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帚木(27)

 伊予の介は、その呼ばれ名のとおり、伊予の国の「介」──つまり地方行政の次官である。

 つまりその歳になっても「介」の地位しか手に入れることのできなかった──息子には、紀伊の「守」──つまり長官として既に追い抜かれている──。

 息子の任地である紀伊国よりも遠く、倍以上の日数を船に揺られなければ辿り着けぬ「辺境」の──しかも「介」でしかない。

 国主である「守」というのは「おいしい」役職である。行政長官としてだけではなく、司法さえも手中に収め──そして何よりも租税の徴収権を一手に引き受けている。

 だからこそ「おいしい」のだ。

 租税率に僅かな水増しを加え、着服する。

 豊かな国であればあるほど、自分の懐に転がり込む金も多くなる。

 無論、合法的なこととはいえぬ。

 しかし、司法──時には軍事さえも牛耳っているから、何人も文句は言えない。

 中央にさえ、ばれなければよいのだ。

 いや、ばれたとしても、その人脈金脈を以て、もみ消せばそれでよい。

 「それさえ」もできない無能者に国主を務める資格はない。

 財を貯え──財を育て──その財力を基に中央政界へとのし上がる。

 財力にものを言わせ、朝廷に金品、資本を、提供し、中央への「貢献度」を上げ、その「貢献度」の有無、多少によって中央の官職を得るのだ。

 体のいい「売官制度」でしかないが、それを問題にする者はいない。

 だからこその「平安」ではないか──。

 そして、伊予の介は、それさえもできないのだ。

 息子である紀伊の守は、未だ若く、また、その若さで「守」であるから、彼の手腕によってはそれなりの栄達も叶おう。

 財力と人脈を最大限に利用し、「男」としての地位を上げることも可能である。

 しかし、伊予の介は既に年老い、しかも「介」でしかない。

──これ以上、上ることの出来ぬ男──。

 そして、そんな男の「若妻」となってしまった女は──。

 上ることを──少なくとも上ることの機会が与えられることを──約束されていた女が、そんな男の後妻におさまるなど──。

──女は──自分の運命をやすやすと受諾しているのか──?

 源氏は意地悪く想像する。

──女よ──その不満を──その不安を──汝は、その「内」に閉じ込めていられるのか──?

──この私を前にしてもなお──。

──私が──試してやろう──。

「男と女の仲っていうのは、どうも分かりづらいものだね」

 年下の源氏が、大人ぶってそう呟いたのを、紀伊の守はどう受け取ったろう。

「私の継母である女と父との縁談も、突然湧いてでてきたものですから、世の中、そういうものでございましょう。

 今も昔も『定まりきった』ことなどないのかも知れませぬ。

 それに、そういうのでも特に『女の宿世』というのは『浮かびたる』というものだからこそ、趣があるものでしょう」

 紀伊の守は、口に出してはそう言った。

「伊予の介は、その若妻をさぞや大切にしているんだろうね。逆に『ご主人さま』って感じじゃないの」

「それはもう。おっしゃるとおり、傍から見ていると『自分のご主人』と考えているんじゃないかと思えますよ。

 実の父ながら……いや、実の父だからでしょうか、『好色がましい』と……。

 私をはじめ、伊予の介の子は皆、この婚姻を承知したわけではあるませんし」

 紀伊の守が苦笑する。

「まあ、しかし、あの伊予の介が、その若妻を、いかにも『似合っている』っていう、今風の君達のような若者に下げ渡すとも思えないね。

 かの介は、結構『いける男』っていうもっぱらの評判じゃないか」

 と、源氏は笑った。

「父も、今は任地の伊予国に赴いておりますから、今頃何をしていることやら……」

 紀伊の守も肩をすくめるように苦笑する。

「──で、その若妻、どこにいるの?」

 源氏が、さりげなく訊く。

 伊予の介の邸での凶事がおもわしくなく、その家の者たちがこの紀伊の守の邸に来ているというのだから、その若妻もこの邸にいるはずだ。

「たいていの者は召使の住む『下屋』に下げさせましたが──全部は下がれないでいると思います。下屋は狭いところですから──」

 源氏のさりげない問いに、紀伊の守はさりげなく答える。

 紀伊の守は、源氏の言わんとしていることを──源氏は紀伊の守が言わんとしていることを──正確に把握していた。

──中の品の女が──いる──。

 源氏は表情も変えずに、ほくそ笑んだ。


帚木(28)

