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帚木(33)

 鳥も啼いた──。

 人々が起きてくる。

 日はまだ上がっていない。

 いまだ、暗闇が天空の多くを包み込んでいる。

「ひどく寝坊しちゃったな。

 光君の車を引き出してこようぜ」

 供人たちが会話を交わし、源氏の帰り支度を始めている。

 人々の動きに、紀伊の守も起きい出てきたようだ。

 いろいろと指図を与えている。

「女性の方違えならともかくさぁ。

 こんな暗いうちにお帰りになることもないでしょう?」

 源氏の供人か、紀伊の守の家の者かは分からないが、そんなことを言っている者もいた。

 源氏の腕のなかには、まだ女がいる。

 心は未だ許していないようであるが──こうして体を源氏に預ける女がいじらしい。

 女の頬に再び触れると、女ははっと身を縮めた。

 供人たちが騒いでいるのを気にしているのだろう。

 たしかに、このようなところを見られては、この女にとっては大変なことに違いない。

 といって、すぐにこの女を離してしまう気には、源氏はどうしてもなれなかった。

──この人とは今度はいつ会えるだろう──。

──もう一度、こんな機会があろうはずもない──。

──わざわざ用もなく紀伊の守や伊予の介の邸を訪ねるわけにも行かぬ──。

──文のやりとりなど、とても無理だ──。

 この女とのつながりが切れてしまいそうなことが、源氏にはとても辛い。

 寝殿の中央で東西に分けている襖障子が静かに、わずかに開いて、その向こうから──もとの女のいた西側の母屋から、伊予の若妻につく「中将」が顔を出す。

「あの……外の者たちも起きはじめました。

 人目につきます前に、どうかご主人様をお返しくださいませ……。」

 中将の声は、困惑に満ちていた。

 伊予の若妻を抱いていた腕を離し、女を自由にはしたが、少ない衣を胸に抱いて向こうに消えようとする女の腕を再び引き寄せた。

「これからは、どう貴女にお便りしたら宜しいのですか?

