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10. ティータイム

 翌日から、ラウルはレイチェルの授業を始めた。
 授業中に関していえば、レイチェルは二年前とあまり変わっていなかった。つまり、手のかからない教え子ということだ。言われたことには素直に従い、記憶力は良く、飲み込みも早い。教えたことはすぐに出来るようになる。
 ただ、やはり応用力はほとんど無いといってもいい。未知の問題だと判断すると、途端に思考を放棄してしまう。このことに関しては、性格的なものが大きいため、克服させるのは難しそうだ。考えると頭が痛くなる。
 そして、魔導のことも——。
 彼女にはまだ切り出していない。だが、避けては通れない問題だろう。少なくとも基本的な制御だけは学ばせなければならない。それは、二年前にアルフォンスから頼まれたことでもある。
 だが、ラウル個人としては、それだけで済ませたくはなかった。
 出来ることなら、彼女の秘められた魔導の力を引き出したい。彼女の潜在的な力は、ラウルを除けば、間違いなくこの国で一番である。それを引き出したうえで、それなりの訓練を積めば、稀代の使い手になるかもしれない。どこまでになるか、行き着く先を見てみたい——魔導に携わるものならば、誰もが抱いても不思議ではない好奇心である。
 しかし、それは、彼女自身は全く望んでいないことだ。自分の身勝手な好奇心で、そこまでのことを押しつけるのは傲慢というものだろう。

「今日はここまでだ。明日は物理学にする」
「ちょっと待って」
 レイチェルは軽く呼び止めながら、立ち上がろうとするラウルの袖を掴んで引いた。
「何だ?」
 ラウルは眉をひそめながらも、促されるまま椅子に座り直した。
 レイチェルは机の下に身を屈めると、手提げの白い紙袋を慎重に取り出した。それを膝の上に置き、ラウルに向かってにっこりと笑いかける。
「これ、きのう約束したプレゼント」
「プレゼントだと?」
 ラウルは訝しげに聞き返しながら、差し出された紙袋を受け取った。そこそこ重量感がある。上から覗き込むと、淡いピンク色のリボンが掛けられた大きめの白い箱が見えた。
「ティーカップよ。ついでにティーポットもあるみたい」
「家にあるものを持ってくるのではなかったのか」
 確かに彼女はティーカップを持ってくると言った。だが、それは「うちから」だったはずだ。家で余っているものを持ってくるのだろうとラウルは理解していた。しかし、これはそういう類のものには見えない。
「そのつもりだったんだけど、お母さまがそれでは失礼だからって買ってきちゃったの」
 レイチェルは肩をすくめて言った。
「母親に何を言った?」
「二年前のお詫びにティーカップをプレゼントしたいって言っただけよ」
 そんなことを聞いたら、家にあるものでは失礼だと考えるのも当然だろう。名門のラグランジェ家なのだ。そういうところはきちんとしているに違いない。
「もらってくれる? そうじゃないと、私、困るんだけど……」
 レイチェルは上目遣いで心配そうに尋ねた。
 このプレゼントを拒めば、彼女の謝罪を拒んだことになってしまう。それも、彼女の両親に宣言するに等しい状態だ。彼女が困るというのも理解できる。そして、自分にとっても本意ではない。
「……わかった」
「これでラウルと一緒にお茶が出来るわね」
 レイチェルは顔の前で両手を組み合わせ、無邪気に声を弾ませた。
 ラウルは溜息をついた。何か騙されたような気がしないでもないが、成り行きとはいえすべて自分が承諾したことだ。今さら覆すようなことは言えないだろう。

 澄みきった青空の下、いつものように人通りの少ない裏道を通って医務室へと向かう。
 今日もレイチェルはついてきた。嬉しそうにニコニコしながら隣を歩いている。口数は多くないが、時折、ラウルを見上げて話しかけてくる。その表情は、まるで小さな子供のように屈託がなかった。
 王宮に入って階段を上がり、しばらく歩くと医務室の前に到着する。
 ラウルは鍵を開けた。いつもはまず医務室の席に着くのだが、今日は大きな荷物を持っている。まっすぐに奥の自室へと向かった。当然のようにレイチェルもついてきた。ラウルのすぐ後ろで、軽い足音が弾んでいた。

 ラウルは白い紙袋をダイニングテーブルの上に置き、中から白い箱を取り出した。リボンを外し、包装紙を破いて箱を開ける。そこには白いティーカップとソーサが2組、そして同じ色のティーポットが入っていた。何も模様は入っていないが、決して安物ではなく、上質であることは一目でわかった。
「ラウルの好みがわからないからシンプルなものにしたって、お母さまが言っていたわ」
 何も考えてなさそうなレイチェルとは違い、彼女の母親は細かいことまで気をまわす人物のようだ。見た目よりもしっかりしているのだろう。
「気に入った?」
 レイチェルは無表情のラウルを覗き込んで尋ねる。長い金の髪がさらりと揺れた。
 ラウルは破いた包装紙を丸めながら、ぶっきらぼうに言う。
「礼を言っておけ」
「良かった」
 レイチェルは胸もとに手を当てた。安堵したとでも言いたげな様子だが、それほど心配しているようには見えなかった。甘やかされて育った彼女のことだ。今までほとんどのことが思い通りになってきたのだろう。そのため今回も突き返されるようなことはないと確信していたのかもしれない。いや、そんなことは想像すらしていなかったに違いない。
「じゃあ、お茶にしましょう」
 彼女はダイニングテーブルの向かい側にまわって椅子に座った。そこは昨日と同じ場所である。彼女の中ではすでに指定席になっているのだろうか。ニコニコしながら両手で頬杖をつくと、無邪気に愛くるしく言う。
「今日はラウルも一緒ね」
 ラウルは溜息をつきながらも、言われるままにティータイムの準備を始めた。水の入ったヤカンを火に掛けると、その間に、新品のティーカップとティーポットを手際よく洗った。棚から紅茶の缶を取り出し、ティーポットに目分量で茶葉を入れる。
「ねえ、お菓子はあるの?」
 レイチェルは頬杖をついたまま口を開く。
「ケーキでいいのか?」
 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら尋ね返した。白い湯気が視界を覆う。顔が少し熱くなった。
「ケーキ、用意してくれたの?」
「おまえがそうしろと言った」
「嬉しい、ラウルありがとう」
 レイチェルの声は、感情のままに弾んでいた。
 結局、何もかも彼女の思うままになっている気がする。それは、自分が彼女に対して負い目を感じているせいだろう。優しくしようなどと思っているわけではないが、無意識に甘くなっていることは否めない。
 ラウルは冷蔵庫から小さな箱を取り出し、その中のケーキを皿にのせて彼女に出す。
「ひとつだけ?」
 レイチェルはラウルを見上げて尋ねた。
「いくつ食べる気だ?」
 ラウルは呆れた眼差しで見下ろしながら言う。
「そうじゃなくて、ラウルの分は?」
「それひとつしか買っていない」
「じゃあ、半分にしましょう」
 レイチェルはケーキの皿を両手で持ち上げ、ラウルに差し出した。
「いらん、だから買わなかった」
 ラウルは腕を組みながら、冷たくきっぱりと撥ねつけた。
 それでもレイチェルは諦めなかった。にっこりとして腕を伸ばし、優しく諭すように言う。
「だめよ、一緒にお茶をするんだから。一緒に食べなければ意味がないわ」
 ラウルは溜息をついた。観念するしかなさそうだった。
 彼女からその皿を受け取ると、ケーキを半分に切り、もうひとつの皿にその半分を移した。ふたつの皿をそれぞれの席に置く。紅茶もティーカップに注ぎ、ソーサに載せてテーブルに置いた。
 これでティータイムの形はそれなりに整ったはずだ。もう文句はないだろう。
「ラウルも座って」
 レイチェルは顔を斜めに傾け、にっこりと笑って言った。

 二人はささやかなお茶会を始めた。ただ紅茶を飲んで、ケーキを食べるだけである。
「楽しいか」
「ええ」
 向かいのレイチェルに尋ねると、満面の笑みで答えが返ってきた。
 何がそんなに楽しいのか、ラウルにはわからなかった。面白い話をしているわけでもなければ、紅茶やケーキが特に美味しいわけでもない。彼女なら普段からもっと上等なものを口にしているはずである。
「ラウルはここでいつもひとりなの?」
 レイチェルはティーカップをソーサに戻しながら尋ねた。
「誰も入れないことにしていると言ったはずだ」
 ラウルはぶっきらぼうに答えた。きのうから何度も同じことを言っている。彼女はわかっていて尋ねているのかもしれない。ケーキにフォークを突き立てて口に運ぶ。
「寂しくないの?」
 レイチェルは大きな瞳でじっと見つめて言う。
「ひとりの方が煩わしくなくていい」
「今は私がいるから煩わしいの?」
「ああ、紅茶やケーキの準備までさせられて迷惑している」
 ラウルは責めるように言ったつもりだが、レイチェルは反省するどころか、なぜかクスクスと笑っていた。何がそんなに可笑しいのだろうか。彼女の思考回路がまるでわからない。
 レイチェルはケーキを食べながら言う。
「このケーキ、美味しいわね。イチゴのショートケーキって、私、大好きなの」
 ラウルは紅茶を飲みながら、無邪気な彼女に目を向けた。ティーカップをゆっくりとソーサに戻す。
「好き嫌いがあるなら言っておけ。おまえの好みは知らんからな」
「んー……レーズン以外ならたぶん大丈夫」
 レイチェルは斜め上に目を向けて考えたあと、ラウルに向き直ってにっこりと答えた。
「わかった。レーズンを避ければいいんだな」
 ラウルは淡々と確認する。
「ねえ、ラウル。お店のケーキもいいけれど、ときどきは手作りのお菓子も食べたいの」
 レイチェルは身を乗り出して言う。
 ラウルは溜息をついた。いったいどこまで我が侭を言うつもりなのだろうか。
「何を作ってほしい」
 面倒だと思いながらも尋ねてみる。
 レイチェルはフォークを握りしめて目を輝かせた。
「えーっと、じゃあ、ミルフィーユとかモンブランとか」
「……おまえ、それは嫌がらせか」
 ラウルは眉根を寄せた。
「だめなの?」
 レイチェルはきょとんとして小首を傾げた。
「そんな手間のかかるもの、作る気も起きん」
 ラウルは額を押さえた。自分の要求がどれほどやっかいなことなのか、彼女はわかっているのだろうか。作ろうと思えば作れないことはない。だが、冗談ではないと思う。そこまでの義理も筋合いもない。小さく溜息をついて言う。
「スコーン、ショートブレッド、プリン、ホットケーキ、どれか選べ」
「じゃあ、スコーンとプリン」
 レイチェルはすぐに答えた。
 ラウルは眉をひそめて睨んだ。低い声で言う。
「ひとつにしろ」
「プリン」
 レイチェルはまっすぐラウルを見たまま即答した。
 ラウルは腕を組んでうつむき、目を閉じる。肩から焦茶色の髪が滑り落ちた。
「気の向いたときに一回くらいなら作ってやる」
「楽しみにしているわ」
 レイチェルはそう言って愛らしく微笑んだ。

 翌日も、翌々日も、レイチェルはラウルの部屋にやってきた。
 ラウルは両日とも律儀にケーキを用意した。いくら彼女に負い目があるからといって、ここまで言いなりになる必要があるのだろうか。なぜ拒否しなかったのだろうか。なぜ無視しなかったのだろうか。自問してみるものの答えは出ない。
 ただ、嫌でたまらないというほどのことはない。
 煩わしいという気持ちに変わりはないが、仕方がないという諦めの気持ちが大きくなっているような気がする。いや、正直なところをいえば、彼女の嬉しそうな笑顔を見ていると悪い気はしない。そう思う自分はどうかしているのだろうか——。

