目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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90. 責務

「アンジェリカ!!」
 ジークは声の限りに叫んだ。しかし、彼女を止めることは出来ない。次第に遠ざかっていく足音が、棘のように心に突き刺さる——。

 あれから一週間が過ぎた。
 ジークはまだ病院のベッドに縛り付けられたままだった。比較的、軽い骨折だった左腕は、まもなく器具が外される予定だと聞いた。だが、右手は当分ギプスのままで、両足も固定され動かすことを禁止されている。完治までにはほど遠い。
 何もすることが出来ない今の状態では、母親やリックの見舞いが唯一の楽しみだった。ひとりでいると、どうしても暗い思考に陥ってしまう。誰かとたわいのない話をしている間だけは、気を紛らわすことができた。

「すまないな、あまり顔を出せなくて」
 サイファは魔導省の制服のまま、ジークの病室にやってきた。仕事の合間に抜けてきたようだ。いつものように、ベッド脇にパイプ椅子を広げて座る。正面のカーテンは開けられており、少し汚れたガラス越しに、鈍色の空が広がっていた。その厚い雲の切れ目からは、わずかに太陽が顔を覗かせている。
「いえ」
 ジークはベッドの上に横たわったまま返事をした。目線だけを彼に向ける。
 あまり顔を出せなくて——などと言っているが、サイファは一日一回、必ずこうやって顔を見せに来ていた。彼なりに責任を感じているのだろう。もっとも、仕事が忙しいらしく、二、三の言葉を交わすだけで終わることが多かった。もちろん、ジークにそれを責めるつもりは微塵もない。むしろ、多忙な状況にもかかわらず、自分のことを気に掛けてくれることが嬉しかった。
「後始末も落ち着いてきたから、これからは時間が取れそうだよ」
「後始末……?」
 あまり穏やかではない言葉の響きに、ジークはおずおずと聞き返した。
 サイファは小さくくすりと笑った。ジークの反応が無性に可笑しかった。自分はよほど信用されていないらしい。彼にしたことを思えば、それも当然のことだろう。
「結界の修復、被害者への補償、その他事後処理などだね」
 軽くそう答えると、膝の上で手を組み合わせた。続けて説明をする。
「結界は修復の目処が立ったよ。応急処置は完了している。これから一ヶ月かけて、徐々に元の強度へ戻していくことになった。あと、被害者との話し合いもほぼ終わった。ラグランジェ家の人間、つまり身内が多いから、あまりややこしいことにはならずに済みそうだよ。不幸中の幸いといったところかな」
「そうですか」
 ジークは安堵の息をついた。サイファの後始末の内容は、いたって正当なものだった。不穏なことを考えそうになっていた自分を反省した。
 サイファは軽い調子で話を続ける。
「この一週間、寝る間もないほど忙殺されていてね。家にもほとんど帰っていないんだ。アンジェリカの顔も、もう三日も見ていないよ。あの子は元気にしているか?」
「あ……」
 ジークは沈んだ声を落とし、表情を曇らせた。眉根を寄せて顔をそらす。
 サイファは驚いたように、目を少し大きくした。
「どうした?」
「来て、ないです、一週間……」
 ジークは訥々と答えた。
 隣のレイチェルのところへは、何度か見舞いに行っているようだった。話の内容まではわからないが、薄い壁を通して彼女の声が微かに聞こえた。たまに笑い声も混じっていた。
 そのたびに、こちらにも来てくれるのではないかと、無駄な期待をしてしまう自分がいた。病室の前の軽い足音に、痛いくらいに胸を高鳴らせていた。だが、それはいつも通り過ぎるだけで、決して扉を越えてくることはなかった。
「喧嘩でもしたのか?」
「いえ、喧嘩じゃ……なくて……」
 ジークは眉間に皺を寄せた。どう説明しようかと頭を巡らせた。
「言いたくなければ聞かないよ」
 サイファは安心させるように、柔らかく微笑みかけた。気にはなったが、無理に問いつめるのも不憫だと思った。何か言いにくい事情があるのだろう。ぽん、と彼の肩に手を置く。
 ジークは彼を見上げた。その手から温もりが沁みてきた。不意に胸が締めつけられ、泣きたいような気持ちになった。
「俺……ダメです……ひとりでバカみたいに焦って、勝手なことばかり言って、自分の気持ちを押しつけて……」
「プロポーズでもしたのかい」
 サイファは笑いながら言った。重い空気を払拭しようと、軽くからかってみたつもりだった。
 しかし、ジークの反応は予想外のものだった。
「どうしてわかったんですか?」
 目を見開き、きょとんとして尋ね返す。それは、肯定の返事でもあった。
 今度はサイファの方が驚いた。
「本当なのか?」
 ジークがこんな嘘や冗談を言う人間でないことはわかっているはずだった。それでも、確認せずにはいられなかった。それほど動揺したのだろう。彼がこのために頑張ってきたということは理解していたが、アンジェリカはまだ13歳である。いきなりそうくるとは思わなかった。
 ジークは視線を落とし、自嘲の笑みを浮かべた。
「最後まで聞いてもらえませんでしたけど……」
「そうか……」
 サイファは大きく息をついた。アンジェリカの考えはおおよそ理解できた。彼女はこの事件に責任を感じている。自分だけ幸せにはなれないと思ったのだろう。昨日の今日では無理からぬことだ。
 だが、ジークの気持ちもわからないではなかった。
「焦るのは仕方ないよ。殺されかけたうえに、あんな話まで聞かされたんだからな。すべて私のせいだ、すまなかった」
「違います。俺が悪いんです。俺が、アンジェリカの気持ちをわかってやれなかったから……。それどころか、ぜんぶ終わったと思って、ひとり浮かれてた……最低だ……」
 ジークは苦しげに胸の内を吐き出した。少し涙目になっていた。それを隠すように、顔をそむける。そして、小さくすすり上げると、弱々しい声で続けた。
「きっとアンジェリカには、俺なんかより、サイファさんの方が……」
 サイファは大きく目を見開いた。そして、少し呆れたように言う。
「まだあの話を気にしているのか」
 あの話とは、サイファがアンジェリカの夫になるという話である。彼自身が望んだことではない。ラグランジェ家の存続と繁栄のために、長老会が決定したことだった。ルーファス亡き今、その話も白紙に戻った。いや、戻したのだ。ジークにはまだ伝えていなかったが、ラグランジェ家どうしでの婚姻しか認めないという規則も撤廃していくつもりだった。
 ジークは顔をそむけたまま、拗ねたように口をとがらせた。
「そういうわけじゃ……ただ、サイファさんの方がアンジェリカを幸せにできるんじゃないかって思っただけです」
「幸せにするよ」
 サイファはさらりと言った。息を呑んで振り返ったジークを、真顔で見つめて付言する。
「ただし、父親としてね」
「あ……」
 ジークの口から、はっとしたような安堵したような声が漏れた。
 サイファは真剣な表情のまま、厳しい口調で問いかける。
「君はあきらめるのか? どれだけ忠告しても引かなかったあの気概はどこへ行ったんだ」
「すみません……」
 ジークは目を伏せ、消え入りそうに謝った。
 サイファは小さくため息をついた。彼を奮起させようとしたが、失敗に終わってしまった。方法を誤ったのかもしれない。彼には時間が必要なのだろう。もうしばらくは、そっとしておくことにした。
「アンジェリカに伝えることはあるか?」
「……わかりません」
 ジークはゆっくりと首を横に振った。伝えたい気持ちは山ほどあるが、自分には何も言う資格はないような気がした。何を言っても説得力がないように思えた。
「伝言役はいつでも務めるよ。ゆっくり頭の中を整理するといい」
 サイファは優しく言った。
 ジークは胸が熱くなった。彼の穏やかな微笑みを見上げながら、わずかにこくりと頷いた。
「さあ、本題に入ろうか」
 サイファは体を起こして背筋を伸ばし、気持ちを切り替えるように声を張った。
「本題?」
 ジークは何気なく聞き返した。
 サイファはズボンのポケットから手帳を取り出しながら答えた。
「そう、今日は君の卒業論文について聞きにきたんだ。テーマは決めたか?」
「あ、いえ……」
 ジークは沈んだ声で返事をした。右手は完治までに二ヶ月ほどかかると聞いている。脚の方は、リハビリもあるため、もう少しかかるらしい。論文の締切がいつなのか詳しくは知らないが、確か三ヶ月後くらいのはずだ。とても間に合うとは思えなかった。
「私の予定もあるから、早めに取り掛かってもらわないとな」
 サイファは手帳に目を落としつつ、ページを繰りながら淡々と言う。
「サイファさんの予定……?」
「なんだ、ラウルに聞いてないのか?」
 本気でわかってなさそうなジークの顔を見て、サイファは少し驚いたように言った。
「私が君の論文の手伝いをするんだよ。今の君の状態では、文献を探しにいくどころか、読むこともままならないだろう。念のため、ラウルには代筆の許可ももらってある」
「え、でも……」
「もちろん、内容を考えるのは君だよ。私は君の手足になるだけだ」
「そ、そこまで迷惑は掛けられません!」
 ジークはあわてて断った。手足と聞いてたじろいだ。相手はラグランジェ家当主であり、魔導省副長官である。そんな人を手足として使うなど、一介の学生にすぎない自分には出来ない。とんでもないことだ。
 そんなジークの様子を見て、サイファは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「君をこんな状態にしたのは誰だったかな?」
「それは……」
 ジークは言葉に詰まった。難しい顔で考え込む。眉間には皺が刻まれていた。
 サイファは、そんな彼を後押しするように畳み掛ける。
「君には卒業してもらわないと困るんだ。魔導省の内定のことを忘れたわけではないだろう?」
「でも……」
「互いのためだよ。遠慮など不要だ」
「そう、ですね」
 ジークも卒業したくないわけではない。いや、卒業できなければ、彼自身も困ってしまうだろう。だからといって、リックに頼むのも気が引ける。彼にもジークと同じように卒業論文があるからだ。こうなったら、腹を括ってサイファの申し出を受けるしかない。
「よろしくお願いします」
 ジークはやや気後れしながら言った。その声には、まだ少しの迷いが含まれていた。
 サイファはにっこりと微笑みを返した。

 ——コンコン。
 不意に扉がノックされた。
 母親ではないだろう。彼女ならノックなどせずに飛び込んでくるからだ。この時間だとアカデミーに行っているはずのリックでもない。当然、アンジェリカであるはずはない。
「はい」
 誰だろうと思いながら、ジークは返事をした。
 それを待っていたように、静かに扉が引き開けられる。そこから姿を現したのは、レイチェルだった。寝衣ではなく、きっちりとドレスを着込んでいる。可憐な微笑みをたたえながら、軽く頭を下げた。
「早かったね」
 サイファは椅子から立ち上がり、彼女へと足を進めた。細い髪を指で梳くように撫でる。
「もう準備はできたのかい?」
「ええ、荷物は部屋の前にまとめてあるわ」
 レイチェルは彼を見上げ、にっこりと返事をした。そして、少し真面目な顔になると、サイファの手から離れ、ジークに向き直った。ゆっくりと一歩前に歩み出る。
「ジークさん、私、今日で退院することになりました」
「良かったですね」
 ジークは微かに表情を緩めて答えた。サイファとの会話から、退院することは察しがついていた。彼女は怪我をしているわけではなく、魔導力の消耗による衰弱だけだった。回復までにそう時間がかかるものではない。
 ただ、精神的に大きなショックを受け、寝込んでいると聞いていた。自分の魔導力により、あんな事故が起こってしまったのだ。そのせいで父親まで亡くなっているのだ。無理もないだろう。だが、先ほどの彼女の様子を見る限り、少なくとも表面上は元気を取り戻したようだ。
「いろいろと、申しわけありませんでした」
 レイチェルはきゅっと表情を引き締めると、厳粛な声で謝罪の言葉を口にした。
「ジークさんには随分とご迷惑をお掛けしました。……お聞きになったのですよね?」
「……はい」
 ジークにはそれだけしか言えなかった。複雑な表情で目を伏せる。
「言い訳はしません。すべて私の行動が起こした結果です。本当に申しわけありませんでした」
 レイチェルは真摯にそう言うと、深々と頭を下げた。長い髪がさらさらと肩から滑り落ちていく。
「俺は……」
 ジークは低い声でためらいがちに切り出すと、顔をそむけ、視線を窓の外に流した。軽く息を吸い、ゆっくりと言葉を繋げていく。
「俺は、アンジェリカに会えたから、だから……」
 そこまで言うのが精一杯だった。それ以上は声にできそうもなかった。言おうとしていることは嘘ではない。だが、心の中にさまざまな葛藤があった。サイファへの遠慮もあった。口を結び、眉間に力を入れる。
「良かった……」
 背後からの吐息まじりの声。ジークは驚いて振り向く。
「良かった、あの子のことを否定しないでくれて」
 レイチェルは微笑んで言った。儚い微笑みだった。だが、声には安堵したような響きがあった。
「それだけが心配だったから……ありがとうございます」
 彼女は胸に手をあて、もういちど頭を下げた。
 ジークは何か言わなければと思いつつ、言葉が出てこなかった。もどかしさに眉をしかめる。顔を上げた彼女と目が合うと、ぎこちない微笑みを見せた。

「レイチェル、そろそろ行こうか」
 壁に寄りかかっていたサイファが、タイミングを見計らって口を開いた。後ろから彼女の腰に手をまわすと、寄り添いながら病室を出て行った。戸口でちらりとジークに視線を流し、軽く手を挙げる。そして、後ろ手でそっと扉を閉めた。
 ジークは小さく息をついた。少し疲れてしまったようだ。目を細め、象牙色の天井を見つめる。
 そのとき、ふいに、扉の向こうの会話が耳に入った。
「家まで歩ける?」
「ええ」
「じゃあ、一緒に歩いて帰ろうか」
「お仕事はいいの?」
「少しくらい抜けても平気だよ」
「また部下の子に怒られるわよ」
 くすくすと笑い声が混じる。
 それは、本当に仲の良さを感じさせるものだった。穏やかであたたかい空気が流れている。おそらくさまざまなことを乗り越えてきたのだろう。そのうえに彼らの今があるのだ。
 自分は……自分たちは、この状況を乗り越えられるのだろうか——。
 ジークはガラス越しの空を見上げて、深くため息をついた。わずかに覗いていた太陽は、いつのまにか再び厚い雲に隠されていた。

 リックたち最終学年生にとっては、今日がアカデミー最後の授業だった。これからは授業はなく、各自卒業論文に取りかかることになっている。
「アンジェリカ、これからジークのお見舞いに行くんだけど、一緒に行かない?」
 リックはアンジェリカの席に歩み寄り、覗き込むようにして声を掛けた。
 彼女は帰り支度の手を止めると、にっこりと笑顔を作って彼を見上げた。
「ごめんなさい。今日は行くところがあるから」
「今日はじゃなくて、今日もでしょう?」
 リックの反対側から聞こえた、不機嫌そうな女性の声。それは、セリカのものだった。彼女はリックとともにジークの見舞いに行くことが多い。今日もそのために来ているのだろう。
「ええ、そうね」
 アンジェリカは彼女に振り向くこともなく、素っ気なく答えた。まともに相手をするつもりはなさそうだった。
 セリカはムッとして何かを言い返そうとしたが、リックが無言でそれを制した。そして、アンジェリカに向き直り、穏やかに尋ね掛ける。
「ジークのお見舞い、行ってる?」
 もしかしたら、彼女は自分たちと一緒に行くより、ひとりで行きたいと思ってるのかもしれない。ひとりで行っているのなら、それはそれでいい。そうであってほしい——その期待を込めての質問だった。
 だが、アンジェリカの返答は、期待とは逆のものだった。口を閉ざしたまま、首を横に振った。
 それを見て、セリカは逆上した。
「どういうつもりなの? 何があったか知らないけど、あんまりじゃない?」
「セリカ、僕らが口を出すことじゃないよ」
 リックは落ち着いた口調でたしなめた。
 だが、セリカの気持ちはおさまらなかった。かえって昂っていった。
「だって、こんなのひどすぎるわ!ジークはずっとずっと頑張ってきた。すごく頑張ってきた。全部あなたのためなのよ? あなたのために、あんな大怪我まで負ったのよ? 下手すれば死んでた。しかも、それをやったのはあなたの父親っていうじゃない。少しは申しわけないと思わないの?! 自分が自由になったら、ジークはもう用なし?! 利用してただけ?!」
 激情に突き動かされるままに、一気に捲し立てて非難した。
 アンジェリカはずっと無表情でそれを聞いていた。セリカが言い終わると、鞄を閉め、椅子から立ち上がった。うつむいたまま机に手をつき、ぽつりと言葉を落とす。
「わかっているわ。私がひどい人間だってことくらい」
「どうして反論しないの?!」
「そのとおりだからよ」
「ちゃんとこっちを見て言って!」
 セリカはアンジェリカの華奢な肩を引いた。
 だが、アンジェリカは振り向かず、その手を払いのけた。そして、鞄を手にとると、自分からセリカに向かい合った。真剣な表情で、背の高い彼女を見上げる。
「私は、もうジークに会うつもりはない」
 きっぱりとした口調だった。迷いなど感じられなかった。
 セリカは小さなアンジェリカに圧倒された。彼女を説得することは不可能に思えた。何を言っても自分の意志を曲げることはないだろう。彼女の強情さは以前から知っている。おそらく、自分にはどうすることもできない。だったら、せめて——。
「……理由くらい聞かせて」
 かぼそい声だった。瞳も悲しげに揺らいでいる。
 だが、アンジェリカの漆黒の瞳は、強い光をたたえていた。まっすぐにセリカを見つめて言う。
「私がそう決めたからよ」
「理由になってない!」
 セリカは泣きそうになりながら叫んだ。
 それでも、アンジェリカの心が揺さぶられることはなかった。
「何とでも言えばいい。気の済むまで罵倒すればいい」
 そう言って、セリカの横をすり抜け、教室から出ていこうとした。
「アンジェリカ!」
 リックの呼び声に、アンジェリカの足が止まった。ほとんど無意識だった。条件反射のようなものだったかもしれない。
「ジークは、きっと、いつまでも待ってるよ」
 背後から聞こえたその声は、とても優しかったが、どこか寂しげだった。
 アンジェリカは胸がズキリと痛んだ。顎を引き、ぎゅっと目をつぶる。そして、その痛みを振り払うかのように駆け出すと、教室から走り去っていった。

 小さくなる彼女の足音を聞きながら、セリカは額を押さえてうなだれた。
「私、随分ひどいこと言っちゃった」
「そうだね、ちょっとひどかったね」
 リックは微笑みながら応じた。小さく肩をすくめて見せる。
 セリカはうつむいたまま、顔中に後悔を広げた。
「あそこまで言うつもりじゃなかったのに、止まらなくなっちゃって……」
 そこで言葉を詰まらせると、泣きそうに瞳を潤ませた。それでも、涙を零さないよう精一杯こらえた。自分は泣く立場にはない。
「多分、アンジェリカも苦しんでるんだと思うよ」
 リックは冷静に言った。
 セリカは神妙にこくりと頷いた。彼女もアンジェリカの言葉がそのまま本心だとは思っていない。きっと何か理由があるはずだ。目尻を拭い、顔を上げる。
「私たちに何か出来ることはないの?」
「うーん、難しいね……」
 リックは腕を組み、首を傾げて考え込んだ。
「ずっとふたりと友達でいること、くらいかな?」
 そう言って、にっこりと微笑みかける。
「……ええ、そうよね」
 セリカはうつむいて、わずかに表情を緩めた。きっと、自分たちに出来ることはそのくらいしかない。しかし、それはとても大切なこと——。
「行こうか、お見舞い」
「ええ」
 リックは包み込むように彼女の手をとると、病院に向かって歩き出した。

 ——コンコン。
 アンジェリカは緊張した面持ちで、医務室の扉をノックした。
「開いている」
 すぐに、中から声が聞こえた。
 アンジェリカはぐっと表情を引き締めた。そっと引き戸を開け、中へ入る。
「何の用だ」
 机に向かっていたラウルは、冷たく彼女を一瞥して言った。
「聞きたいことがあるの」
「何だ」
 アンジェリカはきゅっと口を結び、彼の横顔を見つめた。そして、小さく息を吸い、意を決したように口を開く。
「私の髪と瞳が黒い理由。知っているんでしょう?」
「知らんな」
 ラウルの返答は少しのためらいもなかった。そして、取りつく島もないくらいに素っ気ないものだった。
 だが、アンジェリカは挫けなかった。そのくらいのことは想定済みである。すぐに答えてもらえるなどとは、初めから思っていない。今日は粘れるだけ粘るつもりで来たのだ。
「これが事件の始まりなんでしょう? お父さんは隠しているけど、そのくらいわかるわ」
「ならば、サイファに聞け」
「お父さんは無理よ……ラウルなら嘘をつかないと思ったから」
「知らんと言っている。それを信じたらいいだろう」
 ラウルは振り向くこともなく淡々と答えた。机に向かったまま、ペンを持つ手を動かし続けている。
 アンジェリカはじっと彼を見据えた。
「ラウルは医者だから知っているはずだわ。いえ、きっとラウルが突き止めたんだわ。私がまだ赤ん坊だった頃に」
 ラウルは一瞬、手を止めた。だが、すぐに筆記を再開する。
 アンジェリカはうつむき、胸元をぐっと押さえた。
「私、遺伝子の異常なの? 長くは生きられないの?」
 落ち着いた静かな声。だが、その中に微かな震えがあった。
 再び、ラウルの手が止まった。今度は一瞬ではなかった。カタンとペンを置き、椅子をまわして彼女に向かい合った。その不安そうな顔を、険しい表情で見つめる。
「誰がそんなことを言った」
「そうとしか思えないもの。呪われているなんて非科学的なことを除外すれば、これくらいしか思い当たることがない。ひいおじいさまが事を急いたのは、私の先が短いことを知ったからよ。私が死んでしまう前に、私の魔導力を子孫に受け継がせたかったんだわ。お父さんとお母さんが、私の婚約者を決めなかったのも、私をこんなに自由にさせてくれているのも、きっと長く生きられないことを知っていたからね」
 アンジェリカはほとんど確信しているような口調で言った。そして、心の中で付け加える。
 ——ジークだって、あんなに急いでいたし。
 まだ13歳の自分にあんなことを言うのは、きっと、自分の先が短いことを知ったからに違いない。そう考えれば辻褄が合う。
 ジークの気持ちは嬉しかった。しかし、自分だけ幸せになることなど許されない。自分の存在が、多くの人を不幸にしてきたのである。そして、ジークさえも不幸にしてしまう。一緒にいられる時間は長くないのだろう。だったら、もう会わない方がいい。
「何を勝手な推測ばかりしている」
 ラウルは眉をしかめて言った。
「私は本当のことが知りたいの。ユールベルのときみたいに、私だけ何も知らないなんて、そんなの許されないわ。もう小さな子供じゃない。私のせいで起こったことなら、その原因を知らなければならないのよ」
 アンジェリカは一歩踏み出し、胸に手をあて、必死に訴えかけた。まっすぐ彼を見つめ続ける。
 だが、不意にその瞳が揺らいだ。
 きっと、生まれてしまったことが罪——。
 優しい両親は、それが事実であっても、絶対にそうは言わないだろう。だから、自分も絶対に口には出さないと決めた。だが、こんな子だと知っていれば、生まなかったに違いない。そのことを思うと、胸が押しつぶされそうになる。
 ラウルは腕を組み、ため息をついた。
「おまえの言っていることが的外れだということだけは、はっきりと言える」
「的外れ……ってことは、本当のことを知っているのね?!」
 アンジェリカは目を見開いて身を乗り出した。
「そうではない。おまえの遺伝子に異常などない、それがわかっているというだけだ」
 ラウルは面倒くさそうに答えた。くるりと椅子をまわし、机に向かう。
 だが、アンジェリカはその答えに納得しなかった。両手を祈るように組み合わせ、ラウルの横顔に懇願する。
「お願い、ラウル。私、聞いたことは誰にも言わない。もちろん、お父さんにもお母さんにも。自分の胸だけに留めておくわ。だから……」
「知らんと言っている。信じるも信じないもおまえの勝手だ。これ以上おまえに言うことはない」
 ラウルは、鞄に書類を投げ込みながら、苛ついた口調で突き放した。
 アンジェリカは暗く表情を沈ませた。眉根を寄せながら目を伏せる。こうなってしまっては、もう何を聞いても答えてはくれないだろう。これが、最後の望みだったのに——。
「もう出ろ。私はこれから往診に行く」
「往診? もしかして、あの事件の……?」
「そうだ」
 ラウルは鞄の口を閉めて立ち上がった。
 アンジェリカははっとして、彼の袖を掴んだ。思いつめたような表情で見上げる。
「私も連れていって、手伝わせて!」
「断る。とっとと帰れ」
 ラウルは冷たく言い捨てた。鞄を取り、医務室を出ようとする。
 だが、アンジェリカは手を離さなかった。袖を掴んだまま、彼を見上げ、懸命に訴えかける。
「私のせいなのよ? 何か出来ることがあれば、少しでも償えるなら……」
「おまえに責任などひとつもない」
「私の存在のせいで起こったのは事実でしょう?」
 ラウルは迫力のある眼差しで、ギロリと睨み下ろした。
「迷惑だ、帰れ」
 凄みをきかせた低音で唸るように言う。
「これは人の命を預かる仕事だ。思いつきの自己満足などに付き合ってられん」
 それは、反論しようのない正論だった。アンジェリカの表情が翳った。
「確かに思いつきだし、自己満足かもしれない……」
 そう言いよどみながら、ゆっくりと視線を落とした。黒い髪がはらりと頬にかかり、横髪が表情を隠していく。
「……でも!」
 体の奥から絞り出したような声。
 彼女は勢いよく顔を上げた。そこにあったのは、迷いを払拭した真摯な双眸だった。
「私、一生懸命に、真剣にやるわ。半端な気持ちなんかじゃない」
 ひたむきに力説しながら、袖を掴む手に力を込めた。白い布に深い皺が刻まれる。
 だが、ラウルは表情を凍らせたまま、ますます冷酷に拒絶する。
「医学の知識どころか、用具や薬品の名前すらわからない素人など役に立たん。足手まといだ」
「勉強するわ! 役に立てるよう努力するから」
 アンジェリカはしつこく食い下がった。口をきゅっと結び、大きな瞳で訴えかける。
 ラウルは眉をしかめた。彼女は何を言っても引き下がる気配がない。こうなったら行動で示すしかないだろう。この小さな手を振り払って、完全に無視をしてしまえば——。
 だが、体が動かなかった。なぜか実行することが出来なかった。いや、「なぜか」ではない。その理由は自分でもわかっていた。深くため息をつく。
「……明日からだ。今日は帰って勉強しろ」
 疲れたようにそう言うと、本棚に手を伸ばして一冊の本を取り、アンジェリカに投げるように渡した。それは、看護技術の本だった。
「最低限のことは覚えてこい。使えないとわかれば、いつでも切る。いいな」
「わかったわ」
 アンジェリカはその本をぎゅっと抱えた。そして、時間が惜しいとばかりに、急いで戸口に向かった。そこでくるりと振り返ると、真剣な表情でラウルを見つめた。口元にわずかな笑みをのせる。
「ありがとう、ラウル。チャンスをくれて」
 そう言うと、スカートをひらめかせながら、駆け足で医務室を出ていった。
 ——今は、自分の出来ることをするだけ。
 本当のことは聞けなかったが、果たすべき務めが見つかった。ラウルの言うように、自己満足なのかもしれない。自責の念から逃れるための行動なのかもしれない。それでも、少しでも役に立てるのならば、行動を起こす価値はあるはず——彼女はそう信じていた。
 アカデミーの外に出ても、足を止めることなく走り続けていく。頬を打つ風はまだ冷たかったが、今の彼女には心地よいくらいだった。


