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9. 本当の彼女

 翌日の午後、ラウルは約束どおり家庭教師としてレイチェルの家へ向かっていた。強烈な日差しが降りそそぐ中を、浮かない顔で歩く。いや、そう思っているのは自分だけで、まわりの人間には、いつもの無愛想な表情としか映っていないだろう。
 サイファの強引さに負けて、渋々ながら引き受けたものの、不安は拭えなかった。
 同じことを繰り返してしまうかもしれない——。
 頭の中ではわかっていても、彼女を目の前にすると、自制や理性など何もかもが飛んでしまう。二年前も、それより前も、ずっとそうだった。自分がこれほどまでに意志の弱い人間であることを、初めて思い知らされた。
 だが、二年前のあのとき、はっきりと目が覚めたはずだ。
 頭から豪快に氷水を掛けられたかのようだった。夢は一瞬にして消え去った。そして、もう夢など見ようのないくらいに、幻想は粉々に砕け散った。
 それでも自信は持てなかった。自分という人間を信用することが出来なかった。

 レイチェルの家に着くと、アルフォンスが出迎えた。彼はサイファが無理を言ったこと、そして、二年前のレイチェルの非礼を詫びた。二年前のことについては、彼も事情はわかっていないはずだが、サイファから断片的な情報を聞いたのだろう。何をどのように聞いたのかは詮索しなかった。
 アルフォンスはあらためて仲立ちすると言ったが、それは断った。ラウル自身の都合である。レイチェルと会ったとき、自分がどのような顔をするかわからない。彼女の父親には見られたくないと思ったのだ。
 ラウルは一人で二階に上がった。部屋の場所は二年前から変わっていないと聞いた。突き当たりに進み、白い扉の前で立ち止まる。たった3回しか来ていないが、鮮明に覚えている光景だ。
 少し緊張しながら、その扉をノックする。
「はい、開いているわ」
 中から聞こえた澄んだ声。それは紛れもなくレイチェルのものだった。
 突如、躊躇いの気持ちが湧き上がった。
 だが、ここまで来ながら引くわけにはいかない。水に潜るときのように大きく息を吸い込み、ドアノブを回して扉を押し開ける。
 扉は音もなく開いた。
 五歩くらい離れたところに、二年前より少し成長したレイチェルが立っていた。彼女はワンピースの裾を僅かに持ち上げ、軽く膝を曲げた。
「来てくれて嬉しいわ」
 そう言ってにっこりと微笑む。
 一瞬、ドキリとした。
 確かに笑顔は似ている。だが顔立ちは、そもそも瓜二つというほどは似ていなかった。今ははっきり別人だと認識できる。そのことを強く意識し、面影を重ねないようにする。
「レイチェル……」
 二年前のことを詫びようと思った。だが、言葉が続かない。すべてを話して許しを請うべきなのだろうが、そこまでの覚悟はまだなかった。
 そのとまどいを見透かしたかのように、レイチェルは柔らかく微笑み、ゆっくりと首を横に振った。言わなくてもいい、ということのようだ。ラウルのためなのか、彼女自身のためなのか、それはわからない。だが、どちらにしても、彼女の望みであれば受け入れるべきだろう。このまま何も説明せず、互いに水に流すということを——。
「座って」
 レイチェルは明るい声で椅子を勧めた。
 ラウルは言われるまま素直に座った。レイチェルも自分の椅子に座り、ラウルの方に体を向けた。膝の上に行儀良く手を重ねて置き、ちょこんと小首を傾げて尋ねる。
「今日はテスト?」
「昨日の今日で何も準備をしていない。おまえがどこまで勉強しているのかも聞いていない」
「じゃあ、説明するわ。私がこの二年間で勉強してきたことを」
 彼女はにっこりと笑って立ち上がり、本棚からいくつもの本を取り出した。

 レイチェルから勉学の進捗を聞いたが、あまり芳しいとはいえなかった。家庭教師が何度も替わっているのが原因だろう。なぜ、それほど頻繁に家庭教師を替えたのかはわからない。彼女にもわからないらしい。もしかしたら、サイファの仕業かもしれないと思う。ラウルのところに乗り込んできて交渉をしたくらいだ。ありえないことではないだろう。
 その日は、一時間ほど話を聞いただけで終わりにした。授業は翌日から始めることにする。
「明日は数学にする。予習をしておけ」
 ラウルはそう言って立ち上がった。大きな足どりで扉に向かう。
「送っていくわ」
 レイチェルも立ち上がり、軽い駆け足でラウルのあとを追う。
「送ってもらう必要などない」
「必要がなくても送りたいの、ラウルは特別だから」
 横から笑顔で覗き込み、二年前と同じことを言う。
 ラウルは眉根を寄せた。
「サイファの言うことなど真に受けるな」
「サイファが言ったからじゃなくて、私自身がそう思っているの」
「迷惑だ」
 冷たく突き放すように言い、扉を開けて部屋を出る。
 だが、レイチェルは諦めずについてきた。愛らしい微笑みを見せて言う。
「じゃあ、送るんじゃなくて、勝手について行くことにするわ」
「……勝手にしろ」
 ラウルは大きく溜息をついた。

 レイチェルは、面影の少女とはまるで性格が違った。彼女が控えめで思いやりのある子だったのに対し、レイチェルは身勝手で何でも思いどおりになると思っている節がある。
 思い返してみれば、二年前にもその片鱗はあった。もう少し大人しかったような気はするが、時折、今と同じように身勝手な言動が見受けられた。
 無意識に都合のいいところしか見ようとしていなかったのかもしれない。面影を重ねていたのは、彼女が喋っていないときばかりだったことを思い出す。それに気づけたのは、もうはっきりと目が覚めているからだろう。今となっては面影など重ねようもない。

 医務室を目指し、人通りの少ない裏道を歩く。二年前にもレイチェルとともに歩いた道だ。だが、心情はあのときとはまるで違う。心地よい穏やかな空気を感じることはなかった。
「怒っているの?」
 レイチェルが横から覗き込んで尋ねた。
 顔はいつもの仏頂面だが、怒っているつもりはなかった。だが、わからなくなった。彼女は妙に勘がいい。もしかすると、自分が気づいていないだけで、本当は腹を立てていたのかもしれない。たとえそうだとしても、怒りをぶつける相手が彼女であってはならない。
「怒ってなどいない」
 出来る限り感情を抑制した声で答える。
「良かった」
 レイチェルは胸に右手をあて、無邪気なくらいの笑顔で言った。
 ラウルは溜息をつき、空を見上げた。青い空にかかっている薄い雲が、ゆっくりと流れていた。

 医務室の前に到着し、ラウルは足を止めた。レイチェルを一瞥する。何と言おうか迷ったが、何も言わないまま、鍵を開けて扉を引いた。
「ねえ、ラウル。医務室の中を見せてくれる?」
 レイチェルが背後で声を弾ませた。
 ラウルは扉に手を掛けたまま、顔だけ振り向いた。冷たい視線を向けて言う。
「病人でも怪我人でもない人間が入るところではない」
「……わかったわ」
 レイチェルは大きな瞳でラウルを見つめてそう言うと、来た方とは反対側へ歩き出した。
 ラウルは慌てて彼女の肩に手を掛けた。
「どこへ行く」
「怪我をしてくるの。そうすれば入れてくれるんでしょう?」
 真顔で振り返って言う。当然と言わんばかりの口調だった。
「……入れ」
「ありがとう」
 レイチェルはにっこりと笑った。
 ラウルは溜息をついた。もしかすると、こうなることを計算しての行動だったのかもしれない。サイファにそっくりだ。ラグランジェの人間は、どうしてこうも身勝手な連中が多いのだろうか。
「病院みたいな匂いがするわ」
「医務室だからな」
 入るなり感嘆の声を上げるレイチェルに、ラウルは呆れ口調で返答をした。
「本当にお医者さんなのね」
 レイチェルはあたりをぐるりと見まわしながら言う。
「お医者さんをしながら家庭教師って大変そう」
「そうでもない」
 ラウルは扉を閉めながら答えた。医師としての仕事はあまりない、ということは敢えて言わなかった。言う必要がないと思っただけで、隠そうとしたわけではない。
 レイチェルは窓際に駆けていき、クリーム色のカーテンを開けた。窓ガラスに手をつき、下の道に目を向ける。そこは、レイチェルが父親に手を引かれてよく通っていた道だった。くすっと笑い、懐かしそうに言う。
「ラウルはよくここの窓際に座っていたわね。私、いつも楽しみにしていたの」
 そのことは当時からずっと不思議に思っていた。なぜ彼女は見ず知らずの自分に笑顔を向けてきたのだろうか——。それを尋ねることは出来なかった。
 あれから10年が過ぎた。
 そのうちの大部分は、彼女を彼女として見ていなかった。勝手な幻想を重ねていた。今、自分は彼女のことをどう見ているのだろうか。その華奢な後ろ姿を見ながら、自分に問いかける。答えはわからない。わからないということが答えなのかもしれない。二年ぶりに会って、まだたったの数時間である。そう簡単に答えが出せるものでもない。
 レイチェルは薬棚や本棚、机の上、パイプベッドなど、あちらこちらを興味深げに見てまわった。動きまわるたびに、後頭部のリボンが弾むように揺れる。
 ラウルは扉付近で腕を組み、その様子をただじっと眺めていた。
「楽しいか」
「ええ」
 レイチェルは振り返って嬉しそうに笑った。
「ねえ、この向こうがラウルのおうちなんでしょう?」
 ほとんど壁と同化している目立たない扉に、そっと両手で触れながら尋ねる。
 ラウルは怪訝に眉根を寄せた。
「なぜ、知っている」
「サイファから聞いたの」
 レイチェルはあっけらかんと答えた。
 ラウルは溜息をついた。確かにサイファなら知っている。だが、まさかレイチェルに話しているとは思わなかった。別に隠しているわけではないので構わないが、こんなどうでもいいことまで話題にしている事実に驚いた。おしゃべりな奴だとは思っていたが、想像以上かもしれない。
「サイファは、いくら頼んでも一度も部屋に入れてくれないって嘆いていたわ。どうして入れてあげないの?」
「誰も入れないことにしている。それだけだ」
 ラウルは冷静に答える。
「私も、だめ?」
「駄目だ」
 少しの迷いも隙も見せず、冷淡にきっぱりと言う。
 レイチェルは僅かに寂しそうな表情を見せた。大きな蒼の瞳が小さく揺らぐ。
 ラウルは溜息をつきながら、目を閉じてうつむいた。
「あら? 開いた……」
 その声につられて顔を上げると、レイチェルがドアノブに手を掛けて扉を開いているところだった。鍵はついているが、今日は掛けていなかったようだ。医務室の方は忘れず施錠するが、自室の方は医務室からしか入れないため、掛けないことも多い。
「おい!」
 ラウルは慌てて組んだ腕を外し、扉に向かって駆けだした。だが、彼女は素早く逃げ込むように部屋に入り、カチャリと扉を閉めた。そのあとを追って、ラウルも扉を開けて部屋に入る。幸い、鍵は掛けられていなかった。