 その翌日も、やはりレイチェルはついてきた。これで4日連続である。家庭教師の授業とその後のティータイムが、ラウルにとって日常の一部になりつつあった。
 医務室の前に着くと、いつものように鍵を開けて扉を引く。
「ラウル、今日はここで帰るわね」
 中に足を踏み入れようとしたとき、レイチェルが背後でそう言った。ごく普通の落ち着いた口調だった。申し訳なさそうにも、怒っているようにも、思いつめたようにも感じられなかった。
 ラウルは扉に手を置き、ゆっくりと顔だけ振り返った。
「……なぜだ」
「サイファがね、今日は早く帰れそうだから二人でお茶をしようって」
 レイチェルは胸もとで手を組み合わせ、にっこりと笑顔を見せた。
「そうか」
 ラウルは無表情を保ったまま呟くように言った。
 ——そうならそうと、あらかじめ言っておけ。
 喉もとまで出かかった言葉を、ぐっと堪えて飲み下す。別に約束をしていたわけではない。ただ、今日も来るだろうと自分が勝手に思い込んでいただけだ。彼女は何も悪くない。だが——。
「嬉しそうだな」
「ええ、サイファの家でお茶をするのって久し振りなんだもの」
 レイチェルははしゃいだ声を上げた。
 その様子を眺めるラウルの心には、もやもやとした重いものがのしかかっていた。

「やあ、レイチェル」
 よく通るはっきりとした声を響かせながら、サイファは後ろからレイチェルを抱きすくめた。魔導省の制服を身に着けている。仕事帰りなのだろう。右手に持っていた手提げの紙袋が、彼女の前で大きく弧を描いて揺れた。
「サイファ!」
 レイチェルはとびきりの笑顔で振り返った。後頭部のリボンが大きく弾み、長い髪がさらりと舞い上がる。窓から射し込む光を受けて、透きとおるような金色が上品に煌めいた。
 サイファは彼女の頬を左手で包み、慈しむように柔らかく微笑んだ。
「ラウルに挨拶してから帰ろうと思って、ここへ寄ってみたんだけど、ちょうどいいタイミングだったみたいだね」
 優しい声でそう言うと、端整な顔をゆっくりとラウルに向けた。青い瞳に挑発的な光を宿し、口の端を僅かに上げる。
「ラウル先生、今度は逃げずに続けているみたいだね」
 ラウルはムッとして眉をしかめた。
「嫌味を言うために来たのか?」
「様子を聞きに来たんだよ」
 サイファは両手を腰に当てて言う。
「困ったことや相談したいことはないか?」
「何もない」
 ラウルは冷ややかに答えて腕を組んだ。
「レイチェルはちゃんと勉強しているか?」
「おまえよりよほど真面目だ」
「それは良かった」
 サイファはくすっと小さく笑って言う。その余裕の態度が、ラウルには何か無性に腹立たしく感じられた。サイファには特に意図はなかったのだろう。ただ、自分の方に余裕がなかっただけだ。
「レイチェル、これからも先生の言うことをよく聞いて勉強するんだよ」
 サイファは小さな子供に言い含めるような口調でそう言うと、彼女の前髪を人差し指で小さく払って微笑む。
「我が侭ばかり言って怒らせないようにね」
「我が侭なんて言っていないわ。ねえ、ラウル」
 レイチェルはラウルに振り向いて同意を求めた。少しも悪びれた様子はない。あどけない無垢な笑顔を見せている。嘘をついているつもりはなく、本当にそう思っているのだろう。確かに、授業中に関してだけでいえば、間違いではない。
「……ああ」
 ラウルは彼女の望むままの答えを返した。

「ちょっと待て、ラウル」
 無言で医務室に入ろうとしたラウルを、サイファは慌てて引き留めた。手にしていた薄黄色の紙袋から、同色の紙の箱を取り出す。片手で持てるくらいのものだ。それほど大きくはない。
「レイチェルがお世話になっているお礼だ」
 人なつこい笑顔でそう言うと、その紙の箱をラウルに差し出した。
 ラウルは怪訝に眉根を寄せた。
「何だ?」
「レアチーズケーキ。僕たちの分のついでなんだけどね」
 サイファは反対の手に持っていた紙袋を掲げた。その上部には店のロゴタイプが小さく入っている。ケーキ店の名前らしい。これからサイファの家でお茶をするとレイチェルが言っていた。そのときに食べるケーキを買ってきたのだろう。
「ここのレアチーズケーキ、とっても美味しいのよ」
 レイチェルはサイファの隣で微笑みながら、無邪気にそんなことを言った。
「もしかして、甘いものは苦手だったか?」
 無表情で立ち尽くすラウルを見て、サイファは覗き込みながら尋ねた。
「……もらっておく」
 ラウルは小さな箱を片手で掴んだ。
 サイファは満足そうな笑みを浮かべると、隣のレイチェルの頭に手をのせた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。とびきり美味しい紅茶も用意してあるよ」
「本当? 嬉しい」
 レイチェルはサイファを見上げ、幸せそうに笑った。
「ラウル、それじゃあ、またな」
「またあしたね」
 ふたりは笑顔でさよならの挨拶をした。そして、どちらからともなく自然に手を取り合うと、楽しそうに話をしながら帰っていった。もうラウルのことなど眼中にないのだろう。ただの一度も振り返ることはなかった。

 ラウルは医務室の奥の自室にひとりで戻った。
 サイファからもらった薄黄色の紙箱を、ダイニングテーブルの上に置く。それをじっと見下ろしながら、腕を組み、流しにゆっくりと寄りかかった。
 秒針の単調な音が耳朶に響く。
 不思議なくらいに静かな部屋。
 無意味に流れていく時間。
 ラウルは小さく溜息をついた。
 体を屈めて冷蔵庫を開ける。あまり物は入っていない。テーブルの上の箱を無造作にその中に放り込むと、代わりに中から小さなカップを取り出した。
 それはプリンだった。買ってきたものではない。ラウルが作ったものである。
 気が向いたら一度くらいはプリンを作ってやる——。
 数日前にレイチェルとそう約束した。それを今日のティータイムで果たすつもりだった。だが、彼女はここにはいない。自分ではなく、サイファの方を選んだ——いや、その言い方は適切ではない。ただタイミングが悪かっただけだ。
 ラウルはその場に立ったまま、スプーンですくってそれを食べ始めた。
 底のカラメルがほんの少し苦かった。


11. 芽生え始めた意志

 ラウルは、高い塀で囲われた建物の前で立ち止まり、それを仰いだ。窓ガラスの反射光が眩しくて目を細める。ここからでは全貌は見えないが、一部で改装工事をしているのが目についた。
 魔導科学技術研究所——。
 それがこの建物の名前だった。魔導を科学的に分析し、その仕組みを解明することを目的として設立された、魔導省の管轄の施設である。つまり、国立の研究所だ。国がその研究を必要としているということだろう。

「わざわざ足を運んでもらってすまない」
「どのみち外へ出る用があった」
 入口まで迎えに来たアルフォンスに連れられて、ラウルは研究所の廊下を歩く。横に目を向けると、ガラスの向こうに研究フロアが見えた。立っているのは数人だけで、多くの所員は整然と並んだモニタに向かい、黙々と作業をしている。話し声はほとんど聞こえず、機械音や打鍵音の方が大きいくらいだ。
 ラウルがここへ来たのは、この研究所の所長であるアルフォンスに呼ばれたためだった。理由は聞いていない。聞き出そうともしなかった。そうするまでもなく、おおよその見当はついている。だから、あえて言われるままにやってきたのだ。
「ここに入るのは初めてか?」
「ああ」
 アルフォンスは歩きながら後ろで手を組み、ちらりとラウルを振り返る。
「このフロアなら自由に見学しても構わんがどうする?」
「不要だ。ここではたいした研究をやっていないのだろう」
 ラウルはつれない答えを返す。
 アルフォンスは気難しい顔で目を伏せた。
「根幹となる研究は、立入制限区域で行っている。そちらに入るためには面倒な手続きが必要でな」
「論文にはすべて目を通している。それらを総合して考えれば、入らなくても何をやっているのか察しはつく」
「というと?」
「戦争のための兵器開発、それと人間を兵器化する技術開発」
 ラウルは端的に答えた。
 アルフォンスは息を飲んで振り返り、それからあたりを見まわす。そして、誰もいないことを確認すると、一瞬だけ安堵したような表情を浮かべた。「所長室」というプレートが掛かった扉に向かい、鍵を開けると、ドアノブに手を掛けて押し開く。
「否定はしない」
 そう言いつつ、ラウルを部屋に招き入れる。そこは、個室としては十分すぎるくらいに広かった。正面にはうずたかく書類が積まれた大きな机、端の方には応接用と思われるソファとローテーブルがあった。机の隣の本棚には整然と新しい本が並んでいる。奥の大きなガラス窓からは自然光が入り込み、部屋を明るく爽やかに照らしていた。アルフォンスは静かに扉を閉めると、ラウルをソファに促す。
「だが、戦争を仕掛けるわけではない。あくまでこの国を防衛するためのものだ」
「魔導は人に属するからこそ、辛うじてバランスを保っていられる。人の意思のない魔導や、人の意思をねじ曲げた魔導など、存在すべきではない。いずれ世界を壊すことになる」
 ラウルはソファには座らず、その場に立ったままで言った。
 アルフォンスは表情を険しくする。
「使用は厳しく制限していくつもりだ」
「判断を誤らなかった戦争などない」
「…………」
 アルフォンスは反論しなかった。いや、出来なかったのだろう。口を固く結び、目を伏せる。眉間には深い皺が刻まれた。
 ラウルは腕を組んで言う。
「今のはただの忠告だ。おまえたちが何をしようと知ったことではない。これ以上の干渉をするつもりもない。ただ、レイチェルは巻き込むな」
 アルフォンスはハッとして顔を上げた。
「なぜ、それを……」
「あれだけの魔導力を有する人間は他にいない。おまえたちからすれば、喉から手が出るほど欲しい実験体だろう。私を呼んだのも、そのことで何か相談があったのではないか」
 アルフォンスがラウルを研究所に呼んだ理由として考えられるのは三つだった。ラウルに研究への参加を依頼する、ラウルに実験体としての協力を依頼する、レイチェルを実験体として使うことについての相談——。その推測を一つに絞ることができたのは、ラウルをここへ呼んだときのアルフォンスの声が苦悩に満ちていたからだ。レイチェルに関することでなければ、そこまで思い詰めた声は出さないはずだという確信があった。
「ああ、だが勘違いするな。私個人としては反対している。そもそも、あの子の魔導のことを誰かに話したことは一度もない。だが、気づいてしまった部下がいてな」
 コンコン——。
 扉をノックする音が聞こえた。アルフォンスの顔に緊張が走る。
「フランシス=ゴードンです」
「入れ」
 アルフォンスが毅然とした声でそう言うと、三十代後半と思われる男が、静かに扉を開けて入ってきた。背筋を伸ばし、両足を揃えると、真剣な表情をまっすぐ前に向ける。体格はアルフォンスより一回り小さいが、気構えは負けていないようだった。
 ラウルはその男に見覚えがあった。過去に何度か医務室に来たことのある男だ。口をきけなくなった姪を診せに来たこともあった。リカルドが研究所に勤務していたときの部下だったと記憶している。
「これが先ほど言っていた部下だ。レイチェルを研究に使うことを強硬に主張してな」
「そうすべきだと思います。所長が娘を溺愛していることは知っていますが、この研究所の所長であれば国のことを第一に考えるべきです。国の機関に勤める人間が、国より家族を優先するなどあってはならない」
 アルフォンスは反論こそしなかったが、その青い瞳には怒りを思わせる鋭い光がたぎっていた。それが、彼のできる唯一の抵抗だったに違いない。理屈としてはフランシスの方が正しい。所長という立場もあり、おおっぴらに本音を言うわけにはいかないのだろう。
 フランシスは臆することなく続ける。
「何も傷つけようというわけではありません。彼女の身の安全は最大限考慮するつもりです」
「下手に手を出せば暴発する。そうなれば、それこそ国が崩壊する可能性もありうる」
 ラウルが横から口を挟んだ。
 フランシスは睨むような眼差しで振り向いた。
「あなたに言われるまでもなく、慎重に事を進めるつもりです。私たちは科学者だ。あらゆる可能性をシミュレーションし、危険を回避しつつ結果を得られるよう、常に綿密な計画を立てています」
 強気な姿勢を崩さずに、明瞭にきびきびと言う。あれほどラウルのことを恐れていた人物とは思えない。それだけ成長したのだろうか。それとも、仕事のこととなると人が変わるのだろうか。
 ラウルは無表情のままフランシスに歩み寄った。正面のごく近い距離で止まる。胸もとあたりの位置に彼の頭があった。ゆっくりと腕を組み、顎を軽く上げると、目線だけで彼を見下ろす。
「フランシス」
 名前を呼ばれた瞬間、フランシスはビクリと体を竦ませた。それでも精一杯の虚勢を張り、上目遣いでラウルを睨む。
「……何ですか」
「レイチェルには手を出すな」
「あなたこそ部外者のくせに口を出さないでほしい。私たちはこの国のために……」
「この国がどうなろうと知ったことではない」
 ラウルはフランシスの言葉を遮って言った。まっすぐ彼の首筋に右手を伸ばし、触れる寸前でそれを止める。その気になれば、防御する間もなく一瞬で首を落とせる距離だ。冷徹な眼差しを向け、凄みのある低い声で威圧する。
「レイチェルには手を出すな。もし手を出すことがあれば、この研究所ごとおまえを消す」
「……脅迫するのか、卑怯な」
 フランシスは恐怖に歪んだ表情のまま顔をこわばらせた。奥歯を強く食いしばる。喉仏が上下に動いた。額に滲んだ汗が、頬を伝って地面に落ちた。体の横で固く握りしめたこぶしは、怒りのためか、恐怖のためか、小刻みに震えていた。
「何とでも言え。本気だということだけは言っておく」
 ラウルは冷たく凍てついた瞳を見せつけてから、ゆっくりと彼の首から手を引いた。
 フランシスは何か言いたそうにしていたが、震える口からは少しも声が発せられなかった。
「フランシス、もう下がれ」
 アルフォンスが静かに声を掛けると、フランシスは悔しそうに顔をしかめながら、それでもきちんと頭を下げて所長室をあとにした。

