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3. 家庭教師

「やあ、ラウル。今日も暇そうだね」
 リカルドは軽く右手を上げ、にこやかな笑みを浮かべながら医務室に入ってきた。そこにいたのはラウルひとりきりである。今日も患者はひとりも来ていない。リカルドが何日かぶりの訪問者だ。
「何の用だ」
 ラウルは本をめくる手を止めると、冷たく一瞥して言った。開け放たれた窓から流れ込む新鮮な空気が、焦茶色の長髪を微かに揺らした。
「めずらしいね。どういう心境の変化?」
 リカルドはにっこり笑いながら尋ねた。
 めずらしいというのは、ラウルが窓際に椅子を置いて座っていたことだろう。おまけにガラス窓まで全開にしている。ラウルにしてはずいぶん開放的だと思ったに違いない。リカルドの表情から察するに、自分の忠告が効いたなどと勘違いしているのかもしれない。
 ラウルはその態度が癪に障った。眉をひそめて睨みつける。
「何の用だと聞いている」
「覚えているか? 頼みたいことがあるって言ったこと」
 リカルドは急に真面目な表情になった。
「ああ、今まで忘れていたがな」
 ラウルは低い声で素っ気なく答えた。一ヶ月前、リカルドが診察を受けに来たときに聞いた話だった。それきりになっていたので、話自体がもうなくなったものと思っていた。
「改めて頼みに来たよ。聞いてくれるな?」
 リカルドは近くのパイプベッドにゆっくりと腰掛けた。真新しい白のシーツに、いくつかの皺が緩やかに走った。患者用のベッドであるが、肝心の患者が来ないため、本来の目的で使用されることは滅多にない。ほとんどリカルドの椅子代わりとなっていた。
「話せ」
 ラウルはため息まじりに言った。面倒だと思ったが、そういう約束をしたことを覚えている。話だけでも聞かなければならない。
 リカルドは膝の上で両手を組み合わせた。小さく呼吸をしてから切り出す。
「おまえに頼みたいことというのはな、家庭教師なんだ」
 ラウルは怪訝に眉をひそめた。
「……家庭教師、だと?」
「そう、家庭教師」
 リカルドはにっこりとして頷いた。
 ラウルは無言で彼を見つめた。肩透かしを食らった気分だった。一ヶ月も前からもったいつけていたので、よほど重大なこと、つまり政治的な類ではないかと想像したのだ。相手が名門ラグランジェ家の当主となればなおのことである。それが、まさか家庭教師などという極めて個人的なこととは、まったくの想定外だった。しかし、どちらにしろ引き受けるつもりはない。
「いいだろう? 家庭教師くらい」
 リカルドは人なつこい笑顔のまま、軽い調子で畳み掛けた。
 ラウルは冷たく鋭利な眼差しで睨みつける。
「ふざけるな。おまえに教えることなどない」
 だが、リカルドにはまったく効き目はなかった。少しも怯むことなく、穏やかに応じる。
「私じゃないよ、息子のサイファだ。もうすぐ10歳になる」
「息子でも同じだ。私は医師だ。家庭教師などやるつもりはない」
 ラウルは低い声で明瞭に一蹴した。
「こんなことを言うと親バカだと思われるだろうけど……」
 リカルドはそう前置きをして続ける。
「サイファはとても頭が良い子でね。魔導に関してもかなりの力を持っている。もう並の家庭教師では、まともに教えられないんだよ。おまけにちょっと生意気なところがあって、すぐに先生を辞めさせてしまうんだ」
 そう言うと、肩をすくめて苦笑する。
「その点、おまえなら安心だ。魔導については言うまでもなく、科学や医学などの学問にも造詣が深いし、何よりサイファにやりこめられるとも思えない」
「断る」
 ラウルは間髪入れず、端的すぎる言葉を返した。少しの迷いもなかった。リカルドの丁寧な説明は、まったくの徒労に終わった。
 しかし、それでも彼は引き下がらなかった。
「許可はすでに取ってあるよ。家庭教師をやっている時間は、休診しても構わないとね」
「おまえ、人の話を聞いているのか」
 ラウルは白い目を向け、半ば呆れぎみに言った。
 もともとラウルの医務室には患者はほとんど来ない。休診しようがしまいが、何ら影響がないことは明白である。ラグランジェ家の当主ならば、許可を取ることは極めて容易だろう。だからといって、あらかじめそこまでの手回しをするとは思わなかった。甘い人間に見えるが、意外と抜け目がない。
「もうおまえしか頼む相手がいないんだ」
 リカルドは顔の前で両手を合わせ、片目を瞑ってみせる。愛嬌の中にも必死さが窺える表情だ。だが、ラウルはこんな泣き落としにはびくともしない。
「それほど頭がいいのなら、自習でもさせておけ」
「出来るだけ才能を伸ばしてやりたいんだよ。親心ってやつかな」
「私は教え方など知らん」
「子供相手だと思わなくて大丈夫だよ。逆に子供だと思っていると、痛い目を見るかもしれない」
 リカルドはなぜか嬉しそうに声を弾ませた。その内容もどこか微妙にずれている。
「出て行け」
 ラウルは鋭く睨みつけ、凄みのある低音で命令した。
「引き受けてくれたらね」
 リカルドは動じることなく涼やかに言葉を返した。ラウルが承諾するまでは、どうあっても帰るつもりはないらしい。普段の物腰は柔らかいが、ここぞというときには頑固である。
 ラウルは手にしていた本を後ろの棚に置き、椅子から立ち上がった。焦茶色の長髪をなびかせながら、パイプベッドに座るリカルドの前に歩み出る。冷たく射抜くように睨み下ろすと、彼の首に右手を掛けた。そのまま、上から覗き込んで顔を近づける。肩から落ちた長い髪が、カーテンのように二人を外界から遮断した。
「これ以上しつこくすると命の保証はない」
「なぜ、そんなにむきになる」
 リカルドは目をそらさず、静かに尋ねる。
 ラウルは首に掛けた手に力を込めた。
 それでも、リカルドの表情は動かなかった。
 ラウルはさらに力を込めた。指が白い首筋に沈む。
 一瞬、リカルドの顔が歪んだ。だが、その目はラウルを捉えたままだった。
 ラウルは深い濃色の瞳で睨み返した。
 青い瞳は逃げずにそれを受け止めた。
 視線が交錯したまま、無言の時間が流れる。
 やがて、ラウルはため息をついた。
「むきになっているのはおまえも同じだろう」
 そう言って、体を起こしながら手を引いた。眉をしかめて腕を組む。
「教える価値がないと判断したら、いつでも辞める」
 それは、一応の承諾を意味する言葉だった。リカルドは何があっても引きそうもない。これ以上、言い合っても泥沼にはまるだけである。そんな面倒なことは願い下げだった。ここはとりあえず収めた方が良いとラウルは判断した。こう言っておけば、何かしら理由をつけて辞めることは可能である。
「ありがとう」
 リカルドはにっこりと笑った。
「それじゃあ、あしたからさっそく来てもらおうかな。最初のうちは、昼すぎから3時間くらいで」
「何を教えればいい」
「すべて任せるよ。サイファはアカデミー修了程度と想定してくれ」
「わかった」
 ラウルは面倒くさそうに返事をした。前髪を掻き上げながら、疲れたように小さく息を吐く。
 そんな彼を横目で見ながら、リカルドはパイプベッドから立ち上がった。両手を腰にあて、背筋を反らせるくらいに伸ばすと、目を細めて表情を緩めた。
「これから昼食なんだが、一緒にどうかな?」
「断る。これ以上、おまえと顔を突き合わせたくはない」
 ラウルは目も向けずに答えた。
「残念だな。いつか奢らせてくれ」
 リカルドは笑いながらそう言うと、軽く右手を上げて医務室を出て行った。家庭教師の一件と比べると、随分あきらめが早い。本気ではないのだろうとラウルは思った。

 医務室は再び静寂を取り戻した。遠くの微かな声や足音、そして木々のざわめきが聞こえるだけである。

 ラウルは窓際の椅子に戻った。無表情で腰を下ろす。棚に置いた読みかけの本を一瞥したが、今は手に取る気にもなれなかった。鼻から小さく息を漏らすと、窓枠に右肘をついて空を見上げた。意味もなく、流れゆく雲を目で追う。
 そのとき、ふと下方から声が聞こえた。
「お父さま、この花はなあに?」
「ん? ああ、これはバラだな」
「きれいね」
「触るんじゃないぞ、棘があるからな」
「とげ?」
「刺さると血が出るんだ」
 ラウルは視線を落とした。目にしなくてもわかっていたが、そこにいたのはアルフォンスとレイチェルの親子だった。日だまりの中で、野生のバラを眺めながら会話をしている。微笑ましいといえる光景だ。
 やがて、アルフォンスは幼いレイチェルの手を引いて歩き始めた。彼女の長い金色の髪と、淡い水色のワンピースが、ふわりと柔らかく風をはらんだ。
 医務室の下を通りかかる。
 レイチェルは大きく顔を上げた。
 ラウルと目が合った。
 迷うことなく、にっこりと華やかに笑った。
 幸せそうな笑顔だった。
 あどけない無防備な笑顔だった。
 それは、とても大切だった少女を想起させた。
 だが、別人だ。何の関わりもないのだ。
 そんなことはわかっている。なのに、なぜいつまでも——。
 ラウルは眉を寄せた。
 レイチェルを初めて見かけた日から、窓際で過ごすことが増えていた。言い訳はしない。間違いなく彼女を待っているのだ。
 彼女は父親とともに、週に数回ほど、ここを通っているようだった。そして、通るたびに顔を上げ、無邪気に笑いかけてきた。ラウルは何の反応を返すわけでもなく、無表情で見下ろすだけだったが、彼女はそれでもやめることはなかった。
 彼女の笑顔に惹かれていた。それ以上に、自分に笑顔を向ける理由が気になった。そのためなのだろうか、姿を見るたびごとに、彼女から目が離せなくなっていった。
 しかし、もうこれも最後になるだろう。明日からはリカルドの息子の家庭教師が始まる。ここで待つ時間はなくなるのだ。一抹の寂しさを感じたが、断ち切るにはちょうどいい機会だと思った。いつまでもこんなものに惑わされているわけにはいかないだろう。
 そう、これが最後だ——。
 ラウルは去りゆく少女の小さな後ろ姿を、いつまでも目で追った。強い日差しの当たる右側が、焼けるように熱かった。

 翌日、ラウルは約束どおり、リカルドの家、すなわちラグランジェ本家を訪れた。それは、王宮に隣接した場所に存在していた。いや、隣接というより、一部であるかのように敷地の一角を占めている。家自体も個人のものとは思えないほど非常識に大きい。まるで城のようだ。知らない人間が見れば、王宮の一部と誤解しても無理はないだろう。

「来てくれて嬉しいよ、ラウル」
 リカルドは両腕を広げ、満面の笑顔で出迎えた。
 ラウルは眉根を寄せて睨んだ。平日だが仕事は休みなのだろうか、と怪訝に思ったが、尋ねることはしなかった。
「紹介するよ、妻のシンシアだ」
「初めまして」
 リカルドの後ろに控えていた女性が、一歩前に出て、軽くドレスを持ち上げ膝を曲げた。客観的に見て、間違いなく美人といえるだろう。ただ美人というだけではなく、その表情からは聡明さが見て取れる。青い瞳には理知的な光を宿していた。
「こちらは王宮医師のラウル」
 リカルドは、次にラウルを示して妻に紹介した。だが、ラウルは彼女を冷たく見下ろしただけで、何も言わなかった。面倒くさそうにリカルドに振り向いて尋ねる。
「サイファとやらはどこにいる」
「二階だ。案内するよ」
 リカルドは緩やかにカーブする幅広い階段を指差すと、ラウルを先導して上っていった。

「サイファ、先生が来たよ」
 リカルドは二階に上がってすぐの部屋をノックして、声を掛けた。
「はい」
 中から返事が聞こえた。子供にしてはしっかりとした声だった。
 扉が開いた。
 そこには少年が立っていた。これがリカルドの息子、サイファなのだろう。整ったきれいな顔に、鮮やかな金髪といった、とても人目を引く容姿をしていた。背格好はもうすぐ10歳という年相応のものだったが、表情は見るからに聡明そうで大人びている。彼の青い瞳には、シンシアと同じような理知的な輝きが宿っていた。
 サイファは背の高いラウルをじっと仰ぎ見た。少し目を大きくして、僅かに驚いたような顔を見せる。しかし、すぐに表情を緩め、にっこりと笑った。
「ようこそ、先生」
 そう言うと、ラウルの手を取り、広い部屋の中へと引き入れた。

 リカルドが軽い足取りで階段を下りていくと、シンシアが訝しげな表情で待ち構えていた。
「大丈夫なの? あの人。強い魔導力を持っているのはわかるけれど」
「悪い人じゃないよ。ああ見えて実直だしね。愛想はないけれど、信頼に足る人物だと思っている」
 リカルドは自信を持って言った。
 それでもシンシアの不信感は拭えなかった。腕を組み、眉をひそめる。
「問題は、リカルドに人を見る目があるかどうかね」
「少しは信用してほしいな」
 リカルドは苦笑した。難しい顔をした妻の腰に手をまわすと、リビングルームへと促した。

