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帚木(31)

──源氏の捨て台詞を、中将はどう受け取ったろう──。

 伊予の若妻は、そう思う自分が馬鹿げてみえた。

──間違えようがないではないか──

──男が女を抱きかかえ「夜が明けたら」などと言うのを聞いて、他に何と解釈しよう──。

 そう思うと死ぬほど切なく、汗を流すほどに気分も悪くなる。

 女の肌に触れた源氏の手に汗が伝わり、その流れを追うように動く源氏の指に、女は過敏に反応した。

 そんな女の様子が愛おしい。

 源氏は──どこからそんな言葉が生まれてくるのか──次々と優しい言葉を女にかける。

 女は、源氏のその美しい声と優しい言葉に、感じ入り、身を任せてしまいそうになるのを、必死に堪えていた。

 気を緩めれば、そのまま自分から源氏の首に腕を回してしまいそう──。

──私が──光君などと──。

 その思いが、女にはまだ強い。

「現実とも思えません。

 このような下賤の私ですが、このような事をなされた貴方様のお気持ちを、どうして『あさはかなこと』と思わずにおれましょうや。

 私のような身分の者には、その身分に相応しい『際』というものがあります。

 ですから、貴方のような方と──」

 源氏の我を通した行為に、女は困惑していた。

──伊予の若妻となった自分が光君と関係をもったとなれば──。

──そして、それが、夫の伊予の介や世間に知られるようなことになれば──。

 そう思うと、この源氏の情の無いなされ様が悲しい。

 そして、源氏はそんな女の様子が愛おしく、さすがに引け目を感じた。

 そんな女を──そして自分を慰めるように、源氏は言の葉を紡ぎだす。

「そういう『身分の違い』など、私には分かりません。

 こんなふうに女性に思いの丈を伝えるのなど、初めてなのだから。

 それをかえって、そこら辺の浮気者と同じように思われるのなんて……ひどいですよ」

 床に寝かせた女の頬に、いたわるように指先で触れる。

「私の噂なら、今まで何かとお耳に入っているでしょう?

 ならばご存じのはずです。
 私が今まで『何が何でも』と無理に好色な振る舞いをしたことなどなかった、と──

 そう、『何が何でも』と思わせる女性などいなかった──。

 でも、貴女は違う。

 何かの前世からの因縁でしょうか──本当に、こうして貴女に非難されても仕方のない行為をしてしまうほどの狂おしいこの思いを、自分でも不思議で、どうすることもできない──」

 源氏は、真面目にいろいろと話すが、女はなかなか心を開かなかった。

 或いは──おそらく──女は源氏の嘘を見破っていたのだろうか──。

──『何が何でも』と思った女が──狂おしいほどに思った女が──自分が初めてなどではないことを──。

──伊予の若妻である自分などよりも、もっと以前から──もっと狂おしく思っている女性が、源氏の心の奥にいることを──。

──自分が、「中の品の女」という、只の「人身御供」でしかないことを──。

──どうして私は──。

 伊予の若妻は悔やむ。

──どうして私は──光君の姿を見てしまったのだろう──と。

──あの姿を──あの神々しいまでに美しい御姿を──。

──あの姿さえ見なければ──もっと強く拒むこともできように──。


帚木(32)

 女は、全て身をまかせることも──かといって、強く拒むこともできず、事実、その躰は、理性とは反して、源氏のそれを卑しく求め──目を閉じ、細い手で顔を覆った。

──光君の姿を見ぬように──そして、自分の止めることのできぬ、溢れ出る淫欲な感情が顔に出るのを見られぬように──。

 女は、人妻である自分が、どうしても己の肢体を源氏に許してしまっていることが辛い。

──人妻でなければ──。

──そう──私が人妻でなければ──。

──こんなに苦しい思いをせずすんだのに──。

──しかし──もう遅い──。

 女は、胸元に感じる源氏の吐息と、局部に感じる源氏のそれの熱さに溺れそうになりながら──思う。

──こうなれば──。

──そっけのない、いやな女と思われようとも──。

──情けを解さぬ──話の分からない堅い女として、押し通そう──。

──自分が「求めている」と感じ取られないようにしなければ──。

 女は、源氏の話しかけにも答えず、つれない。

 もともと、おしとやかな性格である女が、強いて心を張り詰めている様子は、細く、しなやかな「なよ竹」のよう──。

 さすがに、すぐには折れそうもない。

 女は人妻である自分が、源氏の優しさの溺れそうになるのが心やましく、源氏の我を通したこのされ様を、「いふかいなし」と思って悲しむ様子は、本当に「あはれ」と源氏に思わせた。

──だが──。

──こんなにか弱げな貴女を見れば、心苦しいけれど──。

──だからこそ──そんな貴女の美しさを目にして、何もせずにいたら──私はきっと悔いを残すことだろう──。

──汝をもらおう──中の品の女よ──。

 女は、源氏の美しい肢体が、自分の体を透かしたように思えた。

──可哀相なことをしてしまったろうか──?