「用件はこれだけか」
 ラウルは腕を組んで振り向き、何事もなかったかのようにさらりと尋ねた。
 アルフォンスは困惑した様子を見せながら口を開く。
「これだけというか……相談しようと思っただけなんだが……いや、しかし感謝する」
「おまえのためにやったわけではない。私の意志だ」
 ラウルは躊躇いなくきっぱりと明言した。
「そうか……」
 一方、アルフォンスは歯切れが悪かった。感謝しつつも訝っている様子である。他人に無関心だったはずのラウルが、レイチェルを助けるべく自ら積極的に行動したのだ。これまでではありえないことである。怪訝に思うのも無理はないだろう。
 ラウルは視線を落とし、小さく息をついて言う。
「助けられたはずなのに、助けられなかった……そんな結末をもう見たくないだけだ」
「それは、もしかして、君の……」
 アルフォンスはそこまで言いかけて口をつぐんだ。訊くべきではないと判断したのだろう。真面目な顔で目を細めてラウルを見つめる。その瞳にもう訝るものはなかった。
「何か礼をさせてほしい」
「礼など不要だ。おまえのためにやったわけではない、そう言ったはずだ」
 ラウルは無表情のままにべもなく受け流す。
 アルフォンスはそれでも引き下がらなかった。
「昼食くらいは奢らせてほしい」
「これから行かなければならないところがある」
 それは断る口実だった。言ったことは嘘ではないが、昼食に付き合う時間も取れないということはない。ただ、こう言えば諦めざるをえないはずである。
「そうか……それではまたいつか機会があれば付き合ってほしい」
 アルフォンスはラウルに真摯な視線を送る。
「レイチェルのこと、これからもよろしく頼む」
「……わかっている」
 ラウルは静かに声を落とした。腕を組んだまま、目を閉じて深くうつむく。長い焦茶色の髪が、カーテンのように横顔を覆い隠した。

 その日の午後、ラウルはレイチェルの家に向かった。
 今日もいつものように授業を行う。
 ラウルは真面目に指導をする。
 レイチェルも真面目に取り組む。
 ふたりとも授業中は関係のないことを口にしなかった。

「今日はここまでだ」
 ラウルはいつもの言葉で授業を区切る。しかし、いつものようにすぐに立ち上がろうとはせず、椅子に座ったままレイチェルをじっと見つめた。
「……どうしたの?」
 レイチェルはきょとんとして尋ねた。小さく首を傾げる。
「今日は来るのか?」
 ラウルは最も気になっていたことを質問した。言葉が足りないことは自覚していたが、これだけでも彼女には通じるだろう。思い浮かぶ場所は一箇所しかないはずだ。
「ええ、今日はラウルとお茶するわ」
 レイチェルは戸惑うことなく、にっこりと笑顔を浮かべて答える。
「そうか」
 ラウルは小さく相槌を打って立ち上がった。脇に教本を抱え、部屋を出て行く。
 レイチェルも嬉しそうに微笑みながらついてきた。その足どりは軽やかに弾んでいた。

 ラウルの部屋へ入ると、レイチェルは当然のようにダイニングテーブルの指定席についた。両手で頬杖をつき、ニコニコとしてラウルを見る。
「今日は何のケーキ?」
「ケーキはない」
 ラウルはぶっきらぼうに答えを返す。
「そう、残念」
 レイチェルは軽く言った。多少、落胆している様子はあったが、すぐに笑顔に戻る。もっと駄々をこねるかと思っていたので意外だった。それほど重要ではなかったのだろうか。
 ラウルは冷蔵庫を開けると、中からカップを二つ取り出した。
「それは何?」
「おまえが作れと言ったプリンだ」
 無愛想に答えると、それを机の上に置いた。きのう作ったものではない。今朝、新たに作ったものだ。彼女が来るかどうかもわからないのに、なぜ昨日の今日でまた作ってしまったのだろうか。もしかすると何か意地になっていたのかもしれない。
 レイチェルは大きな目をぱちくりさせてそれを覗き込むと、顔を上げて不思議そうに尋ねる。
「ラウルが作ってくれたの?」
「約束しただろう」
 ラウルは仏頂面で腕を組んだ。ちらりと彼女を一瞥して眉根を寄せる。まさか約束したことを忘れているのだろうか。まだほんの数日前のことだ。普通ならば覚えていて然るべきである。忘れているとすれば、よほど無関心だったことになる。
 だが、その心配は無用だった。
「ありがとう、本当に作ってくれたのね」
 レイチェルは嬉しそうに笑顔を弾けさせた。
 ラウルは小さく息をついた。
「美味いかどうかは知らん」
「ラウル、スプーンも」
 レイチェルは急かすように右手を伸ばした。
「焦るな。今から紅茶を淹れる」
 ラウルは湯を沸かしながら、ティーポットとティーカップを手早く準備した。ティーポットに茶葉を入れ、沸き立ての湯を注ぐ。白い湯気とともに、ふわりと芳醇な香りが立ち上った。蓋をしてしばらく置いてから、二つのティーカップに紅茶を注ぎ、ソーサに載せてテーブルの上に置く。スプーンもプリンの上に置いた。
 ティータイムの準備が整うと、ラウルはレイチェルの前に座った。
「それじゃあ、いただきます」
 レイチェルは待ちきれないといった様子で声を弾ませると、まず先に紅茶を手にとった。ティーカップに口をつけて傾ける。その途端、目を見開いて大きく瞬きをした。不思議そうに褐色の液体を覗き込み、ゆっくりとティーカップをソーサに戻して言う。
「……美味しい。これ、きのうまでの紅茶と違う」
「きのうではなく、おとといだろう」
 ラウルは淡々と訂正する。昨日はラウルのところには来ていない。サイファのところへ行っていたのだ。どうでもいいような些細なことだが、なぜか言わずにはいられなかった。
 しかし、レイチェルは気に留めることなく尋ねる。
「これ、どうしたの?」
「前の紅茶がなくなったから、新たに買ってきただけだ」
 ラウルは静かに答える。だが、そこにはひとつだけ嘘が混じっていた。前の紅茶はまだなくなってはいない。
「私、これ好き」
「そうか」
 にっこりと笑って言うレイチェルに、ラウルは素っ気ない相槌を打つ。だが、内心は違っていた。この紅茶は、彼女のために買ったようなものだった。気に入ってもらえなければ意味がない。といっても、頼まれたわけではない。勝手にやったことである。そうしようと思ったのは、きのうのことがあったからだろう。これもやはり意地のような気持ちが働いたせいかもしれない。
 レイチェルは続いてプリンを口にした。
「プリンも美味しい。本当にラウルが作ったの?」
「疑っているのか」
 ラウルは紅茶を手に取りながら尋ねた。
「ううん、驚いただけ」
 レイチェルは無邪気にそう答えると、ふわりと甘く柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう、私のお願いをきいてくれて」
 ラウルはそれだけで自分の行動が報われたように感じた。

