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帚木(39)

 間もなく、源氏は例のごとく宮中で何日も過ごすようになった。

 数日経って──時は熟した。

 方違えの日となり、紀伊の守邸に行く言い訳がつくようになるこの日を、以前から待っていたのである。

 急に、左大臣邸に退出するふりをしておいて、途中で思い出したように方違えのことを話題にだし、紀伊の守邸に向かったのだ。

 紀伊の守は、前回以上に突然な源氏の訪問に驚いていたが、

「あの遣水の趣が気に入ってね」

 という源氏の言葉に、単純に喜んび、名誉この上ないことと、恐縮して礼を言上した。

 源氏は、小君にだけには、昼間から、こうすることを約束済だった。

 小君は最近では、終日、源氏のもとに側に仕えていたから、その晩、紀伊の守邸に着いてすぐに、源氏が小君を呼んでも、それを不思議に思うものはいなかった。

 女のほうにも、源氏から今夜訪れるということは、小君に託した手紙で知らせてある。

──世間の目を欺くために、ここまで手の込んだことをして──。

──私のことを気づかって──嬉しい──。

──あの方のお気持ちが、浅からぬものだと、私にも分かる──。

 しかし──。

──再びお逢いして、私のみすぼらしい──淫らな姿を又も御見せすることになるなど──。

──あぢきない──。

──あの夜の夢のようにすぎた逢瀬に、悲しみを重ねてしまうだけ──。

 女は一人、唇を噛む。

──あの方に逢いたい──。

──あの方に逢ってはならない──。

  女は、人知れず心乱していた。

 ここでこうしていては、源氏の文に自分が応えているように思われて、恥ずかしい。

 小君が、源氏のお召しで出掛けているあいだに、

「……世にも名高い光君が、自分の近くにおられるかと思うと恐れ多いことね。

 朝から気分も悪いことだし、こっそり肩腰を叩いてもらいたいから、音を聞かれるのも恥ずかしいし……離れたところに」

──あの方の優しい御手の、届かぬところに──私が心迷わぬところに──。

 そう嘘をついて、渡殿の女房の中将がいる局に隠れるようにして移った。

 源氏は、もちろんそのような事は知らない。

 何も知らずに、女に会えることに喜びを感じ、気分を高揚させていた。

 供人たちに飲み会などもさせず、早く寝かせ、小君を側に呼んだ。

「これを、お前の姉上にお渡ししておくれ」

 と、今から渡るよしを伝えるため、小君に文を託す。

 が、伊予の若妻は局を移っているから、小君は姉を捜し出すことがなかなかできなかった。

 用事が用事だけに、人に尋ねることもできない。

  渡殿に入り込んで、やっとのことで捜し当て、姉のもとにたどり着いた。

 自分の姉のこととはいえ、大人の事情が──大人の女の事情が理解できない小君は、伊予の若妻のやり様が、ただただ酷いことのように思えた。

「文一つを届けるのにこんなに時間が掛かってしまうなんて、源氏は僕のことをどんなに役立たずとお思いでしょう」

 小君は、泣きだしそうになるのを、必死に堪えている。

「こんな不埒なことに、子供があれこれと、自分の考えを持つものではないわ。

 幼い子供がこういう手紙を取り次ぐことも、とてもいけないことだとされえいるのに」

 と、姉として小君を叱りつけた。

「気分が悪いから、侍女たちをすぐ側において按摩させているの。

 その旨を、あの方に申し上げて。

 さあ、こんなところを、いまでは源氏のお側付きのあなたがうろうろしていては、怪しむ人もでてくるから」

 そう突っぱねてみせた。

 それが──強がりであることを、女は自覚していた。

──もし──。

 それが──無益なことだとは知っている。しかし、考えずにはいられない。

──もし──。

 自分がこんな身分の決まった女でなかったならば──。

 伊予の若妻などではなかったならば──。

 亡くなった両親の思い出が残っている実家に、一人ひっそりと生きていたなら──。

 たとえ、稀ではあっても、あの光君のお越しを待つことのできる、自由な自分であったのなら──。