91. 自分の足で

「やあ、ラウル」
 サイファは軽く手を挙げながら、ラウルの医務室へ足を踏み入れた。ニコニコと人なつこい笑顔を浮かべている。
 机に向かっていたラウルは、それを一瞥すると、ムッとした表情を見せた。サイファを目にしたときのいつもの反応である。そして、関心がないと云わんばかりに、すぐに手元に視線を戻すと、再びペンを動かし始めた。
「何の用だ」
「ジークの卒業論文を持ってきたよ。提出はおまえのところでいいんだろう?」
 サイファは右脇に携えていた水色のファイルを、表紙を見せるように掲げた。それを机の隅にそっと置く。
 ラウルはその表紙にちらりと目を走らせた。
「ずいぶん早いな。締め切りまでまだ一ヶ月ある」
「頑張ったからね。ジークも私も」
 サイファは腰に手をあて、満足そうに言った。まるで褒められたがっている子供のようだった。もちろん、目の前の先生がそう簡単に優しい言葉を掛けてくれないことは、とてもよく知っている。
 案の定、ラウルは何も言わなかった。無表情でファイルを手に取ると、中央あたりを開いた。目だけを左右に動かし、文字を追っていく。
「なかなか新鮮な体験だったよ。論文など書いたことがなかったからな」
 サイファはそう言いながら、ベッドの端に腰を下ろした。布団に倒れ込みたがっている体を両手で支えると、焦茶色の長髪がかかる広い背中に視線を流す。
 ラウルは何の反応も示さなかった。口を閉ざしたまま論文を読み続ける。
 だが、不意に眉を寄せた。
 パタンとファイルを閉じると、椅子をくるりとまわし、正面からサイファを睨みつけた。
「これはおまえが書いたものだろう」
 手にしていたファイルを掲げ、その表紙をパンと軽く叩いた。
「代筆は認めると言っただろう?」
 サイファは体を起こし、不思議そうに言った。
 ラウルは、彼がとぼけているのだと思った。苛立ちながら言い返す。
「そうではない。この文章はおまえのものだ。ジークの文章はもっと垢抜けない」
 サイファはそれを聞いて、ようやくラウルの言わんとすることがわかった。ふっと笑みを漏らす。そして、ゆっくりと目線を上げると、凛と表情を引き締めた。鮮やかな青い瞳は、まっすぐにラウルの眼差しを捉えている。
「内容については、いっさい口出ししていない。すべてジークが考えたものだ。私は彼の言ったとおり文字を書いたにすぎない」
 彼の言葉には、少しの迷いも揺らぎも窺えない。真剣そのものだった。
 だが、次の瞬間には、一転してカラリとした笑顔を見せた。
「まあ、文章の書き方については、多少アドバイスしたけどね」
 先ほどとはまるで違う、きわめて軽い調子で言い足した。
 ラウルは眉をひそめた。無言で彼を睨みつける。おそらく「多少」ではなく「相当」口を挟んだはずだ。そうでなければ、ここまで急激に文体が変わるはずがない。
「いいだろう? そのくらい」
 サイファはまったく悪びれることなく了解を求めた。
「……まあいいだろう」
 ラウルはため息まじりに言い、ファイルを机の上に置いた。いくらサイファが責任を感じているからといって、ジークの代わりにすべてを引き受けたとは考えにくい。たとえサイファが申し出ても、ジークがそれを許さないはずだ。おそらく、サイファの言うように、文章を書く上でのアドバイスを行っただけなのだろう。サイファには腹が立っていたが、冷静に考えれば許容範囲内である。
「これでひとつ肩の荷がおりたよ」
 サイファは両手を上げて伸びをしながら、そのまま仰向けに倒れ込んだ。パイプベッドが軋み、白いシーツに緩やかな皺が走る。
「二日ほど徹夜でね。そろそろ限界だ。しばらく休ませてくれ」
 そう言うと、寝転んだまま濃青色の上着を脱ぎ始めた。
 ラウルは眉根を寄せ、睨みつける。
「これは病人のためのベッドだ」
「一眠りして病気を未然に防ぐんだよ」
 サイファは涼しい顔で屁理屈を捏ねた。脱いだ上着を隣のベッドに放り出し、革靴を脱ぐと、布団に入って横になった。
「一時間後に起こしてくれ」
「ふざけるな。魔導省の仮眠室へでも行け」
 ラウルは机を叩き付けるようにして立ち上がった。
 だが、サイファの返事はなかった。すでに目は閉じられている。冗談ではなく、本当にここで眠るつもりのようだった。
 ラウルはため息をついた。レイチェル同様、サイファも言い出したら聞かない性格だ。これ以上の応酬も面倒なだけである。もう諦めることにした。ベッドのまわりにクリーム色のカーテンを引き、脱ぎ捨てられた上着をハンガーに掛ける。
「悪いな」
 カーテンの向こうから声が聞こえた。その声はいつもの明瞭さを欠いており、彼が眠りに落ちかけていることを感じさせるものだった。

「ええっ? 卒論、もう出来たの?!」
 リックの素っ頓狂な声が、病室を突き抜けた。間違いなく廊下まで響いただろう。
「声、大きすぎよ」
 隣のセリカが、片眉をひそめながらたしなめた。立てた人差し指を、唇に当てて見せる。
 リックは肩をすくめ、申しわけなさそうに笑った。
「それで、提出はしたの?」
「ああ、ついさっきサイファさんが持っていったところだ」
 ジークは淡々と答えた。パイプベッドの上で、無造作に脚を投げ出して座っている。
 すでに、骨折は治癒していた。だが、入院生活は続いている。リハビリのためだ。右腕のギプスはきのう外されたばかりで、まだしっかりと字は書けない。両足も簡単なリハビリを始めたところで、歩行訓練はこれからである。
「すごいね、きっと一番乗りだよ」
 リックは両手を握りしめ、興奮ぎみに言った。自分のことのように喜んでいる。
 だが、当の本人は醒めたままだった。
「まあ、他にやることなかったしな」
 斜め下に視線を落とし、素っ気なく言う。
「それに、サイファさんの都合もあったんだ。明日からあんまり時間がとれなくなるみたいで、できれば今日までに仕上げたいって急がされたんだよ」
「サイファさんも大変そうだよね」
 リックは微笑んだ。詳しいことを知っているわけではなかったが、ラグランジェ家当主として、魔導省副長官として、また個人としても、他にやらなければならないことがたくさんあるだろうことは想像がついた。
 ジークは真面目な顔で頷いた。
「あの人はホントすげぇよ。忙しいはずなのに、申しわけないくらい、いろいろやってくれるんだ。それも、何もかも早くて的確だしな。曖昧な頼み方をしても、ドンピシャのいい文献を持ってきてくれるし、文章についてのアドバイスまでしてくれたし、清書するのもめちゃくちゃ早かったし……仕事もしてるのに、そんな時間どこにあるのか不思議なんだよな。もしかしたら、あんまり寝てねぇのかも」
「ジークにしたことを思えば、そのくらい当然だわ」
 セリカは腕を組み、刺々しく言った。
 ジークはうんざりして顔をしかめた。
「いつまで根に持ってんだよ。だいたいおまえには関係ねぇだろ」
「ジークが根に持たなさすぎるのよ。自分を殺そうとした人を褒めてどうするわけ?」
「うっせぇな。俺が納得してんだからいいんだよ」
 面倒くさそうに言い捨てる。
 セリカはため息をついた。彼の思考がさっぱりわからなかった。好きな人の父親とは仲良くしておいた方がいいとか、そういう打算ならまだ理解できる。だが、ジークの場合は違う。間違いなく本気で尊敬している。いったいどこまでお人好しなのだろうか。無性に腹立たしくなってくる。
 リックはそんな彼女をなだめるように、背中に優しく手を置いた。
「セリカ、ジークがいいっていうんだからさ」
 彼女はじとりとリックを睨んだ。彼までジークやサイファの味方をしたことが面白くなかった。
「人のこと気にかけてる場合? あなたの卒論はどうなのよ。手伝ってくれる人はいないわよ。私だって手伝ってあげないんだから」
 ツンとして口をとがらせる。ほとんど八つ当たりである。
 だが、リックは笑顔でそれを受け止めた。柔らかい口調で答える。
「大丈夫だよ。締切までには間に合う予定」
「あいつは……ちゃんとやってんのかな」
 ふいに、ジークがつぶやいた。
「ラウルの手伝いで手一杯なんてことはねぇのかな」
 片膝を立て、その上で頬杖をつくと、ぼんやりと窓の外に視線を流す。青い空に、筋状の白い雲がゆっくりと流れている。
 アンジェリカがラウルの手伝いをしていることは、サイファから聞いていた。おそらく例の事故に責任を感じてのことだろう。どんな思いでそれを申し出たのか、どんな思いで往診にまわっているのか、想像すると胸が痛い。
「それは大丈夫だよ。もうすぐ提出できるって言ってた。ラウルの手伝いも、今は週に二回くらいみたいだし」
 リックは努めて明るく言った。
「そうか」
 ジークは小さく安堵の息をつき、表情を緩めた。
 だが、今度はセリカが顔を曇らせた。
「まだ、一度も来てないのね、アンジェリカ」
「来ないって言ったら来ねぇだろ、あいつは」
 ジークはあきらめたような口調で言った。
 セリカには、それがかえって痛々しく感じられた。その気持ちを押し隠し、おどけたように肩をすくめる。
「ホント強情よね。アンジェリカだってジークに会いたいはずなのに」
「さぁ、どうだろうな……そうでもねぇのかもな……」
 ジークはうつむき、寂しげに自嘲の笑みを浮かべた。
 思い返してみれば、いつも自分が勝手に盛り上がっているだけで、アンジェリカはいつも冷静だった。自分にもリックにも、同じように接していた。そして、本人の口から何を聞いたわけでもない。考えれば考えるほど自信がなくなってきた。自分が滑稽に思えてきた。
「大丈夫だよ、信じようよ」
「そうよ、弱気になるなんてジークらしくないわ」
 ふたりは口々に励ました。何の解決にもならない言葉だったが、その気持ちが嬉しかった。
「ああ、そうだな」
 そう答えて、微かな笑顔を見せた。それが、今の彼にできる精一杯の感謝の表現だった。

「一時間、過ぎたぞ」
 ラウルは椅子から立ち上がり、ベッドの方へ歩いていった。薄いクリーム色のカーテンを開く。シャッと軽い音が医務室に響いた。
 サイファは無言で体を起こした。まだ眠そうだ。ぼんやりした表情で腕時計を見る。
「ちょうど一時間だ」
「おまえが一時間で起こせと言った」
「律儀だな」
 笑いを含んだ声で言う。
 ラウルは気色ばんだ。カーテンレールに掛けてあった上着を、ハンガーごと投げつける。
「さっさと仕事に行け」
「その前に、ジークのところへ卒論提出の報告に行ってくるかな」
 サイファは靴を履き、上着を抱えてベッドから立ち上がった。
 ラウルは腕を組み、睨むように彼を見た。
「おまえ、ジークにばかり構っていていいのか」
「それは嫉妬か?」
 サイファは顔を上げ、からかうような挑戦的な笑みを向ける。
 ラウルは眉をしかめ、不快感をあらわにした。苛つきながら口を開く。
「自分の娘のことも気にかけろということだ」
 予想外の言葉に、サイファは驚いて目を見張った。
「めずらしいな、おまえがそんなことを言うなんて」
 上着をばさりと強く振ってから、マントのように背中にまわし、腕を伸ばして袖を通す。
「そういえば、今、おまえの手伝いをやってるんだってな。半端なことはしない子だ。役に立っているだろう?」
「元々ひとりでまわるつもりだった。いなくても困りはしない」
 ラウルは愛想なく答えた。
 サイファはくすりと笑った。素直に答えていないが、否定もしていない。遠まわしに認めているようなものだった。追及して困らせようかとも思ったが、とりあえず今はやめておいた。これ以上、本題から逸れるのは本意ではない。
「アンジェリカのことは、もちろん気にかけているよ。あの事件に責任を感じていることも知っている。だが、あの子はそれを乗り越えようとしているだろう? 自分の意思で、自分の足で立って前に進んでいる。だから、余計なことはせず、見守っているんだよ」
「責任を感じているだけならいいがな」
 何か含みのある言い方だった。
 サイファは手を止めた。合わせようとしていた上着の前がはらりと開く。
「どういう意味だ?」
 だが、ラウルは答えを返さなかった。腕を組んだまま、眉ひとつ動かさない。
「知ってることがあるなら言えよ」
 サイファは険しい表情で詰め寄った。青く燃えるような瞳で、鋭く睨めつける。だが、その奥には不安の影が揺らいでいた。
 ラウルはじっと探るように見つめ返した。
「アンジェリカが言っていたことだが」
 そう前置きをして、静かに話し始める。
 それは、以前アンジェリカがラウルを問いつめたときに語ったものだった。自分は遺伝子の異常を抱えていて、そのせいで髪や瞳の色が黒いのだと。そして、長くは生きられないのだと——。彼女が口にした言葉を、ラウルは漏らさず伝えていく。
 サイファは黙って聞いていた。腕を組み、眉根を寄せる。そして、話が終わると、小さくため息をついた。
「そんなことを考えていたのか……」
 困惑と苦渋を滲ませながら、独り言のようにつぶやく。
「突拍子もないが、筋は通っているな」
 破綻している論理なら簡単に崩せるが、一応、矛盾なく組み立てられているのが厄介だ。しかも、ラウルの口ぶりだと、そうとう強く思い込んでいるらしい。生半可に対峙したのでは、こちらが玉砕しかねない。
 組んだ腕をほどき、両手を腰に置くと、ラウルを見上げて尋ねる。
「それで、おまえはどう対応したんだ?」
「知らんと突っぱねた」
 ラウルは無表情で簡潔に答えた。
 サイファは薄く笑った。
「まあ、そうするしかないよな。それが正解だよ。おまえの下手な嘘では、必ず綻びが出るからな」
「ならば、おまえが上手い嘘をついて何とかしろ」
「難題だね。でも、あんな思い違いをさせたまま、放ってはおけないよな」
 真面目な顔でそう言いながら、手早く上着の前を閉め、詰襟のフックを掛けた。前髪をさらりと掻き揚げる。
「何かいい策がないか考えてみるよ。おまえは知らん振りを通せ」
「言われなくてもそうする」
 ラウルはムッとして言った。
 サイファはふっと表情を緩めると、手を振りながら医務室を出て行った。

 翌日——。
 その日はラウルの往診の日だった。
 本来、ラウルの仕事は医務室での診察のみである。だが、サイファの依頼により、例の事件の被害者を往診することになった。基本的には、入院するほどではない者、退院したが全快していない者をまわる。一回の巡回につき、二、三箇所ほどだ。初めの頃はほぼ毎日まわっていたが、順調に回復した者も多く、今では週に二回ほどになっていた。そろそろ週一回にしても良さそうなくらいだった。
 往診にはアンジェリカが同行した。被害者にはラグランジェの人間も多く、「呪われた子」である彼女には、嫌悪の眼差しを向けられることが度々あった。また、ラグランジェ以外の人間からも、別の理由で嫌悪されることが何度もあった。爆発事故の原因については、魔導の実験中の過失ということになっていたが、それを起こしたのがラグランジェ家であることは本家も認めており、公式発表もされている。被害者の前に姿を現せば、怒りをぶつけられるのは当然のことといえる。
 彼女はどんな目で見られても、どんな罵声を浴びせられても、ただひたすら耐えていた。事件のことを責められれば、頭を下げて謝罪した。すべては自分の責任だと思っているからだろう。そのうち耐え切れなくなり、また長い眠りに陥ってしまうのではないか——ラウルはそう危惧したが、彼女にその兆候は見られなかった。
 往診を続けるうちに変化が現れた。アンジェリカにではなく、周囲の方にである。彼女に対する態度が軟化したのだ。もちろん、そうでない者もいる。だが、半数以上は変わったといってもいい。それは、まぎれもなく彼女の真摯な態度によるものだった。

 コンコン。
 医務室の扉がノックされた。
「入れ」
 ラウルは頬杖をついたまま、無愛想に返事をした。
 ガラガラと扉が開く。
 そこから姿を現したのはアンジェリカだった。往診に同行するために来たのだ。軽い足どりで中に入っていく。
 彼女を一瞥すると、ラウルは机に手をついて立ち上がった。床に置いてあった鞄を手に取り、椅子の上に荒っぽく投げ置いた。机の上にはカルテらしき書類が広げられている。どうやらこれから準備をするようだ。
「来るの、少し早かったかしら」
「座って待っていろ」
「ええ」
 アンジェリカは、壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、行儀よく座った。両手をきちんと膝の上にのせ、背筋をピンと伸ばし、大きな瞳でラウルを見つめる。
「卒業論文は進んでいるか」
 ラウルは手を動かしたまま、唐突に尋ねた。
「もうすぐ提出できるわ」
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。
「ジークはもう提出したのよね?」
「……誰に聞いた」
 ラウルは手を止めて彼女に振り向いた。まさか、彼女がその話題を振ってくるとは思わなかった。しかも、何の屈託もないように見える。
「リックが教えてくれたの。きのうでしょう? 一番乗り?」
「そうだ」
「すごいわね」
 アンジェリカは嬉しかった。ジークはしっかりと頑張っているのだ。両手両足が不自由な状態で、誰よりも早く仕上げるなど、並大抵のことではない。もちろん、サイファが手伝ったことは知っていたが、それでも彼の努力がなければ叶わなかっただろう。自分も負けてはいられない、頑張らなければ——心の中で決意を新たにした。
「今日はどこへ行くの?」
 機嫌よく弾んだ声に、ラウルは短い返答で応じる。
「病院だ」
「えっ?」
「ジークが今日から本格的にリハビリを始めた。その様子を聞きにいく」
 机の上に広がっていたカルテを、ファイルにまとめて鞄に入れる。
「でも、往診って、病院には行かないんじゃ……」
 アンジェリカはうろたえた。胸を押さえ、顔を曇らせる。
 ラウルは無表情のまま、じろりと冷たい目を向けた。
「何だ?」
「…………」
 アンジェリカは彼の視線から逃げるように背中を丸めた。何も答えられなかった。
「嫌なら帰れ。患者を選り好みする奴に用はない」
 ラウルは凄みのある重低音で突き放した。
 アンジェリカは顔を上げ、強気にキッと睨んだ。
「そんなこと言ってない。行くわ」
 力を込めてそう言うと、椅子から立ち上がる。そして、小さな口をきゅっと結び、まっすぐにラウルを見つめた。意志の強そうな漆黒の瞳には、小さな決意の光が宿っていた。

 リハビリ室は明るかった。大きなガラス窓から自然光を採り込む設計になっている。
 ほとんどずっと病室に縛り付けられていたジークは、その開放感に気分が高揚した。ここなら気持ちよくリハビリに打ち込めるだろうと思った。

「ジーク、調子はどうだい?」
「あ、先生」
 リハビリ室にジークの担当医が入ってきた。清潔感のある短髪に、黒のタートルネック、その上に白衣を身に着け、柔和な笑顔を浮かべている。まだ若い。20代後半くらいだろう。彼もアカデミー出身だと聞いた。そのこともあって、ジークは彼のことを良き先輩のように感じていた。
「頑張ってるね。無理してるんじゃないか?」
「大丈夫です。俺、鍛えてましたから」
 ジークは歩行訓練の足を止め、手すりにつかまったまま元気よく答えた。だが、隣の若いトレーナーは、眉をひそめて口を挟んだ。
「無理しすぎなんですよ。もう二時間ぶっ続けで、休憩さえ取ろうとしない。初日からこれじゃ、体がもちませんよ。僕の言うことは全然聞かないし……先生から何か言ってやってください」
 担当医は、彼をなだめるように笑顔で頷くと、ジークの肩にぽんと手をのせた。
「そんなに焦っちゃいけないよ」
「平気です。俺、一刻も早く、自分の足で歩けるようになりたいんです。走れるようになりたいんです」
 ジークは思いつめたように熱っぽく言葉を重ねていく。
 だが、担当医がそれを遮った。
「ん? ちょっと顔が赤くないか? それに汗も……」
「あ、それは体を動かしたからですよ」
 顔を覗き込んできた担当医を、ジークは上体をひねってかわした。
 そのとき——。
「あっ!!」
 部屋中に響き渡るほどの大声。
 担当医はジークの視線を辿るように振り返った。その目に映ったのは長身の人物——ラウルだった。入口からまっすぐこちらへ足を進めている。
「テメーずいぶん久しぶりだな。二ヶ月もほったらかしかよ」
 ジークは前のめりになりながら、乱暴な言葉で噛みついた。
「おまえの治療はこの病院に任せてある」
 ラウルは事も無げに答えた。
 それを聞いて、ジークはますます頭にきた。
「少しは責任、感じてねぇのかよ。元はといえば全部テメーのせいだろう。サイファさんは、毎日、来てくれてるぜ」
「私の顔など見たくないだろう」
「ああ、見たくねぇよ! けど、そういう問題じゃなくて、気持ちの問題だって言ってんだよ!」
 感情的に捲し立てたせいか、頭がくらくらしてきた。おまけに息苦しい。
「今さら何しに来たんだよ……ったく……」
 疲れた声でぼそりと言うと、頭を押さえ、ふうと息を吐いた。
 そのとき、一瞬、ラウルの後ろに小さな人影が見えた。
 ドクン、と心臓が飛び跳ねる。
 まさか、今の……。
 体を傾け、首を伸ばし、その正体を確かめる。
「久しぶり、ね」
 懐かしい声、夢にまで見た姿——。
 アンジェリカだ。
 彼女は、ばつが悪そうなぎこちない笑顔を浮かべていた。ジークに見つかり観念したのか、ラウルの後ろに隠れるのをやめ、遠慮がちに出てきた。薄いピンク色のブラウスに、紺色のカーディガンを羽織っている。短めの白いスカートがふわりと揺れた。
「あ……アンジェリカ……」
 ジークは頭が真っ白になった。呆然と彼女を見つめる。そして、何かに操られているかのように、手すり伝いに一歩、また一歩とふらふら足を進めていく。
「ちょっ……あの……」
 アンジェリカは困惑して後ずさった。
 ジークは歩みを止めなかった。手すりを放し、心もとない足どりで彼女に向かう。
 だが、彼の足はそれに耐えられるほど回復していなかった。
 床につまづき、膝がガクリと折れた。
 ぐらりと視界が揺れる。
 彼の体は斜めにつんのめった。
「ジーク!」
 アンジェリカはとっさに地面を蹴った。倒れ込むジークの体を受け止める。しかし、その重みに耐えかね、彼を抱えたまま崩れるように床に座り込んだ。
「だ……大丈夫?」
「やっと……つかまえた……」
 ジークは苦しげに、荒い息を吐きながらそう言うと、彼女の背中に腕をまわした。ぎゅっと力を込める。アンジェリカの首筋に、熱い吐息がかかった。
「ジー……ク……?」
 背中の手がだらりと落ちた。頭の重みが肩にのしかかる。
 アンジェリカははっとした。
「意識をなくしてる。それに、すごい熱だわ」
 助けを求めるように、ラウルを見上げた。
 彼は素早くジークを引き離すと、額に大きな手をのせて熱を診た。そして、その体を抱えて立ち上がる。
「病室で休ませる。501号室か?」
「あ、はい、エレベーターで行きましょう」
 担当医はそう返事をすると、すぐに誘導を始めた。
 ジークを抱えたまま、ラウルは彼について歩く。アンジェリカも小走りで、その後を追う。ラウルの腕の中でぐったりするジークを見つめながら、彼女は心配そうに顔を曇らせた。
「大丈夫なの?」
「たいしたことはない」
 ラウルは感情なく言った。
「急激に無理をしたせいで、疲れが出たのだろう。こいつは限度を知らん奴だからな」
「すみません」
 担当医は申しわけなさそうに謝った。少し落ち込んでいるような声だった。

