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14. 許されない衝動

「やあ、ラウル」
 サイファはいつものように人なつこい笑顔を浮かべると、塀に寄りかかったまま軽く右手を上げた。昼下がりの強い陽射しを浴び、濃青色の制服がよりいっそう鮮やかに見える。当たり前のように佇んでいるが、ここは王宮ではなくレイチェルの家の前である。
「こんなところで何をしている」
「ラウルを待っていたんだよ」
 家庭教師であるラウルがこの時間にここへ来ることは、サイファは当然ながら知っていることだ。だが、これまで医務室に来ることはあっても、王宮の外で待ち伏せされたことはなかった。わざわざ仕事を抜けて来るほどの用件なのだろうか。
 ふと三日前のことが頭をよぎる。
 だが、すぐにその考えを自分で否定する。あのことについては、レイチェルには口止めをしておいた。その理由はわかっていないようだったが、誰にも言わないことについてはとりあえず承諾してくれた。彼女がそう簡単に約束を破るとは思えない。第一、サイファがそのことを知っているとしたら、こんな笑顔でラウルの前に立っていないはずだ。
「レイチェル、良く出来ていただろう?」
 サイファは口もとに薄い笑みを乗せて言う。
 ラウルの眉がピクリと動いた。
 それがテストのことだというのはすぐにわかった。そして——。
「……おまえが教えたのか」
「一週間もあったから余裕だったよ」
 サイファは明るい笑顔を見せる。
「仕事はどうした」
「家庭の事情ということで、早く帰らせてもらったんだ」
 ラグランジェ本家の次期当主が「家庭の事情」と言えば、表立って咎めることなど誰にも出来ないだろう。サイファはそのことをよく理解している。その上で、あえてその言葉を選んでいるのだ。利用できるものは遠慮なく利用するというのが彼の考えである。
「レイチェルがめずらしく真剣に頼んでくるから断れなかったんだよ。まあ、僕としても、レイチェルに頼りにされて嬉しかったんだけどね。それに、家庭教師気分を味わえてなかなか楽しかったよ」
 サイファはくすっと笑うと、少し真面目な顔になった。
「だが、少し気になってな」
「何だ」
「教えてもいない章から出題するなんて、ラウルらしくないからさ」
 サイファは鋭いところをついてきた。
「僕は絶対に出ないって言ったんだけど、レイチェルは絶対に出るって言い張ってね。まあ、勉強するのは悪いことじゃないし、それでレイチェルの気が済むのならと思って教えてあげたんだけど、テストを見せてもらったら本当にそこから出題されていたから驚いたよ」
 ラウルは眉根を寄せた。
「おまえのせいで魔導を教える機会をふいにした」
「どういうことだ?」
 サイファはきょとんとして尋ねる。
 ラウルはテストの目的について説明する。もちろん、レイチェルの提示した条件については触れなかった。もともと後付けの条件であるため、それを言わなくとも話が不自然になることはない。
「それであんなに必死だったわけか……」
 サイファは素直に納得したようだった。腕を組みながら難しい顔で言う。
「魔導は徹底的に嫌がっているからなぁ」
「おまえさえ余計なことをしなければ、上手くいったはずだった」
 ラウルは感情のない目で見下ろした。知らなかったこととはいえ、結果的にサイファが大切な計画を妨害したことになるのだ。そして、レイチェルの無邪気な裏切りを手助けしたことにもなる。それも彼自身に対する裏切りを——。そのことはまだ知らない。いや、今後も知ることはないだろう。
 サイファは眉をひそめて睨み返した。
「あのなぁ、そんな浅はかな手を使うからいけないんじゃないのか? 家庭教師のやることじゃないぞ。ラウルにしてはあまりにも粗末だな。こういうことについては、レイチェルのためにも、正面からきちんと説得するのが筋だと思うけどね」
「説得は何度も試みたが、了解を得られなかった」
 ラウルの胸に苦々しい思いがわだかまる。サイファの主張がまぎれもない正論であることはわかっている。だが、理想どおりにいくものではない。レイチェルを説得できないとなれば、別の方法をとるしかないと考えたのだ。いつまでも先延ばしにするわけにはいかないのである。
「なら、切り札を使うか?」
 サイファは上目遣いでそう言うと、片方の口の端を上げた。
「何だ」
「僕ならレイチェルを説得できる」
 ラウルは僅かに目を細め、冷たい視線を送った。
「たいした自信だな」
「彼女は僕の言うことなら何でも聞くからね」
 サイファは当然のように言う。そのことがラウルの癪に障った。ムッとして言い返す。
「だったら、さっさと説得していれば良かっただろう」
「無理強いをするのは趣味じゃないんだよ。今回はラウルが困っているから特別だね」
 サイファは無邪気なくらいに屈託のない笑顔を見せた。鮮やかな金の髪がさらりと揺れて上品な煌めきを放つ。その言いようのない眩しさに、ラウルは思わず眉根を寄せた。

「あら、サイファ、どうしたの?」
 門を開けて外に出てきたレイチェルは、二人の姿を認めると、驚いたように目をぱちくりさせて声を掛けた。サイファがここにいることもそうだが、ラウルと一緒にいることを不思議に思ったのかもしれない。
 サイファは慌てることなく尋ね返す。
「レイチェルこそどうしたの?」
「ラウルが遅いから心配になって見にきたの」
 ラウルはいつもきっちりと約束の時刻に到着するようにしていた。今日はサイファと話している時間分だけすでに遅れていることになる。
「ごめんね、ちょっとラウルと話したいことがあったんだ」
「何の話?」
「おいで、レイチェル」
 サイファは寄りかかっていた塀から体を離すと、すっと右手を伸ばして彼女を呼んだ。レイチェルは素直に小走りで駆けていく。サイファはその細い腰に両手をまわして彼女を捉えると、まっすぐに蒼の瞳を見つめ、柔らかく微笑んで言う。
「レイチェル、先生の言うことは聞かないとダメだよ」
「聞いているわ」
「魔導をやりたくないって我が侭を言っているだろう?」
「……ええ」
 僅かにレイチェルの表情がこわばった。
「魔導の力を持つ者は、その扱い方を知る必要がある。義務だといってもいい。そして、それは君自身を守ることにも繋がるんだ。難しいことじゃないよ。何も高度な魔導を使いこなせというんじゃない。制御の方法を身につけるだけでいいんだ。僕も、アルフォンスも、アリスも、みんなやってきたことだよ」
「でも、私は……私には……」
「大丈夫だよ。僕の言うことを信じて」
 サイファは慈しむように彼女の頬に触れた。手のひらでそっと包み込む。
 ラウルは仏頂面で腕を組み、その様子を眺めていた。説得の内容は、ラウルがこれまで幾度となく口にしてきたものと変わらない。それでも彼女の心を動かすことは出来なかったのだ。彼女がどれほど頑なに拒絶しているか、サイファは知らないのだろうか。こんなに簡単に説得できれば苦労はしない。そう思った。だが——。
「……わかったわ」
 レイチェルは真摯にサイファを見つめてそう言った。まだ不安そうではあるが、懸命にそれを受け入れようとしているように感じられた。少なくとも、この場を言い逃れるための嘘や出任せではなさそうだ。
「ありがとう」
 サイファは優しく礼を言うと、彼女の頭にそっと手を置いた。彼女は表情を緩めて微笑みを浮かべる。大きいとはいえない手だが、彼女には十分な温もりと安心感を与えているのだろう。
「それじゃあ、先生、あとはよろしく頼むよ」
「……ああ」
 サイファが顔を上げてにっこり微笑むと、ラウルは無表情のまま低い声で返事をした。

「ラウル、どうしたの? 怒っているの?」
「怒ってなどいない」
 小走りでついてくるレイチェルに振り返ることなく、ラウルは突き放すように答えた。大きな足どりで彼女の部屋に入ると、立ったまま腕を組んで溜息をつく。
 怒ってなどいない、ただ、少し面白くなかっただけだ。
 自分も同じように説得したはずなのに、彼女の態度はまるで違う。
 やはり、彼女にとってサイファは特別なのだろうか。
 サイファの言うことであれば何でも聞くのだろうか。
 なぜ、そこまで——。
 納得のいかない気持ちが、心の奥でくすぶり続けている。
 しかし、これで魔導の制御を学ばせることはできるのだ。今はこのことを考えなければならない。大きく呼吸をしてから彼女に振り向く。
「本当に魔導をやるんだな」
「ええ、サイファと約束したから」
 レイチェルはラウルの気持ちを逆撫でするような返事をする。もっとも、彼女にそのつもりがないことは十分に理解している。ラウルの心情など何もわかっていないのだ。
「明日から魔導の訓練を行う。もう少し動きやすい服装を用意しておけ」
「明日から、ね……わかったわ」
 レイチェルの声は硬かった。声だけではなく表情も硬かった。小さな口をきゅっとつぐんで目を伏せると、何もない床の一点をじっと見つめる。気のせいか、今にも泣き出しそうに見えた。
「心配するな、危険なことはしない」
「……嫌いにならないで」
 レイチェルは震える声でぽつりと言う。
 ラウルは怪訝に目を細めた。彼女がなぜそのようなことを言い出したのかわからなかった。苦手なことをやらされる不安や恐怖を抱え、心細くなっているのかもしれない。
「嫌いになどならない」
 正面から彼女に向き直り、落ち着いた声ではっきりと答える。
 レイチェルはうつむいたまま小さく頷いた。それからゆっくりと顔を上げ、ラウルと視線を合わせると、ふっと甘く愛らしい微笑みを見せた。

 翌日、ラウルはいつものようにレイチェルの家に向かった。
 この日から魔導の訓練を始める予定になっていた。彼女のことが心配ではあったが、よほどのことがない限り、予定どおりに行うつもりでいた。いずれはやらなければならないことなのだ。とはいえ、望まないことを無理強いをするのはやはり心苦しい。あまり怯えてなければいいが——そんなことを思いながら、彼女の部屋の扉をノックする。
「こんにちは、ラウル」
 予想に反して、レイチェルは明るかった。屈託のない笑顔でラウルを招き入れる。彼女は思ったより気丈なのかもしれない。きのうの弱音が嘘のように、何もかも完璧にいつもどおりである。だが、服装だけはいつもと違った。
「なに? どうしたの?」
「動きやすい服装ということだな」
 ラウルはじっと見つめながら冷静に確認する。ドレスは普段のものと基本的に同じ形だが、丈だけが短かかった。膝が見えるくらいである。また、特徴的な後頭部の大きなリボンは付けられていない。
「これでいいかしら?」
「まあいいだろう」
 それほど動きやすい服装ではないが、それでも普段の歩きにくそうなドレスと比べると、格段に活動的であるといえる。そこまで激しい運動をするわけではない。これで十分である。実際のところ、当面は普段のドレスでも問題がないくらいだ。
 服装そのものはともかく、その準備をしてきたという事実が、ラウルを少し安心させた。彼女は訓練を受け入れる心構えが出来ている。これならば互いに嫌な思いをせずに進められそうだと思ったのだ。