 あの方と、洒落た恋事もできていたに違いない──。

 自分の欲望を偽って、自分を強いて──あの方の御心を無視するかのような態度をとっているのも、どんなにか身の程をわきまえぬ女とお思いのことだろう──。

 自分で決めたことなのに──。

 女は、胸を痛め、思い乱れていた。

 とてもかくても──。

 現実の今は──伊予の介のような老体の妻となってしまった自分の運命は──いふかひなき宿世のこと──。

 このまま──無心な──常識のない、情のない女と光君に思われたまま──。

 女は、再び、固く誓った。


帚木(40)

「小君は、あの女と、どう段取りをつけるだろう」

 小君にそれほどのことは期待していない。

 こちらから、あの子を利用しておいて、それほどの無理は言えまい。

 その幼さに不安がないわけではなかったが、これ以外の方法を思いつけない自分も不甲斐ない。

 ただ臥して待つ以外になかった。

 結局、小君が時間を掛けて戻ってきたものの、無駄に終わった旨を伝えてくる。

 源氏の頼みを果たせなかったことで、目に涙を浮かべて源氏の前で申し訳無さそうに座っている小君を責めることもできない。

 世にも珍しいほどの、あまりに気強い女の気持ちに、

「わが身がいやになってくるよ」

 と漏らしてしまう。

 そんな源氏の様子を、小君は気の毒に思え、一層恐縮していた。

 源氏は、しばらくは一言も語らず、ひどく嘆息し、憂しなる様子でいたが、ただただこうして時間を過ごしていても仕方ない。

「この手紙だけを渡してきておくれ。

 手紙を読むだけでも、とね。

 ただ単に手紙を読むことなら、君の姉上もして下さるだろうしね」

 といって、文を託した。

 さっそく小君は、手紙を伊予の若妻に届けた。

 小君が必死になって手紙を渡すので、女も邪険に小君を返すわけにはいかない。

──帚木の心を知らでそのはらの
       道にあやなくまどひぬるかな──

 近づくと消えて見えなくなるという帚木のような、
 つれない貴女の心が分からないで、
  園原の道に、虚しく迷ってしまうがごとく、
 貴女に逢おうとして無駄に終わってしまったようですね。

 申し上げる言葉もありません」

 と、新古今集や古今六帖にある、

──園原や伏屋に生ふる帚木の
      ありとは見えて逢はぬ君かな──。

 園原や伏屋に生えるという帚木のように、
 いるとはわかっているのに逢えない君よ──

 という坂上是則の歌に因って歌われていた。

 これを読んで、女も、

「やはり──お怒りになっておられる──?」

 と、さすがに当惑した。覚悟していたこととはいえ、やはり畏れ多い。

 あれほど、つれない女のままでいようと決意したにもかかわらず、

「──数ならぬふせ屋におふる名の憂さに
                あるにもあらず消ゆる帚木──

 伏屋というわけではございませんが、
 臥したように貧しい家に生えているということが、情けなく、
 いたたまれず消えてしまうのが帚木なのです。

 このようなしがない身の上の私では、

 貴方様のような素晴らしい方とは余りにも不似合いで、

 お逢いすることができないのです──」

 女は返事を小君に渡した。

──言い訳がましい──未練がましい──。

 そう思う。

 でも──。

 光君にお会いすることはできないけれど──。

──嫌われたくない──。

──でも、会えない──。

  女は、自分の身勝手さを、このときばかりは許していた。

  小君は、源氏の気の毒そうな様子を知っていることもあって、子供ながらに、なんとか二人の間を取り持とうと、眠たさも忘れて、行ったり来たりしている。

 他の者が見れば、どんなに変に思うだろう──。

 伊予の若妻は、それだけが気掛かりで、胸を痛めていた。

 源氏は一人、文の返事を待っていた。

 供人たちは既に寝入っていた。

──無駄なことだとは──分かっている──。

──こんなことをして──おもしろくもない思いを持ちつづけて──。

──私は、なにを求めているのだ──?

