目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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87. 涙

「嘘だ!!」
 ジークは自分の叫び声で目が覚めた。直前まで何かの夢を見ていたはずだが、目を覚ました瞬間、すっと闇に沈み込むように記憶ごと消え去った。嫌な夢だったという感覚だけは残っているが、その内容は思い出せない。
 起き上がろうとして、体が動かないことに気がついた。手足が固定されているようだ。右腕にはギプス、左腕には固定器具らしきもの、シーツの下で見えないが、脚にも何かが取り付けられているような感触がある。あたりは妙に消毒くさい。病院なのか? 首を動かしてあたりを窺おうとする。
「気分はどうだい?」
 突然、降ってきたその声に、ビクリと体がすくんだ。おそるおそる声の方に振り向く。
 そこにいたのはサイファだった。パイプ椅子に腰掛け、にこやかな微笑みをたたえている。
「怯えなくても、もう君を殺そうなんて思っていない。その理由がなくなったからね」
 ジークは少しずつ記憶が蘇ってきた。道場でサイファと戦ったこと、手も足も出なかったこと、殺される寸前でラウルに助けられたこと、そして——。
 あれは夢でも幻聴でもない。
 信じがたい内容だったが、その確信はあった。あのとき、確かに自分の意識はあった。確かにこの耳で聞いた。それが事実なのかはわからない。確かめる術はひとつしかない。しかし——。
 ジークはもの言いたげな視線をサイファに送った。
「両手両足とも骨折だよ。当分は入院になるが、完治するそうだ」
 サイファはまっすぐに彼を見据えたまま、落ち着いた声で言った。
「そうですか、よかった」
 ジークはうわの空だった。だが、自分の声を耳にし、その冷たさに驚いた。取り繕うように、慌てて付け足す。
「レイチェルさんは無事だったんですか」
「ああ……」
 サイファの返事は歯切れが悪かった。表情も暗く沈んでいる。あまり無事だったようには思えない。だが、彼女に何かあったのならば、もっと取り乱しているだろう。
 ジークは気になったが、何も尋ねられなかった。

「サイファ」
 半開きの戸口から、ラウルが姿を見せた。相変わらずの無表情だった。腕を組んだまま、目で呼びつけている。
「眠ってて」
 サイファはジークの頬に軽く触れて微笑んだ。その微笑みを残しつつ立ち上がり、颯爽とした足どりで外に出ると、後ろ手で扉を閉めた。
 その途端、彼の顔つきは険しくなった。目線を上げ、声をひそめてラウルに尋ねる。
「被害状況は?」
「死者3名、重傷者8名、軽傷者21名」
「そうか……」
 サイファは重々しくそれだけを口にした。すぐには二の句が継げなかった。
 ラウルは淡々と報告を続ける。
「長老たちの証言によれば、暴発が起こったとき、アルフォンスは自らの結界を張らず、ルーファスの結界を解除したらしい」
「そうだろうな。直撃を受けたとしても、あのふたりが結界を張っていれば、助からないはずがない。アルフォンスは計算ずくでレイチェルに魔導増幅器を渡したのだろう」
 サイファは難しい顔で腕を組んだ。
「しかし、なぜそこまで……私がジークを殺せないと思っていたということか……」
 考え込みながらつぶやく彼を、ラウルはじっと見つめた。
 サイファはその視線に気づき、訝しげに顔を上げた。
「何だ?」
 ラウルは一拍おいてから、静かに答える。
「レイチェルは、どのみち処刑される予定だったらしい」
 サイファは息を呑んで、大きく目を見開いた。
「……そうだな、確かに彼らにとっては邪魔な存在だ。処刑する理由はあっても、生かす理由はない。私との約束を破ったところで、彼らに何ら不利益はない。そんなことさえ気づかずに、私は彼らの思うままに行動してしまったというわけか」
 うつむきながらそう吐き捨てると、自嘲の薄笑いを浮かべた。
「少し休め」
 ラウルは無表情で言いつけた。
「心配してくれているのか」
「医者としての命令だ」
 サイファは目を伏せ、ふっと息を漏らした。
「何かをしていないと、よけいにおかしくなるよ」
「……勝手にしろ」
 ラウルはひと睨みすると、腹立たしげにため息をついた。
 サイファはそんな彼を見て、にっこりと微笑んだ。
 しかし、それはすぐに真面目な表情へと変わった。隣の病室に険しい目を向ける。扉は閉まっていた。
「レイチェルは?」
 声を落として質問する。
「さっき見たときはまだ眠っていた」
 ラウルは無愛想に答えた。
 サイファは音を立てないように扉を開け、中へ入っていった。部屋は薄暗かった。灯りは消されており、窓にはクリーム色のカーテンが引かれている。そして、中央にはパイプベッドがひとつ置かれていた。
「死者3名、重傷者8名、軽傷者21名」
 力のない小さな声が聞こえた。そのベッドに横たわるレイチェルの口から発せられたものだった。
 サイファはドキリと心臓が縮み上がった。同時に歩みも止まった。
「起きていたのか」
 平静を装って返事をすると、何事もなかったかのように再び足を進めた。だが、心の中では、自分の軽率さに舌打ちをしていた。部屋の前でする話ではなかった。もう少し配慮すべきだった。彼女にはまだ告げるつもりはなかったのだ。今は受け入れられる状態ではないはずだ。大丈夫だろうか——ベッドの横に跪き、不安そうに様子を窺う。
 彼女は天井を向いたままだった。目を開けてはいたが、焦点は定まっていないように見えた。白い肌は、いつもよりさらに白く、まるで血の気がなかった。小さな唇にだけ、微かな赤みが差している。
 サイファは柔らかな頬にそっと触れた。ほとんど温かさを感じられない。
「お父さまは?」
 レイチェルは彼に目を向けずに尋ねた。
 サイファは、一瞬、言葉に詰まった。しかし、すぐに真剣な顔になった。ここまで知られてしまった以上、ごまかすことが良策とは思えない。ゆっくりと語りかけるように口を切った。
「レイチェル、落ち着いて聞いて。アルフォンスは……」
「亡くなったのね」
 レイチェルは先回りをしてぽつりと言った。
 サイファは眉根を寄せ、うつむいた。
「私の力が足りないばかりにこんなことになってしまった。申しわけない」
 噛みしめるように、詫びの言葉を口にする。
 レイチェルは首を横に振った。目からは大粒の涙が溢れ出した。
「すべて私のせい。私がお父さまを殺してしまった。たくさんの人を傷つけてしまった」
「違う! 君は悪くない! 悪いのは処刑しようとしていた奴らの方だ。それに君の意思じゃない。魔導増幅器のせいで力が暴走してしまっただけだ。君も被害者じゃないか!」
 サイファは必死に擁護した。思いつく限りのことを捲し立てる。しかし、彼女を納得させることは出来なかった。むしろ、過敏になっている神経を刺激しただけだった。
「違うの! 私さえいなければこんなことにならなかった! すべての原因は私にあるの! サイファだって知ってるじゃない!!」
 激しく感情を昂らせ、震える声で泣き叫ぶ。
「レイチェル、聞いて」
 サイファは上から彼女の両肩を押さえるようにして覗き込んだ。
「私がいけないの!!」
 レイチェルは切り裂くような悲痛な叫びを上げた。右腕で目を覆い、何度も首を横に振った。流れる涙は止まらない。苦しそうに嗚咽を続ける。
「レイチェル……」
 サイファは途方に暮れた。
 彼女から否定の言葉を聞いたのは、今日が初めてだった。彼女はいつだって前向きだった。逃げることなくすべてを受け止めてきた。だが、今回のことはあまりに大きすぎた。いや、本当はずっと無理をしていたのかもしれない。そして、その無理を強いたのは自分だったのではないか——。
「ごめんね……」
 弱々しく紡がれた謝罪。彼女には届いていないかもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。ただ、口にせずにはいられなかった。温もりを求めるように、彼女の肩に頭を埋めた。

 コンコン——。
 扉をノックする音が聞こえた。
 サイファは返事をしなかった。レイチェルの肩に額をのせたまま、顔さえ上げない。ラウルだろうと思ったが、今は邪魔をされたくなかった。もちろん、泣き続けているレイチェルも、何も答えはしなかった。
 だが、扉は開いた。
「レイチェル」
 戸口から聞こえた女性の声。
 サイファははっとして振り向いた。ラウルではない。そこに立っていたのは、小柄で上品な雰囲気の婦人だった。薄い金色の髪を後ろでまとめ、深い蒼色の瞳をこちらに向けている。
「アリス……」
 サイファは呆然と名をつぶやいた。我にかえると、慌てて立ち上がり、自分の居た場所を譲る。彼女は柔らかい物腰でサイファに頭を下げ、流れるような動作でベッド脇に膝をついた。
 レイチェルは彼女の姿を瞳に映すと、怯えたように顔を引きつらせた。
「お母さま、ごめんなさい……私がお父さまを……っ!」
「落ち着きなさい」
 威厳と優しさを同時に感じさせる声だった。アリスは柔和に微笑み、人差し指で彼女の頬の涙を拭った。
 レイチェルはしゃくりあげながら、濡れた瞳で頼りなく母親を見つめた。
「アルフォンスはあなたを助けたかった。これが、望んだ結果だったのよ」
 アリスは小さな子供に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で語りかけた。
「違う……」
 レイチェルは強く目をつむり、小刻みに首を横に振った。
「私には助けてもらう資格も価値もないわ!」
「価値の基準はそれぞれが持っているものよ。アルフォンスにとっては、自分の命を懸ける価値があった。だから、そう行動したの」
 アリスはレイチェルの細い手をとり、その上に自分の手を重ねた。
「アルフォンスの想いを無駄にしないで。あなたに幸せに生きてほしいと願っていたのよ」
「だって……」
 レイチェルは泣き続けた。声は掠れている。
 アリスはぎゅっと手に力を込めた。
「しっかりしなさい。あなたは母親でしょう? 母親としてしなければならないことがあるはずよ」
「私……アンジェリカにどんな顔をして会えばいいのかわからない……」
 レイチェルは顔を歪め、泣きながら息苦しそうに喘ぐ。
「休ませたほうがいい」
 背後から抑えた低い声が聞こえた。いつのまにかラウルが部屋に入ってきていた。サイファたちに背を向け、注射の準備をしているようだった。それを片手にベッドへと足を進め、アリスを押しのけるように割り込むと、空いた方の手でパイプ椅子を広げて座った。そして、いまだ呼吸の荒いレイチェルの腕を取り、手際よく鎮静剤を打った。
「出ろ。今日はもうそっとしておけ」
 押し込めた声でそう言うと、睨みつけるような視線をふたりに送り、大きな足取りで病室を出て行った。

 レイチェルの嗚咽は、次第に浅くなっていった。薬が効いてきたのだろう。
 アリスは言われるままに病室を出た。だが、サイファはまだ離れられなかった。ラウルが座っていたパイプ椅子に、崩れるように腰を下ろした。静かな病室に、ギシ、と耳障りな音が響く。彼女を刺激してしまったかと少し焦ったが、目を閉じたまま反応はなかった。もう眠りに落ちていたようだ。呼吸は規則正しいリズムを刻んでいる。
 彼はそれを聞きながら、ぼんやりと彼女を眺めていた。そのとき、ふと、シーツからはみ出している左手に気がついた。白く細い指先は、ベッドから落ちかかっている。彼は、その手をシーツの中に戻そうとした。
 だが、不意に何かを思い出したように中断した。ズボンのポケットを探る。そこから取り出したものは、プラチナの指輪だった。結婚指輪として彼女に贈ったものである。ルーファスを経て、再び彼の手に戻ってきたのだ。
 彼は、そっと彼女の左手をとった。その仕種は、まるで壊れ物を扱うかのようだった。反対の手に持った指輪をゆっくりと近づけ、薬指に嵌めようとする。
 だが、寸前で手が止まった。
 そのまま、微動だにせず、じっと考え込む。
 刻が止まったかのような、長い、長い沈黙——。
 それは、小さな吐息によって終わりを告げた。
 目をつむり、そっと手を引くと、指輪をポケットに戻した。

 サイファは病室を出た。アリスはまだ廊下にいた。窓枠に手を掛け、ガラス越しに夕空を仰いでいる。先ほどまでは眩しいほどの茜色だったが、今はもう大部分が濃紺に侵食されていた。地平近くでわずかに光が放たれているが、それもあと数分で消えてしまうだろう。
「アリス、私の力不足だ。申しわけない」
 サイファは背後から声を掛けた。うなだれるように頭を下げる。
「どうしてあなたが謝るの?」
 アリスは片手を離して振り返った。
「謝らなければならないのは私たちの方だわ」
「謝らないでください」
 サイファは硬い声で言った。彼女を気遣っているわけではない。ただの我が儘だった。謝られてしまったら、今まで積み上げてきたものがすべて崩れ去ってしまう、そんな気がした。
 アリスはもの悲しげに微笑んだ。
「いつでも、どんなときでも、あなたは全力でレイチェルを守ってくれた。言葉にはしようのないくらい、深く、深く感謝しているわ。アルフォンスも同じ思いよ」
 優しく穏やかな音色で、包み込むように言う。
 だが、サイファは険しい表情で眉を寄せた。一歩、二歩と足を進めると、窓枠に手を掛け、紺色に覆われた空を見上げた。いくつかの星が薄く煌いた。
「私はただ、レイチェルを手放したくなかっただけなんだ。それが彼女の望んでいたことかどうかはわからない」
「めずらしく弱気ね」
 アリスはくすりと笑って、彼の頭を手の甲で軽く叩いた。
「そういうときもありますよ」
 サイファは穏やかにそう答えると、にっこりと笑顔を返した。
 そのとき、地平を照らす最後の光は、世界の裏側に吸い込まれるようにすっと消え去った。

 サイファはジークの病室に戻った。
 ジークは起きていた。ベッドに横たわったまま、気遣わしげなまなざしをサイファに送る。
「レイチェルさん、大丈夫ですか」
「聞こえていたんだね」
 サイファはそう言いながら、パイプ椅子に腰掛けた。驚きはしなかった。隣室であれだけ泣き叫べば、聞く気がなくとも耳に入るだろう。
「今は薬で眠っているが、どうかな……心の傷が癒えるには時間がかかるだろうな……」
 それは、ジークに答えているというより、ほとんど独り言だった。
 ジークは、考え込むサイファをじっと見つめた。そのまましばらく逡巡していたが、口元を引き締めると、意を決して切り出した。
「サイファさん、あの……」
「ジーク!!」
 彼を遮った高い声。それと同時に、叩きつけるように扉が開かれる。そこから飛び込んできたのは、血相を変えたアンジェリカだった。ベッドの上のジークを目にするなり、小さく息を呑んだ。
「……ひどい……」
 そうつぶやいて絶句した。包帯やギプスで固定された彼の姿は、彼女にとってあまりに痛々しいものだった。
 少し遅れて、リックも駆け込んできた。苦しそうに息を切らせている。ようやく追いついたという感じだ。彼もジークの姿に言葉を失った。荒い息のまま、呆然と立ちつくした。
「事故だなんて嘘!! お父さんが連れて行ったすぐあとなのよ? 何があったの?!」
 アンジェリカはサイファに振り向くと、責めるように激しく詰問した。
 サイファは両膝に手をのせ、視線を落としていた。しかし、ジークにちらりと目を向けると、おもむろに椅子から立ち上がり、まっすぐ彼女に向き直った。
「私が、ジークを殺そうとした」
「えっ……?」
 アンジェリカは目を大きく見開いた。その漆黒の瞳には、サイファの真剣な顔が映っていた。
「レイチェルが人質にとられてしまってね」
「え? 人質……? 人質ってどういうこと? お母さんは無事なの?!」
 縋るようにサイファの服をぎゅっと掴み、混乱した面持ちで見上げる。
「ああ、なんともないよ。隣の部屋で眠っている」
 サイファは安心させるように、彼女の肩に手をのせて言った。
 アンジェリカはほっと胸を撫で下ろした。
「でも、いったい何が……」
「ここで簡単に説明できることではないんだ。家に帰ってから話すよ」
 サイファは穏やかに、しかし、どこか寂しげに微笑んだ。
 アンジェリカはうつむいて唇を噛みしめた。曇り顔でジークに振り向き、ベッドの横に跪く。
「ごめんなさい、ジーク。本当に……なんて言ったらいいか……」
 祈るように両手を組み合わせ、泣きそうにジークを見つめた。理由があったとはいえ、自分の父親が彼を殺そうとしたのである。簡単に許されることではないはずだ。詳しい事情はまだわからないが、それでもとりあえず謝らなければと思った。
 ジークは柔らかく微笑んだ。
「なんて顔してんだよ。たいしたことねぇって。だいたいなんでおまえが謝るんだよ」
「私のせいだし、お父さんがやったことだし」
 アンジェリカは沈んだ声で訥々と言う。
「おまえのせいじゃねぇよ。俺が勝手にやったことだ」
「でも、私のためなんだもの!」
「俺自身のためだ」
 ジークは毅然と言い放つと、ふっと口元を緩めた。そして、優しい目で彼女を見つめる。
「良かった、もういちどおまえに会えて」
「ジーク……」
 アンジェリカは何ともいえない複雑な表情で目を伏せた。
 サイファは後ろから彼女の両肩に手をのせた。
「アンジェリカ、今日はこのくらいに」
「……お母さんのところへ行ってもいい?」
 アンジェリカは下を向いたままで尋ねた。
「眠っているから起こさないようにね」
 サイファは優しい口調で答えた。ラウルからはそっとしておけと言われたが、眠っている間であれば問題ないだろうと考えた。いくらなんでも会うなというのは酷だろう。
 アンジェリカはこくりと頷いた。そして、ジークに目を向けると、ぎこちなく笑いかけた。
「ジーク、あしたまた来るわ」
「ああ」
 ジークは笑って手を上げようとしたが、動かせる状態ではなかった。腕が固定されていることを忘れていた。もどかしさに苛立ちが募る。
「ジーク、じゃあね」
 リックも声を掛けた。アンジェリカの背後で、温厚な微笑みを浮かべながら、軽く右手を上げた。
「ん? あ、ああ」
 ジークはしどろもどろの返事をした。彼の存在をすっかり忘れていた。このとき初めてしゃべったのではないだろうか。自分やサイファ、アンジェリカに遠慮していたのだろう。少し、申しわけないような気持ちになった。

 アンジェリカとリックは連れ立って部屋を出て行った。すぐに、扉を開く音が聞こえる。隣のレイチェルの部屋へ入っていったようだ。しばらくして、再び扉が開閉された。長い時間ではなかった。ふたつの足音は、空虚な音を響かせながら遠ざかっていく。