「地下室へ行くの?」
「そうだ」
 ラウルは地下への階段を降りながら答える。
 レイチェルの言う「地下室」とは、地下にある魔導の訓練場のことだ。普通は個人が持つようなものではないが、魔導の名門であるラグランジェ家に限っては、本家も分家もみな持っているらしい。それだけ魔導を重要視している証といえるだろう。もちろん、それを作るだけの財力があるという証でもある。
 地下の訓練場を使わせてもらうことについては、すでにアルフォンスの許可を得ている。そのときに鍵も渡してもらった。レイチェルが魔導を学ぶ決心をしたことを、彼は素直に喜んでいた。気は早いが安堵している様子もあった。やはりずっと心配をしていたのだろう。
 細くて暗い階段を降りきると、そこに重厚な扉があった。かなり古びているようだ。預かった鍵で解錠し、その扉を押し開いた。
 ギギギ……と錆び付いたような音があたりに反響する。
 部屋の中はさほど広くなく、また、殺風景なほどに何もなかった。あるのは蛍光灯と換気扇くらいで、ほとんど無味乾燥な壁に囲まれているだけの部屋といえるだろう。だが、その壁が重要なのだ。魔導耐性に優れた物質で作られているのである。もちろん、それだけでは軽い魔導力にしか耐えられないため、通常はさらに結界を張って使用することになっている。
 ラウルは壁に沿って強力な結界を張った。これを力ずくで破れる人間はほとんどいないはずだ。今のレイチェルにはここまでの必要はないだろうが、彼女の奥底には未知の強大な力が眠っている。それに備えてのことだった。
「この地下室、かび臭くて息が詰まりそう」
「換気はしてある。我慢しろ」
 レイチェルは眉をひそめながら部屋の中を見まわした。魔導の訓練を避けてきた彼女のことだ。自分の家ではあるが、ここに来たことはあまりないのかもしれない。
 ラウルは壁を叩いて言う。
「ここに向かって打て。何でもいい。力一杯だ」
「わかったわ」
 レイチェルは素直に答えると、両手を合わせて呪文を唱え始める。ごく初歩的なものだ。彼女が知っている数少ない呪文のひとつなのだろう。両の手のひらの間に白い光が生じる。頭くらいの大きさになると、それをラウルが示した壁に向かって放った。白い光球は勢いよく突き進む。そして、結界を張った壁に衝突し、シュワッと軽い音を立てて消滅した。
「……力一杯と言ったはずだ」
「力一杯、打ったつもりよ」
 彼女の表面的な魔導力はそう強い方ではない。だが、それと比較しても、彼女が放った魔導はあまりに貧弱だった。これで力一杯とは考えられない、もっと強いものが放てるはずだ——反射的にそう思った。
 しかし、嘘を言っているようには見えない。
 今の彼女にとっては、もしかすると、本当にこれが精一杯なのかもしれない。そうだとすれば、想像以上にやっかいである。自分の中で魔導力を集中させるというのは、呪文以前の極めて基本的なことである。それすら、彼女はまともに出来ていないことになるのだ。
「もう一度やってみろ。今度はゆっくりとだ」
「ゆっくり?」
「時間を掛けて呪文を唱えろということだ」
「わかったわ」
 レイチェルは言われるまま、緩やかな口調で呪文を唱え始めた。
 ラウルは彼女の中の魔導を探り、その流れを見極めようとする。しかし、そのとき、ふと何かが意識の隅を掠めた。その正体はすぐにわかった。彼女の奥底に眠っている強大な魔導力である。普段は誰にも気づかれないくらい密やかに潜んでいるが、魔導を使っている間だけは僅かに開いているように感じられた。
 もしかすると、引き出せるかもしれない——。
 衝動的な思考が頭をよぎる。
 ラウルは正面から彼女の肩に右手を置いた。指先に少しだけ力を込める。
「えっ……?」
「続けろ」
 レイチェルは驚いて呪文を止めたが、ラウルの言葉に従い、再び緩やかに呪文の詠唱を始めた。
 ラウルは自分の魔導力を凝縮し、彼女に触れた部分から、それを注ぎ込んでいく。
 彼女の奥をこじ開けるように、眠った力を呼び覚ますように——。
 それは、魔導の封印を解く方法のひとつだった。正攻法ではないが、これで解けることもある。ただ、彼女の場合は封印とも違うので、この方法が有効かどうかはわからない。それでも、試す価値はあると思った。
「あっ、なに……っ」
 レイチェルは体内の反応にとまどいの声を上げる。体がびくりと揺れた。
「……はっ……はぁ、は……ぁっ……」
 次第に息が荒くなっていく。顔も体も熱を帯びて紅潮していた。
「……んっ、あぁ……あ……っ」
 必死に何かを堪えるように、苦しそうに眉根を寄せて目をつむる。
「ラウル……っ、あつい、体が……体の中が……」
「大丈夫だ。もうしばらく耐えろ」
 ラウルは冷静に彼女を観察しながら言う。眠っている力を呼び覚ますために注ぎ込んだ力は、活動中の魔導力にも影響を与える。必要以上に活性化させてしまうのだ。彼女には刺激が強すぎるのかもしれない。
「ラウル……お願い……もう、ダメ……っ」
 これが限界か——。
 ラウルは力を注ぐのをやめた。そっと手を離す。だが、レイチェルがふらりと揺れるのを見ると、慌ててその小さな体を両手で支えた。そして、軽く肩を抱いて自分の体に寄りかからせる。
「はっ……はぁっ……」
 彼女は苦しそうに大きく全身で息をしていた。顔が火照り、汗が滲んでいる。だいぶ無理をさせてしまったのかもしれない。それでも、結局、彼女の中の魔導に変化は見られなかった。彼女の奥底に眠る力を引き出すことは出来なかったのだ。そう簡単にはいかないということだろう。
「すまなかった」
 ラウルは彼女の頬に張りついた髪を払いながら詫びた。レイチェルはゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳でラウルを見つめる。小さな薄紅色の唇が微かに動いた。そのとき——。
「あぁっ……!」
 レイチェルの体が大きくビクリと脈打った。体中が青白い光に包まれる。無防備だったラウルは、その光に弾き飛ばされ、背後の壁に叩きつけられた。支えを失った彼女は床に崩れ落ちる。苦しげに顔を歪ませながら、床の上で背中を丸めた。
「う……うぅ……」
「レイチェル!」
 ラウルは立ち上がりながら叫んだ。
 彼女の中で大きな力が暴れ出していた。それは、制御を失った魔導として放出される。
 つまり、暴発だ。
 髪は大きく舞い上がり、服は音もなく裂けていく。体中から強い光が四方八方に散り、結界を破って壁にいくつもの穴を開けた。それでも、彼女の魔導力は収まるどころか、ますます高まっていく。
 ——まずい。
 ラウルは急いで呪文を唱えた。瞬間、部屋の中の空気が変わる。
 彼女を覆っていた青白い光が消滅した。
 この部屋を覆っていた結界も消滅した。
 ラウルが唱えた呪文は、特定空間の魔導を使えなくするものだった。ある程度、閉じられた空間でなければ効果はないが、魔導の訓練場はたいていそういう造りになっている。ここも例外ではない。
「レイチェル!!」
 ラウルは倒れたままの彼女に駆け寄った。彼女の服は辛うじて断片が残っているだけで、もはやその役割を果たしていない。だが、ざっと見た限りでは、体の方に怪我はないようだ。自分の上衣を脱いで彼女に掛けると、壊れ物を扱うようにそっと抱き起こした。
 レイチェルは言葉もなく、ただ青白い顔で震えていた。ラウルの袖をきつく掴み、縋りつく。
 彼女の中で暴れていた魔導の力は、すでに落ち着きを取り戻していた。どうやら再び眠りについたらしい。目覚めたのは一時的なものだったようだ。今後、この影響がどう出るのかはわからないが、当面の危機は去ったといえる。
 ラウルは激しい後悔に苛まれていた。
 自分はなぜ彼女の力を目覚めさせようとしたのだろうか。それより先にすべきことがあった。ただでさえ魔導の扱い方がわかっていない彼女に、この強大な力を受け止められるはずはないのだ。少し考えれば誰にでもわかることである。
 おそらく、魔が差したのだ。
 下手に手を出せば暴発する——それは、自分が言ったことである。安易に触れるべきでないということは、誰よりも理解していたつもりだった。
 だが、誰にも曝されたことのない彼女の奥底を近くに感じたとき、歯止めとなるものすべてを忘れてしまった。触れられるかもしれないという誘惑には勝てなかった。触れたいという衝動を止めることができなかった。そして、何より、他の誰でもない自分が目覚めさせたいと思ったのだ。
 自分はどうしようもなく愚かだ——。
 今度こそ彼女は魔導を完全に拒絶するようになるかもしれない。そうなったとしても、ラウルには咎める資格はない。説得することも無理だろう。自分に出来ることは何かあるのだろうか。
 ラウルは奥歯を噛みしめ、彼女の体を抱える手に力を込めた。


15. 臆病な心

「説明、してもらおうか」
 アルフォンスは応接間に入るなり、ソファに座っていたラウルを激しく睨みつけ、低く唸るように言った。抑えきれない怒りを、それでも懸命に抑えようとしている様子が窺える。

 アリスから連絡を受けるとすぐに、アルフォンスは研究所から飛んで帰ってきた。仕事どころではなかったのだろう。真っ先にレイチェルの部屋へと駆け込み、自分の目でその無事を確認してきたようだ。彼女が少しでも負傷していたら、この程度の怒りではすまなかったに違いない。我を忘れてラウルを殺そうとしたかもしれない。娘を溺愛している彼なら十分にありえることだ。

「アルフォンス、とりあえず座ったら?」
「……ああ」
 アリスの冷静な声に促され、アルフォンスはラウルの正面に腰を下ろした。革張りのソファが小さな摩擦音を立てて深く沈む。その間も、彼はずっと睨みをきかせたままだった。今にも爆発しそうなピリピリとした気が、その全身から発せられていた。
「何があった」
 概要についてはアリスから聞いているだろうが、それでもラウルは省略せず、一から説明を始めた。自分がどう考えたかということは述べず、起こした行動と起こった現象のみを淡々と伝えていく。
 アルフォンスは膝の上で両手を組み合わせ、ずっと下を向いたまま聞いていた。力の入った指先が小刻みに震えている。眉間には深い縦皺が刻まれ、もともと険しかった表情が、さらにその険しさを増していった。
 ラウルが一通りの説明を終えると、アルフォンスはゆっくりと視線を上げた。じっと睨みつけながら、低い声で質問する。
「なぜ、レイチェルの力を目覚めさせようとした」
「それが可能だと感じたからだ」
 ラウルは目を逸らすことなく端的に答えを返した。
 瞬間、アルフォンスの瞳に激しい光が宿る。
「おまえにそんなことを頼んだ覚えはない。万一に備えて魔導の制御を学ばせることが目的だったはずだ」
「わかっている」
 ラウルのその落ち着き払った態度が、アルフォンスの抑制した怒りに火をつけた。憤怒に顔を歪め、声を爆発させて逆上する。
「わかっていてなぜやった?! 好奇心か?! まるきり実験ではないか! いや、実験ならば万全の準備を整えて行う。その場の思いつきでやったおまえの方が余程たちが悪い!!」
 応接間に迫力のある重低音が響き渡る。空気の振動が目に見えて伝わってくるようだった。
「浅はかな行動だったことは認める」
「認めればすむと思っているのか!!」
 アルフォンスはローテーブルを踏みつけて身を乗り出すと、ラウルの胸ぐらを両手で掴み上げた。ティーカップとソーサが床に落ちて割れる。ラウルの白い布製の靴に、ぬるい紅茶が染みを作った。
「取り返しのつかないことになっていたかもしれないとわかっているのか? レイチェルに何かあったらどうするつもりだった? おまえにとっては物珍しいだけの存在かもしれんが、私にとっては何よりも大切な娘だ。もうおまえには預けられん。失望した……出て行け! おまえなどクビだ!!」
「アルフォンス、落ち着いて」
 少し離れたところから、立ったままのアリスが声を掛けた。
 しかし、今のアルフォンスにそれを聞き入れる余裕はなかった。むしろ逆効果だったのかもしれない。アリスをキッと睨みつけると、ますます激しく怒りをたぎらせる。
「おまえは落ち着きすぎだ! この男はレイチェルを危険にさらしたのだぞ?!」
「でも無事だったわ。ラウルでなければ、何事もなく収めることは出来なかったはずよ」
 アリスはなおも諦めることなく、アルフォンスを宥めようとする。
「コイツと一緒でなければ、そもそも暴発を起こすこともなかった!!」
「そうとは限らないでしょう?」
「……それは……そうだが……」
 アルフォンスは図星を指されて言葉に詰まった。悔しそうに奥歯を噛みしめてうつむく。レイチェルの隠れた魔導力は未知のもので、いつ目覚めるか、いつ暴発を起こすかもわからない。ただ、これまで何事もなく平穏に時が過ぎてきたので、その危険性の認識が薄らいでいたのだ。それは、アルフォンスだけではなく、ラウルもまた同じだった。
「だが、ラウルが暴発させたという事実は変わらんだろう!」
「ええ、そうね」
 必死に言い返したアルフォンスの言葉を、アリスは拍子抜けするくらい素直に肯定した。
「だから、魔導はしばらく休ませるべきだと思うけれど、家庭教師は続けてもらってもいいんじゃないかしら。よくやってくれているもの。レイチェルがこれほど真面目に勉強するようになったのも、ラウルの指導のおかげでしょう? アルフォンス、あなたもそう言っていたじゃない」
 ラウルの胸ぐらを掴む手から、少し力が抜けた。
 アリスはさらに畳み掛ける。
「それに、ラウルには、今後しばらくレイチェルの経過を見守ってもらわなければならないわ。今回の影響がどのように出るかわからないもの。このことがきっかけで暴発を起こしやすくなるかもしれない。もちろん私たちも気をつけるべきだけれど、残念ながらラウルほど察知する能力はないから」
 アルフォンスの口からもう反論の言葉は出てこなかった。ラウルから手を離し、どっしりとソファに腰を下ろすと、開いた両膝に腕を掛けてうなだれる。大きな背中が丸まって、小さく上下し、まるで泣いているように見えた。
 アリスはラウルに振り向き、まっすぐに見つめながら、凛とした声で言う。
「ラウルもそれでいいわね。家庭教師、続けてくれるでしょう?」
「レイチェルの気持ち次第だ。彼女が望むのであれば続ける、望まないのであれば辞める」
 ラウルは無表情のまま答える。配慮のない行動で怖がらせてしまった以上、彼女の方が自分を拒絶する可能性がある。その心情を無視するわけにはいかない。
「そうだな……何よりもあの子の意思を優先すべきだ」
 アルフォンスもうなだれたままラウルに同調した。
 アリスは顎を引き、ソファの二人をじっと睨むように見つめた。
「でも、ラウルには責任があるはずよ」
「出来ることはするつもりだ。家庭教師でなくとも経過を見守ることは可能だろう」
「そうね……」
 アリスはしばらく考えてから顔を上げ、明瞭な口調で結論を述べる。
「では、ラウルの言ったとおりにしましょう。レイチェルが落ち着いたら意思を確認するわ。あの子が望めば続ける、拒否すれば辞める、その場合でも何らかの方法で経過は見守る。そういうことでいいわね」
「ああ」
「結果は明日中に連絡するわ」
「わかった」
 ラウルはソファから立ち上がった。割れたティーカップの白い欠片をまたいで足を踏み出す。靴についた紅茶の染みは、もうだいぶ乾きかけているように見えた。
「すまなかった」
 アルフォンスは大きな体をゆっくりと起こし、力のない声で言った。
「先ほどの非礼を許してほしい。君に悪気がなかったことはわかっている。実験などというつもりでなかったことも。研究所に来てもらったとき、私の代わりにレイチェルを守ってくれたことは忘れていない」
「責められて当然のことをした」
 ラウルは振り返ることなく応じると、大きな足どりで応接間をあとにした。