「先生は何を教えてくれるの? 魔導?」
 サイファは好奇心いっぱいに目を輝かせ、ラウルにまとわりついた。先ほどとは別人のような、子供っぽい無邪気な表情だった。
「ラウルだ。“先生”は必要ない」
 ラウルは小さな教え子を見下ろしながら、無表情で言った。
「じゃあラウル、座って」
 サイファは急に大人びた口調になった。口調だけではない。表情も落ち着いたものに変わっていた。微笑を浮かべながら、用意してあった椅子を右手で示す。
 ラウルは促されるまま、椅子に腰を下ろした。
 サイファもその隣の椅子に座った。机に左手をのせて寄りかかりながら、ラウルの目をじっと見つめる。出方を窺っているのだろう。
「これを読め」
 ラウルは手にしていた3冊の本を机に投げ置き、突き放すように言った。その本はいずれも魔導に関する論文で、読者は専門の研究者を想定している。最高学府であるアカデミーの生徒でも、理解は難しいに違いない。
 サイファは醒めた目でそれを一瞥すると、ラウルに向き直った。
「もう読んだよ。だいたい本を読ませるだけなんて、家庭教師としては手抜きじゃない?」
「おまえこそ、読んだなどと嘘を言っているのではないだろうな」
 ラウルはムッとして言い返した。どれもつい二ヶ月ほど前に発表されたばかりのものだ。こんな子供がもう読み終わったなど、信じることが出来なかった。
 サイファはフッと挑発的な笑みを浮かべた。机の上の本を一冊、手に取って掲げる。
「この本、第四章の結論が間違っているよね。むしろ逆じゃないのかな。第六章は導き方が強引すぎる。この実験だけでは、この結論は出せないよ。結論ありきで実験をして急ぎすぎたんだろうね」
 それは、ラウルが考えたこととまったく同じだった。きちんと読まなければその指摘はできない。いや、読んでいたとしても、そこに気がつく人間はそうはいない。
「それはおまえの意見か?」
「そうだよ。前の家庭教師が、これを書いた人でさ。教本として読ませられたんだけど、今みたいに指摘したら辞めちゃったんだよね」
 サイファはつまらなそうに言うと、手にしていた本を投げ出すように机に落とした。まるで、読む価値がないと言わんばかりだった。
 ラウルは眉をひそめた。
「指摘しただけではないのだろう」
「こんなところで小遣い稼ぎしてないで、研究に本腰入れた方がいいんじゃない? って言っただけだよ」
 サイファは事も無げにしれっと言った。
 ここまで言われて家庭教師を続けられる人間は皆無だろう。リカルドの言っていたことが、ラウルはようやく理解できた。「ちょっと生意気」どころではない。相当に生意気だ。
「ねえ、こんな本よりさ、魔導を教えてよ。実戦的なやつ」
 サイファはパッと顔を輝かせてそう言うと、身を乗り出してラウルの手を取った。
「ラウルってすごく強くて深い魔導力を持っているよね。今まで僕が出会った中で圧倒的に一番だよ。医師って聞いてたから期待してなかったけれど、今はラウルが来てくれて嬉しく思ってるんだ」
 その言葉は、彼の魔導使いとしての水準を証明していた。向かい合っただけで相手の魔導力を測ることが可能なのは、上級以上の使い手のみだ。
 もちろん、最上級の使い手であるラウルにも、それが可能である。彼はサイファの魔導力をかなりのものと評価した。王宮に勤める人間でも、敵うものはごく少数だろう。父親のリカルドよりも上である。ただし、それ相応に優秀な使い手であるかは、また別の話だ。いくら強い魔導力を持っていても、知識と技術がなければ、単なる宝の持ち腐れにしかならない。
「ねえ、教えてよ。家庭教師なんだから、教えるのが仕事じゃない?」
 サイファは人なつこい笑顔で、催促するように大きな手を引いた。
 ラウルは腕を取られたまま、険しい顔で睨みつけて言う。
「その前におまえの力を見せてみろ」
 サイファはにっこりと笑った。
「わかった。じゃあ、地下へ行こう。稽古場があるんだ」
「ここでだ」
 ラウルは低い声でそう言うと、サイファの手を払いのけ、椅子から立ち上がった。そして、短く呪文を唱えると、部屋の内壁に沿うように、青白く光る結界を張った。魔導も物体も遮断する強力なものである。
「私をここから一歩でも動かしてみろ。手段は問わない」
 サイファは肘掛けに右手を置き、ラウルの横顔をじっと見つめた。そのままゆっくりと顎を引くと、ニッと口の端を上げる。
「面白いよ、それ」
 その静かな声には、挑みかけるような色が含まれていた。
 だが、ラウルはピクリとも反応しなかった。無表情な横顔を見せたまま、腕を組み、まっすぐに立っている。一見、無防備そうに見えるが、攻撃を仕掛けにくい隙のない構えだ。そう、すでに「試験」は始まっているのだ。
 サイファは口元をきゅっと引き締めた。椅子から軽く跳ねるようにして立ち上がると、足早にラウルの正面に回り込み、少し距離を取って向かい合う。
 小さく息を吸った。
 ラウルを見据えたまま短い呪文を唱え、ふたりの間に透明な結界を張る。
 間髪入れず、胸の前で両手を合わせ、次の呪文を紡ぐ。両手の間に白い光が生じた。かなり輝度の強いものだ。眩しくて正視できないくらいである。光の向こう側にあるラウルの姿を捉えることは不可能だろう。
 サイファの額に汗が滲んだ。
「やぁっ!」
 幼い掛け声とともに、ラウル目掛けて光球を放出した。それは、ふたりの間の結界を消滅させ、それでも勢いを失うことなく目標に突き進む。
 ラウルは開いた左手を突き出し、サイファの攻撃を受け止めた。その瞬間、ジュッと何かが焼けるような音がして、光球は激しい光を放ちながら霧散した。
 サイファは身を低く前傾して地面を蹴った。素早く光の海をくぐり抜ける。地面に手をつき、体ごと遠心力をつけ、コンパスのように足先をくるりと回す。計画通りラウルの足首を薙ぎ払った、いや、払おうかという、そのとき——。
「うわっ!」
 逆に細い足首を掴み上げられ、一瞬で逆さづりになった。何が起こったのか理解できない表情で、あたふたと周囲の状況を窺う。
「稚拙な手だ」
 ラウルは冷淡にそう言うと、腕の力だけで、小さな体を勢いよく放り投げた。
 サイファは受け身を取ろうとしたが、不完全なまま、部屋を覆う結界に打ちつけられた。僅かに弾むようにして床に落ちる。
「う……っ……」
 顔をしかめ、頭を押さえ、よろめきながら立ち上がった。眉根を寄せて前を見る。
 ラウルは感情のない顔で、開いた右手を正面に突き出した。そこに、呪文の詠唱なしに、白い光球を生じさせる。先ほどサイファが放ったものより何倍も攻撃力が強いものだ。あたりが強く照らされ、ラウルの後ろに長い影を作る。
 サイファははっとした。防御の呪文を口にのせる。
 白い光がサイファに襲いかかる。
 まだ詠唱は終わっていない。
 もう間に合わない。
 サイファは息を呑んだ。視界が白で覆われた。
 だが——。
 それは目の前で中央から分かれ、彼を避けるように両側を通り過ぎた。凄まじい速度だった。背後の青白い結界に衝突し、部屋の壁ごと突き破る。それでも止まらず、屋敷の外壁にも穴を開けた。粉塵が舞い、瓦礫が山となる。
 ——ガ、タン。
 サイファは呆然としながら、その場に崩れるように両膝をついた。
 白い頬には薄く傷が走っていた。
 袖にはいくつもの切れ目が入っていた。
 金の髪が幾本か舞い上がり、はらりはらりと落ちていく。
 それでも、目は、粉塵で煙る向こう側の人影に釘付けになっていた。長髪をたなびかせながら腕を組み、二つの足でしっかりと直立している。いまだ一歩も動いていない。
 上方から次第に靄が晴れていく。
 凍てついた無感情な瞳が露わになった。ギロリ、と視線が動く。
 サイファはびくりと体を竦ませた。そして、芯から痙攣するように震え出した。僅かに口を開いたが、そこから声は出てこなかった。彼のすべては、戦慄と畏怖に支配されていた。


4. 巡り合わせ

 ラウルが初めてラグランジェ家へ行った日から一週間が過ぎた。
 まだ家庭教師は続けている。
 サイファの部屋を壊し、外壁にまで穴を開けてしまい、辞めさせられるだろうとラウルは思った。彼としては、そうなっても一向に構わなかった。もともと、嫌々ながら引き受けたものである。狙ったわけではないが、そうなればいいという気持ちは、どこかにあったかもしれない。
 だが、リカルドの反応は予想外のものだった。「家を壊したんだから、その分ちゃんと働けよ」などと、軽く笑いながら言う。サイファも、直後は呆然としていたものの、その後はなぜか妙にラウルに懐いてきた。
 怒っていたのはシンシア一人だけである。どういうつもりだと眉を吊り上げ、ラウルに詰め寄ってきた。家を壊され、息子を危険な目に遭わせられたのだ。当然の反応だろう。この家でまともな感性を持っているのは、どうやら彼女だけのようだ。だが、その彼女もリカルドになだめられ、結局は渋々ながら引き下がった。
 こうして、ラウルの家庭教師が続行されることになったのである。

「ねぇ、それ違うんじゃない?」
 ノートに数式を書いていたラウルの横から、サイファは頬杖をついたまま口を挟んだ。自分の鉛筆で、空きスペースにさらさらと数式を書いていく。
「ここで放射されるのは光粒子だよね? だったらその基本エネルギーはその定理を使ってこう……で、影響を受けるのは重力と空気抵抗だから……こうなるんじゃないの?」
 トン、と最後に点を打ち、顔を上げて隣のラウルを窺う。
「相互干渉の補正分が抜けている」
 ラウルはサイファの数式の斜め下に追記し、それを丸で囲んだ。
 サイファはじっとそれを見つめ、怪訝に眉を寄せた。
「この魔導で相互干渉なんて聞いたことないけど?」
「相互干渉を起こさない魔導の方が少ない」
 ラウルは淡々と言う。
「でも、今までは考慮してなかったよ」
「微量だからだろう。大雑把に求めるのなら、おまえのでも間違いではない」
「なんかその言い方、喧嘩を売られているみたい」
 サイファは頬杖を付き直し、口をとがらせた。
 ラウルは横目で冷ややかに睨んだ。おまえの方がよっぽど喧嘩を売っている、と思ったが、あえて口には出さなかった。鉛筆を置き、教本を閉じる。
「今日はここまでだ」
「もう終わり?」
 サイファは頬杖を外し、目を大きくした。
「3時間はとうに過ぎている」
 ラウルは無表情で片付け始めた。教本を重ね、筆記具とともに帯で束ねる。
 サイファはその様子を寂しげに見つめながら言う。
「少ないよね、3時間じゃ。もう少し延ばせないの?」
「おまえとこれ以上長くはいたくない」
「父上に頼んでみるよ」
 ラウルは顔を上げ、サイファを鋭く睨みつけた。
「おまえ、人の話を聞いているのか」
「わかってる。今日はここまでだね」
 サイファは少しも動じることなく、両手を広げ、にっこりと大きく微笑んだ。
「でも、あとひとつだけ質問してもいいかな?」
「何だ」
 苛立ちを含んだ声で、ラウルは先を促した。
「最初に会った日のあれ、ラウルを一歩でも動かしてみろってやつだけどさ。ずっと考えていたけど、いい手が思い浮かばないんだ。ラウルならどういう手を使うの?」
「床を抜く」
「え?」
「二階なら床を抜くことは容易い」
 ラウルは前を向いたまま、無表情で答えた。
「人の家だと思って、むちゃくちゃ言うよね」
 サイファは半ば呆れたように、苦笑しながら言った。
「あ、でも、部屋の周囲には結界が張ってあったよね。あの結界を破らない限り、床を抜けないんじゃない?」
「破ればいい」
 ラウルは事もなげに言った。
「僕には無理だよ」
「私ならどうするかという問いに答えただけだ。おまえのことは知らん。自分で考えろ」
 サイファは恨めしそうに、じとりとラウルを睨む。
「じゃあさ、僕の戦い方で、直すべきところを教えてよ」
 ラウルは教本の上に手をのせたまま、サイファを一瞥した。そして、面倒くさそうに溜息をつくと、腕を組みながら椅子にもたれかかる。ギィ、と濁った音を立て、背もたれのバネが軋んだ。
「掛け声は不要だ。相手に有利になることはあっても、自分に有利に働くことはない」
「それは、そうだね……」
 サイファは控えめな声で同意した。図星を指されたせいか、そのときのことを思い出したせいか、僅かに耳元が紅潮している。恥ずかしいという認識はあったようだ。
「呪文の詠唱もない方がいい」
 ラウルは腕を組んだまま、淡々と畳み掛けた。
「そうだよ! それ、どうやってるわけ?」
 サイファはぱっと顔を上げ、興味津々に身を乗り出した。青い瞳を輝かせながら、じっと返事を待つ。
 ラウルは煩わしげに顔をしかめ、投げやりな説明をする。
「その場で式を組み立て、計算し、魔導を構築する。原始的な方法だ。おまえも知っているのではないのか」
「それは、魔導の原理としては知っているけど……呪文より素早くなんて無理なんじゃないの? だいたい、原始的な方法じゃ時間がかかりすぎるからってことで、実用化するために呪文が発明されたんだよね?」
「多くの人間にとってはそうだ。だが、おまえくらいの頭と魔導力があれば、訓練次第で呪文詠唱なしの魔導も可能になるだろう。呪文より損失が少ない分、効率がいいし、融通も利く」
 サイファは小さく息を吸ってラウルを見つめた。
「へぇ、面白そう」
 独り言のように呟くと、大きく瞬きをして尋ねる。
「ラウルが稽古をつけてくれるんだよね?」
「……そのうちな」
 ラウルは低い声で答えると、束ねた教本を無造作に掴み、椅子から立ち上がった。長い焦茶色の髪が、広い背中で大きく揺れた。

 ふたりは連れ立って部屋を出た。
 そこから三部屋向こうが、先日、ラウルが壊した部屋である。何もかもが、ほとんどそのときのまま放置されていた。瓦礫さえも片付けられていない。まだ修復作業には取り掛かっていないようだ。
 外壁の方は、壊した翌日には修復されていた。こちらの対応は素早かった。さすがに、家に大きな穴を開けたままで、何日も放置しておくわけにはいかなかったのだろう。

「サイファ」
 鈴を転がしたような、それでいてあどけない声。
 それは、ラウルたちが階段に差し掛かったときに聞こえてきた。階下からである。声の方に視線を向けると、淡い水色のワンピースを着た幼い少女が、愛らしい笑顔で待ち構えているのが見えた。
「レイチェル、来てたの?」
 サイファはぱっと顔を輝かせると、金色の髪をなびかせながら、緩やかにカーブする階段を駆け下りた。迷うことなく、その小さな体を抱え上げる。いくらレイチェルが小さいとはいえ、サイファ自身もまだ子供である。それなりに重いに違いない。だが、はたから見た限りでは、まったくそうは感じられなかった。抱き上げ方が手慣れているせいかもしれない。
 彼はレイチェルと目線を合わせると、にっこりと微笑みかけた。レイチェルも小さな手を伸ばすと、幸せそうな笑顔をサイファに寄せた。
 ラウルはその様子を上からじっと眺めていた。
 レイチェルがラグランジェ家の人間であることは確信していた。本家であるここにいても、驚くべきことではない。だが、ようやく断ち切れたと思った途端の邂逅である。そこまで冷静ではいられなかった。何とも言いようのない気持ちが湧き上がる。小さく息をついて視線を離すと、広い階段を降り始めた。
「あ、紹介するよ」
 サイファはレイチェルを下ろしながらそう言うと、通り過ぎようとするラウルの手首を掴んで引き留めた。そのまま少し身を屈め、反対側の手で彼を示すと、レイチェルに優しく語りかける。
「レイチェル、この人は僕の新しい家庭教師のラウルだよ」
 今度は、体を起こしてラウルに向き直った。少女の頭に手をのせて言う。
「ラウル、この子は僕の婚約者のレイチェル」
「婚約者?」
 ラウルは思わず聞き返した。
「そう、僕の未来のお嫁さんだよ」
 サイファは屈託なく言った。
 ラウルは睨むように彼を見下ろした。ラグランジェ本家の後継者は、子供のうちから婚約者を決めねばならない——いつだったか、そのような話を聞いたことを思い出す。サイファはラグランジェ本家の一人息子だ。つまり、そういうことなのだろう。
「ラウル」
 甘い声が、彼の思考を中断した。
 ラウルが振り向くと、レイチェルは花が咲いたようにふわりと可憐に微笑んだ。それは、いつも窓越しに見ていた笑顔そのものだった。近くで見たのは初めてである。ますます懐かしい面影と重なり、夢と現実が溶け合ったような不思議な感覚に囚われる。
「ラウル、手」
 サイファは小声で囁きながら、彼の袖を引っ張った。
 ラウルは我にかえった。いつの間にか、レイチェルがこちらに手を伸ばしていることに気がつく。握手を求めているのだろう。それに誘われるように、右手を差し出した。小さな彼女に届くように、少し腰を屈める。焦茶色の長髪が肩から滑り落ちた。
 レイチェルはにっこりとして踵を上げると、小さな柔らかい手を、大きな手にそっと触れ合わせた。
 その瞬間——。
 ラウルはハッと目を見開いた。戦慄にも似た何かが、体中を駆け抜けた。それが何であるか、彼は理解していた。だが、にわかには信じられず、何かの間違いではないかと思う。彼女の小さな手を包み込むように握り、澄んだ蒼の瞳を探るように見つめ、神経を研ぎ澄ませた。
 ——間違いでは、ないな……確かに存在する……しかし、なぜこんな……。
 ラウルは彼女を見つめたまま眉を寄せた。
「はじめまして」
 レイチェルは言った。
「……ああ」
 ラウルは低い声で答えた。握っていた彼女の手を放し、体を起こす。
「ラウルに愛想がないのはいつものことだからね」
 サイファは両手を腰に当て、苦笑しながら補足説明する。レイチェルに対しての配慮だろう。ラウルを知らない人間には、その無愛想な態度がとても恐ろしいものに映るようだ。幼い子であれば、なおのことそうだろう。
 だが、レイチェルは少しも怯えた様子を見せなかった。愛らしい微笑みを絶やすことなく、あどけない声で続ける。
「やっと、おはなしができた」
「…………」
 ラウルは口を固く結び、眉をひそめた。
「あれ? 知ってるの?」
 サイファはふたりを交互に見て、どちらにともなく尋ねた。
「王宮で見かけたの」
 レイチェルが答えた。
「そうか、ラウルは大きいから目立つよね」
 サイファは軽く笑いながら応じた。
 レイチェルもそれを肯定するかのように微笑んだ。
 だが、本当はそうではない。ラウルが彼女を見つめていたから、彼女はラウルの存在に気がついたのだ。なぜそのことを説明しないのだろう。面倒だったのだろうか。取るに足りないことだったのだろうか。それとも——ラウルは様々に考えを巡らせた。
「じゃあ、僕はラウルを送ってくるから、またあとでね」
 サイファは腰を屈め、レイチェルの柔らかな頬を右手で包み込むと、額と額を軽く合わせた。
 レイチェルは無垢な笑顔でこくりと頷いた。

