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5. 最後の日

「もういいだろう。とうに時間は過ぎている」
「ダメだよ」
 立ち上がろうとしたラウルの手首を、サイファは指の痕がつくくらいに強く掴んで引き留めた。半ば怒ったような真剣な顔で、ラウルの瞳をじっと見つめる。

 サイファ=ヴァルデ=ラグランジェは18歳になっていた。
 子供の頃から人目を引く容姿をしていたが、成長するにつれ、ますますそれに磨きがかかっていった。すっと通った鼻筋に、甘く涼やかな目もと、形の良い薄い唇、そして、聡明さを映し出したかのような、理知的な輝きを放つ青い瞳——いずれのパーツも、全体のバランスも、文句のつけようもないくらいに端整だった。特に、真剣な表情を見せるときなどは、一分の隙もないほどだ。だが、普段の彼には、まだ少年らしい雰囲気が多分に残っている。そのあたりの落差も、人目を引く一因なのだろう。
 身長もかなり伸びていた。といっても、並外れて長身のラウルには遠く及ばない。成年男子の平均くらいである。サイファ自身はそれで不満には思っていないようだった。ラウルを抜かせないのが悔しいと言ったことはあったが、その軽い口調からいっても、あくまで冗談であり、本気ではなかったのだろう。
 そして、頭脳の方も成長し、さらに切れ味を増していた。
 家庭教師を始めて最初の3年くらいは、辛うじて教えるという体裁をとっていたが、その後は対等に議論する形へと自然に変わっていった。一方的に教えることなど、少なくともラウルが受け持っている分野においては、何もなくなってしまったのだ。乾いたスポンジのように知識を吸収し、それを新たな発想で組み立てていく。ラウルが考えもしなかった思考の飛躍を見せる。そんなサイファとの時間は、ラウルにとっても刺激の多いものだった。
 今日が、家庭教師としての最後の日である。
 辞めさせられるわけでも、辞めるわけでもない。サイファの就職が決まったためである。明日から、この国の中央行政機関のひとつである魔導省に勤めるのだ。本来であれば、高倍率の試験と適性検査、面接などにより選抜されるのだが、サイファは例外的に無試験で入省が決定したらしい。ラグランジェ家の力を持ってすれば、このくらいの特別措置は極めて容易に実現できるのだろう。
 だが、サイファの場合は、優遇されることなく競い合ったとしても、不採用になるとは考えられなかった。魔導、頭脳、いずれの面においても、彼に勝る者がいるとは思えない。問題があるとすれば性格だけだ。

 サイファは、ラウルの手首を掴んだまま、じっと濃色の瞳を見据えて言う。
「ラウルにとってはたった8年だろうけど、僕にとっては人生の半分近くなんだ」
「それがどうした」
「名残を惜しむ僕に、少しくらい付き合えってことさ」
 ラウルは煩わしげに溜息をついた。
「私は教師として雇われている。それ以外の理由で引き留められる道理はない」
 正当な言い分を論理的に説明し、冷淡に突き放す。
 だが、サイファはそれを聞いて何かを画策したらしく、思わせぶりに口の端を上げた。
「では、ラウル先生にひとつ質問だ」
 人差し指を立て、緩やかに瞬きをすると、やや上目遣いにラウルを見つめた。形のよい唇が滑らかに開く。
「明日からの僕のために、社会人として留意すべきことを助言してほしい」
 ラウルは眉をひそめた。サイファは時折、わざと「先生」と呼ぶ。ラウルが嫌がるのを知った上でのことだ。そうやって、揶揄したり、挑発したりするのだ。今回も、真面目な口調ではあるが、質問の内容からしても、からかっているとしか思えなかった。
「私にそれを訊こうというのか」
「社会性がないのは知っているが、物事を見通す目は持っているからな」
 サイファはにっこりとして言う。
 ラウルは勢いよく腕を引き、サイファの手を振りほどいた。彼をじっと睨み下ろす。
「おまえは能力のない人間を馬鹿にする傾向がある。そんなことでは軋轢を生み、孤立することになるだろう」
「わかっているよ」
 サイファはさらりと答えた。体を斜めに傾け、机に寄りかかるように頬杖をつく。
「能力がなくても権力を握っている人間は多いからね。人当たりよく近づいて、適当にご機嫌をとりつつ利用させてもらうつもりさ」
 悪びれることもなく、至極当然のように言う。
 ラウルは眉根を寄せた。
「そこまでは言っていない」
「でも、たいして違わないだろう?」
 サイファは頬杖をついたまま、僅かに首を傾げて同意を求める。
「おまえには無理だ。感情をすぐ表に出すような奴にはな」
 ラウルは冷たく言い放つ。
「ああ、それはラウルの前だけだよ」
 サイファは軽くそう言うと、頬杖を外して体を起こした。
 ラウルは怪訝に眉をひそめる。
「なぜだ」
「さあね。自分で考えたら? 何でも知ってるラウル先生」
 サイファは上目遣いで視線を送り、僅かに口もとを上げた。
 ラウルはムッとして言い返す。
「おまえは本当のことを言っていない」
「さあ、どうかな」
  サイファは膝の上でゆっくりと手を組み合わせた。
「僕はね、自分をコントロールできる人間だよ。感情とは裏腹の態度を装うことだって可能なんだ。ラグランジェ本家の人間であれば、子供といえども、そういうことを求められる場面は多い。昔から鍛えられているんだよ」
 落ち着いた口調だった。表情も急に大人びたものに変わった。鮮やかな青の瞳が、真正面からラウルを捉えている。
「まあ、持って生まれた資質もあるんだろうけどね。父上よりは世渡りが上手い自信はあるよ」
 小さく肩をすくめ、悪戯っぽさを覗かせながら付言する。
 ラウルにはサイファの本心が掴めなかった。表情をくるくると変え、意味ありげな言葉を重ねつつ、核心だけはかわして相手を翻弄する。サイファのよく使う手だ。いったい何のためにこんなことをするのかわからない。だが、そんなことは今さらどうでもよかった。
「質問には答えた。もう帰ってもいいだろう」
「まだだよ」
 サイファは再び手首を掴んで引き留めた。先ほどよりも力が込められていた。
「いい加減にしろ」
 ラウルは語調を強めて言った。
 それでもサイファは引き下がらなかった。手を緩めようとしない。それどころか、はしゃいだ様子で話し掛けてくる。
「そうだ、ラウルに何かお礼をするよ」
「礼など不要だ。報酬はもらっている」
 ラウルは冷ややかに言う。
「そうじゃなくて、8年間の僕の感謝の気持ち」
 サイファは自分の胸もとに左手を当てて微笑む。
「おまえの感謝など受ける気はない」
「何か欲しいものはあるか?」
 身勝手に話を進めるサイファを、ラウルは思いきり睨んだ。眉間に深い縦皺が刻まれる。
「少しは人の話を聞け」
「聞いているよ」
 サイファはにっこりと屈託なく笑った。
 ラウルは口を固く結び、再び力任せにサイファの手を振りほどいた。捲れた袖を下ろしながら、疲れたように溜息をつく。
「おまえは、なぜいつも無駄なことばかりに労力を使う」
「無駄なことほど楽しいんだよ。ラウルにはそういう潤いが足りないね」
 サイファは澄ました口調で言った。

 ——トン、トン。
 ふいに扉が叩かれた。会話中ならば聞き逃してしまいそうな小さな音だ。
「はい、開いているよ?」
 サイファはそちらに目をやりながら、不思議そうに返事をした。
 カチャリと音がして、遠慮がちに扉が開く。そこから、レイチェルがそろりと斜めに顔を覗かせた。後頭部に留めてある淡い水色の大きなリボンが、動きに合わせて微かに揺れる。
「ごめんなさい、まだお勉強中だったのね。遅いから心配になって来てみたの」
 サイファは満面の笑みを浮かべる。
「心配かけてごめんね。今日で家庭教師が終わりだから、ラウルと名残を惜しんでいたんだ」
「私は惜しんでなどいない」
 ラウルは横からつっけんどんに否定する。
 レイチェルはくすっと小さく笑った。
「じゃあ、下で待っているわね」
「いいよ、おいで」
 サイファは自分の膝を軽く叩いて呼んだ。
 レイチェルは部屋に入って扉を閉めると、軽い足どりでサイファのもとへ向かった。そして、示された場所、すなわち彼の膝の上に、素直に躊躇いなく腰掛けた。今日が初めてというわけではないのだろう。随分、慣れているように見えた。
 ふたりは近い距離で見つめ合い、互いににっこりと微笑んだ。
「考えてみれば、レイチェルとだって、今までみたいに頻繁には会えなくなるね」
 サイファは寂しげに言うと、小柄な体を包み込むように抱きしめた。

 レイチェル=エアリ=ラグランジェは12歳になっていた。
 誰の期待も裏切ることなく、彼女は愛らしいままに美しく成長しつつあった。白く透きとおった肌、大きな引力を秘めた蒼の瞳、形のよい小さな薄紅色の唇、柔らかく輝く金の髪——一目するだけではっと息を呑むほどだった。まるでお人形のようだ、と王宮内でも評判になっていた。
 彼女の強大な魔導力は、いまだ顕在化していない。
 8年間、サイファのところへ遊びに来る彼女をそっと見守ってきたが、危険な兆候は見られなかった。変化自体がまったくないのだ。それが良いことなのか悪いことなのか、現時点では判断はつかない。
 制御の方は上手くいっていないようだ。やはり、かなり困難であるらしい。前例がないため、その教育も手探りである。そのうえ、最近はレイチェルが魔導に関することを嫌がっているという。実際、魔導関係の教育は、今現在すべて停止していると聞いた。
 もし、このままずっと魔導力の大部分が封じられた状態ならば、確かに制御を学ぶ必要はないだろう。だが、その保証はどこにもない。それにもかかわらず、レイチェルの両親やサイファは、随分と楽観しているように見受けられた。
 しかしラウルも、楽観まではしていないが、危機感は薄れつつあった。頭では気をつけなければならないと思っていても、何事も起こらない日々が続けば、無意識のうちに油断が生じてしまう。人間とはそういうやっかいな生き物だ。

「そうだ」
 サイファは何かを思いついたようにそう言うと、レイチェルを抱き上げて椅子から立った。いわゆるお姫様だっこの状態だ。重そうにはしていない。ゆっくりと身を屈めると、彼女をラウルの膝に横向きに下ろして座らせる。
「何だ」
 ラウルはサイファに振り向いて睨んだ。
「レイチェルを見ていてくれ。着替えてくる」
 サイファはそそくさと部屋の隅へ向かった。大きめのクローゼットから、ハンガーに掛かった濃青色の服を取り出し、ベッドの上にさっと投げ置いた。そして、本当に服を脱いで着替え始めた。
 ラウルは溜息をつき、前に向き直った。
 レイチェルは片手でラウルの服を無造作に掴み、宙に浮いた足を前後に揺らしながら、幼い子供のようなあどけない表情で、虚空に視線をさまよわせていた。サイファの着替えている方には目を向けていない。たとえ振り返ったとしても、その位置からではラウルの体に遮られてしまい、不自然に身を乗り出さない限りは見られないだろう。サイファはそこまで計算して彼女をここに置いたのだろうか、とラウルはじっと考える。
 自分に向けられた視線に気がついたのか、レイチェルは瞬きをして振り向いた。柔らかい金の髪がさらりと揺れ、頭のリボンが跳ねるように弾む。そして、大きな瞳をラウルに向けると、ふわりと花が咲くように可憐な微笑みを浮かべた。その無防備で愛らしい笑顔は、これまで幾度となく目にしてきたが、この至近距離で見たのは初めてだった。
 ラウルは眉根を寄せた。
 ほとんど無意識に手が動いた。
 薄い色の前髪をゆっくりと払う。
 無垢で穢れのない蒼の双眸。
 その奥を探るように見つめる。
 何を探っているのだろう。
 何を求めているのだろう。
 何を——。
 ラウルは僅かに顔をしかめた。いくら面影が重なったとしても、別の存在であることは最初から理解していた。それでも、あの笑顔を見せられると、論理的な思考が一瞬で砕け散ってしまう。どうしても何かを期待してしまうのだ。
 レイチェルはきょとんとしていた。小さく首を傾げ、不思議そうにラウルを見つめる。
「すまなかった」
 ラウルは彼女の額から手を引いた。
 しかし、強い引力に捉えられたかのように、彼女の瞳から目を逸らすことは出来なかった。

「ちょっとお二人さん、なに見つめ合っているのさ」
 サイファは軽く咎めるようにそう言うと、腰に両手を当てて覗き込んだ。もう着替え終わったようだ。先ほどクローゼットから出していた濃青色の上下を身につけている。詰襟のホックまできっちりと締められていた。
 ラウルは彼を一瞥すると、無表情のまま口を開く。
「おまえが見てろと言った」
「うわ、ラウルも冗談を言うんだ」
 サイファは大袈裟に驚いて見せると、愉快そうに軽く声を立てて笑った。
「サイファ、それって魔導省の制服でしょう?」
 レイチェルがにっこりと微笑んで問いかけた。彼女は昔からよく王宮に遊びに来ている。魔導省の制服も見慣れているに違いない。
「そう、レイチェルに見せたくてね。どうかな?」
 サイファは両腕を広げて見せた。微かに真新しい服の匂いがした。
「ええ、とても似合っているわ」
 レイチェルは彼を見上げて言う。
「本当? 良かった、レイチェルにそう言ってもらえて」
 サイファは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ラウルは? どうこれ? 感想を聞かせてよ」
 調子に乗ってラウルにも尋ねる。答えを急かすように、体を屈めて覗き込んだ。
 だが、ラウルは目も向けずに素っ気なく言う。
「レイチェルに見せたくて着替えたのだろう」
「おまえ、拗ねているのか?」
 サイファは真顔で尋ねた。
 ラウルは無言のまま、氷のような眼差しで睨めつけた。
「冗談だよ」
 サイファはあっけらかんと言った。ラウルの視線など、まるで意に介していないようだった。たいていの人間は軽く睨むだけでも震え上がるのだが、サイファはどれほどきつく睨みつけても、いつも平然としているのだ。
「似合ってるか?」
 懲りもせず、再びにっこりとして尋ねる。
 ラウルは眉根を寄せた。じっと彼を見つめ、低い声で静かに答える。
「……ああ」
「えっ、うそ、本当? もう一度はっきり言ってよ」
 サイファは目を大きく見開き、少しうろたえながらも嬉しそうに聞き返す。
「断る」
 ラウルは今度はきっぱりと拒否した。
 それでもサイファは上機嫌だった。
「ラウルに似合ってるって言ってもらえるなんて思ってもみなかったな」
 ラウルは溜息をついた。
「これをどうにかしろ。いつまで乗せておくつもりだ」
 膝の上に座るレイチェルを指さして言う。
「乗せていると帰れないだろう?」
 サイファは片目を細め、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「………………」
 突然、ラウルはレイチェルを抱え、勢いよく立ち上がった。そのまま、大きな足どりで扉の方へ向かう。
「ちょっと、レイチェルをどうするつもり?」
 サイファはラウルの後ろ髪を掴んで引き留め、焦ったように言う。
 ラウルは僅かに振り返り、視線を流してひと睨みする。
「おまえがつまらないことをするからだ」
「悪かったよ」
 サイファはむくれながらも素直に詫びた。掴んだ髪を放す。長い焦茶色が大きな背中で揺れた。
 ラウルは前に向き直ると、レイチェルを足からそっと下ろして立たせた。ワンピースの後ろのリボンをまっすぐに直し、彼女の顔にかかった髪を軽く払う。そして、彼女にだけ届くくらいの声で「すまなかった」と言い、屈めた体を起こした。
 レイチェルは不思議そうにラウルを見上げ、瞬きをした。
「私は帰る」
 ラウルはぶっきらぼうに声を張ると、振り返りもせずに部屋を出た。
「僕らも行こう」
 サイファはレイチェルの手を引いてラウルのあとを追った。
 階段を降りたところで、ラウルは足を止めて振り返った。サイファに冷たい視線を投げて尋ねる。
「おまえ、その格好で外を歩くのか」
 サイファは魔導省の制服を着たままだった。明日から勤務することになっているが、今日はまだ魔導省の人間ではない。家の中ならともかく、外を歩くのは問題があるだろうと思った。
 だが、サイファはそう思っていないようだった。平然とした顔でしれっと答える。
「心配ないよ。何か言われたとしても謝ればすむ話だ」
 確かにそうだ。ラグランジェ本家の人間であるサイファなら、このくらいで問題になることもないのだろう。彼は、自分の立場というものを、嫌味なほど正確に把握しているのだ。ラウルはもう何も言わなかった。