 ラウルはジークをベッドに寝かせ、汗を拭いた。
 ジークの顔はまだ熱を帯びているようだった。息も少し苦しそうだ。ラウルはたいしたことはないと言っていたが、それでもアンジェリカの不安は拭えなかった。祈るように両手を組み合わせる。
「おまえはそいつに付いていろ」
「わかったわ」
 アンジェリカが真剣な顔で頷くと、ラウルは担当医とともに出て行った。リズムの違うふたつの足音が、次第に遠ざかっていく。
 足音が聞こえなくなると、静寂だけが残った。奇妙なくらいに音がしない。この階には他の入院患者はいないのかもしれない。そう思えるくらいだった。
 アンジェリカはベッド脇のパイプ椅子に、音を立てないようそっと腰を下ろした。彼の火照った顔をじっと見つめる。胸がズキリと痛んだ。
 ——ごめんなさい、ジーク。
 心の中で詫びた。ラグランジェの問題に巻き込んでしまったこと、こんな目に遭わせてしまったこと、そして、ずっと会いにいかなかったこと——彼には謝るべきことが山のようにある。いくら謝罪しても足りない。
 だが、どうやって償えばいいかわからなかった。出来ることなら償いたい。だが、自分の命が残り少ないのだとしたら、軽率な行動はすべて彼を傷つけることになる。自分に出来るのは、もう彼に会わないこと。それだけ。そう思っていたのに……。
 彼女は固く口を結び、膝の上にのせた両手をぎゅっと握りしめた。

 それから一時間ほどが過ぎた。
 病室の扉が静かに開き、そこから担当医が入ってきた。振り返ったアンジェリカに、にっこりと微笑んで尋ねかける。
「どう?」
「まだ眠っているわ。だいぶ落ち着いたみたい」
 彼女の言葉どおり、ジークは規則正しい寝息を立てていた。顔はまだ赤かったが、息苦しそうにはしていない。
「ラウルは?」
 今度はアンジェリカが尋ねた。
「ジークの骨折の経過とリハビリの様子を聞いてから帰ったよ。君はジークが落ち着くまで付き添うようにって」
「そう」
 彼女は素っ気なく答えて、立ち上がった。
「もう落ち着いているから、私も行くわ。あとはお願いします」
「起きるまで待っててあげたら?」
 担当医は穏やかに微笑んで言った。
「いえ……」
 アンジェリカはとまどいながら目を伏せた。
「ジークは君に会いたがっていたようだけど」
「……会うわけには、いかないから」
「どうして?」
「中途半端な思い出なら、ない方がいいでしょう?」
 下を向いたままそう言う彼女を、担当医は怪訝に見つめた。
「そうかな?」
 考えを巡らせながら首を傾げ、自分の細い顎に手を添える。
「君たちの事情はよくわからないけれど、思い出がないことの方が悲しいんじゃないかな?」
「見解の相違ですね」
 アンジェリカはそう言って、にっこりと満面の笑顔を作って見せた。緩やかにお辞儀をすると、病室から出て行こうとする。
「逃げているのかい?」
 後ろから投げかけられた担当医の言葉に、彼女の足は止まった。
 ——逃げている? 私が……?
 アンジェリカの鼓動は次第に強くなっていく。胸が壊れそうに痛い。頬を一筋の汗が伝った。
 ——違う、そうじゃない。こうするしかないの。事件の責任は私にあるから。そして、何よりジークを傷つけたくないから……。
 ずっとそう思ってきた。そのつもりだった。
 なのに、たった一言で、こんなにも心が掻き乱されている。
 それは、彼の言ったことが真実だからではないのだろうか?
 本当は、自分が傷つきたくないだけ、怖がっているだけでは——。
「ごめん」
 担当医の謝罪が、彼女を現実に引き戻した。頬の汗を手の甲で拭う。
「ジークのこと、お願いします」
 背中を向けたまま、感情を抑えた声で言った。
 担当医は華奢な後ろ姿を見つめた。
「ジークに伝えることはある?」
「……無理しないで、って」
 アンジェリカはそっと扉を開けると、振り返ることなく出て行った。五歩を歩き、十歩を早足で歩き、そこからは全力で駆け出した。

 ジークは目を覚ました。
「あれ? 俺……」
 状況が把握しようと、ぼんやりとあたりを見まわす。見慣れた天井、見慣れた窓の外の景色、薄汚れた自分の鞄、図書室で借りっ放しの本——。ここが自分の病室であることはわかった。
 少し離れたところに、担当医が足を組んで座っていた。
「目が覚めたかい?」
 人当たりのよい微笑みをジークに向ける。
「熱を出して倒れたんだよ。やっぱり無理しすぎてたね」
 ジークは言われてようやく思い出した。ガバリと勢いよくシーツを捲り上げながら飛び起きる。
「アンジェリカは?!」
「もう帰ったよ。しばらくそこに座って君を看てたんだけどね」
 担当医が指差したのは、ジークのすぐ隣に広げられたパイプ椅子だった。今は誰も座っていない。夢のあとのような空虚な空間。
 だが——。
「夢、じゃない……」
 広げた両の手をじっと見つめる。あのときの感覚が、感触が甦ってくる。この腕で、この体で、確かに抱きしめたのだ。ようやく捕まえた、もう離さない——そう、思った。
 しかし、それはほんの一瞬のことだった。感覚が残っていなければ、ただの幻想と区別できなかったかもしれない。せめて一言、二言でも言葉を交わしたかった。あんなタイミングで意識をなくすなど、自分の情けなさに涙が出そうだ。ギリ、と奥歯を噛みしめる。
「伝言があるよ」
「えっ?」
 ジークの心臓がドクンと強く打った。聞きたいけれど、聞くのが怖いような気がした。
 そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、担当医はさらりと言う。
「無理しないでって」
「あ、あぁ……」
 ジークは拍子抜けしたような声で返事をした。
「おまえが逃げるから無理するんじゃねぇか」
 うつむいてシーツを握りしめ、苦笑しながら小さく独り言をつぶやく。
「彼女、ラグランジェ家のお嬢さんだよね? どういう関係?」
 担当医は微笑みを保ったまま、穏やかに尋ねかけた。
「アカデミーのクラスメイトです。……それだけです」
 ジークは低い声で答えた。それ以外に答えようがなかった。
「彼女とはもうすぐ会えなくなるの?」
「えっ?」
 担当医の質問に、きょとんとした顔を上げる。もうすぐ会えなくなる、などというと、まるで今は普通に会っているみたいだ。彼女とは二ヶ月間ずっと会えていなかった。質問と現実がちぐはぐで、頭が混乱した。
 そんな彼を見て、担当医は自分の勘違いだったのかもしれないと思った。自信がなさそうに説明をする。
「彼女がそんなようなことを言ってたから……中途半端な思い出はない方がいい、だから会うわけにはいかない、とか……」
「なんだよ、それ……」
 ジークはそう言ったきり絶句した。膝を立て、頭を抱える。
 彼女の結婚話はなくなったと聞いていた。アカデミー卒業後には会えなくなるというのも、当然それとともに白紙に戻ったはずだ。なのに、なぜ……。
 サイファからは何も聞いていない。隠しごとをされているのだろうか。嘘をつかれているのだろうか——彼に対する不安と疑念が渦巻いた。


92. 本当のこと

 翌朝、ジークは早朝に目が覚めた。
 高熱のため、昨日は夕食も摂らないうちに眠った。そのため、目が覚めるのも早かったようだ。時間的には十分すぎるほど眠ったはずだが、疲れはとれていない。ただ、熱はもう下がっているような気がする。棚に置いてあった体温計に手を伸ばし、脇に挟んで計測を始める。
 コンコン——。
 扉がノックされた。
「はい」
 少し掠れた声で返事をした。声を出したのは随分と久しぶりのような気がした。
「もう起きていたのか」
 そう言いながら入ってきたのは、サイファだった。濃青色の制服を身に着けている。
 ジークは慌てて起き上がった。こんな時間に来るのは先生か看護師だと思い込んでいたので、心の準備が出来ていなかった。
「寝たままでいいよ。ちょっと様子を見に来ただけだから」
 サイファは軽く右手を上げてそう言ったが、ジークは再び身を横たえることはしなかった。上半身を起こし、彼に顔を向ける。
「倒れたって聞いたけど、大丈夫かい?」
「ちょっと熱が出ただけです。もう下がりました」
 そう答えたあと、脇に挟んだ体温計のことを思い出した。そろそろ計測時間の三分だ。そっと取り出し、横に伸びた銀色の棒を目で追う。起き抜けにしてはやや高めだが、平熱といってもいい数値だった。
 サイファもそれを覗き込んだ。そして、にっこりと笑う。
「焦って無理をしては、逆に遠回りになってしまうこともある。先生の言うことは聞いたほうがいいよ」
「はい」
 ジークは素直に答えた。ラウルに説教されると無条件に反発したくなるが、サイファが相手だと従順になることが多い。好き嫌いもあるが、それとは別に、彼には逆らいがたい雰囲気があるのだと思う。
「じゃあな」
 サイファは軽く右手を上げて、踵を返した。
「あ、あの!」
 ジークは身を乗り出して呼び止めた。
 サイファは振り返った。
「何だい?」
 だが、ジークは何も答えられなかった。唇を噛み、うつむいている。何か言いたいことがあるが、切り出せずにいるようだ。サイファにはそれがわかったが、無理に聞き出すことはしなかった。
「あしたまた来るよ」
 にっこりと笑ってそう言い、扉に向かって足を進めようとする。
 ジークはとっさに彼の手首をガシッと掴んだ。かなり強い力だった。
 サイファは驚いた面持ちで振り返った。
「す、すみません」
 ジークは我にかえり、顔を赤らめて謝った。慌てて手を放す。自分でもこんな行動に出てしまったことに驚いた。それほど思い悩んでいたのだろう。
 サイファはわずかに微笑んだ。
「言いたいことがあるんだね」
「……はい」
 ジークは目を伏せ、小さく頷いた。
「あまり時間はとれないんだ。単刀直入に言ってくれるかな」
 そう言ったサイファの声には、普段の柔らかさはなかった。
 ジークは固い表情で話し始めた。
「アンジェリカが俺に会いに来ないのは、そのうち会えなくなるから……みたいなことを言ってたらしいんですけど、それってどういう意味ですか? サイファさん、何か知ってるんですか?」
 冷静にと思っていたが、感情の起伏の激しい彼にとって、それは難しかった。口調が次第にきつくなっていった。顔を上げ、責めるような強い眼差しを向ける。
「ああ、それか」
 サイファは軽い調子で言った。
 やはり知っていた——ジークは頭に血が上っていく。奥歯をぎり、と噛みしめる。
「私もつい先日、ラウルに聞いたばかりなんだけどね」
 ジークとは対照的に、サイファはさらりと話していく。
「どうやらあの子、自分はもうすぐ死ぬと思っているらしいんだ」
「えっ?」
 ジークの目が大きく見開かれた。
「完全な思い違いだよ。自分の髪や瞳が黒いのは、遺伝子に異常があるせいだと考えているようだ」
「あっ……」
 ジークは思わず声を漏らした。
 その話は知っていた。一時期、自分もそれが真実ではないかと思っていたことがある。
「知っていたのか?」
 サイファは驚いたように目を大きくした。
 ジークは申しわけなさそうに身を小さくした。
「リックから聞いたんですけど……確か、四年生になったくらいの頃に、アンジェリカがそう言ってたらしいです。でも、すっかり忘れてて……」
「そうか、そんなに前からか……」
 サイファは腕を組み、難しい顔でうつむいた。軽くため息をつき、窓際へと歩き出す。革靴がタイルの床を打ち鳴らす。無機質な音が病室に響いた。
「何とか誤解を解いてやりたいとは思っているんだけどね。いい手が、思い浮かばないんだ」
 窓枠に左手をおき、ガラス越しの空を見上げた。青色の空に薄いレースのような雲が掛かっている。枯茶色の小さな鳥が二羽、目の前を横切った。
「ジーク、どうしたらいいと思う?」
 ゆっくりと振り返り、薄い笑みを浮かべ、ベッドの上の彼を見つめる。鮮やかな青の瞳が小さく揺れた。
 ジークは何も答えられずに目を伏せた。サイファに思いつかないものを、自分が思いつくとは思えない。自分が考えついた方法はひとつだけ——おそらくサイファもそれはわかっているはずだ。わかっていて尋ねているのだろう。決心がつかないのだ。迷っているのだ。
 そして、それは自分も同じだった。アンジェリカにとって、彼女の家族にとって、それが良い方法なのかわからない。だから、それを口にすることが出来なかった。彼を後押しすることが出来なかった。
 ギュッとシーツを握りしめた。力を込めた手は、わずかに震えていた。体中からじわりと汗が滲んだ。
 沈黙がふたりの間に横たわる。ふたりとも身動きすらしなかった。
 遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
 微かな木々のざわめきが聞こえた。
 何も聞こえなくなった。
 何も……。
「本当に、まいるよ」
 サイファが長い静寂を打ち破った。落ち着いた声だった。
 ジークが顔を上げると、彼は寂しげに微笑んでいた。

 アンジェリカはゆっくりと目を開いた。それとともに、意識も現実に引き戻される。
「私、眠っていたのね」
 額に手の甲をのせ、ぼんやりとつぶやく。独り言だ。ここは自分の部屋で、自分のベッドで、自分以外に誰もいないことは知っている。
 布団も掛けていなかったことに気がつく。薄手のネグリジェ一枚で、少し肌寒い。
 昨晩からずっと考えを巡らせていた。ジークのこと、事件のこと、自分のこと、そして、これからのこと——。
 一睡もできないだろうと思っていた。だが、いつのまにか眠ってしまったらしい。自分は思ったよりも図々しく出来ているようだ。
 だが、眠ったおかげで冷静になることができた。頭が冴えた。もういちど考えを巡らせる。

 会わないのはジークのため、そう思っていたのは事実。
 でも、自分が怖れていたことも事実。
 ジークと一緒にいれば、その時間を手放すことに未練が生まれる。きっと死ぬことが怖くなる。恐怖心に対する恐怖を感じていた。だから、そのことから逃げていたのだ。
 それは認めざるをえない。
 だが、自分の気持ちを除外して考えたとしても、やはり会わない方が良いのではないか。
 一緒の時間が幸せであればあるほど、いなくなってからの傷が深くなる。
 今、自分が身を引けば、ジークの傷はまだ浅くてすむ。
 だから……。
 そこで考えが行き詰まる。いや、これが結論なのだろうか。
 目を細め、ベッドの天蓋を見つめる。
 何かが引っかかっている。とても大切な何かが……。見えそうで見えない、手が届きそうで届かない。その何かを掴むように、額にのせていた右手を上方に伸ばした。指先が不安そうに空をさまよう。
『思い出がないことの方が悲しいんじゃないかな?』
 ふいに、ジークの担当医の言葉が脳裏によみがえる。あのとき、激しく揺さぶられた言葉だ。
 思い出がない?
 思い出が、欲しい……?
 思い出……。
 突然、閃光のような何かが頭の中を駆け抜けた。
 はっとして大きく目を見開く。鼓動が跳ね上がる。それを鎮めるかのように、両手を重ねてぎゅっと胸を押さえる。
 そう、だった。
 思い出した。
 曾祖父にジークに会うなと言われたとき、自分はアカデミー卒業まで時間をくれるように懇願した。
 それは、思い出が欲しかったから。
 いつか、それが自分を傷つけることがあったとしても、何もないよりはずっといいと思ったのだ。
 この先、強く生きていくために、必要だと思ったのだ。

 ——私、自分勝手だった。

 大きく瞬きをする。涙が一筋、流れ落ちた。耳を濡らす。髪を濡らす。
 自分は思い出を欲したくせに、ジークには与えようとしなかった。
 彼のためだなんて決めつけて。
 自分が逃げるための口実にして。
 今からでもまだ間に合う。会いに行かなければ——。

 アンジェリカはベッドから飛び降り、ネグリジェを脱ぎ捨てた。

 コンコン——。
 本日二回目のノックだ。
 ジークはパジャマからジャージに着替え終わったところである。これから歩行訓練のため、リハビリ室に向かうつもりだった。
「はい?」
 少し語尾を上げて答える。
 こんなに朝早くに誰だろうと思った。サイファは出て行ったばかりだ。今度こそ担当医か看護師だろうか。
 ガチャ——。
 そろりと遠慮がちに扉が開く。
「えっ……?」
 ジークの動きが止まった。目だけが大きく見開かれていく。
「おはよう」
 少し照れたようにそう言いながら、アンジェリカが開いた扉から入ってきた。ジークに向かってまっすぐに立ち、後ろで手を組みニコリと笑う。
 ジークは弾かれたように身を乗り出した。
「アンジェリカ!!」
「待って!!」
 アンジェリカは開いた両手を前に突き出し、大きな声で制止した。
「逃げないから、落ち着いて」
 ゆっくりとなだめるように言う。
「あ、ああ」
 ジークはまだしっかり歩けもしないのに、ベッドから飛び降りようとしていた。彼女に止められなければ、間違いなく転倒していただろう。
 アンジェリカは扉を閉め、中へと足を進めた。そして、ジークの隣にちょこんと腰掛ける。ベッドのマットがわずかに沈んだ。彼を見上げると、にっこりと笑いかける。
 ジークは動揺した。顔が熱くなるのを感じた。顔だけでなく、頭も沸騰したように熱い。彼女がなぜここへ来たのか、なぜここに座っているのか、なぜ微笑んでいるのか——様々な疑問が浮かぶ。だが、何も考えられない。
「ごめんなさい、ずっとお見舞いに行かなくて」
「あ、いや……」
「今さらかもしれないけれど、これからは毎日、お見舞いに行くから」
 アンジェリカはしっかりとした口調で、明るく歯切れよく言った。屈託のない笑みを見せる。
 しかし、ジークの疑問は解決していない。呆然としながら口を開く。
「どうして急に……」
「迷惑?」
 アンジェリカは首を斜めに傾げて尋ねた。大きな瞳で見つめながら、じっと彼の返事を待つ。
 ジークは慌てて、首をぶんぶんと横に振った。
「良かった」
 アンジェリカは胸に手をあて、ほっと息をつきながら笑った。
 これは、夢だろうか、幻だろうか——ジークは混乱していた。あまりに唐突すぎて、現実だという実感を持てなかった。目の前の少女が実体だという自信がなかった。手を伸ばして、触れて、確かめたかった。だが、近すぎる距離に身じろぎさえ出来ずにいた。
「今日は手ぶらだけど、これからは何か持ってくるわね」
「いいよ、手ぶらで。来てくれるだけで」
 ジークはあやふやな思考にとらわれたまま、ほとんど反射的に答えを返す。
 アンジェリカはくすりと悪戯っぽく笑った。
「手ぶらじゃなくてもいいんでしょう?」
「ああ、まあな……」
 ジークは複雑な表情で彼女を見た。
 まるで夢を見ているようだった。彼女が去ったあの日から、ずっと求めてやまなかった光景が、今、自分の目の前にある。何よりも嬉しいことのはずだった。それなのに、なぜか素直に喜べないでいた。それは、まだ現実としての実感がないから、そして、棘のように引っかかっていることがあるから——。
 彼女は今まで頑として来ようとしなかった。きのうも会うわけにはいかないと言っていたらしい。なのに、今朝になっていきなりこれである。今までの真逆と言ってもいい。
 この一日でいったい何があったのだろうか。どういう心境の変化があったのだろうか。尋ねようとしたが、彼女はそれをはぐらかした。答えたくないということだろう。
 無理に追及すれば、またいなくなってしまうのではないか。そんな不安を感じて、何も訊けなくなってしまった。情けないくらいに臆病になっていた。せっかく戻ってきた彼女を、再び失うことだけは避けたかったのだ。
 アンジェリカはジークの黒いジャージに目を落として口を開いた。
「ジーク、もしかしてこれからリハビリ?」
「まあな。朝食前の自主練」
「車椅子で行くの?」
「ああ」
 その答えを聞くと、アンジェリカは跳ねるように立ち上がり、嬉々として隅に畳んであった車椅子を広げた。やけに手際がいい。ラウルの手伝いで覚えたのだろうか。
「私が押していってあげる」
「いい、自分で行ける」
 ジークは慌てて言った。照れたように頬を赤く染めている。
 アンジェリカはくすりと笑った。
「じゃあ、少しだけお手伝い」
 そう言うと、ジークの前にすっと手を差し延べた。
 ジークは呆然とその手を見つめた。細い指先はきれいに揃えられ、自分の目線よりやや下に留まっている。
 心臓が高鳴った。
 おそるおそる手を伸ばし、その上に自分の手を重ねる。
 その瞬間、何かが体中を駆け抜けた。ゾクリと震えがきた。だが、次の瞬間には、小さく柔らかな手の温もりに、大きな安らぎを感じた。そのとき、初めて、現実なのだと実感した。
「立てないの?」
 アンジェリカが心配そうに顔を傾げて覗き込んだ。
「いや、大丈夫だ」
 ジークはふっと息を漏らして口元を上げると、彼女の手を掴んで立ち上がった。ゆっくりと体の向きを変え、車椅子に腰を落とす。そして、車輪に手を掛け、移動する準備を整えた。
「さあ、行くか」
「行きましょう」
 ふたりは顔を見合わせて小さく笑いあった。

 それから二週間が過ぎた。
 アンジェリカは宣言どおり、毎日、ジークの見舞いに来た。
 そのおかげ、というわけでもないだろうが、ジークの足はみるみる回復していった。走るのはまだ無理があるが、普通に歩けるまでにはなっていた。

「いいお天気!」
 アンジェリカはよく通る声を響かせ、廊下から中庭に飛び出した。高く青い空を仰いで、身軽にくるりとまわる。光を受けた黒髪が煌めきながら舞い上がり、薄地の短いスカートがふわりと風をはらんだ。
「おい、気をつけろよ、転ぶなよ!」
「平気よ!」
 ヒヤヒヤしながら注意したジークの言葉を、彼女は目映い笑顔で受け流す。
 ジークは諦めたようにため息をついた。だが、その表情は柔らかくほころんでいた。彼女のあとに続き、緑の芝生に足を踏み入れる。真上から強い光が降り注いだ。眩しくて目を細める。
 アンジェリカは藤のバスケットを後ろ手に持つと、両足を揃えてジークに向き直り、くすりと笑った。

