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7. 砕けた幻想

「家庭教師だと?」
「そう、レイチェルのな」
 アルフォンスは真面目な顔で頷いた。大きな体にはいささか頼りない小さな丸椅子に腰掛け、正面のラウルをまっすぐに見据えている。
「サイファの家庭教師を終えたばかりで申し訳ないが、引き受けてはもらえないだろうか」
 ラウルは眉根を寄せ、横の机に肘をついた。
「魔導の制御を学ばせるということか」
「それも目的のひとつだ」
 アルフォンスは目を逸らすことなく冷静に答える。
「ただ、今は魔導を嫌がっている状態でな。無理強いはしたくない。いずれ説得をして学ばせるつもりだが、とりあえずは、あの子を見守りつつ、普通に勉強を教えてやってほしい」
「おまえに説得などできるのか。娘には甘いのだろう」
 ラウルは冷ややかに言う。アルフォンスが娘を溺愛していることは知っていた。サイファはよくその話をしていたし、ラウル自身もそういう光景を目撃したことがある。魔導の教育を止めているのも、娘の我が侭を聞き入れてのことだろう。そもそも「無理強いをしたくない」ということが、甘いとしか言いようがない。
 アルフォンスは眉間に皺を寄せ、表情を険しくした。
「確かに難しいとは思うが、やらねばなるまい。それがあの子のためだからな。そのときは君にも手伝ってもらうかもしれない。もちろん、家庭教師を引き受けてくれたらの話だが」
「……いいだろう」
 ラウルは表情を動かさず、低い声で言った。
 断ることなど初めから考えていなかった。レイチェルを見守ることは、彼自身の望みでもあったのだ。ただ、微かな不安が胸にわだかまった。彼女の傍で心を乱さずにいられるだろうか、と——。
 外で木々がざわめいた。クリーム色のカーテンがふわりと丸みを作り、大きく波を打つ。そこから滑り込んだ新鮮な風が、消毒液の匂いを攫い、焦茶色の長髪を舞い上げた。

 数日後、ラウルはレイチェルの家へやってきた。
 非常識に大きなラグランジェ本家と比べると格段に小さいが、その家も豪邸と呼んで差し支えないくらいのものだった。新しくはないが、単に古びているという印象ではなく、価値のある年代物といった風格がある。
 玄関で呼び鈴を鳴らし、しばらく待つと、重厚な扉がゆっくりと開いた。
「待っていたよ、来てくれてありがとう」
 アルフォンスは穏やかな笑顔を浮かべ、歓迎の意を表した。平日だが休暇を取ったと聞いている。律儀な男だ、とラウルは思う。
「紹介しておこう、妻のアリスだ」
「初めまして、アリス=ローズマリー=ラグランジェです」
 アルフォンスの背後に控えていた彼女は、一歩前に出ると、ドレスの裾を持ち上げ、軽く膝を曲げた。長い金色の髪がさらりと揺れる。まだ若く可愛らしい印象ではあるが、レイチェルとはそれほど似ていない。そのことに、ラウルは無意識に安堵する。
「ウチは壊さないでもらえるとありがたいんだけど」
 アリスは上目遣いで悪戯っぽく言った。サイファの家庭教師のときに、ラグランジェ本家の屋敷を壊したことを知っているのだろう。本気で頼んでいるのか、からかっているだけなのか、彼女の本心はわからない。
「今のところ壊すような予定はない」
「ずっとそんな予定は立てないでね」
 愛想のないラウルに臆することなく、アリスは明るく答えてくすくすと笑った。
 アルフォンスは二人の間に入り、両の手のひらを上に向けて提案する。
「どうだろう、家庭教師を始める前に、我々だけで少しお茶でも」
「気遣いは不要だ」
 ラウルはぶっきらぼうに言った。
「では、レイチェルのところへ案内しよう」
 アルフォンスは落ち着いた声で、すぐに話を切り替えた。右手で幅の広い階段を示すと、そこを静かに上がってラウルを先導した。

 コンコン——。
 アルフォンスは二階の突き当たりにある白い扉をノックした。
「レイチェル、新しい先生が来たよ」
「はい」
 中から可憐な声が聞こえた。しばらくして、カチャリと扉が開き、レイチェルが姿を現した。薄水色のドレスを身につけている。アルフォンスの後ろに立っているラウルを見上げると、驚いたように大きく目を見開いた。新しい家庭教師が誰であるかは、聞かされていなかったらしい。
「サイファのところで何度も会っているな? 王宮医師のラウルだ」
「私の家庭教師?」
「そうだよ。おまえ以外にはいないだろう」
 アルフォンスは優しく笑いながら言った。娘の頭に大きな手をのせる。
「言うことを聞いて、よく勉強しなさい。あまり困らせるんじゃないぞ」
「はい、お父さま」
 レイチェルはよく通る澄んだ声で答えた。
 アルフォンスは嬉しそうに顔を綻ばせる。彼のこのような表情は、娘の前でしか見られないだろう。ラウルに振り返ると、急に神妙な顔になる。
「では、よろしく頼む」
「わかった」
 ラウルは短く返事をした。
「どうぞ」
 レイチェルはにっこりと微笑むと、扉を大きく開き、ラウルを中へ招き入れた。

 彼女の部屋は広かった。だが、豪華という印象はあまりなく、拍子抜けするくらい簡素ですっきりとしていた。置いてあるものに無駄がないのである。人形やぬいぐるみといったものは見当たらず、家具類のほとんどは飾り気のないものだった。カーテンも、勉強机も、本棚も、さすがに質は良さそうだが、形状的にはごく普通のものである。普通でないものは、天蓋のついたベッドくらいだった。これだけはとても華やかで人目を惹いていた。だが、浮いているというわけではない。むしろ、この広い部屋には、ほどよく釣り合っているように感じられた。
「まずはこれをやれ。おまえの力を知っておきたい」
 ラウルは紙の束を取り出し、レイチェルの前の机に置いた。それはテスト問題だった。分量はかなり多い。彼女がこれまで勉強してきた内容をアルフォンスから聞いて、ラウルが作ったものである。これで今の実力を量ることが出来るだろう。けっこう頭がいい、とアルフォンスは言っていたが、親バカの言うことでは当てにならない。
 レイチェルは「はい」と答え、素直に机に向かって解き始めた。ときどき考え込みながら、紙に鉛筆を走らせていく。静寂の中で、筆記の軽い音だけが淡々と響いた。
 ラウルは彼女の斜め後ろの椅子に座り、腕を組んでその様子を見つめた。身じろぎもせず、ずっと目を逸らすことなく視線を送る。そうする必要はない。他のことをして時間を潰せばいいのだ。実際、サイファのときはそうしていた。だが、今は、彼女に重なる面影が、自分の目を惹いて離さなかった。
 レイチェルは不意に手を止めた。ゆっくりと振り向き、不思議そうにラウルを窺う。
「どうした」
 ラウルが尋ねると、彼女は曖昧に目を伏せ、首を横に振った。金の髪がさらさらと揺れ、後頭部のリボンも小さく揺れる。何か言いたげな表情を抑え込むと、無言のまま、再び机に向かって手を動かし始めた。
 彼女は自分に向けられた視線が気になったのだろう。じっと見つめられては無理もないことだ。そして、その相手を訝しく思う気持ちもあったのかもしれない。
 ラウルは椅子から立ち上がった。彼女に背を向けて窓際に向かう。レースのカーテンをさっと開け、窓枠に寄りかかりながら腕を組むと、ガラス越しに空を見上げた。流れゆく雲を眺めながら、小さく溜息をつく。こうでもしないと彼女から目を離すことが出来なかった。

「終わったわ」
 レイチェルはそう言って鉛筆を置いた。窓際のラウルに駆け寄り、何枚もの解答用紙を両手で差し出す。
 ラウルは無表情でそれを受け取った。
「今日はここまでだ。明日、これを採点してくる」
「はい」
 レイチェルは明るく返事をして微笑んだ。
 ラウルは眉根を寄せた。手にした紙束をまとめ、部屋を出ようと足早に扉に向かう。その後ろから軽い足音が追いかけてきた。
「送っていくわ」
「来なくていい」
 ラウルは振り返りもせず、冷たくあしらった。だが、レイチェルは素早く前に回り込むと、後ろで手を組み、ラウルを見上げてにっこりと笑った。やめるつもりはなさそうだった。

 外はまだ日が高かった。澄みきった青い空から、強めの陽射しが降り注いでいる。予定では夕方頃までかかるはずだったが、レイチェルは随分と短い時間で終えた。だが、感心するのはまだ早い。きちんと解けているかどうかは、採点しなければわからないのだ。
 前を見ながら嬉しそうに歩くレイチェルに、ラウルはふと疑問に思ったことを尋ねる。
「他の家庭教師も送っていたのか」
「ううん、ラウルだけよ」
 なぜだ、と続けて問いたかったが、一瞬の躊躇いが口に出すことを止まらせた。だが——。
「ラウルは特別だから」
 レイチェルは愛くるしい笑みを浮かべて言った。まるで心を読んだかのような、絶妙のタイミングだった。
 ラウルは僅かに眉を寄せ、視線だけを彼女に流す。
「特別?」
「サイファがそう言っていたの」
 レイチェルは無邪気に答えた。
 ラウルはそれで合点がいった。彼女のこの行動に深い意味などない。サイファのやっていたことを真似ているだけなのだ。それが正しいと信じ込んでいるのだろう。他人との接触があまりない彼女にとって、サイファの影響は想像以上に大きいようだ。
「サイファとはどんな話をしていたの?」
 レイチェルはラウルを見上げ、顔を斜めにして尋ねた。頭のリボンがひょこりと弾む。
「あいつが勝手に喋っていただけだ」
「じゃあ、私が喋らなくちゃいけないのね」
「無理に喋らなくてもいい」
 ラウルは前を向いたまま、淡々と答えを返した。
 その隣で、レイチェルは柔らかい微笑みを見せた。

 暖かい陽だまりの中を、ふたりは並んで歩いた。他には誰の姿も見えない。そこは通路にはなっていないため、普段からあまり人通りがないのだ。両側には高低の木々が立ち並び、視界は豊富な緑に彩られている。時折、草の匂いが鼻を掠めた。
 ふたりとも何も喋らなかった。無言のまま足を進める。だが、そこに張り詰めたものはなかった。少なくとも、ラウルの方は、心地よい穏やかな空気を感じていた。

 建物内に入り、無機質な廊下を歩いていく。途中で何人かとすれ違った。その多くが、遠慮がちに、あるいは物珍しそうに、ラウルたちを窺っていた。化け物との噂もある王宮医師と、魔導の名門一族の愛らしい娘——確かに奇妙な取り合わせなのだろう。
 しかし、レイチェルには、まわりの視線を意識している様子は見られなかった。実際はどうなのかわからない。気がついているのか、ついていないのか、それさえラウルには判別がつかなかった。嫌な思いをしていなければいいが、と願うような気持ちになる。
「ここだ」
 ラウルは医務室の前で足を止めた。隣のレイチェルを軽く一瞥する。そして、カチャリと鍵を開け、ガラガラと扉を引いた。
「今日はありがとう」
 レイチェルの澄んだ声が背後から聞こえた。
 ラウルはそのままの体勢で、顔だけ僅かに振り返る。
「あしたもよろしくね」
 彼女はそう言って、綿菓子のようなふわりと甘い笑顔を浮かべた。
 ラウルは眉を寄せ、目を細めた。
「……ひとりで帰れるか」
「王宮にはよく来ているから大丈夫」
 レイチェルは微笑んだまま答えた。そして、小さく手を振ると、まっすぐな廊下を歩いていった。後頭部の大きな薄水色のリボンが、その足どりに合わせて揺れた。
 ラウルは扉に手を掛けたまま、彼女の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。

 その夜、ラウルは自室でテストの採点をした。結構な分量があるため時間がかかる。一通り終えた頃には、すでに深夜といってもいい時間に差し掛かっていた。
 息をついて立ち上がると、部屋の明かりを消し、カーテンと窓を開け放った。濃紺色の空を見上げる。その片隅には、下弦の月がひっそりと浮かび、淡く儚い光を放っていた。

 翌日、ラウルは再びレイチェルの部屋に来ていた。もちろん、家庭教師としてである。
 きのう採点したテストを机の上に広げると、軽く溜息をついて腕を組む。
「習ったところは良く出来ているが、習っていないところは面白いくらいに空欄だな」
「だって習っていないんだもの」
 レイチェルは当然のように言った。
 ラウルは呆れたように彼女を見下ろす。
「応用という言葉を知っているか」
 だが、レイチェルは何も答えず、にこっと笑顔を返すだけだった。
 ラウルは頭に右手をやり、深く溜息をついた。
 決して出来が悪いわけではない。習っている部分に関しては、ほぼ完璧に近かった。アルフォンスの言うとおり、頭は良い方なのだろう。だが、未知の問題となると、途端に考えもせずに放棄している。それは、もしかすると、性格によるものなのかもしれない。
「これから授業を始める。数学、物理学、魔導理論、どれか選べ」
「数学」
 レイチェルは即答した。
「数学が好きなのか」
 ラウルが問いかけると、彼女は首を横に振った。
「魔導よりはましということか」
「……すごい。ラウルって何でもわかるのね」
 レイチェルは目を大きく見開き、感心したように言った。
 ラウルは無表情で口を開く。
「魔導もそのうちにやる。理論も実技もな」
 実技、という言葉を耳にした途端、レイチェルの顔に小さな怯えの色が浮かんだ。無言のまま、逃げるように視線を逸らせて目を伏せる。
 ラウルは眉根を寄せて言う。
「おまえを守るために必要なことだ」
 レイチェルは戸惑ったような表情で、上目遣いにラウルを窺った。僅かに首を傾げる。自分が危ういくらいに強大な魔導力を抱えていることなど、彼女自身は何も知らない。その意味を理解できなくても当然である。
 だが、ラウルは答えを示さなかった。
「今日は数学だ」
「……はい」
 レイチェルはそう返事をしてから、ゆっくりと微笑んだ。

