閉じる


目次

将棋小説
「四間少女」
LOVE譜
「恋の多面指し-1」
「恋の相右玉」
将棋小説
やっぱりあの銀の戦法
写真物語
「お城はあきた」
将棋短歌
将棋小説
「七割未満」
「ツクモさん、指しすぎです!」
将棋エッセイ
「駒とおむすびとペンギン」
「存在論的、将棋的」
月子のチェス日記
「チェ的」
将棋講座
「桜の激悪逆転講座」

四間少女



清水らくは

 朝七時起床。隣の部屋から父さんのいびきが聞こえてくる。洗面所に行き、顔を洗う。鏡の中には、まだ少し眠そうで、釣り目でちょっと意地悪そうな顔。
 キッチンに行き、牛乳をレンジにかける。クロワッサンを二つ、お皿に乗せる。母さんがいなくなってからは、これが日曜日の定番になった。ただ今日は、いつも一緒に食べていた兄さんがいない。
 ラジカセのスイッチを入れる。父さんは昔から「食事中にテレビを見るな」と口酸っぱく言っていた。そんなわけで我が家の食卓では、ラジオの音が流れるのが普通である。
 ホットミルクが喉からお腹を温めていく。ラジオからは「午後から雨模様でしょう」と。折り畳み傘を忘れないようにしないと。
「起きてたのか」
 びっくりして振り返る。ぼさぼさの髪をかきむしりながら、パジャマ姿の父さんが立っていた。
「今日、大会だから」
「ああ……そうだったか。何のだっけ?」
「植木鉢大会」
「ああ、あれか。頑張れよ」
 そう言うと父さんはリビングを出ていった。また寝るのだろう。
 食器を洗い、ラジカセのスイッチを切る。忘れ物がないか確認。財布の中に支部会員証が入っているかもチェック。前回忘れて割引が利かなかったのだ。
「行ってきまーす」
 誰も聞いていないとわかってても、言わないと出ていけない。
 駅までは歩いて十分。日曜の朝は本当に静かだ。途中で、青いジャージのおじさんが、私を追い抜いて行った。それ以外は誰にも会わなかった。
 無人駅の古い機械で、切符を買う。裏は白い。私以外には誰も待っていない。数分後やってきた列車にも、数人おばあさんが乗っているだけだった。
 鞄の中から、ノートを取り出す。兄さんの四間ノートは、予想以上に深い考察がされていた。単なる定跡の研究だけではなく、相手が間違えやすい手をどう咎めるか、プロは指さないがアマには有力な変化、相手心理を揺さぶる端歩のタイミングなどがびっちりと書き込まれていた。
 兄さんは小中高と全てで代表になった県内屈指の強豪だ。普段からずっと将棋のことばかりで、昔はそんな姿を馬鹿にしていた。兄さんは全国大会でほとんど勝てないことに悩んでいて、いつかベスト4ぐらいにはなりたい、とよく言っていた。全国の高校生の中でベスト4なんて大言壮語もいいことだと思ったけど、それに見合うだけの努力もしていた、と思う。
 兄さんへの見方が変わったのは、自分も全国大会へ行ってからだった。中学の女子大会、県予選で参加が私一人だったので一局も指さずに代表選手になった。最初は旅行できてラッキー、ぐらいに思っていた。けれども大会に行ってみて、一勝もできなくて、負けることの悔しさを知った。私より強い人は、私より努力しているのだとわかった。だから、私も努力した上で勝てないのかどうか知りたいと思ったのだ。
 努力は、どんどんと結果に結びついていった。地元の男子にも勝てるようになり、ついには兄さんに勝つことを目標にできるようになった。高校一年目は、まだまだ遠いと感じた。けれども秋にはいいところまで勝ち上がって、もう少しだ、そう思った。けれども、兄さんとの対戦はできなくなってしまった。春の大会にはとても間に合わないし、秋には受験生だ。
 だから私の今の唯一の目標は、トップになることだ。高校県代表。女子でそれを成し遂げた人は、あまりいないらしい。だけど、全く届かない目標というわけではない。兄さんが出れない以上、ハードルは低くなったとも言えるのだ。
 電車で約40分。そこからバスで10分。ようやく目的地の公民館に着いた。受付の前にはすでに何人か並んでいて、横には賞品の植木鉢が積み上げられていた。この大会はどこかにあるという「植木大会」に対抗して作られたのだが、半分冗談みたいなもので、植木鉢が欲しいという人はあまりいない。みんな将棋を楽しみに来るのだ。
「あ、佳乃子ちゃん久しぶり」
 受付のお姉さんが、微笑んでくれた。よく会うのですっかり顔なじみだ。
「お久しぶりです。A級の支部会員で」
「はい、頑張ってね」
 会場に入ると、いつも通りの面々が見える。一番多いのがおじさん。あとは子供たち。若者は少なくて、女性は数えるほどだ。
 いつもは兄さんと一緒なので、大会に一人で来るのは初めてだったりする。予想よりも心細かった。一人で椅子に腰かけて、詰将棋の本を開く。ノートは、何となく見られたくなかった。
 この大会はスイス式トーナメントで行われる。同じ勝数の人同士が当たるようになっていて、できるだけ細かく順位が付くようになっているのだ。負けた同士でも次の対局が付くので、実戦練習にはもってこいと言える。
 開催委員長の挨拶が終わり、対局の組み合わせが発表された。名前を呼ばれ、指定された席に移動する。私の前に座ったのは、初めて見るおじさん。こちらを確認するなり、少し目を丸くした。会場に若い女性は私一人、A級に限って言えば女性自体私だけなのだからまあ当然の反応だろう。
 振り駒をして、先手になった。
「お願いします」
 礼をして、対局が始まる。私は角道を止め、相手は右銀をどんどん出てきた。棒銀だ。最も定跡の知識が試される戦型と言ってもいいだろう。
 思い出しながらだけではなく、局面をしっかりとみて考える。これは、兄さんに教えられたことだ。相手が定跡を外した時も、流れの中で自然に対処できるように。兄さんは研究を重ねるだけでなく、臨機応変な対応でも秀でている。
 駒がどんどん交換されていく。これは振り飛車ペース。あとは気を抜かず、仕上げていくばかりだ。時間をきっちりと使い、逆転の目がない順を探す。一気に攻めなくてもいい。相手の一発狙いを慎重につぶしながら、丁寧に、丁寧に……
「いやあ、負けた」
 おじさんが頭を下げた。勝った。そのまま相手は立ち去ってしまい、感想戦はなかった。
 午前中にもう一局やるようで、勝った者同士で次の対局が組まれた。指示された席に行くと、あまり歳の変わらなさそうな男子が座っていた。なぜか、私の顔をニヤニヤしながら見ている。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「飯伏さんって言うんだね。幹太の妹さん?」
「え」
 まぎれもなく幹太は兄さんの名だ。私の方は、このにやけ男のことはまったく見覚えがない。
「……そうですけど」
「いやあ、やっぱりそうなんだ。全国大会でよく幹太とは話したんだよ」
「そうなんですか」
「今年からこっちに引っ越してきたんだ。幹太に会うの楽しみにしてたんだけど……」
「兄さん今日は来てませんよ」
「そっかあ。残念だなあ」
 ふわふわしてへらへらしているけれど、全国で知り合ったということは彼もまた全国レベルということになる。心の中で、気合のギアを一段階あげた。
「あ、俺は貴島ね。貴島伸広」
「……佳乃子です」
「かのこね。覚えた」
 きじまのぶひろ、私もその名前を覚えた。貴島が駒を振り、私の後手に。
「じゃあ、お願いします」
「はい、お願いします」
 初手から、飛車先の歩を伸ばされた。居飛車党宣言だ。そうなれば私も、気合で飛車を勢いよくスライドさせる。四間飛車で勝負。
 貴島は、するすると穴熊に囲った。四間飛車には一番多い、がちがちに固める戦法だ。当然対策も考えてある。
 貴島も慣れた道なのだろう、ほとんど時間を使わずにぽんぽんと指す。駒の持ち方が独特で、中指に乗せて半回転させるようにして駒を落とす。かっこいいとは思わないが、こなれた感じがちょっと憧れる。
 勝負所がやってきた。桂馬を跳ねるか、端歩を突くか。この後相手は攻めてくるだろうから、二つとも入れることは難しい。桂馬だと、直接中央から攻める手に厚みが加わる。その代わり終盤、端攻めが遅い。端歩だと端攻めの味はできるけど、すぐ攻めるのは断念しなければならない。
 私は、端を突いた。これは兄が得意にしていた手だ。私が居飛車側を持った時は、この手の方が嫌だった。
 ノートにも、この変化のことは詳細に書かれていた。勝ちきるのは大変だが、落ち着いて指せば、十分戦えるはず、なのだ。
 ただ、貴島は私以上に落ち着いていた。攻め急がない。ノートに書かれていない、穏やかな手を続けてきた。ここから先は完全に自力だ。ゆっくりと。じわじわと。慎重に……
 中指から、零れ落ちた歩。
 まったく読んでいない手だった。
 焦点をそっと閉じる、最も小さな駒。どの駒で取っても、瞬間形が悪くなる。すぐにどうこうなるのか、それはわからない。ただ、嫌な予感がする。どうすべきか……
 時計の音に急かされ、私は攻めの一手を放ってしまった。歩を放置したままでは、効果的にはならない、相手の思うつぼだ。貴島の、ふっと息を吐く音が聞こえた。ギアが入れ替わる音ではないかと思った。
 苦しくなった。攻め始めたら、休んではいけない。反撃されたら、穴熊の暴力は止まらなくなる。
 貴島は、間違えなかった。最善かはわからないが、悪い手は一切指さなかった。ぼろ負けになった。三手詰めになるまで指して、投了した。
「居飛車党でしょ」
 開口一番、貴島はそんなことを言ってきた。私はびっくりして何も言えない。
「何か……お兄さんの真似しようとしてる?」
「……ないです」
「ん?」
「そんなこと、ないです」
 図星だと、認めるのは難しい。特に、将棋に負けた後は。
「そっか。ごめん」
「……また機会あれば、お願いします」
 駒を直し、立ち上がった。感情が渦巻いて、爆発してしまいそうだった。ただ、はっきりと分かったことがある。貴島より、強くならなければいけない。