「ラウル!」
 廊下に出てきたアリスが、さらりと金の髪を揺らしながら、小走りで追いかけてきた。振り返ったラウルの前で足を止めると、胸もとに左手を当てて言う。
「さっきはきつい態度をとってしまってごめんなさい」
「おまえはするべきことをしただけだ」
 アルフォンスが怒りで冷静さを失っていた以上、あの場を収束させるには、彼女が毅然とした態度で仕切るしかなかっただろう。そのことで彼女に反感を覚えたということはない。逆に見直したくらいである。いざというときは、アルフォンスよりも頼りになるのかもしれない。
 アリスは小さく安堵の息をつき、にっこりと人なつこく微笑んだ。
「これからも私たちの力になってくれると嬉しいわ」
「ああ……」
 その肯定の返事には、若干の迷いが滲んでいた。ラウルに異存があるわけではない。当然ながらそうするつもりであるし、そうしなければならないと思っている。だが、レイチェルがそれを望んでいるとは限らない。彼女は、もう自分など——。そのことが抜けない棘のように心に疼きを与えていた。
 それを敏感に感じ取ったのか、アリスは補足するように言う。
「レイチェルのことなら心配ないと思うわ」
「どういうことだ」
「あなたを拒絶したりしないってこと。レイチェルに言われたのよ、ラウルは悪くないから責めないでって。魔導のことは怖がっているかもしれないけれど、あなたのことは大丈夫なんじゃないかしら。まだ信頼しているみたいよ」
 ラウルは無表情のまま、僅かにうつむいた。奥歯を強く噛みしめる。
「……帰る前にもう一度レイチェルの様子を見たい」
「ええ、どうぞ」
 アリスはくすりと笑う。
「あっ、でも、寝ていたら起こさないでもらえるかしら」
「わかった」
 ラウルは静かに答えると、二階へ続く階段を上っていく。その歩みを導くように、上方から色づいた光が降り注いでいた。

 二階の突き当たりにあるレイチェルの部屋——。
 ラウルはその扉の前で足を止めた。数ヶ月前に彼女の家庭教師を始めて以来、毎日のように訪れている場所である。もうすっかり見慣れた光景だ。だが、今は何か少し違って見える。僅かな緊張を感じつつ、白い扉をノックした。
 しばらく待ったが、返事はなかった。物音ひとつ聞こえない。
 おそらく彼女は眠っているのだろう。アリスには起こすなと言われている。このまま帰るべきだということはわかっていた。それでも、どうしても諦めきれなかった。せめて顔だけでも見たいと思う。音を立てないように扉を開き、静かに足を踏み入れた。
 広い部屋の奥に、天蓋つきの大きなベッドが置かれている。
 彼女はそこに眠っていた。布団が掛けられているため、首もとまでしか見えないが、淡いピンク色の寝衣を身につけているようだ。脇には椅子が置いてあった。ラウルが家庭教師のときにいつも使っているものだ。アルフォンスかアリスのどちらかが、ここに持ってきて座ったのだろう。ラウルもそこに腰を下ろす。
 そのとき、レイチェルの目が開いた。
 澄んだ蒼の瞳は、迷うことなく、深い濃色の瞳を捉える。
 ラウルの鼓動は大きく打った。
 まるで心まで見透かされるようだった。それでも、その瞳の持つ強い引力には抗えず、少しも目を離すことができない。喉が渇いていくのを感じる。ごくり、と唾を飲み込んでから、平静を装いつつ口を開く。
「悪かった、起こしてしまって」
「起きていたわ」
 レイチェルは少し掠れた声で答えると、肘をついて上半身を起こそうとする。だが、ラウルはそれを制止した。細い肩を押さえてベッドに戻す。
「寝ていろ」
「ラウルと話がしたいの」
「そのままでも話はできる」
「私、どこか悪いの?」
 レイチェルは不安そうに顔を曇らせて尋ねた。
 ラウルは布団を掛け直しながら言う。
「体に損傷はないが、少し衰弱が見られる。無理な魔導が体に負担を掛けたのだ。心配は不要だ。ただ、体力を回復させるために、少なくとも今日一日は安静にしている必要がある。大人しく横になっていろ。医師としての命令だ」
 その説明に納得したのか、レイチェルはもう起き上がろうとしなかった。小さく息を吐くと、天蓋を見つめて目を細める。
「無理な魔導……暴発……私がラウルの力を受け止められなかったからなのよね」
「いや、そうではない。あれは……」
 ラウルはそう言いかけて口をつぐんだ。暴発を起こした強大な魔導力は、レイチェル自身が潜在的に持っているものだ——そんなことを知ったら、彼女は余計に怯えることになるかもしれない。自分の力だと思わない方が、まだましなのかもしれない。
「ラウルの力が私の中に入ってくるのは感じたわ」
 レイチェルはゆっくりとラウルに顔を向けた。大きな瞳でじっと見つめる。
「私はその力を受け止めなければならなかった。でも、私にはそれだけの器がなかった。だから、行き場をなくした魔導力が暴発してしまった。そういうことでしょう?」
 彼女の解釈はそれなりに筋が通っていた。いっそ、そういうことにしてしまった方がいいのかもしれないと思う。だが、積極的に肯定するほどの潔さは持ち合わせていなかった。何も答えを返さず、ただ沈黙するだけである。それが肯定を示すことになると知りながら——。
「ごめんなさい、ラウル、お父さまに怒られたわよね」
 レイチェルは申し訳なさそうに目を細めて、謝罪の言葉を口にする。
「おまえは何も悪くない。悪いのは私だ。私の行動が配慮に欠けていたからだ」
 ラウルは早口で畳み掛けるように言った。その事実だけは明確に伝えたかった。彼女が自分を責めることなどあってはならないのだ。
「ラウル、お願いがあるの」
「何だ」
「サイファにはこのことを内緒にしておいて」
 レイチェルは思い詰めた表情で、真摯に頼み込む。
「なぜだ」
「心配をかけたくないの。サイファってすごく心配性だから、暴発を起こしたなんて知ったら、どんな行動をとるかわからない。ラウルもきっとまた怒られてしまうわ」
「わかった、サイファには何も言わない」
 ラウルは彼女の目を見つめて答える。
「だが、さっきも言ったが、私は怒られて当然のことをした。おまえが気を遣う必要はない」
「優しいのね、ラウルは」
 レイチェルはそう言って微笑んだ。だが、それは力のない儚いものだった。疲労からきているというよりも、何か精神的なものが影響しているように感じられた。
 ふと、その目から一筋の涙が伝った。
 そのことに彼女自身が驚いているようだった。はっと目を見開くと、慌てて手のひらで拭う。しかし、すぐにまた拭いきれないほど溢れ出し、髪と枕を濡らしていく。やがて、彼女は泣き顔を隠すように両腕で目を覆った。浅い呼吸でしゃくり上げながら嗚咽する。それでも、声だけは必死に抑えようとしていた。
「レイチェル……」
 ラウルはどうしていいかわからず、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。
「わ……たし……力がなくて……魔導が下手で、ごめんなさい」
 レイチェルは泣きながら、弱々しく震える声で言った。
 頭をガツンと殴られたような衝撃がラウルを襲う。
 このときまで気づけなかった。
 彼女がそれほどまでに気にしていたとは、それほどまでに自分を責めていたとは——。
「レイチェル、違う、そうではない」
「私のことを嫌いにならないで……っ」
 縋るような悲痛な声が、胸を掻きむしる。焼けるように熱く、痛い。
 ラウルはようやく理解した。
 単に魔導を怖がっていたわけではない。
 単に訓練を不安がっていただけではない。
 彼女が最も怯えていたことは別にあった。
 それは、魔導を使えない自分を拒絶されること——。
 だから、これほどまで頑なに魔導の訓練を拒否してきたのだろう。魔導を使えない自分を見せたくない、知られたくないという一心だったに違いない。
 ラグランジェ家にとっては、魔導がすべてだといっても過言ではない。
 その一族に生まれながら、思うように魔導を扱えない彼女が、どのような気持ちでいたのか。今ならばおおよそ想像がつく。たとえ誰かに何かを言われなくとも、居心地の悪さは感じるだろう。実際には「ラグランジェ失格」「出来損ない」などの酷い言葉を浴びせられることもあったらしい。それを真に受けたとしたら、彼女が自分を責めるようになるのも不思議ではない。
 それでも、サイファや両親に心配を掛けないように、その気持ちをひた隠しにし、努めて明るく振る舞っていたのだ。もしかしたら、魔導の力がなくとも気にしないと自分に言い聞かせ、思い込もうとしていたのかもしれない。
 だが、今は、脆く臆病な心を守るものすべてが崩れてしまっている——。
「レイチェル、きのうも言ったはずだ。嫌いになどならない」
 レイチェルは両腕で目を覆ったまま、頭を強く左右に振った。
「ラウルは私に幻滅している。でも、優しいからそれを認めないだけ!」
「レイチェル、私を見ろ」
 ラウルは椅子から腰を上げ、彼女の両手首を掴んで腕を開いた。少しの抵抗はあったが、ラウルの力に敵うはずもない。すぐにその腕は白いシーツに押しつけられた。しかし、それでもなお、彼女はラウルを見ることを拒んだ。怯えたように目蓋を震わせながら、きつく目をつむっている。そして、苦しげに浅い息を繰り返すと、閉じた目の端から新しい涙を溢れさせた。
「レイチェル……」
 ラウルは呟くように名を呼んだ。押し潰されそうなほどに胸が苦しい。折れんばかりの細い手首を掴んだまま、真上から目を細めて彼女を見下ろすと、そっと身を屈めて顔を近づけた。
 長い焦茶色の髪が音もなくシーツに落ちる。
 重なる自分の唇と彼女の唇。
 長い、無言の会話。互いの気持ちを確かめ合う術——。
 時が止まったかのような錯覚。
 時計の秒針の音が引き戻す現実。
 名残惜しげにゆっくりと体を起こしていく。
 ベッドの上のレイチェルは、大きく目を見開き、ただ呆然とラウルの顔を見上げていた。泣くことも、瞬きすることも、そして息をすることすら忘れているように見える。固まったまま身じろぎひとつしない。
「私を信じろ」
 ラウルは深く静かな声を落とす。そして、彼女の腕を押さえていた手を離すと、濡れた目もとを親指で拭った。温もりを伝えるように、大きな手で柔らかな頬を包み込む。
 ようやく、レイチェルは安堵したように表情を緩ませた。僅かにこくりと頷いて、小さな微笑みを見せる。もう大丈夫、そう言っているかのようだった。
 新たなひとしずくが目尻から零れ落ちる。だが、彼女はもうそれを拭おうとはしなかった。

 ラウルは部屋を出て白い扉を閉めると、そこにもたれかかった。小さく息を吐いてうつむく。そして、眉根を寄せて額を押さえると、無造作に前髪を掴んだ。
 どうかしている——。
 なぜ、あんなことをしてしまったのだろうか。二度とすべきではないと思っていたことだ。
 彼女を慰めようとしたわけではない。彼女を泣きやませようとしたわけではない。
 おそらく、そこにあったのは根源的な衝動だけだ。
 行動を起こしたときには何も考えていなかった。考えるより先に体が動いていたのだ。
 ラウルはそのことが何よりも怖かった。


16. 遠乗り

「馬……だと?」
「そう、乗れるか?」
 夕陽の射し込む医務室で、サイファは机に片手をついて身を屈めると、眉をひそめるラウルを覗き込んで質問を繰り返した。斜めにした顔に、金色の髪がさらりと掛かる。気のせいかもしれないが、その薄い唇には、何か意味ありげな笑みが浮かんでいるように見えた。ラウルは訝しげな視線を送ると、椅子に座ったまま手元のカルテ整理を再開した。
「この国に来てから一度も乗っていない」
「乗れるってことだな」
 サイファは間髪入れずに切り返した。
 ラウルはカルテを持ったまま手を止め、横目で鋭く睨みつける。
「何を企んでいる」
「あしたレイチェルと遠乗りに行く予定なんだ。だから、ラウルも一緒にどうかなと思って」
 サイファは人なつこく声を弾ませると、顔の横で右手を開いて見せた。
「断る」
 ラウルは何の躊躇もなく拒否した。遠乗りなど楽しくもなんともない。ただ疲れに行くようなものだ。サイファと一緒となると尚更である。たとえレイチェルが一緒だとしても、いや、むしろレイチェルが一緒だからこそ、余計に行きたくないのかもしれない。ふたりの仲睦まじいところを見せつけらるなど冗談ではないと思う。
「そう言うなよ。レイチェルも喜ぶと思うし、来てくれよ」
「……あいつがそう言ったのか?」
「いや、でもラウルに懐いているみたいだからさ」
 サイファは軽い口調で答えた。しかし、黙ってうつむいたラウルを目にすると、少し真面目な表情になった。何か普通ではないことを感じ取ったのだろう。それでも、ラウルには取り繕う方法など思い浮かばない。
「実を言うとさ」
 サイファはラウルの肩に腕を置き、軽く体重を掛けて寄りかかった。
「アルフォンスに頼まれたんだよね。レイチェルを気晴らしに連れて行ってほしいって。アルフォンスは何も言わなかったけれど、何かあったんじゃないのかな」
 斜め上に視線を流しながら淡々と言うと、不意にラウルに振り向いて至近距離で覗き込んだ。鮮やかな青い瞳が宝石のように透き通って見える。
「ラウルは何か知っているか?」
「いや……」
 知っているも何も、ラウルがその当事者なのだ。しかし、どれほど厳しく追及されようとも教えるわけにはいかない。サイファには内緒にすることをレイチェルと約束したのである。
「そうか……気にならないのか?」
「おまえの勘違いかもしれん」
 サイファはその言葉を聞くと、ラウルの肩口で小さく溜息をついた。
「アルフォンスは嘘が下手なんだよ。ラウルと同じくらいにね」
 ラウルは思わず視線を逸らせた。その耳元に、サイファは確信を持った声を送る。
「レイチェルと喧嘩でもしたんだろう?」
「喧嘩などしていない」
「レイチェルが我が侭を言って怒らせたのか?」
「そんなことはない」
「それともラウルの方がひどいことを言ったのか?」
「……言っていない」
「ちゃんと謝って許してもらったんだろうな?」
「………………」
 彼が推測しているだろうことは、全くの間違いとはいえないが、根本的な部分で的を外していた。だが、事実を知られるよりは、このまま勘違いさせておいた方がいいのかもしれない。問題は彼が納得するかである。なんとか核心に触れることなく言い逃れられないものかと思案する。だが——。
「まあいいよ」
 サイファは拍子抜けするくらいにあっさりと引き下がった。体を起こして両手を腰に当てる。
「レイチェルかアルフォンスに口止めされているとしたら、いくら尋ねても口を割ることはないからな。それに、すでに問題は解決しているみたいだしね。もう仲直りはしたんだろう?」
 自分の推測が的外れであるなどとは考えてもいないようだ。完全にそれが事実だと思い込んでいる。以前にも似たようなことがあったせいかもしれない。
「あしたの遠乗りは来てくれるよな?」
「……ああ」
 ラウルは顔をそむけたまま小さな声で返事をした。カルテを持つ指先に力が入る。深く追求しない代わりに、遠乗りを了承しろということなのだろう。サイファが得意な駆け引きである。ここで断ればどうなるかは想像がつく。おそらく容赦のない追及が再開されるはずだ。そうなれば隠し通すことなど不可能に近い。ラウルには大人しく了承する以外に道はなかった。
 サイファは、硬直したラウルをほぐすかのように肩をポンと叩くと、曇りのない笑顔で手を振りながら医務室をあとにした。規則正しく廊下を打ちつける靴音が次第に遠ざかり、やがてラウルの耳に届かなくなった。