 外は、風が冷たかった。
 すでに空の半分近くが紺色に塗り替えられている。沈みゆく太陽は、最後の役目を果たすかのように、地平付近を朱く鮮やかに染め上げていた。

 ラウルは医務室に戻るため、いつもの道を進んでいく。
 そのすぐ後ろを、サイファとレイチェルがついて歩いた。何度となく顔を見合わせながら、楽しそうに言葉を交わしている。主にサイファが話しかけ、レイチェルは相槌を打つといった感じだ。会話は途切れることなく続いていた。
 この状況に、ラウルは何か腑に落ちないものを感じていた。
 家庭教師が終わると、サイファは医務室に戻るラウルについてくる。それは、8年前から変わらず続いている日常だった。だが、いつもはサイファひとりだけである。レイチェルと一緒に来たことは一度もなかったのだ。それが、よりによって最終日の今日という日に、今までなかったことが起こっている。たまたま居合わせたから一緒に来た、それだけなのだろうか。それとも——。
「ラウル」
「何だ」
 サイファの不意の呼びかけに、ラウルは足を止めて振り返った。焦茶色の長髪がさらりと風に揺れる。
「今日はここでお別れだ。医務室まで送れなくて悪いな」
 サイファはにこやかに言った。声も少し浮かれているようだ。悪いと思っている雰囲気ではない。
「そうか」
 ラウルは無表情でふたりを見下ろし、感情のない声で応じた。
 サイファは何か意味ありげに、何か言いたげに、じっと彼を見つめる。
「理由はきかないのか」
「私には関係のないことだ」
 ラウルはきっぱりと言い切った。
「そう……じゃあな」
 サイファは軽く右手を上げた。レイチェルは挨拶代わりに軽い微笑みを見せた。ふたりは互いに手を取り合い、医務室とは逆方面の道を歩いていく。その後ろにはふたつの長い影が伸びていた。
 あれほどしつこく引き留めていたのが嘘のように、サイファはあっさりと去っていった。やはり最後の日は婚約者とともに過ごしたい、そう心変わりしたのだろう。おそらく、彼女を連れてきたのもそのためだ。これから彼女とともにどこかへ出かけるに違いない。
 ようやく合点がいった。
 最後の最後まで自分勝手な奴だ、とラウルは嘆息した。

「こんにちは」
 サイファは明るい声で挨拶をすると、レイチェルの手を引きながら、慣れた様子でリビングルームに入っていった。そこはレイチェルの家だったが、普段からほとんど自分の家のように当たり前に出入りしていた。
「いらっしゃい、サイファ」
 白い革張りのソファに座っていたアリスは、優しい笑顔で迎えた。まだ十分に若く美しいが、昔と比べて落ち着きは増していた。母親らしくなった、といえるかもしれない。
「お父さま、お母さま、ただいま」
 レイチェルは澄んだ綺麗な声で挨拶をした。
「おいで、レイチェル」
 アリスの隣に座っていたアルフォンスは、両手を広げてレイチェルを呼んだ。
 レイチェルは小走りで駆けていくと、彼の膝に横から飛び乗るように座り、目を閉じて広い胸にもたれかかった。満たされたような表情を見せる。
「お父さまに甘えるの、久しぶりだわ」
「最近は忙しかったからな」
 アルフォンスは優しく目を細めながら、大きな手で柔らかな頬を包み込む。
 アリスも、サイファも、その光景を微笑ましく眺めていた。
「まあ、君も座れ」
 立ったままのサイファに気がつくと、アルフォンスは右手で向かい側を示した。
 サイファは促されるまま白いソファに腰を下ろす。ギュッと革の擦れる音がした。
 サイファとアルフォンスは、年齢はだいぶ離れているが、互いのことを認め合い、尊重し合うような関係だった。サイファはアルフォンスの仕事上の手腕に一目置いていたし、アルフォンスはサイファの頭脳と魔導の資質を正確に評価していた。
「今日は休暇ですか?」
「ああ、あしたからまた忙しくなるよ」
 アルフォンスはゆったりとした口調で答える。
「いよいよ所長就任ですね。おめでとうございます」
 サイファは笑顔で祝福した。
 アルフォンスは、娘の肩を抱いたまま、背もたれに体重を預けた。複雑な表情で、軽く溜息をつく。
「もう少し早く就けると思っていたんだがな。前任者がしつこく居座ったせいで、随分と時間が掛かってしまったよ」
 アルフォンスは勤めている研究所の所長に就任することになっていた。明日からである。奇しくもサイファの就職と同じ日だった。
「サイファ、それ、魔導省の制服でしょう?」
 アリスが身を乗り出して、興味津々に尋ねる。
 サイファは両腕を広げた。
「そう、アリスとアルフォンスに見せに来たんだ。どうかな?」
「よく似合うわ。すっかり立派に見えるわね」
 アリスは胸もとで両手を組み合わせ、嬉しそうに言う。
「リカルドよりサマになっているな」
 アルフォンスは全体を眺めながら、満足げに言った。
 リカルドは数年前に、研究所から魔導省へ異動になっていた。ラグランジェ家の本家当主が研究所勤めでは格好がつかない、という前当主の判断に基づくものだった。リカルド自身は研究所の方が良かったようだが、前当主である彼の父親には逆らえなかったらしい。おかげで、随分と苦労しているようだ。制服もいまだに馴染んでいるようには見えない。
「しかし、おまえが就職とはな。月日が流れるのは早いものだ」
「もう、アルフォンスってば年寄りくさいことを言わないで」
 アリスは苦笑しながら窘めた。
「実際にもういい年なんだ。仕方ないだろう」
 アルフォンスは肩をすくめた。少し寂しげな、どこか諦めたような笑みを浮かべている。まだ20代のアリスと違い、彼はもうすぐ50に手が届こうかという年齢だ。
「いい年だなんて言っている場合ではないですよ」
 サイファはにっこり微笑んで言った。明瞭な口調で続ける。
「これから所長として研究所を牽引していかなければならないわけですし、老け込むにはまだ早すぎます」
「ああ、そうだな。まったくそのとおりだ」
 アルフォンスは気を取り直して、表情をを引き締めた。力強く頷く。
「そうだ、これから家族だけでパーティをやるんだが、おまえも一緒にどうだ」
「何のパーティですか?」
 サイファは不思議そうに尋ねた。
「アルフォンスの所長就任祝いよ。二度目だけどね」
 アリスが横から答えた。指を二本立てて肩をすくめている。
 一度目は、一週間ほど前に開催されたものだ。サイファも家族ぐるみで招待されて出席した。研究所の同僚や、親しい友人などを呼び、大規模ではないがそれなりに華やかなパーティだった。
 今度は、落ち着いて自分たち家族だけでもう一度、ということなのだろう。サイファは家族ではなかったが、すでに家族も同然の間柄である。今さら遠慮する理由はない。だが——。
「すみません、今日はちょっと……そろそろ行かなければならないので」
「あら、何か用事でもあるの?」
 アリスは瞬きをして尋ねる。
「ええ、はい」
 サイファは膝の上で軽く両手を組み合わせた。
「どうしても外せない、とても大切な用事なんです」
 ゆったりとした口調でそう言うと、穏やかに柔らかく微笑んだ。

 医務室に戻ったラウルは、不必要なまでに明るい蛍光灯の下で、古めかしい本を読んでいた。今日も患者はひとりも来ていない。それでも律儀に待機していた。それが仕事である。
「やあ、ラウル」
 何の前触れもなく扉が開き、サイファが愛敬を振りまきながら入ってきた。いまだに魔導省の制服を着たままである。
「さっきは悪かったな。寂しかったか?」
「ノックくらいしろ。何をしに来た」
 ラウルは視線だけを流し、眉をひそめて睨みつけた。まさか来るとは思っていなかったので驚いたが、声にも表情にもそれは出さなかった。
「感謝の気持ちを届けにね」
 サイファはにっこり微笑んでそう言うと、右手に持った一輪のピンクローズを差し出した。まだ咲き始めで開ききっていない状態のものだ。透明フィルムと白いリボンでラッピングされている。
 ラウルは読んでいた分厚い本を閉じた。
「不要だといったはずだ」
「ラウルの好きな花がわからなかったから、僕の好きな花にしたんだ」
 サイファは無邪気に声を弾ませた。
「花瓶はあるか?」
「そんなものはない」
「だと思ったよ」
 サイファは口もとに笑みを浮かべ、もう片方の手に持った細長い箱を差し出した。こちらにも白いリボンが掛けられている。
「開けて」
「自分で開ければいいだろう」
「開けてほしいんだよ」
 ラウルは面倒くさそうにそれを受け取ると、無造作にリボンをほどき、包装紙を乱雑に破いて箱を開けた。中に入っていたのはガラス製の一輪挿しだった。細身で飾り気がなくシンプルだが、安っぽくは見えない。
「気に入ったか?」
「不要だと言った」
 ラウルの答えは、相変わらず愛想の欠片もないものだった。
 だが、否定はしなかった。
 サイファはにっこりと微笑んだ。その一輪挿しを箱から取り出すと、洗面台で水を入れてピンクローズを挿した。それを、ラウルの机の上に置き、腰に両手を当てて満足げに言う。
「少しは机の上が潤っただろう?」
「面倒が増えた」
 ラウルは少しも表情を動かさずに言い返す。
 サイファは小さく笑った。
「時間を作って水を替えに来るよ」
「水替えよりおまえの方が面倒だ」
「来るなと言われても来るよ」
「もう帰れ」
 ラウルの声には苛立ちが滲んでいた。
「わかったよ」
 サイファは肩をすくめ、諦めたような笑みを漏らした。
「最後にひとつだけ願いを聞いてくれないか」
「何だ」
 ラウルは顔を上げた。
 サイファは急に真剣な表情になった。怜悧な光を放つ青い瞳が、まっすぐに濃色の瞳を捉える。
「ラウルの部屋を見せてほしい」
「断る」
 ラウルは即座に拒否し、溜息をつきながら腕を組んだ。このやりとりは今回が初めてではなかった。これまでにもサイファが幾度となく望み、ラウルはそのたびに断っていたのだ。いい加減、うんざりしているくらいである。
 サイファはぱっと人なつこい笑顔を見せた。軽い口調で畳み掛ける。
「ほんの少しだけでいいからさ」
「断る」
「どうしても?」
「ああ」
「卒業祝いってことで頼むよ」
「駄目だ」
 ラウルの答えは少しも揺らがなかった。
 サイファは腰に手をあて、寂しげに目を細めた。曖昧な笑みを浮かべる。
「最後まで、心を開いてくれなかったな」
「明日も来るつもりなのだろう」
 ラウルは感情を見せずに言った。
 サイファは大きく瞬きをした。それからふっと表情を緩めると、視線を落として言う。
「そうだった、最後というわけではないな」
「今日はもう帰れ」
 ラウルは腕を組んだまま素っ気なく命じる。
「ああ、そうするよ。じゃあな……また、あした」
 サイファは軽く右手を上げ、名残惜しそうにしながらも、素直に医務室を出た。引き戸がゆっくりと閉められる。磨りガラスの向こうの人影は、すぐに見えなくなった。一定のリズムを刻む靴音も、次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 医務室は静けさを取り戻した。耳に届くのは木々の微かなざわめきだけだ。
 ——愚かな奴だ。
 ラウルは机に向き直り、眉根を寄せて頬杖をついた。
 読みかけの本を片手で開き、ゆっくりパラパラと捲っていく。
 ふいに、ほのかな甘い匂いが鼻を掠めた。
 本を捲る手が止まった。
 一輪挿しのピンクローズに視線を向ける。
 触れると壊してしまいそうな、淡く優しい色の花びら。
 そこから小さな水滴が滑り落ちる。
 机の上で音もなく弾けて散った。
 ラウルは手にしていた本を閉じ、その古めかしい表紙に手を置いた。


6. 歓迎会

「歓迎会、ですか?」
 サイファは顔を上げて尋ね返した。ロッカーの扉を静かに閉める。
「そ、ウチの班でな。おまえさんが入って二週間になるだろう。ちぃと遅くなっちまったが、ここいらでガツンと親睦を深めようじゃないか」
 マックスは握った両手を腰に当てて陽気に言った。ニッと白い歯を見せる。体格のいい彼が狭い更衣室で肘を張っていると、通路はほとんど塞がれてしまう。まるで通せんぼをされているかのようだ。
 サイファはロッカーの鍵を掛けながら尋ねる。
「何をするんですか?」
「平たく言えば、飲みに行くってことさ」
「どこへですか?」
「それは行ってからのお楽しみってヤツだ」
 マックスの声は、微かに笑いを含んでいた。
「……わかりました、いいですよ」
 サイファは少し考えてから返事をした。マックスの答えが曖昧なのが気にかかったが、彼が悪い人間ではないことは、この二週間で十分に理解している。自分を陥れようという意図はないものと判断した。
「よし! 決まりだ!」
 マックスは太い腕をサイファの肩にまわし、大きな声を立てて笑った。

 サイファが魔導省で勤務するようになって三週間が過ぎていた。
 最初の一週間は、他の新人とともに、魔導省で行われている様々な仕事を見学してまわった。その後、マックスを班長とする公安局一番隊第二班に配属されたのだ。魔導不正使用の捜査・逮捕が主な仕事である。
 サイファは幹部候補生として採用された。つまり、上級官僚になるべき人材だ。だが、最初の一年は、内局ではなく公安局の実務部隊に配属されることになっている。それは、サイファだけではなく、幹部候補生全員に義務づけられていることなのだ。現場を知るための実習のようなものなのだろう。

 地平の向こう側に陽が落ち、あたりは次第に闇に飲み込まれていく。長く伸びた影も、その闇に融けるように輪郭が曖昧になっていった。
「どこへ行くんですか」
 サイファは感情を隠して尋ねた。
 班長のマックス、班員のエリック、ティムとともに、歓迎会を行う場所へと向かっているのだが、進めば進むほど寂れていく街並みに、次第に不安が湧き上がってきた。このようなところに、まともな店があるとはとても思えない。
「もう少し先だな。そう心配するなって」
 マックスは白い歯を見せた。
 サイファは横目を流して口を開く。
「あらかじめ言っておきますけど、いかがわしい店なら帰りますよ」
「いかがわしい店? それってどんな店だ?」
「女性がお酒を作ってくれるような店です」
 マックスは面食らったようにきょとんとした。だが、次の瞬間、弾けるように豪快に笑い出した。後ろを歩くエリックとティムも、つられて笑い出す。
「どうして笑うんですか」
 サイファはマックスを軽く睨んだ。
「いやぁ、可愛いなぁ、おぼっちゃんは」
「おぼっちゃんはやめていただけますか」
 そう言ってもマックスはまだ笑い続けていた。ひとしきり笑うと、サイファの肩に腕をまわし、ニッと口の端を上げて顔を寄せる。
「その定義で言うならな、実はちょっといかがわしいってことになる」
「……僕、帰ります」
 サイファは低い声で言った。
「まあまあ、店を見てからでも遅くないだろう」
 マックスはサイファの頭をガシガシと乱暴に撫でまわす。鮮やかな金髪がぐしゃぐしゃになった。
「いかがわしい店だったら本当に帰りますよ」
 サイファはマックスの手をゆっくりとどけた。頭を軽く左右に振る。乱れた髪はすぐに元に戻った。