「レイチェル、真面目な話がある」
「真面目な話?」
 真剣な表情で切り出したラウルに、レイチェルは小首を傾げて尋ねた。ちょうど食べ終わったプリンのカップを机の上に戻す。
 ラウルはじっと彼女の瞳を見つめて口を開いた。
「そろそろ魔導の方も学んでいかなければならない」
 今日のように、レイチェルを実験体にしようとする人間がまた現れないとも限らない。自分が事前に察知できれば潰すつもりだが、陰で計画を進める輩がいても不思議ではない。彼女は未知の領域を抱える危うい存在である。下手にいじれば、魔導を暴発させてしまうかもしれない。いざというとき、その危険性を少しでも減少させるためには、彼女に魔導の制御を学ばせる必要があるのだ。
 レイチェルは机の上で小さなこぶしを握りしめ、ゆっくりとうつむいた。
「……魔導はやりたくない」
「高度なものをやろうということではない。ただ、少なくとも制御だけは学ぶべきだと考えている」
 ラウルは落ち着いた口調で説得しようとする。
 だが、レイチェルは首を小さく横に振った。
「私には制御なんて必要ないわ」
「なぜそう思う」
 ラウルは表情を動かさず冷静に尋ねた。
「私にはほとんど魔導力がないの。ラグランジェ失格の出来損ないだって」
 レイチェルは顔を上げ、にっこりと微笑んで言った。
「……誰がそんなことを言った」
「ユリアっていう親戚のお姉さん」
 確かに、隠れた魔導力を抜きにして考えれば、彼女の魔導力はラグランジェ家の中では劣る方になるだろう。それでも、ほとんど魔導力がないとは言いすぎだ。出来損ないなどという明らかな中傷の言葉を選んでいることから考えると、彼女に何か恨みでもあるのかもしれない。ラグランジェ家の内情はよく知らないが、本家次期当主の婚約者ともなれば、妬みを受けることもあるのだろう。
「おまえにも魔導力はある。それは魔導を学んでいけばわかることだ」
「ユリアに言われたからってだけじゃなくて、自分でも力がないことはわかっているの」
 レイチェルは微笑みを保ったまま言った。
 ラウルは眉根を寄せた。
「おまえは自分のことをわかっていない」
「いいの、悲観なんてしていないから」
 レイチェルは澄んだ声で言う。
「それでも私は幸せよ。みんな私を責めたりしないもの。きっとこのままでいいの。私に魔導は必要ないと思うわ。お仕事をすることもないし……16歳になったら、私、サイファと結婚するから」
 ラウルの眉が僅かに動いた。険しい表情でレイチェルに鋭い視線を向ける。
「……おまえはそれでいいのか」
「えっ?」
 レイチェルは大きく瞬きをした。
「その結婚はおまえが望んだことなのかと訊いている」
「望んだっていうか……そう決まっているから……」
 彼女は戸惑ったような表情で首を傾げ、曖昧に答えた。
 ラウルはまっすぐ彼女を見たまま質問を続ける。
「他人に決められた人生を歩んで、それで幸せなのか」
「私はサイファが好きだし、みんな優しくしてくれるし、それでいいって思ってるんだけど……」
 レイチェルは自信のなさそうな声で言う。表情は次第に曇っていった。
「おまえの本当にやりたいことは何だ。自分で考えたことはあるのか」
 ラウルは責め立てるように畳み掛けた。
 レイチェルは困惑したように蒼い瞳を揺らした。小さな口をきゅっと結び、難しい顔でゆっくりとうつむく。机の上に置いた自分の手をじっと見つめた。
「……悪い、余計なことを言った」
 ラウルは頭に手をやり、溜息をついて詫びた。
 レイチェルとサイファの婚約については、これまでもずっと小さな棘のように心に引っかかっていた。彼女の意向など少しも考慮されずに決められたことである。口に出すことはなかったが、常に疑問には思っていた。
 彼女に不満そうな様子は見られなかった。むしろ、幸せそうに見えた。
 だが、それは、初めから他の選択肢をすべて排除されていたためだろう。生まれたときからサイファの婚約者と決められ、16歳で結婚して家庭に入るのだと言い聞かされて育った。他のことは考えも及ばなかったに違いない。言い方は悪いが洗脳のようなものだ。
 現実として、彼女がそれを受け入れるしかないことは理解している。彼女ひとりの力ではどうすることもできない問題だ。そうだとすれば、下手に自分の考えなど持たない方が幸せなのかもしれない。
 しかし、不条理な運命を当然のように受け入れている彼女を目の当たりにすると、無性に腹立たしく感じられた。それは自分の勝手な感情である。相手に押しつけてはならないものだ。
 そう、彼女をこんなふうに問い詰めるべきではなかった。
 そもそもラウルは他人には干渉しないようにしている。誰がどういう人生を送ろうと、自分には関係のないことだ。レイチェルについては、様々ないきさつもあり、特別な感情がなかったとはいわないが、それでも積極的に関わろうとはしなかった。
 だが、今日は——。
 彼女に関することにおける今日の行動は、どれも普通ではない。完全に自分の基準から外れている。いまだに過去の面影を引きずっているのだろうか。いや、そうではない。研究所でアルフォンスに言った理由は嘘ではないが、それはレイチェルに面影を重ねているということではなく、彼女を同じような目に遭わせたくないという思いである。
 ラウルは立ち上がった。冷蔵庫から小さなカップを取り出し、レイチェルの前に置く。それは、先ほどと同じプリンだった。余分に作ってあったものである。
「食べろ」
「うん……」
 レイチェルは曇った表情のまま小さく頷いた。だが、じっとしたまま手を伸ばそうとはしなかった。
「紅茶ももう一杯飲むか」
「うん……」
 ラウルは無言でレイチェルに背を向け、ヤカンに水を入れて火に掛けた。青い炎をじっと見つめる。その青の放つ強い光が、何か自分を挑発しているように感じられた。そんなふうに思うなどどうかしている——小さく溜息をつき、後ろのレイチェルに視線を向ける。
 彼女はそっとプリンに手を伸ばしていた。それをすくって口に運ぶと、ようやく少し微笑みを取り戻した。

「わかったわ」
 二個目のプリンを食べ終わり、二杯目の紅茶を飲んでいたレイチェルは、唐突に大きく瞬きをしてそう言うと、ティーカップをソーサに戻した。テーブルに腕をついて身を乗り出す。
「ラウル、私にプリンの作り方を教えて」
「……何を言っている」
 ラウルは怪訝に目を細めて言う。彼女の発言はあまりに突飛なものだった。いったい何がわかったというのだろうか。何を思ってそんなことを言い出したのだろうか。まるで見当がつかない。
「私、このプリンを食べて元気が出たの。幸せを感じたの。だから、私もこのプリンを作ってみたい、作れるようになりたいなって」
「なぜそうなる……」
「これが私のやりたいことよ。ちゃんと自分で考えたの」
 レイチェルはにっこりとして言った。
 ラウルはじっと彼女を見つめる。確かにやりたいことはあるのかと尋ねたが、そういうことをいったのではない。人生をどうするのかということを尋ねたつもりだった。しかし、確かにいきなりそんな大きなことは考えられないだろう。的外れの理解不能な結論でも、彼女が自分で考えて出したのならば、それはそれで前向きといえる。
「おまえ、何か料理をしたことがあるのか」
「お茶を淹れたこともないわ」
 レイチェルは清々しいくらいにあっけらかんと答えた。
「……やめておけ、死ぬぞ」
 ラウルは眉をひそめ、低い声で言った。
「ラウルに迷惑は掛けないわ。作り方だけ教えて。すぐに作れるようになるとは思わないから、家で何度も練習しながら頑張るつもり」
「余計に不安だ」
「ねえ、お願い。お母さまに見てもらいながらにするから」
 レイチェルは顔の前で両手を組んで懇願した。大きな蒼い瞳が小さく揺れる。
 ラウルは腕をつき、額を押さえた。それほど難しいことではないのだが、お茶すら淹れたことのない彼女には危険な作業だ。火傷でもしかねない。だが、こんなにも必死な彼女を見たのは初めてである。そこまでの強い希望であれば叶えてやるべきではないか——そんな気持ちになる。
「……絶対にひとりではやるな」
 レイチェルはぱっと顔を明るくして体を起こした。
「ありがとう、約束は絶対に守るから心配しないで」
「今日はもう遅い。あしたでいいな」
 ラウルは疲れた声でそう言うと、腕を組んで溜息をついた。
 そんなラウルの心情を知ってか知らずか、レイチェルは両手を組んで浮かれた声で言う。
「いつになるかわからないけれど、上手に作れたらラウルにも持ってくるわね」
「食べられるものしか受け付けんぞ」
「ええ、精いっぱい頑張るわ」
 レイチェルは愛くるしい笑顔で答えた。
 これも我が侭といえばそうだ。だが、今までの我が侭とは違う。単に誰かに何かをしてもらおうというのではなく、自分で考えて努力しようとしている。これまでの彼女にはなかった姿勢である。まだ恐ろしいくらいに危うく未熟だが、彼女は自分の意志を持って歩き始めたのかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのか——ラウルにはわからなかった。


12. 妥協点

 その日も医務室はとても静かだった。
 昼下がりの穏やかな光が、レースのカーテン越しに柔らかく室内を照らしていた。細く開いた窓から入り込んだ風が、そのカーテンを微かに揺らめかせている。

 ラウルは机に向かって黙々と本を読んでいた。来るかどうかもわからない患者を待っているのである。ひとりも来ない日の方が多い。それでも、ここで待機するのが王宮医師としての仕事なのだ。

「ラウル、こんにちは」
 ノックもなしに扉が開き、レイチェルが澄んだ声で挨拶をしながら入ってきた。軽い足どりでラウルに駆け寄り、後ろで手を組んでにっこりと笑顔を見せる。
 ラウルは彼女を冷たく一瞥して言う。
「何をしに来た。今日は家庭教師は休みだろう」
「だから遊びに来たの」
「帰れ。家でプリンでも作っていろ」
 彼女にはきのう、約束どおりプリンの作り方を教えてやった。呆れるくらい詳細なレシピも渡した。あしたから頑張ると張り切っていたはずなのに、どういうつもりで遊びに来たのかわからない。単なる小休止だろうか。それとも諦めたのだろうか。もうプリン作りに成功した——とは、とても考えられない。
 レイチェルは顔の横で右手を広げて見せた。真ん中の三本の指の先には、それぞれ絆創膏が巻いてあった。
「……火傷か」
「ええ、午前中に作りかけていたんだけど、そのときに手を滑らせてしまったの。それで、この火傷が治るまでプリン作りはお休みしなさい、ってお母さまに言われて」
 ラウルは溜息をついた。早々に懸念が現実になってしまった。だが、これくらいの火傷でまだ良かったといえるだろう。診てみないと正確なことはわからないが、そう酷くはなさそうである。
「座れ」
 患者用の丸椅子を顎で示して言う。本を閉じて立ち上がると、薬、包帯、ガーゼなどを棚から取り出し、手際よく準備を進めていった。
「本当にお医者さんなのね」
 レイチェルは感心したように言った。数日前にも同じことを言っていたが、あのときは単に医務室を見ただけである。実際に医者として行動するラウルを見て、初めてその実感を持ったに違いない。
「ようやく信じたのか」
「疑っていたわけじゃないの。ただ、少し不思議な感じがしただけ。私にとってラウルは家庭教師の先生だから、お医者さんっていう印象があまりなくて」
 レイチェルはにっこりと微笑んだ。
 ラウルは無言で椅子に座り、彼女と向かい合った。ほっそりとした白い手を取り、すべての絆創膏を丁寧に外していく。火傷は思ったとおり軽度のものだった。跡が残ることもないだろう。消毒をして薬を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻いた。三箇所もあるため、少し仰々しく見える。
「ずいぶん大袈裟ね。指が動かしにくいわ」
「我慢しろ」
 不満げなレイチェルを、ラウルは冷たく一蹴した。
「どのくらいで治るの?」
 レイチェルは広げた右手を表にしたり裏にしたりしながら尋ねる。
「数日、長くても一週間だ」
「治ったらまた頑張るわね、プリン作り」
「……今度こそ気をつけろ」
 ラウルは静かに注意を促した。しかし本音は違う。もう止めろと言いたかった。だが、そう言ったところで、彼女が素直に聞くとは思えない。それに、せっかく彼女が意欲を見せているのだ。なるべくその気持ちを尊重してやりたいという思いもあった。
「ありがとう。いつかきっと、ラウルに食べてもらえるものを作るわね」
 レイチェルは眩しいくらいの笑顔を見せた。
 ラウルは眉根を寄せて目を細めた。
「治療は終わった。もう帰れ」
「これから外へ遊びに行かない?」
 レイチェルは顔を斜めにして誘いかけた。
「帰れ」
 ラウルは冷たくそう言うと、彼女に背を向けて後片付けを始めた。
 それでもレイチェルは引かなかった。
「行きたいところがあるの」
「ひとりで行け」
「ラウルと一緒に行きたいの」
「仕事中だ」
「一時間だけ休憩して行きましょう、ね?」
「……一時間だけだぞ」
 ラウルは観念したかのように溜息をついて言った。結局、いつも彼女の思いどおりになってしまう。それを許しているのは、彼女に対する自分の甘さに他ならない。そのことはわかっていた。そして、その理由もはっきりと自覚していた。

