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帚木(36)

 それから五、六日経って、紀伊の守が小君と呼ばれた少年を連れてきた。

「非の打ち所のない美しさ」を持っているわけではない。

 だが、優雅な物腰で、上流の子弟らしい振る舞い。

 そんなところも、姉である伊予の若妻に似ている。

 源氏は、小君を近くに呼んで、優しく語りかけた。

 小君も子供ながらに、世にも名高い源氏の君とこれほど親しく話せることのすばらしさが分かっているようだ。

 源氏は、小君に、姉である伊予の若妻のことを色々と詳しく訊いた。

 小君も、生真面目に答えられることは全て丁寧に答えてくれる。

 源氏は、この少年を利用して再びあの女とつなぎをつけようという邪な思惑もあって、この小君も素直さに気が引けてくる。

 だが、この小君にはこれからも色々と役に立ってもらわなければならない。

 事情を知ってもらわなければ、何かと不都合である。

 源氏は、それとなく、伊予の若妻と自分との間のことを、子供の小君にもわかるように、易しく話してやった。

 小君も賢い子供で「男女の間のこと」も「それなりに」知っていたのだろう。

「光君と姉上との間に、そんなことがあったのか」

 と、それとなく分かった。

 意外なことではあったが、子供である小君は、それほど深くは考えなかった。

 小君が紀伊の守邸に帰るとき、源氏は女への文を小君に託した。

 小君は、はっきりとはその文がどういうものか分かっていないようだが、大事なものであることは察したらしく、

「誰にも見られぬよう」

 という源氏の言葉を守り、懐に大事そうにしまった。

 紀伊の守邸に着き、姉のもとに帰った小君は、早速、源氏からの文を伊予の若妻に手渡した。

──女は、涙を流したのだという──。

──嬉し涙──か?

 今でも、源氏には分からない。

 だが、そう信じている。

 前にいる小君が、涙を流す姉を見て、きょとんとしている。

「この子がどう思っていることだろう」

 と、気恥ずかしくなったが、かといって手紙を突き放せるわけもない。

 顔を隠すように、手紙を広げた。

 源氏の面影を映すかのような美しい書体で、思いのたけがこまごまと一面に述べられている。

──見し夢をあふ夜ありやと嘆くまに
        目さへあはでぞころも経にける──

 先夜の夢──貴女との逢瀬の夢が、現のこととなって、
 貴女に逢える夜があるのだろうかと嘆く間に、
 瞼さえ合わない──目も閉じれぬ──眠れぬままに何日も過ぎてしまいました

 などと歌が詠まれ、女の胸を締めつける。

 最後に

寝る夜なければ

 と、

──恋しきを何につけてか慰めむ
      夢だに見えず寝る夜なければ──

 この貴女への恋しさを、何をもって慰めればいいのでしょう。
 夢で貴女に逢うことさえできない──貴女を思って夜も眠れないのだから──

 という拾遺集の源順の歌を引用してあるところなど、心憎い。

 素晴らしい文の内容に、女は目が涙で曇ってしまう。

──こんな身に落ちぶれてしまってから──

 伊予の介などという老人の妻となってしまってから──

 あの光君と出会うなんて──。

──入内を目指し、それを間近にして父が逝去し──

 今の夫に嫁いでから、あの方に愛してもらえるなど──。

──なんと、私は運のない女のだろう──。

 そう思いつづけて、女はやるかたなく臥すしかなかった。


帚木(37)

 翌日、再び小君への源氏のお召しがあった。

 小君は、源氏への返事を姉に乞うた。

「『あの文を読むに相応しい者などいなかった』と、光君に申し上げて」

 女は、そっけないふりをしてそう言った。

「間違えようもなく『姉上に』っておっしゃったのに……。

 どうしてそんなこというの」

 小君は、子供っぽく笑って訊いた。

──ああ──。

 源氏が、二人のことを小君にすっかり話してしまったことを察した。

 心やましくも思え、つらいこと限りがない。

「もう……。

 ませた口をきくものじゃないわ。

 それなら光君のところには参上してはなりません」

 女は、自分の当惑を隠すために機嫌を損ねてみせた。

「お召しがあったのに、そんなわけにはいかないよ」

 小君は、結局返事をもらえぬまま、源氏のいる左大臣邸に向かった。




 小君を連れてきたのは、やはり紀伊の守自身であった。

──ほう──。

 源氏は、意地悪く紀伊の守の顔を伺った。

──この男──なんかかんかと言いながら──

──あの女に──自分の継母に、気があるな──?