 今までに知らぬ、あの女の、人とは違った心強さが依然と源氏の心から消えることなく、源氏をとらえてやまない。

──癪だよ──ほんと──。

 自分は、大人になったのだろうか。

 自分は、変わったのだろうか。

 いままでに知らなかった自分が、表に出てきただけなのだろうか。

──そういう女だからこそ、魅かれるのか──。

 そう思う一方で、結果的には、そんなふうに女に振り回されている自分が、心外で情けない。




 小君が、伊予の若妻の若妻の返事をもって帰ってくる。

「──『数ならぬ』……か──」

 女の返事に目を通し、女の決意と心の揺れを、源氏は正確に把握していた。

(どうにでもなれ──)

 心のなかで呟き──それでも、諦めきれない自分を、源氏は不思議に思っていた。

「その、姉上が隠れている処に、私を連れていっておくれ」

 源氏の頼みではあるが、

「ひどくむさ苦しい窮屈な部屋に閉じこもっていて、側付きの女房も大勢いるようですから、畏れ多いですよぉ」

 と、さすがに小君も困惑して言った。

 そんな小君の様子が、あの女を思い起こさせて、かわいらしい。

「それじゃ、せめて、お前だけでも私を冷たく見捨てないで──」


 源氏は、小柄な小君を引き寄せて、そのまま覆いかぶさるように、横になる。

 年若く、やさしい源氏の姿を、小君は素直に、有り難く、美しいと思ってくれている様子であるのが、あのつれない伊予の若妻よりも、かえって愛おしく思えるのだった。


コラム1

 私が、一番最初に源氏物語を「文章」で読んだとき、最初につまづいたのがこの「帚木」でした。

 理由は簡単。

 とにかく長い!ただただ長い!

 しかも、正直、だらだら長い!(笑)

 特に前半の、いわゆる「雨夜の品定め」。

 物忌みで内裏に留まらなければならなくなった源氏のもとに、頭中将、馬の頭、藤式部が集まってきて、男四人でそれぞれの女性観や恋愛観を話し合うんですが……。

 読む人によっては、

「どーでもいいことを、ぐだぐだと……」

 というぐらいにしか感じない(笑)

 後半に「空蝉の女」が現れるまでは、山らしい山がありませんから、わくわくどきどき感もあまりなく。

 古文の特徴でもあると思うんですが、いわゆる「、」ばかりで「。」がなく、読んでいて疲れること疲れること。

 しかも基本的に会話劇になっていて、長台詞が延々と続くので、私にとっては間延びした感じに思えて、読んでいて堪えられませんでした。

 源氏物語を、ここで挫折する人も多いんじゃないでしょうか。

 でも、この「雨夜の品定め」が、後々の話の大きな前振りになっていき、結構重要だったりするわけで。

 さらに、源氏たちの──というよりは、紫式部の女性観・恋愛観、または紫式部が、

「男ってのは、こんなふうに考えてるんでしょ?」

 って肩をすくめながら鼻で笑っているのが見えるこの「帚木」は、しっかり読んでみるとすごく面白いものなのだと、最近ようやく感じるようになりました。
 


コラム2

 えー、「帚木」のふつう語訳ではありますが、お断りしておかないといけません。

 本文中には、性的な描写を書き入れていくことになるんですが、原文には、そのような性的な表現は一切ありません!
 注意して下さい。

 すべて、私の妄想です(笑)
 ただ、今回のふつう語訳では、あえて性的な表現を書き加えました。

 もちろん、ただの「趣味」ではないですよ(-_-;