 暖かな陽光が降りそそぐ中、ラウルとレイチェルは人気のない小径へと足を進めた。王宮からのざわめきが次第に小さくなっていくのを感じる。
「どこへ行く」
「きれいなところ」
 レイチェルははぐらかすように答え、顔を上げてくすりと笑った。妙に嬉しそうに見える。どうやら今はまだ秘密にしておきたいらしい。着いてからのお楽しみということなのだろう。ラウルはそれ以上の追及はしなかった。
 しばらく歩くと、蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチが現れた。
 ——そうか、ここは……。
 特徴的なその建造物を目にして気がついた。いや、思い出したというべきだろうか。自分は以前にもここへ来たことがあったのだ。記憶が正しければ、この先は——。
「ね、きれいでしょう?」
 アーチをくぐって駆け出したレイチェルは、大きく両手を広げ、まばゆい笑顔で振り返った。
 金の髪が軽やかに舞い上がり、後方からの光を受けて透き通るように煌めく。
 その背後には、色鮮やかなバラ園が一面に広がっていた。
「今がいちばん花のきれいな時季って聞いたから、ラウルと一緒にここへ来たかったの」
 そう言うと、後ろで手を組み、にっこりとして首を傾ける。
「ラウルは初めて?」
「サイファに連れてこられたことがある」
 ラウルは彼女の方へ歩きながら答えた。それはもう10年以上前のことである。このバラ園は、あのときとほとんど変わっていない。少し広くなったくらいである。今でも手入れは隅々まで行き届いているようだ。様々な種類のバラが見事に咲き誇っている。ほんのりと甘い匂いが鼻を掠めた。
「もうずっと昔のことだ」
「そうだったの」
 レイチェルは相槌を打って微笑むと、バラ園の中の細道に足を向けた。
 ラウルも彼女について歩いた。彼女の足どりが次第に軽くなっていくのがわかった。薄水色の大きなリボンが弾んでいる。顔を見ずとも、浮かれているのが伝わってきた。
 ふと、彼女の隣に咲いていた淡い色の花が目に止まった。それはピンクローズである。サイファが好きだと言っていた花だ。レイチェルに似ているというのがその理由だった。
 そう、確かに似ているのだ。華やかさも、可憐さも、その棘さえも——。
「気をつけろ。それ以上、怪我を増やすな」
「そうなったら、またラウルに治療してもらうわ」
 レイチェルは愛くるしい笑顔でラウルの忠告を受け流し、一輪のピンクローズに手を伸ばした。そっと顔を近づけて目を閉じる。薄く色づいた小さな唇が、同じ色の花びらを掠めた。
「ラウルはこの花、好き?」
「……ああ」
 ラウルは少しの躊躇いのあと、静かな声でそう返事をした。
 以前は好きでも嫌いでもなかった。そもそも花に興味などなかった。だが、その花だけは、いつのまにか自分の中で特別な存在になっていた。間違いなくサイファとレイチェルの影響である。
「サイファもこれが好きなのよ」
「知っている」
 ラウルは無愛想に答えて腕を組んだ。今はそんな話など聞きたくなかったが、レイチェルに他意はないのだろう。思ったことを無邪気に口にしたにすぎない。ただそれだけだ。
「ねえ、ラウル」
 レイチェルは体を起こして振り返った。後ろで手を組み、大きな瞳でラウルをじっと覗き込む。
「来て良かった?」
「……ああ」
 ラウルは無表情のまま答えると、嬉しそうに微笑んだ彼女を見下ろした。これが肯定の理由である。彼女が喜んでいるのであれば、自分の気持ちはどうであれ、ここへ来た価値があるといえるだろう。いや、彼女が笑顔を見せてくれるのであれば、自分自身も来て良かったと思える。
 レイチェルは微笑んだままで言う。
「キスしてくれる?」
 ラウルはわけがわからず眉根を寄せる。
「何だ、唐突に」
「好き合っている二人は、そうやって気持ちを確かめ合うんですって」
 いったいそれはどこから得た知識なのだろうか。怪訝に思ったが、敢えて尋ねなかった。聞いたところで、応じるわけにはいかないのである。彼女はサイファの婚約者なのだ。
「そういうことはサイファに言え」
「サイファには結婚してからって言われたの」
 レイチェルは軽く答えた。
 ラウルは表情を険しくして口を結んだ。彼女が何を考えているのか理解できなかった。おそらく深くは考えていないのだろう。彼女を常識で測ろうとすることが間違いだ。これまで閉鎖的に育てられてきたせいか、普通ならば持ち合わせているべき感覚の欠落が見受けられることも多い。
「私はサイファの代わりというわけか」
「そうじゃないわ。私、ラウルのことが好きだし、ラウルだって私のことが好きでしょう?」
 レイチェルは当然のように言った。
「おまえが私を好きだというのは幻想だ」
「そんなことないわ」
「ならば、どこが好きなのか、なぜ好きなのか言ってみろ」
 ラウルは平静を装いながらも感情的に問い詰める。
「人を好きになるのに理由なんてないでしょう?」
 レイチェルは不思議そうに首を傾げる。
「それは思考の放棄に対する言い訳にすぎない」
 ラウルは容赦なく切り捨てた。
「必ずしも理由を意識して好きになるわけではないが、好きになったことには理由が存在する。それを考えることすらせず、ただ相手に気持ちを押しつけるだけというのは、傲慢としか言いようがない。理由を問われれば答える、それが相手に対する誠意だろう。もし理由を考えても見つからないのであれば、その気持ちは単なる思い込みということだ」
 レイチェルはじっと黙って聞いていた。話が終わると、ラウルを見つめたまま静かに尋ねる。
「じゃあ、ラウルが私を好きな理由は?」
 ラウルはムッとして低い声で言う。
「勝手に決めつけるな。いつ私がおまえを好きだと言った」
「でも好きなんでしょう?」
 レイチェルはさらりと言う。そのことを少しも疑っていない様子だ。むしろ、なぜ認めないのかわからないとでも言いたげな顔をしている。
 その何もかも見透かしたような態度が腹立たしかった。
「そうであっても、私がそれを口にしていない以上、理由を教える筋合いはない」
「知られたくない理由なの?」
 ぽつりと投げかけられた疑問。
「……そういうわけではない」
 ラウルは僅かに視線を落として答えた。自分の気持ちについて口を閉ざしているのは、それが最善だと判断したからだ。逃げていると思われるのは仕方がない。だが、変に誤解されることだけは避けたかった。彼女の問いかけは、単なる思いつきだったのだろうか。それとも、本当にそう思っているのだろうか。だとすれば、自分はどう応じるべきなのだろうか——。
「ごめんなさい、私の方が理由を言わなければならないのよね」
 レイチェルは申し訳なさそうに肩をすくめて微笑んだ。ラウルに背を向けると、後ろで手を組み、空を見上げながらゆっくりと歩き出す。ちらりと見えた横顔は、真剣そのものだった。問われた答えを懸命に探している様子である。
 ラウルも彼女の後ろについて歩く。
「無理に言わなくてもいい」
「ううん、ちゃんと考えて答えるわ。信じてもらいたいから」
 レイチェルは振り返らずに言った。
 彼女の指に巻かれた白い包帯が見える。
 両側のピンクローズが小さく揺れた。
「ラウルは……」
 レイチェルはそう切り出して足を止めた。その場でくるりと振り返る。金色の髪と薄水色のドレスがふわりと舞った。
「ラウルは優しいから好き」
 甘く愛らしく微笑み、澄んだ声を響かせる。
「……私は優しくなどない」
 ラウルは表情を動かさず、気難しい声で反論する。
「私のことをいつも真剣に考えてくれているでしょう?」
「義務を果たしているだけだ」
「私のことを好きでいてくれるのも義務なの?」
 レイチェルは淡々と追及する。
 ラウルは溜息をついた。納得したという態度を見せない限り、いつまでも食い下がってきそうな気がした。今の彼女はそのくらいひたむきに見えたのだ。言い合って勝てる気がしない。
「……もういい、わかった」
 レイチェルの顔がパッと輝いた。胸の前で両手を合わせる。
「本当? じゃあ、キスしてくれる?」
「それとこれとは話が別だ」
 ラウルはきっぱりと冷静に突き放した。他に仕方がなかった。こればかりは彼女の言いなりになるわけにはいかない。その強い決意を瞳に宿す。
「そう……」
 レイチェルはラウルの意思を感じ取ったのだろう。もう我が侭を通そうとはしなかった。一瞬だけ悲しげに表情を曇らせたが、すぐにもとの明るい笑顔に戻った。気にしないとばかりに、悪戯っぽく肩をすくめて見せる。そして、再びラウルに背を向けると、まるで何事もなかったかのように、両側のバラを愛でながら歩き始めた。
 ラウルは目を細めて青い空を仰いだ。小さく溜息をつく。
「レイチェル、そろそろ帰るぞ」
「もう? 約束の時間はまだ残っているはずだけど……」
 レイチェルは瞬きをして振り返り、遠慮がちに不満を口にする。彼女の言うように、確かにまだ約束の時間は残っていた。一時間の半分ほどしか過ぎていない。だが、ラウルはここを離れたかったのだ。彼女のようには気持ちを切り替えられない。この場で散歩の続きをする気にはなれなかった。
「部屋でお茶を淹れてやる」
「本当? 嬉しい」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませた。ラウルの隣に駆け寄ると、下から覗き込んで笑顔を見せる。今までと何ら変わることのない愛らしい笑顔だった。
 ラウルは無言で彼女の手を取り、柔らかく包み込むように握った。
「えっ?」
 レイチェルは大きく瞬きをしてラウルを見上げた。
「今日だけだ」
 ラウルは無表情で彼女を一瞥して言う。
「ありがとう」
 レイチェルはそう答えると、ふたりの手に視線を落とし、そっと穏やかに微笑んだ。それは、今までに見たことのない、幸せに満たされたような優しい表情だった。

 繋がれた大きな左手と小さな右手。
 これが彼女の気持ちに対する自分の行動の妥協点だった。
 彼女が望んだものとは違う形だが、求める本質は同じだろう。
 ラウルは手の中の温もりを感じながら、ゆっくりと歩き始めた。


13. 沈黙という嘘

 ラウルがレイチェルとバラ園に行った日から2ヶ月が過ぎた。
 家庭教師は淡々と続けている。
 レイチェルはそれまでと変わることなく真面目に授業を受けていた。そして、終了後にはラウルを医務室まで送り、ついでに部屋に紅茶を飲みに来るのだ。もっとも、ラウルとのティータイムは毎日というわけではない。週に1、2回は、仕事を早く終えたサイファと過ごすために、部屋には寄らずに帰っていった。婚約者の方を優先するのは当然のことだろう。
 約束していた手作りのプリンは、まだ一度も持ってきていない。どうやら納得のいくものが作れていないようだ。ラウルのものと比べると何かが違う、とよく嘆いている。それでも諦めることなく、休日のたびに奮闘しているらしい。
 学習状況は良い方に向かっているといっていいだろう。
 応用問題はまだ苦手なようで、すぐに自力で解くことはないが、水を向けると少しずつ考えるようになった。当然のように思考を放棄していたときから比べると、格段の進歩であるといえる。
 魔導についても、理論の方だけは渋々ながらも授業を受けるようになった。ただ、実技の方は、頑として拒否している。彼女に関していえば、制御を学ぶことが何より必要なのだ。理論だけでは足りない。実際にやってみないことには、決して出来るようになるものではない。このままというわけにはいかないのだ。何とかしなければ——。

