目次
1. 出会い
2. アンジェリカ=ナール=ラグランジェ
3. ジーク=セドラック
4. セカンド・インプレッション
5. 彼女のペース
6. 嵐・始まり
7. 圧倒
8. 初めての
9. 箱の中の少女
10. とまどい
11. 白と黒
12. 蒼い瞳のクラスメイト
13. 闇と静寂のひととき
14. レモンティ
15. 交錯するそれぞれの想い
16. 実技試験
17. 届かなかった5分間
18. 呪われた子
19. 告白
20. 血塗られた家系
21. それぞれの理由
22. 突然の訪問者
23. 長い一日
24. 10年前の傷跡
25. 新しい傷
26. 後味の悪い別れ
27. 狂宴
28. 踏み出した一歩
29. 3人目の招待客
30. プレゼント
31. 動揺
32. 友の思い、親の思い
33. 説得
34. 友達だった
35. 敵状視察
36. 甘い憂鬱
37. 渇いた心
38. 仕組まれた孤独
39. 家出
40. 不条理な交渉
41. 迷走
42. 騙し合い、そして
43. 過去への扉
44. 血のつながり
45. 一ヶ月
46. 月の女神
47. 彷徨う心
48. 幸せの虚像
49. 光と闇
50. リング
51. 国家機密
52. 遺恨
53. 辿り着く場所
54. 小さなライバル
55. 新たな再会
56. ふたり
57. 臆病なすれ違い
58. 弟
59. 個人指導
60. 最後の夜
61. 潜在能力
62. 捩れた一途
63. 譲れないもの
64. 忘却の中の再会
65. 泡沫の奇跡
66. 若者と権力者
67. パーティ
68. 過去から続く未来
69. うそつき
70. 親子のかたち
71. 一緒にいたい
72. あきらめ
73. 進路
74. 動き始めた長老
77. 難しい選択
75. 取引
76. 特別な普通の日々
78. ずっと忘れない
79. それぞれの覚悟
80. 天使の名を持つ少女
81. 絡み合う矛盾
82. 決意のゆびきり
83. 優しい研究者
84. 遠くの空と冷たい床
85. 最強の敵手
86. 大切な人のために
87. 涙
88. 白い世界
89. 伸ばした手の先
90. 責務
91. 自分の足で
92. 本当のこと
93. 結婚式
94. 未来へ繋ぐ一歩(最終話)

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85. 最強の敵手

 ジークは革張りのソファに腰を下ろしていた。背筋をピンと伸ばし、軽く握った手を膝の上にのせている。体も表情も緊張でこわばっていた。目だけを動かし、部屋の様子を探る。
 そこは応接間だった。アンジェリカの家と同等に広い。何も物が置かれていない空間が、中央に大きく取られていた。自分の座っている窓際には、レースのカーテン越しに柔らかい自然光が広がっている。全体的に明るい雰囲気だ。調度品は、新しくはないが、どれも上質で、手入れが行き届いているように見えた。
 ガチャ——。
 扉が開き、年配の女性が入ってきた。ティーカップを載せたトレイを手にしている。ジークの元に足を進めると、上品な物腰で紅茶を机に置き、彼へと差し出した。
「どうぞ」
「どうも」
 ジークは小さく頭を下げた。だが、それには手を伸ばそうとしなかった。疑惑の目つきでじっと覗き込むだけである。
「毒なんて入っていませんよ」
 老婦人はくすりと笑ってそう言いながら、部屋をあとにした。
 自分の心を見透かされ、ジークはばつが悪そうにうつむいた。しかし、それでも、その紅茶には手をつけなかった。

 しばらくして、再び扉が開いた。
「待たせたな」
 ルーファスが尊大に低音を響かせながら、ゆったりとした足取りで入ってきた。ジークの向かいに腰を下ろす。ソファが軋み音を立てた。
 ジークは険しい顔で睨みつけた。だが、ルーファスは余裕の表情でそれを受け流した。
「まさか再びここへ乗り込んでくるとは思わなかったな」
 ルーファスは軽く笑いながら、顎で戸口の方を指し示す。
「向こうの台所だ、おまえが壁を壊したのは。覚えているか」
「本題に入ってもいいですか」
 ジークは挑発には乗らなかった。鞄の中から紙束を取り出し、机の上に置いた。表紙がところどころ黒塗りにされている。
「知ってますよね」
 上目遣いに、目の前の男を窺う。
 ルーファスは冷たい目でその紙束を見下ろした。
「サイファから手に入れたのか」
「いや、ヘイリー博士からだ」
 ジークはきっぱりと答えた。
 ルーファスはそれを手にとり、ペラペラとめくった。
「サイファが回収したものと思っていたがな」
 眉ひとつ動かさず、独り言をつぶやく。
「あいつのやり方はぬるくていかん。私なら徹底的にやる。逆らう気など起きぬようにな」
 ジークはごくりと唾を飲んだ。淡々とした言い方だったが、だからこそ真実味があるように感じた。対処したのがサイファで良かったのかもしれない。
 ——ブワッ。
 突然、鈍い音とともに閃光が走った。その一瞬で紙束は灰燼と化し、ルーファスの手から机の上に崩れ落ちた。細かな燃え殻が、埃のように舞い上がる。
「それで?」
 ルーファスは手についた灰を払いながら、涼しい顔で尋ねた。
 ジークは何の前触れもなく起こったことに、目を丸くしていた。紙の焼けた匂いが現実を伝えている。しかし、すぐに気を落ち着け、冷静に口を開いた。
「コピーはとってあるぜ。誰にもわからないところに隠してある」
「ほう、少しは頭が働くようだな」
 ルーファスは冷ややかに言った。少しも動揺している様子はない。ジークはこのとき初めてサイファの忠告に感謝した。あの忠告がなければ、コピーを取ることはなかっただろう。
「頼みがある」
「頼みではなく脅迫ではないのか」
 ルーファスは鼻先で笑いながら言った。
 ジークはぎこちなく口角を吊り上げた。その額には薄く汗が滲んでいる。
「そうとってもらっても構わないぜ。聞き入れてもらえない場合は、さっきの論文を公表するつもりだ」
「何の伝手もない君が、どうやって公表するつもりだ」
「わかりそうな学者や学生に配りまわれば、噂にくらいはなるんじゃねぇか。見る人が見れば、正しいかどうかわかるだろうしな」
 ルーファスは口元に微かな笑みをのせた。
「なるほど、思ったより頭が働くようだ。それで、要求は何だ」
「わかってんだろ。アンジェリカを自由にしろ」
 ジークは昂る感情を抑えながら、低い声で言った。怒りで我を忘れては、以前の二の舞になりかねない。もう同じ過ちを繰り返さないと心に決めている。
「それは無理だ。我々にはあの子が必要でね」
 ルーファスは考える素振りすら見せずに即答した。
 ジークは眉をひそめ、鋭く睨みつけた。
「いくらラグランジェ家を救うためでも、実験台なんて絶対に許さねぇからな」
「何の話だ」
「今さらとぼけるな! あの論文は読んだぜ」
 ルーファスは目を伏せ、ふっと笑った。
「そうか、この論文以外の真実は、何も知らんというわけだ」
 ジークは怪訝な面持ちで首をひねった。
「どういうことだ」
「アンジェリカは実験台などではない。滅びゆく我々の救世主となるべき存在だ」
「救世主?」
 ジークはますます訝った。
「だって、あいつの遺伝子は綻びがきてるんじゃ……」
「逆だ。あの子だけが唯一、正常な血を持っている」
「え? 何で……」
 ルーファスはまっすぐにジークを見据え、今までにない真摯な口調で言う。
「アンジェリカは丁重に扱うと約束しよう。君は黙って手を引けばいい。あの論文を公表すれば、ラグランジェ家の威信は失墜する。サイファもアンジェリカも、皆が不幸になるだけだ」
「このままじゃ、どのみちアンジェリカは不幸だ!」
 ジークはこぶしを机に叩きつけ、勢いよく立ち上がった。再び灰が舞い上がり、静かに落ちていく。
 ルーファスはそれにも動ずることはなかった。
「サイファがついている。不幸になどしないだろう」
「いくら父親がついてるっていっても……」
「夫だ」
「は?」
 ジークはぽかんとした。話の繋がりがわからなかった。
 ルーファスはソファの背もたれに身を預けた。革が摩擦音を立てる。恰幅のいい腹の上で手を組み、悠然とジークを見上げた。
「サイファがアンジェリカの夫となる予定だ」
「……ちょっと待て」
 ジークは額を押さえ、崩れるようにソファに腰を下ろした。頭が混乱して、何がなんだかよくわからない。嫌な汗が体中から滲んでいる。
 ルーファスは淡々と説明を始めた。
「もちろん、表向きには別の夫を用意するがな。事実上の夫はサイファだ。サイファとの子をなし、後継者として育てるのが、アンジェリカの役目だ」
 ジークはうつむいたまま眉根を寄せた。そして、ゆっくり顔を上げると、ルーファスをじっと睨む。
「何もかも間違ってんだろ、それ。だいたいそれじゃ、ますます破滅へ向かうだけじゃねぇか。俺をからかってんのか? バカにしてんのか? 試してんのか?」
「真面目な話だ」
 ルーファスは青い瞳でまっすぐに見つめ返した。
「それで何でラグランジェ家が救われることになるんだよ!」
「心配無用だ。我々は君より多くの事実を知っている」
「説明しろよ!」
 一向に話が見えてこない。ジークは苛立ちを募らせていった。受け答えが感情的になっていく。
 そんな彼を、ルーファスは冷淡に突き放す。
「その義務はない」
 ジークは顔をしかめた。
「アンジェリカは、あいつは承諾してんのかよ」
「近いうちに話をするつもりだ。逆らうことはないだろう。我々に従うと約束したのだからな、君を助けるために」
 ルーファスは嫌みたらしくそう言うと、ニヤリと口元を歪めた。
 ジークは唇を噛み、うつむいた。
 そうだ、俺のせいだ——。
 だからこそ、自分が彼女を救い出さなくてはならない。ラグランジェ家では家の存続がすべてなのだ。そんな捻れた家では、絶対に彼女は幸せになれない。
「大人しく帰れ」
 ルーファスは大きく息をつきながら体を起こした。そして、ジークの前に置かれたティーカップに手を伸ばした。少し灰が浮かんでいたが、気にせず口に運ぶ。
「まだ答えを聞いてねぇ」
 ジークは強気に言った。
「引く気はないようだな」
「当然だ」
「一日だけ時間をくれ」
 ルーファスはティーカップを机の上に置いた。
「私ひとりで決断するわけにはいかんのでな」
「長老会で討議して決めるってわけか」
 ジークは険しい目つきでルーファスを窺った。彼は感情のない視線をジークに向けていた。口を閉ざしたまま、何も答えようとはしない。
「明日のこの時間、答えを聞きに来るぜ」
 ジークはソファから立ち上がった。そして、ルーファスをひと睨みすると、腹立たしげに鞄を引っ掴み、足早に出て行った。

「アルフォンスたちを呼んでくれ」
 ルーファスはソファに身を沈めながら、背後の妻に頼んだ。彼女は胸元で両手を重ね、心配そうに立ち尽くしていた。
「あなた……」
 口をついて出たその声は、か細く弱々しかった。だが、ルーファスの声は、いつもと変わらず力強かった。
「心配はいらん。何もかも上手くいく。何もかも、な」
 ルーファスは目を細め、天井を見つめた。

 ジークは後ろの扉から教室に入った。すでに授業は始まっていた。教壇のラウルは冷たく一瞥しただけで、何事もなかったかのように授業を続けた。
 だが、何人かの生徒は後ろを振り返っていた。その中には、リックとアンジェリカもいた。リックはほっと安堵したような表情を見せていた。しかし、アンジェリカは心配そうに顔を曇らせ、何か言いたげに大きな瞳を潤ませていた。
 ジークはすべての視線を振り切り、無言で席に着いた。

 レイチェルは王妃アルティナの部屋にいた。
 だが、アルティナはここにはいない。彼女は、国王、つまり夫に呼ばれて出て行ったのだ。めずらしいことではなかった。むしろ、よくあることと云ってもいい。つまらないことですぐ呼びつけるのよ、と彼女自身も笑ったり怒ったりしながらよく言っている。つまらないことというのが真実かどうかはわからないが、実際、たいていの場合はすぐに戻ってきていた。
 レイチェルは目の届くところでアルスとルナを遊ばせながら、ひとり紅茶を飲んでいた。
「レイチェルさん」
「はい……?」
 突然の呼びかけに、彼女は少し驚いたように返事をして振り向いた。ティーカップをソーサに戻す。
 声の主は若い衛兵だった。王妃の部屋の前には、必ずふたりの衛兵が常駐している。彼はそのうちのひとりである。開け放たれたままの戸口から、覗き込むように上半身を乗り出していた。
「お父上がいらしています」
「お父さまが?」
 レイチェルはきょとんとして立ち上がった。父親は、退職して以来、ここへ来たことなど一度もない。何か大変なことでも起こったのだろうか——ふとそんな考えが頭をよぎった。不安が膨らみ、小走りで部屋を出た。ほてった桜色の頬に、ひんやりとした空気が触れる。
「お父さま?」
 あたりを見まわしながら声を掛けた。長い金髪が薄暗い廊下で波を打つ。だが、父親の姿は見つからない。
 そのとき、背後から大きな影が彼女に忍び寄った。

 魔導省の塔。その最上階の一室にサイファはいた。今日から彼は副長官となる。そして、ここは彼の新しい個室である。今までより広く、明るい雰囲気だ。引っ越しを済ませたばかりで、机の上もまだきれいに片付いている。だが、すぐに書類の山に覆われることになるだろう。
 ——コンコン。
 扉がノックされた。サイファは書類をめくる手を止め、顔を上げた。
「どうぞ」
 その声と同時に扉が開き、ルーファスが入ってきた。机の前まで足を進め、後ろで手を組むと、座っているサイファを無愛想に見下ろした。
「その若さで副長官とはな。どんな手を使ったのだ」
「真面目に仕事に取り組んだ結果ですよ。ラグランジェの名前の力も大きいでしょうけどね」
 サイファは机の上で手を組み、にっこりと微笑んだ。
「少しは感謝しているようだな」
「価値は適正に評価していますよ。そうでなければ利用することも出来ませんから」
 淡々とそう言うと、面倒くさそうに頬杖をつき、ルーファスを見上げた。
「それで、何の御用ですか。昇進祝いに来たわけではありませんよね。手ぶらですし」
 ルーファスはふっと笑った。
「手ぶらではないぞ」
 その口調はどこか楽しんでいるふうだった。
 サイファは嫌な予感がした。こういうときのルーファスは、何か良からぬことを企んでいることが多い。警戒心をあらわにした厳しいまなざしを彼に向ける。
 ルーファスは上着のポケットに手を入れ、何かを取り出した。そっと机の上に置く。カタン、と小さな音を立てた。
 それは、プラチナの指輪だった。何の飾りもないシンプルなものだ。だが、その内側には、見まがうことのない刻印があった。
 まさか——。
 サイファははっとして、表情をこわばらせた。

「ジーク、どこへ行っていたの? 心配したわよ」
 授業が終わるなり、アンジェリカは一目散にジークに駆け寄った。いったんアカデミーへ来ていたジークが、いつのまにか姿を消していたのだ。何かに巻き込まれたのではないか、危ないことに首を突っ込んでいるのではないかと気が気でならなかった。
 ジークは椅子から立ち上がった。思いつめた顔を彼女に向ける。
「アンジェリカ、俺の家へ来い」
「え? いいけど、いつ?」
 アンジェリカはきょとんとしながら尋ねた。
「あ……そうじゃなくて……」
 ジークは困ったように頭に手をやった。斜め上に視線を流し、考えを巡らせる。そして、再び真剣な顔になると、彼女の細い両肩に手をのせた。
「おまえ、あの家を出て、俺の家に住め」
「えっ……?」
 アンジェリカは大きく目を見張った。
「ジーク、いくらなんでもいきなりすぎ」
 隣で見ていたリックは苦笑した。事情を知らない彼には、ジークの発言は非常識なものとしか思えなかった。
「危ねぇんだよ、おまえの家は」
 ジークはまっすぐに彼女の瞳を覗き込んで言った。
 アンジェリカは怪訝に眉をひそめ、首を傾げた。彼が冗談を言っているようには見えない。いや、そもそもこんな冗談を言う人間ではない。
「わかるように説明してくれる?」
「今は、言えねぇ……けど、俺を信じろ」
 ジークは手に力を込めた。彼女の肩をぐっと掴む。
 アンジェリカは納得のいかない様子だった。不満そうな顔でじっと考え込む。
「……じゃあ、お父さんとお母さんに相談してみる」
「ダメだ!」
 ジークは即座に否定した。
 アンジェリカはむっとして口をとがらせた。
「いったい何なの? そんなの無理に決まってるじゃない。ジーク、おかしいわ」
「俺はおまえを守りたいんだ!」
 ジークは必死だった。できれば、例の論文のことも、サイファのことも知らせないでおきたい。それが彼女のためだと思った。しかし、それを言わなければ危機感を上手く説明できない。伝わらない、伝えられないことがもどかしかった。

「やあ、ジーク君」
 ジークの背筋に冷たいものが走った。何度も聞いて耳に馴染んだ声、そして、今は最も耳にしたくなかった声。なぜこのタイミングで——きゅっと口を結び、振り返る。
 サイファは戸口で愛想良く微笑み、右手を上げていた。軽快な足取りで教室に入り、ジークたちに近づく。いつもと何ら変わったところはない。
「お父さん、今度は何の用なの? 来すぎじゃない?」
 アンジェリカは眉をひそめて尋ねた。彼女の指摘ももっともだった。前回、ここへジークを訪ねて来たのは、ほんの数日前のことである。
「今日は個人的なことでね」
 サイファは受け流すように言うと、引き締まった端整な顔をジークに向けた。深い蒼の瞳が鋭く光る。
「一緒に来てくれるかな」
「俺も話をしたいと思ってたところです」
 ジークは固い声で言った。緊張を滲ませながらも、毅然とした表情で見つめ返す。ふたりの間の空気がピンと張りつめた。
 アンジェリカは息を呑んだ。
「ねぇ、いったいどうしたの?」
 ただならぬ雰囲気に不安を感じ、どちらにともなく尋ねる。
「何でもないよ」
 サイファは柔らかく言った。
「でも……」
「心配性だね、アンジェリカは」
 今度は包み込むように優しく微笑んだ。そして、顔を曇らせる彼女の頬に、そっと手を伸ばす。
 だが、その手が彼女に触れることはなかった。
 ジークが彼の手首を掴んで止めたのだ。必要以上に強い力を込めている。握り潰さんばかりの勢いだ。
 サイファは目を大きくして振り向いた。
「行きましょう」
 ジークは低く抑えた声で言った。表情を隠すためなのか、深くうつむいている。
 サイファはふっと小さく息を漏らした。
「そうだね」
 落ち着いた声で同意する。
 ジークはようやく手を離した。サイファの手首には、薄く指の跡が残っていた。サイファは何も言わず、さり気なく袖を引き下げた。そして、ジークににこりと微笑みかけると、彼の背中に手をまわした。