 翌朝、ラウルは約束通りサイファの家に向かった。
 青い空にかかる白い雲が、緩やかに流れていく。遠乗りには絶好といってもいい穏やかな日和だった。
 集合場所であるサイファの家の前には、レイチェルがひとりで門を背にして立っていた。両手で籐のバスケットを持っている。近くにサイファはいないようだ。彼女はラウルに気がつくと、明るい笑顔で挨拶をする。
「おはよう、ラウル」
「ああ……サイファはどうした?」
「馬を取りに行っているわ」
 レイチェルの暴発事故から一週間が過ぎていた。
 家庭教師は彼女の希望により続行することになっていた。もちろんアルフォンスも了承済みである。魔導の訓練については厳しく止められているが、それ以外については今まで通りということになったのだ。アリスの説得が功を奏した形である。
 再開は明日からの予定だ。
 だが、これまでも毎日欠かすことなく彼女の家には行っていた。彼女の手前、医者として体調を経過観察するという名目になっていたが、実際は彼女の魔導に何らかの変化がないかを探ることが目的だった。
 ラウルが見た限りでは、この一週間、その兆候は少しも現れなかった。今もひっそりと奥深くで息を潜めるようにして眠っている。無理な魔導の使い方さえしなければ、ずっとこのままでいられるのかもしれない。そうであってほしいと切実に思う。
「どうしたの?」
「何でもない」
 不思議そうに小首を傾げるレイチェルから目を逸らすと、腕を組んで塀にもたれかかった。そして、目を細めて澄み渡った空を見上げた。

「お待たせ」
 サイファが門の内側から姿を現した。馬を二頭、引き連れている。一頭は白色、もう一頭は茶色である。共通しているのは、どちらも頑丈そうな立派な体躯をしていることだ。毛並みのつややかさからも、手入れの行き届いた上等な馬であることが窺える。
「おまえの家は馬まで飼っているのか」
「これは王宮から借りてきたんだよ。まあ、昔はウチでも飼っていたらしいけどね」
 サイファはにっこりと笑って答えると、レイチェルに振り向いて尋ねる。
「レイチェル、どっちがいい?」
「んー……白い方」
 レイチェルは少し考えてから答える。
「じゃあ、ラウルはこっちね。鞍はそこに置いてあるから自分でつけて」
 門柱のそばに準備してあった鞍を示しながら、サイファは茶色の馬の手綱をラウル手渡した。
「おまえの馬はどこだ」
「僕はレイチェルと一緒に乗るんだよ。レイチェルはひとりでは乗れないからね」
 サイファは手際よく鞍を取り付けながら答えた。よく見てみれば、確かにその鞍は二人乗り用のようだ。しかし、今までそんなものは見たことがなく、存在すら知らなかった。あまり一般的なものではないだろう。
 ラウルは二人に背を向けると、地面に置いてあった一人用の鞍を取り付け始めた。

「じゃあ、行こうか」
 準備を終えたサイファは、大きな馬に軽々と跨ると、レイチェルの手を引き、彼女が鞍の後部に乗るのを手伝った。彼女はどうやら横乗りで行くようだ。普通に跨った方が安定感があるはずだが、脚がほとんど隠れるくらいのドレスを着ているため、横乗り以外は難しいのかもしれない。
「しっかり掴まっててね」
 サイファが後ろに振り返ってそう言うと、レイチェルは微笑みながら頷いた。細い腕をサイファの腰にまわし、背中に頬をつけて寄りかかる。その表情はとても穏やかで幸せそうだった。
 二人とも見せつけようとしているわけではない。そのことはわかっている。だが——。
 その光景を眺めながら立ち尽くしていたラウルは、手綱が引かれるのを感じて我に返った。急かすように首を動かしている馬を、軽く撫でて宥めると、素早く鐙に足を掛けて騎乗する。
「どこへ行く」
「来ればわかるよ」
 サイファは視線を流して挑発的な笑みを浮かべると、ゆっくりと馬を走らせた。

 冷涼な空気が頬を撫でる。
 サイファたちの白い馬は、静かな森の小径をのんびりと進んでいった。
 木々の隙間から射し込む光は、二人と馬を断片的に照らして斑模様を作る。光を受けた部分は目映く、その中でも金の髪はひときわ強く煌めいていた。白馬の艶やかな毛並みでさえ霞んでしまうほどである。
 ラウルの乗った茶色の馬も、そのすぐあとをついて歩いた。
 前の馬に乗るレイチェルがときどき手を振ってきたが、ラウルは無表情でそれを一瞥するだけだった。怒っているわけではなく、それがいつもの態度である。そのことを理解しているレイチェルは、気にする様子もなく、終始にこやかに笑顔を浮かべていた。

 しばらく進むと、少し開けた場所に出た。
 ラウルはぐるりと辺りを見まわす。正面には小さな湖、そして上方には青い空が見えた。湖のまわりはすべて森に囲まれている。とても静かだった。聞こえるのは木々の微かなざわめきくらいである。
 サイファは湖岸で馬をまわしてラウルに向かい合った。
「静かでいいところだろう? ラグランジェ家が所有している森なんだ」
 そんなことが書いてある古めかしい看板を、ラウルは森の入口付近で一瞬だったが目にしていた。森をまるごと所有しているなど、にわかには信じがたい話である。看板を見ていなければ、冗談だと思ったかもしれない。しかし、考えてみれば、王宮の近くにこのような手つかずの森が存在できているのは、ラグランジェ家が所有しているからこそだろう。
 サイファは後ろのレイチェルを馬から降ろすと、続いて自分もそこから降りた。馬の脇に固定してあったバスケットを取り外して彼女に手渡す。レイチェルはにっこりと微笑み、両手でそれを受け取った。そのまま、二人は和やかに会話を続ける。
 ラウルは馬をまわして、静かにその場から離れようとした。そのとき——。
「ラウル、競争しないか?」
 背後からサイファが声を掛けてきた。ラウルは怪訝に眉をひそめて振り返る。
「何のだ」
「馬だよ。どちらが先に湖を一周して戻ってこられるか、やってみないか?」
 人なつこい笑顔を見せるサイファを、ラウルは馬上から冷たく睨みつける。
「ずいぶん自信がありそうだな」
「ラウルの力を知らないから、勝てるかどうかはわからないけどね」
「……いいだろう」
 ラウルはまっすぐサイファを見て言った。普段であれば、こんな無意味な勝負は断っていただろう。だが、今日はどんな些細なことであれ負けたくないと思ったのだ。いや、今日だけではない。このところ、次第にサイファへの対抗心が大きくなってきている。その理由ははっきりと自覚していた。
 そんなラウルの心情に、サイファが気づくことはなかった。素直に嬉しそうな笑顔を見せている。彼の方もラウルに対抗心を持っていたが、それは純粋に挑戦したいという思いからだ。ラウルとはまるで違うのである。
 サイファはふと何か思いついたように地面に視線を落とすと、少し太めの木の枝を拾い、草の生えた地面に線を引いた。判然としないその線を指し示しながら言う。
「ここがスタートライン、そしてゴールラインだ……わかりにくいかな?」
「遠くからはわからないだろうが、特に問題はないだろう」
 ラウルは馬に乗ったまま、その線を見下ろして淡々と答えた。
「ふたりとも頑張って」
 レイチェルは屈託のない笑顔を二人に向けた。サイファは軽く右手を上げて満面の笑みを返す。だが、ラウルは無表情のまま、何の反応も示さなかった。そんな態度しかとれない自分が腹立たしく、そして少しだけ胸が疼いた。

 馬に乗った二人はスタートラインに並んだ。ここに乗って来たときと同じく、サイファが白い馬で、ラウルが茶色の馬である。サイファには好きな方を選んでいいと言われたが、一度も走らせたことのない馬を選ぶことなどできない。
「用意はいいか?」
「ああ」
 ラウルは正面を向いたまま答えた。
「じゃあ、いくよ……3秒前、2、1、スタート!」
 サイファの掛け声と同時に、二人は風を切って飛び出した。ラウルの長髪が大きくなびく。サイファの方が若干速いが、頭一つくらいでほとんど差はない。どちらの馬もよく走っている。ラウルがこの馬に乗るのは今日が初めてだが、癖も少なく、思ったように走ってくれている。さすがに王宮所有だけのことはある、と走りながらも冷静に評価した。
 湖の奥に差し掛かると、その先の道が急に狭くなっているのがわかった。片側が土壁で、反対側には木々が立ち並んでいる。二頭の馬が並んで走ることは不可能だ。ここで前を取っておかなければ勝つことは難しいだろう。ラウルはさらに前傾姿勢をとり、速度を上げようとした。
 だが、それより先にサイファが行動を起こした。
 細道の入口を目指して強引に馬体を寄せてきた。ラウルはやや速度を落とし斜め後方に避ける。そうしなければ確実にぶつかっていた。だが、サイファがそのことを考慮していなかったわけではないだろう。おそらくラウルが避けることを計算しての行動だ。
 結果、サイファが前、ラウルが後ろという状態で、細道に突入することになった。
 彼の自信に満ちた計算高さに、ラウルは無性に腹が立った。いつも、何においても、翻弄されてばかりである。
 だが、今日はこのまま負けるわけにはいかない。周囲に目を走らせながら機を窺う。
 ——行ける。
 やや傾斜が緩やかな土壁を視界に捉えると、瞬間的にそう判断を下した。迷うことなく飛び出し、そこを勢いよく駆けていく。倒れないことが不思議なくらいに馬体は斜めになっていた。かなり無理が掛かっていることは間違いない。
 同じ速度で下方を走っていたサイファは、はっとして顔を上げた。ありえないところから聞こえる蹄音と大きな影に驚いたのだろう。そして、その正体を目の当たりにして、ますます驚愕したようだ。彼にしては珍しいくらいの、ぎょっとした表情を見せている。
 その影響なのか、僅かにサイファの速度が落ちた。
 土壁を疾走するラウルはさらに勢いをつけ、サイファの前に駆け下りる。ほとんど飛んでいるかのようだった。それでもぶれることなく着地し、何事もなかったかのようにサイファの前を走り続ける。
 やがて、再び開けた湖岸に出たが、ラウルは一度も抜かせることなくゴールラインを越えた。
「負けたよ」
 一馬身差でゴールしたサイファは、溜息まじりにそう言った。素直に負けを認めるというよりも、どこか疲れたような、そして半ば呆れたような声音だった。
「まさかあんな斜面を走ってくるなんてな……。本当に無茶苦茶としか言いようがないよ。倒れたり滑ったりしたら、どうするつもりだったんだ? 下手をしたら僕まで巻き添えだぞ」
「そのときはそのときだ」
 ラウルは馬から降りながら素っ気なく答えた。
 サイファは大きく溜息をついて、じとりとした視線をラウルに向けた。
「それ、借り物の馬なんだから丁寧に扱ってくれよな」
「ならば競争など持ちかけてくるな」
「はいはい、僕が悪かったよ」
 そう小さく肩をすくめて受け流すと、手綱を握り直して言う。
「僕はもう一周、走ってくるよ。ラウルはどうする? 今度はのんびりまわるつもりだけど」
「一人で行ってこい」
 ラウルは目を向けることもせず、ぶっきらぼうに突き放した。馬を連れながら、背を向けて歩き出す。
「もしかして疲れたのか?」
「おまえと一緒に走りたくないだけだ」
「そうか」
 いつもと変わらないラウルの憎まれ口に、サイファはくすりと笑って相槌を打った。

