閉じる


<<最初から読む

17 / 31ページ

17. 彼の望む未来

 ——まただ。
 書類を眺めていたサイファは、視界がぼやけるのを感じて目を閉じた。左手で額を押さえて深く溜息をつく。
「随分と調子が悪そうだな」
 隣に座る先輩のデニスが、ちらりと視線をよこして言った。ぶっきらぼうな言い方ではあったが、その声音から責めるようなものは感じられなかった。むしろ心配してくれているのだろうと思う。
「やっぱりわかりますか?」
「君がぼうっとしているのは珍しいからな。それに、顔も少し火照っている」
 サイファは答えの代わりに、微かな笑顔を見せて肩をすくめた。少なくとも職場では普段どおりを装うつもりでいたが、いつのまにかそんな余裕をなくしていたらしい。思った以上に体がいうことをきかず、仕事を進めるだけで精一杯だったのだ。何度も顔を曇らせ、溜息をついた覚えがある。見るからにつらそうな状態だったのだろう。
 医者に診てもらったわけではないが、おそらく風邪だ。
 今朝は喉の痛みを感じる程度だったが、午後になって熱が上がってきたようだ。体がだるくて力が入らないうえに、背筋がゾクゾクするような悪寒を感じる。さらに、頭がぼんやりとして、まるで仕事がはかどらない。
 昨日の遠乗りが原因だろうか。
 そう思うものの風邪につながるような心当たりはない。朝が早かったせいか、多少の肌寒さを感じることはあったが、我慢するほどのものでもなかったし、湖には足さえつけていないのだ。
 いや、もしかすると——。
 帰路でのことが原因だろうかと考える。往路はレイチェルと二人乗りだったが、帰路は一人で乗ることになった。ラウルの後ろに横乗りするレイチェルを見つめながら、冷たい風を背中に受けなければならなかったのである。そのことが嫌だったわけではないが、一抹の寂しさを感じたのは事実だった。
 そこまで思考を走らせると、ふと我にかえって苦笑した。
 どうやら寒かったのは体よりも心の方らしい。それで風邪をひくことはないだろう。
 結局、原因はわからないままだ。
 どうも今日は物事を論理的に考えられていない気がする。これしきの結論にも随分と遠回りをしてしまった。やはり熱のせいで頭の働きが鈍っているのだ。
「今日はもう帰った方がいい。遠慮はするなよ」
「そうですね」
 サイファは先輩の厚意を素直に受けた。急を要する仕事がないのであれば、このまま非効率的に続けることは得策ではない。早めに休養して早々に完治させた方が、結果的には早く仕事を進められるはずだ。
「では、医務室に寄ってから帰ります」
「お大事に」
 デニスは軽く右手を上げてサイファを見送った。彼はあまり愛想が良い方ではないが、いつもさりげなく気遣ってくれる。サイファはそのことに感謝していた。

 サイファはまだ明るい窓の外を眺めながら、廊下を歩いていった。タイル張りの固い床にもかかわらず、足もとがふわふわしているように感じる。高熱で力が入らないせいかもしれない。
 彼の向かった先はラウルの医務室だった。
 そこに到着すると、いつものようにノックもせずに扉を引く。だが、何かに引っかかってガシャンと音がしただけで、それが開くことはなかった。
 鍵が掛かっているようだ。
 ラウルが家庭教師以外で外出することはあまりない。まだレイチェルの家から帰っていない可能性の方が高いだろう。普段であればとっくに終わっている時間だが、長引いているのかもしれない。サイファは扉の前で息をつきながら腕を組み、ここで待つか、他の医務室に行くかを考えた。
 そのとき——。
 カチャリと鍵を外す音が聞こえ、続いてガラガラと扉が開いた。
「あれ……?」
 扉の向こうにいた人物はレイチェルだった。その背後にはラウルもいる。ふたりとも扉の前に立っていたサイファを目にし、少し驚いたような表情を見せていた。
「レイチェルどうしたの?」
「医務室を見学していたの」
 レイチェルは後ろで手を組み、小さくニコッと微笑んで答えた。
 それを聞いて、サイファは安堵の息をついた。自分と同じように患者として来たのではないか思ったが、どうやらその心配はなさそうだ。無理をしているようには見えないし、おそらく彼女の言うとおりなのだろう。
「今から帰るところ?」
「ええ、サイファは?」
 レイチェルは小首を傾げて尋ねた。
「風邪をひいたみたいだから、ラウルに診てもらおうかと思ってね」
「風邪……? 大丈夫なの?」
 大きく瞬きをして歩み寄ろうとしたレイチェルを、サイファは右手を前に出して制止した。軽く握った左手を口元に当てて言う。
「あまり近づかない方がいいよ。うつるといけないから」
「そう……」
 レイチェルは寂しげな声を落とすと、胸元で両手を組み合わせて心配そうに言う。
「サイファ、早く良くなってね」
「治ったらまた一緒にお茶をしよう」
 サイファが笑顔を向けると、レイチェルもほっと表情を緩めて頷いた。そこに浮かぶ甘く柔らかい微笑み——彼にとってはそれが何よりもの薬だった。あたたかいものがじわりと胸に広がっていく。
「入れ」
 今まで沈黙していたラウルが、唐突に短い一言を発した。いつもより僅かに声が低い。振り向いたサイファを一瞥すると、長髪をなびかせながら踵を返し、大きな足どりで医務室の中へ戻っていく。
 虫の居所が悪いのだろうか、とサイファは思う。
 やけに機嫌が悪く、苛立っているように見えた。もっとも、表面上は普段とそれほどの違いがあるわけではない。長い時間をともに過ごしたサイファだからこそ、微妙な変化から察することができたのだろう。
「じゃあね、レイチェル」
 サイファは軽く右手を上げ、名残惜しさを振り払うかのようにそう言うと、ラウルのあとを追って医務室へと入っていった。

「風邪だな。かなり熱が高い。大人しく帰って寝ていろ」
 ラウルは一通りの診察を終えると、ぶっきらぼうにそう言い放ち、薬の包みを投げてよこした。
「毎食後に飲め。一日分だ。足りなければまた来い」
「なあ、これから夜ごはんを食べにいかないか?」
 サイファはもらった薬をポケットにしまいながら言った。
 机に向かってカルテを書いていたラウルは、手を止めると、眉根を寄せて横目で睨みつける。
「私の言うことを聞いていたのか」
「家に帰っても夕食は用意されてないんだよ。遅くまで仕事をするつもりだったから、いらないって言っちゃったんだよね」
 サイファは笑顔を見せて軽い口調で言う。
「ひとりで食べに行け」
「医者のくせに病人に冷たいな」
「病人なら病人らしくしろ」
 ラウルはカルテにペンを走らせながら、苛ついたように突き放した返答をする。
 サイファはわざとらしく溜息をつき、両手を腰に当てた。
「わかった。病人らしくここで大人しくしているよ。ベッドで寝ていればいいのか? でも夕食はラウルの部屋で食べさせてくれよ。手作りでも出前でもどちらでも構わない。あ、別におかゆじゃなくていいからな」
「……帰れ」
 ラウルのペンを持つ手が止まった。眉間には深い縦皺が刻まれている。それだけではなく、抑えきれない怒りが全身から滲み出ているように見えた。
 それでもサイファは怯むことなく平然として続ける。
「だから食べに行こうって言ったんだ。外食なら問題はないだろう? 今日くらい付き合ってくれよな。食べたら大人しく帰るからさ」
「おまえ……」
 ラウルは怒りとも呆れともつかない呟きを漏らした。頭を押さえて溜息をつく。そして、眉をひそめてサイファを一瞥すると、無言で立ち上がり、不服そうな表情ながらも外に向かって歩き出した。
 サイファは満足そうにニコニコしながら、そのあとをついていった。

「ラウルは何が食べたい?」
「何でもいい」
 サイファが問いかけると、隣を歩くラウルは無愛想に素っ気ない答えを返す。前を向いたまま、視線を向けようともしない。
「好き嫌いはあるか?」
「ない」
 ラウルの好きなものも嫌いなものも、サイファは何も知らなかった。8年もの間、家庭教師と教え子として毎日のように会っていたが、一度もラウルとともに食事をしたことはなかったのである。食事だけではない。ラウルの私的な生活については、ほとんど踏み込むことができずにいた。
「ならどこでもいいな」
 サイファはそう言うと軽く溜息をついた。ポケットに片手を入れ、僅かに眉を寄せて目を細める。少し頭がクラリとした。

 カラン、カラン——。
 サイファが鈴のついた扉を開いて中に入り、そのあとにラウルが続く。
「静かで落ち着けるところだろう?」
 サイファは振り返ってにっこりと微笑んだ。
 そこは王宮内の喫茶店だった。内装はアンティーク調に統一され、窓にも上品なレースのカーテン掛かっていた。その窓からは、噴水のある中庭が見下ろせる。店の雰囲気は申し分なかった。
 だが、その割には、いつ来ても客はあまりいないのだ。王宮の奥まった場所にあるためか、上品すぎる雰囲気のためか、気後れしてしまう者が多いのだろう。そもそも、こちらに来る用事のない下役では、存在すら知らないのかもしれない。そのため、この店に来るのは、ある程度の地位にある者がほとんどである。
「サイファ」
 奥から弾んだ声が聞こえ、サイファは反射的に振り向いた。だが、見るまでもなく相手が誰かはわかっていた。
「父上」
 その姿を奥のテーブルに認めると、にっこりと微笑みながら足を進めた。入口からは死角になっていたが、父であるリカルドの向かい側には、アルフォンスとフランシスが座っていた。目が合うと軽く会釈をする。
 フランシスはいずれ魔導科学技術研究所の所長になると目されている人物だ。つまり、現在の所長であるアルフォンスの部下である。そして、リカルドの元後輩でもあり、その縁でサイファも何度か顔を合わせたことがあった。もっとも挨拶を交わしたくらいで、特に親しいということはない。
「ラウルと一緒に来たのか?」
 リカルドは興味深げに身を乗り出して尋ねた。
「やっと念願が叶いました」
 サイファは肩をすくめておどけたように言う。しかし、それは限りなく本心に近いものだった。魔導省に勤務するようになってから何度か誘ったのだが、すべて断られていたのである。
「いったいどんな手を使ったんだ? 弱みでも握ったのか?」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ」
 ラウルを連れ出すことの難しさは、リカルドもよく知っているのだろう。納得いかないと言わんばかりの不思議そうな顔をしていた。そして、じっと探るような視線をラウルに向けて言う。
「この10年で少しは丸くなった、ということかな?」
「こいつの異常なまでのしつこさに負けただけだ」
 ラウルは腕を組むと、顎をしゃくってサイファを示した。
「ラウルの扱いには自信があるよ」
 サイファは両手を腰に当て、軽く笑いながら言った。そして、意味ありげな視線をラウルに流すと、片方の口角を僅かに吊り上げた。その挑発に対抗するかのように、ラウルは眉を寄せ、冷たく燃えたぎる瞳で睨み下ろす。二人の視線は火花を散らしながらぶつかり合った。
「まあまあ、ふたりとも」
 リカルドは両の手のひらを見せ、微笑みながら軽い口調で二人を宥めた。
 ふと、居心地の悪そうなフランシスに気がつくと、安心させるようににっこりと微笑みかけて言う。
「紹介するよ。サイファは知っているな? その向こうにいるのが……」
「知っている」
 リカルドを遮って答えたのはラウルだった。
「えっ?」
 リカルドは思わずラウルに振り向いて聞き返す。
「こいつは私のことを知っている。私もこいつのことを知っている」
 ラウルは無表情のままフランシスを見下ろして淡々と言った。
「ああ、そうか、医務室で風邪を診てもらったことがあったな」
 リカルドは思い出したように言った。その記憶を反芻しながら、二度ほど小さく頷く。自分で見つけたその答えに満足しているようだった。
 しかし、サイファは違うと思った。
 フランシスの強張った表情に引っかかりを感じていた。それだけならば、単にラウルの冷たい態度に怯えているだけとも取れなくはない。しかし、隣のアルフォンスまでもが何か緊張している様子なのである。口を固く結んだまま、目を細めて視線を流し、フランシスとラウルを交互に窺っている。机の上で組み合わせた手には、不自然に力が入っていた。
「妙な気を起こしていないだろうな」
 ぞっとするほどの冷たい瞳で、ラウルはフランシスを刺すように睨む。
 フランシスはビクリを体を震わせた。冷や汗が頬を伝う。強張った顔をさらに強張らせ、それでも必死に笑みを張り付かせて答える。
「もう、きっぱりと諦めています」
「私が本気だということを忘れるな」
 静かな声で重々しくそう言うと、ラウルは長髪を舞い上げながら背を向け、大きな足どりで歩き出した。リカルドたちとは離れた席にドカリと腰を下ろす。
 サイファは当惑しつつも、とりあえず父親たちに軽く一礼し、早足でラウルを追いかけた。一瞬、目眩がして足が止まりそうになる。目を閉じて少し大きく息をした。やはり体調は良くないようだ。
「フランシスと何かあったのか?」
 ラウルの正面に腰を下ろしながら、声をひそめて尋ねる。
「おまえは知らない方がいい」
「そういう言い方、余計に気になるんだけど」
 頬杖をついて口をとがらせ、じとっとした目を向ける。
 ラウルは背もたれに身を預け、小さく息をつきながら腕を組んだ。そして、サイファの追及から逃れるかのように、うつむいて視線を落とした。

 エプロンドレスに身を包んだウエイトレスが、水の入ったグラスとメニューを持ってきた。上品な所作で一礼すると、それぞれをラウルとサイファの前に置いていく。
 だが、サイファはそのメニューを手に取ることなく言う。
「ここのカレーライス、美味しいんだよ。ラウルも食べてみるか?」
「……ああ」
 ラウルは無表情のまま答えた。
「じゃあ、カレーライスふたつ」
 まだそこにいたウエイトレスに、サイファは笑顔を見せて注文する。ウエイトレスは復唱して確認を取り、一礼してからその場を離れた。
 ——意外と疲れるな。
 サイファは冷静にそんなことを思う。普段はまったく苦にならないが、今日は愛想を振りまくたびに体力も気力も消耗するように感じていた。これも風邪の影響だろうか。だが、そういう素振りは少しも見せることなく続ける。
「で、フランシスと何があった?」
「あいつに訊け」
 先ほどの質問を繰り返したが、ラウルは目を伏せたまま素っ気なく受け流す。どうあっても答えないという感じではない。食い下がれば口を割るだろう、とサイファは判断する。
「ラウルの口から聞きたいんだよ」
「誰から聞いても内容は変わらん」
「だったらラウルが教えてくれよ」
 ラウルは僅かに視線を上げた。じっとサイファの目を見つめて言う。
「聞いたら後悔するかもしれん」
「聞かなければそれもわからない」
 サイファは強い意志を秘めた瞳で、まっすぐに見つめ返した。何を言われても諦める気はないということを、ラウルにわからせたかった。
 ラウルは溜息をついて背もたれに身を預けた。
「あいつはレイチェルを魔導の実験に使う計画を立てていた」
「えっ……」
 サイファは思わず後ろを振り返った。だが、そこからはフランシスの姿は見えなかった。前に向き直ると、机の上で両手を組み合わせ、真面目な顔でラウルに尋ねる。
「どうやってそれを知ったんだ?」
「アルフォンスに相談された」
「そうか……」
 アルフォンスは自分ではなくラウルに相談を持ちかけた——そのことは少し残念だったが、仕方のないことだと思う。少なくとも魔導に関しては、ラウルの方が知識も実力も圧倒的に上なのだ。それはきちんと自覚している。妬ましく思うような気持ちはなかった。
「ラウルが説得して諦めさせたのか?」
「研究所ごとおまえを消すと言った」
 さらりと落とされた答えに、サイファは無言のまま目を大きくした。そのままじっとラウルを見つめる。その物言いたげな眼差しを受けたラウルは、苛ついたように眉をひそめた。
「何だ?」
「いや、ラウルが他人のためにそこまでやるなんて意外だったからさ。特にレイチェルのことは苦手に思っているみたいだしね」
 今度はラウルが目を大きく見開く。しかし、すぐにきまり悪そうに視線を落とした。
 サイファは小さく笑って続ける。
「まあ、嫌ってはいないようで安心したよ。レイチェルはときどき突拍子もないことを言うから扱いづらいだろうけど、彼女に悪気はないんだよ。大きな心で受け止めてやってくれると嬉しい」
 ラウルとレイチェルには仲良くしてもらいたい——それは、サイファが以前からずっと望んでいたことだった。その根底にある思いは、ごく自然なものである。自分の好きな二人の間で諍いなど起こしてほしくない、ただそれだけだ。
「また三人でどこかへ行こうよ。きのうの遠乗り、楽しかったよな」
「楽しんでいたのはおまえだけだ」
 ラウルはうつむいたまま憎まれ口を叩く。
「そんなことはないよ。レイチェルも喜んでいたし、ラウルだっていい気分転換になっただろう? たまには思いきり外の空気を吸うべきだよ」
 むきになって言ったせいか、少し息が苦しくなった。ぎゅっと胸を締めつけられたように感じる。額にはじわりと汗が滲んできた。
「おまえ、遠乗りのせいで風邪をひいたのだろう。懲りていないのか」
「遠乗りのせいとは限らないさ。それに、それほどひどい風邪でもないし……」
 不意に目の前が暗くなった。慌てて机に片腕をつき、ふらつきそうな体を支える。一瞬の後に、視界はうっすらと戻ってきたが、その視野は極端に狭まっていた。
「熱は高いけど、わりと体は平気みたいだよ」
 精一杯に笑顔を作ってそう言うと、近くのグラスを手に取った。だが、すぐにするりと滑り落ち、ガシャンと音を立てて割れる。足に水が掛かったようで冷たい。
 再び目の前が暗くなった。目を開いているのに何も見えない。ただ、体が傾いていくのはわかる。闇の中に沈み込んでいく感覚。しかし、それに抗う術はない。
 意識が薄れていく頭の片隅で、サイファは自分を呼ぶラウルの声を聞いた。