 そこは病院の中庭だった。鮮やかな緑の木々と、絹のカーテンのような噴水が、心地よい空間を作り出していた。時折、鳥のさえずりも聞こえる。ここだけ時間の流れが違うような、そんな錯覚さえしてしまいそうだ。
 一角には、木製のベンチが置かれていた。三人がけくらいの大きさだろう。
 ふたりはそこに並んで腰を下ろした。
 ジークは背もたれに両肘をかけ、目を細めて空を仰ぎ見る。パジャマでもジャージでもなく、まったくの普段着だった。とても入院患者には見えない。アンジェリカは彼の反対側にバスケットを置き、その横顔を見つめて微笑んだ。

 アンジェリカは毎日のように、ジークをここへ連れ出していた。薬品くさい病室に閉じこもりきりでは、治るものも治らないと思ったのだ。
 ジークも、最初こそ乗り気ではなかったが、実際に来てみると、すっかりこの場所が気に入ってしまった。正確にいえば、この場所でアンジェリカと過ごす時間が気に入っている、ということだが——。
 とはいえ、いつもふたりきり、というわけではなかった。
 偶然、同じ時間に見舞いに来たリック、セリカと一緒のときもあった。もっとも、彼らはそれ以降、アンジェリカとかち合わないように、時間をずらすようになった。ジークに気を遣っているのだろう。
 また、サイファと一緒のときも何度かあった。アンジェリカとサイファに挟まれてベンチに座っていると、ジークは必要以上に緊張してしまった。それを悟られないように、平常を装っているつもりだったが、傍から見れば、ほとんど無駄な努力といってよかった。
 アンジェリカもサイファも、そんなジークの気持ちをわかっていて、反応を楽しんでいるようだった。ジークはますます居たたまれない気持ちになった。だが、嫌ではなかった。そういう時間もいい思い出になるだろうと素直に思えた。

「ジーク、今日ね、私も卒論を提出したわ」
「えっ? まだ出してなかったのかよ」
 ジークは驚いて振り向いた。自分が提出した頃、アンジェリカももうすぐだと聞いていた。あれから二週間以上が過ぎている。もうとっくに提出しているものと思い込んでいた。
 アンジェリカは肩をすくめて笑った。
「早さではジークに負けちゃったから、質で勝負しようと思って、仕上げに時間をかけたの」
「おまえ、どこまで負けず嫌いなんだよ」
 ジークは呆れたように言った。だが、顔はそれほど呆れていない。
「ジークだって負けず嫌いでしょう?」
「おまえほどじゃねぇよ」
「ほら、やっぱり負けず嫌い」
 アンジェリカはくすくす笑って、小さく彼を指さした。
 ジークはぱちくりと大きく瞬きをした。そして、彼女の言うことを理解すると、ばつが悪そうに目をそらせた。ベンチにもたれかかり、耳元を赤らめながら空を見上げる。
「まあ、お互いさま、だな」
「ええ、そうね」
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。

 ジークは横目で彼女の向こう側を盗み見た。
「今日は、何だ?」
「えっ?」
 唐突で言葉足らずなジークの質問に、アンジェリカはとっさに反応できなかった。彼の催促するような視線の先をたどる。そこにあったのは、彼女が持参した藤のバスケットだった。ようやく彼の言いたいことに気がついた。
「ああ、今日はチーズケーキよ」
 そう言うと、チェック柄の布をめくり、中から皿に載せたチーズケーキを取り出した。透明の薄いラップを外し、銀のフォークを添えて差し出す。
「どうぞ」
「悪りぃな」
 言葉とは裏腹に、表情は嬉しそうだった。それを受け取ると、さっそく大きなひとかけらを口に運ぶ。
 アンジェリカは横から覗き込むよう彼を見つめる。
「どう? 美味しい?」
「ああ、うめぇよ」
 ジークはケーキを口に入れたまま、子供みたいに無邪気に答えた。本心からの率直な言葉で、ひいき目やお世辞は抜きである。彼の様子を見ていれば、それを疑う余地はない。
「良かった」
 アンジェリカは安堵の息をつき、幸せそうに顔をほころばせた。

 これは、今日だけではなく、毎日のことだった。
 アンジェリカは差し入れと称し、来るたびに食べるものを作ってきた。クッキー、マドレーヌ、プリンなど、主に菓子類である。サンドイッチだったことも二度ほどあった。
 もちろん、彼女の一方的な押しつけなどではなく、ジークの方もそれを心待ちにしていた。お菓子が食べられることもそうだが、彼女が自分のために作ってくれるということが、何よりも嬉しかった。しかも、それが美味しいのだから申し分がない。

 アンジェリカはゴソゴソと何かをバスケットから取り出した。それは、小さめの水筒と、大きめのマグカップだった。水筒の中には温かいコーヒーが入っている。それをマグカップに注ぎ、チーズケーキを食べ終わったジークに手渡した。代わりに、彼は空になった皿を返した。
 バスケットの中を片付けながら、アンジェリカは尋ねる。
「ジーク、いつ退院できるの? そろそろ?」
「あ、いや、実は、もう退院していいって前から言われてんだ」
 ジークは事も無げに言った。マグカップを傾け、コーヒーを口に流し込む。熱くはないが、ぬるくもない。飲むには適温である。
「え? どういうこと……?」
 アンジェリカは顔を上げ、目をぱちくりさせた。
 ジークは空を見ながら答える。
「退院してもどうせ通院しなきゃなんねぇし、面倒だから完治するまで居座ろうかと思って」
「何よそれ。ジークってそんなに横着者だったの?」
 アンジェリカは呆れたように尋ねかけた。
 ジークは彼女にちらりと視線を投げると、微かに口元を緩めた。
 アンジェリカが見舞いに来てくれるのが嬉しいから、だから、出来ることならまだ退院はしたくない——本音をいえば、その気持ちが大きかったが、そんな馬鹿みたいなことは、口が裂けても言えない。
 だが、彼女はまるで見透かしたかのように言った。
「私なら、ジークの家にだって、毎日お見舞いに行ってもいいんだけど」
「ばっ……お、俺んちは遠いぞ……」
 本当に見透かされたのか、ただの偶然なのか、ジークにはわからなかった。照れ隠しにもならない、意図不明の返答をしてしまい、ますます恥ずかしくなる。顔が熱くなった。
 アンジェリカは隣でくすくす笑っていた。
「ま、居座ってもせいぜいあと一週間ってとこだろうけどな」
 ジークはベンチの背もたれに両肘を掛け、大袈裟に空を仰いだ。風が心地いい。火照った頬の熱をさらっていってくれるかのようだ。
「退院したら、何かしたいことってある?」
「そうだなぁ……全力疾走してぇなぁ」
 緩やかに流れる薄い雲を眺めながら、のんびりと答えた。
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。とてもジークらしい答えだと思った。
「じゃあ、川辺にでも全力疾走しに行く?」
「いいな、それ」
 彼女の提案に、ジークは声を弾ませて同意した。
 川辺と聞いて、いつかの光景を思い出す。煌めく水面、冷たい水、浅く流れる水音、砂利の音、小石の音、沈む夕陽、真っ赤な夕景、細い石段、薄汚れたガードパイプ——それほど昔のことでもないのに、なぜだかとても懐かしい気がした。再び、あの場所にアンジェリカと一緒に行ける。そう思うだけで、胸がこそばゆくなる。
「他には?」
「うーん……今は思いつかねぇな」
 ジークは斜め上に視線を流し、コーヒーを口に運ぶ。考えているような素振りを見せたが、実際のところは、川辺での全力疾走で頭がいっぱいだった。
 アンジェリカは大きな瞳で、じっと彼の横顔を見つめる。
「じゃあ、私の行きたいところへ一緒に行ってくれる?」
「ああ、いいぜ。どこだ?」
 ジークは浮かれた気持ちを抑えようとしたが、あまり効果はなかった。声は素直に弾んでしまった。
「遠いんだけど、海へ行ってみたいの。まだ見たことがなくて、一度、見てみたいって思ってたの。あと、静かできれいな森の湖があるって聞いたから、そこへも行ってみたい。ジークの家でまた星も見たいし……まだまだたくさんあるわ。毎日、出かけても足りないくらいね!」
 アンジェリカははしゃぎながら言った。ジークに負けないくらいだった。無邪気な笑顔を見せている。
 ジークは空に向かって笑いながら答える。
「おまえ、欲張りすぎだって。そんなに急がなくてもいいだろ」
「……どうして?」
 少しうわずった声。それまでの雰囲気とは違う、ためらいがちな、張り詰めたような問いかけである。
 ジークは驚いて振り向いた。
 彼女は目を伏せ、何かに耐えているような顔をしていた。懸命に無表情を取り繕っている。
「おまえ……まさか、まだ、遺伝子の異常だとか思ってんじゃねぇだろうな」
 ジークは眉をひそめて尋ねた。
「思っているわよ」
 アンジェリカは当然のように答えた。今度はしっかりとした声だった。視線をまっすぐ前に向け、何事もなかったかのように、普通の表情に戻っている。
 ジークは顔をしかめた。ほとんど忘れかけていた。彼女が見舞いに来るようになってから、毎日、楽しいことばかりだった。彼女も楽しそうで、気にする素振りなど見せなかった。だから、大切なはずのことなのに、隅に追いやられていた。実際は何も解決していなかったのだ。
「それは違うんだ。おまえの誤解だって」
「いいの、私、もう逃げないから」
「だから、違うって言ってんだろ!」
 いくら違うと言っても、その理由がなければ、納得させることは出来ない。それはわかっていた。だが、自分ではどうしようもないのだ。ただ、違うと言い続けるしかなかった。
「ジークは知っているんでしょう?」
 アンジェリカは目を細めた。ゆっくりジークへと振り向く。微かに潤んだ黒い瞳で、まっすぐ彼を見つめる。黒髪がさらさらと風に揺れた。
「本当のこと、教えてくれる?」
 緩やかな口調で、旋律を奏でるように尋ねかける。
 ジークはどきりとした。鼓動が速くなっていく。ここで言い淀んでは、ますます誤解されてしまう。しかし、焦れば焦るほど言葉が出てこない。唇を噛んだ。
 彼女の思っている本当のことと、自分の知っている本当のことは、違うものだ。だが、それを答えるわけにはいかないのだ。
「あっ……ごめんなさい、困らせるようなことを言って」
 アンジェリカははっとして肩をすくめると、申しわけなさそうに笑った。そして、明るい声で力強く言う。
「私は大丈夫だから」
 ジークは表情を曇らせた。
 彼女が無理をしていることくらいわかる。こんな無理をさせてしまうことが耐えられなかった。何も出来ない自分が歯がゆくて仕方なかった。
 ——サイファさん……。
 助けを求めるように、心の中でその名前を呼んだ。苦い響きが胸に広がった。

 サイファはふたりに気づかれないように、そっとその場を離れた。
 ジークの見舞いに来たのだが、中庭のふたり声を掛けようとしたとき、空気が変わったのを感じ、柱の陰に身を隠したのだ。
 ——本当のこと、教えてくれる?
 その言葉が心をえぐる。
 良い方に向かっているのではないか、このままでいいのではないか、そう思っていた矢先だった。
 だが、アンジェリカは忘れたわけでも納得したわけでもなかった。このままでは、この先ずっと彼女を苦しめることになる。彼女だけではない。ジークまでも苦しめてしまう。
「どうすればいい……」
 ふたりから十分に離れたところで、サイファは足を止めてつぶやいた。
 窓枠に手を掛け、ガラス越しに空を見上げる。無垢な青さが目にしみて痛かった。


93. 結婚式

 太陽は高い位置にあり、日射しはとても強かった。
 鮮やかな青の空を、薄い雲が流れていく。少しのあいだ眺めているだけで、動いていることが認識できるくらいだ。地上は穏やかだが、上空には強めの風が吹いているのだろう。

 その空よりも濃い青色の制服が、人気のない小径を進んでいた。サイファである。ややうつむき加減で、思いつめたような難しい顔をしていた。時折、わずかに眉根を寄せたりもする。何か考えごとをしているようだった。
 ほんの十数分前、彼はジークを見舞うために病院へ行っていた。もっとも、会わずに引き返してしまったので、その目的は果たせなかった。偶然に聞いたアンジェリカの言葉が原因である。
 ——本当のこと、教えてくれる?
 何度も、何度も、その言葉を反芻し、解決策を頭から捻り出そうとする。しかし、どうしても良い方法が思い浮かばない。当然のことだろう。すでに幾度となく検討し、考え抜いているのである。今さら簡単に思いつくはずもない。
 深くため息をつく。
 いや、本当はひとつだけあるのだ。誰もが思いつく最善の方法が。
 それは、彼女の望むまま、真実を告げること——。
 おそらく、このことが頭にあるせいで、思考が停止しているのだろう。これ以上の解決方法は存在しないのだから仕方がない。
 頭では理解していても、心はそれを拒否をしている。結論を受け入れることから逃げていた。だが……。
 ——潮時、だな。
 足を止めると、ふっと息をつき、諦めたような寂しげな微笑を浮かべた。遠くを見上げ、目を細める。そのとき、空から降りてきた緩やかな風が、細い金の髪をさらさらと吹き流した。

 サイファは重厚な扉を引き、広い玄関に足を踏み入れた。非常識なほど大きな屋敷であるが、彼にとっては、生まれたときから過ごしてきた場所、住み慣れた我が家である。
 だが、このときはひどく緊張していた。
 家に入ることで湧き上がった感情だったが、根本的な原因はもちろん別のところにあった。

 重い足を騙しながら、いつもの歩調でリビングルームに向かう。
「レイチェル?」
 名前を呼びながら、柔らかな自然光が広がる部屋を見渡した。だが、彼女の姿はなかった。
 ふと、ガラス窓のひとつが半開きになっていることに気がついた。そちらに歩み寄り、庭に目を向ける。探していた人はそこにいた。
 彼女は小さな花壇にじょうろで水を遣っていた。花壇といっても、成長途中の茎と葉だけで、花もつぼみも見られない、いささか地味な状態だ。彼女が退院してから自分で作ったものである。
 例の事故ののち、彼女はアルティナの付き人を辞めた。もっとも、正式には辞任ではなく休暇ということになっている。だが、彼女に戻る意思はなかった。二ヶ月間、一度も王宮には行っていない。
 そのため、彼女には時間が有り余っていた。花壇はその時間を埋めるために作っているようなものだった。また、気持ちを落ち着けるためでもあったのだろう。何でもないように振る舞ってはいたが、自分が引き起こした惨事の重みを忘れたわけではない。
 サイファは知っていた。今でもときどき彼女が夢にうなされていることを。いくら気丈な彼女とはいえ、眠っているときは心が無防備になるのだろう。そんなとき、自分に出来ることは少ない。どうしようもなく無力だと思う。
 レイチェルは振り返ることなく、水やりを続けていた。窓際からの視線には気づいていないようだ。後ろ姿がとても無防備に見えた。
 サイファは足音を立てないよう庭に降りた。背後からそっと近づいていき、小さな彼女を包み込むように抱きしめる。金色の髪がふわりと空気をはらんだ。
「え? サイファ?」
 レイチェルは傾けていたじょうろを水平に戻した。そして、抱きすくめられたまま、わずかに首をまわして彼を見た。大きな目をぱちくりさせて尋ねる。
「どうしたの? ずいぶん早かったのね」
「ただの休憩だよ。君に会いたくなった」
 サイファは彼女にまわした腕に、ぎゅっと力を込めた。
「何か、話があるんじゃない?」
 レイチェルは優しい声で尋ねた。いつもより緩やかな口調だった。
 サイファは腕を放した。体ごと振り向いた彼女と視線を合わせ、ふっと柔らかく微笑む。
「少し、歩こうか」
「ええ」
 レイチェルは上品に頷いた。長い髪がさらりと小さく揺れた。

 そこは、王宮の外れにある小さな森だった。生い茂った枝葉の隙間から、幾多の細い光が地面に降りている。風が吹くたびに、光が揺らぎ、緑のざわめきが起こった。
 その森の散歩道を、ふたりは並んで歩いた。他に人影はない。
「アンジェリカのこと?」
 レイチェルは唐突に切り出した。
「よくわかったね」
 サイファはにっこりと微笑みを向ける。彼女のこういう鋭さは今に始まったことではない。特に驚きはしなかった。おそらく、庭で抱きしめたときには、すでに見透かされていたのだろう。
「相談、なんだけどね」
 サイファはそう前置きをして語り始めた。緩慢とした足どりで歩きながら、アンジェリカが誤解していること、そして、どのように誤解しているかを、順を追って丁寧かつ明瞭に説明する。
「つまり、まだあの子は自分が長くは生きられないと思っているんだ」
「そう……」
 レイチェルは顔を曇らせた。アンジェリカが何か悩んでいることは感じていたが、まさかこのような突拍子もないこととは、そして、ここまで深刻なこととは思わなかった。
「私たちは、どうすればいいと思う?」
 サイファは前を向いたまま、険しいくらいに真剣な顔で尋ねた。
 レイチェルは深く顔をうつむけて考え込んだ。横髪が頬にかかり、顔に陰を作っている。そのまま固まったように、微動さえしない。
 しばらく沈黙が続いた。
 やがて、小さな口だけが動く。
「真実を、話すしかないんじゃないかしら」
 重々しく紡がれた言葉。その響きから、浅い考えではないとわかる。話せばどうなるか、彼女なりに熟慮したのだろう。そのうえで、そうするしかないと結論を出したのだ。
 サイファは苦しげに目を細め、無言で空を見上げた。木々の切れ間から、濃い青色が覗いている。ここから雲は見えなかった。
 レイチェルは頭を持ち上げ、彼の端整な横顔をじっと見つめた。
「サイファもそう思っているんでしょう?」
「ああ、でも、今日までずっと決心がつかなかったんだ。怖かったんだ」
 サイファは淡々と答えた。ズボンのポケットに手を入れると、ふっと笑って顔をうつむける。
「情けないね」
「私だって、怖いわ」
 レイチェルは静かに言葉を落とした。強い光をたたえた瞳を、まっすぐ彼に向ける。
 サイファは薄く微笑んだ。
 彼女の強さがうらやましかった。怖いと言っているものの、すでに覚悟を決めた目をしている。自分は決心をつけるまで幾日かかっただろうか。いや、いまだに迷いが捨てきれていない。
「レイチェル、君はそれでいいの?」
 最後の意思確認をする。答えは聞かなくてもわかる。それでも尋ねたのは、彼女のためではなく、自分のためだったのかもしれない。
「サイファさえ良ければ」
 レイチェルはしっかりと彼を見据えて言った。静かだが、芯のある声だった。そして、その内容は、彼の思ったとおりのものだった。
 わずかに残っていた心の砦が崩れた。
 サイファは彼女に手を伸ばし、薄紅色の頬をそっと包み込んだ。そして、愛おしげに微笑みかけて言う。
「腹をくくるよ」
「ええ、私も」
 レイチェルも同調し、柔らかな微笑みを返した。

 サイファは腕を組むと、険しい顔で空を仰いだ。難しい現実に向き合わなければならない。
「何をどう話すか、考えておかないとな」
「ねぇ、私が話してもいいかしら」
 レイチェルは訴えかけるような眼差しで、少し遠慮がちに言う。
 サイファ目を大きくして彼女に振り向いた。それは、一家の長としての自分の役目と思っていた。彼女が話すなどということは選択肢にさえなかった。だが、言われてみれば、確かに彼女の思いも理解できる。
「話しづらくはないか?」
「それでも、私の責任だから」
 凛とした表情、凛とした声、凛とした佇まい。彼女はすべてを受け止めているようだ。いつかこういう日が来ることを予測していたのだろうか、とサイファは思う。彼女を見つめたまま、じっと考え込み、静かに口を開く。
「わかった、任せるよ。私はいない方がいいかな」
「ええ……」
 レイチェルの瞳がわずかに揺れた。申しわけなさそうに目を伏せる。
 サイファはそんな彼女を気遣い、安心させるように微笑んだ。だが、うつむいたままの彼女に、伝わったかどうかはわからない。
「いつ、話すんだい?」
「今日にでも」
 レイチェルは短く即答した。アンジェリカが悩み続けている以上、少しでも早いに越したことはない。サイファにも異存はなかった。神妙な顔で頷く。
「わかった。私は今夜は帰らない。じっくり話すといい」
「ごめんなさい」
 レイチェルは胸の前で手を組み合わせ、心苦しそうに謝罪の言葉を口にした。このことだけでなく、これまでのすべてのことについて謝罪したかった。だが、それをどう言えばいいのか、それ以前に、言っていいのかさえわからなかった。言葉は続かなかった。
 それでも、サイファには十分に伝わった。
 彼は、彼女が何を言いたがっているのかを理解していた。彼女の口をつぐませたのは自分であることも自覚していた。たとえ二人きりのときであっても、そのことは二度と口にしない——そう約束させたのは自分なのだ。もう14年以上も前のことである。
「謝るのは私の方だ。ずっと秘密を守り続けるのはつらかっただろう」
「いいえ、サイファの判断が正しかったことは知っているから」
 強い突風が吹いた。レイチェルの細い髪が舞い上がった。ドレスの形が大きく変わった。木々のざわめきが波を打って空に抜けた。いくつかの木の葉が空からはらはらと舞い降りてきた。
 サイファは目を細め、ふっと笑った。
「そろそろ仕事に戻るよ」
 レイチェルは急に不安に襲われた。彼の笑顔がどこか寂しげだったからかもしれない。どこか諦めたような声音だったからかもしれない。彼の右手を取り、両手で包み込んだ。
「サイファ、帰ってきてね」
「ああ、あしたね」
 サイファは彼女の肩に左手を置き、柔らかい頬に、そっと触れるだけの口づけを落とした。

 魔導省の塔、その最上階の一室がサイファの個室だった。
 少し狭い部屋から、この広い部屋に移り、はや数ヶ月が経過していた。初めは広すぎると思ったこの場所も、今ではもう違和感を覚えることはなくなった。むしろ、仕事をするには理想的と感じるようになっていた。彼は部屋に、部屋は彼に馴染んでいた。
 だが今日は、この理想的な部屋でさえ、仕事が手につかなかった。
 頭の回転がやたらと鈍く、集中力が途切れてしまう。かつてこのようなことはなかった。思考の切り替えは得意なはずだった。だが、今日は切り替える余裕もないくらいに、思考領域のほとんどが他のことに占められている。
 とはいえ、今日中に終えなければならないものもある。それだけは何とか片付けた。すべて書類上の仕事だった。会議はひとつもなかった。そのことには心から安堵した。今日はまともな議論が出来る状態ではない。
 革張りの背もたれに身を預けながら、疲れたように大きく息をつく。
 椅子を180度まわし、一面のガラス窓から外を眺めた。いつのまにか、すっかり闇が空を覆っていた。眼下には家々の灯りが点在している。色も形も大きさも様々だ。その灯りのもとには、人が、家族がいるのだろう。灯りと同じように、様々な人が、様々な家族が——。
 顎を上げ、目を閉じた。わずかに目蓋が震えた。
 くるりと椅子を戻し、外界に背を向ける。机上に散らばる書類を重ね、棚の中にしまった。
 ——切り上げよう。
 心の中で踏ん切りをつけると、部屋の鍵を手に取り立ち上がった。

 アンジェリカは夕食のあと、リビングルームでくつろぎながら本を読んでいた。アカデミーの勉強とは関係ないが、魔導の本である。趣味のようなものだ。
「アンジェリカ、お茶を淹れたから休まない?」
 レイチェルがトレイにティーカップを載せて入ってきた。にこやかに微笑みかける。
「ありがとう」
 アンジェリカは屈託のない笑顔を返すと、しおりを挟んで本を閉じ、すぐ隣に置いた。
 レイチェルはふたつの紅茶をテーブルに配り、アンジェリカの向かいに腰を下ろした。ソファが軽く沈む。
「どうぞ」
 きれいに指先が揃えられた手で促しながら、その紅茶をアンジェリカに勧めた。
 そして、レイチェル自身もソーサとティーカップを手に取った。熱い紅茶を少しだけ口に運ぶと、流れるような所作でソーサに戻した。
「ねぇ、アンジェリカ」
「ん?」
 アンジェリカはティーカップに口をつけたまま目線を上げた。
「お父さんのこと、好き?」
「もちろんよ。どうして?」
 紅茶を手にしたまま、不思議そうな顔で尋ね返す。母親からの質問は、随分と唐突なものだった。今までこんな質問をされたことがあっただろうかと考える。自分が記憶している限りではなかったはずだ。何かあったのだろうか。漠然とした不安が湧き上がった。
 だが、レイチェルは何も答えを示さなかった。ただ優しい微笑みを見せるだけだった。

