかなピンクローズ、箱から取り出した一輪挿し——きのうのことのように鮮明に思い出せるが、ひどく昔のことのようにも感じる。それほどこの三年の間に様々な出来事があった、ということだろうか。
「じゃあ、私も何かお礼を考えておくわね。三ヶ月後までに」
 無邪気なレイチェルの言葉が、ラウルの心を深くえぐった。うつむいたまま返事もせず、ひたすらその手を動かし続ける。
「すごい、お店の人みたい」
 レイチェルは小走りで近づいてくると、ラウルの手元を興味深げに覗き込んだ。
 感心されて悪い気はしないが、ただ縫いつけているだけで難しいことは何もしていない。彼女にその知識がないので難しく見えているだけだろう。
「ラウルって何でも出来るのね」
「おまえが出来なさすぎるだけだ」
「そうかしら?」
「おまえはそれで構わないがな」
 ラウルの場合は生きていくために必要だったので自然と身についただけである。彼女は家事などする必要はないはずだ。結婚して妻となっても、それは彼女の役割ではない。
「できたぞ」
 糸をハサミで切って言う。水色の糸がなかったので、白い糸を使ったが、目立つ部分ではないので構わないだろう。これで三ヶ月くらいなら余裕でもつと思う。
「つけて」
 レイチェルはすぐ隣に腰掛けると、ラウルを見上げてニコッと笑った。
 ラウルは彼女の横髪をすくい、後ろでまとめて、リボンのついた髪留めをつけようとする。しかし、向かい合ったままで後ろが見えないせいか、髪がきれいにまとめられず、なかなか上手くいかない。
「あ、私、後ろを向くわ」
 ラウルが苦戦しているのに気がつくと、レイチェルはそう言って体を離し、ベッドに座ったまま向きを変えようとした。
 しかし、ラウルは咄嗟にそれを阻んだ。
 逃れられないように彼女の細い両肩をきつく掴む。その行動に明確な理由があったわけではない。ただ、彼女に背を向けられることに耐えがたいものを感じたのだ。自分の傍から去っていかれるような、そんな幻想さえ重なって見えた。
「ラウル……?」
 レイチェルはきょとんとしてラウルを見つめた。
「行くな……」
 ラウルは溢れるように小さな声を落とした。肩を掴む手に力が入る。大きく瞬きをする彼女をじっと見つめながら、ゆっくりと顔を近づけていき、小さな薄紅色の唇に自分のそれを重ねた。柔らかな感触が理性を融かしていく。思考が真っ白になった。何も考えられない。ほとんど無意識のまま、その口づけを深いものへと進めていった。
 レイチェルの体がビクリと震えた。
 しかし、今のラウルにはそれに気づく余裕などなかった。手にしていたリボンを床に落とし、求めるままさらに深く口づけていく。
 レイチェルは押し倒されるように、仰向けにベッドに倒れ込んだ。
 ラウルは覆い被さるように彼女の両側に腕をつき、目を細めて彼女に顔を近づけていく。
 ベッドのスプリングがギシリと音を立てて軋んだ。
 その音でラウルは我にかえる。
 自分の下にある彼女の顔には恐怖の色が浮かんでいた。表情は引きつったままこわばり、蒼の瞳は怯えるように小さく揺れている。それを見た瞬間、頭から氷水をぶちまけられたかのように感じた。全身から血の気が引いていく。
 自分はとんでもないことをしようとしていた——。
 体を起こすと、深くうつむいて掴むように額を押さえる。力を込めた指先が震える。彼女に目を向けることは出来なかった。
「すまない」
 彼女に嫌われることよりも、怯えられることの方が怖かった。自分のとった行動を振り返ると、体の芯から凍りつきそうになる。いくら後悔してもしきれない。今はとりあえず彼女から離れるべきだと思い、ベッドに手をついて腰を上げようとした。
 しかし、そのとき——。
 小さな手でしっかりと手首を掴まれた。力自体はたいしたことはないが、そこからは明確な意志が感じられる。ラウルはおそるおそる彼女に振り向いた。
「やめないで」
 レイチェルは強い引力を秘めた瞳を向けて言った。小さな声だったが、凛としており、そこに迷いや怯えは微塵もなかった。
 ラウルは息を呑んだ。
「……馬鹿を言うな」