 男女の仲にはないような貴女のその御心のつれなさも、あはれも──浅からず私の心に残る二人の思い出は、そうあるものではない──」

 源氏は、女の手を取り泣いてみせる。

 そんな源氏の様子も、この世のものと思えぬ美しさ──。

 女は、自分の腕を握りしめる源氏の力が緩んでしまいそうになるのが、何故か不安に思え、自ら源氏の手をつなぎ止めようとしてしまう。

 鳥が、再び啼いた──。

 人の動きもいっそう騒がしくなる。

 人影が近づくたびに、女は落ちつかない。

 源氏も、さすがにこれ以上女を引き止めるわけにはいかなくなった。

──つれなきを恨みも果てぬしののめに
       とりあへぬまでおどろかすらむ──。

 貴女のつれなさに恨み言もいい果てぬまま夜は白み──、
 どうして鳥は、取りもなおさず私をせきたてるのでしょう──

 源氏が女に歌いかける。

 しかし女は、自分を見つめる源氏の美しさを見るにつけても、不似合いな感じがする。

──伊予の介の後妻となった自分の境遇、年齢、容貌──。

 そんな自分の身のありさまを思うと、本当に不似合いで恥ずかしい。

 こんな惨めな自分への、身に余るほどの源氏のもてなしが、何とも言えず──嬉しい。

 伊予の介の下に嫁いでどれくらいになったろう。

 自分は、いい妻ではない。

 そんなことは知っている。

 特に、嫁いだ時分は、

「参内を目の前にしていた自分がこのようなところに──」

 そう思っていた。

 伊予の介も、普段はそっけなく、自分のことを気に食わないらしく馬鹿にしている。

 だが──。

 だからといって──いや、だからこそ、あの夫がこのようなことを許すとは思えない。

 夫のいる伊予の国が思いやられた。

 ある人について思い悩むと、自分の魂が体を離れて、その人の夢に現れるという。

 これほどに夫のことを不安に思えば、自分が夫の夢に現れるかもしれない。

 そうなれば、なにかあったのではないかと、夫が怪しむに違いない──。

 そう思えば、空恐ろしく気が引ける。

──身の憂さをなげくにあかであくる夜は
          とり重ねてぞ音もなかれける──

 私の身の情けなさを嘆き飽きないうちに、明ける夜には、
 鳥の声にとり重ねて、私も声をたてて泣けてきます」

 女は、再び顔を覆った。




 中からでも分かるほどに、外はどんどん明るくなってきていた。

 源氏は、女を障子口まで送った。

 内も外も、人騒がしくなり、女が西側に渡るとすぐに、障子を閉めて別れた。

 女が障子の向こうに消えてゆき──心細く──その障子が二人を隔てる逢坂の関のように思えた。

 汗に濡れた寝衣を脱ぎ捨て、平常服である直衣に着替え、南に面した簀子の欄干で、暫くのあいだ、外を眺めていた。

 西側にいた少なからぬ女たちも、源氏が外に出てきたのが分かったのだろう、西のほうの格子が慌ただしく、しかし僅かに開いて、その間から女たちが源氏の姿を覗き見ている。

 東西を分けている簀子の低いついたてからの上から僅かに見える、源氏の類稀な美しい容貌をぞくぞくする思いで眺めている。

「すきものの女たちが……」

 源氏は、冷たく女たちの視線を無視した。

 あの女は──見てはいまい。

 格子の奥で、恐れを抱いていることだろう──。

 自分の冒した罪に──

 そして、それを受け入れてしまった自分に──。

──私は、貴女を手放しはしない──。


帚木(34)

 今は月の終わり──。

 夜が明けても、月が有明として空に残っている。

 闇夜の時ほどの光芒はないけれども、月の表はくっきりを見えて、なかなか趣のある曙である。

 無心な空の景色も、見る人次第で、色めかしい感じにも、もの悲しい感じにも見えるものだ。

 人の分からぬ源氏の心は、胸を痛め──伊予の若妻と連絡を取る手だても見いだせぬまま、後ろ髪引かれる思いで、紀伊の守の邸を後にした。




 まもなく邸に帰り着いた。

 疲れがないわけではなかったが、直ぐに微睡むことはなかった。

 伊予の若妻のことを思い起こす。

 再びあの女と会う手だてもなく、まして、あの人の心中を思えば、いかばかりかと気の毒な思いがする。あれほどまでに義理堅い女であれば、自分の冒した罪の重さに、あのか弱げな細い体は押しつぶされんばかりであろう。

──あの女のことを思えば──。

──特に優れたところがあるわけではない──。

──宮中への参内を目指したほどの女であるから、美しいには違いないが──。

──「あの人」と比べれば──。

──だが、感じのよい嗜みを身につけていて──いい──。

──ああいうのを「中の品の女」というのだろう──。

──さすが、馬の頭は隈なく女を知っている──なるほど──。

 源氏は一人納得していた。





 数日が経ち──。

 このころは、源氏は左大臣邸によくいるようになった。

 あの伊予の若妻のことが忘れられず、たびたびぼんやりし、側付きの女房などがいろいろと言い合っているようだ。

 妻である葵の上は、最低限の妻としての仕事をこなすばかりで、後は奥に下がってしまった。

 あれから、あの女とは文さえも交わしていない。

 交わせるはずもない。

 それほどまでには、源氏は大胆にはなれなかった。

 自分のことだけならば何ともなろうが、あの「なよ竹」のような若妻のことを思えば、変な噂がたつようなことはしたくない。

──あの女は、どんなに思い悩んでいることだろう──。

 女のか弱げな様子を思い出せば、哀れにさえ思えてくる。

──あの女が悩んでいることは、私との不実があったことなのか──。

──それとも、あの夜のことが、不実であったことなのか──。

 あの女にとっては、源氏が再び自分に近づくことは許されないことなのかもしれない。

 本当にあの女のことを思えば、もう会わないほうがいいのだろう。

 だが、源氏は自分の思いを抑えられなかった。

──もう一度──中の品の女よ──。


帚木(35)

 源氏は、思い悩んだあげく、紀伊の守を左大臣邸に呼んだ。

 紀伊の守が、いつかのように、早速訪れる。

 源氏の前で畏まり、方違えの件でなにか落ち度があったのかときがきではないようだ。

「今日は他でもない。

 卿の邸に、故衛門の督の末の子がいたよな。

 『小君』といったっけ?

 君の継母にあたる人の弟。

 あの子を私に預けないか?