 呆れたように鼻で笑った。

 父である伊予の介を馬鹿にしていながら、よく似ていることだ。

 この有能な男も、結局は只の好き者なのだ。

 年若い美しい女が、年老いた父親の妻であることを、さすがにもったいないと思っているのだろう。

 小君を大事に扱い、小君を自分の邸に引き取っていたのも、こうしてわざわざ自分が赴いて小君を送り迎えするのも、あの女の気を引きたいがためなのだろう。

──まあ、いい──。

──あの女が、こんな男になびくはずもない──。

──あの女はもう──この私を知ってしまったのだから──。

 源氏は、小君を側近くに呼んだ。

「昨日は結局帰ってこなかったね。

 待ってたんだよ?

 どうも私とは仲良くしてくれないのかい?」

 源氏が悪戯っぽく恨み言を言って小君をからかうと、小君は顔をただただ赤らめる。

 そんな小君が──姉の面影を見せてくれるこの少年が、源氏は気に入っていた。

「それで?」

 源氏が女の返事のことを小君に尋ねると、邸での一部始終を源氏に話す。

「だめだなぁ。

 うん……どうしようか……」

 源氏は、再び小君に手紙を託すことにした。

「お前は知らないんだろうね」

 源氏は、小君を側に引き寄せた。

「私とお前の姉上とは、あの伊予の御老体よりも前から知り合っていたのだよ。

 けれど、私は頼りがいのない、ただの細顎の青二才だと、お前の姉上には思われたらしい。

 あんな……というのは言い過ぎかな……まあ、あの御老体を夫としてしまわれて──

 私も見くびられたものだね──あてつけなのだろうけれど。

 けれどね、お前は私の子供のつもりでいてくれていいから。

 あの『頼りがいのある』年寄りも先は長くないだろうし──」

 源氏は、何も知らない小君に或ること無いことを植えつける。

 小君が、生真面目に、

「そうだったのか──

 そういうことかもな──

 奥が深いな──」

 などと、大人の世界についていろいろと考えている様子が、源氏には微笑ましく、おかしい。

 源氏は、小君が心底気に入った。


帚木(38)

 それからというもの、小君を片時も側から放さない。

 内裏に参内するにも連れて歩いた。

 内裏を真似て「御匣殿」と呼んでいる自邸の衣装係に命じて、装束等も調達させて、本当の親代わりのように世話をした。

 打算がないと言えば嘘になろう。

 この小君を世話することで、伊予の介や紀伊の守の、「無能さ」や「甲斐性のなさ」を、わざと見せつけているのだから。

 世間に。

 そして、「あの女」に。

 女への文は、小君に託し、毎日のように女のもとに送った。

 女は、その文を全て、何度となく読み返す。

 光君の手紙を──自分などを忘れることなく文を送ってくれる源氏の気持ちを嬉しく思うけれども──。

 なんといっても小君はまだ幼い。

 本人は一人前のつもりで光君のお仕えとしての役目をこなしているが、何の拍子にあの手紙が人目に触れるか分からない。

 そうなれば、尻軽な女と評判をたてられることになるだろう。

 不倫だけでも許されぬというのに、伊予の介の後妻として落ちぶれた我が身が、光君と関係を持つなど──なんと不相応なことなのだろう──。

 光君の愛情を受けることは、望んでも叶うものではない。

 光君の愛情を受けることになったならば、一人の女としてはこの上ないほどの吉事であるに違いない。

 だが──。
 
 世間には「いいこと」というものが、身の上次第になるものがあるのだ。

 私は、このことを素直に喜んではいられない──。

 結局、源氏からの文に、女が返事を出すことはなかった。

 あの夜──。

 女は一人、顔を赤らめている自分を知っている。

 あの夜、僅かに見た源氏の類稀な美しさが、本当に──並のものであろうはずがない。

 そう思い出すだけで胸が熱くなり、体がうずき、手が指が勝手に動き、独り自分を慰める。

 しかし、いまさらに、色気を出して手紙の返事をだし、情を解する女を振る舞ったところでどうなるというの──。

 女は、自分のしがない運命に、このまま埋もれてしまう決意をしていた。

 女の思いをよそに──源氏は女のことを思い、忘れる間もない。

 心苦しく──恋しい──。

 女の、あの思い悩んだ様子への愛おしさも、記憶から払いのけることなどできない。

 いっそ、軽々しく人の出入りに紛れて、あの女のもとを訪れようとも思ったが、人目について、不都合な行動が人に知られることになれば、あの女をまた困らせることになってしまう。

 女のためにも気の毒で、思い煩いつづけていた。


帚木(39)