 声が掠れた。視線を逸らし、唾を飲み込んでから続ける。
「そもそもおまえはわかっていないだろう、私が何をしようとしていたのかなど」
「わかっているわ、多分……何となく……」
 手首を掴む彼女の指先に少し力が入った。
 ラウルはシーツを掴みながらこぶしを握りしめる。布が擦れる小さな音がして、そこから放射状にいくつもの皺が走った。
「わかっていない」
「わかっているわ」
 もしかしたら他の家庭教師からそういう教育を受けたのかもしれない。しかし彼女の言動からすると、あまりわかっていない可能性も高い。いや、わかっているかどうかなど今は関係のない話である。どちらにしても自分の取るべき行動はひとつだ。
「忘れてほしい、本当に悪かった……」
「いやっ!」
 これまで聞いたこともないくらいに強い、彼女の声。
 ラウルは目を見開いた。
「あと三ヶ月でしょう? 私たちの時間」
「会えなくなるわけではない」
 彼女を説得するために咄嗟に嘘をついた。先ほどまではわかってほしいと願っていたのに、今はそれを否定する言葉を口にしている。本意ではないが、この状況を切り抜けるにはそうする以外になかった。
 しかし、彼女は僅かに声を震わせて言う。
「会えなくなるも同然だわ。ラウルだってわかっているはず……」
 そのときの何もかも諦めたような寂しげな表情は、二ヶ月前の誕生日プレゼントのあと、去り際にちらりと見せたものと同じだった。
 そうか、おまえは——。
 おそらく、あのときにはすでにわかっていたのだろう。家庭教師が終わってしまえば、もう会うこともなくなるということを。
「だから、やめないで。ラウルに後悔してほしくない」
「怖がっていたくせに何を言う」
 ラウルの鼓動は痛いくらいに強く打っていた。喉もカラカラに渇いている。それを悟られないように顔をそむけ、突き放した態度で諦めさせようとする。
「少し驚いただけ。怖くなんかない。ラウルと一緒なら何も怖くないから」
 彼女は自分に言い聞かせるように繰り返す。ラウルを掴む小さな手は、緊張からか、僅かに湿り気を帯びていた。
「おまえ……は……」
 サイファの婚約者なのだ——。
 彼女はわかっているのだろうか。その行為はサイファに対する裏切りになるということを。そこまで考えが及んでいないのかもしれない。許されないことだという認識がないのかもしれない。だとすれば、自分がそのことを諭してやめさせなければならない。そう思うものの、どうしても口が動かない。
「私はラウルが好きだから」
 レイチェルは澄んだ大きな瞳でラウルを見つめた。そして、ラウルの手を自分の胸元にゆっくりと導く。柔らかく温かいそこから、微かに鼓動が伝わってきた。少し速いその鼓動に、ラウルの鼓動も同調していく。
「レイチェル……」
 その声には自分でも驚くほど熱がこもっていた。声だけでない。体も熱くなっていた。彼女の存在を確かめるように、その頬に手を置くと、ゆっくりと輪郭をなぞり、白い首筋へと滑らせていく。
 レイチェルは小さく吐息を漏らし、首筋を伸ばすように顔を上に向けると、微かに震える瞼をそっと閉じた。


24. 静かな決断

 いつの頃からだろう、彼女のすべてを求める感情が芽生えたのは。
 しかしそれは心の奥底に留めておかなければならないものだった。
 そんなことはわかっているつもりだった。
 それなのに——。

 ラウルは目を細めて眼下に広がるバラ園を見下ろした。
 昨晩は一睡も出来ず、今朝になっても何も手につかず、気分転換のために外に出たのである。どこへ行くかは決めていなかったが、足は自然とここへ向かっていた。今の自分の状況を考えれば、それも当然のことだったのかもしれない。
 少し冷たい風が頬を掠めた。
 色鮮やかなバラ園をぐるりと見渡す。普段から人の少ないところだが、早朝のためか、今は誰ひとりとして見当たらない。静かだった。さわさわと葉の擦れる微かな音だけが耳に届いている。
 足を一歩踏み出した。
 彼女がきのう通った道をなぞるように、バラ園へと降りていく。