 可愛らしい子だったし、頭も賢そうだ。

 私の側に仕えさせて、後々には私が後見となって殿上童として、参内させよう。

 あれほどの子を埋もれさすのは忍びないからね。

 故衛門の督も、そう望んでいたのだろう?」

 と、源氏は言ってのけた。

──偽善だな──。

 そんなことは、十分承知していた。

 あの小君という子供を自分は、自分の下心のために利用しようとしているのだ。

「恐れ多いことです。

 有り難い仰せですが、私の一存では決めかねます。

 小君の姉である義母に、その仰せをお伝えいたしましょう。

 きっとすぐに承知することでしょうが……」

 不意に女のことが話にあがり、どきりとしたが、紀伊の守に深意はないようだ。

「その小君の姉──君の継母だが──子を……君の義理の弟を、伊予の介との間にはもうけているのか?」

 何気なく──そう何も深意がないが如くに──源氏は訊いた。

「そういうことはございませんね。

 ここ二年ばかり、結婚してからというもの、あの継母のほうも

『入内を望んだ父上の意向とは違ってしまった』

 と思い嘆いておるようでして。

 伊予の介も、継母のそういう所を不満に思っていて、大切にはしていますものの……いわゆるそういう意味での夫婦仲はうまくいっていないと聞いております。」

「気の毒にな──」

 そう言ったことが、女についてのことであるのか──源氏自身も分からない。

「相当な器量のよい女性だとの評判だけれど──本当のところは、美しいのかい」

 源氏は、何も知らぬかのように訊いた。

「そうですね。

 悪くはないのでしょう。

 夫婦仲が良くないにも関わらず、父の伊予の介が義母に暇を出さないのは、そういうことがあるからではないですか?

 義母のほうも私に対してもよそよそしい態度ですし、継母と継子との仲がいいのは、父子の仲違いのもとになると昔から申しますから、私もよくは知らないのですが──」

 紀伊の守は、ため息まじりにそう言った。

 源氏は、正直安心していた。

 この男が、自分と伊予の若妻との仲に気づくことはないだろう。

 もし、知っていてこんなふうに話すのなら──それもそれで安心であった。

──よし──。

 源氏は、不埒に呟いた。


帚木(36)

 それから五、六日経って、紀伊の守が小君と呼ばれた少年を連れてきた。

「非の打ち所のない美しさ」を持っているわけではない。

 だが、優雅な物腰で、上流の子弟らしい振る舞い。

 そんなところも、姉である伊予の若妻に似ている。

 源氏は、小君を近くに呼んで、優しく語りかけた。

 小君も子供ながらに、世にも名高い源氏の君とこれほど親しく話せることのすばらしさが分かっているようだ。

 源氏は、小君に、姉である伊予の若妻のことを色々と詳しく訊いた。

 小君も、生真面目に答えられることは全て丁寧に答えてくれる。

 源氏は、この少年を利用して再びあの女とつなぎをつけようという邪な思惑もあって、この小君も素直さに気が引けてくる。

 だが、この小君にはこれからも色々と役に立ってもらわなければならない。

 事情を知ってもらわなければ、何かと不都合である。

 源氏は、それとなく、伊予の若妻と自分との間のことを、子供の小君にもわかるように、易しく話してやった。

 小君も賢い子供で「男女の間のこと」も「それなりに」知っていたのだろう。

「光君と姉上との間に、そんなことがあったのか」

 と、それとなく分かった。

 意外なことではあったが、子供である小君は、それほど深くは考えなかった。

 小君が紀伊の守邸に帰るとき、源氏は女への文を小君に託した。

 小君は、はっきりとはその文がどういうものか分かっていないようだが、大事なものであることは察したらしく、

「誰にも見られぬよう」

 という源氏の言葉を守り、懐に大事そうにしまった。

 紀伊の守邸に着き、姉のもとに帰った小君は、早速、源氏からの文を伊予の若妻に手渡した。

──女は、涙を流したのだという──。

──嬉し涙──か?