「君の怪我は、表向きは魔導使用中の事故ということになっている」
 サイファは唐突に切り出した。アンジェリカたちが離れるのを待っていたのだろう。
「そうみたいですね」
 ジークは素っ気なく返事をした。それは、アンジェリカが「事故」と口にしたときに悟ったことだった。サイファならそのくらいのことはやるだろう。驚くことではない。だが、やはりどこかで残念に思っている自分がいた。
「私を告訴するか? 君にはその権利がある」
「告訴しても、揉み消しますよね」
「さあ、どうかな」
 サイファは口元に笑みを浮かべた。
 ジークには彼の考えていることが読めなかった。本当に揉み消すつもりなのだろうか。だとしたら、なぜこんな話をするのだろうか。その笑みの意味は何なのだろうか。
 ——考えても仕方ない。
 小さく息をつき、目を細めて天井を見つめる。
「事故でいいです。別にサイファさんのことを恨んでません。ああするしかなかったんです。それに、これ以上、アンジェリカを苦しませるようなことをしたくないですし」
 あきらめたような拗ねたような口調。だが、言った内容は本心だった。
 サイファは少し寂しげに微笑んだ。
「アンジェリカにはすべてを話すよ」
「俺にも話してください」
 ジークはじっとサイファを見つめた。強い、真剣なまなざしだった。
「そうだね、君はどこまで知っていたかな」
「サイファさんはルーファスに脅されていたんですよね」
「ああ、レイチェルを無事に返してほしければ、君を始末しろと。だが……」
 サイファはわずかに眉を寄せた。
「彼らはどちらにしてもレイチェルを殺すつもりだったそうだ」
「えっ?」
 ジークは目を丸くした。
「レイチェルの処刑は決定事項だったんだ。私も欺かれていたということだ」
 サイファは淡々とそう言うと、疲れたように小さくため息をついた。
「君の言うとおりにすべきだったな。ふたりで救出に向かえば良かったんだ」
「サイファさん……」
 冷静な声音の中に、彼のやるせなさを感じ取り、ジークは胸が締めつけられた。
 サイファはすぐに元の引き締まった表情に戻った。
「彼女の父親も長老会のメンバーのひとりでね。娘を助け出そうと、魔導増幅器の試作品を、密かに彼女に渡したらしい」
「魔導増幅器?」
 初めて聞く名称だった。ジークは思わず訊き返す。
 サイファはポケットから首飾りを取り出した。長めの鎖に、オレンジ色の結晶がついている。それを、ジークの眼前に掲げた。
「君がアルバイトをしていたあの研究所で作っていたものだ。試作品でまだ完成はしていない。だが、アルフォンスなら容易に手に入れられただろう。以前、あそこで所長を務めたことがあったからね」
 ジークは研究所の立入禁止区域のことを思い出していた。一度だけ、サイファに連れられて見学したことがある。レベルS区域で見たものは、巨大な円筒に入ったオレンジ色の液体——エネルギー増幅素子だった。それの結晶化を研究をしているとも聞いた。おそらくその技術を使ったものなのだろう。
 サイファは固い表情で話を続けた。
「彼女はそれを使って結界を破ろうとした。だが、この増幅器に誘発され、彼女の力が暴発してしまったんだ。あたりの家々は消し飛び、死者3名、重傷者8名、軽傷者21名の惨事となった。ルーファスと彼女の父親も亡くなった」
「…………」
 ジークは愕然とした。何も言葉にならなかった。
 サイファは首飾りを軽く投げ上げ、薙ぐように掴んだ。
「不幸中の幸いというか、この魔導増幅器が不出来でね。ある一定以上の力が流入した場合、増幅機構が上手く働かず、むしろ減衰してしまうようだ。だから、これだけの被害ですんだといえる」
「え……? 減衰、してたんですか? それで…?」
 ジークは声を詰まらせながら尋ねた。
 サイファは手の中のものをポケットに戻しながら、小さく笑った。
「レイチェルの魔導の潜在能力は、私などまるで及ばない。ただ、彼女は魔導が好きではなくてね。あまり訓練をしてこなかったんだよ。そのため、力のコントロールもままならない。普段は無意識のうちに力を封印していたようだが、魔導増幅器の作用で無理やり引き出されてしまったのだな」
 そこまで言うと、ポケットから手を出し、再びジークに視線を戻した。
「ルーファスは暴発が起こる寸前に気づき、結界を張ったが、彼女の父親がそれを解除したそうだ。ルーファスが生きている限り、娘の未来はないと思ったのだろう。レイチェルを助けるために、自分の命を犠牲にして、ルーファスを道連れにしたんだ」
 ジークは息をすることも忘れ、聞き入っていた。
「ラウルは爆発に気づいて駆けつけた。そこに倒れていたレイチェルから私のことを聞き、道場に止めに来たというわけだ」
 サイファは一気に言い切った。一呼吸おいてから、静かに付け加える。
「これで、すべてだ」
 だが、ジークの方は終わっていなかった。サイファの青い瞳を挑戦的に見つめる。
「……まだ、ありますよね」
「何かな?」
 サイファは前屈みになり、ジークを覗き込みながら尋ねた。
 ジークは顔の近さにどぎまぎした。一瞬、言おうとしていたことを忘れそうになった。
「えっと……」
 そう言いながら、思考を手繰り寄せる。
「道場で、長老のひとりが言ってたことは、本当なんですか? ラウルが、あの……」
 そこから後が続かなかった。尋ねる決意は固めたつもりだったが、実際に口にするには躊躇いがあった。言いよどんだまま、唇を噛みしめる。
 だが、サイファにはそれだけで十分に通じた。大きく目を見開いてジークを見たのち、小さく息をついた。
「聞いていたのか。てっきり気を失っているものとばかり思っていたよ」
「じゃあ……」
 ジークの鼓動が早くなった。
「本当だよ」
 サイファはさらりと言った。
 ジークは泣きそうに顔を歪ませた。サイファを直視できず、わずかに視線をそらす。
「アンジェリカは、知ってるんですか」
 震える声で質問をする。
「いや、知らなくていいことだ。君も黙っていてほしい」
 サイファの答えは当然といえるかもしれない。ジークは微かにこくりと頷いた。彼が秘密にしたがる心情は痛いくらいに理解できる。そして、彼女自身のためにも、それが最善なのかもしれない。
「サイファさんは、いつから知ってたんですか」
「最初から。あの子が生まれる前からだね」
 端整な表情を崩さず、冷静に答える。
「それで、どうして……」
 ジークはそこまで言いかけて、はっと口をつぐんだ。投げかけようとした質問の残酷さに気がついたのだ。気まずそうに目を泳がせる。
 だが、サイファは逃げることなく真摯に答えた。
「ただ、幸せになる選択をしただけだよ。それが最良で最善の選択だと確信したんだ。間違っていたと思ったことは一度もない」
「……つらいと思ったことは、ないんですか」
「ない、といえば嘘になるかな。でも、それ以上に幸せだったよ」
 サイファはそう言って、にっこりと笑った。
 ジークは何かをこらえるように頬を震わせていたが、彼の笑顔を目にすると、突然、ぼろぼろと涙をこぼした。
 サイファはぎょっとした。
「どうして君が泣くかな」
 困ったように笑って肩をすくめた。
 ジークは自分でも理由がよくわからなかった。だが、どうしても止められなかった。体の不自由なこの状態では、顔を隠すこともできない。止めどなく溢れる涙は、頬を濡らし、耳を濡らし、髪を濡らし、枕をも濡らしていく。
「まいったな」
 苦笑いしながら自らの額に手をやったサイファには、その言葉どおり、困惑がありありと見てとれた。
 ジークは気恥ずかしさと申しわけなさを感じながらも、ただ、しゃくりあげながら泣き続けるだけだった。
「涙も拭えない状態で泣くものじゃないよ」
 サイファはハンカチを取り出し、彼の目尻にあてがった。そっと優しく涙を拭う。薄いハンカチ越しに伝わる温度は、とてもあたたかかった。少しだけ、一緒に泣きたいような気持ちになった。


88. 白い世界

「ホントに何なの?! この寒さっ!!」
 レイラはソファで膝を抱え、頭から毛布を被り、歯を鳴らしながら震えていた。
「だから帰れって言っただろ」
 ジークはベッドの上から、呆れたような声を投げた。彼にも数枚の毛布が上乗せされている。寒いのは彼も同じだったが、情けない母親の姿を見ていたら、寒いと言葉にするのもバカらしくなった。
「帰っても寒いのは変わんないわよ!」
 レイラは噛みつくように言った。

 ジークはため息をつきながら、窓の外に目を向けた。鈍色の空から、絶え間なく白いものが舞い降りてくる。体が起こせないので空しか見えないが、街中、白くなっているのだろうと思った。薄暗いにもかかわらず、どことなく眩しさを感じる。白という色がなせる業に違いない。

 ここは負傷したジークが搬送された医療施設である。王宮の敷地内にあるらしい。母親のレイラは、昨晩、ここへやってきた。ジークが入院したとの連絡を受け、取るものも取りあえず、バイクを飛ばしたのだ。
 サイファは彼女に事の顛末を説明した。ジークは事故ということにしてもいいと思ったが、サイファは正直に話すことを選んだ。弁解も正当化もせず、淡々と事実のみを告げていた。一部の事柄については、敢えて触れなかったが、それは保身とは無関係のものである。
 レイラは黙って聞いていた。感情を抑えるように、口を固く結んでいた。
 サイファが話し終えると、彼女は無言で目を伏せた。じっと何かを考え込んでいるようだった。そして、ふいに顔を上げると、大きく腕を振り上げ、彼の頬を平手で打った。
 バチンと大きな音がした。
 サイファの顔は、横向きのまま動きを止めた。打たれた左頬は、じわりと赤みを増していった。
「これで、許すわ」
 レイラは噛みしめるように言った。
「死んでたらどうしたかわからないけど、生きてるし、ちゃんと治るっていうし……」
 微かに震える涙声で続ける。しかし、表情はしっかりとしていた。わずかに潤んだ瞳でサイファを見つめ、少し疲れたように微笑した。
「あなたも、つらかったわね」
 いたわるような、優しい口調だった。
 サイファは黙って深く頭を下げた。長い間、そうしていた。ジークには、彼の背中が泣いているように見えた。

 その後、サイファは、早く帰るようにとレイラに忠告した。次第に冷え込み、雪が降ってくるだろう、というのがその理由だった。
 つまり、この国を守る結界に異常があるということだ。
 この国は一年を通して過ごしやすく、それほど大きな気温の変動はない。氷点下にまでなるのは、結界に何らかの異常があるときのみである。滅多に起こることではない。通常、人の一生のうちで一度あるかないかだろう。
 だが、前回からわずか三年で、今回の異常が起きた。また、今までのほとんどは四大結界師の死亡、すなわち結界のバランスを欠いたことに起因するものだったが、今回はもっと直接的なことが原因である。レイチェルの魔導の暴発で、結界が損傷したのだ。天高く走った魔導の力が、結界を突き抜けたらしい。
 このようなことは今までになかった。そのため、まだ影響の予測はついていない。
 ジークは慄然とした。その威力をあらためて思い知らされた。レイチェルにそんな魔導力があるとは信じがたい気持ちだった。小柄な彼女の柔らかい微笑みと、国防をも脅かすほどの強大な魔導力が、どうしても結びつかなかった。
 だが、レイラには実感のない話だったようだ。きちんと理解したのは、寒くなり雪が降るということだけである。いや、それだけで十分だった。帰らなければならない理由は伝わったのだ。ジークも同様に、帰ることを勧めた。ここにいても、できることは何もない。
 しかし、彼女はふたりの忠告を聞こうとはしなかった。今晩くらいはジークのそばにいたいと言い張った。それは、母親として当然の思いかもしれない。
 サイファは強くは言わなかった。そもそも、強く言える立場にはなかった。彼女のために毛布とソファを用意すると、ふたりを残して部屋を出た。

 そして、翌朝。彼が言ったとおりのこの寒さ、というわけである。

「もう帰った方がいいんじゃねぇのか? そのうちホントに帰れなくなるぞ」
 途切れる気配のない雪を見ながら、ジークは心配そうに言った。
「うーん、そうね……あんたも元気そうだし……」
 レイラは窓の外を眺め、それからジークの様子を窺った。体に重傷を負っているものの、表情や声の調子は普段と少しも変わらない。むしろ、何かすっきりしているように思える。心にまで傷を負ったわけではなさそうだ。
「わかった、今日は帰るわ」
 ソファから立ち上がり、被っていた毛布をそこに置く。途端に寒さが沁み入ってきた。ゾクッと身震いする。だが、毛布を被ったまま帰るわけにもいかない。帰るまでの我慢だ。動いてさえいれば、なんとか大丈夫だろうと思った。
「また来るわね」
「無理して来なくてもいいからな」
 一人前に気遣いする息子を見て、ふとレイラの悪戯心が顔を出した。ニッと笑って振り向く。
「アンジェリカとふたりっきりになれないから?」
「ばっ……バカ言ってんじゃねぇよ!」
 ジークは顔を真っ赤にして反論した。本当にそんなつもりはなかったのだが、これではまるで図星を指されたかのようだ。ますます焦ってしまう。しかし、おかしそうに声を殺して笑う母親を見て、からかわれているのだと悟った。相手の期待どおりの反応をしてしまう自分が恨めしい。
「ったく、早く帰れよ! バイクは押してけよな」
「わかってるって」
 レイラはからりと笑って、ひらひらと手を振った。そして、寒そうに肩をすくませながら、小走りで部屋を出て行った。

 軽い足音が遠ざかり、あたりは急に静かになった。不安になるほどの静けさだった。この世界にひとり取り残されたかのような錯覚すら覚える。ありえないことはわかっている。だが、頭とは別のところで感情が生まれていた。これほど臆病になったことは、かつてなかった。

 ガラガラガラ——。
 耳障りな濁った音によって、静寂は打ち破られた。
 扉が開き、そこからラウルが入ってきた。普段とまったく変わりのない格好だった。右手には小さな薬箱を下げている。
 ジークはほっと安堵した。知った人間を目にして、根拠のない不安はたちまち消え去った。ラウルを見て嬉しく思ったのは、これが初めてかもしれない。
「おまえ、寒くねぇのか?」
「耐えられないほどではない」
 ラウルは素っ気なく答えると、ベッド脇にパイプ椅子を広げて座った。ジークの左腕を毛布から出し、手早く固定具と包帯を外す。左腕は、骨折だけでなく、裂傷も負っていた。その部分の消毒を行い、薬の塗布をする。あいかわらずの手際良さだ。
 ジークは彼の横顔をじっと見つめた。
 ——こいつが……。
 きのうの話が無表情な横顔に重なる。信じたくなくても、それが真実である。それは受け止めている。しかし、いったいなぜ、いったい何が——そんなことを考えているうち、次第に苛立ちが募っていった。
「聞いたぜ、本当の話」
 ジークは重々しく口を切った。どうしても黙っていられなくなった。
 ラウルは無言のままだった。新しい包帯を巻き、固定具を取りつけていく。焦った様子は見られない。その余裕の態度が、ジークにはたまらなく腹立たしかった。
「言い訳のひとつでもしてみろよ」
 睨みつけながら、責めるように言う。
 しかし、ラウルがしおらしさを見せることはなかった。凍りつくようなまなざしで、冷たくじろりと睨み返す。
「何を聞いたかは知らんが、少なくともおまえに言い訳をすることなど何もない」
 その声は、静かではあったが、凄まじい迫力を秘めていた。
 一瞬、ジークはたじろいだ。だが、引くつもりはなかった。臆することなく強気に言い返す。
「俺は無関係だっていうのか?」
「関わるなと忠告したはずだ」
 逃げ口上としか思えないその言葉に、カッと頭に血がのぼる。
「答えになってねぇよ!」
「無関係だ。おまえは他人だ」
 ラウルは厳然と答えた。
 ジークは面食らった。あまりにもはっきりと言われ、返す言葉をなくしてしまった。言われてみれば、確かに他人だ。自分が立ち入っていい問題ではないかもしれないと思えてきた。ぐっと唇を噛みしめる。
 ラウルは包帯や薬を片付け始めた。
「私はこれからアカデミーへ行く。何かあったら看護師を呼べ」
「アカデミー……」
 ジークは忘れていた現実を思い出した。
「俺、卒業できるのかな」
 顔を曇らせ、弱気につぶやく。彼にとっては重要な問題だった。卒業できなければ、せっかく決まった就職もふいになってしまう。
「卒業論文の評価次第だ」
 ラウルは振り向きもせず、無愛想に答えた。
 もうすぐアカデミーの授業は終了し、その後、各自卒業論文に取りかかる予定になっている。そのことはジークも聞いていた。だが——。
「この腕じゃ、書けねぇよな……」
「特別扱いはしない」
「だろうな」
 ジークはため息まじりに同調した。ラウルならそう言うだろうと思った。期待など微塵も持っていなかったはずだが、それを聞いた途端、闇に閉ざされたような絶望的な気持ちになった。
「その腕を折った張本人に何とかしてもらえ」
 ラウルは薬箱の蓋をバタンと閉めた。
 ジークは怪訝に片眉をしかめる。
「何とかって、何だよ」
「自分で考えろ」
 ラウルは突き放すようにそう言うと、椅子から立ち上がった。長い焦茶色の髪が大きく揺れた。
「待てよ!」
 ジークは慌てて呼び止めた。
 ラウルはわずかに振り向き、睨むように彼を見下ろした。
「外……見てぇんだけど……」
 ジークは遠慮がちに言った。少し恥ずかしそうに、薄く耳元を赤らめる。
「体に障る」
 ラウルは素気無くはねつけた。
 だが、ジークはあきらめなかった。
「構わねぇ。それでも見ておきたいんだ」
 起こせない体で首だけを伸ばし、必死に食らいつく。
 ラウルは、ジークと視線を絡めた。その瞳を探るように見つめる。強く率直なまなざし。簡単に引きそうもない。あきらめたように小さくため息をつくと、面倒くさそうに薬箱を置いた。ベッドの半分に角度をつけて固定し、ジークの上半身を起こしてやる。
「す、げぇ……」
 ジークの視界に、一面の銀世界が広がった。その眩しさに、思わず目を細める。主要な道路以外はほとんど白で覆われているといっても過言ではない。その上に、さらに粉雪が降り積もっていく。まるで、世界を塗り替えようとしているようだ。美しいような、恐ろしいような光景——。
「脆弱な世界だな」
 思いがけず、ラウルが口を開いた。背筋を伸ばして腕を組み、まっすぐ外を見ている。
「人の手で創り出したものは、人の手でしか維持できない」
「……俺に、守れるかな」
 ジークは外を見つめたまま、ぽつりと言った。
 ラウルは冷ややかな視線を彼に流した。
「世界を守る前に、すべきことがあるだろう」
「……ああ」
 ジークは白い息を吐きながら、天井に向き直った。

 アンジェリカは純白の平原を眺めていた。
 きのうまでは家が立ち並んでいたはずだが、今は大きく視界が開けている。瓦礫も土台も地面も、すべてが白い雪に覆い隠され、そこに何があるのかわからない。目に入るのは、白くなめらかに波打つ表面だけである。その周囲には、立入禁止と書かれた黄色のテープが緩やかに渡されていた。
 ——これは、私のせいで起こったこと。
 眉根を寄せ、顔を大きく上げる。灰色の空から、絶え間なく降り注ぐ白い雪。それを眺めていると、空に吸い込まれそうになる。ふわふわの綿雪が、頬をくすぐるようにそっと舞い降りた。体温がそれを融かし、雫へと変えていく。
 サイファから何が起こったかを聞いた。彼は、アンジェリカには責任はないときっぱり断言した。レイチェルに聞いても、ジークに聞いても、きっと同じことを言うだろう。しかし、アンジェリカには、そうは思えなかった。
 ——私の存在が起こしたこと。
 まぶたを震わせながら目を閉じる。
 呪われた子、不吉な子、穢れた血——頭の中でたくさんの声が鳴り響く。畳み込むように追い詰めてくる。忘れていた、忘れようとしていた闇が押し寄せてきた。さらわれ、呑み込まれそうになる。息ができない。
 ——怖い、助けて、誰か……!
 はっとして目を開いた。その瞳に映ったものは、暗い闇ではなく、白い世界。そのまぶしさに、一瞬、目まいを覚えた。胸に手を当て、深呼吸する。
 目を閉じても開いても、つらいものしか見えない。
 ふいに、頬を伝って透明な雫が落ちた。涙ではなく、融けた雪だった。その道筋を手の甲でそっと拭う。

 これから、私、どうやって生きていけばいいの?
 生きていていいの?
 生きていかなければならないの?