 相変わらず手入れは隅々まで行き届いていた。遠くで見ても、近くで見ても、非の打ち所のないくらいに整えられている。そしてそれを引き立てるように、花びらや葉にはいくつもの朝露が降り、清廉な朝の光を浴びて無垢に輝いていた。
 幾多のピンクローズに彩られた細道を進んでいく。
 すれ違い際に微かな風が起こり、淡く色づいた柔らかな花弁を揺らす。そこからキラリと光るひとしずくが滑り落ち、地面に弾けて消えた。
 何気なく顔を上げてあたりを見まわすと、隅にひっそりと佇む大きな木が目についた。引き寄せられるように、そのもとに足を進めて腰を下ろす。地面のひんやりとした感触が布越しに伝わってきた。立てた膝の上に腕をのせ、大きく顔を上げて目を細める。
 空は優しい色をしていた。
 ところどころにかかる薄い筋状の雲がゆっくりと形を変えていく。世界が止まったかのような静けさの中で、そのことだけが辛うじて時の流れを感じさせた。
 横からのそよ風が長めの前髪をさらさらと揺らす。
 ラウルは大きく息を吸い込み、ざらついた木の幹に体重を預けて目を閉じた。何も考えずに、ただそうしていたかった。強制的に思考を閉じる。しかし、それでも心のさざなみまでもを消すことは出来なかった。

「ラウル」
 頭上から降る澄んだ声とともに、日差しが遮られた。
 ラウルは目を開く。
 そこには、後ろで手を組んでにっこりと微笑むレイチェルが立っていた。逆光を浴びた細い金の髪が透けるように輝いている。後頭部にはいつもと同じ薄水色の大きなリボンがつけられていた。一瞬、幻覚かと思ったが、間違いなく現実である。
「なぜここへ来た」
「ラウルを探していたの」
 彼女はそう言うと、ラウルの隣に腰を下ろした。何かを敷くこともなく、直接、土の上に座った。ドレスが汚れるのではないかと思ったが、彼女はまったく気にしていないようだった。小さな手で軽く膝を抱えると、遠い空を見上げて言う。
「今朝、お父さまから話があったわ。あと三ヶ月って」
 ラウルはちらりと視線を流した。
「何と答えた」
「わかりました」
「……そうか」
 彼女はまっすぐに空を見ていた。その横顔はいつもと何ら変わりのないものだった。無理をしているようには見えない。
 ラウルは探るようにじっと彼女を見つめた。
 その視線に気づいたのか、レイチェルは不思議そうな顔で振り向いた。きょとんと瞬きをして小首を傾げる。しかし、ラウルと視線を絡ませて見つめ合うと、無防備に愛らしくニコッと微笑んだ。
 何も、何ひとつ変わっていない——。
 ラウルは僅かに目を細めた。彼女を取り巻く状況も、彼女自身も、すべて見事なくらいに以前のままだった。何かを変えるためにあんな行動を起こしたわけではない。だが、心のどこかで期待はしていたのだろう。いざこの現実を目の前に突きつけられると、どうしようもなく胸がざわめき、やるせない思いが湧き上がった。
 いっそ、連れ去るか——。
 あどけない笑顔を瞳に映しながら、ふとそんなことを思う。
 彼女ほどの魔導力があれば、おそらく、自分と同じ時間を生きることが可能になるはずだ。そうなれば、これから先の永い時間を彼女とともに過ごしていける。誰の手も届かないところで、自分の本来いるべき場所で。
 しかし、それは自分の身勝手な願いにすぎない。
 彼女は望んでいないだろう。両親やサイファと離れることも、時の流れを変えられることも。彼女のためを思うなら、やってはならないことだ。彼女を悲しませることも苦しませることも本意ではない。
 諦めるしかない。
 結局はいつもと同じ結論に辿り着く。違う筋道で考えても変わらない。これ以外の解決策は見つけられないのだ。見つけられないのではなく、そもそも存在しないのかもしれない。
「私ね……」
 レイチェルが空を見上げて静かに切り出した。
「ずっと続くような気がしていたの、こんな幸せな今の日々が。お父さまとお母さまのもとで暮らして、サイファと休日を過ごして、ラウルと一緒にお茶を飲んで……」
 淡々とそう言うと、僅かに目を伏せる。