 ラウルとサイファは並んで王宮内を歩いた。
 家庭教師が終わると、ラウルは医務室に帰る。そのとき、なぜかいつもサイファがついてくるのだ。送っているつもりらしい。ラウルが頼んだわけではない。むしろ来るなと言った。だが、サイファは素直に聞くような子供ではなかった。

「ねぇ、ラウルは気がついたよね」
 サイファは青い空を見上げて切り出した。緩やかな風が、鮮やかな金の髪を吹き流し、きらきらと煌めかせる。
「何のことだ」
 ラウルは無表情で聞き返した。
 サイファは空を見たまま答える。
「レイチェルのこと」
「……ああ」
 ラウルは表情を険しくした。サイファは具体的には言わなかったが、それが何なのかすぐに察しがついた。思い当たることはひとつしかない。
「僕はさ、最近ようやく気がついたんだ。ずっと一緒にいたのに情けないよね」
 サイファはラウルに振り向き、少し寂しげに微笑んだ。
「気がついただけでも十分だろう」
「へぇ、ラウルが慰めてくれるなんて思わなかった」
「そんなつもりで言ったのではない」
 ラウルは前を向いたまま素っ気なく言う。
 サイファはくすりと笑った。頭の後ろで手を組み合わせ、再び空を見上げる。長めの前髪がさらりと揺れた。
「でも、不思議なんだよね。普通に魔導を使っているのを見ると、そんな力があるようにはとても思えないんだ」
「あいつは力の大部分を奥底の深いところに閉じこめている。無意識だろうと思うがな」
 ラウルは淡々と言った。意識的な封印ならば知っている。だが、無意識に自らの力を閉じこめるようなものは、これまで見たことも聞いたこともなかった。
「僕もそれは感じていたよ」
 サイファは空を見たまま、目を細めた。
「そこってさ、すごく深くて、静かで、誰も踏み入ったことのない深い森の湖みたいでさ。なんだか心地いいんだよね」
 そう言うと、頭の後ろの手をほどいてラウルに振り向いた。
「ラウルにも似たようなものを感じるよ。ラウルの場合は、湖じゃなくて底なし沼かな?」
 悪戯っぽく笑うサイファを、ラウルは横目で睨みつける。
「あいつを、どうするつもりだ」
「うん……ちゃんと訓練すれば稀代の使い手になるかもしれないけど、僕はそんなことは望んでいない。危険な目には遭わせたくないよ。レイチェル自身もあまり魔導には関心がないみたいだし」
 サイファはまるで保護者のような口ぶりで答えた。まだ子供の彼がこのようなことを言うのは奇妙に映るが、彼自身はいたって真剣だった。
「でも、制御の方法だけは身につけさせた方がいいよね」
「……ああ」
 ラウルは腕を組んで答えた。
 強い魔導力を持つ者は、制御の方法を学ぶ必要がある。そうでなければ、暴発を起こす恐れがあるからだ。通常であれば、制御はそれほど難しいものではない。だが、レイチェルの場合は、魔導力が桁外れなのだ。そのうえ、力の大部分を封印しているも同然の状態である。本来の力に見合った制御を学ばせることは、かなり困難になるだろう。
「レイチェルの両親には僕から忠告しておくよ」
 サイファはにっこりと笑って言った。
 ラウルは僅かに眉を寄せた。
 今のところは、力が封じられているため、暴発する危険性はほとんどないと思われる。切羽詰まった状況ではない。だが、いつまでもこのままとは限らないのだ。早めに制御を身につける必要があるだろう。
 重い荷物を背負って生まれてきたレイチェルに、重い宿命を背負って生まれてきた少女の面影が、またひとつ重なった。

「ラウル、こっち。見せたいものがあるんだ」
 サイファは急にそう言うと、ラウルの手首を引っ張った。医務室とは逆方向の小径へ向かおうとしている。ラウルが一度も行ったことのない場所だ。この先に何があるのかは知らないが、知りたいとも思わない。
「断る」
 冷たく端的に拒絶する。
「そんなこと言わずにさ」
 サイファは軽い調子で受け流すと、大きな手をしっかりと握り、強引に小径を歩き出す。
 ラウルは小さく溜息をつくと、仕方なくサイファに従って歩き出した。その小さな背中に向かって、ぶっきらぼうに尋ねる。
「何があるのか言え」
「バラ園だよ、ほら」
 蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチをくぐると、視界一面にバラ園が広がった。広大というほどではないが、種類ごとに整然と整備されており、遠目に見ても美しいものだった。近くで見ても、細かなところまで手入れが行き届いているのがわかる。ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「僕が好きなのはこれ、ピンクローズ」
 サイファはピンク色が咲き誇る一角に駆けていき、そのひとつに手を添えた。顔を近づけ、目を閉じる。
「華やかだけど、可憐で、可愛らしくて、まるでレイチェルみたいじゃない?」
 そう言って、薄紅色の花びらにそっと口づける。
「レイチェルの話をしてたら、急にここに来たくなったんだ」
 ピンクローズから手を放さないまま、顔だけラウルに振り向けると、小さく肩をすくめて見せる。子供らしい仕草ではないが、不思議と違和感はなかった。
「ねぇ、ラウルはどれが好き?」
「興味はない」
 ラウルは即答した。あからさまに無関心な態度だった。
 サイファは不満げに口をとがらせる。
「ラウルって何に興味があるわけ? いつもそんな……たっ!」
 突然、短い叫び声を発すると同時に、顔をしかめて手を引いた。その指先に、赤い血がじわりと丸く盛り上がっていく。バラの棘が刺さったのだろう。
「不用意に触れるからだ」
 ラウルは冷たく言った。
 サイファはムッとして彼を睨んだ。ふてぶてしく口を開く。
「治療してくれる?」
「そのくらい水で洗うだけでいい」
 ラウルは突き放した。
「うわ、王宮医師とは思えない言葉だね。それって職務怠慢じゃない?」
 サイファは意図的に大袈裟な言い方をすると、僅かに口もとを上げた。
 だが、ラウルは眉ひとつ動かさずに言い返す。
「医師として治療不要と判断した」
「傷を見もしないで、よくそんなことが言えるね」
 サイファの口調はますます挑戦的になった。血の流れる指先を立て、ラウルに突き出す。
「せめて傷を見てからにしてよ」
 ラウルは冷淡な瞳で見下ろした。
 サイファは攻撃的に睨み返した。
 ふたりは無言で視線をぶつけ合う。
 どちらも引かない。
 膠着状態が続く。
 ——ズッ。
 微かな衣擦れの音。
 先に動いたのはラウルだった。
 差し出された細い指を、大きな手でガシッと掴んだ。
 そして、僅かに身を屈めると、徐にそれを口に含む。
「なっ……」
 サイファの体がビクリと震えた。
「何をしているわけ?」
 顔を赤らめながら、少し怒ったように、とまどったように、呆れたように、だが努めて冷静に尋ねた。
 ラウルは血の混じった唾を吐き捨て、平然と言い放つ。
「治療だ」
「化膿したらどう責任をとってくれるの?」
 サイファは負けじと詰問する。
「だから水で洗えと言った」
 ラウルは鬱陶しそうに言う。
「消毒してくれる? 医務室できちんと」
 サイファは強気に追いつめる。感情的な口調ではない。だからこそ、そこに貫禄めいたものが感じられた。
「……来い」
 ラウルは観念したかのように低い声を落とした。いや、観念したわけではない。面倒になったので譲歩した——少なくとも彼の方はそういうつもりだった。サイファには目も向けず、早足で医務室に向かって歩き出す。眉間には縦皺が刻まれていた。

「やっとラウルの医務室に入れてもらえた」
 丸椅子に座ったサイファは、にこにこしながら声を弾ませた。いつも医務室の前までは来ていたが、中に入ったことはなかった。ラウルに拒否されていたのだ。
「そのためにわざと怪我をしたのではないだろうな」
 ラウルは消毒液を棚から取り出しながら尋ねる。
「まさか」
 サイファは軽く一笑に付した。
 ラウルは眉をひそめて睨んだ。笑ってはいるが、サイファならこのくらいのことはやりかねない。嘘も平気でつくだろう。だが、今さらそれを追及しても仕方がない。
 無愛想なまま椅子に腰を下ろすと、笑顔のサイファと向かい合った。怪我をした方の手をとり、人差し指を消毒して絆創膏を貼る。ごく簡単な処置である。わざわざ医務室にまで来ずとも、本来なら自宅で可能なものだ。
 処置が終わると、サイファはきょろきょろと物珍しそうにあたりを見まわした。
「ねぇ、あの扉は何?」
 ほとんど壁と同化した扉を、目ざとく見つけて尋ねる。
「私の部屋だ」
 ラウルは素っ気なく答えた。
「その向こうの部屋に住んでるってこと?」
「そうだ」
「中を見せてよ」
「断る」
「散らかっていても僕は気にしないよ」
 サイファは明るく言った。
 ラウルは軽く睨みつけた。
「そういう問題ではない。誰も招き入れないことにしている」
 そう言いながら立ち上がり、消毒液を棚に片付ける。ガラスの扉をゆっくりと閉めた。
「見られたくないものでもあるの?」
「私的な空間に踏み込まれたくないだけだ」
「じゃあ、いつか招待してね」
 サイファは人なつこい笑顔を浮かべた。
「おまえ、少しは人の話を聞け」
 ラウルは疲れたように溜息をついた。サイファのあまりにも自分勝手な物言いに、怒りを通り越して呆れていた。抑揚のない低い声で言う。
「治療は終わった。もう帰れ」
「ラウルのことが少しわかってきたよ」
 サイファは上目遣いでラウルを見ると、形の良い唇に、意味ありげな笑みをのせる。
「けっこう動物的だよね。言葉じゃなくて行動でわからせようとするあたりさ。最初に自分の力を誇示して、相手を服従させようとするのもそうだよね」
 ラウルは氷のような瞳で睨めつけた。
「たった10年しか生きていない奴に何がわかる」
「そういうラウルは、何年、生きているの? 300年は超えているよね」
 サイファはにっこり微笑んで言った。
 ラウルはじっと彼を見下ろした。ゆっくりと息をつく。
「知っていたのか」
「父上が話しているのを聞いたんだ」
 サイファは極めて軽い口調で言う。
「怖くはないのか」
 ラウルは尋ねる。
「どうして?」
 サイファは首を傾げた。そして、当然のように言う。
「人間じゃないから危険ってことはないよ」
「私は人間だ」
 ラウルは間髪入れず訂正した。
「え、そうなの?」
 サイファは目を丸くした。どうやら本気で人間外の生物だと思っていたらしい。少し興奮した様子で、身を乗り出して尋ねる。
「どうしてそんなに長く生きられるの?」
「さあな」
「僕もラウルみたいに長く生きられるかな?」
「さあな」
 ラウルは答えをはぐらかした。
 サイファは口をとがらせた。だが、すぐに気を取り直して質問を続ける。
「じゃあ、ラウルはどこから来たの? それくらいは教えてくれる?」
 ラウルはしばらく考えたのち、無言で窓の外を指さした。
 サイファは視線でそれを辿る。
「空?」
「その向こう側だ」
「空の、向こう側?」
 ぽつりと疑問形で呟きながら、椅子から立ち上がった。引き寄せられるように窓へと足を進める。窓枠に手をのせると、ガラス越しに空を見上げた。広く、深く、どこまでも青が続く。その向こう側にあるものは、ここからは見えない。
 ラウルは腕を組み、うつむいた。焦茶色の長髪がはらりと落ち、表情を覆い隠す。
「もう帰れ。レイチェルが待っているのだろう」
「うん、ありがとう」
 サイファは絆創膏を貼った指を立てて見せた。そして、右手を振りながら、軽い駆け足で医務室をあとにした。

 医務室にいつもの静寂が戻った。
 ラウルはガラス窓を開けた。風が渦を巻くようにして医務室に滑り込む。焦茶色の長髪がうねりながら舞い上がった。
 ——おかしな奴だ。
 リカルドも恐れることなく入り込んでくるが、サイファはそれ以上だった。遠慮なく踏み入ってきて、強引に自分のペースに巻き込む。それは、単なる子供のわがままとは違う。押すべきところと、引くべきところを、上手く使い分けているのだ。自然にやっているようにも、何もかも計算づくのようにも感じる。
 一緒にいて、これほど頭にくる奴もそうはいない。一方で、彼という人間と、彼の持つ才能には、多大な興味を引かれていた。
 家庭教師をすぐに断らなかったのも、おそらくその興味ゆえだろう。だが、今後も続けていくと決めていたわけではない。しばらく様子を見てから結論を出すつもりでいた。それが、リカルドとの当初の約束でもあった。
 ラウルは窓枠に両手をつき、緑が茂る静かな裏道を見下ろした。
 誰もいないそこを見据え、眉根を寄せる。
 もう、自分の中で結論は出ているのだろうと思う。
 それには、サイファへの評価ではなく、明らかに別の存在が影響していた。
 レイチェルだ。
 外見や表情が似ているだけならまだ良かった。断ち切ることは可能だっただろう。だが、彼女の持つ魔導力の危うさは、目を離せなくさせるのに十分だった。
 今日の話しぶりからすると、彼女が本家に遊びに来ることも度々あるのだろう。無関係の自分には何もできないが、せめて見守ることくらいは——そんな使命感にも近い思いが湧き上がった。
 ——運命までは、似なくていい。
 ラウルはゆっくりと顔を上げた。
 空を仰ぎ見て、目を細める。
 白い翼を持った鳥が、青い空を滑るように横切っていった。


5. 最後の日

「もういいだろう。とうに時間は過ぎている」
「ダメだよ」
 立ち上がろうとしたラウルの手首を、サイファは指の痕がつくくらいに強く掴んで引き留めた。半ば怒ったような真剣な顔で、ラウルの瞳をじっと見つめる。

 サイファ=ヴァルデ=ラグランジェは18歳になっていた。
 子供の頃から人目を引く容姿をしていたが、成長するにつれ、ますますそれに磨きがかかっていった。すっと通った鼻筋に、甘く涼やかな目もと、形の良い薄い唇、そして、聡明さを映し出したかのような、理知的な輝きを放つ青い瞳——いずれのパーツも、全体のバランスも、文句のつけようもないくらいに端整だった。特に、真剣な表情を見せるときなどは、一分の隙もないほどだ。だが、普段の彼には、まだ少年らしい雰囲気が多分に残っている。そのあたりの落差も、人目を引く一因なのだろう。
 身長もかなり伸びていた。といっても、並外れて長身のラウルには遠く及ばない。成年男子の平均くらいである。サイファ自身はそれで不満には思っていないようだった。ラウルを抜かせないのが悔しいと言ったことはあったが、その軽い口調からいっても、あくまで冗談であり、本気ではなかったのだろう。
 そして、頭脳の方も成長し、さらに切れ味を増していた。
 家庭教師を始めて最初の3年くらいは、辛うじて教えるという体裁をとっていたが、その後は対等に議論する形へと自然に変わっていった。一方的に教えることなど、少なくともラウルが受け持っている分野においては、何もなくなってしまったのだ。乾いたスポンジのように知識を吸収し、それを新たな発想で組み立てていく。ラウルが考えもしなかった思考の飛躍を見せる。そんなサイファとの時間は、ラウルにとっても刺激の多いものだった。
 今日が、家庭教師としての最後の日である。
 辞めさせられるわけでも、辞めるわけでもない。サイファの就職が決まったためである。明日から、この国の中央行政機関のひとつである魔導省に勤めるのだ。本来であれば、高倍率の試験と適性検査、面接などにより選抜されるのだが、サイファは例外的に無試験で入省が決定したらしい。ラグランジェ家の力を持ってすれば、このくらいの特別措置は極めて容易に実現できるのだろう。
 だが、サイファの場合は、優遇されることなく競い合ったとしても、不採用になるとは考えられなかった。魔導、頭脳、いずれの面においても、彼に勝る者がいるとは思えない。問題があるとすれば性格だけだ。