 白髪の数学教師が、ぼそぼそとつぶやいている。
 あの日以来、何かが変わってしまった。強く、もっと強く、兄さんよりも強く。それが私の想いだった。けれども、貴島は圧倒的な印象を私の頭の中に残していった。ただ勝つだけでなく、私の中身まで見抜いてしまった。悔しい。本当に悔しい。
 まず私がしたことは、自分のノートを作ることだった。兄さんのノートはそれ自体完成されたものだと思う。だからそこに書き加えるのではなく、自分なりの研究を独立したものとして残すのだ。
 ということを、授業中にしている。先生はまったく生徒を気にしないので、何をしていても注意されない。そして何を言っているかほとんど聞き取れないので、授業はまじめに受けるだけ損なのだ。
 定規で縦横に線を引く。81マスが出来上がれば、将棋盤の完成だ。たったこれだけの広さの中から、数えきれないぐらいの棋譜が生み出されてきた。将棋は異様に奥が深い。
「起立」
 気が付くと、授業が終わっていた。あっという間だった。
「佳乃子さあ」
「ん?」
「ずーっとなんか書いてたよね」
「うん。ちょっとね」
「将棋?」
「ま、まあね」
「テストは大丈夫?」
「あー、どうかな」
 イヨリは呆れながらも心配のまなざしを私に向けている。一年生の時は大変お世話になってしまった。私は客観的に見て勉強が得意ではない。
「でもまあ、どうせ授業聞いてもわからないし」
「何という開き直り。このままだと再試とか補講で将棋する暇とかなくなるよ」
「うー」
 イヨリはいつも現実的だ。そんな彼女に助けられることで私は何とか生きている気がする。
「計画的に、ね」
「はい」
 私の頭の中は、将棋の計画でいっぱいだ。そこに勉強をねじ込むのは大変だけれど、確かに今それを疎かにすると後々もっと大変になってしまう。
「ま、佳乃子は結局は何とかしちゃうよね。不思議と」
「底力ってやつね」
 チャイムが鳴った。次は古典、厳しい先生なのでちゃんと受けないといけない。


「きじまのぶひろ……ああ、あれか」
 いつもの病院にて。兄さんは貴島のことをあれ呼ばわりした。
「どんな人だった?」
「生意気だった。一つ下だけど」
「え……そっか、同学年か……」
「会ったのか」
「引っ越してきたんだって」
「へー。どこの代表だったかな……。対戦した時は負けたんだけど、やたら褒められて。振り飛車っぽい手がいいって」
「ふうん」
 はっきりとその光景を想像することができた。態度からすっかり先輩だと思い込んでいたが、きっと誰に対してもあのような感じなのだろう。
「やたらと馴れ馴れしかったけど、将棋はしっかりしてたかな。ベスト8とか行ったんじゃないかな」
「そっか。……勝てるかな」
 兄さんは私の顔をしばらく見つめて、首をかしげて、そして頷いた。
「頑張ればね」
「良かった」
「まあ、あいつがどれぐらい強くなったかは知らないけど。勝てない相手なんてそうそういないもんだ」
「ふふ、兄さんの全国での成績では説得力ないけどねえ」
「ははは、そっか」
 兄さんはこうしていると、とても元気そうだ。今すぐにでも退院して、将棋だってできそうな気がする。けれども父さんの様子を見る限り、そんなことはないのだ。日に日に眉間の皺は深くなっていく。私には心配させまいと何も話さないのだろうが、もう十分心配している。
「まあ、秋は出られるだろうし、俺も貴島との対戦楽しみだなあ」
「秋出るの? 受験は?」
「病院で飽きた。俺、学校行ってない方が成績伸びてるかも」
「そうかなー。私も入院した方がいいかな」
「佳乃子はどっちにしろ勉強しないだろ」
 兄さんは私のことをよく知っている。私も兄さんのことをよく知っているつもりだ。けれども今、どんな苦しみを抱き、何を解決すればいいのか、それを知らない。
 とりあえずは、できることをするしかない。こうして毎日病院を訪れること、そして、将棋をがんばること。