「きれいにしているのね」
「おまえ……」
 悪びれもせず部屋の中を見まわすレイチェルに、ラウルは低い唸り声を上げた。
「怒っているの?」
 レイチェルは振り返り、大きく瞬きをしながら首を傾げて尋ねる。
「当然だ」
 ラウルは抑えた声で言った。その中に秘めた怒りを感じ取ったのだろう。レイチェルは急にしゅんとして頭を下げた。
「ごめんなさい……」
「……もういい」
 ラウルは溜息をついて言った。
 レイチェルはほっと息をついてニコッと笑った。
「じゃあ、お茶を淹れてくれる? 美味しい紅茶が飲みたいの」
「……おまえ、本当に反省しているのか?」
「ええ、でも、もういいんでしょう?」
 邪気のない顔で明るく言う。どこまでが計算なのかさっぱりわからない。天然だとするとなおのこと恐ろしい。サイファよりたちが悪いかもしれないと思う。
「美味い紅茶はない。並のでよければ淹れてやる」
「ありがとう」
 ラウルは溜息をついて湯を沸かし始めた。紅茶やティーカップの準備をする。
 その間、レイチェルはあちらこちらウロウロして、いろいろなところを覗き込んでいた。寝室や浴室、棚の中、引き出しの中まで開けて見ていた。
「おい、あまりあちこち見るな」
「紅茶が出来るまで暇なんだもの」
「いいから座れ」
 ラウルはレイチェルの手を捕まえて、ダイニングテーブルの椅子に無理やり座らせた。
「お菓子は?」
 レイチェルは両手で頬杖をつき、ラウルの横顔を見ながら尋ねる。
「そんなものはない」
 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら言った。
「そう……じゃあ、今日は我慢するわ」
 レイチェルはニコッと笑った。
 今日は——?
 ラウルは引っかかったが、敢えて尋ねなかった。藪蛇になりそうだと直感したからだ。紅茶の入ったティーカップをレイチェルの前に置く。
「ありがとう」
 レイチェルは無垢な笑顔を浮かべ、ティーカップを手に取った。湯気の立ち上る紅茶にゆっくりと口をつけて、少しだけ流し込む。
 ラウルは流しに寄りかかって腕を組み、その様子をじっと見下ろしていた。
「ラウルは飲まないの?」
 レイチェルは両手でティーカップを持ったまま、顔を上げて尋ねた。
「ティーカップはそれしかない」
「どうして?」
「誰もここに入れないことにしていると言ったはずだ」
 ラウルは面倒くさそうに答える。
 レイチェルは少し考えてから、ぱっと顔を輝かせる。
「じゃあ、今度うちから持ってきてあげる。ラウルと一緒に飲みたいもの」
「……また来る気か?」
「ええ、今度はお菓子も用意しておいてね」
 ラウルは盛大に溜息をついた。溜息のつきすぎで、体がだるくなった気さえする。頭痛がするのは精神的なものが影響しているのだろうか。右手で頭を押さえる。
「サイファには言うな」
「どうして?」
 レイチェルは不思議そうに首を傾げた。
「このことを知られたら、あいつも入れなければならなくなる」
「だめなの?」
「誰も入れないことにしていると何度言わせる」
 ラウルはいらつきながら答える。
「3人でお茶したかったのに……」
 レイチェルは残念そうに言い、眉をひそめる。
「言わないと約束しなければ、おまえもここには二度と入れん」
「……わかったわ、約束する」
 レイチェルはそう言ってニッコリと笑った。
 ラウルは眉を寄せた。
 何か話がおかしな方に行った気がする。レイチェルも入れるつもりではなかったはずだが、こんな約束をしてしまっては入れざるをえない。サイファよりはましか——いや、もしかするとサイファよりもやっかいかもしれない。自分の判断がわからなくなってきた。
「飲み終わったらとっとと出て行け」
「じゃあ、ゆっくり飲まなきゃ」
「…………」
 思いきり呆れた視線を送るラウルに気づいていないのか、気づいていながら無視をしているのか、レイチェルは本当にゆっくりと紅茶を飲んだ。いい度胸である。ティーカップがほぼ空になったのを見ると、ラウルは組んだ腕をほどいた。
「飲み終わったな。さあ、出て行け」
「行かなきゃだめ?」
 レイチェルは名残惜しそうに空のティーカップを両手で持ったまま、ラウルを上目遣いに見上げて首を傾げた。
「出て行け」
 ラウルは冷たく見下ろし、迫力のある低音でゆっくりと威圧するように言った。たいていの人間はこれで震え上がる。だが、彼女はまるきり平然としたまま、不服そうに小さな口をとがらせた。
「じゃあ、仕方がないから今日は帰るわ」
「早くしろ」
 ラウルは立ち上がった彼女の肩を押し、追い立てるように部屋から出した。さらに、医務室からも追い出そうとする。勢いよく扉を引き開け、出て行くように目線で促した。
 レイチェルは素直に廊下に出ると、くるりと振り返った。
「あしたも忘れないで来てね」
 愛らしい笑みを浮かべて言う。
 ラウルは扉を締めようとしていた手を止めた。
「わかっている。心配するな」
「ねえ、ラウル」
「何だ」
「私のことは嫌い?」
 レイチェルは首を傾げて尋ねた。
 ラウルは眉根を寄せた。その言葉だけで、彼女の言いたいことを理解してしまった。誰かの面影を重ねた状態ではなく、彼女自身の本当の姿についてどう思うかと尋ねているのだろう。自分はこの質問に答える義務がある——。
「まだ、わからん」
 低い声で言う。それが正直な答えだった。
「私はラウルのことが好き」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませて言った。屈託のない笑顔で続ける。
「だから、また家庭教師になってくれて嬉しいわ」
「……帰れ」
 ラウルは無表情のまま、短くそれだけ言った。酷く冷たい口調だった。
 それでもレイチェルは笑顔を見せていた。
「今日はありがとう」
 顔の横で手を振り、帰っていく。
 ラウルは静かに扉を閉めた。その扉に手を置いたまま、うつむいて奥歯を噛みしめる。
 ——愚かな女だ。
 なぜだか無性に腹が立っていた。レイチェルが自分の何を知っているというのだろう。まともに向かい合ったのは、二年前の三日間と今日だけである。しかも、彼女にはひどい仕打ちしかしていない。にもかかわらず、そんな屈託のない顔でよくそんなことが言える。おそらく、サイファから聞いた話だけで、好意に値すると判断しているのだろう。本当の姿を見ていないのは、彼女の方も同じではないか。
 ラウルはそこまで考えて溜息をついた。
 このようなことを真剣に考察する必要はないのだと気がつく。誰にどのように思われようと知ったことではない。好きなように思っていればいい。誤解でも何でもしていればいい。それが自分の姿勢だったはずだ。
 カーテンが開いたままの窓際へと歩いていき、窓枠に両手をついた。目を細めてガラス越しに空を見上げる。濃い青色に浮かぶ白い雲は、僅かに形を変えながら、ゆっくりと右から左に流れていた。その下では、木々が微かにざわめいていた。


10. ティータイム

 翌日から、ラウルはレイチェルの授業を始めた。
 授業中に関していえば、レイチェルは二年前とあまり変わっていなかった。つまり、手のかからない教え子ということだ。言われたことには素直に従い、記憶力は良く、飲み込みも早い。教えたことはすぐに出来るようになる。
 ただ、やはり応用力はほとんど無いといってもいい。未知の問題だと判断すると、途端に思考を放棄してしまう。このことに関しては、性格的なものが大きいため、克服させるのは難しそうだ。考えると頭が痛くなる。
 そして、魔導のことも——。
 彼女にはまだ切り出していない。だが、避けては通れない問題だろう。少なくとも基本的な制御だけは学ばせなければならない。それは、二年前にアルフォンスから頼まれたことでもある。
 だが、ラウル個人としては、それだけで済ませたくはなかった。
 出来ることなら、彼女の秘められた魔導の力を引き出したい。彼女の潜在的な力は、ラウルを除けば、間違いなくこの国で一番である。それを引き出したうえで、それなりの訓練を積めば、稀代の使い手になるかもしれない。どこまでになるか、行き着く先を見てみたい——魔導に携わるものならば、誰もが抱いても不思議ではない好奇心である。
 しかし、それは、彼女自身は全く望んでいないことだ。自分の身勝手な好奇心で、そこまでのことを押しつけるのは傲慢というものだろう。

「今日はここまでだ。明日は物理学にする」
「ちょっと待って」
 レイチェルは軽く呼び止めながら、立ち上がろうとするラウルの袖を掴んで引いた。
「何だ?」
 ラウルは眉をひそめながらも、促されるまま椅子に座り直した。
 レイチェルは机の下に身を屈めると、手提げの白い紙袋を慎重に取り出した。それを膝の上に置き、ラウルに向かってにっこりと笑いかける。
「これ、きのう約束したプレゼント」
「プレゼントだと?」
 ラウルは訝しげに聞き返しながら、差し出された紙袋を受け取った。そこそこ重量感がある。上から覗き込むと、淡いピンク色のリボンが掛けられた大きめの白い箱が見えた。
「ティーカップよ。ついでにティーポットもあるみたい」
「家にあるものを持ってくるのではなかったのか」
 確かに彼女はティーカップを持ってくると言った。だが、それは「うちから」だったはずだ。家で余っているものを持ってくるのだろうとラウルは理解していた。しかし、これはそういう類のものには見えない。
「そのつもりだったんだけど、お母さまがそれでは失礼だからって買ってきちゃったの」
 レイチェルは肩をすくめて言った。
「母親に何を言った?」
「二年前のお詫びにティーカップをプレゼントしたいって言っただけよ」
 そんなことを聞いたら、家にあるものでは失礼だと考えるのも当然だろう。名門のラグランジェ家なのだ。そういうところはきちんとしているに違いない。
「もらってくれる? そうじゃないと、私、困るんだけど……」
 レイチェルは上目遣いで心配そうに尋ねた。
 このプレゼントを拒めば、彼女の謝罪を拒んだことになってしまう。それも、彼女の両親に宣言するに等しい状態だ。彼女が困るというのも理解できる。そして、自分にとっても本意ではない。
「……わかった」
「これでラウルと一緒にお茶が出来るわね」
 レイチェルは顔の前で両手を組み合わせ、無邪気に声を弾ませた。
 ラウルは溜息をついた。何か騙されたような気がしないでもないが、成り行きとはいえすべて自分が承諾したことだ。今さら覆すようなことは言えないだろう。

 澄みきった青空の下、いつものように人通りの少ない裏道を通って医務室へと向かう。
 今日もレイチェルはついてきた。嬉しそうにニコニコしながら隣を歩いている。口数は多くないが、時折、ラウルを見上げて話しかけてくる。その表情は、まるで小さな子供のように屈託がなかった。
 王宮に入って階段を上がり、しばらく歩くと医務室の前に到着する。
 ラウルは鍵を開けた。いつもはまず医務室の席に着くのだが、今日は大きな荷物を持っている。まっすぐに奥の自室へと向かった。当然のようにレイチェルもついてきた。ラウルのすぐ後ろで、軽い足音が弾んでいた。