「もちろん終わりが来ることはわかっていたけれど、遠い話のようで実感が持てなくて……でも、15歳の誕生日あたりから少しずつまわりが動き始めて、嫌でも実感させられるようになったわ。そのうちにラウルとも会えなくなるんだって寂しくて仕方なかった。それでもラウルを困らせたくなかったから、知らないふりをしようと思っていたの」
 それは初めて聞いた彼女の本心だった。
 ズクン、とラウルの胸が大きく疼く。自分のためを思っての行動だったとは思いもしなかった。そもそも知らないふりをしているとわかったのも昨日のことである。もっと早く気づくべきだった。寂しさを隠して無邪気に振る舞っていた彼女の心情を思うとやりきれない。
「私も男だったら良かったのに」
 先ほどまでの雰囲気とは一変した明るい声。
 ラウルは面食らって振り向き、怪訝に眉をひそめる。
「おまえ、何を言っている」
「そうしたら、サイファみたいに自由に会いにいけるでしょう?」
 レイチェルは顔を斜めにしてにっこりと微笑みかけた。屈託のない無邪気な笑顔である。しかし、もしかするとそれも無理をしているのかもしれないと思う。
「……ああ、そうだな」
 ラウルは目を細めて空を見上げた。
 隣のレイチェルもつられるように空を見上げた。
「これからも、サイファとは仲良くしてね」
「あいつは来るなと言ってもしつこく来る」
 サイファはこのところ足繁く医務室を訪れていた。もちろん患者としてではない。長居することこそ少ないが、仕事の合間や終わったあとに顔を見せ、軽く無駄話をしていくのだ。冷たくあしらっても一向に懲りる様子はなく、それどころか反応を楽しんでいる様子さえ窺えた。
 レイチェルは空を見たままくすりと笑った。
「サイファはラウルのことが大好きなの」
 それが事実かどうかはわからないが、ラウルにとってはどうでもいいことだった。はっきり言えば興味がない。彼がどう思っていようと自分には何の影響もないのである。
「ラウルもサイファのことが好きでしょう?」
「さあな」
 ラウルは頬杖をつき、素っ気なくはぐらかした。
 それでもレイチェルは引かなかった。
「好きだと思うわ」
「……おまえがそう言うのなら、そうなのだろう」
 考えてみれば、自分と彼女を繋ぐことができるのはサイファだけになる。彼女はそれを守ろうとしているのだろうか。それとも孤独なラウルを一人にさせまいとしているのだろうか。
 彼女が意図するものが何であるか、本当のところはわからない。
 だが、それを問いただす必要はないと思った。

 それきり二人の会話は途絶えた。
 草の匂いの混じった風が頬を撫でる。
 二人はただ空の青をその瞳に映していた。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。
 気がつけば太陽は高い位置に来ていた。二人が座る場所には陰が落ち、強烈な白い日差しが足先を照らしている。
「私、そろそろ帰らないと」
 レイチェルはぽつりとそう言うと、地面に手をついて立ち上がろうとした。
 咄嗟にラウルはその手首を掴んだ。
 引き留めてどうするつもりだったのか、自分でもわからない。考えるよりも先に手が動いていた。怖がらせる前に放すべきだと思いつつも、手の力を抜くことが出来なかった。
 レイチェルは大きな瞳でじっとラウルを見た。
「さみしいの?」
 ラウルは目を大きく見開いた。返答に困った。顔を少しだけ逸らすと、無言のまま彼女の肩を抱き寄せる。レイチェルはなすがままラウルの胸に寄りかかった。瞬きをして不思議そうにラウルを見上げたが、視線が合うと、くすりと笑って幸せそうに目を閉じた。
 胸にかかる小さな重みが愛おしい。
 彼女の白く柔らかい頬に指先で触れた。ゆっくりと顎へと滑らせ、軽く持ち上げる。それでも目を閉じたままの彼女に、許されたような気になって、身を屈めてそっと唇を寄せた。
 だが、触れる寸前でそれを止めた。
 しばらくそのままじっとしていたが、やがて少しだけ顔を離して小さく溜息を漏らす。
 どうかしている——。
 こんなところを誰かに見られでもしたら言い訳のしようもない。ここは二人きりの部屋ではなく、王宮からは出入り自由の場所である。普段から人の少ないところではあるが、まったく誰もいないというわけではない。バラの手入れをしている人や、散歩をしている人たちが、遠くに数人ほど見えている。いつ目撃されてもおかしくない状況だ。