 途中で一度だけ休憩を挟み、3時間ほど授業を行った。
 レイチェルは手のかからない教え子だった。言われたことには「はい」と返事をして素直に従う。サイファとは大違いである。もっとも、比較対象がサイファでは、ほとんど誰でも「手のかからない子」ということになってしまう。
「今日はここまでだ」
 ラウルはそう言うと、束ねた教本を脇に抱えて部屋を出た。
 当然のように、今日もレイチェルがついてきた。軽い駆け足でラウルに追いつくと、横に並んで歩き、にっこりと笑顔を見せる。
 ラウルはもう何も言わなかった。

 今日も空は青かった。
 言葉もなく、静かな道を並んで歩く。
 彼女に振り向けば、無条件で笑顔を返してくれる。
 ただ、それだけのこと。
 ラウルの歩幅は、いつもより心持ち小さかった。

「ラウル、どこへ行くの?」
 医務室とは違う方向へと足を進めるラウルに、レイチェルは顔を上げて尋ねた。不安そうにはしていない。ただ、不思議そうな顔をしていた。
「別の道を行くだけだ」
 ラウルは素っ気なく答えた。
 レイチェルは疑う様子もなく、嬉しそうな笑顔を見せた。

 ふたりは、王宮内の中庭のひとつに足を踏み入れた。さほど広くはないが、隅々まで手入れが行き届いており、清々しく居心地の良い空間だった。豊かな緑に囲まれたその中央には、透明な水を湛える小さな噴水が佇んでいる。派手な演出はなく、単純に水を噴き上げるだけのものだ。それでも、爽やかな涼しさを感じさせるには十分だった。
 ラウルは噴水の脇で足を止めた。ここは、かつての懐かしい場所にとてもよく似ている。それを知っていてここに来た。知っていたからこそ連れて来たのだ、彼女を……。口を結んで眉根を寄せると、ゆっくりとレイチェルに振り向いた。一瞬遅れて、彼女は花が咲いたようにふわりと微笑んだ。その背後では、噴き上げた水と揺れる水面が、太陽の光を受けてキラキラと煌めいていた。色彩を持って目の前に甦った、色褪せたはずの遥か遠い追憶——意識は過去を浮遊する。
 しかし、それは長くは続かなかった。
 不意に右手に感じた小さな温もりに、はっと現実に引き戻される。
 噴水の奏でる和音が、急に大きく聞こえた。
 レイチェルの小さな左手は、ラウルの右手に重ねられていた。
 まっすぐに向けられた蒼の瞳には、ラウルの姿が映っていた。
 その目が苦しげに細められる。
 胸を衝かれ、息が止まった。
 小さな温もりはそっと離れていった。
 ラウルは追い縋るように手を上げかけて、止めた。奥歯を噛み締めてうつむく。そのまま背を向けると、再び医務室を目指して歩き出した。レイチェルも後ろから黙ってついてきた。

 翌日も、ラウルは家庭教師に向かった。
「今日も来てくれて嬉しいわ」
 レイチェルは微笑んで迎え入れた。いつもと変わらない愛らしい笑顔だった。
 ラウルは怪訝な視線を彼女に向けた。昨日のことがあったにもかかわらず、今日の彼女はあまりにも普段どおりである。もしかしたら、あの柔らかな温もりは夢だったのかもしれない、という疑念さえ頭をもたげる。
 しかし、冷静に考えれば、手に触れてきただけである。ほんの些細なことだ。特別な意味などないのかもしれない。ぼんやりしていた自分を呼んだだけかもしれない——そう思おうとするが、どうしても腑に落ちない。あのときの彼女の表情が、脳裏に焼きついて離れないのだ。
「きのうの続き?」
 先に椅子に座ったレイチェルが尋ねる。
「……ああ」
 ラウルも椅子に座った。机の上に置いた教本を開き、目的の箇所を探して捲っていく。だが、なかなか見つけられない。行ったり来たりとページを繰る。
 そのとき、凛とした声が、彼を不意打ちにする。
「ラウルは、いつも、誰を見ているの?」
 ドクン、とラウルの心臓が大きく打った。
 止まった指先から、するりと紙が滑り抜けた。
 ゆっくりと顔を上げ、その声の主を窺う。
 彼女は、今までに見たこともない真剣な表情をしていた。大きな蒼の瞳をまっすぐにラウルに向けている。その奥には、とても12歳とは思えないほどの鋭さが潜んでいた。
「ラウルは私を見ていない。小さいときからずっとそうだった」
「何を言っているのかわからん」
 ラウルはそう答えるのが精一杯だった。
 レイチェルは濃色の瞳をじっと探るように見つめる。
「私を通して遠くの誰かを見ている。そうでしょう?」
 ラウルの鼓動は次第に速く強くなる。指先が冷たくなっていく。あまりに唐突で、心の準備が何も出来ていなかった。否定すべきなのか、認めるべきなのか、それさえ決めかねている。頭が混乱して何も考えられない。
「その人は私と似ているの?」
 レイチェルは胸もとに手をあて、首を傾げた。金色の髪がさらりと流れる。レースのカーテン越しに広がる柔らかな光が、背後から彼女をほんのりと照らす。
「私に何を求めているの?」
 静かなその声が、ラウルの胸に深く突き刺さる。もう目を合わせることなどできない。何一つ答えを返さないまま、固く口を閉ざしてうつむいた。長い焦茶色の髪が、その表情を覆い隠す。
 レイチェルはゆっくりと呼吸をした。
「ラウル、私は……」
「もうやめろ」
 ラウルは唸るような声で彼女を遮った。椅子を揺らして立ち上がると、大きな足どりで扉に向かう。
「ラウル、待って!」
 レイチェルは呼び止めながら追いかける。
「来るな!」
 腹の底から絞り出した凄みのある重低音。
 背後の足音が止まった。
 ラウルは勢いよく振り切るように部屋をあとにする。長い髪が大きくなびいた。
 レイチェルは追いかけてこなかった。

 ラウルはまっすぐ医務室に戻った。乱暴に扉を開け、医務室を突っ切り、そのまま自室へと入る。バタンと叩きつけるように扉を閉めると、そこに背中をつけてもたれかかった。深くうなだれ、体の横でこぶしを強く握りしめる。
 幻想は、砕けた。彼女自身によって砕かれた。
 何もかも見透かしたあの蒼い瞳。
 思い返すだけで体の芯から震えがくる。
 長らく忘れていた感情——。
 そう……、これは、恐怖だ。
 腰から体を折り曲げ、額を掴むように押さえる。
 指先が小刻みに震えていた。

 その夜、ラウルはアルフォンスに連絡を入れ、レイチェルの家庭教師を断った。王宮医師の仕事が忙しくなった、と嘘の理由を告げる。彼にも嘘だということはわかっていただろう。だが、何も言わずに了承してくれた。
 ——私は、逃げた。
 カーテンを閉め切った真っ暗な寝室で、ラウルはベッドに腰掛け、ずっと、ずっとうなだれていた。


8. 託すことのできるただ一人

 サイファが魔導省に入省して二年が過ぎた。
 最初の一年に義務づけられている公安局での勤務を無事に終え、今は内局で勤務している。現場を離れれば少しは楽になるかと思っていたが、忙しさという点ではあまり変わりはなかった。
 仕事に対する大きな不服はない。もちろん、まったくないわけではなかったが、いずれも些細なことであり、我慢できないほどではない。どこに勤めていても、多少は問題が出てくるものだろう。
 同僚とも上司とも上手くいっている。公安局のときほど密な付き合いをしているわけではないが、仕事は円滑に進められており、職場の雰囲気は良い方だろう。若手の意見もきちんと聞いてもらえ、尊重もされている。もっとも、サイファの場合は、ラグランジェの名が影響しているという可能性は否めない。しかし、サイファはその利点も欠点も理解しており、それを受け入れる覚悟はとうに出来ていた。
 そんな彼の、ただひとつといってもいい不満——それは、レイチェルと会う時間が思うように作れないことだった。

 その日は、早くに仕事が終わった。空はまだ青い。
 サイファは自宅に戻ることなく、まっすぐレイチェルの家に向かっていた。もしかすると、まだ家庭教師の時間かもしれないが、そのときは家の中で待たせてもらうつもりだった。一刻も早くレイチェルに会いたい、その一心での行動である。自宅に戻ることなど考えられなかった。
 彼女の家の前に差し掛かったところで、反対側から駆け足で近づいてくる小さな少年に気がついた。彼の方もサイファに気がついたらしく、「あっ」と小さく声を上げて足を止めた。眉間に皺を寄せ、嫌悪感を露わにして睨みつけてくる。

 この少年の名前はレオナルド。レイチェルの家の隣に住む、6歳の子供である。柔らかそうな金の髪と、鮮やかな青の瞳——そう、彼もまたラグランジェ家の人間なのだ。そのこともあってか、最近、彼女のところへ毎日のように遊びに来ていると聞く。彼の両親も自由にさせているようだ。同じ一族という気安さと安心感があるのだろう。いい遊び友達が出来たとでも思っているのかもしれない。
 それだけなら良かった。だが——。
 レオナルドはレイチェルに並々ならぬ好意を抱いていた。平たくいえば、恋をしているということになるだろう。本人がそう言ったわけではないが、見ていれば誰でもわかるくらいに態度があからさまだった。彼女といるときだけ表情が違う。必要以上に甘えたり、抱きついたりして触れ合おうとする。そのうえ、一人前に独占欲まで見せている。
 幼い憧れといってしまえばそれまでだ。
 だが、サイファは、それを微笑ましいものとして受け止めることなど出来なかった。レイチェルは自分の婚約者である。レオナルドも、ラグランジェ家の人間である以上、そのくらいのことは知っているはずだ。それにもかかわらず、彼女に独占欲を抱くなど、図々しいとしかいいようがない。
 だいたい、レオナルドという名前からして気に入らなかった。
 レイチェルが生まれる前、アリスは子供の名前についてこう言っていた。
 ——男の子ならレオナルド、女の子ならレイチェルにするつもり。
 だから、どうというわけではない。それだけのことだ。だが、何か運命めいたものを感じてしまい、どうにも面白くなかった。まるで言いがかりのような嫉妬である。自分でも大人げないことはわかっていた。それでも、心の中に渦巻く黒い気持ちは止めようがなかった。
 もちろん、サイファは理性のある大人だ。極力、それを表に出さないようにしていた。他の人の見ている前では——。

「何だ、レオナルド」
 サイファは冷ややかに見下ろし、突き放した口調で言った。
「おまえなんかに用はない。レイチェルのところへ行くんだ」
 レオナルドは敵対心を剥き出しにして答えた。だが、内心びくついていることは、手に取るようにわかった。サイファがラグランジェ本家の次期当主であることも、そのサイファに良く思われていないことも、幼いなりに理解しているのだろう。
「悪いが今日は帰ってくれ。彼女は僕と過ごす」
「おまえが勝手に決めるな!」
 冷淡に告げるサイファに、レオナルドは精一杯、強気に言い返す。
 サイファは無視して門をくぐろうとした。
 そのとき、扉が重たい音を立てて開き、中から知らない男性、続いてレイチェルが出てきた。ふたりはその場で足を止め、微笑みを交わした。
 サイファはとっさに塀に身を隠した。同時に、レオナルドを自分のもとに引き寄せた。抗議の声を上げようとした彼の口を、しっかりと手で塞ぎ、じたばたと手足を動かして抵抗する小さな体を、反対側の手で拘束する。そして、見つからないようにそっと首を伸ばし、玄関の様子を窺った。

「先生、今日はありがとうございました」
 レイチェルはにっこりと笑って言った。
 先生と呼ばれた気弱そうな青年は、照れたように頭を掻きながら顔を赤らめた。
「あのさ、今度、よかったら僕の研究所に遊びに来ないかな? 今日の授業で出てきた実験とかも、実際に見せてあげたいんだ。きっと、君が見ても面白いものだと思うから……」
「本当? 嬉しい。私も見てみたいと思っていたの」
 レイチェルは胸の前で両手を組み合わせ、無邪気に顔を綻ばせた。