 酒がまわったのか、供人たちは、源氏のいる廂間の周囲の濡縁である「簀子」で、皆、寝始めていた。

  寝殿は、最も内側に、周りを格子に仕切られた「母屋」と呼ばれる部屋があり、その外側を囗型状に囲んだ細長い「廂間」という部屋があり、いちばん外側を「簀子」と呼ばれる濡縁に囲まれている。

  静寂のなかに、水の流れだけが涼しい。

 だが、帯や紐を緩めても、源氏は眠りにつくことができなかった。

「虚しい独り寝か……」

 そう思っているとますます目が冴えてくる。

「水でも──」

 そう思い立ち上がると、東半分のこちら側と西半分とを分けている襖障子の向こうから──そう、少し離れた北西の方から人の気配がする。

──まあ、人のいるのは当たり前か──。

 そう思い、

──あの若妻か──?

 その根拠のない直感を、源氏は信じたくなった。

──もし、そうなら──おもしろい──。

 魅かれるように起き上がり、そっと、襖障子に隔てられた東半分の、廂間から母屋に移り、襖障子に聞き耳を立てた。

 廂間と違って風も届かず暑さが気にならないではなかったが、人の気配は近くなる。

 どうやら、西側の母屋に誰かいるらしい。

  夕方に紀伊の守に紹介された、伊予の若妻の弟という少年──紀伊の守は「小君」と呼んでいただろうか──の、幼い、よく通る声が聞こえてきた。

「ねえ……もし……何処にいるの……?」

 小君の、子供らしい不安げな、抑えた、それでいて可愛らしい声が聞こえてくる。

「ここにいるわよ……。

 客人は、もうお眠りになったのかしら。

 どんなに近くにいらっしゃるのかって思ってたけど、結構離れておられるようね……」

 女の声がする。

 すでに寝ていて小君の声で起きたのだろう、けだるそうな調子の声が、小君の声によく似ている。

──やはり──。

 源氏は確信した。

──小君の姉──伊予の若妻か──。

──汝はそこに居るのか──

──中の品の女──。

 源氏は、音もたてずに立ち上げる。

「東側の廂間で御眠りになってるみたいですよ。

 夕方、世間の名高い御姿を拝見したけれど……ほんと、すっごくかっこいいんだよねぇ」

 と、小君が話している。

 小声で言っているつもりらしいが、興奮していて声が高い。

 それに答える女も、寝ぼけていて声の調子が大きく、障子一つ隔てただけの源氏に気づいていない。

「昼間の明るいときだったら、覗いてでも拝見するのだけれど……」

 いかにも眠たげな女の声が、源氏の癪にさわった。

(もっと気を入れて小君の話を聞いて欲しいもんだ……私はその程度の男か……?)

 と、独りでむくれている。

「僕、寝殿の端っこで寝ておくよ……今日はほんと疲れた」

 小君は場所を移るために、明かりをもって去っていったようだった。

「……中将は何処に居るの?

 周りに誰もいないから、ちょっと怖いわね……」

 先程と変わらず、障子向こうの北西のほうから、伊予の若妻の声が聞こえる。

 「中将」とは、伊予の若妻の側付の女房の呼び名であった。

──私がこんなに近くにいるではないか──近衛の『中将』たる私が──。

 源氏のこの世のものとも思えぬ美しい瞳が、妖艶な光を放つ。

「中将なら、下屋にお湯を使いに下がっておられて、『すぐに帰って参ります』ってことでしたけど……」

 母屋の周りにある廂間から、他の女房たちが答えた。

──女は──そこに臥している──

──ただ独りで──。


帚木(29)