 レイチェルが何かを感じたのか目を開いた。
 その澄んだ大きな瞳に、ラウルは吸い込まれそうになる。くらりと目眩がして頭の中が真っ白になった。抗えぬ引力に落ちるようにそっと口づける。薄紅色の甘く柔らかい感触が頭の芯を痺れさせた。息を止めたままゆっくりと顔を離していく。
 レイチェルはニコッと笑った。
 曇りのないその笑顔を目にし、ラウルは胸が強く締めつけられた。彼女はわかっていない。ずるく身勝手な自分には、その笑顔を向けられる資格などないのだ。彼女の小さな体にまわした手に、無意識に力を込める。
 私は、弱い人間だ——。
 このままでは彼女の歩むべき人生を壊しかねない。もちろん壊すことなど望んではいない。だが、いっそ壊してしまいたいという黒い感情が潜んでいるのは事実だ。自分には衝動を抑える自信などない。取り返しのつかなくなる前に、決断しなければならないだろう。
 彼女と寄り添いながら鮮やかな青い空を見上げた。彼女も同じ空を見ている。交わされる言葉は何もない。ただ、穏やかな空気だけが二人を包んでいた。
 正午を告げる鐘が遠くで鳴り響いた。
 ラウルの心は決まった。
 だが、ここで彼女に話すつもりはない。気持ちの整理がついていないという以上に、二人のささやかな今を壊したくないという思いが強かった。
 おそらくこれが最後になるだろう。
 だから、せめてもう少しだけ、この時間が続いてほしいと願った。


25. 本当のけじめ

「今日はここまでだ」
 ラウルがいつものように授業の終わりを宣言すると、レイチェルはすぐに机の上を片付け始めた。そそくさと教本を本棚に収め、筆記具を引き出しにしまい、机に手をついて軽やかに立ち上がる。
「行きましょう」
 そう言うと、ふわりとドレスを揺らして振り向き、ニコッと無邪気な笑みを浮かべた。
 しかし、ラウルは椅子に座ったまま動こうとしなかった。自分の教本を片付けようともせず、ゆっくりと腕を組んでうつむく。
「どうしたの?」
「話がある。座れ」
 レイチェルは不思議そうな顔をしていたが、命じられるまま素直に腰を下ろした。机ではなくラウルの方を向き、行儀良く膝の上に両手をのせて、大きな瞳でじっとラウルを見つめながら次の言葉を待っている。
 ラウルは深く息をしてから口を開いた。
「今後、もうおまえを私の部屋には入れない」
「……どうして?」
 レイチェルは大きく目を見張ったが、それでも冷静を保って理由を尋ねた。
「どうしてもだ」
 ラウルは答えにならない答えで突き放す。
 これは彼なりのけじめである。
 残りの三ヶ月、出来ることなら彼女とともに過ごしたかった。だが、同じ過ちを繰り返さないためにはこうするしかない。一度外れた箍は、完全には元通りにならないのだ。もう自分を抑える自信はないのである。
「今までのように一緒にお茶を飲むだけでいいのに」
「駄目だ」
 寂しそうに呟くレイチェルを、ラウルは冷淡に一蹴した。そうしなければ、せっかくの決意が揺らいでしまいそうだった。しかし、それは自分の不甲斐なさを彼女に押しつけていることに他ならない。申し訳なく思う気持ちが胸を締めつける。
 しかし、当然ながら、レイチェルはそんなラウルの心情を知るはずもなかった。拒絶されている理由すらわからないのだろう。蒼の瞳が不安そうに揺らぐ。そこには微かな怯えも見て取れた。だが、すぐにそれを隠すように目を伏せると、遠慮がちに小さな口を開く。
「私、気にしていないから……」
 ラウルはその意味がわからず、怪訝に眉をひそめて彼女を見た。
「誰かの代わりだったとしても、私は気にしていないから」
 レイチェルはそう言い直して、どこか寂しそうに小さく微笑むと、さらに淡々と言葉を重ねていく。
「本当は私のことを好きになってほしかったけれど、ラウルが救われるのならそれでいい。役に立てるだけで嬉しいの。だから、ラウルが罪悪感なんて感じることはないわ」
 ——こいつ、まさか今までずっと……!