 サイファはレオナルドの拘束を解くと、何食わぬ顔で門をくぐり、玄関のふたりに近づいていった。レオナルドも仏頂面でトコトコとついてくる。追い返したい気持ちはあったが、今はそんなことに時間を割いている余裕はない。
「やあ、レイチェル」
「サイファ!」
 レイチェルはパッと顔を輝かせて振り向いた。長い金色の髪が柔らかく舞い上がる。まるで彼女のまわりだけ明るい光に包まれたかのように感じた。
「レオナルドも一緒なのね」
「一緒に来たわけじゃない」
 自分に向けられた微笑みに頬を染めながら、レオナルドは言葉足らずな反論をする。そして、邪魔するようにふたりの間に割って入ると、レイチェルの白い手をぎゅっと握り、甘えるように体を寄せた。その合間に、ちらりとサイファに挑戦的な視線を投げつける。
 サイファは殴り倒したい衝動に駆られた。しかし、彼は理性のある大人である。その衝動を抑えるのは当然のこと、その感情すら悟られないように、一瞬たりとも穏やかな笑顔を崩すことはなかった。
 そのまま、見知らぬ青年に振り向いて言う。
「新しい家庭教師の先生ですね。レイチェルのこと、よろしくお願いします」
「あ、はい……えっと、君は……」
 家庭教師はとまどいながらサイファを見た。まだ年若いにもかかわらず、保護者気取りでこんなことを言う男はいったい誰なのか、見当もつかないのだろう。
 サイファはにっこりと微笑み、胸もとに手をあてて頭を下げた。
「失礼しました。僕は、レイチェルの婚約者の、サイファ=ヴァルデ=ラグランジェです」
「あ、君が……」
 家庭教師は口ごもって、顔を少しこわばらせた。その反応からすると、何か良からぬ噂を聞いているに違いない。それを聞き出すのは造作もないことだが、サイファはあえて触れることなく流した。噂についてはおおよその見当がついている。いずれそれが単なる噂でないことを、彼は思い知ることになるだろう。
「レイチェル、アリスかアルフォンスはいるかな?」
「お父さまも、お母さまもいるわ」
「少し話をしてくるから待っていてね。あとで一緒にお茶を飲もう」
「ええ、楽しみにしているわ」
 レイチェルは愛らしく微笑んだ。その白い手は、まだレオナルドと繋がっていた。
 サイファは小さな少年に冷たい一瞥を送り、家の中へ入っていった。

「あの家庭教師を辞めさせてください」
「またかね」
 アルフォンスは呆れたように言った。ソファに大きな体を預け、腕を組んで溜息をつく。
「確かこれで5人目だぞ。君が辞めさせろと言ったのは」
「彼はレイチェルに良からぬ感情を抱いています」
 サイファは正面からアルフォンスを見据え、真剣に訴えた。
「真面目な好青年を選んだつもりなんだがな」
「彼のことをすべて知っているわけではないでしょう。裏の顔がないとも限りません。先ほど、レイチェルを連れ出そうと画策しているところを目撃しました」
 アルフォンスは再び溜息をついた。
「娘を大事にしてくれるのは有り難いと思っている。だがな、サイファ。近頃のおまえは神経質すぎるぞ。もう少し鷹揚に構えてもいいのではないか? 遠くない将来、ラグランジェ家を背負って立つ身でもあるんだ。余裕を持って見守るくらいでなければな」
「確かに、僕の早合点という可能性もあります」
 サイファは冷静にそれを認めてから、一呼吸おいて続ける。
「でも、そうではないかもしれない。何かが起こってからでは遅いんです。取り返しがつかないんですよ。アルフォンス、あなたには僕との結婚までレイチェルを守る義務があるはずだ」
「確かに、それはそうなんだが……」
 アルフォンスはゆっくりと腕を組み、眉間に皺を寄せて考え込む。彼もレイチェルを大切に思う気持ちは同じである。そこまで言われては反論が難しいのだろう。諦めたように大きく息をついて言う。
「わかった。彼には辞めてもらうことにしよう」
「でも、どうするの? レイチェルの家庭教師」
 隣に座っていたアリスが、疑問を投げかけた。
「サイファが次々に辞めさせちゃうから、いいかげん困ってるんだけど」
 茶目っ気のある口調でそう言うと、肩をすくめて苦笑する。
「サイファ、おまえ、推薦したい人物はいるか?」
 アルフォンスは真剣な面持ちで尋ねた。
 サイファは少し考えてから答える。
「ラウルなら信頼できます。いや、ラウルしかいないと思います」
 それは本心からの言葉だった。頭脳でラウルに勝る人物はほとんどいない。魔導においても、レイチェルが持つ本来の魔導力を押さえ込めるのはラウルだけだ。そして、何より、彼が邪な感情を抱くなどとは考えられない。なぜもっと早くに気づいて提案できなかったのかと悔やまれた。
 だが、ふたりの反応は芳しくなかった。示し合わせたかのように表情が曇る。
 それでも、サイファは何とかして説得しようとした。
「愛想はありませんが、信用に足る人物です」
「そういうことじゃなくて、ね……」
 アリスは中途半端に言葉を濁し、アルフォンスと顔を見合わせた。ふたりとも微妙に困ったような表情をしている。何か言いにくいことを抱えてそうな雰囲気だ。
「どういうことなんですか?」
 サイファは怪訝に眉を寄せ、やや強い調子で問いただす。
 アリスは観念したらしく、肩をすくめて、二年前のことについて説明を始めた。

 ガラガラガラ——。
 サイファはいつもより乱暴に扉を開き、ラウルの医務室に入った。今日も誰ひとりとして患者はいない。
「ノックくらいしろと何度言えばわかる」
 机に向かっていたラウルは、本を読む手を止め、サイファを横目で睨んだ。
 だが、サイファはまるで動じることなく、ラウルの後ろのパイプベッドに腰を下ろした。清潔な白いシーツに皺が走る。膝の上で手を組み合わせると、焦茶色の髪が流れる背中をじっと見つめた。
「聞いたよ、三日坊主の話」
「何のことだ」
「レイチェルの家庭教師」
 本のページを繰ろうとしていたラウルの動きが止まった。
 サイファは眉をひそめて続ける。
「どういうつもりだ。こんな重大なことを黙っているなんて」
「おまえに報告する義務はないだろう」
 ラウルは背中を向けたまま答える。
「僕はレイチェルの婚約者だぞ」
 サイファは自分の声が感情的になっていたことに気がついた。深く呼吸をして気を静める。終わってしまったことを、ただ怒りまかせに問い詰めたところで、何にもなりはしない。ここへ来たのは、大人げない拗ねた文句を言うためではない。建設的な話し合いをするためだ。
「辞めた本当の理由は何なんだ?」
 今度は落ち着いた口調で問いかける。だが、答えは返ってこない。小さく溜息をつき、少し呆れたように言い添える。
「王宮医師の仕事が忙しくなったなんて、誰がそれを信じるんだ。嘘をつくにしても、もっとましな嘘をつけよ」
 実際、アリスもアルフォンスも信じてはいなかった。レイチェルが無神経なことを言って怒らせたのではないか、というのがアリスの推測である。
 だが、サイファはどうにも腑に落ちなかった。
 ラウルは一度引き受けたことを簡単に投げ出したりはしない。サイファの家庭教師を8年も務めたことで実証済みである。8年の間に数え切れないほど怒らせてきたが、それでもラウルが辞めると言い出したことは一度もなかった。いったいどんな言葉をぶつければ、そこまで至らせることが出来るというのか。まるで想像もつかない。
「あのときは忙しかった」
「じゃあ、今は忙しくないんだな?」
 ラウルは警戒しているのか、口をつぐみ、答えようとはしなかった。何を答えても逆襲に遭うとわかっているのだろう。だが、答えなくても同じことである。
 サイファは広い背中を見つめ、真剣に言う。
「ラウル、もう一度、レイチェルの家庭教師を頼む」
「断る」
 ラウルは振り返りもせず拒絶した。
 サイファは軽い軋み音とともにパイプベッドから立ち上がった。険しい表情で腕を組み、椅子に座った後ろ姿を見下ろす。
「理由は何だ」
「家庭教師など他にいくらでもいる」
「それは理由ではなく詭弁だ。ただの家庭教師なら確かにいくらでもいる。だが、レイチェルを安心して預けられるのは、おまえしかいないんだ。彼女の魔導のことも忘れたわけではないだろう。今のところ何の変化もないが、今後もそうだとは限らない。おまえならわかっているはずだ。そのうえで見捨てるつもりか」
 ラウルは反論の言葉を返さなかった。僅かに顔をうつむける。長髪が肩から滑り落ちた。
「他に理由がないなら引き受けてもらう」
 サイファは強い口調で言った。ほとんど命令だった。
「……あいつの方が嫌がる」
 ラウルは小さくぽつりと言った。
 ——レイチェルの方が、ラウルを嫌がる……?
 サイファは怪訝に眉根を寄せた。
 ふたりの間にいったい何があったというのだろうか。単にレイチェルがラウルを怒らせただけ、ということではなさそうだ。だが、それを尋ねたところで答えてくれるとは思えない。なおさら態度を硬化させるだけだ。
 ラウルの隣に足を進め、机に片手をつく。そして、おもむろに腰をかがめると、その横顔を覗き込んだ。濃色の瞳をじっと探るように見つめる。
「レイチェルが嫌がってなければ引き受けるんだな?」
 息がかかるくらいの距離で、静かに尋ねかけた。
 ラウルは何も答えなかった。サイファを無視し、無表情で本に目を落としている。だが、視線は少しも動いていない。指先だけがほんの僅かに震えた。
「待っていろ」
 サイファはそう言い残して、医務室を出て行った。

 逸る気持ちを抑えられず、自然と早足になっていく。
 サイファが門をくぐると、庭の方から澄んだ声が聞こえてきた。レイチェルの声だった。芝生をさくりと踏みしめながら、その姿を探してあたりを見まわす。
 彼女はすぐに見つかった。薄水色の大きなリボンを揺らしながら、花壇の片隅にしゃがんでいた。隣にはレオナルドもいる。ふたりは何か話をしつつ、花を植えているようだ。レオナルドも、そしてレイチェルも、楽しそうに笑顔を浮かべている。
 サイファは足を止め、小さく呼吸をした。
「レイチェル、ちょっといいかな」
 背後から声を掛けると、レイチェルは少し驚いたように振り返った。だが、すぐにそれは笑顔に変わる。スコップを置いて立ち上がり、体ごとサイファに向き直ると、愛らしく微笑んで小首を傾げた。
「今からふたりだけで話がしたいんだ」
「お茶をするんじゃなかったの?」
「そうだったね、お茶を飲みながら話そうか」
 サイファは彼女の頭に優しく手を置いた。そして、小さく丸まったレオナルドの背中に声を落とす。
「そういうわけだ、レオナルド。君はもう帰るんだ」
「おまえに命令されたくない」
 レオナルドは花壇を見つめたまま、むくれながらスコップで土を叩き続けた。
「聞き分けのないことを言わないで、素直に帰ってくれないかな」
 サイファはレオナルドの隣にしゃがみ、優しく微笑みながら言った。小さな肩に手を掛ける。はたから見れば、小さな子を宥めようとしているだけの光景。しかし、その手には、表情とは裏腹の強い力が込められていた。
 レオナルドの顔が一気に引きつった。スコップを投げ置き、逃げるように走り去っていく。そして、離れたところから泣きそうな顔で睨みつけてきた。
 サイファは僅かに顎を上げ、冷たい目で応じた。早く行けと無言で促す。
「サイファ?」
「さあ、行こうか」
 横から首を傾げて覗き込んできたレイチェルに、サイファはにっこりと微笑みかけた。細い肩を抱くと、一緒に玄関へと足を進める。もうレオナルドには目を向けなかった。

 レイチェルの部屋に置かれている小さなティーテーブルに、ふたりは向かい合って座った。レースのカーテン越しの柔らかい光が、あたりを優しく包み、ほんのりとした暖かさをもたらしている。
 サイファは慣れた手つきで紅茶を淹れた。丁寧な所作で、ティーカップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
 レイチェルは無邪気な笑顔でそう言うと、紅茶をゆっくりと口に運んだ。その途端、驚いたように大きな目をぱちくりさせる。
「おいしい」
「気に入った? 母上が最近見つけて気に入っているものなんだ」
 サイファは明るく声を弾ませた。久しぶりの幸せな時間だった。こういう穏やかな時間が何よりも嬉しい。だが、今日はいつまでも浸っているわけにはいかない。
「レイチェル、家庭教師のことなんだけど……」
 レイチェルはティーカップを両手で持ったまま、無垢な瞳をサイファに向けた。
 サイファは出来うる限りの柔らかい口調で言う。
「今の先生には辞めてもらって、新しい先生に来てもらおうと思っているんだ」
「どうして?」
 レイチェルは不思議そうに首を傾げた。ティーカップをそっとソーサに戻す。
「安心して任せられる先生にお願いしたいからね」
「その先生って誰なの?」
「ラウル」
「えっ……」
 彼女の顔に動揺の色が広がった。やはり何かあったのだ、とサイファは確信する。
「ラウルは嫌なの?」
 まるで幼子に接するように優しく尋ねる。
 レイチェルは何ともいえない表情で目を伏せた。困惑しながらも小さな口を開く。
「二年前に来てもらったことがあって……」
「アリスに聞いたよ。三日で辞めたんだって?」
 サイファは軽い口調で先を促す。
「私がいけないの。私が言ってはいけないことを言ってしまったから……きっとラウルは怒っている。私の家庭教師なんて引き受けないと思うわ」
 レイチェルはつらそうに眉根を寄せて言った。小さな唇をきゅっと噛みしめる。
 その瞬間、サイファは息が止まるほどに胸を締め付けられた。彼女のこんな表情を見るのは初めてのことだった。鼓動が次第に速くなっていく。同調するように気持ちが焦っていく。意識的に呼吸をしてから、ゆっくりと尋ねる。
「ラウルに何を言ったの?」
「それは……言えない」
「どうしても?」
「これ以上、ラウルを傷つけたくないから」
 うつむいたままではあったが、その口調は迷いのない毅然としたものだった。
 サイファはふっと息を漏らした。
「わかった、もう聞かない」
 目を閉じ、両手を広げて言う。ラウルを傷つけたという言葉には興味があったが、レイチェルが言わないと決めたのなら、どう問いただしても口を割ることはないだろう。見かけによらず頑固なところがあるのだ。
「レイチェルの気持ちはどうなのかな。ラウルの家庭教師は嫌なの?」
「私は……」
 レイチェルは体をすくめながら、両手を重ねて胸を押さえた。
「許してもらえるのなら、もう一度、ラウルにお願いしたい」
 訥々と落とされる健気な言葉。そこからは彼女の一途な後悔が感じられた。事情はわからないが、これだけ反省しているのだ。許さないなどとは言わせない——そんな強い気持ちが湧き上がる。
「わかった。じゃあ、あしたからラウルに来てもらうよ」
「えっ?」
 レイチェルはきょとんとした顔を上げた。
「今から説得してくるから、お茶を飲みながら待っていてね」
 サイファは彼女の柔らかい頬に優しく触れた。そして、安心させるように微笑むと、立ち上がって部屋を出て行った。