 コンコン——。
 扉が軽快にノックされた。
 ダイニングテーブルで生徒の卒業論文を読んでいたラウルは、手を止めて立ち上がった。掛時計にちらりと目をやる。まだそれほど遅い時間ではない。患者だろうかと思う。無言で玄関へ向かい、鍵をまわして扉を開いた。
「やあ、ラウル」
 そこに立っていたのはサイファだった。いつものように軽い笑顔を浮かべながら、軽い口調でそう言い、軽く右手を上げた。左手は皺だらけの紙袋を無造作に掴んでいる。
 ラウルは眉根を寄せ、強く睨みつけた。
「何の用だ」
「入れてくれ」
 サイファは質問には答えず、自分の要求のみを口にした。
「帰れ」
 ラウルは冷たくあしらい、扉を閉めようとする。
 だが、サイファはそれを阻んだ。靴の裏で蹴りつけるようにして、扉を元の位置に戻した。顎を引き、挑戦的な鋭い視線を突きつける。
「おまえに断る権利はないんだよ」
 氷のような冷たさでそう言うと、肩をぶつけながらラウルの横を通り抜け、許可のないまま部屋へと足を踏み入れた。
 ラウルは眉をひそめ、その背中を睨みつけた。だが、もう止めはしなかった。こういうときのサイファには、何を言っても無駄である。ため息をつきながら扉を閉めた。

 サイファがここへ来るのは二度目だった。最初のときも強引に押し入った。招かれたことは一度もない。
「何の用かくらい言ったらどうだ」
 あとから入ってきたラウルが、不機嫌そうな低い声で尋ねた。少し離れたところで、立ったまま腕を組む。
 サイファは茶色の紙袋に覆われた物を、ダイニングテーブルの上にドンと置いた。そして、外側の紙袋だけを乱暴に引き破る。中から、琥珀色の液体が入ったボトルが姿を表した。かなり上等そうに見える。まだ封は切られていない。新品のようだ。
「一晩、付き合えよ」
「静かにしろ、ここには……」
 ラウルが何かを言いかけたとき、寝室から小さな影が現れた。それは、小さな女の子——ラウルの娘のルナだった。目を擦りながら、寝ぼけた様子でぼうっと立ち尽くしている。
 サイファは驚いてその女の子を見下ろした。もちろん、ラウルに娘がいることは知っていた。何度か会ったこともある。だが、親子一緒の姿を目にすることが少ないせいか、あまり実感はなく、このときはすっかり頭から抜け落ちていた。
 ——静かにしろ、ここには……。
 先ほどのラウルの言葉がよみがえる。その続きは「ルナがいる」だったのだろう。
「ラウル……?」
「起こしちゃってごめんね」
 サイファはしゃがんでルナと目線を合わせると、人なつこく微笑みかけた。そして、驚いて目を丸くしている彼女を、両腕でゆっくりと抱き上げた。思ったよりも重かった。
「おじさん、だれ?」
 ルナは少し怯えた様子で尋ねた。サイファとは何度か顔を会わせているはずだが、幼すぎたため記憶に残っていないのかもしれない。もしくは、単に寝ぼけているだけという可能性もある。どちらにしろ、たいした問題ではない。
「ラウルの友達だよ」
「赤の他人だ」
 満面の笑みで口にしたサイファの返答を、ラウルは間髪入れず横から否定した。その素早さと必死さが可笑しくて、サイファは吹き出しそうになった。
「あかのたにん?」
 ルナはラウルに振り向き、大きな目をぱちくりさせて尋ねた。
「説明してやれよ」
 サイファは明らかに面白がっていた。声がすでに笑っている。
 ラウルはムッとして睨みつけた。大またでサイファに歩み寄ると、その腕から娘を奪い取った。片手で抱きかかえたまま、暗い寝室へ連れていく。
「今度きちんと説明してやる。今日はもう寝ろ」
「はぁい」
 そんな会話が寝室から聞こえてきた。
 サイファは目を細め、表情を緩めた。父親としてのラウルが見られて、少しだけ嬉しかった。

 しばらくして、ラウルがひとりで戻ってきた。ルナを寝かしつけてきたのだろう。寝室の扉をそっと閉める。
「ずいぶん喋るようになったね」
 サイファは勝手に椅子に座っていた。ダイニングテーブルに頬杖をつき、にこにこと笑顔を浮かべている。
 ラウルは立ったまま腕を組んだ。上からサイファを見下ろして命令する。
「ルナを起こさないよう静かにしろ。出来なければ帰れ」
「父親としての自覚が芽生えてきたか」
 サイファは目をそらさずにそう言うと、意味ありげに小さく笑った。
 ラウルは眉をひそめて睨みつけた。
「何が言いたい」
 唸るような低音で詰問する。
 だが、サイファはまるで動じなかった。静かな笑みを浮かべたまま、穏やかな口調で続ける。
「おまえの家族ごっこは、いつまで持つかな」
「追い出すぞ」
「グラスを二つ、頼む」
 ラウルはため息をついた。
「私は飲まない。ひとつなら出してやる」
「飲めないわけじゃないんだろう。今日くらい付き合えよ」
「理由があるなら言え」
「今日で終わるかもしれない。私の“家族ごっこ”がね」
 サイファは感情を見せず、淡々と言った。テーブルの隅に視線を落とす。そこに何かがあったわけではない。ただ、少し逃げたかっただけだろう。
 ラウルは無言で台所へ向かった。戸棚からグラスをふたつ手に取ると、大きな足どりで戻ってきた。それをボトルの横に置き、卒業論文の束を後ろの棚に片付け、サイファの向かいに座る。
「雰囲気のないグラスだな」
「贅沢を言うな。これしかない」
 グラスは生活感あふれる無骨なものだった。水やジュースを飲むためのものだろう。高級酒に相応しくないことは、誰が見ても明らかである。
 サイファはボトルを開け、ふたつのグラスに琥珀色の液体を注いだ。底から指二本分ほどの量だった。氷をもらおうと思ったが、このままでもいいかと思い直す。ひとつをラウルの前に差し出し、もうひとつは自分の前に置いた。
「何に乾杯しようか」
「乾杯などしなくていい」
 ラウルは冷ややかに撥ねつけた。
 サイファはくすりと笑い、自分のグラスを手に取った。
「ふたりの父親に乾杯、かな」
 どこか楽しげな口調でそう言うと、睨みをきかせているラウルに、掲げたグラスを小さく傾けて見せた。

 ふたつのティーカップが、ほぼ同時にテーブルに戻された。両方とも底が見えている。
「もう一杯いる?」
「私はもういいわ」
 アンジェリカは笑顔で断った。中断していた読書を再開しようと思い、隣に置いてあった本を手に取ろうとする。
「ねぇ、アンジェリカ」
「なに?」
 母親に呼びかけられ、本に手を掛けたまま顔を上げる。
 レイチェルは優しい微笑みを浮かべて言った。
「サイファから聞いたわ」
「え? 何を?」
「あなたの自分自身についての推測」
 アンジェリカは口を閉じたまま、大きく目を見開いて母親を見た。具体的な説明はなかったが、彼女が何について言っているのかは、これだけでも十分に理解できた。そう、遺伝子異常のことだ。父親にも言ったことはなかったが、おそらくラウルから聞いたのだろう。緊張のためか、頭が熱くなり、手が冷たくなった。ぎこちなく口を開く。
「間違って、いないでしょう?」
「間違っているわ」
 レイチェルは滑らかに答えた。
 だが、それでもアンジェリカは信じなかった。苦い顔で目を伏せる。母親も嘘をついているのだろうと思った。違うというのなら、本当のことを教えてほしい。出来るわけはない——心の中で毒づく。
「真実を、聞きたい?」
「えっ?」
 思いがけない発言を耳にし、アンジェリカは驚いて顔を上げた。自分の聞き違いかと思った。
 レイチェルは優しく微笑んでいた。
「あなたに聞く覚悟があれば、今、ここで話すわ」
 アンジェリカは片眉をひそめながら、身を乗り出して尋ねる。
「本当に、本当のことなの? 作り話で私を騙して納得させようとしていない?」
「本当の話よ」
 深く澄んだ蒼い瞳が、正面から彼女を捉えた。
 アンジェリカはその双眸に吸い込まれそうに感じ、少し目眩を覚えた。
 ——きっと、嘘は言っていない。
 それは直感だった。論理的な根拠は何もない。だが、信じていいと思った。信じようと決めた。
 その途端、急に怖くなった。
 うつむいてきゅっと口を結び、じっと考え込む。頬に黒髪がかかった。本の上に置いた手を、ゆっくりと握りしめる。手のひらに汗が滲んだ。
 自分は何を悩んでいるのだろう。悩むことなど何もないはずだ。ずっと知りたかったことである。その機会を逃すなど、ありえないことだ。ただ心の準備が出来ていないだけ。落ち着こう——。胸に手をあて、深呼吸をする。
「教えて」
 静かにそう言うと、緩やかに顔を上げる。そして、強い力を秘めた漆黒の瞳を、まっすぐレイチェルに向けた。

 ラウルとサイファは向かい合ったまま、静寂の中でグラスを傾けていた。最初は文句を言っていたラウルも、今は大人しくサイファに付き合っている。ふたりとも緩いペースで飲んでいた。最初に注いだ量の半分も減っていない。
「美味いだろう? とっておきだったんだ」
 サイファはグラスを目線の高さまで持ち上げ、深みのある澄んだ琥珀色を見つめると、満足そうに口元を上げた。この液体を通してラウルを見ようと思ったが、量が少ないせいか上手くいかなかった。
 ラウルはグラスを手に持ったまま、冷めた目を向けた。
「酒に逃げるとは感心しない」
「今日だけさ」
 サイファは澄ました顔で言った。
 ラウルはグラスをテーブルに置いた。
「レイチェルにすべて押しつけてきたのか」
「違うよ、彼女の希望だ。ひとりで真実を話すとね」
 サイファはそう言うと、おもむろに頬杖をつき、じっと目の前の彼を見つめた。
「だから、今晩は帰れない。朝まで付き合ってもらうよ。それくらいはしてくれるんだろう」
 ラウルはムッとして眉をひそめた。
「何がそれくらいだ。今までさんざん利用してきただろう」
「それでもまだ足りないと思ってるんだけどね」
 サイファは無邪気なくらいの笑顔を見せると、一気にグラスの残りを飲み干した。それほど量はなかったが、それでも喉の奥がカッと熱くなった。テーブルの中央に置いてあったボトルを手に取り、自分で自分のグラスに注いだ。最初よりも少し多かった。
「飲み過ぎるな」
「それは、友としての助言か? 医者としての忠告か?」
「巻き込まれて迷惑なだけだ」
 ラウルはつれない答えを返すと、サイファの手元にあったボトルを、テーブルの中央に引き戻した。

 アンジェリカの真剣な表情を見て、レイチェルは柔らかく頷いた。暫しの時間、顔を下に向ける。そして、ゆっくりと顔を上げる。微笑みは消えていた。
 アンジェリカの緊張はさらに強くなった。それに耐えるように、小さな口をきゅっときつく結んだ。額には薄く汗が滲んでいた。胸が張り裂けそうで、もう声が出せる状態ではない。ただ無言で母親の言葉を待つ。
「アンジェリカ」
 桜色の唇がそっと開き、優しい音色で名前を呼んだ。そして、一呼吸おいて続ける。
「あなたは、ラウルの子供なのよ」
「……えっ?」
 ごく短い言葉を発したきり、アンジェリカの動きが止まった。表情も固まっている。
「あなたは、ラウルの子供なの」
 レイチェルはもういちど同じ抑揚で言った。
 アンジェリカは懸命に頭を働かせる。
「わ、私……このうちの子じゃなかった……って、こと……?」
「いいえ、そうじゃないの。あなたを産んだのは私よ」
「それって、どういう……」
 まるで謎掛けだった。少なくとも彼女はそう感じた。ますます混乱した。糸がもつれるように思考が絡まる。やがて、諦めたように思考が停止する。もしかすると、理解することを無意識のうちに拒絶していたのかもしれない。
 レイチェルは少し困ったように微笑んだ。
「あなたは、私とラウルの間の子供なの。意味はわかるわね?」
「あっ……」
 喉の奥から小さく声が漏れた。
 これが、真実。
 これが、本当のこと。
 言えなかった理由。
 私がラグランジェの他の人とは違う理由。
 でも、どうして?
 どういうこと?
 大きく開いたままの瞳から、無意識のうちに涙の粒が零れ落ちた。
「そうよね、驚くわよね」
 レイチェルは申しわけなさそうに、曖昧な微笑みを浮かべて言った。
 アンジェリカの涙は止まらなかった。
 悲しいわけではない。つらいわけではない。いや、それらもあったかもしれない。言葉では説明しようのないくらい、雑多で、複雑で、矛盾した感情が、内側から一気に湧き上がった。それは、彼女の許容量を遥かに超えていた。自分の中で処理しきれなかった分が、涙となって溢れ出しているのだろう。
 流されるままの涙は、頬を伝い、手の甲やスカートに落ちていく。
 レイチェルはただ穏やかに見守っていた。

 やがて、アンジェリカは少しずつ落ち着きを取り戻した。レイチェルから差し出されたハンカチで涙を拭い、深呼吸して息を整える。
「お父さんは、このこと……」
「知っているわ、あなたが生まれる前から」
 レイチェルの小さな口から、落ち着いた声が紡がれる。
 アンジェリカは濡れた瞳で彼女を見つめ、無言で耳を傾けた。
「サイファのおかげなのよ。今、私たちがこうしていられるのは。ラグランジェ家に真実を知られていたら、あなたが生まれることはなかったし、私も生きていなかったかもしれない」
 アンジェリカは胸を押さえて息を呑んだ。決して大袈裟な物言いではない。ラグランジェ家なら、曾祖父なら、平気でそのくらいのことはするだろうと思った。
「サイファはただの一度も私を責めず、すべてを引き受けてくれたの。何もわかっていなかったあの頃の私と、おなかの中のあなたを、身を呈して全力で守ってくれたわ」
 目頭が熱くなる。鼻の奥がつんとする。
 父親の顔を思い浮かべた。笑顔だった。そう、彼はいつだって笑顔を向けてくれていた。
 ——お父さん。
 心の中で呼びかける。再び、涙が溢れ出した。先ほどとは違い、とても熱い涙だった。
 うつむきながら、濡れた頬をハンカチで拭いた。
「でも、どうして……」
 とまどいがちにそう切り出し、ゆっくりと顔を上げる。漆黒の瞳は、不安に怯えるように小さく揺れていた。
「お母さんにとって、お父さんとの結婚は、望まないものだったの? 親が決めたから仕方なく? お父さんのこと、好きじゃなかったの……?」
 レイチェルは生まれたときから、サイファのもとへ嫁ぐことが決められていた。親どうしが決めた結婚だった。そのことは知っていた。だが、そんなことを感じさせないくらいに、ふたりはとても仲が良さそうに見えた。仲が良いと信じていた。だから、どうしても聞きたかった。
 レイチェルは優しい声できっぱりと答える。
「いいえ、ずっと大好きだったわ。もちろん、今も」
「ラウルは?」
 アンジェリカはさらに尋ねかけた。瞳の奥を探るように見つめる。
 レイチェルはわずかに目を細めた。遠くに思いを馳せるような、どこか物憂げな微笑みを浮かべた。
「ラウルも、好きだったわ」
「……今も?」
「ええ」
 迷いのない答え。とても落ち着いた声だった。
 アンジェリカは複雑な表情でうつむいた。どう反応すればいいかわからなかった。それ以前に、どう受け止めればいいかさえ、わかっていなかった。
「軽蔑されても当然だと思っているわ」
 レイチェルは、一瞬だけ、つらそうな表情を見せた。それを微笑みで包み隠す。
「でも、サイファとともに生きていくと決めたから、今は……」
「お父さんに恩があるから?」
 アンジェリカはうつむいたまま、遠慮のない率直な質問を投げかけた。
 レイチェルは小さく息を呑んだ。ゆっくりと目を閉じ、そして、ゆっくりと目を開く。
「……そう、かもしれないわね」
「ラウルは? ラウルもお母さんのことが好きだったんじゃないの?」
 今度は、顔を上げて尋ねた。問いつめるような強い口調だった。その声の厳しさに、自分自身で驚いた。感情が昂ってきたせいかもしれない。
 レイチェルの蒼い瞳が揺れた。
「申しわけなく思っているわ。結果的に裏切ってしまったから。きっと、傷つけたから……」
「ああ……」
 アンジェリカはため息まじりの声を上げ、つらそうに顔を歪めると、ソファの上に膝を立てて顔を埋めた。両手で頭を抱え込む。
 一気になだれ込んできた信じがたい事実が、心に重くのしかかる。
 でも、実感はない。自分の知っている現実と繋がらない。
 頭が混沌としていた。頭痛がする。ぎゅっと目をつむり、後頭部を押さえる手に力を込めた。

 ダイニングテーブルで向かいあったまま、ラウルとサイファは静かに飲み続けていた。ときどきサイファが話を振り、ラウルが面倒くさそうに答える。その繰り返しだった。
「飲まないと言ったわりには、よく飲んでるよな」
 サイファは呆れたように言った。
 ボトルの中身はもうほとんどなくなりかけていた。その八割くらいはラウルが飲んだ。だが、顔色も口調もまったく変わらず、酔っている気配はない。
「私が飲まなければ、おまえが飲むだろう。強くもないくせに」
「へぇ、気遣ってくれているのか」
 サイファは頬杖をつき、ニッと口の端を上げた。上目遣いでラウルを見る。
 だが、彼の答えはつれないものだった。
「ここで酔いつぶれられたら、私が迷惑を被るからな」
「そのつもりで来たんだよ。おまえに迷惑をかけたくて、な」
 サイファはグラスの口を爪で弾いた。高い音が小さく鳴った。
 ラウルはムッとして彼を見下ろした。
「謝れといいたいのか」
「いや、謝れと言っても謝らないだろう?」
「ああ」
 当然のようにそう答え、グラスを口に運んだ。残りを一気に流し込む。
 サイファはふっと笑った。
「おまえに迷惑をかけるのは、私の趣味だと思ってくれ」
「甘えているだけだろう」
「まあな。気兼ねなく甘えられるのは、おまえくらいだからな」
「少しは気兼ねしろ」
 ラウルはボトルを手に取り、残り少なくなっていた液体を自分のグラスに注ぎきった。
「いつまで居座るつもりだ」
 空のボトルをテーブルの隅に置きながら、ぶっきらぼうに尋ねる。
「夜が明けるまでさ」
 サイファはさらりと答える。
 ラウルは掛時計に目を向けた。
「そろそろだ」
「ああ」
 サイファは重い声で同意すると、グラスを持って立ち上がった。窓の方へ足を進め、そっとカーテンを開ける。まだ太陽は見えないが、ほんのりと空の下方が白み始めていた。
 窓枠に手を掛け、外の一点を見つめながら、間もなく訪れるであろうそのときを無言で待った。ラウルも無言だった。物音さえしない。部屋は静寂に包まれていた。
 やがて、地平の向こうから光があふれた。解き放たれたように空へ広がる。部屋へも飛び込んできた。正面からその光を受けたサイファは、眉根を寄せ、目を細めた。グラスの残りを一気に呷る。
「夢から醒める時間、かな」
 その声には寂寥感が滲んでいた。ゆっくりと部屋の中のラウルに振り返り、窓枠にもたれかかる。そして、空疎な笑みを浮かべると、静かに口を開いた。
「これまで必死に守ってきた。どんな手を使っても守り通そうと思っていた。だけど、アンジェリカには敵わなかったよ。最も手強い相手だったね」
 顔を隠すように深くうつむく。金の髪がはらりと頬にかかった。
「知らせたくはなかった。ずっと、“本当の父親”でいたかったよ」
 低く沈んだ声で、つぶやくように言った。
 ラウルはうなだれたままの彼を見つめた。肩がわずかに揺れていた。
「諦めるのが早いな」
「現実を見ているだけさ」
 サイファの声はもう平常に戻っていた。すっと背中を伸ばし、まっすぐラウルに目を向ける。背後から照らす光が、金の髪を鮮やかに煌めかせた。
 ラウルはテーブルに肘をつき、深いため息を落とした。
「この14年という年月も現実だろう」
「14年、か……」
 サイファには、それが長いのか短いのかわからなかった。アンジェリカが生まれて、ここまで成長したことを思えば、それなりに長い時間といえるだろう。だが、実感としては、あっというまだったような気がする。
 ラウルは無表情で続ける。
「家族は血で作られるわけではない、共に過ごした時間で作られていくものだ——それが、おまえの考えではないのか」
「ああ、だけど理想論だよ。アンジェリカがそれを受け入れるかはわからない」
 サイファは真面目な顔で答えた。それはあくまで自分の理想であり、アンジェリカの理想は違うものかもしれない。もし、同じ理想を持っていたとしても、その理想を現実としては受け入れられないかもしれない。理想と現実は、得てして乖離しているものだ。
 そんなことを考えながら、ふっと寂しげに表情を緩めた。
「さてと、そろそろ帰るよ」
 寄りかかっていた窓枠から体を離し、ラウルの方へ歩いていく。
「こんな時間まで悪かったな」
 そう言いながら、空のグラスをそっとテーブルに置いた。
 ラウルは立ち上がった。口を閉じたまま、無言で立ち尽くしている。何か言いたげに見えたが、サイファは何も訊かなかった。
「じゃあな」
 軽い別れの言葉を口にすると、扉の方へ颯爽と足を進めた。だが、ドアノブに手を掛けたところで、急に動きを止めた。背を向けたまま、つぶやくように言う。
「もしかしたら、今度のことで、おまえにも迷惑を掛けることになるかもしれないが……」
 そこで言葉を切った。暫しの間ののち、小さくふっと息を漏らした。
「いや、自業自得だな」
 笑いを含んだ声でひとり納得したように言うと、振り返ることなく、軽く片手を上げて出て行った。医務室の扉を開閉する音が、ラウルの耳に微かに届いた。

 頬を撫でる空気が冷たい。吸い込むとさらに冷たい。痛いくらいに染み渡っていく。
 サイファは酔いが醒めるのを感じた。
 まだ明るくなりきっていない空を見上げ、息を吐きながら目を細める。グラデーションはすでにかなり拡散していた。そろそろ人々が動き出す時間に差し掛かろうとしている。
 家へ近づくにつれ、自分の鼓動が強くなるのを感じた。
 レイチェルは起きているだろうか。さすがにこの時間まで待っていることはないだろう。帰らないと言ってあったのだ。寝ていたら起こそうかどうしようか迷う。出来れば、先にアンジェリカの様子を聞いておきたい。対応方を考えたいのだ。

 迷っているうちに、家に着いてしまった。
 眠っていたら、一度、優しく起こしてみよう。それで起きなければ、起きるまで待とう——そう結論を出し、重厚な扉に手を掛けた。そろりと音を立てないように開く。
 だが——。
「お父さん遅い! 朝帰りじゃない」
 アンジェリカがリビングルームから飛び出してきた。寝るときの格好ではない。ハイネックの黒いセーターにチェック柄のミニスカート、つまり、まったくの普段着だった。サイファの前に駆けつけると、両手を腰にあて、頬を膨らませた。少し前屈みになり、上目遣いで睨むようにして覗き込む。
 それは、幻聴でも幻覚でもない。まぎれもなく彼女はここにいる。
 想定外の展開に、サイファは驚きを隠せなかった。
「そんな言葉、どこで覚えたの」
 そのことに驚いたわけではない。だが、なぜかそんな重要度の低いことを口にしていた。そう言いながら、考える時間を稼いでいたのかもしれない。
 アンジェリカは怪訝な表情で、首を傾げた。
「お酒くさくない?」
「ああ、ラウルのところで飲んでて……」
 突然、アンジェリカは正面からサイファに飛びついた。胸に顔を埋め、背中に手をまわし、ぎゅっと力を込める。
 サイファは大きく目を見開いた。
 少し離れたところにはレイチェルが立っていた。優しい眼差しでふたりを見守っていた。