「おめでとう」
 茶色の馬を大きな木に繋ぎ、そのままぼんやりしていたラウルは、背後から声を掛けられて我に返った。振り返ると、少し離れた木陰に座ったレイチェルが、甘い微笑みをラウルに向けていた。小さな手で自分の隣を示して言う。
「ラウルも座ったら?」
 ラウルは無言でその言葉に従った。彼女から少し距離をとってビニルシートの端に座る。そこから地面のひんやりした感触が伝わってきた。
「ラウル、今日は来てくれてありがとう」
「……ああ」
 それだけで今日のすべてが報われたように感じた。同時に、そんな自分をどうかしているとも思う。
「あしたから家庭教師、またよろしくね」
 レイチェルは愛らしく小首を傾げてラウルを見つめた。金色の細い髪がさらりと流れて揺れる。
 ラウルは細めた横目で彼女を窺った。
「本当にもう大丈夫なのか?」
「その質問、いったい何度目?」
 レイチェルは肩をすくめて微笑むと、しっかりとした口調で続ける。
「私は大丈夫よ」
「無理をしているのではないだろうな」
「そんなことないわ」
「ならいいが……」
 何度、彼女の「大丈夫」を聞いても、ラウルの不安は拭いきれなかった。その言葉すらもラウルを安心させるための嘘なのではないか、という考えが頭にこびりついて離れない。
 それを見透かしたかのように、レイチェルは膝を抱えて前を向くと、落ち着いた声で付け加える。
「私、たいていのときは心から笑っているのよ。お父さまやお母さま、それにサイファが守ってくれているから、いつも幸せな気持ちでいられるの。無理をしているのは、ほんの少しのことだけだから……」
「しているんだな」
 溜息まじりのラウルの言葉を耳にすると、レイチェルは視線を落として小さく笑った。
「誰だって多少は無理をしているでしょう? 言ってもどうにもならないのなら、言っても困らせるだけなら、黙っていた方がいいって思うの」
「そうやって内に溜め込んでいては、おまえの心が持たないだろう」
「でも……うん……そう、ね…………」
 レイチェルはしばらく逡巡すると、ゆっくりと顔を上げ、大きな瞳でじっとラウル見つめた。小さな薄紅色の唇がそっと開く。
「じゃあ、本当につらいときは、ラウルに甘えさせてくれる?」
 ラウルは身じろぎもせず、まっすぐに彼女を見つめ返した。
「それは、この前のように泣きたいということか?」
「泣くかどうかはわからないけれど、寄りかからせてくれるといいなって」
「……わかった」
 そう答えたものの、具体的にどういうことなのかは理解していなかった。弱音を吐露したいということだろうか。言葉どおり寄りかかりたいということだろうか。それとも、もっと他のことなのだろうか——。どんなことであろうとも、彼女の救いになるのであれば受け止めるつもりである。
 レイチェルはほっとしたように息をついて微笑んだ。
「こんなことを頼めるのはラウルだけだわ」
「……サイファには、頼めないのか?」
 それは率直な疑問だった。あれほど信頼しているサイファになら頼めても良さそうなものだ。自分がサイファより信頼されているというわけでもないだろう。そこまで自惚れてはいない。
 レイチェルはラウルの言わんとすることを汲み取ったようだ。視線を落としてしばらく考え込むと、真面目な表情でゆっくりと口を開く。
「きっと、ラウルとはお互いさまだから」
「どういうことだ?」
「ラウルが先に自分の弱さを見せてくれたから、私もラウルになら見せられるって思ったのかも」
 彼女が言っているのは、おそらく二年前のことだろう。あのとき彼女に別の少女の面影を重ねていた。そして、彼女にそれを知られて逃げ出した。それはすべて自分の弱さが起こした行動である。自分でも認めてはいるが、今さらあまり触れてほしくないことだ。しかし、それが今に繋がっているのであれば、無駄ではなかったと思う。だが——。
「サイファだっておまえの弱さを受け止めてくれるはずだ」
 別にサイファを援護するつもりはない。あえてそれを言ったはレイチェルのためである。婚約者に本心を見せられないとしたら、今後の彼女の人生はつらいものになるかもしれないからだ。
「そうね、私もそう思うわ」
 レイチェルは意外にもあっさりと認めた。
「でも、サイファの負担になるようなことはしたくない。これ以上お荷物にはなりたくないの」
「どういう意味だ」
 ラウルは訝しげに眉をひそめて視線を流す。だが、レイチェルはその視線に振り向くことなく空を見上げた。大きな瞳に澄んだ青を映し、何かを諦めたような寂しげな微笑を浮かべて言う。
「私、ラグランジェ本家に嫁ぐでしょう? なのに、何の取り柄もなくて……魔導だって上手く扱えないし……だから、せめて笑顔でいなければって……」
「そんなふうに思うならやめればいい」
 口調は淡々としたものだったが、それはラウルの感情のままの言葉だった。
 レイチェルは少し驚いたように目を見開いてラウルに振り向く。
「結婚のこと?」
「……ああ」
 ラウルは低い声で答えた。
「私の意思で変えられることじゃないわ」
 レイチェルは苦笑しながら肩をすくめた。しかし、すぐにハッとすると慌てて弁明する。
「誤解しないでね。サイファとの結婚をやめたいってわけじゃないの。ただ少し不安なだけ。私でいいのかしらって」
 サイファはもちろんのこと、ラグランジェ家としても不満などないだろう。むしろ、レイチェルの潜在的な力を欲しているはずだ。彼女の魔導力と、サイファの才能・頭脳を受け継ぐ子供が本家に生まれれば、ラグランジェ家はさらに大きく飛躍できるかもしれないのである。
「でも、心配してくれてありがとう」
 レイチェルの穏やかな微笑みに、ラウルは何も言葉を返せなかった。礼を言われるようなことはしていない。彼女に対する心配というより、ただの身勝手な感情だったことは自覚している。
 レイチェルは唐突にビニルシートに手をついて立ち上がった。湖の方へ小走りで駆けていく。湖岸のギリギリのところで足を止めると、後ろで手を組んで湖を覗き込み、それから縁に沿ってゆっくりと歩き出した。ドレスの裾の半分は湖上でひらめいている。
「そんなところを歩くと落ちるぞ」
「落ちても助けてくれるでしょう?」
 レイチェルは振り向いて笑った。背後で湖面がきらきらと光を反射して眩しい。だが、それ以上に彼女の笑顔が眩しいと思った。今、彼女は心から笑えているのだろうか。そうであってほしいと願わずにはいられなかった。

 軽快な蹄の音が、次第に大きくなって止まった。
 サイファは白い馬を降りて近くの木に繋ぐと、ラウルたちの方へ歩いてきた。
「レイチェル、そんなに端を歩いたら危ないよ」
「ごめんなさい」
 レイチェルは可憐な笑顔でそう言うと、金髪をさらりとなびかせながら、サイファのもとへ駆けていった。まるでずっと待ちかねていたかのようだ。やはりラウルよりもサイファといる方が楽しいのかもしれない。ラウルは無表情のまま小さく溜息をついた。
 サイファはにっこりと笑って、彼女の頭に手をのせる。
「お昼にしよう」
「ええ」
 二人は目を見合わせると、手を繋いでラウルの座っている方へ歩き出した。

 三人は並んでビニルシートに座った。ラウルが中央で、その両隣がサイファとレイチェルという配置だ。なぜだかわからないが、サイファが勝手に決めてそうなったのである。ラウルとしては、この二人に挟まれていることに、何となく落ち着かないものを感じていた。
 昼食はサンドイッチだった。レイチェルがバスケットに入れて持参してきたものである。手作りのようだが、彼女が作ったわけではないだろう。お茶すら淹れたことのない彼女に、サンドイッチなど作れるとは思えない。

「ねえ、私、プリンを作ってきたんだけど、食べてくれる?」
 用意されたサンドイッチがすべて無くなると、レイチェルは少し浮かれた声でそう切り出した。
「え? 作ったって、レイチェルが?」
 サイファはラウルを押しのけんばかりに身を乗り出し、目をぱちくりさせて聞き返す。そんな彼の反応を見て、レイチェルはくすりと笑った。
「味見はしたから安心して」
「うわぁ、本当に? もちろん食べるよ」
 サイファはレイチェルがプリン作りに挑戦していることは知らなかったらしい。彼にしては珍しく興奮を露わにしていた。まるで子供のようにはしゃいだ声を上げている。それほど意外で、それほど嬉しかったのだろう。
 レイチェルはいそいそとバスケットを引き寄せ、そこからプリンのカップを取り出す。
「……えっ?」
 その途端、彼女の動きは止まった。大きく目を見開いて驚いている。とまどい、そして落胆へと表情が変わっていく。
「どうしたの?」
「崩れて混ざっているの……」
 半透明のカップの中は、ラウルのところから見ても、プリンとカラメルが混じり合っているのがわかった。ぐちゃぐちゃといっても差し支えないほどである。
「馬はけっこう揺れるからね」
 サイファもその状態を確認すると、立てたラウルの膝にもたれかかりながら、苦笑して言った。
 ラウルは無言でレイチェルに手を伸ばすと、手のひらを上に向けて催促した。何を催促しているか、彼女はもちろん理解しただろう。だが、プリンを握りしめたまま、困惑の表情を浮かべていた。大きな手とプリンを交互に見て悩んでいるようだ。
「それでも十分に食べられる」
「僕も食べるよ」
 二人にそう言われて観念したのか、彼女はそのカップとスプーンをそれぞれに渡した。
 サイファはさっそくスプーンですくって食べ始める。少し驚いたように目を大きくすると、顔を綻ばせてレイチェルに振り向く。
「本当においしいよ。驚いたなぁ。ひとりで作ったの?」
「ええ……今度また作るから食べてね。ちゃんとしたものを」
「もちろん」
 落ち込んでいたレイチェルも、心から嬉しそうなサイファを見て、少し笑顔を取り戻した。今度はラウルを上目遣いで窺うと、遠慮がちに尋ねる。
「ラウルもまた食べてくれる?」
「ああ」
 最初からそういう約束になっていたはずだ——ラウルは続けようとしたその言葉を飲み込んだ。誰がプリンの作り方を教えたのか、どうして彼女がプリンを作るようになったのか、サイファは何も知らないのだ。下手なことは言えない。思えば、サイファに秘密にしていることは他にもいろいろとある。しかも、次第に増えてきているような気がする。
 そんなことを考えながら、ラウルは黙々とプリンを口に運んだ。サイファが言っていたように、確かにそのプリンは美味しかった。出来れば作られたときの状態で食べてやりたかったと思う。

「しばらく休憩したら帰ろう」
 サイファはそう言ってごろりと寝転がった。両手を上げて伸びをする。反対側のレイチェルも同じように仰向けに寝転がった。二人はラウルの背後で顔を見合わせてくすりと笑う。
 ラウルは空を見上げて溜息をついた。
 長い鳴き声を響かせながら、二羽の鳥が澄んだ青を横切っていった。

「さ、準備はいい?」
 離れたところに繋いでいた馬を連れて戻ったサイファは、バスケットを持って立っているレイチェルに声を掛けた。レイチェルはにっこりと微笑んで言う。
「サイファ、私、帰りはラウルの方に乗るわ」
 ラウルは驚いて彼女に振り向いた。長い髪が大きく揺れる。
「どうして?」
 サイファは僅かに身を屈めて尋ねた。幼い子供に対するような優しい口調である。
 レイチェルも幼い子供のようなあどけない笑みを浮かべて答える。
「競争でラウルが勝ったでしょう?」
「うわぁ、そうなの? 死ぬ気で頑張れば良かったよ」
 サイファはおどけたように言う。訝しんでいる様子は微塵もない。単なる無邪気な思いつきと考えているのだろう。だが、ラウルとしては、やはり素直に受けるわけにはいかない。
「勝手に決めるな。そんな約束をした覚えはない」
「でも、勝負に勝ったらご褒美は必要だわ」
「ご褒美だと? 自分がそれだというのか」
「ええ」
「……馬鹿かおまえは」
 ラウルは腕を組みながら、ニコニコしているレイチェルを睨み下ろした。自分がご褒美などと、とんでもないことをさらりと言っている。ラウルの心中を察してのことかもしれないが、少なくともサイファの前では自重すべきなのだ。何を考えているのかと思うが、きっと何も考えていないのだろう。
「馬鹿はちょっとひどいんじゃないか? 相手が女の子でも容赦ないよなぁ」
 サイファは腰に両手を当てて、呆れたように溜息をついた。
「せっかくレイチェルがそう言ってるんだし、もらってあげてよ、ご褒美」
 ラウルの気も知らないで、能天気にそんなことを言う。
 レイチェルを過保護なくらいに溺愛しており、他の男には触れさせたくないはずだが、ラウルだけはなぜか昔から例外だった。それほど信頼しているのだろうか。それとも、男だという認識がないのだろうか。
 サイファは何も知らない。二人の間に起きたことも、彼女に対するラウルの想いも——。
「二人乗りは出来るか?」
「さあな。やって出来ないことではないだろう」
 ラウルは無愛想な口調で他人事のように答えた。
「そうだな」
 サイファは口もとを緩め、小さくふっと笑った。

 ラウルとサイファは馬を交換した。ラウルが二人乗りの鞍をつけた白い馬、サイファが茶色の馬である。二人とも馬に対するこだわりはなかったため、鞍を交換するより手っ取り早いという判断だった。
「くれぐれも大切に扱ってくれよ」
 ラウルの後ろにレイチェルが乗ったのを確認すると、サイファも茶色の馬に乗った。それでもまだ心配そうに様子を窺っている。他のことはそうでもないが、レイチェルのこととなると途端に神経質になるのだ。それだけ大切にしていることの証左だろう。
 しかし、レイチェルは、彼の心配をあまり気に留めていないようだった。いつものことだからかもしれない。安心させるようにサイファに軽く笑顔を送ると、ラウルに向き直り、その腰に細い腕をまわした。
「よろしくね、ラウル」
 背中に柔らかい温もりを感じる。
「本当におまえは馬鹿だ」
「嬉しいでしょう?」
 体を通して伝わってくる彼女の声。顔が見えないこともあり、真面目に言っているのか、からかっているのかわからない。どちらにしても自信はあるようだった。そして、それは間違ってはいない。だが——。
「それとこれとは話が別だ」
 ラウルは前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。

 昼下がりの強い陽射しが、鬱蒼とした緑の隙間から射し込み、森の小径に光の雨を降らせている。朝よりもほのかに空気が暖かい。
 意識してのことではないが、ラウルは行きよりもやや遅い速度で馬を走らせていた。
 茶色の馬に乗ったサイファは、ラウルたちの後ろについている。レイチェルが気になるからということらしい。目の届かないところにいるのは不安なのだろう。
 レイチェルは後ろを振り返ってサイファに手を振った。
「危ないぞ、手を放すな」
 ラウルは思わずそんなことを口にする。危ないと思ったのは事実だが、それ以外の感情がなかったとはいえない。むしろ、そちらの方が大きかったかもしれない。
「ごめんなさい」
 背後から小さな声が聞こえた。背中にあたたかい吐息がかかり、腰にまわされた腕に力が込められる。より緊密になった柔らかな温もりから、寄りかかった彼女の姿がはっきりと伝わってきた。実際に目にしているとき以上に、その存在を強く感じる。
 こんなことは、もう二度とないかもしれない——。
 ラウルはまっすぐ前を見据えたまま、僅かに眉根を寄せて目を細めた。