 胸を圧迫されたような息苦しさを感じ、サイファは目を覚ました。
 ぼんやりした薄暗い視界に、見知らぬ天井が映る。ベッドもいつもと違って寝心地が悪い。そして、微かに消毒液のような匂いが漂っている。
 ここは——?
 少しだけ頭を動かし、ぐるりとあたりを見まわした。自分が寝かされていたのはパイプベッドであることに気がつく。周囲はクリーム色の薄いカーテンに覆われ、そのカーテンレールには、自分のものと思われる制服の上着が、ハンガーに掛けて吊るされていた。カーテンの外の様子は窺えないが、それだけでも十分に推察できた。
 おそらくラウルの医務室だろう。
 だが、自分がどうしてここにいるのかが思い出せない。手の甲を額にのせて目を細め、おぼろげな記憶を辿る。
 確か、ラウルと食事に出かけて——。
 ウエイトレスにカレーライスを注文してから、レイチェルについての話をしていた。そこまでは憶えているが、それ以降の記憶がぷっつりと途切れている。しかし、体調が良くなかったこと、ラウルの医務室に寝かされていることを合わせて考えると、おそらくあの店で昏倒したに違いない。
 サイファは腕時計を見ようと右手首を眼前に掲げたが、そこには何もついていなかった。上着を脱がされたときに、一緒に外されたのだろう。体を起こしてあたりを探そうとする。
 シャッ——。
 軽い音がしてカーテンが開いた。薄暗い中に大きな影が姿を現す。ほのかな逆光のため、顔はよく見えなかったが、それが誰なのかはすぐにわかった。
「倒れるまで我慢をするな。迷惑だ」
「ラウルがここまで運んでくれたのか?」
「放って帰るわけにはいかない」
 どうやって自分を運んだのか興味があったが、訊いても答えてはくれないだろうと諦める。もっとも、普段であれば無理やりにでも聞き出そうとしただろう。だが、今はまだ体調が戻っていないせいか、そこまでの気力はなかったのだ。
 ラウルは溜息をついて、ベッド脇においてあったパイプ椅子に腰を下ろした。
「そこまで体調が悪いことを見抜けなかった私にも落ち度はある。単純な風邪というわけではなく、過労からきているようだな」
「過労? そんなに無理をした覚えはないんだけどな」
 サイファは腕を組んで首を傾げた。確かにこのところ仕事は忙しく、その日のうちに帰れないことも多かったが、あまりそれを負担に感じたことはなかった。
「せめて風邪をひいているときくらいは大人しくしていろ」
「こんなときでもないと、ラウルが食事に付き合ってくれないと思ったからさ」
 軽く笑って肩をすくめる。彼の優しさに付け込んだつもりだったが、結果はこのざまだ。罰が当たったのかもしれない。
「医者の言うことは素直に聞くべきだったな」
「めずらしく殊勝だな」
「それだけ弱ってるってことだよ」
「軽口を叩けるくらいには回復したようだ」
 ラウルは冷ややかにそう言うと、椅子から立ち上がり、背を向けて歩き出した。
 サイファはシーツを掴み、慌てて身を乗り出す。
「どこへ行くんだよ」
「自室へ戻る」
「病人を置いて?」
 ラウルは足を止めて僅かに振り返った。濃色の長い髪が緩やかに揺れる。月明かりに縁取られた横顔は、いつにもまして無感情に見えた。
「家に帰るなり、そこで寝るなり好きにしろ。リカルドには連絡を入れてある」
 素っ気ない言い方だったが、そこに冷たさはなかった。少し責任を感じているせいかもしれない。サイファは凝りもせずそこに付け入ろうとする。
「ここじゃなくてラウルの部屋に入れてくれないか?」
「断る」
 ラウルの返答には少しの躊躇いもなかった。それだけは譲れないということなのだろう。今までも何度となく懇願して、すべてにべもなく拒絶されているのだ。簡単にいかないことはわかっていた。それでもサイファはもう少しだけ粘ってみようと考える。
「ここのベッドは寝心地が悪いんだよ」
「贅沢を言うな。文句があるなら帰れ」
「シャワーだけでも使わせてくれよ。汗をかいて気持ちが悪いんだ」
「……家に帰れ」
 ラウルの声が一段と低くなった。
 サイファは目を伏せ、意識的に瞬きをしてから顔を上げた。
「じゃあ、せめてもう少しだけここにいてくれないか」
 ラウルはじっとサイファを睨み下ろした。サイファもまっすぐにラウルを見つめた。どちらも引こうとせず、瞳の奥を探り合うかのように視線を絡ませる。
 無言のまま時が過ぎていく。
 先に視線を外したのはラウルだった。小さく溜息をつくと、ベッドから少し離れた机に向かって座る。そして、手元の電気スタンドをつけると、サイファに背を向けたまま本を読み始めた。
 サイファはふっと小さく笑みを漏らした。
「たまには風邪をひくのも悪くないな」
 呟くようにそう言うと、再びベッドに体を横たえ、掛け布団を肩まで引き上げた。
 途端にあたりは静寂に包まれる。気味が悪いくらいに無音だった。
 いつもこんな感じなのだろうか……。
 わざと大きく息をつき、天井を見つめて目を細める。
「なあ、ラウルは寂しくないのか。ずっとひとりで、誰にも心を開かないで」
 ラウルからの返答はなかった。本を捲る微かな音だけが聞こえる。
「ラウルを見ていると、何か放っておけないような気持ちになるよ。きっと、レイチェルも同じように思っているんじゃないかな。ラウルにとっては迷惑かもしれないけれど……」
 サイファは静かに淡々と続けた。だが、ラウルに言っているのか、独り言なのか、自分でもよくわからなくなっていた。
「僕じゃ、駄目なのかな」
 一瞬の沈黙の後、ラウルの座っている椅子が小さく軋んだ。
「おまえらしくない弱気な言葉だな」
「本心はそんなものだよ、きっと」
 サイファは急に疲れを感じ、細く息をついて目を閉じた。まだ体の状態が良くないにもかかわらず、調子に乗って話をしすぎたようだ。眠気に襲われて意識が沈み込んでいく。
「またどこかへ行こう、三人で……」
 それは、ほとんど無意識に口をついた言葉だった。その微かな声は、この静寂でなければラウルの耳には届かなかっただろう。
 サイファはそれを最後に眠りに落ちた。
 三人に訪れるはずの穏やかな未来を信じながら——。


18. 束の間の依存

「お母さま、私、今日はラウルに夕食をご馳走になるの」
 よく通る澄んだ声が、広い部屋に響く。
 授業を終えたレイチェルは、ラウルとともに階下に降りると、居間の扉を開けるなりそう言った。さらりと金の髪を揺らしながら、屈託のない笑顔を見せている。
「レイチェル、あなた、また我が侭を言ったのね」
 母親のアリスは溜息をついてソファから立ち上がり、まっすぐレイチェルの方に足を進めた。そして、彼女の背後に立っていたラウルを見上げると、僅かに首を傾げて尋ねる。
「ラウル、いいの?」
「……構わん」
 ラウルは無表情のまま、感情のない声で短く答えた。
「じゃあ、今回はよろしくお願いするわ」
 アリスは申し訳なさそうに会釈した。それから、再びレイチェルに視線を移すと、表情を引き締め、毅然とした声で言いつける。
「レイチェル、あまり遅くならないうちに帰ってきなさい。明日の準備もあるんだから」
「はい、お母さま」
 レイチェルははきはきと聞き分けのよい返事をした。

 風が緩やかに吹いている。
 人通りの少ない裏道に立ち並んだ緑の木々は、微かなざわめきを奏でながら、燦々と降り注ぐ陽光を浴びてきらきらと輝いていた。その上方に広がる鮮やかな青空には、薄い筋状の雲がかかっている。そろそろ夕刻に差しかかろうという時刻だが、その光景には早朝のような清々しさがあった。
 ラウルとレイチェルは、いつものようにその裏道を並んで歩いていた。
「私がおまえに夕食をご馳走するのか?」
「ええ」
 ラウルが横目を流して尋ねると、レイチェルは声を弾ませて当然のように返事をした。後ろで手を組み、心地よさそうに空を見上げている。軽い足どりに合わせて、薄水色のリボンが小さく揺れた。
「おまえからは何も聞いていなかったぞ」
「先にお願いしたら断られてしまうでしょう?」
 そう言ってラウルに振り向くと、眩しいくらいの笑顔を浮かべる。
 やはり、そうだったのか——。
 言い忘れていたわけではなく、あえて言わなかったのだ。普通に頼めば断られることではあるが、いきなり母親の前で決定事項のように言ってしまえば、話を合わせてくれるのではないか——そんなふうに計算したに違いない。稚拙だが効果的な作戦である。それがずるいことだとは、彼女自身は少しも思っていないのだろう。無邪気な笑顔に毒気を抜かれ、怒る気も失せてしまった。
「今日だけだぞ」
「ありがとう」
 アリスに意思を尋ねられたとき、そんな話は聞いていないと冷静に突っぱねることはできた。そうすることなくレイチェルの作戦に乗ったのは、自分も心のどこかでそれを望んでいたからに他ならない。いや、以前の自分であれば、たとえ望んでいたとしても拒絶したはずだ。これ以上、彼女との距離を縮めるわけにはいかないのである。
 なのに——。
 ラウルは空を見上げて目を細めた。緩やかな風に吹き流され、焦茶色の長髪がさらさらと音を立てて揺れた。

 二人はラウルの部屋に到着すると、いつものようにささやかなティータイムを始めた。いつもの指定席に座り、いつもの白いティーカップで、いつもの琥珀色の紅茶を飲むのである。
 だが、いつもと違ってそこに茶菓子はなかった。
 用意していなかったわけではない。あえて出さなかったのだ。今日は普段より早めに夕食をとることになる。いまケーキやマフィンを食べてしまっては、夕食が入らなくなる可能性もあるだろう。
 レイチェルも意図を理解しているのか、そのことについて何も文句は言わなかった。それどころか、ずっと浮かれた様子でニコニコしている。
「今日の夕食は何を作ってくれるの?」
「どこかへ食べに行くという手もある」
「ラウルの手作りがいいの」
 当然ながらそう来るだろうと思っていた。以前も手作りの菓子を要求してきたことがあったのだ。推測は容易である。
「突然そう言われても、たいしたものは作れん」
「ラウルがいつも食べているものでいいわ」
 レイチェルはティーカップを両手で持ち、くすっと愛らしく笑った。
 ラウルは腕を組んで溜息をついた。
「今度からは前もって言え」
「今度……?」
 レイチェルはきょとんとして首を傾げた。不思議そうな顔でラウルを見つめる。ここへ来る途中の道で、ラウルが「今日だけだ」と口にしたことを覚えていたのだろう。その発言と今の発言は明らかに矛盾している。
 ラウルはきまり悪そうに視線を泳がせた。
 それでも、これで終わりにするわけにはいかない、せめて一度くらいはまともなものを作ってやりたい——そんな思いを消し去ることは出来なかった。
「おまえが望むなら、だが……」
「じゃあ、今度はそうするわね」
 レイチェルは嬉しそうに声を弾ませると、砂糖菓子のような甘い笑みを浮かべた。その心から幸せそうな笑顔は、重くなっていたラウルの心までもふっと軽くしてくれた。

「もう夕食を作るの?」
 まだ紅茶を飲んでいたレイチェルは、材料の用意を始めたラウルを眺めながら、不思議そうに首を傾げて尋ねた。夕食の準備をするにはいささか早すぎる時間である。彼女が疑問に思うのも無理はない。
 だが、もちろん理由はあった。背を向けたまま、動きを止めることなく答える。
「おまえの母親が遅くなるなと言っていた」
 遅くなればレイチェルは叱られてしまうだろう。また、当然ながらラウルにもその矛先が向けられるはずだ。ラウルには彼女を危険な目に遭わせた過去がある。家庭教師を続けるためには、これ以上の不興を買うようなことは避けねばならない。
「私も何かお手伝いをするわ」
 ティーカップをソーサに戻して駆けてきたレイチェルは、大きな瞳を輝かせながら、しゃがんでトマトを選ぶラウルの横から、ひょこりと顔を覗かせて言う。
「おまえは座っていろ」
「お手伝いしたいの」
 ラウルは溜息をついた。ろくに料理も出来ないレイチェルに、簡単に手伝いなどさせるわけにはいかない。できれば大人しくしていてほしいと思う。怪我などされては困るのだ。しかし、彼女にはまったく引く気配はなかった。ニコニコと笑顔のままで、ラウルの指示を待っている。
「……皿を並べておけ」
「わかったわ」
 思いつく限りで最も無難なことを頼むと、それでもレイチェルは嬉しそうに張り切って返事をした。軽い足どりで戸棚へと駆けていく。その中から大きな皿をふたつ取り出し、重ねてテーブルの方へ運んでいった。それをラウルの席と自分の席に一つずつ並べる。そして、無事にきちんと並べ終わると、ニコッと満足そうに微笑んだ。
 横目でこっそりと窺っていたラウルは、心の中でほっと安堵の息をついた。
 まったく難しい作業ではないのだが、彼女を見ているとなぜか危うく感じてしまうのだ。
 今回のことだけではない。
 彼女の行動にはいつもどこか危うさを感じていた。それは、彼女の無邪気さに起因するものなのかもしれない。あまりにも危機感がなさすぎるのである。それが彼女の魅力ではあるが、同時に心配だとも思う。
 サイファも同じように思っているのだろうか、それとも——。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、ラウルは彼女から目を離して自分の作業を再開した。

「わぁ、美味しそう」
 席に着いたレイチェルの目の前で、フライパンから皿に盛りつけられたものは、ごくありふれたトマトソースのパスタである。何のひねりもないものだ。それでも彼女は待ちきれないといった様子で、目をきらきらさせながら待っている。
 ラウルが席に着くと、レイチェルはにっこりと微笑みかけた。
「冷めないうちに食べろ」
「それじゃあ、いただきます」
 行儀良く手を合わせてそう言うと、フォークを手に取り食べ始めた。
 ラウルも無言で食べ始める。
 本当に普段どおりの味で、不味いわけではないが、取り立てて美味いものでもない。ラグランジェ家の令嬢である彼女が、到底満足できるようなものではないだろう。
 だが、彼女は美味しいと言いながら笑顔で食べている。
 それが本心なのか、世辞なのか、ラウルには判断がつかなかった。ただ、料理の味はともかくとして、二人で過ごすこの時間については、少しは楽しんでくれている——そう信じてもいいような気持ちになっていた。

 食事が終わってから、ラウルは再び紅茶を淹れた。
 向かいに座るレイチェルとともに、静かに食後のティータイムを過ごす。
 彼女はときおり顔を上げ、ラウルににこやかな微笑みを見せた。

 しばらくは、そんな穏やかな空気が流れていた。
 だが、ティーカップの中身が少なくなるにつれ、彼女の表情は固くなっていった。それを持つ手にも力が入っているように見える。何かひどく思いつめているようだった。
「言いたいことがあるのか?」
「でも、ラウルには関係のないことだから……」
 レイチェルはティーカップに視線を落としたまま言葉を濁す。彼女にしてはめずらしくはっきりしない。その口ぶりからすると、言いたいことがあるのは間違いなさそうだ。ただ、ラウルには関係のない内容だという。
 そうだとすると、考えられることは——。
 ラウルはうつむくレイチェルをじっと見つめた。片手でティーカップをソーサごと横に退ける。カチャン、と陶器のぶつかり合う小さな音が響いた。
「レイチェル、こっちへ来い」
 不意に呼ばれたレイチェルは、僅かに顔を上げ、不思議そうな表情を浮かべた。それでも、言われるままに立ち上がって足を進める。
「どうしたの?」
 その問いに、ラウルは無言で大きく椅子を引いた。彼女の小さな手を引き、膝の上に横座りにさせる。そして、後ろから細い肩に手をまわすと、自分の胸に体ごと寄りかからせた。
 レイチェルは為すがままだった。
 あっというまのことで、何が起こったかさえ理解していないのかもしれない。広い胸に頬を寄せたまま、きょとんとして顔を上げた。大きな目をぱちくりと瞬かせる。ラウルの真意はいまだに掴めていないようだ。
「遠乗りのときの約束を忘れたのか。甘えさせろと頼んだのはおまえだろう。今さら何を遠慮している。言いたいことがあるなら言え」
 ラウルは落ち着いた声で言った。
 彼女が強引な方法で夕食をともにしようとしたのは、もしかしたらこのためだったのかもしれない。何とかして時間やきっかけを作ろうとしたのだろう。そのくせなかなか言い出せないでいる。普段はさんざん我が侭を言っているくせに、肝心なことは臆して遠慮するなど、おかしなやつだと思う。
 彼女の顔に複雑な笑みが浮かんだ。目を伏せてこくりと頷くと、ためらいつつも、小さな薄紅色の唇をそっと開く。
「あした……パーティがあって……」
「パーティ?」
「年に一度、ラグランジェ家のみんなが本家に集まるの」
 そういえば、サイファからそんな話を聞いたことがあった。興味がないので聞き流していたが、そのパーティが毎年の恒例行事ということだけは、うっすらと覚えている。
「そこで何かあるのか?」
 ラウルが静かに尋ねると、その胸の中で、レイチェルはゆっくりと首を横に振った。
「何もないわ。何も起こらない。けれど……」
 言葉を詰まらせると、ラウルに寄りかかったまま、小さな手で縋るように服をぎゅっと掴んだ。体は僅かに震えていた。ラウルが肩にのせた手に少し力を込めると、彼女は小さく頷いた。深く呼吸をしてから話を続ける。
「私のことを良く思っていない人たちがいるの」
「どういうことだ」
 ラウルは焦る気持ちを抑えつつ、意識してゆっくりと尋ねた。
 レイチェルはうつむいたまま答える。
「たいした魔導力もないうえに、他に何の取り柄もないから、本家次期当主の婚約者には相応しくないって、その人たちに言われているの」
 意外としっかりした口調だった。しかし、ラウルの服を掴む手には力が入っていた。
「本当にその通りだから、言われても仕方がないわ。我慢するしかない。わかっているの。でも……その人たちの私を見る目が、何か、とても怖くて……」
「アルフォンスやサイファは何をやっている」
 ラウルは無性に腹が立った。レイチェルがこんな思いをしているというのに、二人はなぜ助けないのだろうか。レイチェルよりもパーティの方が大事なのだろうか。普段あれほど溺愛しているにもかかわらず、肝心なときにはまったくの役立たずである。
 レイチェルは寂しそうにふっと笑った。
「このことはきっと知らないと思うわ。あんなことを言うのは私に対してだけだから。お父さまたちの前ではそんな素振りは少しも見せなくて、逆に私のことを褒めそやしていたりするの。そういうところも少し怖いけれど……」
 レイチェルはまさしく箱入り娘だ。身近な人間に惜しみない愛情を注がれ、その一方で、それ以外の人間とはあまり接することなく育てられてきた。そのため人の悪意というものをほとんど知らず、それに対する免疫が出来ていないのだろう。そうでなくても、まだ14歳の少女には厳しすぎる現実である。
「でも、そのおかげで、お父さまたちに心配を掛けずにすんでいるのね」
 レイチェルは気丈にも明るい声でそう続けた。顔を上げてにっこりと微笑む。
 ラウルは眉根を寄せて目を細めた。
「そのパーティには、必ず行かなければならないのか」
「私は次期当主の婚約者だから……特に、今年はその正式なお披露目の意味もあるって聞いているわ。行きたくないなんて言ったら、お父さまにも、お母さまにも、サイファにも迷惑を掛けてしまう」
 そのお披露目があるから余計に行きたくないのかもしれない。注目を浴びれば、さらにやっかみを受けることになる。火に油を注ぐようなものだ。
 レイチェルは顔を上げ、険しい表情のラウルを宥めるように優しく微笑んで言う。
「心配しないで、大丈夫よ。私が我慢をすればいいだけだから」
 ラウルは小さく息をつき、彼女の頭に大きな手をポンとのせた。
「私にまで気を遣うな」
「……うん」
 レイチェルはうつむいて小さな声で返事をした。ずっと掴んでいたラウルの服を離して手を下ろすと、力が抜けきったかのように、体ごとラウルに寄りかかる。うつむいた頬に、金色の髪がさらりとかかった。

 行くな、と言いたかったが言えなかった。
 行かないという選択は、行くよりもつらい結果を招くかもしれない。それ以前に、そんな選択をすること自体が不可能なのかもしれない。
 彼女もそれがわかっているからこそ、今まで誰にも言わずに耐えてきたのだ。
 どうにもしてやれないのがもどかしい。
 だが、彼女はどうにかしてほしいとは思っていないだろう。無責任な慰めの言葉が欲しいわけでもない。ほんの少しの時間、こうやって寄りかかっていたいだけなのだ。
 そもそも、それが二人の交わした約束である。
 ラウルは彼女に両手をまわし、そっと優しく抱きしめた。いや、包み込んだというべきかもしれない。触れる程度の力しか込めていないのである。約束を違えぬように、繊細な花を手折らぬように——。

