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1. 婚約者

 サイファは足早に階段を駆け下りていく。清潔感のある金色の短髪がさらりと揺れ、天窓からの光を受けてきらりと煌めいた。まだ小さな彼には高すぎる手すりに手を掛けると、くるりと方向転換をしてリビングルームに向かう。

「アリス、いらっしゃい」
 サイファは扉を開けるなりそう言うと、幼いながらも綺麗に整った顔で、にっこりと微笑んだ。
「こんにちは、サイファ」
 アリスはソファに身を預けたまま、澄んだ高い声で挨拶を返した。少しだけ体を起こし、愛らしい笑顔を浮かべる。あどけなさの残る顔立ちが、16歳という実年齢よりも彼女を幼く見せていた。
 アリスの斜め向かいに座っていたシンシアは、小さな息子に振り返って尋ねる。
「サイファ、勉強は済んだの?」
「済んだよ」
 サイファは軽く答えると、アリスの方へ駆けていき、その隣にちょこんと座った。彼女を大きく見上げ、嬉しそうに笑顔を弾けさせる。
 シンシアは呆れたように肩をすくめて笑った。息子のサイファは、執着といってもいいくらいにアリスに懐いている。彼女が家に遊びに来たときは、ほとんど離れることなく付いてまわる。彼女の隣はサイファの指定席といってもいい。一時のはしかのようなものだろうが、多少、心配に思う部分もあった。

「アリス、来ていたんだね」
 再び扉が開き、今度は大人の男性が姿を現した。柔らかい物腰に、和やかな笑みといった、いかにも優しそうな風貌である。彼がこの家の主人——つまり、シンシアの夫であり、サイファの父親だ。
「お邪魔しています。おじさま、今日はお休みですか?」
「ああ、このところ休日出勤が続いていたからね。久々の休暇だよ」
「アルフォンスにこき使われているのね」
 アリスは少し申し訳なさそうに肩をすくめた。アルフォンスというのは彼の上司であり、彼女の夫でもある。彼女より20も年上で、ここにいる誰よりも年長だ。
「忙しいのはアルフォンスのせいじゃないよ」
 彼は笑いながら弁護した。
 アリスは安堵したように小さく笑う。
「良かった。おじさまには恨まれたくないもの」
「誰も恨みはしないよ。みんなちゃんと理解しているから」
「リカルド、座ったら?」
 立ったまま話を続ける夫に、シンシアは軽く促した。
「ああ、そうだね」
 リカルドは素直に頷き、シンシアの隣に座る。
「随分、大きくなったね。動きまわって大丈夫なのかい?」
「無理はしていないから心配なさらないで。うちに独りでいるより、ここにいる方が安心だから居させてもらっているの」
 アリスは大きく膨らんだおなかに手を置いて微笑んだ。
 その言葉どおり、彼女は毎日のようにこの家に来ていた。彼女の家からは歩いて来られる距離であるため、いつも散歩がてらにやってきて、日が沈む頃まで入り浸っている。
「アリスは本当に甘えるのが上手いのよね」
 シンシアは笑いながら言った。図々しいと思えることでも、アリスは無邪気に頼んでくる。そして、自分はそれを嫌だと思わずに引き受けてしまう。自分以外にもそういう人は多いようだ。それは、彼女の生まれ持った才能の成せる業といってもいいだろう。その才能の中には、外見や声の愛らしさも含まれている。真似しようと思って出来るものではない。
 彼女に甘いのはリカルドも同じだった。いや、シンシア以上かもしれない。
「まあ、ここの方が安心なのは確かだね。行き帰りだけは気をつけて。帰りは送ってあげようか?」
「おじさま、お気遣いは嬉しいけれど、近いからひとりで大丈夫よ」
 アリスは優しい口調で辞退した。
「そうはいっても、そろそろ予定日じゃないのか?」
「まだ一ヶ月あるわ」
「ねぇ、名前は考えているの?」
 シンシアは声を弾ませてふたりの会話に割り込んだ。あと一ヶ月なら、そろそろ具体的に考えている頃だろうと思ったのだ。
 アリスはにっこりと微笑んだ。
「男の子ならレオナルド、女の子ならレイチェルにするつもり」
「……女の子がいいな」
 リカルドは真面目な顔でぽつりとつぶやいた。
 シンシアも急に表情を険しくした。腕を組み、ため息をつく。
「サイファの婚約者ね。頭の痛い問題だわ」
 リカルドは魔導の名門ラグランジェ家の本家当主である。そして、息子のサイファが次期当主であることはほぼ決定している。当主を継ぐ者は10歳までに婚約者を定めなければならないというのが、ラグランジェ本家の掟なのだ。
 ラグランジェ家は、本家の他にいくつもの分家を抱える大規模な一族である。もちろん規模だけではなく、その政治的影響力も計り知れない。それは、ラグランジェ家の人間が持つ魔導の力に裏打ちされたものである。魔導の能力は遺伝によるところが大きいとされている。そのため、彼らは純血を守ることでそれを維持してきた。つまり、ラグランジェ家の者どうしで婚姻をし、子孫を残すのだ。次期当主の婚約者を早期に定めるのは、少しでも安全に家系を存続させるための策のひとつなのだろう。
 サイファは現在6歳である。期限まではあと4年もない。
「アリスの子が女の子なら、その子で決まりなんだが」
 リカルドは祈るように手を組み合わせて言う。
 婚約者の決定は、単純にはいかない問題である。分家間の力関係や、種々のバランスも考慮しなくてはならない。そして、なるべく遺恨の残らないような決定が求められるのだ。
 アリスもラグランジェ家の人間である。もちろん、彼女の夫のアルフォンスもそうだ。彼は勤めている研究所の次期所長と目されており、他の分家を黙らせるだけの実績と地位と人脈を持っている。また、サイファはアリスにとても懐いており、すでに家族に近い間柄といえる。この夫婦の子を婚約者にすれば、すべてが丸く収まるだろう。それゆえ、リカルドたちの間では、その方向で話が進められていた。ただし、当然ながら、女の子であればという条件つきだ。
 シンシアはソファに手をついた。隣の夫に顔を向けて尋ねる。
「アルフォンスの許可はもうとったの?」
「ああ、一応な」
「一応ってどういうこと?」
「娘を手放すことが許せなくなるかもしれないってさ」
 リカルドは可笑しそうに笑った。
 それを聞いて、シンシアも吹き出した。
「今からそんなことを言っていたら、この先が思いやられるわね」
「大丈夫よ。私がついているんだもの」
 アリスは胸元に手を置いて言った。
 シンシアとリカルドは目を合わせて笑った。これだけの自信がどこからくるのかはわからないが、彼女を見ていると本当に大丈夫だと思えてくる。華奢で小柄な少女が、なぜかとても頼もしく感じられた。

「ねぇ、サイファ」
 隣でおとなしく座っていた彼に、アリスは無邪気な笑顔を向けた。自分の大きなおなかに両手を当てて尋ねる。
「この子が女の子だったら、サイファのお嫁さんにしてくれる?」
 本来は、本人の許可を得る必要などない。双方の親の合意のみで決定することだ。だが、事前に了承をとっておきたいというのがアリスの考えだった。
 シンシアもそれには同意していた。ただ、彼女は、もう少し見通しを明確にしてから話すつもりでいた。突然アリスが話を振ったので驚いたが、考えてみれば、今でも問題はないだろうと思う。もともと隠すつもりは微塵もなく、今日のように目の前で話題にすることも多かったのだ。
 サイファは利発な子である。話の断片から、おおよその状況は理解していたに違いない。それでも特に反発するような態度は見られなかったので、素直に受け入れてくれるものと予想した。
 だが、サイファの返答は、予想もつかないものだった。
「僕はアリスがいいよ」
 落ち着いた声でさらりと言う。表情もいたって普通で、笑っているわけでもない。冗談ではなさそうだ、とシンシアは思う。しばらく様子を見ようと考え、無言でソファにもたれかかった。
 アリスは人差し指を立て、笑顔で優しく諭す。
「私はアルフォンスと結婚しているの。だから、サイファとは結婚できないわ」
「離婚すれば問題ないんじゃない?」
 サイファは涼しい顔で切り返した。子供とは思えない発言だった。いや、子供だからかもしれない。その重みを認識していないからこそ、簡単に言えるのだろう。
「ダメ」
 アリスは動じることなく平然と却下した。立てた人差し指を左右に動かす。
「10年も粘ってようやく結婚してもらったんだから、離婚なんて絶対にしないわ」
 サイファは不満そうに口をとがらせた。眉をひそめて尋ねる。
「アルフォンスと僕と、どっちが大事なの?」
「アルフォンス」
 アリスは少しの迷いもなく即答した。当然と言わんばかりの口調だった。

 ふたりの会話を聞きながら、リカルドは肩をすくめて苦笑した。
「容赦ないね、サイファもアリスも」
「はっきり言うのは悪いことじゃないわ」
 シンシアはアリスの態度を評価した。相手が子供だからといって、口当たりの良いことを言ってごまかしてはいけない——アリスは自らの経験により、そう考えるようになっていた。そして、しっかりとそれを実践している。可愛らしい顔に似合わず、芯の強いところがあるのだ。

「もちろんサイファのことも好きよ。だから、この子をお嫁さんにしてってお願いしているの。ねぇ、どうかしら?」
「生まれてからじゃないとわからないよ」
 サイファは素っ気なく答えた。まだ不機嫌が治まっていないらしい。だが、彼の言うことももっともではある。どんな子かもわからないうちに結婚相手として認めるなど、普通ではありえないことだ。
 アリスは安心させるように明るく言う。
「心配しなくても、きっと私に似て良い子になるわ」
「アルフォンスに似るかもしれないよ」
 サイファはふてくされながら淡々と反論する。
 アリスはくすりと笑った。
「そうしたら私よりも優しい子になるわね」
「性格はともかく、外見はあんなの困るよ」
 サイファは眉根を寄せた。
「もしかして、あんなに大きく厳つくなるって思っているの?」
「なるかもしれないよ?」
「ならないわよ、絶対に!」
 アリスはくすくす笑いながら言った。サイファの鼻先に人差し指を立てる。
「私が保証するから、ね?」
「……わかったよ。アリスがそこまで言うなら」
 気の乗らない様子ながら、サイファは一応の了承をした。いくら言い返しても勝てないと諦めたのかもしれない。アリスが意外と強情だということは、彼もよく知っている。
 アリスはにっこりと微笑む。
「それじゃあ約束。女の子だったらお嫁さんね」
 サイファはじっと考え込んだ。やがてゆっくりと顔を上げて尋ねる。
「男の子だったらお婿さんにすればいいの?」
「……え?」
 ぷつりと音が途切れた。あたりがしんと静まり返る。
「あははははは!」
 一拍の間ののち、大人たちは一斉に声を立てて笑った。リカルドの声が最も大きかった。大きく肩を揺らしながら、苦しそうに横腹を押さえている。アリスは口元に手を添え、鈴を転がすような声で笑っている。
 サイファだけが状況をつかめず、きょとんとしていた。アリスと両親を交互に見る。
「どうして笑うの?」
「男どうしでは結婚できないのよ」
 シンシアは笑いを噛み殺しながら説明した。サイファは妙に大人びたところがあるが、やはりまだ子供なのだと少し安心した。
「男の子だったら、友達になってあげてね」
 アリスはサイファの頭に優しく手を置いた。まっすぐな金色の髪がさらりと小さく揺れた。

 リカルドはひとしきり笑うと、急に表情を曇らせた。
「しかし笑っている場合でもないな。許されるものなら婿にでもしたい気分だよ」
「しっかりしなさい、リカルド」
 シンシアは頼りなく丸まった背中をぽんと叩いた。
「ああ、現実から逃れられないことはわかっているよ」
 リカルドはソファにもたれかかりながら腕を組んだ。小さくため息をつく。
 気が重いのはシンシアも同じだった。
「次の候補はやはりユリア?」
「そうなるかな。だが、あの子はサイファとそりが合わないようだし、それに年上だろう」
「あら、年齢は関係ないわ」
 アリスが会話に割り込んだ。彼女は年齢のことでは何かと苦労してきた。年齢差を理由に結婚を反対されたことも少なくない。そのため、黙ってはいられなかったのだろう。
 リカルドは申し訳なさそうな微笑みを浮かべた。
「断る理由には使えるよ」
「私はユリア本人より、父親の方が問題だと思うわ」
 シンシアは腕を組んで言った。リカルドもそれに同意して頷く。
「確かに熱心すぎるな」
「本家との繋がりを強くして力を手に入れようとしている。そのこと自体は悪いとは思わないけれど、態度があからさますぎるのよ。がっついていて下品だわ」
「わかりにくいよりは対処しやすくて安心できるがな」
「そう? どうせなら完全に騙し通してくれるくらいの方がいいけれど」
 シンシアは利用されることは構わなかった。ただ、その意図が中途半端に垣間見えると、いかにも浅はかに思えて苛立つのだ。堂々と宣言するか、もしくは完全に意図を隠すか、どちらかであってほしいと考えていた。
 リカルドは大きくため息をついた。
「アリスの子供が女の子であることを祈るしかないな」
「そうね。男の子だったら、そのときまた考えましょう」
「ねぇ、おじさま」
 アリスは僅かに首を傾げて呼びかけた。
「もし男の子でも、あまりがっかりした顔をなさらないでくださいね」
「あ、ああ、そうだな。気をつけるよ」
 リカルドは少し焦りつつ返事をした。彼女の指摘があまりにも的確だったせいだろう。彼ならそんな顔をしかねない、とシンシアも思う。良くいえば素直であり、悪くいえば配慮が足りないのだ。
「男か女か、産まれるまでわからないの?」
 サイファはアリスを見上げて尋ねた。
「そう、産まれるまでのお楽しみ。アルフォンスは女の子じゃないかって言ってるけど」
「どうやってわかるの?」
「さあ、おなかを触ったり、耳を当てたりしているけど、たぶん根拠は何もないわよ」
「科学者とは思えない非科学的な言動だな」
 リカルドは笑いながら言った。アルフォンスは研究職ではなく管理職だが、それでも一応は科学者の端くれである、というのが、リカルドの認識だった。
「サイファも触ってみる? 男か女かはわからないと思うけれど」
 アリスは片目を瞑って言った。
 サイファはぱちくりと大きく瞬きをした。
「いいの?」
「いいわよ、どうぞ」
 アリスはおなかに両手を当てて微笑んだ。
 サイファはゆっくりと手を伸ばした。膨らんだおなかにそっと触れる。
「この中に赤ちゃんがいるんだ……」
 何かとても不思議そうにつぶやいた。手を置いたまま身を屈め、顔を近づけていく。寄りかかるようにして片耳を当てて目蓋を閉じた。音に集中しているらしい。
「どう?」
「うーん、聞こえるような、聞こえないような」
 微妙に眉をひそめる。それでも、まだあきらめてはいないようだ。聞こえる場所を探るように、耳の位置を少しずらした。
 そのとき、アリスは急に顔をしかめた。唇をきゅっと結ぶ。
「どうしたの? アリス」
 シンシアは身を乗り出して尋ねた。
 サイファはその声に反応して体を起こした。そして、アリスの表情を見てうろたえた。
「ごめん、痛かった?」
「そうじゃないの、大丈夫、サイファのせいじゃないわ」
 アリスは笑顔を作った。かなり無理をしているようだ。うっすらと汗が滲んでいる。大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。痛みと気持ちを落ち着けようとしているのだろう。
 シンシアは軽く握った手を口元に当て、難しい顔で考え込んだ。
「アリス、さっきここへ来たときも、何か顔をしかめてなかった?」
「少し痛みを感じたけれど、すぐに治まったから、心配しなくても大丈夫よ」
「もしかして、けっこう前から何度も痛みが来てない?」
「え? ええ、でもすぐに治まっているから……」
「痛みが規則的に来てる? 間隔が短くなってきていない?」
「言われてみれば……」
 アリスの瞳が揺れた。表情に浮かぶ不安の色が、次第に濃くなっていく。
「それ、たぶん陣痛だわ」
 シンシアはあっさりと言った。
 アリスは先ほどのやりとりで見当がついていたのか、それほど驚いた様子は見せなかった。ただ、困惑したようにシンシアを見つめていた。
 驚いたのはリカルドの方だった。
「ちょっと待て、予定までまだ一ヶ月あるんだろう?」
「予定はあくまで予定よ」
 シンシアは平然と言って立ち上がった。夫に振り向き、歯切れよく指示を出す。
「リカルド、先生を呼んできて。アルフォンスにも連絡を」
「わ、わかった」
 リカルドはあからさまな動揺を見せながら返事をした。ソファから弾かれるように立ち上がると、走って部屋を出て行く。
 サイファは呆然とその様子を見ていた。会話の意味はわからなかっただろうが、まわりの緊迫した空気を感じ取り、不安そうに表情を曇らせていた。小さく口を開いて、母親に尋ねる。
「どういうこと?」
「そろそろ産まれるってこと」
 シンシアは口元を上げた。
「アリス、歩ける?」
 彼女に歩み寄りながら気遣わしげに尋ねると、身を屈めて覗き込んだ。
「ええ」
 アリスは困惑した表情のまま、素直に小さく頷いた。シンシアの手を取り立ち上がる。
 隣のサイファもつられて立ち上がった。
「母上、僕は?」
「無事に産まれるよう祈ってなさい。あと、アルフォンスが来たら対応をよろしく」
 シンシアは幼い息子にも端的な指示を出した。
「わかった」
 サイファは顔を引き締めて、こくりと頷いた。