「レイチェル、今度、テストをやる」
 魔導理論の授業を終えたラウルは、教本を閉じながらそう告げた。
 レイチェルは目をぱちくりさせて振り向く。
「魔導の?」
「そうだ。この本から出す」
 ラウルは右手で先ほど閉じた教本を掲げた。この魔導理論の授業で使ってきたものだ。今日の授業でこの本は一応終了ということになっている。
「どうして魔導だけテストをするの?」
 彼女の学力を確認するため、最初に一度だけ受けさせたことはあったが、それ以外ではテストを行ったことはなかった。それなのに急に一科目だけ、それも他と比べて学習期間の短い魔導だけとなると、彼女の疑問も当然である。
 ラウルは正面から彼女を見据えた。
「このテストで一問でも間違えたら、魔導の実技の方も学んでもらう」
「それって……」
 レイチェルは目を大きくして何かを言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。キュッと眉根を寄せてうつむき、何もない床の一点を見つめながら考え込む。そして、ゆっくりと顔を上げると、大きな蒼の瞳をまっすぐラウルに向けた。
「全問正解だったら、私のお願いを聞いてくれる?」
「いいだろう、何だ」
 ラウルは腕を組んで言った。彼女がこのテストを受けなければ始まらない。そのくらいの約束はしてやってもいいだろうと思う。多少の無理を言われても承諾するつもりだった。だが——。
「キスして」
 小さな薄紅色の唇から、短い言葉が紡がれる。
 ラウルの眉がピクリと動いた。
「おまえは馬鹿か」
「だったら、私、そんなテスト受けないから」
 レイチェルは軽い調子で切り返した。ラウルが条件を呑まない限りは、本気でテストを受けないつもりのようだ。彼女からすれば、ラウルが条件を呑んでも、テストを取りやめても、どちらでも構わないのだろう。
「そんな勝手が許されると思っているのか。魔導の力を持って生まれてきたからには、魔導の制御を学ぶ義務がある。何度もそう言ったはずだ」
「それって、私が全問正解できないと思っているってこと?」
 ラウルは何も答えられなかった。確かにそう思っている。それが目的のための前提条件なのだ。だが、彼女に悟られてはならなかった。あまりにも不用意な発言をしてしまったと思う。
 レイチェルはニコッと笑った。
「だったら約束してくれてもいいじゃない。全問正解だったら私のお願いを聞いてくれるって。そうなることはないって思っているんでしょう?」
 ラウルは少し考えたあと、彼女を見つめて静かに言う。
「いいだろう、その条件を呑もう」
「ありがとう、ラウル!」
 レイチェルは胸の前で両手を組み合わせ、無邪気にはしゃいだ声を上げる。
「テストは一週間後にしてくれる? ちゃんと勉強したいから」
「わかった、では一週間後だ」
 ラウルは感情のない声でそう言うと、難しい表情で僅かに目を細めた。

 その日から、レイチェルはラウルの部屋に来なくなった。医務室の前までは今までどおりに来るが、中には入らず、そのまま帰っていくのである。
 怒っているとか、喧嘩をしたとか、そういうことではない。
 きちんと試験勉強をしたいという彼女の前向きな意思からの行動である。ティータイムの時間を試験勉強に費やすのだと言っていた。これほどまでに懸命な彼女は、今までに見たことがない。必死といってもいいくらいだ。
 魔導をやりたくないという気持ちがそこまで強いのだろうか。
 去り行く彼女の後ろ姿を見るたびに、ラウルは漠然とそんなことを考えていた。

 テストの前日——。
 ラウルは自室で机に向かい、テストの準備をしていた。教本から満遍なく出題箇所を選び、問題を作る。ほとんどは彼女が解けないレベルの問題ではない。だが、一問だけ確実に解けない問題を作った。それは、教えていない章から出題したものである。別の教本で詳しく教える予定にしていたので、この本では飛ばした章があったのだ。
 彼女には、教わっていないことを自力で勉強して理解する力はまだない。この章から出題されるかもしれないと予想は出来ても、それに対応することは不可能なのである。
 つまり、全問正解はありえないのだ。
 そして、約束どおり、彼女は魔導の制御を学ぶことになるだろう。
 それがラウルの筋書きだった。
 褒められた方法とはいえない。だが、他に実現可能な手段が思い浮かばなかったのだ。あまり悠長に構えている余裕はなかった。彼女の魔導力を利用しようとする輩が、またいつ現れないとも限らない。下手なことをして暴発させられるかもしれない。そうなる前に、自分を守る術を身につけさせる必要があるのだ。
 ラウルは顔を上げ、向かい側の席をじっと見つめる。そこは彼女の指定席だった。ここへ来るたびに、いつも同じその席に座るのである。今は空席で誰もいない。今後もずっと空席のままかもかもしれない。このテストのことで彼女に反感を持たれてしまうのではないかと懸念しているのだ。
 だが、たとえそうなったとしても仕方のないことである。それでも自分がやらなければならない。自分以外の誰にも託せることではない。すでに覚悟は決めていた。

 翌日、ラウルは作成したテスト問題を持って、レイチェルの家に向かった。少し足が重く感じる。そんな自分の不甲斐なさに呆れ、小さく溜息をついて顔を上げた。澄み渡った青空から降りそそぐ陽射しは、痛いくらいに強かった。眉をしかめて目を細めると、焦茶色の長髪をなびかせながら、雑念を振り切るように足を速めた。

 ラウルを部屋に迎え入れた彼女は、普段と変わることなく明るい笑顔を振りまいていた。今日がテストの日であることを忘れているのかと心配になったくらいである。だが、それは杞憂だった。
「今日はテストなんでしょう? 今から始めるの?」
 レイチェルは机に向かって座ると、すぐに尋ねてきた。
 ラウルは持ってきたテスト問題を彼女の前に広げて置いた。
「時間は90分だ」
「わかったわ」
 レイチェルはにっこりと微笑んで答えた。
 ラウルは机上の時計で時間を確認すると、静かに短い合図をする。
「始めろ」
 レイチェルはその言葉と同時に鉛筆を手に取り、真剣な顔で問題を解き始めた。
 ラウルは少し離れたところに椅子を置き、後ろから彼女の様子を窺った。特に悩む様子もなく解いているようだ。最初のうちはそうだろう。だが、最後には絶対に解けない問題が待っているのだ。彼女の後ろ姿を見ながら、眉根を寄せて目を細めた。

「終わったわ」
 制限時間の90分を待たずに、レイチェルはそう言って鉛筆を置いた。解答用紙をすべてきちんと重ねると、窓枠にもたれかかって立っていたラウルに振り向き、にっこりと大きく微笑んだ。
「もういいのか」
「ええ」
 ラウルは訝しげに眉をひそめる。彼女の曇りのない笑顔がどうにも腑に落ちなかった。解けない問題があったのならば、笑っている場合ではないはずだ。解けたつもりでいるのだろうか。それとも諦めたということなのだろうか——胸にわだかまるものを抱えながら、彼女の方へ足を進めて言う。
「今から採点をする。おまえはしばらくどこかで待っていろ」
「わかったわ」
 レイチェルは天蓋のベッドに駆けていくと、その縁に弾むように腰掛けた。そして、ふんわりとした白い布団の上に、倒れこむように身を横たえる。その肩が小さく揺れ始めた。何か楽しそうにくすくすと笑っているようだ。
 ラウルは怪訝に彼女を一瞥すると、無言で机に向かって採点を始めた。

 なぜだ——。
 ラウルは赤ペンを手にしたまま、反対の手で額を押さえた。長めの前髪をくしゃりと掴む。
 彼女の回答はすべて完璧だった。絶対に解けないはずだった最後の問題も、文句のつけようもないくらいに見事に解かれている。ありえない——。だが、これは現実だ。
「ね、どうだった?」
 レイチェルの声が耳元で聞こえた。待ちきれなかったのか、彼女はラウルのすぐそばまで様子を見に来ていた。採点中の解答用紙をニコニコしながら覗き込む。
「最後の問題も合っているでしょう?」
「……ああ」
 ラウルは観念して、赤ペンでゆっくりと丸をつけた。
「わぁ、全問正解ね」
 レイチェルは顔の前で両手を組み合わせ、はしゃいだ声を上げた。
「……なぜだ」
「頑張ったんだもの。ラウルも知っているでしょう?」
 彼女が努力をして結果を出したことは、素直に喜ぶべきことだろう。だが、これで、魔導の制御を学ばせようというラウルの目論見は崩れ去ってしまった。こんなはずではなかった。いったい何を見誤ったのだろうか。
 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。彼女にはどうしても必要なことなのだ。しつこいと思われようとも、早く次の手を考えなければ——。