 一行はさらに狭い路地裏へ入っていった。すでにあたりに人気はない。気味が悪いくらいに静かだ。サイファは周囲を見まわし、無意識に警戒心を強める。
「この下だ」
 マックスが地下へと続く細い階段を指差した。その先には飾り気のないドアがひとつだけある。とても店には見えない。物置といった方が説得力がある。
「看板、出ていませんよ」
「一見さんお断りの店だからな、あえて出してないんだ」
 一応、筋の通った話ではあるが、そこまで隠すのはやはり妙だ、とサイファは思う。
「何というお店ですか?」
「え?」
「お店の名前です」
「何だったかな……おまえら知ってるか?」
 マックスは後ろのふたりに振り返って尋ねる。
「さあ、記憶にはありませんね」
「気にしたこともなかったな」
 ふたりの答えは素っ気ないものだった。
「俺たちは隠れ家って呼んでるがな」
 マックスはサイファに振り返り、陽気に声を弾ませる。
 サイファは眉根を寄せた。その呼び方を聞いて、不審に思う気持ちがますます大きくなった。

 マックスが先頭をきって階段を降りていく。そのあとにサイファ、エリック、ティムと続く。階段が狭いため一列にならざるを得ない。体格のいいマックスとティムは、それでも窮屈そうである。擦れ違うだけの余裕はない。
「ちーっす」
 挨拶だか何だかわからない言葉を発しながら、マックスはドアノブをまわして扉を開いた。サイファの上腕を掴み、強引に中に連れ込む。
「いらっしゃい」
 狭く薄暗い店内には、数人が座れるくらいの小さなカウンターと、ふたつの小さなテーブル席があった。カウンターには、長い黒髪の妖艶な美人が座っていた。頬杖をつき、物憂げにこちらを見つめている。この店の女主人なのだろう。客はひとりもいないようだ。
「帰ります」
 サイファは踵を返そうとしたが、マックスは腕を掴んだまま放さない。
「まあ待て」
 ニヤリと笑いながら引き留める。
 サイファは眉を寄せて反論する。
「見るからにいかがわしいじゃないですか」
「いかがわしいって私のことかしら?」
 女主人が気怠そうな声で尋ねる。サイファが振り向くと、彼女は朱い唇に微かな笑みをのせた。
「いえ……申しわけありません」
 サイファは彼女を窺いつつ頭を下げた。店の主人を前にして失礼だった、と素直に反省する。
「入口で騒いでないで、とりあえず中に入りなさい。取って食いはしないわ」
「ま、観念するんだな」
 マックスは笑いながら、サイファの背中をバシッと叩いた。エリックとティムも、後ろで軽く笑っていた。

「いらっしゃい、マックス!」
 サイファたちがテーブル席につこうとしたとき、奥から少女が飛び出してきた。長い銀色の髪をなびかせながら、笑顔でマックスのもとに駆け寄る。女主人とは対照的に、明るく溌剌とした子だ。
「おう、久しぶりだな!」
 マックスは大きな手で彼女の頭をクシャクシャと撫でた。その様子は、まるで叔父と姪のように微笑ましく見えた。だが、実際の関係はわからない。「いらっしゃい」と発言していたところからすると、彼女はこの店の関係者に違いない。明らかに未成年だが、ここに雇われているのだろうか——サイファは怪訝な眼差しを彼女に送る。
 その視線に気がついたのか、少女は瞬きをして振り向いた。濃い蒼色の瞳が、サイファを興味深げに捉える。
「ねえ、この人は?」
「そうだ、先に紹介しておこう」
 マックスはサイファの首に腕をまわして引き寄せた。頭に拳骨をグリグリと押し当てる。
「こいつはウチの新人のサイファ。カウンターにいるのは女主人のフェイ。で、このお嬢ちゃんが、フェイの娘のアルティナちゃん」
 娘か……。
 サイファは少し安堵した。
「よろしくね!」
 アルティナはまっすぐ腕を伸ばし、右手を差し出した。
 サイファはふっと口もとを緩める。
「よろしくお願いします」
 穏やかな声でそう言うと、彼女と握手を交わした。
 この店に対するいかがわしいという評価は、このとき、サイファの中からほとんど消え去った。ふと、女主人のフェイの方に目を向けたが、彼女はもうカウンターにはいなかった。
 マックスはサイファの肩を抱いたまま、ニコニコして話を続ける。
「こいつ、実はラグランジェ本家の跡取りなんだ」
「ラグランジェ?」
 アルティナは首を傾げた。
「知らないの? 魔導の名門一族だよ」
 既に座っているエリックが、横から補足する。
「お金持ちってこと?」
「すっごいぞ、半端ねぇぞ、とんでもねぇぞ」
 マックスは力を込めて畳み掛ける。どれも抽象的な言葉だ。ラグランジェ家のことをそれほど詳しく知っているわけではないのだろう。
「へぇ……じゃあ、私、玉の輿ねらっちゃおうかなっ」
 アルティナは両手を組み合わせ、はしゃいだ声で言う。
「残念ながら、そりゃあ無理なんだな」
 マックスは白い歯を見せる。
「どうして?」
 アルティナは口をとがらせて尋ねる。
「こいつには既に婚約者がいるんだよ、な?」
「ええ」
 サイファは微笑みながら頷いた。
「それがもうめちゃくちゃ可愛い子なんだぞ!」
 今まで大人しかったティムが、急に興奮したように割り込んできた。なぜか両手を挙げている。椅子が倒れそうになり、慌てて座り直した。
 エリックはくすくす笑うと、サイファに視線を送って尋ねる。
「確か、アルティナちゃんと同じくらいの年じゃなかった?」
「12歳です」
「やだ、本当に同じ年」
 アルティナは上半身を引いて一歩後ずさった。眉をひそめて怪訝にサイファを見つめる。
「……ロリコン?」
「違いますよ。彼女が生まれたときに、親どうしが決めたんです」
「うそっ、まだそんな前時代的なことやってるの?!」
 昔は親同士が決めた婚姻というのもわりとあったらしいが、今はほとんどが本人同士の意思で決めている。このようなことを伝統的に行っているのはラグランジェ家くらいだろう。王家でも、今はもう少し自由だ。
「自分で結婚する人も決められないなんて不幸ね……」
 アルティナは顔を曇らせ、同情するように呟いた。
 サイファは目を細め、くすりと笑う。
「そうでもないですよ」
「そりゃそうだろう! あんな可愛い子で文句を言ったらバチが当たるぞ! 呪われるぞ! てか、俺が呪ってやる!!」
 ティムは右手をぐっと握りしめ、鼻息荒く力説する。
「へぇ、そんなに可愛いんだ」
「まあ、ティムがそう言いたくなる気持ちもわかるかな。アルティナちゃんは美人系だけど、あの子は可愛い系だね。お人形さんみたいだよ」
 エリックはにこやかに言った。
「人形……?」
 アルティナは、隅に放置して埃をかぶっている操り人形に目を向けた。
「違う、違う。そうじゃないって!」
 ティムは立てた手を大きく左右に振り、むきになって否定する。
「可愛らしい少女人形だよ。ひらひらの服を着たやつ。色白で目がぱっちり、ほっぺはピンク色でぷくっとしててさ。とにかくものすごく可愛いんだぞ!」
「知らないからわかんない」
 アルティナはティムの熱弁を冷たく流した。サイファに振り向き尋ねる。
「ねぇ、写真は持ってないの?」
「持ってないですよ」
「えー、本当? お財布とかに入れてるんじゃないの?」
「写真なんかに頼らなくても、目を閉じれば姿が思い浮かべられますから」
 サイファはすまして言う。
 だが、マックスはニヤニヤして、太い腕で首を絞めつつ覗き込んできた。
「本当は持ってたくせに、なに格好つけてんだよ」
「ちょっと、苦しいですって」
 サイファは顔をしかめて訴えた。
 マックスは笑いながら腕を外すと、アルティナに向き直って言う。
「この前、写真を取り上げられてみんなに回されてから、持ってこなくなっちまったんだよ。クールに見えて意外と照れ屋なんだコイツ」
「違いますよ。彼女に好奇の目を向けられるのが耐えられなかっただけです」
 それは嘘ではなかった。レイチェルの写真を見てにやついたり、あれこれ好き勝手なことを言う連中が許せなかった。そのときは何とか耐えたが、今度そんなことがあったら、抑えが利かなくなりそうだと思ったのだ。
「いつまで喋ってるの? アルティナ」
 いつのまにかフェイが近くまで来ていた。光沢のある黒のロングドレスを身に纏い、ビールの入ったジョッキと簡単なつまみを載せた丸盆を両手で持っている。
「奥へ行って手伝ってちょうだい」
「はーい」
 アルティナは軽い調子で返事をすると、軽い足どりでカウンターの奥へ駆けていった。
 フェイは盆の上のものを、優雅な所作で、手際よく狭いテーブルに移した。
「ごゆっくり」
 目を細めてゆったりと言うと、空になった盆を脇に抱え、颯爽と踵を返して戻っていく。艶やかな黒髪が、背中で緩やかに揺れた。

「えー、それでは……」
 マックスはジョッキを持って立ち上がった。サイファ、エリック、ティムは、座ったままでジョッキを手にしている。
「サイファ、一年という短い期間だが仲良くやろうや。俺たちは、おまえを心から歓迎する」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 サイファはにこやかに微笑んで応える。
「それじゃ、乾杯っ!」
 マックスは勢いよく高々とジョッキを掲げた。泡が波を打ち、こぼれ落ちる。
「乾杯!」
 残りの三人は、マックスよりも上品にジョッキを持ち上げた。

 こうして、ささやかな宴が始まった。

「今日は俺の奢りだ。じゃんじゃん飲め!」
 マックスは豪快に笑いながら、サイファの肩に腕をまわした。マックスのジョッキは既に空になっている。先ほど大声でフェイに追加を頼んでいた。
「それほど強くないので、あまり勧めないでください」
 その言葉を裏付けるかのように、サイファのジョッキの中身は、まだほとんど減っていない。
「なんだ、何でもできるスーパーおぼっちゃんにも不得手なものはあったのか」
 マックスは妙に嬉しそうだった。まるで子供のような笑顔を見せている。
「おぼっちゃんはやめてください」
「だけど、おぼっちゃんには違いねぇだろ。親にぶたれたこともないんだろう?」
「ありませんよ。家庭教師には何度か殺されかけましたけどね」
 サイファは涼やかな表情でさらりと言った。嘘ではないが、少しばかり誇張していた。死ぬかと思ったことはあったが、死にかけたことはない。
「殺され……って……」
 ティムは真に受けたらしく、言葉をなくし唖然とした。
 エリックはハッとしてジョッキを置いた。
「そうか、君の家庭教師ってラウルだったよな?」
「そうですよ」
 サイファは素っ気なく答える。
「ラウルって?」
 ティムは誰にともなく尋ねる。
「王宮医師のデカいヤツだよ。睨んだだけで人を殺せるって噂の。聞いたことないのか?」
 マックスはよくわからない身振り手振りを交えながら言う。
「さあ……」
 ティムは奇妙な表情で首を傾げた。
 サイファもそんな噂は聞いたことがなかった。睨んだだけで人を殺せるなど、まるで神話の世界だ。とんでもない噂が一人歩きしているな、と可笑しくなった。下を向いてこっそりと笑う。
「まあ、人を殺せるってのは大袈裟だろうけどな。そのくらいの迫力はあるぞ。一度、腕の怪我を治療してもらったことがあるんだが、ビビリすぎて腕の痛みを忘れちまったくらいだ」
「班長、ビビリすぎですよ……」
 屈強なマックスの情けない話を聞き、ティムは苦笑いした。
「おまえはラウルを知らないから、そんなことが言えるんだ」
 マックスは眉根を寄せて腕を組む。
「しかし、あとで冷静になって思い返してみれば、医師としては結構まともだった気がするな。言うことはきついが間違ってないし、治療も的確だったよ」
「自分も診てもらったことがありますけど、そんなに恐ろしくはなかったですよ。確かに無愛想でとっつきにくいですし、積極的に行こうとは思いませんけど」
 エリックも同調する。
「サイファ、教え子のおまえから見たらどうなんだ?」
 マックスは、黙って聞いていたサイファに話を振った。
 サイファは満面の笑みで答える。
「内緒です」
「何だ、気になるなオイ!」
 マックスは机に片手を置き、身を乗り出した。
「もしかして、意外な一面とか知ってるんじゃないのか?」
「話の種になるような面白いことはなかったですよ」
「もったいつけんな! ケチくせぇぞ!」
 エリックはふたりのやりとりを聞いて微笑んだ。
「ラウルのこと、嫌いではないんだね」
「好きですよ」
 サイファはさらりと答えた。
「はぁ?」
 マックスは口をあんぐりと開けた。太い眉を寄せ、訝しげに尋ねる。
「殺されかけたのにか?」
「ええ」
 サイファは軽く言う。
 マックスは腕を組んだ。何とも言えない微妙な表情で首を傾げる。
「おまえ、ちょっとズレた奴だと思っていたが、ちょっとどころじゃなく、かなりズレてるな……」
「そうですか?」
 サイファはとぼけたようにそう言うと、涼しい顔でナッツを口に運んだ。

 それから二時間ほどが過ぎた。
 その間、他の客は二人しか来ていない。それぞれふらりとやってきて、カウンターで静かにフェイと話しながら軽く飲み、帰っていった。二人とも魔導省の制服を身に着けていた。今は他の客はひとりもいない。
 サイファたちのテーブルは、最初から変わらず賑やかなままだった。陽気なマックスが、途切れることなく場を盛り上げるのだ。これも一種の才能といえる。主にたわいもない雑談だったが、だからこそ何も考えずに笑えるのだろう。

「サイファ、ちょっとこっちに来ない?」
 カウンターからアルティナが呼んだ。両手で頬杖をつき、ニコニコとしている。
「アルティナちゃんからのご指名だぞ! 行ってこいや!」
 マックスは野太い声を響かせると、残り少ないビールのグラスをサイファに押しつけ、大きな手で肩をバンと叩いた。
 サイファは椅子から落ちそうになり、よろけながら立ち上がる。ビールは辛うじてこぼれなかった。マックスを一瞥すると、小さく息をつき、カウンターに向かって歩き出した。