17. 彼の望む未来

 ——まただ。
 書類を眺めていたサイファは、視界がぼやけるのを感じて目を閉じた。左手で額を押さえて深く溜息をつく。
「随分と調子が悪そうだな」
 隣に座る先輩のデニスが、ちらりと視線をよこして言った。ぶっきらぼうな言い方ではあったが、その声音から責めるようなものは感じられなかった。むしろ心配してくれているのだろうと思う。
「やっぱりわかりますか?」
「君がぼうっとしているのは珍しいからな。それに、顔も少し火照っている」
 サイファは答えの代わりに、微かな笑顔を見せて肩をすくめた。少なくとも職場では普段どおりを装うつもりでいたが、いつのまにかそんな余裕をなくしていたらしい。思った以上に体がいうことをきかず、仕事を進めるだけで精一杯だったのだ。何度も顔を曇らせ、溜息をついた覚えがある。見るからにつらそうな状態だったのだろう。
 医者に診てもらったわけではないが、おそらく風邪だ。
 今朝は喉の痛みを感じる程度だったが、午後になって熱が上がってきたようだ。体がだるくて力が入らないうえに、背筋がゾクゾクするような悪寒を感じる。さらに、頭がぼんやりとして、まるで仕事がはかどらない。
 昨日の遠乗りが原因だろうか。
 そう思うものの風邪につながるような心当たりはない。朝が早かったせいか、多少の肌寒さを感じることはあったが、我慢するほどのものでもなかったし、湖には足さえつけていないのだ。
 いや、もしかすると——。
 帰路でのことが原因だろうかと考える。往路はレイチェルと二人乗りだったが、帰路は一人で乗ることになった。ラウルの後ろに横乗りするレイチェルを見つめながら、冷たい風を背中に受けなければならなかったのである。そのことが嫌だったわけではないが、一抹の寂しさを感じたのは事実だった。
 そこまで思考を走らせると、ふと我にかえって苦笑した。
 どうやら寒かったのは体よりも心の方らしい。それで風邪をひくことはないだろう。
 結局、原因はわからないままだ。
 どうも今日は物事を論理的に考えられていない気がする。これしきの結論にも随分と遠回りをしてしまった。やはり熱のせいで頭の働きが鈍っているのだ。
「今日はもう帰った方がいい。遠慮はするなよ」
「そうですね」
 サイファは先輩の厚意を素直に受けた。急を要する仕事がないのであれば、このまま非効率的に続けることは得策ではない。早めに休養して早々に完治させた方が、結果的には早く仕事を進められるはずだ。
「では、医務室に寄ってから帰ります」
「お大事に」
 デニスは軽く右手を上げてサイファを見送った。彼はあまり愛想が良い方ではないが、いつもさりげなく気遣ってくれる。サイファはそのことに感謝していた。

 サイファはまだ明るい窓の外を眺めながら、廊下を歩いていった。タイル張りの固い床にもかかわらず、足もとがふわふわしているように感じる。高熱で力が入らないせいかもしれない。
 彼の向かった先はラウルの医務室だった。
 そこに到着すると、いつものようにノックもせずに扉を引く。だが、何かに引っかかってガシャンと音がしただけで、それが開くことはなかった。
 鍵が掛かっているようだ。
 ラウルが家庭教師以外で外出することはあまりない。まだレイチェルの家から帰っていない可能性の方が高いだろう。普段であればとっくに終わっている時間だが、長引いているのかもしれない。サイファは扉の前で息をつきながら腕を組み、ここで待つか、他の医務室に行くかを考えた。
 そのとき——。
 カチャリと鍵を外す音が聞こえ、続いてガラガラと扉が開いた。
「あれ……?」
 扉の向こうにいた人物はレイチェルだった。その背後にはラウルもいる。ふたりとも扉の前に立っていたサイファを目にし、少し驚いたような表情を見せていた。
「レイチェルどうしたの?」
「医務室を見学していたの」
 レイチェルは後ろで手を組み、小さくニコッと微笑んで答えた。
 それを聞いて、サイファは安堵の息をついた。自分と同じように患者として来たのではないか思ったが、どうやらその心配はなさそうだ。無理をしているようには見えないし、おそらく彼女の言うとおりなのだろう。
「今から帰るところ?」
「ええ、サイファは?」
 レイチェルは小首を傾げて尋ねた。
「風邪をひいたみたいだから、ラウルに診てもらおうかと思ってね」
「風邪……? 大丈夫なの?」
 大きく瞬きをして歩み寄ろうとしたレイチェルを、サイファは右手を前に出して制止した。軽く握った左手を口元に当てて言う。
「あまり近づかない方がいいよ。うつるといけないから」
「そう……」
 レイチェルは寂しげな声を落とすと、胸元で両手を組み合わせて心配そうに言う。
「サイファ、早く良くなってね」
「治ったらまた一緒にお茶をしよう」
 サイファが笑顔を向けると、レイチェルもほっと表情を緩めて頷いた。そこに浮かぶ甘く柔らかい微笑み——彼にとってはそれが何よりもの薬だった。あたたかいものがじわりと胸に広がっていく。
「入れ」
 今まで沈黙していたラウルが、唐突に短い一言を発した。いつもより僅かに声が低い。振り向いたサイファを一瞥すると、長髪をなびかせながら踵を返し、大きな足どりで医務室の中へ戻っていく。
 虫の居所が悪いのだろうか、とサイファは思う。
 やけに機嫌が悪く、苛立っているように見えた。もっとも、表面上は普段とそれほどの違いがあるわけではない。長い時間をともに過ごしたサイファだからこそ、微妙な変化から察することができたのだろう。
「じゃあね、レイチェル」
 サイファは軽く右手を上げ、名残惜しさを振り払うかのようにそう言うと、ラウルのあとを追って医務室へと入っていった。

「風邪だな。かなり熱が高い。大人しく帰って寝ていろ」
 ラウルは一通りの診察を終えると、ぶっきらぼうにそう言い放ち、薬の包みを投げてよこした。
「毎食後に飲め。一日分だ。足りなければまた来い」
「なあ、これから夜ごはんを食べにいかないか?」
 サイファはもらった薬をポケットにしまいながら言った。
 机に向かってカルテを書いていたラウルは、手を止めると、眉根を寄せて横目で睨みつける。
「私の言うことを聞いていたのか」
「家に帰っても夕食は用意されてないんだよ。遅くまで仕事をするつもりだったから、いらないって言っちゃったんだよね」
 サイファは笑顔を見せて軽い口調で言う。
「ひとりで食べに行け」
「医者のくせに病人に冷たいな」
「病人なら病人らしくしろ」
 ラウルはカルテにペンを走らせながら、苛ついたように突き放した返答をする。
 サイファはわざとらしく溜息をつき、両手を腰に当てた。
「わかった。病人らしくここで大人しくしているよ。ベッドで寝ていればいいのか? でも夕食はラウルの部屋で食べさせてくれよ。手作りでも出前でもどちらでも構わない。あ、別におかゆじゃなくていいからな」
「……帰れ」
 ラウルのペンを持つ手が止まった。眉間には深い縦皺が刻まれている。それだけではなく、抑えきれない怒りが全身から滲み出ているように見えた。
 それでもサイファは怯むことなく平然として続ける。
「だから食べに行こうって言ったんだ。外食なら問題はないだろう? 今日くらい付き合ってくれよな。食べたら大人しく帰るからさ」
「おまえ……」
 ラウルは怒りとも呆れともつかない呟きを漏らした。頭を押さえて溜息をつく。そして、眉をひそめてサイファを一瞥すると、無言で立ち上がり、不服そうな表情ながらも外に向かって歩き出した。
 サイファは満足そうにニコニコしながら、そのあとをついていった。

「ラウルは何が食べたい?」
「何でもいい」
 サイファが問いかけると、隣を歩くラウルは無愛想に素っ気ない答えを返す。前を向いたまま、視線を向けようともしない。
「好き嫌いはあるか?」
「ない」
 ラウルの好きなものも嫌いなものも、サイファは何も知らなかった。8年もの間、家庭教師と教え子として毎日のように会っていたが、一度もラウルとともに食事をしたことはなかったのである。食事だけではない。ラウルの私的な生活については、ほとんど踏み込むことができずにいた。
「ならどこでもいいな」
 サイファはそう言うと軽く溜息をついた。ポケットに片手を入れ、僅かに眉を寄せて目を細める。少し頭がクラリとした。

 カラン、カラン——。
 サイファが鈴のついた扉を開いて中に入り、そのあとにラウルが続く。
「静かで落ち着けるところだろう?」
 サイファは振り返ってにっこりと微笑んだ。
 そこは王宮内の喫茶店だった。内装はアンティーク調に統一され、窓にも上品なレースのカーテン掛かっていた。その窓からは、噴水のある中庭が見下ろせる。店の雰囲気は申し分なかった。
 だが、その割には、いつ来ても客はあまりいないのだ。王宮の奥まった場所にあるためか、上品すぎる雰囲気のためか、気後れしてしまう者が多いのだろう。そもそも、こちらに来る用事のない下役では、存在すら知らないのかもしれない。そのため、この店に来るのは、ある程度の地位にある者がほとんどである。
「サイファ」
 奥から弾んだ声が聞こえ、サイファは反射的に振り向いた。だが、見るまでもなく相手が誰かはわかっていた。
「父上」
 その姿を奥のテーブルに認めると、にっこりと微笑みながら足を進めた。入口からは死角になっていたが、父であるリカルドの向かい側には、アルフォンスとフランシスが座っていた。目が合うと軽く会釈をする。
 フランシスはいずれ魔導科学技術研究所の所長になると目されている人物だ。つまり、現在の所長であるアルフォンスの部下である。そして、リカルドの元後輩でもあり、その縁でサイファも何度か顔を合わせたことがあった。もっとも挨拶を交わしたくらいで、特に親しいということはない。
「ラウルと一緒に来たのか?」
 リカルドは興味深げに身を乗り出して尋ねた。
「やっと念願が叶いました」
 サイファは肩をすくめておどけたように言う。しかし、それは限りなく本心に近いものだった。魔導省に勤務するようになってから何度か誘ったのだが、すべて断られていたのである。
「いったいどんな手を使ったんだ? 弱みでも握ったのか?」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ」
 ラウルを連れ出すことの難しさは、リカルドもよく知っているのだろう。納得いかないと言わんばかりの不思議そうな顔をしていた。そして、じっと探るような視線をラウルに向けて言う。
「この10年で少しは丸くなった、ということかな?」
「こいつの異常なまでのしつこさに負けただけだ」
 ラウルは腕を組むと、顎をしゃくってサイファを示した。
「ラウルの扱いには自信があるよ」
 サイファは両手を腰に当て、軽く笑いながら言った。そして、意味ありげな視線をラウルに流すと、片方の口角を僅かに吊り上げた。その挑発に対抗するかのように、ラウルは眉を寄せ、冷たく燃えたぎる瞳で睨み下ろす。二人の視線は火花を散らしながらぶつかり合った。
「まあまあ、ふたりとも」
 リカルドは両の手のひらを見せ、微笑みながら軽い口調で二人を宥めた。
 ふと、居心地の悪そうなフランシスに気がつくと、安心させるようににっこりと微笑みかけて言う。
「紹介するよ。サイファは知っているな? その向こうにいるのが……」
「知っている」
 リカルドを遮って答えたのはラウルだった。
「えっ?」
 リカルドは思わずラウルに振り向いて聞き返す。
「こいつは私のことを知っている。私もこいつのことを知っている」
 ラウルは無表情のままフランシスを見下ろして淡々と言った。
「ああ、そうか、医務室で風邪を診てもらったことがあったな」
 リカルドは思い出したように言った。その記憶を反芻しながら、二度ほど小さく頷く。自分で見つけたその答えに満足しているようだった。
 しかし、サイファは違うと思った。
 フランシスの強張った表情に引っかかりを感じていた。それだけならば、単にラウルの冷たい態度に怯えているだけとも取れなくはない。しかし、隣のアルフォンスまでもが何か緊張している様子なのである。口を固く結んだまま、目を細めて視線を流し、フランシスとラウルを交互に窺っている。机の上で組み合わせた手には、不自然に力が入っていた。
「妙な気を起こしていないだろうな」
 ぞっとするほどの冷たい瞳で、ラウルはフランシスを刺すように睨む。
 フランシスはビクリを体を震わせた。冷や汗が頬を伝う。強張った顔をさらに強張らせ、それでも必死に笑みを張り付かせて答える。
「もう、きっぱりと諦めています」
「私が本気だということを忘れるな」
 静かな声で重々しくそう言うと、ラウルは長髪を舞い上げながら背を向け、大きな足どりで歩き出した。リカルドたちとは離れた席にドカリと腰を下ろす。
 サイファは当惑しつつも、とりあえず父親たちに軽く一礼し、早足でラウルを追いかけた。一瞬、目眩がして足が止まりそうになる。目を閉じて少し大きく息をした。やはり体調は良くないようだ。
「フランシスと何かあったのか?」
 ラウルの正面に腰を下ろしながら、声をひそめて尋ねる。
「おまえは知らない方がいい」
「そういう言い方、余計に気になるんだけど」
 頬杖をついて口をとがらせ、じとっとした目を向ける。
 ラウルは背もたれに身を預け、小さく息をつきながら腕を組んだ。そして、サイファの追及から逃れるかのように、うつむいて視線を落とした。