 ついにこの日がやってきた。
 春の大会、個人戦。連休の前半、病院に行く以外はひたすら将棋をしていた。女子高生としてはなんとも不健康な過ごし方だったけれど、後悔はない。これが私の青春だ。
 この会場に来るのも二回目。昨年は兄さんと二人で来たけれど、今年は一人。うちの高校には将棋部がなくて、私たち以外には熱心に取り組んでいる子もいない。完全アウェーだ。
「あ、佳乃子ちゃん」
 と思ったら、知り合いがいた。馴れ馴れしく名前を呼ばれて、ちょっとびっくりした。
「あ、貴島」
 同学年と知った以上、こちらも下手に出るわけにはいかない。
「いやあ、場所がわかんなくて迷った迷った。駅からこんなに歩くなんて」
「確かにここ、わかりにくいかも」
「思ったより人数多いんだね」
「そう?」
 何となく和やかな会話になってしまった。きっとこの人には緊張感を盗む能力がある。
「まあ、何人いても全部勝てばいいんだけどね」
 そう言うと貴島は、手を振りながらどこかに行ってしまった。まったくなんという人だろうか。自分が負けることなんて、ちっとも考えていないに違いない。
 集まっている人々の様子は様々だ。とりあえず参加してみるかという人もいれば、団体戦でエネルギーを使い果たしてしまったかのような人もいる。ただ、私のように個人戦だけに賭けて、気合十分の人ももちろんいる、はず。
 女子は私一人。だけど、もう慣れた。将棋というのはそういう世界だと割り切っている。ただ、相手の方はやはり意識するようで、負けたくない思いが強くなっているように見える。まあ、気持ちはわかる。
 挨拶やらなんやらが終わり、いよいよトーナメント開始。午前に二回戦まで行われ、勝ち残った八人で再び抽選というシステムだ。どのパートもだいたい三人で、私はEパート。シードになることはできなかった。
 相手は知らない人で、外見はひょろひょろとしていて、やたらときょろきょろしている。一年生で初めての参加に戸惑っているのかもしれない。
「あ、あの」
「はい」
「時計使うの初めてで……」
 大会ではデジタルの対局時計を使用する。設定はすでに済まされているが、確かに初めてではどう扱っていいのかわからないだろう。
「えっと、指したらその手で押して、10分まではどんどん時間が減っていくの。で、10分過ぎたら一手30秒で、20秒になったら声が出て1、2、って言いだして、10まで読まれたら時間切れ負け」
「あ、ありがとうございます」
 本当に分かったかは疑わしいけど、それはもう私のせいではない。慣れないうちは切れ負けなど結構してしまうのだが、それもまた勝負の要素。
「私が振るよ?」
「え、あ、はい」
 と金が五枚。私の後手になった。
 相手は飛車を三間に振ってきた。この場合はさすがに四間飛車にはしない。向かい飛車にして、じっくりと駒組みをしよう……と思ったけれど、序盤で隙ができたのでゆさぶりをかける。と、動揺したのか相手は時計を押し忘れた。指摘はしなかった。そして、指し手はもっと乱れた。一気に食い破り、そのまま勝ちきってしまった。
「負けました……」
「ありがとうございました」
 茫然、と言った感じだった。昔の自分も、こんな風だったかもしれない。悔しさとかではなくて、何が起こったのか、何が違うのかまったくわからないのだ。
 何かのきっかけで、強くなろうと思い始める。彼にもそんな時が訪れればいいけれど。
 次の一戦は知った顔だった。たまに一般大会でも見かける。それほど活躍しているイメージはないが、油断禁物。気合を入れ直して挑んだ。
 またもや後手。相手の戦法は穴熊。組み方がいい加減だったので、あっさりと作戦勝ちになり、端攻めが決まって快勝した。あっという間の出来事だった。
「……何がいけなかったっすかね」
 まだほかの対局が終わっておらず、部屋の中にその声は響き渡った。
「駒組みが……」
 それ以上は言いようがなかった。まったく序盤の勉強をした形跡はなく、教え始めたら将棋講座になってしまう。
「そうすか」
 相手も食い下がるということはなかった。勝負に執着がないようだ。
 まだ周囲はほとんど中盤だった。貴島は前回準優勝の相手との勝負。じっくりした相矢倉になっている。最近まで居飛車党だったし、こういう局面は見ているだけでわくわくする。
 当たり前だが、貴島は真剣な顔をして考えている。そして、ほとんど動かない。盤面を見つめて、時折ゆっくりと瞬きをする。そして薄く唇を空けて、息を吐き出す。とても落ち着いている。駒を持つ動作も無駄がなくて、まるで駒自身が意志を持って動いているかのようだった。
 兄さんとは違うが、強い人独特の空気感が漂っている。相手だって県内二位の強豪だが、滲み出るものだけを見ればまったく足元にも及ばない感じだ。ちょっと、衝撃を受けている。
 相手の仕掛けを、丁寧に受け続ける貴島。決してべたべたといった感じではなく、余裕をもってスマートに受け止めている感じだ。手を抜かない。気を抜かない。リラックスする。なかなかできることではない。そして対局していない時の貴島の態度から考えると、本当に別人に思えてくる。
 他の対局も見て回る。今はやりの角交換振り飛車が多い。考え方が楽なので、やってみたい気持ちはわかる。ただ、何となく好きにはなれない。急ぎ過ぎている気がするのだ。まあ、感覚的なものだけれど。
 続々と対局が終わり始める。貴島も順当に勝ったようだった。ベスト8全員が出そろったところで、抽選が始まる。私は五番目にくじを引き、「4」を引き当てた。対戦相手の名前は望月。前回三位の選手だ。
 望月は私と同学年、居飛車党で力強い指し手が印象的だ。前回の一位が卒業、二位が敗退ということで大きなチャンスだと思っているに違いない。
 貴島は6番、反対の山だ。当たるとしたら決勝戦。
「強いんじゃん」
 対局の終わった貴島は、ゆるい感じに戻っている。どこかにスイッチがあるのだろう。
「あんたこそ」
「まあ、あれは勝てる。……そういえばさ、お昼ってどうしたらいいの?」
「え、用意してないの」
「食堂とか使えるのかと思ってた」
「休みだよ。ちょっと歩いたらコンビニあるけど」
「見なかったなあ」
「裏の方」
「うーん、案内してよ」
「え、私お弁当持ってきたし、行く理由ないし」
「いいじゃん、わかった、なんかおごるよ」
「……わかった」
 なぜだか、ライバルと並んで歩くことになってしまった。そもそも男子と一緒に買い物とか、そんなこと今まで一切したことがないのだ。周囲の目が気になる。
 と思ったけれど、誰もこちらに興味はないようだった。皆決勝に向けて将棋のことを考えている、ように見える。
「やっぱ、幹太は来ないんだね」
「……兄さんは、入院してるの」
「え、そうなんだ。病気?」
「そう。見た感じは元気なんだけどね。秋の大会は出たいって言ってた」
「そっか」
 コンビニに着く。貴島はかごにお弁当、ペットボトルのお茶、栄養ドリンク、そして缶のブラックコーヒーを入れていた。私はそこに板チョコを加えた。
「普段はどうしてるの」
「何が」
「ご飯」
「学校あるときは学食。俺、今ばあちゃんと二人暮らしでさ。ばあちゃんに迷惑かけられないし。そのうち俺が料理できるようにならないとね」
「そうなんだ」
「卒業までは戻れそうにないしなあ」
 貴島にもいろいろ事情があるようだ。深く聞くのはやめようと思った。
 会場近くに戻ってきて、中庭にあるベンチに腰かけた。横から見ると、案外貴島の鼻が高いことが分かった。
「さっきのさ……」
「ん?」
「さっきの相手、強かった?」
「何その質問。まあ、ね。結構普段から指してるんだろうなあ、と思った。けどやっぱ、幹太に比べたら全然だなあ」
「そっか」
 貴島は、頭一つ抜けている。このままいけば順当に優勝だろうけど、それは面白くない。私が、阻止してみせる。
 一時になった。午後の対局、決勝トーナメントが始まる。
「じゃあ……次の次で」
 手をひらひらと振りながら席に向かう貴島。ちょっと、グッときてしまった。
 所定の位置に着席。望月は体格がよく、椅子が少し窮屈なのか体を揺らして最適な態勢を探していた。振り駒をして、先手。
 これまで通り四間に振ると、相手は急戦の構え。4五歩早仕掛けと呼ばれる戦型だった。定跡がかなり詳しく整備されていて、どこで変化するのか、緊張する戦いだ。
 望月の指し手は物理的に力強い。体重を乗せるようにして、駒を押し付けてくる。時折前の駒が吹っ飛ぶ。金が升目からはみ出している。その勢いに気圧されてはいけない。
 馬を作った相手に対して、玉頭に嫌味を付けて対抗する。この戦型には付き物の展開だけど、実戦経験は少ない。ノートの記述と、自分の感覚を信じて進んでいくしかない。
 守りが崩れ始める。そして、すでにお互い秒読みになっている。最善は逃すかもしれないが、悪手を指さないように注意する必要がある。こちらの方が逃げ道が多いので、少し強気に攻められる。捨て駒から、スピードアップの手が見える。手筋だけど、これで寄らないと駒を渡すので自玉の危険度も増す。どうするか。いや、これはもう、決断するしかない!
 望月の動きが止まった。この手を読んでいなかったことがうかがえる。10秒、電子音が響く。私も、頭をフル回転させる。20秒、望月の手が盤上に現れて、少し震えながら自らの玉をつかむ。玉で取るのが最強の手だとは分かっていた。それに対して桂馬、角と追い打ちをかける。攻め続けていける、大丈夫だ、これで……
 と、それまで荒々しかった望月の手つきが、突然柔らかくなった。観念したのかも、と思った。玉をまっすぐ引く手。これは左右どちらにも逃げられるように、ということだが、歩を打てるのでこちらが一枚節約できる。これは勝ちだ。
 3三歩。決まった。そう思った。
「あの」
「え」
「二歩」
 最初、突然声を出したので投了するのかと思った。だが、望月はほっとした顔で、3八の地点を指さしている。そこにはかなり前に受けた歩があった。一つの筋に二つ歩を打つ反則、二歩。負け……だ……
「あ、ありがとうございました」
 声が上ずっていた。しばらくはうまく把握できなかった。
3三歩は読んでいなかった。最後の局面になって、安易にそれで勝ちだと思い込んだ。けれどもその歩は、打てない歩だった……。私は、相手に合せて気を抜いてしまった。
 対局が終わり、ふらふらと立ち上がった私は歩き出していた。どこに向かっているのかはわからなかった。