「こんにちは、アルティナちゃん」
 サイファはにっこり微笑んで、彼女の前の席に座った。グラスをカウンターに置く。
 アルティナはムッとして口をとがらせた。
「ちゃん付けはやめてくれる?」
「他の人はそう呼んでいたけど?」
 サイファは顔を斜めにして頬杖をついた。
「サイファとはそんなに年が違わないじゃない。バカにされてるみたいに感じるわ」
「じゃあ、アルティナさん」
「アルティナさん? アルティナさんか……それ、いいかも」
「気に入ったんですか?」
「ちょっとくすぐったいけど、でも、うん、それでお願いね!」
 アルティナは上機嫌で声を弾ませた。
「わかりました」
 サイファは笑顔で応じた。だが、内心では少し驚く。まさかこれを気に入るとは思わなかった。本当はからかうつもりで言ったのだ。しかし、彼女が望むのであれば、そう呼ぶことに異存はない。今は少し奇妙に感じるが、そのうちに慣れるだろう。
「お酒、何か作ってあげよっか。ウィスキーでいい?」
「そうですね、ロックでお願いします」
「了解!」
 アルティナは手際よくウィスキーのロックを作る。随分と手慣れているようだ。いつもこうやって店を手伝っているのだろう。
「はい、どうぞ」
 作りたてのウィスキーをサイファに差し出し、古い方のグラスを引っ込める。
「じゃんじゃん飲んでね!」
「じゃんじゃんは無理です。僕はそんなに強くないんですよ」
「えーっ、せっかくの金づるだと思ったのに」
 アルティナのあまりに率直な物言いに、サイファはくすっと吹き出した。
「お金、どうしたいんですか?」
「この店、だいぶ古びてるでしょう? 修復したいところが結構あるの」
「お母さん思いなんですね……お父さんは?」
 サイファはウィスキーに口をつける。
「いないわ」
 アルティナはすぐに答えた。屈託のない笑顔で続ける。
「私、お父さん知らないの。お母さんはいわゆる未婚の母ってやつ」
「そうですか」
 サイファは表情を変えずに相槌だけを打った。カウンターの隅にいるフェイにちらりと目を向ける。彼女は無表情でジョッキにビールを注いでいた。話が聞こえていないということは、おそらくないだろう。
「ねぇ、この店、気に入った?」
 アルティナは両腕をついて身を乗り出した。目をくりっとさせて、サイファに顔を近づける。艶のある銀色の髪が、肩からさらりと落ちた。
「ええ」
 サイファは微笑んで答える。
「じゃあ、また来てくれる?」
「ときどきはね」
「毎日来るって言ってくれないの?」
 アルティナは首を傾げながらサイファを覗き込み、不満げに口をとがらせた。
「そんなに暇じゃないですよ」
 サイファは落ち着いた口調で返した。ウィスキーグラスに手を掛ける。
「一日おきなら来てくれる?」
「それも無理です」
「三日に一回は?」
「夜勤もあるんですよ」
「じゃあ、せめて一週間に一回!」
 アルティナは片目を瞑り、指を一本立てた。
 サイファは急にくすくすと笑い出した。口もとに左手を添える。
「え? なに……?」
 アルティナは困惑して顔を曇らせた。
 サイファは息をついて笑いを止めると、視線を上げて言う。
「いえ、すみません。元気だなと思って」
「あ、バカにしてるわね?!」
 アルティナは腰に両手を当て、眉を吊り上げた。
「そうじゃないです。こういう子がレイチェルの友達になってくれたら、って考えてたんですよ」
「レイチェル? 誰?」
「僕の婚約者」
 サイファは頬杖をつき、口もとを緩めた。目を細めて彼女を見る。
「アルティナさんとなら、気が合いそうな気がする」
「いいところのお嬢さまなんでしょう? どうかなぁ……」
「正反対の方が、かえって上手くいくことが多いですよ」
「どうせ、私はお嬢さまとは正反対ですよーだ」
 アルティナは拗ねたようにそう言うと、つんと顔をそむけて頬を膨らせた。しかし、ふと寂しげな表情を覗かせると、サイファに視線を流してぽつりと尋ねる。
「お嬢さま、もしかして友達いないの?」
「まわりに同じ年頃の子がいないんだ。学校にも行ってないしね」
 サイファはカウンターに肘をつき、顔の前で両手を組み合わせる。
「今までは僕がずっと一緒に遊んできたけど、就職してからは、今までのようにはいかなくてね。寂しい思いをしているんじゃないかな」
「大切に思ってるんだ、婚約者のこと」
 アルティナは優しい声で言った。
「大切ですよ、誰よりもね」
「あれ? でも、親どうしが決めた婚約じゃなかったっけ?」
「僕はとても運がいい、ってことになるかな」
 サイファは柔らかい表情で言った。
 アルティナはにこりとした。立てた人差し指を口もとに当て、斜め上に視線を流す。
「こういうときは『ごちそうさま』って言えばいいのかな?」
「え? どうしてですか?」
 サイファは大きく瞬きをして、不思議そうに尋ね返した。

「おう、飲んでるかー?」
 赤ら顔のマックスが、ジョッキを片手にやってきた。足どりはしっかりとしている。それほど酔いはまわっていないようだ。ジョッキをカウンターの上に置き、サイファの隣にどっしりと座る。細身の椅子がギシリと軋んだ。
「飲んでますよ」
 サイファはウィスキーグラスを軽く爪で弾いて答える。だが、顔色も口調も、まったく普段のままだった。
「おまえ、まだ全然しらふだろう」
「あしたも仕事があるじゃないですか」
「あしたになれば抜けるさ」
 マックスは半分くらい残っていたビールを一気に呷った。そして、空になったジョッキを掲げて言う。
「アルティナちゃん、おかわりね」
「はーい」
 アルティナは愛想良く返事をして、空のジョッキを受け取った。

「実はな……」
 アルティナが二人から離れると、マックスは急に真面目な声で切り出した。カウンターに両腕を置いて寄りかかり、思い出したように小さく笑う。
「おまえの配属がウチに決まって、最初に書類を見せられたとき、とんでもねぇ嫌なヤツだなって思ったんだ」
「そんな気はしてました」
 サイファは僅かに微笑んだ。
「ラグランジェの、それも本家の一人息子なんていうだろう? 写真を見たら、案の定、苦労なんざまったく知らないような綺麗な顔をしてやがる。おまけに、試験もなしに入ってきたっていうじゃねぇか。なんだそりゃって思ったよ」
「そう思って当然ですよね」
 顔のことはともかく、無試験の特別措置で入省したことについては、反発があるだろうと予想はしていた。サイファ自身でさえ不穏当だと感じるくらいである。だが、前当主である祖父が進めたことであり、逆らうことはできなかった。ラグランジェ家の力を誇示し、威厳を強めたかったのだろう。
「今までも何度か幹部候補生を預かってきたが、おまえさんみたいな大物は初めてだったし、どうしたものかと頭を抱えていたわけさ」
「班長でも悩むことがあるんですね」
「おまえ、バカにしてるな? こう見えて、俺の心はガラス細工のように繊細なんだぞ」
 マックスは眉をひそめ、自分の厚い胸板に、節くれ立った右手を当てて主張する。
「そうですか」
 サイファは笑顔で軽く受け流した。
 マックスはカウンターに肘をつき、小さく息を吐いた。顔を大きく上げて、僅かに目を細める。
「だがな、実際のところは想像とえらく違ってて驚いたよ。確かに育ちの良さそうなおぼっちゃんだが、仕事に関しては新人とは思えないくらい使えるじゃねぇか、って。初めてのときでも驚くくらい落ち着いてたしな。ビビって腰が引けるか、興奮してまわりが見えなくなるか、緊張してガチガチになるか、ってあたりが普通なんだが」
「多少は緊張していましたよ」
「多少緊張しているくらいがちょうどいいんだよ」
 マックスはウィスキーグラスに手を伸ばした。サイファの手もとに置いてある、サイファが飲んでいたものだ。それを左右に振って揺らすと、一口だけ流し込んだ。
「それに素直だ」
「えっ?」
 サイファは話の繋がりが理解できずに聞き返す。
 マックスは、グラスをサイファの手に戻して言う。
「指示通りに動いてくれる」
「班長の指示が的確なので従っているだけです。間違っていると思えば反論します」
「ああ、もちろんそれは構わない。問題なのは、正しいとわかっていても従わない奴だ。幹部候補生にはときどきいるんだよ」
「そんなことをしても何のメリットもないですね」
 サイファは淡々と言う。
「プライドが邪魔をするんだよ。現場の人間なんかに指示されたくないって思ってるのさ」
「それはプライドとはいいません。単なる思い上がりです」
 マックスはニヤリと笑い、サイファに目を向けた。
「俺はおまえをけっこう気に入っている。ちょっと変わった奴だがな」
「僕もこの班のことをけっこう気に入ってますよ」
 サイファも、にっこりと笑って言葉を返した。
 マックスはふっと息を漏らす。
「おまえが上に行っても、俺たち現場のことを忘れないでいてくれたら有り難いんだがな」
「努力します」
 サイファは笑顔のままで軽く言う。
「ま、そこまでは期待しないさ」
 マックスは背筋を伸ばしながら、頭の後ろで手を組み、胸を張って大きく呼吸をした。

「はい、おまちどうさま」
 アルティナが元気よく姿を現すと、マックスの前にジョッキを置いた。ビールがなみなみと注がれている。ビールを持ってくるだけにしては時間が掛かりすぎた。サイファたちの会話に割り込めなかったのかもしれない。
「おう、ありがとな」
 マックスは待ってましたとばかりにジョッキを手に取り、半分ほどを一気に飲んだ。これで何杯目かはわからないが、最初からずっとこの勢いで、ほとんど途切れることなく飲み続けている。相当な量になることは間違いない。それでも意識ははっきりしているようだ。
「強いんですね」
「まあ、そこそこな」
 マックスはサイファの肩に腕をのせ、ニッと白い歯を見せた。少し体重を掛けて寄りかかる。
「しかし、おまえ間近で見ても綺麗な顔してるなぁ」
「唐突に何ですか」
 サイファは僅かに眉をひそめた。少し顔をそむける。
「女でも十分に通用するぞ。潜入捜査に使えるかもな」
 マックスは値踏みするように横顔をまじまじと見つめ、独り言のように呟く。
「使えませんよ。無理に決まってるでしょう」
 サイファは即座に却下した。少し呆れたような声音が混じった。
「可能性を闇雲に否定するのは良くないな。やってみなきゃあ、わからん」
「そんなに顔を近づけられると酒くさいんですけど」
 マックスの腕はずっとサイファの肩にのったままだった。かなり重い。顔も近い位置にある。
「つれないこと言うなよ。せっかく親睦を深めようとしてるのに」
「普通に会話するだけでいいじゃないですか」
「何をいう、スキンシップも大切だぞ?」
「班長は普段からスキンシップ過多だと思いますけどね」
 そのとき、不意に生温い感触が頬に当たった。
「……えっ?!」
 サイファはぎょっとして仰け反るように身を引いた。その勢いで椅子からずり落ち、バランスを崩して足がもつれ、背中から床に倒れ込んだ。視線の先には天井の梁があった。
 それを見て、アルティナは腹を抱えてケラケラ笑った。
「大丈夫?」
 テーブル席の方にいたエリックも、笑いを噛み殺している。隣のティムは下を向いて大きな背中を揺らしている。やはり笑っているに違いない。
 サイファは手の甲で頬を拭いながら立ち上がり、あからさまに不機嫌な表情を見せた。背中も軽く払う。自分では汚れているのかわからなかったが、脱いでまで確かめる気にはなれなかった。
「いやぁ、可愛い反応だなぁ。驚いたか?」
 マックスは嬉しそうに尋ねる。
「驚きましたよ」
 サイファは静かな口調で、しかし腹立たしげに言う。
 マックスはニッと口の端を吊り上げた。
「素直に認めるのはいいことだ。そうでなくちゃ、成長しない」
「ええ、もう二度と同じ手は通用しませんよ」
 サイファは先ほどまで自分が座っていた席の隣、つまりマックスからひとつ離れて座った。カウンターの上で両手を組み合わせる。
 おまえは想定外の事柄に対する即応力が不足している——ラウルから繰り返し注意されていたことである。それにもかかわらず、よりによって、こんなつまらないことで露呈させてしまうなど、言いようもないくらいに悔しい。
「あれはただの冗談だから、気にしない方がいいよ」
 エリックは苦笑しながら、気遣わしげにフォローした。
「反応を楽しんでるだけなんだ。酔うとときどきやるみたいだね。僕も何度かされたことあるし」
「本気だったら怖いですよ」
 サイファはぼそりと言い返す。冗談であることくらい言われずともわかっていた。だからこそ、まんまとそれに嵌ってしまった自分を情けなく思うのだ。
「いや、本気だぞ。本気の愛情表現だ!」
 マックスはまるでサイファの神経を逆撫でするかのようにそう言い、愉快そうにワハハと笑った。
「班長、俺はされたことないですよ?」
 ティムは自分を指差し、寂しげに尋ねる。
「俺より体格のいい奴は守備範囲外なんだよ」
「そんなぁ……」
「あなたたちの方が、僕よりよっぽど変わってますよ」
 サイファは肘をついて額を押さえ、大きく溜息をついた。金の髪がさらりと頬にかかる。みっともないところを晒しすぎた——そんな自己嫌悪が湧き上がる。だが、それと同時に、なぜだか笑いも込み上げてきた。

「サイファ!」
 静かな路地裏に響く高い声。
 帰ろうと外に出たサイファたちを追いかけ、アルティナが階段を一段とばしで駆け上がってきた。癖のない銀色の髪が、月の光を浴びて神秘的な輝きを放つ。
「本当にまた来てね」
 彼女は後ろで手を組み、にっこりと笑いかけて言う。
「そのうちね」
 サイファも笑顔を返す。
「おいおい、サイファだけかよ。俺たちには言ってくれないのかよ」
 ティムが呆れたように抗議する。
「だってサイファが一番の金づるなんだもの。大切にしなくちゃ」
 アルティナは人差し指を立て、悪戯っぽく小首を傾げる。
 マックスは彼女の頭に、大きな手をぽんとのせた。片目を瞑って言う。
「俺がまた連れてくるぜ。無理やり引っ張ってでもな」
 アルティナはパッと顔を輝かせた。
「本当?! じゃあ約束ね、マックス!」
「おう! 任せとけ!」
 マックスは笑いながら答えた。
「じゃあな」
 アルティナの頭から手を離し、大きく手を上げると、月明かりがほのかに照らす道を進んでいく。サイファたちも彼女に手を振り、マックスのあとについて歩いた。
 アルティナは、彼らの姿が見えなくなるまで、大きく両手を振って見送った。

「どうだった? いかがわしい店は」
 サイファと並んで歩きながら、マックスは濃紺の空を見上げて尋ねる。
「店は悪くなかったですね。ただ、客の一部がいかがわしかったようですけど」
 サイファは無表情で淡々と答える。
「お? それは俺のことか?」
 マックスはニヤリとして嬉しそうに言うと、サイファの肩に腕をまわそうとした。だが、それは豪快に空振った。サイファが屈んでかわし、素早く後ろに逃げたのだ。涼しい顔でエリックの隣に立っている。
「おまえ、反応が過敏になってるぞ」
 マックスは眉根を寄せて振り返り、低い声で言った。
 サイファはくすりと笑った。
「でも、楽しかったですよ。いろいろと新鮮な経験でした」
「それ本心か? どうもおまえは考えてることが読みにくいんだよなぁ」
 マックスは腕を組み、眉をひそめて大きく首を捻った。
 サイファはとびきりの笑みを浮かべた。形の良い唇から言葉が紡がれる。
「信じる、信じないはご自由に」

 闇夜の空には無数の星が散りばめられていた。ひとつひとつ、異なる大きさと異なる色で煌めく。地上にもたらされた微かな光は、静寂の街をほんのりと柔らかく彩った。


7. 砕けた幻想

「家庭教師だと?」
「そう、レイチェルのな」
 アルフォンスは真面目な顔で頷いた。大きな体にはいささか頼りない小さな丸椅子に腰掛け、正面のラウルをまっすぐに見据えている。
「サイファの家庭教師を終えたばかりで申し訳ないが、引き受けてはもらえないだろうか」
 ラウルは眉根を寄せ、横の机に肘をついた。
「魔導の制御を学ばせるということか」
「それも目的のひとつだ」
 アルフォンスは目を逸らすことなく冷静に答える。
「ただ、今は魔導を嫌がっている状態でな。無理強いはしたくない。いずれ説得をして学ばせるつもりだが、とりあえずは、あの子を見守りつつ、普通に勉強を教えてやってほしい」
「おまえに説得などできるのか。娘には甘いのだろう」
 ラウルは冷ややかに言う。アルフォンスが娘を溺愛していることは知っていた。サイファはよくその話をしていたし、ラウル自身もそういう光景を目撃したことがある。魔導の教育を止めているのも、娘の我が侭を聞き入れてのことだろう。そもそも「無理強いをしたくない」ということが、甘いとしか言いようがない。
 アルフォンスは眉間に皺を寄せ、表情を険しくした。
「確かに難しいとは思うが、やらねばなるまい。それがあの子のためだからな。そのときは君にも手伝ってもらうかもしれない。もちろん、家庭教師を引き受けてくれたらの話だが」
「……いいだろう」
 ラウルは表情を動かさず、低い声で言った。
 断ることなど初めから考えていなかった。レイチェルを見守ることは、彼自身の望みでもあったのだ。ただ、微かな不安が胸にわだかまった。彼女の傍で心を乱さずにいられるだろうか、と——。
 外で木々がざわめいた。クリーム色のカーテンがふわりと丸みを作り、大きく波を打つ。そこから滑り込んだ新鮮な風が、消毒液の匂いを攫い、焦茶色の長髪を舞い上げた。