 すぐに、全ての者が──源氏以外の全ての者が寝静まった──。

 女との間を遮っている襖障子に掛かっている掛け金を外し、試しに襖障子を引いてみれば、何の抵抗もなく開いてしまった。

──向こう側の掛け金が掛かっているものだと思っていたが──。

 女どもは、予想以上に不用心であった。

──それとも──。

 襖障子を開けると、すぐ目の前に几帳が立ちはだかっていた。

 几帳の向こうには、芯を押さえた灯が仄かに立っているだけで暗いが、闇に慣れた源氏には、それで充分だった。

 脚の付いた唐櫃のような箱がそこかしこに置かれ、足元がごたごたしている。

 静かに、音もたてず、廂間にいる女房たちに気づかれぬよう──しかし、女には分かるように、源氏はその中を踏み分けていく。

──女が──いた──。

 伊予の若妻であろうことは一目で分かる。

 西側の母屋に独り、小柄な感じで臥し──そして、美しい。

 ほのかな明かりに浮かぶその寝顔は、かつては入内を目指した女の、美しさをもっていた──。

 源氏は伊予の若妻の横にしゃがむと、女の上にかけてある煩わしい衣を傍に押しやってしまう。

 夏の最中、若妻の上にかかる衣は少なく、それを押しやると身につけた薄い衣は暑さのために艶めかしくはだけ、女は裸同然になってしまった。

 女がやっと、はっと気づく。

 足音には気づいていたものの、その方向がはっきり分からず、それは女房の中将が帰ってきたのだと思っていたのだ。

「『中将』をお呼びになっておられましたので──。

 貴女のことを、人知れず御慕いしていた甲斐がございました」

 女は何が起こったか分からず、反射的に上体を起こしたが、源氏がすぐに女の上体を後ろから抱きすくめ、伊予の若妻の動きを止めてしまった。

 あまりの出来事に、さすがに目を覚ましたのだろう。

──そして、気付く──。

──今夜、この邸にいる男の『中将』と言えば──近衛の中将──かの光君しかおらぬではないか──。

 何かに押さえつけられたような衝撃が伊予の若妻の体中を走ったことを、抱きすくめる女の震える両肩と汗のにじむ首筋から、源氏は知った。

「や……」

 怯えたように、女は初めて声を出したが、後ろから抱きすくめる源氏の袖衣が女の口を塞ぐようになっていて、人の耳に届くものではなかった。

「不意に思いついた出来心でこんな事をしているのだと、お思いになっても致し方のないことですが、私のこの決意は、そんな出来心などのようなものではありません。

 長年、貴女を御慕い申し上げておりました私のこの思いを、貴女に直接申し上げたくて、こうして我が身を省みず参上した次第です。

 私が、こうして貴女とお近づきになる機会を、今か今かと待っておりましたこの苦心からも、私の貴女への思いが、決して気まぐれで浅はかなものではないことを、聡明な貴女なら分かっていただけるはずですが──」

 源氏はもの柔らかに──嘘をつく。

──鬼神さえも感じ入ってしまうほどの美しい光君が──自分を抱きすくめている──しかも、これまでに感じたことのない優しさで──。

 その事実と、また自分のこの裸同然で男に抱きすくめられている状況を考えれば、むやみに、

「ここに……誰か人が」

 などと騒ぎ立て、不用意に周りの者を起こすこともできない。

 伊予の若妻は、心内侘しく、困惑の色を隠せない。

(──このようなあるまじきことを──これでは不倫──そのようなあさましいこと──)

「お……お人違いでございましょう……?」

 伊予の若妻は、それだけをやっと言葉にし、源氏の腕から抜け出そうとするが、その女性的な源氏の腕は思いのほか力強い。

 消えてしまいそうほどに取り乱した女の様子が、痛々しいほど可憐で、

──いい──。

 源氏は、女を抱くその腕に力を込めた。

「間違えるはずがありましょうや?

 これほどの貴女への思いを道しるべとしているのに……。

 この私の思いをお疑いですか──?

 そんなに好色めいたことをしそうに見えますか?

 先程から、私のほうをご覧になってくださらないのに──。

 私はただ、この思いを貴女に聞いていただきたいだけ……」

 そう──そして──貴女が欲しい──。


帚木(30)