「どうしたのかしら、やっぱり変だわ」
 アンジェリカは不安を拭えなかった。小さくなるふたりの後ろ姿を、横目でちらりと見る。
「うん、確かに」
 リックも彼らの姿を目で追いながら頷いた。
「ジークとお父さん、喧嘩しているのかしら」
 アンジェリカは口元に手を添えうつむいた。何ともいえない微妙な表情をしている。
「喧嘩っていうより、一方的にジークが反発してるみたいだったけどね」
 リックは冷静に指摘した。そうだとしても、不思議なことには違いなかった。ジークはいつもサイファのことを信用し、慕っているように見えたからだ。それが壊れるような何かがあった、ということなのだろうか。
 アンジェリカも同じことを考えていた。
「なんだか心配。こっそりあとをつけようかしら」
「それはダメだよ」
 リックは優しくたしなめた。
「そうよね」
 アンジェリカは気落ちして、深くため息をついた。ふたりが向かった方に顔を向ける。だが、彼らの姿は昼時の雑踏に掻き消され、もう目にすることは敵わなかった。

 サイファとジークは道場へとやってきた。魔導耐性に優れた、また物理的にも頑丈な建物である。魔導の実戦訓練などを行う場所だが、今はあまり使われていない。
「どうして道場なんですか」
 ジークはサイファの背中に尋ねかけた。
「誰にも邪魔されたくないんでね」
 サイファは鍵を開けながら、素っ気なく答えた。
「それなら別にここでなくても……」
「さあ、入ろう」
 ジークの反論を無視するようにそう言うと、扉を開き、軽やかに中へ入っていった。
 ジークはあとに続けなかった。足が重い。進むことを拒絶しているかのようだった。この捉えどころのない空間が苦手なせいかもしれない。それとも、閉塞した空間でサイファとふたりきりになることに恐怖を感じているせいだろうか。
 しかし、いつまでも入口に突っ立っているわけにはいかない。意を決して足を進めた。
 白い床、白い壁、白い天井——眩しいくらいに真っ白で何の飾りもない部屋。その中央にふたりは立っている。
「まずは君の話を聞こうか」
 サイファは腕を組み、振り返った。無表情でじっとジークを見つめる。
 ジークは少し怯んだが、負けじと強い視線を返した。そして、率直に尋ねる。
「サイファさんが、アンジェリカの事実上の夫になるって本当ですか」
 サイファはふっと表情を和らげた。
「やはりその話を聞いたんだね。さっきの君の態度から、そうじゃないかと思ったよ」
 ジークは奥歯を噛みしめた。彼が否定してくれることを期待していた。だが、その淡い期待は脆くも崩れ去った。どうしようもなく頭に来た。
「それで本当にアンジェリカを幸せに出来ると思ってるんですか。そんな歪んだ環境じゃ、誰も幸せになんてなれない。だいたいレイチェルさんはどうするんですか!」
 怒りまかせに一気に捲し立てる。
 サイファは曖昧に笑った。
「君の言うとおりだ。君は正しい。うらやましいよ、まっすぐに物事を考えられる君が」
「皮肉ですか」
 ジークは気色ばんだ。
「本心だよ」
 サイファは真顔で言った。
「だから、君に託したんだ、私たちの未来を。君なら、私たちを、アンジェリカを解き放ってくれるのではないかと期待していた」
 ジークははっとした。サイファのこれまでの言動が、次々と頭を駆け巡った。自分を導いてくれた、道を示してくれた、現実の厳しさを教えてくれた。もし、本当にアンジェリカの夫になるつもりでいるのなら、こんなことをする必要などない。ラグランジェ家の当主という立場から、拒否することが出来ずにいただけかもしれない。
「サイファさん、俺……」
「だが、君は期待に応えてくれなかった。いや、私の落ち度かな」
 サイファは何もかもあきらめたように言った。憂いを含んだ顔でうつむく。横髪がはらりと頬にかかった。
 ジークは慌てて食い下がる。
「まだ終わってません! 結果が出るのはこれからです!」
「残念だが、もう終わるんだよ」
 サイファはゆっくりと視線を流した。白い空間の中で、鮮やかに蒼が光る。
「君は、ここで死ぬ」
「……え?」
 呆然としているジークの前で、サイファの魔導力が一気に高まる。彼の周囲に竜巻のような風が起こった。


86. 大切な人のために

「ここは……」
 薄く開いた目に映る、見知らぬ天井。
 レイチェルは、真上の小さな灯りに眩しさを感じ、目を細めて左手をかざした。そのとき、薬指の指輪がなくなっていることに気がついた。右手をつき、ゆっくりと体を起こして立ち上がる。体も頭も、異様に重い。それでも状況を把握しようと、ぼんやりあたりを見まわした。
 部屋はそう広くない。天井も低い。おまけに窓もなく、陰鬱な雰囲気である。天井、壁、床は、コンクリートで塗り固められているだけのようだ。空気にはわずかな湿り気と、土の匂いを感じる。地下に違いない。普通に人が住まう部屋ではないだろう。物置と考えるのが自然だが、物は何も置かれていなかった。強いていえば、自分の下に敷かれている毛布くらいである。
 ふと、部屋の隅に石段があることに気がついた。それを上りきったところに、出入り口らしき扉が見える。
 だけど——。
 レイチェルは壁に手をあてた。強力な結界が、部屋全体を囲むように張られている。この結界を破らない限り、外に出ることは出来ない。
 一歩、二歩と後ろに下がり、壁から離れると、呪文を唱え始めた。向かい合わせた手の間に、白い光が満ち、たちまち溢れそうになった。慌てて指先に力を込めて押し止める。それが安定したところで、勢いよく両手を突き出すと、壁に向けて一気に放った。速度はあった。だが、衝突する手前で静かに消滅した。まるで吸収されたかのようだった。
 私の力では無理ね——。
 結界を強引に破るには、そこに込められた魔導力を遥かに上回る力をぶつけなくてはならない。先ほどのものがまるで及ばないことは、自分でもよくわかっていた。結界を解除する呪文も得意ではない。簡単なものなら可能だが、このような複雑で強力なものを解除する知識など、持ち合わせていない。
 魔導の勉強、真面目にしておくんだったわ——。
 彼女はため息をついて座り込んだ。だが、今さら後悔しても手遅れである。成り行きに任せるしかない。壁にもたれかかり、目を閉じて深呼吸をした。
 ギギギギ……。
 突然、嫌な軋み音が部屋に反響した。
 レイチェルは目を開き、音のする方へ視線を向けた。その音を発していたのは、石段の上の錆びた扉だった。誰かが外から押し開けているようだ。ゆっくりと扉が動く。そこから伸びた光の帯が、流れるように石段を駆け下りた。

 ジークは結界を張った。サイファが放った大きな光球を防ぐ。だが、その反動で後方に弾き飛ばされた。背中から壁に叩きつけられ、げほっと咳き込む。
「サ……サイファさん! どうして!!」
 痛みに顔をしかめながら、必死に問いかけた。
 サイファは腕を下ろした。
「レイチェルが人質に取られている」
「えっ?」
 ジークは目を見開いた。
「君を殺さなければ、レイチェルが殺されてしまうんだ」
 サイファが語った答えは明快だった。しかし、その内容は重かった。ジークは頭の中が真っ白になり、何も言葉に出来なかった。
「アンジェリカに危害を加えられることはない、その確信が油断に繋がったのだろうな。レイチェルのことまで考えが及ばなかった。私の最大の弱点であることは明白にも拘らずだ。私の落ち度だよ」
 サイファはまるで他人事のように、落ち着いた口調で話した。
「だ、だったら助けに行きましょう! 俺も行きます!」
 ジークはこぶしを握りしめ、一歩前に踏み出した。
 しかし、サイファの反応は冷ややかだった。
「五人もの手練の術士を相手に、そんなことが可能だと思っているのか」
「やってみなければわかりません!!」
「そうだな、救出できる可能性もある。だが、私にそのリスクを冒す理由はない。君を始末する方が確実なんだよ」
 ジークはぞっとして身をすくませた。実に合理的な判断、そして冷酷な決断だった。微塵の迷いも見られない。これ以上、いくら反論を重ねても徒労に終わるだろう。
 サイファはさらに畳み掛けた。
「それに、今回は助け出せたとしても、君がいる限り状況は変わらない。私たちはラグランジェの人間だ。逃れる術はない」
「俺が、いる限り……」
 ジークは噛みしめるようにつぶやきながら、懸命に解決策を探った。
 自分が手を引けば……いや、それはどうしても譲れない。手を引くふりをしてこの場を収め、アンジェリカを連れ出してどこかへ逃げれば……どこか? どこへ? どこへ行ってもラグランジェ家を相手に、逃げ切れるとは思えない。
 そもそも、手を引くと言ったところで、収まるものでもない気がしてきた。きっと自分は知りすぎてしまった。手を引いたとしても、彼らにとって危険因子であることに変わりはない。だからこそ、有無を言わさず始末しようとしているのだろう。いったいどうすれば……。
「君を巻き込んだのは私だ。申しわけなく思う。だが——」
 サイファの青い瞳が鋭く光を放った。
「私は君を殺す。死にたくなければ、君が私を殺すしかない」
「サイファさん!!」
 ジークは哀願するように名を呼んだ。
 だが、サイファはそれに応えることなく、両手を向かい合わせ、再び呪文を唱え始めた。

「お父さま、おじいさま……」
 レイチェルは驚いて立ち上がった。開いた扉から姿を現したふたりは、彼女の父親アルフォンスと、義理の祖父にあたるルーファスである。ルーファスとはほとんど交流はなく、面と向かって話したことは数えるほどしかない。
 ルーファスは後ろで手を組み、戸口から冷たく彼女を見下ろした。
「レイチェル=エアリ。おまえがなぜここへ連れてこられたか、わかるか?」
「人質ですか? 指輪がありません」
 そう言って、彼女は左手を掲げた。薬指の根元に細い痕が残っている。ここに来る前までは、そこに指輪が嵌められていた。サイファから結婚指輪として贈られたものである。それがなくなっているということは、人質に取った証として持ち去ったのだろう。そして、それを見せる相手は、おそらくサイファ——。
 レイチェルは顎を引き、上目遣いで睨みつけた。
 しかし、ルーファスは気にも掛けなかった。平然としたまま、眉ひとつ動かさずに言う。
「処刑だ」
「えっ?」
 レイチェルは思いがけない言葉にきょとんとした。まるで事態を飲み込めなかった。そんな彼女を見て、ルーファスは丁寧に言い直す。
「おまえを処刑することに決定した。心当たりがないとは言わせんぞ」
 レイチェルは無言で目を伏せた。小さな口はきゅっと固く結ばれている。ルーファスは満足そうに鼻先で笑った。
「その前に人質として使わせてもらったがな。今頃、サイファがジークを始末にかかっているだろう。おまえの処刑はそれが済んだあとに行う」
 レイチェルははっとして顔を上げた。
「アンジェリカは? あの子はどうなるの?」
 胸元で両手を組み合わせ、すがるように尋ねる。
「アンジェリカ=ナールは、我々にとって必要な存在だ。心配せずとも処刑などしない」
 その答えに、彼女はほっと胸を撫で下ろした。
 しかし、ルーファスは意味ありげに口元を斜めにした。
「あの子はサイファが幸せにするだろう」
「サイファ……?」
「そうだ、サイファがアンジェリカの夫になるのだ」
 レイチェルは大きく目を見開いた。しかし、その意図はすぐに理解できた。本家筋を途絶えさせないため、そして、強い魔導の力を残すため——。
「だから、私が邪魔なのですね」
 そう言って視線を落とし、寂しげな笑みを浮かべた。
「サイファがなかなか首を縦に振らないのは、おまえの存在のせいだ。おまえが死に、ジークが死ねば、あのふたりは大切な存在を失った者どうし、身も心も寄せ合って生きていくしかないだろう」
 ルーファスは筋書きを語った。どこか楽しんでいるふうな声音だった。
「覚悟は決まったか、レイチェル=エアリ」
 狭い地下室に、高圧的な声が反響する。
「怖れを知らぬ裏切り者、そして、我らが救世主の母——最期に望みがあれば、出来うる限り聞き入れよう」
 レイチェルは視線を落とし、じっと考え込んだ。そして、何かを決意したように表情を引き締めると、ゆっくりと顔を上げた。澄んだ蒼い瞳には、強い力が宿っていた。ルーファスを見据え、静かに凛と訴える。
「処刑はお父さまの手で、お願いします」
「検討しておこう」
 ルーファスは感情なく答えた。その隣で、アルフォンスは隠しきれない苦悩を滲ませていた。
「ルーファス」
 思いつめたように名を呼ぶと、真剣な顔を彼に向けた。
「少しの間でいい、レイチェルと話させてほしい、抱きしめさせてほしい」
 堰を切ったように懇願する。しかし、そんな彼に、ルーファスは冷淡な視線を流した。
「処刑のときでもいいだろう」
「抱きしめたその手で殺せというのか」
 アルフォンスは唸るように言った。声が僅かに震えていた。
 ルーファスは横目で彼を見つめた。
「まあ、よかろう。ただし、妙なことは考えるな」
「そこまで愚かではない」
 アルフォンスは無愛想にそう言うと、呪文を唱え、結界の一部を開いた。人ひとりがようやく通れるくらいの大きさだ。彼は身を屈めながらそこをくぐり、しっかりとした足どりで石段を下りた。薄暗い中で待ち構えていたレイチェルを、つらそうに目を細めて見つめる。
「助けてやれなくてすまない」
「お父さまが責任を感じることではありませんわ」
 レイチェルはにっこりと笑った。いつもと変わらない屈託のない笑顔——この状況で、なぜこんなふうに笑えるのか、アルフォンスにはわからなかった。やるせない思いに、目頭が熱くなる。小さな彼女の体を、大きな腕で思いきり抱きしめた。
「お父さ……ま……?」
 レイチェルは目を大きく見開いて、顔を上げようとした。だが、アルフォンスは、そんな彼女の頭を、自分の胸に強く抱え込んだ。彼女は口が塞がれるような格好になり、声を出すことが出来なくなった。
「アルフォンス」
 しばらくして、戸口からルーファスが呼びかけた。もういいだろう、というニュアンスだった。
 アルフォンスは腕を緩め、レイチェルを放した。彼女は大きく息をすると、ゆっくりと顔を上げた。深い蒼色の瞳と、半開きの小さな唇で、何か言いたげに目の前の父親を見つめる。
 アルフォンスは薄く微笑んだ。彼女の髪を撫で、頬にそっと口づける。そして、無言で背を向けると、ルーファスの元へ戻っていった。
「処刑までは、あと数時間ほどだろう。祈りを捧げながら待つがいい」
 ルーファスは非情にそう告げると、結界を張り直し、錆びた扉を閉めた。

 部屋は再び暗くなった。
 足音が遠ざかったのを確認すると、レイチェルは背中に手を伸ばした。ドレスの隙間に挟まれた何かを取り出し、手のひらに載せる。それは、オレンジ色の宝石らしきものだった。長い鎖が通してあり、首飾りになっているようだ。だが、まるで洗練されておらず、アクセサリと呼ぶには程遠い。
 彼女はそれを見つめながら、父親の言葉を反芻していた。
 魔導増幅器だ。おまえは生きろ——。
 先ほど抱きしめられたときに、そう耳打ちされた。それと同時に、この宝石をドレスに差し込まれた。これで魔導の力を増幅し、結界を破って逃げろ——それがアルフォンスの思惑に違いない。しかし、どこへ逃げろというのだろうか。逃げる場所などどこにもない。自分が大人しく処刑されさえすれば、すべてが終わるのではないか。
 でも——。
 レイチェルはその宝石を握りしめた。サイファを止めたい。ジークを殺させてはならない。もし、止めることができるのならば、ここを脱出する価値はある。今ならまだ間に合うかもしれない。
 彼女は心を決めた。そろりと手を開き、魔導増幅器と思われる結晶を見つめた。だが、そのまま困ったように首を傾げた。肝心の使い方がわからなかったのだ。
 増幅器ということは、これに魔導の力を込めればいいのかしら——?
 悩んでいる時間はない。とりあえず実行してみることにした。長い鎖を首に掛け、オレンジ色の結晶を両手で包み込み、そっと目を閉じる。魔導の力を高め、結晶に注ぎ込んでいく。
 彼女のまわりに緩やかな風が起こった。ドレスが大きく波打ち、長い金髪がさらさらと舞い上がる。
「……えっ?!」
 彼女は不意にとまどいの声を上げた。突然、結晶が強く激しい光を放ち始めたのだ。それと同時に、体から急激に力が抜けていくのを感じた。立っていられなくなり、その場に膝をつく。危険を感じ、慌てて結晶から手を放した。だが、もう手遅れだった。その結晶は空中に浮かんだまま、直視できないほどの光をほとばらせていた。そのまわりに風が大きく渦巻き始める。
 レイチェルの意識は次第に遠のいていった。ゆっくりと後ろに倒れていく。そのとき、彼女の瞳には、大きな光の柱が映っていた。

「ラウル!! いるんでしょ!! ラウルっ!!」
 アルティナは医務室で大きな声を張り上げ、奥の部屋へ通じる扉をドンドンと何度も叩いた。
「何だ」
 ラウルは思いきり迷惑そうな顔で扉を開けた。午前の授業を終え、昼食をとりに自室へ戻ってきたところだった。まだ何も口にしていない。
「レイチェル来てない?!」
 アルティナは切迫した声で尋ねた。
「……なぜそんなことを訊く」
「いるの? いないの? どっち?!」
 ラウルの胸ぐらを掴み、必死の形相で詰め寄る。ラウルは動じることなく、冷静に答えた。
「いない。いるはずないだろう」
「そう……」
 アルティナは途端に勢いを失った。力が抜けたように手を下ろす。
 ラウルはため息をつきながら腕を組んだ。
「レイチェルが、どうした」
「いなくなったのよ。子供たちを置いたまま、何も言わずに」
 アルティナはうつむいたまま眉根を寄せ、きゅっと下唇を噛んだ。
「いつの話だ」
「一時間くらい前。私がちょっと部屋を空けている間に消えちゃったのよ」
「急ぎの用でもあったのだろう」
 そう言いつつも、ラウルは少し気になり始めていた。
 アルティナは顔を上げ、怒りを含んだきつい視線を彼に向けた。
「子供たちだけを残していくなんてありえない。用事があるなら、代わりの人を手配していくわ。何人かはすぐ近くに待機してるし、時間なんてかからないもの。それに……」
 そこまで言うと、軽く握った右手を口元に添え、難しい顔でうつむいた。
「どうした」
「衛兵が、何か隠している気がするの。反応がぎこちなかった。問いただしても知らないの一点張りだけど……サイファにも連絡がつかないし……嫌な予感がするのよ」
 ラウルは無表情のまま考え込んだ。確かに妙だ。彼女の言っていることが真実ならば、レイチェルの身に何かが起こったという推測も十分に成り立つ。
「ねぇ、あなたの魔導の力で探せないの?」
 アルティナは顔中に不安を広げて尋ねた。だが、ラウルは呆れたような冷ややかな目を返した。
「魔導は超能力とは違う」
「もうっ! 役立たず!」
「保安に連絡しろ」
「えっ?」
 アルティナは目を大きくして聞き返した。
「おまえの付き人で、なおかつラグランジェ本家の人間なら重要人物だ。捜索のために人を出してもらえるだろう」
 ラウルは淡々と説明をした。
「そうね、そうする」
 アルティナは真剣な顔で頷いた。言われてみれば当たり前のことである。気が動転し、正しい判断力を欠いていたようだ。
「あなたにも経過は知らせるわ。あなたも何かわかったら……」
 その話の途中、ラウルは突然はっとして窓際に駆け出した。乱暴にガラス窓を開けながら、身を乗り出す。どこか遠くを見ているようだ。
 残されたアルティナは呆気にとられていた。
「どうしたの?」
「魔導力が急激に高まっている」
 ラウルは目を離さずに答えた。
「それってどういうこと?」
 彼女は首を傾げ、窓際に駆け寄った。ラウルの隣の窓を開け、同じように身を乗り出すと、彼が見つめている方に視線を向ける。だが、そこにあったのは、いつもと変わらない風景だった。
「ラウル、いったい何を見てるわけ?」
 訝しげに眉をひそめて問いかけた。
 まさに、そのときだった。
 まるで答えを示すかのように、遠くで大きな光の柱がほとばしった。爆音とともに天を突き抜けていく。この建物にも僅かに振動が伝わってきた。ただ、木々や建物に阻まれ、それが起こった場所を目にすることは出来なかった。
「今の……」
 アルティナは何が起こったのか把握できなかった。だが、とんでもない何かが起こったということは察しがついた。説明を求めるようにラウルに振り向く。彼は深くうつむいていた。窓枠に掛けた手は、小刻みに震えている。
「くっ」
 小さく苦悶の声を漏らすと、凄まじい勢いで医務室を飛び出した。
「待って!!」
 アルティナは慌てて彼のあとを追った。