 間もなく、源氏は例のごとく宮中で何日も過ごすようになった。

 数日経って──時は熟した。

 方違えの日となり、紀伊の守邸に行く言い訳がつくようになるこの日を、以前から待っていたのである。

 急に、左大臣邸に退出するふりをしておいて、途中で思い出したように方違えのことを話題にだし、紀伊の守邸に向かったのだ。

 紀伊の守は、前回以上に突然な源氏の訪問に驚いていたが、

「あの遣水の趣が気に入ってね」

 という源氏の言葉に、単純に喜んび、名誉この上ないことと、恐縮して礼を言上した。

 源氏は、小君にだけには、昼間から、こうすることを約束済だった。

 小君は最近では、終日、源氏のもとに側に仕えていたから、その晩、紀伊の守邸に着いてすぐに、源氏が小君を呼んでも、それを不思議に思うものはいなかった。

 女のほうにも、源氏から今夜訪れるということは、小君に託した手紙で知らせてある。

──世間の目を欺くために、ここまで手の込んだことをして──。

──私のことを気づかって──嬉しい──。

──あの方のお気持ちが、浅からぬものだと、私にも分かる──。

 しかし──。

──再びお逢いして、私のみすぼらしい──淫らな姿を又も御見せすることになるなど──。

──あぢきない──。

──あの夜の夢のようにすぎた逢瀬に、悲しみを重ねてしまうだけ──。

 女は一人、唇を噛む。

──あの方に逢いたい──。

──あの方に逢ってはならない──。

  女は、人知れず心乱していた。

 ここでこうしていては、源氏の文に自分が応えているように思われて、恥ずかしい。

 小君が、源氏のお召しで出掛けているあいだに、

「……世にも名高い光君が、自分の近くにおられるかと思うと恐れ多いことね。

 朝から気分も悪いことだし、こっそり肩腰を叩いてもらいたいから、音を聞かれるのも恥ずかしいし……離れたところに」

──あの方の優しい御手の、届かぬところに──私が心迷わぬところに──。

 そう嘘をついて、渡殿の女房の中将がいる局に隠れるようにして移った。

 源氏は、もちろんそのような事は知らない。

 何も知らずに、女に会えることに喜びを感じ、気分を高揚させていた。

 供人たちに飲み会などもさせず、早く寝かせ、小君を側に呼んだ。

「これを、お前の姉上にお渡ししておくれ」

 と、今から渡るよしを伝えるため、小君に文を託す。

 が、伊予の若妻は局を移っているから、小君は姉を捜し出すことがなかなかできなかった。

 用事が用事だけに、人に尋ねることもできない。

  渡殿に入り込んで、やっとのことで捜し当て、姉のもとにたどり着いた。

 自分の姉のこととはいえ、大人の事情が──大人の女の事情が理解できない小君は、伊予の若妻のやり様が、ただただ酷いことのように思えた。

「文一つを届けるのにこんなに時間が掛かってしまうなんて、源氏は僕のことをどんなに役立たずとお思いでしょう」

 小君は、泣きだしそうになるのを、必死に堪えている。

「こんな不埒なことに、子供があれこれと、自分の考えを持つものではないわ。

 幼い子供がこういう手紙を取り次ぐことも、とてもいけないことだとされえいるのに」

 と、姉として小君を叱りつけた。

「気分が悪いから、侍女たちをすぐ側において按摩させているの。

 その旨を、あの方に申し上げて。

 さあ、こんなところを、いまでは源氏のお側付きのあなたがうろうろしていては、怪しむ人もでてくるから」

 そう突っぱねてみせた。

 それが──強がりであることを、女は自覚していた。

──もし──。

 それが──無益なことだとは知っている。しかし、考えずにはいられない。

──もし──。

 自分がこんな身分の決まった女でなかったならば──。

 伊予の若妻などではなかったならば──。

 亡くなった両親の思い出が残っている実家に、一人ひっそりと生きていたなら──。

 たとえ、稀ではあっても、あの光君のお越しを待つことのできる、自由な自分であったのなら──。

 あの方と、洒落た恋事もできていたに違いない──。

 自分の欲望を偽って、自分を強いて──あの方の御心を無視するかのような態度をとっているのも、どんなにか身の程をわきまえぬ女とお思いのことだろう──。

 自分で決めたことなのに──。

 女は、胸を痛め、思い乱れていた。

 とてもかくても──。

 現実の今は──伊予の介のような老体の妻となってしまった自分の運命は──いふかひなき宿世のこと──。

 このまま──無心な──常識のない、情のない女と光君に思われたまま──。

 女は、再び、固く誓った。


帚木(40)