 サイファは、ラウルの手首を掴んだまま、じっと濃色の瞳を見据えて言う。
「ラウルにとってはたった8年だろうけど、僕にとっては人生の半分近くなんだ」
「それがどうした」
「名残を惜しむ僕に、少しくらい付き合えってことさ」
 ラウルは煩わしげに溜息をついた。
「私は教師として雇われている。それ以外の理由で引き留められる道理はない」
 正当な言い分を論理的に説明し、冷淡に突き放す。
 だが、サイファはそれを聞いて何かを画策したらしく、思わせぶりに口の端を上げた。
「では、ラウル先生にひとつ質問だ」
 人差し指を立て、緩やかに瞬きをすると、やや上目遣いにラウルを見つめた。形のよい唇が滑らかに開く。
「明日からの僕のために、社会人として留意すべきことを助言してほしい」
 ラウルは眉をひそめた。サイファは時折、わざと「先生」と呼ぶ。ラウルが嫌がるのを知った上でのことだ。そうやって、揶揄したり、挑発したりするのだ。今回も、真面目な口調ではあるが、質問の内容からしても、からかっているとしか思えなかった。
「私にそれを訊こうというのか」
「社会性がないのは知っているが、物事を見通す目は持っているからな」
 サイファはにっこりとして言う。
 ラウルは勢いよく腕を引き、サイファの手を振りほどいた。彼をじっと睨み下ろす。
「おまえは能力のない人間を馬鹿にする傾向がある。そんなことでは軋轢を生み、孤立することになるだろう」
「わかっているよ」
 サイファはさらりと答えた。体を斜めに傾け、机に寄りかかるように頬杖をつく。
「能力がなくても権力を握っている人間は多いからね。人当たりよく近づいて、適当にご機嫌をとりつつ利用させてもらうつもりさ」
 悪びれることもなく、至極当然のように言う。
 ラウルは眉根を寄せた。
「そこまでは言っていない」
「でも、たいして違わないだろう?」
 サイファは頬杖をついたまま、僅かに首を傾げて同意を求める。
「おまえには無理だ。感情をすぐ表に出すような奴にはな」
 ラウルは冷たく言い放つ。
「ああ、それはラウルの前だけだよ」
 サイファは軽くそう言うと、頬杖を外して体を起こした。
 ラウルは怪訝に眉をひそめる。
「なぜだ」
「さあね。自分で考えたら? 何でも知ってるラウル先生」
 サイファは上目遣いで視線を送り、僅かに口もとを上げた。
 ラウルはムッとして言い返す。
「おまえは本当のことを言っていない」
「さあ、どうかな」
  サイファは膝の上でゆっくりと手を組み合わせた。
「僕はね、自分をコントロールできる人間だよ。感情とは裏腹の態度を装うことだって可能なんだ。ラグランジェ本家の人間であれば、子供といえども、そういうことを求められる場面は多い。昔から鍛えられているんだよ」
 落ち着いた口調だった。表情も急に大人びたものに変わった。鮮やかな青の瞳が、真正面からラウルを捉えている。
「まあ、持って生まれた資質もあるんだろうけどね。父上よりは世渡りが上手い自信はあるよ」
 小さく肩をすくめ、悪戯っぽさを覗かせながら付言する。
 ラウルにはサイファの本心が掴めなかった。表情をくるくると変え、意味ありげな言葉を重ねつつ、核心だけはかわして相手を翻弄する。サイファのよく使う手だ。いったい何のためにこんなことをするのかわからない。だが、そんなことは今さらどうでもよかった。
「質問には答えた。もう帰ってもいいだろう」
「まだだよ」
 サイファは再び手首を掴んで引き留めた。先ほどよりも力が込められていた。
「いい加減にしろ」
 ラウルは語調を強めて言った。
 それでもサイファは引き下がらなかった。手を緩めようとしない。それどころか、はしゃいだ様子で話し掛けてくる。
「そうだ、ラウルに何かお礼をするよ」
「礼など不要だ。報酬はもらっている」
 ラウルは冷ややかに言う。
「そうじゃなくて、8年間の僕の感謝の気持ち」
 サイファは自分の胸もとに左手を当てて微笑む。
「おまえの感謝など受ける気はない」
「何か欲しいものはあるか?」
 身勝手に話を進めるサイファを、ラウルは思いきり睨んだ。眉間に深い縦皺が刻まれる。
「少しは人の話を聞け」
「聞いているよ」
 サイファはにっこりと屈託なく笑った。
 ラウルは口を固く結び、再び力任せにサイファの手を振りほどいた。捲れた袖を下ろしながら、疲れたように溜息をつく。
「おまえは、なぜいつも無駄なことばかりに労力を使う」
「無駄なことほど楽しいんだよ。ラウルにはそういう潤いが足りないね」
 サイファは澄ました口調で言った。

 ——トン、トン。
 ふいに扉が叩かれた。会話中ならば聞き逃してしまいそうな小さな音だ。
「はい、開いているよ?」
 サイファはそちらに目をやりながら、不思議そうに返事をした。
 カチャリと音がして、遠慮がちに扉が開く。そこから、レイチェルがそろりと斜めに顔を覗かせた。後頭部に留めてある淡い水色の大きなリボンが、動きに合わせて微かに揺れる。
「ごめんなさい、まだお勉強中だったのね。遅いから心配になって来てみたの」
 サイファは満面の笑みを浮かべる。
「心配かけてごめんね。今日で家庭教師が終わりだから、ラウルと名残を惜しんでいたんだ」
「私は惜しんでなどいない」
 ラウルは横からつっけんどんに否定する。
 レイチェルはくすっと小さく笑った。
「じゃあ、下で待っているわね」
「いいよ、おいで」
 サイファは自分の膝を軽く叩いて呼んだ。
 レイチェルは部屋に入って扉を閉めると、軽い足どりでサイファのもとへ向かった。そして、示された場所、すなわち彼の膝の上に、素直に躊躇いなく腰掛けた。今日が初めてというわけではないのだろう。随分、慣れているように見えた。
 ふたりは近い距離で見つめ合い、互いににっこりと微笑んだ。
「考えてみれば、レイチェルとだって、今までみたいに頻繁には会えなくなるね」
 サイファは寂しげに言うと、小柄な体を包み込むように抱きしめた。

 レイチェル=エアリ=ラグランジェは12歳になっていた。
 誰の期待も裏切ることなく、彼女は愛らしいままに美しく成長しつつあった。白く透きとおった肌、大きな引力を秘めた蒼の瞳、形のよい小さな薄紅色の唇、柔らかく輝く金の髪——一目するだけではっと息を呑むほどだった。まるでお人形のようだ、と王宮内でも評判になっていた。
 彼女の強大な魔導力は、いまだ顕在化していない。
 8年間、サイファのところへ遊びに来る彼女をそっと見守ってきたが、危険な兆候は見られなかった。変化自体がまったくないのだ。それが良いことなのか悪いことなのか、現時点では判断はつかない。
 制御の方は上手くいっていないようだ。やはり、かなり困難であるらしい。前例がないため、その教育も手探りである。そのうえ、最近はレイチェルが魔導に関することを嫌がっているという。実際、魔導関係の教育は、今現在すべて停止していると聞いた。
 もし、このままずっと魔導力の大部分が封じられた状態ならば、確かに制御を学ぶ必要はないだろう。だが、その保証はどこにもない。それにもかかわらず、レイチェルの両親やサイファは、随分と楽観しているように見受けられた。
 しかしラウルも、楽観まではしていないが、危機感は薄れつつあった。頭では気をつけなければならないと思っていても、何事も起こらない日々が続けば、無意識のうちに油断が生じてしまう。人間とはそういうやっかいな生き物だ。

「そうだ」
 サイファは何かを思いついたようにそう言うと、レイチェルを抱き上げて椅子から立った。いわゆるお姫様だっこの状態だ。重そうにはしていない。ゆっくりと身を屈めると、彼女をラウルの膝に横向きに下ろして座らせる。
「何だ」
 ラウルはサイファに振り向いて睨んだ。
「レイチェルを見ていてくれ。着替えてくる」
 サイファはそそくさと部屋の隅へ向かった。大きめのクローゼットから、ハンガーに掛かった濃青色の服を取り出し、ベッドの上にさっと投げ置いた。そして、本当に服を脱いで着替え始めた。
 ラウルは溜息をつき、前に向き直った。
 レイチェルは片手でラウルの服を無造作に掴み、宙に浮いた足を前後に揺らしながら、幼い子供のようなあどけない表情で、虚空に視線をさまよわせていた。サイファの着替えている方には目を向けていない。たとえ振り返ったとしても、その位置からではラウルの体に遮られてしまい、不自然に身を乗り出さない限りは見られないだろう。サイファはそこまで計算して彼女をここに置いたのだろうか、とラウルはじっと考える。
 自分に向けられた視線に気がついたのか、レイチェルは瞬きをして振り向いた。柔らかい金の髪がさらりと揺れ、頭のリボンが跳ねるように弾む。そして、大きな瞳をラウルに向けると、ふわりと花が咲くように可憐な微笑みを浮かべた。その無防備で愛らしい笑顔は、これまで幾度となく目にしてきたが、この至近距離で見たのは初めてだった。
 ラウルは眉根を寄せた。
 ほとんど無意識に手が動いた。
 薄い色の前髪をゆっくりと払う。
 無垢で穢れのない蒼の双眸。
 その奥を探るように見つめる。
 何を探っているのだろう。
 何を求めているのだろう。
 何を——。
 ラウルは僅かに顔をしかめた。いくら面影が重なったとしても、別の存在であることは最初から理解していた。それでも、あの笑顔を見せられると、論理的な思考が一瞬で砕け散ってしまう。どうしても何かを期待してしまうのだ。
 レイチェルはきょとんとしていた。小さく首を傾げ、不思議そうにラウルを見つめる。
「すまなかった」
 ラウルは彼女の額から手を引いた。
 しかし、強い引力に捉えられたかのように、彼女の瞳から目を逸らすことは出来なかった。

「ちょっとお二人さん、なに見つめ合っているのさ」
 サイファは軽く咎めるようにそう言うと、腰に両手を当てて覗き込んだ。もう着替え終わったようだ。先ほどクローゼットから出していた濃青色の上下を身につけている。詰襟のホックまできっちりと締められていた。
 ラウルは彼を一瞥すると、無表情のまま口を開く。
「おまえが見てろと言った」
「うわ、ラウルも冗談を言うんだ」
 サイファは大袈裟に驚いて見せると、愉快そうに軽く声を立てて笑った。
「サイファ、それって魔導省の制服でしょう?」
 レイチェルがにっこりと微笑んで問いかけた。彼女は昔からよく王宮に遊びに来ている。魔導省の制服も見慣れているに違いない。
「そう、レイチェルに見せたくてね。どうかな?」
 サイファは両腕を広げて見せた。微かに真新しい服の匂いがした。
「ええ、とても似合っているわ」
 レイチェルは彼を見上げて言う。
「本当? 良かった、レイチェルにそう言ってもらえて」
 サイファは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ラウルは? どうこれ? 感想を聞かせてよ」
 調子に乗ってラウルにも尋ねる。答えを急かすように、体を屈めて覗き込んだ。
 だが、ラウルは目も向けずに素っ気なく言う。
「レイチェルに見せたくて着替えたのだろう」
「おまえ、拗ねているのか?」
 サイファは真顔で尋ねた。
 ラウルは無言のまま、氷のような眼差しで睨めつけた。
「冗談だよ」
 サイファはあっけらかんと言った。ラウルの視線など、まるで意に介していないようだった。たいていの人間は軽く睨むだけでも震え上がるのだが、サイファはどれほどきつく睨みつけても、いつも平然としているのだ。
「似合ってるか?」
 懲りもせず、再びにっこりとして尋ねる。
 ラウルは眉根を寄せた。じっと彼を見つめ、低い声で静かに答える。
「……ああ」
「えっ、うそ、本当? もう一度はっきり言ってよ」
 サイファは目を大きく見開き、少しうろたえながらも嬉しそうに聞き返す。
「断る」
 ラウルは今度はきっぱりと拒否した。
 それでもサイファは上機嫌だった。
「ラウルに似合ってるって言ってもらえるなんて思ってもみなかったな」
 ラウルは溜息をついた。
「これをどうにかしろ。いつまで乗せておくつもりだ」
 膝の上に座るレイチェルを指さして言う。
「乗せていると帰れないだろう?」
 サイファは片目を細め、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「………………」
 突然、ラウルはレイチェルを抱え、勢いよく立ち上がった。そのまま、大きな足どりで扉の方へ向かう。
「ちょっと、レイチェルをどうするつもり?」
 サイファはラウルの後ろ髪を掴んで引き留め、焦ったように言う。
 ラウルは僅かに振り返り、視線を流してひと睨みする。
「おまえがつまらないことをするからだ」
「悪かったよ」
 サイファはむくれながらも素直に詫びた。掴んだ髪を放す。長い焦茶色が大きな背中で揺れた。
 ラウルは前に向き直ると、レイチェルを足からそっと下ろして立たせた。ワンピースの後ろのリボンをまっすぐに直し、彼女の顔にかかった髪を軽く払う。そして、彼女にだけ届くくらいの声で「すまなかった」と言い、屈めた体を起こした。
 レイチェルは不思議そうにラウルを見上げ、瞬きをした。
「私は帰る」
 ラウルはぶっきらぼうに声を張ると、振り返りもせずに部屋を出た。
「僕らも行こう」
 サイファはレイチェルの手を引いてラウルのあとを追った。
 階段を降りたところで、ラウルは足を止めて振り返った。サイファに冷たい視線を投げて尋ねる。
「おまえ、その格好で外を歩くのか」
 サイファは魔導省の制服を着たままだった。明日から勤務することになっているが、今日はまだ魔導省の人間ではない。家の中ならともかく、外を歩くのは問題があるだろうと思った。
 だが、サイファはそう思っていないようだった。平然とした顔でしれっと答える。
「心配ないよ。何か言われたとしても謝ればすむ話だ」
 確かにそうだ。ラグランジェ本家の人間であるサイファなら、このくらいで問題になることもないのだろう。彼は、自分の立場というものを、嫌味なほど正確に把握しているのだ。ラウルはもう何も言わなかった。

 外は、風が冷たかった。
 すでに空の半分近くが紺色に塗り替えられている。沈みゆく太陽は、最後の役目を果たすかのように、地平付近を朱く鮮やかに染め上げていた。

 ラウルは医務室に戻るため、いつもの道を進んでいく。
 そのすぐ後ろを、サイファとレイチェルがついて歩いた。何度となく顔を見合わせながら、楽しそうに言葉を交わしている。主にサイファが話しかけ、レイチェルは相槌を打つといった感じだ。会話は途切れることなく続いていた。
 この状況に、ラウルは何か腑に落ちないものを感じていた。
 家庭教師が終わると、サイファは医務室に戻るラウルについてくる。それは、8年前から変わらず続いている日常だった。だが、いつもはサイファひとりだけである。レイチェルと一緒に来たことは一度もなかったのだ。それが、よりによって最終日の今日という日に、今までなかったことが起こっている。たまたま居合わせたから一緒に来た、それだけなのだろうか。それとも——。
「ラウル」
「何だ」
 サイファの不意の呼びかけに、ラウルは足を止めて振り返った。焦茶色の長髪がさらりと風に揺れる。
「今日はここでお別れだ。医務室まで送れなくて悪いな」
 サイファはにこやかに言った。声も少し浮かれているようだ。悪いと思っている雰囲気ではない。
「そうか」
 ラウルは無表情でふたりを見下ろし、感情のない声で応じた。
 サイファは何か意味ありげに、何か言いたげに、じっと彼を見つめる。
「理由はきかないのか」
「私には関係のないことだ」
 ラウルはきっぱりと言い切った。
「そう……じゃあな」
 サイファは軽く右手を上げた。レイチェルは挨拶代わりに軽い微笑みを見せた。ふたりは互いに手を取り合い、医務室とは逆方面の道を歩いていく。その後ろにはふたつの長い影が伸びていた。
 あれほどしつこく引き留めていたのが嘘のように、サイファはあっさりと去っていった。やはり最後の日は婚約者とともに過ごしたい、そう心変わりしたのだろう。おそらく、彼女を連れてきたのもそのためだ。これから彼女とともにどこかへ出かけるに違いない。
 ようやく合点がいった。
 最後の最後まで自分勝手な奴だ、とラウルは嘆息した。