 サイファは再び医務室へ戻った。ガラガラと引き戸を開けて入っていく。ラウルは相変わらず机に向かって本を読んでいた。それしかすることがないのだろう。
「お待たせ」
 サイファは抑揚のない声でそう言うと、ラウルの机の上に躊躇なく腰掛けた。驚くラウルの胸ぐらを掴み、強引に自分の方へ引き寄せると、じっと睨み下ろして言う。
「おまえはあしたからレイチェルの家庭教師だ」
 ラウルは思いきり眉をひそめ、凄みのある眼差しで無言の抗議をした。
 だが、サイファは怯むことなく、きっぱりとした口調で続ける。
「明日の午後、彼女のところへ行け。彼女の両親にもそう言ってあるからな」
「勝手に決めるな」
 ラウルはサイファの手を振り払った。だが、サイファは逆にその手首を掴んだ。軽く捻りながら捩じ上げる。
「レイチェルは嫌がってなどいない。許してもらえるならもう一度お願いしたいってさ」
「……あいつは何を言った」
 ラウルは鋭く射抜くように睨み、低く唸るように尋ねた。
「言ってはいけないことを言ってしまったと。ただ、その内容は教えてくれなかった。おまえをこれ以上、傷つけたくないんだと」
 サイファはラウルの手を放した。軽く溜息をついて目を細める。
「何を言ったか知らないが、きっとレイチェルに悪気はなかったんだよ。今は反省している。ひとりで随分と苦しんだんじゃないかな。許してやってくれよ」
 ラウルは険しい表情でうつむいた。
「……悪いのは……許しを請わねばならないのは私の方だ。すべての原因は私にある。あいつが反省する必要など何もない」
 眉間に縦皺を刻みながら、噛みしめるように言う。
 サイファは怪訝に首を捻った。ますますわからなくなった。だが、互いに嫌い合っていないことだけはわかった。それで十分だ。無理に聞き出すつもりはない。今はそれより優先すべきことがある。
「レイチェルの家庭教師、決定でいいな。もう駄々をこねるなよ」
 ラウルはあからさまにムッとしていたが、拒否はしなかった。サイファは了承したものと判断する。
「まったく、子供の喧嘩を仲裁している気分だったよ。レイチェルは実際まだ子供だが、おまえはいったいいくつなんだ?」
 小さく笑い、からかうような視線をラウルに向ける。
「おまえこそ、机の上に座るなどまるきり子供だ」
 ラウルは冷静に切り返した。もうすっかり普段の彼に戻っていた。
「こうでもしないと、おまえと向き合って話が出来なかったからね」
 サイファは机に手をつき、軽やかに床に降りた。革靴がタイルを打ちつけ、乾いた音を鳴らす。
「何もかも思いどおりになって気がすんだだろう。もう帰れ」
 ラウルは面倒くさそうに追い払おうとする。
 サイファは口をとがらせ、両手を腰に当てて言う。
「王宮とレイチェルの家を二往復もしたんだぞ。もう少しいたわってくれてもいいんじゃないか? お茶でも淹れてくれよ」
「喉が渇いたなら水を飲め」
 ラウルはぶっきらぼうに洗面台を顎で示した。
 予想どおりの返答だった。
 サイファは笑いながら肩をすくめた。
「レイチェルのところで、報告がてら、ゆっくりお茶してくるよ」
 軽く右手を上げ、医務室を出ようと扉に向かう。だが、途中で足を止めると、真顔で振り返った。まっすぐにラウルを見つめて言う。
「強引に事を進めて悪かった。レイチェルと会える時間が少なくなると、何もかもが不安になってしまってね。特に、信用のおけない家庭教師に預けておくことは我慢ならなかったんだ。おまえが引き受けてくれて、本当に感謝している」
「結局は自分のためということか」
 ラウルは腕を組み、冷淡な眼差しを向けながら、呆れたように言った。
 サイファはくすりと笑った。
「まあ、否定はしないよ。でも、同時にレイチェルのためでもあるからね」
「おまえが何を望んでいるか知らんが、期待はするな。なぜいつも私を過大評価する」
「性格に問題があることは認識しているよ」
 笑顔のまま軽口を叩く。そして、少しだけ真面目な顔になって続ける。
「それでも、やはり信頼できるのはおまえだけなんだ」
 ラウルは難しい表情で口を閉ざしていた。何か言いたそうにも見えたが、何も聞かなかった。
「何か問題があったら相談してくれ。勝手に辞めるなよ」
 サイファはそう釘を刺しながら、右手を上げて医務室をあとにした。

 これで最も大きな不安が排除できた。胸のつかえが取れたような気がする。安堵した——いや、それ以上である。浮かれているといってもいい。ラウルにレイチェルを託せることが、なぜか無性に嬉しかった。それは、きっと、自分にとって二人ともかけがえのない存在だからだ。その二人に仲良くしてほしいと願うのは、ごく自然な気持ちだろう。
 外はもう風が冷たくなっていた。火照った頬をそっと掠め、熱を奪い去っていく。茜色の空を眺めながら、サイファは婚約者のもとへと足を速めた。


9. 本当の彼女

 翌日の午後、ラウルは約束どおり家庭教師としてレイチェルの家へ向かっていた。強烈な日差しが降りそそぐ中を、浮かない顔で歩く。いや、そう思っているのは自分だけで、まわりの人間には、いつもの無愛想な表情としか映っていないだろう。
 サイファの強引さに負けて、渋々ながら引き受けたものの、不安は拭えなかった。
 同じことを繰り返してしまうかもしれない——。
 頭の中ではわかっていても、彼女を目の前にすると、自制や理性など何もかもが飛んでしまう。二年前も、それより前も、ずっとそうだった。自分がこれほどまでに意志の弱い人間であることを、初めて思い知らされた。
 だが、二年前のあのとき、はっきりと目が覚めたはずだ。
 頭から豪快に氷水を掛けられたかのようだった。夢は一瞬にして消え去った。そして、もう夢など見ようのないくらいに、幻想は粉々に砕け散った。
 それでも自信は持てなかった。自分という人間を信用することが出来なかった。

 レイチェルの家に着くと、アルフォンスが出迎えた。彼はサイファが無理を言ったこと、そして、二年前のレイチェルの非礼を詫びた。二年前のことについては、彼も事情はわかっていないはずだが、サイファから断片的な情報を聞いたのだろう。何をどのように聞いたのかは詮索しなかった。
 アルフォンスはあらためて仲立ちすると言ったが、それは断った。ラウル自身の都合である。レイチェルと会ったとき、自分がどのような顔をするかわからない。彼女の父親には見られたくないと思ったのだ。
 ラウルは一人で二階に上がった。部屋の場所は二年前から変わっていないと聞いた。突き当たりに進み、白い扉の前で立ち止まる。たった3回しか来ていないが、鮮明に覚えている光景だ。
 少し緊張しながら、その扉をノックする。
「はい、開いているわ」
 中から聞こえた澄んだ声。それは紛れもなくレイチェルのものだった。
 突如、躊躇いの気持ちが湧き上がった。
 だが、ここまで来ながら引くわけにはいかない。水に潜るときのように大きく息を吸い込み、ドアノブを回して扉を押し開ける。
 扉は音もなく開いた。
 五歩くらい離れたところに、二年前より少し成長したレイチェルが立っていた。彼女はワンピースの裾を僅かに持ち上げ、軽く膝を曲げた。
「来てくれて嬉しいわ」
 そう言ってにっこりと微笑む。
 一瞬、ドキリとした。
 確かに笑顔は似ている。だが顔立ちは、そもそも瓜二つというほどは似ていなかった。今ははっきり別人だと認識できる。そのことを強く意識し、面影を重ねないようにする。
「レイチェル……」
 二年前のことを詫びようと思った。だが、言葉が続かない。すべてを話して許しを請うべきなのだろうが、そこまでの覚悟はまだなかった。
 そのとまどいを見透かしたかのように、レイチェルは柔らかく微笑み、ゆっくりと首を横に振った。言わなくてもいい、ということのようだ。ラウルのためなのか、彼女自身のためなのか、それはわからない。だが、どちらにしても、彼女の望みであれば受け入れるべきだろう。このまま何も説明せず、互いに水に流すということを——。
「座って」
 レイチェルは明るい声で椅子を勧めた。
 ラウルは言われるまま素直に座った。レイチェルも自分の椅子に座り、ラウルの方に体を向けた。膝の上に行儀良く手を重ねて置き、ちょこんと小首を傾げて尋ねる。
「今日はテスト?」
「昨日の今日で何も準備をしていない。おまえがどこまで勉強しているのかも聞いていない」
「じゃあ、説明するわ。私がこの二年間で勉強してきたことを」
 彼女はにっこりと笑って立ち上がり、本棚からいくつもの本を取り出した。

 レイチェルから勉学の進捗を聞いたが、あまり芳しいとはいえなかった。家庭教師が何度も替わっているのが原因だろう。なぜ、それほど頻繁に家庭教師を替えたのかはわからない。彼女にもわからないらしい。もしかしたら、サイファの仕業かもしれないと思う。ラウルのところに乗り込んできて交渉をしたくらいだ。ありえないことではないだろう。
 その日は、一時間ほど話を聞いただけで終わりにした。授業は翌日から始めることにする。
「明日は数学にする。予習をしておけ」
 ラウルはそう言って立ち上がった。大きな足どりで扉に向かう。
「送っていくわ」
 レイチェルも立ち上がり、軽い駆け足でラウルのあとを追う。
「送ってもらう必要などない」
「必要がなくても送りたいの、ラウルは特別だから」
 横から笑顔で覗き込み、二年前と同じことを言う。
 ラウルは眉根を寄せた。
「サイファの言うことなど真に受けるな」
「サイファが言ったからじゃなくて、私自身がそう思っているの」
「迷惑だ」
 冷たく突き放すように言い、扉を開けて部屋を出る。
 だが、レイチェルは諦めずについてきた。愛らしい微笑みを見せて言う。
「じゃあ、送るんじゃなくて、勝手について行くことにするわ」
「……勝手にしろ」
 ラウルは大きく溜息をついた。

 レイチェルは、面影の少女とはまるで性格が違った。彼女が控えめで思いやりのある子だったのに対し、レイチェルは身勝手で何でも思いどおりになると思っている節がある。
 思い返してみれば、二年前にもその片鱗はあった。もう少し大人しかったような気はするが、時折、今と同じように身勝手な言動が見受けられた。
 無意識に都合のいいところしか見ようとしていなかったのかもしれない。面影を重ねていたのは、彼女が喋っていないときばかりだったことを思い出す。それに気づけたのは、もうはっきりと目が覚めているからだろう。今となっては面影など重ねようもない。

 医務室を目指し、人通りの少ない裏道を歩く。二年前にもレイチェルとともに歩いた道だ。だが、心情はあのときとはまるで違う。心地よい穏やかな空気を感じることはなかった。
「怒っているの?」
 レイチェルが横から覗き込んで尋ねた。
 顔はいつもの仏頂面だが、怒っているつもりはなかった。だが、わからなくなった。彼女は妙に勘がいい。もしかすると、自分が気づいていないだけで、本当は腹を立てていたのかもしれない。たとえそうだとしても、怒りをぶつける相手が彼女であってはならない。
「怒ってなどいない」
 出来る限り感情を抑制した声で答える。
「良かった」
 レイチェルは胸に右手をあて、無邪気なくらいの笑顔で言った。
 ラウルは溜息をつき、空を見上げた。青い空にかかっている薄い雲が、ゆっくりと流れていた。