 数日後、ラウルはレイチェルの家へやってきた。
 非常識に大きなラグランジェ本家と比べると格段に小さいが、その家も豪邸と呼んで差し支えないくらいのものだった。新しくはないが、単に古びているという印象ではなく、価値のある年代物といった風格がある。
 玄関で呼び鈴を鳴らし、しばらく待つと、重厚な扉がゆっくりと開いた。
「待っていたよ、来てくれてありがとう」
 アルフォンスは穏やかな笑顔を浮かべ、歓迎の意を表した。平日だが休暇を取ったと聞いている。律儀な男だ、とラウルは思う。
「紹介しておこう、妻のアリスだ」
「初めまして、アリス=ローズマリー=ラグランジェです」
 アルフォンスの背後に控えていた彼女は、一歩前に出ると、ドレスの裾を持ち上げ、軽く膝を曲げた。長い金色の髪がさらりと揺れる。まだ若く可愛らしい印象ではあるが、レイチェルとはそれほど似ていない。そのことに、ラウルは無意識に安堵する。
「ウチは壊さないでもらえるとありがたいんだけど」
 アリスは上目遣いで悪戯っぽく言った。サイファの家庭教師のときに、ラグランジェ本家の屋敷を壊したことを知っているのだろう。本気で頼んでいるのか、からかっているだけなのか、彼女の本心はわからない。
「今のところ壊すような予定はない」
「ずっとそんな予定は立てないでね」
 愛想のないラウルに臆することなく、アリスは明るく答えてくすくすと笑った。
 アルフォンスは二人の間に入り、両の手のひらを上に向けて提案する。
「どうだろう、家庭教師を始める前に、我々だけで少しお茶でも」
「気遣いは不要だ」
 ラウルはぶっきらぼうに言った。
「では、レイチェルのところへ案内しよう」
 アルフォンスは落ち着いた声で、すぐに話を切り替えた。右手で幅の広い階段を示すと、そこを静かに上がってラウルを先導した。

 コンコン——。
 アルフォンスは二階の突き当たりにある白い扉をノックした。
「レイチェル、新しい先生が来たよ」
「はい」
 中から可憐な声が聞こえた。しばらくして、カチャリと扉が開き、レイチェルが姿を現した。薄水色のドレスを身につけている。アルフォンスの後ろに立っているラウルを見上げると、驚いたように大きく目を見開いた。新しい家庭教師が誰であるかは、聞かされていなかったらしい。
「サイファのところで何度も会っているな? 王宮医師のラウルだ」
「私の家庭教師?」
「そうだよ。おまえ以外にはいないだろう」
 アルフォンスは優しく笑いながら言った。娘の頭に大きな手をのせる。
「言うことを聞いて、よく勉強しなさい。あまり困らせるんじゃないぞ」
「はい、お父さま」
 レイチェルはよく通る澄んだ声で答えた。
 アルフォンスは嬉しそうに顔を綻ばせる。彼のこのような表情は、娘の前でしか見られないだろう。ラウルに振り返ると、急に神妙な顔になる。
「では、よろしく頼む」
「わかった」
 ラウルは短く返事をした。
「どうぞ」
 レイチェルはにっこりと微笑むと、扉を大きく開き、ラウルを中へ招き入れた。

 彼女の部屋は広かった。だが、豪華という印象はあまりなく、拍子抜けするくらい簡素ですっきりとしていた。置いてあるものに無駄がないのである。人形やぬいぐるみといったものは見当たらず、家具類のほとんどは飾り気のないものだった。カーテンも、勉強机も、本棚も、さすがに質は良さそうだが、形状的にはごく普通のものである。普通でないものは、天蓋のついたベッドくらいだった。これだけはとても華やかで人目を惹いていた。だが、浮いているというわけではない。むしろ、この広い部屋には、ほどよく釣り合っているように感じられた。
「まずはこれをやれ。おまえの力を知っておきたい」
 ラウルは紙の束を取り出し、レイチェルの前の机に置いた。それはテスト問題だった。分量はかなり多い。彼女がこれまで勉強してきた内容をアルフォンスから聞いて、ラウルが作ったものである。これで今の実力を量ることが出来るだろう。けっこう頭がいい、とアルフォンスは言っていたが、親バカの言うことでは当てにならない。
 レイチェルは「はい」と答え、素直に机に向かって解き始めた。ときどき考え込みながら、紙に鉛筆を走らせていく。静寂の中で、筆記の軽い音だけが淡々と響いた。
 ラウルは彼女の斜め後ろの椅子に座り、腕を組んでその様子を見つめた。身じろぎもせず、ずっと目を逸らすことなく視線を送る。そうする必要はない。他のことをして時間を潰せばいいのだ。実際、サイファのときはそうしていた。だが、今は、彼女に重なる面影が、自分の目を惹いて離さなかった。
 レイチェルは不意に手を止めた。ゆっくりと振り向き、不思議そうにラウルを窺う。
「どうした」
 ラウルが尋ねると、彼女は曖昧に目を伏せ、首を横に振った。金の髪がさらさらと揺れ、後頭部のリボンも小さく揺れる。何か言いたげな表情を抑え込むと、無言のまま、再び机に向かって手を動かし始めた。
 彼女は自分に向けられた視線が気になったのだろう。じっと見つめられては無理もないことだ。そして、その相手を訝しく思う気持ちもあったのかもしれない。
 ラウルは椅子から立ち上がった。彼女に背を向けて窓際に向かう。レースのカーテンをさっと開け、窓枠に寄りかかりながら腕を組むと、ガラス越しに空を見上げた。流れゆく雲を眺めながら、小さく溜息をつく。こうでもしないと彼女から目を離すことが出来なかった。

「終わったわ」
 レイチェルはそう言って鉛筆を置いた。窓際のラウルに駆け寄り、何枚もの解答用紙を両手で差し出す。
 ラウルは無表情でそれを受け取った。
「今日はここまでだ。明日、これを採点してくる」
「はい」
 レイチェルは明るく返事をして微笑んだ。
 ラウルは眉根を寄せた。手にした紙束をまとめ、部屋を出ようと足早に扉に向かう。その後ろから軽い足音が追いかけてきた。
「送っていくわ」
「来なくていい」
 ラウルは振り返りもせず、冷たくあしらった。だが、レイチェルは素早く前に回り込むと、後ろで手を組み、ラウルを見上げてにっこりと笑った。やめるつもりはなさそうだった。

 外はまだ日が高かった。澄みきった青い空から、強めの陽射しが降り注いでいる。予定では夕方頃までかかるはずだったが、レイチェルは随分と短い時間で終えた。だが、感心するのはまだ早い。きちんと解けているかどうかは、採点しなければわからないのだ。
 前を見ながら嬉しそうに歩くレイチェルに、ラウルはふと疑問に思ったことを尋ねる。
「他の家庭教師も送っていたのか」
「ううん、ラウルだけよ」
 なぜだ、と続けて問いたかったが、一瞬の躊躇いが口に出すことを止まらせた。だが——。
「ラウルは特別だから」
 レイチェルは愛くるしい笑みを浮かべて言った。まるで心を読んだかのような、絶妙のタイミングだった。
 ラウルは僅かに眉を寄せ、視線だけを彼女に流す。
「特別?」
「サイファがそう言っていたの」
 レイチェルは無邪気に答えた。
 ラウルはそれで合点がいった。彼女のこの行動に深い意味などない。サイファのやっていたことを真似ているだけなのだ。それが正しいと信じ込んでいるのだろう。他人との接触があまりない彼女にとって、サイファの影響は想像以上に大きいようだ。
「サイファとはどんな話をしていたの?」
 レイチェルはラウルを見上げ、顔を斜めにして尋ねた。頭のリボンがひょこりと弾む。
「あいつが勝手に喋っていただけだ」
「じゃあ、私が喋らなくちゃいけないのね」
「無理に喋らなくてもいい」
 ラウルは前を向いたまま、淡々と答えを返した。
 その隣で、レイチェルは柔らかい微笑みを見せた。

 暖かい陽だまりの中を、ふたりは並んで歩いた。他には誰の姿も見えない。そこは通路にはなっていないため、普段からあまり人通りがないのだ。両側には高低の木々が立ち並び、視界は豊富な緑に彩られている。時折、草の匂いが鼻を掠めた。
 ふたりとも何も喋らなかった。無言のまま足を進める。だが、そこに張り詰めたものはなかった。少なくとも、ラウルの方は、心地よい穏やかな空気を感じていた。

 建物内に入り、無機質な廊下を歩いていく。途中で何人かとすれ違った。その多くが、遠慮がちに、あるいは物珍しそうに、ラウルたちを窺っていた。化け物との噂もある王宮医師と、魔導の名門一族の愛らしい娘——確かに奇妙な取り合わせなのだろう。
 しかし、レイチェルには、まわりの視線を意識している様子は見られなかった。実際はどうなのかわからない。気がついているのか、ついていないのか、それさえラウルには判別がつかなかった。嫌な思いをしていなければいいが、と願うような気持ちになる。
「ここだ」
 ラウルは医務室の前で足を止めた。隣のレイチェルを軽く一瞥する。そして、カチャリと鍵を開け、ガラガラと扉を引いた。
「今日はありがとう」
 レイチェルの澄んだ声が背後から聞こえた。
 ラウルはそのままの体勢で、顔だけ僅かに振り返る。
「あしたもよろしくね」
 彼女はそう言って、綿菓子のようなふわりと甘い笑顔を浮かべた。
 ラウルは眉を寄せ、目を細めた。
「……ひとりで帰れるか」
「王宮にはよく来ているから大丈夫」
 レイチェルは微笑んだまま答えた。そして、小さく手を振ると、まっすぐな廊下を歩いていった。後頭部の大きな薄水色のリボンが、その足どりに合わせて揺れた。
 ラウルは扉に手を掛けたまま、彼女の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。

 その夜、ラウルは自室でテストの採点をした。結構な分量があるため時間がかかる。一通り終えた頃には、すでに深夜といってもいい時間に差し掛かっていた。
 息をついて立ち上がると、部屋の明かりを消し、カーテンと窓を開け放った。濃紺色の空を見上げる。その片隅には、下弦の月がひっそりと浮かび、淡く儚い光を放っていた。

 翌日、ラウルは再びレイチェルの部屋に来ていた。もちろん、家庭教師としてである。
 きのう採点したテストを机の上に広げると、軽く溜息をついて腕を組む。
「習ったところは良く出来ているが、習っていないところは面白いくらいに空欄だな」
「だって習っていないんだもの」
 レイチェルは当然のように言った。
 ラウルは呆れたように彼女を見下ろす。
「応用という言葉を知っているか」
 だが、レイチェルは何も答えず、にこっと笑顔を返すだけだった。
 ラウルは頭に右手をやり、深く溜息をついた。
 決して出来が悪いわけではない。習っている部分に関しては、ほぼ完璧に近かった。アルフォンスの言うとおり、頭は良い方なのだろう。だが、未知の問題となると、途端に考えもせずに放棄している。それは、もしかすると、性格によるものなのかもしれない。
「これから授業を始める。数学、物理学、魔導理論、どれか選べ」
「数学」
 レイチェルは即答した。
「数学が好きなのか」
 ラウルが問いかけると、彼女は首を横に振った。
「魔導よりはましということか」
「……すごい。ラウルって何でもわかるのね」
 レイチェルは目を大きく見開き、感心したように言った。
 ラウルは無表情で口を開く。
「魔導もそのうちにやる。理論も実技もな」
 実技、という言葉を耳にした途端、レイチェルの顔に小さな怯えの色が浮かんだ。無言のまま、逃げるように視線を逸らせて目を伏せる。
 ラウルは眉根を寄せて言う。
「おまえを守るために必要なことだ」
 レイチェルは戸惑ったような表情で、上目遣いにラウルを窺った。僅かに首を傾げる。自分が危ういくらいに強大な魔導力を抱えていることなど、彼女自身は何も知らない。その意味を理解できなくても当然である。
 だが、ラウルは答えを示さなかった。
「今日は数学だ」
「……はい」
 レイチェルはそう返事をしてから、ゆっくりと微笑んだ。

 途中で一度だけ休憩を挟み、3時間ほど授業を行った。
 レイチェルは手のかからない教え子だった。言われたことには「はい」と返事をして素直に従う。サイファとは大違いである。もっとも、比較対象がサイファでは、ほとんど誰でも「手のかからない子」ということになってしまう。
「今日はここまでだ」
 ラウルはそう言うと、束ねた教本を脇に抱えて部屋を出た。
 当然のように、今日もレイチェルがついてきた。軽い駆け足でラウルに追いつくと、横に並んで歩き、にっこりと笑顔を見せる。
 ラウルはもう何も言わなかった。

 今日も空は青かった。
 言葉もなく、静かな道を並んで歩く。
 彼女に振り向けば、無条件で笑顔を返してくれる。
 ただ、それだけのこと。
 ラウルの歩幅は、いつもより心持ち小さかった。

「ラウル、どこへ行くの?」
 医務室とは違う方向へと足を進めるラウルに、レイチェルは顔を上げて尋ねた。不安そうにはしていない。ただ、不思議そうな顔をしていた。
「別の道を行くだけだ」
 ラウルは素っ気なく答えた。
 レイチェルは疑う様子もなく、嬉しそうな笑顔を見せた。

 ふたりは、王宮内の中庭のひとつに足を踏み入れた。さほど広くはないが、隅々まで手入れが行き届いており、清々しく居心地の良い空間だった。豊かな緑に囲まれたその中央には、透明な水を湛える小さな噴水が佇んでいる。派手な演出はなく、単純に水を噴き上げるだけのものだ。それでも、爽やかな涼しさを感じさせるには十分だった。
 ラウルは噴水の脇で足を止めた。ここは、かつての懐かしい場所にとてもよく似ている。それを知っていてここに来た。知っていたからこそ連れて来たのだ、彼女を……。口を結んで眉根を寄せると、ゆっくりとレイチェルに振り向いた。一瞬遅れて、彼女は花が咲いたようにふわりと微笑んだ。その背後では、噴き上げた水と揺れる水面が、太陽の光を受けてキラキラと煌めいていた。色彩を持って目の前に甦った、色褪せたはずの遥か遠い追憶——意識は過去を浮遊する。
 しかし、それは長くは続かなかった。
 不意に右手に感じた小さな温もりに、はっと現実に引き戻される。
 噴水の奏でる和音が、急に大きく聞こえた。
 レイチェルの小さな左手は、ラウルの右手に重ねられていた。
 まっすぐに向けられた蒼の瞳には、ラウルの姿が映っていた。
 その目が苦しげに細められる。
 胸を衝かれ、息が止まった。
 小さな温もりはそっと離れていった。
 ラウルは追い縋るように手を上げかけて、止めた。奥歯を噛み締めてうつむく。そのまま背を向けると、再び医務室を目指して歩き出した。レイチェルも後ろから黙ってついてきた。