 アンジェリカは、もういちど、鉛色の空を仰いだ。苦しげに目を細める。そして、汚れのない雪を踏みしめながら、その場をあとにした。

「ジーク」
 アンジェリカは、半開きの扉からひょっこり顔を覗かせて、ベッドの上の彼に声を掛けた。しかし、返事はない。
「ジーク、寝てるの?」
 もういちど声を掛けた。やはり返事はない。不安そうに顔を曇らせながら、電灯が消されたままの薄暗い部屋へ入っていった。
 彼は眠っていた。真上を向いたまま目を閉じ、微かな寝息を立てている。
 アンジェリカはほっと胸を撫で下ろした。ベッド脇に立てかけてあったパイプ椅子を広げて座る。
 ——ジークも、ひどい目にあわせてしまったわね。
 そう心の中でつぶやきながら、安らかな寝顔を見つめた。
 彼は自分自身のためだと言った。きっと本気でそう思っているのだろう。だが、そもそも自分とジークが出会っていなければ、こんなことにはならなかったはずだ。自分の存在がすべての元凶なのだ。
 ——本当に、どうしたらいいの? 私……。
 昨晩から一睡もせずに考えていた。しかし、何の結論も導き出せなかった。同じことをぐるぐると悩み続けるだけである。頭も心も、すでに疲弊しきっていた。
 アンジェリカは大きく息をつくと、ベッドの端に、こてん、と倒れ込むように頭をのせた。毛布があたたかく心地いい。凍えた頬が、混乱した頭が、ゆっくりと融けていくように感じる。そのまま、包み込まれるように眠りに落ちていった。

 窓からの雪明かりが、ふたりをほのかに照らしている。
 しかし、その光は、ふたりを温めてはくれない。
 部屋は冷たさを増していた。

 ジークは目を覚ました。象牙色の天井をぼんやりと目に映す。考え事をしているうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。昨晩、ほとんど眠れなかったせいかもしれない。
 ふと、毛布が引っ張られているように感じ、何気なく横を見た。
「えっ……?!」
 自分の肩のすぐ横にあったのは、アンジェリカの頭だった。ここから見えるのは後頭部だけで、顔までは見られないが、間違いなく彼女であると断言できる。小さな背中は規則正しく上下していた。どうやら眠っているようだ。
 ジークは申しわけなく思った。自分が寝ていたせいで、待ちくたびれてしまったのだろう。声を掛けようか迷ったが、起こすのも悪いような気がしてやめた。きっと彼女も昨晩は眠れなかったに違いない。
 しかし、この状態のままというのも落ち着かない。無性にそわそわする。少し動くだけで触れるくらい近いところに彼女が眠っているのだ。おまけに、微かな甘い匂いが鼻をくすぐってくる。なのに、自分はまるで身動きがとれない。これでは逃れることもできない。ただ、心拍を早くしたまま、状況が変わるのを待つだけだった。

 いくつもの白い結晶が、窓の外を緩やかに通り過ぎる。
 まだ止む気配はない。

「……ん……?」
 アンジェリカは小さく声を漏らし、目を開いた。ぼんやりと顔を上げる。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。あたりを見まわし、ジークの姿を目にすると、ようやくそれを思い出した。はっとして、少し慌てたように口を開く。
「あ、ごめんなさい、いつのまにか寝てしまって……」
「いや、俺の方こそ悪かった。せっかく来てくれたのに、寝てたみたいで」
 ジークは胸の奥がふわりと温かくなった。彼女とこんな何気ない会話をしたのは、ずいぶん久しぶりのように感じた。
 アンジェリカは小さく肩をすくめて笑った。
「寒いだろ。この毛布、掛けてろよ」
 ジークは自分の上にのっている毛布を、顎で指し示した。彼女の格好は、普段と比べればかなりの厚着だが、それでもまだ寒そうに見えた。
「大丈夫、平気よ」
「俺は暑いくらいだから遠慮すんな」
「本当に大丈夫、寒くないから」
 アンジェリカはにっこりと微笑み、下がっていたジークの毛布を掛け直した。
「ジーク、何か私に出来ることはある?」
「いてくれるだけでいいよ」
 それは、ジークの本音だった。そして、一番の願いだった。それを阻むものはもう何もない。少なくとも、このときのジークにはそう思えた。
 アンジェリカは少しとまどったように、薄くはにかんだ。

 ふたりの間に沈黙が流れた。
 ふたりそれぞれが考えに耽っていた。

 外は、白い世界が作る、深い静寂。
 雪の積もりゆく音さえ聞こえそうだ。

「……なあ」
 ジークは天井を見つめて切り出した。そして、大きく深呼吸をすると、ゆっくりとアンジェリカに顔を向けた。とても真剣な顔だった。まっすぐ射抜くように彼女の瞳を見ている。
 彼女はきょとんとして、小首を傾げた。
「なに?」
「俺は、おまえが好きだ」
 ジークは目をそらさず、はっきりと言った。この気持ちは、何を言われても、どんな事実を聞かされても、揺らぐことはなかった。これからも決して変わることはない——その自信があった。
「……うん」
 アンジェリカは小さく相槌を打った。
「だから、伝えておきたいことがある。こんな動けない状態でってのも情けないけど……どうしても、今、伝えておきたいんだ」
 ジークは言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。穏やかだが、少し固い声だった。微かな緊張が、その声から伝わってくる。
「返事は、今じゃなくていい。ただ、聞いてくれればそれでいい」
 アンジェリカは訝しげに顔を曇らせた。彼は何を言おうとしているのだろう。返事とは何なのだろう。話が見えない。落ち着かない。次第に鼓動が早くなる。
 ジークは真摯に彼女を見つめた。
「俺は、おまえを幸せにしたい」
「えっ?」
 アンジェリカは大きく目を見開いた。
 ジークはさらに畳み掛ける。
「ずっと一緒に生きていきたいと思ってる」
「あ……」
 アンジェリカは微かな声を漏らすと、口をきゅっと結び、うつむいた。黒髪がはらりと頬にかかる。手は膝の上に置いたままだった。スカートを掻き寄せるように掴む。薄い布地に、ひび割れのような深いしわが、放射状にいくつも走った。
 ジークは彼女の変化に気づく余裕などなかった。懸命に話を続ける。
「だから、今すぐってわけじゃねぇけど、そのうち、おまえにはラグランジェ家を出てほしいんだ」
 そこでいったん切り、小さく呼吸をする。
「そして、俺と……」
「やめて」
 震える小さな声。
「え?」
 予想外の反応に、ジークはうろたえた。
 そのとき、初めて彼女の異変に気がついた。声だけではない。肩も腕も震えていた。そして、顔を隠すように深くうつむいている。
「そんなの、駄目、無理……」
 さらに小さく、消え入りそうな声。
「なん、で……」
 ジークは混乱した頭で、ようやくそれだけの言葉を口にした。
 彼女は何も答えなかった。
「アンジェリカ……?」
 とまどいがちに名前を呼びかける。
 それでも返事はなかった。
 ジークは焦った。頭は燃えるように熱く、背筋は凍りつくように冷たくなった。
「アンジェリカ、顔を上げろ、俺を見ろ」
「ごめんなさい」
 それが最後の言葉だった。
 アンジェリカは口元を押さえて立ち上がり、彼には目を向けず、逃げるように部屋から駆け出していった。
「アンジェリカ!!」
 ジークは声の限りに叫んだ。しかし、彼女の足は止まらなかった。この体では追いかけることも出来ない。ただ、離れていく足音を聞くしかなかった。
 ——どうして……。
 ジークは愕然とした。いったい何が彼女を傷つけたのかわからなかった。混沌とした頭で必死に考えようとする。だが、まるで思考が働かない。はっきりしない後悔と自責の念に、押しつぶされそうになっていた。

 窓の外では、いまだ雪が降りしきっていた。
 木の枝にのしかかった冷たい綿帽子が、ばさりと音を立てて崩れ落ちた。


89. 伸ばした手の先

 ユールベルは机に頬杖をつき、窓越しに空を見上げた。午前中よりも雲が厚くなっているような気がする。傘を持ってこなかったが、帰るまでもつだろうか——ぼんやりとそんな心配をした。
 授業がつまらないわけではなかったが、丁寧すぎる担任の解説は、彼女をときどき退屈にさせた。もっとも、レオナルドはそれでもついていくのがやっとである。担任の進め方が間違っているわけではないのだろう。
 ガラガラガラ——。
 ノックもなしに、引き戸が開けられた。
 授業中の担任と生徒たちは、いっせいにそちらに目を向けた。扉を開いたのは、見知らぬ男だった。アカデミーの教師でも生徒でもなさそうだ。
「ユールベル=アンネ=ラグランジェはいるか」
 男は教室を見まわしながら尋ねた。
 ユールベルは怪訝な顔で手を挙げた。見ず知らずの男に、なぜ自分の名前が呼ばれているのか、まるでわからなかった。頭を巡らせてみたが、思い当たる節はない。
「一緒に来てください」
 男は丁寧な口調で言った。
 ユールベルはますます訝った。授業中に呼びつけるなど、よほど重要なことに違いない。だが、やはり何も思い当たることはない。まさか、アンソニーに何か——一瞬、不吉な考えが頭をよぎった。そんなはずはないと、懸命にその思考を振り払う。
「ユールベル」
 男は急かすように名を呼んだ。
 ユールベルは不安そうな面持ちで立ち上がり、男に促されるまま教室を出た。扉が閉められ、彼女の姿が見えなくなる。
 レオナルドは弾けるように立ち上がった。
「おい、レオナルド! どこへ行くつもりだ!」
 担任が呼び止めたが、完全に無視をした。振り向きもせず堂々とその前を横切り、彼女を追いかけ教室を飛び出していった。

 ユールベルは、応接室の前へ連れてこられた。どうやらこの中で何かがあるらしい。二年以上、アカデミーに通っているが、ここに入るのは初めてだった。
 男が扉を開いた。
「姉さん!!」
 応接室のソファに、弟のアンソニーが座っていた。彼女の姿を見るなり立ち上がり、落ち着かない様子で駆け寄ってきた。
「アンソニー、どうしてここに……」
 彼が元気そうなのでとりあえずは安堵したが、アカデミーになぜ彼まで呼ばれたのか不思議だった。
「ふたりとも、掛けて」
 応接室の中にいた年配の男性が、ソファを示しながら言った。彼も教師ではないようだ。おそらく王宮の関係者だろう。サイファのものと似たような濃青色の制服を身に着けている。
 ユールベルは、自分より背の高くなった弟の手を引きながら、中へと足を進めた。並んでソファに腰を下ろすと、睨むように目の前の男を見た。
「何の用なの?」
「単刀直入に言います」
 男性は膝の上で手を組み合わせ、真剣な表情をふたりに向けた。
「あなた方の母親が重傷を負い、入院しています」
「え…? どういうことですか?」
 アンソニーが身を乗り出して尋ねた。
「本日昼頃、ルーファス=ライアン=ラグランジェ宅で大規模な爆発が起こりました。それに巻き込まれたようです」
 ユールベルはうつむき、無言で立ち上がった。長い横髪が肩から滑り落ち、顔に陰を作る。何かをこらえるように固く結ばれたこぶしは、体の横でわずかに震えていた。
「私たちに、親はいません」
 小さな口を開き、重々しくそう告げる。そして、いまだ座っている弟の手首を掴み、乱暴に引いた。
「待ってよ、爆発に巻き込まれたって……」
 アンソニーは手を引っ張られたまま、それでも立ち上がろうとしなかった。困惑した顔で姉を見上げる。
 彼女の表情には、焦りと怒りが滲んでいた。
「他人よ、関係ない」
「僕らの母親だよ」
「違う」
 ユールベルはぎゅっと心臓を鷲掴みにされたように感じた。弟はまだあの人のことを母親だと思っている——そのことがたまらなく悔しく、そして怖かった。
「姉さん、僕は、やっぱり気になるよ」
 アンソニーは、ユールベルがどう思っているかは察していた。それでも、母親の様子を知りたい、見に行きたいという思いは消せなかった。もし、このまま会わずに母親が死んでしまうようなことがあれば、きっと一生後悔してしまうだろう。
「どうして? せっかく忘れかけていたのに……」
 ユールベルの右目は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。その悲しげな瞳は、アンソニーの胸を深く貫いた。一瞬、気持ちが揺らいだ。だが——。
「ごめん、僕は、やっぱり母さんのところへ行くよ」
「勝手にすればいいわ」
 ユールベルは、涙をこらえた声で、突き放すように言った。そして、掴んでいた手首を離すと、足早に応接室をあとにした。

 戸口にはレオナルドがいた。話を立ち聞きしていたのだろう。心配そうな顔を彼女に向けたが、声は掛けなかった。早足で歩く彼女のあとを、ただ無言でついて歩く。
 彼女は教室には戻らなかった。昇降口から外に出る。せり出した厚い雲が、昼下がりの強い日差しを遮り、どんよりと重く湿った空気を作っていた。
 アカデミーの門を出たところで、彼女は不意に足を止めた。
「どこまでついてくるの?」
 後ろのレオナルドに、振り返らないまま尋ねる。
「家に帰るんだろう」
「駄目、来ないで」
 語気を強くしてそう言うと、振り切るように、よりいっそうの早足で歩き始めた。緩やかなウェーブを描いた長い金髪が、頭の後ろで結ばれた白い包帯と絡み合うように揺れる。
 レオナルドは彼女の嘆願を聞き入れなかった。遅れることなくついていく。
「今にも壊れそうなおまえを、ひとりにはできない」
「もう、あなたを利用したくない」
 ユールベルはかすれた小さな声で言った。
「俺は利用してくれて構わない。それだけでいい」
「私が、駄目になるの」
 苦しげにそう言うと、足を止めた。ゆっくりと振り返り、レオナルドの青い瞳を見つめる。
「お願い、ひとりになりたいの」
「ユールベル……」
 レオナルドは手を伸ばした。彼女を抱きしめようとする。
 しかし、ユールベルは拒絶した。顔をそむけ、手を伸ばし突き放す。一歩、二歩と後ずさると、くるりと背を向けて走り去った。長い髪が大きく波を打ってなびいた。
「ユールベル……」
 レオナルドは追いかけることが出来なかった。足が、地面に根を下ろしたように動かない。小さくなる後ろ姿を見つめながら、ただ彼女の名前をつぶやくしかなかった。

 ユールベルは自宅に帰った。ガラス窓に寄りかかり、崩れるように座り込むと、ぼうっと空を見上げた。灰白色の雲が緩やかに流れていく。

 そのまま、数時間が経った。
 彼女はずっと動かず、窓際に座り込んでいた。いまだにぼんやりとしている。すでに陽は落ち、空は濃紺色に塗り替えられていた。部屋も暗くなっていたが、灯りはつけていない。
 はぁっ……。
 彼女は息を吐いた。いつになく寒く感じる。気のせいかもしれない。自分の心が、そう感じさせているのだろうと思った。
 ——バルタスもアンソニーも、私ではなくあの人を選んだ。
 その事実が彼女の心を蝕んだ。大きな穴が開いたように感じた。焦がれるように痛く、そして寂しい。
 バルタスはともかく、アンソニーだけは自分を選んでくれると信じていた。だが、その幻想は見事に打ち砕かれた。しかし、冷静に考えれば考えるほど、この結果が当然のことのように思えてきた。自分は選んでもらえるような人間ではないのだ。そんなことはわかっていたはずなのに、どうして忘れていたのだろう。
 手足が冷たくなってきた。痺れたように感覚が薄い。これも気のせいなのだろうか。
 不意に、空から白いものが舞い降りてきた。
 ——雪?
 凍てついた涙と呼ばれる、白い小さな雫。三年前にも目にしている。閉じ込められた二階から、結界ごしに見ていた。今の状態とそれほど変わらない。あの頃は、自分の行動を奪う結界がなければ、もっと自由に生きられると思っていた。だが、自分の心は、いまだに過去に囚われたままである。

 ガチャッ。
 玄関の扉が開く音が聞こえた。
 ユールベルはびくりとした。確か、鍵は掛けたはずだった。一瞬、レオナルドかと思ったが、鍵はとうの昔に返してもらっていた。
「姉さん? いないの?」
 廊下から聞こえてきたその声は、よく知っているものだった。聞き違えるはずはない。
 でも、いったいどうして……?
 ユールベルはわけもわからず、声のする方に目を向けた。
 リビングルームの扉を開けて入ってきたのは、まぎれもなく弟のアンソニーだった。彼は、暗がりの中に姉の姿を見つけると、ほっとしたように息をついた。
「良かった、いたんだ」
 そう言いながら、パチンとスイッチを入れた。部屋に人工的な灯りが満ちた。
 ユールベルはまぶしさに目を細めた。
「真っ暗だったからビックリしたよ。帰ってないのかと思って心配しちゃった」
 アンソニーは、あどけなさの残る笑顔を見せた。
「まだそんな格好をしてたんだ。寒くないの?」
 ユールベルの隣に座り込むと、細い指先を取り、優しく包むように握りしめた。
「アンソニー……?」
 ユールベルはとまどったように呼びかけると、下を向いている彼を見つめた。
「だいぶ冷えてるね」
 アンソニーはぽつりと言った。そして、自分のジャケットを脱ぐと、彼女を抱き込むようにして羽織らせた。華奢な彼女にとっては、大きいくらいのものだった。一緒に暮らし始めて以来、成長期の弟は驚くほど背が伸びていった。身長はもう追い越されている。
「なんか、結界に穴が空いたらしくて、これからもっと冷え込むって」
 ユールベルの肩に手を置いたまま、ガラス越しに空を見上げる。空からは、白い雪がひらひらと舞い降りていた。その数は次第に増してきているようだ。
「夜ごはん、まだだよね。温まるものを作るから」
「どうして……戻ってきたの?」
 ユールベルは不思議そうに尋ねた。どことなく、怯えているようだった。
 アンソニーは質問の意味がわからず、きょとんとした。
「どうしてって、ここ、僕の家だよ? 僕と姉さんの家」
「あの人のところに行ったんじゃ……」
「心配だから様子を見てきただけなんだけど……もしかして、僕が母さんと一緒に暮らすことになったと思ったの?」
 ユールベルは返事の代わりに涙をこぼした。真珠のようなきれいな丸い雫が、頬をかすめて落下し、彼の手の甲で弾けた。
 アンソニーは肩をすくめて笑った。母親からは、新しい家で一緒に暮らそうと、しつこいくらいに懇願された。だが、それははっきりと断ってきた。
「心配しないで、僕はどこにも行かないから」
 ユールベルはうっと声を詰まらせ、彼に縋りついて泣いた。右目からあふれる涙が、白いシャツを濡らしていく。
 アンソニーは、小さい子供をあやすように、彼女の頭に優しく手を置いた。

 翌日、ターニャがユールベルたちの家へ遊びにきた。
 話題は昨日の爆発のことだった。巻き込まれた人々の多くがラグランジェ家の人間だったと知り、その中にユールベルたちの家族がいたのではないかと心配をしていたらしい。どうやら、遊びにきたというよりも、そのことを聞くために来たという方が正しいようだ。
「はい、母親が巻き込まれました」
 ターニャの問いかけに、アンソニーはいたって落ち着いた様子で答えた。
「え? ホントに?」
 ターニャは目を丸くし、白い息を混じらせながら言った。飲みかけの紅茶を机に戻す。自分で質問しておきながら、そんなことはないだろうと心のどこかで思っていたのだろう。
「うちは爆発が起こったところのすぐ近くだったんです。父さんは仕事で家にいなかったけど、母さんは家にいたから……」
 アンソニーは淡々と説明した。
「それで、無事なの?」
「命に別状はないそうです。骨折だけって聞きました」
「そう、よかった」
 ターニャはほっと胸を撫で下ろした。はっきり言えば、あの母親のことは嫌いだった。一度会っただけだが、恐ろしく印象は悪かった。それでも、知った人間が亡くなるというのは、気持ちのいいものではない。
「やめて、あの人の話は……」
 ユールベルは弱々しい声で、ぼそりと言った。ソファの上で膝を抱え、顔を曇らせている。
「あ……」
 ターニャは配慮が足りなかったと反省した。この姉弟と母親の事情は、少しは知っているつもりだった。アンソニーはともかく、ユールベルはいまだに異常なほど母親を怖れている。彼女の前でする話ではなかった。
「ごめんね」
 素直に謝罪の言葉を口にすると、ユールベルの隣に移動する。そして、安心させるように彼女の肩を抱きながら、そっと寄りかかった。
 ユールベルは気を持ち直しかけた。寮のときから、彼女はいつもこうやって温もりをくれた。初めは馬鹿なことと思ったが、案外これで落ち着いた。彼女の気持ちが嬉しかったのかもしれない。
 だが、そのとき——。
「でも、逃げてばかりじゃ、何も変わらないんじゃないかなぁ」
 出し抜けに、ターニャがそうつぶやいた。ほとんど独り言のようだった。そのときの彼女の目は、ここではないどこか遠くを見ていた。
 ユールベルは体をこわばらせた。
「わた……し……」
 震えながら、細くかすれた声を漏らす。膝に顔を埋め、厚手のスカートの裾を、何かをこらえるようにきつく掴んだ。
 ターニャははっと我にかえった。
「あ、ごめん! 今の忘れて!」
 勢いよくそう言うと、ユールベルをぎゅっと抱きしめた。今日二回目の失態だ。顔をしかめながら、激しく自分を責めた。
 ユールベルは、ターニャの腕の中で、彼女の言葉をぼんやりと反芻した。

 それから一週間が過ぎた。
 事故から二、三日ほど雪が降り続き、この世界は一面、白色に覆われたが、それ以降は新たに降ることはなかった。だが、まだ冷え込みは続き、地面には固くなった雪が残っている。

 ユールベルは、半分凍りついた雪を踏みしめながら、大きな建物を見上げた。
 アンソニーはあれから何度かユリアの見舞いに行っていた。そのたびに、もう帰ってこないのではないかという不安に押しつぶされそうになった。だが、行くなとは言えなかった。ただ、祈りながら彼の帰りを待つだけだった。
 彼は必ずここへ帰ってくると言っている。その言葉を信用していないわけではない。だが、どうしても、怯える心は止められなかった。
 ——逃げてばかりでは、何も変わらない。
 ユールベルは表情を引き締め、足を踏み出した。ジャリ、と氷の砕ける音がした。