 ラウルは白い紙袋をダイニングテーブルの上に置き、中から白い箱を取り出した。リボンを外し、包装紙を破いて箱を開ける。そこには白いティーカップとソーサが2組、そして同じ色のティーポットが入っていた。何も模様は入っていないが、決して安物ではなく、上質であることは一目でわかった。
「ラウルの好みがわからないからシンプルなものにしたって、お母さまが言っていたわ」
 何も考えてなさそうなレイチェルとは違い、彼女の母親は細かいことまで気をまわす人物のようだ。見た目よりもしっかりしているのだろう。
「気に入った?」
 レイチェルは無表情のラウルを覗き込んで尋ねる。長い金の髪がさらりと揺れた。
 ラウルは破いた包装紙を丸めながら、ぶっきらぼうに言う。
「礼を言っておけ」
「良かった」
 レイチェルは胸もとに手を当てた。安堵したとでも言いたげな様子だが、それほど心配しているようには見えなかった。甘やかされて育った彼女のことだ。今までほとんどのことが思い通りになってきたのだろう。そのため今回も突き返されるようなことはないと確信していたのかもしれない。いや、そんなことは想像すらしていなかったに違いない。
「じゃあ、お茶にしましょう」
 彼女はダイニングテーブルの向かい側にまわって椅子に座った。そこは昨日と同じ場所である。彼女の中ではすでに指定席になっているのだろうか。ニコニコしながら両手で頬杖をつくと、無邪気に愛くるしく言う。
「今日はラウルも一緒ね」
 ラウルは溜息をつきながらも、言われるままにティータイムの準備を始めた。水の入ったヤカンを火に掛けると、その間に、新品のティーカップとティーポットを手際よく洗った。棚から紅茶の缶を取り出し、ティーポットに目分量で茶葉を入れる。
「ねえ、お菓子はあるの?」
 レイチェルは頬杖をついたまま口を開く。
「ケーキでいいのか?」
 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら尋ね返した。白い湯気が視界を覆う。顔が少し熱くなった。
「ケーキ、用意してくれたの?」
「おまえがそうしろと言った」
「嬉しい、ラウルありがとう」
 レイチェルの声は、感情のままに弾んでいた。
 結局、何もかも彼女の思うままになっている気がする。それは、自分が彼女に対して負い目を感じているせいだろう。優しくしようなどと思っているわけではないが、無意識に甘くなっていることは否めない。
 ラウルは冷蔵庫から小さな箱を取り出し、その中のケーキを皿にのせて彼女に出す。
「ひとつだけ?」
 レイチェルはラウルを見上げて尋ねた。
「いくつ食べる気だ?」
 ラウルは呆れた眼差しで見下ろしながら言う。
「そうじゃなくて、ラウルの分は?」
「それひとつしか買っていない」
「じゃあ、半分にしましょう」
 レイチェルはケーキの皿を両手で持ち上げ、ラウルに差し出した。
「いらん、だから買わなかった」
 ラウルは腕を組みながら、冷たくきっぱりと撥ねつけた。
 それでもレイチェルは諦めなかった。にっこりとして腕を伸ばし、優しく諭すように言う。
「だめよ、一緒にお茶をするんだから。一緒に食べなければ意味がないわ」
 ラウルは溜息をついた。観念するしかなさそうだった。
 彼女からその皿を受け取ると、ケーキを半分に切り、もうひとつの皿にその半分を移した。ふたつの皿をそれぞれの席に置く。紅茶もティーカップに注ぎ、ソーサに載せてテーブルに置いた。
 これでティータイムの形はそれなりに整ったはずだ。もう文句はないだろう。
「ラウルも座って」
 レイチェルは顔を斜めに傾け、にっこりと笑って言った。

 二人はささやかなお茶会を始めた。ただ紅茶を飲んで、ケーキを食べるだけである。
「楽しいか」
「ええ」
 向かいのレイチェルに尋ねると、満面の笑みで答えが返ってきた。
 何がそんなに楽しいのか、ラウルにはわからなかった。面白い話をしているわけでもなければ、紅茶やケーキが特に美味しいわけでもない。彼女なら普段からもっと上等なものを口にしているはずである。
「ラウルはここでいつもひとりなの?」
 レイチェルはティーカップをソーサに戻しながら尋ねた。
「誰も入れないことにしていると言ったはずだ」
 ラウルはぶっきらぼうに答えた。きのうから何度も同じことを言っている。彼女はわかっていて尋ねているのかもしれない。ケーキにフォークを突き立てて口に運ぶ。
「寂しくないの?」
 レイチェルは大きな瞳でじっと見つめて言う。
「ひとりの方が煩わしくなくていい」
「今は私がいるから煩わしいの?」
「ああ、紅茶やケーキの準備までさせられて迷惑している」
 ラウルは責めるように言ったつもりだが、レイチェルは反省するどころか、なぜかクスクスと笑っていた。何がそんなに可笑しいのだろうか。彼女の思考回路がまるでわからない。
 レイチェルはケーキを食べながら言う。
「このケーキ、美味しいわね。イチゴのショートケーキって、私、大好きなの」
 ラウルは紅茶を飲みながら、無邪気な彼女に目を向けた。ティーカップをゆっくりとソーサに戻す。
「好き嫌いがあるなら言っておけ。おまえの好みは知らんからな」
「んー……レーズン以外ならたぶん大丈夫」
 レイチェルは斜め上に目を向けて考えたあと、ラウルに向き直ってにっこりと答えた。
「わかった。レーズンを避ければいいんだな」
 ラウルは淡々と確認する。
「ねえ、ラウル。お店のケーキもいいけれど、ときどきは手作りのお菓子も食べたいの」
 レイチェルは身を乗り出して言う。
 ラウルは溜息をついた。いったいどこまで我が侭を言うつもりなのだろうか。
「何を作ってほしい」
 面倒だと思いながらも尋ねてみる。
 レイチェルはフォークを握りしめて目を輝かせた。
「えーっと、じゃあ、ミルフィーユとかモンブランとか」
「……おまえ、それは嫌がらせか」
 ラウルは眉根を寄せた。
「だめなの?」
 レイチェルはきょとんとして小首を傾げた。
「そんな手間のかかるもの、作る気も起きん」
 ラウルは額を押さえた。自分の要求がどれほどやっかいなことなのか、彼女はわかっているのだろうか。作ろうと思えば作れないことはない。だが、冗談ではないと思う。そこまでの義理も筋合いもない。小さく溜息をついて言う。
「スコーン、ショートブレッド、プリン、ホットケーキ、どれか選べ」
「じゃあ、スコーンとプリン」
 レイチェルはすぐに答えた。
 ラウルは眉をひそめて睨んだ。低い声で言う。
「ひとつにしろ」
「プリン」
 レイチェルはまっすぐラウルを見たまま即答した。
 ラウルは腕を組んでうつむき、目を閉じる。肩から焦茶色の髪が滑り落ちた。
「気の向いたときに一回くらいなら作ってやる」
「楽しみにしているわ」
 レイチェルはそう言って愛らしく微笑んだ。

 翌日も、翌々日も、レイチェルはラウルの部屋にやってきた。
 ラウルは両日とも律儀にケーキを用意した。いくら彼女に負い目があるからといって、ここまで言いなりになる必要があるのだろうか。なぜ拒否しなかったのだろうか。なぜ無視しなかったのだろうか。自問してみるものの答えは出ない。
 ただ、嫌でたまらないというほどのことはない。
 煩わしいという気持ちに変わりはないが、仕方がないという諦めの気持ちが大きくなっているような気がする。いや、正直なところをいえば、彼女の嬉しそうな笑顔を見ていると悪い気はしない。そう思う自分はどうかしているのだろうか——。

 その翌日も、やはりレイチェルはついてきた。これで4日連続である。家庭教師の授業とその後のティータイムが、ラウルにとって日常の一部になりつつあった。
 医務室の前に着くと、いつものように鍵を開けて扉を引く。
「ラウル、今日はここで帰るわね」
 中に足を踏み入れようとしたとき、レイチェルが背後でそう言った。ごく普通の落ち着いた口調だった。申し訳なさそうにも、怒っているようにも、思いつめたようにも感じられなかった。
 ラウルは扉に手を置き、ゆっくりと顔だけ振り返った。
「……なぜだ」
「サイファがね、今日は早く帰れそうだから二人でお茶をしようって」
 レイチェルは胸もとで手を組み合わせ、にっこりと笑顔を見せた。
「そうか」
 ラウルは無表情を保ったまま呟くように言った。
 ——そうならそうと、あらかじめ言っておけ。
 喉もとまで出かかった言葉を、ぐっと堪えて飲み下す。別に約束をしていたわけではない。ただ、今日も来るだろうと自分が勝手に思い込んでいただけだ。彼女は何も悪くない。だが——。
「嬉しそうだな」
「ええ、サイファの家でお茶をするのって久し振りなんだもの」
 レイチェルははしゃいだ声を上げた。
 その様子を眺めるラウルの心には、もやもやとした重いものがのしかかっていた。

「やあ、レイチェル」
 よく通るはっきりとした声を響かせながら、サイファは後ろからレイチェルを抱きすくめた。魔導省の制服を身に着けている。仕事帰りなのだろう。右手に持っていた手提げの紙袋が、彼女の前で大きく弧を描いて揺れた。
「サイファ!」
 レイチェルはとびきりの笑顔で振り返った。後頭部のリボンが大きく弾み、長い髪がさらりと舞い上がる。窓から射し込む光を受けて、透きとおるような金色が上品に煌めいた。
 サイファは彼女の頬を左手で包み、慈しむように柔らかく微笑んだ。
「ラウルに挨拶してから帰ろうと思って、ここへ寄ってみたんだけど、ちょうどいいタイミングだったみたいだね」
 優しい声でそう言うと、端整な顔をゆっくりとラウルに向けた。青い瞳に挑発的な光を宿し、口の端を僅かに上げる。
「ラウル先生、今度は逃げずに続けているみたいだね」
 ラウルはムッとして眉をしかめた。
「嫌味を言うために来たのか?」
「様子を聞きに来たんだよ」
 サイファは両手を腰に当てて言う。
「困ったことや相談したいことはないか?」
「何もない」
 ラウルは冷ややかに答えて腕を組んだ。
「レイチェルはちゃんと勉強しているか?」
「おまえよりよほど真面目だ」
「それは良かった」
 サイファはくすっと小さく笑って言う。その余裕の態度が、ラウルには何か無性に腹立たしく感じられた。サイファには特に意図はなかったのだろう。ただ、自分の方に余裕がなかっただけだ。
「レイチェル、これからも先生の言うことをよく聞いて勉強するんだよ」
 サイファは小さな子供に言い含めるような口調でそう言うと、彼女の前髪を人差し指で小さく払って微笑む。
「我が侭ばかり言って怒らせないようにね」
「我が侭なんて言っていないわ。ねえ、ラウル」
 レイチェルはラウルに振り向いて同意を求めた。少しも悪びれた様子はない。あどけない無垢な笑顔を見せている。嘘をついているつもりはなく、本当にそう思っているのだろう。確かに、授業中に関してだけでいえば、間違いではない。
「……ああ」
 ラウルは彼女の望むままの答えを返した。