 翌日も、ラウルは家庭教師に向かった。
「今日も来てくれて嬉しいわ」
 レイチェルは微笑んで迎え入れた。いつもと変わらない愛らしい笑顔だった。
 ラウルは怪訝な視線を彼女に向けた。昨日のことがあったにもかかわらず、今日の彼女はあまりにも普段どおりである。もしかしたら、あの柔らかな温もりは夢だったのかもしれない、という疑念さえ頭をもたげる。
 しかし、冷静に考えれば、手に触れてきただけである。ほんの些細なことだ。特別な意味などないのかもしれない。ぼんやりしていた自分を呼んだだけかもしれない——そう思おうとするが、どうしても腑に落ちない。あのときの彼女の表情が、脳裏に焼きついて離れないのだ。
「きのうの続き?」
 先に椅子に座ったレイチェルが尋ねる。
「……ああ」
 ラウルも椅子に座った。机の上に置いた教本を開き、目的の箇所を探して捲っていく。だが、なかなか見つけられない。行ったり来たりとページを繰る。
 そのとき、凛とした声が、彼を不意打ちにする。
「ラウルは、いつも、誰を見ているの?」
 ドクン、とラウルの心臓が大きく打った。
 止まった指先から、するりと紙が滑り抜けた。
 ゆっくりと顔を上げ、その声の主を窺う。
 彼女は、今までに見たこともない真剣な表情をしていた。大きな蒼の瞳をまっすぐにラウルに向けている。その奥には、とても12歳とは思えないほどの鋭さが潜んでいた。
「ラウルは私を見ていない。小さいときからずっとそうだった」
「何を言っているのかわからん」
 ラウルはそう答えるのが精一杯だった。
 レイチェルは濃色の瞳をじっと探るように見つめる。
「私を通して遠くの誰かを見ている。そうでしょう?」
 ラウルの鼓動は次第に速く強くなる。指先が冷たくなっていく。あまりに唐突で、心の準備が何も出来ていなかった。否定すべきなのか、認めるべきなのか、それさえ決めかねている。頭が混乱して何も考えられない。
「その人は私と似ているの?」
 レイチェルは胸もとに手をあて、首を傾げた。金色の髪がさらりと流れる。レースのカーテン越しに広がる柔らかな光が、背後から彼女をほんのりと照らす。
「私に何を求めているの?」
 静かなその声が、ラウルの胸に深く突き刺さる。もう目を合わせることなどできない。何一つ答えを返さないまま、固く口を閉ざしてうつむいた。長い焦茶色の髪が、その表情を覆い隠す。
 レイチェルはゆっくりと呼吸をした。
「ラウル、私は……」
「もうやめろ」
 ラウルは唸るような声で彼女を遮った。椅子を揺らして立ち上がると、大きな足どりで扉に向かう。
「ラウル、待って!」
 レイチェルは呼び止めながら追いかける。
「来るな!」
 腹の底から絞り出した凄みのある重低音。
 背後の足音が止まった。
 ラウルは勢いよく振り切るように部屋をあとにする。長い髪が大きくなびいた。
 レイチェルは追いかけてこなかった。

 ラウルはまっすぐ医務室に戻った。乱暴に扉を開け、医務室を突っ切り、そのまま自室へと入る。バタンと叩きつけるように扉を閉めると、そこに背中をつけてもたれかかった。深くうなだれ、体の横でこぶしを強く握りしめる。
 幻想は、砕けた。彼女自身によって砕かれた。
 何もかも見透かしたあの蒼い瞳。
 思い返すだけで体の芯から震えがくる。
 長らく忘れていた感情——。
 そう……、これは、恐怖だ。
 腰から体を折り曲げ、額を掴むように押さえる。
 指先が小刻みに震えていた。

 その夜、ラウルはアルフォンスに連絡を入れ、レイチェルの家庭教師を断った。王宮医師の仕事が忙しくなった、と嘘の理由を告げる。彼にも嘘だということはわかっていただろう。だが、何も言わずに了承してくれた。
 ——私は、逃げた。
 カーテンを閉め切った真っ暗な寝室で、ラウルはベッドに腰掛け、ずっと、ずっとうなだれていた。


8. 託すことのできるただ一人

 サイファが魔導省に入省して二年が過ぎた。
 最初の一年に義務づけられている公安局での勤務を無事に終え、今は内局で勤務している。現場を離れれば少しは楽になるかと思っていたが、忙しさという点ではあまり変わりはなかった。
 仕事に対する大きな不服はない。もちろん、まったくないわけではなかったが、いずれも些細なことであり、我慢できないほどではない。どこに勤めていても、多少は問題が出てくるものだろう。
 同僚とも上司とも上手くいっている。公安局のときほど密な付き合いをしているわけではないが、仕事は円滑に進められており、職場の雰囲気は良い方だろう。若手の意見もきちんと聞いてもらえ、尊重もされている。もっとも、サイファの場合は、ラグランジェの名が影響しているという可能性は否めない。しかし、サイファはその利点も欠点も理解しており、それを受け入れる覚悟はとうに出来ていた。
 そんな彼の、ただひとつといってもいい不満——それは、レイチェルと会う時間が思うように作れないことだった。

 その日は、早くに仕事が終わった。空はまだ青い。
 サイファは自宅に戻ることなく、まっすぐレイチェルの家に向かっていた。もしかすると、まだ家庭教師の時間かもしれないが、そのときは家の中で待たせてもらうつもりだった。一刻も早くレイチェルに会いたい、その一心での行動である。自宅に戻ることなど考えられなかった。
 彼女の家の前に差し掛かったところで、反対側から駆け足で近づいてくる小さな少年に気がついた。彼の方もサイファに気がついたらしく、「あっ」と小さく声を上げて足を止めた。眉間に皺を寄せ、嫌悪感を露わにして睨みつけてくる。

 この少年の名前はレオナルド。レイチェルの家の隣に住む、6歳の子供である。柔らかそうな金の髪と、鮮やかな青の瞳——そう、彼もまたラグランジェ家の人間なのだ。そのこともあってか、最近、彼女のところへ毎日のように遊びに来ていると聞く。彼の両親も自由にさせているようだ。同じ一族という気安さと安心感があるのだろう。いい遊び友達が出来たとでも思っているのかもしれない。
 それだけなら良かった。だが——。
 レオナルドはレイチェルに並々ならぬ好意を抱いていた。平たくいえば、恋をしているということになるだろう。本人がそう言ったわけではないが、見ていれば誰でもわかるくらいに態度があからさまだった。彼女といるときだけ表情が違う。必要以上に甘えたり、抱きついたりして触れ合おうとする。そのうえ、一人前に独占欲まで見せている。
 幼い憧れといってしまえばそれまでだ。
 だが、サイファは、それを微笑ましいものとして受け止めることなど出来なかった。レイチェルは自分の婚約者である。レオナルドも、ラグランジェ家の人間である以上、そのくらいのことは知っているはずだ。それにもかかわらず、彼女に独占欲を抱くなど、図々しいとしかいいようがない。
 だいたい、レオナルドという名前からして気に入らなかった。
 レイチェルが生まれる前、アリスは子供の名前についてこう言っていた。
 ——男の子ならレオナルド、女の子ならレイチェルにするつもり。
 だから、どうというわけではない。それだけのことだ。だが、何か運命めいたものを感じてしまい、どうにも面白くなかった。まるで言いがかりのような嫉妬である。自分でも大人げないことはわかっていた。それでも、心の中に渦巻く黒い気持ちは止めようがなかった。
 もちろん、サイファは理性のある大人だ。極力、それを表に出さないようにしていた。他の人の見ている前では——。

「何だ、レオナルド」
 サイファは冷ややかに見下ろし、突き放した口調で言った。
「おまえなんかに用はない。レイチェルのところへ行くんだ」
 レオナルドは敵対心を剥き出しにして答えた。だが、内心びくついていることは、手に取るようにわかった。サイファがラグランジェ本家の次期当主であることも、そのサイファに良く思われていないことも、幼いなりに理解しているのだろう。
「悪いが今日は帰ってくれ。彼女は僕と過ごす」
「おまえが勝手に決めるな!」
 冷淡に告げるサイファに、レオナルドは精一杯、強気に言い返す。
 サイファは無視して門をくぐろうとした。
 そのとき、扉が重たい音を立てて開き、中から知らない男性、続いてレイチェルが出てきた。ふたりはその場で足を止め、微笑みを交わした。
 サイファはとっさに塀に身を隠した。同時に、レオナルドを自分のもとに引き寄せた。抗議の声を上げようとした彼の口を、しっかりと手で塞ぎ、じたばたと手足を動かして抵抗する小さな体を、反対側の手で拘束する。そして、見つからないようにそっと首を伸ばし、玄関の様子を窺った。

「先生、今日はありがとうございました」
 レイチェルはにっこりと笑って言った。
 先生と呼ばれた気弱そうな青年は、照れたように頭を掻きながら顔を赤らめた。
「あのさ、今度、よかったら僕の研究所に遊びに来ないかな? 今日の授業で出てきた実験とかも、実際に見せてあげたいんだ。きっと、君が見ても面白いものだと思うから……」
「本当? 嬉しい。私も見てみたいと思っていたの」
 レイチェルは胸の前で両手を組み合わせ、無邪気に顔を綻ばせた。

 サイファはレオナルドの拘束を解くと、何食わぬ顔で門をくぐり、玄関のふたりに近づいていった。レオナルドも仏頂面でトコトコとついてくる。追い返したい気持ちはあったが、今はそんなことに時間を割いている余裕はない。
「やあ、レイチェル」
「サイファ!」
 レイチェルはパッと顔を輝かせて振り向いた。長い金色の髪が柔らかく舞い上がる。まるで彼女のまわりだけ明るい光に包まれたかのように感じた。
「レオナルドも一緒なのね」
「一緒に来たわけじゃない」
 自分に向けられた微笑みに頬を染めながら、レオナルドは言葉足らずな反論をする。そして、邪魔するようにふたりの間に割って入ると、レイチェルの白い手をぎゅっと握り、甘えるように体を寄せた。その合間に、ちらりとサイファに挑戦的な視線を投げつける。
 サイファは殴り倒したい衝動に駆られた。しかし、彼は理性のある大人である。その衝動を抑えるのは当然のこと、その感情すら悟られないように、一瞬たりとも穏やかな笑顔を崩すことはなかった。
 そのまま、見知らぬ青年に振り向いて言う。
「新しい家庭教師の先生ですね。レイチェルのこと、よろしくお願いします」
「あ、はい……えっと、君は……」
 家庭教師はとまどいながらサイファを見た。まだ年若いにもかかわらず、保護者気取りでこんなことを言う男はいったい誰なのか、見当もつかないのだろう。
 サイファはにっこりと微笑み、胸もとに手をあてて頭を下げた。
「失礼しました。僕は、レイチェルの婚約者の、サイファ=ヴァルデ=ラグランジェです」
「あ、君が……」
 家庭教師は口ごもって、顔を少しこわばらせた。その反応からすると、何か良からぬ噂を聞いているに違いない。それを聞き出すのは造作もないことだが、サイファはあえて触れることなく流した。噂についてはおおよその見当がついている。いずれそれが単なる噂でないことを、彼は思い知ることになるだろう。
「レイチェル、アリスかアルフォンスはいるかな?」
「お父さまも、お母さまもいるわ」
「少し話をしてくるから待っていてね。あとで一緒にお茶を飲もう」
「ええ、楽しみにしているわ」
 レイチェルは愛らしく微笑んだ。その白い手は、まだレオナルドと繋がっていた。
 サイファは小さな少年に冷たい一瞥を送り、家の中へ入っていった。

「あの家庭教師を辞めさせてください」
「またかね」
 アルフォンスは呆れたように言った。ソファに大きな体を預け、腕を組んで溜息をつく。
「確かこれで5人目だぞ。君が辞めさせろと言ったのは」
「彼はレイチェルに良からぬ感情を抱いています」
 サイファは正面からアルフォンスを見据え、真剣に訴えた。
「真面目な好青年を選んだつもりなんだがな」
「彼のことをすべて知っているわけではないでしょう。裏の顔がないとも限りません。先ほど、レイチェルを連れ出そうと画策しているところを目撃しました」
 アルフォンスは再び溜息をついた。
「娘を大事にしてくれるのは有り難いと思っている。だがな、サイファ。近頃のおまえは神経質すぎるぞ。もう少し鷹揚に構えてもいいのではないか? 遠くない将来、ラグランジェ家を背負って立つ身でもあるんだ。余裕を持って見守るくらいでなければな」
「確かに、僕の早合点という可能性もあります」
 サイファは冷静にそれを認めてから、一呼吸おいて続ける。
「でも、そうではないかもしれない。何かが起こってからでは遅いんです。取り返しがつかないんですよ。アルフォンス、あなたには僕との結婚までレイチェルを守る義務があるはずだ」
「確かに、それはそうなんだが……」
 アルフォンスはゆっくりと腕を組み、眉間に皺を寄せて考え込む。彼もレイチェルを大切に思う気持ちは同じである。そこまで言われては反論が難しいのだろう。諦めたように大きく息をついて言う。
「わかった。彼には辞めてもらうことにしよう」
「でも、どうするの? レイチェルの家庭教師」
 隣に座っていたアリスが、疑問を投げかけた。
「サイファが次々に辞めさせちゃうから、いいかげん困ってるんだけど」
 茶目っ気のある口調でそう言うと、肩をすくめて苦笑する。
「サイファ、おまえ、推薦したい人物はいるか?」
 アルフォンスは真剣な面持ちで尋ねた。
 サイファは少し考えてから答える。
「ラウルなら信頼できます。いや、ラウルしかいないと思います」
 それは本心からの言葉だった。頭脳でラウルに勝る人物はほとんどいない。魔導においても、レイチェルが持つ本来の魔導力を押さえ込めるのはラウルだけだ。そして、何より、彼が邪な感情を抱くなどとは考えられない。なぜもっと早くに気づいて提案できなかったのかと悔やまれた。
 だが、ふたりの反応は芳しくなかった。示し合わせたかのように表情が曇る。
 それでも、サイファは何とかして説得しようとした。
「愛想はありませんが、信用に足る人物です」
「そういうことじゃなくて、ね……」
 アリスは中途半端に言葉を濁し、アルフォンスと顔を見合わせた。ふたりとも微妙に困ったような表情をしている。何か言いにくいことを抱えてそうな雰囲気だ。
「どういうことなんですか?」
 サイファは怪訝に眉を寄せ、やや強い調子で問いただす。
 アリスは観念したらしく、肩をすくめて、二年前のことについて説明を始めた。

