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帚木(25)

 源氏の供人たちは、渡殿の下から湧いている泉を見下ろすところに腰掛け、酒を飲み交わし、すっかり出来上がってしまっている。

 邸の主人である紀伊の守などは、源氏やその供人に出す御馳走の用意に、文字どおり「奔走」していた。

玉垂れの 小瓶を中に据ゑて あるじはも や さかな求ぎに さかな取りに こゆるぎの 磯の若布 刈り上げに
 という風俗歌を、まさに地でいっている。

「昨夜の馬の頭が『中の品』について、とうとうと話していたのは、こういう程度の家柄のことを言うんだろうな──」

 そう呟く源氏は、もう一つの不埒な自分が目覚めていることをよく知っていた。

「──中の品の女か──

 ならば──」




「──この家に、気高くとまった女がいるそうですよ──」

 供人のそんな世間話に、源氏はなぜか興味を持った。

「気高くとまった女」と聞けば、自分の妻である葵の上のような女を想像してもよさそうなものだったが、不思議と負の印象はなかった。

「他人事となれば、人は寛大になれるものらしいな──」

 そんな源氏の自嘲を知る者はいない。

 その話を聞いてから、注意して耳を凝らしていれば、寝殿の西側──源氏のいる東側半分とは格子や襖障子などで仕切りがしてある向こう側から人の気配がする。

 衣擦れの音を聞く限りでは、女ばかりが集まっているようで、その衣擦れのはらはらとした音や若い女たちの声が愛らしい。

 自分たちの反対側の東側半分に源氏の一行がいることを知っていて、さすがに気兼ねしているのだろう、笑ったりしている雰囲気は、小さく、取り繕っていることが分かる。

 最初は外側の格子が開いていたようだが、紀伊の守が、

「不用意な。

 光君の御一行がいらしておられるのだから」

 と小言を言って、格子を下ろして閉じてしまった。

 外から中を覗き見る事もできなくなって、内心源氏は苦笑した。

「気がきくのか、きかないのか……」

 灯の隙間からのびる火影、襖障子の上から洩れて天上に映る灯が、なんとなく「秘密めいて」おもしろい。

「どこからか──」

 と、西側を覗き見る隙間を探すが、これといったものはない。

 しかたなく「しきり」に寄り添って声だけを聞くことにした。

 西側にいる女たちは、どうやら部屋の中央に集まっているらしい。

 ひそひそ話をしてはいるが、よく聞こえる。

 しかも源氏のことを話しているらしかった。

「ほんと、すごく真面目っぽくて、まだお若いのに、ちゃんとした奥様がおありになってるのもさ、ほんとつまんないわよね」

「けどさ、そういう『お忍び』のところもあって、それなりにお通いになってらっしゃるそうよ」

「じゃあ、わたしも可能性ある?」

「だめだめ、絶対に私」

 などと笑っている女たちの話を聞くにつけても、源氏としては藤壺への思いを世間に見透かされていそうで、胸をどきりとさせた。

──そんなはずはない──

 源氏には分かっている。

──この思いを知っているのは──私だけ──と。

──あの人でさえ、分かってはおられないかも知れぬ──と。

 しかし、もしもここで、その「秘密」を女たちが噂していたら──。

──私はどう思うだろう──。

──私はどうするだろう──。

──私はどうすべきだろう──。

──私は──。

 源氏が思いを巡らせるうち話は変わり、別段面白くもない女の世間話になっていて、源氏は途中で聞くのを止めてしまった。

 話を聞くのを止める直前、再び源氏の話に戻った。

 式部卿宮──世間では『朝顔宮』とよんでいるが──に、源氏が送った歌をちょっと細部を間違えたまま女たちは噂しあっていた。

 余裕ぶって歌をうたいたがり、しかも間違っている──

 源氏は「世間の女」に幻滅した。


帚木(26)

 紀伊の守がやって来て灯籠の数を増やし、また、燈台の芯を引き出して、灯を明るくする。

 間食として、菓子や果物を持ってきた。

「『帷帳』のほうは用意できているの?