「な……何よこれ……」
 アルティナは息を切らせながら、呆然と立ち尽くした。目の前には信じがたい光景が広がっていた。町の一部が消えていたのだ。正確にいえば、建物が崩壊していた。数軒分の広さが平らになっている。地面には瓦礫が積もり、あたりは埃で煙っていた。周辺を見渡すと、立ち残った家も多くが半壊しているように見受けられる。その光景は、さながら廃墟のようだった。
 ラウルは迷うことなく、その中心部へ向かう。アルティナも瓦礫を踏みしめながら、彼についていった。
「レイチェル!!」
 アルティナは悲鳴に近い声を上げた。
 レイチェルは一段低いところで、仰向けに倒れていた。まわりは瓦礫の山となっていたが、彼女の上には少しの欠片が散らばっているだけだった。ドレスは多少汚れているものの、ほとんど損傷はしていない。首には細い鎖が掛かっていた。その鎖に繋がったオレンジ色の宝石は、首もとの地面に落ちていた。
 ラウルは彼女の隣に膝をつき、首筋に手を当てた。脈があることを確認すると、覗き込みながら静かに声を掛けた。
「レイチェル」
 頬に手を当て、軽く二度叩く。
 彼女は目蓋を震わせながら、うっすらと目を開いた。ラウルの顔を認識すると、何かを伝えようと苦しげに唇を動かした。
「何だ」
 ラウルは自分の長い髪を押さえながら、彼女の小さな口元に耳を近づけた。
「サイファを……止め……て……ジークさんを……殺してしま……う……」
 彼女は喘ぎながら懸命に言葉を紡いだ。そして、何とかそれを伝えきると、再び意識を失った。
「レイチェル!!」
 アルティナは彼女の隣に座り込み、肩に手を掛けて揺すろうとした。だが、ラウルがそれを制した。
「おそらく衰弱しているだけだろうが、念のため動かさない方がいい。医者を呼んで詳しく診てもらえ」
「医者はあなたでしょう?! ふざけないでよ!!」
 アルティナは涙ぐみながら責め立てた。
「私はサイファを止めに行く」
 ラウルはそう言って、レイチェルに掛かっていた首飾りをそっと外した。それをぐっと握りしめながら立ち上がる。
「レイチェルを、頼む」
 感情を抑えた声だったが、怖いくらいの迫力があった。激しい怒りが端々から滲んでいた。
「わかった」
 アルティナは涙を拭いながら、強く頷いた。

 ラウルは道場へ向かい始めた。サイファたちの本気の魔導戦に耐えられる建物は限られている。相手がジークであることを考えると、アカデミー内の道場を使うと考えるのが妥当だ。
 ふと、後方から微かな話し声が聞こえた。ラウルは足を止め、振り返った。
 そこにいたのは三人の男たちだった。足元の何かを囲み、沈痛な面持ちでひそひそと話し合っている。
 あいつらは——。
 ラウルは切りつけるようなまなざしで睨みつけると、大きな足どりで彼らに近づいていった。

 サイファは長い呪文を詠唱していた。突き出された両手に光が満ち溢れていく。彼の姿はそれに飲み込まれるようにして見えなくなった。
 大きい——!
 ジークは目を見張った。大きさだけではなく、その強さも桁外れだった。これほどのものを実際に目にしたのは初めてである。ぞくりと震えがきた。
 しかし、見入っている場合ではない。
 我にかえると、自分も呪文を唱え始めた。振り絞るようにして力を注ぎ、前面に結界を張った。まわりすべてを囲むよりも、この方が強い結界を作ることができる。一面だけに力を集中させるためだ。そうでもしないと防ぎきれない。これでも防ぎきれるか自信はない。
 奥歯を噛みしめながら、睨みつけるように大きな光球を見つめる。そろそろだろうか——。
 タタッ。
 不意に横から軽い音が聞こえ、ジークはびくりとして振り向いた。
「えっ?!」
 彼が目にしたのは、大きく腕を引き、自分に殴りかかろうとしているサイファだった。考える間もなく、反射的に右腕で防いだ。しかし、それは無謀なことだった。サイファのこぶしには魔導の力が込められていた。そのため、通常の何倍もの破壊力がある。魔導的にはほとんど無防備の状態で、まともに受け止められるものではない。ジークの腕からは鈍い音がした。同時に、弾かれるように後ろに倒れ込んだ。
「……ぐっ」
 突き刺さるような腕の痛みに、低いうめき声を上げた。体中から汗が流れ出す。
 サイファは無表情で近づいてきた。
 ジークは背筋に冷たいものが流れるのを感じた。歯を食いしばり、痛みに耐えながら上体を起こす。そして、床に座り込んだまま、自分のまわりに結界を張った。魔導だけでなく、あらゆる物体を遮断する強力なものだ。
 しかし、サイファは難なくそれを解除した。
「互いの魔導力に歴然とした差がない場合は、正面から戦っても消耗戦になるだけだ。いかに早く相手を不意打ちにするか、また、その一撃でどれほど決定的なダメージを与えられるかが重要になる」
 淡々と語りながら近づいてくる彼を、ジークは呆然と見上げた。吹き出す汗は止まらない。白い床にポタポタと落ちる。それは、痛みのためだけではなかった。死を意識した激しい恐怖が、彼の体から平常を奪っていた。
 サイファは再び殴りかかってきた。今度は防がずに避けた。右腕を庇いながら床の上を一回転し、その勢いで立ち上がった。だが、それと同時に脇腹に熱い衝撃を受けた。魔導の白い閃光が直撃したのだ。体が弾き飛ばされ、肩から壁にぶつかった。崩れるように床に倒れ込む。苦悶の表情で体を丸め、喉から絞り出すようなうめき声を上げた。
 それでも、彼はあきらめていなかった。そのままの体勢で、呟くように呪文を唱えた。そして、足元まで歩み寄ったサイファに、左手を突き出し、白い光を放った。
 不意をついたつもりだった。
 だが、サイファには少しの焦りも見られなかった。広げた右手に小さな結界を作り、あっけなく跳ね返した。そして、それはジークの左腕に命中した。
「ぐあっ……」
 ジークはつぶれたような声を上げ、顔を引きつらせた。白い床に赤い血が広がった。だが、出血はそれほど多くない。むしろ、骨が砕けたことの方が問題だった。これで両腕とも使えなくなったのである。
 サイファは攻撃の手を緩めなかった。短く呪文を唱えると、彼の左右の大腿部に向け、二度、連続して放った。小さなものだったが、彼の自由を奪うには十分だった。
 ジークは仰向けのまま、ぐったりとしていた。何とか意識は保っていたが、もはや逃げることも不可能な状態だった。起き上がることすらできない。
 サイファはジークの隣に跪いた。無表情で呪文を紡ぐ。白い光が手から溢れ、光の剣へと姿を変えた。両手で柄の部分を握ると、先端を下に向け、ジークの胸の上方でまっすぐに構えた。
 朦朧としたジークの瞳に、剣の切っ先とサイファが映っている。
「こんなことになってしまって残念だ」
 サイファは端整な顔で、ジークを見つめながら言った。少し目を細めると、続けて、静かに言葉を落とす。
「君のことは、本当に好きだったよ」
 ジークは無反応だった。彼の耳に届いているかどうかもわからなかった。かろうじて目は開いているが、意識が混濁しているように見えた。
 サイファは光の剣をわずかに引き上げた。
 すまない——。
 心の中で詫びると、奥歯を噛みしめ、一気にジークの胸に突き降ろした——はずだった。が、彼の手からは剣がなくなっていた。勢いのついた手だけが、虚しく空を切った。
 サイファは眉をひそめた。光の剣が突然、掻き消えた。それと同時に空気が変わった。魔導自体が使えなくなっているようだ。こんなことが出来るのは——。おもむろに立ち上がり、入口に目を向け、腕を組んだ。
 ギィ——。
 扉が開いた。そこから姿を現したのはラウルだった。サイファは青く冷たい瞳で睨みつけた。
「事情を知れば、おまえも私の行動を支持するはずだ」
「すべては終わった」
 ラウルはきっぱりと言った。そして、扉の外から男を引きずり込んだ。胸ぐらを掴み、乱暴に道場の中へ放り込む。それに続いて、二人の男性がおずおずと中へ入ってきた。怯えたようにラウルの顔色を窺っている。
 サイファはこの三人の男たちをよく知っていた。ラグランジェ家の者である。そして、おそらく長老会の五人のメンバーのうちの三人だ。
「あと二人いるはずだ」
「死んだ」
 ラウルは素っ気なく答えた。
 サイファは小さく息を呑んだ。
「おまえがやったのか?」
 ラウルはポケットからオレンジ色の宝石がついた首飾りを取り出し、サイファに放り投げた。サイファは片手でそれを受け取ると、手のひらの上で一瞥した。
「魔導増幅器の試作品だな。なぜおまえが持っている」
「持っていたのはレイチェルだ」
「なにっ?」
 サイファは眉をひそめた。深刻な表情でうつむく。
「まさか、それでは……」
 何かを言いかけたが、はっとして言葉を切り、勢いよくラウルに詰め寄った。
「レイチェルは無事なのか?!」
「魔導を吸い上げられ、かなり衰弱していたが、命に別状はなさそうだ」
 ラウルは簡潔に答えた。
 サイファは安堵の息をついた。だが、すぐに厳しい表情に戻った。長老たちを鋭く睨みつけ、無造作に掴んだ首飾りを前に突き出す。
「なぜこんなものをレイチェルに渡した」
「知らん! 私たちではない!」
 いちばん前の男が、険しい顔で言い返す。しかし、後ろの男は、難しい顔でうつむいていた。
「アルフォンス、かもしれんな」
 ぽつりと落とされたその言葉に、三人の男たちは一様に顔を曇らせた。
「自業自得だな」
 ラウルは吐き捨てるように言った。
 長老のひとりは逆上して振り向いた。ラウルをキッと睨みつけ、激しい非難を浴びせる。
「何が自業自得だ! すべてはおまえのせいではないか!! おまえが————」

 なっ……そん……な……。

 仰向けで倒れたまま放置されていたジークは、薄れゆく意識の中で、彼らの会話を耳にした。その内容はとても信じがたく、受け入れられるものではなかった。

 嘘だ。
 何かの間違いだ。
 そんなこと、ありえない……。

 大声で叫びたい衝動に駆られたが、彼の体は微動さえ叶わなかった。目を開くことも出来ない。せめてもの抵抗なのか、頭の中で懸命に否定を繰り返す。そのまま、意識は暗い闇に沈んでいった。


87. 涙

「嘘だ!!」
 ジークは自分の叫び声で目が覚めた。直前まで何かの夢を見ていたはずだが、目を覚ました瞬間、すっと闇に沈み込むように記憶ごと消え去った。嫌な夢だったという感覚だけは残っているが、その内容は思い出せない。
 起き上がろうとして、体が動かないことに気がついた。手足が固定されているようだ。右腕にはギプス、左腕には固定器具らしきもの、シーツの下で見えないが、脚にも何かが取り付けられているような感触がある。あたりは妙に消毒くさい。病院なのか? 首を動かしてあたりを窺おうとする。
「気分はどうだい?」
 突然、降ってきたその声に、ビクリと体がすくんだ。おそるおそる声の方に振り向く。
 そこにいたのはサイファだった。パイプ椅子に腰掛け、にこやかな微笑みをたたえている。
「怯えなくても、もう君を殺そうなんて思っていない。その理由がなくなったからね」
 ジークは少しずつ記憶が蘇ってきた。道場でサイファと戦ったこと、手も足も出なかったこと、殺される寸前でラウルに助けられたこと、そして——。
 あれは夢でも幻聴でもない。
 信じがたい内容だったが、その確信はあった。あのとき、確かに自分の意識はあった。確かにこの耳で聞いた。それが事実なのかはわからない。確かめる術はひとつしかない。しかし——。
 ジークはもの言いたげな視線をサイファに送った。
「両手両足とも骨折だよ。当分は入院になるが、完治するそうだ」
 サイファはまっすぐに彼を見据えたまま、落ち着いた声で言った。
「そうですか、よかった」
 ジークはうわの空だった。だが、自分の声を耳にし、その冷たさに驚いた。取り繕うように、慌てて付け足す。
「レイチェルさんは無事だったんですか」
「ああ……」
 サイファの返事は歯切れが悪かった。表情も暗く沈んでいる。あまり無事だったようには思えない。だが、彼女に何かあったのならば、もっと取り乱しているだろう。
 ジークは気になったが、何も尋ねられなかった。

「サイファ」
 半開きの戸口から、ラウルが姿を見せた。相変わらずの無表情だった。腕を組んだまま、目で呼びつけている。
「眠ってて」
 サイファはジークの頬に軽く触れて微笑んだ。その微笑みを残しつつ立ち上がり、颯爽とした足どりで外に出ると、後ろ手で扉を閉めた。
 その途端、彼の顔つきは険しくなった。目線を上げ、声をひそめてラウルに尋ねる。
「被害状況は?」
「死者3名、重傷者8名、軽傷者21名」
「そうか……」
 サイファは重々しくそれだけを口にした。すぐには二の句が継げなかった。
 ラウルは淡々と報告を続ける。
「長老たちの証言によれば、暴発が起こったとき、アルフォンスは自らの結界を張らず、ルーファスの結界を解除したらしい」
「そうだろうな。直撃を受けたとしても、あのふたりが結界を張っていれば、助からないはずがない。アルフォンスは計算ずくでレイチェルに魔導増幅器を渡したのだろう」
 サイファは難しい顔で腕を組んだ。
「しかし、なぜそこまで……私がジークを殺せないと思っていたということか……」
 考え込みながらつぶやく彼を、ラウルはじっと見つめた。
 サイファはその視線に気づき、訝しげに顔を上げた。
「何だ?」
 ラウルは一拍おいてから、静かに答える。
「レイチェルは、どのみち処刑される予定だったらしい」
 サイファは息を呑んで、大きく目を見開いた。
「……そうだな、確かに彼らにとっては邪魔な存在だ。処刑する理由はあっても、生かす理由はない。私との約束を破ったところで、彼らに何ら不利益はない。そんなことさえ気づかずに、私は彼らの思うままに行動してしまったというわけか」
 うつむきながらそう吐き捨てると、自嘲の薄笑いを浮かべた。
「少し休め」
 ラウルは無表情で言いつけた。
「心配してくれているのか」
「医者としての命令だ」
 サイファは目を伏せ、ふっと息を漏らした。
「何かをしていないと、よけいにおかしくなるよ」
「……勝手にしろ」
 ラウルはひと睨みすると、腹立たしげにため息をついた。
 サイファはそんな彼を見て、にっこりと微笑んだ。
 しかし、それはすぐに真面目な表情へと変わった。隣の病室に険しい目を向ける。扉は閉まっていた。
「レイチェルは?」
 声を落として質問する。
「さっき見たときはまだ眠っていた」
 ラウルは無愛想に答えた。
 サイファは音を立てないように扉を開け、中へ入っていった。部屋は薄暗かった。灯りは消されており、窓にはクリーム色のカーテンが引かれている。そして、中央にはパイプベッドがひとつ置かれていた。
「死者3名、重傷者8名、軽傷者21名」
 力のない小さな声が聞こえた。そのベッドに横たわるレイチェルの口から発せられたものだった。
 サイファはドキリと心臓が縮み上がった。同時に歩みも止まった。
「起きていたのか」
 平静を装って返事をすると、何事もなかったかのように再び足を進めた。だが、心の中では、自分の軽率さに舌打ちをしていた。部屋の前でする話ではなかった。もう少し配慮すべきだった。彼女にはまだ告げるつもりはなかったのだ。今は受け入れられる状態ではないはずだ。大丈夫だろうか——ベッドの横に跪き、不安そうに様子を窺う。
 彼女は天井を向いたままだった。目を開けてはいたが、焦点は定まっていないように見えた。白い肌は、いつもよりさらに白く、まるで血の気がなかった。小さな唇にだけ、微かな赤みが差している。
 サイファは柔らかな頬にそっと触れた。ほとんど温かさを感じられない。
「お父さまは?」
 レイチェルは彼に目を向けずに尋ねた。
 サイファは、一瞬、言葉に詰まった。しかし、すぐに真剣な顔になった。ここまで知られてしまった以上、ごまかすことが良策とは思えない。ゆっくりと語りかけるように口を切った。
「レイチェル、落ち着いて聞いて。アルフォンスは……」
「亡くなったのね」
 レイチェルは先回りをしてぽつりと言った。
 サイファは眉根を寄せ、うつむいた。
「私の力が足りないばかりにこんなことになってしまった。申しわけない」
 噛みしめるように、詫びの言葉を口にする。
 レイチェルは首を横に振った。目からは大粒の涙が溢れ出した。
「すべて私のせい。私がお父さまを殺してしまった。たくさんの人を傷つけてしまった」
「違う! 君は悪くない! 悪いのは処刑しようとしていた奴らの方だ。それに君の意思じゃない。魔導増幅器のせいで力が暴走してしまっただけだ。君も被害者じゃないか!」
 サイファは必死に擁護した。思いつく限りのことを捲し立てる。しかし、彼女を納得させることは出来なかった。むしろ、過敏になっている神経を刺激しただけだった。
「違うの! 私さえいなければこんなことにならなかった! すべての原因は私にあるの! サイファだって知ってるじゃない!!」
 激しく感情を昂らせ、震える声で泣き叫ぶ。
「レイチェル、聞いて」
 サイファは上から彼女の両肩を押さえるようにして覗き込んだ。
「私がいけないの!!」
 レイチェルは切り裂くような悲痛な叫びを上げた。右腕で目を覆い、何度も首を横に振った。流れる涙は止まらない。苦しそうに嗚咽を続ける。
「レイチェル……」
 サイファは途方に暮れた。
 彼女から否定の言葉を聞いたのは、今日が初めてだった。彼女はいつだって前向きだった。逃げることなくすべてを受け止めてきた。だが、今回のことはあまりに大きすぎた。いや、本当はずっと無理をしていたのかもしれない。そして、その無理を強いたのは自分だったのではないか——。
「ごめんね……」
 弱々しく紡がれた謝罪。彼女には届いていないかもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。ただ、口にせずにはいられなかった。温もりを求めるように、彼女の肩に頭を埋めた。