「アリス!!」
 深みのある太い声が、高い天井に反響した。
 アルフォンスは息を荒くしながら屋敷に飛び込み、焦った様子であたりを見まわしていた。屋敷は非常識なほどに広く、どちらへ行けばいいのかわからない。奥歯をぎり、と噛みしめる。
「おじさん、こっち」
 廊下の奥からサイファが顔を覗かせた。小さな手で手招きをしている。
 アルフォンスは大きな体で俊敏に駆けていった。
「ここか?!」
「そうだけど、部屋の外で待つようにって」
 その言葉の後半は、彼の耳には届いていなかった。突進する勢いでドアに手を伸ばす。だが、ノブに届く前に弾かれてしまった。バチリと静電気のような音が響く。
「落ち着いてよ。結界が張ってあることに気がつかないの?」
 サイファは呆れたように言った。結界には無色透明なものもあるが、これはわかりやすいように薄い青色をつけてある。そうでなくても、魔導を扱う者であれば当然わかってしかるべきだ。アルフォンスはそれに気がつかないほどに混乱していた。
「くそっ、こんな結界」
 かなり複雑で強力な結界ではあったが、アルフォンスに解除できないものではない。一歩下がって、呪文を唱え始める。
「おじさん、落ち着いて」
 サイファはそう言うと、小さな声で素早く呪文を唱え、アルフォンスのまわりに結界を張った。ぼんやりとした光が、彼ひとりだけを包む。
「サイファ、おまえ……」
「母上に頼まれているんだ。アリスは大丈夫だよ。頭を冷やしてよ」
 その結界は内側からは解除できないものだった。手練の魔導師でもこの結界を扱えない者は多くいる。それを、まだ幼い少年が難なく張ったことに驚いた。とはいえ、それほどの強度はない。このくらいなら強引に破ることは可能である。だが、この場でそれを行えば、周囲の壁や窓も壊すことになりかねない。この状況で、そのような騒ぎを起こすべきではないだろう。
「わかった、落ち着いた」
 アルフォンスは手を下ろし、観念したかのように低い声で言った。
 サイファはアルフォンスの結界を解いた。壁を背にして座り込む。
「アルフォンスも座ったら? まだ時間がかかるかもしれないよ」
「そうだな」
 アルフォンスもサイファの隣にどっしりと腰を下ろした。疲れたように額を押さえ、小さく息をつく。
「おまえ、随分と落ち着いているな」
「僕たちに出来ることは何もないんだ。せめて邪魔しないようにしなくちゃ」
 サイファの言うことはもっともだった。だが、ときおり聞こえるアリスの苦しそうなうめき声を耳にすると、胸が掻きむしられ、我を忘れそうになる。アルフォンスは理性を総動員し、必死に堪えていた。
「父上は? 一緒じゃなかったの?」
「仕事を代わってもらった。外せない作業があってな」
 仕事のことに関しては、リカルドはとても頼りになる男だった。自分の代わりを務められるのは、リカルドの他にはいない。彼が代わってくれなければ、ここに駆けつけることも叶わなかっただろう。快く引き受けてくれた彼には、言いようもないくらいに感謝している。
 不意に、中からアリスの悲鳴にも似た声が聞こえた。
 アルフォンスは大きな背中を丸めて膝を抱えた。ズボンを無造作にぎゅっと掴む。ミシミシと音がして、今にも破れそうだった。
「耳を塞ぎたくなるな」
「ダメだよ。アリスが頑張ってるんだから」
 そう言ったサイファの声も、少し強張っていた。だが、彼はしっかりと受け止めようとしている。自分も見習わなければ、とアルフォンスは思った。
 そのとき——。
「ふぎゃぁ、ふぎゃあ、ふぎゃあ!」
 元気のいい産声が耳に届いた。アルフォンスとサイファは顔を見合わせ、同時に飛び上がるように立ち上がった。
「アルフォンス、落ち着いてね」
「ああ、わかっている」
 サイファが感情を抑えた声を掛け、アルフォンスも低い声で返事をする。ふたりは張りつめた顔で身構えた。すぐにでも駆け込める体勢だ。しかし、扉は一向に開く気配がない。
 アルフォンスは奥歯を噛みしめた。苛立ちが募る。だが、時間が経つにつれ、それは不安へと変わっていった。産声もやがて聞こえなくなった。
 まさか、何かあったのでは——。
 突入したい衝動に駆られる。もう堪えられなかった。心配で、いても立ってもいられない。手を下ろしたまま、サイファに悟られないように呪文を唱えようとする。
 だが、その瞬間。
 ふっ、と結界が消えた。がちゃりと中から鍵が外され、ゆっくりと扉が開く。
「お待たせ」
 シンシアはにっこりと笑って言った。
 アルフォンスは彼女の隣をすり抜け、一目散に部屋に滑り込んだ。そのすぐ後ろをサイファがついていく。
「アリス!!」
 彼女は積み重ねた枕とクッションにもたれて、少しだけベッドから体を起こしていた。顔の汗は拭ったようだが、顔にかかる髪はまだ濡れていた。そうとう汗をかいたのだろう。しかし、疲れた様子ながら、その表情はとても柔らかかった。彼女の目線の先には、白い布でくるまれた赤ん坊がいる。担当医がアリスに手渡そうとしているようだ。
「来てくれたのね、アルフォンス」
 アリスは手を止めて振り向いた。にっこりと笑顔を見せる。
「無事なのか?!」
 アルフォンスは勢いよく詰め寄った。
「母子ともに健康よ。赤ちゃんは少しだけ小さめだけど、特に問題はないわ」
 アリスの代わりに、横にいた担当医が答えた。
 アルフォンスは大きく安堵の息をつき、膝に手をついて、力の抜けた体を支えた。
「ねえ、男の子? 女の子? どっち?」
 大きな体の後ろから、サイファがひょいと飛び出して尋ねた。
 アリスは自分の腕でぎこちなく赤ん坊を抱くと、その子の顔がサイファに見えるように体を僅かに傾けた。そして、にっこりと微笑みかけて言う。
「“レイチェル”よ」
 サイファは息を吸いながら、目を大きく見開いた。ベッドに手を掛けて、つま先立ちで身を乗り出すと、アリスの腕の中の赤ん坊を覗き込む。小さな彼女——レイチェルを見ているうちに、彼の顔は次第にほころんでいった。
「こんにちは、レイチェル。僕のお嫁さん」
「ちょっと待て、気が早すぎるぞ。おまえの嫁じゃない、私の娘だ」
 アルフォンスは慌ててそう言うと、後ろからサイファの襟を掴んで引き離した。
 アリスも、シンシアも、そして担当医までもが笑った。
「気が早すぎるのはアルフォンスの方ね」
「まったくだわ。子供相手にむきになっちゃって」
「父親の私を差し置いて、勝手に娘に挨拶したのが許せなかっただけだ」
 アルフォンスは苦しい言い訳をした。どちらにしろ、大人げないことには変わりない。照れ隠しにコホンと咳払いをしてから、身を屈めてアリスに両手を伸ばす。
 アリスは微笑みながら、小さな娘をアルフォンスに手渡した。
「首が据わっていないから気をつけてね」
「昔、姪をあやしていたから、アリスよりは上手いはずだ」
「あら本当、大きな図体に似合わず、意外と堂に入っているわね」
 危なげなく赤ん坊を抱く彼の姿を見て、シンシアは横から茶々を入れた。からかい半分の口調だったが、実際のところは真面目に感心しているのだろう。それは、彼女の表情から見て取れた。
「おじさん、僕にももういちど見せてよ」
 サイファは隣で背伸びをしながら、両手を上に伸ばして催促していた。背の高いアルフォンスが立っていては、サイファからはまったく赤ん坊の顔が見えない。
 だが、アルフォンスは口元を緩めて娘を見つめたまま、彼には目も向けなかった。
「今日は諦めろ」
「何それ、嫉妬? 独占欲?」
 いい年をした大人の理不尽な態度に、サイファはむっとして口をとがらせた。
「相当な子煩悩になりそうね」
「ええ、本当に」
 苦笑しながら言うシンシアに、アリスもくすくすと笑いながら同意した。

 とても穏やかであたたかな空気が流れていた。
 小さな命がもたらした、たくさんの喜び。
 小さな命に注がれる、たくさんの愛情。
 これから先も、この優しい幸せが続きますように——。
 娘を取りまく光景を眺めながら、アリスは柔らかく微笑んだ。


2. 王宮医師

 ラウル=インバースは、300年ほど前にこの国にやってきた。
 強力な結界を張り、外界との交流を絶っているこの国に、どのようにして入り込んだのかは謎である。そもそも、彼が外界からやってきたこと自体、表立って語ることは禁忌とされていた。その事実は、この国の防衛に穴があると認めることになるからだ。だが、人の口に戸は立てられない。王宮内という狭い範囲でだが、密やかに語り継がれていた。
 この国にやってきて以来、彼は王宮医師としてここに居着いていた。誰とどういう話し合いがなされそうなったのか、そのいきさつはごく一部の者にしか知らされていない。
 王宮医師とは、国に雇われ王宮内に医務室を抱える医師のことだ。王宮内やその関連施設で働く人々を診察するのが主な仕事である。ラウルの他にも数人の医師が、それぞれ医務室を持ち常駐していた。
 初めのうちは、彼の医務室を訪れる人間が後を絶たなかった。診察など不必要にもかかわらず、何かと理由をつけて訪問し、様々な話を持ちかけるのだ。彼の持つ強大な魔導力を利用するため、自分の側へ引き込もうとしていたのである。
 だが、徐々にその数は減少していった。彼は決して誰にもなびくことはない、ということが知れ渡ったからである。いくら金や地位をちらつかせても、関心を示すことはまるでないのだ。また、情熱や使命感に訴えても無駄であった。そういう類の感情を、彼は持ち合わせていないようだった。
 そしてもうひとつ。
 年月が過ぎるにしたがって、彼のことを気味悪がる者が増えていったのだ。彼の外見は、この国に来たときのまま、まったく変わることがなかった。幾星霜を経ても衰えることなく、青年の姿を維持していたのである。人間ではなく化け物だ——そう思うものも少なくなかった。
 今では、彼の医務室には、ほとんど誰も寄りつかなくなっていた。いつも閑散としている。彼の冷たい目と無愛想な態度も、それに拍車をかけていた。好きこのんでここに来る者は滅多にいない。他の医師が手一杯のときなどに、ちらほらとやってくるくらいである。その数少ない患者を、彼はただ淡々と診察していた。

