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帚木(34)

 今は月の終わり──。

 夜が明けても、月が有明として空に残っている。

 闇夜の時ほどの光芒はないけれども、月の表はくっきりを見えて、なかなか趣のある曙である。

 無心な空の景色も、見る人次第で、色めかしい感じにも、もの悲しい感じにも見えるものだ。

 人の分からぬ源氏の心は、胸を痛め──伊予の若妻と連絡を取る手だても見いだせぬまま、後ろ髪引かれる思いで、紀伊の守の邸を後にした。




 まもなく邸に帰り着いた。

 疲れがないわけではなかったが、直ぐに微睡むことはなかった。

 伊予の若妻のことを思い起こす。

 再びあの女と会う手だてもなく、まして、あの人の心中を思えば、いかばかりかと気の毒な思いがする。あれほどまでに義理堅い女であれば、自分の冒した罪の重さに、あのか弱げな細い体は押しつぶされんばかりであろう。

──あの女のことを思えば──。

──特に優れたところがあるわけではない──。

──宮中への参内を目指したほどの女であるから、美しいには違いないが──。

──「あの人」と比べれば──。

──だが、感じのよい嗜みを身につけていて──いい──。

──ああいうのを「中の品の女」というのだろう──。

──さすが、馬の頭は隈なく女を知っている──なるほど──。

 源氏は一人納得していた。





 数日が経ち──。

 このころは、源氏は左大臣邸によくいるようになった。

 あの伊予の若妻のことが忘れられず、たびたびぼんやりし、側付きの女房などがいろいろと言い合っているようだ。

 妻である葵の上は、最低限の妻としての仕事をこなすばかりで、後は奥に下がってしまった。

 あれから、あの女とは文さえも交わしていない。

 交わせるはずもない。

 それほどまでには、源氏は大胆にはなれなかった。

 自分のことだけならば何ともなろうが、あの「なよ竹」のような若妻のことを思えば、変な噂がたつようなことはしたくない。

──あの女は、どんなに思い悩んでいることだろう──。

 女のか弱げな様子を思い出せば、哀れにさえ思えてくる。

──あの女が悩んでいることは、私との不実があったことなのか──。

──それとも、あの夜のことが、不実であったことなのか──。

 あの女にとっては、源氏が再び自分に近づくことは許されないことなのかもしれない。

 本当にあの女のことを思えば、もう会わないほうがいいのだろう。

 だが、源氏は自分の思いを抑えられなかった。

──もう一度──中の品の女よ──。


帚木(35)

 源氏は、思い悩んだあげく、紀伊の守を左大臣邸に呼んだ。

 紀伊の守が、いつかのように、早速訪れる。

 源氏の前で畏まり、方違えの件でなにか落ち度があったのかときがきではないようだ。

「今日は他でもない。

 卿の邸に、故衛門の督の末の子がいたよな。

 『小君』といったっけ?

 君の継母にあたる人の弟。

 あの子を私に預けないか?

 可愛らしい子だったし、頭も賢そうだ。

 私の側に仕えさせて、後々には私が後見となって殿上童として、参内させよう。

 あれほどの子を埋もれさすのは忍びないからね。

 故衛門の督も、そう望んでいたのだろう?」

 と、源氏は言ってのけた。

──偽善だな──。

 そんなことは、十分承知していた。

 あの小君という子供を自分は、自分の下心のために利用しようとしているのだ。

「恐れ多いことです。

 有り難い仰せですが、私の一存では決めかねます。

 小君の姉である義母に、その仰せをお伝えいたしましょう。

 きっとすぐに承知することでしょうが……」

 不意に女のことが話にあがり、どきりとしたが、紀伊の守に深意はないようだ。

「その小君の姉──君の継母だが──子を……君の義理の弟を、伊予の介との間にはもうけているのか?」

 何気なく──そう何も深意がないが如くに──源氏は訊いた。

「そういうことはございませんね。

 ここ二年ばかり、結婚してからというもの、あの継母のほうも

『入内を望んだ父上の意向とは違ってしまった』

 と思い嘆いておるようでして。

 伊予の介も、継母のそういう所を不満に思っていて、大切にはしていますものの……いわゆるそういう意味での夫婦仲はうまくいっていないと聞いております。」

「気の毒にな──」

 そう言ったことが、女についてのことであるのか──源氏自身も分からない。

「相当な器量のよい女性だとの評判だけれど──本当のところは、美しいのかい」

 源氏は、何も知らぬかのように訊いた。

「そうですね。

 悪くはないのでしょう。

 夫婦仲が良くないにも関わらず、父の伊予の介が義母に暇を出さないのは、そういうことがあるからではないですか?