「こんにちは」
 サイファは明るい声で挨拶をすると、レイチェルの手を引きながら、慣れた様子でリビングルームに入っていった。そこはレイチェルの家だったが、普段からほとんど自分の家のように当たり前に出入りしていた。
「いらっしゃい、サイファ」
 白い革張りのソファに座っていたアリスは、優しい笑顔で迎えた。まだ十分に若く美しいが、昔と比べて落ち着きは増していた。母親らしくなった、といえるかもしれない。
「お父さま、お母さま、ただいま」
 レイチェルは澄んだ綺麗な声で挨拶をした。
「おいで、レイチェル」
 アリスの隣に座っていたアルフォンスは、両手を広げてレイチェルを呼んだ。
 レイチェルは小走りで駆けていくと、彼の膝に横から飛び乗るように座り、目を閉じて広い胸にもたれかかった。満たされたような表情を見せる。
「お父さまに甘えるの、久しぶりだわ」
「最近は忙しかったからな」
 アルフォンスは優しく目を細めながら、大きな手で柔らかな頬を包み込む。
 アリスも、サイファも、その光景を微笑ましく眺めていた。
「まあ、君も座れ」
 立ったままのサイファに気がつくと、アルフォンスは右手で向かい側を示した。
 サイファは促されるまま白いソファに腰を下ろす。ギュッと革の擦れる音がした。
 サイファとアルフォンスは、年齢はだいぶ離れているが、互いのことを認め合い、尊重し合うような関係だった。サイファはアルフォンスの仕事上の手腕に一目置いていたし、アルフォンスはサイファの頭脳と魔導の資質を正確に評価していた。
「今日は休暇ですか?」
「ああ、あしたからまた忙しくなるよ」
 アルフォンスはゆったりとした口調で答える。
「いよいよ所長就任ですね。おめでとうございます」
 サイファは笑顔で祝福した。
 アルフォンスは、娘の肩を抱いたまま、背もたれに体重を預けた。複雑な表情で、軽く溜息をつく。
「もう少し早く就けると思っていたんだがな。前任者がしつこく居座ったせいで、随分と時間が掛かってしまったよ」
 アルフォンスは勤めている研究所の所長に就任することになっていた。明日からである。奇しくもサイファの就職と同じ日だった。
「サイファ、それ、魔導省の制服でしょう?」
 アリスが身を乗り出して、興味津々に尋ねる。
 サイファは両腕を広げた。
「そう、アリスとアルフォンスに見せに来たんだ。どうかな?」
「よく似合うわ。すっかり立派に見えるわね」
 アリスは胸もとで両手を組み合わせ、嬉しそうに言う。
「リカルドよりサマになっているな」
 アルフォンスは全体を眺めながら、満足げに言った。
 リカルドは数年前に、研究所から魔導省へ異動になっていた。ラグランジェ家の本家当主が研究所勤めでは格好がつかない、という前当主の判断に基づくものだった。リカルド自身は研究所の方が良かったようだが、前当主である彼の父親には逆らえなかったらしい。おかげで、随分と苦労しているようだ。制服もいまだに馴染んでいるようには見えない。
「しかし、おまえが就職とはな。月日が流れるのは早いものだ」
「もう、アルフォンスってば年寄りくさいことを言わないで」
 アリスは苦笑しながら窘めた。
「実際にもういい年なんだ。仕方ないだろう」
 アルフォンスは肩をすくめた。少し寂しげな、どこか諦めたような笑みを浮かべている。まだ20代のアリスと違い、彼はもうすぐ50に手が届こうかという年齢だ。
「いい年だなんて言っている場合ではないですよ」
 サイファはにっこり微笑んで言った。明瞭な口調で続ける。
「これから所長として研究所を牽引していかなければならないわけですし、老け込むにはまだ早すぎます」
「ああ、そうだな。まったくそのとおりだ」
 アルフォンスは気を取り直して、表情をを引き締めた。力強く頷く。
「そうだ、これから家族だけでパーティをやるんだが、おまえも一緒にどうだ」
「何のパーティですか?」
 サイファは不思議そうに尋ねた。
「アルフォンスの所長就任祝いよ。二度目だけどね」
 アリスが横から答えた。指を二本立てて肩をすくめている。
 一度目は、一週間ほど前に開催されたものだ。サイファも家族ぐるみで招待されて出席した。研究所の同僚や、親しい友人などを呼び、大規模ではないがそれなりに華やかなパーティだった。
 今度は、落ち着いて自分たち家族だけでもう一度、ということなのだろう。サイファは家族ではなかったが、すでに家族も同然の間柄である。今さら遠慮する理由はない。だが——。
「すみません、今日はちょっと……そろそろ行かなければならないので」
「あら、何か用事でもあるの?」
 アリスは瞬きをして尋ねる。
「ええ、はい」
 サイファは膝の上で軽く両手を組み合わせた。
「どうしても外せない、とても大切な用事なんです」
 ゆったりとした口調でそう言うと、穏やかに柔らかく微笑んだ。

 医務室に戻ったラウルは、不必要なまでに明るい蛍光灯の下で、古めかしい本を読んでいた。今日も患者はひとりも来ていない。それでも律儀に待機していた。それが仕事である。
「やあ、ラウル」
 何の前触れもなく扉が開き、サイファが愛敬を振りまきながら入ってきた。いまだに魔導省の制服を着たままである。
「さっきは悪かったな。寂しかったか?」
「ノックくらいしろ。何をしに来た」
 ラウルは視線だけを流し、眉をひそめて睨みつけた。まさか来るとは思っていなかったので驚いたが、声にも表情にもそれは出さなかった。
「感謝の気持ちを届けにね」
 サイファはにっこり微笑んでそう言うと、右手に持った一輪のピンクローズを差し出した。まだ咲き始めで開ききっていない状態のものだ。透明フィルムと白いリボンでラッピングされている。
 ラウルは読んでいた分厚い本を閉じた。
「不要だといったはずだ」
「ラウルの好きな花がわからなかったから、僕の好きな花にしたんだ」
 サイファは無邪気に声を弾ませた。
「花瓶はあるか?」
「そんなものはない」
「だと思ったよ」
 サイファは口もとに笑みを浮かべ、もう片方の手に持った細長い箱を差し出した。こちらにも白いリボンが掛けられている。
「開けて」
「自分で開ければいいだろう」
「開けてほしいんだよ」
 ラウルは面倒くさそうにそれを受け取ると、無造作にリボンをほどき、包装紙を乱雑に破いて箱を開けた。中に入っていたのはガラス製の一輪挿しだった。細身で飾り気がなくシンプルだが、安っぽくは見えない。
「気に入ったか?」
「不要だと言った」
 ラウルの答えは、相変わらず愛想の欠片もないものだった。
 だが、否定はしなかった。
 サイファはにっこりと微笑んだ。その一輪挿しを箱から取り出すと、洗面台で水を入れてピンクローズを挿した。それを、ラウルの机の上に置き、腰に両手を当てて満足げに言う。
「少しは机の上が潤っただろう?」
「面倒が増えた」
 ラウルは少しも表情を動かさずに言い返す。
 サイファは小さく笑った。
「時間を作って水を替えに来るよ」
「水替えよりおまえの方が面倒だ」
「来るなと言われても来るよ」
「もう帰れ」
 ラウルの声には苛立ちが滲んでいた。
「わかったよ」
 サイファは肩をすくめ、諦めたような笑みを漏らした。
「最後にひとつだけ願いを聞いてくれないか」
「何だ」
 ラウルは顔を上げた。
 サイファは急に真剣な表情になった。怜悧な光を放つ青い瞳が、まっすぐに濃色の瞳を捉える。
「ラウルの部屋を見せてほしい」
「断る」
 ラウルは即座に拒否し、溜息をつきながら腕を組んだ。このやりとりは今回が初めてではなかった。これまでにもサイファが幾度となく望み、ラウルはそのたびに断っていたのだ。いい加減、うんざりしているくらいである。
 サイファはぱっと人なつこい笑顔を見せた。軽い口調で畳み掛ける。
「ほんの少しだけでいいからさ」
「断る」
「どうしても?」
「ああ」
「卒業祝いってことで頼むよ」
「駄目だ」
 ラウルの答えは少しも揺らがなかった。
 サイファは腰に手をあて、寂しげに目を細めた。曖昧な笑みを浮かべる。
「最後まで、心を開いてくれなかったな」
「明日も来るつもりなのだろう」
 ラウルは感情を見せずに言った。
 サイファは大きく瞬きをした。それからふっと表情を緩めると、視線を落として言う。
「そうだった、最後というわけではないな」
「今日はもう帰れ」
 ラウルは腕を組んだまま素っ気なく命じる。
「ああ、そうするよ。じゃあな……また、あした」
 サイファは軽く右手を上げ、名残惜しそうにしながらも、素直に医務室を出た。引き戸がゆっくりと閉められる。磨りガラスの向こうの人影は、すぐに見えなくなった。一定のリズムを刻む靴音も、次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 医務室は静けさを取り戻した。耳に届くのは木々の微かなざわめきだけだ。
 ——愚かな奴だ。
 ラウルは机に向き直り、眉根を寄せて頬杖をついた。
 読みかけの本を片手で開き、ゆっくりパラパラと捲っていく。
 ふいに、ほのかな甘い匂いが鼻を掠めた。
 本を捲る手が止まった。
 一輪挿しのピンクローズに視線を向ける。
 触れると壊してしまいそうな、淡く優しい色の花びら。
 そこから小さな水滴が滑り落ちる。
 机の上で音もなく弾けて散った。
 ラウルは手にしていた本を閉じ、その古めかしい表紙に手を置いた。


6. 歓迎会

「歓迎会、ですか?」
 サイファは顔を上げて尋ね返した。ロッカーの扉を静かに閉める。
「そ、ウチの班でな。おまえさんが入って二週間になるだろう。ちぃと遅くなっちまったが、ここいらでガツンと親睦を深めようじゃないか」
 マックスは握った両手を腰に当てて陽気に言った。ニッと白い歯を見せる。体格のいい彼が狭い更衣室で肘を張っていると、通路はほとんど塞がれてしまう。まるで通せんぼをされているかのようだ。
 サイファはロッカーの鍵を掛けながら尋ねる。
「何をするんですか?」
「平たく言えば、飲みに行くってことさ」
「どこへですか?」
「それは行ってからのお楽しみってヤツだ」
 マックスの声は、微かに笑いを含んでいた。
「……わかりました、いいですよ」
 サイファは少し考えてから返事をした。マックスの答えが曖昧なのが気にかかったが、彼が悪い人間ではないことは、この二週間で十分に理解している。自分を陥れようという意図はないものと判断した。
「よし! 決まりだ!」
 マックスは太い腕をサイファの肩にまわし、大きな声を立てて笑った。

 サイファが魔導省で勤務するようになって三週間が過ぎていた。
 最初の一週間は、他の新人とともに、魔導省で行われている様々な仕事を見学してまわった。その後、マックスを班長とする公安局一番隊第二班に配属されたのだ。魔導不正使用の捜査・逮捕が主な仕事である。
 サイファは幹部候補生として採用された。つまり、上級官僚になるべき人材だ。だが、最初の一年は、内局ではなく公安局の実務部隊に配属されることになっている。それは、サイファだけではなく、幹部候補生全員に義務づけられていることなのだ。現場を知るための実習のようなものなのだろう。

 地平の向こう側に陽が落ち、あたりは次第に闇に飲み込まれていく。長く伸びた影も、その闇に融けるように輪郭が曖昧になっていった。
「どこへ行くんですか」
 サイファは感情を隠して尋ねた。
 班長のマックス、班員のエリック、ティムとともに、歓迎会を行う場所へと向かっているのだが、進めば進むほど寂れていく街並みに、次第に不安が湧き上がってきた。このようなところに、まともな店があるとはとても思えない。
「もう少し先だな。そう心配するなって」
 マックスは白い歯を見せた。
 サイファは横目を流して口を開く。
「あらかじめ言っておきますけど、いかがわしい店なら帰りますよ」
「いかがわしい店? それってどんな店だ?」
「女性がお酒を作ってくれるような店です」
 マックスは面食らったようにきょとんとした。だが、次の瞬間、弾けるように豪快に笑い出した。後ろを歩くエリックとティムも、つられて笑い出す。
「どうして笑うんですか」
 サイファはマックスを軽く睨んだ。
「いやぁ、可愛いなぁ、おぼっちゃんは」
「おぼっちゃんはやめていただけますか」
 そう言ってもマックスはまだ笑い続けていた。ひとしきり笑うと、サイファの肩に腕をまわし、ニッと口の端を上げて顔を寄せる。
「その定義で言うならな、実はちょっといかがわしいってことになる」
「……僕、帰ります」
 サイファは低い声で言った。
「まあまあ、店を見てからでも遅くないだろう」
 マックスはサイファの頭をガシガシと乱暴に撫でまわす。鮮やかな金髪がぐしゃぐしゃになった。
「いかがわしい店だったら本当に帰りますよ」
 サイファはマックスの手をゆっくりとどけた。頭を軽く左右に振る。乱れた髪はすぐに元に戻った。

 一行はさらに狭い路地裏へ入っていった。すでにあたりに人気はない。気味が悪いくらいに静かだ。サイファは周囲を見まわし、無意識に警戒心を強める。
「この下だ」
 マックスが地下へと続く細い階段を指差した。その先には飾り気のないドアがひとつだけある。とても店には見えない。物置といった方が説得力がある。
「看板、出ていませんよ」
「一見さんお断りの店だからな、あえて出してないんだ」
 一応、筋の通った話ではあるが、そこまで隠すのはやはり妙だ、とサイファは思う。
「何というお店ですか?」
「え?」
「お店の名前です」
「何だったかな……おまえら知ってるか?」
 マックスは後ろのふたりに振り返って尋ねる。
「さあ、記憶にはありませんね」
「気にしたこともなかったな」
 ふたりの答えは素っ気ないものだった。
「俺たちは隠れ家って呼んでるがな」
 マックスはサイファに振り返り、陽気に声を弾ませる。
 サイファは眉根を寄せた。その呼び方を聞いて、不審に思う気持ちがますます大きくなった。

 マックスが先頭をきって階段を降りていく。そのあとにサイファ、エリック、ティムと続く。階段が狭いため一列にならざるを得ない。体格のいいマックスとティムは、それでも窮屈そうである。擦れ違うだけの余裕はない。
「ちーっす」
 挨拶だか何だかわからない言葉を発しながら、マックスはドアノブをまわして扉を開いた。サイファの上腕を掴み、強引に中に連れ込む。
「いらっしゃい」
 狭く薄暗い店内には、数人が座れるくらいの小さなカウンターと、ふたつの小さなテーブル席があった。カウンターには、長い黒髪の妖艶な美人が座っていた。頬杖をつき、物憂げにこちらを見つめている。この店の女主人なのだろう。客はひとりもいないようだ。
「帰ります」
 サイファは踵を返そうとしたが、マックスは腕を掴んだまま放さない。
「まあ待て」
 ニヤリと笑いながら引き留める。
 サイファは眉を寄せて反論する。
「見るからにいかがわしいじゃないですか」
「いかがわしいって私のことかしら?」
 女主人が気怠そうな声で尋ねる。サイファが振り向くと、彼女は朱い唇に微かな笑みをのせた。
「いえ……申しわけありません」
 サイファは彼女を窺いつつ頭を下げた。店の主人を前にして失礼だった、と素直に反省する。
「入口で騒いでないで、とりあえず中に入りなさい。取って食いはしないわ」
「ま、観念するんだな」
 マックスは笑いながら、サイファの背中をバシッと叩いた。エリックとティムも、後ろで軽く笑っていた。