 その日も、ラウルはいつものように医務室にいた。広くはない机に向かい、発表されたばかりの論文を読んでいる。患者がいないときは、医学関係の書物や論文を読んで過ごすことが多かった。だが、勉強になることはほとんどない。すでに彼が知っていることばかりである。
 ——コンコン。
 扉をノックする音が聞こえた。
「入れ」
 ラウルは論文を片付けながら、短く声を張った。
 すぐにガラガラと扉が開き、紺色の制服を身に着けた男性がひとり入ってきた。人なつこい柔和な笑みを浮かべながら、軽く右手を上げる。
「やあ、ラウル。久しぶり。ここはいつも空いていていいな」
「何をしに来た」
 ラウルは睨みつけるような鋭い視線を流し、冷たく突き放すように言った。
 だが、彼は少しも動じた様子を見せず、笑顔を保ったまま答える。
「診察してもらいに来たんだよ」
「座れ」
 ラウルは顎をしゃくって、隣の丸椅子を示した。
 男性は上着を脱いで籠に入れると、示された椅子に素直に座った。
 彼の名前はリカルド=キース=ラグランジェ。王家と同等、いや、実質はそれ以上の権力を握っていると云われるラグランジェ家の当主である。先代から当主の座を引き継ぎ、そろそろ5年になる。だが、とてもそうは見えなかった。良くいえば優しく気さくであり、悪くいえば威厳がないということになる。
 彼は、好きこのんでこの医務室に来る、数少ない人間のひとりだった。
 他のところでは、医師に特別扱いされたり、他の患者に順番を譲られたりして、居心地が悪いということが理由のようだった。その点、ここならいつも閑散としているので、他の患者に遠慮する必要がない。そして、ラウルは相手が誰であれ特別扱いすることはない。そのため、ここがいちばん気が楽なのだ、とリカルドは言っていた。
「どんな症状だ」
 ラウルはまっすぐに彼を見て問いかける。
「少し喉が痛くて熱っぽいな」
 リカルドは喉に手を添え、僅かに首を傾げながら答えた。声におかしなところはないが、違和感を感じているのだろう。顔は少し火照っているようだった。
 ラウルは体温計を渡して熱を測らせた。その数値を一瞥すると、口の中を覗き込んだり、胸と背中に聴診器を当てたりしながら、淡々と診察をしていく。
「風邪だな」
 聴診器を外して首に掛けると、そう診断を下した。立ち上がって棚からいくつか薬を取り出し、袋に入れて机に置く。そして、再び椅子に座って机に向かうと、カルテにさらさらとペンを走らせた。
「ラウルは風邪をひいたことはあるのか?」
 リカルドは上着の袖に腕を通しながら尋ねた。
「なぜそんなことを訊く」
 ラウルはカルテに向かったまま聞き返した。
 リカルドはにっこりと微笑んだ。
「単なる好奇心だよ」
「ある。最近はひいていない」
 ラウルは手を止めず、ぶっきらぼうに答えた。
「へぇ、ラウルでも病気になることがあるんだな」
「おまえも私を化け物だと思っているのか」
 リカルドは動きを止め、目を大きくしてラウルを見た。そして、ふっと表情を緩めると、ゆっくりとした口調でなだめるように言う。
「変わっているのは確かだが、そんなふうには思っていないよ」
 ラウルはムッとして横目で睨みつけたが、リカルドは意に介さず、軽い笑顔で続ける。
「だいいち化け物だと思っていたら、わざわざここを選んで来たりはしないさ。ラウルのことは好きだよ」
「おまえがどう思おうと、私には関係ない」
 ラウルはペンを置き、無表情でリカルドに振り向いた。机の上の袋を手に取り、押しつけるようにして渡す。
「三日分の薬だ。毎食後に忘れず飲め」
「ありがとう」
 リカルドはにっこりと笑って受け取った。そして、まだ開いたままだった上着の前を留めながら、急に思い出したように言う。
「あ、そうだ。おまえに頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
「内容を言わずに了承を取ろうとするのは卑怯だ」
「ああ、そうだね」
 リカルドは軽く笑った。
「今度、改めて頼みに来るよ。話くらいは聞いてくれるよな?」
 ラウルは睨みつけるように、じっと彼を見つめた。そして、ゆっくりと腕を組むと、小さく息をついて言う。
「いいだろう。受けるかどうかは、内容を聞いてから決める」
「わかった」
 リカルドは真面目な顔で頷いた。鮮やかな金色の前髪がさらりと揺れた。

 ——コンコン。
 医務室の扉がノックされた。立て続けに人が来ることなど、ここではめずらしいことだ。だが、ラウルは眉ひとつ動かさず、普段と変わらない調子で言う。
「入れ」
 その声に促されるように、扉が遠慮がちにそろそろと開いた。遠慮がちというよりは、おそるおそるといった方が近いかもしれない。
「あれ? どうしたんだ、フランシス」
 扉の向こうから姿を現した男性を見ると、リカルドは驚いたような声を上げた。
「リカルドさん」
 フランシスと呼ばれた男性は、緊張の糸が切れたように、大きく安堵の息をついて言った。ここへ来るのがよほど怖かったと見える。そんなときに知った顔を見つけて安心したのだろう。彼はリカルドと同じ紺色の制服を身に着けていた。つまり、同じ研究所に勤務しているということだ。
「風邪をひいたみたいなんですけどね。ずいぶん流行っているらしくて、他の医務室はどこも人があふれてるんですよ」
「ああ、それで仕方なくここへ?」
 リカルドは納得したようにさらりと言った。
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
 フランシスはラウルの方をちらちらと気にしながら、困ったように苦笑いを浮かべている。図星を指されたことは明白だ。
「もうすぐお昼だから、診察が終わったら一緒に食べに行こうか」
 リカルドは薬を持って立ち上がり、フランシスに席を譲りながら言う。
「はい、ぜひ」
 フランシスは爽やかな笑顔で答えた。空いた丸椅子にはまだ座ろうとせず、立ったままリカルドの方を向いている。
「フランシス、おまえはここへ座れ。リカルド、おまえは出て行け」
 ラウルは睨むような視線をふたりに送り、端的に命令した。
「あ、リカルドさん、いてくれていいです。ていうか、むしろいてください」
 フランシスは慌ててリカルドに頼み込んだ。縋りつくような目を向けている。ラウルとふたりきりになることを怖がっているのだろう。取って食われるとでも思っているのかもしれない。
「って言ってるけど、いていいのかな?」
「勝手にしろ」
 フランシスを指さしながら尋ねるリカルドに、ラウルは仏頂面で答えた。
 先ほどまでリカルドが座っていた丸椅子に、今度はフランシスが座った。緊張した面持ちを見せている。体にも無駄に力が入っているようだ。
「どんな症状だ」
 ラウルは正面から彼に向かい合って尋ねる。
「えっと、風邪みたいなんです」
「診断しろとは言っていない。症状を訊いている」
 フランシスは眉尻を下げ、引きつった苦笑を浮かべた。ここへ来たことを思いきり後悔したような顔だった。

 ラウルはフランシスにも風邪という診断を下し、薬を渡した。
 フランシスはここへ来たときほど怯えてはいなかった。診察が意外と普通だったことに拍子抜けしているようにも見えた。手早く上着を身に着けると、ラウルに小さく一礼する。
「じゃあ、行こうか」
 後ろで待っていたリカルドは、フランシスの背中にポンと手を置いた。それから、ラウルに目を向けて言う。
「ラウルもどうだ? 一緒にお昼、行かないか?」
 その言葉に、フランシスはぎくりとして振り返った。しかし、文句を言うことなどできるはずもなく、微妙に顔をしかめるだけだった。なぜラウルなんかを誘うのか、という気持ちが、その表情からありありと見て取れた。
 だが、肝心のリカルドは気づいていないようだった。意図的なものではないだろう。彼はどこか鈍いところがあるのだ。ラウルの方を向いたまま、にこにこして返事を待っている。
「私は自分の部屋で食べる」
 ラウルは素っ気なく答えた。フランシスに遠慮したわけではない。誰かとともに外食をしたいと思わなかっただけである。むしろ煩わしいというのが、彼の率直な心情だった。
 リカルドは両手を腰に当て、軽くため息をついた。
「おまえ、閉じこもってばかりなのも良くないぞ。たまには外で食べるのも気分転換になっていいんじゃないか?」
「気分転換など必要ない」
 ラウルはにべもなく拒絶した。
「そうか……じゃあ今日はあきらめるよ。また今度、いつか付き合ってくれ」
 リカルドは軽く右手を上げてそう言うと、医務室を後にした。フランシスはほっとしたように息をつき、リカルドとともに出て行った。
 ラウルは無言で、ふたりの背中に冷たい視線を送った。

 リカルドに言われたとおりだった。
 ラウルはここに閉じこもっている。本人にその意識はなかったが、少なくとも客観的に見れば、そういって差し支えのない状況である。
 彼の自室は医務室の奥にあった。そこで寝起きし、食事を作って食べ、生活をしている。昔も今も、常にひとりきりだった。修理や配達の者を除いては、誰も招き入れたことはない。
 たいていの時間は、その自室か医務室のどちらかにいた。外出するのは、どうしても外せない用件があるときだけである。月に数回あるかどうかだ。
 外に出ることが怖いわけではない。その必要性を感じないだけである。他人と関わりたい、話をしたいという欲求がなかった。そして、年月を経るにしたがって、その傾向は強まっていた。今では、窓の外を見ることすら、ほとんどなくなっていた。

 ラウルはため息をつき立ち上がった。窓際へと足を進める。レースのカーテンとガラス窓を開け、窓枠にもたれかかると、腕を組みながら顔を上げた。沁みるほどの鮮やかな青が、視界に飛び込んできた。高い位置にある太陽が、地上に強い光を降り注いでいる。空の下方に掛かる薄い筋状の雲は、緩やかに形を変えながら流れていた。その光景の眩しさに思わず目を細める。窓から風が滑り込み、焦茶色の長髪を撫でるように揺らした。
 こうやって空を眺めるのも、ずいぶん久方ぶりだった。なぜ急にそんな気分になったのかはわからない。リカルドに言われたことがきっかけであることは確かだ。だが、それがすべてではないだろう。言いようのない閉塞感が募っていたせいかもしれない、とラウルは思った。
 300年前もそうだった。変えられない世界、終わりのない贖罪、断ち切れない未練、無意味に繰り返される毎日——何もかもが嫌になった。だから、すべてを捨ててここへ来た。逃げてきたのだ。だが、根本的な部分では、何も変わりはしなかった。環境を変えたところで、自分自身が変わらなければ無意味だ、ということを悟っただけである。
 そう、空を見上げたところで、何が変わるわけでもない。一時の逃避にすぎないのだ。ラウルは自分の行為の無意味さを自覚し、目を閉じ、鼻から小さく息を漏らした。

「レイチェル、そろそろ行くよ」
「はい、お父さま」
 不意に、外からそんな会話が聞こえてきた。医務室の窓側は、通路にはなっておらず、あまり人が通ることはない。声が聞こえるのはめずらしいことだった。何とはなしに、その方を見下ろしてみる。並木の下に体格のいい男性が立ち、少し離れたところに3歳くらいの少女がしゃがんでいた。先ほどの会話から察するに、このふたりは親子なのだろう。
 男の方には見覚えがあった。一度、リカルドとともにここへ来たことがあり、そのときに紹介されたのだ。ラグランジェ家の人間で、確か、アルフォンスという名前だったはずだ。リカルドの上司だと聞いている。
 少女は立ち上がり、柔らかい金の髪をなびかせながら、父親のもとへ駆けていった。その隣に並び、一緒に歩き始める。しゃがんでいたときに摘んだと思われる、小さなピンク色の花が一輪、小さな手に握られていた。
 視線を感じたためだろうか。医務室の真下を通りかかったところで、少女はふいに足を止め、顔を上げた。
 大きな蒼の瞳が、三階の窓際に佇むラウルを捉える。
 きょとんと不思議そうに見つめる。
 大きくぱちくりと瞬きをする。
 やがて、ふわりと花が咲いたように笑顔を浮かべた。
「レイチェル? どうした」
「ううん、なんでもない」
 娘の足が止まったことに気づき、アルフォンスは怪訝に尋ねたが、少女は笑顔で首を横に振った。とたとたと小さな駆け足で父親を追う。

 ——似ている。
 ラウルは眉根を寄せ、心の中でつぶやいた。

 先ほどのレイチェルと呼ばれていた幼い少女に、別の少女の懐かしい面影が重なった。それは、自分が守るべき役目を負いながら、守ってやれなかった少女——自分にとって、この上なく大切で、決して忘れることのできない存在だ。
 瓜二つというほどそっくりではない。確かに顔立ちは似ているが、顔だけならもっと似た女は他にいた。だが、この少女には顔立ちだけではない何かがあった。抽象的な表現だが、雰囲気が似ているというのだろうか。強いて具体的にいうならば、笑い方が似ているのかもしれない。無防備に屈託なく笑うその表情が、まわりの人間までも幸せにするようなその笑顔が、懐かしい少女を彷彿とさせた。
 生まれ変わりなど信じていない。ただ似ているだけだ。そんなことは誰に言われずとも理解している。だが、名付けようのない些細で特別な感情は、胸の奥で小さくくすぶり続けていた。
 ラウルは窓枠に肩を寄せたまま、遠ざかる小さな後ろ姿を、ずっと、見えなくなるまで目で追った。