「お母さんから、本当のことを聞いたわ」
 静かな落ち着いた声。
「つらくは、なかったの?」
 サイファの胸に顔を寄せたまま、アンジェリカは囁くように問いかける。
「……少しはね」
 サイファは正直に答えた。今さら嘘をつくことに何の意味もない。彼女も本当のことが聞きたいはずだ。ずっとそれを望んでいたのだ。
「私のこと、憎くないの?」
「そんなふうに思ったことは、一度だってないよ」
 それは、嘘偽りのない事実だった。だが、信じてもらえるだろうか、と少し不安に思う。彼女の華奢な背中に両手をまわし、そっと優しく抱きしめた。
「私ね、生まれてきて本当に良かった。今は、心からそう思っているわ」
 そう言ったアンジェリカの声は少し固かった。体も少し強張っていた。大きく息を吸い込んだのが、体を通して伝わってきた。腕の中の少女に、サイファは気遣うような目を向けた。
 アンジェリカは顔を上げ、彼と視線を合わせた。にっこりと微笑む。
「だから、ありがとう。私を生かしてくれて。私とお母さんを守ってくれて」
 精一杯の感謝を込めてそう言った。サイファがいなかったら、サイファの判断が違うものだったら、自分はここにはいなかった。そのことを想像するだけでも怖い。だから、この気持ちだけは伝えたかった。
 そして、出来れば——。
「これからも、ずっと私のお父さんでいてくれる?」
「いいの?」
 サイファは思わず尋ね返した。
 そんな彼に、アンジェリカは口をとがらせ、少し怒った顔を見せる。
「訊いてるのは私なんだけど」
 サイファは柔らかく微笑んだ。愛おしげに彼女を見つめると、黒髪に手を差し入れ、梳くように滑らせる。
「ああ、もちろんだよ。これからも、ずっと私の娘でいてくれると嬉しい」
「良かった」
 アンジェリカはほっと安堵の息をつきながら笑った。笑いながら、次第に瞳を潤ませていく。慌ててうつむくと、目元を人差し指でそっと拭った。
「なんだか安心したら眠くなっちゃった」
 明るく言ったその声には、微かに涙が混じっていた。
「私、寝てくるわ。今日もジークのお見舞いに行かなくちゃいけないし」
 そう言いながら、顔を隠すようにしてサイファから離れ、階段へと駆けていく。数段上がったところで、くるりとスカートをひらめかせて振り返り、照れくさそうにはにかんで見せた。
「おやすみなさい、お父さん、お母さん」
 サイファとレイチェルは、意地っ張りな愛娘に微笑みを向けた。
「おやすみ、アンジェリカ」
「おやすみなさい」
 ふたりはそれぞれ挨拶を返し、二階へ駆け上がっていくアンジェリカを見送った。

「お帰りなさい」
「ただいま」
 玄関に残されたふたりは、いつもどおりの挨拶をして、微笑みを交わした。どちらともなく手を伸ばし、自然な流れで抱き合う。互いの温もりを確かめるように、そのまま動きを止めた。
「ずっと、起きてたの?」
 サイファは囁くような優しい声で尋ねかける。
 レイチェルは、彼の温かい胸元に頬を寄せたまま、小さく微笑んだ。
「ええ、今夜は帰ってこないって言ったんだけれど、あの子、いつまででも待つってきかなくて」
「ずいぶん待たせてしまったね」
 サイファも目を細めて微笑んだ。彼女の背中にまわした腕に、少しだけ力を込める。
 レイチェルは顔を上げ、大きな瞳を彼に向けた。
「ずっと、ラウルのところにいたの?」
「ああ、一晩中、酒を飲みながら、嫌味を言って絡んでいたよ」
「まあ」
 レイチェルは口元に指を添え、くすくすと笑った。彼女にはわかっていた。そして嬉しかった。その行動は、憎しみからくるものではなく、彼なりの甘えである——。彼もまた、ラウルに好意を持ち、慕っているのだ。子供の頃から今に至るまで、その気持ちの根本的な部分は変わっていないのだろう。
 サイファは彼女の細い髪に指を絡めた。その一本一本は薄く透き通っているように見えた。とてもきれいだが、とても頼りない。
「壊れてしまうと思っていた」
「私も、覚悟はしていたわ」
 レイチェルの声には、どことなく固さが感じられた。そのときの心情を思い出したせいだろう。
「強い子だね」
 サイファは二階の方へ視線を向けて言った。
「すぐに結論を出したわけじゃないのよ。すごく思い悩んでいたわ」
「思い悩んで出した結論なら、なおさら嬉しいよ」
 アンジェリカのことだ。あらゆる現実を思い巡らせ、あらゆる可能性を想定し、そのうえでこの結論を選び取ったのだろう。真剣に悩んだ分だけ、その結論には重みがある。
「アンジェリカには、いくら感謝してもしたりないな」
 ゆったりと熱い吐息まじりに言う。
 レイチェルは優美な微笑みを浮かべた。
「私たち三人が家族として過ごした、この14年の積み重ねがあったからだと思うわ」
 サイファは一瞬だけ目を見開き、それからふっと小さく笑った。
 レイチェルは不思議そうに小首を傾げた。
「どうしたの?」
 サイファは帰宅する少し前の会話を思い浮かべていた。
「ラウルにも同じようなことを言われたんだ」
「ラウルに?」
 レイチェルは目をぱちくりさせた。
「私は血を否定していたつもりだったが、実際のところは、誰よりも血にこだわっていたのだろう。心のどこかで血のつながりには敵わないと思っていた。信じきれなかったんだよ。情けないな、本当に」
 サイファは落ち着いた口調で、淡々と心情を吐露した。最後の部分に、軽くため息が混じった。
 レイチェルは彼を見つめたまま、ゆっくりと首を横に振った。そして、再び、彼の胸に寄りかかった。
「サイファ、これからも、ずっと私の夫でいてくれる?」
「ああ、もちろん。君がずっと妻でいてくれると嬉しい」
 それは、アンジェリカのときと同じ言いまわしだった。ふたりは顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。
「じゃあ」
 レイチェルは体を起こし、顔の横に左手を立てて見せた。指先をまっすぐに揃え、手の甲をサイファに向けている。
「持っているんでしょう?」
 わずかに首を傾げて尋ねる。
 主語はなかったが、サイファには何のことかすぐにわかった。ズボンのポケットに右手を差し入れて探る。そして、ゆっくりと手を引き、彼女が催促したものを取り出す。それは、プラチナの指輪だった。14年前、結婚指輪としてレイチェルに贈ったものである。先日の事故のときに、ルーファスの手を通して彼の元へ戻ってきたのだ。
「知っていたの?」
「そうじゃないかと思っただけ。指輪がないことに気づいていたはずなのに、何も言わなかったから」
 サイファはふっと表情を緩めた。彼女には敵わないと思った。
「君を縛り付けてしまう気がして、迷っていたんだ」
「今なら、もう迷うこともないでしょう?」
 レイチェルは可憐に愛らしく笑った。
 その笑顔に後押しされるように、サイファは彼女の左手をとった。細く、小さく、そして透き通るように白い。
「これからもずっと、私とともに歩んでいってくれるかい?」
「はい」
 レイチェルはサイファの目を見つめ、凛とした声で答えた。迷いは微塵も感じられなかった。
 サイファはプラチナの指輪を、彼女の左手の薬指にゆっくりと嵌めた。
「結婚式みたい」
 レイチェルは無邪気にくすりと笑った。
「そのつもりだよ」
 サイファは真面目な顔で答えた。彼女の左手を柔らかく包み込むように握る。
 レイチェルは顔を上げ、深く澄んだ双眸を彼に向けた。
 ふたりは手を繋いだまま、まっすぐに見つめ合った。
 互いに小さく一歩ずつ歩み寄る。
 そして、ゆっくりと口づけを交わした。
 言葉はなくとも、ふたりはその意味をわかり合っていた。

 それは、ともに生きる決意、そして、誓い。
 14年前に交わしたものよりも、もっと強く、もっと深い——。

 朝の光がステンドグラスを通し、周囲に彩りを添えた。
 朝の鐘が王宮で打ち鳴らされ、同時に鳥の羽ばたきが空へ舞い上がった。
 それらは、まるで、この儀式を祝福しているかのようだった。
 鐘の余韻が消える。
 ふたりはそっと目を開き、互いの姿をその瞳に映した。
 そして、視線を合わせたまま、優しく微笑み合った。


94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

「おはよう!」
 ジークとリックの姿を見つけると、アンジェリカは大きく手を振りながら駆け出した。
 校門をくぐろうとしていた二人は、足を止め、声のする方に振り向いた。それぞれ軽く片手を上げ、笑顔で挨拶を返す。
「おう」
「おはよう」
 アンジェリカは二人の前まで来ると、もの珍しげに、まじまじとジークを見つめた。
「ジーク、スーツなんて持っていたのね」
「買ったんだよ。最後くらいはちゃんとしてぇし」
 ジークはぶっきらぼうに言い返した。
 スーツのことについては、母親からもリックからも、すでにさんざんからかわれていた。アンジェリカからも言われるだろうことは覚悟していた。しかし、思ったよりもあっさりした反応で、内心ほっとした。魔導省の制服を見せたときの恥ずかしさと比べれば、随分ましだと思った。

 今日はアカデミーの卒業式だった。その主役はジークたちの学年である。クラスメイトは全員そろっての卒業となった。ただ、当然だが、そこには途中で自主退学したセリカは含まれていない。
 卒業式での服装に決まりはなく、普段と同様、まったくの自由となっていた。ジークがスーツを選んだのは、彼の意思に他ならない。彼自身の言葉どおり、最後くらいはきちんとした格好をしたいという、けじめのような思いからだった。

「私のも新しい服なのよ。今日のために買ったの」
 アンジェリカは両手を広げ、その場でくるりとまわった。短いプリーツスカートが遠心力で広がった。
 彼女の服装は、黒のスーツに薄桜色のブラウスを合わせたものだった。スーツとはいっても、肩の部分にはふんわりと丸みがあり、スカートも短いプリーツという可愛らしい形のものである。ブラウスにもフリルやレースがあしらわれていた。そこには、上品でいながら、なおかつ華やかな雰囲気が漂っていた。
「すごく可愛いよ。ね、ジーク」
 リックは微笑みながらそう言うと、隣のジークに同意を求める。
 だが、返事はなかった。
 ジークは難しい顔をして腕を組み、じっと彼女を見つめて考え込んでいた。
「スカート、それ、短すぎねぇか?」
「そう? いつもと同じくらいのはずだけど」
 アンジェリカは自分のスカートの裾を確認しながら答えた。
「おまえ、今日は壇に上がるんだろ? だから……」
 ジークは途中で言い淀んだ。困ったような顔をして目を伏せる。耳元はうっすらと赤みを帯びていた。
 アンジェリカは疑惑の眼差しを向けた。
「……ジーク、変な想像してない?」
「ばっ……! 心配してんだよ!!」
 ジークは必死になって言い返す。
「そんなことになったら、恥をかくのはおまえなんだぞ! だからっ!!」
 図星を指されたせいか、狼狽して焦ったせいか、彼の顔はさらに赤みを増していた。
 アンジェリカは立てた人差し指を唇にあて、斜め上を見ながら考え込んだ。ジークに指摘され、少し不安になっているようだ。だが、すぐに明るい表情に戻る。
「大丈夫よ、きっと」
「そうだよ。ジークは心配のしすぎ」
 リックも笑いながら同調した。
「それより、アンジェリカ、答辞の方は大丈夫なの?」
「ええ、ありきたりのことしか言わないから、期待されても困るけれど」
 彼女にしては控えめな答えだった。肩をすくめ、やはり控えめな笑みを浮かべている。
 卒業式の答辞は、全学科で最も優秀な成績を修めた者に任される。それを選ぶのはアカデミーの全教師と学長である。履修内容や成績基準は各学科によって違うため、その中からひとりを選ぶことは難しい問題であり、揉めることも少なくないらしい。だが、今年は満場一致でアンジェリカに決定した。文句のつけようもないくらいに、彼女の成績が突出していたのだ。ラグランジェの名によるものではない。たとえラグランジェの名がなくとも、彼女が選ばれることは間違いないだろう。
「書いた紙を忘れた、なんてことねぇだろうな?」
 ジークは眉をひそめて尋ねた。
 だが、彼女の答えはあっけないものだった。
「紙には書いてないわよ」
「暗記したの?」
 リックは大きく目を見開いて尋ねた。その隣で、ジークもポカンと口を開いた。
 アンジェリカは人差し指を立て、口元に添えた。
「だいたいの流れは押さえてあるから、あとはその場で考えながら話していけば、何とかなるんじゃないかしら」
「なんか、俺の方が胃が痛くなってきた」
 ジークは顔をしかめながら脇腹を押さえ、そこから体を斜めに傾けた。
「そこ、胃じゃないわよ」
「細かいこというなよ!」
「ジークってがさつなくせに神経質なんだから」
「がさつは余計だ!」
 いつものような二人のやりとりを聞きながら、リックは優しく微笑んだ。
「ジークってさ、昔はもっと図太かったよね」
「そうだっけか」
 ジークはとぼけたが、言われたことに対する自覚はあった。アカデミー入学以来、年々、臆病になっている気がする。以前はここまで神経が細くなかったと思う。だが、それは単にまわりを見ていなかっただけなのかもしれない。鈍かっただけなのかもしれない。
「あ、ラウルが来たよ」
 リックの声に反応して、講堂の方に目を向ける。ちょうどラウルが裏口から入っていくところだった。彼は普段と変わらない格好をしている。いかにも彼らしい。正装などしていたら、頭でも打ったのかと心配しただろう。
 腹の立つ奴だったけど、今日でさよならなんだよな——。
 なぜか、そんな感傷的な気持ちが胸をよぎった。彼の姿を眺めながら、複雑な表情で、僅かに目を細める。
「そろそろ行かなきゃ」
「ええ」
 リックとアンジェリカは、軽い駆け足で講堂に向かった。だが、ジークの足は止まったままだった。それに気づいたアンジェリカは、くるりと体ごと振り返った。黒髪がさらりと舞う。
「ジーク、どうしたの? 行くわよ?」
 大きく瞬きをして、僅かに首を傾げてジークを見つめる。
「あ、ああ」
 ジークは我にかえったように返事をすると、ゆっくりと風をきって駆け出した。

 卒業式は講堂で行われる。
 出席するのは、主役である卒業生、それ以外は教師たち学校関係者のみである。在校生も保護者も来賓もなく、いたって質素なものだ。アカデミーでは入学式も卒業式もこのような形式で執り行っている。それが、アカデミー創立以来の伝統だった。

 入学式と同様に、学科別の成績順で立ち位置が決められる。一列目は魔導全科、二列目は医学科、三列目は工学科で、それぞれ成績の良い順に右から並ぶのだ。椅子はなく、全員が立ったままである。
 最前列の最も右側がアンジェリカ、その隣にジーク、中ほどにリックがいる。
 ジークは横目でちらりとアンジェリカを見た。
 何かとても懐かしかった。四年前——入学式のときも、右隣にいたのはアンジェリカだった。今も小さいが、あの頃はもっと小さかった。本当に子供だった。そんな幼い少女に、自分の立つべき場所を奪われたことが、たまらなく悔しく腹立たしかった。
 入学以降、その位置を奪おうと躍起になった。もちろん、正々堂々とである。だが、彼女はいつも自分の上にいた。そして、ついにただの一度も勝てないまま、この日を迎えることとなった。完敗である。
 しかし、それを悔やむ気持ちはない。自分は持てる力のすべてを出し切ったつもりだ。それでも彼女には勝てなかった。その事実がすべてである。言い訳など何もない。彼女の努力と才能を、今は素直に認めている。
 彼の視線に気がついたのか、アンジェリカが振り向いた。
 ジークは慌てて目を逸らせた。だが、少し遅かったようだ。
「こっちを見てた?」
 アンジェリカは声をひそめて尋ねた。責めている口調ではない。
「……少し」
 ジークは前を向いたまま、正直にぼそりと答えた。
 アンジェリカは小さくくすりと笑った。
「私、入学式のときのことを思い出していたの」
「え? 俺も……」
 ジークは大きく瞬きをして振り向いた。
 アンジェリカはまっすぐに彼を見上げていた。柔らかい表情だった。
 二人は密やかに笑いあった。

「これより、王立アカデミー、卒業証書授与式を開式いたします」
 独特の張りつめた静寂が破られ、卒業式が始まった。
 まずは、卒業証書の授与である。ひとりずつ壇に上がり、筒に入った卒業証書を学長から受け取る。最初はアンジェリカ、次はジークと、これも学科ごとの成績順である。
 ジークは卒業証書を受け取り、元の位置に戻ってきた。正面を向いてその場所に収まると、残りの生徒に授与されるのを待つ。その間、隣のアンジェリカに何度も目を向けた。彼女は常に正面を見据えていた。その凛とした横顔は、ずっと見ていたいと思うほどきれいだった。

 全員に卒業証書を授与すると、学長はそのまま壇上で祝辞を述べた。
 生徒が学長と顔を会わせるのは、特別なことがなければ、入学式と卒業式くらいである。実際、ジークもそうだった。入学式以来、一度も顔を見た記憶はない。そのため、この人が学長であるという実感はなかったし、祝辞にもあまりありがたみを感じなかった。それでも真面目に耳を傾け、話の終わりには拍手を送った。

「続いて、卒業生代表による答辞」
 司会の落ち着いた声が、式を粛々と進めていく。
「魔導全科、アンジェリカ=ナール=ラグランジェ」
「はい」
 アンジェリカは、よく通る声で返事をした。そして、手にしていた卒業証書の筒を、隣のジークに預ける。そういう段取りになっていた。事前に司会の先生に指示されたのだ。毎年、そうしているらしい。これも伝統ということだろう。
 ジークはそれを受け取りながら、「頑張れ!」の気持ちを目で送った。こぶしをぐっと握りしめて見せる。声を出すわけにはいかないので、それが精一杯だった。
 アンジェリカはその思いをしっかり受け止めたようだった。僅かに緊張したような微笑みを浮かべ、小さくこくりと頷く。そして、背筋をピンと伸ばして前に向き直ると、しっかりとした足どりで壇に上がっていった。
 講演台を挟んで、学長と向かい合わせになる。
 ゆっくりと、深く一礼した。
 小さな口を開き、澄んだ声を講堂に響かせる。

「四年前、私は、張りつめた気持ちで、この講堂に立っていました。
 将来の目標など持っていませんでした。
 アカデミーで学びたいという希望すらありませんでした。
 ただ自分のことを認めさせたい、そんな小さな意地だけで、
 ここへ来ることを選んだのだと思います。
 そんな私でも、このアカデミーで学ぶことは、
 純粋に楽しいと感じました。
 高度な理論と実技を、仲間とともに学び、競い合える——。
 それはアカデミーでしか手に入らない最高の環境です。
 しかし、もちろん、楽しいことばかりではありませんでした。
 強い不安に苛まれたこともありました。
 傷つけられたことも、傷つけたこともありました。
 アカデミーを一ヶ月にわたって欠席したこともありました。
 それでも、それらの困難を乗り越え、
 この場に立つことができたのは、
 指導してくださった先生、ともに学んだ仲間、
 そして、いつも見守ってくれていた両親、
 皆の支えと助力によるものです。
 この場を借りて、感謝の意を表したいと思います。
 つらいことも良い経験だった、とはまだ思えません。
 ただ、いつか振り返ったときにそう思えるよう、
 その経験を無駄にせず、これからを生きていきたいと考えています。
 私たち59名は、今日、アカデミーを卒業します。
 今は、目指すべき未来の欠片を、ようやく見つけたところです。
 それはまだ、遠くに見える小さな光に過ぎません。
 しかし、それはとても大切な光です。
 時には踵を上げて背伸びをしながら、
 時には歩んできた道を振り返りながら、
 その未来に向かって、着実に進んでいきたいと思います」

 ジークは夢中でそれを聞いていた。瞬きも、呼吸さえも忘れるほどだった。
 この四年間の思い出が呼び起こされた。次々と頭の中を駆け巡る。本当に様々なことがあった。波乱に満ちた四年間だった。つらく苦しく、そして幸せだった。
 アンジェリカとクラスメイトになれたことは、奇跡みたいな偶然が積み重なった結果だ。それは、運命といってもいいかもしれない。そのくらいのことを考えても、罰は当たらないだろうと思った。彼女が10歳でアカデミーに入ることを決意しなければ、決意しても彼女の両親が許さなければ、クラスメイトになることはなかった。それ以前に、赤ん坊の頃に長老たちの手にかかって殺されていたかもしれないし、下手をすれば生まれることすらなかったかもしれない。彼女が生きていることが、すでに奇跡のようなものなのだ。
 アンジェリカは壇上で一礼した。拍手が沸き起こる。だが、感傷に浸っているジークの耳には、ほとんど入ってこなかった。拍手をすることすら忘れていた。ただ、壇上の彼女を眩しそうに見つめていた。

 卒業式はあたたかな余韻を残して終了した。
 終始無表情だったラウルは、終了するとすぐに踵を返し、大きな足どりで裏口に向かった。他学科の担任のように、生徒と名残を惜しむことはしなかった。実に淡白な別れだった。
「おつかれさま」
 講堂を出たところで、背後から声を掛けられた。その声だけで誰だか認識できた。眉根を寄せて振り返る。
 そこにいたのは、案の定、サイファだった。講堂の外壁にもたれかかり、ゆったりと腕を組んで、僅かに口角を上げている。周囲には他に誰もいない。
「何をしに来た」
「娘の晴れ姿を見に来たんだよ」
 サイファはすました顔で、当然のように言った。ふっと小さく笑って付け加える。
「自分に会いに来たとでも思ったか? 少し自惚れが過ぎるんじゃないか?」
「用がないなら呼び止めるな」
 ラウルは低い声で唸るように凄んだ。怒りを込めた眼差しで、相手を凍りつかせんばかりに睨みつける。
 だが、サイファはにこやかにそれを受け流した。
「この四年間に対する労いの言葉を、と思ってね」
 組んだ腕をほどき、軽く両手を広げる。
 ラウルは睨みを利かせたまま、サイファを見つめた。そのまま、静かに口を開く。
「約束は果たした」
 その約束とは、アカデミーの担任としてアンジェリカを見守る、というものだった。五年ほど前に交わされたものである。約束というより、命令といった方が近いかもしれない。ラウルには強くは断れない理由がある。サイファはそれを承知で、強引に頼んできたのだ。
「ラウル、おまえは教師に向いているよ。また推薦しておこうか」
 サイファは穏やかに微笑み、ゆっくりとした口調で言った。
「こんな面倒なことは二度と引き受けん」
 ラウルは無愛想に却下した。特殊な事件は抜きに考えても、日々の授業やその準備、試験問題作成に採点、課題の評価など、かなりの仕事量になる。教師という職業に意義を見出している者でなければ、ただ面倒としか思えないだろう。
「そうだな。おまえには他に頼みたいこともあるからな」
「おまえの頼みも二度と聞かん」
「さあ、それはどうかな」
 サイファは顎を引き、上目遣いで視線を送ると、意味ありげに口の端を上げた。
 ラウルは眉をひそめて睨みつけた。サイファが何を企んでいるのか知らないが、巻き込まれるつもりはなかった。何を言ってきても拒絶するだけである。勢いよく背を向けると、そのまま足を止めずに立ち去る。
「またな、ラウル先生」
 サイファは引き止めることはしなかった。からかうように笑いを含んだ声でそう声を掛けると、去り行く背中を笑顔で見送った。