 コンコン——。
 扉をノックする音が聞こえた。
 サイファは返事をしなかった。レイチェルの肩に額をのせたまま、顔さえ上げない。ラウルだろうと思ったが、今は邪魔をされたくなかった。もちろん、泣き続けているレイチェルも、何も答えはしなかった。
 だが、扉は開いた。
「レイチェル」
 戸口から聞こえた女性の声。
 サイファははっとして振り向いた。ラウルではない。そこに立っていたのは、小柄で上品な雰囲気の婦人だった。薄い金色の髪を後ろでまとめ、深い蒼色の瞳をこちらに向けている。
「アリス……」
 サイファは呆然と名をつぶやいた。我にかえると、慌てて立ち上がり、自分の居た場所を譲る。彼女は柔らかい物腰でサイファに頭を下げ、流れるような動作でベッド脇に膝をついた。
 レイチェルは彼女の姿を瞳に映すと、怯えたように顔を引きつらせた。
「お母さま、ごめんなさい……私がお父さまを……っ!」
「落ち着きなさい」
 威厳と優しさを同時に感じさせる声だった。アリスは柔和に微笑み、人差し指で彼女の頬の涙を拭った。
 レイチェルはしゃくりあげながら、濡れた瞳で頼りなく母親を見つめた。
「アルフォンスはあなたを助けたかった。これが、望んだ結果だったのよ」
 アリスは小さな子供に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で語りかけた。
「違う……」
 レイチェルは強く目をつむり、小刻みに首を横に振った。
「私には助けてもらう資格も価値もないわ!」
「価値の基準はそれぞれが持っているものよ。アルフォンスにとっては、自分の命を懸ける価値があった。だから、そう行動したの」
 アリスはレイチェルの細い手をとり、その上に自分の手を重ねた。
「アルフォンスの想いを無駄にしないで。あなたに幸せに生きてほしいと願っていたのよ」
「だって……」
 レイチェルは泣き続けた。声は掠れている。
 アリスはぎゅっと手に力を込めた。
「しっかりしなさい。あなたは母親でしょう? 母親としてしなければならないことがあるはずよ」
「私……アンジェリカにどんな顔をして会えばいいのかわからない……」
 レイチェルは顔を歪め、泣きながら息苦しそうに喘ぐ。
「休ませたほうがいい」
 背後から抑えた低い声が聞こえた。いつのまにかラウルが部屋に入ってきていた。サイファたちに背を向け、注射の準備をしているようだった。それを片手にベッドへと足を進め、アリスを押しのけるように割り込むと、空いた方の手でパイプ椅子を広げて座った。そして、いまだ呼吸の荒いレイチェルの腕を取り、手際よく鎮静剤を打った。
「出ろ。今日はもうそっとしておけ」
 押し込めた声でそう言うと、睨みつけるような視線をふたりに送り、大きな足取りで病室を出て行った。

 レイチェルの嗚咽は、次第に浅くなっていった。薬が効いてきたのだろう。
 アリスは言われるままに病室を出た。だが、サイファはまだ離れられなかった。ラウルが座っていたパイプ椅子に、崩れるように腰を下ろした。静かな病室に、ギシ、と耳障りな音が響く。彼女を刺激してしまったかと少し焦ったが、目を閉じたまま反応はなかった。もう眠りに落ちていたようだ。呼吸は規則正しいリズムを刻んでいる。
 彼はそれを聞きながら、ぼんやりと彼女を眺めていた。そのとき、ふと、シーツからはみ出している左手に気がついた。白く細い指先は、ベッドから落ちかかっている。彼は、その手をシーツの中に戻そうとした。
 だが、不意に何かを思い出したように中断した。ズボンのポケットを探る。そこから取り出したものは、プラチナの指輪だった。結婚指輪として彼女に贈ったものである。ルーファスを経て、再び彼の手に戻ってきたのだ。
 彼は、そっと彼女の左手をとった。その仕種は、まるで壊れ物を扱うかのようだった。反対の手に持った指輪をゆっくりと近づけ、薬指に嵌めようとする。
 だが、寸前で手が止まった。
 そのまま、微動だにせず、じっと考え込む。
 刻が止まったかのような、長い、長い沈黙——。
 それは、小さな吐息によって終わりを告げた。
 目をつむり、そっと手を引くと、指輪をポケットに戻した。

 サイファは病室を出た。アリスはまだ廊下にいた。窓枠に手を掛け、ガラス越しに夕空を仰いでいる。先ほどまでは眩しいほどの茜色だったが、今はもう大部分が濃紺に侵食されていた。地平近くでわずかに光が放たれているが、それもあと数分で消えてしまうだろう。
「アリス、私の力不足だ。申しわけない」
 サイファは背後から声を掛けた。うなだれるように頭を下げる。
「どうしてあなたが謝るの?」
 アリスは片手を離して振り返った。
「謝らなければならないのは私たちの方だわ」
「謝らないでください」
 サイファは硬い声で言った。彼女を気遣っているわけではない。ただの我が儘だった。謝られてしまったら、今まで積み上げてきたものがすべて崩れ去ってしまう、そんな気がした。
 アリスはもの悲しげに微笑んだ。
「いつでも、どんなときでも、あなたは全力でレイチェルを守ってくれた。言葉にはしようのないくらい、深く、深く感謝しているわ。アルフォンスも同じ思いよ」
 優しく穏やかな音色で、包み込むように言う。
 だが、サイファは険しい表情で眉を寄せた。一歩、二歩と足を進めると、窓枠に手を掛け、紺色に覆われた空を見上げた。いくつかの星が薄く煌いた。
「私はただ、レイチェルを手放したくなかっただけなんだ。それが彼女の望んでいたことかどうかはわからない」
「めずらしく弱気ね」
 アリスはくすりと笑って、彼の頭を手の甲で軽く叩いた。
「そういうときもありますよ」
 サイファは穏やかにそう答えると、にっこりと笑顔を返した。
 そのとき、地平を照らす最後の光は、世界の裏側に吸い込まれるようにすっと消え去った。

 サイファはジークの病室に戻った。
 ジークは起きていた。ベッドに横たわったまま、気遣わしげなまなざしをサイファに送る。
「レイチェルさん、大丈夫ですか」
「聞こえていたんだね」
 サイファはそう言いながら、パイプ椅子に腰掛けた。驚きはしなかった。隣室であれだけ泣き叫べば、聞く気がなくとも耳に入るだろう。
「今は薬で眠っているが、どうかな……心の傷が癒えるには時間がかかるだろうな……」
 それは、ジークに答えているというより、ほとんど独り言だった。
 ジークは、考え込むサイファをじっと見つめた。そのまましばらく逡巡していたが、口元を引き締めると、意を決して切り出した。
「サイファさん、あの……」
「ジーク!!」
 彼を遮った高い声。それと同時に、叩きつけるように扉が開かれる。そこから飛び込んできたのは、血相を変えたアンジェリカだった。ベッドの上のジークを目にするなり、小さく息を呑んだ。
「……ひどい……」
 そうつぶやいて絶句した。包帯やギプスで固定された彼の姿は、彼女にとってあまりに痛々しいものだった。
 少し遅れて、リックも駆け込んできた。苦しそうに息を切らせている。ようやく追いついたという感じだ。彼もジークの姿に言葉を失った。荒い息のまま、呆然と立ちつくした。
「事故だなんて嘘!! お父さんが連れて行ったすぐあとなのよ? 何があったの?!」
 アンジェリカはサイファに振り向くと、責めるように激しく詰問した。
 サイファは両膝に手をのせ、視線を落としていた。しかし、ジークにちらりと目を向けると、おもむろに椅子から立ち上がり、まっすぐ彼女に向き直った。
「私が、ジークを殺そうとした」
「えっ……?」
 アンジェリカは目を大きく見開いた。その漆黒の瞳には、サイファの真剣な顔が映っていた。
「レイチェルが人質にとられてしまってね」
「え? 人質……? 人質ってどういうこと? お母さんは無事なの?!」
 縋るようにサイファの服をぎゅっと掴み、混乱した面持ちで見上げる。
「ああ、なんともないよ。隣の部屋で眠っている」
 サイファは安心させるように、彼女の肩に手をのせて言った。
 アンジェリカはほっと胸を撫で下ろした。
「でも、いったい何が……」
「ここで簡単に説明できることではないんだ。家に帰ってから話すよ」
 サイファは穏やかに、しかし、どこか寂しげに微笑んだ。
 アンジェリカはうつむいて唇を噛みしめた。曇り顔でジークに振り向き、ベッドの横に跪く。
「ごめんなさい、ジーク。本当に……なんて言ったらいいか……」
 祈るように両手を組み合わせ、泣きそうにジークを見つめた。理由があったとはいえ、自分の父親が彼を殺そうとしたのである。簡単に許されることではないはずだ。詳しい事情はまだわからないが、それでもとりあえず謝らなければと思った。
 ジークは柔らかく微笑んだ。
「なんて顔してんだよ。たいしたことねぇって。だいたいなんでおまえが謝るんだよ」
「私のせいだし、お父さんがやったことだし」
 アンジェリカは沈んだ声で訥々と言う。
「おまえのせいじゃねぇよ。俺が勝手にやったことだ」
「でも、私のためなんだもの!」
「俺自身のためだ」
 ジークは毅然と言い放つと、ふっと口元を緩めた。そして、優しい目で彼女を見つめる。
「良かった、もういちどおまえに会えて」
「ジーク……」
 アンジェリカは何ともいえない複雑な表情で目を伏せた。
 サイファは後ろから彼女の両肩に手をのせた。
「アンジェリカ、今日はこのくらいに」
「……お母さんのところへ行ってもいい?」
 アンジェリカは下を向いたままで尋ねた。
「眠っているから起こさないようにね」
 サイファは優しい口調で答えた。ラウルからはそっとしておけと言われたが、眠っている間であれば問題ないだろうと考えた。いくらなんでも会うなというのは酷だろう。
 アンジェリカはこくりと頷いた。そして、ジークに目を向けると、ぎこちなく笑いかけた。
「ジーク、あしたまた来るわ」
「ああ」
 ジークは笑って手を上げようとしたが、動かせる状態ではなかった。腕が固定されていることを忘れていた。もどかしさに苛立ちが募る。
「ジーク、じゃあね」
 リックも声を掛けた。アンジェリカの背後で、温厚な微笑みを浮かべながら、軽く右手を上げた。
「ん? あ、ああ」
 ジークはしどろもどろの返事をした。彼の存在をすっかり忘れていた。このとき初めてしゃべったのではないだろうか。自分やサイファ、アンジェリカに遠慮していたのだろう。少し、申しわけないような気持ちになった。

 アンジェリカとリックは連れ立って部屋を出て行った。すぐに、扉を開く音が聞こえる。隣のレイチェルの部屋へ入っていったようだ。しばらくして、再び扉が開閉された。長い時間ではなかった。ふたつの足音は、空虚な音を響かせながら遠ざかっていく。

「君の怪我は、表向きは魔導使用中の事故ということになっている」
 サイファは唐突に切り出した。アンジェリカたちが離れるのを待っていたのだろう。
「そうみたいですね」
 ジークは素っ気なく返事をした。それは、アンジェリカが「事故」と口にしたときに悟ったことだった。サイファならそのくらいのことはやるだろう。驚くことではない。だが、やはりどこかで残念に思っている自分がいた。
「私を告訴するか? 君にはその権利がある」
「告訴しても、揉み消しますよね」
「さあ、どうかな」
 サイファは口元に笑みを浮かべた。
 ジークには彼の考えていることが読めなかった。本当に揉み消すつもりなのだろうか。だとしたら、なぜこんな話をするのだろうか。その笑みの意味は何なのだろうか。
 ——考えても仕方ない。
 小さく息をつき、目を細めて天井を見つめる。
「事故でいいです。別にサイファさんのことを恨んでません。ああするしかなかったんです。それに、これ以上、アンジェリカを苦しませるようなことをしたくないですし」
 あきらめたような拗ねたような口調。だが、言った内容は本心だった。
 サイファは少し寂しげに微笑んだ。
「アンジェリカにはすべてを話すよ」
「俺にも話してください」
 ジークはじっとサイファを見つめた。強い、真剣なまなざしだった。
「そうだね、君はどこまで知っていたかな」
「サイファさんはルーファスに脅されていたんですよね」
「ああ、レイチェルを無事に返してほしければ、君を始末しろと。だが……」
 サイファはわずかに眉を寄せた。
「彼らはどちらにしてもレイチェルを殺すつもりだったそうだ」
「えっ?」
 ジークは目を丸くした。
「レイチェルの処刑は決定事項だったんだ。私も欺かれていたということだ」
 サイファは淡々とそう言うと、疲れたように小さくため息をついた。
「君の言うとおりにすべきだったな。ふたりで救出に向かえば良かったんだ」
「サイファさん……」
 冷静な声音の中に、彼のやるせなさを感じ取り、ジークは胸が締めつけられた。
 サイファはすぐに元の引き締まった表情に戻った。
「彼女の父親も長老会のメンバーのひとりでね。娘を助け出そうと、魔導増幅器の試作品を、密かに彼女に渡したらしい」
「魔導増幅器?」
 初めて聞く名称だった。ジークは思わず訊き返す。
 サイファはポケットから首飾りを取り出した。長めの鎖に、オレンジ色の結晶がついている。それを、ジークの眼前に掲げた。
「君がアルバイトをしていたあの研究所で作っていたものだ。試作品でまだ完成はしていない。だが、アルフォンスなら容易に手に入れられただろう。以前、あそこで所長を務めたことがあったからね」
 ジークは研究所の立入禁止区域のことを思い出していた。一度だけ、サイファに連れられて見学したことがある。レベルS区域で見たものは、巨大な円筒に入ったオレンジ色の液体——エネルギー増幅素子だった。それの結晶化を研究をしているとも聞いた。おそらくその技術を使ったものなのだろう。
 サイファは固い表情で話を続けた。
「彼女はそれを使って結界を破ろうとした。だが、この増幅器に誘発され、彼女の力が暴発してしまったんだ。あたりの家々は消し飛び、死者3名、重傷者8名、軽傷者21名の惨事となった。ルーファスと彼女の父親も亡くなった」
「…………」
 ジークは愕然とした。何も言葉にならなかった。
 サイファは首飾りを軽く投げ上げ、薙ぐように掴んだ。
「不幸中の幸いというか、この魔導増幅器が不出来でね。ある一定以上の力が流入した場合、増幅機構が上手く働かず、むしろ減衰してしまうようだ。だから、これだけの被害ですんだといえる」
「え……? 減衰、してたんですか? それで…?」
 ジークは声を詰まらせながら尋ねた。
 サイファは手の中のものをポケットに戻しながら、小さく笑った。
「レイチェルの魔導の潜在能力は、私などまるで及ばない。ただ、彼女は魔導が好きではなくてね。あまり訓練をしてこなかったんだよ。そのため、力のコントロールもままならない。普段は無意識のうちに力を封印していたようだが、魔導増幅器の作用で無理やり引き出されてしまったのだな」
 そこまで言うと、ポケットから手を出し、再びジークに視線を戻した。
「ルーファスは暴発が起こる寸前に気づき、結界を張ったが、彼女の父親がそれを解除したそうだ。ルーファスが生きている限り、娘の未来はないと思ったのだろう。レイチェルを助けるために、自分の命を犠牲にして、ルーファスを道連れにしたんだ」
 ジークは息をすることも忘れ、聞き入っていた。
「ラウルは爆発に気づいて駆けつけた。そこに倒れていたレイチェルから私のことを聞き、道場に止めに来たというわけだ」
 サイファは一気に言い切った。一呼吸おいてから、静かに付け加える。
「これで、すべてだ」
 だが、ジークの方は終わっていなかった。サイファの青い瞳を挑戦的に見つめる。
「……まだ、ありますよね」
「何かな?」
 サイファは前屈みになり、ジークを覗き込みながら尋ねた。
 ジークは顔の近さにどぎまぎした。一瞬、言おうとしていたことを忘れそうになった。
「えっと……」
 そう言いながら、思考を手繰り寄せる。
「道場で、長老のひとりが言ってたことは、本当なんですか? ラウルが、あの……」
 そこから後が続かなかった。尋ねる決意は固めたつもりだったが、実際に口にするには躊躇いがあった。言いよどんだまま、唇を噛みしめる。
 だが、サイファにはそれだけで十分に通じた。大きく目を見開いてジークを見たのち、小さく息をついた。
「聞いていたのか。てっきり気を失っているものとばかり思っていたよ」
「じゃあ……」
 ジークの鼓動が早くなった。
「本当だよ」
 サイファはさらりと言った。
 ジークは泣きそうに顔を歪ませた。サイファを直視できず、わずかに視線をそらす。
「アンジェリカは、知ってるんですか」
 震える声で質問をする。
「いや、知らなくていいことだ。君も黙っていてほしい」
 サイファの答えは当然といえるかもしれない。ジークは微かにこくりと頷いた。彼が秘密にしたがる心情は痛いくらいに理解できる。そして、彼女自身のためにも、それが最善なのかもしれない。
「サイファさんは、いつから知ってたんですか」
「最初から。あの子が生まれる前からだね」
 端整な表情を崩さず、冷静に答える。
「それで、どうして……」
 ジークはそこまで言いかけて、はっと口をつぐんだ。投げかけようとした質問の残酷さに気がついたのだ。気まずそうに目を泳がせる。
 だが、サイファは逃げることなく真摯に答えた。
「ただ、幸せになる選択をしただけだよ。それが最良で最善の選択だと確信したんだ。間違っていたと思ったことは一度もない」
「……つらいと思ったことは、ないんですか」
「ない、といえば嘘になるかな。でも、それ以上に幸せだったよ」
 サイファはそう言って、にっこりと笑った。
 ジークは何かをこらえるように頬を震わせていたが、彼の笑顔を目にすると、突然、ぼろぼろと涙をこぼした。
 サイファはぎょっとした。
「どうして君が泣くかな」
 困ったように笑って肩をすくめた。
 ジークは自分でも理由がよくわからなかった。だが、どうしても止められなかった。体の不自由なこの状態では、顔を隠すこともできない。止めどなく溢れる涙は、頬を濡らし、耳を濡らし、髪を濡らし、枕をも濡らしていく。
「まいったな」
 苦笑いしながら自らの額に手をやったサイファには、その言葉どおり、困惑がありありと見てとれた。
 ジークは気恥ずかしさと申しわけなさを感じながらも、ただ、しゃくりあげながら泣き続けるだけだった。
「涙も拭えない状態で泣くものじゃないよ」
 サイファはハンカチを取り出し、彼の目尻にあてがった。そっと優しく涙を拭う。薄いハンカチ越しに伝わる温度は、とてもあたたかかった。少しだけ、一緒に泣きたいような気持ちになった。


88. 白い世界

「ホントに何なの?! この寒さっ!!」
 レイラはソファで膝を抱え、頭から毛布を被り、歯を鳴らしながら震えていた。
「だから帰れって言っただろ」
 ジークはベッドの上から、呆れたような声を投げた。彼にも数枚の毛布が上乗せされている。寒いのは彼も同じだったが、情けない母親の姿を見ていたら、寒いと言葉にするのもバカらしくなった。
「帰っても寒いのは変わんないわよ!」
 レイラは噛みつくように言った。

 ジークはため息をつきながら、窓の外に目を向けた。鈍色の空から、絶え間なく白いものが舞い降りてくる。体が起こせないので空しか見えないが、街中、白くなっているのだろうと思った。薄暗いにもかかわらず、どことなく眩しさを感じる。白という色がなせる業に違いない。