 それもやはり源氏物語の「雰囲気」を知っていただきたいからです。

 源氏物語の原文中には、いわゆる私たちが想像するような性描写はほとんど見られません。

 ただただ本文を読んだだけでは、源氏が女の人の所に行って、おしゃべりだけして帰った感じになってしまうんです(笑)。

 平安時代の人たちにとっては、そんな描写をすること自体が「野暮」だったんではないでしょうか。

「なにを、当たり前のことを、わざわざ」

 という感じで。

 よく、源氏物語を批判する人の中に

「ただの官能小説だ」

 とか言う人がいますが、たぶんそう言う人は源氏物語の原文を読んだことのない──「マンガで読む古典」とかで知識人ぶっているような人だと思います。

 また、源氏物語が江戸時代などに発禁になったことを取り上げて(←ホントかどうか、知りませんが……)、

「倫理上よくないから」

 みたいな書かれ方がされるときがありますが、それも少し見当違いだと思います。

 江戸時代にはもう、そう言う意味での「粋」さは無くなっています。

 だからこそ「春画」などが出回るわけですから。

 もちろんそれは、良い悪いの問題ではなく、ただたんに「性文化」が変質したからに過ぎませんが、少なくとも、江戸時代の人たちでも、あの原文を読んで卑猥だと思うような想像力──いや、妄想力豊かな人は、ごく僅かだったのではないでしょうか?

 問題になったのは、源氏が「藤壺と」密通をしたことです。

 帝の女御、しかも自分の義母にも当たる女性と通じてしまったんですから、江戸時代に主流であった儒学からは絶対に許されるものではありません。

 そして何より、それによって、一介の臣下が「帝の父親」になってしまうのですから。

 そこが問題になったんです。

 性的な「倫理」ではなく、儒学的な、または政治的な「倫理」なんです。

 現代人の私たちはなおさら、ただ出会っただけで、男女が結ばれてしまうような感覚とはほど遠いですし、それが理解できてしまうのも、それはそれで問題のような気が……(笑)

 ですから、稚拙な表現であることを承知の上で、また皆さんに不快な思いをさせることを覚悟の上で、「それ」と分かる表現を書き加えることにしましたので、ご了承下さい。

 不快に感じた方は、飛ばして読んでいただければ、と思います……。

 本当に、申し訳ございません。


コラム3

 作家の林真理子さんが、ある対談本の中で、
「どうして紫式部は『空蝉の君』との話を最初に持ってきたのだろう」
 という趣旨のことをおっしゃっていました。

 今から物語が始まるという最初のエピソードで、普通なら主人公のいいところを見せるところが、なぜこんな「最低な」話を選んだのか、と(笑)

 私も全く同感です。
 はっきり言って、「帚木」や「空蝉」での源氏は、最低です(笑)。

 源氏を好きになれない人は、まずここでつまづくんじゃないでしょうか。

 感情移入できない人も多いでしょう。

 男から見ても、平気で嘘をつきまくって女を手に入れてしまう源氏に、共感できる人の方が少ないでしょう。

 後々もお話ししますが、作者である紫式部自身が、源氏のことを決して「最高の男」とは思ってなかったんじゃないか、と私自身は勘ぐったりしています。 

「かっこいい男」であり「女にもてる男」であったとしても、その性格ははっきり言って悪い面が見えすぎる(笑)

 そして、そんな源氏に、でも女性たちは惹かれてしまう。

 そういうのを書きたかったんじゃないでしょうか。

 男ってのは、こんなものなんだ、と。

 そして、そんな源氏の中に「誰にも真似できない優しさ」や「一途さ」を見え隠れさせることで、ただの「やなやつ」だけでは終わらせず、女性たちにも、

「しょうがないかなぁ」

 って思わせてくれるような。

 そして、そんな源氏に惹かれてしまう女ってのも、そんなもんなんだ、と。

 そういう点でも源氏物語は、非常に面白いと思うんです。


この本の内容は以上です。


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