──いや──

──ここでこの人に何もしないですましていたら、私はきっと悔いを残していたろう──。

 源氏は、そう自分に言い聞かせていた。

 横にいる伊予の若妻は、気持ちの晴らしようもなく、憂しなる様子でいる。

 結局この女は、その感情を、顔を覆った手の内に隠してしまった。

 さすがに抑え切れずに漏れ聞こえる女の喘ぎ声も、泣いているようにさえ聞こえた。

「何故に、それほどまでに、私を嫌っておられるのですか?

 思いがけずこのようなことになってしまいましたのも、かえって、私たちのあいだに浅からぬ前世からの因縁があったからだとお思いになれませんか?

 貴女が『男女の事』も知らぬ生娘のように、思い沈んでいらっしゃるのが、私は辛くてなりません」

 源氏は、自分の恨み言がきつい口調になっていることに気づき、言いすぎたかと思った。

 女も、そんな源氏の様子に気づいたのだろう。微かながらに言葉を漏らす。

「このような身でなく──

 『介』の妻などに定まっておらぬ『ありしながらの身』──そう、昔のままの娘の身で、貴方様のこうしたお情けにあずかるのでしたならば──

 自惚れででも、『いつかは浮気ではなく、お気が変わって本気になってくれるかも知れない』と、自分を慰めることもできましょうが……」

 女は、

──とり返すものにもがなや世の中を
       ありしながらのわが身と思はむ──

 あの頃の二人に戻りたいわ。
 私はあの頃のまま、と思ってみたいもの

 という歌に因って、話したのだった。

 女は続ける。

「でも──でも、今は違います。

 これが、一時のかりそめの逢瀬だと──

 美しい水鳥が水の上に休む『浮寝』と変わらぬことを、私は分かっているのです。

 だからこそ、私はどうしようもなく悲しく……。

 仕方ございません。

『今は見きとなかけそ』──今となっては、逢わなかったものと、どうか私をお忘れくださいますよう……」

 女は、

──それをだに思ふこととてわが宿を
       見きとな言ひそ人の聞かくに──

 せめて、私を思ってくださいますなら、
 私を逢ったということを誰にもおっしゃらないでください。
 人が聞くでしょうから──

 という古今集の歌に準えて言い、また悲しみに沈む。

──ほんとに、この人は「理なり」──。

 源氏は、並々ならず行く末を約束すること、少なくなかった。


帚木(33)

 鳥も啼いた──。

 人々が起きてくる。

 日はまだ上がっていない。

 いまだ、暗闇が天空の多くを包み込んでいる。

「ひどく寝坊しちゃったな。

 光君の車を引き出してこようぜ」

 供人たちが会話を交わし、源氏の帰り支度を始めている。

 人々の動きに、紀伊の守も起きい出てきたようだ。

 いろいろと指図を与えている。

「女性の方違えならともかくさぁ。

 こんな暗いうちにお帰りになることもないでしょう?」

 源氏の供人か、紀伊の守の家の者かは分からないが、そんなことを言っている者もいた。

 源氏の腕のなかには、まだ女がいる。

 心は未だ許していないようであるが──こうして体を源氏に預ける女がいじらしい。

 女の頬に再び触れると、女ははっと身を縮めた。

 供人たちが騒いでいるのを気にしているのだろう。

 たしかに、このようなところを見られては、この女にとっては大変なことに違いない。

 といって、すぐにこの女を離してしまう気には、源氏はどうしてもなれなかった。

──この人とは今度はいつ会えるだろう──。

──もう一度、こんな機会があろうはずもない──。

──わざわざ用もなく紀伊の守や伊予の介の邸を訪ねるわけにも行かぬ──。

──文のやりとりなど、とても無理だ──。

 この女とのつながりが切れてしまいそうなことが、源氏にはとても辛い。

 寝殿の中央で東西に分けている襖障子が静かに、わずかに開いて、その向こうから──もとの女のいた西側の母屋から、伊予の若妻につく「中将」が顔を出す。

「あの……外の者たちも起きはじめました。

 人目につきます前に、どうかご主人様をお返しくださいませ……。」

 中将の声は、困惑に満ちていた。

 伊予の若妻を抱いていた腕を離し、女を自由にはしたが、少ない衣を胸に抱いて向こうに消えようとする女の腕を再び引き寄せた。

「これからは、どう貴女にお便りしたら宜しいのですか?