「ちょっと待て、ラウル」
 無言で医務室に入ろうとしたラウルを、サイファは慌てて引き留めた。手にしていた薄黄色の紙袋から、同色の紙の箱を取り出す。片手で持てるくらいのものだ。それほど大きくはない。
「レイチェルがお世話になっているお礼だ」
 人なつこい笑顔でそう言うと、その紙の箱をラウルに差し出した。
 ラウルは怪訝に眉根を寄せた。
「何だ?」
「レアチーズケーキ。僕たちの分のついでなんだけどね」
 サイファは反対の手に持っていた紙袋を掲げた。その上部には店のロゴタイプが小さく入っている。ケーキ店の名前らしい。これからサイファの家でお茶をするとレイチェルが言っていた。そのときに食べるケーキを買ってきたのだろう。
「ここのレアチーズケーキ、とっても美味しいのよ」
 レイチェルはサイファの隣で微笑みながら、無邪気にそんなことを言った。
「もしかして、甘いものは苦手だったか?」
 無表情で立ち尽くすラウルを見て、サイファは覗き込みながら尋ねた。
「……もらっておく」
 ラウルは小さな箱を片手で掴んだ。
 サイファは満足そうな笑みを浮かべると、隣のレイチェルの頭に手をのせた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。とびきり美味しい紅茶も用意してあるよ」
「本当? 嬉しい」
 レイチェルはサイファを見上げ、幸せそうに笑った。
「ラウル、それじゃあ、またな」
「またあしたね」
 ふたりは笑顔でさよならの挨拶をした。そして、どちらからともなく自然に手を取り合うと、楽しそうに話をしながら帰っていった。もうラウルのことなど眼中にないのだろう。ただの一度も振り返ることはなかった。

 ラウルは医務室の奥の自室にひとりで戻った。
 サイファからもらった薄黄色の紙箱を、ダイニングテーブルの上に置く。それをじっと見下ろしながら、腕を組み、流しにゆっくりと寄りかかった。
 秒針の単調な音が耳朶に響く。
 不思議なくらいに静かな部屋。
 無意味に流れていく時間。
 ラウルは小さく溜息をついた。
 体を屈めて冷蔵庫を開ける。あまり物は入っていない。テーブルの上の箱を無造作にその中に放り込むと、代わりに中から小さなカップを取り出した。
 それはプリンだった。買ってきたものではない。ラウルが作ったものである。
 気が向いたら一度くらいはプリンを作ってやる——。
 数日前にレイチェルとそう約束した。それを今日のティータイムで果たすつもりだった。だが、彼女はここにはいない。自分ではなく、サイファの方を選んだ——いや、その言い方は適切ではない。ただタイミングが悪かっただけだ。
 ラウルはその場に立ったまま、スプーンですくってそれを食べ始めた。
 底のカラメルがほんの少し苦かった。


11. 芽生え始めた意志

 ラウルは、高い塀で囲われた建物の前で立ち止まり、それを仰いだ。窓ガラスの反射光が眩しくて目を細める。ここからでは全貌は見えないが、一部で改装工事をしているのが目についた。
 魔導科学技術研究所——。
 それがこの建物の名前だった。魔導を科学的に分析し、その仕組みを解明することを目的として設立された、魔導省の管轄の施設である。つまり、国立の研究所だ。国がその研究を必要としているということだろう。

「わざわざ足を運んでもらってすまない」
「どのみち外へ出る用があった」
 入口まで迎えに来たアルフォンスに連れられて、ラウルは研究所の廊下を歩く。横に目を向けると、ガラスの向こうに研究フロアが見えた。立っているのは数人だけで、多くの所員は整然と並んだモニタに向かい、黙々と作業をしている。話し声はほとんど聞こえず、機械音や打鍵音の方が大きいくらいだ。
 ラウルがここへ来たのは、この研究所の所長であるアルフォンスに呼ばれたためだった。理由は聞いていない。聞き出そうともしなかった。そうするまでもなく、おおよその見当はついている。だから、あえて言われるままにやってきたのだ。
「ここに入るのは初めてか?」
「ああ」
 アルフォンスは歩きながら後ろで手を組み、ちらりとラウルを振り返る。
「このフロアなら自由に見学しても構わんがどうする?」
「不要だ。ここではたいした研究をやっていないのだろう」
 ラウルはつれない答えを返す。
 アルフォンスは気難しい顔で目を伏せた。
「根幹となる研究は、立入制限区域で行っている。そちらに入るためには面倒な手続きが必要でな」
「論文にはすべて目を通している。それらを総合して考えれば、入らなくても何をやっているのか察しはつく」
「というと?」
「戦争のための兵器開発、それと人間を兵器化する技術開発」
 ラウルは端的に答えた。
 アルフォンスは息を飲んで振り返り、それからあたりを見まわす。そして、誰もいないことを確認すると、一瞬だけ安堵したような表情を浮かべた。「所長室」というプレートが掛かった扉に向かい、鍵を開けると、ドアノブに手を掛けて押し開く。
「否定はしない」
 そう言いつつ、ラウルを部屋に招き入れる。そこは、個室としては十分すぎるくらいに広かった。正面にはうずたかく書類が積まれた大きな机、端の方には応接用と思われるソファとローテーブルがあった。机の隣の本棚には整然と新しい本が並んでいる。奥の大きなガラス窓からは自然光が入り込み、部屋を明るく爽やかに照らしていた。アルフォンスは静かに扉を閉めると、ラウルをソファに促す。
「だが、戦争を仕掛けるわけではない。あくまでこの国を防衛するためのものだ」
「魔導は人に属するからこそ、辛うじてバランスを保っていられる。人の意思のない魔導や、人の意思をねじ曲げた魔導など、存在すべきではない。いずれ世界を壊すことになる」
 ラウルはソファには座らず、その場に立ったままで言った。
 アルフォンスは表情を険しくする。
「使用は厳しく制限していくつもりだ」
「判断を誤らなかった戦争などない」
「…………」
 アルフォンスは反論しなかった。いや、出来なかったのだろう。口を固く結び、目を伏せる。眉間には深い皺が刻まれた。
 ラウルは腕を組んで言う。
「今のはただの忠告だ。おまえたちが何をしようと知ったことではない。これ以上の干渉をするつもりもない。ただ、レイチェルは巻き込むな」
 アルフォンスはハッとして顔を上げた。
「なぜ、それを……」
「あれだけの魔導力を有する人間は他にいない。おまえたちからすれば、喉から手が出るほど欲しい実験体だろう。私を呼んだのも、そのことで何か相談があったのではないか」
 アルフォンスがラウルを研究所に呼んだ理由として考えられるのは三つだった。ラウルに研究への参加を依頼する、ラウルに実験体としての協力を依頼する、レイチェルを実験体として使うことについての相談——。その推測を一つに絞ることができたのは、ラウルをここへ呼んだときのアルフォンスの声が苦悩に満ちていたからだ。レイチェルに関することでなければ、そこまで思い詰めた声は出さないはずだという確信があった。
「ああ、だが勘違いするな。私個人としては反対している。そもそも、あの子の魔導のことを誰かに話したことは一度もない。だが、気づいてしまった部下がいてな」
 コンコン——。
 扉をノックする音が聞こえた。アルフォンスの顔に緊張が走る。
「フランシス=ゴードンです」
「入れ」
 アルフォンスが毅然とした声でそう言うと、三十代後半と思われる男が、静かに扉を開けて入ってきた。背筋を伸ばし、両足を揃えると、真剣な表情をまっすぐ前に向ける。体格はアルフォンスより一回り小さいが、気構えは負けていないようだった。
 ラウルはその男に見覚えがあった。過去に何度か医務室に来たことのある男だ。口をきけなくなった姪を診せに来たこともあった。リカルドが研究所に勤務していたときの部下だったと記憶している。
「これが先ほど言っていた部下だ。レイチェルを研究に使うことを強硬に主張してな」
「そうすべきだと思います。所長が娘を溺愛していることは知っていますが、この研究所の所長であれば国のことを第一に考えるべきです。国の機関に勤める人間が、国より家族を優先するなどあってはならない」
 アルフォンスは反論こそしなかったが、その青い瞳には怒りを思わせる鋭い光がたぎっていた。それが、彼のできる唯一の抵抗だったに違いない。理屈としてはフランシスの方が正しい。所長という立場もあり、おおっぴらに本音を言うわけにはいかないのだろう。
 フランシスは臆することなく続ける。
「何も傷つけようというわけではありません。彼女の身の安全は最大限考慮するつもりです」
「下手に手を出せば暴発する。そうなれば、それこそ国が崩壊する可能性もありうる」
 ラウルが横から口を挟んだ。
 フランシスは睨むような眼差しで振り向いた。
「あなたに言われるまでもなく、慎重に事を進めるつもりです。私たちは科学者だ。あらゆる可能性をシミュレーションし、危険を回避しつつ結果を得られるよう、常に綿密な計画を立てています」
 強気な姿勢を崩さずに、明瞭にきびきびと言う。あれほどラウルのことを恐れていた人物とは思えない。それだけ成長したのだろうか。それとも、仕事のこととなると人が変わるのだろうか。
 ラウルは無表情のままフランシスに歩み寄った。正面のごく近い距離で止まる。胸もとあたりの位置に彼の頭があった。ゆっくりと腕を組み、顎を軽く上げると、目線だけで彼を見下ろす。
「フランシス」
 名前を呼ばれた瞬間、フランシスはビクリと体を竦ませた。それでも精一杯の虚勢を張り、上目遣いでラウルを睨む。
「……何ですか」
「レイチェルには手を出すな」
「あなたこそ部外者のくせに口を出さないでほしい。私たちはこの国のために……」
「この国がどうなろうと知ったことではない」
 ラウルはフランシスの言葉を遮って言った。まっすぐ彼の首筋に右手を伸ばし、触れる寸前でそれを止める。その気になれば、防御する間もなく一瞬で首を落とせる距離だ。冷徹な眼差しを向け、凄みのある低い声で威圧する。
「レイチェルには手を出すな。もし手を出すことがあれば、この研究所ごとおまえを消す」
「……脅迫するのか、卑怯な」
 フランシスは恐怖に歪んだ表情のまま顔をこわばらせた。奥歯を強く食いしばる。喉仏が上下に動いた。額に滲んだ汗が、頬を伝って地面に落ちた。体の横で固く握りしめたこぶしは、怒りのためか、恐怖のためか、小刻みに震えていた。
「何とでも言え。本気だということだけは言っておく」
 ラウルは冷たく凍てついた瞳を見せつけてから、ゆっくりと彼の首から手を引いた。
 フランシスは何か言いたそうにしていたが、震える口からは少しも声が発せられなかった。
「フランシス、もう下がれ」
 アルフォンスが静かに声を掛けると、フランシスは悔しそうに顔をしかめながら、それでもきちんと頭を下げて所長室をあとにした。