 そのままどれくらいの時間が過ぎただろうか。
 ラウルは腕の中に視線を落とす。しかし、うつむいたレイチェルの顔は見えない。眠っているのか、泣いているのか、ただじっとしているだけなのか、それを知ることはできなかった。
 ちらりと掛け時計に目をやる。
 もうそろそろ彼女を帰さなければならない時間だった。
 それを認識すると同時に、相反する感情が湧き上がる。
 彼女が毎年つらい思いをしてきたという事実を知ってしまったのである。帰すしかないと頭では理解していても、感情はそれを拒絶していた。できることなら、このまま自分の腕の中に引き留めておきたいと思う。
 願っても叶わないことはわかっている。
 しかし、ありえないことだが、もし彼女がそれを望んでくれたとしたら——。
「こんなに優しくされると、帰りたくなくなってしまうわ」
 無言の願いに応えるかのようなレイチェルの言葉。
 ラウルの心臓がドクンと大きく跳ねる。
「でも、帰らなくちゃ」
 彼女はぽつりとそう続けると、ラウルの広い胸に小さな手をつき、ゆっくりと上体を離した。そして、ラウルの脚の上から降りると、後ろで手を組んでくるりと振り返る。薄水色のリボンが跳ね、金色の髪がさらりと舞い、ドレスがふわりと広がった。大きくにっこりと微笑んで言う。
「あした、頑張ってくるわね」
「……ああ」
 ラウルはまっすぐに彼女を見つめたまま、低い声で虚ろに返事をする。頑張れと言うべきか、頑張るなと言うべきか——しばらく迷っていたが、結論は出せなかった。
「ありがとう」
 まるでラウルの心を見透かしたように、レイチェルはあたたかい声でそう言った。そして、ふわりと柔らかい微笑みを見せると、くるりと背を向けて部屋を後にする。彼女の姿が視界から消え、すぐに、扉の閉まるパタンという軽い音が聞こえた。
 ラウルは渦巻く気持ちを抱えながらも、ただ黙って見送ることしかできなかった。


19. 狂宴

「サイファ、やっと見つけた」
 鈴を転がすような可憐な声で呼ばれ、サイファは二十枚ほどの皿を抱えたまま振り返った。声の主であるレイチェルが軽い足どりで駆け寄ってくるのが見える。彼女は嬉しそうに微笑んでいたが、サイファの抱えた皿を目にすると、急に顔を曇らせて声のトーンを落とした。
「ごめんなさい、邪魔をしてしまって……」
「気にしないで、大丈夫だから」
 サイファは安心させるように陽気な笑顔を見せた。作業中で忙しいことは確かだが、しばらく休憩するくらいの余裕はあるのだ。近くのテーブルに皿を置いてから話を続ける。
「それよりレイチェルの方こそ準備はいいの?」
「私はドレスを着替えるだけだから」
 レイチェルは後ろで手を組み、小さく肩を竦めてくすっと笑った。

 ラグランジェ本家の三階にある大広間——。
 今日はこの場所で、ラグランジェの本家と分家が一堂に会するパーティを開催することになっている。その準備で、朝から大勢の人がせわしなく行き交っていた。カジュアルな立食形式のパーティではあるのだが、それでも出席者が多いため、配置や段取りが何かと大変なのだ。
 シンシアとリカルドは、全体を見ながら作業の指示を出していた。
 その指示を受けて実際に作業しているのは、この日のために雇った外部の人間である。サイファもそこに加わって働いていた。それは、母親であるシンシアの昔からの方針である。本家の一人息子でも甘やかさず、出来ることはさせなければならないという考えだ。

「ごめんね」
 不意に落とされた詫びの言葉。
 それを耳にしたレイチェルは、えっ、と小さく聞き返した。聞き取れなかったわけではないだろう。その意味がわからなかったのだ。答えをせがむように、不思議そうな顔でじっと見つめている。
「レイチェルがこのパーティを苦手に思っていることはわかってるんだけど……」
 サイファは腰に両手を当て、曖昧に微笑んで言葉を濁した。
 それはわかっていてもどうにもできないことだった。本家次期当主の婚約者という立場である彼女を、特に理由もなく欠席させることはできない。そんなことをすれば、彼女だけでなく、父親のアルフォンスまでも咎められることになるだろう。
 しかし、レイチェルは首を横に振ると、屈託のない笑顔で答える。
「サイファは何も悪くないわ。気にしないで、私なら大丈夫だから」
 年端もいかない彼女の精一杯の気遣いに、サイファは小さく息をついて目を細めた。これでは立場が逆である。本来ならば、自分の方が安心させる言葉を掛けなければならないのだ。それにもかかわらず、心細いはずの彼女にこんなことを言わせてしまうなど、自分が情けなかった。
 しかし、すぐに気を取り直すと、レイチェルを見つめて真摯に言う。
「もし何かあったら、どんな些細なことでも遠慮なく言ってね。君のことは必ず守る。僕はどんなときでもレイチェルの味方だから」
 それは、子供の頃から今に至るまで、ずっと思ってきたことである。彼女はかけがえのない大切な存在であり、守りたいというのはごく自然な願いだった。
 だが、それだけではない。
 本家次期当主の婚約者ということで、彼女は受けなくてもいいはずの謗りを受けている。自分のせいでつらい思いをさせているのだ。だから、自分には彼女を守る義務があるとも考えていた。
「ありがとう」
 レイチェルはそう答えて愛らしく微笑む。
 彼女はサイファの深い思いなど何も知らないのかもしれない。それでもサイファは構わなかった。あえて伝えようとは考えていない。この笑顔を自分に向けてくれる——ただそれだけで十分だった。

「あら、レイチェル、来ていたの?」
 レイチェルの存在に気づいたシンシアが、そう声を掛けて足早に歩み寄ってきた。普段はロングドレスを身に着けていることが多いが、今は作業中のため、シンプルなブラウスと膝丈のタイトスカートという動きやすい格好をしていた。しなやかに流れる長い金髪も、後ろで一本に束ねられている。
「こんにちは」
 レイチェルが甘い声で挨拶をすると、シンシアはネジが弛んだように顔を綻ばせた。
「ちょうど良かったわ。そろそろ持って行こうと思っていたところだったのよ」
「持って行く……?」
 レイチェルはきょとんとして首を傾げ、そのまま不思議そうに瞬きをする。
 そんな彼女の様子が可愛らしくて、サイファは思わず口もとに笑みを漏らした。
「アリスから聞いてなかった? 今回は、母上がレイチェルのパーティドレスを用意したんだよ。もう何ヶ月も前から大騒ぎしていてね」
「だってこんなことって滅多にないじゃない」
 そう答えるシンシアは、いつも冷静な彼女とは別人のように浮かれていた。
 今回の件は、彼女の方からアリスに頼んで実現したことだった。
 娘がいない彼女には、女の子のドレスを見立てる機会などなかった。そのことを少し寂しく思っていたのだろう。一度やってみたいとアリスに申し出たのだ。大袈裟な言い方をすれば、念願が叶ったということになる。あのはしゃぎようも無理のないことだ。
「今からドレスを合わせましょう。いらっしゃい」
「はい」
 シンシアが差し出した手に、レイチェルが小さな手をのせる。
「それじゃあね、サイファ」
「またあとでね」
 振り向いて笑顔を見せるレイチェルに、サイファも笑顔で答えて軽く手を振った。そして、彼女がシンシアとともに出て行くのを見送ると、まだ見ぬドレス姿を心待ちにしながら、運びかけていた皿を抱えて自分の作業を再開した。

「我々ラグランジェ家の、さらなる発展と繁栄を祈念して、乾杯!」
 本家当主リカルドの音頭で、大広間に集まった皆が唱和してグラスを掲げた。天井のシャンデリアから降り注ぐ光を受けて、シャンパンが宝石のようにキラキラと煌めく。
 そうしてパーティが始まった。
 色とりどりの艶やかなドレス、胸元や指で光を放つ宝石、そして、その宝石さえくすませるほどの鮮やかな金の髪——。それらが大広間を華麗に装飾していた。

「レイチェル」
 背後から呼ばれたレイチェルは、細い髪を踊らせながら振り返り、声の主であるサイファに微笑みかけた。右手にはカクテルグラスを持っている。もっとも、まだアルコールが許される年齢に達していないため、中身はノンアルコールのカクテルである。
 身に纏っているのは、シンシアが用意したパーティドレスだった。淡い水色と純白を基調にしたものだ。ボリュームのあるスカートは床につくほどの長さで、上は首元まできっちりと覆われており、肌の露出はほとんどないといってもいい。胴回りや袖はタイトに作られているが、肩の部分は膨らみ、袖口もひらひらと波を打って広がっていた。その袖先や胸元には、繊細で豪奢なレースがあしらわれている。
 装飾品も、ドレスに合わせて用意されたものだ。
 胸元の透かし模様の上には、ブルーサファイアのペンダントが輝いている。その透明感のある鮮やかな青は、サイファの瞳ととてもよく似ていた。それを意識して選んだのかもしれない。また、透き通るような金の髪には、精緻な銀細工の髪飾りがつけられていた。そこにも小粒の宝石がいくつか散りばめられている。レイチェルの動きに合わせて控えめにキラリと輝いた。
 サイファは上から下まで眺めると、愛おしげに目を細めて言う。
「とてもよく似合っているよ。清楚で上品だけど、華があって、可愛らしさも感じられて」
 レイチェルはニコッと笑顔で応えた。彼女自身もシンシアの見立てを気に入っていた。それが似合うと褒められたことは素直に嬉しかった。
 サイファは少し腰を屈めて覗き込む。
「これから、ルーファス前当主に挨拶に行くけれど……大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
 本心では多少の心細さを感じていたものの、それを悟られれば心配を掛けてしまう。大丈夫と自分に言い聞かせつつ、不安な気持ちを笑顔でくるみ、芯の通ったしっかりとした声でそう答えた。

 その直後、急にまわりの空気が変わった。穏やかな会話が止み、代わりに聞こえるのは小さなざわめき、急いだ靴音、いくつも重なる衣擦れの音——。
 レイチェルはゆっくりと振り返った。
 そこには人が避けてできた一本の道があった。広い大広間の奥まで続いている。周囲の人々は、小さな声でこそこそと話をしながら、好奇心を宿した目で奥を窺っていた。
 そこにいたのは前当主のルーファスだった。
 恰幅のいい大きな体を見せつけるように、後ろで手を組んで悠然とレイチェルたちの方へ足を進める。その後ろには数人の男性が付き従っていた。もちろんいずれもラグランジェ家の人間である。
 ぼんやりしているレイチェルの手から、誰かがさっとグラスを取った。そして、前に出ようとしたサイファを制止し、レイチェルの背中を軽く押した。それは、ルーファスの目的が彼女にあることを示していた。
 あたりは水を打ったようにしんと静まりかえった。
「レイチェル=エアリ」
 ルーファスの迫力ある低音が、大広間内に静かに響いた。
 周囲の人間に緊張が漲る。
 しかし、レイチェルは臆することなく笑顔を見せた。流れるような手つきでドレスの裾を持ち上げ、軽く膝を折って頭を下げる。
「ルーファス=ライアン前当主、お久しぶりです」
 その挨拶に、ルーファスは言葉を返さなかった。ただ無言で二人の間を詰める。そして、何の前触れもなくレイチェルの顎を掴んで持ち上げると、蒼の双眸をじっと探るように見つめた。
「本当に面白い……」
 レイチェルはきょとんとして瞬きをした。その意味を尋ねかけるように、大きな瞳でルーファスを見つめ返す。彼の口もとの皺が少しだけ吊り上がった。
「何も案ずることなく嫁ぐが良い。ラグランジェ家のことは、すべてサイファが取り仕切る。おまえは子を生めばそれで良い」
「……はい」
 ルーファスがなぜそのようなことを言うのか、レイチェルにはわからなかった。しかし、その内容については理解はできる。不思議に思いながらも、彼の瞳から目をそらすことなく肯定の返事をした。
「どのような奇跡が起きるか楽しみだな」
 ルーファスは低い声でそう言うと、鼻を鳴らして意味ありげに含み笑いをした。
「ルーファス=ライアン前当主、あまりレイチェルを怖がらせないでいただけますか」
 サイファはすっと歩み出て言う。恭しく丁寧な口調ではあるが、抑えきれない反感のようなものが滲んでいた。その表情も、目だけは笑っていない。
 ルーファスはサイファを冷たく一瞥した。
「怖がってなどいないだろう。この子はおまえより肝が据わっておる」
 なおもレイチェルを見つめつつ、どこか愉しげに口の端を上げてそんなことを言う。そして、ようやくレイチェルの顎から手を離すと、近くのテーブルにあったカクテルグラスをその手に取った。それを高々と掲げ、大きく声を張る。
「皆の者、こちらに注目してくれ」
 大広間にいたほとんどの人間が会話を止め、ルビー色のカクテル、もしくはルーファス自身に注視した。
 ルーファスはマイクもなしに、大広間の隅にまで声を響かせる。
「皆も知っておろうが、次期当主のサイファ=ヴァルデと、その婚約者レイチェル=エアリだ。いずれはこの二人がラグランジェ家を背負って立つことになる。その暁には、皆も手を貸し、共にラグランジェ家を盛り上げていってほしい」
 パラパラと拍手が起こる。それが呼び水となり、大きな拍手が沸き起こった。
 皆がサイファとレイチェルに注目している。
 レイチェルはドレスを持ち上げ、軽く膝を曲げた。隣のサイファも頭を下げて、深く一礼する。それから二人は横目で視線を合わせると、安堵したように小さくそっと笑い合った。

 パーティは穏やかな歓談の時間に移った。
 レイチェルはベランダの隅で一人ひっそりと座っている。
 サイファや両親たちは、大広間の中央付近で多くの人と挨拶を交わしていた。まだ子供のレイチェルには、彼らの話は理解できないことが多い。一緒にいても会話に参加できず、気を遣わせるだけである。邪魔だけはしたくないと思い、ここにいることを選んだのだ。
 空は次第に暗くなっていく。地平近くのオレンジ色も、間もなく消えようとしていた。対照的に、大広間はますます煌びやかに光量を増しているように見えた。
「本当に本家に嫁ぐつもりなのかしら」
 不意に耳に届いた攻撃的な声。
 レイチェルは反射的に振り向いた。少し離れたところに三人の女性がいる。その中央がサイファの元婚約者候補のユリアである。すらりと背が高く、ひときわ目を引く美人だ。レイチェルと視線がぶつかると、嘲笑するように口の端を吊り上げる。あたりは暗くなりかけていたが、濃い口紅を引いた唇は、嫌でもはっきりと識別できた。
 両隣の二人も、レイチェルに横目を流しながらユリアに同調する。
「ルーファスおじさまも、どういうわけかレイチェルにだけは甘いのよね」
「所詮は男ってことよ。たいていの男は、ああいう従順そうな子に弱いの」
「以前のおじさまは才能のある子にしか目をかけなかったはずなのに……」
「あの人もそろそろ耄碌してきたってことかもね」
「聞こえるわよ」
 ユリアが口先だけで窘めると、他の二人は口を軽く押さえて笑い合った。
 レイチェルはなるべく気にしないようにした。白いテーブルに手を置いて空を見上げる。少し冷たさを増した風が、桜色の頬から熱をさらい、細い髪をさらさらと揺らした。
「何よあれ、すました顔しちゃって」
「黙っていれば本家に入れるものね」
 二人は腹立たしげに語気を強めた。眉をひそめてレイチェルを睨む。
「図々しいのは今に始まったことじゃないわ。あなたはそんな器じゃないって何度も教えてあげたのに、一向に身を引こうとしないんだもの」
 ユリアは豊かな巻き髪を後ろに払いながら、冷ややかに言う。
「頭に来るわね。どうしてあんな子が本家に嫁ぐの?」
「ラグランジェ家の未来はどうなってしまうのかしら」
 二人は遠巻きにレイチェルを眺めながら、わざとらしい抑揚をつけて、ネチネチと責めるように言った。

「レイチェル、探したよ」
 幼いながらも立派に盛装したレオナルドが、ジュースの入ったグラスを両手に持ってやってきた。彼はレイチェルの隣家に住んでいる少年である。ときどき庭などで一緒に遊ぶような関係だ。彼はレイチェルの隣の椅子に座ると、グラスのひとつを差し出しながら言う。
「あんなババァたちの言うことなんか気にするなよ。レイチェルが可愛いから妬んでるだけなんだぜ。みっともないよな」
「バ、ババァっ……?!」
「子供の言うことなんだから放っておきなさいよ」
 裏返った声を上げて顔を真っ赤にする友人を、ユリアは冷めた口調で宥めた。容姿端麗を自負する彼女にとっては、そんな言葉は気に掛けるにも値しないものだったのだろう。
 レイチェルは少し困惑したように微笑みながら、首を傾げてレオナルドを覗き込む。
「レオナルド、お母さんとお父さんはどうしたの?」
「あんまり子供扱いするなよな。一人でもいられるよ」
 レオナルドはツンとすましてそう言うと、急にパッと顔を輝かせて振り向いた。机に肘をついて身を乗り出す。細くて柔らかい髪がふわりと風をはらんだ。
「それよりレイチェル、大事な話があるんだ」
「なあに?」
 レイチェルは少し目を大きくして尋ねる。
 レオナルドはその目をまっすぐに見つめ返して言う。
「計算してみたんだけどさ、僕が18歳のとき、レイチェルは26歳なんだ」
「足し算ができるようになったのね」
「そんなの前からできるよっ!」
 優しく微笑むレイチェルに、レオナルドは顔を紅潮させながら必死に言い返した。眉根を寄せて口をとがらせ、小さな声で言葉をつなぐ。
「そうじゃなくてさ……そんなに悪くないだろう?」
「え?」
 レイチェルにはその意味がわからなかった。しかしレオナルドは考える間も与えず、一方的に話を進めていく。
「だから、待っていてほしいんだ」
「何を……?」
 レオナルドはテーブルにのせていたレイチェルの両手をとった。小さな手でぎゅっと挟むように握りしめる。そして、まだあどけない顔を凛と引き締め、真剣な眼差しを向けて言う。
「僕と結婚しよう」
 それはあまりにも予想外な言葉だった。レイチェルは目をぱちくりさせて言う。
「私はサイファと結婚するのよ?」
「あんなヤツとじゃ幸せになれない! 僕なら絶対にこんな思いはさせない!」
 レオナルドは身を乗り出してひたむきに訴えた。レイチェルの両手を握る手に力を込める。そして、小さな口をきゅっと結ぶと、澄んだ青の瞳を微かに揺らした。
 レイチェルは柔らかく表情を緩めた。
「心配してくれているのね。ありがとう、でも大丈夫だから」
「あいつに言いづらいんだったら僕がきっちり断ってきてやるよ。だから僕と結婚しよう。一生レイチェルのことを守る。絶対に幸せにするって誓うから」
 熱く、強く、真摯に畳み掛けられる言葉。しかし、それを言い終わるか終わらないかのところで、背後から彼の頭に拳骨が落とされた。
「イタッ!」
「まったくこの子は! 次期当主の婚約者にプロポーズ? 何を考えているの?!」
 それはレオナルドの母親だった。腰に両手をあて、眉を吊り上げながら叱りつける。優美で上品なドレスを着ているが、その行動は普段どおりで容赦がない。
 しかし、レオナルドも簡単には引かなかった。反抗的な目を向けて言い返す。
「僕は真剣だ!」
 しかし、母親は無言でレオナルドの頭をはたくと、口をふさいで小さな体を抱え上げた。手足をジタバタさせる息子を睨みつけてから、呆然とするレイチェルに向き直り、思いきり愛想笑いを浮かべる。
「ごめんなさいねレイチェル。気を悪くしないで。子供の戯れ言だと思って許してやってもらえないかしら。この子には私がきつくお灸を据えておくから」
「え……ええ……」
 早口で捲し立てるその勢いに圧倒され、レイチェルは困惑ぎみに返事をした。そして、息子を抱えたまま逃げるように去っていく彼女を見送りながら、いまだに無駄な抵抗を続けるその息子の身を案じて、胸元で祈るように手を組み合わせた。