「うーん」
「また悩んでる」
 ウィンドウ越しに魅惑してくるアイテム。薄い紺の、チェックのボアワンピ。ずっと新しいワンピースが欲しかったのだけれど、気が付けばもう夏も目前。買うなら今しかない。
「よくない?」
「佳乃子っぽい」
 夏休みは制服を着ない日が多いし、私だっておしゃれをしたい。父さんは私の小遣いを減らすことはしていなくて、最近あまり使っていなかったので手持ちもある。
「買う」
「おっ」
 こうと決めたら、迷っている場合ではない。ばっとつかんでレジまで持っていく。買った。買っちゃった。
「きょうはなんか違うね。というか、最近佳乃子ちょっと違う」
 大きな買い物はテンションが上がる。出費のことは忘れてとりあえず上機嫌になる。
「そう? 大人になった?」
「それは……」
 ポケットの中で、携帯がプルプルと震えた。
「あ、電話だ……はい。……うん。……わかった」
「どうしたの」
「兄さんが急に悪くなったって……すぐ行かなきゃ……」
 ここからではバスが出ていない。一度家に帰ってから自転車に乗っていては遅くなる。けれどもお金は今使ってしまったのでタクシーには……
「何してるの。タクシー拾うよ」
「え、でも私……」
「ほらっ」
 イヨリは、私の腕をつかんで走り出した。表通りまで出てきて、大きく手を振る。普段それほど気にしていなかったけれど、案外タクシーも通っているようで、すぐにつかまった。
「高石会病院まで」
「はい」
 イヨリの行動力には面食らう。そして、感謝もする。
「私からのプレゼントだから」
「え」
「佳乃子、頑張ってほしいから、タクシー代のプレゼント。その代り、私にもいつか頂戴ね」
「わ、わかった」
 自動車は簡単に坂を上っていく。色々考える間もなく、病院に到着した。イヨリは右手で千円札を出しながら、左手で私の手を握ってくれた。
「急ごう」
「うん」
 玄関を抜抜け、階段を駆け上がり、病室へ。扉を開けると、父の背中が見えた。
「佳乃子……にイヨリちゃん」
 振り返ったその顔を見て、少し安心した。疲れの色は見えたが、絶望はしていない。
「兄さんは?」
「嘔吐が激しかったけど、何とかおさまった。今は眠ってる」
「大丈夫……なのかな」
「わからない。風邪とかいろいろ併発している可能性があるって」
 ベッドの上、管につながれている兄さんの姿。こんなに弱々しかったなんて。幼い頃から見てきた姿との接点を、必死で探す。私をおんぶして、公園から帰ってきた兄さん。将棋盤を抱えて、河原に走る兄さん。大会で汗をかきながら、次の一手を探す兄さん。どの兄さんも、遠い存在に思える。
「……佳乃子?」
 兄さんの首が、ゆっくりと横になる。いつもの半分ぐらいだけ、瞳が開いていた。
「うん」
「あ、イヨリちゃんも。久しぶり」
「お久しぶりです」
 声に力はないけれど、心が弱っている様子はなかった。微笑みながら、私のことを見つめる。
「俺さ……やっぱりしばらく将棋指せないらしい。だから……佳乃子は頑張れ」
「……うん」
「親父……迷惑かけてごめんな」
「本当だ、まったく」
 唇の内側を噛んだ。多分これから、何度もこういうことがある。そのたびに私たちは、できることをしていかなければならない。兄さんが一番頑張って戦っているのだ。
「兄さん……私ね……」
 四間飛車で優勝するから。そう言おうと思ったけれど、すでに瞼を閉じていたので、言葉を飲み込んだ。
「長野さん、わざわざありがとね」
 父さんが深々と頭を下げる。
「いえいえ、佳乃子にはいつもお世話になっているので」
「そんなそんな、きっと佳乃子の方がお世話になってる」
 二人がそんなやり取りをしている横で、私はずっと兄さんの顔を眺めていた。私の目の前にいてほしいその顔。まだ一度も、私に対して悔しい表情を見せたことはない。今ですら、まだ余裕だぞ、という顔をしている。
 いつまでだって待つ。私が勝ちたいのは、兄さんだ。その日が来るまで、頑張り続ける。