 ラウルは砕けんばかりに強く奥歯を噛みしめた。彼にしてみればもう終わったことである。それにもかかわらず、今さらこんなことを言い出され、まるで不意打ちを食らったような気分だった。
 確かに、三年前のあのときに指摘されたことは事実である。
 レイチェルを通して別の少女を見ていた。守るべき役目を負っていながら、守ることができなかった少女を——。彼女は自分にとって、幼い頃から大切に育ててきた、いわば娘のような存在である。レイチェルに対する思いも、当初はそれと似たものだったかもしれない。だが、今ではもう別のものに変わっているのだ。
 ラウルが我を忘れるほど渇望したのはレイチェルただ一人である。
 心も体もすべてを手に入れたいと思ったのは彼女が初めてである。
 誰かの代わりであるはずがないのだ。
 知ってほしくないことは敏感に感じ取るくせに、察してほしいことは何も気づいてくれない。それが故意でないことは理解している。それでもどうにも納得がいかず、抑えようのない怒りが胸に湧き上がる。
「おまえは……」
 眉をしかめて低い声で文句を言いかけたそのとき、ふとある考えが頭に浮かんだ。
 このことを利用すれば、レイチェルを確実に諦めさせることができる。彼女ならそれで身を引くはずだ。少なからず嫌な思いをさせてしまうことは間違いないが……いや、いっそこれで愛想を尽かしてくれるのならば、その方が都合がいいのかもしれない。
 ラウルはしばらく難しい顔で逡巡していたが、やがて意を決すると、真剣な眼差しでまっすぐに彼女を見つめ、躊躇うことなく決然と言う。
「おまえでは、あいつの代わりにはなれない」
 それは彼女が縋った存在理由の否定。
 レイチェルは雷に打たれたように硬直した。
「…………そう」
 息が詰まりそうなほどの長い沈黙のあと、小さな声でようやくそう言うと、首が折れそうなほどに深くうなだれた。細い金の髪がさらさらと肩から滑り落ち、白いうなじが僅かに覗く。彼女がどんな表情をしているのか、ラウルからは見えなかった。
 重苦しい静寂が続く。
 レイチェルは膝の上においた手をギュッと握りしめて顔を上げた。その表情は硬いものだったが、気丈にもすぐにニコッと笑顔を作って明るく言う。
「わかったわ。でも、家庭教師は続けてくれるのよね?」
「ああ、あと三ヶ月は約束どおりに行う」
 本当は家庭教師もきっぱり辞めてしまった方がいいのだろう。しかし、ラウルはアルフォンスに雇われている身である。ラウルの一存で決めることはできないし、辞めると申し出れば間違いなく理由を詮索されてしまう。その理由を答えられない以上、あと三ヶ月、当初の約束どおり続けるしかないと思う。
「じゃあ、門のところまで送るわね」
「……ああ」
 ラウルが静かにそう答えると、レイチェルは椅子から立ち上がり、くるりと身を翻して足早に扉へと向かった。薄水色のリボンが後頭部でひらりと揺れている。その動きに誘われるように、ラウルは無言で教本を脇に抱えてついていった。

「またあしたね」
「……ああ」
 レイチェルは門を出たところで立ち止まると、後ろで手を組み、少しぎこちない笑みを浮かべてラウルを見送る。それは彼女の精一杯の優しさだったのかもしれない。
 理由も言わず一方的に拒絶したのはラウルの方だ。
 それにもかかわらず、素直に従う彼女を見ていると、申し訳なく思うと同時に、胸にすきま風が吹き抜けるような寂しさを覚えた。そんなのは嘘だと責めてくることを、嫌だと泣きついてくることを、心のどこかで期待していたのだろう。もちろん、それが呆れるほど理不尽な気持ちであることは十分に自覚している。
 彼女に背を向けて歩き出す。
 すぐに振り返りたくなる衝動に駆られるが、思いとどまり、前を向いたまま足を止めずに歩き続ける。視線の先には優しい色の空が広がっていた。繊細なレースのような薄い雲がゆっくりと漂い流れていく。
 そこにあったのはとても静かで穏やかな空気だった。
 ただ、頬に当たる風だけは少し冷たかった。

 翌日も家庭教師の授業は予定通りに行った。
 レイチェルの様子は、たった一日ですっかり元に戻っていた。真面目に授業を受ける姿勢も、屈託のない笑顔も、明るく澄んだ声も、拍子抜けするくらい普段どおりである。そこに悲しさや寂しさといった感情は見つけられなかった。
 彼女にとって、所詮、自分はその程度の存在なのかもしれない。ともに過ごせないことをつらく思ったとしても、それは最初だけで、すぐに他のもので埋め合わされてしまうのだ。いつまでも引きずっているのは自分だけなのだろう。
 しかし、それでいいのだとラウルは自分に言い聞かせた。