 エプロンドレスに身を包んだウエイトレスが、水の入ったグラスとメニューを持ってきた。上品な所作で一礼すると、それぞれをラウルとサイファの前に置いていく。
 だが、サイファはそのメニューを手に取ることなく言う。
「ここのカレーライス、美味しいんだよ。ラウルも食べてみるか?」
「……ああ」
 ラウルは無表情のまま答えた。
「じゃあ、カレーライスふたつ」
 まだそこにいたウエイトレスに、サイファは笑顔を見せて注文する。ウエイトレスは復唱して確認を取り、一礼してからその場を離れた。
 ——意外と疲れるな。
 サイファは冷静にそんなことを思う。普段はまったく苦にならないが、今日は愛想を振りまくたびに体力も気力も消耗するように感じていた。これも風邪の影響だろうか。だが、そういう素振りは少しも見せることなく続ける。
「で、フランシスと何があった?」
「あいつに訊け」
 先ほどの質問を繰り返したが、ラウルは目を伏せたまま素っ気なく受け流す。どうあっても答えないという感じではない。食い下がれば口を割るだろう、とサイファは判断する。
「ラウルの口から聞きたいんだよ」
「誰から聞いても内容は変わらん」
「だったらラウルが教えてくれよ」
 ラウルは僅かに視線を上げた。じっとサイファの目を見つめて言う。
「聞いたら後悔するかもしれん」
「聞かなければそれもわからない」
 サイファは強い意志を秘めた瞳で、まっすぐに見つめ返した。何を言われても諦める気はないということを、ラウルにわからせたかった。
 ラウルは溜息をついて背もたれに身を預けた。
「あいつはレイチェルを魔導の実験に使う計画を立てていた」
「えっ……」
 サイファは思わず後ろを振り返った。だが、そこからはフランシスの姿は見えなかった。前に向き直ると、机の上で両手を組み合わせ、真面目な顔でラウルに尋ねる。
「どうやってそれを知ったんだ?」
「アルフォンスに相談された」
「そうか……」
 アルフォンスは自分ではなくラウルに相談を持ちかけた——そのことは少し残念だったが、仕方のないことだと思う。少なくとも魔導に関しては、ラウルの方が知識も実力も圧倒的に上なのだ。それはきちんと自覚している。妬ましく思うような気持ちはなかった。
「ラウルが説得して諦めさせたのか?」
「研究所ごとおまえを消すと言った」
 さらりと落とされた答えに、サイファは無言のまま目を大きくした。そのままじっとラウルを見つめる。その物言いたげな眼差しを受けたラウルは、苛ついたように眉をひそめた。
「何だ?」
「いや、ラウルが他人のためにそこまでやるなんて意外だったからさ。特にレイチェルのことは苦手に思っているみたいだしね」
 今度はラウルが目を大きく見開く。しかし、すぐにきまり悪そうに視線を落とした。
 サイファは小さく笑って続ける。
「まあ、嫌ってはいないようで安心したよ。レイチェルはときどき突拍子もないことを言うから扱いづらいだろうけど、彼女に悪気はないんだよ。大きな心で受け止めてやってくれると嬉しい」
 ラウルとレイチェルには仲良くしてもらいたい——それは、サイファが以前からずっと望んでいたことだった。その根底にある思いは、ごく自然なものである。自分の好きな二人の間で諍いなど起こしてほしくない、ただそれだけだ。
「また三人でどこかへ行こうよ。きのうの遠乗り、楽しかったよな」
「楽しんでいたのはおまえだけだ」
 ラウルはうつむいたまま憎まれ口を叩く。
「そんなことはないよ。レイチェルも喜んでいたし、ラウルだっていい気分転換になっただろう? たまには思いきり外の空気を吸うべきだよ」
 むきになって言ったせいか、少し息が苦しくなった。ぎゅっと胸を締めつけられたように感じる。額にはじわりと汗が滲んできた。
「おまえ、遠乗りのせいで風邪をひいたのだろう。懲りていないのか」
「遠乗りのせいとは限らないさ。それに、それほどひどい風邪でもないし……」
 不意に目の前が暗くなった。慌てて机に片腕をつき、ふらつきそうな体を支える。一瞬の後に、視界はうっすらと戻ってきたが、その視野は極端に狭まっていた。
「熱は高いけど、わりと体は平気みたいだよ」
 精一杯に笑顔を作ってそう言うと、近くのグラスを手に取った。だが、すぐにするりと滑り落ち、ガシャンと音を立てて割れる。足に水が掛かったようで冷たい。
 再び目の前が暗くなった。目を開いているのに何も見えない。ただ、体が傾いていくのはわかる。闇の中に沈み込んでいく感覚。しかし、それに抗う術はない。
 意識が薄れていく頭の片隅で、サイファは自分を呼ぶラウルの声を聞いた。

 胸を圧迫されたような息苦しさを感じ、サイファは目を覚ました。
 ぼんやりした薄暗い視界に、見知らぬ天井が映る。ベッドもいつもと違って寝心地が悪い。そして、微かに消毒液のような匂いが漂っている。
 ここは——?
 少しだけ頭を動かし、ぐるりとあたりを見まわした。自分が寝かされていたのはパイプベッドであることに気がつく。周囲はクリーム色の薄いカーテンに覆われ、そのカーテンレールには、自分のものと思われる制服の上着が、ハンガーに掛けて吊るされていた。カーテンの外の様子は窺えないが、それだけでも十分に推察できた。
 おそらくラウルの医務室だろう。
 だが、自分がどうしてここにいるのかが思い出せない。手の甲を額にのせて目を細め、おぼろげな記憶を辿る。
 確か、ラウルと食事に出かけて——。
 ウエイトレスにカレーライスを注文してから、レイチェルについての話をしていた。そこまでは憶えているが、それ以降の記憶がぷっつりと途切れている。しかし、体調が良くなかったこと、ラウルの医務室に寝かされていることを合わせて考えると、おそらくあの店で昏倒したに違いない。
 サイファは腕時計を見ようと右手首を眼前に掲げたが、そこには何もついていなかった。上着を脱がされたときに、一緒に外されたのだろう。体を起こしてあたりを探そうとする。
 シャッ——。
 軽い音がしてカーテンが開いた。薄暗い中に大きな影が姿を現す。ほのかな逆光のため、顔はよく見えなかったが、それが誰なのかはすぐにわかった。
「倒れるまで我慢をするな。迷惑だ」
「ラウルがここまで運んでくれたのか?」
「放って帰るわけにはいかない」
 どうやって自分を運んだのか興味があったが、訊いても答えてはくれないだろうと諦める。もっとも、普段であれば無理やりにでも聞き出そうとしただろう。だが、今はまだ体調が戻っていないせいか、そこまでの気力はなかったのだ。
 ラウルは溜息をついて、ベッド脇においてあったパイプ椅子に腰を下ろした。
「そこまで体調が悪いことを見抜けなかった私にも落ち度はある。単純な風邪というわけではなく、過労からきているようだな」
「過労? そんなに無理をした覚えはないんだけどな」
 サイファは腕を組んで首を傾げた。確かにこのところ仕事は忙しく、その日のうちに帰れないことも多かったが、あまりそれを負担に感じたことはなかった。
「せめて風邪をひいているときくらいは大人しくしていろ」
「こんなときでもないと、ラウルが食事に付き合ってくれないと思ったからさ」
 軽く笑って肩をすくめる。彼の優しさに付け込んだつもりだったが、結果はこのざまだ。罰が当たったのかもしれない。
「医者の言うことは素直に聞くべきだったな」
「めずらしく殊勝だな」
「それだけ弱ってるってことだよ」
「軽口を叩けるくらいには回復したようだ」
 ラウルは冷ややかにそう言うと、椅子から立ち上がり、背を向けて歩き出した。
 サイファはシーツを掴み、慌てて身を乗り出す。
「どこへ行くんだよ」
「自室へ戻る」
「病人を置いて?」
 ラウルは足を止めて僅かに振り返った。濃色の長い髪が緩やかに揺れる。月明かりに縁取られた横顔は、いつにもまして無感情に見えた。
「家に帰るなり、そこで寝るなり好きにしろ。リカルドには連絡を入れてある」
 素っ気ない言い方だったが、そこに冷たさはなかった。少し責任を感じているせいかもしれない。サイファは凝りもせずそこに付け入ろうとする。
「ここじゃなくてラウルの部屋に入れてくれないか?」
「断る」
 ラウルの返答には少しの躊躇いもなかった。それだけは譲れないということなのだろう。今までも何度となく懇願して、すべてにべもなく拒絶されているのだ。簡単にいかないことはわかっていた。それでもサイファはもう少しだけ粘ってみようと考える。
「ここのベッドは寝心地が悪いんだよ」
「贅沢を言うな。文句があるなら帰れ」
「シャワーだけでも使わせてくれよ。汗をかいて気持ちが悪いんだ」
「……家に帰れ」
 ラウルの声が一段と低くなった。
 サイファは目を伏せ、意識的に瞬きをしてから顔を上げた。
「じゃあ、せめてもう少しだけここにいてくれないか」
 ラウルはじっとサイファを睨み下ろした。サイファもまっすぐにラウルを見つめた。どちらも引こうとせず、瞳の奥を探り合うかのように視線を絡ませる。
 無言のまま時が過ぎていく。
 先に視線を外したのはラウルだった。小さく溜息をつくと、ベッドから少し離れた机に向かって座る。そして、手元の電気スタンドをつけると、サイファに背を向けたまま本を読み始めた。
 サイファはふっと小さく笑みを漏らした。
「たまには風邪をひくのも悪くないな」
 呟くようにそう言うと、再びベッドに体を横たえ、掛け布団を肩まで引き上げた。
 途端にあたりは静寂に包まれる。気味が悪いくらいに無音だった。
 いつもこんな感じなのだろうか……。
 わざと大きく息をつき、天井を見つめて目を細める。
「なあ、ラウルは寂しくないのか。ずっとひとりで、誰にも心を開かないで」
 ラウルからの返答はなかった。本を捲る微かな音だけが聞こえる。
「ラウルを見ていると、何か放っておけないような気持ちになるよ。きっと、レイチェルも同じように思っているんじゃないかな。ラウルにとっては迷惑かもしれないけれど……」
 サイファは静かに淡々と続けた。だが、ラウルに言っているのか、独り言なのか、自分でもよくわからなくなっていた。
「僕じゃ、駄目なのかな」
 一瞬の沈黙の後、ラウルの座っている椅子が小さく軋んだ。
「おまえらしくない弱気な言葉だな」
「本心はそんなものだよ、きっと」
 サイファは急に疲れを感じ、細く息をついて目を閉じた。まだ体の状態が良くないにもかかわらず、調子に乗って話をしすぎたようだ。眠気に襲われて意識が沈み込んでいく。
「またどこかへ行こう、三人で……」
 それは、ほとんど無意識に口をついた言葉だった。その微かな声は、この静寂でなければラウルの耳には届かなかっただろう。
 サイファはそれを最後に眠りに落ちた。
 三人に訪れるはずの穏やかな未来を信じながら——。


18. 束の間の依存

「お母さま、私、今日はラウルに夕食をご馳走になるの」
 よく通る澄んだ声が、広い部屋に響く。
 授業を終えたレイチェルは、ラウルとともに階下に降りると、居間の扉を開けるなりそう言った。さらりと金の髪を揺らしながら、屈託のない笑顔を見せている。
「レイチェル、あなた、また我が侭を言ったのね」
 母親のアリスは溜息をついてソファから立ち上がり、まっすぐレイチェルの方に足を進めた。そして、彼女の背後に立っていたラウルを見上げると、僅かに首を傾げて尋ねる。
「ラウル、いいの?」
「……構わん」
 ラウルは無表情のまま、感情のない声で短く答えた。
「じゃあ、今回はよろしくお願いするわ」
 アリスは申し訳なさそうに会釈した。それから、再びレイチェルに視線を移すと、表情を引き締め、毅然とした声で言いつける。
「レイチェル、あまり遅くならないうちに帰ってきなさい。明日の準備もあるんだから」
「はい、お母さま」
 レイチェルははきはきと聞き分けのよい返事をした。

 風が緩やかに吹いている。
 人通りの少ない裏道に立ち並んだ緑の木々は、微かなざわめきを奏でながら、燦々と降り注ぐ陽光を浴びてきらきらと輝いていた。その上方に広がる鮮やかな青空には、薄い筋状の雲がかかっている。そろそろ夕刻に差しかかろうという時刻だが、その光景には早朝のような清々しさがあった。
 ラウルとレイチェルは、いつものようにその裏道を並んで歩いていた。
「私がおまえに夕食をご馳走するのか?」
「ええ」
 ラウルが横目を流して尋ねると、レイチェルは声を弾ませて当然のように返事をした。後ろで手を組み、心地よさそうに空を見上げている。軽い足どりに合わせて、薄水色のリボンが小さく揺れた。
「おまえからは何も聞いていなかったぞ」
「先にお願いしたら断られてしまうでしょう?」
 そう言ってラウルに振り向くと、眩しいくらいの笑顔を浮かべる。
 やはり、そうだったのか——。
 言い忘れていたわけではなく、あえて言わなかったのだ。普通に頼めば断られることではあるが、いきなり母親の前で決定事項のように言ってしまえば、話を合わせてくれるのではないか——そんなふうに計算したに違いない。稚拙だが効果的な作戦である。それがずるいことだとは、彼女自身は少しも思っていないのだろう。無邪気な笑顔に毒気を抜かれ、怒る気も失せてしまった。
「今日だけだぞ」
「ありがとう」
 アリスに意思を尋ねられたとき、そんな話は聞いていないと冷静に突っぱねることはできた。そうすることなくレイチェルの作戦に乗ったのは、自分も心のどこかでそれを望んでいたからに他ならない。いや、以前の自分であれば、たとえ望んでいたとしても拒絶したはずだ。これ以上、彼女との距離を縮めるわけにはいかないのである。
 なのに——。
 ラウルは空を見上げて目を細めた。緩やかな風に吹き流され、焦茶色の長髪がさらさらと音を立てて揺れた。