 新しいノートに、新しいことを書き始める。
 兄さんのノートにも書かれていたものを、大幅に書き足すことになるだろう。
 私は、兄さんのコピーになることはできない。
 むしろ別の方法で、兄さんを超えたいのだ。
 私に合った戦い方。だけど、四間飛車は捨てない。
 駒を手にして、一つ一つ確かめる。その感触を、手に刷り込んでいく。
 一人きりの部屋。夏休みは、ひたすら将棋に溶け込める、天からのプレゼントだ。


「女の子って得だよねー」
 マップを見ながら、イヨリが言った。
今日の彼女は特別かわいい。制服の時はもちろんスカートだけど、彼女はズボンの方が似合う。襟付きのシャツに、少し大きめの、明るい茶色のキャスケット。襟首からこぼれる髪は、とてもさらさらしている。
「何が?」
「だってさ、男二人じゃ遊園地来ないでしょ」
「そっか」
 八月後半。カラッと晴れた日の午前。私たちは少し遠出をして、遊びに来ていた。
「ねえ。他の子が言うとちょっと気に障るけど……こういうデートもいいよね」
「で、でーと」
「あ、でも……」
「何」
 イヨリが、びしっと何かを指さした。ジェットコースターだ。
「乗れる?」
「え、あ、うん」
 人はそれほど多くない。夏休みと言っても平日だし、そもそもそれほど流行っていない遊園地なのだ。五分ほど待って、ジェットコースターに乗車。
「今日さ……あれ着てくるかなと思って」
「あれ?」
「この前買ったワンピース」
「あ……あれ」
「でも、やっぱ違う日に着るんだなーって」
「やっぱ?」
 発車。ゆっくりと登っていくときが、ジェットコースターの真骨頂だ。実は、速さはいいんだけど高さに弱い。
 ガタン。頂上に着き、一瞬の停止。そして……
「見せたい人いるんだな、って」
 加速し始めると、速い。声は遥か彼方に置き去りにされ、走る、走る、回る、回る。
 あっという間の出来事。気が付くと、一周して、元いた場所へ到着。
「イヨリ……」
「どうしたの、酔った?」
「見せたい人って……」
「勘違いだった?」
「うーん……」
 意識は全くしていなかった。けれどもあの服は、まだ外では着ていない。
「佳乃子はさ、敏感で鈍感だよね」
「えっ」
「そこがかわいいってこと」
 よくわからないけれど、悪い気もしなかった。
 色々と乗り物に乗って、お昼ご飯を食べて、お化け屋敷なんかにも行って。とっても楽しい。
 人が増えて、手をつなぐカップルなども目立ってきた。校内でもそういう人たちは見るけれど、外出先で見るとちょっと破壊力が違う。きっとみんな、楽しくて仕方ないのだろう。
「何見てるの」
「え、何でもないよ」
「あ、まだ乗ってないよね。観覧車乗ろ」
「うん」
 観覧車の前にもカップルたち。ふと、昔のことを思い出した。小学生の頃も、この遊園地に来たことがある。兄さんとだった。はぐれないようにと、ずっと手をつないでいた。
「次だね」
 観覧車に乗り込む。向かい合う私とイヨリ。
「宿題した?」
「え、突然そんな話……」
「追試とか補講とかさ、大変だったじゃない。二学期はそういうのないようにしないと」
「大丈夫……のはず」
「恋とかも、時間必要だしね」
 恋。不思議な感触の言葉だ。私には無縁のような気もするし、すぐに近くまでやってきそうな気もする。
「恋かあ」
「応援するから」
「う、うん。ありがと。その時はよろしく」
 恋をしようにも、今の私は将棋ばかりしている。考えてみれば、きっと、まだまだ先の話だ。
 観覧車が頂上に近付いてくる。風景が開けて、とても眺めがいい。高いところは得意ではないけれど、壁があると随分気が楽で、怖さも感じない。
「こうやって見ると、田舎だねえ」
「言われてみれば」
 眼下に広がる、家、道、田んぼ、畑、森。遠くには海も。振り返った先には、私たちの街、高台の病院もかすかに見えた。こののどかな風景の中で、ずっと育ってきた。そして多分これからも、ここに居続ける。
「あそこの市民プール、中学生の時行ったよね」
「あ、うん。私泳げなかったもんね。イヨリにはお世話になったなあ」
「ふふ、そういえばいろいろお世話したね。あ、でも裁縫は私が教えてもらった」
「そうだっけ」
「うん。あれは佳乃子の方が得意。きっと、指が器用なんだよ」
「そうかなあ」
 自分の指を見つめる。細くも、長くも、白くもない。ただ、この指のおかげで、私は将棋の駒をつかむことができる。あの五角形の駒をぴんと持ち上げる自分の指を思い出してみれば、確かに器用なのかもしれない。
 観覧車が落ちていく。現実が近づいてくる。そろそろ帰宅の時間だ。
「楽しかったね」
「うん。ありがと、イヨリ」
「感謝されても困るなあ。佳乃子の笑顔がね、好きなの」
「照れるなあ」
 ゲートに向かって歩き出す。家に帰ればまた、ほとんど一人の生活が待っている。父さんは事務所で寝泊まりすることが多くなった。洗濯をして、ご飯を作って、将棋をして。淡々とした日々が待っている。
「佳乃子、今度遊びに行っていい?」
「え、うん。いいよ」
「頑張りすぎないようにね」
「……うん」
 きっと、これは嘘になる。私は頑張る。悔いを残さないように。そして、私が頑張り切りたいから。