「レオナルドの求婚、受ければいいんじゃないの?」
 離れたところから様子を窺っていたユリアは、レオナルドとその母親がいなくなると、レイチェルのもとへツカツカと足を進めて言い放った。腕を組みながら顎を上げ、蔑むように見下ろす。
「あなたにはそれがお似合いだわ」
 しかし、レイチェルは何も答えることなく、ただ曖昧に微笑むだけだった。
 その態度がユリアの癪に障ったのだろう。彼女の表情が一気に険しくなった。あからさまな苛立ちと憎しみがその瞳にこもっている。
「来なさい」
 有無を言わさぬ口調で命令すると、レイチェルの手を引いて無理やり椅子から立ち上がらせた。その手をしっかりと捕まえたまま、大きな足どりで大広間の方へ歩き出す。レイチェルはよろけながらも、何とか小走りでついていった。

「待っていて」
 大広間の中央まで来ると、ユリアはそう告げて手を放した。そして、近くで談笑していたリカルドのもとへ駆けていき、華やかな笑顔を作って声を掛ける。
「リカルドおじさま」
「やあ、ユリア」
 リカルドはグラスを掲げて陽気に応えた。普段よりも気分が高揚しているようだ。顔も少し赤らんでいる。酔いがまわってきているのだろう。
「存分に楽しんでいるかい?」
「ええ、でも少し退屈してしまって……」
 ユリアはそう答えると、笑顔のまま肩を竦めて見せる。
「だから、ちょっとだけ地下の訓練場を借りたいの」
「え? 今かい?」
 リカルドは面食らったように尋ね返した。
 ユリアがまだ婚約者候補だった頃は、本家の訓練場を借りることも度々あった。それゆえ彼女の希望自体はおかしいとはいえない。だが、パーティ中ということを考慮すれば、明らかに不自然な行為である。いくら退屈したといっても、パーティの途中で魔導の訓練など、普通はしないのだ。
 しかし、怪訝な顔を向けられても、ユリアが動揺を見せることはなかった。下手な言い訳をすることなく、ただ少女のように小首を傾げながら、上目遣いで甘えるように見つめて言う。
「ダメ?」
「まあ、構わないよ」
 リカルドは小さく笑いながら了承した。酔っていて気が大きくなっているのか、頭の働きが鈍くなっているのか、目的も理由も尋ねることはなかった。ポケットからキーホルダーを取り出すと、その中の一つを外してユリアに渡す。
「はい、じゃあこれ」
「ありがとう、おじさま」
 差し出された鍵を、ユリアは両手で受け取り、胸元で握りしめて微笑んだ。それから、にこやかに会釈をすると、豊かな巻き毛を揺らしながら、レイチェルのところへ戻ってくる。
 そのときのユリアの顔からは、すっかり笑みが消え失せていた。
 レイチェルは言い知れぬ恐怖を感じて息を呑んだ。
「訓練場で何をするの?」
「あなたがどれだけ成長したか見てあげる」
 ユリアは感情のない声で答えながら、レイチェルの手を取って歩き出そうとする。だが、レイチェルは素直には従わなかった。少しだけ手を引き戻して抵抗を見せる。
「そんなこと……」
「いいから来なさい」
 ユリアに強く手を引っ張られ、レイチェルは前につんのめりながら足を進めた。慌てて後ろを振り返り、縋るように目を走らせる。そして、何人かと話をしているサイファを視界の隅に捉えた。
 ——サイファ、助けて!
 そう声の限りに叫びたかった。しかし、彼の邪魔をしてはいけないという思いが、彼女の行動をギリギリのところで押しとどめる。きつく目をつむり、胸を押さえつけ、その衝動をぐっと飲み込んだ。

 レイチェルはこれまで本家の訓練場には入ったことがなかった。
 こわごわと遠慮がちにあたりを見まわす。
 彼女の家の訓練場よりも数倍は広そうである。しかし、ただ広いだけであり、特に立派ということはなかった。むしろ、ところどころ壁に亀裂が入っていたりして、かなり古びているような印象を受けた。
「あなた、あのラウルに師事しているそうじゃない。もしかしたら、隠れた才能でも開花したのかしらと思ってね」
 ユリアは右手を腰に当てて振り返った。彼女がそんなことを微塵も思っていないということは、その棘のある口調からも明らかである。レイチェルでも理解できるくらいの露骨な皮肉だ。
「ラウルにはお勉強を教えてもらっているだけ。魔導は教わっていないわ」
「どうせやりたくないって我が侭を言っただけでしょう」
 図星を指されたレイチェルは、何も言い返すことが出来ずにうつむいた。
「まあいいわ。ちょうど試したいことがあるのよ。袖を両方とも捲りなさい」
「袖……? どうして?」
「その綺麗なドレスを破りたくないでしょう?」
 ユリアはそう言うと、口もとを斜めにし、凄みのある冷笑を浮かべた。
 レイチェルは胸元で両手を重ね合わせて身震いする。怖かった。極度の不安に押し潰されそうになる。しかし、頼れる人はここにはいない。自分ひとりでこの場を切り抜けなければならないのだ。
 少し考えを巡らせたのち、命令のままに袖を捲り始める。
 このドレスはシンシアがわざわざ自分のために用意してくれたものだ。何ヶ月も前から張り切って準備をしていたと聞いている。そんな気持ちのこもったものを傷つけるわけにはいかない。そして、あれほど嬉しそうにしていた彼女を落胆させたくなかった。
 ドレスはタイトに作られているため、袖を捲ることすらきつい。だが、なんとか肘のあたりまで引っ張り上げると、広がった袖口をそこでまとめた。白く細い腕が半分ほど露わになる。
「後ろで手の甲を合わせなさい」
 ユリアが何をするつもりなのか想像もつかず、不安は募る一方だった。だが、もう逃げることはできない。観念して従うほかはなかった。
 そっとユリアに振り向いて様子を窺う。
 彼女は無表情で両手を向かい合わせていた。そして、呟くような声で呪文を唱え始める。両手の間に白い光が生じた。その両手を大きく引き離すと、光は細い紐のように形を変える。後ろで合わされたレイチェルの手首に、それを幾重にも巻きつけた。
「いっ……」
 思わず引きつった声が漏れる。
 手首に巻きつけられた光の紐は、素肌に擦れて焼けるような痛みを与えた。無理な力がかかった肩と腕にも、違う種類の痛みが走る。
 ユリアは冷たく見下ろし、真紅の唇に満足げな笑みをのせた。
「それはね、魔導師の動きを封じるためのものよ。魔導省でも罪人を拘束するために使われているわ。普通の縄や手錠では簡単に壊されてしまうものね。簡単には解除できないわよ。あなた程度の魔導力や知識では確実に無理ね」
 外そうとして手をずらしてもビクともしない。ただ食い込むだけである。それでも諦めることなく、痛みに耐えながらもがき続ける。
「きゃあ!」
 そうこうしているうちに、うっかりドレスの裾を踏んで転んでしまった。手をつくこともできず、肩から倒れ込み、床に頭を打ちつけた。小さなうめき声を上げて身を捩る。何とか起き上がろうとするものの、手が拘束されて使えないうえに、裾の長いドレスが邪魔をして、どうにも思うようにならなかった。
「なんてみっともない格好なのかしら」
 ユリアは芝居がかった口調で嘲笑する。
 薄汚れた埃だらけの床に、金色の長い髪と白いドレスを乱れさせたまま、レイチェルは苦しげに肩で息をしていた。顔にかかる髪を払うことも、膝上まで捲れあがったドレスを戻すこともできない。ユリアの言うように、本当にみっともない格好になっているのだと自覚した。
「その拘束を破ることができたら、あなたを認めてあげてもいいわよ」
「ユリアに認められる必要はないわ」
 実際、ユリアには何の権限もなかった。本家の婚約に口を挟む立場にはなく、意見を届けるだけの力も持ち合わせていない。ただ個人の感情のみで、勝手に動いているだけだった。
 痛いところをつかれたユリアは、カッと頭に血を上らせる。
「生意気なのよ!!」
「ああっ!!」
 縛られた手首からのびる光の紐を、ユリアが勢いに任せて引くと、レイチェルは体を弓なりに反らせて甲高い悲鳴を上げた。
「いくら声をあげても誰にも届かないわよ」
「う……ぅ……」
 ユリアが愉快そうに送った忠告の言葉は、レイチェルの耳にはほとんど届いていない。彼女は痛みに耐えることで精一杯だった。背中を丸めて眉を寄せながら、額に汗を滲ませている。
「ねぇ、わかる? みんな言い出せないだけなの。あなたみたいな出来損ないは本家当主の妻に相応しくないって。サイファだって本心ではそう思っているのよ」
「私は、サイファの口から聞いたことしか信じない」
 苦しげに目を細めながらも、気丈にはっきりとした口調で言う。
 ユリアの顔に苛立ちが広がった。
「だからサイファは言い出せないの。思っていても口に出せないの。優しい人だものね。サイファのことを思うなら、それを察して自ら身を引くべきなのよ」
「私はサイファの言うことだけを信じる」
 レイチェルは揺らぐことなく同じ内容を繰り返した。
「バカと話をすると疲れるわ」
 ユリアは腰に両手を当て、わざとらしく溜息をついた。床に倒れ込んでいるレイチェルの傍らにしゃがむと、彼女の顔を覆う金髪を乱雑に払った。
「わかりやすく説明してあげる。いい? ラグランジェ家は魔導がすべてなの。特に本家は優秀な血筋を繋げることで、その権威を保ってきた、いえ、より強力なものにしていったわ。その二千年近くにわたって積み上げてきたものを、あなたが台無しにしようとしているの。あなたの出来損ないの血が、本家の血筋に混じってしまうのよ」
「それでも私はサイファに従う」
 レイチェルは頭上のユリアには目を向けず、ただまっすぐに何もない正面を見据えて言う。
「いい加減にしなさい!」
「きゃぁっ!」
 バチンという音とともに、頬に熱い痛みが走った。ユリアが思いきり手を振り上げて叩いたのだ。それでも彼女は満足していないようだった。睨みを利かせながら立ち上がると、奥歯を強く噛みしめて腕を組む。
「本当に強情な子ね……。いい加減に認めなさいよ、自分は本家当主の妻に相応しくないって。そうしたら拘束を解いてあげる」
 レイチェルの目にうっすらと涙が滲んだ。
 叩かれた頬がジンジンと疼く。後ろで縛られた手首も焼けるように痛い。
 でも、誰も助けに来ないのだ。
 自分ひとりで何とかしなければならない。何とかしなければ——。
 そう思うものの、レイチェルに巧みな対処など考えつくはずもなかった。このような格好では魔導すら使えない。何とかして引きちぎろうとするだけである。食い込むような激しい痛みを感じたが、それでも中断することなく力を込め続けた。こぶしを強く握りしめる。肩と腕が小刻みに震えた。額からは汗が噴き出し、床に滴り落ちて染みを作った。
 その姿を見下ろしながら、ユリアは鼻先でせせら笑った。
「バカね、それは魔導の紐なのよ。力任せに引っ張ったってどうに……も……」
 レイチェルの拘束された手首のあたりから、ぼんやりとした青白い光が発せられた。それを目にしたユリアは、顔をこわばらせて一歩後ずさる。
「えっ? ……ちょっ……と……何なの? ……魔導?」
「く……うぅ……」
 レイチェルがさらに力を込めると、その光はますます強さを増していく。彼女に魔導を使っているという意識はなかった。ただ必死にこの拘束から逃れようとしているだけである。
 バチン、と何かが弾ける音が響いた。
 彼女の手首を拘束していた魔導の紐がちぎれ、霧散するように消滅した。腕が解放され、くたりと床に投げ出される。そのままの格好で、レイチェルは肩を上下させて大きく呼吸をした。
「どうして、こんな…………あなた……」
 困惑と驚愕の混じり合った声が、頭上から落とされる。
 レイチェルは床に腕をつくと、ゆっくりと上体を起こした。頬にかかる髪を払うことなく、立ちつくしたユリアに強い眼差しを送る。それを受けた彼女の体がビクリと震えた。
「な……何よ、その目は? それがあなたの本性ってわけ?!」
「どうして……? こんなことをしても、ユリアが本家に入れるわけじゃないのに……」
 ユリアはもう他の人と結婚している。いくらレイチェルを退けたところで、今となっては本家に嫁ぐことなど不可能なのだ。頭のいい彼女がそれをわかっていないとは思えない。
「それでも……それでもあなたが気に入らないのよ!!」
 ユリアは感情を爆発させて叫んだ。レイチェルを睨みつける瞳がじわりと潤む。
「私は物心ついたときからずっと努力をしてきた。魔導も学問も教養も何もかも。シンシアのように、いえ、シンシア以上になれる自信はあった。私にとって、本家に嫁ぐことがすべてだったのよ。それなのに……あなたが生まれた、ただそれだけですべてが終わってしまったわ」
 涙を含んだ声でそう言うと、眉根を寄せてうつむいた。
「それでも、あなたが本家当主の妻に相応しい立派な人間だったら諦めもついた。けれど、あなたはたいした魔導力を持たない出来損ない、そのうえ笑うしか能のないバカだった。許せるはずないじゃない! 生まれたときから何の努力もせずに何もかも手に入れて、幸せを約束されて……」
 ユリアはそこで言葉を詰まらせた。体の横で握りしめたこぶしを小刻みに震わせている。
 床にぽたりとひとしずくが落ちた。
 レイチェルは大きく瞬きをして彼女を見上げた。ゆっくりと立ち上がる。遠慮がちに歩み寄ると、胸元で両手を組み合わせて困惑したように言う。
「ユリアだって今は幸せでしょう? 結婚して子供も生まれて……」
「幸せなんかじゃない!!」
 ユリアは金切り声を上げてレイチェルの頬をひっぱたいた。よろけて床に倒れ伏す彼女に、さらに呪文を唱えて魔導を仕掛ける。
「きゃあ!!」
 レイチェルは頭を抱えて身を丸めた。
 光の矢が彼女に降り注ぐ。
 だが、その矢はすべてギリギリで彼女を避けて床に落ちた。
「呆れた、結界すら張れないなんて」
 ユリアは乱暴に涙の跡を拭い、吐き捨てるようにそう言うと、レイチェルを残して訓練場を出て行った。憎々しげに打ち鳴らされるヒールの音は、次第に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。

 レイチェルは洗面台の前に立ち、正面の鏡を見つめた。
 落ちそうになっていた髪飾りは、いったん外してから付け直した。床に擦れてついた顔や手の汚れは、洗面台で洗って落とした。叩かれて赤くなっていた頬も、流水で冷やしてほとんど元通りになっている。
 ドレスの汚れは何度も叩いて払ったが、完全には落とせなかった。遠目にはわからないくらいではあるが、近づけばくすんだような灰色の汚れが見えてしまう。ただ、汚れているのは主に側面であるため、多少は目に付きにくいかもしれない。気づかれないことを祈るしかない。
 一番の問題は手首の傷だ。
 強く擦れたような赤い跡が何本も走り、ところどころ血も滲んでいた。
 水道の蛇口をひねって洗い流す。
 傷口に水が沁みて痛かった。思わず顔をしかめるが、それでも我慢して続ける。血はもう止まっているようだ。ドレスを汚す心配はないと判断し、ハンカチで拭いてからその袖を戻した。幸いにも袖は長い。気をつけていれば隠し通せるだろうと思う。
 早く戻らなければ、いないことに気づかれてしまう——。
 レイチェルは洗面台に手をつき、鏡の中の自分を真剣な眼差しで見つめた。そして、ゆっくりと深呼吸して、ゆっくりと瞬きをすると、鏡に向かって笑顔を作ってみせた。

 ——レイチェル、どこへ行ったんだろう。
 サイファはあたりを見回しながら歩いていた。一通り大広間の中は探したはずだが、レイチェルの姿を見つけることはできなかった。どこかで見逃してしまったのだろうか。それともすれ違ってしまったのだろうか。
 レイチェルと離れている歓談中であっても、彼女が助けを呼べば駆けつけられるように、また、彼女に対して行きすぎた行為があれば止められるように、気を配りつつ備えてきたつもりである。
 だが、サイファにも本家の人間としての役割があり、ずっと彼女だけを見守り続けることはできない。しばらく目を離している間に見失ってしまったのだ。最後に見たのはレオナルドと何かを話していたところである。しかし、今、レオナルドは母親と一緒にいる。
「サイファ」
 不意に後ろから声を掛けられ振り返る。そこにいたのは、今まさに探していたレイチェルだった。彼女のいつもと変わらない笑顔を目にすると、ほっと安堵の息をつく。
「良かった、姿が見えないから心配したよ」
 レイチェルは後ろで手を組み、小さくくすっと笑った。
「ごめんなさい。外の空気を吸ってきたの」
「ここは息が詰まるよね」
 サイファは肩を竦めて同調した。彼女がこういう場が苦手であることは知っている。気分転換になるのであれば、そしてきちんと戻ってくるのであれば、少しの間くらい外に出るのも悪くないだろう。
 安心させるように微笑みかけたあとで、何気なく視線を落とすと、彼女のドレスがうっすらと汚れていることに気がついた。はっきりとわかるものではないが、埃をかぶったように薄く灰色になっている。
「そこ、どうしたの? 汚れてるみたいだけど」
「あ……さっき少し転んでしまったから……」
 そう答えるレイチェルの顔には、微かな動揺の色が浮かんでいた。しかし、後ろで手を組んだまま小さく肩を竦めると、すぐににっこりと笑顔を浮かべて取り繕った。
 もうすっかり普段の表情だ。
 しかし、サイファは先ほどの小さな動揺を見過ごさなかった。
「もしかしてどこか怪我したんじゃないの?」
「大丈夫……あっ……」
 彼女の返答を待つことなく、優しく力を込めて手首を掴み、後ろで組まれていた手をほどいた。そして、戸惑う華奢な指先を掴まえると、広がったレースの袖口を持ち上げて中を覗き込む。
 傷は思わぬところにあった。手首に赤く擦れたような跡が何本も走っていたのだ。
 サイファにはそれが何なのかすぐにわかった。
 転んでできた傷などではない。拘束の呪文によるものだ。魔導省では一般的に使用されており、サイファも実際にそれで罪人を拘束したことは幾度となくある。そのため同じような傷は何度も目にしてきた。見間違うはずはない。
「転んだ……の?」
「ええ、転んだときにロープを引っかけてしまったの」
 レイチェルは相手を庇っているのか、心配を掛けたくないのか、本当のことは隠し通すつもりのようだった。彼女は見かけによらず強情なところがある。聞き出すことは容易ではないだろう。なるべく無理強いはしたくない。彼女の意思を最大限に尊重し、それ以上の追及はしないことに決めた。
「おいで、手当てをしよう」
 静かにそう言うと、彼女の肩を優しく抱きながら大広間を出た。
 誰が、こんなことを——。
 こっそりと背後の大広間に目を向ける。酔いがまわっている者も多く、そのせいか、騒々しいくらいの賑やかさだった。外部から冷めた目で見ているので、余計にそう感じるのかもしれない。皆、自分たちの会話に夢中で、サイファとレイチェルが出て行ったことには気づいていないようだ。こちらを窺っていたのは、たまたま近くにいた子供たち、そして、不安そうな顔のユリアくらいだった。