 レイチェルには婚約者のサイファがいる。ラウルとのことにこだわり続けるよりも、きっぱりと断ち切った方が幸せになれるはずだ。彼女が幸せであればいい——それがラウルのほんの少しの強がりを含んだ本音だった。
 彼に残されたのは味気のない毎日である。
 レイチェルとともに過ごす時間がどれほど大きな意味を持っていたか、ラウルはそれを失うことであらためて思い知らされた。それでも家庭教師が続いているだけまだましなのかもしれない。家庭教師が終わってしまえば、味気ないどころではなく、彼女と出会う以前のような空っぽの日々が続くことになるだろう。
 ひとりで暗く静かな部屋に戻ると、ラウルはダイニングテーブルを見下ろす。
 その瞬間、指定席に座って紅茶を飲む彼女の姿が思い出される。毎日のように目にしていたその光景は、もう現実になることはないのだ。目を瞑り、深く溜息をつく。叶わない夢を見るのはもう止めなければならない。
 この状況を招いたのは自分の行動である。
 それがなければ、残りの三ヶ月を穏やかに過ごすことが出来ただろう。
 しかし、後悔しているのかは、ラウル自身にもわからない。
 その行動が正しいものでないことは理解している。彼女のためを思うならば、やってはならないことだった。後悔すべきなのだろう。だが、自分の中にはそれを肯定する気持ちも少なからずあった。自分が強く望んだことなのだ。当然といえば当然なのかもしれない。平穏な三ヶ月と引き替えに、叶わないはずだった奇跡のような時間を手に入れた——そう考えれば悪くない。いや、十分すぎるほどだ。あの日のことは、彼女と会えなくなっても一生忘れることはないだろう。
 しかし、それは身勝手で一方的な思いだ。
 レイチェルがどのように考えているのかは、ラウルにはわからない。それを彼女に尋ねようとも思わない。今さら知ってもどうにもならないことである。ただ、せめて思い出として心に留めるつもりでいてくれればと、そんな未練がましいことを密かに願った。

 けじめの日から静かに二ヶ月が過ぎ、ラウルがレイチェルの家庭教師でいられるのは残り一ヶ月となった。未だにもどかしく思う気持ちは燻っているが、それでも何も行動を起こすわけにはいかない。ラウルに出来ることは、引き続き、ただ黙々と役目を果たすだけである。

 その日の空は果てしなく澄み渡っていた。
 ラウルはレイチェルの家へやって来ると、いつものように二階にある彼女の部屋へ向かおうとした。しかし、階段に足をかけたところで、居間から顔を覗かせたアリスに呼び止められる。
「ちょっとだけ、いいかしら」
「何だ」
 アリスの小さな手招きに従い、ラウルは彼女の立つ居間の前へと足を進めた。しかし、彼女はなおも手招きをして、ドレスの裾が触れるほど近くまでラウルを呼び寄せると、顔の横に手を添えながら少し声をひそめて尋ねる。
「もしかして、レイチェルと喧嘩しているの?」
「……そういうわけではない」
 彼女の唐突な質問に、一瞬、ラウルは息が止まりそうになった。
「それじゃあ、あの子が一方的に怒らせたのかしら?」
「いや……」
 今度は歯切れ悪く答える。下手なことは言えないと思った。どう答えるのが最善なのか、今の段階では情報が少なすぎて判断がつかない。彼女の出方を窺う方が賢明だろう。無表情を装ったまま、促すようにじっとその双眸を見つめる。
 アリスはふっと息をつくと、少し困ったような顔で小さく笑った。
「このところ、あの子、すっかり元気がなくてね。何か思いつめている様子で、かなり参っているみたいなの」
 ラウルは少し目を大きくした。教本を持つ手に無意識に力がこもる。
「ラウルと喧嘩でもしたの? って訊いたら、『私がいけなかったの』って……。何があったのかは、いくら訊いても言おうとしなかったわ。多分、あの子が我が侭を言ったか、配慮のないことを言ったかだと思うんだけど……」
 アリスはそこで言葉を切り、上目遣いでラウルを窺った。それでも何も言おうとしないラウルを見て、自分の推測は間違っていないと勝手に確信したようだ。軽く溜息をつくと、申し訳なさそうに切り出す。
「母親の私がこんなことを言うのも何だけど、あの子も反省しているだろうし、そろそろ許してやってもらえないかしら。きちんと謝るように言っておくから」
 ラウルは眉根を寄せてうつむいた。
 考えてみれば、レイチェルはつらいことがあっても、悩みごとがあっても、滅多にそれを他人に見せることはなかった。常にまわりの人間に心配を掛けないように振る舞おうとしていた。ラウルに突き放された今なら、なおのこと本音を見せようとはしないだろう。そんなことにも気づかないなど、自分はいったいこれまで彼女の何を見ていたのだ——。
「いや……謝るのは私の方だ。すまなかった」