 源氏は、そのあまりに小柄な女を軽々抱き上げてしまう。

 女は拒絶する暇もない。

 抱き上げられた伊予の若妻は、薄明かりのなかに初めて、源氏の顔を見た。

──何と──美しい──。

 源氏の芳顔に見入ってしまっている自分に気付いていたが、その視線を源氏から離すことができない。

 衣のはだけた裸同然の淫らな姿も源氏に見つめられている今では──。

 快く体の局所が熱くなるのを感じながら、しかし、女の理性がその思考を現実に引き戻した。

──私は何を──いけない──光君だからこそ──。

 女の思いを知ってか知らずか、源氏は女を抱き抱えたまま向きを変えた。

 源氏は自分が出てきた障子から、東側に女を連れ出そうとした、まさにその時、さきほど伊予の若妻が「中将」と呼んだ女房が帰ってきたようだった。

「これ」

 源氏は、大胆にも中将を呼んだ。

 中将も変に思ったに違いない。美しい声ではあるが──男の声なのだから。

 今まで明るい所にいたのだろう、薄明かりしかない部屋のなかを手探るように歩いてくる。

 そして、源氏の着物の薫りが顔にくゆるほどになって初めて、事の重大さに気付いた。

 目の前に、自分の主人を抱き抱えた男が──その美しさや衣装から一目で世にも名高い光君と分かる男が立っているのだから──。

 思いがけない出来事に、

「これは……どういう……え……」

 動揺するばかりで、言葉が出ない。

 相手が並の男ならば、女ながらにも手荒に力ずくでも主人を取り返しもしよう。

 しかし、ここに主人を抱いているのは、かの光君なのだ──。

 かの光君が──。

 ただでさえ人に知られては困るもの──まして──。

 中将のあわてぶりも意に関せず、源氏は、東側に伊予の若妻を連れていこうと歩きだす。

 中将も、他にすべきことを思いつけず、ただその後をついていこうとすると、源氏は平然と寝所へと足早に行ってしまう。

 それについていこうとする中将の前に、源氏は立ちはだかるように障子を引き立て、中将の動きを制し、西側に戻るよう命じた。

「夜明けになったら、お前のこの女主人を迎えに参れ」

──それまでは、私のものだ──。

 源氏は、女主人を抱いて、闇の中へと消えてしまった──。


帚木(31)

──源氏の捨て台詞を、中将はどう受け取ったろう──。

 伊予の若妻は、そう思う自分が馬鹿げてみえた。

──間違えようがないではないか──

──男が女を抱きかかえ「夜が明けたら」などと言うのを聞いて、他に何と解釈しよう──。

 そう思うと死ぬほど切なく、汗を流すほどに気分も悪くなる。

 女の肌に触れた源氏の手に汗が伝わり、その流れを追うように動く源氏の指に、女は過敏に反応した。

 そんな女の様子が愛おしい。

 源氏は──どこからそんな言葉が生まれてくるのか──次々と優しい言葉を女にかける。

 女は、源氏のその美しい声と優しい言葉に、感じ入り、身を任せてしまいそうになるのを、必死に堪えていた。

 気を緩めれば、そのまま自分から源氏の首に腕を回してしまいそう──。

──私が──光君などと──。

 その思いが、女にはまだ強い。

「現実とも思えません。

 このような下賤の私ですが、このような事をなされた貴方様のお気持ちを、どうして『あさはかなこと』と思わずにおれましょうや。

 私のような身分の者には、その身分に相応しい『際』というものがあります。

 ですから、貴方のような方と──」

 源氏の我を通した行為に、女は困惑していた。

──伊予の若妻となった自分が光君と関係をもったとなれば──。

──そして、それが、夫の伊予の介や世間に知られるようなことになれば──。

 そう思うと、この源氏の情の無いなされ様が悲しい。

 そして、源氏はそんな女の様子が愛おしく、さすがに引け目を感じた。

 そんな女を──そして自分を慰めるように、源氏は言の葉を紡ぎだす。

「そういう『身分の違い』など、私には分かりません。

 こんなふうに女性に思いの丈を伝えるのなど、初めてなのだから。

 それをかえって、そこら辺の浮気者と同じように思われるのなんて……ひどいですよ」

 床に寝かせた女の頬に、いたわるように指先で触れる。

「私の噂なら、今まで何かとお耳に入っているでしょう?

 ならばご存じのはずです。
 私が今まで『何が何でも』と無理に好色な振る舞いをしたことなどなかった、と──

 そう、『何が何でも』と思わせる女性などいなかった──。

 でも、貴女は違う。

 何かの前世からの因縁でしょうか──本当に、こうして貴女に非難されても仕方のない行為をしてしまうほどの狂おしいこの思いを、自分でも不思議で、どうすることもできない──」

 源氏は、真面目にいろいろと話すが、女はなかなか心を開かなかった。

 或いは──おそらく──女は源氏の嘘を見破っていたのだろうか──。

──『何が何でも』と思った女が──狂おしいほどに思った女が──自分が初めてなどではないことを──。

──伊予の若妻である自分などよりも、もっと以前から──もっと狂おしく思っている女性が、源氏の心の奥にいることを──。

──自分が、「中の品の女」という、只の「人身御供」でしかないことを──。

──どうして私は──。

 伊予の若妻は悔やむ。

──どうして私は──光君の姿を見てしまったのだろう──と。

──あの姿を──あの神々しいまでに美しい御姿を──。

──あの姿さえ見なければ──もっと強く拒むこともできように──。



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