 そちらのほうの気配りがないようじゃ、興冷めもいいところだろう?」
 
 源氏が意地悪く冗談を言った。

──「あちら」のほうの用意はできているんだろうな──?、と。

  自分と葵の上との婚礼のときに吟じられた、

我が家は  帷帳も垂れたるを 大君来ませ 婿にせむ 御肴に 何よけむ あはび さざえか 石陰子よけむ

 という下世話な歌にわざと準えてみたのだ。

「何よけむ──どんなことがお気に召すものやら、小生の身では分かりかねますので……」

 と、紀伊の守はかしこまって真面目ぶって答えて、肩すかしになってしまった。

 しかもちゃんと「我が家は──」に準えて。

──なかなかやる──。

 紀伊の守はすました顔で、そこに控えていた。




 邸には何人か子供がいた。

 紀伊の守の子供が可愛らしい様子で、ちょこんと座っていた。

 たしか以前、見習いのために特に殿上の間に上がってきたときに見かけたことがある。

 遠くのほうには伊予の介の子、つまり紀伊の守の幼い弟も見える。

 そういう多くの中に、特に上品な様子の、年頃は十二、三の少年がいた。

──少年……だろう──?

 と、源氏はその衣装によって認識するしかない。

 その少年の顔は少女っぽく、愛らしい。

 軽く化粧をさせてみたいほどであった。

「あれは、どこの子?」

 源氏が紀伊の守に訊いた。

「ああ、『小君』のことですか──

 ご存じじゃないですか?つい最近亡くなった衛門の督を。

 その衛門の督の末の子でして。

 衛門の督もたいそう可愛がっておられたようですが、その衛門の督もすでになく、その後、あの子の姉が、私の父伊予の介に嫁ぐことになりまして、その関係でこうして仕えております。

 頭の良い子で、私の目から見ても見込みがございなす。

 本人も殿上に上がって殿上童になることを望んでおるようですが、いかんせん、父であった衛門の督も今は亡く、私では後見としては役不足でして。

 たやすくは出仕できませんで……」

 紀伊の守は、『小君』と呼んだ少年のほうを見つめながら、そう、もらした。

「可哀相に……ん?

 ということは、あの子の「姉」が、君の『継母』になるわけか?」

「さようです」

 紀伊の守の顔に、複雑なものが浮かぶ。

(そうか……)

 源氏は、自分の記憶の中から或る事を引き出した。

 故衛門の督の娘といえば未だ二十代前半──紀伊の守とそう変わらぬ歳であるはずだ。

 その娘が伊予の介の後妻の一人となっていたとは……。

「不相応な歳の母親をもつことになったもんだね。

 たしか、衛門の督の生前、その娘の入内の話があったんじゃなかった?

 そういえば、帝がその入宮の話を聞いていて

 『衛門の督が娘を入宮させたいと、前にちらりと話していたことがあったけれど、どうなっているんだろう』

 と、いつぞやおっしゃっておられたよ」

 源氏は口ではそう言った。

「私もその話は耳にしたことはありますが……。

 御覧のとおり、このようになっております」

 紀伊の守は源氏が考え、飲み込んだ言葉を察しているようだった。

「衛門の督」といえば、六衛府の一つで宮中の警備にあたる衛門府の長たる役で、従四位下相当の者があたる。

 いわゆる殿上に上ることのできる「殿上人」で、宮廷社会全体から見れば「中の上」といったところだろうか。

 しかし、もし、その娘が入内を果たし、帝の寵愛を受けるとなれば、その父たる衛門の督は、その上の地位を──「貴」なる地位を──保証されたはずである。

 事実、衛門の督はそれを望み、願い、思い描いて、娘の入内の話を帝にしていたのだろう。

 そして、その娘の後見をしてやれるほどの地位に、衛門の督は辛うじて「いた」のだ。

 そして、栄達への高き段に手が届いていた衛門の督は──その途上、この世を去った。

 娘は、自分の父という存在だけでなく、約束された輝かしい将来も、己の人並みの安定した生活さえも無くしてしまったのだ。

 壮年になって、実力では従四位下程度になるのが精一杯であった程度の男の親族が、その娘を入内させるだけの後見力をもっているはずもない。

 入内の話が立ち消えになったのも、その頃だ。

 そして娘は、自分と幼い弟、そして父や自分に仕えていた少数の供人、女房の生活のために、父娘ほども歳の離れた──自分と同世代の子供さえもいる伊予の介の後妻として嫁いだのだ──。

 源氏の母と似た境遇にありながら、無理を通して入内した今は亡きかの更衣とは違う道を歩み、孫さえもいる老人と婚姻することになり、自分と同世代の息子ができてしまった女は──どのような思いを抱いているのだろう。