 医務室の前に到着し、ラウルは足を止めた。レイチェルを一瞥する。何と言おうか迷ったが、何も言わないまま、鍵を開けて扉を引いた。
「ねえ、ラウル。医務室の中を見せてくれる?」
 レイチェルが背後で声を弾ませた。
 ラウルは扉に手を掛けたまま、顔だけ振り向いた。冷たい視線を向けて言う。
「病人でも怪我人でもない人間が入るところではない」
「……わかったわ」
 レイチェルは大きな瞳でラウルを見つめてそう言うと、来た方とは反対側へ歩き出した。
 ラウルは慌てて彼女の肩に手を掛けた。
「どこへ行く」
「怪我をしてくるの。そうすれば入れてくれるんでしょう?」
 真顔で振り返って言う。当然と言わんばかりの口調だった。
「……入れ」
「ありがとう」
 レイチェルはにっこりと笑った。
 ラウルは溜息をついた。もしかすると、こうなることを計算しての行動だったのかもしれない。サイファにそっくりだ。ラグランジェの人間は、どうしてこうも身勝手な連中が多いのだろうか。
「病院みたいな匂いがするわ」
「医務室だからな」
 入るなり感嘆の声を上げるレイチェルに、ラウルは呆れ口調で返答をした。
「本当にお医者さんなのね」
 レイチェルはあたりをぐるりと見まわしながら言う。
「お医者さんをしながら家庭教師って大変そう」
「そうでもない」
 ラウルは扉を閉めながら答えた。医師としての仕事はあまりない、ということは敢えて言わなかった。言う必要がないと思っただけで、隠そうとしたわけではない。
 レイチェルは窓際に駆けていき、クリーム色のカーテンを開けた。窓ガラスに手をつき、下の道に目を向ける。そこは、レイチェルが父親に手を引かれてよく通っていた道だった。くすっと笑い、懐かしそうに言う。
「ラウルはよくここの窓際に座っていたわね。私、いつも楽しみにしていたの」
 そのことは当時からずっと不思議に思っていた。なぜ彼女は見ず知らずの自分に笑顔を向けてきたのだろうか——。それを尋ねることは出来なかった。
 あれから10年が過ぎた。
 そのうちの大部分は、彼女を彼女として見ていなかった。勝手な幻想を重ねていた。今、自分は彼女のことをどう見ているのだろうか。その華奢な後ろ姿を見ながら、自分に問いかける。答えはわからない。わからないということが答えなのかもしれない。二年ぶりに会って、まだたったの数時間である。そう簡単に答えが出せるものでもない。
 レイチェルは薬棚や本棚、机の上、パイプベッドなど、あちらこちらを興味深げに見てまわった。動きまわるたびに、後頭部のリボンが弾むように揺れる。
 ラウルは扉付近で腕を組み、その様子をただじっと眺めていた。
「楽しいか」
「ええ」
 レイチェルは振り返って嬉しそうに笑った。
「ねえ、この向こうがラウルのおうちなんでしょう?」
 ほとんど壁と同化している目立たない扉に、そっと両手で触れながら尋ねる。
 ラウルは怪訝に眉根を寄せた。
「なぜ、知っている」
「サイファから聞いたの」
 レイチェルはあっけらかんと答えた。
 ラウルは溜息をついた。確かにサイファなら知っている。だが、まさかレイチェルに話しているとは思わなかった。別に隠しているわけではないので構わないが、こんなどうでもいいことまで話題にしている事実に驚いた。おしゃべりな奴だとは思っていたが、想像以上かもしれない。
「サイファは、いくら頼んでも一度も部屋に入れてくれないって嘆いていたわ。どうして入れてあげないの?」
「誰も入れないことにしている。それだけだ」
 ラウルは冷静に答える。
「私も、だめ?」
「駄目だ」
 少しの迷いも隙も見せず、冷淡にきっぱりと言う。
 レイチェルは僅かに寂しそうな表情を見せた。大きな蒼の瞳が小さく揺らぐ。
 ラウルは溜息をつきながら、目を閉じてうつむいた。
「あら? 開いた……」
 その声につられて顔を上げると、レイチェルがドアノブに手を掛けて扉を開いているところだった。鍵はついているが、今日は掛けていなかったようだ。医務室の方は忘れず施錠するが、自室の方は医務室からしか入れないため、掛けないことも多い。
「おい!」
 ラウルは慌てて組んだ腕を外し、扉に向かって駆けだした。だが、彼女は素早く逃げ込むように部屋に入り、カチャリと扉を閉めた。そのあとを追って、ラウルも扉を開けて部屋に入る。幸い、鍵は掛けられていなかった。

「きれいにしているのね」
「おまえ……」
 悪びれもせず部屋の中を見まわすレイチェルに、ラウルは低い唸り声を上げた。
「怒っているの?」
 レイチェルは振り返り、大きく瞬きをしながら首を傾げて尋ねる。
「当然だ」
 ラウルは抑えた声で言った。その中に秘めた怒りを感じ取ったのだろう。レイチェルは急にしゅんとして頭を下げた。
「ごめんなさい……」
「……もういい」
 ラウルは溜息をついて言った。
 レイチェルはほっと息をついてニコッと笑った。
「じゃあ、お茶を淹れてくれる? 美味しい紅茶が飲みたいの」
「……おまえ、本当に反省しているのか?」
「ええ、でも、もういいんでしょう?」
 邪気のない顔で明るく言う。どこまでが計算なのかさっぱりわからない。天然だとするとなおのこと恐ろしい。サイファよりたちが悪いかもしれないと思う。
「美味い紅茶はない。並のでよければ淹れてやる」
「ありがとう」
 ラウルは溜息をついて湯を沸かし始めた。紅茶やティーカップの準備をする。
 その間、レイチェルはあちらこちらウロウロして、いろいろなところを覗き込んでいた。寝室や浴室、棚の中、引き出しの中まで開けて見ていた。
「おい、あまりあちこち見るな」
「紅茶が出来るまで暇なんだもの」
「いいから座れ」
 ラウルはレイチェルの手を捕まえて、ダイニングテーブルの椅子に無理やり座らせた。
「お菓子は?」
 レイチェルは両手で頬杖をつき、ラウルの横顔を見ながら尋ねる。
「そんなものはない」
 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら言った。
「そう……じゃあ、今日は我慢するわ」
 レイチェルはニコッと笑った。
 今日は——?
 ラウルは引っかかったが、敢えて尋ねなかった。藪蛇になりそうだと直感したからだ。紅茶の入ったティーカップをレイチェルの前に置く。
「ありがとう」
 レイチェルは無垢な笑顔を浮かべ、ティーカップを手に取った。湯気の立ち上る紅茶にゆっくりと口をつけて、少しだけ流し込む。
 ラウルは流しに寄りかかって腕を組み、その様子をじっと見下ろしていた。
「ラウルは飲まないの?」
 レイチェルは両手でティーカップを持ったまま、顔を上げて尋ねた。
「ティーカップはそれしかない」
「どうして?」
「誰もここに入れないことにしていると言ったはずだ」
 ラウルは面倒くさそうに答える。
 レイチェルは少し考えてから、ぱっと顔を輝かせる。
「じゃあ、今度うちから持ってきてあげる。ラウルと一緒に飲みたいもの」
「……また来る気か?」
「ええ、今度はお菓子も用意しておいてね」
 ラウルは盛大に溜息をついた。溜息のつきすぎで、体がだるくなった気さえする。頭痛がするのは精神的なものが影響しているのだろうか。右手で頭を押さえる。
「サイファには言うな」
「どうして?」
 レイチェルは不思議そうに首を傾げた。
「このことを知られたら、あいつも入れなければならなくなる」
「だめなの?」
「誰も入れないことにしていると何度言わせる」
 ラウルはいらつきながら答える。
「3人でお茶したかったのに……」
 レイチェルは残念そうに言い、眉をひそめる。
「言わないと約束しなければ、おまえもここには二度と入れん」
「……わかったわ、約束する」
 レイチェルはそう言ってニッコリと笑った。
 ラウルは眉を寄せた。
 何か話がおかしな方に行った気がする。レイチェルも入れるつもりではなかったはずだが、こんな約束をしてしまっては入れざるをえない。サイファよりはましか——いや、もしかするとサイファよりもやっかいかもしれない。自分の判断がわからなくなってきた。
「飲み終わったらとっとと出て行け」
「じゃあ、ゆっくり飲まなきゃ」
「…………」
 思いきり呆れた視線を送るラウルに気づいていないのか、気づいていながら無視をしているのか、レイチェルは本当にゆっくりと紅茶を飲んだ。いい度胸である。ティーカップがほぼ空になったのを見ると、ラウルは組んだ腕をほどいた。
「飲み終わったな。さあ、出て行け」
「行かなきゃだめ?」
 レイチェルは名残惜しそうに空のティーカップを両手で持ったまま、ラウルを上目遣いに見上げて首を傾げた。
「出て行け」
 ラウルは冷たく見下ろし、迫力のある低音でゆっくりと威圧するように言った。たいていの人間はこれで震え上がる。だが、彼女はまるきり平然としたまま、不服そうに小さな口をとがらせた。
「じゃあ、仕方がないから今日は帰るわ」
「早くしろ」
 ラウルは立ち上がった彼女の肩を押し、追い立てるように部屋から出した。さらに、医務室からも追い出そうとする。勢いよく扉を引き開け、出て行くように目線で促した。
 レイチェルは素直に廊下に出ると、くるりと振り返った。
「あしたも忘れないで来てね」
 愛らしい笑みを浮かべて言う。
 ラウルは扉を締めようとしていた手を止めた。
「わかっている。心配するな」
「ねえ、ラウル」
「何だ」
「私のことは嫌い?」
 レイチェルは首を傾げて尋ねた。
 ラウルは眉根を寄せた。その言葉だけで、彼女の言いたいことを理解してしまった。誰かの面影を重ねた状態ではなく、彼女自身の本当の姿についてどう思うかと尋ねているのだろう。自分はこの質問に答える義務がある——。
「まだ、わからん」
 低い声で言う。それが正直な答えだった。
「私はラウルのことが好き」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませて言った。屈託のない笑顔で続ける。
「だから、また家庭教師になってくれて嬉しいわ」
「……帰れ」
 ラウルは無表情のまま、短くそれだけ言った。酷く冷たい口調だった。
 それでもレイチェルは笑顔を見せていた。
「今日はありがとう」
 顔の横で手を振り、帰っていく。
 ラウルは静かに扉を閉めた。その扉に手を置いたまま、うつむいて奥歯を噛みしめる。
 ——愚かな女だ。
 なぜだか無性に腹が立っていた。レイチェルが自分の何を知っているというのだろう。まともに向かい合ったのは、二年前の三日間と今日だけである。しかも、彼女にはひどい仕打ちしかしていない。にもかかわらず、そんな屈託のない顔でよくそんなことが言える。おそらく、サイファから聞いた話だけで、好意に値すると判断しているのだろう。本当の姿を見ていないのは、彼女の方も同じではないか。
 ラウルはそこまで考えて溜息をついた。
 このようなことを真剣に考察する必要はないのだと気がつく。誰にどのように思われようと知ったことではない。好きなように思っていればいい。誤解でも何でもしていればいい。それが自分の姿勢だったはずだ。
 カーテンが開いたままの窓際へと歩いていき、窓枠に両手をついた。目を細めてガラス越しに空を見上げる。濃い青色に浮かぶ白い雲は、僅かに形を変えながら、ゆっくりと右から左に流れていた。その下では、木々が微かにざわめいていた。


10. ティータイム

 翌日から、ラウルはレイチェルの授業を始めた。
 授業中に関していえば、レイチェルは二年前とあまり変わっていなかった。つまり、手のかからない教え子ということだ。言われたことには素直に従い、記憶力は良く、飲み込みも早い。教えたことはすぐに出来るようになる。
 ただ、やはり応用力はほとんど無いといってもいい。未知の問題だと判断すると、途端に思考を放棄してしまう。このことに関しては、性格的なものが大きいため、克服させるのは難しそうだ。考えると頭が痛くなる。
 そして、魔導のことも——。
 彼女にはまだ切り出していない。だが、避けては通れない問題だろう。少なくとも基本的な制御だけは学ばせなければならない。それは、二年前にアルフォンスから頼まれたことでもある。
 だが、ラウル個人としては、それだけで済ませたくはなかった。
 出来ることなら、彼女の秘められた魔導の力を引き出したい。彼女の潜在的な力は、ラウルを除けば、間違いなくこの国で一番である。それを引き出したうえで、それなりの訓練を積めば、稀代の使い手になるかもしれない。どこまでになるか、行き着く先を見てみたい——魔導に携わるものならば、誰もが抱いても不思議ではない好奇心である。
 しかし、それは、彼女自身は全く望んでいないことだ。自分の身勝手な好奇心で、そこまでのことを押しつけるのは傲慢というものだろう。