「用件はこれだけか」
 ラウルは腕を組んで振り向き、何事もなかったかのようにさらりと尋ねた。
 アルフォンスは困惑した様子を見せながら口を開く。
「これだけというか……相談しようと思っただけなんだが……いや、しかし感謝する」
「おまえのためにやったわけではない。私の意志だ」
 ラウルは躊躇いなくきっぱりと明言した。
「そうか……」
 一方、アルフォンスは歯切れが悪かった。感謝しつつも訝っている様子である。他人に無関心だったはずのラウルが、レイチェルを助けるべく自ら積極的に行動したのだ。これまでではありえないことである。怪訝に思うのも無理はないだろう。
 ラウルは視線を落とし、小さく息をついて言う。
「助けられたはずなのに、助けられなかった……そんな結末をもう見たくないだけだ」
「それは、もしかして、君の……」
 アルフォンスはそこまで言いかけて口をつぐんだ。訊くべきではないと判断したのだろう。真面目な顔で目を細めてラウルを見つめる。その瞳にもう訝るものはなかった。
「何か礼をさせてほしい」
「礼など不要だ。おまえのためにやったわけではない、そう言ったはずだ」
 ラウルは無表情のままにべもなく受け流す。
 アルフォンスはそれでも引き下がらなかった。
「昼食くらいは奢らせてほしい」
「これから行かなければならないところがある」
 それは断る口実だった。言ったことは嘘ではないが、昼食に付き合う時間も取れないということはない。ただ、こう言えば諦めざるをえないはずである。
「そうか……それではまたいつか機会があれば付き合ってほしい」
 アルフォンスはラウルに真摯な視線を送る。
「レイチェルのこと、これからもよろしく頼む」
「……わかっている」
 ラウルは静かに声を落とした。腕を組んだまま、目を閉じて深くうつむく。長い焦茶色の髪が、カーテンのように横顔を覆い隠した。

 その日の午後、ラウルはレイチェルの家に向かった。
 今日もいつものように授業を行う。
 ラウルは真面目に指導をする。
 レイチェルも真面目に取り組む。
 ふたりとも授業中は関係のないことを口にしなかった。

「今日はここまでだ」
 ラウルはいつもの言葉で授業を区切る。しかし、いつものようにすぐに立ち上がろうとはせず、椅子に座ったままレイチェルをじっと見つめた。
「……どうしたの?」
 レイチェルはきょとんとして尋ねた。小さく首を傾げる。
「今日は来るのか?」
 ラウルは最も気になっていたことを質問した。言葉が足りないことは自覚していたが、これだけでも彼女には通じるだろう。思い浮かぶ場所は一箇所しかないはずだ。
「ええ、今日はラウルとお茶するわ」
 レイチェルは戸惑うことなく、にっこりと笑顔を浮かべて答える。
「そうか」
 ラウルは小さく相槌を打って立ち上がった。脇に教本を抱え、部屋を出て行く。
 レイチェルも嬉しそうに微笑みながらついてきた。その足どりは軽やかに弾んでいた。

 ラウルの部屋へ入ると、レイチェルは当然のようにダイニングテーブルの指定席についた。両手で頬杖をつき、ニコニコとしてラウルを見る。
「今日は何のケーキ?」
「ケーキはない」
 ラウルはぶっきらぼうに答えを返す。
「そう、残念」
 レイチェルは軽く言った。多少、落胆している様子はあったが、すぐに笑顔に戻る。もっと駄々をこねるかと思っていたので意外だった。それほど重要ではなかったのだろうか。
 ラウルは冷蔵庫を開けると、中からカップを二つ取り出した。
「それは何?」
「おまえが作れと言ったプリンだ」
 無愛想に答えると、それを机の上に置いた。きのう作ったものではない。今朝、新たに作ったものだ。彼女が来るかどうかもわからないのに、なぜ昨日の今日でまた作ってしまったのだろうか。もしかすると何か意地になっていたのかもしれない。
 レイチェルは大きな目をぱちくりさせてそれを覗き込むと、顔を上げて不思議そうに尋ねる。
「ラウルが作ってくれたの?」
「約束しただろう」
 ラウルは仏頂面で腕を組んだ。ちらりと彼女を一瞥して眉根を寄せる。まさか約束したことを忘れているのだろうか。まだほんの数日前のことだ。普通ならば覚えていて然るべきである。忘れているとすれば、よほど無関心だったことになる。
 だが、その心配は無用だった。
「ありがとう、本当に作ってくれたのね」
 レイチェルは嬉しそうに笑顔を弾けさせた。
 ラウルは小さく息をついた。
「美味いかどうかは知らん」
「ラウル、スプーンも」
 レイチェルは急かすように右手を伸ばした。
「焦るな。今から紅茶を淹れる」
 ラウルは湯を沸かしながら、ティーポットとティーカップを手早く準備した。ティーポットに茶葉を入れ、沸き立ての湯を注ぐ。白い湯気とともに、ふわりと芳醇な香りが立ち上った。蓋をしてしばらく置いてから、二つのティーカップに紅茶を注ぎ、ソーサに載せてテーブルの上に置く。スプーンもプリンの上に置いた。
 ティータイムの準備が整うと、ラウルはレイチェルの前に座った。
「それじゃあ、いただきます」
 レイチェルは待ちきれないといった様子で声を弾ませると、まず先に紅茶を手にとった。ティーカップに口をつけて傾ける。その途端、目を見開いて大きく瞬きをした。不思議そうに褐色の液体を覗き込み、ゆっくりとティーカップをソーサに戻して言う。
「……美味しい。これ、きのうまでの紅茶と違う」
「きのうではなく、おとといだろう」
 ラウルは淡々と訂正する。昨日はラウルのところには来ていない。サイファのところへ行っていたのだ。どうでもいいような些細なことだが、なぜか言わずにはいられなかった。
 しかし、レイチェルは気に留めることなく尋ねる。
「これ、どうしたの?」
「前の紅茶がなくなったから、新たに買ってきただけだ」
 ラウルは静かに答える。だが、そこにはひとつだけ嘘が混じっていた。前の紅茶はまだなくなってはいない。
「私、これ好き」
「そうか」
 にっこりと笑って言うレイチェルに、ラウルは素っ気ない相槌を打つ。だが、内心は違っていた。この紅茶は、彼女のために買ったようなものだった。気に入ってもらえなければ意味がない。といっても、頼まれたわけではない。勝手にやったことである。そうしようと思ったのは、きのうのことがあったからだろう。これもやはり意地のような気持ちが働いたせいかもしれない。
 レイチェルは続いてプリンを口にした。
「プリンも美味しい。本当にラウルが作ったの?」
「疑っているのか」
 ラウルは紅茶を手に取りながら尋ねた。
「ううん、驚いただけ」
 レイチェルは無邪気にそう答えると、ふわりと甘く柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう、私のお願いをきいてくれて」
 ラウルはそれだけで自分の行動が報われたように感じた。

「レイチェル、真面目な話がある」
「真面目な話?」
 真剣な表情で切り出したラウルに、レイチェルは小首を傾げて尋ねた。ちょうど食べ終わったプリンのカップを机の上に戻す。
 ラウルはじっと彼女の瞳を見つめて口を開いた。
「そろそろ魔導の方も学んでいかなければならない」
 今日のように、レイチェルを実験体にしようとする人間がまた現れないとも限らない。自分が事前に察知できれば潰すつもりだが、陰で計画を進める輩がいても不思議ではない。彼女は未知の領域を抱える危うい存在である。下手にいじれば、魔導を暴発させてしまうかもしれない。いざというとき、その危険性を少しでも減少させるためには、彼女に魔導の制御を学ばせる必要があるのだ。
 レイチェルは机の上で小さなこぶしを握りしめ、ゆっくりとうつむいた。
「……魔導はやりたくない」
「高度なものをやろうということではない。ただ、少なくとも制御だけは学ぶべきだと考えている」
 ラウルは落ち着いた口調で説得しようとする。
 だが、レイチェルは首を小さく横に振った。
「私には制御なんて必要ないわ」
「なぜそう思う」
 ラウルは表情を動かさず冷静に尋ねた。
「私にはほとんど魔導力がないの。ラグランジェ失格の出来損ないだって」
 レイチェルは顔を上げ、にっこりと微笑んで言った。
「……誰がそんなことを言った」
「ユリアっていう親戚のお姉さん」
 確かに、隠れた魔導力を抜きにして考えれば、彼女の魔導力はラグランジェ家の中では劣る方になるだろう。それでも、ほとんど魔導力がないとは言いすぎだ。出来損ないなどという明らかな中傷の言葉を選んでいることから考えると、彼女に何か恨みでもあるのかもしれない。ラグランジェ家の内情はよく知らないが、本家次期当主の婚約者ともなれば、妬みを受けることもあるのだろう。
「おまえにも魔導力はある。それは魔導を学んでいけばわかることだ」
「ユリアに言われたからってだけじゃなくて、自分でも力がないことはわかっているの」
 レイチェルは微笑みを保ったまま言った。
 ラウルは眉根を寄せた。
「おまえは自分のことをわかっていない」
「いいの、悲観なんてしていないから」
 レイチェルは澄んだ声で言う。
「それでも私は幸せよ。みんな私を責めたりしないもの。きっとこのままでいいの。私に魔導は必要ないと思うわ。お仕事をすることもないし……16歳になったら、私、サイファと結婚するから」
 ラウルの眉が僅かに動いた。険しい表情でレイチェルに鋭い視線を向ける。
「……おまえはそれでいいのか」
「えっ?」
 レイチェルは大きく瞬きをした。
「その結婚はおまえが望んだことなのかと訊いている」
「望んだっていうか……そう決まっているから……」
 彼女は戸惑ったような表情で首を傾げ、曖昧に答えた。
 ラウルはまっすぐ彼女を見たまま質問を続ける。
「他人に決められた人生を歩んで、それで幸せなのか」
「私はサイファが好きだし、みんな優しくしてくれるし、それでいいって思ってるんだけど……」
 レイチェルは自信のなさそうな声で言う。表情は次第に曇っていった。
「おまえの本当にやりたいことは何だ。自分で考えたことはあるのか」
 ラウルは責め立てるように畳み掛けた。
 レイチェルは困惑したように蒼い瞳を揺らした。小さな口をきゅっと結び、難しい顔でゆっくりとうつむく。机の上に置いた自分の手をじっと見つめた。
「……悪い、余計なことを言った」
 ラウルは頭に手をやり、溜息をついて詫びた。
 レイチェルとサイファの婚約については、これまでもずっと小さな棘のように心に引っかかっていた。彼女の意向など少しも考慮されずに決められたことである。口に出すことはなかったが、常に疑問には思っていた。
 彼女に不満そうな様子は見られなかった。むしろ、幸せそうに見えた。
 だが、それは、初めから他の選択肢をすべて排除されていたためだろう。生まれたときからサイファの婚約者と決められ、16歳で結婚して家庭に入るのだと言い聞かされて育った。他のことは考えも及ばなかったに違いない。言い方は悪いが洗脳のようなものだ。
 現実として、彼女がそれを受け入れるしかないことは理解している。彼女ひとりの力ではどうすることもできない問題だ。そうだとすれば、下手に自分の考えなど持たない方が幸せなのかもしれない。
 しかし、不条理な運命を当然のように受け入れている彼女を目の当たりにすると、無性に腹立たしく感じられた。それは自分の勝手な感情である。相手に押しつけてはならないものだ。
 そう、彼女をこんなふうに問い詰めるべきではなかった。
 そもそもラウルは他人には干渉しないようにしている。誰がどういう人生を送ろうと、自分には関係のないことだ。レイチェルについては、様々ないきさつもあり、特別な感情がなかったとはいわないが、それでも積極的に関わろうとはしなかった。
 だが、今日は——。
 彼女に関することにおける今日の行動は、どれも普通ではない。完全に自分の基準から外れている。いまだに過去の面影を引きずっているのだろうか。いや、そうではない。研究所でアルフォンスに言った理由は嘘ではないが、それはレイチェルに面影を重ねているということではなく、彼女を同じような目に遭わせたくないという思いである。
 ラウルは立ち上がった。冷蔵庫から小さなカップを取り出し、レイチェルの前に置く。それは、先ほどと同じプリンだった。余分に作ってあったものである。
「食べろ」
「うん……」
 レイチェルは曇った表情のまま小さく頷いた。だが、じっとしたまま手を伸ばそうとはしなかった。
「紅茶ももう一杯飲むか」
「うん……」
 ラウルは無言でレイチェルに背を向け、ヤカンに水を入れて火に掛けた。青い炎をじっと見つめる。その青の放つ強い光が、何か自分を挑発しているように感じられた。そんなふうに思うなどどうかしている——小さく溜息をつき、後ろのレイチェルに視線を向ける。
 彼女はそっとプリンに手を伸ばしていた。それをすくって口に運ぶと、ようやく少し微笑みを取り戻した。