 二人はラウルの部屋に到着すると、いつものようにささやかなティータイムを始めた。いつもの指定席に座り、いつもの白いティーカップで、いつもの琥珀色の紅茶を飲むのである。
 だが、いつもと違ってそこに茶菓子はなかった。
 用意していなかったわけではない。あえて出さなかったのだ。今日は普段より早めに夕食をとることになる。いまケーキやマフィンを食べてしまっては、夕食が入らなくなる可能性もあるだろう。
 レイチェルも意図を理解しているのか、そのことについて何も文句は言わなかった。それどころか、ずっと浮かれた様子でニコニコしている。
「今日の夕食は何を作ってくれるの?」
「どこかへ食べに行くという手もある」
「ラウルの手作りがいいの」
 当然ながらそう来るだろうと思っていた。以前も手作りの菓子を要求してきたことがあったのだ。推測は容易である。
「突然そう言われても、たいしたものは作れん」
「ラウルがいつも食べているものでいいわ」
 レイチェルはティーカップを両手で持ち、くすっと愛らしく笑った。
 ラウルは腕を組んで溜息をついた。
「今度からは前もって言え」
「今度……?」
 レイチェルはきょとんとして首を傾げた。不思議そうな顔でラウルを見つめる。ここへ来る途中の道で、ラウルが「今日だけだ」と口にしたことを覚えていたのだろう。その発言と今の発言は明らかに矛盾している。
 ラウルはきまり悪そうに視線を泳がせた。
 それでも、これで終わりにするわけにはいかない、せめて一度くらいはまともなものを作ってやりたい——そんな思いを消し去ることは出来なかった。
「おまえが望むなら、だが……」
「じゃあ、今度はそうするわね」
 レイチェルは嬉しそうに声を弾ませると、砂糖菓子のような甘い笑みを浮かべた。その心から幸せそうな笑顔は、重くなっていたラウルの心までもふっと軽くしてくれた。

「もう夕食を作るの?」
 まだ紅茶を飲んでいたレイチェルは、材料の用意を始めたラウルを眺めながら、不思議そうに首を傾げて尋ねた。夕食の準備をするにはいささか早すぎる時間である。彼女が疑問に思うのも無理はない。
 だが、もちろん理由はあった。背を向けたまま、動きを止めることなく答える。
「おまえの母親が遅くなるなと言っていた」
 遅くなればレイチェルは叱られてしまうだろう。また、当然ながらラウルにもその矛先が向けられるはずだ。ラウルには彼女を危険な目に遭わせた過去がある。家庭教師を続けるためには、これ以上の不興を買うようなことは避けねばならない。
「私も何かお手伝いをするわ」
 ティーカップをソーサに戻して駆けてきたレイチェルは、大きな瞳を輝かせながら、しゃがんでトマトを選ぶラウルの横から、ひょこりと顔を覗かせて言う。
「おまえは座っていろ」
「お手伝いしたいの」
 ラウルは溜息をついた。ろくに料理も出来ないレイチェルに、簡単に手伝いなどさせるわけにはいかない。できれば大人しくしていてほしいと思う。怪我などされては困るのだ。しかし、彼女にはまったく引く気配はなかった。ニコニコと笑顔のままで、ラウルの指示を待っている。
「……皿を並べておけ」
「わかったわ」
 思いつく限りで最も無難なことを頼むと、それでもレイチェルは嬉しそうに張り切って返事をした。軽い足どりで戸棚へと駆けていく。その中から大きな皿をふたつ取り出し、重ねてテーブルの方へ運んでいった。それをラウルの席と自分の席に一つずつ並べる。そして、無事にきちんと並べ終わると、ニコッと満足そうに微笑んだ。
 横目でこっそりと窺っていたラウルは、心の中でほっと安堵の息をついた。
 まったく難しい作業ではないのだが、彼女を見ているとなぜか危うく感じてしまうのだ。
 今回のことだけではない。
 彼女の行動にはいつもどこか危うさを感じていた。それは、彼女の無邪気さに起因するものなのかもしれない。あまりにも危機感がなさすぎるのである。それが彼女の魅力ではあるが、同時に心配だとも思う。
 サイファも同じように思っているのだろうか、それとも——。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、ラウルは彼女から目を離して自分の作業を再開した。

「わぁ、美味しそう」
 席に着いたレイチェルの目の前で、フライパンから皿に盛りつけられたものは、ごくありふれたトマトソースのパスタである。何のひねりもないものだ。それでも彼女は待ちきれないといった様子で、目をきらきらさせながら待っている。
 ラウルが席に着くと、レイチェルはにっこりと微笑みかけた。
「冷めないうちに食べろ」
「それじゃあ、いただきます」
 行儀良く手を合わせてそう言うと、フォークを手に取り食べ始めた。
 ラウルも無言で食べ始める。
 本当に普段どおりの味で、不味いわけではないが、取り立てて美味いものでもない。ラグランジェ家の令嬢である彼女が、到底満足できるようなものではないだろう。
 だが、彼女は美味しいと言いながら笑顔で食べている。
 それが本心なのか、世辞なのか、ラウルには判断がつかなかった。ただ、料理の味はともかくとして、二人で過ごすこの時間については、少しは楽しんでくれている——そう信じてもいいような気持ちになっていた。

 食事が終わってから、ラウルは再び紅茶を淹れた。
 向かいに座るレイチェルとともに、静かに食後のティータイムを過ごす。
 彼女はときおり顔を上げ、ラウルににこやかな微笑みを見せた。

 しばらくは、そんな穏やかな空気が流れていた。
 だが、ティーカップの中身が少なくなるにつれ、彼女の表情は固くなっていった。それを持つ手にも力が入っているように見える。何かひどく思いつめているようだった。
「言いたいことがあるのか?」
「でも、ラウルには関係のないことだから……」
 レイチェルはティーカップに視線を落としたまま言葉を濁す。彼女にしてはめずらしくはっきりしない。その口ぶりからすると、言いたいことがあるのは間違いなさそうだ。ただ、ラウルには関係のない内容だという。
 そうだとすると、考えられることは——。
 ラウルはうつむくレイチェルをじっと見つめた。片手でティーカップをソーサごと横に退ける。カチャン、と陶器のぶつかり合う小さな音が響いた。
「レイチェル、こっちへ来い」
 不意に呼ばれたレイチェルは、僅かに顔を上げ、不思議そうな表情を浮かべた。それでも、言われるままに立ち上がって足を進める。
「どうしたの?」
 その問いに、ラウルは無言で大きく椅子を引いた。彼女の小さな手を引き、膝の上に横座りにさせる。そして、後ろから細い肩に手をまわすと、自分の胸に体ごと寄りかからせた。
 レイチェルは為すがままだった。
 あっというまのことで、何が起こったかさえ理解していないのかもしれない。広い胸に頬を寄せたまま、きょとんとして顔を上げた。大きな目をぱちくりと瞬かせる。ラウルの真意はいまだに掴めていないようだ。
「遠乗りのときの約束を忘れたのか。甘えさせろと頼んだのはおまえだろう。今さら何を遠慮している。言いたいことがあるなら言え」
 ラウルは落ち着いた声で言った。
 彼女が強引な方法で夕食をともにしようとしたのは、もしかしたらこのためだったのかもしれない。何とかして時間やきっかけを作ろうとしたのだろう。そのくせなかなか言い出せないでいる。普段はさんざん我が侭を言っているくせに、肝心なことは臆して遠慮するなど、おかしなやつだと思う。
 彼女の顔に複雑な笑みが浮かんだ。目を伏せてこくりと頷くと、ためらいつつも、小さな薄紅色の唇をそっと開く。
「あした……パーティがあって……」
「パーティ?」
「年に一度、ラグランジェ家のみんなが本家に集まるの」
 そういえば、サイファからそんな話を聞いたことがあった。興味がないので聞き流していたが、そのパーティが毎年の恒例行事ということだけは、うっすらと覚えている。
「そこで何かあるのか?」
 ラウルが静かに尋ねると、その胸の中で、レイチェルはゆっくりと首を横に振った。
「何もないわ。何も起こらない。けれど……」
 言葉を詰まらせると、ラウルに寄りかかったまま、小さな手で縋るように服をぎゅっと掴んだ。体は僅かに震えていた。ラウルが肩にのせた手に少し力を込めると、彼女は小さく頷いた。深く呼吸をしてから話を続ける。
「私のことを良く思っていない人たちがいるの」
「どういうことだ」
 ラウルは焦る気持ちを抑えつつ、意識してゆっくりと尋ねた。
 レイチェルはうつむいたまま答える。
「たいした魔導力もないうえに、他に何の取り柄もないから、本家次期当主の婚約者には相応しくないって、その人たちに言われているの」
 意外としっかりした口調だった。しかし、ラウルの服を掴む手には力が入っていた。
「本当にその通りだから、言われても仕方がないわ。我慢するしかない。わかっているの。でも……その人たちの私を見る目が、何か、とても怖くて……」
「アルフォンスやサイファは何をやっている」
 ラウルは無性に腹が立った。レイチェルがこんな思いをしているというのに、二人はなぜ助けないのだろうか。レイチェルよりもパーティの方が大事なのだろうか。普段あれほど溺愛しているにもかかわらず、肝心なときにはまったくの役立たずである。
 レイチェルは寂しそうにふっと笑った。
「このことはきっと知らないと思うわ。あんなことを言うのは私に対してだけだから。お父さまたちの前ではそんな素振りは少しも見せなくて、逆に私のことを褒めそやしていたりするの。そういうところも少し怖いけれど……」
 レイチェルはまさしく箱入り娘だ。身近な人間に惜しみない愛情を注がれ、その一方で、それ以外の人間とはあまり接することなく育てられてきた。そのため人の悪意というものをほとんど知らず、それに対する免疫が出来ていないのだろう。そうでなくても、まだ14歳の少女には厳しすぎる現実である。
「でも、そのおかげで、お父さまたちに心配を掛けずにすんでいるのね」
 レイチェルは気丈にも明るい声でそう続けた。顔を上げてにっこりと微笑む。
 ラウルは眉根を寄せて目を細めた。
「そのパーティには、必ず行かなければならないのか」
「私は次期当主の婚約者だから……特に、今年はその正式なお披露目の意味もあるって聞いているわ。行きたくないなんて言ったら、お父さまにも、お母さまにも、サイファにも迷惑を掛けてしまう」
 そのお披露目があるから余計に行きたくないのかもしれない。注目を浴びれば、さらにやっかみを受けることになる。火に油を注ぐようなものだ。
 レイチェルは顔を上げ、険しい表情のラウルを宥めるように優しく微笑んで言う。
「心配しないで、大丈夫よ。私が我慢をすればいいだけだから」
 ラウルは小さく息をつき、彼女の頭に大きな手をポンとのせた。
「私にまで気を遣うな」
「……うん」
 レイチェルはうつむいて小さな声で返事をした。ずっと掴んでいたラウルの服を離して手を下ろすと、力が抜けきったかのように、体ごとラウルに寄りかかる。うつむいた頬に、金色の髪がさらりとかかった。

 行くな、と言いたかったが言えなかった。
 行かないという選択は、行くよりもつらい結果を招くかもしれない。それ以前に、そんな選択をすること自体が不可能なのかもしれない。
 彼女もそれがわかっているからこそ、今まで誰にも言わずに耐えてきたのだ。
 どうにもしてやれないのがもどかしい。
 だが、彼女はどうにかしてほしいとは思っていないだろう。無責任な慰めの言葉が欲しいわけでもない。ほんの少しの時間、こうやって寄りかかっていたいだけなのだ。
 そもそも、それが二人の交わした約束である。
 ラウルは彼女に両手をまわし、そっと優しく抱きしめた。いや、包み込んだというべきかもしれない。触れる程度の力しか込めていないのである。約束を違えぬように、繊細な花を手折らぬように——。

 そのままどれくらいの時間が過ぎただろうか。
 ラウルは腕の中に視線を落とす。しかし、うつむいたレイチェルの顔は見えない。眠っているのか、泣いているのか、ただじっとしているだけなのか、それを知ることはできなかった。
 ちらりと掛け時計に目をやる。
 もうそろそろ彼女を帰さなければならない時間だった。
 それを認識すると同時に、相反する感情が湧き上がる。
 彼女が毎年つらい思いをしてきたという事実を知ってしまったのである。帰すしかないと頭では理解していても、感情はそれを拒絶していた。できることなら、このまま自分の腕の中に引き留めておきたいと思う。
 願っても叶わないことはわかっている。
 しかし、ありえないことだが、もし彼女がそれを望んでくれたとしたら——。
「こんなに優しくされると、帰りたくなくなってしまうわ」
 無言の願いに応えるかのようなレイチェルの言葉。
 ラウルの心臓がドクンと大きく跳ねる。
「でも、帰らなくちゃ」
 彼女はぽつりとそう続けると、ラウルの広い胸に小さな手をつき、ゆっくりと上体を離した。そして、ラウルの脚の上から降りると、後ろで手を組んでくるりと振り返る。薄水色のリボンが跳ね、金色の髪がさらりと舞い、ドレスがふわりと広がった。大きくにっこりと微笑んで言う。
「あした、頑張ってくるわね」
「……ああ」
 ラウルはまっすぐに彼女を見つめたまま、低い声で虚ろに返事をする。頑張れと言うべきか、頑張るなと言うべきか——しばらく迷っていたが、結論は出せなかった。
「ありがとう」
 まるでラウルの心を見透かしたように、レイチェルはあたたかい声でそう言った。そして、ふわりと柔らかい微笑みを見せると、くるりと背を向けて部屋を後にする。彼女の姿が視界から消え、すぐに、扉の閉まるパタンという軽い音が聞こえた。
 ラウルは渦巻く気持ちを抱えながらも、ただ黙って見送ることしかできなかった。



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