「良かったわ、レイチェルが元気になって」
 アルティナはカラリと笑って椅子に座った。
 ベッドのうえで上半身を起こしたレイチェルも、穏やかに微笑みを返した。萌黄色の寝衣に、厚手のカーディガンを羽織っている。現在、病棟にはある種の結界が張られており、そこそこの暖かさが保たれていた。そのため、毛布にくるまるような必要はなくなっていた。
 アルティナは、サイファから大体の事情を聞いていた。爆発事故を起こしたのはレイチェルの魔導が原因であることも、そのせいで父親が亡くなってしまったことも——。
 レイチェルは事故から三日ほどの間、ほとんど口を開くこともなく、壊れたように動かなかった。ベッドに横になったまま、生気のない表情でぼんやりしているか、眠っているかのどちらかだった。
 しかし、次第に表情を取り戻し、一週間が過ぎて、ようやく起き上がれるまでになった。
 アルティナは素直にそのことを喜んだ。まだ心の傷が癒えたわけではないだろう。だが、彼女はあえて普段どおりに接した。こういうとき、まわりに必要以上に気を遣われるのが、何よりもつらいはずだと思ったからだ。
「今度は子供たちも連れてくるわね……って、その前に退院しちゃうかしら」
 そう言って、あははと笑う。
「ね? いつから復帰できるの?」
「そのことなんだけど……」
 レイチェルは遠慮がちに前置きした。
「何?」
 アルティナは軽い調子で続きを促した。一瞬、嫌な予感がしたが、無理やり心の隅に追いやった。
 レイチェルは表情を硬くして、彼女を見上げた。
「私、辞めさせてもらおうと思っているの」
「なっ……辞める?! 何を言いだすの?! ふざけないで!!」
 アルティナは取り乱したように叫んだ。椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、ベッドに手をつくと、正面から彼女に顔を突きつける。
 だが、レイチェルは冷静だった。すぐ近くまで寄せられた顔に引くこともなく、薄い微笑みを見せる。
「本気で言っているのよ」
「あれは事故なのよ?! あなたが悪いわけじゃない。責任を取る必要なんて……」
「そうじゃないの、聞いて」
 落ち着いた声でそう言うと、まっすぐに視線を向けて理解を求める。
 アルティナは澄んだ瞳に気圧され、言葉をなくし口をつぐんだ。倒した椅子を起こし、静かに座る。それは、彼女の話を聞くという意思表示だった。
 レイチェルは真剣な表情で口を切った。
「私は自分の力を制御することができない。このままでは、いつかアルティナさんも巻き込んでしまうかもしれないの」
 しっかりとした口調で、ひたむきに説明する。
 だが、アルティナは納得しなかった。
「今まで十年間、何事もなかったじゃない」
「今後もないって保証はないわ」
「そんなものいらない!」
 冷静なレイチェルの言葉に、彼女は全力で反論した。感情が昂り、声が大きくなっていく。
「未来を保証するものなんて、あるわけないじゃない!」
「私は、アルティナさんを大切に思っているから……」
「大切に思ってくれているなら傍にいて。万が一、今回みたいなことが起こって、巻き込まれて命を落とすことがあっても、私は本望よ。レイチェルを恨まないし、後悔もしない。私が軽い気持ちで言ってるんじゃないってことは、わかってくれるわよね」
 レイチェルの両肩に手をかけ、覗き込むようにして熱く見つめる。その瞳からは強い決意が見てとれた。彼女の言うように、軽い気持ちでないことはよくわかった。
「ええ、でも……」
「頼んでるわけじゃない、これは命令よ。私の付き人を続けて。辞めることは許さない」
 アルティナは有無を言わせぬよう、強い口調で命じた。だが、そこに傲慢さは窺えなかった。そこから感じたのは、縋り付くような必死さだけだった。だからこそ、レイチェルは何も言えなくなった。
「レイチェル、あなたは私のたったひとりの友達なの」
 そう言ったアルティナは、怖いくらい思いつめた顔をしていた。瞳がわずかに潤んだ。彼女はそれを隠すようにうつむくと、突然、レイチェルの首に腕を絡めて抱きついた。ぎゅっと力を込める。長い銀色の髪が、レイチェルの頬をさらりと撫でた。
「お願い、私をひとりにしないで……」
 普段のアルティナからは想像もつかない弱々しい声だった。
 レイチェルは彼女の背中に手を置こうとした。だが、その手は途中で止まった。彷徨う指先は空を掴み、何事もなかったようにベッドの上に戻った。

 ココン、コン——。
 弱く不安定なノックの音が聞こえた。
 ユリアはベッドから体を起こした。扉の方に目を向ける。夫のバルタスではないだろう。彼は、もっとはっきりとした力強いノックをする。
「どうぞ」
 豊かな巻き髪を軽く手で整え、よそ行きの声で返事をする。
 ガラガラ、と扉が開いた。
 そこから姿を現したのは、思いもよらない人物だった。
「ユールベル……」
 そう言ったきり、絶句した。
「重傷って聞いたけど、ずいぶん元気そうね」
 ユールベルは挑発的に言った。だが、その声は固かった。装った無表情もどことなくぎこちない。緊張をしているのは明らかだった。
「……何をしに来たの。まさか、お見舞いってわけではないでしょう?」
 ユリアは眉間に力を込め、あからさまに嫌悪感を示した。
 ユールベルは顎を引き、小さな口をきゅっと結ぶと、上目遣いに彼女を睨めつけた。
「もう、あなたに怯えるのは嫌だから……決着を、つけにきたの」
「決着?」
 ユリアは眉をしかめた。それの意味するところがわからなかった。怪訝な表情のまま逡巡する。
「ま、さか……」
 あることに考えが至った。みるみるうちに顔色が失せていく。喉もカラカラに乾いていった。
「まさか、私を、殺そう……っていうの?」
「そんなことはしないわ」
 ユールベルは軽蔑するように言い捨てた。
 タン……。
 ゆっくりと重い足を踏み出した。一歩、一歩とユリアの方へ歩みを刻んでいく。
「な、何……?」
 ユリアは怯えたように、狼狽した声を発した。
 だが、ユールベルは何も答えなかった。歩みも止めなかった。ベッドの傍らまで来ると、ようやく足を止め、まっすぐにユリアを見る。手を伸ばせば、互いに触れられる距離——彼女にとっては、身の危険を感じる距離である。
 すぅ、っと大きく息を吸い、緊迫した面持ちで口を開く。
「私はもう逃げないし、あなたを怖れたりもしない。アンソニーは、絶対に渡さないから」
「……何なの、それ」
 ユリアは拍子抜けしたように、唖然として尋ねた。
「私の決意。あなたに宣言しておこうと思ったの」
 ユールベルにも、子供じみた馬鹿なことだという自覚はあった。だが、彼女にとっては精一杯の行動だった。そして、この行動にかけていた。ユリアに自らの意思で会い、目の前で宣言することができたなら、自分の中の恐怖心を克服することができるのではないか、と——。
 ユリアは急に強気に戻った。ユールベルが自分に危害を加えるつもりはないと悟ったためだ。ふっ、と鼻で笑う。
「決着なんて偉そうに言ったわりには、その程度なの? 呆れたわ」
「近づいただけであれほど怯えていた人が、よくそんなこと言えるわね」
 ユールベルも負けじと言い返す。体中がびくついていた。この距離が怖い。後ずさりたい気持ちを懸命に抑える。
「久しぶりだったから、あなたが虚勢だけの人間だということを忘れていたのよ」
「結界まで張って、二階に私を閉じ込めていたのは、私を怖れていたからじゃないの?」
 ユリアは言葉に詰まった。シーツを掴み、憎々しげに顔をしかめた。
「……そう……いえ、違うわ」
「怖れていたから、優位に立とうとしたんでしょう?」
 ユールベルの首筋には、薄く汗が滲んでいた。
 ユリアも同様に、額に汗を滲ませている。
「母親なんだから、優位に立って何が悪いの」
「あなたに母親の自覚があったなんて驚きだわ」
 ユールベルの声に冷たい響きが加わった。単なる反撃のための言葉ではない。心の奥底からの言葉だった。娘とも思っていないくせに、母親などと口にすることに驚き、そして呆れた。
 ユリアは完全に追い込まれた。深くうつむき、シーツを引きちぎらんばかりにきつく握りしめる。
「……ああ言えば、こう言う……少しも変わっていない……人を怒らせるしか能のない子……」
「言いたいことがあるなら、私に向かってはっきりと言ったらどうなの」
 ユールベルの挑発に、ユリアの中の何かが切れた。
「どこまで馬鹿にすれば気がすむの! いいかげんにして!!」
 怒りで顔を真っ赤にすると、爆発したように叫び、大きく腕を振り上げた。
 空気を切る音が聞こえた気がした。
 ユールベルは息を呑んだ。一瞬、怯えた顔を見せたが、目をそむけることはなかった。
 パシン——。
 何かを打つような高い音が、部屋に弾けた。
 ユールベルの頭が薙ぎ払われた音ではない。
 頬が打たれた音でもない。
 勢いよく振り下ろされたユリアの腕を、ユールベルが片手で受け止めた音だった。
「なっ……」
 ユリアは驚き、目を丸くした。
 行動を起こしたユールベルの方も呆然としていた。
 防御することなど今まで出来なかった。その考えすらなかった。手を上げられれば、ただ受けるしかなかった。彼女の中では、それ以外の選択肢はゼロだった。きっと、アンソニーも同じだろう。
 だが、防ぐことは出来たのだ。
 その腕は、思ったよりもずっと細かった。力も決して強くなどない。ずっと、圧倒的なものと感じていたのは、小さな子供の頃に受けた記憶のせいだろうか。
 時は流れていた——。
 ユールベルの目から、涙が零れ落ちた。
「あなたを怖れる理由なんて、とっくになくなっていたんだわ!」
 泣きながらそう言うと、弾くように腕を押し返した。そして、潤んだ瞳でひと睨みすると、踵を返し、走って部屋を出て行った。
 うなだれたユリアの耳に、遠ざかる靴音がこびり付いた。

 ユールベルはユリアの病室が見えないところまで走ると、ゆっくりと足を止めた。壁に寄りかかり、しゃくり上げながら涙を拭う。
 心の重しが少しだけ軽くなったような気がした。それと同時に、心に大きな穴が空いたようにも感じた。安堵と寂寥の入り混じったような、複雑な心境だった。
 これで少しは何かを変えられたのだろうか。その自信はない。結局、何も変わっていないのかもしれない。それでも良かった。きっかけにくらいにはなるかもしれない——彼女にしてはめずらしく、そんな希望を信じる気持ちになっていた。

「あなたから説得してくれない?」
「そういうことはサイファに頼め」
 ふと、そんな会話がユールベルの耳に入った。片方はとてもよく知っている声だ。その声を聞いただけで、胸が熱く痛んだ。
 何を話しているのだろう。誰と話しているのだろう。
 熱が彼女を衝動のままに突き動かす。靴音をさせないよう忍び足で廊下の角に移動すると、身を隠しながら声の方を盗み見た。
 そこにいたのは、ラウルと王妃アルティナだった。ふたりきりで、他には誰もいない。廊下の中央に立ったまま、向かい合って話をしている。
「自信がないわけ?」
「おまえの命令を受ける義務はない」
「義理はあるでしょう?」
「ルナのことを言っているなら、レイチェルにも同じだけの義理がある」
 互いに喧嘩腰だった。双方とも腕を組み、厳しい顔で睨み合っている。
「いいわよもう」
 先に折れたのはアルティナだった。腰に手をあて、面倒くさそうに大きくため息をつく。反撃の言葉はいくらでもあった。だが、ラウルはそう簡単には落ちないだろう。言い合うだけ時間の無駄である。
「サイファに頼むことにするわ」
「期待は持たないことだな。レイチェルを説得など、誰にも出来はしない」
 ラウルは冷ややかに忠告した。
 アルティナはわずかに顎を上げ、鋭い目を彼に向けた。真顔で瞳の奥を探る。
「そうやって、いつもあきらめてばかりなのね、あなたは」
「何がいいたい」
 ラウルは目つきを険しくした。
「わかってるくせに」
 アルティナはとぼけた口調で軽く言った。
 ラウルには無表情で目を伏せた。自分の中で思い当たることはあった。だが、彼女がそれを知っているはずがない。自分の考えているものと、彼女の考えているものは、まったく違うものなのだろう。そう思うことにした。
「それじゃ、またね」
 アルティナは、身を翻しながら右手を上げ、気持ちを切り替えるように軽い調子で言った。
 ラウルは軽く視線を送ったあと、無言で踵を返した。

 ユールベルは慌てて顔を引っ込めた。柱の陰に回り込み、身を隠す。
 その理由はアルティナだった。ラウルとの話を終えた彼女が、ユールベルのいる方へ向かってきたのだ。艶やかな銀色の髪をなびかせながら、大きな足取りで闊歩している。まっすぐ正面を向いているせいか、隠れたユールベルに少しも気づくことなく通り過ぎ、階段を降りていった。小刻みな靴音が、複雑に反響しながら遠ざかっていく。
 ユールベルはもういちど廊下の角から顔を出し、ふたりがいた場所に目を向けた。だが、そこにラウルの姿は見つけられなかった。
 ——え? どこ?
 慌てて飛び出し、駆けながら何度もあたりを見まわす。緩やかなウェーブを描いた金の髪が、白い包帯とともに振り乱れた。だが、今の彼女にそれを気にする余裕はなかった。

「体調はどうだ」
 病室のひとつから、低い声が聞こえた。
 扉が閉じられているため、中の様子は窺えない。だが、それはラウルの声に間違いなかった。
 ユールベルはその病室に近づき、息をひそめて耳をそばだてた。

「ええ、もう大丈夫」
 レイチェルはにっこりとして答えた。いつもと変わらない愛らしい微笑みだった。
 ラウルは無表情で、彼女の前のパイプ椅子に腰を下ろした。
「無理して笑わなくてもいい」
「無理なんてしていないわ……?」
 レイチェルは不思議そうに、やや語尾を上げて答えた。
 ラウルはわずかに眉を寄せた。
「すまない」
「えっ?」
 レイチェルは困惑した。先ほどからの発言が理解できない。とまどいの眼差しを彼に送る。
 ラウルはそれに答えるように口を開いた。
「おまえにばかり、重荷を背負わせている」
「…………」
 レイチェルは無言のまま、薄く微笑んだ。そして、ゆっくりと目を閉じ、緩やかに首を横に振った。カーディガンの上で、彼女の金髪が静かに揺らめいた。
 彼女は、すべて自分の責任だと思っている。他人がどれだけ違うと言っても、それを受け入れることはないだろう。謝罪も慰めも望んでいない。ラウルにはわかっていた。わかっていながら、どうしても口にせずにはいられなかった。
「私に出来ることがあれば、何でも言え。おまえの頼みは出来る限り聞くつもりだ」
 彼女に背負わせたものと比して、あまりにも小さな償いかもしれない。だが、彼女の意思を尊重した上で、自分にしてやれることといえば、このくらいしかなかった。
 レイチェルは少し思考を巡らせたあと、ぽつりと言った。
「りんごが食べたい」 
「りんごだな、わかった」
 ラウルは真顔で確認すると、おもむろに立ち上がった。
「そこにあるわ」
 レイチェルは後ろの棚を指さした。
 彼女の指先を辿ると、そこに篭盛りのりんごが置いてあった。誰かの見舞いの品のようだった。果物ナイフもその中にあった。
 ラウルは隣の洗面台で軽く手を洗ったのち、篭からひとつを手にとると、ナイフを使って皮を剥き始める。
「やっぱりすごいわね」
 その手際の良さを見て、レイチェルが感嘆した。くるくると回転するたびに、赤い衣がほどかれていく。まるで手品のように見えた。
 ラウルは感心されるほどのことではないと思ったが、彼女が嬉しそうだったので、黙ってそれを見せていた。いい気になっているわけではない、と自分に言い訳をする。ただ、少しだけ昔を思い出した。
 りんごはすぐに剥き終った。小さく切って小皿に盛り、レイチェルに差し出す。
「ありがとう」
 レイチェルは、にっこりと笑って、両手でそれを受け取った。小さなフォークで、そのひとかけらを口に運ぶ。
「おいしい」
 彼女は子供のように素直な感想を述べ、柔らかく微笑んだ。
 ラウルもつられて、ごくわずかだったが、口元を緩ませた。
 ふたりの間に流れる平穏な時間。だが、それは、ほんのひとときのことだった。
「サイファは何か言っていた? 私のこと」
 彼女のその一言で、ラウルはいつもの無表情に戻った。
 彼女は何か察しているのだろうか。それとも尋ねてみただけなのだろうか。確かにサイファとあることを話し合った。しかし、それは彼女にとって歓迎するような内容ではない。伝えるべきかどうか迷った。
「隠さないで」
 見透かしたように、レイチェルは凛とした声で言った。
 ラウルは軽くため息をついた。嘘はつけない。手を拭きながら、あきらめたように椅子に座る。
「サイファから、おまえの記憶を消せないかと相談を受けた」
「えっ……?」
「一連の事故の記憶だ」
「やめて! それは駄目!!」
 レイチェルは取り乱したように哀訴した。ベッドから身を乗り出し、縋るようにラウルの袖を掴む。りんごがのった小皿は、今にも手から滑り落ちそうだった。
 ラウルはその小皿をそっとすくい上げ、隣の棚に置いた。そして、縋り付く小さな手に、自分の大きな手を重ねた。
「安心しろ、おまえの了承なしに、そんなことはしない」
 レイチェルは我にかえると、安堵の息をついた。
「そもそも、成人では上手くいかない可能性の方が高いからな」
 ラウルは抑揚のない声で、そう付け加えた。
 レイチェルは難しい顔でうつむいた。成人の記憶を消すのは困難である——サイファもそのことは知っているはずだ。なのに、なぜ……。忘れるくらいに焦燥していたのかもしれない。それとも、一縷の望みに託すつもりだったのだろうか。
 どちらにしろ、そこまで追い詰めたのは自分なのだ。心を閉ざし、起き上がることさえできない状態を、何日も見せつけてしまった。助けるためには記憶を消すしかない、という極端な考えに至ったとしても、彼を責めることは出来ない。全力で自分を守ろうとしてくれた、その結果なのだから——。
 彼女はラウルの腕から手を引こうとした。ラウルもそれに応じるように、彼女に重ねた手を退けた。
「忘れたくはないのか」
「忘れてはいけないもの」
 レイチェルの小さな口が、迷いなく動いた。
 ラウルは目を閉じ、小さく息をついた。
「あのとき、無理にでも、おまえをここから連れ去るべきだった」
 そうすれば、こんなつらい目に遭わせることはなかった。さらなる重荷を背負わせることはなかった。ラウルの胸に、悔恨の思いが湧き上がった。
 レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「後悔するなんておかしいわ。ラウルは、何度、同じ状況が巡ってきても、きっと同じ選択をする。同意なしに連れていくなんてこと、ラウルにはできないもの」
 ラウルはじっと彼女を見つめた。無表情だったが、心の中はざわめいていた。
「甘く見るな。おまえは私のごく一部しか知らない」
「それで十分だわ、今のラウルを推測するには」
 レイチェルはにこやかに切り返した。
 ラウルは気色ばんだ。彼女の余裕ある言動に腹が立った。自分のことをどれだけ知っているというのだ——急に怖い顔になり、鋭く睨めつける。そして、激しさを喉元で抑えた、迫力のある低音で言った。
「ならば、おまえが間違っていると証明してやる。今からおまえを連れ去る。同意は得ない……それでもいいのか」
「ちゃんと同意を得ようとしているわね」
 レイチェルは肩をすくめて笑った。
 ラウルは肩を落としてうなだれた。顔を隠すように手で押さえる。自分の間抜けさに羞恥を覚えた。同時に、彼女には敵わないとも思った。すっかり見透かされている。やはり、自分には強引に実行することなど無理なのだ。
 サイファなら手段を選ばないのかもしれない。それが必要だと思えば、躊躇なく行動に移すだろう。それが、うらやましくもあり、憎らしくもあった。

 ——そうやって、いつもあきらめてばかりなのね、あなたは。
 脳裏にアルティナの声がよみがえった。あまりにも、今の状況にぴったりとはまる。彼女がいいたかったのは、やはりこのことなのだろうか。