 カラカラの喉の奥から絞り出すようにそう言うと、アリスは心からほっとしたように、胸に手を当てて柔らかく微笑んだ。それはいつもレイチェルが見せる甘い笑顔と重なるものがあった。
 ラウルは正視できずに顔をそむけた。
 それをごまかすように素早く身を翻し、足早に階段の方へと歩き出す。そして、深く呼吸をして気持ちを静めると、教本を抱え直し、レイチェルの部屋へと続く階段を一段ずつ踏みしめながら上っていった。

「今日も来てくれてありがとう」
 家庭教師の授業が終わると、レイチェルは門の前まで足を運び、屈託のない愛くるしい笑顔を見せながら、感謝の言葉とともにラウルを見送る。
 それはこの二ヶ月の間、ずっと続いてきたことだった。
 その度にラウルは取り残されたような寂しさを感じていたが、笑顔の裏に秘められた思いを知った今は、胸が潰れそうなほどに苦しく、そして焦がれるほどに愛しく思う。
「レイチェル、明日は休日だな」
「……ええ?」
 レイチェルは大きく瞬きをしながら少し訝しげに返事をした。当たり前のことを確認するラウルの意図がわからなかったのだろう。それに答えるように、ラウルはまっすぐに彼女を見据えて言う。
「二人でどこか、誰もいないところへ出かけたい」
「……どうして?」
 レイチェルは感情の抜け落ちた声でぽつりと尋ねた。
 それでもラウルは動じることなく、なおも真剣な眼差しを向けて説得を続ける。
「おまえに話したいことがある」
「今、ここでは話せないの?」
「長くなりそうだ。落ち着いて話をしたい」
「そう……わかったわ」
 レイチェルは少し考えてから静かにそう答えると、ニッコリと明るい笑顔を見せた。そして、後ろで手を組み、小さく首を傾げながら尋ね掛ける。
「どこへ行くの?」
「そうだな……」
 ラウルは眉根を寄せて考え込む。彼女を誘うことに精一杯で、そこまで具体的には考えていなかった。誰にも邪魔をされず、二人だけで落ち着ける場所は——。
「前にサイファと行った森の湖畔は?」
「そこにしよう」
 レイチェルの提案を即座に採用する。ラウルの条件にこれほど合致する場所は他にないだろう。少なくとも、あまり外を出歩かないラウルには思いつかなかった。
「馬の手配と昼食の用意はしておく」
「私は、朝、ラウルのところへ行けばいいのね」
「ああ……そうだな、それでいいだろう」
 ラウルが迎えに行ってもよかったが、それではアリスやアルフォンスにいろいろと詮索されかねない。レイチェルが来てくれるのであれば、その方がありがたいと思う。
「楽しみにしているわ」
 そう声を弾ませるレイチェルに、ラウルはそっと左手を伸ばして柔らかな頬を包み込んだ。そのまま瞬きもせず彼女の瞳をじっと見つめる。そしてゆっくりと身を屈めると、反対側の頬に軽い口づけを落とした。
 それは約束のしるしである。
 その意図を理解できなかったせいか、触れることすら久しぶりだったせいか、レイチェルは驚いたように大きく瞬きをした。呆然とラウルを見つめる。しかし、やがて小さくこくりと頷くと、華やかな愛くるしい笑みを顔いっぱいに広げた。
 それが心からのものかはわからない。
 だが、そうであってほしいと願わずにいられなかった。

 二人を急かすように、強い突風が通り過ぎた。
 ラウルは目を閉じて踵を返すと、長い髪をなびかせながら歩いていく。
 心は決まった。
 明日、レイチェルにすべてを話す。かつて守るべきだった少女のことも、その面影を重ねていた頃の想いも、それとは違う今の想いも、唐突に遠ざけた本当の理由も、そしてラウルがいま願うことも——その上で彼女に判断を委ねるつもりだ。
 夢を見ているわけではない。
 おそらく結果的には何も変わらないだろう。彼女はこの国でサイファとともに生きることを選ぶに違いない。それが最も有り得べき妥当な予想である。
 しかし、それでもやらねばならない。
 今までのラウルは狡かった。自分のことは何も話さず、彼女のためだと理由を付け、勝手に先回りして決めつけていた。それで彼女を守っているつもりだったのだろう。だが、その身勝手な気持ちの押しつけが、逆に彼女を追い詰めてしまったのだ。
 彼女もいつまでも守られるだけの子供ではない。
 嘘やごまかしではなく、彼女を信じ、本心で向かい合うべきだった。しかし今からでも遅くはない。期限が来る前に気づけたことは幸運だったといえる。きちんと誤解を解いたうえで彼女を送り出そう。それこそが本当のけじめだと思う。
 ラウルは立ち止まって顔を上げた。
 明日も晴れるだろうか——。
 彼女との約束に思いを馳せながら、どこまでも続くような青い空を仰ぎ、その眩しさに少しだけ目を細めた。



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