「ラウル、覚えてる?」
 レイチェルは後ろで手を組み、小さく首を傾げてにっこりと微笑む。
「何をだ」
「全問正解だったらキスしてくれるって」
 ラウルは机に向かったままハッと目を見開いた。確かにその約束はした。だが、今の今まで忘れていた。全問正解はありえないと考えていたせいかもしれない。可能性があると考えていたならば、そもそもそのような条件は呑まなかった。
「今さらダメなんて言わないでしょう? ラウルは約束を破ったりしないものね」
 レイチェルは先回りして釘を刺すように言う。
 確かに約束を破ることなどあってはならない。家庭教師の自分が約束を破ったのでは、教え子のレイチェルに約束を守れなどとは言えなくなる。今後の信頼関係にも影響を及ぼすことになるだろう。
 しかし、だからといって、彼女の望みをきいてやるわけにもいかないのだ。自分にとってはたいしたことのない行為だとしても、彼女にとっては大きな意味を持つことになる。おそらく、彼女自身が思っている以上に重大な意味を——。
「どうしたの?」
 レイチェルは身を屈めて心配そうに覗き込んだ。細い金の髪がさらりと揺れる。強い引力を秘めた深い蒼の瞳で、答えを探るようにじっと見つめる。
 ラウルは険しい顔をゆっくりと彼女に向けた。
「おまえはわかっているのか」
「何を?」
 レイチェルはきょとんとして尋ね返した。
 やはり、少しもわかっていないのだろう。詳しく尋ねるまでもない。これほど率直に尋ね返すということは、思い当たる節がまるでないということだ。罪悪感の欠片もない様子からも明らかである。
 ラウルは思いつめた表情で頭を押さえた。その眉間には深い皺が刻まれていた。
「ラウルはそんなに嫌なの?」
「そうではない」
「じゃあ、何を悩んでいるの?」
「おまえのことだ」
「私に何か問題でもあるの?」
 レイチェルの容赦ない追及は続く。彼女のためにこれほど苦慮しているにもかかわらず、その彼女がさらに追撃してくるのだ。次第に苦々しく思う気持ちが湧き上がってきた。
「……いいだろう、約束を果たしてやる」
 ラウルは投げやりに椅子を引いて立ち上がった。背筋を反るくらいに伸ばし、睨むように見下ろしながら腕を組む。
 彼女は子供のように無邪気にニコニコしていた。いや、実際に子供のようなものだ。当たり前の常識も知らず、思いのまま自由奔放に行動するなど、子供としかいいようがない。
 そういうところが腹立たしかった。だが、同時に惹かれてもいるのだ。
「後悔しても知らんぞ」
「後悔なんてしないわ」
 レイチェルは大きな瞳でラウルを見つめ、澄んだ声できっぱりと言った。しかし、何もわかっていない彼女の決意など何の意味もない。それでも、ラウルにはその言葉が必要だったのかもしれない。
「目をつむれ」
「どうして?」
「やりにくい」
「でも、目をつむったら見えないわ」
「……好きにしろ」
 ラウルはもう何も考えないようにした。
 細い肩に手を掛けると、身を屈めて彼女に顔を近づける。
 焦茶色の長髪がカーテンのようにふたりを覆い隠した。
 そっと唇を触れ合わせる。
 鼓動を3つ数える。
 ゆっくりと顔を離して身を起こす。
 たったこれだけのこと。
 だが、しかし——。
 レイチェルは目を大きくして、離れていくラウルをじっと見つめた。透けるような白い肌には僅かな赤みが差し、薄紅色の小さな唇は半開きになっている。少しぼんやりしている様子だった。
 ラウルは彼女を見下ろし、感情を抑えた低い声で言う。
「気が済んだか」
「ええ、ありがとう」
 レイチェルは我に返ってにっこりと答えた。いつもと変わらない愛くるしい笑みの中に、幸せに満たされたような優しい表情が広がっている。それは、バラ園で手を繋いだときに見せたものと同じだった。
「愚かな女だ」
 何もわかっていないで幸せに浸っている彼女は愚かだ。
 だが、わかっていながら止めなかった自分はもっと愚かだ。
 彼女にはきちんと伝えて説明すべきだった。その望みはサイファを裏切る行為だということを。そして、ラグランジェ本家次期当主の婚約者であるという事実の重みを——。
 だが、どうしても口に出すことができなかった。
 別にサイファとの結婚を阻止しようなどとは思っていない。彼女は最終的にはサイファを選ぶことになるだろう。そうであるべきだと思う。納得はいかないが、彼女のためを思えば、現実問題として最善の選択なのだ。それでも、その手助けをすることだけはしたくなかった。
 だから、沈黙という嘘をついたのだ。
「早く行きましょう。今日は久し振りにラウルのところでお茶をするんだから」
 レイチェルは屈託なく澄んだ声を弾ませた。そして、軽い足どりで扉まで駆けていくと、くるりと振り返り、とびきりの笑顔を見せた。後ろで手を組み合わせ、大きく瞬きをすると、愛らしく小首を傾げる。
 ——おまえは知らない、本当の私を。
 ラウルは心の中で静かに呟き、しかし固く口を閉ざしたまま、扉で待つ彼女のもとへ足を進めた。


14. 許されない衝動

「やあ、ラウル」
 サイファはいつものように人なつこい笑顔を浮かべると、塀に寄りかかったまま軽く右手を上げた。昼下がりの強い陽射しを浴び、濃青色の制服がよりいっそう鮮やかに見える。当たり前のように佇んでいるが、ここは王宮ではなくレイチェルの家の前である。
「こんなところで何をしている」
「ラウルを待っていたんだよ」
 家庭教師であるラウルがこの時間にここへ来ることは、サイファは当然ながら知っていることだ。だが、これまで医務室に来ることはあっても、王宮の外で待ち伏せされたことはなかった。わざわざ仕事を抜けて来るほどの用件なのだろうか。
 ふと三日前のことが頭をよぎる。
 だが、すぐにその考えを自分で否定する。あのことについては、レイチェルには口止めをしておいた。その理由はわかっていないようだったが、誰にも言わないことについてはとりあえず承諾してくれた。彼女がそう簡単に約束を破るとは思えない。第一、サイファがそのことを知っているとしたら、こんな笑顔でラウルの前に立っていないはずだ。
「レイチェル、良く出来ていただろう?」
 サイファは口もとに薄い笑みを乗せて言う。
 ラウルの眉がピクリと動いた。
 それがテストのことだというのはすぐにわかった。そして——。
「……おまえが教えたのか」
「一週間もあったから余裕だったよ」
 サイファは明るい笑顔を見せる。
「仕事はどうした」
「家庭の事情ということで、早く帰らせてもらったんだ」
 ラグランジェ本家の次期当主が「家庭の事情」と言えば、表立って咎めることなど誰にも出来ないだろう。サイファはそのことをよく理解している。その上で、あえてその言葉を選んでいるのだ。利用できるものは遠慮なく利用するというのが彼の考えである。
「レイチェルがめずらしく真剣に頼んでくるから断れなかったんだよ。まあ、僕としても、レイチェルに頼りにされて嬉しかったんだけどね。それに、家庭教師気分を味わえてなかなか楽しかったよ」
 サイファはくすっと笑うと、少し真面目な顔になった。
「だが、少し気になってな」
「何だ」
「教えてもいない章から出題するなんて、ラウルらしくないからさ」
 サイファは鋭いところをついてきた。
「僕は絶対に出ないって言ったんだけど、レイチェルは絶対に出るって言い張ってね。まあ、勉強するのは悪いことじゃないし、それでレイチェルの気が済むのならと思って教えてあげたんだけど、テストを見せてもらったら本当にそこから出題されていたから驚いたよ」
 ラウルは眉根を寄せた。
「おまえのせいで魔導を教える機会をふいにした」
「どういうことだ?」
 サイファはきょとんとして尋ねる。
 ラウルはテストの目的について説明する。もちろん、レイチェルの提示した条件については触れなかった。もともと後付けの条件であるため、それを言わなくとも話が不自然になることはない。
「それであんなに必死だったわけか……」
 サイファは素直に納得したようだった。腕を組みながら難しい顔で言う。
「魔導は徹底的に嫌がっているからなぁ」
「おまえさえ余計なことをしなければ、上手くいったはずだった」
 ラウルは感情のない目で見下ろした。知らなかったこととはいえ、結果的にサイファが大切な計画を妨害したことになるのだ。そして、レイチェルの無邪気な裏切りを手助けしたことにもなる。それも彼自身に対する裏切りを——。そのことはまだ知らない。いや、今後も知ることはないだろう。
 サイファは眉をひそめて睨み返した。
「あのなぁ、そんな浅はかな手を使うからいけないんじゃないのか? 家庭教師のやることじゃないぞ。ラウルにしてはあまりにも粗末だな。こういうことについては、レイチェルのためにも、正面からきちんと説得するのが筋だと思うけどね」
「説得は何度も試みたが、了解を得られなかった」
 ラウルの胸に苦々しい思いがわだかまる。サイファの主張がまぎれもない正論であることはわかっている。だが、理想どおりにいくものではない。レイチェルを説得できないとなれば、別の方法をとるしかないと考えたのだ。いつまでも先延ばしにするわけにはいかないのである。
「なら、切り札を使うか?」
 サイファは上目遣いでそう言うと、片方の口の端を上げた。
「何だ」
「僕ならレイチェルを説得できる」
 ラウルは僅かに目を細め、冷たい視線を送った。
「たいした自信だな」
「彼女は僕の言うことなら何でも聞くからね」
 サイファは当然のように言う。そのことがラウルの癪に障った。ムッとして言い返す。
「だったら、さっさと説得していれば良かっただろう」
「無理強いをするのは趣味じゃないんだよ。今回はラウルが困っているから特別だね」
 サイファは無邪気なくらいに屈託のない笑顔を見せた。鮮やかな金の髪がさらりと揺れて上品な煌めきを放つ。その言いようのない眩しさに、ラウルは思わず眉根を寄せた。

「あら、サイファ、どうしたの?」
 門を開けて外に出てきたレイチェルは、二人の姿を認めると、驚いたように目をぱちくりさせて声を掛けた。サイファがここにいることもそうだが、ラウルと一緒にいることを不思議に思ったのかもしれない。
 サイファは慌てることなく尋ね返す。
「レイチェルこそどうしたの?」
「ラウルが遅いから心配になって見にきたの」
 ラウルはいつもきっちりと約束の時刻に到着するようにしていた。今日はサイファと話している時間分だけすでに遅れていることになる。
「ごめんね、ちょっとラウルと話したいことがあったんだ」
「何の話?」
「おいで、レイチェル」
 サイファは寄りかかっていた塀から体を離すと、すっと右手を伸ばして彼女を呼んだ。レイチェルは素直に小走りで駆けていく。サイファはその細い腰に両手をまわして彼女を捉えると、まっすぐに蒼の瞳を見つめ、柔らかく微笑んで言う。
「レイチェル、先生の言うことは聞かないとダメだよ」
「聞いているわ」
「魔導をやりたくないって我が侭を言っているだろう?」
「……ええ」
 僅かにレイチェルの表情がこわばった。
「魔導の力を持つ者は、その扱い方を知る必要がある。義務だといってもいい。そして、それは君自身を守ることにも繋がるんだ。難しいことじゃないよ。何も高度な魔導を使いこなせというんじゃない。制御の方法を身につけるだけでいいんだ。僕も、アルフォンスも、アリスも、みんなやってきたことだよ」
「でも、私は……私には……」
「大丈夫だよ。僕の言うことを信じて」
 サイファは慈しむように彼女の頬に触れた。手のひらでそっと包み込む。
 ラウルは仏頂面で腕を組み、その様子を眺めていた。説得の内容は、ラウルがこれまで幾度となく口にしてきたものと変わらない。それでも彼女の心を動かすことは出来なかったのだ。彼女がどれほど頑なに拒絶しているか、サイファは知らないのだろうか。こんなに簡単に説得できれば苦労はしない。そう思った。だが——。
「……わかったわ」
 レイチェルは真摯にサイファを見つめてそう言った。まだ不安そうではあるが、懸命にそれを受け入れようとしているように感じられた。少なくとも、この場を言い逃れるための嘘や出任せではなさそうだ。
「ありがとう」
 サイファは優しく礼を言うと、彼女の頭にそっと手を置いた。彼女は表情を緩めて微笑みを浮かべる。大きいとはいえない手だが、彼女には十分な温もりと安心感を与えているのだろう。
「それじゃあ、先生、あとはよろしく頼むよ」
「……ああ」
 サイファが顔を上げてにっこり微笑むと、ラウルは無表情のまま低い声で返事をした。