 ガラガラガラ——。
 サイファはいつもより乱暴に扉を開き、ラウルの医務室に入った。今日も誰ひとりとして患者はいない。
「ノックくらいしろと何度言えばわかる」
 机に向かっていたラウルは、本を読む手を止め、サイファを横目で睨んだ。
 だが、サイファはまるで動じることなく、ラウルの後ろのパイプベッドに腰を下ろした。清潔な白いシーツに皺が走る。膝の上で手を組み合わせると、焦茶色の髪が流れる背中をじっと見つめた。
「聞いたよ、三日坊主の話」
「何のことだ」
「レイチェルの家庭教師」
 本のページを繰ろうとしていたラウルの動きが止まった。
 サイファは眉をひそめて続ける。
「どういうつもりだ。こんな重大なことを黙っているなんて」
「おまえに報告する義務はないだろう」
 ラウルは背中を向けたまま答える。
「僕はレイチェルの婚約者だぞ」
 サイファは自分の声が感情的になっていたことに気がついた。深く呼吸をして気を静める。終わってしまったことを、ただ怒りまかせに問い詰めたところで、何にもなりはしない。ここへ来たのは、大人げない拗ねた文句を言うためではない。建設的な話し合いをするためだ。
「辞めた本当の理由は何なんだ?」
 今度は落ち着いた口調で問いかける。だが、答えは返ってこない。小さく溜息をつき、少し呆れたように言い添える。
「王宮医師の仕事が忙しくなったなんて、誰がそれを信じるんだ。嘘をつくにしても、もっとましな嘘をつけよ」
 実際、アリスもアルフォンスも信じてはいなかった。レイチェルが無神経なことを言って怒らせたのではないか、というのがアリスの推測である。
 だが、サイファはどうにも腑に落ちなかった。
 ラウルは一度引き受けたことを簡単に投げ出したりはしない。サイファの家庭教師を8年も務めたことで実証済みである。8年の間に数え切れないほど怒らせてきたが、それでもラウルが辞めると言い出したことは一度もなかった。いったいどんな言葉をぶつければ、そこまで至らせることが出来るというのか。まるで想像もつかない。
「あのときは忙しかった」
「じゃあ、今は忙しくないんだな?」
 ラウルは警戒しているのか、口をつぐみ、答えようとはしなかった。何を答えても逆襲に遭うとわかっているのだろう。だが、答えなくても同じことである。
 サイファは広い背中を見つめ、真剣に言う。
「ラウル、もう一度、レイチェルの家庭教師を頼む」
「断る」
 ラウルは振り返りもせず拒絶した。
 サイファは軽い軋み音とともにパイプベッドから立ち上がった。険しい表情で腕を組み、椅子に座った後ろ姿を見下ろす。
「理由は何だ」
「家庭教師など他にいくらでもいる」
「それは理由ではなく詭弁だ。ただの家庭教師なら確かにいくらでもいる。だが、レイチェルを安心して預けられるのは、おまえしかいないんだ。彼女の魔導のことも忘れたわけではないだろう。今のところ何の変化もないが、今後もそうだとは限らない。おまえならわかっているはずだ。そのうえで見捨てるつもりか」
 ラウルは反論の言葉を返さなかった。僅かに顔をうつむける。長髪が肩から滑り落ちた。
「他に理由がないなら引き受けてもらう」
 サイファは強い口調で言った。ほとんど命令だった。
「……あいつの方が嫌がる」
 ラウルは小さくぽつりと言った。
 ——レイチェルの方が、ラウルを嫌がる……?
 サイファは怪訝に眉根を寄せた。
 ふたりの間にいったい何があったというのだろうか。単にレイチェルがラウルを怒らせただけ、ということではなさそうだ。だが、それを尋ねたところで答えてくれるとは思えない。なおさら態度を硬化させるだけだ。
 ラウルの隣に足を進め、机に片手をつく。そして、おもむろに腰をかがめると、その横顔を覗き込んだ。濃色の瞳をじっと探るように見つめる。
「レイチェルが嫌がってなければ引き受けるんだな?」
 息がかかるくらいの距離で、静かに尋ねかけた。
 ラウルは何も答えなかった。サイファを無視し、無表情で本に目を落としている。だが、視線は少しも動いていない。指先だけがほんの僅かに震えた。
「待っていろ」
 サイファはそう言い残して、医務室を出て行った。

 逸る気持ちを抑えられず、自然と早足になっていく。
 サイファが門をくぐると、庭の方から澄んだ声が聞こえてきた。レイチェルの声だった。芝生をさくりと踏みしめながら、その姿を探してあたりを見まわす。
 彼女はすぐに見つかった。薄水色の大きなリボンを揺らしながら、花壇の片隅にしゃがんでいた。隣にはレオナルドもいる。ふたりは何か話をしつつ、花を植えているようだ。レオナルドも、そしてレイチェルも、楽しそうに笑顔を浮かべている。
 サイファは足を止め、小さく呼吸をした。
「レイチェル、ちょっといいかな」
 背後から声を掛けると、レイチェルは少し驚いたように振り返った。だが、すぐにそれは笑顔に変わる。スコップを置いて立ち上がり、体ごとサイファに向き直ると、愛らしく微笑んで小首を傾げた。
「今からふたりだけで話がしたいんだ」
「お茶をするんじゃなかったの?」
「そうだったね、お茶を飲みながら話そうか」
 サイファは彼女の頭に優しく手を置いた。そして、小さく丸まったレオナルドの背中に声を落とす。
「そういうわけだ、レオナルド。君はもう帰るんだ」
「おまえに命令されたくない」
 レオナルドは花壇を見つめたまま、むくれながらスコップで土を叩き続けた。
「聞き分けのないことを言わないで、素直に帰ってくれないかな」
 サイファはレオナルドの隣にしゃがみ、優しく微笑みながら言った。小さな肩に手を掛ける。はたから見れば、小さな子を宥めようとしているだけの光景。しかし、その手には、表情とは裏腹の強い力が込められていた。
 レオナルドの顔が一気に引きつった。スコップを投げ置き、逃げるように走り去っていく。そして、離れたところから泣きそうな顔で睨みつけてきた。
 サイファは僅かに顎を上げ、冷たい目で応じた。早く行けと無言で促す。
「サイファ?」
「さあ、行こうか」
 横から首を傾げて覗き込んできたレイチェルに、サイファはにっこりと微笑みかけた。細い肩を抱くと、一緒に玄関へと足を進める。もうレオナルドには目を向けなかった。

 レイチェルの部屋に置かれている小さなティーテーブルに、ふたりは向かい合って座った。レースのカーテン越しの柔らかい光が、あたりを優しく包み、ほんのりとした暖かさをもたらしている。
 サイファは慣れた手つきで紅茶を淹れた。丁寧な所作で、ティーカップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
 レイチェルは無邪気な笑顔でそう言うと、紅茶をゆっくりと口に運んだ。その途端、驚いたように大きな目をぱちくりさせる。
「おいしい」
「気に入った? 母上が最近見つけて気に入っているものなんだ」
 サイファは明るく声を弾ませた。久しぶりの幸せな時間だった。こういう穏やかな時間が何よりも嬉しい。だが、今日はいつまでも浸っているわけにはいかない。
「レイチェル、家庭教師のことなんだけど……」
 レイチェルはティーカップを両手で持ったまま、無垢な瞳をサイファに向けた。
 サイファは出来うる限りの柔らかい口調で言う。
「今の先生には辞めてもらって、新しい先生に来てもらおうと思っているんだ」
「どうして?」
 レイチェルは不思議そうに首を傾げた。ティーカップをそっとソーサに戻す。
「安心して任せられる先生にお願いしたいからね」
「その先生って誰なの?」
「ラウル」
「えっ……」
 彼女の顔に動揺の色が広がった。やはり何かあったのだ、とサイファは確信する。
「ラウルは嫌なの?」
 まるで幼子に接するように優しく尋ねる。
 レイチェルは何ともいえない表情で目を伏せた。困惑しながらも小さな口を開く。
「二年前に来てもらったことがあって……」
「アリスに聞いたよ。三日で辞めたんだって?」
 サイファは軽い口調で先を促す。
「私がいけないの。私が言ってはいけないことを言ってしまったから……きっとラウルは怒っている。私の家庭教師なんて引き受けないと思うわ」
 レイチェルはつらそうに眉根を寄せて言った。小さな唇をきゅっと噛みしめる。
 その瞬間、サイファは息が止まるほどに胸を締め付けられた。彼女のこんな表情を見るのは初めてのことだった。鼓動が次第に速くなっていく。同調するように気持ちが焦っていく。意識的に呼吸をしてから、ゆっくりと尋ねる。
「ラウルに何を言ったの?」
「それは……言えない」
「どうしても?」
「これ以上、ラウルを傷つけたくないから」
 うつむいたままではあったが、その口調は迷いのない毅然としたものだった。
 サイファはふっと息を漏らした。
「わかった、もう聞かない」
 目を閉じ、両手を広げて言う。ラウルを傷つけたという言葉には興味があったが、レイチェルが言わないと決めたのなら、どう問いただしても口を割ることはないだろう。見かけによらず頑固なところがあるのだ。
「レイチェルの気持ちはどうなのかな。ラウルの家庭教師は嫌なの?」
「私は……」
 レイチェルは体をすくめながら、両手を重ねて胸を押さえた。
「許してもらえるのなら、もう一度、ラウルにお願いしたい」
 訥々と落とされる健気な言葉。そこからは彼女の一途な後悔が感じられた。事情はわからないが、これだけ反省しているのだ。許さないなどとは言わせない——そんな強い気持ちが湧き上がる。
「わかった。じゃあ、あしたからラウルに来てもらうよ」
「えっ?」
 レイチェルはきょとんとした顔を上げた。
「今から説得してくるから、お茶を飲みながら待っていてね」
 サイファは彼女の柔らかい頬に優しく触れた。そして、安心させるように微笑むと、立ち上がって部屋を出て行った。

 サイファは再び医務室へ戻った。ガラガラと引き戸を開けて入っていく。ラウルは相変わらず机に向かって本を読んでいた。それしかすることがないのだろう。
「お待たせ」
 サイファは抑揚のない声でそう言うと、ラウルの机の上に躊躇なく腰掛けた。驚くラウルの胸ぐらを掴み、強引に自分の方へ引き寄せると、じっと睨み下ろして言う。
「おまえはあしたからレイチェルの家庭教師だ」
 ラウルは思いきり眉をひそめ、凄みのある眼差しで無言の抗議をした。
 だが、サイファは怯むことなく、きっぱりとした口調で続ける。
「明日の午後、彼女のところへ行け。彼女の両親にもそう言ってあるからな」
「勝手に決めるな」
 ラウルはサイファの手を振り払った。だが、サイファは逆にその手首を掴んだ。軽く捻りながら捩じ上げる。
「レイチェルは嫌がってなどいない。許してもらえるならもう一度お願いしたいってさ」
「……あいつは何を言った」
 ラウルは鋭く射抜くように睨み、低く唸るように尋ねた。
「言ってはいけないことを言ってしまったと。ただ、その内容は教えてくれなかった。おまえをこれ以上、傷つけたくないんだと」
 サイファはラウルの手を放した。軽く溜息をついて目を細める。
「何を言ったか知らないが、きっとレイチェルに悪気はなかったんだよ。今は反省している。ひとりで随分と苦しんだんじゃないかな。許してやってくれよ」
 ラウルは険しい表情でうつむいた。
「……悪いのは……許しを請わねばならないのは私の方だ。すべての原因は私にある。あいつが反省する必要など何もない」
 眉間に縦皺を刻みながら、噛みしめるように言う。
 サイファは怪訝に首を捻った。ますますわからなくなった。だが、互いに嫌い合っていないことだけはわかった。それで十分だ。無理に聞き出すつもりはない。今はそれより優先すべきことがある。
「レイチェルの家庭教師、決定でいいな。もう駄々をこねるなよ」
 ラウルはあからさまにムッとしていたが、拒否はしなかった。サイファは了承したものと判断する。
「まったく、子供の喧嘩を仲裁している気分だったよ。レイチェルは実際まだ子供だが、おまえはいったいいくつなんだ?」
 小さく笑い、からかうような視線をラウルに向ける。
「おまえこそ、机の上に座るなどまるきり子供だ」
 ラウルは冷静に切り返した。もうすっかり普段の彼に戻っていた。
「こうでもしないと、おまえと向き合って話が出来なかったからね」
 サイファは机に手をつき、軽やかに床に降りた。革靴がタイルを打ちつけ、乾いた音を鳴らす。
「何もかも思いどおりになって気がすんだだろう。もう帰れ」
 ラウルは面倒くさそうに追い払おうとする。
 サイファは口をとがらせ、両手を腰に当てて言う。
「王宮とレイチェルの家を二往復もしたんだぞ。もう少しいたわってくれてもいいんじゃないか? お茶でも淹れてくれよ」
「喉が渇いたなら水を飲め」
 ラウルはぶっきらぼうに洗面台を顎で示した。
 予想どおりの返答だった。
 サイファは笑いながら肩をすくめた。
「レイチェルのところで、報告がてら、ゆっくりお茶してくるよ」
 軽く右手を上げ、医務室を出ようと扉に向かう。だが、途中で足を止めると、真顔で振り返った。まっすぐにラウルを見つめて言う。
「強引に事を進めて悪かった。レイチェルと会える時間が少なくなると、何もかもが不安になってしまってね。特に、信用のおけない家庭教師に預けておくことは我慢ならなかったんだ。おまえが引き受けてくれて、本当に感謝している」
「結局は自分のためということか」
 ラウルは腕を組み、冷淡な眼差しを向けながら、呆れたように言った。
 サイファはくすりと笑った。
「まあ、否定はしないよ。でも、同時にレイチェルのためでもあるからね」
「おまえが何を望んでいるか知らんが、期待はするな。なぜいつも私を過大評価する」
「性格に問題があることは認識しているよ」
 笑顔のまま軽口を叩く。そして、少しだけ真面目な顔になって続ける。
「それでも、やはり信頼できるのはおまえだけなんだ」
 ラウルは難しい表情で口を閉ざしていた。何か言いたそうにも見えたが、何も聞かなかった。
「何か問題があったら相談してくれ。勝手に辞めるなよ」
 サイファはそう釘を刺しながら、右手を上げて医務室をあとにした。

 これで最も大きな不安が排除できた。胸のつかえが取れたような気がする。安堵した——いや、それ以上である。浮かれているといってもいい。ラウルにレイチェルを託せることが、なぜか無性に嬉しかった。それは、きっと、自分にとって二人ともかけがえのない存在だからだ。その二人に仲良くしてほしいと願うのは、ごく自然な気持ちだろう。
 外はもう風が冷たくなっていた。火照った頬をそっと掠め、熱を奪い去っていく。茜色の空を眺めながら、サイファは婚約者のもとへと足を速めた。


9. 本当の彼女

 翌日の午後、ラウルは約束どおり家庭教師としてレイチェルの家へ向かっていた。強烈な日差しが降りそそぐ中を、浮かない顔で歩く。いや、そう思っているのは自分だけで、まわりの人間には、いつもの無愛想な表情としか映っていないだろう。
 サイファの強引さに負けて、渋々ながら引き受けたものの、不安は拭えなかった。
 同じことを繰り返してしまうかもしれない——。
 頭の中ではわかっていても、彼女を目の前にすると、自制や理性など何もかもが飛んでしまう。二年前も、それより前も、ずっとそうだった。自分がこれほどまでに意志の弱い人間であることを、初めて思い知らされた。
 だが、二年前のあのとき、はっきりと目が覚めたはずだ。
 頭から豪快に氷水を掛けられたかのようだった。夢は一瞬にして消え去った。そして、もう夢など見ようのないくらいに、幻想は粉々に砕け散った。
 それでも自信は持てなかった。自分という人間を信用することが出来なかった。