 男女の仲にはないような貴女のその御心のつれなさも、あはれも──浅からず私の心に残る二人の思い出は、そうあるものではない──」

 源氏は、女の手を取り泣いてみせる。

 そんな源氏の様子も、この世のものと思えぬ美しさ──。

 女は、自分の腕を握りしめる源氏の力が緩んでしまいそうになるのが、何故か不安に思え、自ら源氏の手をつなぎ止めようとしてしまう。

 鳥が、再び啼いた──。

 人の動きもいっそう騒がしくなる。

 人影が近づくたびに、女は落ちつかない。

 源氏も、さすがにこれ以上女を引き止めるわけにはいかなくなった。

──つれなきを恨みも果てぬしののめに
       とりあへぬまでおどろかすらむ──。

 貴女のつれなさに恨み言もいい果てぬまま夜は白み──、
 どうして鳥は、取りもなおさず私をせきたてるのでしょう──

 源氏が女に歌いかける。

 しかし女は、自分を見つめる源氏の美しさを見るにつけても、不似合いな感じがする。

──伊予の介の後妻となった自分の境遇、年齢、容貌──。

 そんな自分の身のありさまを思うと、本当に不似合いで恥ずかしい。

 こんな惨めな自分への、身に余るほどの源氏のもてなしが、何とも言えず──嬉しい。

 伊予の介の下に嫁いでどれくらいになったろう。

 自分は、いい妻ではない。

 そんなことは知っている。

 特に、嫁いだ時分は、

「参内を目の前にしていた自分がこのようなところに──」

 そう思っていた。

 伊予の介も、普段はそっけなく、自分のことを気に食わないらしく馬鹿にしている。

 だが──。

 だからといって──いや、だからこそ、あの夫がこのようなことを許すとは思えない。

 夫のいる伊予の国が思いやられた。

 ある人について思い悩むと、自分の魂が体を離れて、その人の夢に現れるという。

 これほどに夫のことを不安に思えば、自分が夫の夢に現れるかもしれない。

 そうなれば、なにかあったのではないかと、夫が怪しむに違いない──。

 そう思えば、空恐ろしく気が引ける。

──身の憂さをなげくにあかであくる夜は
          とり重ねてぞ音もなかれける──

 私の身の情けなさを嘆き飽きないうちに、明ける夜には、
 鳥の声にとり重ねて、私も声をたてて泣けてきます」

 女は、再び顔を覆った。




 中からでも分かるほどに、外はどんどん明るくなってきていた。

 源氏は、女を障子口まで送った。

 内も外も、人騒がしくなり、女が西側に渡るとすぐに、障子を閉めて別れた。

 女が障子の向こうに消えてゆき──心細く──その障子が二人を隔てる逢坂の関のように思えた。

 汗に濡れた寝衣を脱ぎ捨て、平常服である直衣に着替え、南に面した簀子の欄干で、暫くのあいだ、外を眺めていた。

 西側にいた少なからぬ女たちも、源氏が外に出てきたのが分かったのだろう、西のほうの格子が慌ただしく、しかし僅かに開いて、その間から女たちが源氏の姿を覗き見ている。

 東西を分けている簀子の低いついたてからの上から僅かに見える、源氏の類稀な美しい容貌をぞくぞくする思いで眺めている。

「すきものの女たちが……」

 源氏は、冷たく女たちの視線を無視した。

 あの女は──見てはいまい。

 格子の奥で、恐れを抱いていることだろう──。

 自分の冒した罪に──

 そして、それを受け入れてしまった自分に──。

──私は、貴女を手放しはしない──。


帚木(34)

 今は月の終わり──。

 夜が明けても、月が有明として空に残っている。

 闇夜の時ほどの光芒はないけれども、月の表はくっきりを見えて、なかなか趣のある曙である。

 無心な空の景色も、見る人次第で、色めかしい感じにも、もの悲しい感じにも見えるものだ。

 人の分からぬ源氏の心は、胸を痛め──伊予の若妻と連絡を取る手だても見いだせぬまま、後ろ髪引かれる思いで、紀伊の守の邸を後にした。




 まもなく邸に帰り着いた。

 疲れがないわけではなかったが、直ぐに微睡むことはなかった。

 伊予の若妻のことを思い起こす。

 再びあの女と会う手だてもなく、まして、あの人の心中を思えば、いかばかりかと気の毒な思いがする。あれほどまでに義理堅い女であれば、自分の冒した罪の重さに、あのか弱げな細い体は押しつぶされんばかりであろう。