 ラウルは医務室へ向かった。人通りの少ない廊下を、大きな足どりで進んでいく。アカデミーの教師としての仕事はすべて終了した。これからはただの医師に戻ることになる。
「ラウル」
 折れそうな細い声。それは、ユールベルが発したものだった。彼女は医務室の前で、壁にもたれかかっていた。そこでラウルを待っていたのだ。緊張のためか、表情が硬い。
 ラウルはひと睨みしただけで、彼女の呼びかけには応えなかった。無言で鍵を開け、扉をガラガラと大きく開く。
「入れ」
 ちらりと彼女に横目を流し、愛想なくそう言うと、扉を開いたまま医務室に入っていった。
 ユールベルは彼に従い、医務室に足を進めた。後ろ手でそっと扉を閉める。そのまま、その場に立ち尽くした。うつむき加減にラウルを窺う。
「座れ」
 机に向かって席についたラウルが、隣の丸椅子を顎で示しながら言った。
 ユールベルは促されるままに大人しく座った。だが、彼がカルテや薬を準備しているのを目にすると、抗議の声を上げる。
「目を診てもらうために来たわけじゃないわ。話したいことがあったから」
「先に目を診せろ。しばらく来ていなかっただろう」
 ユールベルが最後に診察を受けたのは、例の事故の後、母親と対峙するために病院へ行ったときだった。そこで偶然にレイチェルやラウルと話をすることになり、核心をつかれ、核心を知り、泣きじゃくった。そのあとのことである。あれから五ヶ月ほどが経過していた。恥ずかしくて、悔しくて、腹立たしくて、ずっと会う気になれなかったのだ。
 ラウルは洗面台で手を洗い、椅子に戻ると、正面から彼女と向かい合った。彼女の頭を抱えるように引き寄せ、後頭部に作られた包帯の結び目を解いた。そして、少しくたびれた包帯を、頭から巻き取るように外していった。
 ユールベルは、彼の腕に寄りかかり、目を閉じた。
 残りの包帯がはらりと落ち、隠していた左目と火傷の痕が現れた。完治しないと宣告されたものだ。この傷を意識するとき、心の底に淀んだ黒く重い気持ちが、無理やり掻きまわされるように感じる。忘れてしまえたらどれだけ楽だろうと思う。だが、それが不可能なことはわかっていた。過去ではなく、切り離すことのできない今現在の現実なのだから——。
 ユールベルは目を開いた。
 ラウルの顔が近かった。冷たい手で彼女の頬を押さえ、じっと覗き込んでいる。彼が見ているのは、彼女ではなく彼女の傷だ。
「ラウル」
 ユールベルは小さな声で呼び掛けた。反応はなかったが、続けて質問をする。
「死にたいほどつらいと思ったことはある?」
「定義が曖昧だ。人によって基準が違いすぎる」
「あなたのことを聞いているの」
「さあな。あったかもしれないが、思い返しても仕方のないことだ」
 ラウルは診察しながら淡々と答えた。一通り状態を診ると、手早く消毒して薬を塗り、頭を引き寄せて新しい包帯を巻く。そして、いつものように、頭の後ろでそれを結んだ。
 ユールベルはゆっくりと彼から身を離した。息を詰めて、彼を見つめる。
「私、今日で最後にしたい」
「何をだ」
「あなたに心を煩わされることを」
「そうか」
 ラウルは素っ気なくそう言うと、薬や包帯を片付け始めた。彼女には一瞥もくれない。
 ユールベルは顔を曇らせ、哀願する。
「ラウル、お願い。今だけ私を見て」
 ラウルはじろりと横目で睨んだ。迷惑だと云わんばかりだった。だが、彼女の思いつめた表情を目にすると、ふと動作を止めた。体ごと彼女に向き直り、真正面から強く見据える。
「言いたいことがあるなら言え」
 静かな低音が冷たく響いた。
 ユールベルは目をそらさなかった。小さな口を開き、緊張した硬い声で言う。
「私、はっきりとさせたいの」
 ラウルは無反応だった。身じろぎもせず、彼女を見つめている。
 ユールベルは、微かに震える声で言葉を繋ぐ。
「だから、教えて、あなたは私のことをどう思っているのかを」
「患者だ」
 ラウルは即答した。
 ユールベル眉をひそめた。そういうことを聞きたかったのではない。だが、彼の言いたいことは伝わる。これで十分だったのかもしれないが、今日はどうしても妥協したくなかった。
「私にどういう感情を持っているのかを訊いているの」
「おまえが望むような感情を抱いたことは一度もない」
 ラウルはきっぱりと言った。何の躊躇いも感じられなかった。
「少しも好きじゃないってこと?」
「そうだ」
 ユールベルの瞳が揺らいだ。答えはわかりきっていたが、面と向かって言われると、やはり気持ちが乱れる。
「だったら、どうしてこれほど私の面倒を見てくれるの?」
「患者だからだ」
「他の患者とは扱いが違うわ」
「サイファに頼まれている」
 ユールベルは小さく息を継ぎ、折れそうな心を立て直す。
「私のことは迷惑?」
「医者としては何とも思わない。個人的には迷惑だ」
「迷惑をかけないようにすれば、私をあなたのそばに置いてもらえる?」
「その考えが迷惑だ」
 ラウルは突き放すように、取り付く島のない答えを返す。
 ユールベルは唇を噛んだ。それでも、怯むことなく質問を続ける。半ば意地になっていたのかもしれない。
「あなたが想っているのは、レイチェル?」
「そうだ」
「あの人にはおじさまがいるわ」
 ラウルの眉が僅かに動いた。だが、無表情は崩さない。
「おまえに言われなくても知っている」
「自分に望みがあるとでも思っているの」
「思っていない」
「だったら、どうして……」
 ユールベルはそこまで言いかけて口をつぐんだ。聞くまでもないことだった。理屈ではないのだろう。それは自分も同じだった。膝の上でスカートの裾をぎゅっと握りしめる。
「私では、あの人の代わりになれない?」
「代替など求めていない」
 ユールベルは、はっと息を呑んだ。
 冷たかった彼の声が、急に熱を帯びた。少し怒っているように、そして、むきになっているように聞こえた。冷静でいられなかったのは、レイチェルのことに触れたからだろうか。誰も彼女の代わりになどなれないと主張したかったのだろうか。
「そうよね」
 ぽつりとつぶやくと、首が折れそうなくらいに深くうつむく。長い髪がカーテンのように表情を覆い隠した。
 どうしようもない敗北感だった。
 彼の想いの強さを思い知らされた。そして、自分の心の弱さを思い知らされた。自分はかつて、寂しさを埋めるために代替に縋ってしまった。代替を求めないと言い切った彼と比べ、あまりにも情けない。所詮その程度だと非難されても反論できない。
「わかったわ……」
 彼女はゆっくりと顔を上げた。目が少し潤んでいた。
「あなたはどうするの?」
「どうもしない。何も変わらない」
 ラウルの声は平静に戻っていた。いつものとおり、何の感情も感じさせない声だった。
「つらくはないの?」
「仕方のないことだ」
 ユールベルは目を細めた。
「変わるのは、いけないこと?」
「変わりたいと思えば、変わればいい。変わりたくないと思えば、変わらなければいい。選ぶのは自分だ」
 ラウルは迷いなく言う。
 ユールベルは彼の変わらない表情を見つめた。
 そろそろと細い手を伸ばす。
 彼の長い横髪を掴み、自分の方に引っ張る。
 自分からも顔を近づける。
 彼の唇にそっと口づける。
 右目から涙が零れた。
 頬を滑り落ち、彼の手の上で弾けた。
 うつむきながらゆっくりと顔を離し、手を放した。
「私は、変わるわ」
「そうしろ」
 ラウルは相変わらず無表情のままで言った。
 ユールベルは涙を拭って立ち上がった。震える声で言う。
「さようなら」
「今後も目を診せに来い。医者としての命令だ」
 ラウルは僅かに顎を上げて言った。
 ユールベルは少し迷ったあと、小さくこくりと頷いた。背中を向け、早足で医務室をあとにする。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、真新しい白の包帯が、ふわりと波打つように揺れた。

 ラウルは椅子から立ち上がった。窓際へ歩いていくと、クリーム色のカーテンとガラス窓を開けた。眩しい光と新鮮な空気が医務室に滑り込んだ。消毒液の匂いを掻き消していく。
 遠くで若いどよめきが起こった。
 それが、卒業生たちのものか別のものかはわからない。彼にとってはどちらでもいいことだった。窓枠に肩を寄せて腕を組んだ。目を細めながら青空を見上げ、小さくため息をついた。

「リック!!」
 講堂の外で話をしている三人を見つけると、セリカは大きく右手を上げて駆け出した。
「卒業おめでとう!」
 弾けるような笑顔でそう言うと、手にしていた花束を差し出した。柔らかな色合いのものだった。ふわりとやさしい香りが周囲に広がった。
 リックは目を丸くして、花束と彼女を交互に見た。
「僕に?」
「お祝いよ」
 セリカはきれいに微笑んで言った。
 リックは顔をほころばせて、両手で花束を受け取った。
「ありがとう。花なんてもらったの、初めてだよ」
「なんだよ、リックだけかよ」
 ジークは腕を組み、しらけた顔で言った。
「あら、欲しかったの?」
「いらねーよ!」
 セリカはからかうように尋ねかけ、ジークはムッとして言い返す。ふたりは顔を会わせるたびに言い合いをしていた。主にジークがつっかかっているのだが、セリカもたまに挑発するようなことを言う。だが、それは過去の遺恨によるものではない。少なくともセリカの方には遺恨などなかった。
「もう、ふたりとも仲良くしてよ」
 リックはなだめるように言った。少し困ったように、肩をすくめて苦笑する。
 セリカはくすりと悪戯っぽく笑った。
「仲良くしすぎても困るでしょう?」
「うん、それはちょっと」
「心配するな。絶対に、ありえねぇから」
 ジークは「絶対に」のところに思いきり力を込めた。言葉だけでなく、こぶしにも力を込めている。眉間には縦じわが刻まれていた。
 あまりの必死さが、逆にコミカルに見えた。リックもセリカもそろって吹き出した。
 だが、アンジェリカだけは静かに見ていた。セリカが来てからずっと静かだった。セリカのことが苦手だという気持ちは、今も変わっていないらしい。そう簡単に変わるものでもないだろう。あからさまに態度に出していないだけ、成長したのかもしれない。
 彼女に話しかけようかどうしようか、セリカは迷う。だが、アンジェリカの方はそれを望んではいないだろうと考えて、やめることにした。代わりにリックの袖を軽く引っ張り、小声で耳打ちするように言う。
「ねぇ、リック。そろそろ行かない?」
「あ、そうだね」
 リックは軽い調子で同意すると、ジークに向き直った。
「ジーク、あのさ」
「ああ、ふたりだけでお祝いするとか言うんだろ? 行ってこいよ」
 ジークは先回りして言った。わかりきったことと言わんばかりだった。このパターンは過去にも何度かあったので、いくら鈍感なジークといえど察することができたのだろう。
「うん、ごめんね」
 リックはあまり申しわけなく思ってなさそうな口調で謝った。
「じゃあ行こうか、セリカ」
「ええ」
 セリカは微笑んで答えた。リックといると、自分は大切にされているのだと感じる。とても安心できる。だから、穏やかな気持ちでいられるのだと思う。
「じゃあ、またね。あとで連絡するよ」
 リックはジークにそう言うと、手を振りながら、セリカと連れ立って校門を出て行く。
 ジークとアンジェリカも小さく手を振って、ふたりの背中を見送った。

「俺らはどうする?」
 ふたりだけになり、ジークは隣のアンジェリカに尋ねかけた。彼としてはこのまま帰るつもりはない。もうしばらく一緒にいたい。彼女も同じ気持ちであってほしいと願いつつ、返事を待つ。
 アンジェリカは大きな漆黒の瞳でジークを見上げた。
「私、あの川原へ行きたいんだけど」
「ああ、あそこな」
 ジークにはすぐにわかった。自分たちが共通で知っている川原は一箇所しかない。
「ええ、話したいこともあるし」
「話したいこと?」
「それは、あとでね」
 アンジェリカはにっこりと微笑んで言った。
 ジークは怪訝に彼女を見つめた。なぜわざわざ川原で話すのだろうか。他の人に聞かれたくない話なのだろうか。だが、表情からすると、深刻な話ではなさそうだ。気にはなったが、ここで問い詰めても喧嘩になるだけである。あとで話してくれるというのだから、大人しく川原まで待とうと思った。

「やあ」
 サイファが講堂の方から歩いてきた。軽く右手を上げ、人なつこい笑顔を見せている。今日も濃青色の制服を身に着けていた。仕事を抜け出してきたのだろう。
「サイファさん」
「お父さん」
 ふたりは同時に振り向いた。
「もしかして、式、見てたの?」
 アンジェリカは頬を赤らめ、少し責めるように尋ねた。
 だが、サイファはまるで気にすることなく平然と答える。
「アンジェリカの晴れ姿だからね」
「もう、恥ずかしいから来ないでって言ったのに!」
 アンジェリカは恨めしそうに睨み、口をとがらせた。
 それでも、サイファが悪びれることはなかった。にこにこと微笑みながら言う。
「ごめんね。でも、いいものが見られたよ」
 アンジェリカはその言葉にピクリと反応した。スカートの後ろを両手で押さえ、顔を真っ赤にしながら眉をひそめる。
「もしかして、見えたの?」
「ん? 何の話?」
「ジークが……」
「な、何でもないですっ!!」
 ジークは慌ててふたりの間に割って入った。開いた手を小刻みに振り、何事もないことをアピールする。あんな話をしていたとサイファに知られたくはない。呆れられるか冷たい目を向けられるかしそうだ。それより何より恥ずかしい。
 ガシッ——。
 サイファは彼の手首を掴んだ。
「えっ?」
「ジークを借りたいんだけど、いいかな?」
 とまどうジークを無視して、アンジェリカに尋ねかける。ジークの手首は掴んだままである。それほど強い力ではなかった。振り切ろうとすれば振り切ることはできるだろうが、ジークにその勇気はない。
「何の用なの?」
「少し話をするだけだよ」
 サイファは彼女の警戒を解くように、優しい笑顔を浮かべた。
 彼の笑顔は油断ならないということを、ジークはよく知っている。アンジェリカもそのくらいのことはわかっているだろう。わかっていても、なぜかいつも押し切られてしまうのだ。
「……じゃあ、少しだけ」
 アンジェリカは抵抗しても無駄だと悟ったのか、不満そうにしながらも承諾した。声が思いきり不機嫌なのは、せめてもの自己主張なのかもしれない。
「ジーク、私、先に川原に行っているわね」
 ジークに向けられた声は、もう普段どおりだった。だが、表情は少しだけ心配そうである。
「ああ、わかった。あとでな」
 ジークは片手をサイファに掴まれたまま、もう片方の手を上げて返事をした。安心させるために軽く笑ってみせようとしたが、引きつったぎこちない笑顔しか作れなかった。

 アンジェリカが校門を出るまで見送ると、サイファはようやくジークの手を放した。
「人目につきすぎるから、歩きながら話そうか」
「あ、はい」
 ジークが周囲を見まわすと、確かにこちらを見ている生徒が何人かいた。視線を集めている原因は、サイファの制服に違いない。魔導全科の生徒ならば、教室で何度も目にしているので、彼がアンジェリカの父親であることは知っているだろう。だが、ここには他学科の生徒も多い。なぜ魔導省の人間が来ているのか、と不思議に感じる人がいるのも頷ける。
 ジークはサイファの半歩あとをついて歩いた。いったい何の話なのだろうか、どこへ行くつもりなのだろうか、様々な不安が募る。サイファはまだ話を切り出さない。ちらりと彼を盗み見た。端整な横顔からは、何の感情も読み取れなかった。
 ふたりは校庭を横切り、アカデミーの外れにある寂れた教会近くまで来た。まわりには誰もいない。三本の大きな木だけが存在感を示している。
 サイファはその木の下で足を止め、にっこり微笑んでジークに振り向いた。
「卒業、おめでとう」
「えっ?」
 ジークは驚いて聞き返した。わざわざ人気のないところまで連れてこられ、まさかそんなありきたりなことを言われるとは思わなかったのだ。
 サイファは別の表現でゆっくりと言い直す。
「君が無事に卒業してくれて良かったよ」
 ジークはそれでようやくサイファの意図がわかった。ジークに重傷を負わせてしまったことを気にしていたのだろう。そのせいで卒業が危ぶまれたが、サイファの助力により卒業することができたのだ。
「ありがとうございます。サイファさんのおかげです」
 素直に感謝を口にする。
 何か少し気恥ずかしかった。入院中は一日として途切れることなく彼と顔を会わせていたが、退院してからは今日まで一度も会っていなかった。約二ヶ月ぶりである。そのためだろうか、ふたりきりで会話をすることに、緊張や照れのようなものを感じていた。
 だが、サイファの態度は普段どおりだった。
「そもそも私の責任だからね。感謝されるのもおかしな話だよ」
 笑いながらそう言うと、大きな木の幹に軽くもたれかかった。片手をポケットに差し入れ、ジークに視線を流し、穏やかに尋ねかける。
「就職の準備は進んでいるか?」
「はい、引っ越しはこれからですけど」
 引っ越しは勤務の都合である。一年目は現場での仕事になるため、事件が起これば緊急招集がかかることも少なくない。そのため、少しでも早く出てこられるように、なるべく近くに住むようにとの指示が出たのだ。母親をひとりで置いていくのは心許無いので、一緒に連れていくつもりだが、本人にはそのつもりがないらしく、どうなるかまだわからない。
「そうか、困ったことがあったら相談してくれよ」
「はい」
 ジークは歯切れよく返事をした。それから、少しはにかんで続ける。
「今度会うときは、上司と部下ですね」
 ずっと不思議な感じがしていたが、言葉に出すとますます変な感じがする。あまり想像がつかない。想像しようとすると、何かくすぐったくなってくる。
 サイファはにっこりと笑った。
「厳しいから覚悟しておけよ」
「殺されかけたことを思えば、何だって耐えられると思います」
 ジークも笑顔になり、つられて調子よく言った。しかし、ちょっと調子に乗り過ぎたかもしれない。サイファの機嫌を損ねたのではないかと心配になる。少しびくつきながら、彼の様子を窺う。
 サイファは僅かに口の端を上げた。
「さあ、どうかな。死んだ方がましだったと思うかもしれないよ」
「……えっ?」
 ジークは強張った声で聞き返した。一瞬で顔から血の気が引いた。
「まあ当分は、直接、君と関わることはないだろうけどね」
 サイファは軽く流した。
 だが、先ほど言ったことを否定はしなかった。冗談ではなかったのかもしれない。死んだ方がましだと思うようなこともあるのかもしれない。少なくとも厳しいというのは本当なのだろう。ジークは顔を引き締め、身を引き締める。
「早く上がってこいよ」
 サイファは微かな笑みを浮かべ、挑発的に言う。
「はい」
 ジークは真剣な顔で頷いた。
 サイファは副長官である。彼のいる場所はとても遠い。簡単な道のりではないだろうことは想像がつく。だが、今のジークには、逃げずに進んでいこうという強い意気込みがあった。

 突然、強い風が吹いた。
 頭上で木々が大きく波打つようにざわめいた。
 緑の木の葉がいくつか舞い上がり、ゆっくりと舞い降りてきた。

 サイファは腕を組んだ。木々の緑を見上げながら、口を開く。
「アンジェリカとは仲良くやっているようだね。君が退院してから何度か遊びに行ったと聞いたよ」
「はい、うちに来たり、遊園地へ行ったりしました」
 アンジェリカはいつも両親の許可をとって行動しているようだ。この二ヶ月のことも、当然、サイファの耳には入っているだろう。彼女が遊びに行くことを反対しなかったのは、自分を信頼してくれているからだろうか、とジークは都合よく考えた。
「君から見て、アンジェリカの様子はどう?」
 サイファは上方を見たまま尋ねた。声にあまり抑揚がない。感情を抑制しているようだ。そうしなければならない理由があるからだろう。アンジェリカのことについて不安を感じているに違いない。
 ジークも同様に不安を感じていた。だが、サイファと違って、彼はあまり感情を抑えられない。すぐに表面に出てしまうのだ。顔に暗い陰を落とし、暗い声で答える。
「特に変化はないです。悩んでる様子は見られません。でも、それは……」
「表面上、明るく装っているだけだ、と?」
 サイファがジークの言葉を引き取った。
 ジークはこくりと頷いた。
「一度だけ病院で本心を見せたことがあって、そのときはかなり思いつめた感じでした」
「多少は悩むこともあるかもしれないと思ったが、そこまでとはな……」
 サイファは眉根を寄せて腕を組み、小さく独り言をつぶやいた。それから、ジークに視線を向けて尋ねる。
「あの子は何と言っていた?」
「本当のことを教えてほしい、自分は遺伝子の異常なんじゃないかって」
 それを聞いて、サイファは僅かに首を捻り、怪訝に眉をしかめた。
 ジークは伏し目がちに淡々と話を続ける。
「もちろん口止めされてたので自分は答えてません。アンジェリカはずっと誤解したままです。これからも解いてやることは出来ないんですよね。だとしたら、自分はせめてそれを忘れることのできる時間を作ってやりたいって思って、それで……」
「ちょっと待って」
 サイファは左手を開き、ジークの話を遮った。やや早口で尋ねる。
「そのアンジェリカの話というのは、いつ、どこでのこと?」
「退院する数週間前です。病院の中庭で話してて……」
 ジークは不思議そうに答えた。なぜサイファがそんなことを訊くのかわからなかった。しかも、彼にしてはめずらしく焦っているように見える。
「その後、アンジェリカから話は聞いてないの?」
「何の話ですか?」
 ジークはますますわからなくなった。
 サイファは彼の問いに答えず、顎に手を添えて考え込んだ。やがて、ひとり納得したように頷く。
「どうやら私たちは意思の疎通が出来ていなかったようだね」
「どういうことですか?」
「いずれあの子から話があるだろうから、それを聞けばわかると思うよ。悪いね、これ以上は言えないんだ。アンジェリカに口止めされているからね」
「はぁ……」
 ジークはよくわからないまま、サイファに押し切られるように曖昧に返事をした。
 そんな彼の様子を見て、サイファは笑いながら言う。
「そんなに不安がらなくても大丈夫だよ。事態は君にとって悪い方には転がらない。それは保証する」
 それでもジークの表情は冴えなかった。サイファを疑っているわけではないが、あまりにもわからないことが多すぎて掴みどころがないのだ。これで不安を払拭できるほど楽天家ではない。
 サイファはにっこりと微笑みかける。そして、元気づけるように、手の甲で軽くジークの頬に触れた。
「アンジェリカを幸せにしてやってね。いや、君も幸せになれよ」
 ジークは胸の動悸が速くなった。滑らかな感触が残る頬に自分の手を運びながら、サイファの言葉を咀嚼する。深く息を吸い、ゆっくりと目線を上げる。にこやかなサイファを目にすると、ジークの顔はぱっと晴れた。
「はい!」
 今度は自分の意思で、力強く肯定の返事をする。先ほどまでの靄のかかった気持ちは、一瞬でどこかへ飛んでいってしまった。自分は案外と楽天家なのかもしれない、とジークは思い直した。
「さあ、今日のところはこの辺で話を切り上げようか」
 サイファはジークの肩にポンと手をのせた。ふっと笑みをもらして言う。
「あまりアンジェリカを待たせると、あとで私が怒られるからな。走って行けよ」
「はい! 全力で走って行きます!」
 ジークは元気よくそう言うと、ペコリと一礼した。そして、言葉どおり全力の速さで校庭を横切っていった。走りにくいスーツと革靴だったが、魔導省の制服も似たようなものである。これで走ることに慣れておくのも悪くないと思った。