「アルティナが、おまえを説得しろと言ってきた」
 ラウルは不意に話題を変えた。
 ずいぶんと唐突だったが、レイチェルには何の話なのかすぐにわかった。少し前に、病室の外でふたりが言い争うような声が聞こえていた。話の内容までは判別できなかったが、ラウルのその言葉を聞いて、付き人の件に思い当たったのだ。
「説得するつもり?」
「いや、断った」
 ラウルは素っ気なく言った。そして、一拍おいて言い添えた。
「私も付き人を続ける方がいいとは思っている。だが、アルティナに頼まれて説得したのでは、あいつの肩を持つことになるからな」
「子供みたいなことを言うのね」
 その茶々に気を取られることなく、ラウルは真剣に話を続ける。
「私は常におまえの味方でいたい。断ったのはそういう理由だ。だから、今後、私の意思で話を持つことがあるかもしれない」
 レイチェルは真面目にこくりと頷いた。
「だが、今は体を休めることだけを考えろ」
 ラウルは医者としてそう告げたあと、表情を変えずに付け加えた。
「今度、とびきり美味いりんごを持ってくる」
「ありがとう、嬉しい」
 レイチェルは顔をほころばせた。小さな花が咲いたような、可憐な笑顔だった。
 ラウルは、その愛くるしい表情に意識を絡めとられた。それは、あの頃を思い出させるものだった。拒絶しておきながら、忘れようとすれば妨害する。いつもそうだ。自覚がないだけにたちが悪い。ふぅ、と疲れたように小さく息をつく。
「今からでも遅くない。一緒に行かないか」
 どこへ、などと言わなくても通じるだろう。いったいこれで何度目なのか。自分の往生際の悪さに呆れつつ、それでも止めることができなかった。しかし、これが最後だと心に決めた。
「行ったらアルティナさんの付き人を続けられないわ」
 レイチェルは冗談めかして言った。
 だが、ラウルは真顔で返した。
「続けるつもりはないのだろう」
「…………」
 レイチェルは何も答えられなくなった。表情に陰を落とし、うつむいた。
「悪かった、追い詰めるようなことを言って」
 ラウルは低い声で言った。そして、じっと彼女を見つめると、今度は力強く語りかける。
「レイチェル、おまえがここに留まることを望むなら、私もこの国に留まり、おまえの傍らで力になる」
 レイチェルは顔を上げた。嬉しいというより、むしろ苦しかった。彼にはつらい思いばかりさせている。きっとこれからもそうだろう。なのに、彼はいつまでも味方でいようとしてくれている。その気持ちに報いることはできないのに……。せつなげに彼を見つめた。
 ラウルは彼女の瞳に吸い込まれそうになった。ほとんど無意識に手を伸ばす。大きな手のひらが、彼女の白い頬に触れた。
「ラウル?」
 レイチェルは不思議そうに瞬きをした。
「……少し熱っぽいな。休んだ方がいい」
 ラウルは事務的な口調で言った。そして、ゆっくりと手を引いていく。名残惜しげな指先が、彼女から離れた。
「無理をするな」
 そう言い残して立ち上がると、彼女の視線を振り切るように背を向け、大きな足どりで病室を出て行った。

「なに、さっきの……」
 扉を開くと、そこにはユールベルが立っていた。体の横でこぶしを握り、怒りを抑えたような怖い顔をしている。レイチェルとの会話を聞いていたのだろう。どこから聞いていたのかはわからない。だが、そんなことはどうでもよかった。
 ラウルはすぐに扉を閉めた。レイチェルに悟られたくなかった。そして、素知らぬ顔でユールベルの前を通り過ぎようとした。
 だが、ユールベルが逃すはずはなかった。彼の正面にまわり込むと、行く手を阻むように立ちはだかる。
「どうして? どういうことなの? わた、し……」
 ずいぶん混乱しているようだった。混乱というより、動揺かもしれない。顔を歪ませながら、懸命に言葉を探している。
「そう、よ……私にも、あのくらい優しくしてほしかった!!」
 激情とともに、固く握りしめた両手をラウルの胸に叩き付けた。涙があふれた。それを拭うことなく、何度も何度も叩き続ける。それでも、彼にとっては何の痛みにもならなかった。
「私がほしかったものなのにっ……!!」
「ここは病室の前だ。静かにしろ」
 ラウルの口調は冷淡だった。それが、ますますユールベルを激昂させた。
「何が病室よ! あの人に聞かれたくないだけじゃない!!」
「ユールベル?」
 不意に、扉の向こうから声がした。レイチェルのものだ。部屋の前でこれだけ喚いていれば、聞こえない方がおかしい。
「すまない、今、黙らせる」
 ラウルは扉越しに声を投げた。ユールベルをくるりと逆に向かせると、背後から片手で体を抱き寄せ、もう片方の手で口を塞いだ。彼女はラウルに抱き上げられるような格好になり、ほとんど宙に浮いていた。かろうじて地面に触れているつま先が、心もとなさそうに彷徨っている。
 そのまま、離れたところへ連れていこうと足を踏み出しかけた、そのとき——。
「ラウル、ユールベルとふたりきりで話をさせて」
 レイチェルが予想外のことを口走った。さすがのラウルも驚き、慌てた。
「何を言っている。こいつは危険だ。何をしでかすかわからない。ふたりきりになどできるか」
 ユールベルの胸に、締めつけられるような痛みが走った。苦しくて意識が遠のきそうだった。口を塞がれたまま、新たな涙があふれる。心の深いところから湧き上がってきたような、熱い涙だった。
「ラウル、私の頼みは聞いてくれるんでしょう?」
 レイチェルは冷静に返した。
 ラウルは返答に窮した。彼女の頼みを聞く——それは、ラウル自身が彼女に告げたことだった。つい今しがたのことである。もちろん、嘘ではなく本心だ。だが、このようなことは想定していなかった。
「ラウル、お願い」
 もう一度、畳み掛けるように頼み込む。
 ラウルはもう拒むことは出来なかった。無言で扉を開けた。そして、いまだ泣いたままのユールベルを、病室の中へ押しやった。
 レイチェルはベッドの上で穏やかに微笑んでいた。
「い、嫌……わ、わたし……」
 ユールベルはうろたえながら、ラウルのもとに戻ろうとした。だが、ラウルは手を突き出し、それを阻んだ。
「レイチェルに危害を加えるような真似をしたら、ただではおかない」
 凍りつくような冷たい声だった。だが、その瞳は激しく燃えたぎっていた。
 本気だ、とユールベルは思った。ぞくりと身震いをする。体が内側から凍りつくようだった。涙も止まった。その瞬間、悲しみよりも恐怖が勝っていた。彼に対して、ここまでの戦慄を覚えたことはなかった。
 ラウルは静かに扉を閉めた。

 閉ざされた病室の中で、ユールベルとレイチェルはふたりきりになった。
 ユールベルは、ラウルを求めるように伸ばした手を、いまだ下ろせずにいた。その先には扉しかない。縋りたい人の姿はもう見えない。
「ユールベル」
 背後から、鈴を鳴らしたような声が聞こえた。びくりとして、体をこわばらせた。だが、観念したかのように表情を引き締めると、ゆっくりと振り返った。
 レイチェルは優しい笑顔をたたえていた。化粧をしていないその顔は、大人っぽさが抜け、普段よりも若く感じた。まるで少女のようだった。肌は雪のように白く、頬にはわずかな赤みがさしている。小さな唇はほのかな薄紅色をしていた。可憐でいて、儚げ——そんな表現がふさわしかった。

 おじさまのいちばん大切な人。
 レオナルドの好きだった人。
 そして、多分、ラウルも——。
 まるで、愛されるために生まれてきたような人——。

 ユールベルは胸の少し下をぐっと押さえた。何も持っていない自分、すべてを手に入れている彼女。あまりにも違いすぎる。ずるい、と思った。
「ここに座って。ふたりで話をするのは初めてかしら」
 レイチェルは、ラウルが座っていたパイプ椅子を示した。
 ユールベルは緊張しながら足を進めた。言われるまま椅子に座る。わずかに残っていた座面の温もりに、彼女の心が小さくさざめいた。
「お母さまのお見舞いに来たの?」
「私に親はいないわ」
「そうだったわね」
 レイチェルはあっさりと同意した。
「それで、何の話?」
 ユールベルは努めて無愛想に尋ねた。それは、今の自分にできる唯一の防御だった。
「特にこれといってないんだけど……今まであまりあなたと話したことがなかったから、何かお話できればと思って」
 レイチェルは親しみをこめた笑みを向ける。
 だが、ユールベルはそれを受け付けなかった。表情を凍らせたまま、すっと椅子から立ち上がった。
「話がないのなら帰るわ」
 レイチェルの微笑みが、寂しげに翳った。
「私、やっぱりあなたには嫌われているのね」
「……ただ苦手なだけよ」
 ユールベルは顔をそむけて、ぼそりと言った。それは、本当のことだった。子供の頃からそうだった。嫌いというほどの感情はなかったが、一緒にいるのが苦痛だった。とても居心地が悪かった。だから、いつもあからさまに避けて、話もしないようにしていた。今にして思えば、すべて自分の劣等感からきていたのかもしれない。
「お願い、少しここにいてくれないかしら」
 レイチェルは小首を傾げて、控えめにせがんだ。
 そういうふうに可愛らしく頼み込む彼女に、ユールベルは腹立たしさを覚えた。黒い気持ちが湧き上がる。
「私の質問に、答えてくれる?」
「ええ、いいわ」
 レイチェルは嬉しそうに、ぱっと表情を明るくした。
 ユールベルは、彼女を見つめながら、再びゆっくりと腰を下ろした。ギィ、と嫌な音を立てて、パイプ椅子が軋んだ。
「……あなたも、あの爆発に巻き込まれたの? 家は離れていたはずだけど」
 本当はこんなことではなく、ラウルとのことを訊くつもりだった。徹底的に問いつめようと思っていた。だが、無垢なまでの彼女の笑顔を見ていたら、つい違うことを口に上らせていた。
「巻き込まれた……んじゃないわ、私が、起こしたの」
「えっ?」
 あまにりも突飛だったため、にわかには理解できなかった。言葉のままに受け取れなかった。目を見開き、思わず尋ね返す。
 レイチェルは淡々と説明を続ける。
「魔導の実験中に起こった事故ということになっているけれど、私の魔導の力が暴発してしまったのが、本当の原因」
「あなたが……」
 ユールベルは信じられない思いだった。国の結界を損傷するほどの魔導を、彼女がひとりで発したというのだろうか。彼女にはそれほどの魔導力が備わっているようには見えなかった。
「子供の頃、魔導の訓練から逃げてばかりだったの。だから、かしら、自分の力をコントロールできないことがあるみたい。自分にこんな力があるなんて知らなくて……なんて、ただの言い訳ね。我が侭だったから、私」
 遠くに思いを馳せるような口調に、自嘲と後悔の色が入り混じっていた。
「だったら、どうしてそんなに平然としていられるの。あなたの我が侭のせいで、たくさんの人が死んだり怪我をしたりしているのに」
 ユールベルは厳しい追及をする。
「どうしてかしらね」
 レイチェルは他人事のように言った。背中の枕に体重を掛け、ぼんやりと視線をさまよわせる。
 ユールベルはその態度に苛立った。自分のしでかしたことに、何の自覚も持っていないように思えた。彼女を責めるように睨みつける。
「少しくらい心が痛まないの? どうして笑っていられるの? どうしてはしゃいでいられるの? ラウルと楽しそうに話なんかして……。何人もの人を殺しておいてすることじゃないわ」
「ラウルのこと、好きなのね」
 レイチェルは柔らかく微笑みかけた。
 思わぬ反撃に、ユールベルは顔を紅潮させた。
「違う、ラウルのことなんて好きじゃない、あんなひと大嫌いだわ!」
 身を乗り出し、躍起になって否定する。だが、むきになればなるほど、その言葉は虚しいものになっていった。
 だが、レイチェルは優しさをもって、それを受け止めた。
「わかったわ、変なことを言ってごめんなさい」
 ユールベルはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「あなた、は……」
 ためらいがちに口を開き、震えるような声を絞り出した。こわばった顔でレイチェルを見つめる。そして、ひと呼吸ののち、意を決したように、いちばん知りたかったことを尋ねる。
「あなたは、ラウルのこと、好きなの?」
「ええ、好きよ」
 レイチェルはためらいなく答えた。
 ユールベルはカッとした。どうしようもなく頭にきた。無邪気な顔で、何の屈託もなく、平然と答える彼女を許せなかった。顔を隠すようにうつむき、肩を小刻みに震わせながら立ち上がった。
「……私は……やっぱり、あなたのこと、嫌いだわ」
 レイチェルは彼女を見上げ、寂しげに微笑んだ。薄紅色の唇が動き、何かを告げようとする。
 だが、ユールベルはそれを聞くことを拒絶した。片耳を塞ぎながら弾けるように駆け出し、病室を飛び出していった。

 廊下にはラウルがいた。
 彼のことをすっかり忘れていた。話はすべて聞かれたに違いない。その内容を思い返し、ユールベルはカッと顔が熱くなった。目の奥も熱くなった。左目から涙があふれ、頬を伝い落ちた。
「笑いたければ、笑えばいいわ!」
 無表情のラウルを睨みつけ、自暴自棄な叫びを上げる。
 今日は泣いてばかりだった。自分は今、ひどい顔をしているだろう。目が腫れているような気がした。こんな顔を見られたくない——ユールベルは額を掴むように押さえ、深くうつむいた。
「……なっ!!」
 立ち去ろうとした彼女の細い腕を、ラウルは無造作に掴み、引っぱり上げた。ユールベルの体は引き戻され、正面からラウルに倒れかかった。視線を上げれば、近いところに彼の顔がある。
「放して!!」
 この状況に驚き、反射的に逃れようとした。力一杯もがくが、彼に掴まれた腕はびくともしなかった。せめてもの抵抗に、顔だけはそむけた。
「ひとつ言っておく」
 感情を抑えた低い声で、ラウルが前置きした。
 ユールベルは、横目でそっと視線を戻した。
「笑っている人間が、笑わない人間より気楽に生きているなどと決めつけるな」
 ラウルはまっすぐに彼女の目線を捉えて言った。
 ユールベルは涙目で、キッと睨み返した。心の中にいろんな感情が渦巻いた。悲しくて、悔しくて、怖くて、苦しくて、頭がおかしくなりそうだった。
「放して!!」
「このまま帰すわけにはいかない。包帯を直す。来い」
 ラウルはユールベルの手首を掴んだまま歩き出した。彼女の目を覆う包帯は、ずいぶんと緩くなり、ずれかかっていた。
 ユールベルは手を引かれながら、おとなしくついて歩いた。そうするしかなかった。ラウルの手を振り払うなどということは不可能に近い。手の甲で涙の跡を拭う。もう泣いてはいなかった。だが、本当は広い背中に縋り付いて、泣きじゃくりたかった。

 厚い雲の切れ間から、太陽が顔を覗かせた。
 ずいぶん久しぶりに見た気がする。レオナルドは忘れかけていたその眩しさに目を細めた。
「レオナルド!」
 不意に、背後から自分の名を呼ばれた。訝しげに振り返る。足の下で、固くなった雪が、ジャリ、と濁った音を立てた。
 視線を向けた先にいたのは、自転車に乗った黒髪の女性だった。手を振りながら、ふらふらと走っている。どうやらこちらに向かってくるようだ。
 彼女はレオナルドの横まで来ると、ブレーキをかけて止まろうとした。だが、前輪を雪にとられたらしく、ぐらりとバランスを崩した。わっ、と焦った声を上げながらも、とっさに足をついて体勢を戻した。
 ふう、と小さく安堵の息をついた。そして、ぱっと顔を上げると、親しげな笑みを見せる。
「久しぶりっ」
「……誰だおまえは」
「はぁ?」
 思いもよらないレオナルドの返答に、彼女は素っ頓狂な声を上げた。口をとがらせると、下からじっと覗き込むようにして睨む。
「それ、本気で言ってるわけ?」
「声はどこかで聞いたことがあるような気が……あっ!」
「思い出した?」
 彼女はくすりと笑う。
「ターニャか?」
「正解」
 レオナルドは、唖然として彼女を見た。上から下まで、まじまじと視線を巡らせる。ずいぶんと雰囲気が変わっていた。髪は胸のあたりまで伸び、薄く化粧もしているようだ。そして、細身のパンツスーツを着こなしている。以前よりも大人っぽく、そして、女らしくなった気がした。
「そんなに変わった?」
「性格はそのままのようだな」
「まあね」
 レオナルドは嫌みのつもりだったが、ターニャは素直に受け取った。もっとも、その嫌みも、半分は照れ隠しのようなものだった。
「これから帰るの?」
「ああ」
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろ。方向、同じみたいだし」
 ターニャは一方的にそう言うと、返事を待たずに自転車を降りた。それを引きながら、レオナルドと並んで歩き始める。
「こんな雪の積もっているときに、自転車なんてよく乗るな」
 レオナルドは半ば呆れたように言った。
「雪のない部分でしか乗ってないわよ」
 細い道はまだ雪や氷で覆われているが、大通りは早い段階から除雪されていた。特に、王宮に近いこのあたりは、細めの道でも除雪されていることが多い。そういう道を選んで通っているということだろう。この道も、隅の方は雪が残っているが、中央部分はきれいに除雪されている。
「ついてないのよね、ワタシ」
 ため息まじりにそう言うと、ターニャは面白くなさそうに口をとがらせた。
「練習してようやく乗れるようになったと思ったら、急に雪が積もっちゃうんだもん。しばらく乗ってないと、感覚を忘れそうだったし、仕方なくってところかな」
「今まで乗れなかったのか」
 レオナルドは驚いたように言った。自転車など、幼い頃にみんな乗れるようになるものだと思っていた。
 ターニャは少し恥ずかしそうに、頬を赤らめながら、上目遣いで彼を睨んだ。
「そうよ、悪い?」
「いや、悪くはないが、天然記念物モノだな」
「いくらなんでも、そこまでめずらしくないでしょ」
「俺はどっちも見たことがない」
 レオナルドは無遠慮に言葉を重ねる。
「なんで今さら乗ろうと思ったんだ?」
「ああ、それ? えーっと……」
 ターニャは空を見上げながら、言葉を探した。
「私ね、母親に会いに行こうと思ったの。ずっと会いたくなかった母親だけど……。そのために、自転車を練習したのよ」
「なんで自転車なんだ。他に手段はいくらでもあるだろう」
「どうしてかなぁ」
 レオナルドの率直な疑問は、彼女自身にも疑問だった。ハンドルに両腕を置いてもたれかかり、視線を落として考え込む。
「何か、克服したかったのかな。それとも、自分を試してたのかも……」
「そんなに嫌なら、会わなければいいだろう」
「逃げてばかりじゃ、何も変わらないから」
 ターニャは少し照れたように言った。
 だが、レオナルドはたいして興味なさそうだった。
「ただの自己満足じゃないのか」
「それでもいいの」
 ターニャはにっこりと笑った。
「ねぇ、レオナルドのお母さんってどんな人?」
「口うるさいだけだ。子供の頃はよくゲンコツくらった」
 レオナルドは面倒くさそうに、しかし思いのほか丁寧に答えた。
「へぇ、ちゃんと親子してるんだ…って、あ! レオナルドの家は大丈夫だったの? 例の爆発」
 ターニャは突然、思い出したように尋ねた。
「ああ、俺の家は離れてたから」
 レオナルドは前を向いたまま、素っ気なく答えた。もし、何かあったとしたら、こんなところで呑気に母親の話などしていないだろう。そのくらいわかって然るべきだと思ったが、今さらこんな質問をしてくるなど、彼女は思ったより抜けているようだ。
「そう、良かった。少し心配してたんだ」
「少しだけか」
「心配しただけ有り難がってよ」
 レオナルドのひねくれた発言にもめげず、ターニャは明るく笑って言い返した。

「そういえば、今日はユールベルと一緒じゃないのね」
 しばしの沈黙のあと、ターニャはふとそんなことを口にした。
 レオナルドの心は、その一言で掻き乱された。
「アカデミーを休んでいたんだ。……ラウルのところへ行っていたみたいだ」
 ターニャと会う少し前、アカデミーの近くでユールベルを見かけた。声を掛けようと思ったが、新しい包帯を見て、声を掛けられなくなった。その巻き方や結び方は、ラウルのものだったからである。
「そっか」
 ターニャは寂しげに言った。ちらりと横目でレオナルドを盗み見る。彼はまっすぐ前を見据えていた。だが、その表情はどこか疲弊しているようだった。
「キミたち、どうなってるの?」
 ユールベルには訊けなかった不躾な質問をぶつけてみる。ずっと気になっていたことだった。レオナルドには、これだけで意味するところは通じるはずだ。返答を拒まれるかもしれないと思ったが、意外にも冷静に答えてくれた。
「どうにもなってないさ。ずっと、よくわからない状態が続いている」
「それでいいの?」
「俺の問題じゃない、ユールベルの問題だからな。……正直、どうしていいか、俺にはわからない」
 レオナルドは足元を見ながら、ため息をついた。
「ずいぶん弱気ね」
 ターニャは少し驚いていた。いつも傲慢なまでの態度をとっているレオナルドが、自分にこんな弱音を吐露するなど信じられなかった。だが、一年、二年とこんな状態が続けば、不安になるのも、疲れるのも、無理ないのかもしれない。
 レオナルドはさらに、信じがたいことを口にした。
「あいつが幸せになるのなら、俺は身を引いてもいいと思っている」
「ええっ?! 本気で言ってるの……?」
「ああ、でも、あいつはジークやらラウルやら、どう考えても無理っぽいところばかりに行くからな……今はやっぱり目を離せない」
 レオナルドは、もう一度、深くため息をついた。
「だったら、もうちょっと頑張ってみたら?」
「これ以上、頑張ったら、完全にストーカーだぞ」
「イイ男になれって言ってんの!」
 ターニャは元気づけるように明るく笑いかけた。
 レオナルドは何と返事していいかわからず、むすっとして顔をそむけた。