「わかったわ」
 二個目のプリンを食べ終わり、二杯目の紅茶を飲んでいたレイチェルは、唐突に大きく瞬きをしてそう言うと、ティーカップをソーサに戻した。テーブルに腕をついて身を乗り出す。
「ラウル、私にプリンの作り方を教えて」
「……何を言っている」
 ラウルは怪訝に目を細めて言う。彼女の発言はあまりに突飛なものだった。いったい何がわかったというのだろうか。何を思ってそんなことを言い出したのだろうか。まるで見当がつかない。
「私、このプリンを食べて元気が出たの。幸せを感じたの。だから、私もこのプリンを作ってみたい、作れるようになりたいなって」
「なぜそうなる……」
「これが私のやりたいことよ。ちゃんと自分で考えたの」
 レイチェルはにっこりとして言った。
 ラウルはじっと彼女を見つめる。確かにやりたいことはあるのかと尋ねたが、そういうことをいったのではない。人生をどうするのかということを尋ねたつもりだった。しかし、確かにいきなりそんな大きなことは考えられないだろう。的外れの理解不能な結論でも、彼女が自分で考えて出したのならば、それはそれで前向きといえる。
「おまえ、何か料理をしたことがあるのか」
「お茶を淹れたこともないわ」
 レイチェルは清々しいくらいにあっけらかんと答えた。
「……やめておけ、死ぬぞ」
 ラウルは眉をひそめ、低い声で言った。
「ラウルに迷惑は掛けないわ。作り方だけ教えて。すぐに作れるようになるとは思わないから、家で何度も練習しながら頑張るつもり」
「余計に不安だ」
「ねえ、お願い。お母さまに見てもらいながらにするから」
 レイチェルは顔の前で両手を組んで懇願した。大きな蒼い瞳が小さく揺れる。
 ラウルは腕をつき、額を押さえた。それほど難しいことではないのだが、お茶すら淹れたことのない彼女には危険な作業だ。火傷でもしかねない。だが、こんなにも必死な彼女を見たのは初めてである。そこまでの強い希望であれば叶えてやるべきではないか——そんな気持ちになる。
「……絶対にひとりではやるな」
 レイチェルはぱっと顔を明るくして体を起こした。
「ありがとう、約束は絶対に守るから心配しないで」
「今日はもう遅い。あしたでいいな」
 ラウルは疲れた声でそう言うと、腕を組んで溜息をついた。
 そんなラウルの心情を知ってか知らずか、レイチェルは両手を組んで浮かれた声で言う。
「いつになるかわからないけれど、上手に作れたらラウルにも持ってくるわね」
「食べられるものしか受け付けんぞ」
「ええ、精いっぱい頑張るわ」
 レイチェルは愛くるしい笑顔で答えた。
 これも我が侭といえばそうだ。だが、今までの我が侭とは違う。単に誰かに何かをしてもらおうというのではなく、自分で考えて努力しようとしている。これまでの彼女にはなかった姿勢である。まだ恐ろしいくらいに危うく未熟だが、彼女は自分の意志を持って歩き始めたのかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのか——ラウルにはわからなかった。


12. 妥協点

 その日も医務室はとても静かだった。
 昼下がりの穏やかな光が、レースのカーテン越しに柔らかく室内を照らしていた。細く開いた窓から入り込んだ風が、そのカーテンを微かに揺らめかせている。

 ラウルは机に向かって黙々と本を読んでいた。来るかどうかもわからない患者を待っているのである。ひとりも来ない日の方が多い。それでも、ここで待機するのが王宮医師としての仕事なのだ。

「ラウル、こんにちは」
 ノックもなしに扉が開き、レイチェルが澄んだ声で挨拶をしながら入ってきた。軽い足どりでラウルに駆け寄り、後ろで手を組んでにっこりと笑顔を見せる。
 ラウルは彼女を冷たく一瞥して言う。
「何をしに来た。今日は家庭教師は休みだろう」
「だから遊びに来たの」
「帰れ。家でプリンでも作っていろ」
 彼女にはきのう、約束どおりプリンの作り方を教えてやった。呆れるくらい詳細なレシピも渡した。あしたから頑張ると張り切っていたはずなのに、どういうつもりで遊びに来たのかわからない。単なる小休止だろうか。それとも諦めたのだろうか。もうプリン作りに成功した——とは、とても考えられない。
 レイチェルは顔の横で右手を広げて見せた。真ん中の三本の指の先には、それぞれ絆創膏が巻いてあった。
「……火傷か」
「ええ、午前中に作りかけていたんだけど、そのときに手を滑らせてしまったの。それで、この火傷が治るまでプリン作りはお休みしなさい、ってお母さまに言われて」
 ラウルは溜息をついた。早々に懸念が現実になってしまった。だが、これくらいの火傷でまだ良かったといえるだろう。診てみないと正確なことはわからないが、そう酷くはなさそうである。
「座れ」
 患者用の丸椅子を顎で示して言う。本を閉じて立ち上がると、薬、包帯、ガーゼなどを棚から取り出し、手際よく準備を進めていった。
「本当にお医者さんなのね」
 レイチェルは感心したように言った。数日前にも同じことを言っていたが、あのときは単に医務室を見ただけである。実際に医者として行動するラウルを見て、初めてその実感を持ったに違いない。
「ようやく信じたのか」
「疑っていたわけじゃないの。ただ、少し不思議な感じがしただけ。私にとってラウルは家庭教師の先生だから、お医者さんっていう印象があまりなくて」
 レイチェルはにっこりと微笑んだ。
 ラウルは無言で椅子に座り、彼女と向かい合った。ほっそりとした白い手を取り、すべての絆創膏を丁寧に外していく。火傷は思ったとおり軽度のものだった。跡が残ることもないだろう。消毒をして薬を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻いた。三箇所もあるため、少し仰々しく見える。
「ずいぶん大袈裟ね。指が動かしにくいわ」
「我慢しろ」
 不満げなレイチェルを、ラウルは冷たく一蹴した。
「どのくらいで治るの?」
 レイチェルは広げた右手を表にしたり裏にしたりしながら尋ねる。
「数日、長くても一週間だ」
「治ったらまた頑張るわね、プリン作り」
「……今度こそ気をつけろ」
 ラウルは静かに注意を促した。しかし本音は違う。もう止めろと言いたかった。だが、そう言ったところで、彼女が素直に聞くとは思えない。それに、せっかく彼女が意欲を見せているのだ。なるべくその気持ちを尊重してやりたいという思いもあった。
「ありがとう。いつかきっと、ラウルに食べてもらえるものを作るわね」
 レイチェルは眩しいくらいの笑顔を見せた。
 ラウルは眉根を寄せて目を細めた。
「治療は終わった。もう帰れ」
「これから外へ遊びに行かない?」
 レイチェルは顔を斜めにして誘いかけた。
「帰れ」
 ラウルは冷たくそう言うと、彼女に背を向けて後片付けを始めた。
 それでもレイチェルは引かなかった。
「行きたいところがあるの」
「ひとりで行け」
「ラウルと一緒に行きたいの」
「仕事中だ」
「一時間だけ休憩して行きましょう、ね?」
「……一時間だけだぞ」
 ラウルは観念したかのように溜息をついて言った。結局、いつも彼女の思いどおりになってしまう。それを許しているのは、彼女に対する自分の甘さに他ならない。そのことはわかっていた。そして、その理由もはっきりと自覚していた。