「後々には入内し、帝の下で──」と願われ、望まれていた「盛り」な女が、「伊予の若妻」と呼ばれるようになってしまった、その思いは──。

 源氏の供人が「気高くとまっている女がいる」と言っていたのは、この女のことで──それも分かる気がする。

「女」として最高の地位を手に入れる寸前にまでいった若き女が、父の死によって後見を無くし、父娘ほども歳の離れた好色な老いた男に──「伊予の介」などという、実父よりも数段格下の地位に甘んじている年老いた男の下に嫁がねばならないとは──。

──全ては生活のため──生きるため──。

──そう割り切れるものでもあるまいに──。

 源氏の思いに──しかし、同情の念は少なかった──。


帚木(27)

 伊予の介は、その呼ばれ名のとおり、伊予の国の「介」──つまり地方行政の次官である。

 つまりその歳になっても「介」の地位しか手に入れることのできなかった──息子には、紀伊の「守」──つまり長官として既に追い抜かれている──。

 息子の任地である紀伊国よりも遠く、倍以上の日数を船に揺られなければ辿り着けぬ「辺境」の──しかも「介」でしかない。

 国主である「守」というのは「おいしい」役職である。行政長官としてだけではなく、司法さえも手中に収め──そして何よりも租税の徴収権を一手に引き受けている。

 だからこそ「おいしい」のだ。

 租税率に僅かな水増しを加え、着服する。

 豊かな国であればあるほど、自分の懐に転がり込む金も多くなる。

 無論、合法的なこととはいえぬ。

 しかし、司法──時には軍事さえも牛耳っているから、何人も文句は言えない。

 中央にさえ、ばれなければよいのだ。

 いや、ばれたとしても、その人脈金脈を以て、もみ消せばそれでよい。

 「それさえ」もできない無能者に国主を務める資格はない。

 財を貯え──財を育て──その財力を基に中央政界へとのし上がる。

 財力にものを言わせ、朝廷に金品、資本を、提供し、中央への「貢献度」を上げ、その「貢献度」の有無、多少によって中央の官職を得るのだ。

 体のいい「売官制度」でしかないが、それを問題にする者はいない。

 だからこその「平安」ではないか──。

 そして、伊予の介は、それさえもできないのだ。

 息子である紀伊の守は、未だ若く、また、その若さで「守」であるから、彼の手腕によってはそれなりの栄達も叶おう。

 財力と人脈を最大限に利用し、「男」としての地位を上げることも可能である。

 しかし、伊予の介は既に年老い、しかも「介」でしかない。

──これ以上、上ることの出来ぬ男──。

 そして、そんな男の「若妻」となってしまった女は──。

 上ることを──少なくとも上ることの機会が与えられることを──約束されていた女が、そんな男の後妻におさまるなど──。

──女は──自分の運命をやすやすと受諾しているのか──?

 源氏は意地悪く想像する。

──女よ──その不満を──その不安を──汝は、その「内」に閉じ込めていられるのか──?