 サイファはレイチェルを連れて階下の居間へと入っていった。本当は医者に診せた方がいいのだが、パーティ中であるため、あまり長く大広間を離れるわけにはいかない。とりあえずはここで応急処置をしようと考えたのである。
 レイチェルを革張りのソファに座らせると、戸棚から木製の薬箱を取って戻り、彼女の隣に腰を下ろした。袖を捲り上げ、両方の手首を消毒し、傷薬を塗っていく。
「沁みる?」
「大丈夫よ」
 レイチェルはにっこりとして答えた。
 手当てを始めてから痛そうな顔は一度も見せていない。しかし、血が滲むくらいの傷である。沁みないわけはない。心配を掛けたくなくて我慢しているのだろう。こういうことに関しては、彼女はいつも極端なくらいに気を遣うのだ。
 サイファは薬箱からガーゼと包帯を取り出した。傷を覆うようにガーゼをかぶせ、厚くならない程度に包帯を巻く。
 ひらひらした長い袖口がすっぽりと隠してくれるので、手を上げない限り見えることはない。気をつけてさえいれば、誰にも悟られることはないだろうと思う。
 だが、彼女の両親には伝えておかなければならない。
 レイチェルは知られたくないだろうが、そういうわけにはいかないのだ。ただ、それを聞いたアルフォンスが極端な行動に出ないかが心配である。彼を落ち着かせて、釘を刺すことも必要になるかもしれない。
 サイファは包帯の残りを片付けながら、感情を抑えた固い面持ちで口を開く。
「レイチェル、何かあったら言って……って言ったよね」
「ごめんなさい」
 レイチェルはしゅんとして目を伏せた。その声の落ち込みように、サイファは少し驚いて顔を上げる。うつむく彼女を見つめながら、その頭にぽんと手をのせて表情を和らげた。
「怒っていないよ。でも、傷はちゃんと手当てしないといけないから」
「うん……」
 レイチェルは視線を落としたまま、小さく頷きながら返事をする。
「僕の方こそごめんね。守ってあげられなくて」
「サイファは悪くないわ。私が勝手に転んだだけだから」
 申し訳なさそうに詫びるサイファに、レイチェルは首を横に振りながら慌てて力説する。その傷がどういうものかわかっている、と暗にほのめかしたサイファを牽制する意味もあったのかもしれない。どうあっても転んだことにしたいようだ。
 サイファは無言で微笑んだ。彼女の肩に手をまわして引き寄せると、心地よい重みを感じながら、天井を見上げて目を細めた。
「……そろそろ戻ろうか」
「サイファ、手当てしてくれてありがとう」
 にこりとして感謝を述べるレイチェルに、サイファは優しく微笑みを返した。
 彼女をもうパーティに戻したくない。
 出来ればずっと二人でここにいたい。
 無防備な彼女の笑顔を見ていると、そんな思いが湧き上がってくる。だが、それは許されないことなのだ。逃げ出すわけにはいかないのである。叶わない願いを振り切るように立ち上がると、ソファに座るレイチェルに手を差し伸べた。

 大広間ではまだパーティが続いていた。
 レイチェルとともに戻ったサイファは、軽く見まわしてあたりを窺う。取り立てて変わった様子はない。ただ、扉付近にいたユリアだけが不自然にこちらを気にしていた。サイファと目が合うと、慌てて視線を逸らせ、逃げるように背を向けて歩いていく。豊かな金色の巻き毛が背中で上下に揺れていた。
「おい、おまえっ!」
 幼い声が偉そうに割り込む。声の方へ視線を下げると、口をへの字に曲げて腰に両手を当てたレオナルドが仁王立ちしていた。もっとも小さいので迫力は全くない。
「レイチェルを連れ出して何してたんだよ。婚約者だからって好き勝手するなよな!」
 そう噛み付いてくる彼を、サイファは値踏みするようにじっと見つめた。使えるかもしれないと思う。どれだけ頼りになるかわからないが、一人にさせるよりはましだろう。
「レオナルド、レイチェルを頼む」
「えっ?」
「僕が戻るまで一緒にいてやってくれ」
「じゃあもう二度と戻ってくるなよな」
 レオナルドは小生意気に腕を組んで言い返した。サイファは呆れたように冷たい視線を向けると、ゆっくりと手を伸ばし、彼の眉間を人差し指で弾いた。
「痛いな! 何するんだ!」
「頼んだぞ」
 静かな低い声で念押しすると、レオナルドはビクリとして口をつぐんだ。しかし目だけは反抗したままで、悔しそうにサイファを睨みつけている。それでもレイチェルに好意を寄せる彼ならば、その傍にいることを選ぶに違いない。
「レイチェル、ごめんね。ここでレオナルドと少し待っていて」
 今度はレイチェルに振り向くと、先ほどとは別人のような柔らかい声で言う。
 彼女は何か言いたそうにしていた。サイファが何をしようとしているのか不安に思っているのだろう。もしかすると何か察しているのかもしれない。だが、結局は何も言えず、ただ硬い面持ちでこくりと頷くだけだった。
 そんな彼女を安心させるように、サイファは優しく微笑みかけた。
 それでも彼女の表情は変わらない。
 しかし、だからこそ行かなければならないのだ。もう二度とこんなことが起こらないように、いや、起こさせないために——。
 サイファは二人をその場に残し、煌びやかな光の中に足を進めていった。

「お久しぶりです、ユリア=イリーナ」
 サイファが背後から声を掛けると、彼女は剥き出しの肩をビクリと震わせた。豊かな巻き毛を揺らしながら、ゆっくりと振り返る。その顔にはぎこちない笑みが張り付いていた。
「サイファ……何か用かしら」
「随分と冷たいんですね。昔とは大違いだ」
 サイファは意味ありげにそう言うと、口の端を上げて挑発的な視線を送る。
 ユリアは露骨に眉をひそめると、語気を強めて尋ね返す。
「何なの?」
「外で話をしませんか?」
 サイファはにこやかに笑顔を浮かべた。それでもユリアは警戒の色を弱めない。むしろ強めているようだった。顎を引いて上目遣いで睨みつける。
「あなたとする話なんて何もないわ」
「僕の方はあるんですよ。付き合っていただきます」
 丁寧ではあるものの、その言葉には有無を言わさぬ強さがあった。
 ユリアは忌々しげに顔をしかめて目を伏せると、仕方なくといった様子で、先行するサイファについて歩き出した。

 サイファはユリアとともに屋敷の外に出ると、庭の方へとまわった。
 開けた視界に空が広がる。
 そこはすっかり夜の色に塗り替えられていた。無数の星がキラキラと瞬き、時折、すっと降るように流れていく。これほど幻想的な光景はそうあるものではない。
 レイチェルと一緒にこの星空を眺められたら、どれほど幸せだろう——。
 しかし今のサイファにはやるべきことがある。気を引き締めなければならない。そのささやかな夢に思いを巡らせるのは、この障害を取り除いたあとにしようと心に決めた。
 サイファは無言のまま歩き続けた。
 ユリアも何も言わずについてくる。耳に届くのは芝生を踏みしめる音だけだ。しかし、やがて沈黙の圧力に耐えきれなくなったのか、少しうわずった声で話を切り出した。
「ねぇ、レイチェルに何を言われたか知らないけれど、そのまま鵜呑みにするのはどうかと思うわ。甘やかしすぎていないかしら」
 サイファは足を止めた。背を向けたままで静かに尋ねる。
「レイチェルが何を言ったと思っているんですか?」
「そんなの知らないわよ!」
 ユリアは苛立ったように声を荒げた。
「そのわりには、随分、怯えているようですけど」
「そんなの当たり前でしょう? あなたは私よりレイチェルの言うことを信じるんだもの。特に今はあの子が傷を負っているから、あなたは冷静じゃないはずだわ」
「どうしてレイチェルが負傷したことを知っているんですか?」
「……えっ?」
 サイファはゆっくりと振り返った。冷や汗を滲ませるユリアを正面から見据えて言う。
「彼女の傷はドレスに隠れて見えない。そして、彼女は戻ってきてから僕としか話をしていない。つまり、僕以外で知っているのはただ一人——犯人だけ、ということになります」
 その決定的な一言に、ユリアは大きく目を見張った。慌てて口を開くものの、何も言葉は出てこない。もはやどんな言い訳をしても無駄だと気づいたのだろう。悔しそうに顔を歪ませてうなだれると、喉の奥から声を絞り出す。
「きつく、口止めしておくんだったわ」
「レイチェルは何も言ってないですよ」
「え?」
 ユリアは僅かに視線を上げて怪訝に聞き返した。
 サイファは腰に右手を置き、目を細めて大広間の方を仰ぎ見る。
「あなたの名前なんて一言も出していない。ただ転んで紐を引っかけてしまったと」
「じゃあ、どうして……」
 形の良いサイファの唇に不敵な笑みが乗った。
「僕の勤務先をお忘れですか? 彼女の手首の傷——あれが何で出来た傷かくらいわかります。あの呪文が使える人間となると、ラグランジェ家の中でもそれほど多くはないでしょう。ユリア、あなたは僕たちの方を何度も不安そうに窺っていましたよ。意外と小心者なんですね」
「だったら何よ!」
 ユリアは逆上して叫んだ。しかし、自分を射抜くような、その冷たく燃えたぎる青の瞳を目にすると、大きく息を呑んで口を閉ざした。
 サイファはゆっくりと唇を動かし、重みのある声を落とす。
「いま、僕ははらわたが煮えくり返っている。あなたに報復をしなければ気がすまない。気がふれるほどの痛みと恐怖と浴びせ、肉体も精神もズタズタに壊してやりたい——」
 彼女の顔から一気に血の気が引いた。表情を引きつらせ、震える足で小さく後ずさる。
「安心してください。何もしませんよ。そう思っているのは事実ですけどね」
 サイファは軽い口調でさらりと付言する。
「なぜ、それをしないかおわかりですか?」
 ユリアは黙ったまま何も答えなかった。答えられなかったのだろう。今の彼女は論理的に物事を考えられる状態ではない。弱く揺れる瞳で疑問を返すことが精一杯である。
 サイファは無表情で彼女を見つめて答える。
「レイチェルが望んでいないから」
 彼にとってはそれがすべてだった。ユリアに対する同情や配慮の気持ちは欠片もない。自分の立場でさえどうでもいいと思うほどに強い憤りを感じていた。だが、そんな感情のままに行動してしまえば、レイチェルは自分を責め苛むだろう。彼女を苦しめるようなことはしたくない。
「しかし、次にこのようなことがあれば、忠告だけで済ますつもりはありません。それと悟られないような、間接的な報復をするつもりです」
「どういう……こと……?」
「分家の一つや二つ、何か理由をつけて潰すことは可能でしょう」
 ユリアは目を見開いて息を呑んだ。
 ラグランジェ家に執着し、極端に世間体を気にする彼女にとっては、これほど恐ろしいことはないだろう。だからこそ、あえてそれを選んだのだ。もちろん単なるはったりではない。忠告を無視するようなことがあれば、あらゆる手段を行使して実行に移すつもりである。
 サイファはまっすぐ彼女の方へ足を進めた。近づいても足を止めず、腕がぶつかりそうなくらいの近さですれ違う。その瞬間、前を向いたまま重い声を落とす。
「あなたは僕に勝てない」
 それはとどめを刺す言葉だった。
 サイファは呆然と立ちつくす彼女を庭に残し、振り返ることなく屋敷の中へ戻っていった。

「ただいま」
 サイファはパーティの続く大広間に戻ると、扉付近で待ち構えていたレイチェルに、屈託のない笑顔を見せてそう言った。それでも彼女は心配そうな表情を崩さない。胸元で両手を組み合わせ、揺れる瞳でサイファを見つめる。
「サイファ……」
「おまえやっぱり最低だな! 婚約者をほったらかして他の女とデートなんて!」
 レイチェルを守るように飛び出したレオナルドが、こぶしを握りしめて喚き立てる。レイチェルを思ってのことだろうが、彼女が心配しているのはそんなことではない。彼の根本的な勘違いである。
 サイファは疲れたような冷めた目で見下ろすと、彼の眉間を人差し指で弾いた。
「いてっ!」
 レオナルドは額を押さえて、恨めしそうに涙目でサイファを睨む。しかし、サイファはすでに彼の方を見ていなかった。レイチェルの頭に手をのせ、覗き込みながら言う。
「ひとりにしてごめんね。寂しかった?」
「ユリアは……?」
「もう少し外の空気を吸いたいってさ」
「…………」
 レイチェルは何か言いたそうにしている。ユリアに何か仕返しをしたのではないかと心配しているのだろう。ユリアと一緒に帰ってこなかったことが、余計にその不安を煽っているのだ。サイファの嘘も少し白々しかったのかもしれない。
「彼女にはちょっと注意しただけだよ。信じてくれる?」
 レイチェルはしばらく考えていたが、やがてこくりと頷いて微かな笑顔を浮かべた。
 サイファはそっと腕を伸ばして彼女を抱きしめた。細い髪がふわりと舞い、ほのかに甘い匂いが立ち上る。そのほっとするような匂いに、痛いほど胸が締めつけられた。目を細めて、腕の中の少女に視線を落とす。
 彼女の体は小さくて柔らかい。強く抱きしめると壊れてしまいそうだ。
 そんな彼女が、ひとりで大変なことを抱え込もうとしていたのである。具体的に何があったのかは聞いてないが、気性の激しいユリアのことだ。無抵抗のレイチェルに対して言いたい放題に責め立てたり、拘束の呪文でいたぶったりしたのだろう。多少の嫌味くらいならともかく、体に傷までつけられては放っておけるはずがない。
「レイチェル……もう少しでいいから僕を頼ってくれないかな。まだまだ頼りないかもしれないけれど、精一杯、力になれるように努力するから」
「……私、迷惑じゃない?」
 弱々しくぽつりと言うレイチェルに、サイファはすぐに答えを返す。
「少しも迷惑じゃないよ。君に頼ってもらえることが嬉しいんだ」
「でも…………、ん……わかったわ、ありがとう」
 レイチェルは戸惑ったように口ごもりながらも、ようやくそう返事をすると、顔を上げてにっこりと笑顔を見せた。
 サイファはその柔らかな頬にそっと触れる。
 彼女はまだ完全には納得していないのだろう。だが、今は形だけでも構わなかった。自分を頼ってくれることさえ約束してくれれば、とりあえずは彼女を守ることができるのだ。
 しかし、いつまでもこのままではいけない。
 彼女が遠慮なく頼ることのできる人間にならなければ——。
 その決意を深く心に刻みつける。単なる意地ではない。彼女に認められたいという気持ちも確かにあるが、それよりも、彼女を幸せにするためにという考えの方が遥かに大きかった。
「レイチェル、もうすぐパーティが終わるけど、そのあとで少し時間を取れる?」
「ええ、お父さまに許可をもらえれば……どうしたの?」
 首を傾げて尋ねるレイチェルに、サイファは柔らかく微笑みかける。
「今夜は星空がきれいなんだ。レイチェルと一緒に見たいと思ってね」
「本当? 楽しみだわ! じゃあ、お父さまに許可をもらってくるわね」
「待って」
 離れていこうとしたレイチェルを、抱きしめる腕に力をこめて引き留める。彼女は不思議そうに顔を上げ、じっとサイファを見つめた。
「もう少しだけ、このままでいさせて」
 サイファは縋るように小さな彼女を抱きしめ、小さく呟くように言う。
 彼女からの返事はなかった。だが、言葉の代わりに、背中にそっと手がまわされた。
 その手はほんのりと温かく、柔らかく、そしてとても優しかった。