 小高い丘の上で、レイチェルは青い空を見上げていた。顔はほぼ真上を向いている。長い金色の髪は、緩やかな風にさらさらと揺れ、上品にきらきらと煌めいた。
「レイチェル」
 サイファは背後から声を掛けた。
 レイチェルはゆっくりと振り返った。彼女にしてはめずらしく、黒のドレスを身に着けていた。手には白バラの大きな花束を抱えている。
「待たせてしまってすまない」
「私も今さっき来たところよ」
 彼女の微笑みは、バラにも負けないくらい優美だった。
 サイファは小径を通り、彼女の隣に足を進める。彼もまた、白バラの花束を手にしていた。
 ふたりの正面には、大きな石碑と、大きな白い十字架があった。ラグランジェ家の墓である。例の事故以来、サイファは何度か訪れていたが、レイチェルは今日が初めてだった。入院していたため、葬式にすら出ていない。つまり、彼女にとっては、これが最初の追悼の儀式となる。
 レイチェルは両膝をつき、白バラの花束をそっと石碑の上に置いた。そのまま両手を組み合わせ、静かに目をつむる。桜色の可憐な唇が、微かに動いた。声には出していないが、父親に祈りを捧げ、言葉を掛けているのだろう。
 サイファも、腰を屈め、石碑に花束を置いた。ふたつの花束が隣り合わせに並んだ。ズボンのポケットに右手を掛けると、顔を上げ、大きな十字架を見つめた。
 ルーファスとの様々な応酬が脳裏に浮かんだ。
 彼のことは、今となっては恨んでいない。自分には自分の事情があったように、彼には彼の事情があった。守りたいものが違っただけだ。どちらが正しいか、その絶対的な判断は誰にも下せない。正しい、正しくないの基準など、人によって違うものだ。だから、自分は自分の信じる道を進んだ。それが非難されることであるのなら、罰を下されるというのなら、甘んじて受けよう。ただし、今はまだ——。
「私は……」
 不意に耳に届いたレイチェルの声。サイファは思考の海から引き戻された。その声の方に目を向ける。
「私は何の罰も受けていない」
 彼女はまっすぐに立ち、大きな十字架を見つめながら硬い声で言った。
「罰は死んでから受ければいいさ」
 サイファはさらりと流した。そして、引き締めた真剣な顔を十字架に向ける。
「生きている間は、私が君を守るよ。たとえ君自身が望まなくても」
 強い意志を秘めた口調でそう言い、隣の小さな手に触れた。血の気がなく冷たい。それを温めるように包み込む。自分の存在を示すように、決意を伝えるように、ぎゅっと力を込めて握りしめた。
 レイチェルはゆっくりと振り向いた。無言のまま、微かに揺れる蒼の双眸で問いかける。
「君が生きて幸せになることは、アルフォンスの遺志でもあるんだよ」
 サイファは優しく答え、微笑んだ。
「アルティナさんのところへ戻るつもりはない?」
 それは、王妃の付き人として復帰しないか、という意味である。
 レイチェルは静かに首を横に振る。
「アルティナさん、いまだに毎日のように文句を言いに来るんだよね」
 サイファは可笑しそうに言った。大袈裟ではなく、本当にしつこいくらいに来ていた。いつになったらレイチェルは復帰するのか、説得はしているのか、そんなことを息巻きながら詰問するのだ。時には泣き落としで攻めてくることもある。彼女にとって、それほどレイチェルの存在は大きかったのだろう。
「ごめんなさい」
 レイチェルは力なく詫びた。
 彼女が拒み続ける理由を、サイファは理解していた。
 いつか魔導が暴発してアルティナを巻き込んでしまうかもしれない——そんな懸念がどうしても払拭できないのだろう。アルティナは魔導はまったく使えない。いざというとき、結界などで自衛することは不可能なのだ。
「魔導の暴発なんて、普通にしていれば起こらないよ」
 それはすでに何度か話したことである。過日の暴発は魔導増幅器によって起こされた特殊なものだということも、その仕組みを交えて理論的に説明をした。それで理屈はわかってくれたようだが、心までは動かせなかった。暴発時の記憶が、彼女を臆病にしているのだろう。
 サイファは僅かに目を細めた。
「もし、あの規模のものが私たちの家で起こったとしたら、間違いなく隣接の王宮も巻き添えだ。悪くすれば壊滅かもしれない。つまり、君が付き人をしてようが、してなかろうが、アルティナさんの危険度にそれほど変わりはないんだよ」
 レイチェルははっと息を呑み、大きく目を見開いた。ひどく動揺している様子が垣間見える。
 そんな彼女を落ち着けるように、サイファは優しく言葉を繋ぐ。
「だからね、自信がないのなら、克服したらどうかな」
「克服?」
 レイチェルは困惑して聞き返した。
 サイファは頷いた。
「もう一度、ラウルに家庭教師を頼もうと思う」
 レイチェルの息が止まった。胸に手を当て、大きく瞬きをする。
「……本気?」
 それだけ言うのが精一杯のようだった。
 サイファは口元を上げた。
「ああ、そもそもラウルがきちんと役目を果たしていれば、こんなことは起こらなかったかもしれないんだ。責任は取ってもらうよ。断らせはしないさ」
「でも、それは、私が魔導を嫌がっていたから……」
 レイチェルは遠慮がちにラウルを擁護した。彼女にそのつもりはなかったかもしれないが、サイファには庇ったようにしか聞こえなかった。
「子供の言いなりでは家庭教師失格だよ。それも含めてラウルの責任さ」
 彼は腰に手をあて、涼しい顔で断罪した。
 レイチェルは複雑な表情で考え込んだ。結論の出ないまま視線を上げ、気遣わしげに尋ねる。
「サイファは、それでいいの?」
「君のことは信じてるからね」
 サイファはにっこりと大きく微笑んだ。
 正直にいえば、面白くない気持ちも少なからずある。それでも、ラウル以外には預ける気にならない。結局、誰よりも彼のことを信頼しているのだ。魔導力の面からいっても、レイチェルを任せられるのは、ラウルの他にはいない。いざというとき、彼女を抑え込める力がない人間には危険すぎる。彼女の強大で不安定な魔導力を指導できるのは、それ以上の魔導力の持ち主だけである。
「それで、ある程度の自信がついたら、アルティナさんの付き人に復帰してほしい」
 その要望は、もちろんアルティナのためであるが、同時にレイチェルのためでもあった。家に閉じこもっているより、気の合う友人と過ごした方がいいに違いない。サイファはそう考えていた。
「……わかったわ」
 レイチェルは小さな口をきゅっと結び、覚悟を決めたようにこくりと頷いた。
「そんなに思いつめた顔をしないで」
 サイファは微笑んだ。
「難しいことじゃないよ。ただ、少しだけ勇気を出して」
 彼女に手を伸ばし、桜色の頬を包み込むと、優しく諭すように言う。
 レイチェルは澄んだ蒼の瞳で、じっとサイファの瞳を見つめた。何かを考えている様子だった。まだ不安は拭いきれていないように見える。しかし、ゆっくりと目を閉じ、一呼吸してから開くと、きれいにそれは消えていた。代わりにあったのは、凛とした迷いのない表情だった。
「ありがとう」
 透き通った綺麗な声でそう言うと、少女のような愛らしい微笑みを浮かべた。

 ジークは息を荒くして川辺まで駆けつけた。視界が開け、青空が大きく広がった。さらさらと水の流れる音が両耳に届いた。心が洗われるようだった。気のせいか、空気も澄んでいるように感じた。
 白いガードパイプに手を掛け、川原を左右に見渡す。探していたのはアンジェリカだった。だが、誰の姿も見つけられなかった。
 ——何で、いないんだ?
 彼女はジークより前に出たはずだ。先に行くと言っていた。遅すぎたので怒って帰ったのだろうか。いや、そこまでの時間はかかっていない。途中で追い越したのだろうか。それならば気づかないはずがない。別の道を通っているのだろうか。寄り道しているのだろうか。途中で何かあったのだろうか——。様々な状況を、矢継ぎ早に想像する。だが、正解はわからない。不安だけが膨張していく。鼓動が速く強くなっていく。
「アンジェリカーーっ!!」
 ガードパイプを握りしめ、あらん限りの声で腹の底から叫んだ。
「何よ」
 下方から、少し怒ったような声が聞こえた。彼女の声だ。ガードパイプから上半身を乗り出して覗き込む。
 彼女は石段に座っていた。口をとがらせながら、恥ずかしそうに顔を赤らめ、睨み上げていた。
 そこはジークのいたところのほぼ真下だったので、死角になっていたようだ。安堵してほっと息をつく。
「良かった」
「いきなり人の名前を絶叫しないでほしいわ」
「いなくなったかと思ったんだよ」
「逃げたりなんかしないわよ」
 アンジェリカはムッとして言い返した。
 ジークはガードパイプの切れ目から、川原へと続く石段を駆け下りた。急ぐあまり、足がもつれて転げ落ちそうになった。慣れない革靴だったことも影響していたのかもしれない。
「ちょっとジーク、落ち着いて! 私は逃げないって言ってるでしょう?」
「わかってるけど」
 照れ笑いしながら、彼女の隣に腰を下ろした。その石段は細いため、ふたりが並んで座るには窮屈なくらいだった。必然的に身を寄せることになる。彼の右腕に、彼女の左肩が触れた。微かに日だまりの匂いがした。
「お父さんの話って何だったの?」
 アンジェリカはジークに振り向き、顔を斜めにして尋ねた。
「卒業おめでとうって」
「それだけ?」
「まあだいたい……」
 ジークは答えを濁した。もうひとつはアンジェリカの話だったが、それを言うわけにはいかないだろう。それ以前に、一体どういう話だったのか、ジーク自身がさっぱりといっていいほど理解できていない。
「ふーん……」
 アンジェリカはどこか疑わしげにそう言ったが、それ以上の追及はしなかった。
「それより、おまえは何の話なんだよ」
「えっ?」
「話したいことがあるとか言ってただろ?」
 ジークは彼女に人差し指を向けて尋ねた。そのとき、ふと先ほどのサイファとの会話を思い出す。そのうちアンジェリカから話があるだろうと彼は言っていた。何についての話か見当もつかないが、今からの話がそれなのだろうかと思う。
 だが、アンジェリカはその期待を根本から裏切った。
「そうだったかしら?」
 彼の視線から逃げるように空を見上げ、軽い口調で言う。
 ジークはわけがわからず、眉をひそめて睨む。
「何でとぼけてんだよ。おまえが言ったんじゃねぇか。話したいことがあるって」
「あ! あのね、私、就職先が決まったの」
 アンジェリカは唐突に思い出したように言った。胸元で両手を合わせてジークに振り向く。
「え? そうなのか?」
 ジークはその話題に食いついた。目を大きくして彼女を見る。話を逸らそうという彼女の策略にまんまと引っかかった形である。もちろん、このときのジークはそれに気づいてなどいない。
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。
「きのう決まったばかり」
「どこだ?」
「アカデミー」
「えっ?」
 ジークは目を見開いて聞き返した。彼女の答えはとても信じられるものではなかった。彼女の言い間違いか、自分の聞き間違いか、とにかく何かの間違いではないかと思った。
 アンジェリカはくすっと小さく笑って説明する。
「先生じゃないわよ。先生のお手伝い。助手みたいなものかしら。テスト問題を作ったり、採点をしたりするの」
 ジークは納得した。ほっとしながら言う。
「へぇ、そんなの募集してたのか」
「お父さんの紹介なの。その先生、研究の方が忙しいから、個人的に探してたみたいで」
「サイファさんの? あれ? おまえ、そういうのに頼らないって言ってなかったか?」
 アンジェリカは自分の実力以外のものに頼ることを極端に嫌っていた。そのため、ジークは不思議に思って尋ねたのだが、これではまるで彼女を責めているみたいである。
「あ、いや、悪いっていうんじゃなくてな……」
 慌てて弁明しようとしたが、上手く言葉が続かなかった。自己嫌悪に陥る。彼女を傷つけていないだろうか、それだけが心配だった。
 アンジェリカはふっと表情を緩めた。
「私、あの頃はちょっと肩ひじを張りすぎていたのかも」
 ジークは驚いて顔を上げた。彼女は小さく笑って肩をすくめていた。どことなく恥ずかしそうにしている。強情すぎた過去の自分を思い出しているせいだろうか。
「ああ、そうだな」
 ジークもふっと表情を緩めて同意した。
「あまり頼りすぎるのも問題だと思うけれど」
 アンジェリカは微笑みながら言った。
 ジークは眉をひそめた。
「それ、俺のことか?」
「ううん、お父さんのこと」
 アンジェリカは笑いながら言った。
 ジークもつられて笑った。だが、サイファの場合は、頼るというより利用しているのだと思う。アンジェリカにしてみれば、どちらもたいして違いはないのかもしれないが、ジークにはその違いが明確に見えていた。
「でも、今回は素直に感謝するわ。おかげでアカデミーで働けるんだもの」
「そういや、おまえを雇った先生って誰なんだよ」
 ジークは少し身を乗り出した。
「今度の一年生の担任よ。新任だから、ジークは知らないんじゃないかしら。私も一度会っただけだけど、お父さんはいい人だって言っていたわ」
 アンジェリカは明るく言った。
 ジークは微妙に顔を曇らせた。アンジェリカが一緒に仕事をする相手なので、もちろん良い人である方がいいに決まっている。サイファも安心して任せられる人間だからこそ、アンジェリカに勧めたのだろう。だが、ジークとしては、サイファが認めているというのが何となく面白くなかった。それに——。
「それって、男か?」
「ええ、男性よ。30歳って聞いたわ」
 年齢を聞いて、ますます顔が曇った。
「もしかして、心配?」
 アンジェリカは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、複雑な表情のジークを覗き込んだ。
「そんなんじゃねぇよ」
 ジークはふてくされたようにそう言うと、頬杖をつき、少しだけ顔をそむけた。
 彼女にはすっかり見透かされてしまっているようで、どうにもきまりが悪かった。器の小さな男だと思われはしないだろうかと不安になった。そもそも、そんな不安を抱えること自体が、器が小さいということの裏付けに他ならない。自分の情けなさに気持ちが深く沈んだ。
 そのとき——。

 腿の上に重みがかかった。
 仄かな甘い匂いが鼻をくすぐった。
 そして、唇の端に何かが触れた。
 あたたかく、柔らかい——。

 一瞬の出来事だった。何の反応もできなかった。
 だが、それが何かくらいはわかる。
「おまえ……」
 ジークは口元を押さえ、何ともいえない表情で、ゆっくりと振り向いた。眉根を強く寄せ、眉間に深く皺を刻んだ。顔は燃え出さんばかりに赤く、そして熱い。
 だが、アンジェリカの方はいたって普通だった。無邪気なくらいの笑みを見せている。
「なんで……っ」
 ジークは彼女を指さして突っかかったが、それ以上の言葉が出てこなかった。口だけを何か言いたげに動かす。顔だけでなく、頭にも血が上っていた。冷静に考えられる状態ではない。
 アンジェリカはちょこんと首を傾げた。
「もしかして、嫌だった?」
「そうじゃねぇ、けど……」
 ジークは言い淀む。
「ならいいじゃない」
 アンジェリカは事も無げに言う。まるきり何とも思っていない口調だった。
 ジークは瞬間的にカッと沸騰した。
「おまえバカか!」
 思わず怒鳴りつける。だが、その勢いは続かなかった。
「何でこんな簡単に……不意打ちみたいな……ってか、おまえからなんて……」
 次第にしどろもどろになっていく。言いたいことが上手く説明できない。ああ……、と苦悶の表情で頭を抱えた。
 アンジェリカは澄んだ青空を見上げ、立てた人差し指を口元にあてた。
「うーんと、いつかの返事のつもりだったんだけど」
「…………?」
 ジークは怪訝な顔で彼女を見た。
「忘れたの? 入院したとき、私に言ったこと」
「え? えーっと……」
 彼女にそう言われてギクリとした。何だっただろうか——人差し指を頭に当て、必死に考えを巡らせる。だが、焦れば焦るほど、頭が働かなくなっていく。
「本当に忘れてるの?」
 アンジェリカは眉をひそめる。
「ずっと一緒に生きていきたいって」
「あ……」
 ジークは思いきり間の抜けた声を発した。ようやく思い出した。入院した翌日に言ったことだ。平たくいえばプロポーズである。
「あ、じゃないわよ」
 アンジェリカはため息まじりに言った。少し顎を引き、上目遣いで不安そうに彼を窺う。
「もしかして、もう気が変わってた?」
「んなことはねぇ!! すげぇ、すげぇ嬉しい!!」
 ジークは彼女の細い肩を掴み、がむしゃらに気持ちを伝える。喜んでいる表情ではなく、必死の形相だった。
「本当にいいんだよな?!」
「ええ、私はね」
 アンジェリカは落ち着いた声で言った。
「でも、ジークはいいのかしら? よく考えた方がいいかもしれないわよ」
「何でだよ! もう十分すぎるくらい考えてんだ!」
 ジークはカッとして言い返した。彼女に疑われたのが心外だった。自分はずっと真剣だった。まだ信じてもらえないのかと思うと、たまらなく悔しい。
 アンジェリカは斜め上に視線を流すと、とぼけた顔でさらりと言う。
「私、ジークが毛嫌いしているラウルの娘なんだけど」
「……え?」
 ジークは混乱した。アンジェリカはこのことを知っていたのだろうか。いや、知るはずはない。サイファは秘密にすると言っていた。では、彼女の推測なのだろうか。自分は試されているのだろうか。だとしたら、知らないふりをしなければならない。今からでは遅いか? いや、どうにかして取り繕わなければ——。
「鎌を掛けているわけじゃないわよ」
 アンジェリカはにっこりとして言った。
「お父さんとお母さんから聞いたの、本当のことを」
 ジークはポカンとした。きっと相当に間の抜けた顔をしていただろう。
 アンジェリカは首を傾げる。
「ジークも知ってるって聞いたけど?」
「あ、ああ……」
 ジークは噴き出した汗を手の甲で拭った。ようやく少し落ち着いてきた。それとともに頭も回ってきた。
「おまえ、いつからそれ……」
「ジークが退院する少し前かしら。もう少し早く言いたかったんだけど、なかなか言い出せなくて」
 アンジェリカはそう言って、小さく肩をすくめた。
 それから二ヶ月以上が経っている。その間も自分はずっと悩んでいた。早く言ってくれれば——ジークはそう思ったが、彼女を責める気にはなれなかった。彼女にずっと黙っていた自分に、そんな資格はない。それに、言い出しにくかった彼女の気持ちもよくわかる。
 先ほどサイファと話が噛み合なかった原因もわかった。真実を知ったということをアンジェリカ自身から既に聞いている、サイファはその前提で話していたのだろう。
 アンジェリカは前に向き直り、膝の上に両肘をつくと、開いた手の上に顎をのせた。
「何だか恥ずかしいわ。ずっと勝手に勘違いして、もうすぐ死んでしまうなんて悲劇のヒロインぶって。思い返すと顔から火が出そうよ」
「悲劇のヒロインにしちゃ、強情すぎたけどな」
 ジークは苦笑いしながら言った。
「どうせ強情よ」
 アンジェリカはむくれて、口をとがらせた。
 ジークは小さく笑った。彼女のそんな表情でさえも、ただ素直に愛おしく思える。重かった心のつかえが取れたせいかもしれない。
 しかし、気掛かりなことは残っている。その真実について、彼女がどう思っているのかがわからない。彼女の様子には何も変化が見られない。悩んではいないのだろうか。
 サイファが知りたかったのは、おそらくこのことだったのだろう。当事者の彼の前では、たとえ悩んでいたとしても、アンジェリカがそれを見せることはない。だから、わざわざ自分に尋ねたのだ。
 そんなことを考えるうちに、自分がそれを聞き出してサイファに伝えなければならないような気持ちになってきた。勝手な使命感である。自分に出来ることであれば、彼の力になりたいと思ったのだ。横目で彼女を窺いつつ、思いきって率直に訊いてみる。
「それで、おまえさ……どうなんだ? その真実を聞いて」
「どうって?」
「だから、どう思うかっていうか、どうするかっていうか……、悩んだりしてねぇのかなと思って」
 アンジェリカは優しく微笑んだ。
「何も変わらないわよ。お父さんはお父さん、お母さんはお母さん、ラウルは先生。誰も変わることなんて望んでいないもの。私もこのままがいい。だからずっとこのままよ。悩むこともないわ」
 淀みなくいつもと変わらない口調で答える。無理をしているようには見えない。きっと本心からの言葉なのだろう。彼女の話を聞いていると、それがとても自然で当たり前のように思えてくる。何も心配することはなかった、とジークは胸を撫で下ろした。
「ジークは? 私がラウルの娘でもいいの?」
「何も変わらねぇよ。おまえはおまえだしな」
 彼女と同じ言葉で説明をして、ジークははにかんだ。彼女の出自を知ったときは驚いたし、ショックも受けた。それは事実だ。だが、彼女に対する気持ちだけは、少しも変わることはなかった。そもそも入院中にあの話をしたときは、すでにラウルの娘であることを知っていた。知ったうえで彼女と生きていく決意を固めたのだ。
「よかった」
 アンジェリカは胸に手をあて、安堵したような笑顔を見せた。

 会話が途切れ、急に静かになった。
 川を流れる水音が、やけに大きく聞こえた。
 視界の端できらきらと輝く水面が眩しい。

「あのね」
 アンジェリカが硬い声で沈黙を破った。その声から緊張が伝わってくる。
「私、お母さんみたいにならないから」
「……ああ」
 ジークは頬杖をついたまま、静かに相槌を打った。
 唐突で少し驚いたが、彼女の言いたいことは理解できた。彼女なりに心配させまいと気を遣っているのだろう。それを言わせたのは自分に違いない。呆れるくらいに心配性で嫉妬深いことを、彼女はきっと知っている。
 この後どう反応すべきか悩んだ。僅かに目を伏せる。
 暫しの沈黙のあと、訥々と言葉を繋いだ。
「俺、サイファさんみたいに、心、広くねぇから」
「うん」
 アンジェリカは重い声を落としてうつむいた。
「そんなんなったら、俺、発狂するかも」
「うん……」
 これがジークの飾らない気持ちだった。サイファのような行動をとる自信はない。受け入れる、受け入れない以前に、自分が自分でいられなくなるだろうと思う。こうやってその事態を想像するだけで、気が変になりそうなのだ。情けないことこの上ないが、彼女には正直なところを伝えておこうと思った。
 不意に、立てた小指が視界に差し出された。
 ジークは面食らった。まさか、と思いながら、その小指の主へと視線を滑らせる。
「ゆびきり」
 アンジェリカはにっこりと微笑んで答えた。
 彼女は何かというとすぐに指切りを求める。今まで何度させられたかわからない。だからといって、いくらなんでもこの場面で出てくるとは思わなかった。ジークは呆れながらため息をつく。
「こんな大事なことで指切りかよ」
「大事なことだから指切りなの!」
 アンジェリカは立てた小指をしっかり見せながら、少し怒ったように力説した。
「仕方ねぇな」
 ジークは渋々といった仕草で、軽く握った右手を持ち上げた。わずかに小指を出しているが、いかにもやる気なく丸まっている。
 アンジェリカはそれでも嬉しそうに、彼の小指に自分の小指をしっかりと絡ませた。
「約束成立ね」
 小首を傾げてくすりと笑うと、指を切った。
 ——ったく……。
 ジークは心の中で嘆息した。彼女は子供扱いすると怒るが、こういうところはまるで子供である。それが嫌なわけではない。だが、そういう子供っぽさに付き合わされるのは、大人の男としては少し複雑な気分である。だいたい、こういうときの約束は、指切りではなく普通は——。
 そこまで考えて、はっとした。彼女に振り向いて尋ねる。
「おまえ、あれ持ってるか?」
「あれ?」
「えっと、シルバーリング」
 それは、ジークが誕生日プレゼントとして彼女に贈ったものである。12歳の女の子に魔除けとして贈るという古い風習に基づいたものだ。ただ、サイズが合わなかったため、彼女はネックレスにして身につけているらしい。毎日、身につけていると言っていたが、それはだいぶ前のことである。今でも身につけてくれているだろうか、と少し心配になった。
「ええ、持っているわ。サイズが合わないままだけど」
 アンジェリカは襟元から指を差し入れると、ネックレスの細い鎖を引っ張り出した。その鎖に通されたシルバーリングが襟からこぼれる。太陽を反射してきらりと光った。
 ジークは手を差し出した。
「ちょっと貸してくれ」
「ええ、いいけど……」
 アンジェリカは怪訝にそう言うと、首から外し、ジークの手の上に鎖ごと置いた。
 ジークはその指輪から鎖を外した。
「左手」
「左手?」
 アンジェリカは不思議そうに尋ね返しながらも、素直に左手を差し出した。手のひらが上になっていたが、ジークはそれをひっくり返し、手の甲を上にした。
「何なの?」
「指切りより、こっちの方がそれっぽいだろ」
 細い薬指に、そっと銀の指輪を滑り込ませる。彼女が言ったように、サイズは合っていない。かなり緩かった。
「今だけ、それ、嵌めててくれねぇか? ちゃんとしたのは、そのうち買うから」
 ジークは目を伏せたままで言った。彼女の大きな瞳に見つめられたら、動揺してしまい、しどろもどろになりそうだと思ったのだ。しかし、結局、曖昧なことしか言っていない。自分の意図が彼女に通じているか不安になった。
 アンジェリカは大きく瞬きをした。薬指の指輪をじっと見つめ、くすりと笑う。
「一緒に生きていく約束ね」
「……ああ」
 ジークは彼女の肩を抱こうと、背後から手を伸ばした。だが、それが届くより早く、彼女はすっと立ち上がった。ジークは宙にさまよう手を慌てて引っ込める。逃げられたわけではなく、タイミングが悪かっただけだろうが、少しだけ気落ちした。
 アンジェリカは軽いステップで石段から川原に下りた。まだ小石の上で歩くのは慣れないらしい。不安定な足元にふらつきながら振り返る。黒髪がさらりと舞い、小石がジャッと鈍い音を立てた。
「大事なこと、言い忘れていたわ」
 石段のジークに届かせるように、声の音量を上げた。
 にっこりと笑みを浮かべる。
 後ろで手を組み、胸を張って大きく息を吸う。
 そして——。
「私、ジークのこと大好きよ!」
 屈託のない笑顔を弾けさせながら、彼女はありったけの声を張り上げた。澄みきった声が、澄み渡った青空に拡散した。
「なっ……」
 ジークは顔を真っ赤にして狼狽した。思わず周囲を見まわす。自分から見える範囲に人影はなかった。ふぅ、と細くため息をつき、前髪を無造作に掴みながら額を押さえた。そして、下を向いたまま声を立てずに笑う。背中は少し揺れていたかもしれない。
 アンジェリカは予測もつかない行動や反応をすることがよくある。ジークははいつも振り回されっぱなしだった。入学したときからずっと彼女のペースに巻き込まれてきた。それでも不思議と嫌だとは思わなかった。むしろ、そういうところが可愛いとさえ思う。彼女と一緒にいると飽きることがない。
「ねぇジーク、見て!」
 ジークはまだ熱の残る顔を上げた。
 彼女は左手を高々と掲げていた。太陽にかざしているらしい。手を動かすたび、光を受けたシルバーリングがきらりと煌めいた。
 ジークはふっと笑みをもらし、誘われるように立ち上がった。その眩しさに目を細めながら、それでも目をそらすことなく、確かな一歩を踏み出す。

 きっと彼女となら、一緒に歩いていける。
 きっと彼女となら、ともに支え合っていける。
 自分が守っていくなんていう自信はないけれど、
 楽しいときも、つらいときも、
 晴れた日も、嵐の日も、
 つないだ手を離さない自信だけはあるから——。

 空は奇跡のように果てしなく青かった。太陽は祝福の光を世界に遍く降り注ぐ。彼女の手にあるのは、その一部を受けて輝く夢のひとしずく。それは、ふたりの約束の形、望むべき未来への道しるべ。
 ジークはこの光景を生涯忘れることはないだろうと思った。


この本の内容は以上です。


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