 暖かな陽光が降りそそぐ中、ラウルとレイチェルは人気のない小径へと足を進めた。王宮からのざわめきが次第に小さくなっていくのを感じる。
「どこへ行く」
「きれいなところ」
 レイチェルははぐらかすように答え、顔を上げてくすりと笑った。妙に嬉しそうに見える。どうやら今はまだ秘密にしておきたいらしい。着いてからのお楽しみということなのだろう。ラウルはそれ以上の追及はしなかった。
 しばらく歩くと、蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチが現れた。
 ——そうか、ここは……。
 特徴的なその建造物を目にして気がついた。いや、思い出したというべきだろうか。自分は以前にもここへ来たことがあったのだ。記憶が正しければ、この先は——。
「ね、きれいでしょう?」
 アーチをくぐって駆け出したレイチェルは、大きく両手を広げ、まばゆい笑顔で振り返った。
 金の髪が軽やかに舞い上がり、後方からの光を受けて透き通るように煌めく。
 その背後には、色鮮やかなバラ園が一面に広がっていた。
「今がいちばん花のきれいな時季って聞いたから、ラウルと一緒にここへ来たかったの」
 そう言うと、後ろで手を組み、にっこりとして首を傾ける。
「ラウルは初めて?」
「サイファに連れてこられたことがある」
 ラウルは彼女の方へ歩きながら答えた。それはもう10年以上前のことである。このバラ園は、あのときとほとんど変わっていない。少し広くなったくらいである。今でも手入れは隅々まで行き届いているようだ。様々な種類のバラが見事に咲き誇っている。ほんのりと甘い匂いが鼻を掠めた。
「もうずっと昔のことだ」
「そうだったの」
 レイチェルは相槌を打って微笑むと、バラ園の中の細道に足を向けた。
 ラウルも彼女について歩いた。彼女の足どりが次第に軽くなっていくのがわかった。薄水色の大きなリボンが弾んでいる。顔を見ずとも、浮かれているのが伝わってきた。
 ふと、彼女の隣に咲いていた淡い色の花が目に止まった。それはピンクローズである。サイファが好きだと言っていた花だ。レイチェルに似ているというのがその理由だった。
 そう、確かに似ているのだ。華やかさも、可憐さも、その棘さえも——。
「気をつけろ。それ以上、怪我を増やすな」
「そうなったら、またラウルに治療してもらうわ」
 レイチェルは愛くるしい笑顔でラウルの忠告を受け流し、一輪のピンクローズに手を伸ばした。そっと顔を近づけて目を閉じる。薄く色づいた小さな唇が、同じ色の花びらを掠めた。
「ラウルはこの花、好き?」
「……ああ」
 ラウルは少しの躊躇いのあと、静かな声でそう返事をした。
 以前は好きでも嫌いでもなかった。そもそも花に興味などなかった。だが、その花だけは、いつのまにか自分の中で特別な存在になっていた。間違いなくサイファとレイチェルの影響である。
「サイファもこれが好きなのよ」
「知っている」
 ラウルは無愛想に答えて腕を組んだ。今はそんな話など聞きたくなかったが、レイチェルに他意はないのだろう。思ったことを無邪気に口にしたにすぎない。ただそれだけだ。
「ねえ、ラウル」
 レイチェルは体を起こして振り返った。後ろで手を組み、大きな瞳でラウルをじっと覗き込む。
「来て良かった?」
「……ああ」
 ラウルは無表情のまま答えると、嬉しそうに微笑んだ彼女を見下ろした。これが肯定の理由である。彼女が喜んでいるのであれば、自分の気持ちはどうであれ、ここへ来た価値があるといえるだろう。いや、彼女が笑顔を見せてくれるのであれば、自分自身も来て良かったと思える。
 レイチェルは微笑んだままで言う。
「キスしてくれる?」
 ラウルはわけがわからず眉根を寄せる。
「何だ、唐突に」
「好き合っている二人は、そうやって気持ちを確かめ合うんですって」
 いったいそれはどこから得た知識なのだろうか。怪訝に思ったが、敢えて尋ねなかった。聞いたところで、応じるわけにはいかないのである。彼女はサイファの婚約者なのだ。
「そういうことはサイファに言え」
「サイファには結婚してからって言われたの」
 レイチェルは軽く答えた。
 ラウルは表情を険しくして口を結んだ。彼女が何を考えているのか理解できなかった。おそらく深くは考えていないのだろう。彼女を常識で測ろうとすることが間違いだ。これまで閉鎖的に育てられてきたせいか、普通ならば持ち合わせているべき感覚の欠落が見受けられることも多い。
「私はサイファの代わりというわけか」
「そうじゃないわ。私、ラウルのことが好きだし、ラウルだって私のことが好きでしょう?」
 レイチェルは当然のように言った。
「おまえが私を好きだというのは幻想だ」
「そんなことないわ」
「ならば、どこが好きなのか、なぜ好きなのか言ってみろ」
 ラウルは平静を装いながらも感情的に問い詰める。
「人を好きになるのに理由なんてないでしょう?」
 レイチェルは不思議そうに首を傾げる。
「それは思考の放棄に対する言い訳にすぎない」
 ラウルは容赦なく切り捨てた。
「必ずしも理由を意識して好きになるわけではないが、好きになったことには理由が存在する。それを考えることすらせず、ただ相手に気持ちを押しつけるだけというのは、傲慢としか言いようがない。理由を問われれば答える、それが相手に対する誠意だろう。もし理由を考えても見つからないのであれば、その気持ちは単なる思い込みということだ」
 レイチェルはじっと黙って聞いていた。話が終わると、ラウルを見つめたまま静かに尋ねる。
「じゃあ、ラウルが私を好きな理由は?」
 ラウルはムッとして低い声で言う。
「勝手に決めつけるな。いつ私がおまえを好きだと言った」
「でも好きなんでしょう?」
 レイチェルはさらりと言う。そのことを少しも疑っていない様子だ。むしろ、なぜ認めないのかわからないとでも言いたげな顔をしている。
 その何もかも見透かしたような態度が腹立たしかった。
「そうであっても、私がそれを口にしていない以上、理由を教える筋合いはない」
「知られたくない理由なの?」
 ぽつりと投げかけられた疑問。
「……そういうわけではない」
 ラウルは僅かに視線を落として答えた。自分の気持ちについて口を閉ざしているのは、それが最善だと判断したからだ。逃げていると思われるのは仕方がない。だが、変に誤解されることだけは避けたかった。彼女の問いかけは、単なる思いつきだったのだろうか。それとも、本当にそう思っているのだろうか。だとすれば、自分はどう応じるべきなのだろうか——。
「ごめんなさい、私の方が理由を言わなければならないのよね」
 レイチェルは申し訳なさそうに肩をすくめて微笑んだ。ラウルに背を向けると、後ろで手を組み、空を見上げながらゆっくりと歩き出す。ちらりと見えた横顔は、真剣そのものだった。問われた答えを懸命に探している様子である。
 ラウルも彼女の後ろについて歩く。
「無理に言わなくてもいい」
「ううん、ちゃんと考えて答えるわ。信じてもらいたいから」
 レイチェルは振り返らずに言った。
 彼女の指に巻かれた白い包帯が見える。
 両側のピンクローズが小さく揺れた。
「ラウルは……」
 レイチェルはそう切り出して足を止めた。その場でくるりと振り返る。金色の髪と薄水色のドレスがふわりと舞った。
「ラウルは優しいから好き」
 甘く愛らしく微笑み、澄んだ声を響かせる。
「……私は優しくなどない」
 ラウルは表情を動かさず、気難しい声で反論する。
「私のことをいつも真剣に考えてくれているでしょう?」
「義務を果たしているだけだ」
「私のことを好きでいてくれるのも義務なの?」
 レイチェルは淡々と追及する。
 ラウルは溜息をついた。納得したという態度を見せない限り、いつまでも食い下がってきそうな気がした。今の彼女はそのくらいひたむきに見えたのだ。言い合って勝てる気がしない。
「……もういい、わかった」
 レイチェルの顔がパッと輝いた。胸の前で両手を合わせる。
「本当? じゃあ、キスしてくれる?」
「それとこれとは話が別だ」
 ラウルはきっぱりと冷静に突き放した。他に仕方がなかった。こればかりは彼女の言いなりになるわけにはいかない。その強い決意を瞳に宿す。
「そう……」
 レイチェルはラウルの意思を感じ取ったのだろう。もう我が侭を通そうとはしなかった。一瞬だけ悲しげに表情を曇らせたが、すぐにもとの明るい笑顔に戻った。気にしないとばかりに、悪戯っぽく肩をすくめて見せる。そして、再びラウルに背を向けると、まるで何事もなかったかのように、両側のバラを愛でながら歩き始めた。
 ラウルは目を細めて青い空を仰いだ。小さく溜息をつく。
「レイチェル、そろそろ帰るぞ」
「もう? 約束の時間はまだ残っているはずだけど……」
 レイチェルは瞬きをして振り返り、遠慮がちに不満を口にする。彼女の言うように、確かにまだ約束の時間は残っていた。一時間の半分ほどしか過ぎていない。だが、ラウルはここを離れたかったのだ。彼女のようには気持ちを切り替えられない。この場で散歩の続きをする気にはなれなかった。
「部屋でお茶を淹れてやる」
「本当? 嬉しい」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませた。ラウルの隣に駆け寄ると、下から覗き込んで笑顔を見せる。今までと何ら変わることのない愛らしい笑顔だった。
 ラウルは無言で彼女の手を取り、柔らかく包み込むように握った。
「えっ?」
 レイチェルは大きく瞬きをしてラウルを見上げた。
「今日だけだ」
 ラウルは無表情で彼女を一瞥して言う。
「ありがとう」
 レイチェルはそう答えると、ふたりの手に視線を落とし、そっと穏やかに微笑んだ。それは、今までに見たことのない、幸せに満たされたような優しい表情だった。

 繋がれた大きな左手と小さな右手。
 これが彼女の気持ちに対する自分の行動の妥協点だった。
 彼女が望んだものとは違う形だが、求める本質は同じだろう。
 ラウルは手の中の温もりを感じながら、ゆっくりと歩き始めた。


13. 沈黙という嘘

 ラウルがレイチェルとバラ園に行った日から2ヶ月が過ぎた。
 家庭教師は淡々と続けている。
 レイチェルはそれまでと変わることなく真面目に授業を受けていた。そして、終了後にはラウルを医務室まで送り、ついでに部屋に紅茶を飲みに来るのだ。もっとも、ラウルとのティータイムは毎日というわけではない。週に1、2回は、仕事を早く終えたサイファと過ごすために、部屋には寄らずに帰っていった。婚約者の方を優先するのは当然のことだろう。
 約束していた手作りのプリンは、まだ一度も持ってきていない。どうやら納得のいくものが作れていないようだ。ラウルのものと比べると何かが違う、とよく嘆いている。それでも諦めることなく、休日のたびに奮闘しているらしい。
 学習状況は良い方に向かっているといっていいだろう。
 応用問題はまだ苦手なようで、すぐに自力で解くことはないが、水を向けると少しずつ考えるようになった。当然のように思考を放棄していたときから比べると、格段の進歩であるといえる。
 魔導についても、理論の方だけは渋々ながらも授業を受けるようになった。ただ、実技の方は、頑として拒否している。彼女に関していえば、制御を学ぶことが何より必要なのだ。理論だけでは足りない。実際にやってみないことには、決して出来るようになるものではない。このままというわけにはいかないのだ。何とかしなければ——。

「レイチェル、今度、テストをやる」
 魔導理論の授業を終えたラウルは、教本を閉じながらそう告げた。
 レイチェルは目をぱちくりさせて振り向く。
「魔導の?」
「そうだ。この本から出す」
 ラウルは右手で先ほど閉じた教本を掲げた。この魔導理論の授業で使ってきたものだ。今日の授業でこの本は一応終了ということになっている。
「どうして魔導だけテストをするの?」
 彼女の学力を確認するため、最初に一度だけ受けさせたことはあったが、それ以外ではテストを行ったことはなかった。それなのに急に一科目だけ、それも他と比べて学習期間の短い魔導だけとなると、彼女の疑問も当然である。
 ラウルは正面から彼女を見据えた。
「このテストで一問でも間違えたら、魔導の実技の方も学んでもらう」
「それって……」
 レイチェルは目を大きくして何かを言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。キュッと眉根を寄せてうつむき、何もない床の一点を見つめながら考え込む。そして、ゆっくりと顔を上げると、大きな蒼の瞳をまっすぐラウルに向けた。
「全問正解だったら、私のお願いを聞いてくれる?」
「いいだろう、何だ」
 ラウルは腕を組んで言った。彼女がこのテストを受けなければ始まらない。そのくらいの約束はしてやってもいいだろうと思う。多少の無理を言われても承諾するつもりだった。だが——。
「キスして」
 小さな薄紅色の唇から、短い言葉が紡がれる。
 ラウルの眉がピクリと動いた。
「おまえは馬鹿か」
「だったら、私、そんなテスト受けないから」
 レイチェルは軽い調子で切り返した。ラウルが条件を呑まない限りは、本気でテストを受けないつもりのようだ。彼女からすれば、ラウルが条件を呑んでも、テストを取りやめても、どちらでも構わないのだろう。
「そんな勝手が許されると思っているのか。魔導の力を持って生まれてきたからには、魔導の制御を学ぶ義務がある。何度もそう言ったはずだ」
「それって、私が全問正解できないと思っているってこと?」
 ラウルは何も答えられなかった。確かにそう思っている。それが目的のための前提条件なのだ。だが、彼女に悟られてはならなかった。あまりにも不用意な発言をしてしまったと思う。
 レイチェルはニコッと笑った。
「だったら約束してくれてもいいじゃない。全問正解だったら私のお願いを聞いてくれるって。そうなることはないって思っているんでしょう?」
 ラウルは少し考えたあと、彼女を見つめて静かに言う。
「いいだろう、その条件を呑もう」
「ありがとう、ラウル!」
 レイチェルは胸の前で両手を組み合わせ、無邪気にはしゃいだ声を上げる。
「テストは一週間後にしてくれる? ちゃんと勉強したいから」
「わかった、では一週間後だ」
 ラウルは感情のない声でそう言うと、難しい表情で僅かに目を細めた。