──この私を前にしてもなお──。

──私が──試してやろう──。

「男と女の仲っていうのは、どうも分かりづらいものだね」

 年下の源氏が、大人ぶってそう呟いたのを、紀伊の守はどう受け取ったろう。

「私の継母である女と父との縁談も、突然湧いてでてきたものですから、世の中、そういうものでございましょう。

 今も昔も『定まりきった』ことなどないのかも知れませぬ。

 それに、そういうのでも特に『女の宿世』というのは『浮かびたる』というものだからこそ、趣があるものでしょう」

 紀伊の守は、口に出してはそう言った。

「伊予の介は、その若妻をさぞや大切にしているんだろうね。逆に『ご主人さま』って感じじゃないの」

「それはもう。おっしゃるとおり、傍から見ていると『自分のご主人』と考えているんじゃないかと思えますよ。

 実の父ながら……いや、実の父だからでしょうか、『好色がましい』と……。

 私をはじめ、伊予の介の子は皆、この婚姻を承知したわけではあるませんし」

 紀伊の守が苦笑する。

「まあ、しかし、あの伊予の介が、その若妻を、いかにも『似合っている』っていう、今風の君達のような若者に下げ渡すとも思えないね。

 かの介は、結構『いける男』っていうもっぱらの評判じゃないか」

 と、源氏は笑った。

「父も、今は任地の伊予国に赴いておりますから、今頃何をしていることやら……」

 紀伊の守も肩をすくめるように苦笑する。

「──で、その若妻、どこにいるの?」

 源氏が、さりげなく訊く。

 伊予の介の邸での凶事がおもわしくなく、その家の者たちがこの紀伊の守の邸に来ているというのだから、その若妻もこの邸にいるはずだ。

「たいていの者は召使の住む『下屋』に下げさせましたが──全部は下がれないでいると思います。下屋は狭いところですから──」

 源氏のさりげない問いに、紀伊の守はさりげなく答える。

 紀伊の守は、源氏の言わんとしていることを──源氏は紀伊の守が言わんとしていることを──正確に把握していた。

──中の品の女が──いる──。

 源氏は表情も変えずに、ほくそ笑んだ。


帚木(28)

 酒がまわったのか、供人たちは、源氏のいる廂間の周囲の濡縁である「簀子」で、皆、寝始めていた。

  寝殿は、最も内側に、周りを格子に仕切られた「母屋」と呼ばれる部屋があり、その外側を囗型状に囲んだ細長い「廂間」という部屋があり、いちばん外側を「簀子」と呼ばれる濡縁に囲まれている。

  静寂のなかに、水の流れだけが涼しい。

 だが、帯や紐を緩めても、源氏は眠りにつくことができなかった。

「虚しい独り寝か……」

 そう思っているとますます目が冴えてくる。

「水でも──」

 そう思い立ち上がると、東半分のこちら側と西半分とを分けている襖障子の向こうから──そう、少し離れた北西の方から人の気配がする。

──まあ、人のいるのは当たり前か──。

 そう思い、

──あの若妻か──?

 その根拠のない直感を、源氏は信じたくなった。

──もし、そうなら──おもしろい──。

 魅かれるように起き上がり、そっと、襖障子に隔てられた東半分の、廂間から母屋に移り、襖障子に聞き耳を立てた。

 廂間と違って風も届かず暑さが気にならないではなかったが、人の気配は近くなる。

 どうやら、西側の母屋に誰かいるらしい。

  夕方に紀伊の守に紹介された、伊予の若妻の弟という少年──紀伊の守は「小君」と呼んでいただろうか──の、幼い、よく通る声が聞こえてきた。

「ねえ……もし……何処にいるの……?」

 小君の、子供らしい不安げな、抑えた、それでいて可愛らしい声が聞こえてくる。

「ここにいるわよ……。

 客人は、もうお眠りになったのかしら。

 どんなに近くにいらっしゃるのかって思ってたけど、結構離れておられるようね……」

 女の声がする。

 すでに寝ていて小君の声で起きたのだろう、けだるそうな調子の声が、小君の声によく似ている。

──やはり──。

 源氏は確信した。

──小君の姉──伊予の若妻か──。

──汝はそこに居るのか──

──中の品の女──。

 源氏は、音もたてずに立ち上げる。

「東側の廂間で御眠りになってるみたいですよ。

 夕方、世間の名高い御姿を拝見したけれど……ほんと、すっごくかっこいいんだよねぇ」

 と、小君が話している。

 小声で言っているつもりらしいが、興奮していて声が高い。

 それに答える女も、寝ぼけていて声の調子が大きく、障子一つ隔てただけの源氏に気づいていない。

「昼間の明るいときだったら、覗いてでも拝見するのだけれど……」

 いかにも眠たげな女の声が、源氏の癪にさわった。

(もっと気を入れて小君の話を聞いて欲しいもんだ……私はその程度の男か……?)

 と、独りでむくれている。

「僕、寝殿の端っこで寝ておくよ……今日はほんと疲れた」

 小君は場所を移るために、明かりをもって去っていったようだった。

「……中将は何処に居るの?