3. 家庭教師

「やあ、ラウル。今日も暇そうだね」
 リカルドは軽く右手を上げ、にこやかな笑みを浮かべながら医務室に入ってきた。そこにいたのはラウルひとりきりである。今日も患者はひとりも来ていない。リカルドが何日かぶりの訪問者だ。
「何の用だ」
 ラウルは本をめくる手を止めると、冷たく一瞥して言った。開け放たれた窓から流れ込む新鮮な空気が、焦茶色の長髪を微かに揺らした。
「めずらしいね。どういう心境の変化?」
 リカルドはにっこり笑いながら尋ねた。
 めずらしいというのは、ラウルが窓際に椅子を置いて座っていたことだろう。おまけにガラス窓まで全開にしている。ラウルにしてはずいぶん開放的だと思ったに違いない。リカルドの表情から察するに、自分の忠告が効いたなどと勘違いしているのかもしれない。
 ラウルはその態度が癪に障った。眉をひそめて睨みつける。
「何の用だと聞いている」
「覚えているか? 頼みたいことがあるって言ったこと」
 リカルドは急に真面目な表情になった。
「ああ、今まで忘れていたがな」
 ラウルは低い声で素っ気なく答えた。一ヶ月前、リカルドが診察を受けに来たときに聞いた話だった。それきりになっていたので、話自体がもうなくなったものと思っていた。
「改めて頼みに来たよ。聞いてくれるな?」
 リカルドは近くのパイプベッドにゆっくりと腰掛けた。真新しい白のシーツに、いくつかの皺が緩やかに走った。患者用のベッドであるが、肝心の患者が来ないため、本来の目的で使用されることは滅多にない。ほとんどリカルドの椅子代わりとなっていた。
「話せ」
 ラウルはため息まじりに言った。面倒だと思ったが、そういう約束をしたことを覚えている。話だけでも聞かなければならない。
 リカルドは膝の上で両手を組み合わせた。小さく呼吸をしてから切り出す。
「おまえに頼みたいことというのはな、家庭教師なんだ」
 ラウルは怪訝に眉をひそめた。
「……家庭教師、だと?」
「そう、家庭教師」
 リカルドはにっこりとして頷いた。
 ラウルは無言で彼を見つめた。肩透かしを食らった気分だった。一ヶ月も前からもったいつけていたので、よほど重大なこと、つまり政治的な類ではないかと想像したのだ。相手が名門ラグランジェ家の当主となればなおのことである。それが、まさか家庭教師などという極めて個人的なこととは、まったくの想定外だった。しかし、どちらにしろ引き受けるつもりはない。
「いいだろう? 家庭教師くらい」
 リカルドは人なつこい笑顔のまま、軽い調子で畳み掛けた。
 ラウルは冷たく鋭利な眼差しで睨みつける。
「ふざけるな。おまえに教えることなどない」
 だが、リカルドにはまったく効き目はなかった。少しも怯むことなく、穏やかに応じる。
「私じゃないよ、息子のサイファだ。もうすぐ10歳になる」
「息子でも同じだ。私は医師だ。家庭教師などやるつもりはない」
 ラウルは低い声で明瞭に一蹴した。
「こんなことを言うと親バカだと思われるだろうけど……」
 リカルドはそう前置きをして続ける。
「サイファはとても頭が良い子でね。魔導に関してもかなりの力を持っている。もう並の家庭教師では、まともに教えられないんだよ。おまけにちょっと生意気なところがあって、すぐに先生を辞めさせてしまうんだ」
 そう言うと、肩をすくめて苦笑する。
「その点、おまえなら安心だ。魔導については言うまでもなく、科学や医学などの学問にも造詣が深いし、何よりサイファにやりこめられるとも思えない」
「断る」
 ラウルは間髪入れず、端的すぎる言葉を返した。少しの迷いもなかった。リカルドの丁寧な説明は、まったくの徒労に終わった。
 しかし、それでも彼は引き下がらなかった。
「許可はすでに取ってあるよ。家庭教師をやっている時間は、休診しても構わないとね」
「おまえ、人の話を聞いているのか」
 ラウルは白い目を向け、半ば呆れぎみに言った。
 もともとラウルの医務室には患者はほとんど来ない。休診しようがしまいが、何ら影響がないことは明白である。ラグランジェ家の当主ならば、許可を取ることは極めて容易だろう。だからといって、あらかじめそこまでの手回しをするとは思わなかった。甘い人間に見えるが、意外と抜け目がない。
「もうおまえしか頼む相手がいないんだ」
 リカルドは顔の前で両手を合わせ、片目を瞑ってみせる。愛嬌の中にも必死さが窺える表情だ。だが、ラウルはこんな泣き落としにはびくともしない。
「それほど頭がいいのなら、自習でもさせておけ」
「出来るだけ才能を伸ばしてやりたいんだよ。親心ってやつかな」
「私は教え方など知らん」
「子供相手だと思わなくて大丈夫だよ。逆に子供だと思っていると、痛い目を見るかもしれない」
 リカルドはなぜか嬉しそうに声を弾ませた。その内容もどこか微妙にずれている。
「出て行け」
 ラウルは鋭く睨みつけ、凄みのある低音で命令した。
「引き受けてくれたらね」
 リカルドは動じることなく涼やかに言葉を返した。ラウルが承諾するまでは、どうあっても帰るつもりはないらしい。普段の物腰は柔らかいが、ここぞというときには頑固である。
 ラウルは手にしていた本を後ろの棚に置き、椅子から立ち上がった。焦茶色の長髪をなびかせながら、パイプベッドに座るリカルドの前に歩み出る。冷たく射抜くように睨み下ろすと、彼の首に右手を掛けた。そのまま、上から覗き込んで顔を近づける。肩から落ちた長い髪が、カーテンのように二人を外界から遮断した。
「これ以上しつこくすると命の保証はない」
「なぜ、そんなにむきになる」
 リカルドは目をそらさず、静かに尋ねる。
 ラウルは首に掛けた手に力を込めた。
 それでも、リカルドの表情は動かなかった。
 ラウルはさらに力を込めた。指が白い首筋に沈む。
 一瞬、リカルドの顔が歪んだ。だが、その目はラウルを捉えたままだった。
 ラウルは深い濃色の瞳で睨み返した。
 青い瞳は逃げずにそれを受け止めた。
 視線が交錯したまま、無言の時間が流れる。
 やがて、ラウルはため息をついた。
「むきになっているのはおまえも同じだろう」
 そう言って、体を起こしながら手を引いた。眉をしかめて腕を組む。
「教える価値がないと判断したら、いつでも辞める」
 それは、一応の承諾を意味する言葉だった。リカルドは何があっても引きそうもない。これ以上、言い合っても泥沼にはまるだけである。そんな面倒なことは願い下げだった。ここはとりあえず収めた方が良いとラウルは判断した。こう言っておけば、何かしら理由をつけて辞めることは可能である。
「ありがとう」
 リカルドはにっこりと笑った。
「それじゃあ、あしたからさっそく来てもらおうかな。最初のうちは、昼すぎから3時間くらいで」
「何を教えればいい」
「すべて任せるよ。サイファはアカデミー修了程度と想定してくれ」
「わかった」
 ラウルは面倒くさそうに返事をした。前髪を掻き上げながら、疲れたように小さく息を吐く。
 そんな彼を横目で見ながら、リカルドはパイプベッドから立ち上がった。両手を腰にあて、背筋を反らせるくらいに伸ばすと、目を細めて表情を緩めた。
「これから昼食なんだが、一緒にどうかな?」
「断る。これ以上、おまえと顔を突き合わせたくはない」
 ラウルは目も向けずに答えた。
「残念だな。いつか奢らせてくれ」
 リカルドは笑いながらそう言うと、軽く右手を上げて医務室を出て行った。家庭教師の一件と比べると、随分あきらめが早い。本気ではないのだろうとラウルは思った。

 医務室は再び静寂を取り戻した。遠くの微かな声や足音、そして木々のざわめきが聞こえるだけである。

 ラウルは窓際の椅子に戻った。無表情で腰を下ろす。棚に置いた読みかけの本を一瞥したが、今は手に取る気にもなれなかった。鼻から小さく息を漏らすと、窓枠に右肘をついて空を見上げた。意味もなく、流れゆく雲を目で追う。
 そのとき、ふと下方から声が聞こえた。
「お父さま、この花はなあに?」
「ん? ああ、これはバラだな」
「きれいね」
「触るんじゃないぞ、棘があるからな」
「とげ?」
「刺さると血が出るんだ」
 ラウルは視線を落とした。目にしなくてもわかっていたが、そこにいたのはアルフォンスとレイチェルの親子だった。日だまりの中で、野生のバラを眺めながら会話をしている。微笑ましいといえる光景だ。
 やがて、アルフォンスは幼いレイチェルの手を引いて歩き始めた。彼女の長い金色の髪と、淡い水色のワンピースが、ふわりと柔らかく風をはらんだ。
 医務室の下を通りかかる。
 レイチェルは大きく顔を上げた。
 ラウルと目が合った。
 迷うことなく、にっこりと華やかに笑った。
 幸せそうな笑顔だった。
 あどけない無防備な笑顔だった。
 それは、とても大切だった少女を想起させた。
 だが、別人だ。何の関わりもないのだ。
 そんなことはわかっている。なのに、なぜいつまでも——。
 ラウルは眉を寄せた。
 レイチェルを初めて見かけた日から、窓際で過ごすことが増えていた。言い訳はしない。間違いなく彼女を待っているのだ。
 彼女は父親とともに、週に数回ほど、ここを通っているようだった。そして、通るたびに顔を上げ、無邪気に笑いかけてきた。ラウルは何の反応を返すわけでもなく、無表情で見下ろすだけだったが、彼女はそれでもやめることはなかった。
 彼女の笑顔に惹かれていた。それ以上に、自分に笑顔を向ける理由が気になった。そのためなのだろうか、姿を見るたびごとに、彼女から目が離せなくなっていった。
 しかし、もうこれも最後になるだろう。明日からはリカルドの息子の家庭教師が始まる。ここで待つ時間はなくなるのだ。一抹の寂しさを感じたが、断ち切るにはちょうどいい機会だと思った。いつまでもこんなものに惑わされているわけにはいかないだろう。
 そう、これが最後だ——。
 ラウルは去りゆく少女の小さな後ろ姿を、いつまでも目で追った。強い日差しの当たる右側が、焼けるように熱かった。

 翌日、ラウルは約束どおり、リカルドの家、すなわちラグランジェ本家を訪れた。それは、王宮に隣接した場所に存在していた。いや、隣接というより、一部であるかのように敷地の一角を占めている。家自体も個人のものとは思えないほど非常識に大きい。まるで城のようだ。知らない人間が見れば、王宮の一部と誤解しても無理はないだろう。

「来てくれて嬉しいよ、ラウル」
 リカルドは両腕を広げ、満面の笑顔で出迎えた。
 ラウルは眉根を寄せて睨んだ。平日だが仕事は休みなのだろうか、と怪訝に思ったが、尋ねることはしなかった。
「紹介するよ、妻のシンシアだ」
「初めまして」
 リカルドの後ろに控えていた女性が、一歩前に出て、軽くドレスを持ち上げ膝を曲げた。客観的に見て、間違いなく美人といえるだろう。ただ美人というだけではなく、その表情からは聡明さが見て取れる。青い瞳には理知的な光を宿していた。
「こちらは王宮医師のラウル」
 リカルドは、次にラウルを示して妻に紹介した。だが、ラウルは彼女を冷たく見下ろしただけで、何も言わなかった。面倒くさそうにリカルドに振り向いて尋ねる。
「サイファとやらはどこにいる」
「二階だ。案内するよ」
 リカルドは緩やかにカーブする幅広い階段を指差すと、ラウルを先導して上っていった。

「サイファ、先生が来たよ」
 リカルドは二階に上がってすぐの部屋をノックして、声を掛けた。
「はい」
 中から返事が聞こえた。子供にしてはしっかりとした声だった。
 扉が開いた。
 そこには少年が立っていた。これがリカルドの息子、サイファなのだろう。整ったきれいな顔に、鮮やかな金髪といった、とても人目を引く容姿をしていた。背格好はもうすぐ10歳という年相応のものだったが、表情は見るからに聡明そうで大人びている。彼の青い瞳には、シンシアと同じような理知的な輝きが宿っていた。
 サイファは背の高いラウルをじっと仰ぎ見た。少し目を大きくして、僅かに驚いたような顔を見せる。しかし、すぐに表情を緩め、にっこりと笑った。
「ようこそ、先生」
 そう言うと、ラウルの手を取り、広い部屋の中へと引き入れた。

 リカルドが軽い足取りで階段を下りていくと、シンシアが訝しげな表情で待ち構えていた。
「大丈夫なの? あの人。強い魔導力を持っているのはわかるけれど」
「悪い人じゃないよ。ああ見えて実直だしね。愛想はないけれど、信頼に足る人物だと思っている」
 リカルドは自信を持って言った。
 それでもシンシアの不信感は拭えなかった。腕を組み、眉をひそめる。
「問題は、リカルドに人を見る目があるかどうかね」
「少しは信用してほしいな」
 リカルドは苦笑した。難しい顔をした妻の腰に手をまわすと、リビングルームへと促した。