「今日はここまでだ。明日は物理学にする」
「ちょっと待って」
 レイチェルは軽く呼び止めながら、立ち上がろうとするラウルの袖を掴んで引いた。
「何だ?」
 ラウルは眉をひそめながらも、促されるまま椅子に座り直した。
 レイチェルは机の下に身を屈めると、手提げの白い紙袋を慎重に取り出した。それを膝の上に置き、ラウルに向かってにっこりと笑いかける。
「これ、きのう約束したプレゼント」
「プレゼントだと?」
 ラウルは訝しげに聞き返しながら、差し出された紙袋を受け取った。そこそこ重量感がある。上から覗き込むと、淡いピンク色のリボンが掛けられた大きめの白い箱が見えた。
「ティーカップよ。ついでにティーポットもあるみたい」
「家にあるものを持ってくるのではなかったのか」
 確かに彼女はティーカップを持ってくると言った。だが、それは「うちから」だったはずだ。家で余っているものを持ってくるのだろうとラウルは理解していた。しかし、これはそういう類のものには見えない。
「そのつもりだったんだけど、お母さまがそれでは失礼だからって買ってきちゃったの」
 レイチェルは肩をすくめて言った。
「母親に何を言った?」
「二年前のお詫びにティーカップをプレゼントしたいって言っただけよ」
 そんなことを聞いたら、家にあるものでは失礼だと考えるのも当然だろう。名門のラグランジェ家なのだ。そういうところはきちんとしているに違いない。
「もらってくれる? そうじゃないと、私、困るんだけど……」
 レイチェルは上目遣いで心配そうに尋ねた。
 このプレゼントを拒めば、彼女の謝罪を拒んだことになってしまう。それも、彼女の両親に宣言するに等しい状態だ。彼女が困るというのも理解できる。そして、自分にとっても本意ではない。
「……わかった」
「これでラウルと一緒にお茶が出来るわね」
 レイチェルは顔の前で両手を組み合わせ、無邪気に声を弾ませた。
 ラウルは溜息をついた。何か騙されたような気がしないでもないが、成り行きとはいえすべて自分が承諾したことだ。今さら覆すようなことは言えないだろう。

 澄みきった青空の下、いつものように人通りの少ない裏道を通って医務室へと向かう。
 今日もレイチェルはついてきた。嬉しそうにニコニコしながら隣を歩いている。口数は多くないが、時折、ラウルを見上げて話しかけてくる。その表情は、まるで小さな子供のように屈託がなかった。
 王宮に入って階段を上がり、しばらく歩くと医務室の前に到着する。
 ラウルは鍵を開けた。いつもはまず医務室の席に着くのだが、今日は大きな荷物を持っている。まっすぐに奥の自室へと向かった。当然のようにレイチェルもついてきた。ラウルのすぐ後ろで、軽い足音が弾んでいた。

 ラウルは白い紙袋をダイニングテーブルの上に置き、中から白い箱を取り出した。リボンを外し、包装紙を破いて箱を開ける。そこには白いティーカップとソーサが2組、そして同じ色のティーポットが入っていた。何も模様は入っていないが、決して安物ではなく、上質であることは一目でわかった。
「ラウルの好みがわからないからシンプルなものにしたって、お母さまが言っていたわ」
 何も考えてなさそうなレイチェルとは違い、彼女の母親は細かいことまで気をまわす人物のようだ。見た目よりもしっかりしているのだろう。
「気に入った?」
 レイチェルは無表情のラウルを覗き込んで尋ねる。長い金の髪がさらりと揺れた。
 ラウルは破いた包装紙を丸めながら、ぶっきらぼうに言う。
「礼を言っておけ」
「良かった」
 レイチェルは胸もとに手を当てた。安堵したとでも言いたげな様子だが、それほど心配しているようには見えなかった。甘やかされて育った彼女のことだ。今までほとんどのことが思い通りになってきたのだろう。そのため今回も突き返されるようなことはないと確信していたのかもしれない。いや、そんなことは想像すらしていなかったに違いない。
「じゃあ、お茶にしましょう」
 彼女はダイニングテーブルの向かい側にまわって椅子に座った。そこは昨日と同じ場所である。彼女の中ではすでに指定席になっているのだろうか。ニコニコしながら両手で頬杖をつくと、無邪気に愛くるしく言う。
「今日はラウルも一緒ね」
 ラウルは溜息をつきながらも、言われるままにティータイムの準備を始めた。水の入ったヤカンを火に掛けると、その間に、新品のティーカップとティーポットを手際よく洗った。棚から紅茶の缶を取り出し、ティーポットに目分量で茶葉を入れる。
「ねえ、お菓子はあるの?」
 レイチェルは頬杖をついたまま口を開く。
「ケーキでいいのか?」
 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら尋ね返した。白い湯気が視界を覆う。顔が少し熱くなった。
「ケーキ、用意してくれたの?」
「おまえがそうしろと言った」
「嬉しい、ラウルありがとう」
 レイチェルの声は、感情のままに弾んでいた。
 結局、何もかも彼女の思うままになっている気がする。それは、自分が彼女に対して負い目を感じているせいだろう。優しくしようなどと思っているわけではないが、無意識に甘くなっていることは否めない。
 ラウルは冷蔵庫から小さな箱を取り出し、その中のケーキを皿にのせて彼女に出す。
「ひとつだけ?」
 レイチェルはラウルを見上げて尋ねた。
「いくつ食べる気だ?」
 ラウルは呆れた眼差しで見下ろしながら言う。
「そうじゃなくて、ラウルの分は?」
「それひとつしか買っていない」
「じゃあ、半分にしましょう」
 レイチェルはケーキの皿を両手で持ち上げ、ラウルに差し出した。
「いらん、だから買わなかった」
 ラウルは腕を組みながら、冷たくきっぱりと撥ねつけた。
 それでもレイチェルは諦めなかった。にっこりとして腕を伸ばし、優しく諭すように言う。
「だめよ、一緒にお茶をするんだから。一緒に食べなければ意味がないわ」
 ラウルは溜息をついた。観念するしかなさそうだった。
 彼女からその皿を受け取ると、ケーキを半分に切り、もうひとつの皿にその半分を移した。ふたつの皿をそれぞれの席に置く。紅茶もティーカップに注ぎ、ソーサに載せてテーブルに置いた。
 これでティータイムの形はそれなりに整ったはずだ。もう文句はないだろう。
「ラウルも座って」
 レイチェルは顔を斜めに傾け、にっこりと笑って言った。

 二人はささやかなお茶会を始めた。ただ紅茶を飲んで、ケーキを食べるだけである。
「楽しいか」
「ええ」
 向かいのレイチェルに尋ねると、満面の笑みで答えが返ってきた。
 何がそんなに楽しいのか、ラウルにはわからなかった。面白い話をしているわけでもなければ、紅茶やケーキが特に美味しいわけでもない。彼女なら普段からもっと上等なものを口にしているはずである。
「ラウルはここでいつもひとりなの?」
 レイチェルはティーカップをソーサに戻しながら尋ねた。
「誰も入れないことにしていると言ったはずだ」
 ラウルはぶっきらぼうに答えた。きのうから何度も同じことを言っている。彼女はわかっていて尋ねているのかもしれない。ケーキにフォークを突き立てて口に運ぶ。
「寂しくないの?」
 レイチェルは大きな瞳でじっと見つめて言う。
「ひとりの方が煩わしくなくていい」
「今は私がいるから煩わしいの?」
「ああ、紅茶やケーキの準備までさせられて迷惑している」
 ラウルは責めるように言ったつもりだが、レイチェルは反省するどころか、なぜかクスクスと笑っていた。何がそんなに可笑しいのだろうか。彼女の思考回路がまるでわからない。
 レイチェルはケーキを食べながら言う。
「このケーキ、美味しいわね。イチゴのショートケーキって、私、大好きなの」
 ラウルは紅茶を飲みながら、無邪気な彼女に目を向けた。ティーカップをゆっくりとソーサに戻す。
「好き嫌いがあるなら言っておけ。おまえの好みは知らんからな」
「んー……レーズン以外ならたぶん大丈夫」
 レイチェルは斜め上に目を向けて考えたあと、ラウルに向き直ってにっこりと答えた。
「わかった。レーズンを避ければいいんだな」
 ラウルは淡々と確認する。
「ねえ、ラウル。お店のケーキもいいけれど、ときどきは手作りのお菓子も食べたいの」
 レイチェルは身を乗り出して言う。
 ラウルは溜息をついた。いったいどこまで我が侭を言うつもりなのだろうか。
「何を作ってほしい」
 面倒だと思いながらも尋ねてみる。
 レイチェルはフォークを握りしめて目を輝かせた。
「えーっと、じゃあ、ミルフィーユとかモンブランとか」
「……おまえ、それは嫌がらせか」
 ラウルは眉根を寄せた。
「だめなの?」
 レイチェルはきょとんとして小首を傾げた。
「そんな手間のかかるもの、作る気も起きん」
 ラウルは額を押さえた。自分の要求がどれほどやっかいなことなのか、彼女はわかっているのだろうか。作ろうと思えば作れないことはない。だが、冗談ではないと思う。そこまでの義理も筋合いもない。小さく溜息をついて言う。
「スコーン、ショートブレッド、プリン、ホットケーキ、どれか選べ」
「じゃあ、スコーンとプリン」
 レイチェルはすぐに答えた。
 ラウルは眉をひそめて睨んだ。低い声で言う。
「ひとつにしろ」
「プリン」
 レイチェルはまっすぐラウルを見たまま即答した。
 ラウルは腕を組んでうつむき、目を閉じる。肩から焦茶色の髪が滑り落ちた。
「気の向いたときに一回くらいなら作ってやる」
「楽しみにしているわ」
 レイチェルはそう言って愛らしく微笑んだ。

 翌日も、翌々日も、レイチェルはラウルの部屋にやってきた。
 ラウルは両日とも律儀にケーキを用意した。いくら彼女に負い目があるからといって、ここまで言いなりになる必要があるのだろうか。なぜ拒否しなかったのだろうか。なぜ無視しなかったのだろうか。自問してみるものの答えは出ない。
 ただ、嫌でたまらないというほどのことはない。
 煩わしいという気持ちに変わりはないが、仕方がないという諦めの気持ちが大きくなっているような気がする。いや、正直なところをいえば、彼女の嬉しそうな笑顔を見ていると悪い気はしない。そう思う自分はどうかしているのだろうか——。

 その翌日も、やはりレイチェルはついてきた。これで4日連続である。家庭教師の授業とその後のティータイムが、ラウルにとって日常の一部になりつつあった。
 医務室の前に着くと、いつものように鍵を開けて扉を引く。
「ラウル、今日はここで帰るわね」
 中に足を踏み入れようとしたとき、レイチェルが背後でそう言った。ごく普通の落ち着いた口調だった。申し訳なさそうにも、怒っているようにも、思いつめたようにも感じられなかった。
 ラウルは扉に手を置き、ゆっくりと顔だけ振り返った。
「……なぜだ」
「サイファがね、今日は早く帰れそうだから二人でお茶をしようって」
 レイチェルは胸もとで手を組み合わせ、にっこりと笑顔を見せた。
「そうか」
 ラウルは無表情を保ったまま呟くように言った。
 ——そうならそうと、あらかじめ言っておけ。
 喉もとまで出かかった言葉を、ぐっと堪えて飲み下す。別に約束をしていたわけではない。ただ、今日も来るだろうと自分が勝手に思い込んでいただけだ。彼女は何も悪くない。だが——。
「嬉しそうだな」
「ええ、サイファの家でお茶をするのって久し振りなんだもの」
 レイチェルははしゃいだ声を上げた。
 その様子を眺めるラウルの心には、もやもやとした重いものがのしかかっていた。

「やあ、レイチェル」
 よく通るはっきりとした声を響かせながら、サイファは後ろからレイチェルを抱きすくめた。魔導省の制服を身に着けている。仕事帰りなのだろう。右手に持っていた手提げの紙袋が、彼女の前で大きく弧を描いて揺れた。
「サイファ!」
 レイチェルはとびきりの笑顔で振り返った。後頭部のリボンが大きく弾み、長い髪がさらりと舞い上がる。窓から射し込む光を受けて、透きとおるような金色が上品に煌めいた。
 サイファは彼女の頬を左手で包み、慈しむように柔らかく微笑んだ。
「ラウルに挨拶してから帰ろうと思って、ここへ寄ってみたんだけど、ちょうどいいタイミングだったみたいだね」
 優しい声でそう言うと、端整な顔をゆっくりとラウルに向けた。青い瞳に挑発的な光を宿し、口の端を僅かに上げる。
「ラウル先生、今度は逃げずに続けているみたいだね」
 ラウルはムッとして眉をしかめた。
「嫌味を言うために来たのか?」
「様子を聞きに来たんだよ」
 サイファは両手を腰に当てて言う。
「困ったことや相談したいことはないか?」
「何もない」
 ラウルは冷ややかに答えて腕を組んだ。
「レイチェルはちゃんと勉強しているか?」
「おまえよりよほど真面目だ」
「それは良かった」
 サイファはくすっと小さく笑って言う。その余裕の態度が、ラウルには何か無性に腹立たしく感じられた。サイファには特に意図はなかったのだろう。ただ、自分の方に余裕がなかっただけだ。
「レイチェル、これからも先生の言うことをよく聞いて勉強するんだよ」
 サイファは小さな子供に言い含めるような口調でそう言うと、彼女の前髪を人差し指で小さく払って微笑む。
「我が侭ばかり言って怒らせないようにね」
「我が侭なんて言っていないわ。ねえ、ラウル」
 レイチェルはラウルに振り向いて同意を求めた。少しも悪びれた様子はない。あどけない無垢な笑顔を見せている。嘘をついているつもりはなく、本当にそう思っているのだろう。確かに、授業中に関してだけでいえば、間違いではない。
「……ああ」
 ラウルは彼女の望むままの答えを返した。