 ここは負傷したジークが搬送された医療施設である。王宮の敷地内にあるらしい。母親のレイラは、昨晩、ここへやってきた。ジークが入院したとの連絡を受け、取るものも取りあえず、バイクを飛ばしたのだ。
 サイファは彼女に事の顛末を説明した。ジークは事故ということにしてもいいと思ったが、サイファは正直に話すことを選んだ。弁解も正当化もせず、淡々と事実のみを告げていた。一部の事柄については、敢えて触れなかったが、それは保身とは無関係のものである。
 レイラは黙って聞いていた。感情を抑えるように、口を固く結んでいた。
 サイファが話し終えると、彼女は無言で目を伏せた。じっと何かを考え込んでいるようだった。そして、ふいに顔を上げると、大きく腕を振り上げ、彼の頬を平手で打った。
 バチンと大きな音がした。
 サイファの顔は、横向きのまま動きを止めた。打たれた左頬は、じわりと赤みを増していった。
「これで、許すわ」
 レイラは噛みしめるように言った。
「死んでたらどうしたかわからないけど、生きてるし、ちゃんと治るっていうし……」
 微かに震える涙声で続ける。しかし、表情はしっかりとしていた。わずかに潤んだ瞳でサイファを見つめ、少し疲れたように微笑した。
「あなたも、つらかったわね」
 いたわるような、優しい口調だった。
 サイファは黙って深く頭を下げた。長い間、そうしていた。ジークには、彼の背中が泣いているように見えた。

 その後、サイファは、早く帰るようにとレイラに忠告した。次第に冷え込み、雪が降ってくるだろう、というのがその理由だった。
 つまり、この国を守る結界に異常があるということだ。
 この国は一年を通して過ごしやすく、それほど大きな気温の変動はない。氷点下にまでなるのは、結界に何らかの異常があるときのみである。滅多に起こることではない。通常、人の一生のうちで一度あるかないかだろう。
 だが、前回からわずか三年で、今回の異常が起きた。また、今までのほとんどは四大結界師の死亡、すなわち結界のバランスを欠いたことに起因するものだったが、今回はもっと直接的なことが原因である。レイチェルの魔導の暴発で、結界が損傷したのだ。天高く走った魔導の力が、結界を突き抜けたらしい。
 このようなことは今までになかった。そのため、まだ影響の予測はついていない。
 ジークは慄然とした。その威力をあらためて思い知らされた。レイチェルにそんな魔導力があるとは信じがたい気持ちだった。小柄な彼女の柔らかい微笑みと、国防をも脅かすほどの強大な魔導力が、どうしても結びつかなかった。
 だが、レイラには実感のない話だったようだ。きちんと理解したのは、寒くなり雪が降るということだけである。いや、それだけで十分だった。帰らなければならない理由は伝わったのだ。ジークも同様に、帰ることを勧めた。ここにいても、できることは何もない。
 しかし、彼女はふたりの忠告を聞こうとはしなかった。今晩くらいはジークのそばにいたいと言い張った。それは、母親として当然の思いかもしれない。
 サイファは強くは言わなかった。そもそも、強く言える立場にはなかった。彼女のために毛布とソファを用意すると、ふたりを残して部屋を出た。

 そして、翌朝。彼が言ったとおりのこの寒さ、というわけである。

「もう帰った方がいいんじゃねぇのか? そのうちホントに帰れなくなるぞ」
 途切れる気配のない雪を見ながら、ジークは心配そうに言った。
「うーん、そうね……あんたも元気そうだし……」
 レイラは窓の外を眺め、それからジークの様子を窺った。体に重傷を負っているものの、表情や声の調子は普段と少しも変わらない。むしろ、何かすっきりしているように思える。心にまで傷を負ったわけではなさそうだ。
「わかった、今日は帰るわ」
 ソファから立ち上がり、被っていた毛布をそこに置く。途端に寒さが沁み入ってきた。ゾクッと身震いする。だが、毛布を被ったまま帰るわけにもいかない。帰るまでの我慢だ。動いてさえいれば、なんとか大丈夫だろうと思った。
「また来るわね」
「無理して来なくてもいいからな」
 一人前に気遣いする息子を見て、ふとレイラの悪戯心が顔を出した。ニッと笑って振り向く。
「アンジェリカとふたりっきりになれないから?」
「ばっ……バカ言ってんじゃねぇよ!」
 ジークは顔を真っ赤にして反論した。本当にそんなつもりはなかったのだが、これではまるで図星を指されたかのようだ。ますます焦ってしまう。しかし、おかしそうに声を殺して笑う母親を見て、からかわれているのだと悟った。相手の期待どおりの反応をしてしまう自分が恨めしい。
「ったく、早く帰れよ! バイクは押してけよな」
「わかってるって」
 レイラはからりと笑って、ひらひらと手を振った。そして、寒そうに肩をすくませながら、小走りで部屋を出て行った。

 軽い足音が遠ざかり、あたりは急に静かになった。不安になるほどの静けさだった。この世界にひとり取り残されたかのような錯覚すら覚える。ありえないことはわかっている。だが、頭とは別のところで感情が生まれていた。これほど臆病になったことは、かつてなかった。

 ガラガラガラ——。
 耳障りな濁った音によって、静寂は打ち破られた。
 扉が開き、そこからラウルが入ってきた。普段とまったく変わりのない格好だった。右手には小さな薬箱を下げている。
 ジークはほっと安堵した。知った人間を目にして、根拠のない不安はたちまち消え去った。ラウルを見て嬉しく思ったのは、これが初めてかもしれない。
「おまえ、寒くねぇのか?」
「耐えられないほどではない」
 ラウルは素っ気なく答えると、ベッド脇にパイプ椅子を広げて座った。ジークの左腕を毛布から出し、手早く固定具と包帯を外す。左腕は、骨折だけでなく、裂傷も負っていた。その部分の消毒を行い、薬の塗布をする。あいかわらずの手際良さだ。
 ジークは彼の横顔をじっと見つめた。
 ——こいつが……。
 きのうの話が無表情な横顔に重なる。信じたくなくても、それが真実である。それは受け止めている。しかし、いったいなぜ、いったい何が——そんなことを考えているうち、次第に苛立ちが募っていった。
「聞いたぜ、本当の話」
 ジークは重々しく口を切った。どうしても黙っていられなくなった。
 ラウルは無言のままだった。新しい包帯を巻き、固定具を取りつけていく。焦った様子は見られない。その余裕の態度が、ジークにはたまらなく腹立たしかった。
「言い訳のひとつでもしてみろよ」
 睨みつけながら、責めるように言う。
 しかし、ラウルがしおらしさを見せることはなかった。凍りつくようなまなざしで、冷たくじろりと睨み返す。
「何を聞いたかは知らんが、少なくともおまえに言い訳をすることなど何もない」
 その声は、静かではあったが、凄まじい迫力を秘めていた。
 一瞬、ジークはたじろいだ。だが、引くつもりはなかった。臆することなく強気に言い返す。
「俺は無関係だっていうのか?」
「関わるなと忠告したはずだ」
 逃げ口上としか思えないその言葉に、カッと頭に血がのぼる。
「答えになってねぇよ!」
「無関係だ。おまえは他人だ」
 ラウルは厳然と答えた。
 ジークは面食らった。あまりにもはっきりと言われ、返す言葉をなくしてしまった。言われてみれば、確かに他人だ。自分が立ち入っていい問題ではないかもしれないと思えてきた。ぐっと唇を噛みしめる。
 ラウルは包帯や薬を片付け始めた。
「私はこれからアカデミーへ行く。何かあったら看護師を呼べ」
「アカデミー……」
 ジークは忘れていた現実を思い出した。
「俺、卒業できるのかな」
 顔を曇らせ、弱気につぶやく。彼にとっては重要な問題だった。卒業できなければ、せっかく決まった就職もふいになってしまう。
「卒業論文の評価次第だ」
 ラウルは振り向きもせず、無愛想に答えた。
 もうすぐアカデミーの授業は終了し、その後、各自卒業論文に取りかかる予定になっている。そのことはジークも聞いていた。だが——。
「この腕じゃ、書けねぇよな……」
「特別扱いはしない」
「だろうな」
 ジークはため息まじりに同調した。ラウルならそう言うだろうと思った。期待など微塵も持っていなかったはずだが、それを聞いた途端、闇に閉ざされたような絶望的な気持ちになった。
「その腕を折った張本人に何とかしてもらえ」
 ラウルは薬箱の蓋をバタンと閉めた。
 ジークは怪訝に片眉をしかめる。
「何とかって、何だよ」
「自分で考えろ」
 ラウルは突き放すようにそう言うと、椅子から立ち上がった。長い焦茶色の髪が大きく揺れた。
「待てよ!」
 ジークは慌てて呼び止めた。
 ラウルはわずかに振り向き、睨むように彼を見下ろした。
「外……見てぇんだけど……」
 ジークは遠慮がちに言った。少し恥ずかしそうに、薄く耳元を赤らめる。
「体に障る」
 ラウルは素気無くはねつけた。
 だが、ジークはあきらめなかった。
「構わねぇ。それでも見ておきたいんだ」
 起こせない体で首だけを伸ばし、必死に食らいつく。
 ラウルは、ジークと視線を絡めた。その瞳を探るように見つめる。強く率直なまなざし。簡単に引きそうもない。あきらめたように小さくため息をつくと、面倒くさそうに薬箱を置いた。ベッドの半分に角度をつけて固定し、ジークの上半身を起こしてやる。
「す、げぇ……」
 ジークの視界に、一面の銀世界が広がった。その眩しさに、思わず目を細める。主要な道路以外はほとんど白で覆われているといっても過言ではない。その上に、さらに粉雪が降り積もっていく。まるで、世界を塗り替えようとしているようだ。美しいような、恐ろしいような光景——。
「脆弱な世界だな」
 思いがけず、ラウルが口を開いた。背筋を伸ばして腕を組み、まっすぐ外を見ている。
「人の手で創り出したものは、人の手でしか維持できない」
「……俺に、守れるかな」
 ジークは外を見つめたまま、ぽつりと言った。
 ラウルは冷ややかな視線を彼に流した。
「世界を守る前に、すべきことがあるだろう」
「……ああ」
 ジークは白い息を吐きながら、天井に向き直った。

 アンジェリカは純白の平原を眺めていた。
 きのうまでは家が立ち並んでいたはずだが、今は大きく視界が開けている。瓦礫も土台も地面も、すべてが白い雪に覆い隠され、そこに何があるのかわからない。目に入るのは、白くなめらかに波打つ表面だけである。その周囲には、立入禁止と書かれた黄色のテープが緩やかに渡されていた。
 ——これは、私のせいで起こったこと。
 眉根を寄せ、顔を大きく上げる。灰色の空から、絶え間なく降り注ぐ白い雪。それを眺めていると、空に吸い込まれそうになる。ふわふわの綿雪が、頬をくすぐるようにそっと舞い降りた。体温がそれを融かし、雫へと変えていく。
 サイファから何が起こったかを聞いた。彼は、アンジェリカには責任はないときっぱり断言した。レイチェルに聞いても、ジークに聞いても、きっと同じことを言うだろう。しかし、アンジェリカには、そうは思えなかった。
 ——私の存在が起こしたこと。
 まぶたを震わせながら目を閉じる。
 呪われた子、不吉な子、穢れた血——頭の中でたくさんの声が鳴り響く。畳み込むように追い詰めてくる。忘れていた、忘れようとしていた闇が押し寄せてきた。さらわれ、呑み込まれそうになる。息ができない。
 ——怖い、助けて、誰か……!
 はっとして目を開いた。その瞳に映ったものは、暗い闇ではなく、白い世界。そのまぶしさに、一瞬、目まいを覚えた。胸に手を当て、深呼吸する。
 目を閉じても開いても、つらいものしか見えない。
 ふいに、頬を伝って透明な雫が落ちた。涙ではなく、融けた雪だった。その道筋を手の甲でそっと拭う。

 これから、私、どうやって生きていけばいいの?
 生きていていいの?
 生きていかなければならないの?

 アンジェリカは、もういちど、鉛色の空を仰いだ。苦しげに目を細める。そして、汚れのない雪を踏みしめながら、その場をあとにした。

「ジーク」
 アンジェリカは、半開きの扉からひょっこり顔を覗かせて、ベッドの上の彼に声を掛けた。しかし、返事はない。
「ジーク、寝てるの?」
 もういちど声を掛けた。やはり返事はない。不安そうに顔を曇らせながら、電灯が消されたままの薄暗い部屋へ入っていった。
 彼は眠っていた。真上を向いたまま目を閉じ、微かな寝息を立てている。
 アンジェリカはほっと胸を撫で下ろした。ベッド脇に立てかけてあったパイプ椅子を広げて座る。
 ——ジークも、ひどい目にあわせてしまったわね。
 そう心の中でつぶやきながら、安らかな寝顔を見つめた。
 彼は自分自身のためだと言った。きっと本気でそう思っているのだろう。だが、そもそも自分とジークが出会っていなければ、こんなことにはならなかったはずだ。自分の存在がすべての元凶なのだ。
 ——本当に、どうしたらいいの? 私……。
 昨晩から一睡もせずに考えていた。しかし、何の結論も導き出せなかった。同じことをぐるぐると悩み続けるだけである。頭も心も、すでに疲弊しきっていた。
 アンジェリカは大きく息をつくと、ベッドの端に、こてん、と倒れ込むように頭をのせた。毛布があたたかく心地いい。凍えた頬が、混乱した頭が、ゆっくりと融けていくように感じる。そのまま、包み込まれるように眠りに落ちていった。

 窓からの雪明かりが、ふたりをほのかに照らしている。
 しかし、その光は、ふたりを温めてはくれない。
 部屋は冷たさを増していた。

 ジークは目を覚ました。象牙色の天井をぼんやりと目に映す。考え事をしているうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。昨晩、ほとんど眠れなかったせいかもしれない。
 ふと、毛布が引っ張られているように感じ、何気なく横を見た。
「えっ……?!」
 自分の肩のすぐ横にあったのは、アンジェリカの頭だった。ここから見えるのは後頭部だけで、顔までは見られないが、間違いなく彼女であると断言できる。小さな背中は規則正しく上下していた。どうやら眠っているようだ。
 ジークは申しわけなく思った。自分が寝ていたせいで、待ちくたびれてしまったのだろう。声を掛けようか迷ったが、起こすのも悪いような気がしてやめた。きっと彼女も昨晩は眠れなかったに違いない。
 しかし、この状態のままというのも落ち着かない。無性にそわそわする。少し動くだけで触れるくらい近いところに彼女が眠っているのだ。おまけに、微かな甘い匂いが鼻をくすぐってくる。なのに、自分はまるで身動きがとれない。これでは逃れることもできない。ただ、心拍を早くしたまま、状況が変わるのを待つだけだった。

 いくつもの白い結晶が、窓の外を緩やかに通り過ぎる。
 まだ止む気配はない。

「……ん……?」
 アンジェリカは小さく声を漏らし、目を開いた。ぼんやりと顔を上げる。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。あたりを見まわし、ジークの姿を目にすると、ようやくそれを思い出した。はっとして、少し慌てたように口を開く。
「あ、ごめんなさい、いつのまにか寝てしまって……」
「いや、俺の方こそ悪かった。せっかく来てくれたのに、寝てたみたいで」
 ジークは胸の奥がふわりと温かくなった。彼女とこんな何気ない会話をしたのは、ずいぶん久しぶりのように感じた。
 アンジェリカは小さく肩をすくめて笑った。
「寒いだろ。この毛布、掛けてろよ」
 ジークは自分の上にのっている毛布を、顎で指し示した。彼女の格好は、普段と比べればかなりの厚着だが、それでもまだ寒そうに見えた。
「大丈夫、平気よ」
「俺は暑いくらいだから遠慮すんな」
「本当に大丈夫、寒くないから」
 アンジェリカはにっこりと微笑み、下がっていたジークの毛布を掛け直した。
「ジーク、何か私に出来ることはある?」
「いてくれるだけでいいよ」
 それは、ジークの本音だった。そして、一番の願いだった。それを阻むものはもう何もない。少なくとも、このときのジークにはそう思えた。
 アンジェリカは少しとまどったように、薄くはにかんだ。

 ふたりの間に沈黙が流れた。
 ふたりそれぞれが考えに耽っていた。

 外は、白い世界が作る、深い静寂。
 雪の積もりゆく音さえ聞こえそうだ。

「……なあ」
 ジークは天井を見つめて切り出した。そして、大きく深呼吸をすると、ゆっくりとアンジェリカに顔を向けた。とても真剣な顔だった。まっすぐ射抜くように彼女の瞳を見ている。
 彼女はきょとんとして、小首を傾げた。
「なに?」
「俺は、おまえが好きだ」
 ジークは目をそらさず、はっきりと言った。この気持ちは、何を言われても、どんな事実を聞かされても、揺らぐことはなかった。これからも決して変わることはない——その自信があった。
「……うん」
 アンジェリカは小さく相槌を打った。
「だから、伝えておきたいことがある。こんな動けない状態でってのも情けないけど……どうしても、今、伝えておきたいんだ」
 ジークは言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。穏やかだが、少し固い声だった。微かな緊張が、その声から伝わってくる。
「返事は、今じゃなくていい。ただ、聞いてくれればそれでいい」
 アンジェリカは訝しげに顔を曇らせた。彼は何を言おうとしているのだろう。返事とは何なのだろう。話が見えない。落ち着かない。次第に鼓動が早くなる。
 ジークは真摯に彼女を見つめた。
「俺は、おまえを幸せにしたい」
「えっ?」
 アンジェリカは大きく目を見開いた。
 ジークはさらに畳み掛ける。
「ずっと一緒に生きていきたいと思ってる」
「あ……」
 アンジェリカは微かな声を漏らすと、口をきゅっと結び、うつむいた。黒髪がはらりと頬にかかる。手は膝の上に置いたままだった。スカートを掻き寄せるように掴む。薄い布地に、ひび割れのような深いしわが、放射状にいくつも走った。
 ジークは彼女の変化に気づく余裕などなかった。懸命に話を続ける。
「だから、今すぐってわけじゃねぇけど、そのうち、おまえにはラグランジェ家を出てほしいんだ」
 そこでいったん切り、小さく呼吸をする。
「そして、俺と……」
「やめて」
 震える小さな声。
「え?」
 予想外の反応に、ジークはうろたえた。
 そのとき、初めて彼女の異変に気がついた。声だけではない。肩も腕も震えていた。そして、顔を隠すように深くうつむいている。
「そんなの、駄目、無理……」
 さらに小さく、消え入りそうな声。
「なん、で……」
 ジークは混乱した頭で、ようやくそれだけの言葉を口にした。
 彼女は何も答えなかった。
「アンジェリカ……?」
 とまどいがちに名前を呼びかける。
 それでも返事はなかった。
 ジークは焦った。頭は燃えるように熱く、背筋は凍りつくように冷たくなった。
「アンジェリカ、顔を上げろ、俺を見ろ」
「ごめんなさい」
 それが最後の言葉だった。
 アンジェリカは口元を押さえて立ち上がり、彼には目を向けず、逃げるように部屋から駆け出していった。
「アンジェリカ!!」
 ジークは声の限りに叫んだ。しかし、彼女の足は止まらなかった。この体では追いかけることも出来ない。ただ、離れていく足音を聞くしかなかった。
 ——どうして……。
 ジークは愕然とした。いったい何が彼女を傷つけたのかわからなかった。混沌とした頭で必死に考えようとする。だが、まるで思考が働かない。はっきりしない後悔と自責の念に、押しつぶされそうになっていた。