「先生は何を教えてくれるの? 魔導?」
 サイファは好奇心いっぱいに目を輝かせ、ラウルにまとわりついた。先ほどとは別人のような、子供っぽい無邪気な表情だった。
「ラウルだ。“先生”は必要ない」
 ラウルは小さな教え子を見下ろしながら、無表情で言った。
「じゃあラウル、座って」
 サイファは急に大人びた口調になった。口調だけではない。表情も落ち着いたものに変わっていた。微笑を浮かべながら、用意してあった椅子を右手で示す。
 ラウルは促されるまま、椅子に腰を下ろした。
 サイファもその隣の椅子に座った。机に左手をのせて寄りかかりながら、ラウルの目をじっと見つめる。出方を窺っているのだろう。
「これを読め」
 ラウルは手にしていた3冊の本を机に投げ置き、突き放すように言った。その本はいずれも魔導に関する論文で、読者は専門の研究者を想定している。最高学府であるアカデミーの生徒でも、理解は難しいに違いない。
 サイファは醒めた目でそれを一瞥すると、ラウルに向き直った。
「もう読んだよ。だいたい本を読ませるだけなんて、家庭教師としては手抜きじゃない?」
「おまえこそ、読んだなどと嘘を言っているのではないだろうな」
 ラウルはムッとして言い返した。どれもつい二ヶ月ほど前に発表されたばかりのものだ。こんな子供がもう読み終わったなど、信じることが出来なかった。
 サイファはフッと挑発的な笑みを浮かべた。机の上の本を一冊、手に取って掲げる。
「この本、第四章の結論が間違っているよね。むしろ逆じゃないのかな。第六章は導き方が強引すぎる。この実験だけでは、この結論は出せないよ。結論ありきで実験をして急ぎすぎたんだろうね」
 それは、ラウルが考えたこととまったく同じだった。きちんと読まなければその指摘はできない。いや、読んでいたとしても、そこに気がつく人間はそうはいない。
「それはおまえの意見か?」
「そうだよ。前の家庭教師が、これを書いた人でさ。教本として読ませられたんだけど、今みたいに指摘したら辞めちゃったんだよね」
 サイファはつまらなそうに言うと、手にしていた本を投げ出すように机に落とした。まるで、読む価値がないと言わんばかりだった。
 ラウルは眉をひそめた。
「指摘しただけではないのだろう」
「こんなところで小遣い稼ぎしてないで、研究に本腰入れた方がいいんじゃない? って言っただけだよ」
 サイファは事も無げにしれっと言った。
 ここまで言われて家庭教師を続けられる人間は皆無だろう。リカルドの言っていたことが、ラウルはようやく理解できた。「ちょっと生意気」どころではない。相当に生意気だ。
「ねえ、こんな本よりさ、魔導を教えてよ。実戦的なやつ」
 サイファはパッと顔を輝かせてそう言うと、身を乗り出してラウルの手を取った。
「ラウルってすごく強くて深い魔導力を持っているよね。今まで僕が出会った中で圧倒的に一番だよ。医師って聞いてたから期待してなかったけれど、今はラウルが来てくれて嬉しく思ってるんだ」
 その言葉は、彼の魔導使いとしての水準を証明していた。向かい合っただけで相手の魔導力を測ることが可能なのは、上級以上の使い手のみだ。
 もちろん、最上級の使い手であるラウルにも、それが可能である。彼はサイファの魔導力をかなりのものと評価した。王宮に勤める人間でも、敵うものはごく少数だろう。父親のリカルドよりも上である。ただし、それ相応に優秀な使い手であるかは、また別の話だ。いくら強い魔導力を持っていても、知識と技術がなければ、単なる宝の持ち腐れにしかならない。
「ねえ、教えてよ。家庭教師なんだから、教えるのが仕事じゃない?」
 サイファは人なつこい笑顔で、催促するように大きな手を引いた。
 ラウルは腕を取られたまま、険しい顔で睨みつけて言う。
「その前におまえの力を見せてみろ」
 サイファはにっこりと笑った。
「わかった。じゃあ、地下へ行こう。稽古場があるんだ」
「ここでだ」
 ラウルは低い声でそう言うと、サイファの手を払いのけ、椅子から立ち上がった。そして、短く呪文を唱えると、部屋の内壁に沿うように、青白く光る結界を張った。魔導も物体も遮断する強力なものである。
「私をここから一歩でも動かしてみろ。手段は問わない」
 サイファは肘掛けに右手を置き、ラウルの横顔をじっと見つめた。そのままゆっくりと顎を引くと、ニッと口の端を上げる。
「面白いよ、それ」
 その静かな声には、挑みかけるような色が含まれていた。
 だが、ラウルはピクリとも反応しなかった。無表情な横顔を見せたまま、腕を組み、まっすぐに立っている。一見、無防備そうに見えるが、攻撃を仕掛けにくい隙のない構えだ。そう、すでに「試験」は始まっているのだ。
 サイファは口元をきゅっと引き締めた。椅子から軽く跳ねるようにして立ち上がると、足早にラウルの正面に回り込み、少し距離を取って向かい合う。
 小さく息を吸った。
 ラウルを見据えたまま短い呪文を唱え、ふたりの間に透明な結界を張る。
 間髪入れず、胸の前で両手を合わせ、次の呪文を紡ぐ。両手の間に白い光が生じた。かなり輝度の強いものだ。眩しくて正視できないくらいである。光の向こう側にあるラウルの姿を捉えることは不可能だろう。
 サイファの額に汗が滲んだ。
「やぁっ!」
 幼い掛け声とともに、ラウル目掛けて光球を放出した。それは、ふたりの間の結界を消滅させ、それでも勢いを失うことなく目標に突き進む。
 ラウルは開いた左手を突き出し、サイファの攻撃を受け止めた。その瞬間、ジュッと何かが焼けるような音がして、光球は激しい光を放ちながら霧散した。
 サイファは身を低く前傾して地面を蹴った。素早く光の海をくぐり抜ける。地面に手をつき、体ごと遠心力をつけ、コンパスのように足先をくるりと回す。計画通りラウルの足首を薙ぎ払った、いや、払おうかという、そのとき——。
「うわっ!」
 逆に細い足首を掴み上げられ、一瞬で逆さづりになった。何が起こったのか理解できない表情で、あたふたと周囲の状況を窺う。
「稚拙な手だ」
 ラウルは冷淡にそう言うと、腕の力だけで、小さな体を勢いよく放り投げた。
 サイファは受け身を取ろうとしたが、不完全なまま、部屋を覆う結界に打ちつけられた。僅かに弾むようにして床に落ちる。
「う……っ……」
 顔をしかめ、頭を押さえ、よろめきながら立ち上がった。眉根を寄せて前を見る。
 ラウルは感情のない顔で、開いた右手を正面に突き出した。そこに、呪文の詠唱なしに、白い光球を生じさせる。先ほどサイファが放ったものより何倍も攻撃力が強いものだ。あたりが強く照らされ、ラウルの後ろに長い影を作る。
 サイファははっとした。防御の呪文を口にのせる。
 白い光がサイファに襲いかかる。
 まだ詠唱は終わっていない。
 もう間に合わない。
 サイファは息を呑んだ。視界が白で覆われた。
 だが——。
 それは目の前で中央から分かれ、彼を避けるように両側を通り過ぎた。凄まじい速度だった。背後の青白い結界に衝突し、部屋の壁ごと突き破る。それでも止まらず、屋敷の外壁にも穴を開けた。粉塵が舞い、瓦礫が山となる。
 ——ガ、タン。
 サイファは呆然としながら、その場に崩れるように両膝をついた。
 白い頬には薄く傷が走っていた。
 袖にはいくつもの切れ目が入っていた。
 金の髪が幾本か舞い上がり、はらりはらりと落ちていく。
 それでも、目は、粉塵で煙る向こう側の人影に釘付けになっていた。長髪をたなびかせながら腕を組み、二つの足でしっかりと直立している。いまだ一歩も動いていない。
 上方から次第に靄が晴れていく。
 凍てついた無感情な瞳が露わになった。ギロリ、と視線が動く。
 サイファはびくりと体を竦ませた。そして、芯から痙攣するように震え出した。僅かに口を開いたが、そこから声は出てこなかった。彼のすべては、戦慄と畏怖に支配されていた。


4. 巡り合わせ

 ラウルが初めてラグランジェ家へ行った日から一週間が過ぎた。
 まだ家庭教師は続けている。
 サイファの部屋を壊し、外壁にまで穴を開けてしまい、辞めさせられるだろうとラウルは思った。彼としては、そうなっても一向に構わなかった。もともと、嫌々ながら引き受けたものである。狙ったわけではないが、そうなればいいという気持ちは、どこかにあったかもしれない。
 だが、リカルドの反応は予想外のものだった。「家を壊したんだから、その分ちゃんと働けよ」などと、軽く笑いながら言う。サイファも、直後は呆然としていたものの、その後はなぜか妙にラウルに懐いてきた。
 怒っていたのはシンシア一人だけである。どういうつもりだと眉を吊り上げ、ラウルに詰め寄ってきた。家を壊され、息子を危険な目に遭わせられたのだ。当然の反応だろう。この家でまともな感性を持っているのは、どうやら彼女だけのようだ。だが、その彼女もリカルドになだめられ、結局は渋々ながら引き下がった。
 こうして、ラウルの家庭教師が続行されることになったのである。

「ねぇ、それ違うんじゃない?」
 ノートに数式を書いていたラウルの横から、サイファは頬杖をついたまま口を挟んだ。自分の鉛筆で、空きスペースにさらさらと数式を書いていく。
「ここで放射されるのは光粒子だよね? だったらその基本エネルギーはその定理を使ってこう……で、影響を受けるのは重力と空気抵抗だから……こうなるんじゃないの?」
 トン、と最後に点を打ち、顔を上げて隣のラウルを窺う。
「相互干渉の補正分が抜けている」
 ラウルはサイファの数式の斜め下に追記し、それを丸で囲んだ。
 サイファはじっとそれを見つめ、怪訝に眉を寄せた。
「この魔導で相互干渉なんて聞いたことないけど?」
「相互干渉を起こさない魔導の方が少ない」
 ラウルは淡々と言う。
「でも、今までは考慮してなかったよ」
「微量だからだろう。大雑把に求めるのなら、おまえのでも間違いではない」
「なんかその言い方、喧嘩を売られているみたい」
 サイファは頬杖を付き直し、口をとがらせた。
 ラウルは横目で冷ややかに睨んだ。おまえの方がよっぽど喧嘩を売っている、と思ったが、あえて口には出さなかった。鉛筆を置き、教本を閉じる。
「今日はここまでだ」
「もう終わり?」
 サイファは頬杖を外し、目を大きくした。
「3時間はとうに過ぎている」
 ラウルは無表情で片付け始めた。教本を重ね、筆記具とともに帯で束ねる。
 サイファはその様子を寂しげに見つめながら言う。
「少ないよね、3時間じゃ。もう少し延ばせないの?」
「おまえとこれ以上長くはいたくない」
「父上に頼んでみるよ」
 ラウルは顔を上げ、サイファを鋭く睨みつけた。
「おまえ、人の話を聞いているのか」
「わかってる。今日はここまでだね」
 サイファは少しも動じることなく、両手を広げ、にっこりと大きく微笑んだ。
「でも、あとひとつだけ質問してもいいかな?」
「何だ」
 苛立ちを含んだ声で、ラウルは先を促した。
「最初に会った日のあれ、ラウルを一歩でも動かしてみろってやつだけどさ。ずっと考えていたけど、いい手が思い浮かばないんだ。ラウルならどういう手を使うの?」
「床を抜く」
「え?」
「二階なら床を抜くことは容易い」
 ラウルは前を向いたまま、無表情で答えた。
「人の家だと思って、むちゃくちゃ言うよね」
 サイファは半ば呆れたように、苦笑しながら言った。
「あ、でも、部屋の周囲には結界が張ってあったよね。あの結界を破らない限り、床を抜けないんじゃない?」
「破ればいい」
 ラウルは事もなげに言った。
「僕には無理だよ」
「私ならどうするかという問いに答えただけだ。おまえのことは知らん。自分で考えろ」
 サイファは恨めしそうに、じとりとラウルを睨む。
「じゃあさ、僕の戦い方で、直すべきところを教えてよ」
 ラウルは教本の上に手をのせたまま、サイファを一瞥した。そして、面倒くさそうに溜息をつくと、腕を組みながら椅子にもたれかかる。ギィ、と濁った音を立て、背もたれのバネが軋んだ。
「掛け声は不要だ。相手に有利になることはあっても、自分に有利に働くことはない」
「それは、そうだね……」
 サイファは控えめな声で同意した。図星を指されたせいか、そのときのことを思い出したせいか、僅かに耳元が紅潮している。恥ずかしいという認識はあったようだ。
「呪文の詠唱もない方がいい」
 ラウルは腕を組んだまま、淡々と畳み掛けた。
「そうだよ! それ、どうやってるわけ?」
 サイファはぱっと顔を上げ、興味津々に身を乗り出した。青い瞳を輝かせながら、じっと返事を待つ。
 ラウルは煩わしげに顔をしかめ、投げやりな説明をする。
「その場で式を組み立て、計算し、魔導を構築する。原始的な方法だ。おまえも知っているのではないのか」
「それは、魔導の原理としては知っているけど……呪文より素早くなんて無理なんじゃないの? だいたい、原始的な方法じゃ時間がかかりすぎるからってことで、実用化するために呪文が発明されたんだよね?」
「多くの人間にとってはそうだ。だが、おまえくらいの頭と魔導力があれば、訓練次第で呪文詠唱なしの魔導も可能になるだろう。呪文より損失が少ない分、効率がいいし、融通も利く」
 サイファは小さく息を吸ってラウルを見つめた。
「へぇ、面白そう」
 独り言のように呟くと、大きく瞬きをして尋ねる。
「ラウルが稽古をつけてくれるんだよね?」
「……そのうちな」
 ラウルは低い声で答えると、束ねた教本を無造作に掴み、椅子から立ち上がった。長い焦茶色の髪が、広い背中で大きく揺れた。

 ふたりは連れ立って部屋を出た。
 そこから三部屋向こうが、先日、ラウルが壊した部屋である。何もかもが、ほとんどそのときのまま放置されていた。瓦礫さえも片付けられていない。まだ修復作業には取り掛かっていないようだ。
 外壁の方は、壊した翌日には修復されていた。こちらの対応は素早かった。さすがに、家に大きな穴を開けたままで、何日も放置しておくわけにはいかなかったのだろう。

「サイファ」
 鈴を転がしたような、それでいてあどけない声。
 それは、ラウルたちが階段に差し掛かったときに聞こえてきた。階下からである。声の方に視線を向けると、淡い水色のワンピースを着た幼い少女が、愛らしい笑顔で待ち構えているのが見えた。
「レイチェル、来てたの?」
 サイファはぱっと顔を輝かせると、金色の髪をなびかせながら、緩やかにカーブする階段を駆け下りた。迷うことなく、その小さな体を抱え上げる。いくらレイチェルが小さいとはいえ、サイファ自身もまだ子供である。それなりに重いに違いない。だが、はたから見た限りでは、まったくそうは感じられなかった。抱き上げ方が手慣れているせいかもしれない。
 彼はレイチェルと目線を合わせると、にっこりと微笑みかけた。レイチェルも小さな手を伸ばすと、幸せそうな笑顔をサイファに寄せた。
 ラウルはその様子を上からじっと眺めていた。
 レイチェルがラグランジェ家の人間であることは確信していた。本家であるここにいても、驚くべきことではない。だが、ようやく断ち切れたと思った途端の邂逅である。そこまで冷静ではいられなかった。何とも言いようのない気持ちが湧き上がる。小さく息をついて視線を離すと、広い階段を降り始めた。
「あ、紹介するよ」
 サイファはレイチェルを下ろしながらそう言うと、通り過ぎようとするラウルの手首を掴んで引き留めた。そのまま少し身を屈め、反対側の手で彼を示すと、レイチェルに優しく語りかける。
「レイチェル、この人は僕の新しい家庭教師のラウルだよ」
 今度は、体を起こしてラウルに向き直った。少女の頭に手をのせて言う。
「ラウル、この子は僕の婚約者のレイチェル」
「婚約者?」
 ラウルは思わず聞き返した。
「そう、僕の未来のお嫁さんだよ」
 サイファは屈託なく言った。
 ラウルは睨むように彼を見下ろした。ラグランジェ本家の後継者は、子供のうちから婚約者を決めねばならない——いつだったか、そのような話を聞いたことを思い出す。サイファはラグランジェ本家の一人息子だ。つまり、そういうことなのだろう。
「ラウル」
 甘い声が、彼の思考を中断した。
 ラウルが振り向くと、レイチェルは花が咲いたようにふわりと可憐に微笑んだ。それは、いつも窓越しに見ていた笑顔そのものだった。近くで見たのは初めてである。ますます懐かしい面影と重なり、夢と現実が溶け合ったような不思議な感覚に囚われる。
「ラウル、手」
 サイファは小声で囁きながら、彼の袖を引っ張った。
 ラウルは我にかえった。いつの間にか、レイチェルがこちらに手を伸ばしていることに気がつく。握手を求めているのだろう。それに誘われるように、右手を差し出した。小さな彼女に届くように、少し腰を屈める。焦茶色の長髪が肩から滑り落ちた。
 レイチェルはにっこりとして踵を上げると、小さな柔らかい手を、大きな手にそっと触れ合わせた。
 その瞬間——。
 ラウルはハッと目を見開いた。戦慄にも似た何かが、体中を駆け抜けた。それが何であるか、彼は理解していた。だが、にわかには信じられず、何かの間違いではないかと思う。彼女の小さな手を包み込むように握り、澄んだ蒼の瞳を探るように見つめ、神経を研ぎ澄ませた。
 ——間違いでは、ないな……確かに存在する……しかし、なぜこんな……。
 ラウルは彼女を見つめたまま眉を寄せた。
「はじめまして」
 レイチェルは言った。
「……ああ」
 ラウルは低い声で答えた。握っていた彼女の手を放し、体を起こす。
「ラウルに愛想がないのはいつものことだからね」
 サイファは両手を腰に当て、苦笑しながら補足説明する。レイチェルに対しての配慮だろう。ラウルを知らない人間には、その無愛想な態度がとても恐ろしいものに映るようだ。幼い子であれば、なおのことそうだろう。
 だが、レイチェルは少しも怯えた様子を見せなかった。愛らしい微笑みを絶やすことなく、あどけない声で続ける。
「やっと、おはなしができた」
「…………」
 ラウルは口を固く結び、眉をひそめた。
「あれ? 知ってるの?」
 サイファはふたりを交互に見て、どちらにともなく尋ねた。
「王宮で見かけたの」
 レイチェルが答えた。
「そうか、ラウルは大きいから目立つよね」
 サイファは軽く笑いながら応じた。
 レイチェルもそれを肯定するかのように微笑んだ。
 だが、本当はそうではない。ラウルが彼女を見つめていたから、彼女はラウルの存在に気がついたのだ。なぜそのことを説明しないのだろう。面倒だったのだろうか。取るに足りないことだったのだろうか。それとも——ラウルは様々に考えを巡らせた。
「じゃあ、僕はラウルを送ってくるから、またあとでね」
 サイファは腰を屈め、レイチェルの柔らかな頬を右手で包み込むと、額と額を軽く合わせた。
 レイチェルは無垢な笑顔でこくりと頷いた。