「俺はこっちに曲がるが……」
 十字路に差し掛かり、レオナルドは右を指差した。
「じゃあ、ここでお別れね。あ、ちょっと待って」
 ターニャはポケットを探り、小さな紙片を取り出した。
「これあげる。私の名刺。かっこいいでしょ」
 嬉しそうにえへへと笑って、レオナルドに差し出した。だが、それはどう見ても、何の変哲もないごく普通の名刺だった。左上に勤めている研究所の名前が記されている。特段、自慢するようなものでもない。
 レオナルドはそれを受け取ると、視線を落としてじっと見つめた。なぜか異様に真面目な顔をしている。ターニャが不思議そうに見ていると、彼は顔を上げて尋ねた。
「これ、勤め先だろう。連絡してもいいのか?」
「……は?」
「……ん?」
 ふたりは互いの反応が理解できなかった。思いきり怪訝な表情で、探るように顔を見合わせる。
「貸して」
 先に動いたのはターニャだった。レオナルドの指から名刺を取り上げると、ポケットからボールペンを取り出し、裏に何かを書き記した。
「連絡するならこっちにして。自宅だから」
 手書きの面を掲げ、もう一度レオナルドに手渡した。
「ああ? わかった……」
 レオナルドはどうにも腑に落ちないといった様子で、それを受け取った。最初から自宅の連絡先をくれればよかったじゃないか、と心の中で毒づいた。
「じゃあね。完全にふられたりしたら連絡ちょうだい。晩ごはんくらいおごってあげるから!」
 ターニャは自転車にまたがり、笑いながら言った。手を振りながら走り去って行く。ようやく乗れるようになったという言葉を裏付けるように、彼女の走行はふらふらして危なっかしげだった。
「おごるって……あいつ、貧乏人のくせに何を言ってるんだ……」
 レオナルドは首を傾げながら、奇妙な面持ちでつぶやいた。そして、名刺を掴んだ手をジャケットのポケットに入れると、右側の道へ足を踏み出した。
 緩やかな風が吹いた。柔らかい髪がふわりと舞い上がった。頬をかすめるその温度は、まだ暖かいとはいえなかったが、少しだけ冷たさが和らいでいた。


90. 責務

「アンジェリカ!!」
 ジークは声の限りに叫んだ。しかし、彼女を止めることは出来ない。次第に遠ざかっていく足音が、棘のように心に突き刺さる——。

 あれから一週間が過ぎた。
 ジークはまだ病院のベッドに縛り付けられたままだった。比較的、軽い骨折だった左腕は、まもなく器具が外される予定だと聞いた。だが、右手は当分ギプスのままで、両足も固定され動かすことを禁止されている。完治までにはほど遠い。
 何もすることが出来ない今の状態では、母親やリックの見舞いが唯一の楽しみだった。ひとりでいると、どうしても暗い思考に陥ってしまう。誰かとたわいのない話をしている間だけは、気を紛らわすことができた。

「すまないな、あまり顔を出せなくて」
 サイファは魔導省の制服のまま、ジークの病室にやってきた。仕事の合間に抜けてきたようだ。いつものように、ベッド脇にパイプ椅子を広げて座る。正面のカーテンは開けられており、少し汚れたガラス越しに、鈍色の空が広がっていた。その厚い雲の切れ目からは、わずかに太陽が顔を覗かせている。
「いえ」
 ジークはベッドの上に横たわったまま返事をした。目線だけを彼に向ける。
 あまり顔を出せなくて——などと言っているが、サイファは一日一回、必ずこうやって顔を見せに来ていた。彼なりに責任を感じているのだろう。もっとも、仕事が忙しいらしく、二、三の言葉を交わすだけで終わることが多かった。もちろん、ジークにそれを責めるつもりは微塵もない。むしろ、多忙な状況にもかかわらず、自分のことを気に掛けてくれることが嬉しかった。
「後始末も落ち着いてきたから、これからは時間が取れそうだよ」
「後始末……?」
 あまり穏やかではない言葉の響きに、ジークはおずおずと聞き返した。
 サイファは小さくくすりと笑った。ジークの反応が無性に可笑しかった。自分はよほど信用されていないらしい。彼にしたことを思えば、それも当然のことだろう。
「結界の修復、被害者への補償、その他事後処理などだね」
 軽くそう答えると、膝の上で手を組み合わせた。続けて説明をする。
「結界は修復の目処が立ったよ。応急処置は完了している。これから一ヶ月かけて、徐々に元の強度へ戻していくことになった。あと、被害者との話し合いもほぼ終わった。ラグランジェ家の人間、つまり身内が多いから、あまりややこしいことにはならずに済みそうだよ。不幸中の幸いといったところかな」
「そうですか」
 ジークは安堵の息をついた。サイファの後始末の内容は、いたって正当なものだった。不穏なことを考えそうになっていた自分を反省した。
 サイファは軽い調子で話を続ける。
「この一週間、寝る間もないほど忙殺されていてね。家にもほとんど帰っていないんだ。アンジェリカの顔も、もう三日も見ていないよ。あの子は元気にしているか?」
「あ……」
 ジークは沈んだ声を落とし、表情を曇らせた。眉根を寄せて顔をそらす。
 サイファは驚いたように、目を少し大きくした。
「どうした?」
「来て、ないです、一週間……」
 ジークは訥々と答えた。
 隣のレイチェルのところへは、何度か見舞いに行っているようだった。話の内容まではわからないが、薄い壁を通して彼女の声が微かに聞こえた。たまに笑い声も混じっていた。
 そのたびに、こちらにも来てくれるのではないかと、無駄な期待をしてしまう自分がいた。病室の前の軽い足音に、痛いくらいに胸を高鳴らせていた。だが、それはいつも通り過ぎるだけで、決して扉を越えてくることはなかった。
「喧嘩でもしたのか?」
「いえ、喧嘩じゃ……なくて……」
 ジークは眉間に皺を寄せた。どう説明しようかと頭を巡らせた。
「言いたくなければ聞かないよ」
 サイファは安心させるように、柔らかく微笑みかけた。気にはなったが、無理に問いつめるのも不憫だと思った。何か言いにくい事情があるのだろう。ぽん、と彼の肩に手を置く。
 ジークは彼を見上げた。その手から温もりが沁みてきた。不意に胸が締めつけられ、泣きたいような気持ちになった。
「俺……ダメです……ひとりでバカみたいに焦って、勝手なことばかり言って、自分の気持ちを押しつけて……」
「プロポーズでもしたのかい」
 サイファは笑いながら言った。重い空気を払拭しようと、軽くからかってみたつもりだった。
 しかし、ジークの反応は予想外のものだった。
「どうしてわかったんですか?」
 目を見開き、きょとんとして尋ね返す。それは、肯定の返事でもあった。
 今度はサイファの方が驚いた。
「本当なのか?」
 ジークがこんな嘘や冗談を言う人間でないことはわかっているはずだった。それでも、確認せずにはいられなかった。それほど動揺したのだろう。彼がこのために頑張ってきたということは理解していたが、アンジェリカはまだ13歳である。いきなりそうくるとは思わなかった。
 ジークは視線を落とし、自嘲の笑みを浮かべた。
「最後まで聞いてもらえませんでしたけど……」
「そうか……」
 サイファは大きく息をついた。アンジェリカの考えはおおよそ理解できた。彼女はこの事件に責任を感じている。自分だけ幸せにはなれないと思ったのだろう。昨日の今日では無理からぬことだ。
 だが、ジークの気持ちもわからないではなかった。
「焦るのは仕方ないよ。殺されかけたうえに、あんな話まで聞かされたんだからな。すべて私のせいだ、すまなかった」
「違います。俺が悪いんです。俺が、アンジェリカの気持ちをわかってやれなかったから……。それどころか、ぜんぶ終わったと思って、ひとり浮かれてた……最低だ……」
 ジークは苦しげに胸の内を吐き出した。少し涙目になっていた。それを隠すように、顔をそむける。そして、小さくすすり上げると、弱々しい声で続けた。
「きっとアンジェリカには、俺なんかより、サイファさんの方が……」
 サイファは大きく目を見開いた。そして、少し呆れたように言う。
「まだあの話を気にしているのか」
 あの話とは、サイファがアンジェリカの夫になるという話である。彼自身が望んだことではない。ラグランジェ家の存続と繁栄のために、長老会が決定したことだった。ルーファス亡き今、その話も白紙に戻った。いや、戻したのだ。ジークにはまだ伝えていなかったが、ラグランジェ家どうしでの婚姻しか認めないという規則も撤廃していくつもりだった。
 ジークは顔をそむけたまま、拗ねたように口をとがらせた。
「そういうわけじゃ……ただ、サイファさんの方がアンジェリカを幸せにできるんじゃないかって思っただけです」
「幸せにするよ」
 サイファはさらりと言った。息を呑んで振り返ったジークを、真顔で見つめて付言する。
「ただし、父親としてね」
「あ……」
 ジークの口から、はっとしたような安堵したような声が漏れた。
 サイファは真剣な表情のまま、厳しい口調で問いかける。
「君はあきらめるのか? どれだけ忠告しても引かなかったあの気概はどこへ行ったんだ」
「すみません……」
 ジークは目を伏せ、消え入りそうに謝った。
 サイファは小さくため息をついた。彼を奮起させようとしたが、失敗に終わってしまった。方法を誤ったのかもしれない。彼には時間が必要なのだろう。もうしばらくは、そっとしておくことにした。
「アンジェリカに伝えることはあるか?」
「……わかりません」
 ジークはゆっくりと首を横に振った。伝えたい気持ちは山ほどあるが、自分には何も言う資格はないような気がした。何を言っても説得力がないように思えた。
「伝言役はいつでも務めるよ。ゆっくり頭の中を整理するといい」
 サイファは優しく言った。
 ジークは胸が熱くなった。彼の穏やかな微笑みを見上げながら、わずかにこくりと頷いた。
「さあ、本題に入ろうか」
 サイファは体を起こして背筋を伸ばし、気持ちを切り替えるように声を張った。
「本題?」
 ジークは何気なく聞き返した。
 サイファはズボンのポケットから手帳を取り出しながら答えた。
「そう、今日は君の卒業論文について聞きにきたんだ。テーマは決めたか?」
「あ、いえ……」
 ジークは沈んだ声で返事をした。右手は完治までに二ヶ月ほどかかると聞いている。脚の方は、リハビリもあるため、もう少しかかるらしい。論文の締切がいつなのか詳しくは知らないが、確か三ヶ月後くらいのはずだ。とても間に合うとは思えなかった。
「私の予定もあるから、早めに取り掛かってもらわないとな」
 サイファは手帳に目を落としつつ、ページを繰りながら淡々と言う。
「サイファさんの予定……?」
「なんだ、ラウルに聞いてないのか?」
 本気でわかってなさそうなジークの顔を見て、サイファは少し驚いたように言った。
「私が君の論文の手伝いをするんだよ。今の君の状態では、文献を探しにいくどころか、読むこともままならないだろう。念のため、ラウルには代筆の許可ももらってある」
「え、でも……」
「もちろん、内容を考えるのは君だよ。私は君の手足になるだけだ」
「そ、そこまで迷惑は掛けられません!」
 ジークはあわてて断った。手足と聞いてたじろいだ。相手はラグランジェ家当主であり、魔導省副長官である。そんな人を手足として使うなど、一介の学生にすぎない自分には出来ない。とんでもないことだ。
 そんなジークの様子を見て、サイファは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「君をこんな状態にしたのは誰だったかな?」
「それは……」
 ジークは言葉に詰まった。難しい顔で考え込む。眉間には皺が刻まれていた。
 サイファは、そんな彼を後押しするように畳み掛ける。
「君には卒業してもらわないと困るんだ。魔導省の内定のことを忘れたわけではないだろう?」
「でも……」
「互いのためだよ。遠慮など不要だ」
「そう、ですね」
 ジークも卒業したくないわけではない。いや、卒業できなければ、彼自身も困ってしまうだろう。だからといって、リックに頼むのも気が引ける。彼にもジークと同じように卒業論文があるからだ。こうなったら、腹を括ってサイファの申し出を受けるしかない。
「よろしくお願いします」
 ジークはやや気後れしながら言った。その声には、まだ少しの迷いが含まれていた。
 サイファはにっこりと微笑みを返した。

 ——コンコン。
 不意に扉がノックされた。
 母親ではないだろう。彼女ならノックなどせずに飛び込んでくるからだ。この時間だとアカデミーに行っているはずのリックでもない。当然、アンジェリカであるはずはない。
「はい」
 誰だろうと思いながら、ジークは返事をした。
 それを待っていたように、静かに扉が引き開けられる。そこから姿を現したのは、レイチェルだった。寝衣ではなく、きっちりとドレスを着込んでいる。可憐な微笑みをたたえながら、軽く頭を下げた。
「早かったね」
 サイファは椅子から立ち上がり、彼女へと足を進めた。細い髪を指で梳くように撫でる。
「もう準備はできたのかい?」
「ええ、荷物は部屋の前にまとめてあるわ」
 レイチェルは彼を見上げ、にっこりと返事をした。そして、少し真面目な顔になると、サイファの手から離れ、ジークに向き直った。ゆっくりと一歩前に歩み出る。
「ジークさん、私、今日で退院することになりました」
「良かったですね」
 ジークは微かに表情を緩めて答えた。サイファとの会話から、退院することは察しがついていた。彼女は怪我をしているわけではなく、魔導力の消耗による衰弱だけだった。回復までにそう時間がかかるものではない。
 ただ、精神的に大きなショックを受け、寝込んでいると聞いていた。自分の魔導力により、あんな事故が起こってしまったのだ。そのせいで父親まで亡くなっているのだ。無理もないだろう。だが、先ほどの彼女の様子を見る限り、少なくとも表面上は元気を取り戻したようだ。
「いろいろと、申しわけありませんでした」
 レイチェルはきゅっと表情を引き締めると、厳粛な声で謝罪の言葉を口にした。
「ジークさんには随分とご迷惑をお掛けしました。……お聞きになったのですよね?」
「……はい」
 ジークにはそれだけしか言えなかった。複雑な表情で目を伏せる。
「言い訳はしません。すべて私の行動が起こした結果です。本当に申しわけありませんでした」
 レイチェルは真摯にそう言うと、深々と頭を下げた。長い髪がさらさらと肩から滑り落ちていく。
「俺は……」
 ジークは低い声でためらいがちに切り出すと、顔をそむけ、視線を窓の外に流した。軽く息を吸い、ゆっくりと言葉を繋げていく。
「俺は、アンジェリカに会えたから、だから……」
 そこまで言うのが精一杯だった。それ以上は声にできそうもなかった。言おうとしていることは嘘ではない。だが、心の中にさまざまな葛藤があった。サイファへの遠慮もあった。口を結び、眉間に力を入れる。
「良かった……」
 背後からの吐息まじりの声。ジークは驚いて振り向く。
「良かった、あの子のことを否定しないでくれて」
 レイチェルは微笑んで言った。儚い微笑みだった。だが、声には安堵したような響きがあった。
「それだけが心配だったから……ありがとうございます」
 彼女は胸に手をあて、もういちど頭を下げた。
 ジークは何か言わなければと思いつつ、言葉が出てこなかった。もどかしさに眉をしかめる。顔を上げた彼女と目が合うと、ぎこちない微笑みを見せた。

「レイチェル、そろそろ行こうか」
 壁に寄りかかっていたサイファが、タイミングを見計らって口を開いた。後ろから彼女の腰に手をまわすと、寄り添いながら病室を出て行った。戸口でちらりとジークに視線を流し、軽く手を挙げる。そして、後ろ手でそっと扉を閉めた。
 ジークは小さく息をついた。少し疲れてしまったようだ。目を細め、象牙色の天井を見つめる。
 そのとき、ふいに、扉の向こうの会話が耳に入った。
「家まで歩ける?」
「ええ」
「じゃあ、一緒に歩いて帰ろうか」
「お仕事はいいの?」
「少しくらい抜けても平気だよ」
「また部下の子に怒られるわよ」
 くすくすと笑い声が混じる。
 それは、本当に仲の良さを感じさせるものだった。穏やかであたたかい空気が流れている。おそらくさまざまなことを乗り越えてきたのだろう。そのうえに彼らの今があるのだ。
 自分は……自分たちは、この状況を乗り越えられるのだろうか——。
 ジークはガラス越しの空を見上げて、深くため息をついた。わずかに覗いていた太陽は、いつのまにか再び厚い雲に隠されていた。

 リックたち最終学年生にとっては、今日がアカデミー最後の授業だった。これからは授業はなく、各自卒業論文に取りかかることになっている。
「アンジェリカ、これからジークのお見舞いに行くんだけど、一緒に行かない?」
 リックはアンジェリカの席に歩み寄り、覗き込むようにして声を掛けた。
 彼女は帰り支度の手を止めると、にっこりと笑顔を作って彼を見上げた。
「ごめんなさい。今日は行くところがあるから」
「今日はじゃなくて、今日もでしょう?」
 リックの反対側から聞こえた、不機嫌そうな女性の声。それは、セリカのものだった。彼女はリックとともにジークの見舞いに行くことが多い。今日もそのために来ているのだろう。
「ええ、そうね」
 アンジェリカは彼女に振り向くこともなく、素っ気なく答えた。まともに相手をするつもりはなさそうだった。
 セリカはムッとして何かを言い返そうとしたが、リックが無言でそれを制した。そして、アンジェリカに向き直り、穏やかに尋ね掛ける。
「ジークのお見舞い、行ってる?」
 もしかしたら、彼女は自分たちと一緒に行くより、ひとりで行きたいと思ってるのかもしれない。ひとりで行っているのなら、それはそれでいい。そうであってほしい——その期待を込めての質問だった。
 だが、アンジェリカの返答は、期待とは逆のものだった。口を閉ざしたまま、首を横に振った。
 それを見て、セリカは逆上した。
「どういうつもりなの? 何があったか知らないけど、あんまりじゃない?」
「セリカ、僕らが口を出すことじゃないよ」
 リックは落ち着いた口調でたしなめた。
 だが、セリカの気持ちはおさまらなかった。かえって昂っていった。
「だって、こんなのひどすぎるわ!ジークはずっとずっと頑張ってきた。すごく頑張ってきた。全部あなたのためなのよ? あなたのために、あんな大怪我まで負ったのよ? 下手すれば死んでた。しかも、それをやったのはあなたの父親っていうじゃない。少しは申しわけないと思わないの?! 自分が自由になったら、ジークはもう用なし?! 利用してただけ?!」
 激情に突き動かされるままに、一気に捲し立てて非難した。
 アンジェリカはずっと無表情でそれを聞いていた。セリカが言い終わると、鞄を閉め、椅子から立ち上がった。うつむいたまま机に手をつき、ぽつりと言葉を落とす。
「わかっているわ。私がひどい人間だってことくらい」
「どうして反論しないの?!」
「そのとおりだからよ」
「ちゃんとこっちを見て言って!」
 セリカはアンジェリカの華奢な肩を引いた。
 だが、アンジェリカは振り向かず、その手を払いのけた。そして、鞄を手にとると、自分からセリカに向かい合った。真剣な表情で、背の高い彼女を見上げる。
「私は、もうジークに会うつもりはない」
 きっぱりとした口調だった。迷いなど感じられなかった。
 セリカは小さなアンジェリカに圧倒された。彼女を説得することは不可能に思えた。何を言っても自分の意志を曲げることはないだろう。彼女の強情さは以前から知っている。おそらく、自分にはどうすることもできない。だったら、せめて——。
「……理由くらい聞かせて」
 かぼそい声だった。瞳も悲しげに揺らいでいる。
 だが、アンジェリカの漆黒の瞳は、強い光をたたえていた。まっすぐにセリカを見つめて言う。
「私がそう決めたからよ」
「理由になってない!」
 セリカは泣きそうになりながら叫んだ。
 それでも、アンジェリカの心が揺さぶられることはなかった。
「何とでも言えばいい。気の済むまで罵倒すればいい」
 そう言って、セリカの横をすり抜け、教室から出ていこうとした。
「アンジェリカ!」
 リックの呼び声に、アンジェリカの足が止まった。ほとんど無意識だった。条件反射のようなものだったかもしれない。
「ジークは、きっと、いつまでも待ってるよ」
 背後から聞こえたその声は、とても優しかったが、どこか寂しげだった。
 アンジェリカは胸がズキリと痛んだ。顎を引き、ぎゅっと目をつぶる。そして、その痛みを振り払うかのように駆け出すと、教室から走り去っていった。