 窓の外では、いまだ雪が降りしきっていた。
 木の枝にのしかかった冷たい綿帽子が、ばさりと音を立てて崩れ落ちた。


89. 伸ばした手の先

 ユールベルは机に頬杖をつき、窓越しに空を見上げた。午前中よりも雲が厚くなっているような気がする。傘を持ってこなかったが、帰るまでもつだろうか——ぼんやりとそんな心配をした。
 授業がつまらないわけではなかったが、丁寧すぎる担任の解説は、彼女をときどき退屈にさせた。もっとも、レオナルドはそれでもついていくのがやっとである。担任の進め方が間違っているわけではないのだろう。
 ガラガラガラ——。
 ノックもなしに、引き戸が開けられた。
 授業中の担任と生徒たちは、いっせいにそちらに目を向けた。扉を開いたのは、見知らぬ男だった。アカデミーの教師でも生徒でもなさそうだ。
「ユールベル=アンネ=ラグランジェはいるか」
 男は教室を見まわしながら尋ねた。
 ユールベルは怪訝な顔で手を挙げた。見ず知らずの男に、なぜ自分の名前が呼ばれているのか、まるでわからなかった。頭を巡らせてみたが、思い当たる節はない。
「一緒に来てください」
 男は丁寧な口調で言った。
 ユールベルはますます訝った。授業中に呼びつけるなど、よほど重要なことに違いない。だが、やはり何も思い当たることはない。まさか、アンソニーに何か——一瞬、不吉な考えが頭をよぎった。そんなはずはないと、懸命にその思考を振り払う。
「ユールベル」
 男は急かすように名を呼んだ。
 ユールベルは不安そうな面持ちで立ち上がり、男に促されるまま教室を出た。扉が閉められ、彼女の姿が見えなくなる。
 レオナルドは弾けるように立ち上がった。
「おい、レオナルド! どこへ行くつもりだ!」
 担任が呼び止めたが、完全に無視をした。振り向きもせず堂々とその前を横切り、彼女を追いかけ教室を飛び出していった。

 ユールベルは、応接室の前へ連れてこられた。どうやらこの中で何かがあるらしい。二年以上、アカデミーに通っているが、ここに入るのは初めてだった。
 男が扉を開いた。
「姉さん!!」
 応接室のソファに、弟のアンソニーが座っていた。彼女の姿を見るなり立ち上がり、落ち着かない様子で駆け寄ってきた。
「アンソニー、どうしてここに……」
 彼が元気そうなのでとりあえずは安堵したが、アカデミーになぜ彼まで呼ばれたのか不思議だった。
「ふたりとも、掛けて」
 応接室の中にいた年配の男性が、ソファを示しながら言った。彼も教師ではないようだ。おそらく王宮の関係者だろう。サイファのものと似たような濃青色の制服を身に着けている。
 ユールベルは、自分より背の高くなった弟の手を引きながら、中へと足を進めた。並んでソファに腰を下ろすと、睨むように目の前の男を見た。
「何の用なの?」
「単刀直入に言います」
 男性は膝の上で手を組み合わせ、真剣な表情をふたりに向けた。
「あなた方の母親が重傷を負い、入院しています」
「え…? どういうことですか?」
 アンソニーが身を乗り出して尋ねた。
「本日昼頃、ルーファス=ライアン=ラグランジェ宅で大規模な爆発が起こりました。それに巻き込まれたようです」
 ユールベルはうつむき、無言で立ち上がった。長い横髪が肩から滑り落ち、顔に陰を作る。何かをこらえるように固く結ばれたこぶしは、体の横でわずかに震えていた。
「私たちに、親はいません」
 小さな口を開き、重々しくそう告げる。そして、いまだ座っている弟の手首を掴み、乱暴に引いた。
「待ってよ、爆発に巻き込まれたって……」
 アンソニーは手を引っ張られたまま、それでも立ち上がろうとしなかった。困惑した顔で姉を見上げる。
 彼女の表情には、焦りと怒りが滲んでいた。
「他人よ、関係ない」
「僕らの母親だよ」
「違う」
 ユールベルはぎゅっと心臓を鷲掴みにされたように感じた。弟はまだあの人のことを母親だと思っている——そのことがたまらなく悔しく、そして怖かった。
「姉さん、僕は、やっぱり気になるよ」
 アンソニーは、ユールベルがどう思っているかは察していた。それでも、母親の様子を知りたい、見に行きたいという思いは消せなかった。もし、このまま会わずに母親が死んでしまうようなことがあれば、きっと一生後悔してしまうだろう。
「どうして? せっかく忘れかけていたのに……」
 ユールベルの右目は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。その悲しげな瞳は、アンソニーの胸を深く貫いた。一瞬、気持ちが揺らいだ。だが——。
「ごめん、僕は、やっぱり母さんのところへ行くよ」
「勝手にすればいいわ」
 ユールベルは、涙をこらえた声で、突き放すように言った。そして、掴んでいた手首を離すと、足早に応接室をあとにした。

 戸口にはレオナルドがいた。話を立ち聞きしていたのだろう。心配そうな顔を彼女に向けたが、声は掛けなかった。早足で歩く彼女のあとを、ただ無言でついて歩く。
 彼女は教室には戻らなかった。昇降口から外に出る。せり出した厚い雲が、昼下がりの強い日差しを遮り、どんよりと重く湿った空気を作っていた。
 アカデミーの門を出たところで、彼女は不意に足を止めた。
「どこまでついてくるの?」
 後ろのレオナルドに、振り返らないまま尋ねる。
「家に帰るんだろう」
「駄目、来ないで」
 語気を強くしてそう言うと、振り切るように、よりいっそうの早足で歩き始めた。緩やかなウェーブを描いた長い金髪が、頭の後ろで結ばれた白い包帯と絡み合うように揺れる。
 レオナルドは彼女の嘆願を聞き入れなかった。遅れることなくついていく。
「今にも壊れそうなおまえを、ひとりにはできない」
「もう、あなたを利用したくない」
 ユールベルはかすれた小さな声で言った。
「俺は利用してくれて構わない。それだけでいい」
「私が、駄目になるの」
 苦しげにそう言うと、足を止めた。ゆっくりと振り返り、レオナルドの青い瞳を見つめる。
「お願い、ひとりになりたいの」
「ユールベル……」
 レオナルドは手を伸ばした。彼女を抱きしめようとする。
 しかし、ユールベルは拒絶した。顔をそむけ、手を伸ばし突き放す。一歩、二歩と後ずさると、くるりと背を向けて走り去った。長い髪が大きく波を打ってなびいた。
「ユールベル……」
 レオナルドは追いかけることが出来なかった。足が、地面に根を下ろしたように動かない。小さくなる後ろ姿を見つめながら、ただ彼女の名前をつぶやくしかなかった。

 ユールベルは自宅に帰った。ガラス窓に寄りかかり、崩れるように座り込むと、ぼうっと空を見上げた。灰白色の雲が緩やかに流れていく。

 そのまま、数時間が経った。
 彼女はずっと動かず、窓際に座り込んでいた。いまだにぼんやりとしている。すでに陽は落ち、空は濃紺色に塗り替えられていた。部屋も暗くなっていたが、灯りはつけていない。
 はぁっ……。
 彼女は息を吐いた。いつになく寒く感じる。気のせいかもしれない。自分の心が、そう感じさせているのだろうと思った。
 ——バルタスもアンソニーも、私ではなくあの人を選んだ。
 その事実が彼女の心を蝕んだ。大きな穴が開いたように感じた。焦がれるように痛く、そして寂しい。
 バルタスはともかく、アンソニーだけは自分を選んでくれると信じていた。だが、その幻想は見事に打ち砕かれた。しかし、冷静に考えれば考えるほど、この結果が当然のことのように思えてきた。自分は選んでもらえるような人間ではないのだ。そんなことはわかっていたはずなのに、どうして忘れていたのだろう。
 手足が冷たくなってきた。痺れたように感覚が薄い。これも気のせいなのだろうか。
 不意に、空から白いものが舞い降りてきた。
 ——雪?
 凍てついた涙と呼ばれる、白い小さな雫。三年前にも目にしている。閉じ込められた二階から、結界ごしに見ていた。今の状態とそれほど変わらない。あの頃は、自分の行動を奪う結界がなければ、もっと自由に生きられると思っていた。だが、自分の心は、いまだに過去に囚われたままである。

 ガチャッ。
 玄関の扉が開く音が聞こえた。
 ユールベルはびくりとした。確か、鍵は掛けたはずだった。一瞬、レオナルドかと思ったが、鍵はとうの昔に返してもらっていた。
「姉さん? いないの?」
 廊下から聞こえてきたその声は、よく知っているものだった。聞き違えるはずはない。
 でも、いったいどうして……?
 ユールベルはわけもわからず、声のする方に目を向けた。
 リビングルームの扉を開けて入ってきたのは、まぎれもなく弟のアンソニーだった。彼は、暗がりの中に姉の姿を見つけると、ほっとしたように息をついた。
「良かった、いたんだ」
 そう言いながら、パチンとスイッチを入れた。部屋に人工的な灯りが満ちた。
 ユールベルはまぶしさに目を細めた。
「真っ暗だったからビックリしたよ。帰ってないのかと思って心配しちゃった」
 アンソニーは、あどけなさの残る笑顔を見せた。
「まだそんな格好をしてたんだ。寒くないの?」
 ユールベルの隣に座り込むと、細い指先を取り、優しく包むように握りしめた。
「アンソニー……?」
 ユールベルはとまどったように呼びかけると、下を向いている彼を見つめた。
「だいぶ冷えてるね」
 アンソニーはぽつりと言った。そして、自分のジャケットを脱ぐと、彼女を抱き込むようにして羽織らせた。華奢な彼女にとっては、大きいくらいのものだった。一緒に暮らし始めて以来、成長期の弟は驚くほど背が伸びていった。身長はもう追い越されている。
「なんか、結界に穴が空いたらしくて、これからもっと冷え込むって」
 ユールベルの肩に手を置いたまま、ガラス越しに空を見上げる。空からは、白い雪がひらひらと舞い降りていた。その数は次第に増してきているようだ。
「夜ごはん、まだだよね。温まるものを作るから」
「どうして……戻ってきたの?」
 ユールベルは不思議そうに尋ねた。どことなく、怯えているようだった。
 アンソニーは質問の意味がわからず、きょとんとした。
「どうしてって、ここ、僕の家だよ? 僕と姉さんの家」
「あの人のところに行ったんじゃ……」
「心配だから様子を見てきただけなんだけど……もしかして、僕が母さんと一緒に暮らすことになったと思ったの?」
 ユールベルは返事の代わりに涙をこぼした。真珠のようなきれいな丸い雫が、頬をかすめて落下し、彼の手の甲で弾けた。
 アンソニーは肩をすくめて笑った。母親からは、新しい家で一緒に暮らそうと、しつこいくらいに懇願された。だが、それははっきりと断ってきた。
「心配しないで、僕はどこにも行かないから」
 ユールベルはうっと声を詰まらせ、彼に縋りついて泣いた。右目からあふれる涙が、白いシャツを濡らしていく。
 アンソニーは、小さい子供をあやすように、彼女の頭に優しく手を置いた。

 翌日、ターニャがユールベルたちの家へ遊びにきた。
 話題は昨日の爆発のことだった。巻き込まれた人々の多くがラグランジェ家の人間だったと知り、その中にユールベルたちの家族がいたのではないかと心配をしていたらしい。どうやら、遊びにきたというよりも、そのことを聞くために来たという方が正しいようだ。
「はい、母親が巻き込まれました」
 ターニャの問いかけに、アンソニーはいたって落ち着いた様子で答えた。
「え? ホントに?」
 ターニャは目を丸くし、白い息を混じらせながら言った。飲みかけの紅茶を机に戻す。自分で質問しておきながら、そんなことはないだろうと心のどこかで思っていたのだろう。
「うちは爆発が起こったところのすぐ近くだったんです。父さんは仕事で家にいなかったけど、母さんは家にいたから……」
 アンソニーは淡々と説明した。
「それで、無事なの?」
「命に別状はないそうです。骨折だけって聞きました」
「そう、よかった」
 ターニャはほっと胸を撫で下ろした。はっきり言えば、あの母親のことは嫌いだった。一度会っただけだが、恐ろしく印象は悪かった。それでも、知った人間が亡くなるというのは、気持ちのいいものではない。
「やめて、あの人の話は……」
 ユールベルは弱々しい声で、ぼそりと言った。ソファの上で膝を抱え、顔を曇らせている。
「あ……」
 ターニャは配慮が足りなかったと反省した。この姉弟と母親の事情は、少しは知っているつもりだった。アンソニーはともかく、ユールベルはいまだに異常なほど母親を怖れている。彼女の前でする話ではなかった。
「ごめんね」
 素直に謝罪の言葉を口にすると、ユールベルの隣に移動する。そして、安心させるように彼女の肩を抱きながら、そっと寄りかかった。
 ユールベルは気を持ち直しかけた。寮のときから、彼女はいつもこうやって温もりをくれた。初めは馬鹿なことと思ったが、案外これで落ち着いた。彼女の気持ちが嬉しかったのかもしれない。
 だが、そのとき——。
「でも、逃げてばかりじゃ、何も変わらないんじゃないかなぁ」
 出し抜けに、ターニャがそうつぶやいた。ほとんど独り言のようだった。そのときの彼女の目は、ここではないどこか遠くを見ていた。
 ユールベルは体をこわばらせた。
「わた……し……」
 震えながら、細くかすれた声を漏らす。膝に顔を埋め、厚手のスカートの裾を、何かをこらえるようにきつく掴んだ。
 ターニャははっと我にかえった。
「あ、ごめん! 今の忘れて!」
 勢いよくそう言うと、ユールベルをぎゅっと抱きしめた。今日二回目の失態だ。顔をしかめながら、激しく自分を責めた。
 ユールベルは、ターニャの腕の中で、彼女の言葉をぼんやりと反芻した。

 それから一週間が過ぎた。
 事故から二、三日ほど雪が降り続き、この世界は一面、白色に覆われたが、それ以降は新たに降ることはなかった。だが、まだ冷え込みは続き、地面には固くなった雪が残っている。

 ユールベルは、半分凍りついた雪を踏みしめながら、大きな建物を見上げた。
 アンソニーはあれから何度かユリアの見舞いに行っていた。そのたびに、もう帰ってこないのではないかという不安に押しつぶされそうになった。だが、行くなとは言えなかった。ただ、祈りながら彼の帰りを待つだけだった。
 彼は必ずここへ帰ってくると言っている。その言葉を信用していないわけではない。だが、どうしても、怯える心は止められなかった。
 ——逃げてばかりでは、何も変わらない。
 ユールベルは表情を引き締め、足を踏み出した。ジャリ、と氷の砕ける音がした。

「良かったわ、レイチェルが元気になって」
 アルティナはカラリと笑って椅子に座った。
 ベッドのうえで上半身を起こしたレイチェルも、穏やかに微笑みを返した。萌黄色の寝衣に、厚手のカーディガンを羽織っている。現在、病棟にはある種の結界が張られており、そこそこの暖かさが保たれていた。そのため、毛布にくるまるような必要はなくなっていた。
 アルティナは、サイファから大体の事情を聞いていた。爆発事故を起こしたのはレイチェルの魔導が原因であることも、そのせいで父親が亡くなってしまったことも——。
 レイチェルは事故から三日ほどの間、ほとんど口を開くこともなく、壊れたように動かなかった。ベッドに横になったまま、生気のない表情でぼんやりしているか、眠っているかのどちらかだった。
 しかし、次第に表情を取り戻し、一週間が過ぎて、ようやく起き上がれるまでになった。
 アルティナは素直にそのことを喜んだ。まだ心の傷が癒えたわけではないだろう。だが、彼女はあえて普段どおりに接した。こういうとき、まわりに必要以上に気を遣われるのが、何よりもつらいはずだと思ったからだ。
「今度は子供たちも連れてくるわね……って、その前に退院しちゃうかしら」
 そう言って、あははと笑う。
「ね? いつから復帰できるの?」
「そのことなんだけど……」
 レイチェルは遠慮がちに前置きした。
「何?」
 アルティナは軽い調子で続きを促した。一瞬、嫌な予感がしたが、無理やり心の隅に追いやった。
 レイチェルは表情を硬くして、彼女を見上げた。
「私、辞めさせてもらおうと思っているの」
「なっ……辞める?! 何を言いだすの?! ふざけないで!!」
 アルティナは取り乱したように叫んだ。椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、ベッドに手をつくと、正面から彼女に顔を突きつける。
 だが、レイチェルは冷静だった。すぐ近くまで寄せられた顔に引くこともなく、薄い微笑みを見せる。
「本気で言っているのよ」
「あれは事故なのよ?! あなたが悪いわけじゃない。責任を取る必要なんて……」
「そうじゃないの、聞いて」
 落ち着いた声でそう言うと、まっすぐに視線を向けて理解を求める。
 アルティナは澄んだ瞳に気圧され、言葉をなくし口をつぐんだ。倒した椅子を起こし、静かに座る。それは、彼女の話を聞くという意思表示だった。
 レイチェルは真剣な表情で口を切った。
「私は自分の力を制御することができない。このままでは、いつかアルティナさんも巻き込んでしまうかもしれないの」
 しっかりとした口調で、ひたむきに説明する。
 だが、アルティナは納得しなかった。
「今まで十年間、何事もなかったじゃない」
「今後もないって保証はないわ」
「そんなものいらない!」
 冷静なレイチェルの言葉に、彼女は全力で反論した。感情が昂り、声が大きくなっていく。
「未来を保証するものなんて、あるわけないじゃない!」
「私は、アルティナさんを大切に思っているから……」
「大切に思ってくれているなら傍にいて。万が一、今回みたいなことが起こって、巻き込まれて命を落とすことがあっても、私は本望よ。レイチェルを恨まないし、後悔もしない。私が軽い気持ちで言ってるんじゃないってことは、わかってくれるわよね」
 レイチェルの両肩に手をかけ、覗き込むようにして熱く見つめる。その瞳からは強い決意が見てとれた。彼女の言うように、軽い気持ちでないことはよくわかった。
「ええ、でも……」
「頼んでるわけじゃない、これは命令よ。私の付き人を続けて。辞めることは許さない」
 アルティナは有無を言わせぬよう、強い口調で命じた。だが、そこに傲慢さは窺えなかった。そこから感じたのは、縋り付くような必死さだけだった。だからこそ、レイチェルは何も言えなくなった。
「レイチェル、あなたは私のたったひとりの友達なの」
 そう言ったアルティナは、怖いくらい思いつめた顔をしていた。瞳がわずかに潤んだ。彼女はそれを隠すようにうつむくと、突然、レイチェルの首に腕を絡めて抱きついた。ぎゅっと力を込める。長い銀色の髪が、レイチェルの頬をさらりと撫でた。
「お願い、私をひとりにしないで……」
 普段のアルティナからは想像もつかない弱々しい声だった。
 レイチェルは彼女の背中に手を置こうとした。だが、その手は途中で止まった。彷徨う指先は空を掴み、何事もなかったようにベッドの上に戻った。