20. 空回りの行方

「今日はここまでだ」
 ラウルがいつものようにそう言うと、隣のレイチェルはにっこりと微笑み、小さな手で分厚い教本を閉じた。バタンという重みのある音とともに、小さな風が起こり、彼女の細い金髪を微かに揺らす。
 今日はいつもより早くに授業を終えた。
 特にこれといった理由はない。ただ、朝からずっと気もそぞろで、授業どころではなかったのだ。それゆえ、ちょうど区切りがついたからと自分に言い訳をしつつ、少し早めに切り上げることに決めたのである。
 ラウルは焦る気持ちを抑えながら、その原因となっていたことを切り出す。
「きのうのパーティはどうだった」
「なんとか大丈夫だったわ。心配を掛けてごめんなさい」
 レイチェルは何事もなかったかのように、屈託のない明るい笑顔で答える。
 一見、問題はなさそうに見えた。
 しかし、ラウルはその言い方に引っかかりを感じた。何もなかった、とは言わなかった。やはり何かはあったのだと思う。これ以上の心配を掛けまいとして隠しているのだろう。大丈夫という言葉も信じていいものか疑問である。
 笑顔の向こう側では傷ついているのかもしれない。
 彼女の脆い部分を目の当たりにしてしまったから、そして、それを他人にあまり見せないことを知ってしまったから、些細なことでも過剰なまでに心配になる。せめて自分にだけは気を遣わないでほしい、あのときのように本心を見せて頼ってほしい——ラウルはそう願った。
「星空がすごくきれいだったの」
 彼女の小さな口から不意にそんな言葉が紡がれた。
 ラウルは何のことだかわからず、訝しげに眉をひそめる。
「パーティが終わってから、サイファと一緒に外に出て夜空を眺めたの。数え切れないくらい星が出ていて、眩しいくらいにキラキラしていて、たくさん降るように流れて……宝石よりもずっときれいだったわ」
 彼女は膝の上で両手を組み合わせ、嬉しそうに声を弾ませた。
「星くらいこれまでにも見たことがあるだろう」
「あんなにきれいなのは初めてだったの。私、あまり夜は外出しないし、早く寝てしまうから、星空ってそれほど見たことがなくて。きっと今までたくさん見逃してきたのね。きのうがパーティの日で本当に良かったわ」
 ラウルは軽く溜息をついて腕を組んだ。
 彼女が何を伝えたかったのかがようやく理解できた。要するに、つらいことが霞んでしまうくらいの楽しい出来事があった、だからパーティも大丈夫だった、ということが言いたかったのだろう。これほど嬉しそうに話されては信じざるをえない。そのことに関しては、心から良かったと思う。
 だが、複雑な気持ちがあったのも事実だった。
 結局、彼女を守ったのはサイファである。自分はただ気を揉んでいただけで、行動を起こすことはなかった。パーティに出席していない自分には、彼女を守ることは出来ないと諦めていたが、何かしら出来ることはあったのかもしれない。
「ねぇ、ラウルは星空って好き?」
「さあな、好きでも嫌いでもない」
 投げやりな答えだが、はぐらかしたつもりはない。昔は好きだったが、嫌いになり、今はどちらなのか自分でもわからないのだ。
 星空を背に優しく微笑む少女が、ラウルの脳裏に浮かぶ。
 彼女を守れなかったあのときから幾星霜が過ぎただろう。それでもまだラウルは自分を責めている。彼女のことを忘れることは決してない。だが最近は、思い出すことは少なくなっていた。
 自分は薄情なのだろうか。
 今はレイチェルに頭が占められている。少女とよく似た面影を持っているが、二人を重ねて見ているわけではない。確かにきっかけはそうだった。しかし今は違う。どちらも大切な存在ではあるが、その意味合いは違っているのだ。
 だからこそあらためて思う。
 レイチェルには彼女のような運命を辿らせてはならない。そうならないように守っていかなければならない。救えなかった彼女の代わりではなく、レイチェル自身の幸せのために——。
「今度はラウルと一緒に見られたらいいなって思っているんだけど」
 レイチェルの可憐な声で、思考の海から現実に引き戻される。
「……ああ、そうだな」
 ラウルは僅かに目を細めて答えた。
 だが、それが実現することはないだろうと思う。満天の星が見られる時間まで彼女といられる機会があるとは思えない。簡単なようで難しいことなのだ。ラウルはただ彼女がそう願ってくれただけで十分だった。
「じゃあ、約束ね」
 レイチェルは声を弾ませてそう言うと、軽い足どりで立ち上がり、急いで教本やノートを片付け始めた。手を伸ばして本棚にしまう。
 そのとき——。
 ラウルはハッとして彼女の腕を掴んだ。自分の方へ引き寄せ、長い袖を少しだけ引き上げる。そこから白い物が覗いた。すべては見えなかったが、それが何なのか医者のラウルにはすぐにわかった。いや、医者でなくともわかるだろう。
 彼女の手首には包帯が巻かれていた。
 彼女はきまりが悪そうに目を伏せる。
 今にして思えば、授業中も何か気にしている様子だったし、いつもに比べて動きが大人しかった。おそらくこれを隠すためだったのだろう。なぜもっと早くに気づかなかったのかと思う。
「これは何だ。きのうのパーティで何かあったのか?」
「……少し怪我をしただけ。たいしたことはないの」
 レイチェルはそっと手を引き戻すと、袖を捲り、自ら包帯を外してガーゼを取った。
 そこには赤く擦れたような傷が幾重にも走っていた。縄で強く縛られたのだろうか。彼女の言うように重傷ではなさそうだ。しかし、白く細い手首にこれだけの傷がついていると、目を背けたくなるくらい痛々しく見える。
「どうしたのだ。誰かにやられたのか」
「……ええ」
 嘘はつけないと思ったのか、彼女は困惑した顔を見せながらも肯定する。
「誰だ。前に言っていたユリアとかいう奴か」
 心当たりとして思い浮かぶのはその名前だけだった。レイチェルを出来損ないなどと罵っているラグランジェ家の女である。一度も会ったことはないが、そういう話を聞いたことを覚えていたのだ。
 レイチェルは驚いたように目を見開いた。しかし、すぐに視線を落として考え込むと、戸惑いがちに瞳を揺らしながら小さく頷いた。
 まさか、ここまでやるとは——。
 ラウルは奥歯を噛みしめた。嫌味を言われたり冷たい目を向けられたりするだけだと聞いていたが、それどころの話ではなかった。これはすでに立派な犯罪である。魔導を使って故意にやったのであれば、禁錮刑に処せられてもおかしくないくらいだ。
「サイファは何をやっていた!」
「サイファは何も悪くないわ」
 レイチェルはラウルを見つめて冷静に答えた。それでもラウルは納得できなかった。むしろ、彼女が庇い立てをしたことで、なおさら腹立たしさが増していた。
「あいつにはおまえを守る義務があるはずだ」
「ユリアにはもう二度としないように言ってくれたみたい」
「事が起こってからでは遅いだろう」
「それは私がいけなかったの。私がサイファに何も言わなかったから……」
 レイチェルはほどいた包帯を無造作に絡ませた手で、胸元をぎゅっと押さえる。
 ラウルは眉根を寄せて目を細めた。
「なぜ、そんなに必死に庇う」
「本当のことを言っているだけよ」
 確かに本当のことなのだろう。だが、それでも庇っていることには違いない。彼女に自覚のないことが、ラウルになおのことやりきれなさを募らせる。
「……座れ」
 小さく溜息をついてそう言い、彼女を椅子に座らせた。ここは医務室ではないため、新しいガーゼも薬もない。剥がされたガーゼをそっと手首に戻すと、丁寧に包帯を巻いていく。
「医務室に着いたらきちんと診てやる」
「うん……」
 レイチェルは神妙な顔つきで、小さくこくりと頷いた。
「怪我はここだけか」
「こっちも……」
 彼女は左手を軽く上げた。袖口から白い物がちらりと覗いている。右手と同じように手首に包帯が巻かれているようだ。両手を拘束されていたということだろう。そうなると、それだけで終わったとは考えづらい。自由を奪った上で何かをしたと考えるのが自然だ。
 まさか——。
 いや、そんなことはない。脳裏に浮かんだ可能性を懸命に否定する。だが、考えれば考えるほどそれが困難になる。相手は女であるが、彼女ひとりだけだったとは限らない。レイチェルが本家に嫁ぐことを阻止したがっているのだとしたら、男をけしかけるくらいのことはしたかもしれない。
「レイチェル、正直に話せ。何をされた。ここで聞いたことは絶対に口外しない」
 ラウルは彼女の細い両肩を掴み、真剣に真正面から見据えて言う。
 レイチェルはその勢いに圧倒されて大きく目を見張ったが、やがて冷静な顔に戻ると、思い出すような素振りを見せながら少しずつ話し始めた。
「ユリアに、地下の訓練場に連れて行かれて……」
 彼女の肩を掴む手に力が入る。そこは防音対策がなされた部屋で、悲鳴程度の音ならほとんど漏れることはない。事を為すにはうってつけの場所だ。
 レイチェルは斜め上に視線を向けて淡々と続ける。
「魔導の紐みたいなもので手首を縛られて、サイファとの結婚をやめなさいって迫られたけれど、拒否したら頬を平手打ちされたわ」
「それからどうなった」
「それだけよ」
 彼女は軽くそう答えるとニコッと笑顔を見せた。
 しかし、ラウルは訝しげに眉根を寄せる。
「……本当にそれだけなのか?」
「本当よ。信じてくれないの?」
 レイチェルはきょとんとして尋ね返す。
 それでもラウルは首を縦に振ることができなかった。彼女が嘘を言っているようには見えない。それでも一抹の疑念までは拭いきれなかった。彼女なら心配を掛けまいとして頑固に口をつぐむだろうことは想像がつくからだ。
「じゃあ、見る?」
 ぽつりと落とされた言葉に反応し、ラウルは怪訝な視線を彼女に向ける。今までの話とどう繋がるのかわからない。それどころか何を言っているのかさえ理解できなかった。
 その無言の問いに答えるように、レイチェルは真面目な顔で言う。
「体を見せて傷がないことを証明すればいいのよね。脱ぎにくい服だから少し時間がかかると思うけれど、ここで今から見てくれてもいいわ」
「……いや、いい。信じる」
 ラウルは低い声でそう言うと、彼女の肩から手を引いて溜息をついた。
 完全に負けたと思った。
 だが、彼女は駆け引きをしたわけはでなく、実際にそうするつもりで言ったのだろう。だからこそ自分が引かざるをえなかったのである。これしきのことで狼狽えたわけではない。彼女にそこまでのことをさせてはならないと判断したのだ。
「こんな馬鹿なことを言うのはやめろ」
「誰にでも言うわけじゃないわ。ラウルだから言えるのよ」
 まっすぐ向けられた言葉に、ラウルの心臓が大きく跳ねた。息を止めて彼女を見つめる。その無垢な瞳に吸い込まれるように感じた。しかし——。
「だってラウルはお医者さまだもの」
 レイチェルは行儀良く両手を膝にのせたまま、にっこりと無邪気に微笑み、ラウルの視線にそう答えを返した。

「今日もいいお天気ね」
 レイチェルは玄関を出ると、後ろで手を組んで青空を仰ぎ、そのまま心地よさそうに目を閉じた。長い金の髪がさらさらと優しく揺れ、きらきらと上品に煌く。そして、振り返って目映い笑顔をラウルに見せると、後頭部のリボンを弾ませながら、軽い足どりで門に向かって歩き出した。
 しかし、その足が途中でピタリと止まった。ドレスの裾が大きく揺れて戻る。
 彼女は胸元に小さな手を当て、まっすぐ正面を見つめていた。無言のまま口を開こうとしない。その表情からは微かな驚きが窺えた。
 ラウルは彼女の視線を辿った。
 その先には一人の女が立っていた。鮮やかな金の髪に青い瞳——ラグランジェ家の人間だろう。眉をしかめてレイチェルを睨みつけると、門を開いてツカツカと中に入ってくる。
 どうやら彼女がユリアのようだ。その敵意を露わにした態度と、レイチェルの狼狽した様子から考えると、おそらく間違いないだろうと思う。
 ラウルはレイチェルを庇うように前に出た。
 しかし、彼女は二人に目を向けることなく、豊かな巻き毛をなびかせながら、まっすぐ前を向いて通り過ぎようとした。間際に憎しみのこもった小さな声を落とす。
「もうあなたとは二度と関わり合いになりたくないわ」
 その瞬間、ラウルは彼女の手首を強く掴み上げた。
「おまえがユリアか」
「痛っ……!!」
 ユリアは眉をしかめ、反抗的な眼差しでラウルを見上げた。だが、その凍てつくような鋭い瞳に射抜かれると、はっと息を呑んで顔を引きつらせ、脚を震わせながら一歩後ずさった。
 ラウルは逃がさないとばかりに詰め寄る。
「レイチェルに傷を負わせておきながら何だその態度は。謝罪はしたのか」
「ラウル、やめて、もういいの」
 レイチェルは袖を掴んで懇願した。
 しかし、ラウルはユリアを放さなかった。たとえレイチェルが許しても、自分は許す気にはなれなかった。反省しているならまだしも、少しもそのような素振りはなく、むしろ逆恨みさえしてそうに見える。このままではいずれ同じことが繰り返されてしまうだろう。いや、さらに酷いことになるかもしれない。
 レイチェルはラウルの袖を引き、なおも首を左右に振って訴える。
「もう終わったことなの」
「私が悪かったわよ! 二度とこんなことはしないわ!!」
 突然、ユリアは顔をそむけてヒステリックに叫んだ。ラウルに手首を拘束されたまま、肩を震わせて大きくうなだれる。豊かな巻き毛が肩から滑り落ち、その表情を覆い隠した。
「もう二度と……こんなことは御免だわ。サイファに脅され、シンシアとリカルドに責められ、これからあなたの両親に怒鳴られに行くのよ。私の人生もうおしまいよ」
 彼女は涙声で吐き捨てるように言った。
 ラウルは彼女の手首を放した。許したわけでも同情したわけでもない。ただ、もう十分に譴責を受けていると感じたのだ。ラウルが責め立てても同じことの繰り返しにしかならないだろう。たいして意味のあることとは思えない。
「おまえはそれだけのことをした。当然の報いだ」
 腕を組みながら冷ややかな目で見下ろし、彼女の行いを断罪する。
 ユリアは唇を噛んだまま、何も言い返さなかった。
「ねぇ、ユリア」
 レイチェルはそう言って遠慮がちに進み出ると、胸元で両手を組み合わせた。
「私、お父さまとお母さまにお願いしてくるわ。もうユリアを怒らないでって」
「余計なことはしないで」
 ユリアは感情を抑えた声で撥ねつけると、濡れた目元を手の甲で拭って歩き出した。扉の前に立ち、震える手でチャイムのボタンを押そうとする。
「行くぞ」
 ラウルが声を掛けても、レイチェルは心配そうにユリアの背中を見つめたまま、動こうとはしなかった。何か迷うように瞳を揺らす。ユリアには拒否されたが、やはり両親に頼みに行こうと考えているのかもしれない。
 ラウルは無言で彼女の手を引き、半ば強引にその場から連れ去った。

「おまえはもう少し自分のことを大事にしろ」
 ラウルは彼女の傷を診ながら小さく溜息をついて言う。
 そこは医務室ではなくラウルの自室だった。医務室である必要はないと判断してのことだ。ダイニングテーブルの隣で、椅子を向かい合わせにして座っている。
 彼女の手首の傷は、擦り傷と火傷を同時に負ったものだった。完治までは時間を要するだろう。もしかすると傷痕が残るかもしれない。もちろん、そうならないように手は尽くすつもりだが、どうにもならないこともあり得るのだ。
「危険を感じたら迷わず誰かに助けを求めろ。遠慮などしている場合ではない。おまえに何かあったら、その方がまわりに迷惑が掛かるのではないのか」
「ええ……そうよね……」
 レイチェルは顔を曇らせてそう言うと、しゅんとしてうなだれた。
 それでもラウルは止まらなかった。
「おまえは危機感がなさすぎるぞ。世の中、優しい良い人間ばかりではない。もっと気をつけろ。自分に怪我まで負わせた奴に、甘い顔など見せている場合ではない」
「でも、かわいそう……」
 彼女は視線を落としたまま、呟くようにぽつりと言う。
「あんな奴に同情などするな」
 ラウルは少し苛立っていた。自分のことを大事にしろと言ったばかりなのに、彼女はなおも他人のことを優先して考えている。それも相手は自分を傷つけた人間だ。なぜ同情など出来るのかまったく理解不能だった。
「うん……でも、私には守ってくれる人がたくさんいるけれど、もしかしたらユリアには一人もいないのかもしれないって思ったから……」
「自業自得だろう」
 素っ気なくそう言いながら、彼女の手首に新しいガーゼを被せ、包帯を巻いていく。
 今日のユリアの態度を見る限りでは、とても守ってやりたいと思わせるような人物ではない。もし一人も味方がいないのだとすれば、彼女自身の行動が招いた結果なのだろうとラウルは思った。
 しかし、レイチェルは真面目な顔で反論する。
「立場の違いもあると思うの。私だって本家次期当主の婚約者じゃなければ、こんなに大事にされていなかったはずだわ」
「それは違う。おまえは本気でそんなことを考えているのか?」
 ラウルは包帯を巻く手を止め、彼女の双眸を見つめる。
 アルフォンスもアリスも、そんな理由で大切に育ててきたわけではないだろう。サイファも婚約者の義務のみで大切にしているとは思えない。見ていればそのくらいのことはわかる。そして、何より確実に言えること——。
「少なくとも、私にはそんなものは関係ない」
 ラウルはラグランジェ家の人間ではないし、ラグランジェ家に取り入ろうと考えているわけでもない。そのことはレイチェルもわかっているはずだ。
「ありがとう」
 彼女は小さく笑みを浮かべてそう答えた。
 しかし、ラウルは彼女の様子に何か釈然としないものを感じた。本心から納得しているように思えなかったのだ。根拠はない。何となくそう感じただけである。だが、それだけでは行動の起こしようがない。自分の気のせいであることを願うしかなかった。

 ラウルは彼女の傷の手当てを続けた。
 右手首に包帯を巻き終わると、次は左手首の包帯を取り、傷の具合を診ながら消毒して薬を塗る。傷は左右とも同程度のものだった。両手首に包帯を巻いていると仰々しく見えるが、日常生活にはさほど支障はないだろう。
「ねぇ、ラウル」
「何だ?」
 ラウルは包帯を巻きながら、レイチェルに先を促す。
「あのね、私、魔導の訓練をちゃんとしようと思うの」
「……それは自衛のためか?」
 一瞬、何を言い出すのかと驚いたが、考えてみればわかりやすい話だ。今回のことで、さすがに彼女も危機感を覚えたのだろう。結界くらいは使えるようになりたいと思っても不思議ではない——ラウルはそう考えた。
 しかし、レイチェルは首を横に振った。
「そうじゃなくて、やっぱり本家に嫁ぐのに魔導もまともに扱えないのは問題があるでしょう? どれだけ上達するかわからないけれど、頑張っても下手なままかもしれないけれど、それでも努力だけはしなければって」
 落ち着いた口調でそんなことを言う。無理をして力んでいる様子もない。冷静に考えた上で決めたことのようだ。そのことが、かえってラウルに複雑な感情をもたらした。
「あいつに言われたことなど気にするな」
「ユリアの言ったことは間違っていないわ。私みたいな出来損ないは本家当主の妻に相応しくない。なのに私は、みんなの優しさに甘えるばかりで、何の努力もしていなくて……」
 レイチェルはそこで表情を引き締めると、真摯にラウルを見つめて言う。
「だから、ラウルにはまた魔導を教えてほしいの」
「ああ……いや、だが、アルフォンスに止められている」
 あれほど魔導を怖れていた彼女が、今は自ら魔導を学ぶ気になっている。その理由までは肯定できないが、しっかりと自分の意思をもって前に進もうとしていることは、大きな成長と言えるだろう。
 しかし、ラウルは気が進まなかった。
 暴発事件以前なら歓迎しただろうが、今は不安の方が大きかった。彼女に適切な指導を行えるかわからない。その自信がない。またあのような目に遭わせてしまうのではないかと考えてしまう。
 それ以前に、彼女に魔導を扱わせることが正しいことなのかわからなかった。魔導に触れなければ暴発を起こすこともないのではないか、魔導に触れるほど暴発の危険性が高まるのではないか、そんなふうにも考えられなくはない。
「お父さまには私がお願いするわ」
「……おまえは怖くないのか」
「少しは、怖いわ」
 レイチェルは硬い表情で答えた。伏せられた瞳が微かに揺れる。包帯を巻きかけの左手も小さく震えた。それでも彼女は顔を上げて気丈に微笑む。
「でも、ラウルと一緒なら大丈夫って信じているから」
 そのまっすぐな瞳を、ラウルは受け止めることができなかった。逃れるように視線を落とす。
 自分には信じてもらう資格などない。
 一度、身勝手な行動で失敗して、そのことで迷いが生じている。自分でさえ信じることが出来ないのに、他人に信じられていいはずがない。彼女に大丈夫と言ってやることすら出来ないのだ。
 レイチェルも危険であることは身をもって理解しているはずである。怖がっても構わない。いや、むしろ怖がるべきなのだ。それが自らの身を守るための本能である。しかし彼女は、頼りないラウルを信じることで、その感情を乗り越えようとしていた。
 彼女の選択は間違っている——。
 ラウルは眉根を寄せ、奥歯を強く噛みしめた。彼女の左手を握る手にも力がこもる。
「もうやめろ」
 思わずそんな言葉が口をついた。
「……え?」
「結婚などやめてしまえ」
 今度は顔を上げ、強い意思を持って言う。感情的な部分も確かにあったが、それに流されて口を滑らせたわけではない。それゆえ、驚いて呆然としているレイチェルを見ても、その忠告を止めることはなかった。
「おまえの結婚は生まれる前に勝手に決められたものだ。おまえが望んだわけではない。なのに、なぜおまえがそこまでしなければならない。なぜあんな目に遭わなければならない。あまりにも不条理だろう」
 ラウルは一気に捲し立てると、小さく息を継ぎ、真剣な表情で彼女を見つめた。
「おまえ一人くらい私が守ってやる。どこへでも連れて行ってやる。ラグランジェ家など捨てて逃げろ」
「そんなこと出来ないわ」
 レイチェルは少しも迷うことなく、当然のようにさらりと答えた。
「そんなことをしたらみんなに迷惑を掛けてしまうもの」
「自分のことを大事にしろといったはずだ。おまえの気持ちはどうなんだ」
「私は大好きな人たちが笑っていてくれると嬉しいの。みんなを困らせるようなことはしたくない。だから、逃げないわ」
 気負うことなく淡々と落とされる言葉——。
 ラウルは眉根を寄せて目を細めた。彼女の手を取ったまま、背中を丸めてうなだれる。肩から焦茶色の長髪がさらさらと落ち、少し熱を帯びた頬を掠めていく。
「怒っているの?」
「怒ってはいない」
 ただ、自分の無力さを思い知って嫌になっただけである。所詮、自分は雇われているだけの家庭教師にすぎず、ラグランジェ家の事情に介入できる立場にはない。彼女を救うにはここから逃がしてやる以外にないと思った。だが、ラウルがどれほどそれを強く願っても、彼女自身にその気がないのでは、もはやどうすることもできない。
 ラウルは中断していた手当てを再開した。包帯を巻いて留める。これで両方の手当てが終わった。触れている理由のなくなった彼女の手をゆっくりと放す。
「診察してくれてありがとう」
 レイチェルはそう言って腰を上げ、椅子に座るラウルの脚の間に立った。そして、その広い肩に両手をついて自分の体を支えると、踵を上げ、焦茶色の髪のかかる額に、そっと柔らかな口づけを落とす。
「元気の出るおまじない」
 レイチェルは甘く微笑んだ。いつもは身長差で随分と下の方にある彼女の顔が、今はほとんど正面といってもいいくらいの位置にある。それもかなり近い。
「落ち込んでいるときにお母さまがしてくれるの。ラウルがとてもつらそうだったから……ごめんなさい……私のせいなのよね……」
「いや、何ともない。気にするな」
 ラウルは慌ててそう言った。
 確かに打ちのめされて落ち込んではいたが、それは彼女のせいではない。自分の問題である。彼女を守りたいという思いが空回りしていた。自分の気持ちを押し付けすぎていたような気がする。
「私、いつも迷惑をかけてばかりで、ラウルには何もしてあげられないけれど……それでもラウルに傍にいてほしいって思っているの」
 不安そうに小さく首を傾けるレイチェルを見て、息が詰まりそうになった。
「それは……私が言うべきことだ」
 僅かに目を細めてそう言うと、彼女の華奢な肩口にゆっくりと額をつけて寄りかかる。そして、そのまま目を閉じて小さく息を吐いた。
 何もしてやれないのは自分の方である。守ることも、救うことも、願うばかりで実現していない。それどころか、自分に与えられた魔導を教えるという役目すら果たせていないのだ。
 ——それでも、傍にいてほしい。
 そんな単純な気持ちにようやく気がついた。いや、気付いていなかったわけではない。心のどこかで自覚はしていたが、向き合うことなく目を背けてきたのだと思う。
 それは、おそらく、終わりの日がそう遠くないことを知っているからだ。
 だからといって割り切れるはずもなく、無意識のうちに気持ちが追い詰められていたのだろう。
 そんなラウルを、レイチェルは何も言わずに受け止めた。寄りかかる頭にそっと両手を回し、その小さな手に優しく力をこめる。
 温もりがじわりと広がっていく。心がほどけていく。
 ラウルはまるで自分のすべてが彼女に包み込まれているように感じた。