──あの女のことを思えば──。

──特に優れたところがあるわけではない──。

──宮中への参内を目指したほどの女であるから、美しいには違いないが──。

──「あの人」と比べれば──。

──だが、感じのよい嗜みを身につけていて──いい──。

──ああいうのを「中の品の女」というのだろう──。

──さすが、馬の頭は隈なく女を知っている──なるほど──。

 源氏は一人納得していた。





 数日が経ち──。

 このころは、源氏は左大臣邸によくいるようになった。

 あの伊予の若妻のことが忘れられず、たびたびぼんやりし、側付きの女房などがいろいろと言い合っているようだ。

 妻である葵の上は、最低限の妻としての仕事をこなすばかりで、後は奥に下がってしまった。

 あれから、あの女とは文さえも交わしていない。

 交わせるはずもない。

 それほどまでには、源氏は大胆にはなれなかった。

 自分のことだけならば何ともなろうが、あの「なよ竹」のような若妻のことを思えば、変な噂がたつようなことはしたくない。

──あの女は、どんなに思い悩んでいることだろう──。

 女のか弱げな様子を思い出せば、哀れにさえ思えてくる。

──あの女が悩んでいることは、私との不実があったことなのか──。

──それとも、あの夜のことが、不実であったことなのか──。

 あの女にとっては、源氏が再び自分に近づくことは許されないことなのかもしれない。

 本当にあの女のことを思えば、もう会わないほうがいいのだろう。

 だが、源氏は自分の思いを抑えられなかった。

──もう一度──中の品の女よ──。


帚木(35)

 源氏は、思い悩んだあげく、紀伊の守を左大臣邸に呼んだ。

 紀伊の守が、いつかのように、早速訪れる。

 源氏の前で畏まり、方違えの件でなにか落ち度があったのかときがきではないようだ。

「今日は他でもない。

 卿の邸に、故衛門の督の末の子がいたよな。

 『小君』といったっけ?

 君の継母にあたる人の弟。

 あの子を私に預けないか?

 可愛らしい子だったし、頭も賢そうだ。

 私の側に仕えさせて、後々には私が後見となって殿上童として、参内させよう。

 あれほどの子を埋もれさすのは忍びないからね。

 故衛門の督も、そう望んでいたのだろう?」

 と、源氏は言ってのけた。

──偽善だな──。

 そんなことは、十分承知していた。

 あの小君という子供を自分は、自分の下心のために利用しようとしているのだ。

「恐れ多いことです。

 有り難い仰せですが、私の一存では決めかねます。

 小君の姉である義母に、その仰せをお伝えいたしましょう。

 きっとすぐに承知することでしょうが……」

 不意に女のことが話にあがり、どきりとしたが、紀伊の守に深意はないようだ。

「その小君の姉──君の継母だが──子を……君の義理の弟を、伊予の介との間にはもうけているのか?」

 何気なく──そう何も深意がないが如くに──源氏は訊いた。

「そういうことはございませんね。

 ここ二年ばかり、結婚してからというもの、あの継母のほうも

『入内を望んだ父上の意向とは違ってしまった』

 と思い嘆いておるようでして。

 伊予の介も、継母のそういう所を不満に思っていて、大切にはしていますものの……いわゆるそういう意味での夫婦仲はうまくいっていないと聞いております。」

「気の毒にな──」

 そう言ったことが、女についてのことであるのか──源氏自身も分からない。

「相当な器量のよい女性だとの評判だけれど──本当のところは、美しいのかい」

 源氏は、何も知らぬかのように訊いた。

「そうですね。

 悪くはないのでしょう。

 夫婦仲が良くないにも関わらず、父の伊予の介が義母に暇を出さないのは、そういうことがあるからではないですか?

 義母のほうも私に対してもよそよそしい態度ですし、継母と継子との仲がいいのは、父子の仲違いのもとになると昔から申しますから、私もよくは知らないのですが──」

 紀伊の守は、ため息まじりにそう言った。

 源氏は、正直安心していた。

 この男が、自分と伊予の若妻との仲に気づくことはないだろう。

 もし、知っていてこんなふうに話すのなら──それもそれで安心であった。

──よし──。

 源氏は、不埒に呟いた。



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