 義母のほうも私に対してもよそよそしい態度ですし、継母と継子との仲がいいのは、父子の仲違いのもとになると昔から申しますから、私もよくは知らないのですが──」

 紀伊の守は、ため息まじりにそう言った。

 源氏は、正直安心していた。

 この男が、自分と伊予の若妻との仲に気づくことはないだろう。

 もし、知っていてこんなふうに話すのなら──それもそれで安心であった。

──よし──。

 源氏は、不埒に呟いた。


帚木(36)

 それから五、六日経って、紀伊の守が小君と呼ばれた少年を連れてきた。

「非の打ち所のない美しさ」を持っているわけではない。

 だが、優雅な物腰で、上流の子弟らしい振る舞い。

 そんなところも、姉である伊予の若妻に似ている。

 源氏は、小君を近くに呼んで、優しく語りかけた。

 小君も子供ながらに、世にも名高い源氏の君とこれほど親しく話せることのすばらしさが分かっているようだ。

 源氏は、小君に、姉である伊予の若妻のことを色々と詳しく訊いた。

 小君も、生真面目に答えられることは全て丁寧に答えてくれる。

 源氏は、この少年を利用して再びあの女とつなぎをつけようという邪な思惑もあって、この小君も素直さに気が引けてくる。

 だが、この小君にはこれからも色々と役に立ってもらわなければならない。

 事情を知ってもらわなければ、何かと不都合である。

 源氏は、それとなく、伊予の若妻と自分との間のことを、子供の小君にもわかるように、易しく話してやった。

 小君も賢い子供で「男女の間のこと」も「それなりに」知っていたのだろう。

「光君と姉上との間に、そんなことがあったのか」

 と、それとなく分かった。

 意外なことではあったが、子供である小君は、それほど深くは考えなかった。

 小君が紀伊の守邸に帰るとき、源氏は女への文を小君に託した。

 小君は、はっきりとはその文がどういうものか分かっていないようだが、大事なものであることは察したらしく、

「誰にも見られぬよう」

 という源氏の言葉を守り、懐に大事そうにしまった。

 紀伊の守邸に着き、姉のもとに帰った小君は、早速、源氏からの文を伊予の若妻に手渡した。

──女は、涙を流したのだという──。

──嬉し涙──か?

 今でも、源氏には分からない。

 だが、そう信じている。

 前にいる小君が、涙を流す姉を見て、きょとんとしている。

「この子がどう思っていることだろう」

 と、気恥ずかしくなったが、かといって手紙を突き放せるわけもない。

 顔を隠すように、手紙を広げた。

 源氏の面影を映すかのような美しい書体で、思いのたけがこまごまと一面に述べられている。

──見し夢をあふ夜ありやと嘆くまに
        目さへあはでぞころも経にける──

 先夜の夢──貴女との逢瀬の夢が、現のこととなって、
 貴女に逢える夜があるのだろうかと嘆く間に、
 瞼さえ合わない──目も閉じれぬ──眠れぬままに何日も過ぎてしまいました

 などと歌が詠まれ、女の胸を締めつける。

 最後に

寝る夜なければ

 と、

──恋しきを何につけてか慰めむ
      夢だに見えず寝る夜なければ──

 この貴女への恋しさを、何をもって慰めればいいのでしょう。
 夢で貴女に逢うことさえできない──貴女を思って夜も眠れないのだから──

 という拾遺集の源順の歌を引用してあるところなど、心憎い。

 素晴らしい文の内容に、女は目が涙で曇ってしまう。

──こんな身に落ちぶれてしまってから──

 伊予の介などという老人の妻となってしまってから──

 あの光君と出会うなんて──。

──入内を目指し、それを間近にして父が逝去し──

 今の夫に嫁いでから、あの方に愛してもらえるなど──。

──なんと、私は運のない女のだろう──。

 そう思いつづけて、女はやるかたなく臥すしかなかった。


帚木(37)

 翌日、再び小君への源氏のお召しがあった。

 小君は、源氏への返事を姉に乞うた。

「『あの文を読むに相応しい者などいなかった』と、光君に申し上げて」

 女は、そっけないふりをしてそう言った。

「間違えようもなく『姉上に』っておっしゃったのに……。

 どうしてそんなこというの」

 小君は、子供っぽく笑って訊いた。

──ああ──。

 源氏が、二人のことを小君にすっかり話してしまったことを察した。

 心やましくも思え、つらいこと限りがない。

「もう……。

 ませた口をきくものじゃないわ。

 それなら光君のところには参上してはなりません」

 女は、自分の当惑を隠すために機嫌を損ねてみせた。

「お召しがあったのに、そんなわけにはいかないよ」

 小君は、結局返事をもらえぬまま、源氏のいる左大臣邸に向かった。




 小君を連れてきたのは、やはり紀伊の守自身であった。

──ほう──。

 源氏は、意地悪く紀伊の守の顔を伺った。

──この男──なんかかんかと言いながら──

──あの女に──自分の継母に、気があるな──?