 その日から、レイチェルはラウルの部屋に来なくなった。医務室の前までは今までどおりに来るが、中には入らず、そのまま帰っていくのである。
 怒っているとか、喧嘩をしたとか、そういうことではない。
 きちんと試験勉強をしたいという彼女の前向きな意思からの行動である。ティータイムの時間を試験勉強に費やすのだと言っていた。これほどまでに懸命な彼女は、今までに見たことがない。必死といってもいいくらいだ。
 魔導をやりたくないという気持ちがそこまで強いのだろうか。
 去り行く彼女の後ろ姿を見るたびに、ラウルは漠然とそんなことを考えていた。

 テストの前日——。
 ラウルは自室で机に向かい、テストの準備をしていた。教本から満遍なく出題箇所を選び、問題を作る。ほとんどは彼女が解けないレベルの問題ではない。だが、一問だけ確実に解けない問題を作った。それは、教えていない章から出題したものである。別の教本で詳しく教える予定にしていたので、この本では飛ばした章があったのだ。
 彼女には、教わっていないことを自力で勉強して理解する力はまだない。この章から出題されるかもしれないと予想は出来ても、それに対応することは不可能なのである。
 つまり、全問正解はありえないのだ。
 そして、約束どおり、彼女は魔導の制御を学ぶことになるだろう。
 それがラウルの筋書きだった。
 褒められた方法とはいえない。だが、他に実現可能な手段が思い浮かばなかったのだ。あまり悠長に構えている余裕はなかった。彼女の魔導力を利用しようとする輩が、またいつ現れないとも限らない。下手なことをして暴発させられるかもしれない。そうなる前に、自分を守る術を身につけさせる必要があるのだ。
 ラウルは顔を上げ、向かい側の席をじっと見つめる。そこは彼女の指定席だった。ここへ来るたびに、いつも同じその席に座るのである。今は空席で誰もいない。今後もずっと空席のままかもかもしれない。このテストのことで彼女に反感を持たれてしまうのではないかと懸念しているのだ。
 だが、たとえそうなったとしても仕方のないことである。それでも自分がやらなければならない。自分以外の誰にも託せることではない。すでに覚悟は決めていた。

 翌日、ラウルは作成したテスト問題を持って、レイチェルの家に向かった。少し足が重く感じる。そんな自分の不甲斐なさに呆れ、小さく溜息をついて顔を上げた。澄み渡った青空から降りそそぐ陽射しは、痛いくらいに強かった。眉をしかめて目を細めると、焦茶色の長髪をなびかせながら、雑念を振り切るように足を速めた。

 ラウルを部屋に迎え入れた彼女は、普段と変わることなく明るい笑顔を振りまいていた。今日がテストの日であることを忘れているのかと心配になったくらいである。だが、それは杞憂だった。
「今日はテストなんでしょう? 今から始めるの?」
 レイチェルは机に向かって座ると、すぐに尋ねてきた。
 ラウルは持ってきたテスト問題を彼女の前に広げて置いた。
「時間は90分だ」
「わかったわ」
 レイチェルはにっこりと微笑んで答えた。
 ラウルは机上の時計で時間を確認すると、静かに短い合図をする。
「始めろ」
 レイチェルはその言葉と同時に鉛筆を手に取り、真剣な顔で問題を解き始めた。
 ラウルは少し離れたところに椅子を置き、後ろから彼女の様子を窺った。特に悩む様子もなく解いているようだ。最初のうちはそうだろう。だが、最後には絶対に解けない問題が待っているのだ。彼女の後ろ姿を見ながら、眉根を寄せて目を細めた。

「終わったわ」
 制限時間の90分を待たずに、レイチェルはそう言って鉛筆を置いた。解答用紙をすべてきちんと重ねると、窓枠にもたれかかって立っていたラウルに振り向き、にっこりと大きく微笑んだ。
「もういいのか」
「ええ」
 ラウルは訝しげに眉をひそめる。彼女の曇りのない笑顔がどうにも腑に落ちなかった。解けない問題があったのならば、笑っている場合ではないはずだ。解けたつもりでいるのだろうか。それとも諦めたということなのだろうか——胸にわだかまるものを抱えながら、彼女の方へ足を進めて言う。
「今から採点をする。おまえはしばらくどこかで待っていろ」
「わかったわ」
 レイチェルは天蓋のベッドに駆けていくと、その縁に弾むように腰掛けた。そして、ふんわりとした白い布団の上に、倒れこむように身を横たえる。その肩が小さく揺れ始めた。何か楽しそうにくすくすと笑っているようだ。
 ラウルは怪訝に彼女を一瞥すると、無言で机に向かって採点を始めた。

 なぜだ——。
 ラウルは赤ペンを手にしたまま、反対の手で額を押さえた。長めの前髪をくしゃりと掴む。
 彼女の回答はすべて完璧だった。絶対に解けないはずだった最後の問題も、文句のつけようもないくらいに見事に解かれている。ありえない——。だが、これは現実だ。
「ね、どうだった?」
 レイチェルの声が耳元で聞こえた。待ちきれなかったのか、彼女はラウルのすぐそばまで様子を見に来ていた。採点中の解答用紙をニコニコしながら覗き込む。
「最後の問題も合っているでしょう?」
「……ああ」
 ラウルは観念して、赤ペンでゆっくりと丸をつけた。
「わぁ、全問正解ね」
 レイチェルは顔の前で両手を組み合わせ、はしゃいだ声を上げた。
「……なぜだ」
「頑張ったんだもの。ラウルも知っているでしょう?」
 彼女が努力をして結果を出したことは、素直に喜ぶべきことだろう。だが、これで、魔導の制御を学ばせようというラウルの目論見は崩れ去ってしまった。こんなはずではなかった。いったい何を見誤ったのだろうか。
 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。彼女にはどうしても必要なことなのだ。しつこいと思われようとも、早く次の手を考えなければ——。

「ラウル、覚えてる?」
 レイチェルは後ろで手を組み、小さく首を傾げてにっこりと微笑む。
「何をだ」
「全問正解だったらキスしてくれるって」
 ラウルは机に向かったままハッと目を見開いた。確かにその約束はした。だが、今の今まで忘れていた。全問正解はありえないと考えていたせいかもしれない。可能性があると考えていたならば、そもそもそのような条件は呑まなかった。
「今さらダメなんて言わないでしょう? ラウルは約束を破ったりしないものね」
 レイチェルは先回りして釘を刺すように言う。
 確かに約束を破ることなどあってはならない。家庭教師の自分が約束を破ったのでは、教え子のレイチェルに約束を守れなどとは言えなくなる。今後の信頼関係にも影響を及ぼすことになるだろう。
 しかし、だからといって、彼女の望みをきいてやるわけにもいかないのだ。自分にとってはたいしたことのない行為だとしても、彼女にとっては大きな意味を持つことになる。おそらく、彼女自身が思っている以上に重大な意味を——。
「どうしたの?」
 レイチェルは身を屈めて心配そうに覗き込んだ。細い金の髪がさらりと揺れる。強い引力を秘めた深い蒼の瞳で、答えを探るようにじっと見つめる。
 ラウルは険しい顔をゆっくりと彼女に向けた。
「おまえはわかっているのか」
「何を?」
 レイチェルはきょとんとして尋ね返した。
 やはり、少しもわかっていないのだろう。詳しく尋ねるまでもない。これほど率直に尋ね返すということは、思い当たる節がまるでないということだ。罪悪感の欠片もない様子からも明らかである。
 ラウルは思いつめた表情で頭を押さえた。その眉間には深い皺が刻まれていた。
「ラウルはそんなに嫌なの?」
「そうではない」
「じゃあ、何を悩んでいるの?」
「おまえのことだ」
「私に何か問題でもあるの?」
 レイチェルの容赦ない追及は続く。彼女のためにこれほど苦慮しているにもかかわらず、その彼女がさらに追撃してくるのだ。次第に苦々しく思う気持ちが湧き上がってきた。
「……いいだろう、約束を果たしてやる」
 ラウルは投げやりに椅子を引いて立ち上がった。背筋を反るくらいに伸ばし、睨むように見下ろしながら腕を組む。
 彼女は子供のように無邪気にニコニコしていた。いや、実際に子供のようなものだ。当たり前の常識も知らず、思いのまま自由奔放に行動するなど、子供としかいいようがない。
 そういうところが腹立たしかった。だが、同時に惹かれてもいるのだ。
「後悔しても知らんぞ」
「後悔なんてしないわ」
 レイチェルは大きな瞳でラウルを見つめ、澄んだ声できっぱりと言った。しかし、何もわかっていない彼女の決意など何の意味もない。それでも、ラウルにはその言葉が必要だったのかもしれない。
「目をつむれ」
「どうして?」
「やりにくい」
「でも、目をつむったら見えないわ」
「……好きにしろ」
 ラウルはもう何も考えないようにした。
 細い肩に手を掛けると、身を屈めて彼女に顔を近づける。
 焦茶色の長髪がカーテンのようにふたりを覆い隠した。
 そっと唇を触れ合わせる。
 鼓動を3つ数える。
 ゆっくりと顔を離して身を起こす。
 たったこれだけのこと。
 だが、しかし——。
 レイチェルは目を大きくして、離れていくラウルをじっと見つめた。透けるような白い肌には僅かな赤みが差し、薄紅色の小さな唇は半開きになっている。少しぼんやりしている様子だった。
 ラウルは彼女を見下ろし、感情を抑えた低い声で言う。
「気が済んだか」
「ええ、ありがとう」
 レイチェルは我に返ってにっこりと答えた。いつもと変わらない愛くるしい笑みの中に、幸せに満たされたような優しい表情が広がっている。それは、バラ園で手を繋いだときに見せたものと同じだった。
「愚かな女だ」
 何もわかっていないで幸せに浸っている彼女は愚かだ。
 だが、わかっていながら止めなかった自分はもっと愚かだ。
 彼女にはきちんと伝えて説明すべきだった。その望みはサイファを裏切る行為だということを。そして、ラグランジェ本家次期当主の婚約者であるという事実の重みを——。
 だが、どうしても口に出すことができなかった。
 別にサイファとの結婚を阻止しようなどとは思っていない。彼女は最終的にはサイファを選ぶことになるだろう。そうであるべきだと思う。納得はいかないが、彼女のためを思えば、現実問題として最善の選択なのだ。それでも、その手助けをすることだけはしたくなかった。
 だから、沈黙という嘘をついたのだ。
「早く行きましょう。今日は久し振りにラウルのところでお茶をするんだから」
 レイチェルは屈託なく澄んだ声を弾ませた。そして、軽い足どりで扉まで駆けていくと、くるりと振り返り、とびきりの笑顔を見せた。後ろで手を組み合わせ、大きく瞬きをすると、愛らしく小首を傾げる。
 ——おまえは知らない、本当の私を。
 ラウルは心の中で静かに呟き、しかし固く口を閉ざしたまま、扉で待つ彼女のもとへ足を進めた。



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