 ラウルとサイファは並んで王宮内を歩いた。
 家庭教師が終わると、ラウルは医務室に帰る。そのとき、なぜかいつもサイファがついてくるのだ。送っているつもりらしい。ラウルが頼んだわけではない。むしろ来るなと言った。だが、サイファは素直に聞くような子供ではなかった。

「ねぇ、ラウルは気がついたよね」
 サイファは青い空を見上げて切り出した。緩やかな風が、鮮やかな金の髪を吹き流し、きらきらと煌めかせる。
「何のことだ」
 ラウルは無表情で聞き返した。
 サイファは空を見たまま答える。
「レイチェルのこと」
「……ああ」
 ラウルは表情を険しくした。サイファは具体的には言わなかったが、それが何なのかすぐに察しがついた。思い当たることはひとつしかない。
「僕はさ、最近ようやく気がついたんだ。ずっと一緒にいたのに情けないよね」
 サイファはラウルに振り向き、少し寂しげに微笑んだ。
「気がついただけでも十分だろう」
「へぇ、ラウルが慰めてくれるなんて思わなかった」
「そんなつもりで言ったのではない」
 ラウルは前を向いたまま素っ気なく言う。
 サイファはくすりと笑った。頭の後ろで手を組み合わせ、再び空を見上げる。長めの前髪がさらりと揺れた。
「でも、不思議なんだよね。普通に魔導を使っているのを見ると、そんな力があるようにはとても思えないんだ」
「あいつは力の大部分を奥底の深いところに閉じこめている。無意識だろうと思うがな」
 ラウルは淡々と言った。意識的な封印ならば知っている。だが、無意識に自らの力を閉じこめるようなものは、これまで見たことも聞いたこともなかった。
「僕もそれは感じていたよ」
 サイファは空を見たまま、目を細めた。
「そこってさ、すごく深くて、静かで、誰も踏み入ったことのない深い森の湖みたいでさ。なんだか心地いいんだよね」
 そう言うと、頭の後ろの手をほどいてラウルに振り向いた。
「ラウルにも似たようなものを感じるよ。ラウルの場合は、湖じゃなくて底なし沼かな?」
 悪戯っぽく笑うサイファを、ラウルは横目で睨みつける。
「あいつを、どうするつもりだ」
「うん……ちゃんと訓練すれば稀代の使い手になるかもしれないけど、僕はそんなことは望んでいない。危険な目には遭わせたくないよ。レイチェル自身もあまり魔導には関心がないみたいだし」
 サイファはまるで保護者のような口ぶりで答えた。まだ子供の彼がこのようなことを言うのは奇妙に映るが、彼自身はいたって真剣だった。
「でも、制御の方法だけは身につけさせた方がいいよね」
「……ああ」
 ラウルは腕を組んで答えた。
 強い魔導力を持つ者は、制御の方法を学ぶ必要がある。そうでなければ、暴発を起こす恐れがあるからだ。通常であれば、制御はそれほど難しいものではない。だが、レイチェルの場合は、魔導力が桁外れなのだ。そのうえ、力の大部分を封印しているも同然の状態である。本来の力に見合った制御を学ばせることは、かなり困難になるだろう。
「レイチェルの両親には僕から忠告しておくよ」
 サイファはにっこりと笑って言った。
 ラウルは僅かに眉を寄せた。
 今のところは、力が封じられているため、暴発する危険性はほとんどないと思われる。切羽詰まった状況ではない。だが、いつまでもこのままとは限らないのだ。早めに制御を身につける必要があるだろう。
 重い荷物を背負って生まれてきたレイチェルに、重い宿命を背負って生まれてきた少女の面影が、またひとつ重なった。

「ラウル、こっち。見せたいものがあるんだ」
 サイファは急にそう言うと、ラウルの手首を引っ張った。医務室とは逆方向の小径へ向かおうとしている。ラウルが一度も行ったことのない場所だ。この先に何があるのかは知らないが、知りたいとも思わない。
「断る」
 冷たく端的に拒絶する。
「そんなこと言わずにさ」
 サイファは軽い調子で受け流すと、大きな手をしっかりと握り、強引に小径を歩き出す。
 ラウルは小さく溜息をつくと、仕方なくサイファに従って歩き出した。その小さな背中に向かって、ぶっきらぼうに尋ねる。
「何があるのか言え」
「バラ園だよ、ほら」
 蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチをくぐると、視界一面にバラ園が広がった。広大というほどではないが、種類ごとに整然と整備されており、遠目に見ても美しいものだった。近くで見ても、細かなところまで手入れが行き届いているのがわかる。ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「僕が好きなのはこれ、ピンクローズ」
 サイファはピンク色が咲き誇る一角に駆けていき、そのひとつに手を添えた。顔を近づけ、目を閉じる。
「華やかだけど、可憐で、可愛らしくて、まるでレイチェルみたいじゃない?」
 そう言って、薄紅色の花びらにそっと口づける。
「レイチェルの話をしてたら、急にここに来たくなったんだ」
 ピンクローズから手を放さないまま、顔だけラウルに振り向けると、小さく肩をすくめて見せる。子供らしい仕草ではないが、不思議と違和感はなかった。
「ねぇ、ラウルはどれが好き?」
「興味はない」
 ラウルは即答した。あからさまに無関心な態度だった。
 サイファは不満げに口をとがらせる。
「ラウルって何に興味があるわけ? いつもそんな……たっ!」
 突然、短い叫び声を発すると同時に、顔をしかめて手を引いた。その指先に、赤い血がじわりと丸く盛り上がっていく。バラの棘が刺さったのだろう。
「不用意に触れるからだ」
 ラウルは冷たく言った。
 サイファはムッとして彼を睨んだ。ふてぶてしく口を開く。
「治療してくれる?」
「そのくらい水で洗うだけでいい」
 ラウルは突き放した。
「うわ、王宮医師とは思えない言葉だね。それって職務怠慢じゃない?」
 サイファは意図的に大袈裟な言い方をすると、僅かに口もとを上げた。
 だが、ラウルは眉ひとつ動かさずに言い返す。
「医師として治療不要と判断した」
「傷を見もしないで、よくそんなことが言えるね」
 サイファの口調はますます挑戦的になった。血の流れる指先を立て、ラウルに突き出す。
「せめて傷を見てからにしてよ」
 ラウルは冷淡な瞳で見下ろした。
 サイファは攻撃的に睨み返した。
 ふたりは無言で視線をぶつけ合う。
 どちらも引かない。
 膠着状態が続く。
 ——ズッ。
 微かな衣擦れの音。
 先に動いたのはラウルだった。
 差し出された細い指を、大きな手でガシッと掴んだ。
 そして、僅かに身を屈めると、徐にそれを口に含む。
「なっ……」
 サイファの体がビクリと震えた。
「何をしているわけ?」
 顔を赤らめながら、少し怒ったように、とまどったように、呆れたように、だが努めて冷静に尋ねた。
 ラウルは血の混じった唾を吐き捨て、平然と言い放つ。
「治療だ」
「化膿したらどう責任をとってくれるの?」
 サイファは負けじと詰問する。
「だから水で洗えと言った」
 ラウルは鬱陶しそうに言う。
「消毒してくれる? 医務室できちんと」
 サイファは強気に追いつめる。感情的な口調ではない。だからこそ、そこに貫禄めいたものが感じられた。
「……来い」
 ラウルは観念したかのように低い声を落とした。いや、観念したわけではない。面倒になったので譲歩した——少なくとも彼の方はそういうつもりだった。サイファには目も向けず、早足で医務室に向かって歩き出す。眉間には縦皺が刻まれていた。

「やっとラウルの医務室に入れてもらえた」
 丸椅子に座ったサイファは、にこにこしながら声を弾ませた。いつも医務室の前までは来ていたが、中に入ったことはなかった。ラウルに拒否されていたのだ。
「そのためにわざと怪我をしたのではないだろうな」
 ラウルは消毒液を棚から取り出しながら尋ねる。
「まさか」
 サイファは軽く一笑に付した。
 ラウルは眉をひそめて睨んだ。笑ってはいるが、サイファならこのくらいのことはやりかねない。嘘も平気でつくだろう。だが、今さらそれを追及しても仕方がない。
 無愛想なまま椅子に腰を下ろすと、笑顔のサイファと向かい合った。怪我をした方の手をとり、人差し指を消毒して絆創膏を貼る。ごく簡単な処置である。わざわざ医務室にまで来ずとも、本来なら自宅で可能なものだ。
 処置が終わると、サイファはきょろきょろと物珍しそうにあたりを見まわした。
「ねぇ、あの扉は何?」
 ほとんど壁と同化した扉を、目ざとく見つけて尋ねる。
「私の部屋だ」
 ラウルは素っ気なく答えた。
「その向こうの部屋に住んでるってこと?」
「そうだ」
「中を見せてよ」
「断る」
「散らかっていても僕は気にしないよ」
 サイファは明るく言った。
 ラウルは軽く睨みつけた。
「そういう問題ではない。誰も招き入れないことにしている」
 そう言いながら立ち上がり、消毒液を棚に片付ける。ガラスの扉をゆっくりと閉めた。
「見られたくないものでもあるの?」
「私的な空間に踏み込まれたくないだけだ」
「じゃあ、いつか招待してね」
 サイファは人なつこい笑顔を浮かべた。
「おまえ、少しは人の話を聞け」
 ラウルは疲れたように溜息をついた。サイファのあまりにも自分勝手な物言いに、怒りを通り越して呆れていた。抑揚のない低い声で言う。
「治療は終わった。もう帰れ」
「ラウルのことが少しわかってきたよ」
 サイファは上目遣いでラウルを見ると、形の良い唇に、意味ありげな笑みをのせる。
「けっこう動物的だよね。言葉じゃなくて行動でわからせようとするあたりさ。最初に自分の力を誇示して、相手を服従させようとするのもそうだよね」
 ラウルは氷のような瞳で睨めつけた。
「たった10年しか生きていない奴に何がわかる」
「そういうラウルは、何年、生きているの? 300年は超えているよね」
 サイファはにっこり微笑んで言った。
 ラウルはじっと彼を見下ろした。ゆっくりと息をつく。
「知っていたのか」
「父上が話しているのを聞いたんだ」
 サイファは極めて軽い口調で言う。
「怖くはないのか」
 ラウルは尋ねる。
「どうして?」
 サイファは首を傾げた。そして、当然のように言う。
「人間じゃないから危険ってことはないよ」
「私は人間だ」
 ラウルは間髪入れず訂正した。
「え、そうなの?」
 サイファは目を丸くした。どうやら本気で人間外の生物だと思っていたらしい。少し興奮した様子で、身を乗り出して尋ねる。
「どうしてそんなに長く生きられるの?」
「さあな」
「僕もラウルみたいに長く生きられるかな?」
「さあな」
 ラウルは答えをはぐらかした。
 サイファは口をとがらせた。だが、すぐに気を取り直して質問を続ける。
「じゃあ、ラウルはどこから来たの? それくらいは教えてくれる?」
 ラウルはしばらく考えたのち、無言で窓の外を指さした。
 サイファは視線でそれを辿る。
「空?」
「その向こう側だ」
「空の、向こう側?」
 ぽつりと疑問形で呟きながら、椅子から立ち上がった。引き寄せられるように窓へと足を進める。窓枠に手をのせると、ガラス越しに空を見上げた。広く、深く、どこまでも青が続く。その向こう側にあるものは、ここからは見えない。
 ラウルは腕を組み、うつむいた。焦茶色の長髪がはらりと落ち、表情を覆い隠す。
「もう帰れ。レイチェルが待っているのだろう」
「うん、ありがとう」
 サイファは絆創膏を貼った指を立てて見せた。そして、右手を振りながら、軽い駆け足で医務室をあとにした。

 医務室にいつもの静寂が戻った。
 ラウルはガラス窓を開けた。風が渦を巻くようにして医務室に滑り込む。焦茶色の長髪がうねりながら舞い上がった。
 ——おかしな奴だ。
 リカルドも恐れることなく入り込んでくるが、サイファはそれ以上だった。遠慮なく踏み入ってきて、強引に自分のペースに巻き込む。それは、単なる子供のわがままとは違う。押すべきところと、引くべきところを、上手く使い分けているのだ。自然にやっているようにも、何もかも計算づくのようにも感じる。
 一緒にいて、これほど頭にくる奴もそうはいない。一方で、彼という人間と、彼の持つ才能には、多大な興味を引かれていた。
 家庭教師をすぐに断らなかったのも、おそらくその興味ゆえだろう。だが、今後も続けていくと決めていたわけではない。しばらく様子を見てから結論を出すつもりでいた。それが、リカルドとの当初の約束でもあった。
 ラウルは窓枠に両手をつき、緑が茂る静かな裏道を見下ろした。
 誰もいないそこを見据え、眉根を寄せる。
 もう、自分の中で結論は出ているのだろうと思う。
 それには、サイファへの評価ではなく、明らかに別の存在が影響していた。
 レイチェルだ。
 外見や表情が似ているだけならまだ良かった。断ち切ることは可能だっただろう。だが、彼女の持つ魔導力の危うさは、目を離せなくさせるのに十分だった。
 今日の話しぶりからすると、彼女が本家に遊びに来ることも度々あるのだろう。無関係の自分には何もできないが、せめて見守ることくらいは——そんな使命感にも近い思いが湧き上がった。
 ——運命までは、似なくていい。
 ラウルはゆっくりと顔を上げた。
 空を仰ぎ見て、目を細める。
 白い翼を持った鳥が、青い空を滑るように横切っていった。