 小さくなる彼女の足音を聞きながら、セリカは額を押さえてうなだれた。
「私、随分ひどいこと言っちゃった」
「そうだね、ちょっとひどかったね」
 リックは微笑みながら応じた。小さく肩をすくめて見せる。
 セリカはうつむいたまま、顔中に後悔を広げた。
「あそこまで言うつもりじゃなかったのに、止まらなくなっちゃって……」
 そこで言葉を詰まらせると、泣きそうに瞳を潤ませた。それでも、涙を零さないよう精一杯こらえた。自分は泣く立場にはない。
「多分、アンジェリカも苦しんでるんだと思うよ」
 リックは冷静に言った。
 セリカは神妙にこくりと頷いた。彼女もアンジェリカの言葉がそのまま本心だとは思っていない。きっと何か理由があるはずだ。目尻を拭い、顔を上げる。
「私たちに何か出来ることはないの?」
「うーん、難しいね……」
 リックは腕を組み、首を傾げて考え込んだ。
「ずっとふたりと友達でいること、くらいかな?」
 そう言って、にっこりと微笑みかける。
「……ええ、そうよね」
 セリカはうつむいて、わずかに表情を緩めた。きっと、自分たちに出来ることはそのくらいしかない。しかし、それはとても大切なこと——。
「行こうか、お見舞い」
「ええ」
 リックは包み込むように彼女の手をとると、病院に向かって歩き出した。

 ——コンコン。
 アンジェリカは緊張した面持ちで、医務室の扉をノックした。
「開いている」
 すぐに、中から声が聞こえた。
 アンジェリカはぐっと表情を引き締めた。そっと引き戸を開け、中へ入る。
「何の用だ」
 机に向かっていたラウルは、冷たく彼女を一瞥して言った。
「聞きたいことがあるの」
「何だ」
 アンジェリカはきゅっと口を結び、彼の横顔を見つめた。そして、小さく息を吸い、意を決したように口を開く。
「私の髪と瞳が黒い理由。知っているんでしょう?」
「知らんな」
 ラウルの返答は少しのためらいもなかった。そして、取りつく島もないくらいに素っ気ないものだった。
 だが、アンジェリカは挫けなかった。そのくらいのことは想定済みである。すぐに答えてもらえるなどとは、初めから思っていない。今日は粘れるだけ粘るつもりで来たのだ。
「これが事件の始まりなんでしょう? お父さんは隠しているけど、そのくらいわかるわ」
「ならば、サイファに聞け」
「お父さんは無理よ……ラウルなら嘘をつかないと思ったから」
「知らんと言っている。それを信じたらいいだろう」
 ラウルは振り向くこともなく淡々と答えた。机に向かったまま、ペンを持つ手を動かし続けている。
 アンジェリカはじっと彼を見据えた。
「ラウルは医者だから知っているはずだわ。いえ、きっとラウルが突き止めたんだわ。私がまだ赤ん坊だった頃に」
 ラウルは一瞬、手を止めた。だが、すぐに筆記を再開する。
 アンジェリカはうつむき、胸元をぐっと押さえた。
「私、遺伝子の異常なの? 長くは生きられないの?」
 落ち着いた静かな声。だが、その中に微かな震えがあった。
 再び、ラウルの手が止まった。今度は一瞬ではなかった。カタンとペンを置き、椅子をまわして彼女に向かい合った。その不安そうな顔を、険しい表情で見つめる。
「誰がそんなことを言った」
「そうとしか思えないもの。呪われているなんて非科学的なことを除外すれば、これくらいしか思い当たることがない。ひいおじいさまが事を急いたのは、私の先が短いことを知ったからよ。私が死んでしまう前に、私の魔導力を子孫に受け継がせたかったんだわ。お父さんとお母さんが、私の婚約者を決めなかったのも、私をこんなに自由にさせてくれているのも、きっと長く生きられないことを知っていたからね」
 アンジェリカはほとんど確信しているような口調で言った。そして、心の中で付け加える。
 ——ジークだって、あんなに急いでいたし。
 まだ13歳の自分にあんなことを言うのは、きっと、自分の先が短いことを知ったからに違いない。そう考えれば辻褄が合う。
 ジークの気持ちは嬉しかった。しかし、自分だけ幸せになることなど許されない。自分の存在が、多くの人を不幸にしてきたのである。そして、ジークさえも不幸にしてしまう。一緒にいられる時間は長くないのだろう。だったら、もう会わない方がいい。
「何を勝手な推測ばかりしている」
 ラウルは眉をしかめて言った。
「私は本当のことが知りたいの。ユールベルのときみたいに、私だけ何も知らないなんて、そんなの許されないわ。もう小さな子供じゃない。私のせいで起こったことなら、その原因を知らなければならないのよ」
 アンジェリカは一歩踏み出し、胸に手をあて、必死に訴えかけた。まっすぐ彼を見つめ続ける。
 だが、不意にその瞳が揺らいだ。
 きっと、生まれてしまったことが罪——。
 優しい両親は、それが事実であっても、絶対にそうは言わないだろう。だから、自分も絶対に口には出さないと決めた。だが、こんな子だと知っていれば、生まなかったに違いない。そのことを思うと、胸が押しつぶされそうになる。
 ラウルは腕を組み、ため息をついた。
「おまえの言っていることが的外れだということだけは、はっきりと言える」
「的外れ……ってことは、本当のことを知っているのね?!」
 アンジェリカは目を見開いて身を乗り出した。
「そうではない。おまえの遺伝子に異常などない、それがわかっているというだけだ」
 ラウルは面倒くさそうに答えた。くるりと椅子をまわし、机に向かう。
 だが、アンジェリカはその答えに納得しなかった。両手を祈るように組み合わせ、ラウルの横顔に懇願する。
「お願い、ラウル。私、聞いたことは誰にも言わない。もちろん、お父さんにもお母さんにも。自分の胸だけに留めておくわ。だから……」
「知らんと言っている。信じるも信じないもおまえの勝手だ。これ以上おまえに言うことはない」
 ラウルは、鞄に書類を投げ込みながら、苛ついた口調で突き放した。
 アンジェリカは暗く表情を沈ませた。眉根を寄せながら目を伏せる。こうなってしまっては、もう何を聞いても答えてはくれないだろう。これが、最後の望みだったのに——。
「もう出ろ。私はこれから往診に行く」
「往診? もしかして、あの事件の……?」
「そうだ」
 ラウルは鞄の口を閉めて立ち上がった。
 アンジェリカははっとして、彼の袖を掴んだ。思いつめたような表情で見上げる。
「私も連れていって、手伝わせて!」
「断る。とっとと帰れ」
 ラウルは冷たく言い捨てた。鞄を取り、医務室を出ようとする。
 だが、アンジェリカは手を離さなかった。袖を掴んだまま、彼を見上げ、懸命に訴えかける。
「私のせいなのよ? 何か出来ることがあれば、少しでも償えるなら……」
「おまえに責任などひとつもない」
「私の存在のせいで起こったのは事実でしょう?」
 ラウルは迫力のある眼差しで、ギロリと睨み下ろした。
「迷惑だ、帰れ」
 凄みをきかせた低音で唸るように言う。
「これは人の命を預かる仕事だ。思いつきの自己満足などに付き合ってられん」
 それは、反論しようのない正論だった。アンジェリカの表情が翳った。
「確かに思いつきだし、自己満足かもしれない……」
 そう言いよどみながら、ゆっくりと視線を落とした。黒い髪がはらりと頬にかかり、横髪が表情を隠していく。
「……でも!」
 体の奥から絞り出したような声。
 彼女は勢いよく顔を上げた。そこにあったのは、迷いを払拭した真摯な双眸だった。
「私、一生懸命に、真剣にやるわ。半端な気持ちなんかじゃない」
 ひたむきに力説しながら、袖を掴む手に力を込めた。白い布に深い皺が刻まれる。
 だが、ラウルは表情を凍らせたまま、ますます冷酷に拒絶する。
「医学の知識どころか、用具や薬品の名前すらわからない素人など役に立たん。足手まといだ」
「勉強するわ! 役に立てるよう努力するから」
 アンジェリカはしつこく食い下がった。口をきゅっと結び、大きな瞳で訴えかける。
 ラウルは眉をしかめた。彼女は何を言っても引き下がる気配がない。こうなったら行動で示すしかないだろう。この小さな手を振り払って、完全に無視をしてしまえば——。
 だが、体が動かなかった。なぜか実行することが出来なかった。いや、「なぜか」ではない。その理由は自分でもわかっていた。深くため息をつく。
「……明日からだ。今日は帰って勉強しろ」
 疲れたようにそう言うと、本棚に手を伸ばして一冊の本を取り、アンジェリカに投げるように渡した。それは、看護技術の本だった。
「最低限のことは覚えてこい。使えないとわかれば、いつでも切る。いいな」
「わかったわ」
 アンジェリカはその本をぎゅっと抱えた。そして、時間が惜しいとばかりに、急いで戸口に向かった。そこでくるりと振り返ると、真剣な表情でラウルを見つめた。口元にわずかな笑みをのせる。
「ありがとう、ラウル。チャンスをくれて」
 そう言うと、スカートをひらめかせながら、駆け足で医務室を出ていった。
 ——今は、自分の出来ることをするだけ。
 本当のことは聞けなかったが、果たすべき務めが見つかった。ラウルの言うように、自己満足なのかもしれない。自責の念から逃れるための行動なのかもしれない。それでも、少しでも役に立てるのならば、行動を起こす価値はあるはず——彼女はそう信じていた。
 アカデミーの外に出ても、足を止めることなく走り続けていく。頬を打つ風はまだ冷たかったが、今の彼女には心地よいくらいだった。


91. 自分の足で

「やあ、ラウル」
 サイファは軽く手を挙げながら、ラウルの医務室へ足を踏み入れた。ニコニコと人なつこい笑顔を浮かべている。
 机に向かっていたラウルは、それを一瞥すると、ムッとした表情を見せた。サイファを目にしたときのいつもの反応である。そして、関心がないと云わんばかりに、すぐに手元に視線を戻すと、再びペンを動かし始めた。
「何の用だ」
「ジークの卒業論文を持ってきたよ。提出はおまえのところでいいんだろう?」
 サイファは右脇に携えていた水色のファイルを、表紙を見せるように掲げた。それを机の隅にそっと置く。
 ラウルはその表紙にちらりと目を走らせた。
「ずいぶん早いな。締め切りまでまだ一ヶ月ある」
「頑張ったからね。ジークも私も」
 サイファは腰に手をあて、満足そうに言った。まるで褒められたがっている子供のようだった。もちろん、目の前の先生がそう簡単に優しい言葉を掛けてくれないことは、とてもよく知っている。
 案の定、ラウルは何も言わなかった。無表情でファイルを手に取ると、中央あたりを開いた。目だけを左右に動かし、文字を追っていく。
「なかなか新鮮な体験だったよ。論文など書いたことがなかったからな」
 サイファはそう言いながら、ベッドの端に腰を下ろした。布団に倒れ込みたがっている体を両手で支えると、焦茶色の長髪がかかる広い背中に視線を流す。
 ラウルは何の反応も示さなかった。口を閉ざしたまま論文を読み続ける。
 だが、不意に眉を寄せた。
 パタンとファイルを閉じると、椅子をくるりとまわし、正面からサイファを睨みつけた。
「これはおまえが書いたものだろう」
 手にしていたファイルを掲げ、その表紙をパンと軽く叩いた。
「代筆は認めると言っただろう?」
 サイファは体を起こし、不思議そうに言った。
 ラウルは、彼がとぼけているのだと思った。苛立ちながら言い返す。
「そうではない。この文章はおまえのものだ。ジークの文章はもっと垢抜けない」
 サイファはそれを聞いて、ようやくラウルの言わんとすることがわかった。ふっと笑みを漏らす。そして、ゆっくりと目線を上げると、凛と表情を引き締めた。鮮やかな青い瞳は、まっすぐにラウルの眼差しを捉えている。
「内容については、いっさい口出ししていない。すべてジークが考えたものだ。私は彼の言ったとおり文字を書いたにすぎない」
 彼の言葉には、少しの迷いも揺らぎも窺えない。真剣そのものだった。
 だが、次の瞬間には、一転してカラリとした笑顔を見せた。
「まあ、文章の書き方については、多少アドバイスしたけどね」
 先ほどとはまるで違う、きわめて軽い調子で言い足した。
 ラウルは眉をひそめた。無言で彼を睨みつける。おそらく「多少」ではなく「相当」口を挟んだはずだ。そうでなければ、ここまで急激に文体が変わるはずがない。
「いいだろう? そのくらい」
 サイファはまったく悪びれることなく了解を求めた。
「……まあいいだろう」
 ラウルはため息まじりに言い、ファイルを机の上に置いた。いくらサイファが責任を感じているからといって、ジークの代わりにすべてを引き受けたとは考えにくい。たとえサイファが申し出ても、ジークがそれを許さないはずだ。おそらく、サイファの言うように、文章を書く上でのアドバイスを行っただけなのだろう。サイファには腹が立っていたが、冷静に考えれば許容範囲内である。
「これでひとつ肩の荷がおりたよ」
 サイファは両手を上げて伸びをしながら、そのまま仰向けに倒れ込んだ。パイプベッドが軋み、白いシーツに緩やかな皺が走る。
「二日ほど徹夜でね。そろそろ限界だ。しばらく休ませてくれ」
 そう言うと、寝転んだまま濃青色の上着を脱ぎ始めた。
 ラウルは眉根を寄せ、睨みつける。
「これは病人のためのベッドだ」
「一眠りして病気を未然に防ぐんだよ」
 サイファは涼しい顔で屁理屈を捏ねた。脱いだ上着を隣のベッドに放り出し、革靴を脱ぐと、布団に入って横になった。
「一時間後に起こしてくれ」
「ふざけるな。魔導省の仮眠室へでも行け」
 ラウルは机を叩き付けるようにして立ち上がった。
 だが、サイファの返事はなかった。すでに目は閉じられている。冗談ではなく、本当にここで眠るつもりのようだった。
 ラウルはため息をついた。レイチェル同様、サイファも言い出したら聞かない性格だ。これ以上の応酬も面倒なだけである。もう諦めることにした。ベッドのまわりにクリーム色のカーテンを引き、脱ぎ捨てられた上着をハンガーに掛ける。
「悪いな」
 カーテンの向こうから声が聞こえた。その声はいつもの明瞭さを欠いており、彼が眠りに落ちかけていることを感じさせるものだった。

「ええっ? 卒論、もう出来たの?!」
 リックの素っ頓狂な声が、病室を突き抜けた。間違いなく廊下まで響いただろう。
「声、大きすぎよ」
 隣のセリカが、片眉をひそめながらたしなめた。立てた人差し指を、唇に当てて見せる。
 リックは肩をすくめ、申しわけなさそうに笑った。
「それで、提出はしたの?」
「ああ、ついさっきサイファさんが持っていったところだ」
 ジークは淡々と答えた。パイプベッドの上で、無造作に脚を投げ出して座っている。
 すでに、骨折は治癒していた。だが、入院生活は続いている。リハビリのためだ。右腕のギプスはきのう外されたばかりで、まだしっかりと字は書けない。両足も簡単なリハビリを始めたところで、歩行訓練はこれからである。
「すごいね、きっと一番乗りだよ」
 リックは両手を握りしめ、興奮ぎみに言った。自分のことのように喜んでいる。
 だが、当の本人は醒めたままだった。
「まあ、他にやることなかったしな」
 斜め下に視線を落とし、素っ気なく言う。
「それに、サイファさんの都合もあったんだ。明日からあんまり時間がとれなくなるみたいで、できれば今日までに仕上げたいって急がされたんだよ」
「サイファさんも大変そうだよね」
 リックは微笑んだ。詳しいことを知っているわけではなかったが、ラグランジェ家当主として、魔導省副長官として、また個人としても、他にやらなければならないことがたくさんあるだろうことは想像がついた。
 ジークは真面目な顔で頷いた。
「あの人はホントすげぇよ。忙しいはずなのに、申しわけないくらい、いろいろやってくれるんだ。それも、何もかも早くて的確だしな。曖昧な頼み方をしても、ドンピシャのいい文献を持ってきてくれるし、文章についてのアドバイスまでしてくれたし、清書するのもめちゃくちゃ早かったし……仕事もしてるのに、そんな時間どこにあるのか不思議なんだよな。もしかしたら、あんまり寝てねぇのかも」
「ジークにしたことを思えば、そのくらい当然だわ」
 セリカは腕を組み、刺々しく言った。
 ジークはうんざりして顔をしかめた。
「いつまで根に持ってんだよ。だいたいおまえには関係ねぇだろ」
「ジークが根に持たなさすぎるのよ。自分を殺そうとした人を褒めてどうするわけ?」
「うっせぇな。俺が納得してんだからいいんだよ」
 面倒くさそうに言い捨てる。
 セリカはため息をついた。彼の思考がさっぱりわからなかった。好きな人の父親とは仲良くしておいた方がいいとか、そういう打算ならまだ理解できる。だが、ジークの場合は違う。間違いなく本気で尊敬している。いったいどこまでお人好しなのだろうか。無性に腹立たしくなってくる。
 リックはそんな彼女をなだめるように、背中に優しく手を置いた。
「セリカ、ジークがいいっていうんだからさ」
 彼女はじとりとリックを睨んだ。彼までジークやサイファの味方をしたことが面白くなかった。
「人のこと気にかけてる場合? あなたの卒論はどうなのよ。手伝ってくれる人はいないわよ。私だって手伝ってあげないんだから」
 ツンとして口をとがらせる。ほとんど八つ当たりである。
 だが、リックは笑顔でそれを受け止めた。柔らかい口調で答える。
「大丈夫だよ。締切までには間に合う予定」
「あいつは……ちゃんとやってんのかな」
 ふいに、ジークがつぶやいた。
「ラウルの手伝いで手一杯なんてことはねぇのかな」
 片膝を立て、その上で頬杖をつくと、ぼんやりと窓の外に視線を流す。青い空に、筋状の白い雲がゆっくりと流れている。
 アンジェリカがラウルの手伝いをしていることは、サイファから聞いていた。おそらく例の事故に責任を感じてのことだろう。どんな思いでそれを申し出たのか、どんな思いで往診にまわっているのか、想像すると胸が痛い。
「それは大丈夫だよ。もうすぐ提出できるって言ってた。ラウルの手伝いも、今は週に二回くらいみたいだし」
 リックは努めて明るく言った。
「そうか」
 ジークは小さく安堵の息をつき、表情を緩めた。
 だが、今度はセリカが顔を曇らせた。
「まだ、一度も来てないのね、アンジェリカ」
「来ないって言ったら来ねぇだろ、あいつは」
 ジークはあきらめたような口調で言った。
 セリカには、それがかえって痛々しく感じられた。その気持ちを押し隠し、おどけたように肩をすくめる。
「ホント強情よね。アンジェリカだってジークに会いたいはずなのに」
「さぁ、どうだろうな……そうでもねぇのかもな……」
 ジークはうつむき、寂しげに自嘲の笑みを浮かべた。
 思い返してみれば、いつも自分が勝手に盛り上がっているだけで、アンジェリカはいつも冷静だった。自分にもリックにも、同じように接していた。そして、本人の口から何を聞いたわけでもない。考えれば考えるほど自信がなくなってきた。自分が滑稽に思えてきた。
「大丈夫だよ、信じようよ」
「そうよ、弱気になるなんてジークらしくないわ」
 ふたりは口々に励ました。何の解決にもならない言葉だったが、その気持ちが嬉しかった。
「ああ、そうだな」
 そう答えて、微かな笑顔を見せた。それが、今の彼にできる精一杯の感謝の表現だった。