 レイチェルの家に着くと、アルフォンスが出迎えた。彼はサイファが無理を言ったこと、そして、二年前のレイチェルの非礼を詫びた。二年前のことについては、彼も事情はわかっていないはずだが、サイファから断片的な情報を聞いたのだろう。何をどのように聞いたのかは詮索しなかった。
 アルフォンスはあらためて仲立ちすると言ったが、それは断った。ラウル自身の都合である。レイチェルと会ったとき、自分がどのような顔をするかわからない。彼女の父親には見られたくないと思ったのだ。
 ラウルは一人で二階に上がった。部屋の場所は二年前から変わっていないと聞いた。突き当たりに進み、白い扉の前で立ち止まる。たった3回しか来ていないが、鮮明に覚えている光景だ。
 少し緊張しながら、その扉をノックする。
「はい、開いているわ」
 中から聞こえた澄んだ声。それは紛れもなくレイチェルのものだった。
 突如、躊躇いの気持ちが湧き上がった。
 だが、ここまで来ながら引くわけにはいかない。水に潜るときのように大きく息を吸い込み、ドアノブを回して扉を押し開ける。
 扉は音もなく開いた。
 五歩くらい離れたところに、二年前より少し成長したレイチェルが立っていた。彼女はワンピースの裾を僅かに持ち上げ、軽く膝を曲げた。
「来てくれて嬉しいわ」
 そう言ってにっこりと微笑む。
 一瞬、ドキリとした。
 確かに笑顔は似ている。だが顔立ちは、そもそも瓜二つというほどは似ていなかった。今ははっきり別人だと認識できる。そのことを強く意識し、面影を重ねないようにする。
「レイチェル……」
 二年前のことを詫びようと思った。だが、言葉が続かない。すべてを話して許しを請うべきなのだろうが、そこまでの覚悟はまだなかった。
 そのとまどいを見透かしたかのように、レイチェルは柔らかく微笑み、ゆっくりと首を横に振った。言わなくてもいい、ということのようだ。ラウルのためなのか、彼女自身のためなのか、それはわからない。だが、どちらにしても、彼女の望みであれば受け入れるべきだろう。このまま何も説明せず、互いに水に流すということを——。
「座って」
 レイチェルは明るい声で椅子を勧めた。
 ラウルは言われるまま素直に座った。レイチェルも自分の椅子に座り、ラウルの方に体を向けた。膝の上に行儀良く手を重ねて置き、ちょこんと小首を傾げて尋ねる。
「今日はテスト?」
「昨日の今日で何も準備をしていない。おまえがどこまで勉強しているのかも聞いていない」
「じゃあ、説明するわ。私がこの二年間で勉強してきたことを」
 彼女はにっこりと笑って立ち上がり、本棚からいくつもの本を取り出した。

 レイチェルから勉学の進捗を聞いたが、あまり芳しいとはいえなかった。家庭教師が何度も替わっているのが原因だろう。なぜ、それほど頻繁に家庭教師を替えたのかはわからない。彼女にもわからないらしい。もしかしたら、サイファの仕業かもしれないと思う。ラウルのところに乗り込んできて交渉をしたくらいだ。ありえないことではないだろう。
 その日は、一時間ほど話を聞いただけで終わりにした。授業は翌日から始めることにする。
「明日は数学にする。予習をしておけ」
 ラウルはそう言って立ち上がった。大きな足どりで扉に向かう。
「送っていくわ」
 レイチェルも立ち上がり、軽い駆け足でラウルのあとを追う。
「送ってもらう必要などない」
「必要がなくても送りたいの、ラウルは特別だから」
 横から笑顔で覗き込み、二年前と同じことを言う。
 ラウルは眉根を寄せた。
「サイファの言うことなど真に受けるな」
「サイファが言ったからじゃなくて、私自身がそう思っているの」
「迷惑だ」
 冷たく突き放すように言い、扉を開けて部屋を出る。
 だが、レイチェルは諦めずについてきた。愛らしい微笑みを見せて言う。
「じゃあ、送るんじゃなくて、勝手について行くことにするわ」
「……勝手にしろ」
 ラウルは大きく溜息をついた。

 レイチェルは、面影の少女とはまるで性格が違った。彼女が控えめで思いやりのある子だったのに対し、レイチェルは身勝手で何でも思いどおりになると思っている節がある。
 思い返してみれば、二年前にもその片鱗はあった。もう少し大人しかったような気はするが、時折、今と同じように身勝手な言動が見受けられた。
 無意識に都合のいいところしか見ようとしていなかったのかもしれない。面影を重ねていたのは、彼女が喋っていないときばかりだったことを思い出す。それに気づけたのは、もうはっきりと目が覚めているからだろう。今となっては面影など重ねようもない。

 医務室を目指し、人通りの少ない裏道を歩く。二年前にもレイチェルとともに歩いた道だ。だが、心情はあのときとはまるで違う。心地よい穏やかな空気を感じることはなかった。
「怒っているの?」
 レイチェルが横から覗き込んで尋ねた。
 顔はいつもの仏頂面だが、怒っているつもりはなかった。だが、わからなくなった。彼女は妙に勘がいい。もしかすると、自分が気づいていないだけで、本当は腹を立てていたのかもしれない。たとえそうだとしても、怒りをぶつける相手が彼女であってはならない。
「怒ってなどいない」
 出来る限り感情を抑制した声で答える。
「良かった」
 レイチェルは胸に右手をあて、無邪気なくらいの笑顔で言った。
 ラウルは溜息をつき、空を見上げた。青い空にかかっている薄い雲が、ゆっくりと流れていた。

 医務室の前に到着し、ラウルは足を止めた。レイチェルを一瞥する。何と言おうか迷ったが、何も言わないまま、鍵を開けて扉を引いた。
「ねえ、ラウル。医務室の中を見せてくれる?」
 レイチェルが背後で声を弾ませた。
 ラウルは扉に手を掛けたまま、顔だけ振り向いた。冷たい視線を向けて言う。
「病人でも怪我人でもない人間が入るところではない」
「……わかったわ」
 レイチェルは大きな瞳でラウルを見つめてそう言うと、来た方とは反対側へ歩き出した。
 ラウルは慌てて彼女の肩に手を掛けた。
「どこへ行く」
「怪我をしてくるの。そうすれば入れてくれるんでしょう?」
 真顔で振り返って言う。当然と言わんばかりの口調だった。
「……入れ」
「ありがとう」
 レイチェルはにっこりと笑った。
 ラウルは溜息をついた。もしかすると、こうなることを計算しての行動だったのかもしれない。サイファにそっくりだ。ラグランジェの人間は、どうしてこうも身勝手な連中が多いのだろうか。
「病院みたいな匂いがするわ」
「医務室だからな」
 入るなり感嘆の声を上げるレイチェルに、ラウルは呆れ口調で返答をした。
「本当にお医者さんなのね」
 レイチェルはあたりをぐるりと見まわしながら言う。
「お医者さんをしながら家庭教師って大変そう」
「そうでもない」
 ラウルは扉を閉めながら答えた。医師としての仕事はあまりない、ということは敢えて言わなかった。言う必要がないと思っただけで、隠そうとしたわけではない。
 レイチェルは窓際に駆けていき、クリーム色のカーテンを開けた。窓ガラスに手をつき、下の道に目を向ける。そこは、レイチェルが父親に手を引かれてよく通っていた道だった。くすっと笑い、懐かしそうに言う。
「ラウルはよくここの窓際に座っていたわね。私、いつも楽しみにしていたの」
 そのことは当時からずっと不思議に思っていた。なぜ彼女は見ず知らずの自分に笑顔を向けてきたのだろうか——。それを尋ねることは出来なかった。
 あれから10年が過ぎた。
 そのうちの大部分は、彼女を彼女として見ていなかった。勝手な幻想を重ねていた。今、自分は彼女のことをどう見ているのだろうか。その華奢な後ろ姿を見ながら、自分に問いかける。答えはわからない。わからないということが答えなのかもしれない。二年ぶりに会って、まだたったの数時間である。そう簡単に答えが出せるものでもない。
 レイチェルは薬棚や本棚、机の上、パイプベッドなど、あちらこちらを興味深げに見てまわった。動きまわるたびに、後頭部のリボンが弾むように揺れる。
 ラウルは扉付近で腕を組み、その様子をただじっと眺めていた。
「楽しいか」
「ええ」
 レイチェルは振り返って嬉しそうに笑った。
「ねえ、この向こうがラウルのおうちなんでしょう?」
 ほとんど壁と同化している目立たない扉に、そっと両手で触れながら尋ねる。
 ラウルは怪訝に眉根を寄せた。
「なぜ、知っている」
「サイファから聞いたの」
 レイチェルはあっけらかんと答えた。
 ラウルは溜息をついた。確かにサイファなら知っている。だが、まさかレイチェルに話しているとは思わなかった。別に隠しているわけではないので構わないが、こんなどうでもいいことまで話題にしている事実に驚いた。おしゃべりな奴だとは思っていたが、想像以上かもしれない。
「サイファは、いくら頼んでも一度も部屋に入れてくれないって嘆いていたわ。どうして入れてあげないの?」
「誰も入れないことにしている。それだけだ」
 ラウルは冷静に答える。
「私も、だめ?」
「駄目だ」
 少しの迷いも隙も見せず、冷淡にきっぱりと言う。
 レイチェルは僅かに寂しそうな表情を見せた。大きな蒼の瞳が小さく揺らぐ。
 ラウルは溜息をつきながら、目を閉じてうつむいた。
「あら? 開いた……」
 その声につられて顔を上げると、レイチェルがドアノブに手を掛けて扉を開いているところだった。鍵はついているが、今日は掛けていなかったようだ。医務室の方は忘れず施錠するが、自室の方は医務室からしか入れないため、掛けないことも多い。
「おい!」
 ラウルは慌てて組んだ腕を外し、扉に向かって駆けだした。だが、彼女は素早く逃げ込むように部屋に入り、カチャリと扉を閉めた。そのあとを追って、ラウルも扉を開けて部屋に入る。幸い、鍵は掛けられていなかった。

「きれいにしているのね」
「おまえ……」
 悪びれもせず部屋の中を見まわすレイチェルに、ラウルは低い唸り声を上げた。
「怒っているの?」
 レイチェルは振り返り、大きく瞬きをしながら首を傾げて尋ねる。
「当然だ」
 ラウルは抑えた声で言った。その中に秘めた怒りを感じ取ったのだろう。レイチェルは急にしゅんとして頭を下げた。
「ごめんなさい……」
「……もういい」
 ラウルは溜息をついて言った。
 レイチェルはほっと息をついてニコッと笑った。
「じゃあ、お茶を淹れてくれる? 美味しい紅茶が飲みたいの」
「……おまえ、本当に反省しているのか?」
「ええ、でも、もういいんでしょう?」
 邪気のない顔で明るく言う。どこまでが計算なのかさっぱりわからない。天然だとするとなおのこと恐ろしい。サイファよりたちが悪いかもしれないと思う。
「美味い紅茶はない。並のでよければ淹れてやる」
「ありがとう」
 ラウルは溜息をついて湯を沸かし始めた。紅茶やティーカップの準備をする。
 その間、レイチェルはあちらこちらウロウロして、いろいろなところを覗き込んでいた。寝室や浴室、棚の中、引き出しの中まで開けて見ていた。
「おい、あまりあちこち見るな」
「紅茶が出来るまで暇なんだもの」
「いいから座れ」
 ラウルはレイチェルの手を捕まえて、ダイニングテーブルの椅子に無理やり座らせた。
「お菓子は?」
 レイチェルは両手で頬杖をつき、ラウルの横顔を見ながら尋ねる。
「そんなものはない」
 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら言った。
「そう……じゃあ、今日は我慢するわ」
 レイチェルはニコッと笑った。
 今日は——?
 ラウルは引っかかったが、敢えて尋ねなかった。藪蛇になりそうだと直感したからだ。紅茶の入ったティーカップをレイチェルの前に置く。
「ありがとう」
 レイチェルは無垢な笑顔を浮かべ、ティーカップを手に取った。湯気の立ち上る紅茶にゆっくりと口をつけて、少しだけ流し込む。
 ラウルは流しに寄りかかって腕を組み、その様子をじっと見下ろしていた。
「ラウルは飲まないの?」
 レイチェルは両手でティーカップを持ったまま、顔を上げて尋ねた。
「ティーカップはそれしかない」
「どうして?」
「誰もここに入れないことにしていると言ったはずだ」
 ラウルは面倒くさそうに答える。
 レイチェルは少し考えてから、ぱっと顔を輝かせる。
「じゃあ、今度うちから持ってきてあげる。ラウルと一緒に飲みたいもの」
「……また来る気か?」
「ええ、今度はお菓子も用意しておいてね」
 ラウルは盛大に溜息をついた。溜息のつきすぎで、体がだるくなった気さえする。頭痛がするのは精神的なものが影響しているのだろうか。右手で頭を押さえる。
「サイファには言うな」
「どうして?」
 レイチェルは不思議そうに首を傾げた。
「このことを知られたら、あいつも入れなければならなくなる」
「だめなの?」
「誰も入れないことにしていると何度言わせる」
 ラウルはいらつきながら答える。
「3人でお茶したかったのに……」
 レイチェルは残念そうに言い、眉をひそめる。
「言わないと約束しなければ、おまえもここには二度と入れん」
「……わかったわ、約束する」
 レイチェルはそう言ってニッコリと笑った。
 ラウルは眉を寄せた。
 何か話がおかしな方に行った気がする。レイチェルも入れるつもりではなかったはずだが、こんな約束をしてしまっては入れざるをえない。サイファよりはましか——いや、もしかするとサイファよりもやっかいかもしれない。自分の判断がわからなくなってきた。
「飲み終わったらとっとと出て行け」
「じゃあ、ゆっくり飲まなきゃ」
「…………」
 思いきり呆れた視線を送るラウルに気づいていないのか、気づいていながら無視をしているのか、レイチェルは本当にゆっくりと紅茶を飲んだ。いい度胸である。ティーカップがほぼ空になったのを見ると、ラウルは組んだ腕をほどいた。
「飲み終わったな。さあ、出て行け」
「行かなきゃだめ?」
 レイチェルは名残惜しそうに空のティーカップを両手で持ったまま、ラウルを上目遣いに見上げて首を傾げた。
「出て行け」
 ラウルは冷たく見下ろし、迫力のある低音でゆっくりと威圧するように言った。たいていの人間はこれで震え上がる。だが、彼女はまるきり平然としたまま、不服そうに小さな口をとがらせた。
「じゃあ、仕方がないから今日は帰るわ」
「早くしろ」
 ラウルは立ち上がった彼女の肩を押し、追い立てるように部屋から出した。さらに、医務室からも追い出そうとする。勢いよく扉を引き開け、出て行くように目線で促した。
 レイチェルは素直に廊下に出ると、くるりと振り返った。
「あしたも忘れないで来てね」
 愛らしい笑みを浮かべて言う。
 ラウルは扉を締めようとしていた手を止めた。
「わかっている。心配するな」
「ねえ、ラウル」
「何だ」
「私のことは嫌い?」
 レイチェルは首を傾げて尋ねた。
 ラウルは眉根を寄せた。その言葉だけで、彼女の言いたいことを理解してしまった。誰かの面影を重ねた状態ではなく、彼女自身の本当の姿についてどう思うかと尋ねているのだろう。自分はこの質問に答える義務がある——。
「まだ、わからん」
 低い声で言う。それが正直な答えだった。
「私はラウルのことが好き」
 レイチェルは無邪気に声を弾ませて言った。屈託のない笑顔で続ける。
「だから、また家庭教師になってくれて嬉しいわ」
「……帰れ」
 ラウルは無表情のまま、短くそれだけ言った。酷く冷たい口調だった。
 それでもレイチェルは笑顔を見せていた。
「今日はありがとう」
 顔の横で手を振り、帰っていく。
 ラウルは静かに扉を閉めた。その扉に手を置いたまま、うつむいて奥歯を噛みしめる。
 ——愚かな女だ。
 なぜだか無性に腹が立っていた。レイチェルが自分の何を知っているというのだろう。まともに向かい合ったのは、二年前の三日間と今日だけである。しかも、彼女にはひどい仕打ちしかしていない。にもかかわらず、そんな屈託のない顔でよくそんなことが言える。おそらく、サイファから聞いた話だけで、好意に値すると判断しているのだろう。本当の姿を見ていないのは、彼女の方も同じではないか。
 ラウルはそこまで考えて溜息をついた。
 このようなことを真剣に考察する必要はないのだと気がつく。誰にどのように思われようと知ったことではない。好きなように思っていればいい。誤解でも何でもしていればいい。それが自分の姿勢だったはずだ。
 カーテンが開いたままの窓際へと歩いていき、窓枠に両手をついた。目を細めてガラス越しに空を見上げる。濃い青色に浮かぶ白い雲は、僅かに形を変えながら、ゆっくりと右から左に流れていた。その下では、木々が微かにざわめいていた。



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