5. 最後の日

「もういいだろう。とうに時間は過ぎている」
「ダメだよ」
 立ち上がろうとしたラウルの手首を、サイファは指の痕がつくくらいに強く掴んで引き留めた。半ば怒ったような真剣な顔で、ラウルの瞳をじっと見つめる。

 サイファ=ヴァルデ=ラグランジェは18歳になっていた。
 子供の頃から人目を引く容姿をしていたが、成長するにつれ、ますますそれに磨きがかかっていった。すっと通った鼻筋に、甘く涼やかな目もと、形の良い薄い唇、そして、聡明さを映し出したかのような、理知的な輝きを放つ青い瞳——いずれのパーツも、全体のバランスも、文句のつけようもないくらいに端整だった。特に、真剣な表情を見せるときなどは、一分の隙もないほどだ。だが、普段の彼には、まだ少年らしい雰囲気が多分に残っている。そのあたりの落差も、人目を引く一因なのだろう。
 身長もかなり伸びていた。といっても、並外れて長身のラウルには遠く及ばない。成年男子の平均くらいである。サイファ自身はそれで不満には思っていないようだった。ラウルを抜かせないのが悔しいと言ったことはあったが、その軽い口調からいっても、あくまで冗談であり、本気ではなかったのだろう。
 そして、頭脳の方も成長し、さらに切れ味を増していた。
 家庭教師を始めて最初の3年くらいは、辛うじて教えるという体裁をとっていたが、その後は対等に議論する形へと自然に変わっていった。一方的に教えることなど、少なくともラウルが受け持っている分野においては、何もなくなってしまったのだ。乾いたスポンジのように知識を吸収し、それを新たな発想で組み立てていく。ラウルが考えもしなかった思考の飛躍を見せる。そんなサイファとの時間は、ラウルにとっても刺激の多いものだった。
 今日が、家庭教師としての最後の日である。
 辞めさせられるわけでも、辞めるわけでもない。サイファの就職が決まったためである。明日から、この国の中央行政機関のひとつである魔導省に勤めるのだ。本来であれば、高倍率の試験と適性検査、面接などにより選抜されるのだが、サイファは例外的に無試験で入省が決定したらしい。ラグランジェ家の力を持ってすれば、このくらいの特別措置は極めて容易に実現できるのだろう。
 だが、サイファの場合は、優遇されることなく競い合ったとしても、不採用になるとは考えられなかった。魔導、頭脳、いずれの面においても、彼に勝る者がいるとは思えない。問題があるとすれば性格だけだ。

 サイファは、ラウルの手首を掴んだまま、じっと濃色の瞳を見据えて言う。
「ラウルにとってはたった8年だろうけど、僕にとっては人生の半分近くなんだ」
「それがどうした」
「名残を惜しむ僕に、少しくらい付き合えってことさ」
 ラウルは煩わしげに溜息をついた。
「私は教師として雇われている。それ以外の理由で引き留められる道理はない」
 正当な言い分を論理的に説明し、冷淡に突き放す。
 だが、サイファはそれを聞いて何かを画策したらしく、思わせぶりに口の端を上げた。
「では、ラウル先生にひとつ質問だ」
 人差し指を立て、緩やかに瞬きをすると、やや上目遣いにラウルを見つめた。形のよい唇が滑らかに開く。
「明日からの僕のために、社会人として留意すべきことを助言してほしい」
 ラウルは眉をひそめた。サイファは時折、わざと「先生」と呼ぶ。ラウルが嫌がるのを知った上でのことだ。そうやって、揶揄したり、挑発したりするのだ。今回も、真面目な口調ではあるが、質問の内容からしても、からかっているとしか思えなかった。
「私にそれを訊こうというのか」
「社会性がないのは知っているが、物事を見通す目は持っているからな」
 サイファはにっこりとして言う。
 ラウルは勢いよく腕を引き、サイファの手を振りほどいた。彼をじっと睨み下ろす。
「おまえは能力のない人間を馬鹿にする傾向がある。そんなことでは軋轢を生み、孤立することになるだろう」
「わかっているよ」
 サイファはさらりと答えた。体を斜めに傾け、机に寄りかかるように頬杖をつく。
「能力がなくても権力を握っている人間は多いからね。人当たりよく近づいて、適当にご機嫌をとりつつ利用させてもらうつもりさ」
 悪びれることもなく、至極当然のように言う。
 ラウルは眉根を寄せた。
「そこまでは言っていない」
「でも、たいして違わないだろう?」
 サイファは頬杖をついたまま、僅かに首を傾げて同意を求める。
「おまえには無理だ。感情をすぐ表に出すような奴にはな」
 ラウルは冷たく言い放つ。
「ああ、それはラウルの前だけだよ」
 サイファは軽くそう言うと、頬杖を外して体を起こした。
 ラウルは怪訝に眉をひそめる。
「なぜだ」
「さあね。自分で考えたら? 何でも知ってるラウル先生」
 サイファは上目遣いで視線を送り、僅かに口もとを上げた。
 ラウルはムッとして言い返す。
「おまえは本当のことを言っていない」
「さあ、どうかな」
  サイファは膝の上でゆっくりと手を組み合わせた。
「僕はね、自分をコントロールできる人間だよ。感情とは裏腹の態度を装うことだって可能なんだ。ラグランジェ本家の人間であれば、子供といえども、そういうことを求められる場面は多い。昔から鍛えられているんだよ」
 落ち着いた口調だった。表情も急に大人びたものに変わった。鮮やかな青の瞳が、真正面からラウルを捉えている。
「まあ、持って生まれた資質もあるんだろうけどね。父上よりは世渡りが上手い自信はあるよ」
 小さく肩をすくめ、悪戯っぽさを覗かせながら付言する。
 ラウルにはサイファの本心が掴めなかった。表情をくるくると変え、意味ありげな言葉を重ねつつ、核心だけはかわして相手を翻弄する。サイファのよく使う手だ。いったい何のためにこんなことをするのかわからない。だが、そんなことは今さらどうでもよかった。
「質問には答えた。もう帰ってもいいだろう」
「まだだよ」
 サイファは再び手首を掴んで引き留めた。先ほどよりも力が込められていた。
「いい加減にしろ」
 ラウルは語調を強めて言った。
 それでもサイファは引き下がらなかった。手を緩めようとしない。それどころか、はしゃいだ様子で話し掛けてくる。
「そうだ、ラウルに何かお礼をするよ」
「礼など不要だ。報酬はもらっている」
 ラウルは冷ややかに言う。
「そうじゃなくて、8年間の僕の感謝の気持ち」
 サイファは自分の胸もとに左手を当てて微笑む。
「おまえの感謝など受ける気はない」
「何か欲しいものはあるか?」
 身勝手に話を進めるサイファを、ラウルは思いきり睨んだ。眉間に深い縦皺が刻まれる。
「少しは人の話を聞け」
「聞いているよ」
 サイファはにっこりと屈託なく笑った。
 ラウルは口を固く結び、再び力任せにサイファの手を振りほどいた。捲れた袖を下ろしながら、疲れたように溜息をつく。
「おまえは、なぜいつも無駄なことばかりに労力を使う」
「無駄なことほど楽しいんだよ。ラウルにはそういう潤いが足りないね」
 サイファは澄ました口調で言った。

 ——トン、トン。
 ふいに扉が叩かれた。会話中ならば聞き逃してしまいそうな小さな音だ。
「はい、開いているよ?」
 サイファはそちらに目をやりながら、不思議そうに返事をした。
 カチャリと音がして、遠慮がちに扉が開く。そこから、レイチェルがそろりと斜めに顔を覗かせた。後頭部に留めてある淡い水色の大きなリボンが、動きに合わせて微かに揺れる。
「ごめんなさい、まだお勉強中だったのね。遅いから心配になって来てみたの」
 サイファは満面の笑みを浮かべる。
「心配かけてごめんね。今日で家庭教師が終わりだから、ラウルと名残を惜しんでいたんだ」
「私は惜しんでなどいない」
 ラウルは横からつっけんどんに否定する。
 レイチェルはくすっと小さく笑った。
「じゃあ、下で待っているわね」
「いいよ、おいで」
 サイファは自分の膝を軽く叩いて呼んだ。
 レイチェルは部屋に入って扉を閉めると、軽い足どりでサイファのもとへ向かった。そして、示された場所、すなわち彼の膝の上に、素直に躊躇いなく腰掛けた。今日が初めてというわけではないのだろう。随分、慣れているように見えた。
 ふたりは近い距離で見つめ合い、互いににっこりと微笑んだ。
「考えてみれば、レイチェルとだって、今までみたいに頻繁には会えなくなるね」
 サイファは寂しげに言うと、小柄な体を包み込むように抱きしめた。

 レイチェル=エアリ=ラグランジェは12歳になっていた。
 誰の期待も裏切ることなく、彼女は愛らしいままに美しく成長しつつあった。白く透きとおった肌、大きな引力を秘めた蒼の瞳、形のよい小さな薄紅色の唇、柔らかく輝く金の髪——一目するだけではっと息を呑むほどだった。まるでお人形のようだ、と王宮内でも評判になっていた。
 彼女の強大な魔導力は、いまだ顕在化していない。
 8年間、サイファのところへ遊びに来る彼女をそっと見守ってきたが、危険な兆候は見られなかった。変化自体がまったくないのだ。それが良いことなのか悪いことなのか、現時点では判断はつかない。
 制御の方は上手くいっていないようだ。やはり、かなり困難であるらしい。前例がないため、その教育も手探りである。そのうえ、最近はレイチェルが魔導に関することを嫌がっているという。実際、魔導関係の教育は、今現在すべて停止していると聞いた。
 もし、このままずっと魔導力の大部分が封じられた状態ならば、確かに制御を学ぶ必要はないだろう。だが、その保証はどこにもない。それにもかかわらず、レイチェルの両親やサイファは、随分と楽観しているように見受けられた。
 しかしラウルも、楽観まではしていないが、危機感は薄れつつあった。頭では気をつけなければならないと思っていても、何事も起こらない日々が続けば、無意識のうちに油断が生じてしまう。人間とはそういうやっかいな生き物だ。

「そうだ」
 サイファは何かを思いついたようにそう言うと、レイチェルを抱き上げて椅子から立った。いわゆるお姫様だっこの状態だ。重そうにはしていない。ゆっくりと身を屈めると、彼女をラウルの膝に横向きに下ろして座らせる。
「何だ」
 ラウルはサイファに振り向いて睨んだ。
「レイチェルを見ていてくれ。着替えてくる」
 サイファはそそくさと部屋の隅へ向かった。大きめのクローゼットから、ハンガーに掛かった濃青色の服を取り出し、ベッドの上にさっと投げ置いた。そして、本当に服を脱いで着替え始めた。
 ラウルは溜息をつき、前に向き直った。
 レイチェルは片手でラウルの服を無造作に掴み、宙に浮いた足を前後に揺らしながら、幼い子供のようなあどけない表情で、虚空に視線をさまよわせていた。サイファの着替えている方には目を向けていない。たとえ振り返ったとしても、その位置からではラウルの体に遮られてしまい、不自然に身を乗り出さない限りは見られないだろう。サイファはそこまで計算して彼女をここに置いたのだろうか、とラウルはじっと考える。
 自分に向けられた視線に気がついたのか、レイチェルは瞬きをして振り向いた。柔らかい金の髪がさらりと揺れ、頭のリボンが跳ねるように弾む。そして、大きな瞳をラウルに向けると、ふわりと花が咲くように可憐な微笑みを浮かべた。その無防備で愛らしい笑顔は、これまで幾度となく目にしてきたが、この至近距離で見たのは初めてだった。
 ラウルは眉根を寄せた。
 ほとんど無意識に手が動いた。
 薄い色の前髪をゆっくりと払う。
 無垢で穢れのない蒼の双眸。
 その奥を探るように見つめる。
 何を探っているのだろう。
 何を求めているのだろう。
 何を——。
 ラウルは僅かに顔をしかめた。いくら面影が重なったとしても、別の存在であることは最初から理解していた。それでも、あの笑顔を見せられると、論理的な思考が一瞬で砕け散ってしまう。どうしても何かを期待してしまうのだ。
 レイチェルはきょとんとしていた。小さく首を傾げ、不思議そうにラウルを見つめる。
「すまなかった」
 ラウルは彼女の額から手を引いた。
 しかし、強い引力に捉えられたかのように、彼女の瞳から目を逸らすことは出来なかった。