「いらっしゃい、マックス!」
 サイファたちがテーブル席につこうとしたとき、奥から少女が飛び出してきた。長い銀色の髪をなびかせながら、笑顔でマックスのもとに駆け寄る。女主人とは対照的に、明るく溌剌とした子だ。
「おう、久しぶりだな!」
 マックスは大きな手で彼女の頭をクシャクシャと撫でた。その様子は、まるで叔父と姪のように微笑ましく見えた。だが、実際の関係はわからない。「いらっしゃい」と発言していたところからすると、彼女はこの店の関係者に違いない。明らかに未成年だが、ここに雇われているのだろうか——サイファは怪訝な眼差しを彼女に送る。
 その視線に気がついたのか、少女は瞬きをして振り向いた。濃い蒼色の瞳が、サイファを興味深げに捉える。
「ねえ、この人は?」
「そうだ、先に紹介しておこう」
 マックスはサイファの首に腕をまわして引き寄せた。頭に拳骨をグリグリと押し当てる。
「こいつはウチの新人のサイファ。カウンターにいるのは女主人のフェイ。で、このお嬢ちゃんが、フェイの娘のアルティナちゃん」
 娘か……。
 サイファは少し安堵した。
「よろしくね!」
 アルティナはまっすぐ腕を伸ばし、右手を差し出した。
 サイファはふっと口もとを緩める。
「よろしくお願いします」
 穏やかな声でそう言うと、彼女と握手を交わした。
 この店に対するいかがわしいという評価は、このとき、サイファの中からほとんど消え去った。ふと、女主人のフェイの方に目を向けたが、彼女はもうカウンターにはいなかった。
 マックスはサイファの肩を抱いたまま、ニコニコして話を続ける。
「こいつ、実はラグランジェ本家の跡取りなんだ」
「ラグランジェ?」
 アルティナは首を傾げた。
「知らないの? 魔導の名門一族だよ」
 既に座っているエリックが、横から補足する。
「お金持ちってこと?」
「すっごいぞ、半端ねぇぞ、とんでもねぇぞ」
 マックスは力を込めて畳み掛ける。どれも抽象的な言葉だ。ラグランジェ家のことをそれほど詳しく知っているわけではないのだろう。
「へぇ……じゃあ、私、玉の輿ねらっちゃおうかなっ」
 アルティナは両手を組み合わせ、はしゃいだ声で言う。
「残念ながら、そりゃあ無理なんだな」
 マックスは白い歯を見せる。
「どうして?」
 アルティナは口をとがらせて尋ねる。
「こいつには既に婚約者がいるんだよ、な?」
「ええ」
 サイファは微笑みながら頷いた。
「それがもうめちゃくちゃ可愛い子なんだぞ!」
 今まで大人しかったティムが、急に興奮したように割り込んできた。なぜか両手を挙げている。椅子が倒れそうになり、慌てて座り直した。
 エリックはくすくす笑うと、サイファに視線を送って尋ねる。
「確か、アルティナちゃんと同じくらいの年じゃなかった?」
「12歳です」
「やだ、本当に同じ年」
 アルティナは上半身を引いて一歩後ずさった。眉をひそめて怪訝にサイファを見つめる。
「……ロリコン?」
「違いますよ。彼女が生まれたときに、親どうしが決めたんです」
「うそっ、まだそんな前時代的なことやってるの?!」
 昔は親同士が決めた婚姻というのもわりとあったらしいが、今はほとんどが本人同士の意思で決めている。このようなことを伝統的に行っているのはラグランジェ家くらいだろう。王家でも、今はもう少し自由だ。
「自分で結婚する人も決められないなんて不幸ね……」
 アルティナは顔を曇らせ、同情するように呟いた。
 サイファは目を細め、くすりと笑う。
「そうでもないですよ」
「そりゃそうだろう! あんな可愛い子で文句を言ったらバチが当たるぞ! 呪われるぞ! てか、俺が呪ってやる!!」
 ティムは右手をぐっと握りしめ、鼻息荒く力説する。
「へぇ、そんなに可愛いんだ」
「まあ、ティムがそう言いたくなる気持ちもわかるかな。アルティナちゃんは美人系だけど、あの子は可愛い系だね。お人形さんみたいだよ」
 エリックはにこやかに言った。
「人形……?」
 アルティナは、隅に放置して埃をかぶっている操り人形に目を向けた。
「違う、違う。そうじゃないって!」
 ティムは立てた手を大きく左右に振り、むきになって否定する。
「可愛らしい少女人形だよ。ひらひらの服を着たやつ。色白で目がぱっちり、ほっぺはピンク色でぷくっとしててさ。とにかくものすごく可愛いんだぞ!」
「知らないからわかんない」
 アルティナはティムの熱弁を冷たく流した。サイファに振り向き尋ねる。
「ねぇ、写真は持ってないの?」
「持ってないですよ」
「えー、本当? お財布とかに入れてるんじゃないの?」
「写真なんかに頼らなくても、目を閉じれば姿が思い浮かべられますから」
 サイファはすまして言う。
 だが、マックスはニヤニヤして、太い腕で首を絞めつつ覗き込んできた。
「本当は持ってたくせに、なに格好つけてんだよ」
「ちょっと、苦しいですって」
 サイファは顔をしかめて訴えた。
 マックスは笑いながら腕を外すと、アルティナに向き直って言う。
「この前、写真を取り上げられてみんなに回されてから、持ってこなくなっちまったんだよ。クールに見えて意外と照れ屋なんだコイツ」
「違いますよ。彼女に好奇の目を向けられるのが耐えられなかっただけです」
 それは嘘ではなかった。レイチェルの写真を見てにやついたり、あれこれ好き勝手なことを言う連中が許せなかった。そのときは何とか耐えたが、今度そんなことがあったら、抑えが利かなくなりそうだと思ったのだ。
「いつまで喋ってるの? アルティナ」
 いつのまにかフェイが近くまで来ていた。光沢のある黒のロングドレスを身に纏い、ビールの入ったジョッキと簡単なつまみを載せた丸盆を両手で持っている。
「奥へ行って手伝ってちょうだい」
「はーい」
 アルティナは軽い調子で返事をすると、軽い足どりでカウンターの奥へ駆けていった。
 フェイは盆の上のものを、優雅な所作で、手際よく狭いテーブルに移した。
「ごゆっくり」
 目を細めてゆったりと言うと、空になった盆を脇に抱え、颯爽と踵を返して戻っていく。艶やかな黒髪が、背中で緩やかに揺れた。

「えー、それでは……」
 マックスはジョッキを持って立ち上がった。サイファ、エリック、ティムは、座ったままでジョッキを手にしている。
「サイファ、一年という短い期間だが仲良くやろうや。俺たちは、おまえを心から歓迎する」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 サイファはにこやかに微笑んで応える。
「それじゃ、乾杯っ!」
 マックスは勢いよく高々とジョッキを掲げた。泡が波を打ち、こぼれ落ちる。
「乾杯!」
 残りの三人は、マックスよりも上品にジョッキを持ち上げた。

 こうして、ささやかな宴が始まった。

「今日は俺の奢りだ。じゃんじゃん飲め!」
 マックスは豪快に笑いながら、サイファの肩に腕をまわした。マックスのジョッキは既に空になっている。先ほど大声でフェイに追加を頼んでいた。
「それほど強くないので、あまり勧めないでください」
 その言葉を裏付けるかのように、サイファのジョッキの中身は、まだほとんど減っていない。
「なんだ、何でもできるスーパーおぼっちゃんにも不得手なものはあったのか」
 マックスは妙に嬉しそうだった。まるで子供のような笑顔を見せている。
「おぼっちゃんはやめてください」
「だけど、おぼっちゃんには違いねぇだろ。親にぶたれたこともないんだろう?」
「ありませんよ。家庭教師には何度か殺されかけましたけどね」
 サイファは涼やかな表情でさらりと言った。嘘ではないが、少しばかり誇張していた。死ぬかと思ったことはあったが、死にかけたことはない。
「殺され……って……」
 ティムは真に受けたらしく、言葉をなくし唖然とした。
 エリックはハッとしてジョッキを置いた。
「そうか、君の家庭教師ってラウルだったよな?」
「そうですよ」
 サイファは素っ気なく答える。
「ラウルって?」
 ティムは誰にともなく尋ねる。
「王宮医師のデカいヤツだよ。睨んだだけで人を殺せるって噂の。聞いたことないのか?」
 マックスはよくわからない身振り手振りを交えながら言う。
「さあ……」
 ティムは奇妙な表情で首を傾げた。
 サイファもそんな噂は聞いたことがなかった。睨んだだけで人を殺せるなど、まるで神話の世界だ。とんでもない噂が一人歩きしているな、と可笑しくなった。下を向いてこっそりと笑う。
「まあ、人を殺せるってのは大袈裟だろうけどな。そのくらいの迫力はあるぞ。一度、腕の怪我を治療してもらったことがあるんだが、ビビリすぎて腕の痛みを忘れちまったくらいだ」
「班長、ビビリすぎですよ……」
 屈強なマックスの情けない話を聞き、ティムは苦笑いした。
「おまえはラウルを知らないから、そんなことが言えるんだ」
 マックスは眉根を寄せて腕を組む。
「しかし、あとで冷静になって思い返してみれば、医師としては結構まともだった気がするな。言うことはきついが間違ってないし、治療も的確だったよ」
「自分も診てもらったことがありますけど、そんなに恐ろしくはなかったですよ。確かに無愛想でとっつきにくいですし、積極的に行こうとは思いませんけど」
 エリックも同調する。
「サイファ、教え子のおまえから見たらどうなんだ?」
 マックスは、黙って聞いていたサイファに話を振った。
 サイファは満面の笑みで答える。
「内緒です」
「何だ、気になるなオイ!」
 マックスは机に片手を置き、身を乗り出した。
「もしかして、意外な一面とか知ってるんじゃないのか?」
「話の種になるような面白いことはなかったですよ」
「もったいつけんな! ケチくせぇぞ!」
 エリックはふたりのやりとりを聞いて微笑んだ。
「ラウルのこと、嫌いではないんだね」
「好きですよ」
 サイファはさらりと答えた。
「はぁ?」
 マックスは口をあんぐりと開けた。太い眉を寄せ、訝しげに尋ねる。
「殺されかけたのにか?」
「ええ」
 サイファは軽く言う。
 マックスは腕を組んだ。何とも言えない微妙な表情で首を傾げる。
「おまえ、ちょっとズレた奴だと思っていたが、ちょっとどころじゃなく、かなりズレてるな……」
「そうですか?」
 サイファはとぼけたようにそう言うと、涼しい顔でナッツを口に運んだ。

 それから二時間ほどが過ぎた。
 その間、他の客は二人しか来ていない。それぞれふらりとやってきて、カウンターで静かにフェイと話しながら軽く飲み、帰っていった。二人とも魔導省の制服を身に着けていた。今は他の客はひとりもいない。
 サイファたちのテーブルは、最初から変わらず賑やかなままだった。陽気なマックスが、途切れることなく場を盛り上げるのだ。これも一種の才能といえる。主にたわいもない雑談だったが、だからこそ何も考えずに笑えるのだろう。

「サイファ、ちょっとこっちに来ない?」
 カウンターからアルティナが呼んだ。両手で頬杖をつき、ニコニコとしている。
「アルティナちゃんからのご指名だぞ! 行ってこいや!」
 マックスは野太い声を響かせると、残り少ないビールのグラスをサイファに押しつけ、大きな手で肩をバンと叩いた。
 サイファは椅子から落ちそうになり、よろけながら立ち上がる。ビールは辛うじてこぼれなかった。マックスを一瞥すると、小さく息をつき、カウンターに向かって歩き出した。

「こんにちは、アルティナちゃん」
 サイファはにっこり微笑んで、彼女の前の席に座った。グラスをカウンターに置く。
 アルティナはムッとして口をとがらせた。
「ちゃん付けはやめてくれる?」
「他の人はそう呼んでいたけど?」
 サイファは顔を斜めにして頬杖をついた。
「サイファとはそんなに年が違わないじゃない。バカにされてるみたいに感じるわ」
「じゃあ、アルティナさん」
「アルティナさん? アルティナさんか……それ、いいかも」
「気に入ったんですか?」
「ちょっとくすぐったいけど、でも、うん、それでお願いね!」
 アルティナは上機嫌で声を弾ませた。
「わかりました」
 サイファは笑顔で応じた。だが、内心では少し驚く。まさかこれを気に入るとは思わなかった。本当はからかうつもりで言ったのだ。しかし、彼女が望むのであれば、そう呼ぶことに異存はない。今は少し奇妙に感じるが、そのうちに慣れるだろう。
「お酒、何か作ってあげよっか。ウィスキーでいい?」
「そうですね、ロックでお願いします」
「了解!」
 アルティナは手際よくウィスキーのロックを作る。随分と手慣れているようだ。いつもこうやって店を手伝っているのだろう。
「はい、どうぞ」
 作りたてのウィスキーをサイファに差し出し、古い方のグラスを引っ込める。
「じゃんじゃん飲んでね!」
「じゃんじゃんは無理です。僕はそんなに強くないんですよ」
「えーっ、せっかくの金づるだと思ったのに」
 アルティナのあまりに率直な物言いに、サイファはくすっと吹き出した。
「お金、どうしたいんですか?」
「この店、だいぶ古びてるでしょう? 修復したいところが結構あるの」
「お母さん思いなんですね……お父さんは?」
 サイファはウィスキーに口をつける。
「いないわ」
 アルティナはすぐに答えた。屈託のない笑顔で続ける。
「私、お父さん知らないの。お母さんはいわゆる未婚の母ってやつ」
「そうですか」
 サイファは表情を変えずに相槌だけを打った。カウンターの隅にいるフェイにちらりと目を向ける。彼女は無表情でジョッキにビールを注いでいた。話が聞こえていないということは、おそらくないだろう。
「ねぇ、この店、気に入った?」
 アルティナは両腕をついて身を乗り出した。目をくりっとさせて、サイファに顔を近づける。艶のある銀色の髪が、肩からさらりと落ちた。
「ええ」
 サイファは微笑んで答える。
「じゃあ、また来てくれる?」
「ときどきはね」
「毎日来るって言ってくれないの?」
 アルティナは首を傾げながらサイファを覗き込み、不満げに口をとがらせた。
「そんなに暇じゃないですよ」
 サイファは落ち着いた口調で返した。ウィスキーグラスに手を掛ける。
「一日おきなら来てくれる?」
「それも無理です」
「三日に一回は?」
「夜勤もあるんですよ」
「じゃあ、せめて一週間に一回!」
 アルティナは片目を瞑り、指を一本立てた。
 サイファは急にくすくすと笑い出した。口もとに左手を添える。
「え? なに……?」
 アルティナは困惑して顔を曇らせた。
 サイファは息をついて笑いを止めると、視線を上げて言う。
「いえ、すみません。元気だなと思って」
「あ、バカにしてるわね?!」
 アルティナは腰に両手を当て、眉を吊り上げた。
「そうじゃないです。こういう子がレイチェルの友達になってくれたら、って考えてたんですよ」
「レイチェル? 誰?」
「僕の婚約者」
 サイファは頬杖をつき、口もとを緩めた。目を細めて彼女を見る。
「アルティナさんとなら、気が合いそうな気がする」
「いいところのお嬢さまなんでしょう? どうかなぁ……」
「正反対の方が、かえって上手くいくことが多いですよ」
「どうせ、私はお嬢さまとは正反対ですよーだ」
 アルティナは拗ねたようにそう言うと、つんと顔をそむけて頬を膨らせた。しかし、ふと寂しげな表情を覗かせると、サイファに視線を流してぽつりと尋ねる。
「お嬢さま、もしかして友達いないの?」
「まわりに同じ年頃の子がいないんだ。学校にも行ってないしね」
 サイファはカウンターに肘をつき、顔の前で両手を組み合わせる。
「今までは僕がずっと一緒に遊んできたけど、就職してからは、今までのようにはいかなくてね。寂しい思いをしているんじゃないかな」
「大切に思ってるんだ、婚約者のこと」
 アルティナは優しい声で言った。
「大切ですよ、誰よりもね」
「あれ? でも、親どうしが決めた婚約じゃなかったっけ?」
「僕はとても運がいい、ってことになるかな」
 サイファは柔らかい表情で言った。
 アルティナはにこりとした。立てた人差し指を口もとに当て、斜め上に視線を流す。
「こういうときは『ごちそうさま』って言えばいいのかな?」
「え? どうしてですか?」
 サイファは大きく瞬きをして、不思議そうに尋ね返した。