「ちょっと待て、ラウル」
 無言で医務室に入ろうとしたラウルを、サイファは慌てて引き留めた。手にしていた薄黄色の紙袋から、同色の紙の箱を取り出す。片手で持てるくらいのものだ。それほど大きくはない。
「レイチェルがお世話になっているお礼だ」
 人なつこい笑顔でそう言うと、その紙の箱をラウルに差し出した。
 ラウルは怪訝に眉根を寄せた。
「何だ?」
「レアチーズケーキ。僕たちの分のついでなんだけどね」
 サイファは反対の手に持っていた紙袋を掲げた。その上部には店のロゴタイプが小さく入っている。ケーキ店の名前らしい。これからサイファの家でお茶をするとレイチェルが言っていた。そのときに食べるケーキを買ってきたのだろう。
「ここのレアチーズケーキ、とっても美味しいのよ」
 レイチェルはサイファの隣で微笑みながら、無邪気にそんなことを言った。
「もしかして、甘いものは苦手だったか?」
 無表情で立ち尽くすラウルを見て、サイファは覗き込みながら尋ねた。
「……もらっておく」
 ラウルは小さな箱を片手で掴んだ。
 サイファは満足そうな笑みを浮かべると、隣のレイチェルの頭に手をのせた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。とびきり美味しい紅茶も用意してあるよ」
「本当? 嬉しい」
 レイチェルはサイファを見上げ、幸せそうに笑った。
「ラウル、それじゃあ、またな」
「またあしたね」
 ふたりは笑顔でさよならの挨拶をした。そして、どちらからともなく自然に手を取り合うと、楽しそうに話をしながら帰っていった。もうラウルのことなど眼中にないのだろう。ただの一度も振り返ることはなかった。

 ラウルは医務室の奥の自室にひとりで戻った。
 サイファからもらった薄黄色の紙箱を、ダイニングテーブルの上に置く。それをじっと見下ろしながら、腕を組み、流しにゆっくりと寄りかかった。
 秒針の単調な音が耳朶に響く。
 不思議なくらいに静かな部屋。
 無意味に流れていく時間。
 ラウルは小さく溜息をついた。
 体を屈めて冷蔵庫を開ける。あまり物は入っていない。テーブルの上の箱を無造作にその中に放り込むと、代わりに中から小さなカップを取り出した。
 それはプリンだった。買ってきたものではない。ラウルが作ったものである。
 気が向いたら一度くらいはプリンを作ってやる——。
 数日前にレイチェルとそう約束した。それを今日のティータイムで果たすつもりだった。だが、彼女はここにはいない。自分ではなく、サイファの方を選んだ——いや、その言い方は適切ではない。ただタイミングが悪かっただけだ。
 ラウルはその場に立ったまま、スプーンですくってそれを食べ始めた。
 底のカラメルがほんの少し苦かった。


11. 芽生え始めた意志

 ラウルは、高い塀で囲われた建物の前で立ち止まり、それを仰いだ。窓ガラスの反射光が眩しくて目を細める。ここからでは全貌は見えないが、一部で改装工事をしているのが目についた。
 魔導科学技術研究所——。
 それがこの建物の名前だった。魔導を科学的に分析し、その仕組みを解明することを目的として設立された、魔導省の管轄の施設である。つまり、国立の研究所だ。国がその研究を必要としているということだろう。

「わざわざ足を運んでもらってすまない」
「どのみち外へ出る用があった」
 入口まで迎えに来たアルフォンスに連れられて、ラウルは研究所の廊下を歩く。横に目を向けると、ガラスの向こうに研究フロアが見えた。立っているのは数人だけで、多くの所員は整然と並んだモニタに向かい、黙々と作業をしている。話し声はほとんど聞こえず、機械音や打鍵音の方が大きいくらいだ。
 ラウルがここへ来たのは、この研究所の所長であるアルフォンスに呼ばれたためだった。理由は聞いていない。聞き出そうともしなかった。そうするまでもなく、おおよその見当はついている。だから、あえて言われるままにやってきたのだ。
「ここに入るのは初めてか?」
「ああ」
 アルフォンスは歩きながら後ろで手を組み、ちらりとラウルを振り返る。
「このフロアなら自由に見学しても構わんがどうする?」
「不要だ。ここではたいした研究をやっていないのだろう」
 ラウルはつれない答えを返す。
 アルフォンスは気難しい顔で目を伏せた。
「根幹となる研究は、立入制限区域で行っている。そちらに入るためには面倒な手続きが必要でな」
「論文にはすべて目を通している。それらを総合して考えれば、入らなくても何をやっているのか察しはつく」
「というと?」
「戦争のための兵器開発、それと人間を兵器化する技術開発」
 ラウルは端的に答えた。
 アルフォンスは息を飲んで振り返り、それからあたりを見まわす。そして、誰もいないことを確認すると、一瞬だけ安堵したような表情を浮かべた。「所長室」というプレートが掛かった扉に向かい、鍵を開けると、ドアノブに手を掛けて押し開く。
「否定はしない」
 そう言いつつ、ラウルを部屋に招き入れる。そこは、個室としては十分すぎるくらいに広かった。正面にはうずたかく書類が積まれた大きな机、端の方には応接用と思われるソファとローテーブルがあった。机の隣の本棚には整然と新しい本が並んでいる。奥の大きなガラス窓からは自然光が入り込み、部屋を明るく爽やかに照らしていた。アルフォンスは静かに扉を閉めると、ラウルをソファに促す。
「だが、戦争を仕掛けるわけではない。あくまでこの国を防衛するためのものだ」
「魔導は人に属するからこそ、辛うじてバランスを保っていられる。人の意思のない魔導や、人の意思をねじ曲げた魔導など、存在すべきではない。いずれ世界を壊すことになる」
 ラウルはソファには座らず、その場に立ったままで言った。
 アルフォンスは表情を険しくする。
「使用は厳しく制限していくつもりだ」
「判断を誤らなかった戦争などない」
「…………」
 アルフォンスは反論しなかった。いや、出来なかったのだろう。口を固く結び、目を伏せる。眉間には深い皺が刻まれた。
 ラウルは腕を組んで言う。
「今のはただの忠告だ。おまえたちが何をしようと知ったことではない。これ以上の干渉をするつもりもない。ただ、レイチェルは巻き込むな」
 アルフォンスはハッとして顔を上げた。
「なぜ、それを……」
「あれだけの魔導力を有する人間は他にいない。おまえたちからすれば、喉から手が出るほど欲しい実験体だろう。私を呼んだのも、そのことで何か相談があったのではないか」
 アルフォンスがラウルを研究所に呼んだ理由として考えられるのは三つだった。ラウルに研究への参加を依頼する、ラウルに実験体としての協力を依頼する、レイチェルを実験体として使うことについての相談——。その推測を一つに絞ることができたのは、ラウルをここへ呼んだときのアルフォンスの声が苦悩に満ちていたからだ。レイチェルに関することでなければ、そこまで思い詰めた声は出さないはずだという確信があった。
「ああ、だが勘違いするな。私個人としては反対している。そもそも、あの子の魔導のことを誰かに話したことは一度もない。だが、気づいてしまった部下がいてな」
 コンコン——。
 扉をノックする音が聞こえた。アルフォンスの顔に緊張が走る。
「フランシス=ゴードンです」
「入れ」
 アルフォンスが毅然とした声でそう言うと、三十代後半と思われる男が、静かに扉を開けて入ってきた。背筋を伸ばし、両足を揃えると、真剣な表情をまっすぐ前に向ける。体格はアルフォンスより一回り小さいが、気構えは負けていないようだった。
 ラウルはその男に見覚えがあった。過去に何度か医務室に来たことのある男だ。口をきけなくなった姪を診せに来たこともあった。リカルドが研究所に勤務していたときの部下だったと記憶している。
「これが先ほど言っていた部下だ。レイチェルを研究に使うことを強硬に主張してな」
「そうすべきだと思います。所長が娘を溺愛していることは知っていますが、この研究所の所長であれば国のことを第一に考えるべきです。国の機関に勤める人間が、国より家族を優先するなどあってはならない」
 アルフォンスは反論こそしなかったが、その青い瞳には怒りを思わせる鋭い光がたぎっていた。それが、彼のできる唯一の抵抗だったに違いない。理屈としてはフランシスの方が正しい。所長という立場もあり、おおっぴらに本音を言うわけにはいかないのだろう。
 フランシスは臆することなく続ける。
「何も傷つけようというわけではありません。彼女の身の安全は最大限考慮するつもりです」
「下手に手を出せば暴発する。そうなれば、それこそ国が崩壊する可能性もありうる」
 ラウルが横から口を挟んだ。
 フランシスは睨むような眼差しで振り向いた。
「あなたに言われるまでもなく、慎重に事を進めるつもりです。私たちは科学者だ。あらゆる可能性をシミュレーションし、危険を回避しつつ結果を得られるよう、常に綿密な計画を立てています」
 強気な姿勢を崩さずに、明瞭にきびきびと言う。あれほどラウルのことを恐れていた人物とは思えない。それだけ成長したのだろうか。それとも、仕事のこととなると人が変わるのだろうか。
 ラウルは無表情のままフランシスに歩み寄った。正面のごく近い距離で止まる。胸もとあたりの位置に彼の頭があった。ゆっくりと腕を組み、顎を軽く上げると、目線だけで彼を見下ろす。
「フランシス」
 名前を呼ばれた瞬間、フランシスはビクリと体を竦ませた。それでも精一杯の虚勢を張り、上目遣いでラウルを睨む。
「……何ですか」
「レイチェルには手を出すな」
「あなたこそ部外者のくせに口を出さないでほしい。私たちはこの国のために……」
「この国がどうなろうと知ったことではない」
 ラウルはフランシスの言葉を遮って言った。まっすぐ彼の首筋に右手を伸ばし、触れる寸前でそれを止める。その気になれば、防御する間もなく一瞬で首を落とせる距離だ。冷徹な眼差しを向け、凄みのある低い声で威圧する。
「レイチェルには手を出すな。もし手を出すことがあれば、この研究所ごとおまえを消す」
「……脅迫するのか、卑怯な」
 フランシスは恐怖に歪んだ表情のまま顔をこわばらせた。奥歯を強く食いしばる。喉仏が上下に動いた。額に滲んだ汗が、頬を伝って地面に落ちた。体の横で固く握りしめたこぶしは、怒りのためか、恐怖のためか、小刻みに震えていた。
「何とでも言え。本気だということだけは言っておく」
 ラウルは冷たく凍てついた瞳を見せつけてから、ゆっくりと彼の首から手を引いた。
 フランシスは何か言いたそうにしていたが、震える口からは少しも声が発せられなかった。
「フランシス、もう下がれ」
 アルフォンスが静かに声を掛けると、フランシスは悔しそうに顔をしかめながら、それでもきちんと頭を下げて所長室をあとにした。

「用件はこれだけか」
 ラウルは腕を組んで振り向き、何事もなかったかのようにさらりと尋ねた。
 アルフォンスは困惑した様子を見せながら口を開く。
「これだけというか……相談しようと思っただけなんだが……いや、しかし感謝する」
「おまえのためにやったわけではない。私の意志だ」
 ラウルは躊躇いなくきっぱりと明言した。
「そうか……」
 一方、アルフォンスは歯切れが悪かった。感謝しつつも訝っている様子である。他人に無関心だったはずのラウルが、レイチェルを助けるべく自ら積極的に行動したのだ。これまでではありえないことである。怪訝に思うのも無理はないだろう。
 ラウルは視線を落とし、小さく息をついて言う。
「助けられたはずなのに、助けられなかった……そんな結末をもう見たくないだけだ」
「それは、もしかして、君の……」
 アルフォンスはそこまで言いかけて口をつぐんだ。訊くべきではないと判断したのだろう。真面目な顔で目を細めてラウルを見つめる。その瞳にもう訝るものはなかった。
「何か礼をさせてほしい」
「礼など不要だ。おまえのためにやったわけではない、そう言ったはずだ」
 ラウルは無表情のままにべもなく受け流す。
 アルフォンスはそれでも引き下がらなかった。
「昼食くらいは奢らせてほしい」
「これから行かなければならないところがある」
 それは断る口実だった。言ったことは嘘ではないが、昼食に付き合う時間も取れないということはない。ただ、こう言えば諦めざるをえないはずである。
「そうか……それではまたいつか機会があれば付き合ってほしい」
 アルフォンスはラウルに真摯な視線を送る。
「レイチェルのこと、これからもよろしく頼む」
「……わかっている」
 ラウルは静かに声を落とした。腕を組んだまま、目を閉じて深くうつむく。長い焦茶色の髪が、カーテンのように横顔を覆い隠した。

 その日の午後、ラウルはレイチェルの家に向かった。
 今日もいつものように授業を行う。
 ラウルは真面目に指導をする。
 レイチェルも真面目に取り組む。
 ふたりとも授業中は関係のないことを口にしなかった。

「今日はここまでだ」
 ラウルはいつもの言葉で授業を区切る。しかし、いつものようにすぐに立ち上がろうとはせず、椅子に座ったままレイチェルをじっと見つめた。
「……どうしたの?」
 レイチェルはきょとんとして尋ねた。小さく首を傾げる。
「今日は来るのか?」
 ラウルは最も気になっていたことを質問した。言葉が足りないことは自覚していたが、これだけでも彼女には通じるだろう。思い浮かぶ場所は一箇所しかないはずだ。
「ええ、今日はラウルとお茶するわ」
 レイチェルは戸惑うことなく、にっこりと笑顔を浮かべて答える。
「そうか」
 ラウルは小さく相槌を打って立ち上がった。脇に教本を抱え、部屋を出て行く。
 レイチェルも嬉しそうに微笑みながらついてきた。その足どりは軽やかに弾んでいた。