 病院の帰り、あまりにも暑いのでドーナツ屋さんに避難した。せっかく入ったのだからと、アイスティーだけでなくドーナツも二つ、注文した。
 ひんやりとした空気を、体の隅々まで吸い込む。紅茶が、口と喉の間を鋭く刺激した。幸せ。
 夏休みの間は、できるだけ父さんの負担を減らしてあげたかった。最近、見るからに父さんは疲れている。せめて仕事だけに集中してもらえるよう、病院のことはすべて私が担当している。
 おかげで私もちょっと疲れ気味だ。とりあえず、電動自転車が欲しい。
「大丈夫。元気にやってるよ」
 何気なく聞こえてきたが、しばらくしてから聞き覚えのある声だと気付いた。前の前の席、後姿。
「そう。ならいいけどね」
 そしてその向かい側、髪の長い女の人が座っている。鼻筋が通っていて、唇が薄くて、肌が白い。美人だ。
「そっちこそどうなのさ」
「別に変ったことはないけど。九月いっぱい休みだし、どっか旅行行こうかな」
「いいな、大学生は」
 相手は年上だ……。私はドーナツを口に含みながら、耳に神経のかなりを割いている。
「そういえば伸広はどうするの」
「どうって」
「進路」
「……まだ考えられないな」
 貴島の下の名前なんて、忘れかけていた。二人はテーブルを挟んでいるけれど、とても距離は近く感じる。女性の方は突き放しているような顔をしながら、時折優しい目を投げかける。貴島の背中はほとんど動かない。
「そうね……」
「いつ戻れるかもわからないし。まだわかんないや」
「ま、大学行きたいのかどうかぐらい、はっきりさせないとね」
「そうだねぇ」
「そろそろ行こうか」
「うん。……あ、姉さん、それ持つよ」
 二人は立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。思わず下を向いたけれど、間に合わず一瞬貴島と目が合った。
「あれ、佳乃子ちゃん」
「こ、こんにちは」
「ここらへんなの?」
「そうだよ」
「へー。あ、姉さん待って。じゃ、また」
 小さく手を振る。ちょっと、日焼けしていた。
「誰?」
「将棋の」
「女の子でもやってる人いるの?」
「いるよ。最近増えてきた」
 二人は店を出ていった。
 残ったドーナツを口に含む。甘い。
 

 小雨が降っていた。病室の窓が、雨粒で埋められていく。
「佳乃子か」
「起きてたの?」
 目を閉じていたので、眠っているのかと思った。荷物を置いて、椅子に腰かける。
「ぼんやりしてた」
「珍しい」
「でも、将棋したくなったよ」
 兄さんはまだ目を閉じたままだ。声には力がある。
「そうだね。しばらくしてないもんね」
「しようか」
「えっ」
「今の佳乃子ならできるだろ、目隠し将棋」
「……わかった」
 私も目を閉じた。
「佳乃子から指して」
「わかった。……7六歩」
「3四歩」
「……6六歩」
 光のない世界の中で、窓を叩く雨音だけが響いていた。兄さんは、約一分黙っていた。
「8四歩」
「6八飛車」
 私の四間飛車、兄さんの居飛車。これまでとは戦型が逆になった。
 その後は、リズムよく指し手が進んでいった。頭の中にはしっかりと将棋盤が描かれている。そして私の手と、兄さんの手も。何度も交差した、二人の指し手が、脳裏で再現される。
「……強くなったな」
「そう?」
「けど……疲れちゃった。封じ手にしよう」
「うん」
 居飛車とか、目隠しだとか、そんなこと関係なしに兄さんの指し手には元気がなかった。将棋を指しているときはいつも本気で、真剣で、尖ってて、光っていたのに。そんな状態の中でも、将棋を指そうとしたのはなぜだろうか。私のためではないのか。瞼を開ければ、涙と共に声も漏れてしまうのではないかと思い、必死で耐えた。
「無理しなくてもいいんだぞ。指したいように指せば」
「楽しいよ」
「そっか。それならいいや」
 言葉は、そこまでだった。気が付くと寝息を立てていた。目を開けた。いつもと変わらぬ兄さんの姿が、少しだけにじんで見えた。


 びっくりした。朝起きると、父さんが台所に立っていた。
「おお、佳乃子おはよう」
「おはよう。どうしたの?」
「どうしたとは何だ。お前、今日大会だろ」
「そうだけど……帰ってきたのも知らなかった」
「昨日幹太に頼まれて。代わりに送り出してやってほしいって」
 ここ数日、兄さんは口数が少なかった。将棋のことはまったく言わなかった。だから今、すごいびっくりしている。
「兄さん……他には何か?」
「ああ、なんか変なこと言ってたな。四間飛車をよろしくな、とか。何のことだ?」
「……頑張れってことだと思う」
 食卓にピザトーストが並べられた。昔から変わらない、父さんにできる精一杯の朝食だ。父さんはアイスコーヒー、私はハーブティー。
「でも、まさか佳乃子がこんなに夢中になるなんてな」
「将棋?」
「ああ。お前、勝負事苦手だったもん。集中力ないし。勉強も嫌いだったしなー。それは今もか」
「ひどい。でもね……私もなんで続けてきたかは、よくわからない」
「なあ」
 休日の朝はいつも三人で、他愛もないことを話していた。兄さんが入院して、父さんが忙しくなって、私たちはバラバラになった。この生活もあと少し、最初はそんな気持ちで頑張っていた。けれどもだんだん、いつ終わるのかわからないんだ、これが日常になるんだ、とわかってきた。
 父さんと二人、こうして朝食を食べるだけの非日常。どう受け止めていいのかわからないけれど、今私たちにできる精一杯の幸福なのかもしれない。
 二つ空いた席。大昔にはそれらがすべて埋まっていて、少し前までは右隣が埋まっていた。例えば兄さんや私が大学に行って、ここから誰もいなくなってしまうなんてこともあるかもしれない。家族って、変わっていくんだ、なんて思う。
「どんな結果でも、帰りに寄って幹太に知らせてやってくれよ。気にしてると思うから」
「わかった」
 もし元気ならば、今日は兄さんにとって最後の大会になるはずだった。悔しい気持ちもあるだろうけど、私を応援しているのも確かだ。
「まあ……父さんも、負けるよりは勝つ方がいいと思うぞ。頑張れ」
「うん」
 食事が終わった。おいしくはなかったけれど、体に染み込んでいくのがわかる。
「じゃあ……父さんはちょっと寝る」
 今日は休むと決めたのだろうか。それとも、料理で力尽きたのだろうか。父さんはひらひらと手を振りながら、リビングを出ていった。
 一人残されて、実感する。広い部屋に一人はさびしい。仕事場の父さんも、病室の兄さんもそれを感じていることだろう。そういえば、将棋を指しているときはさびしさを感じない。対局相手だけではなく、それ以外の人々の温かさも感じる気がする。
 私も自分の部屋に戻り、支度を整える。ボアワンピを着て、髪を結んだ。鏡の中には、とてもすっきりした顔の女の子がいる。
「行ってきます」
 小さく、つぶやいた。