「一時間、過ぎたぞ」
 ラウルは椅子から立ち上がり、ベッドの方へ歩いていった。薄いクリーム色のカーテンを開く。シャッと軽い音が医務室に響いた。
 サイファは無言で体を起こした。まだ眠そうだ。ぼんやりした表情で腕時計を見る。
「ちょうど一時間だ」
「おまえが一時間で起こせと言った」
「律儀だな」
 笑いを含んだ声で言う。
 ラウルは気色ばんだ。カーテンレールに掛けてあった上着を、ハンガーごと投げつける。
「さっさと仕事に行け」
「その前に、ジークのところへ卒論提出の報告に行ってくるかな」
 サイファは靴を履き、上着を抱えてベッドから立ち上がった。
 ラウルは腕を組み、睨むように彼を見た。
「おまえ、ジークにばかり構っていていいのか」
「それは嫉妬か?」
 サイファは顔を上げ、からかうような挑戦的な笑みを向ける。
 ラウルは眉をしかめ、不快感をあらわにした。苛つきながら口を開く。
「自分の娘のことも気にかけろということだ」
 予想外の言葉に、サイファは驚いて目を見張った。
「めずらしいな、おまえがそんなことを言うなんて」
 上着をばさりと強く振ってから、マントのように背中にまわし、腕を伸ばして袖を通す。
「そういえば、今、おまえの手伝いをやってるんだってな。半端なことはしない子だ。役に立っているだろう?」
「元々ひとりでまわるつもりだった。いなくても困りはしない」
 ラウルは愛想なく答えた。
 サイファはくすりと笑った。素直に答えていないが、否定もしていない。遠まわしに認めているようなものだった。追及して困らせようかとも思ったが、とりあえず今はやめておいた。これ以上、本題から逸れるのは本意ではない。
「アンジェリカのことは、もちろん気にかけているよ。あの事件に責任を感じていることも知っている。だが、あの子はそれを乗り越えようとしているだろう? 自分の意思で、自分の足で立って前に進んでいる。だから、余計なことはせず、見守っているんだよ」
「責任を感じているだけならいいがな」
 何か含みのある言い方だった。
 サイファは手を止めた。合わせようとしていた上着の前がはらりと開く。
「どういう意味だ?」
 だが、ラウルは答えを返さなかった。腕を組んだまま、眉ひとつ動かさない。
「知ってることがあるなら言えよ」
 サイファは険しい表情で詰め寄った。青く燃えるような瞳で、鋭く睨めつける。だが、その奥には不安の影が揺らいでいた。
 ラウルはじっと探るように見つめ返した。
「アンジェリカが言っていたことだが」
 そう前置きをして、静かに話し始める。
 それは、以前アンジェリカがラウルを問いつめたときに語ったものだった。自分は遺伝子の異常を抱えていて、そのせいで髪や瞳の色が黒いのだと。そして、長くは生きられないのだと——。彼女が口にした言葉を、ラウルは漏らさず伝えていく。
 サイファは黙って聞いていた。腕を組み、眉根を寄せる。そして、話が終わると、小さくため息をついた。
「そんなことを考えていたのか……」
 困惑と苦渋を滲ませながら、独り言のようにつぶやく。
「突拍子もないが、筋は通っているな」
 破綻している論理なら簡単に崩せるが、一応、矛盾なく組み立てられているのが厄介だ。しかも、ラウルの口ぶりだと、そうとう強く思い込んでいるらしい。生半可に対峙したのでは、こちらが玉砕しかねない。
 組んだ腕をほどき、両手を腰に置くと、ラウルを見上げて尋ねる。
「それで、おまえはどう対応したんだ?」
「知らんと突っぱねた」
 ラウルは無表情で簡潔に答えた。
 サイファは薄く笑った。
「まあ、そうするしかないよな。それが正解だよ。おまえの下手な嘘では、必ず綻びが出るからな」
「ならば、おまえが上手い嘘をついて何とかしろ」
「難題だね。でも、あんな思い違いをさせたまま、放ってはおけないよな」
 真面目な顔でそう言いながら、手早く上着の前を閉め、詰襟のフックを掛けた。前髪をさらりと掻き揚げる。
「何かいい策がないか考えてみるよ。おまえは知らん振りを通せ」
「言われなくてもそうする」
 ラウルはムッとして言った。
 サイファはふっと表情を緩めると、手を振りながら医務室を出て行った。

 翌日——。
 その日はラウルの往診の日だった。
 本来、ラウルの仕事は医務室での診察のみである。だが、サイファの依頼により、例の事件の被害者を往診することになった。基本的には、入院するほどではない者、退院したが全快していない者をまわる。一回の巡回につき、二、三箇所ほどだ。初めの頃はほぼ毎日まわっていたが、順調に回復した者も多く、今では週に二回ほどになっていた。そろそろ週一回にしても良さそうなくらいだった。
 往診にはアンジェリカが同行した。被害者にはラグランジェの人間も多く、「呪われた子」である彼女には、嫌悪の眼差しを向けられることが度々あった。また、ラグランジェ以外の人間からも、別の理由で嫌悪されることが何度もあった。爆発事故の原因については、魔導の実験中の過失ということになっていたが、それを起こしたのがラグランジェ家であることは本家も認めており、公式発表もされている。被害者の前に姿を現せば、怒りをぶつけられるのは当然のことといえる。
 彼女はどんな目で見られても、どんな罵声を浴びせられても、ただひたすら耐えていた。事件のことを責められれば、頭を下げて謝罪した。すべては自分の責任だと思っているからだろう。そのうち耐え切れなくなり、また長い眠りに陥ってしまうのではないか——ラウルはそう危惧したが、彼女にその兆候は見られなかった。
 往診を続けるうちに変化が現れた。アンジェリカにではなく、周囲の方にである。彼女に対する態度が軟化したのだ。もちろん、そうでない者もいる。だが、半数以上は変わったといってもいい。それは、まぎれもなく彼女の真摯な態度によるものだった。

 コンコン。
 医務室の扉がノックされた。
「入れ」
 ラウルは頬杖をついたまま、無愛想に返事をした。
 ガラガラと扉が開く。
 そこから姿を現したのはアンジェリカだった。往診に同行するために来たのだ。軽い足どりで中に入っていく。
 彼女を一瞥すると、ラウルは机に手をついて立ち上がった。床に置いてあった鞄を手に取り、椅子の上に荒っぽく投げ置いた。机の上にはカルテらしき書類が広げられている。どうやらこれから準備をするようだ。
「来るの、少し早かったかしら」
「座って待っていろ」
「ええ」
 アンジェリカは、壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、行儀よく座った。両手をきちんと膝の上にのせ、背筋をピンと伸ばし、大きな瞳でラウルを見つめる。
「卒業論文は進んでいるか」
 ラウルは手を動かしたまま、唐突に尋ねた。
「もうすぐ提出できるわ」
 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。
「ジークはもう提出したのよね?」
「……誰に聞いた」
 ラウルは手を止めて彼女に振り向いた。まさか、彼女がその話題を振ってくるとは思わなかった。しかも、何の屈託もないように見える。
「リックが教えてくれたの。きのうでしょう? 一番乗り?」
「そうだ」
「すごいわね」
 アンジェリカは嬉しかった。ジークはしっかりと頑張っているのだ。両手両足が不自由な状態で、誰よりも早く仕上げるなど、並大抵のことではない。もちろん、サイファが手伝ったことは知っていたが、それでも彼の努力がなければ叶わなかっただろう。自分も負けてはいられない、頑張らなければ——心の中で決意を新たにした。
「今日はどこへ行くの?」
 機嫌よく弾んだ声に、ラウルは短い返答で応じる。
「病院だ」
「えっ?」
「ジークが今日から本格的にリハビリを始めた。その様子を聞きにいく」
 机の上に広がっていたカルテを、ファイルにまとめて鞄に入れる。
「でも、往診って、病院には行かないんじゃ……」
 アンジェリカはうろたえた。胸を押さえ、顔を曇らせる。
 ラウルは無表情のまま、じろりと冷たい目を向けた。
「何だ?」
「…………」
 アンジェリカは彼の視線から逃げるように背中を丸めた。何も答えられなかった。
「嫌なら帰れ。患者を選り好みする奴に用はない」
 ラウルは凄みのある重低音で突き放した。
 アンジェリカは顔を上げ、強気にキッと睨んだ。
「そんなこと言ってない。行くわ」
 力を込めてそう言うと、椅子から立ち上がる。そして、小さな口をきゅっと結び、まっすぐにラウルを見つめた。意志の強そうな漆黒の瞳には、小さな決意の光が宿っていた。

 リハビリ室は明るかった。大きなガラス窓から自然光を採り込む設計になっている。
 ほとんどずっと病室に縛り付けられていたジークは、その開放感に気分が高揚した。ここなら気持ちよくリハビリに打ち込めるだろうと思った。

「ジーク、調子はどうだい?」
「あ、先生」
 リハビリ室にジークの担当医が入ってきた。清潔感のある短髪に、黒のタートルネック、その上に白衣を身に着け、柔和な笑顔を浮かべている。まだ若い。20代後半くらいだろう。彼もアカデミー出身だと聞いた。そのこともあって、ジークは彼のことを良き先輩のように感じていた。
「頑張ってるね。無理してるんじゃないか?」
「大丈夫です。俺、鍛えてましたから」
 ジークは歩行訓練の足を止め、手すりにつかまったまま元気よく答えた。だが、隣の若いトレーナーは、眉をひそめて口を挟んだ。
「無理しすぎなんですよ。もう二時間ぶっ続けで、休憩さえ取ろうとしない。初日からこれじゃ、体がもちませんよ。僕の言うことは全然聞かないし……先生から何か言ってやってください」
 担当医は、彼をなだめるように笑顔で頷くと、ジークの肩にぽんと手をのせた。
「そんなに焦っちゃいけないよ」
「平気です。俺、一刻も早く、自分の足で歩けるようになりたいんです。走れるようになりたいんです」
 ジークは思いつめたように熱っぽく言葉を重ねていく。
 だが、担当医がそれを遮った。
「ん? ちょっと顔が赤くないか? それに汗も……」
「あ、それは体を動かしたからですよ」
 顔を覗き込んできた担当医を、ジークは上体をひねってかわした。
 そのとき——。
「あっ!!」
 部屋中に響き渡るほどの大声。
 担当医はジークの視線を辿るように振り返った。その目に映ったのは長身の人物——ラウルだった。入口からまっすぐこちらへ足を進めている。
「テメーずいぶん久しぶりだな。二ヶ月もほったらかしかよ」
 ジークは前のめりになりながら、乱暴な言葉で噛みついた。
「おまえの治療はこの病院に任せてある」
 ラウルは事も無げに答えた。
 それを聞いて、ジークはますます頭にきた。
「少しは責任、感じてねぇのかよ。元はといえば全部テメーのせいだろう。サイファさんは、毎日、来てくれてるぜ」
「私の顔など見たくないだろう」
「ああ、見たくねぇよ! けど、そういう問題じゃなくて、気持ちの問題だって言ってんだよ!」
 感情的に捲し立てたせいか、頭がくらくらしてきた。おまけに息苦しい。
「今さら何しに来たんだよ……ったく……」
 疲れた声でぼそりと言うと、頭を押さえ、ふうと息を吐いた。
 そのとき、一瞬、ラウルの後ろに小さな人影が見えた。
 ドクン、と心臓が飛び跳ねる。
 まさか、今の……。
 体を傾け、首を伸ばし、その正体を確かめる。
「久しぶり、ね」
 懐かしい声、夢にまで見た姿——。
 アンジェリカだ。
 彼女は、ばつが悪そうなぎこちない笑顔を浮かべていた。ジークに見つかり観念したのか、ラウルの後ろに隠れるのをやめ、遠慮がちに出てきた。薄いピンク色のブラウスに、紺色のカーディガンを羽織っている。短めの白いスカートがふわりと揺れた。
「あ……アンジェリカ……」
 ジークは頭が真っ白になった。呆然と彼女を見つめる。そして、何かに操られているかのように、手すり伝いに一歩、また一歩とふらふら足を進めていく。
「ちょっ……あの……」
 アンジェリカは困惑して後ずさった。
 ジークは歩みを止めなかった。手すりを放し、心もとない足どりで彼女に向かう。
 だが、彼の足はそれに耐えられるほど回復していなかった。
 床につまづき、膝がガクリと折れた。
 ぐらりと視界が揺れる。
 彼の体は斜めにつんのめった。
「ジーク!」
 アンジェリカはとっさに地面を蹴った。倒れ込むジークの体を受け止める。しかし、その重みに耐えかね、彼を抱えたまま崩れるように床に座り込んだ。
「だ……大丈夫?」
「やっと……つかまえた……」
 ジークは苦しげに、荒い息を吐きながらそう言うと、彼女の背中に腕をまわした。ぎゅっと力を込める。アンジェリカの首筋に、熱い吐息がかかった。
「ジー……ク……?」
 背中の手がだらりと落ちた。頭の重みが肩にのしかかる。
 アンジェリカははっとした。
「意識をなくしてる。それに、すごい熱だわ」
 助けを求めるように、ラウルを見上げた。
 彼は素早くジークを引き離すと、額に大きな手をのせて熱を診た。そして、その体を抱えて立ち上がる。
「病室で休ませる。501号室か?」
「あ、はい、エレベーターで行きましょう」
 担当医はそう返事をすると、すぐに誘導を始めた。
 ジークを抱えたまま、ラウルは彼について歩く。アンジェリカも小走りで、その後を追う。ラウルの腕の中でぐったりするジークを見つめながら、彼女は心配そうに顔を曇らせた。
「大丈夫なの?」
「たいしたことはない」
 ラウルは感情なく言った。
「急激に無理をしたせいで、疲れが出たのだろう。こいつは限度を知らん奴だからな」
「すみません」
 担当医は申しわけなさそうに謝った。少し落ち込んでいるような声だった。

 ラウルはジークをベッドに寝かせ、汗を拭いた。
 ジークの顔はまだ熱を帯びているようだった。息も少し苦しそうだ。ラウルはたいしたことはないと言っていたが、それでもアンジェリカの不安は拭えなかった。祈るように両手を組み合わせる。
「おまえはそいつに付いていろ」
「わかったわ」
 アンジェリカが真剣な顔で頷くと、ラウルは担当医とともに出て行った。リズムの違うふたつの足音が、次第に遠ざかっていく。
 足音が聞こえなくなると、静寂だけが残った。奇妙なくらいに音がしない。この階には他の入院患者はいないのかもしれない。そう思えるくらいだった。
 アンジェリカはベッド脇のパイプ椅子に、音を立てないようそっと腰を下ろした。彼の火照った顔をじっと見つめる。胸がズキリと痛んだ。
 ——ごめんなさい、ジーク。
 心の中で詫びた。ラグランジェの問題に巻き込んでしまったこと、こんな目に遭わせてしまったこと、そして、ずっと会いにいかなかったこと——彼には謝るべきことが山のようにある。いくら謝罪しても足りない。
 だが、どうやって償えばいいかわからなかった。出来ることなら償いたい。だが、自分の命が残り少ないのだとしたら、軽率な行動はすべて彼を傷つけることになる。自分に出来るのは、もう彼に会わないこと。それだけ。そう思っていたのに……。
 彼女は固く口を結び、膝の上にのせた両手をぎゅっと握りしめた。

 それから一時間ほどが過ぎた。
 病室の扉が静かに開き、そこから担当医が入ってきた。振り返ったアンジェリカに、にっこりと微笑んで尋ねかける。
「どう?」
「まだ眠っているわ。だいぶ落ち着いたみたい」
 彼女の言葉どおり、ジークは規則正しい寝息を立てていた。顔はまだ赤かったが、息苦しそうにはしていない。
「ラウルは?」
 今度はアンジェリカが尋ねた。
「ジークの骨折の経過とリハビリの様子を聞いてから帰ったよ。君はジークが落ち着くまで付き添うようにって」
「そう」
 彼女は素っ気なく答えて、立ち上がった。
「もう落ち着いているから、私も行くわ。あとはお願いします」
「起きるまで待っててあげたら?」
 担当医は穏やかに微笑んで言った。
「いえ……」
 アンジェリカはとまどいながら目を伏せた。
「ジークは君に会いたがっていたようだけど」
「……会うわけには、いかないから」
「どうして?」
「中途半端な思い出なら、ない方がいいでしょう?」
 下を向いたままそう言う彼女を、担当医は怪訝に見つめた。
「そうかな?」
 考えを巡らせながら首を傾げ、自分の細い顎に手を添える。
「君たちの事情はよくわからないけれど、思い出がないことの方が悲しいんじゃないかな?」
「見解の相違ですね」
 アンジェリカはそう言って、にっこりと満面の笑顔を作って見せた。緩やかにお辞儀をすると、病室から出て行こうとする。
「逃げているのかい?」
 後ろから投げかけられた担当医の言葉に、彼女の足は止まった。
 ——逃げている? 私が……?
 アンジェリカの鼓動は次第に強くなっていく。胸が壊れそうに痛い。頬を一筋の汗が伝った。
 ——違う、そうじゃない。こうするしかないの。事件の責任は私にあるから。そして、何よりジークを傷つけたくないから……。
 ずっとそう思ってきた。そのつもりだった。
 なのに、たった一言で、こんなにも心が掻き乱されている。
 それは、彼の言ったことが真実だからではないのだろうか?
 本当は、自分が傷つきたくないだけ、怖がっているだけでは——。
「ごめん」
 担当医の謝罪が、彼女を現実に引き戻した。頬の汗を手の甲で拭う。
「ジークのこと、お願いします」
 背中を向けたまま、感情を抑えた声で言った。
 担当医は華奢な後ろ姿を見つめた。
「ジークに伝えることはある?」
「……無理しないで、って」
 アンジェリカはそっと扉を開けると、振り返ることなく出て行った。五歩を歩き、十歩を早足で歩き、そこからは全力で駆け出した。

 ジークは目を覚ました。
「あれ? 俺……」
 状況が把握しようと、ぼんやりとあたりを見まわす。見慣れた天井、見慣れた窓の外の景色、薄汚れた自分の鞄、図書室で借りっ放しの本——。ここが自分の病室であることはわかった。
 少し離れたところに、担当医が足を組んで座っていた。
「目が覚めたかい?」
 人当たりのよい微笑みをジークに向ける。
「熱を出して倒れたんだよ。やっぱり無理しすぎてたね」
 ジークは言われてようやく思い出した。ガバリと勢いよくシーツを捲り上げながら飛び起きる。
「アンジェリカは?!」
「もう帰ったよ。しばらくそこに座って君を看てたんだけどね」
 担当医が指差したのは、ジークのすぐ隣に広げられたパイプ椅子だった。今は誰も座っていない。夢のあとのような空虚な空間。
 だが——。
「夢、じゃない……」
 広げた両の手をじっと見つめる。あのときの感覚が、感触が甦ってくる。この腕で、この体で、確かに抱きしめたのだ。ようやく捕まえた、もう離さない——そう、思った。
 しかし、それはほんの一瞬のことだった。感覚が残っていなければ、ただの幻想と区別できなかったかもしれない。せめて一言、二言でも言葉を交わしたかった。あんなタイミングで意識をなくすなど、自分の情けなさに涙が出そうだ。ギリ、と奥歯を噛みしめる。
「伝言があるよ」
「えっ?」
 ジークの心臓がドクンと強く打った。聞きたいけれど、聞くのが怖いような気がした。
 そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、担当医はさらりと言う。
「無理しないでって」
「あ、あぁ……」
 ジークは拍子抜けしたような声で返事をした。
「おまえが逃げるから無理するんじゃねぇか」
 うつむいてシーツを握りしめ、苦笑しながら小さく独り言をつぶやく。
「彼女、ラグランジェ家のお嬢さんだよね? どういう関係?」
 担当医は微笑みを保ったまま、穏やかに尋ねかけた。
「アカデミーのクラスメイトです。……それだけです」
 ジークは低い声で答えた。それ以外に答えようがなかった。
「彼女とはもうすぐ会えなくなるの?」
「えっ?」
 担当医の質問に、きょとんとした顔を上げる。もうすぐ会えなくなる、などというと、まるで今は普通に会っているみたいだ。彼女とは二ヶ月間ずっと会えていなかった。質問と現実がちぐはぐで、頭が混乱した。
 そんな彼を見て、担当医は自分の勘違いだったのかもしれないと思った。自信がなさそうに説明をする。
「彼女がそんなようなことを言ってたから……中途半端な思い出はない方がいい、だから会うわけにはいかない、とか……」
「なんだよ、それ……」
 ジークはそう言ったきり絶句した。膝を立て、頭を抱える。
 彼女の結婚話はなくなったと聞いていた。アカデミー卒業後には会えなくなるというのも、当然それとともに白紙に戻ったはずだ。なのに、なぜ……。
 サイファからは何も聞いていない。隠しごとをされているのだろうか。嘘をつかれているのだろうか——彼に対する不安と疑念が渦巻いた。



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