「ちょっとお二人さん、なに見つめ合っているのさ」
 サイファは軽く咎めるようにそう言うと、腰に両手を当てて覗き込んだ。もう着替え終わったようだ。先ほどクローゼットから出していた濃青色の上下を身につけている。詰襟のホックまできっちりと締められていた。
 ラウルは彼を一瞥すると、無表情のまま口を開く。
「おまえが見てろと言った」
「うわ、ラウルも冗談を言うんだ」
 サイファは大袈裟に驚いて見せると、愉快そうに軽く声を立てて笑った。
「サイファ、それって魔導省の制服でしょう?」
 レイチェルがにっこりと微笑んで問いかけた。彼女は昔からよく王宮に遊びに来ている。魔導省の制服も見慣れているに違いない。
「そう、レイチェルに見せたくてね。どうかな?」
 サイファは両腕を広げて見せた。微かに真新しい服の匂いがした。
「ええ、とても似合っているわ」
 レイチェルは彼を見上げて言う。
「本当? 良かった、レイチェルにそう言ってもらえて」
 サイファは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ラウルは? どうこれ? 感想を聞かせてよ」
 調子に乗ってラウルにも尋ねる。答えを急かすように、体を屈めて覗き込んだ。
 だが、ラウルは目も向けずに素っ気なく言う。
「レイチェルに見せたくて着替えたのだろう」
「おまえ、拗ねているのか?」
 サイファは真顔で尋ねた。
 ラウルは無言のまま、氷のような眼差しで睨めつけた。
「冗談だよ」
 サイファはあっけらかんと言った。ラウルの視線など、まるで意に介していないようだった。たいていの人間は軽く睨むだけでも震え上がるのだが、サイファはどれほどきつく睨みつけても、いつも平然としているのだ。
「似合ってるか?」
 懲りもせず、再びにっこりとして尋ねる。
 ラウルは眉根を寄せた。じっと彼を見つめ、低い声で静かに答える。
「……ああ」
「えっ、うそ、本当? もう一度はっきり言ってよ」
 サイファは目を大きく見開き、少しうろたえながらも嬉しそうに聞き返す。
「断る」
 ラウルは今度はきっぱりと拒否した。
 それでもサイファは上機嫌だった。
「ラウルに似合ってるって言ってもらえるなんて思ってもみなかったな」
 ラウルは溜息をついた。
「これをどうにかしろ。いつまで乗せておくつもりだ」
 膝の上に座るレイチェルを指さして言う。
「乗せていると帰れないだろう?」
 サイファは片目を細め、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「………………」
 突然、ラウルはレイチェルを抱え、勢いよく立ち上がった。そのまま、大きな足どりで扉の方へ向かう。
「ちょっと、レイチェルをどうするつもり?」
 サイファはラウルの後ろ髪を掴んで引き留め、焦ったように言う。
 ラウルは僅かに振り返り、視線を流してひと睨みする。
「おまえがつまらないことをするからだ」
「悪かったよ」
 サイファはむくれながらも素直に詫びた。掴んだ髪を放す。長い焦茶色が大きな背中で揺れた。
 ラウルは前に向き直ると、レイチェルを足からそっと下ろして立たせた。ワンピースの後ろのリボンをまっすぐに直し、彼女の顔にかかった髪を軽く払う。そして、彼女にだけ届くくらいの声で「すまなかった」と言い、屈めた体を起こした。
 レイチェルは不思議そうにラウルを見上げ、瞬きをした。
「私は帰る」
 ラウルはぶっきらぼうに声を張ると、振り返りもせずに部屋を出た。
「僕らも行こう」
 サイファはレイチェルの手を引いてラウルのあとを追った。
 階段を降りたところで、ラウルは足を止めて振り返った。サイファに冷たい視線を投げて尋ねる。
「おまえ、その格好で外を歩くのか」
 サイファは魔導省の制服を着たままだった。明日から勤務することになっているが、今日はまだ魔導省の人間ではない。家の中ならともかく、外を歩くのは問題があるだろうと思った。
 だが、サイファはそう思っていないようだった。平然とした顔でしれっと答える。
「心配ないよ。何か言われたとしても謝ればすむ話だ」
 確かにそうだ。ラグランジェ本家の人間であるサイファなら、このくらいで問題になることもないのだろう。彼は、自分の立場というものを、嫌味なほど正確に把握しているのだ。ラウルはもう何も言わなかった。

 外は、風が冷たかった。
 すでに空の半分近くが紺色に塗り替えられている。沈みゆく太陽は、最後の役目を果たすかのように、地平付近を朱く鮮やかに染め上げていた。

 ラウルは医務室に戻るため、いつもの道を進んでいく。
 そのすぐ後ろを、サイファとレイチェルがついて歩いた。何度となく顔を見合わせながら、楽しそうに言葉を交わしている。主にサイファが話しかけ、レイチェルは相槌を打つといった感じだ。会話は途切れることなく続いていた。
 この状況に、ラウルは何か腑に落ちないものを感じていた。
 家庭教師が終わると、サイファは医務室に戻るラウルについてくる。それは、8年前から変わらず続いている日常だった。だが、いつもはサイファひとりだけである。レイチェルと一緒に来たことは一度もなかったのだ。それが、よりによって最終日の今日という日に、今までなかったことが起こっている。たまたま居合わせたから一緒に来た、それだけなのだろうか。それとも——。
「ラウル」
「何だ」
 サイファの不意の呼びかけに、ラウルは足を止めて振り返った。焦茶色の長髪がさらりと風に揺れる。
「今日はここでお別れだ。医務室まで送れなくて悪いな」
 サイファはにこやかに言った。声も少し浮かれているようだ。悪いと思っている雰囲気ではない。
「そうか」
 ラウルは無表情でふたりを見下ろし、感情のない声で応じた。
 サイファは何か意味ありげに、何か言いたげに、じっと彼を見つめる。
「理由はきかないのか」
「私には関係のないことだ」
 ラウルはきっぱりと言い切った。
「そう……じゃあな」
 サイファは軽く右手を上げた。レイチェルは挨拶代わりに軽い微笑みを見せた。ふたりは互いに手を取り合い、医務室とは逆方面の道を歩いていく。その後ろにはふたつの長い影が伸びていた。
 あれほどしつこく引き留めていたのが嘘のように、サイファはあっさりと去っていった。やはり最後の日は婚約者とともに過ごしたい、そう心変わりしたのだろう。おそらく、彼女を連れてきたのもそのためだ。これから彼女とともにどこかへ出かけるに違いない。
 ようやく合点がいった。
 最後の最後まで自分勝手な奴だ、とラウルは嘆息した。

「こんにちは」
 サイファは明るい声で挨拶をすると、レイチェルの手を引きながら、慣れた様子でリビングルームに入っていった。そこはレイチェルの家だったが、普段からほとんど自分の家のように当たり前に出入りしていた。
「いらっしゃい、サイファ」
 白い革張りのソファに座っていたアリスは、優しい笑顔で迎えた。まだ十分に若く美しいが、昔と比べて落ち着きは増していた。母親らしくなった、といえるかもしれない。
「お父さま、お母さま、ただいま」
 レイチェルは澄んだ綺麗な声で挨拶をした。
「おいで、レイチェル」
 アリスの隣に座っていたアルフォンスは、両手を広げてレイチェルを呼んだ。
 レイチェルは小走りで駆けていくと、彼の膝に横から飛び乗るように座り、目を閉じて広い胸にもたれかかった。満たされたような表情を見せる。
「お父さまに甘えるの、久しぶりだわ」
「最近は忙しかったからな」
 アルフォンスは優しく目を細めながら、大きな手で柔らかな頬を包み込む。
 アリスも、サイファも、その光景を微笑ましく眺めていた。
「まあ、君も座れ」
 立ったままのサイファに気がつくと、アルフォンスは右手で向かい側を示した。
 サイファは促されるまま白いソファに腰を下ろす。ギュッと革の擦れる音がした。
 サイファとアルフォンスは、年齢はだいぶ離れているが、互いのことを認め合い、尊重し合うような関係だった。サイファはアルフォンスの仕事上の手腕に一目置いていたし、アルフォンスはサイファの頭脳と魔導の資質を正確に評価していた。
「今日は休暇ですか?」
「ああ、あしたからまた忙しくなるよ」
 アルフォンスはゆったりとした口調で答える。
「いよいよ所長就任ですね。おめでとうございます」
 サイファは笑顔で祝福した。
 アルフォンスは、娘の肩を抱いたまま、背もたれに体重を預けた。複雑な表情で、軽く溜息をつく。
「もう少し早く就けると思っていたんだがな。前任者がしつこく居座ったせいで、随分と時間が掛かってしまったよ」
 アルフォンスは勤めている研究所の所長に就任することになっていた。明日からである。奇しくもサイファの就職と同じ日だった。
「サイファ、それ、魔導省の制服でしょう?」
 アリスが身を乗り出して、興味津々に尋ねる。
 サイファは両腕を広げた。
「そう、アリスとアルフォンスに見せに来たんだ。どうかな?」
「よく似合うわ。すっかり立派に見えるわね」
 アリスは胸もとで両手を組み合わせ、嬉しそうに言う。
「リカルドよりサマになっているな」
 アルフォンスは全体を眺めながら、満足げに言った。
 リカルドは数年前に、研究所から魔導省へ異動になっていた。ラグランジェ家の本家当主が研究所勤めでは格好がつかない、という前当主の判断に基づくものだった。リカルド自身は研究所の方が良かったようだが、前当主である彼の父親には逆らえなかったらしい。おかげで、随分と苦労しているようだ。制服もいまだに馴染んでいるようには見えない。
「しかし、おまえが就職とはな。月日が流れるのは早いものだ」
「もう、アルフォンスってば年寄りくさいことを言わないで」
 アリスは苦笑しながら窘めた。
「実際にもういい年なんだ。仕方ないだろう」
 アルフォンスは肩をすくめた。少し寂しげな、どこか諦めたような笑みを浮かべている。まだ20代のアリスと違い、彼はもうすぐ50に手が届こうかという年齢だ。
「いい年だなんて言っている場合ではないですよ」
 サイファはにっこり微笑んで言った。明瞭な口調で続ける。
「これから所長として研究所を牽引していかなければならないわけですし、老け込むにはまだ早すぎます」
「ああ、そうだな。まったくそのとおりだ」
 アルフォンスは気を取り直して、表情をを引き締めた。力強く頷く。
「そうだ、これから家族だけでパーティをやるんだが、おまえも一緒にどうだ」
「何のパーティですか?」
 サイファは不思議そうに尋ねた。
「アルフォンスの所長就任祝いよ。二度目だけどね」
 アリスが横から答えた。指を二本立てて肩をすくめている。
 一度目は、一週間ほど前に開催されたものだ。サイファも家族ぐるみで招待されて出席した。研究所の同僚や、親しい友人などを呼び、大規模ではないがそれなりに華やかなパーティだった。
 今度は、落ち着いて自分たち家族だけでもう一度、ということなのだろう。サイファは家族ではなかったが、すでに家族も同然の間柄である。今さら遠慮する理由はない。だが——。
「すみません、今日はちょっと……そろそろ行かなければならないので」
「あら、何か用事でもあるの?」
 アリスは瞬きをして尋ねる。
「ええ、はい」
 サイファは膝の上で軽く両手を組み合わせた。
「どうしても外せない、とても大切な用事なんです」
 ゆったりとした口調でそう言うと、穏やかに柔らかく微笑んだ。

 医務室に戻ったラウルは、不必要なまでに明るい蛍光灯の下で、古めかしい本を読んでいた。今日も患者はひとりも来ていない。それでも律儀に待機していた。それが仕事である。
「やあ、ラウル」
 何の前触れもなく扉が開き、サイファが愛敬を振りまきながら入ってきた。いまだに魔導省の制服を着たままである。
「さっきは悪かったな。寂しかったか?」
「ノックくらいしろ。何をしに来た」
 ラウルは視線だけを流し、眉をひそめて睨みつけた。まさか来るとは思っていなかったので驚いたが、声にも表情にもそれは出さなかった。
「感謝の気持ちを届けにね」
 サイファはにっこり微笑んでそう言うと、右手に持った一輪のピンクローズを差し出した。まだ咲き始めで開ききっていない状態のものだ。透明フィルムと白いリボンでラッピングされている。
 ラウルは読んでいた分厚い本を閉じた。
「不要だといったはずだ」
「ラウルの好きな花がわからなかったから、僕の好きな花にしたんだ」
 サイファは無邪気に声を弾ませた。
「花瓶はあるか?」
「そんなものはない」
「だと思ったよ」
 サイファは口もとに笑みを浮かべ、もう片方の手に持った細長い箱を差し出した。こちらにも白いリボンが掛けられている。
「開けて」
「自分で開ければいいだろう」
「開けてほしいんだよ」
 ラウルは面倒くさそうにそれを受け取ると、無造作にリボンをほどき、包装紙を乱雑に破いて箱を開けた。中に入っていたのはガラス製の一輪挿しだった。細身で飾り気がなくシンプルだが、安っぽくは見えない。
「気に入ったか?」
「不要だと言った」
 ラウルの答えは、相変わらず愛想の欠片もないものだった。
 だが、否定はしなかった。
 サイファはにっこりと微笑んだ。その一輪挿しを箱から取り出すと、洗面台で水を入れてピンクローズを挿した。それを、ラウルの机の上に置き、腰に両手を当てて満足げに言う。
「少しは机の上が潤っただろう?」
「面倒が増えた」
 ラウルは少しも表情を動かさずに言い返す。
 サイファは小さく笑った。
「時間を作って水を替えに来るよ」
「水替えよりおまえの方が面倒だ」
「来るなと言われても来るよ」
「もう帰れ」
 ラウルの声には苛立ちが滲んでいた。
「わかったよ」
 サイファは肩をすくめ、諦めたような笑みを漏らした。
「最後にひとつだけ願いを聞いてくれないか」
「何だ」
 ラウルは顔を上げた。
 サイファは急に真剣な表情になった。怜悧な光を放つ青い瞳が、まっすぐに濃色の瞳を捉える。
「ラウルの部屋を見せてほしい」
「断る」
 ラウルは即座に拒否し、溜息をつきながら腕を組んだ。このやりとりは今回が初めてではなかった。これまでにもサイファが幾度となく望み、ラウルはそのたびに断っていたのだ。いい加減、うんざりしているくらいである。
 サイファはぱっと人なつこい笑顔を見せた。軽い口調で畳み掛ける。
「ほんの少しだけでいいからさ」
「断る」
「どうしても?」
「ああ」
「卒業祝いってことで頼むよ」
「駄目だ」
 ラウルの答えは少しも揺らがなかった。
 サイファは腰に手をあて、寂しげに目を細めた。曖昧な笑みを浮かべる。
「最後まで、心を開いてくれなかったな」
「明日も来るつもりなのだろう」
 ラウルは感情を見せずに言った。
 サイファは大きく瞬きをした。それからふっと表情を緩めると、視線を落として言う。
「そうだった、最後というわけではないな」
「今日はもう帰れ」
 ラウルは腕を組んだまま素っ気なく命じる。
「ああ、そうするよ。じゃあな……また、あした」
 サイファは軽く右手を上げ、名残惜しそうにしながらも、素直に医務室を出た。引き戸がゆっくりと閉められる。磨りガラスの向こうの人影は、すぐに見えなくなった。一定のリズムを刻む靴音も、次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 医務室は静けさを取り戻した。耳に届くのは木々の微かなざわめきだけだ。
 ——愚かな奴だ。
 ラウルは机に向き直り、眉根を寄せて頬杖をついた。
 読みかけの本を片手で開き、ゆっくりパラパラと捲っていく。
 ふいに、ほのかな甘い匂いが鼻を掠めた。
 本を捲る手が止まった。
 一輪挿しのピンクローズに視線を向ける。
 触れると壊してしまいそうな、淡く優しい色の花びら。
 そこから小さな水滴が滑り落ちる。
 机の上で音もなく弾けて散った。
 ラウルは手にしていた本を閉じ、その古めかしい表紙に手を置いた。



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