「おう、飲んでるかー?」
 赤ら顔のマックスが、ジョッキを片手にやってきた。足どりはしっかりとしている。それほど酔いはまわっていないようだ。ジョッキをカウンターの上に置き、サイファの隣にどっしりと座る。細身の椅子がギシリと軋んだ。
「飲んでますよ」
 サイファはウィスキーグラスを軽く爪で弾いて答える。だが、顔色も口調も、まったく普段のままだった。
「おまえ、まだ全然しらふだろう」
「あしたも仕事があるじゃないですか」
「あしたになれば抜けるさ」
 マックスは半分くらい残っていたビールを一気に呷った。そして、空になったジョッキを掲げて言う。
「アルティナちゃん、おかわりね」
「はーい」
 アルティナは愛想良く返事をして、空のジョッキを受け取った。

「実はな……」
 アルティナが二人から離れると、マックスは急に真面目な声で切り出した。カウンターに両腕を置いて寄りかかり、思い出したように小さく笑う。
「おまえの配属がウチに決まって、最初に書類を見せられたとき、とんでもねぇ嫌なヤツだなって思ったんだ」
「そんな気はしてました」
 サイファは僅かに微笑んだ。
「ラグランジェの、それも本家の一人息子なんていうだろう? 写真を見たら、案の定、苦労なんざまったく知らないような綺麗な顔をしてやがる。おまけに、試験もなしに入ってきたっていうじゃねぇか。なんだそりゃって思ったよ」
「そう思って当然ですよね」
 顔のことはともかく、無試験の特別措置で入省したことについては、反発があるだろうと予想はしていた。サイファ自身でさえ不穏当だと感じるくらいである。だが、前当主である祖父が進めたことであり、逆らうことはできなかった。ラグランジェ家の力を誇示し、威厳を強めたかったのだろう。
「今までも何度か幹部候補生を預かってきたが、おまえさんみたいな大物は初めてだったし、どうしたものかと頭を抱えていたわけさ」
「班長でも悩むことがあるんですね」
「おまえ、バカにしてるな? こう見えて、俺の心はガラス細工のように繊細なんだぞ」
 マックスは眉をひそめ、自分の厚い胸板に、節くれ立った右手を当てて主張する。
「そうですか」
 サイファは笑顔で軽く受け流した。
 マックスはカウンターに肘をつき、小さく息を吐いた。顔を大きく上げて、僅かに目を細める。
「だがな、実際のところは想像とえらく違ってて驚いたよ。確かに育ちの良さそうなおぼっちゃんだが、仕事に関しては新人とは思えないくらい使えるじゃねぇか、って。初めてのときでも驚くくらい落ち着いてたしな。ビビって腰が引けるか、興奮してまわりが見えなくなるか、緊張してガチガチになるか、ってあたりが普通なんだが」
「多少は緊張していましたよ」
「多少緊張しているくらいがちょうどいいんだよ」
 マックスはウィスキーグラスに手を伸ばした。サイファの手もとに置いてある、サイファが飲んでいたものだ。それを左右に振って揺らすと、一口だけ流し込んだ。
「それに素直だ」
「えっ?」
 サイファは話の繋がりが理解できずに聞き返す。
 マックスは、グラスをサイファの手に戻して言う。
「指示通りに動いてくれる」
「班長の指示が的確なので従っているだけです。間違っていると思えば反論します」
「ああ、もちろんそれは構わない。問題なのは、正しいとわかっていても従わない奴だ。幹部候補生にはときどきいるんだよ」
「そんなことをしても何のメリットもないですね」
 サイファは淡々と言う。
「プライドが邪魔をするんだよ。現場の人間なんかに指示されたくないって思ってるのさ」
「それはプライドとはいいません。単なる思い上がりです」
 マックスはニヤリと笑い、サイファに目を向けた。
「俺はおまえをけっこう気に入っている。ちょっと変わった奴だがな」
「僕もこの班のことをけっこう気に入ってますよ」
 サイファも、にっこりと笑って言葉を返した。
 マックスはふっと息を漏らす。
「おまえが上に行っても、俺たち現場のことを忘れないでいてくれたら有り難いんだがな」
「努力します」
 サイファは笑顔のままで軽く言う。
「ま、そこまでは期待しないさ」
 マックスは背筋を伸ばしながら、頭の後ろで手を組み、胸を張って大きく呼吸をした。

「はい、おまちどうさま」
 アルティナが元気よく姿を現すと、マックスの前にジョッキを置いた。ビールがなみなみと注がれている。ビールを持ってくるだけにしては時間が掛かりすぎた。サイファたちの会話に割り込めなかったのかもしれない。
「おう、ありがとな」
 マックスは待ってましたとばかりにジョッキを手に取り、半分ほどを一気に飲んだ。これで何杯目かはわからないが、最初からずっとこの勢いで、ほとんど途切れることなく飲み続けている。相当な量になることは間違いない。それでも意識ははっきりしているようだ。
「強いんですね」
「まあ、そこそこな」
 マックスはサイファの肩に腕をのせ、ニッと白い歯を見せた。少し体重を掛けて寄りかかる。
「しかし、おまえ間近で見ても綺麗な顔してるなぁ」
「唐突に何ですか」
 サイファは僅かに眉をひそめた。少し顔をそむける。
「女でも十分に通用するぞ。潜入捜査に使えるかもな」
 マックスは値踏みするように横顔をまじまじと見つめ、独り言のように呟く。
「使えませんよ。無理に決まってるでしょう」
 サイファは即座に却下した。少し呆れたような声音が混じった。
「可能性を闇雲に否定するのは良くないな。やってみなきゃあ、わからん」
「そんなに顔を近づけられると酒くさいんですけど」
 マックスの腕はずっとサイファの肩にのったままだった。かなり重い。顔も近い位置にある。
「つれないこと言うなよ。せっかく親睦を深めようとしてるのに」
「普通に会話するだけでいいじゃないですか」
「何をいう、スキンシップも大切だぞ?」
「班長は普段からスキンシップ過多だと思いますけどね」
 そのとき、不意に生温い感触が頬に当たった。
「……えっ?!」
 サイファはぎょっとして仰け反るように身を引いた。その勢いで椅子からずり落ち、バランスを崩して足がもつれ、背中から床に倒れ込んだ。視線の先には天井の梁があった。
 それを見て、アルティナは腹を抱えてケラケラ笑った。
「大丈夫?」
 テーブル席の方にいたエリックも、笑いを噛み殺している。隣のティムは下を向いて大きな背中を揺らしている。やはり笑っているに違いない。
 サイファは手の甲で頬を拭いながら立ち上がり、あからさまに不機嫌な表情を見せた。背中も軽く払う。自分では汚れているのかわからなかったが、脱いでまで確かめる気にはなれなかった。
「いやぁ、可愛い反応だなぁ。驚いたか?」
 マックスは嬉しそうに尋ねる。
「驚きましたよ」
 サイファは静かな口調で、しかし腹立たしげに言う。
 マックスはニッと口の端を吊り上げた。
「素直に認めるのはいいことだ。そうでなくちゃ、成長しない」
「ええ、もう二度と同じ手は通用しませんよ」
 サイファは先ほどまで自分が座っていた席の隣、つまりマックスからひとつ離れて座った。カウンターの上で両手を組み合わせる。
 おまえは想定外の事柄に対する即応力が不足している——ラウルから繰り返し注意されていたことである。それにもかかわらず、よりによって、こんなつまらないことで露呈させてしまうなど、言いようもないくらいに悔しい。
「あれはただの冗談だから、気にしない方がいいよ」
 エリックは苦笑しながら、気遣わしげにフォローした。
「反応を楽しんでるだけなんだ。酔うとときどきやるみたいだね。僕も何度かされたことあるし」
「本気だったら怖いですよ」
 サイファはぼそりと言い返す。冗談であることくらい言われずともわかっていた。だからこそ、まんまとそれに嵌ってしまった自分を情けなく思うのだ。
「いや、本気だぞ。本気の愛情表現だ!」
 マックスはまるでサイファの神経を逆撫でするかのようにそう言い、愉快そうにワハハと笑った。
「班長、俺はされたことないですよ?」
 ティムは自分を指差し、寂しげに尋ねる。
「俺より体格のいい奴は守備範囲外なんだよ」
「そんなぁ……」
「あなたたちの方が、僕よりよっぽど変わってますよ」
 サイファは肘をついて額を押さえ、大きく溜息をついた。金の髪がさらりと頬にかかる。みっともないところを晒しすぎた——そんな自己嫌悪が湧き上がる。だが、それと同時に、なぜだか笑いも込み上げてきた。

「サイファ!」
 静かな路地裏に響く高い声。
 帰ろうと外に出たサイファたちを追いかけ、アルティナが階段を一段とばしで駆け上がってきた。癖のない銀色の髪が、月の光を浴びて神秘的な輝きを放つ。
「本当にまた来てね」
 彼女は後ろで手を組み、にっこりと笑いかけて言う。
「そのうちね」
 サイファも笑顔を返す。
「おいおい、サイファだけかよ。俺たちには言ってくれないのかよ」
 ティムが呆れたように抗議する。
「だってサイファが一番の金づるなんだもの。大切にしなくちゃ」
 アルティナは人差し指を立て、悪戯っぽく小首を傾げる。
 マックスは彼女の頭に、大きな手をぽんとのせた。片目を瞑って言う。
「俺がまた連れてくるぜ。無理やり引っ張ってでもな」
 アルティナはパッと顔を輝かせた。
「本当?! じゃあ約束ね、マックス!」
「おう! 任せとけ!」
 マックスは笑いながら答えた。
「じゃあな」
 アルティナの頭から手を離し、大きく手を上げると、月明かりがほのかに照らす道を進んでいく。サイファたちも彼女に手を振り、マックスのあとについて歩いた。
 アルティナは、彼らの姿が見えなくなるまで、大きく両手を振って見送った。

「どうだった? いかがわしい店は」
 サイファと並んで歩きながら、マックスは濃紺の空を見上げて尋ねる。
「店は悪くなかったですね。ただ、客の一部がいかがわしかったようですけど」
 サイファは無表情で淡々と答える。
「お? それは俺のことか?」
 マックスはニヤリとして嬉しそうに言うと、サイファの肩に腕をまわそうとした。だが、それは豪快に空振った。サイファが屈んでかわし、素早く後ろに逃げたのだ。涼しい顔でエリックの隣に立っている。
「おまえ、反応が過敏になってるぞ」
 マックスは眉根を寄せて振り返り、低い声で言った。
 サイファはくすりと笑った。
「でも、楽しかったですよ。いろいろと新鮮な経験でした」
「それ本心か? どうもおまえは考えてることが読みにくいんだよなぁ」
 マックスは腕を組み、眉をひそめて大きく首を捻った。
 サイファはとびきりの笑みを浮かべた。形の良い唇から言葉が紡がれる。
「信じる、信じないはご自由に」

 闇夜の空には無数の星が散りばめられていた。ひとつひとつ、異なる大きさと異なる色で煌めく。地上にもたらされた微かな光は、静寂の街をほんのりと柔らかく彩った。


7. 砕けた幻想

「家庭教師だと?」
「そう、レイチェルのな」
 アルフォンスは真面目な顔で頷いた。大きな体にはいささか頼りない小さな丸椅子に腰掛け、正面のラウルをまっすぐに見据えている。
「サイファの家庭教師を終えたばかりで申し訳ないが、引き受けてはもらえないだろうか」
 ラウルは眉根を寄せ、横の机に肘をついた。
「魔導の制御を学ばせるということか」
「それも目的のひとつだ」
 アルフォンスは目を逸らすことなく冷静に答える。
「ただ、今は魔導を嫌がっている状態でな。無理強いはしたくない。いずれ説得をして学ばせるつもりだが、とりあえずは、あの子を見守りつつ、普通に勉強を教えてやってほしい」
「おまえに説得などできるのか。娘には甘いのだろう」
 ラウルは冷ややかに言う。アルフォンスが娘を溺愛していることは知っていた。サイファはよくその話をしていたし、ラウル自身もそういう光景を目撃したことがある。魔導の教育を止めているのも、娘の我が侭を聞き入れてのことだろう。そもそも「無理強いをしたくない」ということが、甘いとしか言いようがない。
 アルフォンスは眉間に皺を寄せ、表情を険しくした。
「確かに難しいとは思うが、やらねばなるまい。それがあの子のためだからな。そのときは君にも手伝ってもらうかもしれない。もちろん、家庭教師を引き受けてくれたらの話だが」
「……いいだろう」
 ラウルは表情を動かさず、低い声で言った。
 断ることなど初めから考えていなかった。レイチェルを見守ることは、彼自身の望みでもあったのだ。ただ、微かな不安が胸にわだかまった。彼女の傍で心を乱さずにいられるだろうか、と——。
 外で木々がざわめいた。クリーム色のカーテンがふわりと丸みを作り、大きく波を打つ。そこから滑り込んだ新鮮な風が、消毒液の匂いを攫い、焦茶色の長髪を舞い上げた。

 数日後、ラウルはレイチェルの家へやってきた。
 非常識に大きなラグランジェ本家と比べると格段に小さいが、その家も豪邸と呼んで差し支えないくらいのものだった。新しくはないが、単に古びているという印象ではなく、価値のある年代物といった風格がある。
 玄関で呼び鈴を鳴らし、しばらく待つと、重厚な扉がゆっくりと開いた。
「待っていたよ、来てくれてありがとう」
 アルフォンスは穏やかな笑顔を浮かべ、歓迎の意を表した。平日だが休暇を取ったと聞いている。律儀な男だ、とラウルは思う。
「紹介しておこう、妻のアリスだ」
「初めまして、アリス=ローズマリー=ラグランジェです」
 アルフォンスの背後に控えていた彼女は、一歩前に出ると、ドレスの裾を持ち上げ、軽く膝を曲げた。長い金色の髪がさらりと揺れる。まだ若く可愛らしい印象ではあるが、レイチェルとはそれほど似ていない。そのことに、ラウルは無意識に安堵する。
「ウチは壊さないでもらえるとありがたいんだけど」
 アリスは上目遣いで悪戯っぽく言った。サイファの家庭教師のときに、ラグランジェ本家の屋敷を壊したことを知っているのだろう。本気で頼んでいるのか、からかっているだけなのか、彼女の本心はわからない。
「今のところ壊すような予定はない」
「ずっとそんな予定は立てないでね」
 愛想のないラウルに臆することなく、アリスは明るく答えてくすくすと笑った。
 アルフォンスは二人の間に入り、両の手のひらを上に向けて提案する。
「どうだろう、家庭教師を始める前に、我々だけで少しお茶でも」
「気遣いは不要だ」
 ラウルはぶっきらぼうに言った。
「では、レイチェルのところへ案内しよう」
 アルフォンスは落ち着いた声で、すぐに話を切り替えた。右手で幅の広い階段を示すと、そこを静かに上がってラウルを先導した。

 コンコン——。
 アルフォンスは二階の突き当たりにある白い扉をノックした。
「レイチェル、新しい先生が来たよ」
「はい」
 中から可憐な声が聞こえた。しばらくして、カチャリと扉が開き、レイチェルが姿を現した。薄水色のドレスを身につけている。アルフォンスの後ろに立っているラウルを見上げると、驚いたように大きく目を見開いた。新しい家庭教師が誰であるかは、聞かされていなかったらしい。
「サイファのところで何度も会っているな? 王宮医師のラウルだ」
「私の家庭教師?」
「そうだよ。おまえ以外にはいないだろう」
 アルフォンスは優しく笑いながら言った。娘の頭に大きな手をのせる。
「言うことを聞いて、よく勉強しなさい。あまり困らせるんじゃないぞ」
「はい、お父さま」
 レイチェルはよく通る澄んだ声で答えた。
 アルフォンスは嬉しそうに顔を綻ばせる。彼のこのような表情は、娘の前でしか見られないだろう。ラウルに振り返ると、急に神妙な顔になる。
「では、よろしく頼む」
「わかった」
 ラウルは短く返事をした。
「どうぞ」
 レイチェルはにっこりと微笑むと、扉を大きく開き、ラウルを中へ招き入れた。