21. 流れゆく星のような

 ラグランジェ家のパーティから二ヶ月が過ぎていた。
 レイチェルの両手首の傷はすでに完治している。痕も残っていない。
 そのことは、彼女自身よりも、彼女のまわりの人間を安堵させた。当然ながらラウルもそのひとりである。サイファやアルフォンスと違い、あまり言葉や態度には表さなかったが、彼らに負けないくらいに心配していたのだ。
 それ以外では特に大きな出来事もなく、ただただ平和な日々が続いていた。ラウルが家庭教師としてレイチェルの家に向かい、彼女がお茶を飲みにラウルの部屋へ来るという、そんな穏やかでささやかな関係も、当たり前のように続いていた。

「今日はここまでだ」
 ラウルが終了を告げると、レイチェルはいそいそと教本を片付け始めた。授業中はそうでもなかったが、今はすっかり落ち着きをなくしているように見える。きのう彼女から聞いた話では、このあと何かとても楽しみなことがあるらしい。そのためラウルの部屋には行けないとも告げられている。もう気持ちはそちらに向かっているのだろう。
「私はこれで帰る」
 ラウルはそう言って立ち上がり、教本を脇に抱えて背を向けた。
 思えば、彼女が部屋に来るようになってから、一人で帰るのは初めてではないだろうか。そのことが思いのほか寂しく感じられた。彼女と並んで歩くことが当たり前になりすぎていたのかもしれない。
「待って」
 レイチェルの凛とした声が、去りゆくラウルの足を止めた。せっかく気持ちを振り切ろうとしていたのに、と少し恨めしく思いながら、彼女にしかめ面を振り向ける。
「何だ?」
「ラウルも用事があるのよ」
 レイチェルはニコニコしながらそんなことを言う。だが、ラウルにはその意味するところがまるでわからなかった。少なくとも自分はその用事とやらに覚えはない。
「来て」
 レイチェルは困惑しているラウルに駆けていくと、その大きな手を引いて、何の説明もないまま強引に部屋から連れ出した。

 ラウルが連れて行かれた先は、階下の応接間だった。
 レイチェルはラウルの手を引いたまま、その重みのある扉をゆっくりと押し開く。
 広がる視界に飛び込んできたもの——。
 それはホームパーティでも始めるかのような光景だった。気軽に食べられるような料理がテーブルの上にいくつも並び、その端にはグラスと取り皿が用意されている。いずれも手をつけられた形跡はない。
「あれ? ラウルも呼ばれていたのか?」
 窓際のソファでひとり寛いでいたサイファは、読みかけの本を置きながらそう言うと、立ち上がって二人の方へと足を進めた。濃青色の制服を崩さずきっちりと身に着けている。休暇というわけではないようだ。
「……おまえ、仕事はどうした」
「家庭の事情で早退だよ」
 サイファは悪びれもせず、あっけらかんと答えた。確か、以前もこんなことを言って早退していたことがある。そのときはレイチェルに勉強を教えるためだった。おそらく今回もたいした理由ではないのだろう。
「勝手なことばかりせず真面目に仕事をやれ」
「レイチェルの誕生日くらいいいだろう?」
 サイファは両手を腰に当て、軽く肩を竦めながら言った。
「誕生日……?」
「聞いてなかったのか? これからレイチェルの誕生日パーティだよ」
 それを聞いて、ラウルはようやく悟った。これはレイチェルの幼い策略なのだということを。前もって招待しても断られると思ったのだろう。だから何も教えることなく直接ここへ連れてきたのだ。
 彼女がこの手を使ったのは何度目だろうか——。
 確かに、以前は彼女に頼まれたことを何もかも断ろうとしていた。だが今は違う。出来るだけのことはしてやりたいと思っているのだ。しかし、それが伝わっていないのは自業自得なのだろう。ラウルは溜息をつきながら、ニコッと無邪気に笑う彼女を見下ろした。

「あ、ちょっと待っていてね」
 サイファは急に何かを思い出したようにそう言うと、部屋の隅に駆けていき、そこに用意してあったものを取って戻った。
 それは、十数本のピンクローズを中心とした花束だった。
 強烈な派手さはないが、上品な華やかさがあり、なおかつ可憐な雰囲気も持ち合わせている。それは、花が完全に開ききっていないことに起因するのかもしれない。無垢な色の柔らかな花弁は、まだその奥を隠したままだ。まさにこれから咲き誇るところなのだろう。
「レイチェル、お誕生日おめでとう」
「わあ、ありがとう」
 サイファが花束を差し出すと、レイチェルは嬉しそうに甘い笑みを浮かべて受け取った。そのピンクローズを胸いっぱいに抱え、ほのかな芳香を楽しむように、心地よさそうに目を閉じる。僅かに開いた窓からは、柔らかな風が滑り込み、淡いピンクの花弁と細い金の髪をささやかに揺らした。その姿はまるで絵に描いたように愛らしく、そして美しかった。
「ラウルはお誕生日いつなの?」
 彼女はふいに顔を上げて尋ねた。それはたわいもない世間話のようなものである。特に深い意味はなかったのだろう。だが、ラウルはすぐに言葉を返せなかった。
「……知らん」
 暫しの沈黙のあと、感情を抑えた低い声でぶっきらぼうに答える。
 レイチェルはきょとんとして瞬きをすると、不思議そうに小さく首を傾げた。
「教えてくれないってこと?」
「知らないと言っている」
 それは言い逃れなどではなく、紛れもない事実であり、ラウルの精一杯の答えだった。
 レイチェルは急に真面目な顔になると、少し考えてから口を開く。
「じゃあ、ラウルも今日が誕生日ってことにすればいいわ」
 あまりに簡単になされた突拍子もない提案。
 ラウルは面食らって息をのんだ。
「……おまえは何を言っているのだ」
「私と一緒の日なら忘れないでしょう?」
 レイチェルはくすりと笑って言う。そして、抱えていた花束から一輪のピンクローズを抜き取ると、ラウルの目の前に差し出した。
「お誕生日プレゼント」
 彼女のペースに流され、ラウルは呆気に取られたままそれを受け取った。微かな甘い匂いが鼻を掠める。頭の芯が少し痺れるように感じた。
「私、花瓶に活けてくるわね」
 レイチェルは二人に笑顔を見せてそう言うと、軽い足どりで応接間を後にする。後頭部の薄水色のリボンが、その足どりに合わせて小さく弾んだ。

「わかってるのかなぁ、年の数だけ贈ったってこと」
 サイファは片手を腰に当てて、小さく笑いながら言った。そこに責めるような響きはなく、ただ無邪気なレイチェルを慈しむような、そんな彼の想いが溢れていた。
「せっかくレイチェルがくれたんだ。大切にしろよ」
「ああ……」
 ラウルはそう答えながら、手の中のピンクローズを何気なく回した。
 そのとき、指先にチクリと痛み感じた。ごく軽い痛みである。顔をしかめるほどでもなかった。人差し指をそっと茎から離すと、そこからじわりと赤い血が盛り上がる。
「どうしたんだ? 棘? 全部とってもらったはずなんだけど……」
 出血したラウルの指を覗き込みながら、サイファはのんびりと考え込む。しかし、ふと何かに気づくと、血相を変えて弾かれるように飛び出していった。
「レイチェル、待って!!」
 まるで人生の一大事かのごとく焦った声が、廊下の高い天井に響き渡る。
 ラウルは遠ざかる靴音を聞きながら、血の盛り上がった指先を口に含んだ。少し気持ちの悪くなるような生ぬるい鉄の味が広がる。
 不用意に触れるから、か——。
 ふと頭をよぎったその言葉は、かつて自分がサイファに言ったものである。あのときの彼も同じようにピンクローズの棘で怪我をした。そのことに因縁めいたものを感じ、何ともいえない奇妙な気持ちになった。

「棘はそれ一つだけ取り忘れていたみたいだね。怪我をしたのがレイチェルじゃなくて良かったよ。身代わりになってくれて感謝すべきかな。さ、座ってくれ」
 応接間に戻って来るなり上機嫌で喋り出したサイファは、どこからか持ってきた薬箱を掲げて見せながら、近くのソファを勧めた。
「手当ての必要などない」
「医者のくせに舐めておけばいいなんて言うなよな」
 拒否することを予想していたかのように、サイファは間髪入れず嫌なところをついてくる。こういうときの彼には勝てない。ラウルは小さく溜息をつくと、怪我をしていない方の手を差し出した。
「それを貸せ。自分でやる」
「いいから座れよ」
 サイファは少しも譲歩しなかった。怪我の心配をしているというより、自分が手当てをすることにこだわっているようである。反論する気も失せて、言われるままソファにドカリと腰を下ろし、今度は怪我をしている方の手を差し出した。
 サイファは満足げに微笑むと、向かいに座って手当てを始めた。念入りすぎるほど丁寧に消毒し、傷薬らしきものを塗ると、ガーゼを当てて幾重にも包帯を巻いていく。どう考えても大袈裟すぎる。
「おまえ、楽しんでいるだろう……」
「今ごろ気付いたのか? 医者を手当てするなんて滅多にないことだからね」
 睨みを利かせるラウルに怯みもせず、サイファは澄ました顔でしれっと答える。
「この怪我もおまえが仕組んだことではないだろうな」
「まさか。ラウルが呼ばれていたことさえ知らなかったよ」
 確かにここに来たときの態度はそう見えたが、サイファならその程度しらばくれるのは造作もないことだ。しかし——。冷静に考えてみれば、ラウルの言うようなことを実現するには、レイチェルの協力が必要である。彼女がそんな計画に加担するとは思えない。自分の考えすぎだったのだとラウルは思い直す。
「そうか、ラウルに気を遣っていたんだな」
 サイファは薬や包帯を片付けながら、ふと呟いた。
 ラウルは怪訝な視線を彼に送る。
「毎年、レイチェルの誕生日はみんなで普通に食事をするだけだったんだよ。だけど、今年はパーティみたいにしたいって言い出したからさ。どういうことかと少し不思議に思っていたんだけど、どうやらラウルを呼ぶためだったみたいだね。普通の食事会ではラウルは居づらいだろう? 彼女なりにラウルが来やすい形を考えたんじゃないかな」
 サイファは薬箱の金具をカチンと留めると、取っ手を掴んで立ち上がった。
「楽しそうにしろとまでは言わないが、レイチェルの気持ちを踏みにじるような行動だけはとるなよ」
 ソファに座るラウルを見下ろし、真面目な顔で念押しをすると、踵を返して応接間を出て行った。颯爽とした足どりに合わせ、長くはない金の髪がさらりとなびいた。
 ひとり残されたラウルは、ソファの背もたれにゆっくりと身を預けた。そして、怪我をした手を視線の先に掲げ、巻かれた白い包帯をじっと見つめると、目を細めて小さく溜息をついた。

 それから間もなくしてアルフォンスが帰ってきた。
 彼もまた、少し早く仕事を切り上げてきたらしい。応接間で待ち構えていたレイチェルを抱き上げると、普段の彼からは考えられないほどに表情を崩した。娘を溺愛しているのは相変わらずのようである。
 応接間にいるのはレイチェル、サイファ、ラウル、アルフォンス、アリスの5人——これが、今から始まるパーティの出席者だ。
 自分以外は身内だけということに、ラウルは多少の居心地の悪さを感じたが、今さら帰るわけにもいかなかった。サイファにも釘を刺されている。そうでなくても、レイチェルに不快な思いをさせるような行動をとるつもりは微塵もなかった。

「レイチェル、お誕生日おめでとう」
 アルフォンスの声で皆が乾杯し、パーティが始まった。
 ラウル以外は楽しそうに会話をしていたが、ラウルだけはひとりで離れたソファに座った。あまり食べるつもりもなかったが、アリスが気を利かせて料理や飲み物を運んでくれたので、手持ち無沙汰にそれを口にする。
 テーブルの方を窺うと、レイチェルは立ったままサイファと楽しそうに話をしていた。パーティが始まってからずっと一緒にいるようだ。二人にとって、それはごく自然なことなのだろう。
 ラウルは不意にやりきれない虚しさに囚われた。
 今日がレイチェルの誕生日であることすら知らなかった。当然ながらプレゼントも用意していない。そして、おめでとうの一言さえ言えていないのだ。このパーティにいる意味など無いも同然である。そもそも何のために呼ばれたのかもわかっていない。彼女は自分に何を求めているのだろうか——。

「ラウル、いいか?」
 頭上から降ってきた太い声で、ラウルは現実に引き戻された。顔を上げると、そこにはアルフォンスがワイングラスを片手に立っていた。同席の許可を求めているようである。
「……ああ」
 ラウルが承諾の返事をすると、彼はその正面に大きな体を下ろした。手にしていたグラスをローテーブルに置き、離れたところにいるレイチェルを横目で窺うと、抑えた声で話を切り出す。
「レイチェルの魔導のことなんだが……」
 ラグランジェ家のパーティのあと、レイチェルは魔導の訓練を行うことを決意したが、いまだにアルフォンスの許可は下りていない。この二ヶ月の間、彼女が折に触れて説得を試みているようだが、まだ成功はしていないと聞いている。
「ラウル、君は聞いているな? あの子の決意を」
「ああ」
 ラウルは腕を組み、無表情のまま相槌を打つ。
「私は娘を危険な目には遭わせたくない。だが、出来れば意思を尊重してやりたいとも思っている。しかし、君もわかってくれるだろうが、これがなかなか難しい問題でな。どうすればいいか決めかねているのだ」
 アルフォンスは膝の上で両手を組み合わせてそう言うと、顔を上げ、怖いくらい真摯な眼差しでラウルの双眸を見つめた。
「そこで君の意見を聞かせてほしい。魔導の訓練がどのような影響を与えるのか、そしてどれほどの危険があるものなのかを」
 ラウルは僅かに眉を寄せた。
「……正直言ってわからん。このまま魔導から遠ざけておけば、暴発することはないのかもしれん。だが、もしそれを誘発するような何かが起これば、今の彼女にそれを止める手立てはない。魔導の制御だけでも身に着けておくべきだとは思う」
「訓練に危険がないのかを聞きたい」
 アルフォンスはラウルから少しも目を離さずに追及する。
「以前のような無謀なことはしない。精一杯、慎重に行うつもりだ」
「それは答えになっていない。危険はないのかと聞いているのだ」
 ラウルの答えに納得しなかったアルフォンスは、感情を昂ぶらせ、ローテーブルに片手をついて身を乗り出した。革張りのソファが高い摩擦音を立てる。だが、その音で我にかえったのか、複雑な表情を浮かべると、ゆっくりとその身を引いていった。そして、組んだ両手を腹の上に乗せ、疲れたように深く息を吐いて言う。
「私は君を信じる。君が大丈夫だと断言するのならば、許可をしようと思っている」
 それはまるでラウルを試しているかのような言葉だった。
 実際にアルフォンスの意図はそこにあるのかもしれない。
 ラウルは無表情を装ったまま考え込む。
「レイチェルの場合、何が起きるかは未知数だ。どれほど配慮したとしても、絶対に危険がないとは言いきれない」
 静かに口にした答えは、自分の正直な考えだった。
 アルフォンスは目を細めて溜息をついた。
「そうか……、それでは許可はできんな。張り切っているあの子には可哀想だが、諦めてもらうことにしよう」
「ああ……」
 危険はない、そう答えるべきだったのだろうか——。
 だが、それを言い切るだけの自信がなかった。以前のような目に遭わせてしまうことが怖かった。要するに逃げたのだ。そんな自分には、やはりレイチェルを指導する資格はないのだと思う。
「何も起こらないことを祈るしかないな」
 アルフォンスはそう呟くと、ローテーブルに置いたグラスを手に取り、半分ほど残っていたワインを一気に呷った。