 ココン、コン——。
 弱く不安定なノックの音が聞こえた。
 ユリアはベッドから体を起こした。扉の方に目を向ける。夫のバルタスではないだろう。彼は、もっとはっきりとした力強いノックをする。
「どうぞ」
 豊かな巻き髪を軽く手で整え、よそ行きの声で返事をする。
 ガラガラ、と扉が開いた。
 そこから姿を現したのは、思いもよらない人物だった。
「ユールベル……」
 そう言ったきり、絶句した。
「重傷って聞いたけど、ずいぶん元気そうね」
 ユールベルは挑発的に言った。だが、その声は固かった。装った無表情もどことなくぎこちない。緊張をしているのは明らかだった。
「……何をしに来たの。まさか、お見舞いってわけではないでしょう?」
 ユリアは眉間に力を込め、あからさまに嫌悪感を示した。
 ユールベルは顎を引き、小さな口をきゅっと結ぶと、上目遣いに彼女を睨めつけた。
「もう、あなたに怯えるのは嫌だから……決着を、つけにきたの」
「決着?」
 ユリアは眉をしかめた。それの意味するところがわからなかった。怪訝な表情のまま逡巡する。
「ま、さか……」
 あることに考えが至った。みるみるうちに顔色が失せていく。喉もカラカラに乾いていった。
「まさか、私を、殺そう……っていうの?」
「そんなことはしないわ」
 ユールベルは軽蔑するように言い捨てた。
 タン……。
 ゆっくりと重い足を踏み出した。一歩、一歩とユリアの方へ歩みを刻んでいく。
「な、何……?」
 ユリアは怯えたように、狼狽した声を発した。
 だが、ユールベルは何も答えなかった。歩みも止めなかった。ベッドの傍らまで来ると、ようやく足を止め、まっすぐにユリアを見る。手を伸ばせば、互いに触れられる距離——彼女にとっては、身の危険を感じる距離である。
 すぅ、っと大きく息を吸い、緊迫した面持ちで口を開く。
「私はもう逃げないし、あなたを怖れたりもしない。アンソニーは、絶対に渡さないから」
「……何なの、それ」
 ユリアは拍子抜けしたように、唖然として尋ねた。
「私の決意。あなたに宣言しておこうと思ったの」
 ユールベルにも、子供じみた馬鹿なことだという自覚はあった。だが、彼女にとっては精一杯の行動だった。そして、この行動にかけていた。ユリアに自らの意思で会い、目の前で宣言することができたなら、自分の中の恐怖心を克服することができるのではないか、と——。
 ユリアは急に強気に戻った。ユールベルが自分に危害を加えるつもりはないと悟ったためだ。ふっ、と鼻で笑う。
「決着なんて偉そうに言ったわりには、その程度なの? 呆れたわ」
「近づいただけであれほど怯えていた人が、よくそんなこと言えるわね」
 ユールベルも負けじと言い返す。体中がびくついていた。この距離が怖い。後ずさりたい気持ちを懸命に抑える。
「久しぶりだったから、あなたが虚勢だけの人間だということを忘れていたのよ」
「結界まで張って、二階に私を閉じ込めていたのは、私を怖れていたからじゃないの?」
 ユリアは言葉に詰まった。シーツを掴み、憎々しげに顔をしかめた。
「……そう……いえ、違うわ」
「怖れていたから、優位に立とうとしたんでしょう?」
 ユールベルの首筋には、薄く汗が滲んでいた。
 ユリアも同様に、額に汗を滲ませている。
「母親なんだから、優位に立って何が悪いの」
「あなたに母親の自覚があったなんて驚きだわ」
 ユールベルの声に冷たい響きが加わった。単なる反撃のための言葉ではない。心の奥底からの言葉だった。娘とも思っていないくせに、母親などと口にすることに驚き、そして呆れた。
 ユリアは完全に追い込まれた。深くうつむき、シーツを引きちぎらんばかりにきつく握りしめる。
「……ああ言えば、こう言う……少しも変わっていない……人を怒らせるしか能のない子……」
「言いたいことがあるなら、私に向かってはっきりと言ったらどうなの」
 ユールベルの挑発に、ユリアの中の何かが切れた。
「どこまで馬鹿にすれば気がすむの! いいかげんにして!!」
 怒りで顔を真っ赤にすると、爆発したように叫び、大きく腕を振り上げた。
 空気を切る音が聞こえた気がした。
 ユールベルは息を呑んだ。一瞬、怯えた顔を見せたが、目をそむけることはなかった。
 パシン——。
 何かを打つような高い音が、部屋に弾けた。
 ユールベルの頭が薙ぎ払われた音ではない。
 頬が打たれた音でもない。
 勢いよく振り下ろされたユリアの腕を、ユールベルが片手で受け止めた音だった。
「なっ……」
 ユリアは驚き、目を丸くした。
 行動を起こしたユールベルの方も呆然としていた。
 防御することなど今まで出来なかった。その考えすらなかった。手を上げられれば、ただ受けるしかなかった。彼女の中では、それ以外の選択肢はゼロだった。きっと、アンソニーも同じだろう。
 だが、防ぐことは出来たのだ。
 その腕は、思ったよりもずっと細かった。力も決して強くなどない。ずっと、圧倒的なものと感じていたのは、小さな子供の頃に受けた記憶のせいだろうか。
 時は流れていた——。
 ユールベルの目から、涙が零れ落ちた。
「あなたを怖れる理由なんて、とっくになくなっていたんだわ!」
 泣きながらそう言うと、弾くように腕を押し返した。そして、潤んだ瞳でひと睨みすると、踵を返し、走って部屋を出て行った。
 うなだれたユリアの耳に、遠ざかる靴音がこびり付いた。

 ユールベルはユリアの病室が見えないところまで走ると、ゆっくりと足を止めた。壁に寄りかかり、しゃくり上げながら涙を拭う。
 心の重しが少しだけ軽くなったような気がした。それと同時に、心に大きな穴が空いたようにも感じた。安堵と寂寥の入り混じったような、複雑な心境だった。
 これで少しは何かを変えられたのだろうか。その自信はない。結局、何も変わっていないのかもしれない。それでも良かった。きっかけにくらいにはなるかもしれない——彼女にしてはめずらしく、そんな希望を信じる気持ちになっていた。

「あなたから説得してくれない?」
「そういうことはサイファに頼め」
 ふと、そんな会話がユールベルの耳に入った。片方はとてもよく知っている声だ。その声を聞いただけで、胸が熱く痛んだ。
 何を話しているのだろう。誰と話しているのだろう。
 熱が彼女を衝動のままに突き動かす。靴音をさせないよう忍び足で廊下の角に移動すると、身を隠しながら声の方を盗み見た。
 そこにいたのは、ラウルと王妃アルティナだった。ふたりきりで、他には誰もいない。廊下の中央に立ったまま、向かい合って話をしている。
「自信がないわけ?」
「おまえの命令を受ける義務はない」
「義理はあるでしょう?」
「ルナのことを言っているなら、レイチェルにも同じだけの義理がある」
 互いに喧嘩腰だった。双方とも腕を組み、厳しい顔で睨み合っている。
「いいわよもう」
 先に折れたのはアルティナだった。腰に手をあて、面倒くさそうに大きくため息をつく。反撃の言葉はいくらでもあった。だが、ラウルはそう簡単には落ちないだろう。言い合うだけ時間の無駄である。
「サイファに頼むことにするわ」
「期待は持たないことだな。レイチェルを説得など、誰にも出来はしない」
 ラウルは冷ややかに忠告した。
 アルティナはわずかに顎を上げ、鋭い目を彼に向けた。真顔で瞳の奥を探る。
「そうやって、いつもあきらめてばかりなのね、あなたは」
「何がいいたい」
 ラウルは目つきを険しくした。
「わかってるくせに」
 アルティナはとぼけた口調で軽く言った。
 ラウルには無表情で目を伏せた。自分の中で思い当たることはあった。だが、彼女がそれを知っているはずがない。自分の考えているものと、彼女の考えているものは、まったく違うものなのだろう。そう思うことにした。
「それじゃ、またね」
 アルティナは、身を翻しながら右手を上げ、気持ちを切り替えるように軽い調子で言った。
 ラウルは軽く視線を送ったあと、無言で踵を返した。

 ユールベルは慌てて顔を引っ込めた。柱の陰に回り込み、身を隠す。
 その理由はアルティナだった。ラウルとの話を終えた彼女が、ユールベルのいる方へ向かってきたのだ。艶やかな銀色の髪をなびかせながら、大きな足取りで闊歩している。まっすぐ正面を向いているせいか、隠れたユールベルに少しも気づくことなく通り過ぎ、階段を降りていった。小刻みな靴音が、複雑に反響しながら遠ざかっていく。
 ユールベルはもういちど廊下の角から顔を出し、ふたりがいた場所に目を向けた。だが、そこにラウルの姿は見つけられなかった。
 ——え? どこ?
 慌てて飛び出し、駆けながら何度もあたりを見まわす。緩やかなウェーブを描いた金の髪が、白い包帯とともに振り乱れた。だが、今の彼女にそれを気にする余裕はなかった。

「体調はどうだ」
 病室のひとつから、低い声が聞こえた。
 扉が閉じられているため、中の様子は窺えない。だが、それはラウルの声に間違いなかった。
 ユールベルはその病室に近づき、息をひそめて耳をそばだてた。

「ええ、もう大丈夫」
 レイチェルはにっこりとして答えた。いつもと変わらない愛らしい微笑みだった。
 ラウルは無表情で、彼女の前のパイプ椅子に腰を下ろした。
「無理して笑わなくてもいい」
「無理なんてしていないわ……?」
 レイチェルは不思議そうに、やや語尾を上げて答えた。
 ラウルはわずかに眉を寄せた。
「すまない」
「えっ?」
 レイチェルは困惑した。先ほどからの発言が理解できない。とまどいの眼差しを彼に送る。
 ラウルはそれに答えるように口を開いた。
「おまえにばかり、重荷を背負わせている」
「…………」
 レイチェルは無言のまま、薄く微笑んだ。そして、ゆっくりと目を閉じ、緩やかに首を横に振った。カーディガンの上で、彼女の金髪が静かに揺らめいた。
 彼女は、すべて自分の責任だと思っている。他人がどれだけ違うと言っても、それを受け入れることはないだろう。謝罪も慰めも望んでいない。ラウルにはわかっていた。わかっていながら、どうしても口にせずにはいられなかった。
「私に出来ることがあれば、何でも言え。おまえの頼みは出来る限り聞くつもりだ」
 彼女に背負わせたものと比して、あまりにも小さな償いかもしれない。だが、彼女の意思を尊重した上で、自分にしてやれることといえば、このくらいしかなかった。
 レイチェルは少し思考を巡らせたあと、ぽつりと言った。
「りんごが食べたい」 
「りんごだな、わかった」
 ラウルは真顔で確認すると、おもむろに立ち上がった。
「そこにあるわ」
 レイチェルは後ろの棚を指さした。
 彼女の指先を辿ると、そこに篭盛りのりんごが置いてあった。誰かの見舞いの品のようだった。果物ナイフもその中にあった。
 ラウルは隣の洗面台で軽く手を洗ったのち、篭からひとつを手にとると、ナイフを使って皮を剥き始める。
「やっぱりすごいわね」
 その手際の良さを見て、レイチェルが感嘆した。くるくると回転するたびに、赤い衣がほどかれていく。まるで手品のように見えた。
 ラウルは感心されるほどのことではないと思ったが、彼女が嬉しそうだったので、黙ってそれを見せていた。いい気になっているわけではない、と自分に言い訳をする。ただ、少しだけ昔を思い出した。
 りんごはすぐに剥き終った。小さく切って小皿に盛り、レイチェルに差し出す。
「ありがとう」
 レイチェルは、にっこりと笑って、両手でそれを受け取った。小さなフォークで、そのひとかけらを口に運ぶ。
「おいしい」
 彼女は子供のように素直な感想を述べ、柔らかく微笑んだ。
 ラウルもつられて、ごくわずかだったが、口元を緩ませた。
 ふたりの間に流れる平穏な時間。だが、それは、ほんのひとときのことだった。
「サイファは何か言っていた? 私のこと」
 彼女のその一言で、ラウルはいつもの無表情に戻った。
 彼女は何か察しているのだろうか。それとも尋ねてみただけなのだろうか。確かにサイファとあることを話し合った。しかし、それは彼女にとって歓迎するような内容ではない。伝えるべきかどうか迷った。
「隠さないで」
 見透かしたように、レイチェルは凛とした声で言った。
 ラウルは軽くため息をついた。嘘はつけない。手を拭きながら、あきらめたように椅子に座る。
「サイファから、おまえの記憶を消せないかと相談を受けた」
「えっ……?」
「一連の事故の記憶だ」
「やめて! それは駄目!!」
 レイチェルは取り乱したように哀訴した。ベッドから身を乗り出し、縋るようにラウルの袖を掴む。りんごがのった小皿は、今にも手から滑り落ちそうだった。
 ラウルはその小皿をそっとすくい上げ、隣の棚に置いた。そして、縋り付く小さな手に、自分の大きな手を重ねた。
「安心しろ、おまえの了承なしに、そんなことはしない」
 レイチェルは我にかえると、安堵の息をついた。
「そもそも、成人では上手くいかない可能性の方が高いからな」
 ラウルは抑揚のない声で、そう付け加えた。
 レイチェルは難しい顔でうつむいた。成人の記憶を消すのは困難である——サイファもそのことは知っているはずだ。なのに、なぜ……。忘れるくらいに焦燥していたのかもしれない。それとも、一縷の望みに託すつもりだったのだろうか。
 どちらにしろ、そこまで追い詰めたのは自分なのだ。心を閉ざし、起き上がることさえできない状態を、何日も見せつけてしまった。助けるためには記憶を消すしかない、という極端な考えに至ったとしても、彼を責めることは出来ない。全力で自分を守ろうとしてくれた、その結果なのだから——。
 彼女はラウルの腕から手を引こうとした。ラウルもそれに応じるように、彼女に重ねた手を退けた。
「忘れたくはないのか」
「忘れてはいけないもの」
 レイチェルの小さな口が、迷いなく動いた。
 ラウルは目を閉じ、小さく息をついた。
「あのとき、無理にでも、おまえをここから連れ去るべきだった」
 そうすれば、こんなつらい目に遭わせることはなかった。さらなる重荷を背負わせることはなかった。ラウルの胸に、悔恨の思いが湧き上がった。
 レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「後悔するなんておかしいわ。ラウルは、何度、同じ状況が巡ってきても、きっと同じ選択をする。同意なしに連れていくなんてこと、ラウルにはできないもの」
 ラウルはじっと彼女を見つめた。無表情だったが、心の中はざわめいていた。
「甘く見るな。おまえは私のごく一部しか知らない」
「それで十分だわ、今のラウルを推測するには」
 レイチェルはにこやかに切り返した。
 ラウルは気色ばんだ。彼女の余裕ある言動に腹が立った。自分のことをどれだけ知っているというのだ——急に怖い顔になり、鋭く睨めつける。そして、激しさを喉元で抑えた、迫力のある低音で言った。
「ならば、おまえが間違っていると証明してやる。今からおまえを連れ去る。同意は得ない……それでもいいのか」
「ちゃんと同意を得ようとしているわね」
 レイチェルは肩をすくめて笑った。
 ラウルは肩を落としてうなだれた。顔を隠すように手で押さえる。自分の間抜けさに羞恥を覚えた。同時に、彼女には敵わないとも思った。すっかり見透かされている。やはり、自分には強引に実行することなど無理なのだ。
 サイファなら手段を選ばないのかもしれない。それが必要だと思えば、躊躇なく行動に移すだろう。それが、うらやましくもあり、憎らしくもあった。

 ——そうやって、いつもあきらめてばかりなのね、あなたは。
 脳裏にアルティナの声がよみがえった。あまりにも、今の状況にぴったりとはまる。彼女がいいたかったのは、やはりこのことなのだろうか。

「アルティナが、おまえを説得しろと言ってきた」
 ラウルは不意に話題を変えた。
 ずいぶんと唐突だったが、レイチェルには何の話なのかすぐにわかった。少し前に、病室の外でふたりが言い争うような声が聞こえていた。話の内容までは判別できなかったが、ラウルのその言葉を聞いて、付き人の件に思い当たったのだ。
「説得するつもり?」
「いや、断った」
 ラウルは素っ気なく言った。そして、一拍おいて言い添えた。
「私も付き人を続ける方がいいとは思っている。だが、アルティナに頼まれて説得したのでは、あいつの肩を持つことになるからな」
「子供みたいなことを言うのね」
 その茶々に気を取られることなく、ラウルは真剣に話を続ける。
「私は常におまえの味方でいたい。断ったのはそういう理由だ。だから、今後、私の意思で話を持つことがあるかもしれない」
 レイチェルは真面目にこくりと頷いた。
「だが、今は体を休めることだけを考えろ」
 ラウルは医者としてそう告げたあと、表情を変えずに付け加えた。
「今度、とびきり美味いりんごを持ってくる」
「ありがとう、嬉しい」
 レイチェルは顔をほころばせた。小さな花が咲いたような、可憐な笑顔だった。
 ラウルは、その愛くるしい表情に意識を絡めとられた。それは、あの頃を思い出させるものだった。拒絶しておきながら、忘れようとすれば妨害する。いつもそうだ。自覚がないだけにたちが悪い。ふぅ、と疲れたように小さく息をつく。
「今からでも遅くない。一緒に行かないか」
 どこへ、などと言わなくても通じるだろう。いったいこれで何度目なのか。自分の往生際の悪さに呆れつつ、それでも止めることができなかった。しかし、これが最後だと心に決めた。
「行ったらアルティナさんの付き人を続けられないわ」
 レイチェルは冗談めかして言った。
 だが、ラウルは真顔で返した。
「続けるつもりはないのだろう」
「…………」
 レイチェルは何も答えられなくなった。表情に陰を落とし、うつむいた。
「悪かった、追い詰めるようなことを言って」
 ラウルは低い声で言った。そして、じっと彼女を見つめると、今度は力強く語りかける。
「レイチェル、おまえがここに留まることを望むなら、私もこの国に留まり、おまえの傍らで力になる」
 レイチェルは顔を上げた。嬉しいというより、むしろ苦しかった。彼にはつらい思いばかりさせている。きっとこれからもそうだろう。なのに、彼はいつまでも味方でいようとしてくれている。その気持ちに報いることはできないのに……。せつなげに彼を見つめた。
 ラウルは彼女の瞳に吸い込まれそうになった。ほとんど無意識に手を伸ばす。大きな手のひらが、彼女の白い頬に触れた。
「ラウル?」
 レイチェルは不思議そうに瞬きをした。
「……少し熱っぽいな。休んだ方がいい」
 ラウルは事務的な口調で言った。そして、ゆっくりと手を引いていく。名残惜しげな指先が、彼女から離れた。
「無理をするな」
 そう言い残して立ち上がると、彼女の視線を振り切るように背を向け、大きな足どりで病室を出て行った。