 彼女の部屋は広かった。だが、豪華という印象はあまりなく、拍子抜けするくらい簡素ですっきりとしていた。置いてあるものに無駄がないのである。人形やぬいぐるみといったものは見当たらず、家具類のほとんどは飾り気のないものだった。カーテンも、勉強机も、本棚も、さすがに質は良さそうだが、形状的にはごく普通のものである。普通でないものは、天蓋のついたベッドくらいだった。これだけはとても華やかで人目を惹いていた。だが、浮いているというわけではない。むしろ、この広い部屋には、ほどよく釣り合っているように感じられた。
「まずはこれをやれ。おまえの力を知っておきたい」
 ラウルは紙の束を取り出し、レイチェルの前の机に置いた。それはテスト問題だった。分量はかなり多い。彼女がこれまで勉強してきた内容をアルフォンスから聞いて、ラウルが作ったものである。これで今の実力を量ることが出来るだろう。けっこう頭がいい、とアルフォンスは言っていたが、親バカの言うことでは当てにならない。
 レイチェルは「はい」と答え、素直に机に向かって解き始めた。ときどき考え込みながら、紙に鉛筆を走らせていく。静寂の中で、筆記の軽い音だけが淡々と響いた。
 ラウルは彼女の斜め後ろの椅子に座り、腕を組んでその様子を見つめた。身じろぎもせず、ずっと目を逸らすことなく視線を送る。そうする必要はない。他のことをして時間を潰せばいいのだ。実際、サイファのときはそうしていた。だが、今は、彼女に重なる面影が、自分の目を惹いて離さなかった。
 レイチェルは不意に手を止めた。ゆっくりと振り向き、不思議そうにラウルを窺う。
「どうした」
 ラウルが尋ねると、彼女は曖昧に目を伏せ、首を横に振った。金の髪がさらさらと揺れ、後頭部のリボンも小さく揺れる。何か言いたげな表情を抑え込むと、無言のまま、再び机に向かって手を動かし始めた。
 彼女は自分に向けられた視線が気になったのだろう。じっと見つめられては無理もないことだ。そして、その相手を訝しく思う気持ちもあったのかもしれない。
 ラウルは椅子から立ち上がった。彼女に背を向けて窓際に向かう。レースのカーテンをさっと開け、窓枠に寄りかかりながら腕を組むと、ガラス越しに空を見上げた。流れゆく雲を眺めながら、小さく溜息をつく。こうでもしないと彼女から目を離すことが出来なかった。

「終わったわ」
 レイチェルはそう言って鉛筆を置いた。窓際のラウルに駆け寄り、何枚もの解答用紙を両手で差し出す。
 ラウルは無表情でそれを受け取った。
「今日はここまでだ。明日、これを採点してくる」
「はい」
 レイチェルは明るく返事をして微笑んだ。
 ラウルは眉根を寄せた。手にした紙束をまとめ、部屋を出ようと足早に扉に向かう。その後ろから軽い足音が追いかけてきた。
「送っていくわ」
「来なくていい」
 ラウルは振り返りもせず、冷たくあしらった。だが、レイチェルは素早く前に回り込むと、後ろで手を組み、ラウルを見上げてにっこりと笑った。やめるつもりはなさそうだった。

 外はまだ日が高かった。澄みきった青い空から、強めの陽射しが降り注いでいる。予定では夕方頃までかかるはずだったが、レイチェルは随分と短い時間で終えた。だが、感心するのはまだ早い。きちんと解けているかどうかは、採点しなければわからないのだ。
 前を見ながら嬉しそうに歩くレイチェルに、ラウルはふと疑問に思ったことを尋ねる。
「他の家庭教師も送っていたのか」
「ううん、ラウルだけよ」
 なぜだ、と続けて問いたかったが、一瞬の躊躇いが口に出すことを止まらせた。だが——。
「ラウルは特別だから」
 レイチェルは愛くるしい笑みを浮かべて言った。まるで心を読んだかのような、絶妙のタイミングだった。
 ラウルは僅かに眉を寄せ、視線だけを彼女に流す。
「特別?」
「サイファがそう言っていたの」
 レイチェルは無邪気に答えた。
 ラウルはそれで合点がいった。彼女のこの行動に深い意味などない。サイファのやっていたことを真似ているだけなのだ。それが正しいと信じ込んでいるのだろう。他人との接触があまりない彼女にとって、サイファの影響は想像以上に大きいようだ。
「サイファとはどんな話をしていたの?」
 レイチェルはラウルを見上げ、顔を斜めにして尋ねた。頭のリボンがひょこりと弾む。
「あいつが勝手に喋っていただけだ」
「じゃあ、私が喋らなくちゃいけないのね」
「無理に喋らなくてもいい」
 ラウルは前を向いたまま、淡々と答えを返した。
 その隣で、レイチェルは柔らかい微笑みを見せた。

 暖かい陽だまりの中を、ふたりは並んで歩いた。他には誰の姿も見えない。そこは通路にはなっていないため、普段からあまり人通りがないのだ。両側には高低の木々が立ち並び、視界は豊富な緑に彩られている。時折、草の匂いが鼻を掠めた。
 ふたりとも何も喋らなかった。無言のまま足を進める。だが、そこに張り詰めたものはなかった。少なくとも、ラウルの方は、心地よい穏やかな空気を感じていた。

 建物内に入り、無機質な廊下を歩いていく。途中で何人かとすれ違った。その多くが、遠慮がちに、あるいは物珍しそうに、ラウルたちを窺っていた。化け物との噂もある王宮医師と、魔導の名門一族の愛らしい娘——確かに奇妙な取り合わせなのだろう。
 しかし、レイチェルには、まわりの視線を意識している様子は見られなかった。実際はどうなのかわからない。気がついているのか、ついていないのか、それさえラウルには判別がつかなかった。嫌な思いをしていなければいいが、と願うような気持ちになる。
「ここだ」
 ラウルは医務室の前で足を止めた。隣のレイチェルを軽く一瞥する。そして、カチャリと鍵を開け、ガラガラと扉を引いた。
「今日はありがとう」
 レイチェルの澄んだ声が背後から聞こえた。
 ラウルはそのままの体勢で、顔だけ僅かに振り返る。
「あしたもよろしくね」
 彼女はそう言って、綿菓子のようなふわりと甘い笑顔を浮かべた。
 ラウルは眉を寄せ、目を細めた。
「……ひとりで帰れるか」
「王宮にはよく来ているから大丈夫」
 レイチェルは微笑んだまま答えた。そして、小さく手を振ると、まっすぐな廊下を歩いていった。後頭部の大きな薄水色のリボンが、その足どりに合わせて揺れた。
 ラウルは扉に手を掛けたまま、彼女の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。

 その夜、ラウルは自室でテストの採点をした。結構な分量があるため時間がかかる。一通り終えた頃には、すでに深夜といってもいい時間に差し掛かっていた。
 息をついて立ち上がると、部屋の明かりを消し、カーテンと窓を開け放った。濃紺色の空を見上げる。その片隅には、下弦の月がひっそりと浮かび、淡く儚い光を放っていた。

 翌日、ラウルは再びレイチェルの部屋に来ていた。もちろん、家庭教師としてである。
 きのう採点したテストを机の上に広げると、軽く溜息をついて腕を組む。
「習ったところは良く出来ているが、習っていないところは面白いくらいに空欄だな」
「だって習っていないんだもの」
 レイチェルは当然のように言った。
 ラウルは呆れたように彼女を見下ろす。
「応用という言葉を知っているか」
 だが、レイチェルは何も答えず、にこっと笑顔を返すだけだった。
 ラウルは頭に右手をやり、深く溜息をついた。
 決して出来が悪いわけではない。習っている部分に関しては、ほぼ完璧に近かった。アルフォンスの言うとおり、頭は良い方なのだろう。だが、未知の問題となると、途端に考えもせずに放棄している。それは、もしかすると、性格によるものなのかもしれない。
「これから授業を始める。数学、物理学、魔導理論、どれか選べ」
「数学」
 レイチェルは即答した。
「数学が好きなのか」
 ラウルが問いかけると、彼女は首を横に振った。
「魔導よりはましということか」
「……すごい。ラウルって何でもわかるのね」
 レイチェルは目を大きく見開き、感心したように言った。
 ラウルは無表情で口を開く。
「魔導もそのうちにやる。理論も実技もな」
 実技、という言葉を耳にした途端、レイチェルの顔に小さな怯えの色が浮かんだ。無言のまま、逃げるように視線を逸らせて目を伏せる。
 ラウルは眉根を寄せて言う。
「おまえを守るために必要なことだ」
 レイチェルは戸惑ったような表情で、上目遣いにラウルを窺った。僅かに首を傾げる。自分が危ういくらいに強大な魔導力を抱えていることなど、彼女自身は何も知らない。その意味を理解できなくても当然である。
 だが、ラウルは答えを示さなかった。
「今日は数学だ」
「……はい」
 レイチェルはそう返事をしてから、ゆっくりと微笑んだ。

 途中で一度だけ休憩を挟み、3時間ほど授業を行った。
 レイチェルは手のかからない教え子だった。言われたことには「はい」と返事をして素直に従う。サイファとは大違いである。もっとも、比較対象がサイファでは、ほとんど誰でも「手のかからない子」ということになってしまう。
「今日はここまでだ」
 ラウルはそう言うと、束ねた教本を脇に抱えて部屋を出た。
 当然のように、今日もレイチェルがついてきた。軽い駆け足でラウルに追いつくと、横に並んで歩き、にっこりと笑顔を見せる。
 ラウルはもう何も言わなかった。

 今日も空は青かった。
 言葉もなく、静かな道を並んで歩く。
 彼女に振り向けば、無条件で笑顔を返してくれる。
 ただ、それだけのこと。
 ラウルの歩幅は、いつもより心持ち小さかった。

「ラウル、どこへ行くの?」
 医務室とは違う方向へと足を進めるラウルに、レイチェルは顔を上げて尋ねた。不安そうにはしていない。ただ、不思議そうな顔をしていた。
「別の道を行くだけだ」
 ラウルは素っ気なく答えた。
 レイチェルは疑う様子もなく、嬉しそうな笑顔を見せた。

 ふたりは、王宮内の中庭のひとつに足を踏み入れた。さほど広くはないが、隅々まで手入れが行き届いており、清々しく居心地の良い空間だった。豊かな緑に囲まれたその中央には、透明な水を湛える小さな噴水が佇んでいる。派手な演出はなく、単純に水を噴き上げるだけのものだ。それでも、爽やかな涼しさを感じさせるには十分だった。
 ラウルは噴水の脇で足を止めた。ここは、かつての懐かしい場所にとてもよく似ている。それを知っていてここに来た。知っていたからこそ連れて来たのだ、彼女を……。口を結んで眉根を寄せると、ゆっくりとレイチェルに振り向いた。一瞬遅れて、彼女は花が咲いたようにふわりと微笑んだ。その背後では、噴き上げた水と揺れる水面が、太陽の光を受けてキラキラと煌めいていた。色彩を持って目の前に甦った、色褪せたはずの遥か遠い追憶——意識は過去を浮遊する。
 しかし、それは長くは続かなかった。
 不意に右手に感じた小さな温もりに、はっと現実に引き戻される。
 噴水の奏でる和音が、急に大きく聞こえた。
 レイチェルの小さな左手は、ラウルの右手に重ねられていた。
 まっすぐに向けられた蒼の瞳には、ラウルの姿が映っていた。
 その目が苦しげに細められる。
 胸を衝かれ、息が止まった。
 小さな温もりはそっと離れていった。
 ラウルは追い縋るように手を上げかけて、止めた。奥歯を噛み締めてうつむく。そのまま背を向けると、再び医務室を目指して歩き出した。レイチェルも後ろから黙ってついてきた。

 翌日も、ラウルは家庭教師に向かった。
「今日も来てくれて嬉しいわ」
 レイチェルは微笑んで迎え入れた。いつもと変わらない愛らしい笑顔だった。
 ラウルは怪訝な視線を彼女に向けた。昨日のことがあったにもかかわらず、今日の彼女はあまりにも普段どおりである。もしかしたら、あの柔らかな温もりは夢だったのかもしれない、という疑念さえ頭をもたげる。
 しかし、冷静に考えれば、手に触れてきただけである。ほんの些細なことだ。特別な意味などないのかもしれない。ぼんやりしていた自分を呼んだだけかもしれない——そう思おうとするが、どうしても腑に落ちない。あのときの彼女の表情が、脳裏に焼きついて離れないのだ。
「きのうの続き?」
 先に椅子に座ったレイチェルが尋ねる。
「……ああ」
 ラウルも椅子に座った。机の上に置いた教本を開き、目的の箇所を探して捲っていく。だが、なかなか見つけられない。行ったり来たりとページを繰る。
 そのとき、凛とした声が、彼を不意打ちにする。
「ラウルは、いつも、誰を見ているの?」
 ドクン、とラウルの心臓が大きく打った。
 止まった指先から、するりと紙が滑り抜けた。
 ゆっくりと顔を上げ、その声の主を窺う。
 彼女は、今までに見たこともない真剣な表情をしていた。大きな蒼の瞳をまっすぐにラウルに向けている。その奥には、とても12歳とは思えないほどの鋭さが潜んでいた。
「ラウルは私を見ていない。小さいときからずっとそうだった」
「何を言っているのかわからん」
 ラウルはそう答えるのが精一杯だった。
 レイチェルは濃色の瞳をじっと探るように見つめる。
「私を通して遠くの誰かを見ている。そうでしょう?」
 ラウルの鼓動は次第に速く強くなる。指先が冷たくなっていく。あまりに唐突で、心の準備が何も出来ていなかった。否定すべきなのか、認めるべきなのか、それさえ決めかねている。頭が混乱して何も考えられない。
「その人は私と似ているの?」
 レイチェルは胸もとに手をあて、首を傾げた。金色の髪がさらりと流れる。レースのカーテン越しに広がる柔らかな光が、背後から彼女をほんのりと照らす。
「私に何を求めているの?」
 静かなその声が、ラウルの胸に深く突き刺さる。もう目を合わせることなどできない。何一つ答えを返さないまま、固く口を閉ざしてうつむいた。長い焦茶色の髪が、その表情を覆い隠す。
 レイチェルはゆっくりと呼吸をした。
「ラウル、私は……」
「もうやめろ」
 ラウルは唸るような声で彼女を遮った。椅子を揺らして立ち上がると、大きな足どりで扉に向かう。
「ラウル、待って!」
 レイチェルは呼び止めながら追いかける。
「来るな!」
 腹の底から絞り出した凄みのある重低音。
 背後の足音が止まった。
 ラウルは勢いよく振り切るように部屋をあとにする。長い髪が大きくなびいた。
 レイチェルは追いかけてこなかった。

 ラウルはまっすぐ医務室に戻った。乱暴に扉を開け、医務室を突っ切り、そのまま自室へと入る。バタンと叩きつけるように扉を閉めると、そこに背中をつけてもたれかかった。深くうなだれ、体の横でこぶしを強く握りしめる。
 幻想は、砕けた。彼女自身によって砕かれた。
 何もかも見透かしたあの蒼い瞳。
 思い返すだけで体の芯から震えがくる。
 長らく忘れていた感情——。
 そう……、これは、恐怖だ。
 腰から体を折り曲げ、額を掴むように押さえる。
 指先が小刻みに震えていた。

 その夜、ラウルはアルフォンスに連絡を入れ、レイチェルの家庭教師を断った。王宮医師の仕事が忙しくなった、と嘘の理由を告げる。彼にも嘘だということはわかっていただろう。だが、何も言わずに了承してくれた。
 ——私は、逃げた。
 カーテンを閉め切った真っ暗な寝室で、ラウルはベッドに腰掛け、ずっと、ずっとうなだれていた。



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