「ラウル、どうしたの? 怒っているの?」
「怒ってなどいない」
 小走りでついてくるレイチェルに振り返ることなく、ラウルは突き放すように答えた。大きな足どりで彼女の部屋に入ると、立ったまま腕を組んで溜息をつく。
 怒ってなどいない、ただ、少し面白くなかっただけだ。
 自分も同じように説得したはずなのに、彼女の態度はまるで違う。
 やはり、彼女にとってサイファは特別なのだろうか。
 サイファの言うことであれば何でも聞くのだろうか。
 なぜ、そこまで——。
 納得のいかない気持ちが、心の奥でくすぶり続けている。
 しかし、これで魔導の制御を学ばせることはできるのだ。今はこのことを考えなければならない。大きく呼吸をしてから彼女に振り向く。
「本当に魔導をやるんだな」
「ええ、サイファと約束したから」
 レイチェルはラウルの気持ちを逆撫でするような返事をする。もっとも、彼女にそのつもりがないことは十分に理解している。ラウルの心情など何もわかっていないのだ。
「明日から魔導の訓練を行う。もう少し動きやすい服装を用意しておけ」
「明日から、ね……わかったわ」
 レイチェルの声は硬かった。声だけではなく表情も硬かった。小さな口をきゅっとつぐんで目を伏せると、何もない床の一点をじっと見つめる。気のせいか、今にも泣き出しそうに見えた。
「心配するな、危険なことはしない」
「……嫌いにならないで」
 レイチェルは震える声でぽつりと言う。
 ラウルは怪訝に目を細めた。彼女がなぜそのようなことを言い出したのかわからなかった。苦手なことをやらされる不安や恐怖を抱え、心細くなっているのかもしれない。
「嫌いになどならない」
 正面から彼女に向き直り、落ち着いた声ではっきりと答える。
 レイチェルはうつむいたまま小さく頷いた。それからゆっくりと顔を上げ、ラウルと視線を合わせると、ふっと甘く愛らしい微笑みを見せた。

 翌日、ラウルはいつものようにレイチェルの家に向かった。
 この日から魔導の訓練を始める予定になっていた。彼女のことが心配ではあったが、よほどのことがない限り、予定どおりに行うつもりでいた。いずれはやらなければならないことなのだ。とはいえ、望まないことを無理強いをするのはやはり心苦しい。あまり怯えてなければいいが——そんなことを思いながら、彼女の部屋の扉をノックする。
「こんにちは、ラウル」
 予想に反して、レイチェルは明るかった。屈託のない笑顔でラウルを招き入れる。彼女は思ったより気丈なのかもしれない。きのうの弱音が嘘のように、何もかも完璧にいつもどおりである。だが、服装だけはいつもと違った。
「なに? どうしたの?」
「動きやすい服装ということだな」
 ラウルはじっと見つめながら冷静に確認する。ドレスは普段のものと基本的に同じ形だが、丈だけが短かかった。膝が見えるくらいである。また、特徴的な後頭部の大きなリボンは付けられていない。
「これでいいかしら?」
「まあいいだろう」
 それほど動きやすい服装ではないが、それでも普段の歩きにくそうなドレスと比べると、格段に活動的であるといえる。そこまで激しい運動をするわけではない。これで十分である。実際のところ、当面は普段のドレスでも問題がないくらいだ。
 服装そのものはともかく、その準備をしてきたという事実が、ラウルを少し安心させた。彼女は訓練を受け入れる心構えが出来ている。これならば互いに嫌な思いをせずに進められそうだと思ったのだ。

「地下室へ行くの?」
「そうだ」
 ラウルは地下への階段を降りながら答える。
 レイチェルの言う「地下室」とは、地下にある魔導の訓練場のことだ。普通は個人が持つようなものではないが、魔導の名門であるラグランジェ家に限っては、本家も分家もみな持っているらしい。それだけ魔導を重要視している証といえるだろう。もちろん、それを作るだけの財力があるという証でもある。
 地下の訓練場を使わせてもらうことについては、すでにアルフォンスの許可を得ている。そのときに鍵も渡してもらった。レイチェルが魔導を学ぶ決心をしたことを、彼は素直に喜んでいた。気は早いが安堵している様子もあった。やはりずっと心配をしていたのだろう。
 細くて暗い階段を降りきると、そこに重厚な扉があった。かなり古びているようだ。預かった鍵で解錠し、その扉を押し開いた。
 ギギギ……と錆び付いたような音があたりに反響する。
 部屋の中はさほど広くなく、また、殺風景なほどに何もなかった。あるのは蛍光灯と換気扇くらいで、ほとんど無味乾燥な壁に囲まれているだけの部屋といえるだろう。だが、その壁が重要なのだ。魔導耐性に優れた物質で作られているのである。もちろん、それだけでは軽い魔導力にしか耐えられないため、通常はさらに結界を張って使用することになっている。
 ラウルは壁に沿って強力な結界を張った。これを力ずくで破れる人間はほとんどいないはずだ。今のレイチェルにはここまでの必要はないだろうが、彼女の奥底には未知の強大な力が眠っている。それに備えてのことだった。
「この地下室、かび臭くて息が詰まりそう」
「換気はしてある。我慢しろ」
 レイチェルは眉をひそめながら部屋の中を見まわした。魔導の訓練を避けてきた彼女のことだ。自分の家ではあるが、ここに来たことはあまりないのかもしれない。
 ラウルは壁を叩いて言う。
「ここに向かって打て。何でもいい。力一杯だ」
「わかったわ」
 レイチェルは素直に答えると、両手を合わせて呪文を唱え始める。ごく初歩的なものだ。彼女が知っている数少ない呪文のひとつなのだろう。両の手のひらの間に白い光が生じる。頭くらいの大きさになると、それをラウルが示した壁に向かって放った。白い光球は勢いよく突き進む。そして、結界を張った壁に衝突し、シュワッと軽い音を立てて消滅した。
「……力一杯と言ったはずだ」
「力一杯、打ったつもりよ」
 彼女の表面的な魔導力はそう強い方ではない。だが、それと比較しても、彼女が放った魔導はあまりに貧弱だった。これで力一杯とは考えられない、もっと強いものが放てるはずだ——反射的にそう思った。
 しかし、嘘を言っているようには見えない。
 今の彼女にとっては、もしかすると、本当にこれが精一杯なのかもしれない。そうだとすれば、想像以上にやっかいである。自分の中で魔導力を集中させるというのは、呪文以前の極めて基本的なことである。それすら、彼女はまともに出来ていないことになるのだ。
「もう一度やってみろ。今度はゆっくりとだ」
「ゆっくり?」
「時間を掛けて呪文を唱えろということだ」
「わかったわ」
 レイチェルは言われるまま、緩やかな口調で呪文を唱え始めた。
 ラウルは彼女の中の魔導を探り、その流れを見極めようとする。しかし、そのとき、ふと何かが意識の隅を掠めた。その正体はすぐにわかった。彼女の奥底に眠っている強大な魔導力である。普段は誰にも気づかれないくらい密やかに潜んでいるが、魔導を使っている間だけは僅かに開いているように感じられた。
 もしかすると、引き出せるかもしれない——。
 衝動的な思考が頭をよぎる。
 ラウルは正面から彼女の肩に右手を置いた。指先に少しだけ力を込める。
「えっ……?」
「続けろ」
 レイチェルは驚いて呪文を止めたが、ラウルの言葉に従い、再び緩やかに呪文の詠唱を始めた。
 ラウルは自分の魔導力を凝縮し、彼女に触れた部分から、それを注ぎ込んでいく。
 彼女の奥をこじ開けるように、眠った力を呼び覚ますように——。
 それは、魔導の封印を解く方法のひとつだった。正攻法ではないが、これで解けることもある。ただ、彼女の場合は封印とも違うので、この方法が有効かどうかはわからない。それでも、試す価値はあると思った。
「あっ、なに……っ」
 レイチェルは体内の反応にとまどいの声を上げる。体がびくりと揺れた。
「……はっ……はぁ、は……ぁっ……」
 次第に息が荒くなっていく。顔も体も熱を帯びて紅潮していた。
「……んっ、あぁ……あ……っ」
 必死に何かを堪えるように、苦しそうに眉根を寄せて目をつむる。
「ラウル……っ、あつい、体が……体の中が……」
「大丈夫だ。もうしばらく耐えろ」
 ラウルは冷静に彼女を観察しながら言う。眠っている力を呼び覚ますために注ぎ込んだ力は、活動中の魔導力にも影響を与える。必要以上に活性化させてしまうのだ。彼女には刺激が強すぎるのかもしれない。
「ラウル……お願い……もう、ダメ……っ」
 これが限界か——。
 ラウルは力を注ぐのをやめた。そっと手を離す。だが、レイチェルがふらりと揺れるのを見ると、慌ててその小さな体を両手で支えた。そして、軽く肩を抱いて自分の体に寄りかからせる。
「はっ……はぁっ……」
 彼女は苦しそうに大きく全身で息をしていた。顔が火照り、汗が滲んでいる。だいぶ無理をさせてしまったのかもしれない。それでも、結局、彼女の中の魔導に変化は見られなかった。彼女の奥底に眠る力を引き出すことは出来なかったのだ。そう簡単にはいかないということだろう。
「すまなかった」
 ラウルは彼女の頬に張りついた髪を払いながら詫びた。レイチェルはゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳でラウルを見つめる。小さな薄紅色の唇が微かに動いた。そのとき——。
「あぁっ……!」
 レイチェルの体が大きくビクリと脈打った。体中が青白い光に包まれる。無防備だったラウルは、その光に弾き飛ばされ、背後の壁に叩きつけられた。支えを失った彼女は床に崩れ落ちる。苦しげに顔を歪ませながら、床の上で背中を丸めた。
「う……うぅ……」
「レイチェル!」
 ラウルは立ち上がりながら叫んだ。
 彼女の中で大きな力が暴れ出していた。それは、制御を失った魔導として放出される。
 つまり、暴発だ。
 髪は大きく舞い上がり、服は音もなく裂けていく。体中から強い光が四方八方に散り、結界を破って壁にいくつもの穴を開けた。それでも、彼女の魔導力は収まるどころか、ますます高まっていく。
 ——まずい。
 ラウルは急いで呪文を唱えた。瞬間、部屋の中の空気が変わる。
 彼女を覆っていた青白い光が消滅した。
 この部屋を覆っていた結界も消滅した。
 ラウルが唱えた呪文は、特定空間の魔導を使えなくするものだった。ある程度、閉じられた空間でなければ効果はないが、魔導の訓練場はたいていそういう造りになっている。ここも例外ではない。
「レイチェル!!」
 ラウルは倒れたままの彼女に駆け寄った。彼女の服は辛うじて断片が残っているだけで、もはやその役割を果たしていない。だが、ざっと見た限りでは、体の方に怪我はないようだ。自分の上衣を脱いで彼女に掛けると、壊れ物を扱うようにそっと抱き起こした。
 レイチェルは言葉もなく、ただ青白い顔で震えていた。ラウルの袖をきつく掴み、縋りつく。
 彼女の中で暴れていた魔導の力は、すでに落ち着きを取り戻していた。どうやら再び眠りについたらしい。目覚めたのは一時的なものだったようだ。今後、この影響がどう出るのかはわからないが、当面の危機は去ったといえる。
 ラウルは激しい後悔に苛まれていた。
 自分はなぜ彼女の力を目覚めさせようとしたのだろうか。それより先にすべきことがあった。ただでさえ魔導の扱い方がわかっていない彼女に、この強大な力を受け止められるはずはないのだ。少し考えれば誰にでもわかることである。
 おそらく、魔が差したのだ。
 下手に手を出せば暴発する——それは、自分が言ったことである。安易に触れるべきでないということは、誰よりも理解していたつもりだった。
 だが、誰にも曝されたことのない彼女の奥底を近くに感じたとき、歯止めとなるものすべてを忘れてしまった。触れられるかもしれないという誘惑には勝てなかった。触れたいという衝動を止めることができなかった。そして、何より、他の誰でもない自分が目覚めさせたいと思ったのだ。
 自分はどうしようもなく愚かだ——。
 今度こそ彼女は魔導を完全に拒絶するようになるかもしれない。そうなったとしても、ラウルには咎める資格はない。説得することも無理だろう。自分に出来ることは何かあるのだろうか。
 ラウルは奥歯を噛みしめ、彼女の体を抱える手に力を込めた。



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