「なに、さっきの……」
 扉を開くと、そこにはユールベルが立っていた。体の横でこぶしを握り、怒りを抑えたような怖い顔をしている。レイチェルとの会話を聞いていたのだろう。どこから聞いていたのかはわからない。だが、そんなことはどうでもよかった。
 ラウルはすぐに扉を閉めた。レイチェルに悟られたくなかった。そして、素知らぬ顔でユールベルの前を通り過ぎようとした。
 だが、ユールベルが逃すはずはなかった。彼の正面にまわり込むと、行く手を阻むように立ちはだかる。
「どうして? どういうことなの? わた、し……」
 ずいぶん混乱しているようだった。混乱というより、動揺かもしれない。顔を歪ませながら、懸命に言葉を探している。
「そう、よ……私にも、あのくらい優しくしてほしかった!!」
 激情とともに、固く握りしめた両手をラウルの胸に叩き付けた。涙があふれた。それを拭うことなく、何度も何度も叩き続ける。それでも、彼にとっては何の痛みにもならなかった。
「私がほしかったものなのにっ……!!」
「ここは病室の前だ。静かにしろ」
 ラウルの口調は冷淡だった。それが、ますますユールベルを激昂させた。
「何が病室よ! あの人に聞かれたくないだけじゃない!!」
「ユールベル?」
 不意に、扉の向こうから声がした。レイチェルのものだ。部屋の前でこれだけ喚いていれば、聞こえない方がおかしい。
「すまない、今、黙らせる」
 ラウルは扉越しに声を投げた。ユールベルをくるりと逆に向かせると、背後から片手で体を抱き寄せ、もう片方の手で口を塞いだ。彼女はラウルに抱き上げられるような格好になり、ほとんど宙に浮いていた。かろうじて地面に触れているつま先が、心もとなさそうに彷徨っている。
 そのまま、離れたところへ連れていこうと足を踏み出しかけた、そのとき——。
「ラウル、ユールベルとふたりきりで話をさせて」
 レイチェルが予想外のことを口走った。さすがのラウルも驚き、慌てた。
「何を言っている。こいつは危険だ。何をしでかすかわからない。ふたりきりになどできるか」
 ユールベルの胸に、締めつけられるような痛みが走った。苦しくて意識が遠のきそうだった。口を塞がれたまま、新たな涙があふれる。心の深いところから湧き上がってきたような、熱い涙だった。
「ラウル、私の頼みは聞いてくれるんでしょう?」
 レイチェルは冷静に返した。
 ラウルは返答に窮した。彼女の頼みを聞く——それは、ラウル自身が彼女に告げたことだった。つい今しがたのことである。もちろん、嘘ではなく本心だ。だが、このようなことは想定していなかった。
「ラウル、お願い」
 もう一度、畳み掛けるように頼み込む。
 ラウルはもう拒むことは出来なかった。無言で扉を開けた。そして、いまだ泣いたままのユールベルを、病室の中へ押しやった。
 レイチェルはベッドの上で穏やかに微笑んでいた。
「い、嫌……わ、わたし……」
 ユールベルはうろたえながら、ラウルのもとに戻ろうとした。だが、ラウルは手を突き出し、それを阻んだ。
「レイチェルに危害を加えるような真似をしたら、ただではおかない」
 凍りつくような冷たい声だった。だが、その瞳は激しく燃えたぎっていた。
 本気だ、とユールベルは思った。ぞくりと身震いをする。体が内側から凍りつくようだった。涙も止まった。その瞬間、悲しみよりも恐怖が勝っていた。彼に対して、ここまでの戦慄を覚えたことはなかった。
 ラウルは静かに扉を閉めた。

 閉ざされた病室の中で、ユールベルとレイチェルはふたりきりになった。
 ユールベルは、ラウルを求めるように伸ばした手を、いまだ下ろせずにいた。その先には扉しかない。縋りたい人の姿はもう見えない。
「ユールベル」
 背後から、鈴を鳴らしたような声が聞こえた。びくりとして、体をこわばらせた。だが、観念したかのように表情を引き締めると、ゆっくりと振り返った。
 レイチェルは優しい笑顔をたたえていた。化粧をしていないその顔は、大人っぽさが抜け、普段よりも若く感じた。まるで少女のようだった。肌は雪のように白く、頬にはわずかな赤みがさしている。小さな唇はほのかな薄紅色をしていた。可憐でいて、儚げ——そんな表現がふさわしかった。

 おじさまのいちばん大切な人。
 レオナルドの好きだった人。
 そして、多分、ラウルも——。
 まるで、愛されるために生まれてきたような人——。

 ユールベルは胸の少し下をぐっと押さえた。何も持っていない自分、すべてを手に入れている彼女。あまりにも違いすぎる。ずるい、と思った。
「ここに座って。ふたりで話をするのは初めてかしら」
 レイチェルは、ラウルが座っていたパイプ椅子を示した。
 ユールベルは緊張しながら足を進めた。言われるまま椅子に座る。わずかに残っていた座面の温もりに、彼女の心が小さくさざめいた。
「お母さまのお見舞いに来たの?」
「私に親はいないわ」
「そうだったわね」
 レイチェルはあっさりと同意した。
「それで、何の話?」
 ユールベルは努めて無愛想に尋ねた。それは、今の自分にできる唯一の防御だった。
「特にこれといってないんだけど……今まであまりあなたと話したことがなかったから、何かお話できればと思って」
 レイチェルは親しみをこめた笑みを向ける。
 だが、ユールベルはそれを受け付けなかった。表情を凍らせたまま、すっと椅子から立ち上がった。
「話がないのなら帰るわ」
 レイチェルの微笑みが、寂しげに翳った。
「私、やっぱりあなたには嫌われているのね」
「……ただ苦手なだけよ」
 ユールベルは顔をそむけて、ぼそりと言った。それは、本当のことだった。子供の頃からそうだった。嫌いというほどの感情はなかったが、一緒にいるのが苦痛だった。とても居心地が悪かった。だから、いつもあからさまに避けて、話もしないようにしていた。今にして思えば、すべて自分の劣等感からきていたのかもしれない。
「お願い、少しここにいてくれないかしら」
 レイチェルは小首を傾げて、控えめにせがんだ。
 そういうふうに可愛らしく頼み込む彼女に、ユールベルは腹立たしさを覚えた。黒い気持ちが湧き上がる。
「私の質問に、答えてくれる?」
「ええ、いいわ」
 レイチェルは嬉しそうに、ぱっと表情を明るくした。
 ユールベルは、彼女を見つめながら、再びゆっくりと腰を下ろした。ギィ、と嫌な音を立てて、パイプ椅子が軋んだ。
「……あなたも、あの爆発に巻き込まれたの? 家は離れていたはずだけど」
 本当はこんなことではなく、ラウルとのことを訊くつもりだった。徹底的に問いつめようと思っていた。だが、無垢なまでの彼女の笑顔を見ていたら、つい違うことを口に上らせていた。
「巻き込まれた……んじゃないわ、私が、起こしたの」
「えっ?」
 あまにりも突飛だったため、にわかには理解できなかった。言葉のままに受け取れなかった。目を見開き、思わず尋ね返す。
 レイチェルは淡々と説明を続ける。
「魔導の実験中に起こった事故ということになっているけれど、私の魔導の力が暴発してしまったのが、本当の原因」
「あなたが……」
 ユールベルは信じられない思いだった。国の結界を損傷するほどの魔導を、彼女がひとりで発したというのだろうか。彼女にはそれほどの魔導力が備わっているようには見えなかった。
「子供の頃、魔導の訓練から逃げてばかりだったの。だから、かしら、自分の力をコントロールできないことがあるみたい。自分にこんな力があるなんて知らなくて……なんて、ただの言い訳ね。我が侭だったから、私」
 遠くに思いを馳せるような口調に、自嘲と後悔の色が入り混じっていた。
「だったら、どうしてそんなに平然としていられるの。あなたの我が侭のせいで、たくさんの人が死んだり怪我をしたりしているのに」
 ユールベルは厳しい追及をする。
「どうしてかしらね」
 レイチェルは他人事のように言った。背中の枕に体重を掛け、ぼんやりと視線をさまよわせる。
 ユールベルはその態度に苛立った。自分のしでかしたことに、何の自覚も持っていないように思えた。彼女を責めるように睨みつける。
「少しくらい心が痛まないの? どうして笑っていられるの? どうしてはしゃいでいられるの? ラウルと楽しそうに話なんかして……。何人もの人を殺しておいてすることじゃないわ」
「ラウルのこと、好きなのね」
 レイチェルは柔らかく微笑みかけた。
 思わぬ反撃に、ユールベルは顔を紅潮させた。
「違う、ラウルのことなんて好きじゃない、あんなひと大嫌いだわ!」
 身を乗り出し、躍起になって否定する。だが、むきになればなるほど、その言葉は虚しいものになっていった。
 だが、レイチェルは優しさをもって、それを受け止めた。
「わかったわ、変なことを言ってごめんなさい」
 ユールベルはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「あなた、は……」
 ためらいがちに口を開き、震えるような声を絞り出した。こわばった顔でレイチェルを見つめる。そして、ひと呼吸ののち、意を決したように、いちばん知りたかったことを尋ねる。
「あなたは、ラウルのこと、好きなの?」
「ええ、好きよ」
 レイチェルはためらいなく答えた。
 ユールベルはカッとした。どうしようもなく頭にきた。無邪気な顔で、何の屈託もなく、平然と答える彼女を許せなかった。顔を隠すようにうつむき、肩を小刻みに震わせながら立ち上がった。
「……私は……やっぱり、あなたのこと、嫌いだわ」
 レイチェルは彼女を見上げ、寂しげに微笑んだ。薄紅色の唇が動き、何かを告げようとする。
 だが、ユールベルはそれを聞くことを拒絶した。片耳を塞ぎながら弾けるように駆け出し、病室を飛び出していった。

 廊下にはラウルがいた。
 彼のことをすっかり忘れていた。話はすべて聞かれたに違いない。その内容を思い返し、ユールベルはカッと顔が熱くなった。目の奥も熱くなった。左目から涙があふれ、頬を伝い落ちた。
「笑いたければ、笑えばいいわ!」
 無表情のラウルを睨みつけ、自暴自棄な叫びを上げる。
 今日は泣いてばかりだった。自分は今、ひどい顔をしているだろう。目が腫れているような気がした。こんな顔を見られたくない——ユールベルは額を掴むように押さえ、深くうつむいた。
「……なっ!!」
 立ち去ろうとした彼女の細い腕を、ラウルは無造作に掴み、引っぱり上げた。ユールベルの体は引き戻され、正面からラウルに倒れかかった。視線を上げれば、近いところに彼の顔がある。
「放して!!」
 この状況に驚き、反射的に逃れようとした。力一杯もがくが、彼に掴まれた腕はびくともしなかった。せめてもの抵抗に、顔だけはそむけた。
「ひとつ言っておく」
 感情を抑えた低い声で、ラウルが前置きした。
 ユールベルは、横目でそっと視線を戻した。
「笑っている人間が、笑わない人間より気楽に生きているなどと決めつけるな」
 ラウルはまっすぐに彼女の目線を捉えて言った。
 ユールベルは涙目で、キッと睨み返した。心の中にいろんな感情が渦巻いた。悲しくて、悔しくて、怖くて、苦しくて、頭がおかしくなりそうだった。
「放して!!」
「このまま帰すわけにはいかない。包帯を直す。来い」
 ラウルはユールベルの手首を掴んだまま歩き出した。彼女の目を覆う包帯は、ずいぶんと緩くなり、ずれかかっていた。
 ユールベルは手を引かれながら、おとなしくついて歩いた。そうするしかなかった。ラウルの手を振り払うなどということは不可能に近い。手の甲で涙の跡を拭う。もう泣いてはいなかった。だが、本当は広い背中に縋り付いて、泣きじゃくりたかった。

 厚い雲の切れ間から、太陽が顔を覗かせた。
 ずいぶん久しぶりに見た気がする。レオナルドは忘れかけていたその眩しさに目を細めた。
「レオナルド!」
 不意に、背後から自分の名を呼ばれた。訝しげに振り返る。足の下で、固くなった雪が、ジャリ、と濁った音を立てた。
 視線を向けた先にいたのは、自転車に乗った黒髪の女性だった。手を振りながら、ふらふらと走っている。どうやらこちらに向かってくるようだ。
 彼女はレオナルドの横まで来ると、ブレーキをかけて止まろうとした。だが、前輪を雪にとられたらしく、ぐらりとバランスを崩した。わっ、と焦った声を上げながらも、とっさに足をついて体勢を戻した。
 ふう、と小さく安堵の息をついた。そして、ぱっと顔を上げると、親しげな笑みを見せる。
「久しぶりっ」
「……誰だおまえは」
「はぁ?」
 思いもよらないレオナルドの返答に、彼女は素っ頓狂な声を上げた。口をとがらせると、下からじっと覗き込むようにして睨む。
「それ、本気で言ってるわけ?」
「声はどこかで聞いたことがあるような気が……あっ!」
「思い出した?」
 彼女はくすりと笑う。
「ターニャか?」
「正解」
 レオナルドは、唖然として彼女を見た。上から下まで、まじまじと視線を巡らせる。ずいぶんと雰囲気が変わっていた。髪は胸のあたりまで伸び、薄く化粧もしているようだ。そして、細身のパンツスーツを着こなしている。以前よりも大人っぽく、そして、女らしくなった気がした。
「そんなに変わった?」
「性格はそのままのようだな」
「まあね」
 レオナルドは嫌みのつもりだったが、ターニャは素直に受け取った。もっとも、その嫌みも、半分は照れ隠しのようなものだった。
「これから帰るの?」
「ああ」
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろ。方向、同じみたいだし」
 ターニャは一方的にそう言うと、返事を待たずに自転車を降りた。それを引きながら、レオナルドと並んで歩き始める。
「こんな雪の積もっているときに、自転車なんてよく乗るな」
 レオナルドは半ば呆れたように言った。
「雪のない部分でしか乗ってないわよ」
 細い道はまだ雪や氷で覆われているが、大通りは早い段階から除雪されていた。特に、王宮に近いこのあたりは、細めの道でも除雪されていることが多い。そういう道を選んで通っているということだろう。この道も、隅の方は雪が残っているが、中央部分はきれいに除雪されている。
「ついてないのよね、ワタシ」
 ため息まじりにそう言うと、ターニャは面白くなさそうに口をとがらせた。
「練習してようやく乗れるようになったと思ったら、急に雪が積もっちゃうんだもん。しばらく乗ってないと、感覚を忘れそうだったし、仕方なくってところかな」
「今まで乗れなかったのか」
 レオナルドは驚いたように言った。自転車など、幼い頃にみんな乗れるようになるものだと思っていた。
 ターニャは少し恥ずかしそうに、頬を赤らめながら、上目遣いで彼を睨んだ。
「そうよ、悪い?」
「いや、悪くはないが、天然記念物モノだな」
「いくらなんでも、そこまでめずらしくないでしょ」
「俺はどっちも見たことがない」
 レオナルドは無遠慮に言葉を重ねる。
「なんで今さら乗ろうと思ったんだ?」
「ああ、それ? えーっと……」
 ターニャは空を見上げながら、言葉を探した。
「私ね、母親に会いに行こうと思ったの。ずっと会いたくなかった母親だけど……。そのために、自転車を練習したのよ」
「なんで自転車なんだ。他に手段はいくらでもあるだろう」
「どうしてかなぁ」
 レオナルドの率直な疑問は、彼女自身にも疑問だった。ハンドルに両腕を置いてもたれかかり、視線を落として考え込む。
「何か、克服したかったのかな。それとも、自分を試してたのかも……」
「そんなに嫌なら、会わなければいいだろう」
「逃げてばかりじゃ、何も変わらないから」
 ターニャは少し照れたように言った。
 だが、レオナルドはたいして興味なさそうだった。
「ただの自己満足じゃないのか」
「それでもいいの」
 ターニャはにっこりと笑った。
「ねぇ、レオナルドのお母さんってどんな人?」
「口うるさいだけだ。子供の頃はよくゲンコツくらった」
 レオナルドは面倒くさそうに、しかし思いのほか丁寧に答えた。
「へぇ、ちゃんと親子してるんだ…って、あ! レオナルドの家は大丈夫だったの? 例の爆発」
 ターニャは突然、思い出したように尋ねた。
「ああ、俺の家は離れてたから」
 レオナルドは前を向いたまま、素っ気なく答えた。もし、何かあったとしたら、こんなところで呑気に母親の話などしていないだろう。そのくらいわかって然るべきだと思ったが、今さらこんな質問をしてくるなど、彼女は思ったより抜けているようだ。
「そう、良かった。少し心配してたんだ」
「少しだけか」
「心配しただけ有り難がってよ」
 レオナルドのひねくれた発言にもめげず、ターニャは明るく笑って言い返した。

「そういえば、今日はユールベルと一緒じゃないのね」
 しばしの沈黙のあと、ターニャはふとそんなことを口にした。
 レオナルドの心は、その一言で掻き乱された。
「アカデミーを休んでいたんだ。……ラウルのところへ行っていたみたいだ」
 ターニャと会う少し前、アカデミーの近くでユールベルを見かけた。声を掛けようと思ったが、新しい包帯を見て、声を掛けられなくなった。その巻き方や結び方は、ラウルのものだったからである。
「そっか」
 ターニャは寂しげに言った。ちらりと横目でレオナルドを盗み見る。彼はまっすぐ前を見据えていた。だが、その表情はどこか疲弊しているようだった。
「キミたち、どうなってるの?」
 ユールベルには訊けなかった不躾な質問をぶつけてみる。ずっと気になっていたことだった。レオナルドには、これだけで意味するところは通じるはずだ。返答を拒まれるかもしれないと思ったが、意外にも冷静に答えてくれた。
「どうにもなってないさ。ずっと、よくわからない状態が続いている」
「それでいいの?」
「俺の問題じゃない、ユールベルの問題だからな。……正直、どうしていいか、俺にはわからない」
 レオナルドは足元を見ながら、ため息をついた。
「ずいぶん弱気ね」
 ターニャは少し驚いていた。いつも傲慢なまでの態度をとっているレオナルドが、自分にこんな弱音を吐露するなど信じられなかった。だが、一年、二年とこんな状態が続けば、不安になるのも、疲れるのも、無理ないのかもしれない。
 レオナルドはさらに、信じがたいことを口にした。
「あいつが幸せになるのなら、俺は身を引いてもいいと思っている」
「ええっ?! 本気で言ってるの……?」
「ああ、でも、あいつはジークやらラウルやら、どう考えても無理っぽいところばかりに行くからな……今はやっぱり目を離せない」
 レオナルドは、もう一度、深くため息をついた。
「だったら、もうちょっと頑張ってみたら?」
「これ以上、頑張ったら、完全にストーカーだぞ」
「イイ男になれって言ってんの!」
 ターニャは元気づけるように明るく笑いかけた。
 レオナルドは何と返事していいかわからず、むすっとして顔をそむけた。

「俺はこっちに曲がるが……」
 十字路に差し掛かり、レオナルドは右を指差した。
「じゃあ、ここでお別れね。あ、ちょっと待って」
 ターニャはポケットを探り、小さな紙片を取り出した。
「これあげる。私の名刺。かっこいいでしょ」
 嬉しそうにえへへと笑って、レオナルドに差し出した。だが、それはどう見ても、何の変哲もないごく普通の名刺だった。左上に勤めている研究所の名前が記されている。特段、自慢するようなものでもない。
 レオナルドはそれを受け取ると、視線を落としてじっと見つめた。なぜか異様に真面目な顔をしている。ターニャが不思議そうに見ていると、彼は顔を上げて尋ねた。
「これ、勤め先だろう。連絡してもいいのか?」
「……は?」
「……ん?」
 ふたりは互いの反応が理解できなかった。思いきり怪訝な表情で、探るように顔を見合わせる。
「貸して」
 先に動いたのはターニャだった。レオナルドの指から名刺を取り上げると、ポケットからボールペンを取り出し、裏に何かを書き記した。
「連絡するならこっちにして。自宅だから」
 手書きの面を掲げ、もう一度レオナルドに手渡した。
「ああ? わかった……」
 レオナルドはどうにも腑に落ちないといった様子で、それを受け取った。最初から自宅の連絡先をくれればよかったじゃないか、と心の中で毒づいた。
「じゃあね。完全にふられたりしたら連絡ちょうだい。晩ごはんくらいおごってあげるから!」
 ターニャは自転車にまたがり、笑いながら言った。手を振りながら走り去って行く。ようやく乗れるようになったという言葉を裏付けるように、彼女の走行はふらふらして危なっかしげだった。
「おごるって……あいつ、貧乏人のくせに何を言ってるんだ……」
 レオナルドは首を傾げながら、奇妙な面持ちでつぶやいた。そして、名刺を掴んだ手をジャケットのポケットに入れると、右側の道へ足を踏み出した。
 緩やかな風が吹いた。柔らかい髪がふわりと舞い上がった。頬をかすめるその温度は、まだ暖かいとはいえなかったが、少しだけ冷たさが和らいでいた。



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