「小君は、あの女と、どう段取りをつけるだろう」

 小君にそれほどのことは期待していない。

 こちらから、あの子を利用しておいて、それほどの無理は言えまい。

 その幼さに不安がないわけではなかったが、これ以外の方法を思いつけない自分も不甲斐ない。

 ただ臥して待つ以外になかった。

 結局、小君が時間を掛けて戻ってきたものの、無駄に終わった旨を伝えてくる。

 源氏の頼みを果たせなかったことで、目に涙を浮かべて源氏の前で申し訳無さそうに座っている小君を責めることもできない。

 世にも珍しいほどの、あまりに気強い女の気持ちに、

「わが身がいやになってくるよ」

 と漏らしてしまう。

 そんな源氏の様子を、小君は気の毒に思え、一層恐縮していた。

 源氏は、しばらくは一言も語らず、ひどく嘆息し、憂しなる様子でいたが、ただただこうして時間を過ごしていても仕方ない。

「この手紙だけを渡してきておくれ。

 手紙を読むだけでも、とね。

 ただ単に手紙を読むことなら、君の姉上もして下さるだろうしね」

 といって、文を託した。

 さっそく小君は、手紙を伊予の若妻に届けた。

 小君が必死になって手紙を渡すので、女も邪険に小君を返すわけにはいかない。

──帚木の心を知らでそのはらの
       道にあやなくまどひぬるかな──

 近づくと消えて見えなくなるという帚木のような、
 つれない貴女の心が分からないで、
  園原の道に、虚しく迷ってしまうがごとく、
 貴女に逢おうとして無駄に終わってしまったようですね。

 申し上げる言葉もありません」

 と、新古今集や古今六帖にある、

──園原や伏屋に生ふる帚木の
      ありとは見えて逢はぬ君かな──。

 園原や伏屋に生えるという帚木のように、
 いるとはわかっているのに逢えない君よ──

 という坂上是則の歌に因って歌われていた。

 これを読んで、女も、

「やはり──お怒りになっておられる──?」

 と、さすがに当惑した。覚悟していたこととはいえ、やはり畏れ多い。

 あれほど、つれない女のままでいようと決意したにもかかわらず、

「──数ならぬふせ屋におふる名の憂さに
                あるにもあらず消ゆる帚木──

 伏屋というわけではございませんが、
 臥したように貧しい家に生えているということが、情けなく、
 いたたまれず消えてしまうのが帚木なのです。

 このようなしがない身の上の私では、

 貴方様のような素晴らしい方とは余りにも不似合いで、

 お逢いすることができないのです──」

 女は返事を小君に渡した。

──言い訳がましい──未練がましい──。

 そう思う。

 でも──。

 光君にお会いすることはできないけれど──。

──嫌われたくない──。

──でも、会えない──。

  女は、自分の身勝手さを、このときばかりは許していた。

  小君は、源氏の気の毒そうな様子を知っていることもあって、子供ながらに、なんとか二人の間を取り持とうと、眠たさも忘れて、行ったり来たりしている。

 他の者が見れば、どんなに変に思うだろう──。

 伊予の若妻は、それだけが気掛かりで、胸を痛めていた。

 源氏は一人、文の返事を待っていた。

 供人たちは既に寝入っていた。

──無駄なことだとは──分かっている──。

──こんなことをして──おもしろくもない思いを持ちつづけて──。

──私は、なにを求めているのだ──?

 今までに知らぬ、あの女の、人とは違った心強さが依然と源氏の心から消えることなく、源氏をとらえてやまない。

──癪だよ──ほんと──。

 自分は、大人になったのだろうか。

 自分は、変わったのだろうか。

 いままでに知らなかった自分が、表に出てきただけなのだろうか。

──そういう女だからこそ、魅かれるのか──。

 そう思う一方で、結果的には、そんなふうに女に振り回されている自分が、心外で情けない。




 小君が、伊予の若妻の若妻の返事をもって帰ってくる。

「──『数ならぬ』……か──」

 女の返事に目を通し、女の決意と心の揺れを、源氏は正確に把握していた。

(どうにでもなれ──)

 心のなかで呟き──それでも、諦めきれない自分を、源氏は不思議に思っていた。

「その、姉上が隠れている処に、私を連れていっておくれ」

 源氏の頼みではあるが、

「ひどくむさ苦しい窮屈な部屋に閉じこもっていて、側付きの女房も大勢いるようですから、畏れ多いですよぉ」

 と、さすがに小君も困惑して言った。

 そんな小君の様子が、あの女を思い起こさせて、かわいらしい。

「それじゃ、せめて、お前だけでも私を冷たく見捨てないで──」


 源氏は、小柄な小君を引き寄せて、そのまま覆いかぶさるように、横になる。

 年若く、やさしい源氏の姿を、小君は素直に、有り難く、美しいと思ってくれている様子であるのが、あのつれない伊予の若妻よりも、かえって愛おしく思えるのだった。



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