 今でも、源氏には分からない。

 だが、そう信じている。

 前にいる小君が、涙を流す姉を見て、きょとんとしている。

「この子がどう思っていることだろう」

 と、気恥ずかしくなったが、かといって手紙を突き放せるわけもない。

 顔を隠すように、手紙を広げた。

 源氏の面影を映すかのような美しい書体で、思いのたけがこまごまと一面に述べられている。

──見し夢をあふ夜ありやと嘆くまに
        目さへあはでぞころも経にける──

 先夜の夢──貴女との逢瀬の夢が、現のこととなって、
 貴女に逢える夜があるのだろうかと嘆く間に、
 瞼さえ合わない──目も閉じれぬ──眠れぬままに何日も過ぎてしまいました

 などと歌が詠まれ、女の胸を締めつける。

 最後に

寝る夜なければ

 と、

──恋しきを何につけてか慰めむ
      夢だに見えず寝る夜なければ──

 この貴女への恋しさを、何をもって慰めればいいのでしょう。
 夢で貴女に逢うことさえできない──貴女を思って夜も眠れないのだから──

 という拾遺集の源順の歌を引用してあるところなど、心憎い。

 素晴らしい文の内容に、女は目が涙で曇ってしまう。

──こんな身に落ちぶれてしまってから──

 伊予の介などという老人の妻となってしまってから──

 あの光君と出会うなんて──。

──入内を目指し、それを間近にして父が逝去し──

 今の夫に嫁いでから、あの方に愛してもらえるなど──。

──なんと、私は運のない女のだろう──。

 そう思いつづけて、女はやるかたなく臥すしかなかった。


帚木(37)

 翌日、再び小君への源氏のお召しがあった。

 小君は、源氏への返事を姉に乞うた。

「『あの文を読むに相応しい者などいなかった』と、光君に申し上げて」

 女は、そっけないふりをしてそう言った。

「間違えようもなく『姉上に』っておっしゃったのに……。

 どうしてそんなこというの」

 小君は、子供っぽく笑って訊いた。

──ああ──。

 源氏が、二人のことを小君にすっかり話してしまったことを察した。

 心やましくも思え、つらいこと限りがない。

「もう……。

 ませた口をきくものじゃないわ。

 それなら光君のところには参上してはなりません」

 女は、自分の当惑を隠すために機嫌を損ねてみせた。

「お召しがあったのに、そんなわけにはいかないよ」

 小君は、結局返事をもらえぬまま、源氏のいる左大臣邸に向かった。




 小君を連れてきたのは、やはり紀伊の守自身であった。

──ほう──。

 源氏は、意地悪く紀伊の守の顔を伺った。

──この男──なんかかんかと言いながら──

──あの女に──自分の継母に、気があるな──?

 呆れたように鼻で笑った。

 父である伊予の介を馬鹿にしていながら、よく似ていることだ。

 この有能な男も、結局は只の好き者なのだ。

 年若い美しい女が、年老いた父親の妻であることを、さすがにもったいないと思っているのだろう。

 小君を大事に扱い、小君を自分の邸に引き取っていたのも、こうしてわざわざ自分が赴いて小君を送り迎えするのも、あの女の気を引きたいがためなのだろう。

──まあ、いい──。

──あの女が、こんな男になびくはずもない──。

──あの女はもう──この私を知ってしまったのだから──。

 源氏は、小君を側近くに呼んだ。

「昨日は結局帰ってこなかったね。

 待ってたんだよ?

 どうも私とは仲良くしてくれないのかい?」

 源氏が悪戯っぽく恨み言を言って小君をからかうと、小君は顔をただただ赤らめる。

 そんな小君が──姉の面影を見せてくれるこの少年が、源氏は気に入っていた。

「それで?」

 源氏が女の返事のことを小君に尋ねると、邸での一部始終を源氏に話す。

「だめだなぁ。

 うん……どうしようか……」

 源氏は、再び小君に手紙を託すことにした。

「お前は知らないんだろうね」

 源氏は、小君を側に引き寄せた。

「私とお前の姉上とは、あの伊予の御老体よりも前から知り合っていたのだよ。

 けれど、私は頼りがいのない、ただの細顎の青二才だと、お前の姉上には思われたらしい。

 あんな……というのは言い過ぎかな……まあ、あの御老体を夫としてしまわれて──

 私も見くびられたものだね──あてつけなのだろうけれど。

 けれどね、お前は私の子供のつもりでいてくれていいから。

 あの『頼りがいのある』年寄りも先は長くないだろうし──」

 源氏は、何も知らない小君に或ること無いことを植えつける。

 小君が、生真面目に、

「そうだったのか──

 そういうことかもな──

 奥が深いな──」

 などと、大人の世界についていろいろと考えている様子が、源氏には微笑ましく、おかしい。

 源氏は、小君が心底気に入った。



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