 ラウルの部屋へ入ると、レイチェルは当然のようにダイニングテーブルの指定席についた。両手で頬杖をつき、ニコニコとしてラウルを見る。
「今日は何のケーキ?」
「ケーキはない」
 ラウルはぶっきらぼうに答えを返す。
「そう、残念」
 レイチェルは軽く言った。多少、落胆している様子はあったが、すぐに笑顔に戻る。もっと駄々をこねるかと思っていたので意外だった。それほど重要ではなかったのだろうか。
 ラウルは冷蔵庫を開けると、中からカップを二つ取り出した。
「それは何?」
「おまえが作れと言ったプリンだ」
 無愛想に答えると、それを机の上に置いた。きのう作ったものではない。今朝、新たに作ったものだ。彼女が来るかどうかもわからないのに、なぜ昨日の今日でまた作ってしまったのだろうか。もしかすると何か意地になっていたのかもしれない。
 レイチェルは大きな目をぱちくりさせてそれを覗き込むと、顔を上げて不思議そうに尋ねる。
「ラウルが作ってくれたの?」
「約束しただろう」
 ラウルは仏頂面で腕を組んだ。ちらりと彼女を一瞥して眉根を寄せる。まさか約束したことを忘れているのだろうか。まだほんの数日前のことだ。普通ならば覚えていて然るべきである。忘れているとすれば、よほど無関心だったことになる。
 だが、その心配は無用だった。
「ありがとう、本当に作ってくれたのね」
 レイチェルは嬉しそうに笑顔を弾けさせた。
 ラウルは小さく息をついた。
「美味いかどうかは知らん」
「ラウル、スプーンも」
 レイチェルは急かすように右手を伸ばした。
「焦るな。今から紅茶を淹れる」
 ラウルは湯を沸かしながら、ティーポットとティーカップを手早く準備した。ティーポットに茶葉を入れ、沸き立ての湯を注ぐ。白い湯気とともに、ふわりと芳醇な香りが立ち上った。蓋をしてしばらく置いてから、二つのティーカップに紅茶を注ぎ、ソーサに載せてテーブルの上に置く。スプーンもプリンの上に置いた。
 ティータイムの準備が整うと、ラウルはレイチェルの前に座った。
「それじゃあ、いただきます」
 レイチェルは待ちきれないといった様子で声を弾ませると、まず先に紅茶を手にとった。ティーカップに口をつけて傾ける。その途端、目を見開いて大きく瞬きをした。不思議そうに褐色の液体を覗き込み、ゆっくりとティーカップをソーサに戻して言う。
「……美味しい。これ、きのうまでの紅茶と違う」
「きのうではなく、おとといだろう」
 ラウルは淡々と訂正する。昨日はラウルのところには来ていない。サイファのところへ行っていたのだ。どうでもいいような些細なことだが、なぜか言わずにはいられなかった。
 しかし、レイチェルは気に留めることなく尋ねる。
「これ、どうしたの?」
「前の紅茶がなくなったから、新たに買ってきただけだ」
 ラウルは静かに答える。だが、そこにはひとつだけ嘘が混じっていた。前の紅茶はまだなくなってはいない。
「私、これ好き」
「そうか」
 にっこりと笑って言うレイチェルに、ラウルは素っ気ない相槌を打つ。だが、内心は違っていた。この紅茶は、彼女のために買ったようなものだった。気に入ってもらえなければ意味がない。といっても、頼まれたわけではない。勝手にやったことである。そうしようと思ったのは、きのうのことがあったからだろう。これもやはり意地のような気持ちが働いたせいかもしれない。
 レイチェルは続いてプリンを口にした。
「プリンも美味しい。本当にラウルが作ったの?」
「疑っているのか」
 ラウルは紅茶を手に取りながら尋ねた。
「ううん、驚いただけ」
 レイチェルは無邪気にそう答えると、ふわりと甘く柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう、私のお願いをきいてくれて」
 ラウルはそれだけで自分の行動が報われたように感じた。

「レイチェル、真面目な話がある」
「真面目な話?」
 真剣な表情で切り出したラウルに、レイチェルは小首を傾げて尋ねた。ちょうど食べ終わったプリンのカップを机の上に戻す。
 ラウルはじっと彼女の瞳を見つめて口を開いた。
「そろそろ魔導の方も学んでいかなければならない」
 今日のように、レイチェルを実験体にしようとする人間がまた現れないとも限らない。自分が事前に察知できれば潰すつもりだが、陰で計画を進める輩がいても不思議ではない。彼女は未知の領域を抱える危うい存在である。下手にいじれば、魔導を暴発させてしまうかもしれない。いざというとき、その危険性を少しでも減少させるためには、彼女に魔導の制御を学ばせる必要があるのだ。
 レイチェルは机の上で小さなこぶしを握りしめ、ゆっくりとうつむいた。
「……魔導はやりたくない」
「高度なものをやろうということではない。ただ、少なくとも制御だけは学ぶべきだと考えている」
 ラウルは落ち着いた口調で説得しようとする。
 だが、レイチェルは首を小さく横に振った。
「私には制御なんて必要ないわ」
「なぜそう思う」
 ラウルは表情を動かさず冷静に尋ねた。
「私にはほとんど魔導力がないの。ラグランジェ失格の出来損ないだって」
 レイチェルは顔を上げ、にっこりと微笑んで言った。
「……誰がそんなことを言った」
「ユリアっていう親戚のお姉さん」
 確かに、隠れた魔導力を抜きにして考えれば、彼女の魔導力はラグランジェ家の中では劣る方になるだろう。それでも、ほとんど魔導力がないとは言いすぎだ。出来損ないなどという明らかな中傷の言葉を選んでいることから考えると、彼女に何か恨みでもあるのかもしれない。ラグランジェ家の内情はよく知らないが、本家次期当主の婚約者ともなれば、妬みを受けることもあるのだろう。
「おまえにも魔導力はある。それは魔導を学んでいけばわかることだ」
「ユリアに言われたからってだけじゃなくて、自分でも力がないことはわかっているの」
 レイチェルは微笑みを保ったまま言った。
 ラウルは眉根を寄せた。
「おまえは自分のことをわかっていない」
「いいの、悲観なんてしていないから」
 レイチェルは澄んだ声で言う。
「それでも私は幸せよ。みんな私を責めたりしないもの。きっとこのままでいいの。私に魔導は必要ないと思うわ。お仕事をすることもないし……16歳になったら、私、サイファと結婚するから」
 ラウルの眉が僅かに動いた。険しい表情でレイチェルに鋭い視線を向ける。
「……おまえはそれでいいのか」
「えっ?」
 レイチェルは大きく瞬きをした。
「その結婚はおまえが望んだことなのかと訊いている」
「望んだっていうか……そう決まっているから……」
 彼女は戸惑ったような表情で首を傾げ、曖昧に答えた。
 ラウルはまっすぐ彼女を見たまま質問を続ける。
「他人に決められた人生を歩んで、それで幸せなのか」
「私はサイファが好きだし、みんな優しくしてくれるし、それでいいって思ってるんだけど……」
 レイチェルは自信のなさそうな声で言う。表情は次第に曇っていった。
「おまえの本当にやりたいことは何だ。自分で考えたことはあるのか」
 ラウルは責め立てるように畳み掛けた。
 レイチェルは困惑したように蒼い瞳を揺らした。小さな口をきゅっと結び、難しい顔でゆっくりとうつむく。机の上に置いた自分の手をじっと見つめた。
「……悪い、余計なことを言った」
 ラウルは頭に手をやり、溜息をついて詫びた。
 レイチェルとサイファの婚約については、これまでもずっと小さな棘のように心に引っかかっていた。彼女の意向など少しも考慮されずに決められたことである。口に出すことはなかったが、常に疑問には思っていた。
 彼女に不満そうな様子は見られなかった。むしろ、幸せそうに見えた。
 だが、それは、初めから他の選択肢をすべて排除されていたためだろう。生まれたときからサイファの婚約者と決められ、16歳で結婚して家庭に入るのだと言い聞かされて育った。他のことは考えも及ばなかったに違いない。言い方は悪いが洗脳のようなものだ。
 現実として、彼女がそれを受け入れるしかないことは理解している。彼女ひとりの力ではどうすることもできない問題だ。そうだとすれば、下手に自分の考えなど持たない方が幸せなのかもしれない。
 しかし、不条理な運命を当然のように受け入れている彼女を目の当たりにすると、無性に腹立たしく感じられた。それは自分の勝手な感情である。相手に押しつけてはならないものだ。
 そう、彼女をこんなふうに問い詰めるべきではなかった。
 そもそもラウルは他人には干渉しないようにしている。誰がどういう人生を送ろうと、自分には関係のないことだ。レイチェルについては、様々ないきさつもあり、特別な感情がなかったとはいわないが、それでも積極的に関わろうとはしなかった。
 だが、今日は——。
 彼女に関することにおける今日の行動は、どれも普通ではない。完全に自分の基準から外れている。いまだに過去の面影を引きずっているのだろうか。いや、そうではない。研究所でアルフォンスに言った理由は嘘ではないが、それはレイチェルに面影を重ねているということではなく、彼女を同じような目に遭わせたくないという思いである。
 ラウルは立ち上がった。冷蔵庫から小さなカップを取り出し、レイチェルの前に置く。それは、先ほどと同じプリンだった。余分に作ってあったものである。
「食べろ」
「うん……」
 レイチェルは曇った表情のまま小さく頷いた。だが、じっとしたまま手を伸ばそうとはしなかった。
「紅茶ももう一杯飲むか」
「うん……」
 ラウルは無言でレイチェルに背を向け、ヤカンに水を入れて火に掛けた。青い炎をじっと見つめる。その青の放つ強い光が、何か自分を挑発しているように感じられた。そんなふうに思うなどどうかしている——小さく溜息をつき、後ろのレイチェルに視線を向ける。
 彼女はそっとプリンに手を伸ばしていた。それをすくって口に運ぶと、ようやく少し微笑みを取り戻した。

「わかったわ」
 二個目のプリンを食べ終わり、二杯目の紅茶を飲んでいたレイチェルは、唐突に大きく瞬きをしてそう言うと、ティーカップをソーサに戻した。テーブルに腕をついて身を乗り出す。
「ラウル、私にプリンの作り方を教えて」
「……何を言っている」
 ラウルは怪訝に目を細めて言う。彼女の発言はあまりに突飛なものだった。いったい何がわかったというのだろうか。何を思ってそんなことを言い出したのだろうか。まるで見当がつかない。
「私、このプリンを食べて元気が出たの。幸せを感じたの。だから、私もこのプリンを作ってみたい、作れるようになりたいなって」
「なぜそうなる……」
「これが私のやりたいことよ。ちゃんと自分で考えたの」
 レイチェルはにっこりとして言った。
 ラウルはじっと彼女を見つめる。確かにやりたいことはあるのかと尋ねたが、そういうことをいったのではない。人生をどうするのかということを尋ねたつもりだった。しかし、確かにいきなりそんな大きなことは考えられないだろう。的外れの理解不能な結論でも、彼女が自分で考えて出したのならば、それはそれで前向きといえる。
「おまえ、何か料理をしたことがあるのか」
「お茶を淹れたこともないわ」
 レイチェルは清々しいくらいにあっけらかんと答えた。
「……やめておけ、死ぬぞ」
 ラウルは眉をひそめ、低い声で言った。
「ラウルに迷惑は掛けないわ。作り方だけ教えて。すぐに作れるようになるとは思わないから、家で何度も練習しながら頑張るつもり」
「余計に不安だ」
「ねえ、お願い。お母さまに見てもらいながらにするから」
 レイチェルは顔の前で両手を組んで懇願した。大きな蒼い瞳が小さく揺れる。
 ラウルは腕をつき、額を押さえた。それほど難しいことではないのだが、お茶すら淹れたことのない彼女には危険な作業だ。火傷でもしかねない。だが、こんなにも必死な彼女を見たのは初めてである。そこまでの強い希望であれば叶えてやるべきではないか——そんな気持ちになる。
「……絶対にひとりではやるな」
 レイチェルはぱっと顔を明るくして体を起こした。
「ありがとう、約束は絶対に守るから心配しないで」
「今日はもう遅い。あしたでいいな」
 ラウルは疲れた声でそう言うと、腕を組んで溜息をついた。
 そんなラウルの心情を知ってか知らずか、レイチェルは両手を組んで浮かれた声で言う。
「いつになるかわからないけれど、上手に作れたらラウルにも持ってくるわね」
「食べられるものしか受け付けんぞ」
「ええ、精いっぱい頑張るわ」
 レイチェルは愛くるしい笑顔で答えた。
 これも我が侭といえばそうだ。だが、今までの我が侭とは違う。単に誰かに何かをしてもらおうというのではなく、自分で考えて努力しようとしている。これまでの彼女にはなかった姿勢である。まだ恐ろしいくらいに危うく未熟だが、彼女は自分の意志を持って歩き始めたのかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのか——ラウルにはわからなかった。



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