 秋大会は春大会と会場が違う。最寄駅から歩いて二十分。結構疲れたなあ、と思った頃に見えてくる、ピカピカの校舎。数年前に移転して新しくなったらしいけど、私は古くても便利な場所にある方がありがたい。
 運動場ではハンドボール部が練習している。何種類かのユニフォームが見えるので、大会だろう。マネージャーや見学客の姿も見える。将棋は大会でもプレーヤーしかいないので、ちょっとうらやましくもあり。
 校舎の間を抜け、離れた場所にある若葉会館と呼ばれる建物へ。二階建ての建物は会議や合宿に使えるようになっており、ここの一室を大会に使うのである。
 会場内にはすでに結構人がいた。見知った顔もいれば、初めて見る顔も。
 受付を済まし、部屋を出る。対局が始まるまでは、頭を休めることにした。すでに、やるべきことはした。だからあとは、長い勝負を乗り越える体力が重要だ。無駄な力は使わない。そして、心も冷やす。
「お、佳乃子ちゃん」
「……貴島」
 その人はポケットに手を突っ込みながら、ふらふらと歩み寄ってきた。対局していない時は、とてもバカっぽい。
「幹太は」
「まだ無理」
「……そっか。残念だな。ま、また機会はあるか」
 貴島の視線は、私の瞳を突き刺して別の人を見ている。確かに、私はそういう扱いをされても仕方のない成績だ。けれども、今ここにいるのは、今日この大会に出るのは私だ。
「今日は、必ず決勝に行くから」
「ん? えらくやる気だねー」
「そう。やる気」
「よし、じゃあ期待して待ってるよ」
「貴島も途中でこけないようにね」
 ひらひらと手を振りながら、大会会場に入っていく貴島。彼にとっては、優勝するのが当たり前の勝負、それはそれでプレッシャーがあるだろう。それでもきっと、盤の前に座った途端全てが消し飛んでしまうのだ。スイッチが入ると、別人になる。あるいは、それこそが本来の姿。
 時間になった。会場に戻ると、すぐに開会式が。そして組み合わせ発表。春と違い、予選は四人リーグの二勝勝ち抜け方式。一度負けても決勝トーナメントに上がれるシステムだ。でも、気合的にも体力的にも、二連勝するのがいいに決まっている。
 指定の席に座る。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。


「余裕じゃん」
 前回の反省からか、貴島は昼食にサンドウィッチを準備していた。そして、当然のように私を誘ってきた。特に断る理由もなかったけれど。
「そうでもないよ。貴島こそ危ないところなかったでしょ」
「まあね」
 予選は二連勝で通過。どちらも相振り飛車だった。兄さんの研究は相振りでも深く、序盤から有利になる順についての記載はとても役に立った。兄さんに助けられての勝利ともいえる。
「その……前のところにはライバルとかいたの」
「うーん、まあ、ね、勝ったり負けたりの相手は。でもそいつ、あんまり大会出てこなくて。代表はほとんど俺だった」
「へー。じゃあ道場とかで?」
「そう。強いからって、勝ちたい奴ばっかりじゃないわけよ。気持ちはわからん」
 私にもわからなかったが、本当に強くなるとそういう考えも出てくるのかもしれない。ただ、私はやっぱり大会で本気になるのが楽しい。
「全国に初めて行った時……」
「ん?」
「スルーパスで女子代表だったの。その時代表で言ったのに何もできなくて、すごく悔しかった。それから、本気で勝ちたいと思うようになったの」
「そうか。ま、俺も似たようなもんかな」
「そうなの?」
「最初は勢いだけだったし。支部団体戦で全国行ったけど、結果は惨敗。地元のおっちゃんと違って、間違えてくれねーんだなーって。自分でちゃんと勝ちにいかないとダメなんだ、ってその時から意識するようになった」
 少年のように無邪気に、大人のように真面目に。貴島はときどき、不思議な顔を……魅力的な表情をする。
「ま、負けず嫌いなんだろうね、元々。佳乃子ちゃんもそうでしょ」
「たぶん」
「じゃ、春から強くなったとこ、見せてもらおっかな」
 もうすぐ再開時間だ。私が立ち上がると、貴島も立ち上がった。
「存分に、見てもらうから」


 緊張した。9一の香車をつまみ上げ、9二に置く。玉が端っこに潜っていく、穴熊という戦法。四間飛車と組み合わせて、四間飛車穴熊だ。固さに任せて攻めまくるイメージがあるが、独特な感覚が求められる、実は繊細な戦法だ。
 春の大会で敗退して、色々と悩んだ。そして出した結論が、「自分なりの戦法を見つけよう」ということだった。兄さんの真似をしても、どうしても無理が生じてしまう。それに四間飛車対策は、皆それなりにできている。だから私らしい、こまごまとしたポイントを稼ぎながらも、終盤間違えてもなんとかなる戦法、そして研究しがいのある戦法ということで、四間飛車穴熊はピッタリだった。
 早速相手は、うかつな駒組みをしてきた。兄さんのノートにも書いてあった、安易な歩突き。金を盛り上がっていくことによって、その歩は取られそうになる。穴熊から駒を離していく攻めなので、盲点になりやすいのだ。
 そう、兄さんはなぜか自分が穴熊に組む変化まで詳細に調べていた。実際には指すことはないのに。どうやら兄さんは、四間飛車にまつわる戦法のマニアになっていたようだ。私はそこに、独自研究を付け加えていった。穴熊戦では、「勝手読みによる」対応が多くみられる。それに対していかに効率よく咎めるかを研究とておけば、本番で悩む時間が節約できる。
 インターネットで実戦を積み、その棋譜の分析もした。定跡を外れる率の高い戦法は、外れてからいかに良さを積み上げていくかが勝負のカギになる。大振りの悪手は、こちらが間違えれば好手として通用してしまう。どれが悪手なのか。どう咎めればいいのか。それをシステマティックに理解して、実戦で考える時間を取られないようにするのが私の作戦だった。
 相手は急戦を狙ってきた。が、手順が甘い。こちらから角道を空けて、駒がさばける。相手は攻めに使おうとした銀が立ち往生だ。この後は暴れさせないように、王手をかけさせないように指していく。バランスを保って。時間も残して。
 相手の焦りが、盤上から伝わってくる。穴熊をする人は、とりあえず組んでしまって、という場合が多い。だから慎重に指し進める穴熊には、面食らってしまうことだろう。そこら辺の心理状態までも、計算の内だ。
 相手の攻めの糸口がなくなり、こちらの駒が前進していく。そのまま一歩ずつ進み、勝利を手にした。
 ベスト8突破。トーナメント初勝利。
 ただ、あくまで目標は一番上。一つ関門を突破したに過ぎない。そして次の関門は、望月。再戦だ。
 当然のように貴島も勝ち残っている。次勝てば、決勝で対戦できるはず。
 少しの休憩時間を挟んで、準決勝が始まった。振り駒をして、後手に。
 望月の太い指が、勢いよく駒を進めてくる。今回も、四間飛車穴熊へ。相手は、銀冠。有力で一番厄介な作戦だ。
 局面のバランスはなかなか崩れなかった。流石に上位常連なだけあって、定跡もしっかり知っている。そしておそらく望月も、貴島に勝つための努力をしてきたはずだ。貴島は、兄さんのいない大会で、突然現れて優勝していった。望月にとっては想定外の悔しい出来事だったに違いない。
 いつも以上の気合いを感じる。そして私も、それに答えた。勝ちたい気持ち、貴島と対戦したい気持ちは私も負けない。
 玉がいる側で、ごちゃごちゃとした戦いが始まった。こうなると、穴熊といえども流れ弾に当たりやすい。神経を使う戦いだ。けれども、こちらが悪いわけではない。間違えなければ、必ず相手にほころびが生じる瞬間が来る。それを見逃さないように。
 8筋、9筋と続けて歩が突き捨てられた。一見厳しくそれっぽい手だったが、私のセンサーは反応した。歩を渡し過ぎたのではないか? こちらから手が作れそうだ。ただし、失敗すればまたこちらに反動が来てしまう。
 ここが、決め所。
 もう、間違えない。ミスはするかもしれない。けれども、残念なことはしない。歩で形を乱し、桂馬を捨て、飛車を成り込む。この時歩が残っているのが大きくて、底歩などが利く。端攻めは怖いけれども、私の読みでは、間に合わない。
 激しい応酬になった。けれども、望月の手つきから力が抜けていくのがわかった。強いからこそ、負けが見えるのだろう。こちらの玉は、絶対に詰まない形だ。そしてこちらの攻めは、切れない。反則をしない、それを気を付けた。一歩ずつ、着実に追い詰めていく。
「負けました」
 そしてついに、望月が頭を下げた。気が付かなかったけれど、私の手は震えていた。