 呆れたように鼻で笑った。

 父である伊予の介を馬鹿にしていながら、よく似ていることだ。

 この有能な男も、結局は只の好き者なのだ。

 年若い美しい女が、年老いた父親の妻であることを、さすがにもったいないと思っているのだろう。

 小君を大事に扱い、小君を自分の邸に引き取っていたのも、こうしてわざわざ自分が赴いて小君を送り迎えするのも、あの女の気を引きたいがためなのだろう。

──まあ、いい──。

──あの女が、こんな男になびくはずもない──。

──あの女はもう──この私を知ってしまったのだから──。

 源氏は、小君を側近くに呼んだ。

「昨日は結局帰ってこなかったね。

 待ってたんだよ?

 どうも私とは仲良くしてくれないのかい?」

 源氏が悪戯っぽく恨み言を言って小君をからかうと、小君は顔をただただ赤らめる。

 そんな小君が──姉の面影を見せてくれるこの少年が、源氏は気に入っていた。

「それで?」

 源氏が女の返事のことを小君に尋ねると、邸での一部始終を源氏に話す。

「だめだなぁ。

 うん……どうしようか……」

 源氏は、再び小君に手紙を託すことにした。

「お前は知らないんだろうね」

 源氏は、小君を側に引き寄せた。

「私とお前の姉上とは、あの伊予の御老体よりも前から知り合っていたのだよ。

 けれど、私は頼りがいのない、ただの細顎の青二才だと、お前の姉上には思われたらしい。

 あんな……というのは言い過ぎかな……まあ、あの御老体を夫としてしまわれて──

 私も見くびられたものだね──あてつけなのだろうけれど。

 けれどね、お前は私の子供のつもりでいてくれていいから。

 あの『頼りがいのある』年寄りも先は長くないだろうし──」

 源氏は、何も知らない小君に或ること無いことを植えつける。

 小君が、生真面目に、

「そうだったのか──

 そういうことかもな──

 奥が深いな──」

 などと、大人の世界についていろいろと考えている様子が、源氏には微笑ましく、おかしい。

 源氏は、小君が心底気に入った。


帚木(38)

 それからというもの、小君を片時も側から放さない。

 内裏に参内するにも連れて歩いた。

 内裏を真似て「御匣殿」と呼んでいる自邸の衣装係に命じて、装束等も調達させて、本当の親代わりのように世話をした。

 打算がないと言えば嘘になろう。

 この小君を世話することで、伊予の介や紀伊の守の、「無能さ」や「甲斐性のなさ」を、わざと見せつけているのだから。

 世間に。

 そして、「あの女」に。

 女への文は、小君に託し、毎日のように女のもとに送った。

 女は、その文を全て、何度となく読み返す。

 光君の手紙を──自分などを忘れることなく文を送ってくれる源氏の気持ちを嬉しく思うけれども──。

 なんといっても小君はまだ幼い。

 本人は一人前のつもりで光君のお仕えとしての役目をこなしているが、何の拍子にあの手紙が人目に触れるか分からない。

 そうなれば、尻軽な女と評判をたてられることになるだろう。

 不倫だけでも許されぬというのに、伊予の介の後妻として落ちぶれた我が身が、光君と関係を持つなど──なんと不相応なことなのだろう──。

 光君の愛情を受けることは、望んでも叶うものではない。

 光君の愛情を受けることになったならば、一人の女としてはこの上ないほどの吉事であるに違いない。

 だが──。
 
 世間には「いいこと」というものが、身の上次第になるものがあるのだ。

 私は、このことを素直に喜んではいられない──。

 結局、源氏からの文に、女が返事を出すことはなかった。

 あの夜──。

 女は一人、顔を赤らめている自分を知っている。

 あの夜、僅かに見た源氏の類稀な美しさが、本当に──並のものであろうはずがない。

 そう思い出すだけで胸が熱くなり、体がうずき、手が指が勝手に動き、独り自分を慰める。

 しかし、いまさらに、色気を出して手紙の返事をだし、情を解する女を振る舞ったところでどうなるというの──。

 女は、自分のしがない運命に、このまま埋もれてしまう決意をしていた。

 女の思いをよそに──源氏は女のことを思い、忘れる間もない。

 心苦しく──恋しい──。

 女の、あの思い悩んだ様子への愛おしさも、記憶から払いのけることなどできない。

 いっそ、軽々しく人の出入りに紛れて、あの女のもとを訪れようとも思ったが、人目について、不都合な行動が人に知られることになれば、あの女をまた困らせることになってしまう。

 女のためにも気の毒で、思い煩いつづけていた。



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