「二人で何の話ですか?」
 サイファは人なつこい笑みを浮かべながら、ソファに座るラウルたちに声を掛けた。その返事を待たずにアルフォンスの隣に腰を下ろすと、ローテーブルの上に置かれていた淡緑色のワインボトルを示して尋ねる。
「いただいても?」
「ああ」
 アルフォンスはそう答えると、ボトルのコルクを外し、サイファが持ってきた空のグラスに注ぐ。微かに黄味を帯びた液体が、その中で大きくまわりながら波を打ち、爽やかな香りを立ち上らせた。
 サイファはそのグラスを持ち上げ、アルフォンスに軽く会釈をした。
「ほら、ラウルも付き合えよ」
「酒は飲まないことにしている」
 ラウルは紅茶を手にして素っ気なく答える。逃げ口上ではない。特に理由があるわけではないが、以前から自分でそう決めているのだ。
 しかし、サイファは納得しなかった。ムッとして口をとがらせながら言い返す。
「乾杯のときに飲んでいたじゃないか」
「あれは付き合いだ」
「僕には付き合えないっていうのか?」
 まるで酔っぱらいのようにしつこく絡んでくる。それも、いつもの彼らしくない稚拙な絡み方だ。顔を見る限りではまだ素面に見えるが、頭の方には少し酔いがまわっているのかもしれない。
「レイチェルに嫌な思いをさせるなと言ったのはおまえだろう」
「ああ、だから乾杯には付き合ってくれたってわけか」
 レイチェルの名前を出すと効果覿面だった。彼にしては簡単すぎるほどにあっさりと頷いた。やはり酔っているのかもしれないと思う。
 そういえば……と、ラウルはあたりを見まわす。
「おまえ、レイチェルはどうした? 一緒にいたのではなかったのか?」
「向こうのソファで寝ているよ」
 ラウルはサイファが指さした方に目を向ける。先ほどは間にあるテーブルが邪魔をして気付かなかったが、確かにレイチェルはソファで横になっていた。体の上には毛布が二枚ほど掛けられている。
「まさか酔わせたのではないだろうな」
 訝しげにそんな疑念を口にすると、サイファは眉根を寄せて睨み返した。
「僕がそんなことをする人間に見えるのか? 酒は飲ませてないし、他に何もしていない。ただ普通に話をしていただけだ。だけど、急に眠いって言って寝ちゃったんだよ」
 多少の怒りを含んだ声で毅然と反論すると、隣のアルフォンスに同意を求める。
「アルフォンスは信じてくれますよね?」
「ああ、あの子はそういう子供みたいなところがあるからな」
 アルフォンスは何か思い悩むような様子でそう答えると、硬い表情で目を伏せる。
「15……か……」
「15ですね。ようやくあと1年です」
 サイファは落とされた言葉を引き取ると、満面の笑みを浮かべながらそう続けた。
 あと1年——。
 それは、彼が待ち望んでいることが実現するまでの時間であり、自分と彼女の関係が終わる期限でもある。そのことについて、具体的な話はまだ聞いていない。だが、自分が彼女の家庭教師でいられるのは、長くてもあと1年なのだろうと思う。
「サイファ、そのことなんだが……」
 アルフォンスは苦渋に満ちた顔で、言いにくそうに切り出した。
「どうだろう? あと4、5年ほど待ってはもらえないだろうか」
「手放すのが惜しくなってきたのですか?」
 サイファは薄く笑みを浮かべ、反応を愉しむように尋ねる。
「そういうことではない」
 アルフォンスは慌てて否定した。
「あれはおまえも知ってのとおり、まるきり子供でな。とても結婚など……」
「16歳のアリスと結婚した人が何を言ってるんですか」
 サイファは動じることなく鋭い反撃をする。
 アルフォンスはますます慌てた。顔に赤みが差し、うっすらと汗が滲む。
「いや、アリスはしっかりしていたのだ。しかしだな、レイチェルは無邪気というか、危なっかしいほどに幼い。とても嫁にやれる状態とは思えん。そう育ててしまったのは私たちなのだが……」
 そこで言葉を詰まらせると、申し訳なさそうにうつむいた。
「だから、あと4、5年……、その間に色々と身に付けさせ、しっかり役目を果たせるように育てるつもりだ。おまえのためにも、レイチェルのためにも、それが最善の選択だと思う」
「今のままでいいですよ」
 サイファはアルフォンスの提案をやんわりと突っぱねた。
「とりあえず結婚をして、それから少しずつ出来ることを増やしていけばいいでしょう。無理はさせませんよ。ルーファス前当主の言ったように、ラグランジェ家のことはすべて僕がやります。といっても、今はまだ父が当主なので、僕の仕事はそれほど多くないですけどね」
 涼しい顔でそう言ってワイングラスを口に運ぶ。
 対照的に、アルフォンスは難しい顔をしていた。
「しかし、そうはいってもな……おまえ、一度、過労で倒れたことがあっただろう。魔導省の仕事だけでもきついというのに、レイチェルの面倒までみることになったら体が持たんぞ」
「では鍛えておきます」
 サイファはにっこりと微笑んで答える。その返答からは、絶対に引き下がらないという強い意志が透けて見えた。何を言われようとも、どんな説得をされようとも、決して考えを変えるつもりはないのだろう。
 アルフォンスは当惑したように彼を見つめた。
「おまえは、なぜそれほどまで……」
「レイチェルと少しでも長く一緒にいたい、ただそれだけです」
 普通であればにわかに信じられない答えだが、サイファの場合は偽りない本心だろうとラウルは思う。彼の家庭教師をしていた頃から、幾度となく同様の話を聞いていたのだ。彼がどれほどその日を心待ちにしているか、どういう思いでそれを望んでいるか、どちらも嫌というほど知っている。
 アルフォンスも彼の気持ちは疑っていなかった。だからこその苦悶を滲ませる。
「サイファ……残酷なことを言うようだがな、おまえとレイチェルとでは随分と温度差があるように思う。レイチェルにとっては、おまえが特別というわけではないぞ」
「わかっていますよ」
 サイファは動揺も見せず、静かに受け止めた。
「お父さまが好き、お母さまが好き、サイファが好き、ラウルが好き——彼女にとってはどれも同じようなものですよね」
 ラウルも薄々そんな気はしていた。そう思うようになったのはわりと最近のことである。初めから気付くべきだったのかもしれない。そうすれば、これほどまでに振り回されることはなかっただろう。
「でも、それでもいいと思っています。少なくとも、僕を好きだということは確かなわけですから。他に添い遂げたい人がいるのであれば、話は別ですけれども」
 サイファの言葉が途切れると、アルフォンスは目を閉じて小さく息をついた。
「おまえの気持ちはよくわかった。レイチェルのことをそこまで想ってくれて、父親として本当に深く感謝をしている。レイチェルを託せるのはおまえしかいない。だからこそ、こちらも相応の準備を整えてから嫁がせたいのだ」
「駄目ですよ、約束は守ってください」
 サイファは鋭い視線を向け、丁寧ながら強い口調で言う。
「しかし……」
 アルフォンスは視線を落として言い淀んだ。反論の言葉ならいくらでもあるはずだ。それを飲み込んだのは、少なくともこの件に関しては、自分の方が弱い立場にあることを理解しているからに違いない。相手は本家であり、しかも既に約束を交わしているとなると、覆すのは難しいだろう。
「ラウル、おまえはどう思う? 意見を聞かせてくれ」
 今まで黙って聞いていたラウルに、サイファは急に話を振ってきた。
「私には関係のない話だ」
「だから聞きたいんだよ。第三者の意見としてね」
 サイファがなぜ今さら自分に意見を求めるのか、ラウルにはわからなかった。話はすでに彼自身の望んだ結論に達しかけている。何に頼ることもなく押し切れるはずだ。それとも他に何か意図でもあるのだろうか。
 いずれにしても、自分には彼の意に沿うようなことは言えそうもない。
「レイチェルのためを思うなら、こんな結婚はやめた方がいい」
 それは、これまでの話を根本から否定するものだった。
 サイファは息をのんで大きく目を見張った。ゆっくりと顎を引き、青く燃えたぎる瞳でラウルを睨みつけると、低く抑制した声で尋ねる。
「どういうことだ」
「あいつはおまえたちが思っている以上に、自分の立場や自分に求められていることを考えている。そして、しなくてもいい苦労を背負い込んでいる。レイチェルを救うには、その呪縛から解放してやるしかないだろう」
 ラウルは感情を見せないように、冷静な意見として述べていった。
 サイファは不機嫌に、しかし真剣にそれを聞いた。じっと目を伏せて思考を巡らせると、僅かに視線を戻し、おもむろに形のいい唇を開く。
「確かにつらい目に遭わせたことはあるし、彼女が自分ひとりで抱え込んでいることも知っている。それでも僕は諦めはしない。彼女のそばで、彼女を守っていくつもりだ。そして、つらさや悲しみを補って余りあるくらいの愛情を注ぎ、彼女を幸せにする——それが僕の決意だ」
 静かに迷いなくそう言い切ると、挑むような瞳をラウルに向けて畳み掛ける。
「僕との婚約を解消したとして、それで彼女はどうなる? 幸せになれるというのか? 誰が僕以上に彼女を守ってやれる? 幸せにしてやれる? ラウル、おまえならそれが可能だとでも言うのか?」
「…………」
 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、ラウルは何ひとつ答えられなかった。自分ならレイチェルを幸せに出来る——そう断言できるほどの自信があるのなら、とっくに彼女を連れ去っていただろう。
「サイファ、おまえ少し酔っているのではないか?」
「かもしれません」
 心配そうに顔色を窺うアルフォンスに、サイファは弱く微笑んで溜息まじりに答えた。彼にしてはめずらしく感情的になり、少し息を切らせていた。興奮のためか、酒のためか、顔も少し紅潮している。ゆっくりとソファの背もたれに身を預けると、深く呼吸をし、額に手の甲をのせて目を閉じた。
「でも、いま言ったことは僕の本心だよ」
「意見を求められたから言っただけだ。議論するつもりはない」
 ラウルは冷ややかな態度でティーカップを手に取った。
 そんなラウルの様子を、サイファは目を細めて見つめる。
「ラウルには、認めてほしかったんだけどな」
 どこか寂しげな声でそう呟くと、気を取り直したように、体を起こして笑顔を作る。
「まあ、確かに僕にもまだ至らない面はあるし、力不足は否めないからね。ラウルの忠告を真摯に受け止めて、今後さらに努力を重ねていくよ」
 彼は冷静に自分を見つめながら、前向きに決意を述べていく。忠告のつもりではなかったが、彼はそう受け取ったらしい。いや、あえてそう解釈することにしたのだろう。
「そういうわけで、いいですよね?」
 サイファは他人事のように聞いていたアルフォンスに振り向いた。
「レイチェルが16になったら結婚します」
「あ……ああ……」
 静かだが強い決意を秘めたその宣言に、アルフォンスは押し切られるように肯定の言葉を返した。

「サイファの粘り勝ちね」
 アルフォンスの斜め後ろに立っていたアリスは、くすりと笑ってそう言うと、プレートに載せてきた人数分の小さなカップを、男たちの前のローテーブルに置いた。
「おまえ、聞いていたのか……」
「あら、秘密のお話だったの?」
 アリスが立てた人差し指を唇にあて、悪戯っぽくそう尋ねると、アルフォンスはきまり悪そうに頭に手をやった。
「おまえはどう思っている? 16で結婚させてもいいのか?」
「そうね、サイファがそこまで言ってくれているんだから」
 アリスは悩むこともなくさらりと答えた。彼女の中ではすでに結論は出ていたようだ。そのことが面白くなかったのか、アルフォンスは複雑な表情で眉をひそめた。気を悪くしていることは明らかである。しかし、アリスは平然としたまま小さなカップを差し出して言う。
「これでも食べて機嫌を直して。レイチェルが作ったのよ」
「レイチェルが、作った……?」
 アルフォンスはその小さなカップを覗き込み、大きく瞬きをする。
「アルフォンスは知らなかったんですか? レイチェルがプリンを作っていたこと。僕とラウルはこれで二回目ですよ」
 サイファは少し得意げな顔でカップのひとつを手にとった。
「なっ……、私を差し置いて、そろって抜け駆けとは……」
 アルフォンスは本気で悔しそうだった。サイファに対抗するようにプリンを手に取ると、少し慌てたようにスプーンですくって口に運ぶ。
「……美味い」
 彼は一口食べて動きを止めると、ぽつりと一言呟いた。カップを持つ指先が僅かに震え、心なしか目も潤んでいるように見える。
「あの子もこんな美味いプリンを作るまでに成長していたのか……」
「どういうわけかプリンしか作らないんだけどね」
 アリスは肩を竦めて言い添えた。それは、今は何も耳に入らないであろうアルフォンスにというより、その隣のサイファに言っているようだった。二人は互いに小さく笑い合うと、感慨に耽るアルフォンスを優しい眼差しで見つめた。
 そんな三人を横目に、ラウルも自分の前に置かれたプリンに手を伸ばした。
 それは自分の作るものと遜色のない出来だった。美味しいことは前回食べてわかっていたが、見た目も申し分なく、そのまま市販されてもおかしくないくらいである。
 当初は、作れるようになるとは思わなかった。
 火傷をしたときはもう無理だろうと思った。
 しかし、彼女は少しずつ努力を重ね、いつしかここまで出来るようになったのだ。それは、自分の意思を持って着実に歩いてきた結果である。
 ラウルは彼女の成長に思いを馳せながら、じっくりとそれを味わった。

「ラウル、来て!」
 寝ていたはずのレイチェルが、庭からガラス戸を開けて声を弾ませた。いつのまにか起きて庭に出ていたようだ。少し息がきれているが、溌剌としていて、とても眠そうには見えない。
 なぜ自分だけが彼女に呼ばれたのだろうか——。
 ラウルにはまったく見当がつかず、期待と不安の入り交じった気持ちが胸に渦巻いた。少し躊躇いながらも立ち上がり、彼女の方へと向かう。
「何の用だ?」
 その極めて端的な質問に、レイチェルは何も答えなかった。ただにっこりと微笑むと、小走りで庭へと駆けていく。芝生を踏みしめる規則的な音が、次第に遠ざかっていった。
 ラウルも庭に降りて後に続いた。
 すると、彼女は庭の中央で足を止め、くるりと振り返った。ドレスが大きく風をはらみ、金の髪がさらりと艶やかに舞い上がる。
「一緒に星空を見るって約束したでしょう?」
 澄んだ声が一面の空に拡散する。
 彼女は両腕を大きく広げて、愛らしい笑顔を浮かべた。彼女の背後には濃紺色の空が広がり、そこにいくつもの星がキラキラと瞬いている。彼女の言ったように、それは宝石よりもずっときれいだった。
 ラウルは目を細め、ゆっくりと腕を組んだ。
「あら? どうしたの?」
 レイチェルはふと何かに気付いて尋ねる。その視線は、ラウルの人差し指に巻かれた白い包帯に注がれていた。
「ああ、棘が刺さったのだ」
 ラウルは問われたまま、何の気なしに答えた。
 しかし、それを聞いたレイチェルは、口もとに手を当てて顔を曇らせる。
「私のあげたバラのせい?」
「いや、たいしたことはない、気にするな」
 もとよりレイチェルを責めるつもりなど微塵もなかった。原因は自分の不注意であり、彼女に非がないことは明らかである。そして、実際に怪我はごく些細なものなのだ。
「でも、包帯が……」
「サイファが大袈裟に巻いただけだ」
 本当に余計なことをする奴だ、と心の中で舌打ちする。たいしたことはないと言っても、確かにこれでは説得力がない。そもそもこんなものを巻かなければ、彼女に気付かれることすらなかったはずだ。
「ごめんなさい……」
「おまえは悪くない。そんな顔をするな」
 自責の念に駆られる彼女に、ラウルは拙い言葉を掛けることしか出来なかった。本当は彼女の頬に触れたかった。その方が気持ちを伝えられる気がした。しかし、その衝動は理性が押しとどめる。求める指先をこぶしの中にしまい込むと、うつむく彼女を見下ろして静かに口を開く。
「プレゼント、大切にする」
 レイチェルは驚いたようにラウルを見上げた。彼女にとってはそれほど意外な言葉だったのだろう。大きくぱちくりと瞬きをして、ラウルと目を見合わせると、やがて小さくはにかんで頷いた。

「ねぇ、どうしてラウルなの?」
 サイファも庭に降りてきて、二人に足を進めながら尋ねた。取り立てて不機嫌な様子はなく、ニコニコと笑顔を浮かべている。もしかすると内心は面白く思っていないのかもしれないが、少なくともレイチェルの前でそれを見せることはないだろう。
 レイチェルは弾むように一歩飛び出すと、無邪気な笑顔を見せて答える。
「パーティのときの星空の話をしたら、ラウルも見たいって言ったから」
「そうは言っていない」
 ラウルは焦って振り返り、釈明しようとする。自分から言い出したわけではなく、彼女が言ったことに頷いただけである。たいした違いではないかもしれないが、ラウルにとっては譲れない部分だった。変に誤解をされては困る、ということが大きかったのかもしれない。
「むきになるなよ。だいたいわかるからさ」
 サイファは軽く笑いながら受け流すと、ラウルの肩に腕をのせて声をひそめる。
「それより何の話をしていたんだ? 深刻そうに見えたけど」
 ラウルはじとりとした視線を流すと、包帯が巻かれた人差し指を立てた。
「おまえがこんなものを巻くから心配させてしまうのだ」
「ああ……」
 サイファは気の抜けた返事をすると、いきなり何の躊躇いもなくその包帯をほどいた。そして、不思議そうな顔をしているレイチェルの前に、包帯を取ったラウルの右手を晒して言う。
「レイチェル、これ、本当にたいしたことないんだよ」
 サイファにとってはレイチェルが何よりも最優先である。わかってはいたことだが、ラウルはその身勝手さに閉口した。しかし、ほっとしたように胸を撫で下ろすレイチェルを見て、それですべてが報われたように感じている自分は、サイファとたいして違いはないのかもしれないと思う。
「そんなことより空を見ようよ」
 サイファはレイチェルを引き寄せると、後ろから優しく抱きすくめた。
「この前のパーティのときの方がきれいだったかな」
「今日は特別だから一緒に見られただけで嬉しいの」
 レイチェルは幸せそうに柔らかく微笑むと、小首を傾げて振り向く。
「ラウルも嬉しい?」
「……ああ」
 ラウルは腕を組んで空を見上げながら、小さく返事をする。緩やかな風が頬を撫でるように掠め、長い焦茶色の髪を小さく揺らした。
「三人で星空を眺めるなんて、これが最初で最後かもしれないね」
 サイファは誰にともなくそう言った。
 それきり会話は途絶えた。

 星がひとつ流れた。
 一瞬だけ強い煌めきを放ち、すぐにすっと消えていく。

 自分とレイチェルの出会いは、この流れゆく星のようなものかもしれない。
 煌くような二人の時間は、やがて思い出だけを残して終わりを告げる。それはどうすることもできない。誰にも止めることはできないし、止めてはならないのだ。
 変わらないものは何もない。だからこそ、今という時間はかけがえのないものになる。
 そんな当たり前のことを、長い時間を無為に生きる中で、ラウルは忘れてしまっていた。思い出させてくれたのは、紛れもなく——。
 まっすぐ空を見上げるレイチェルの横顔を、ラウルはそっと見つめて目を閉じた。



読者登録

瑞原唯子さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について