 ついに来た。私は自販機に走り、缶コーヒーを飲んだ。
 部屋に戻ると、貴島はすでに席についていた。眼を細くして、盤に視線を落としている。すでに、極限まで集中しているのがわかった。
 私も着席する。頬がけいれんしている気がした。ゆっくりと撫でる。息を大きく吸う。唇をなめて、息を吐き出す。
「始めるか」
 貴島が、駒を振る。とが四枚。私の先手だ。
「じゃあ……お願いします」
「お願いします」
 することは変わらない。心を落ち着けて、角道を開ける。貴島も一定のリズムで指し手を進め、すらすらと組みあがっていく。私が香車を一つ上げる。貴島も一つ、香車を上げる。相穴熊。最も繊細さの求められる、そして最も根気のいる戦型だ。
 相穴熊は、四間穴熊の方が囲いが薄くなる宿命にある。その分仕掛けを封じて、駒得を目指していくことになる。絶対に相手の思い通りにさせてはならない。
 貴島は定跡通りに指し進めていく。さすが、全く隙を見せない。きっと彼ほどの棋力ならば当たり前なのだろうが、しかし、努力の跡が感じられて嬉しくなる。兄さんを目指していたら、兄さん以上の人に出会えた。この将棋はきっと、宝物になる。
 研究通りの仕掛けから、細かい応酬が続く。歩の手筋を使い、少しずつ敵陣を攻略していく。相手も大駒を成り、こちらの攻め駒を攻め、均等が崩れないようにする。体も頭も疲れ果てていたけれど、最終的には、心地よかった。
 多くの人が観ている。それはわかっているけれど、全く気にならなかった。ここにたどり着けたこと。決勝の舞台に来て、こんなに内容の濃い将棋を指せていること。貴島が全力で応えてくれていること。全てが私の心を癒してくれた。
 ふわふわとした世界の中で、五感全てが将棋のことを考えているような気分になった。全力以上のものが出せている。普段は見えないような手まで見えるし、貴島の考えていることもわかる気がした。
 終盤。どちらが勝っているのかまったくわからない。秒読みの中、お互いギリギリまで考えて着手した。最善手をさせているかなんて、問題にならなかった。心が折れたら負けだ。そして途中から、はっきりと気づかされていた。やっぱり、貴島の方が強い。同じだけ頑張れば、強い方が勝つ。貴島が手を抜かない限り、私はどうしても追い抜けない。努力や熱意、そういったものの積み重ねが実感できて、ああ、そっかと思った。私は兄さんや貴島を、まだ見上げているにすぎない。やっと同じ場所に立てたと思ったけれど、二人はもっと先まで見据えているのだ。決して立ち止まって、私に手を差し伸べるようなことはしない。
 攻防の角が打たれた。いい手だった。私はその手が見えていなかった。負けるんだな、そう思った。私は負ける。悔しさはなかった。できるだけのことはしてきたから。今日だって、最高の力を出せているから。
「負けました」
 すっきりとした声が出た。終わった。
「危なかった。いろいろ」
「あったかもね……でも、読めなかった」
「強くなったよな。四間穴熊も、あってる」
「ふふ。そうなの」
 どっと肩が重くなった。今日だけではない。春から溜まってきた疲れが、一気に噴出してきたかのようだった。それでも、とてもさわやかな気分だった。将棋、楽しい。


「ここか」
「うん」
 病室に入ると、珍しく兄さんは体を起こしていた。
「兄さん」
「お、佳乃子……に貴島」
 貴島の顔を見て、兄さんは目を丸くした。そしてその手に握られているトロフィーを見て、目を細めた。
「こんにちは。久しぶりっす」
「おう。まさかお前がこっち来るなんてな」
「自分でも思わなかったよ、まさかねぇ。それに幹太の妹と将棋することになるなんて」
「対局したのか」
「決勝でね」
 兄さんの目がさらに細くなった。
「惜しかったな、佳乃子。次は勝てるといいな」
「まあ、勝てると思う」
「言うねえ」
 兄さんの声が元気そうで、本当に良かった。きっと、そわそわしながら待っていたのだ。
「……なんかあれだな、その服、初めて見るな」
「初めて着た」
「かわいいんじゃないか。なあ、貴島」
「そう、俺も気になってた。佳乃子ちゃんそれ似合うよ」
 多分、私の目も細くなっている。こんなに幸せな時間があっていいのだろうか。そしていつかこの三人で、時間を忘れるぐらい将棋を指し続けたい。
「……二人はまだ一年あるんだな。貴島は全国もあるし……頑張れよ」
「もちろん」
「佳乃子は次こそだ」
「うん」
「ごめん、ちょっと横になる」
 兄さんは体を布団の中に沈めていく。それを見た貴島はトロフィーを地面に置き、体をかがめて兄さんの耳元でささやいた。
「待ってますから。また、指しましょう」
 数秒の空白の後、兄さんは微笑んだ。瞳を閉じたのは、涙を見せたくなかったからに違いない。


LOVE譜




恋の棋譜、公開。





読者登録

清水らくはさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について