 周りに誰もいないから、ちょっと怖いわね……」

 先程と変わらず、障子向こうの北西のほうから、伊予の若妻の声が聞こえる。

 「中将」とは、伊予の若妻の側付の女房の呼び名であった。

──私がこんなに近くにいるではないか──近衛の『中将』たる私が──。

 源氏のこの世のものとも思えぬ美しい瞳が、妖艶な光を放つ。

「中将なら、下屋にお湯を使いに下がっておられて、『すぐに帰って参ります』ってことでしたけど……」

 母屋の周りにある廂間から、他の女房たちが答えた。

──女は──そこに臥している──

──ただ独りで──。


帚木(29)

 すぐに、全ての者が──源氏以外の全ての者が寝静まった──。

 女との間を遮っている襖障子に掛かっている掛け金を外し、試しに襖障子を引いてみれば、何の抵抗もなく開いてしまった。

──向こう側の掛け金が掛かっているものだと思っていたが──。

 女どもは、予想以上に不用心であった。

──それとも──。

 襖障子を開けると、すぐ目の前に几帳が立ちはだかっていた。

 几帳の向こうには、芯を押さえた灯が仄かに立っているだけで暗いが、闇に慣れた源氏には、それで充分だった。

 脚の付いた唐櫃のような箱がそこかしこに置かれ、足元がごたごたしている。

 静かに、音もたてず、廂間にいる女房たちに気づかれぬよう──しかし、女には分かるように、源氏はその中を踏み分けていく。

──女が──いた──。

 伊予の若妻であろうことは一目で分かる。

 西側の母屋に独り、小柄な感じで臥し──そして、美しい。

 ほのかな明かりに浮かぶその寝顔は、かつては入内を目指した女の、美しさをもっていた──。

 源氏は伊予の若妻の横にしゃがむと、女の上にかけてある煩わしい衣を傍に押しやってしまう。

 夏の最中、若妻の上にかかる衣は少なく、それを押しやると身につけた薄い衣は暑さのために艶めかしくはだけ、女は裸同然になってしまった。

 女がやっと、はっと気づく。

 足音には気づいていたものの、その方向がはっきり分からず、それは女房の中将が帰ってきたのだと思っていたのだ。

「『中将』をお呼びになっておられましたので──。

 貴女のことを、人知れず御慕いしていた甲斐がございました」

 女は何が起こったか分からず、反射的に上体を起こしたが、源氏がすぐに女の上体を後ろから抱きすくめ、伊予の若妻の動きを止めてしまった。

 あまりの出来事に、さすがに目を覚ましたのだろう。

──そして、気付く──。

──今夜、この邸にいる男の『中将』と言えば──近衛の中将──かの光君しかおらぬではないか──。

 何かに押さえつけられたような衝撃が伊予の若妻の体中を走ったことを、抱きすくめる女の震える両肩と汗のにじむ首筋から、源氏は知った。

「や……」

 怯えたように、女は初めて声を出したが、後ろから抱きすくめる源氏の袖衣が女の口を塞ぐようになっていて、人の耳に届くものではなかった。

「不意に思いついた出来心でこんな事をしているのだと、お思いになっても致し方のないことですが、私のこの決意は、そんな出来心などのようなものではありません。

 長年、貴女を御慕い申し上げておりました私のこの思いを、貴女に直接申し上げたくて、こうして我が身を省みず参上した次第です。

 私が、こうして貴女とお近づきになる機会を、今か今かと待っておりましたこの苦心からも、私の貴女への思いが、決して気まぐれで浅はかなものではないことを、聡明な貴女なら分かっていただけるはずですが──」

 源氏はもの柔らかに──嘘をつく。

──鬼神さえも感じ入ってしまうほどの美しい光君が──自分を抱きすくめている──しかも、これまでに感じたことのない優しさで──。

 その事実と、また自分のこの裸同然で男に抱きすくめられている状況を考えれば、むやみに、

「ここに……誰か人が」

 などと騒ぎ立て、不用意に周りの者を起こすこともできない。

 伊予の若妻は、心内侘しく、困惑の色を隠せない。

(──このようなあるまじきことを──これでは不倫──そのようなあさましいこと──)

「お……お人違いでございましょう……?」

 伊予の若妻は、それだけをやっと言葉にし、源氏の腕から抜け出そうとするが、その女性的な源氏の腕は思いのほか力強い。

 消えてしまいそうほどに取り乱した女の様子が、痛々しいほど可憐で、

──いい──。

 源氏は、女を抱くその腕に力を込めた。

「間違えるはずがありましょうや?

 これほどの貴女への思いを道しるべとしているのに……。

 この私の思いをお疑いですか──?

 そんなに好色めいたことをしそうに見えますか?

 先程から、私のほうをご覧になってくださらないのに──。

 私はただ、この思いを貴女に聞いていただきたいだけ……」

 そう──そして──貴女が欲しい──。



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